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2022年11月16日水曜日

2022年10月17日月曜日

阪神大震災研究の復旧・復興過程に関する研究(主査 室崎益輝 分担執筆),日本住宅総合研究所,1996年

 阪神大震災研究の復旧・復興過程に関する研究(主査 室崎益輝 分担執筆),日本住宅総合研究所,1996年 


 復旧・復興計画手法の評価


Ⅰ章 2-2 復旧・復興計画手法の評価(布野修司)

 

 阪神・淡路大震災は、多くの人々の命を奪った。かけがえのない命にとって全ては無である。残された家族の人生も取り返しのつかないものとなった。復旧・復興計画といっても、旧に復すべくない命にとっては空しい。残されたものに課せられているのは、阪神・淡路大震災の教訓を反芻し、続けることであろう。震災2ヶ月後に起こった「地下鉄サリン事件」(1995年3月20日)とそれに続く「オーム真理教」をめぐる衝撃的事件のせいもあって、阪神・淡路大震災に関する一般の関心は急速に薄れていったように見える。被災地は見捨て去られたかのようであった。直接に震災を体験したもの以外にとって、震災の経験は急速に風化していく。震災の経験は必ずしも蓄積されない。もしかすると、最大の教訓は震災の経験が容易に忘れ去られてしまうことである。

 震災後3年を経て、被災地は落ち着きを取り戻したように見える。ライフライン(電力、都市ガス、上水道、下水道、情報・通信)に関わる都市インフラストラクチャーの復旧が最優先で行われるとともに、応急仮設住宅の建設から復興住宅の建設へ、住宅復興も順調に進んできたとされる。また、市街地復興に関しても、重点復興地域を中心に、各種復興事業が着々と進められている。

 しかし、全て順調かというと、必ずしもそうは言えない。重点復興地域のなかにも、合意形成がならず、一向に復興計画事業が進展しない地区もある。また、「白地」地区と呼ばれる、重点復興地域から外され基本的に自力復興が強いられた8割もの広大な地区のなかに空地のみが目立つ閑散とした地区も少なくない。それどころか、復旧・復興計画の問題点も指摘される。例えば、復興住宅が供給過剰になり、民間の住宅賃貸市場をスポイルする一方、被災者の生活にとって相応しい立地に少ない、といったちぐはぐさが目立つのである。

 復旧・復興計画の具体的な展開と問題点は、自治体毎に、また、地区毎に、さらに計画(事業)手法毎に以下の章でまとめられている。本稿ではいくつかの評価軸を提出することによって、共通の問題点を指摘し、復旧・復興計画手法の評価を試みたい。

 

 2-2-1 復旧・復興計画の非体系性

 復旧・復興計画の全体は、いくつかの軸によって立体的に捉える必要がある。まず、応急計画、復旧計画、復興計画という時間軸に沿った各段階における計画の局面がある。また、計画対象区域のスケールによって、国土計画、地域計画、都市計画、地区計画というそれぞれのレヴェルの問題がある。さらに、国、県、市町村といった公的計画主体としての自治体、民間、住民、プランナーあるいはヴォランティアといった様々な計画主体の絡まりがある。すなわち、少なくとも、どの段階の、どのレヴェルの計画手法を、どのような立場から評価するかが問題である。

 また、それ以前に、復旧・復興計画の評価は、フィジカルプランニングとしての復旧・復興計画の手法に限定されるわけではない。震災のダメージは生活の全局面に及んだのであって、単に物的環境を復旧すれば全てが回復されるというわけではないのである。住宅を失うことにおいて、あるいは大きな被害を受けることにおいて、経済的な打撃は計り知れない。住宅・宅地の所有形態や経済基盤によってそのインパクトは様々であるが、多くの人々が同じ場所に住み続けることが困難になる。その結果、地域住民の構成が変わる。地域の経済構造も変わる。ダメージを受けた全ての住宅がすぐさま復旧され(ると公的、社会的に保証され)たとしたら、事態はいささか異なったかもしれない。しかし、それにしても、数多くの犠牲者を出すことにおいて家族関係や地域の社会関係に与えた打撃はとてつもなく大きい。避難生活、応急生活において問われたのはコミュニティの質でもあった。また、大きなストレスを受けた「こころ」の問題が、物理的な復旧・復興によって癒されるものではないことは予め言うまでもないことである。

 復旧・復興計画の評価は、以上のように、まず、その体系性、全体性が問題にされるべきである。すなわち、地域住民の生活の全体性との関わりにおいて復旧・復興計画は評価されるべきである。そうした視点から、予め、阪神・淡路大震災後の復旧・復興計画の問題点を指摘できる。その全体は必ずしも体系的なものとは言えないのである。まず指摘すべきは、復旧・復興計画の全体よりも、個別の事業、個別の地区計画の問題のみが優先されたことである。例えば、仮設住宅の建設場所、復興住宅の供給等、地域全体を視野に入れた計画的対応がなされたとは言い難いのである。また、合意形成を含んだ時間的なパースペクティブのもとに将来計画が立てられなかった。既存の制度手法がいち早く(予め)前提されることによって、全体ヴィジョンを組み立てる土俵も余裕もなかったことが決定的であった。

 

 2-2-2 復旧・復興計画の諸段階とフレキシビリティの欠如

 震災復興は時間との戦いであり、時間的な区切りが大きな枠を与えてきた。

 被災直後は、人々の生命維持が第一であり、衣食住の確保が最優先の課題である。ガス、水道、電気、電話、交通機関といったライフラインの一刻も早い復旧がまず目指された(ガスの復旧が完了したのが4月11日、水道復旧が完了したのが4月17日である)。そして、避難所の設置、避難生活の維持が全面的な目標となる。多くの救援物資が送られ、多くのヴォランティアが救援に参加した。未曾有の都市型地震ということで、また、高速道路が倒壊し、新幹線の橋脚が落下するといった信じられない事態の発生によって多くの混乱が起こった。リスクマネージメントの問題等、その未曾有の経験は今後の課題として生かされるべきものといえるであろう。むしろ、この段階の評価は、震災以前の防災対策、防災計画、さらに震災以前の都市計画の問題として、議論される必要がある。また、この大震災の教訓をどう復旧。復興計画に活かすかが問われていたといっていい。

 最初に大きな閾になったのが3月17日(震災後2ヶ月)である。建築基準法第84条の地区指定により当面の建築活動を抑制する措置が相次いで取られたのである。この地区指定の問題は復旧・復興計画において大きな決定的枠組みを与えることになった。阪神間の自治体(神戸市、芦屋市、西宮市、宝塚市、伊丹市)では、「震災復興緊急整備条例」が3月末までに相次いで制定されている。

 続いて、仮設住宅の建設と避難所の解消が次の区切りとなる。仮設住宅入居申し込みは1月27日に開始されている。また、「がれきの処理」無償の期限が復旧の目標とされた。がれき処理の方針は震災10日後に出される。倒壊家屋の処理受け付けは早くも1月29日に開始されている。このがれき処理は結果的に多くの問題を含んでいた。補修、修繕によって再生可能な建造物も処理されることになったからである。ストックの活用という視点からは拙速に過ぎた。資源の有効再生という観点から、貴重な経験を蓄積する機会を逃したと言えるのである。さらに、まちの歴史的記憶としての景観の連続性について考慮する機会を失したのである。災害救助法に基づく避難所が廃止されたのは8月20日である。兵庫県が「救護対策現地本部」を完全撤収したのが8月10日、震災後ほぼ半年で復旧・復興計画は次の段階を迎えることになる。

 その半年間に様々なレヴェルで復旧・復興計画が建てられる。国のレヴェルでは、「阪神・淡路大震災復興の基本方針および組織に関する法律」(2月24日公布 施行日から5年)に基づいて「阪神・淡路復興対策本部」が設置され、「阪神・淡路地域の復旧・復興に向けての考え方と当面講ずべき施策」(4月28日)「阪神・淡路地域の復興に向けての取り組指針」(7月28日)などが決定される。また、「阪神・淡路復興委員会」(下河辺委員会)が設けられ、2月16日の第1回委員会から10月30日まで14回の委員会が開催され、11の提言および意見がまとめられている。タイムスパンとしては「復興10ヶ年計画の基本的考え方」が提言に取りまとめられている。県レヴェルでは「阪神・淡路震災復興計画策定調査委員会」(三木信一委員長 5月11日発足)によって、都市、産業・雇用、保健・医療・福祉、生活・教育・文化の4部会の審議をもとにした3回の全体会議を経て6月29日に提言がなされている(「阪神・淡路震災復興計画(ひょうごフェニックス計画)」。

 こうした基本理念や指針の提案の一方、具体的な指針となったのが県の「緊急3ヶ年計画」である。「産業復興3ヶ年計画」「緊急インフラ整備3ヶ年計画」「ひょうご住宅復興3ヶ年計画」が3本の柱になっている。住宅復興に関する助成の施策は、ほとんど3年の時限で立案され、ひとつの目標とされることになった。また、応急仮設住宅の在住期限が2年というのも3年がひとつの区切りとなった理由である。

  緊急対応期、短期、中期、長期の時間的パースペクティブがそれぞれ必要とされるのは当然である。個々の復興計画理念、計画指針の評価は上に論じられるところである。

 ひとつの大きな問題は、それぞれの間に整合性があるかどうかである。しかし、それ以前に、住民の日々の生活が優先されなければならない。そのためには、柔軟でダイナミックな現実対応が必要であった。しかし、復旧・復興計画を大きく規定したのは既存の法的枠組みである。従って、復旧・復興計画の体系性を問うことは基本的には日本の都市計画のあり方を問うことにもなる。

 

 2-2-3 復旧・復興計画の事業手法と地域分断

 復旧・復興計画を主導したのは土地区画整理事業である。あるいは市街地再開発事業である。震災4日後、建設省の区画整理課の主導でその方針が決定されたとされる。モデルとされたのは酒田火災(1976年)の復興計画である。あるいは戦災復興であり、関東大震災後の震災復興である。復興計画の策定が遅れれば遅れるほど、復興への障害要因が増えてくる、復興計画には迅速性が要求される、という「思い込み」が、日本の都市計画思想の流れにひとつの大きな軸として存在している。関東大震災の復興も、戦災復興も結局はうまくいかなかった、酒田の場合は、迅速な対応によって成功した、という評価が建設省当局にあったことは明らかである。区画整理事業は、権利関係の調整に長い時間を要する。逆に、震災は土地区画整理事業を一気に進めるチャンスと考えられたといっていいだろう。

 2月1日、神戸市、西宮市で建築基準法第84条による建築制限区域が告示され、2月9日、芦屋市、宝塚市、北淡町が続いた。第84条の第2項は1ヶ月をこえない範囲で建築制限の延長を認める。すなわち2ヶ月がタイムリミットとされ、都市計画法第53条による建築制限に移行するために、3月17日までに都市計画決定を行うスケジュールが組まれた。この土地区画整理事業の突出は復旧・復興計画の性格を決定づける重みをもったといっていい。少なくとも以下の点が指摘される。

 ①復旧・復興計画は、基本的に既存の都市計画関連制度に基づいて行われた。また、その方針は極めて早い段階で決定された。復旧・復興計画の全体ヴィジョンを構想する構えはみられない。関東大震災後、あるいは戦災復興時のように「特別都市計画法」の立法が試みられなかったことは、復旧復興計画を予め限定づけた。

 ②2月26日に「被災市街地復興特別措置法」が施行されるが、既存の制度的枠組みを変えるものではなく、震災特例を認める構えをとったものであった。土地区画整理事業および市街地再開発事業を都市計画決定するために後追い的に構想制定されたものである。

 ③復旧復興計画は、法的根拠をもつ土地区画整理事業および市街地再開発事業を中心として展開された。また、その都市計画決定の手続きが復旧・復興計画のスケジュールを決定づけた。「被災市街地復興特別措置法」によって復興促進地域に指定すれば2年間の建築制限が可能となったが、全ての地区で既往のプロセスが優先された。

 ④土地区画整理事業、市街地再開発事業の決定は、基本的にトップ・ダウンの形で行われ、住民参加のプロセスを前提としなかった。あるいは形式的な手続きを優先する形で決定された。決定の迅速性(拙速性)の反映として、都市計画審議会は「今後、住民と十分意見交換すること」という付帯条件がつけられる。また、骨格の決定のみで、細部の具体的な計画案は追加決定するという異例の「2段階方式」が取られた。

 こうして被災地区は、土地区画整理事業、市街地再開発事業の実施地域とそれ以外の大きく二分化されることになった。いわゆる「重点復興地域」とそれ以外の「震災復興促進区域」の区別(差別)である。注目すべきは、震災以前からの継続事業、予定事業が総じて優先され、重点的に実施されることになったことである。震災復興計画と震災以前の都市計画は一貫して連続的に捉えられているひとつの証左である。決定的なのは、再開発事業の具体的イメージが画一的かつ貧困で、都市拡張主義の延長に描かれていることである。

 事業手法としては、もちろん、土地区画整理事業、市街地再開発事業に限られるわけではない。住宅復興あるいは住環境整備については、「住宅市街地総合整備事業」と「密集住宅市街地整備促進事業」を中心とする法的根拠をもたない任意事業としての住環境整備事業および住宅供給事業、あるいは住宅地区改良法に基づく住宅地区改良事業(法的根拠をもつ)が復旧復興計画として想定されている。

 すなわち、被災地は復旧復興計画の事業(制度)手法によって以下のように3分割されることになった。俗に「黒地地域」「灰色地域」「白地地域」と呼ばれる。

 A地域(黒地地域)

  土地区画整理事業10地区

  市街地再開発事業6地区

 B地域(灰色地域)

  住宅市街地総合整備事業11地区

  密集住宅市街地整備促進事業6地区

  住宅地区改良事業5地区

 C地域(白地地区)

 具体的には建築基準法84条(「建築制限」)による指定地区、被災市街地復興都市計画(「被災市街地復興推進地域」)による指定地区、震災復興緊急整備条例(「震災復興促進区域」「重点復興区域」)による指定地区、あるいは被災地における街並み・まちづくり総合支援事業による指定地区が区別されるが、ABの各地区にはダブりがある。各事業手法が組み合わせて適応される場合が少なくない。

 復旧復興計画の問題は、この線引きによって、A(B)地域の問題のみに焦点が当てられることになる。大半の地域はいわば見捨てられ、その復旧復興は公的支援のない自力復興あるいはなんのインセンティヴも設定されない通常の都市計画の問題とされた。また、それ以前に、復興計画の全体がそれぞれの地域の、しかも住環境整備の問題にされたことが大きい。都市計画全体のパラダイムを考える契機は予め封じられたと言っていい。具体的には、個別事業のみが問題とされ、全体的連関は予め問題にされなかったのである。

 

 2-2-4 コミュニティ計画の可能性

 以上のように、阪神淡路大震災によって、日本の都市計画を支えてきた制度的枠組みが大きく変わったわけではない。大震災があったからといって、そう簡単にものごとの仕組みが変わるわけはない。関東大震災後も、戦災復興の時にも、そして、今度の大震災の後も、日本の都市計画は同じようなことを繰り返すだけではないのか。要するに、何も変わらないのではないか、と思えてくる。

 各地区の復旧復興計画は必ずしもうまくいっているわけではない。合意形成がならず袋小路に入り込んでいるケースも少なくない。震災が来ようと来まいと、基本的な都市計画の問題点が露呈しただけであるという評価もある。確かに、どこにも遍在する日本の都市計画の問題を地震の一揺れが一瞬のうちに露呈させたという指摘はできるだろう。

 一方、阪神淡路大震災のインパクトが現れてくるまでには時間がかかるであろうことも確かである。その経験に最大限学ぶことが極めて重要である。特に地区計画レヴェルにおいてはプラスマイナスを含めた大きな経験の蓄積がなされたとみるべきであろう。

 建築家、都市計画プランナーたちは、それぞれ復旧、震災復興の課題に取り組んできた。コンテナ住宅の提案、紙の教会の建設、ユニークで想像力豊かな試みもなされてきた。この新しいまちづくりへの模索は実に貴重な蓄積となるはずである。

 今回の震災によって、一般的にヴォランティアの役割が大きくクローズアップされた。まちづくりにおけるヴォランティアの意味の確認は重要である。もちろん、ヴォランティアの問題点も既に意識される。行政との間で、また、被災者との間で様々な軋轢も生まれたのである。多くは、システムとしてヴォランティア活動が位置づけられていないことに起因する。

 被災度調査から始まって復興計画に至る過程で、建築家、都市計画プランナーが、ヴォランティアとして果たした役割は少なくない。しかし、その持続的なシステムについては必ずしも十分とは言えない。ある地区のみ関心が集中し、建築、都市計画の専門家の支援が必要とされる大半の地区が見捨てられたままである。また、行政当局も、専門家、ヴォランティアの派遣について、必ずしも積極的ではない。粘り強い取り組のなかで、日常的なまちづくりにおける専門ヴォランティアの役割を実質化しながら状況を変えていくことになるであろう。

 復旧復興計画は行政と住民の間に様々な葛藤を生んだが、とにかくその過程で新しい街づくりの仕組みの必要性が認識されたことは大きい。また、実際に、コンサルタント派遣や街づくり協議会の仕組みがつくられ試されてきた。この住民参加型のまちづくりの仕組みは大きく育てていく必要があるだろう。個別のプロジェクト・レヴェルでも、マンション再建のユニークな事例やコレクティブ・ハウスの試行など注目すべき取り組がある。

 復旧復興の多様な経験から、あらたなまちづくりの仕組みをつくりだすことができるかどうかがコミュニティ計画レヴェルの評価に関わる。無数の種が芽生えつつあると考えたい。

 

 2-2-5 阪神淡路大震災の教訓

 

 a 人工環境化・・・自然の力・・・地域の生態バランス

 阪神・淡路大震災に関してまず確認すべきは自然の力である。いくつものビルが横転し、高速道路が捻り倒された。地震の力は強大であった。また、避難所生活を通じての不自由さは自然に依拠した生活基盤の大事さを思い知らせてくれた。水道の蛇口をひねればすぐ水が出る。スイッチをひねれば明かりが灯る。エアコンディショニングで室内気候は自由に制御できる。人工的に全ての環境をコントロールできる、というのは不遜な考えである。災害が起こる度に思い知らされるのは、自然の力を読みそこなっていることである。山を削って土地をつくり、湿地に土を盛って宅地にする。そして、海を埋め立てるという形で都市開発を行ってきたのであるが、そうしてできた居住地は本来人が住まなかった場所だ。災害を恐れるから人々はそういう場所には住んでこなかった。その歴史の智恵を忘れて、開発が進められてきたのである。

 まず第一に自然の力に対する認識の問題がある。関西には地震がない、というのは全くの無根拠であった。軟弱地盤や活断層、液状化の問題についていかに無知であったかは大いに反省されなければならない。一方、自然のもつ力のすばらしさも再認識させられた。例えば、家の前の樹木が火を止めた例がある。緑の役割は大きい。自然の河川や井戸の意味も大きくクローズアップされた。

 人工環境化、あるいは人工都市化が戦後一貫した都市計画の趨勢である。自然は都市から追放されてきた。果たして、その行き着く先がどうなるのか、阪神・淡路大震災は示したといえるのではないか。「地球環境」という大きな枠組みが明らかになるなかで、また、日本列島から開発フロンティアが失われるなかで、自然の生態バランスに基礎を置いた都市、建築のあり方が模索されるべきことが大きく示唆される。 

 

 b フロンティア拡大の論理・・・開発の社会経済バランス

 阪神・淡路大震災の発生、避難所生活、応急仮設住宅居住、そして復旧・復興へという過程において明らかになったのは、日本社会の階層性である。すぐさまホテル住まいに移行した層がいる一方で、避難所が閉鎖されて猶、避難生活を続けざるを得ない人たちが存在した。間もなく出入りの業者や関連企業の社員に倒壊建物を片づけさせる邸宅がある一方で、長い間手つかずの建物がある。びくともしなかった高級住宅街のすぐ隣で数多くの死者を出した地区がある。

 最もダメージを受けたのは、高齢者であり、障害者であり、住宅困窮者であり、外国人であり、要するに社会的弱者であった。結果として、浮き彫りになったのは、都市計画の論理や都市開発戦略がそうした社会的弱者を切り捨てる階層性の上に組み立てられてきたことである。

 ひたすらフロンティアを求める都市拡大政策の影で、都心地区が見捨てられてきた。開発の投資効果のみが求められ、居住環境整備や防災対策など都心への投資は常に後回しにされてきた。

 例えば、最も大きな打撃を受けたのが「文化」である。関西で「ブンカ」というと「文化住宅」というひとつの住居形式を意味する。その「文化住宅」が大きな被害にあった。木造だったからということではない。木造住宅であっても、震災に耐えた住宅は数しれない。木造住宅が潰れて亡くなった方もいるけれど家具が倒れて(飛んで)亡くなった方が数多い。大震災の教訓は数多いけれど、しっかり設計した建物は総じて問題はなかった。「文化住宅」は、築後年数が長く、白蟻や腐食で老朽化したものが多かったため大きな被害を受けたのである。戦後の住宅政策や都市政策の貧困の裏で、「文化住宅」は、日本の社会を支えてきた。それが最もダメージを受けたのである。それにしても「文化住宅」とは皮肉な命名である。阪神・淡路大震災によって、「文化住宅」の存在という日本の住宅文化の一断面が浮き彫りになったといえる。

 都市計画の問題として、まず、指摘されるのは、戦後に一貫する開発戦略の問題点である。拡大成長政策、新規開発政策が常に優先されてきた。都心に投資するのは効率が悪い。時間がかかる。また、防災にはコストがかかる。経済論理が全てを支配するなかで、都市生活者の論理、都市の論理が見失われてきた。都市経営のポリシー、都市計画の基本論理が根底的に問われたといっていい。

 

 c 一極集中システム・・・重層的な都市構造・・・地区の自律性

 日本の大都市は、移動時間を短縮させるメディアを発達させひたすら集積度を高めてきた。郊外へのスプロールが限界に達するや、空へ、地下へ、海へ、さらにフロンティアを求め、巨大化してきた。その一方で都市や街区の適正な規模について、われわれはあまりに無頓着であったことが反省される。

 都市構造の問題として露呈したのが、一極集中型のネットワークの問題点である。大震災が首都圏で起きていたら、東京一極集中の日本の国土構造の弱点がより致命的に問われたのは確実である。阪神間の都市構造が大きな問題をもっていることは、インフラストラクチャーの多くが機能停止に陥ったことによって、すぐさま明らかになった。それぞれに代替システム、重層システムがなかったのである。交通機関について、鉄道が幅一キロメートルに四つの路線が平行に走るけれど迂回する線がない。道路にしてもそうである。多重性のあるネットワークは、交通インフラに限らず、上下水道などライフラインのシステム全体に必要である。

 エネルギー供給の単位、システムについても、多核・分散型のネットワーク・システム、地区の自律性が必要である。ガス・ディーゼル・電気の併用、井戸の分散配置など、多様な系がつくられる必要がある。また、情報システムとしても地区の間に多重のネットワークが必要であった。

 

 d 公的空間の貧困 

 また、公共空間の貧困が大きな問題となった。公共建築の建築としての弱さは、致命的である。特に、病院がダメージを受けたのは大きかった。危機管理の問題ともつながるけれど、消防署など防災のネットワークが十分に機能しなかったことも大きい。想像をこえた震災だったということもあるが、システム上の問題も指摘される。避難生活、応急生活を支えたのは、小中学校とコンビニエンスストアであった。地域施設としての公共施設のあり方は、非日常時を想定した性能が要求されるのである。

 また、クローズアップされたのは、オープンスペースの少なさである。公園空地が少なくて、火災が止まらなかったケースがある。また、仮設住宅を建てるスペースがない。地区における公共空間の、他に代え難い意味を教えてくれたのが今回の大震災である。

 

 e 地域コミュニティのネットワーク・・・ヴォランティアの役割

 目の前で自宅が燃えているのを呆然とみているだけでなす術がないというのは、どうみてもおかしい。同時多発型の火災の場合にどういうシステムが必要なのか。防火にしろ、人命救助にしろ、うまく機能したのはコミュニティがしっかりしている地区であった。救急車や消防車が来るのをただ待つだけという地区は結果として被害を拡大することにつながった。

 阪神淡路大震災において最大の教訓は、行政が役に立たないことが明らかになったことだ、という自虐的な声がある。一理はある。自治体職員もまた被災者である。行政のみに依存する体質が有効に機能しないのは明らかである。問題は、自治の仕組みであり、地区の自律性である。行政システムにしろ、産業的な諸システムにしろ、他への依存度が高いほど問題は大きかった。教訓として、その高度化、もしくは多重化が追求されることになろう。ひとつの焦点になるのがヴォランティア活動である。あるいはNPO(非営利組織)の役割である。

 

 f 技術の社会的基盤の認識・・・ストック再生の技術の必要

 何故、多くのビルや橋、高速道路が倒壊したのか。何故、多くの人命が失われることになったのか。問題なのは、社会システムの欠陥のせいにして、自らのよって立つ基盤を問わない態度である。問題は基準法なのか、施工技術なのか、検査システムなのか、重層下請構造なのか、という個別的な問いの立て方ではなくて、建築を支える思想(設計思想)の全体、建築界を支える全構造(社会的基盤)がまずは問われるべきである。建造物の倒壊によって人命が失われるという事態はあってはならないことである。しかし、それが起こった。だからこそ、建築界の構造の致命的な欠陥によるのではないかと第一に疑ってみる必要がある。

 要するに、安全率の見方が甘かった。予想をこえる地震力だった。といった次元の問題ではないのではないか、ということである。経済的合理性とは何か。技術的合理性とは何か。経済性と安全性の考え方、最適設計という平面がどこで成立するのかがもっと深く問われるべきである。

 建築技術の問題として、被災した建造物を無償ということで廃棄したのは決定的なことであった。都市を再生する手がかりを失うことにつながったからである。特に、木造住宅の場合、再生可能であるという、その最大の特性を生かす機会を奪われてしまった。廃材を使ってでも住み続ける意欲のなかに再生の最初のきっかけもあったといっていい。

 何故、鉄筋コンクリートや鉄骨造の建物の再生利用が試みられなかったのも問題である。技術的には様々な復旧方法が可能ではないか。そして、関東大震災以降、新潟地震の場合など、かなりの復旧事例もある。阪神・淡路大震災の場合、少なくとも、再生技術の様々な方法が蓄積されるべきであった。

 

 j 都市の記憶と再生 

 阪神・淡路大震災は、人々の生活構造を根底から揺るがし、都市そのものを廃棄物と化した。建てては壊し、壊しては建てる、阪神・淡路大震災は、スクラップ・アンド・ビルドの日本の都市の体質を浮かび上がらせたともいえる。復旧復興計画は、当然、これまでにない都市(建築)のあり方へと結びついていかねばならない。

 そこで、都市の歴史、都市の記憶をどう考えるのかは、復興計画の大きなテーマである。何を復旧すべきか、何を復興すべきか、何を再生すべきか、必然的には都市の固有性、歴史性をどう考えるかが問われるのである。

 建造物の再生、復旧が、まず大きな問題となる。同じものを復元すればいいのか、という問いを前にして、基本的な解答を求められる。それはもちろん、震災があろうとなかろうと常に問われている問題である。都市の歴史的、文化的コンテクストをどう読むか、それをどう表現するかは、日常的テーマである。

 戦災復興でヨーロッパの都市がそう試みたように、全く元通りに復旧すればいいというのであれば簡単である。しかし、そうした復旧の理念は、日本においてどう考えても共有されそうにない。都市が復旧に値する価値をもっているかどうか、ということに関して疑問は多いのである。すなわち、日本の都市は社会的なストックとして意識されてきていないのである。スクラップ・アンド・ビルド型の都市でいいということであれば、震災による都市の破壊もスクラップのひとつの形態ということでいい。必ずしも、まちづくりについてのパラダイムの変更は必要ないだろう。しかし、バブル崩壊後、スクラップ・ビルドの体制は必然的に変わっていかざるを得ないのではないか。

 都市が本来人々の生活の歴史を刻み、しかも、共有化されたイメージや記憶をもつものだとすれば、物理的にもその手がかりをもつのでなければならない。都市のシンボル的建造物のみならず、ここそこの場所に記憶の種が埋め込まれている必要がある。極めて具体的に、ストック型の都市が目指されるとしたら、復興の理念に再生の理念、建造物の再生利用の概念が含まれていなければならない。また、それ以前に建築の理念そのものに再生の理念が含まれていなければならないだろう。

 日本の都市がストックー再生型の都市に転換していくことができるかどうかが大きな問題である。都市の骨格、すなわち、アイデンティティーをどうつくりだすことができるか。単に、建造物を凍結的に復元保存すればいいのか、歴史的、地域的な建築様式のステレオタイプをただ用いればいいのか、地域で産する建築材料をただ使えばいいのか、・・・・議論は大震災以前からのものである。

 阪神・淡路大震災は、こうして、日本の建築界の抱えている基本的問題を抉り出した。しかし、その解答への何らかの方向性をみい出しえたどうかはわからない。半世紀後の被災地の姿にその答えは明確となるであろう。しかし、それ以前に、半世紀前から同じ問いの答えが求められているとも言える。

 

*1 拙稿、「阪神大震災とまちづくり……地区に自律のシステムを」共同通信配信、一九九五年一月二九日『神戸新聞』、「阪神・淡路大震災と戦後建築の五〇年」、『建築思潮』4号、1996年、「日本の都市の死と再生」、『THIS IS 読売』、1996年2月号など 拙著、『戦後建築の終焉』、れんが書房新社、1995年、『戦後建築の来た道 行く道』、東京建築設計厚生年金基金、1995年

2022年4月26日火曜日

2021年11月3日水曜日

アジア諸地域における格子状住区の形態と構成原理に関する研究 Ⅵ. ヒンドゥーの都市計画


アジア諸地域における格子状住区の形態と構成原理に関する研究,科研都城研究(199394)19953

  


Ⅵ. ヒンドゥーの都市計画

 

 

1. 古代インドの都市

 インダス文明の都市

 インダス文明は、紀元前2350年~1750年にかけて、インダス川流域を中心として栄えた古代文明の一つである。その文化の及んだ範囲は、東西1550キロ、南北1100キロという広範囲におよんだ。その中でもモヘンジョ・ダロ、ハラッパが有名であるが、その他にもロータル、カリバンガンといった都市が発見されている。ここでは、モヘンジョ・ダロ、ロータル、カリバンガンを取り上げ、それらに共通する特徴を明らかにしてみよう。

 モヘンジョダロ(Mohenjo daro)(図1-1-1)はインダス川の堤に位置する。都市は大きく分けて西側と東側に分けることができる。西側は要塞地域となっており、大浴場・穀倉・集会場・ストゥーパがあった。東側は市街地ある。発掘された地域では、南北に幹線道路が平行に2~3本走り、その間を細い道が直角や鍵状に結んでいる。

 ロータル(Lothal)(図1-1-2)は、東北パンジャーブ地方の港湾都市であり。土着の文明と混合してできた都市であるとされている。南北に長い長方形をした都市である。東北部は、厚い壁で囲まれた要塞部分と考えられる。市域には、モヘンジョダロと同様に南北に走る幹線道路が確認できる。また、ロータルの特徴は、市の東壁に接して、ドッグを持っていたことであった。

 ラジャスタン(Rajasthan)北部のカリバンガン(Kalibangan)(図1-1-3)は、西側の要塞の区域と東側の市域から成っている。東側は、長方形の城壁で囲まれている。カリバンガンに見られる都市の特徴は、東の市域と西の要塞とからなる。城壁の内側では、4本から5本の南から北に平行に走る幹線道路が発掘されている。しかし、東から西に、城壁から城壁へと都市を貫通して走る道路は発掘されていない。その代わりに、隣合う2つの南北方向に走る幹線道路を直角につなぐ短い道は発掘されている。

 応地利明*1は、インダス文明の特徴は「地形学的二重性」と「準グリッドパターン」にあるという。「地形学的二重性」とはインダス文明の都市はすべて要塞部と市街地とから構成されているということである。すなわち、聖な部分と俗の部分からなっている。土着の文化と混合したロータル以外は、聖の部分は西側に、俗の部分は東側に建設される。インダス文明においては、西が聖なる方位であったと考えられる。

 「準グリッドパターン」とは、南北走る幹線に対して直角に交わる小路、もしくは鍵型小路で街区が構成されているということである。インダス文明の都市は、南北に走る幹線と東西に走る幹線が形成するグリッドパターンの都市ではなかった。

 

 

 アーリア人侵入以降の都市

 マウリア王朝の都市

 アルタシャストラ(Arthasastra)を編纂したカウテリヤ(Kautilya)の仕えていたチャンドラグプタ(Chandraguputa)王が創始したのがマウリヤ(Maurya)朝であり、その都はパータリプトラであった。そして、その都市形態についてギリシャ人のメガステネース(Megasthenes)が『インディカ』(Indhika)のなかで述べている。

その内容を総合すると以下のようである。*2

① 都市の立地は、ガンジス川とエランノボアス川の合流点であった。

② 都市のプランは四辺形で、その長辺は80スタディア(14.8km)、短辺は15スタディア(2.8km)に達する巨大なものであった。

③ 都市は幅180m、深さ14mの壕で囲まれた環濠集落であり、46の門を有する木柵で囲まれていた。

④ 都市は多数の馬匹と象を含む軍団の駐屯地であると共に、プラッシイイの政治の中心地であった。

 その後の発掘調査によっても、パータリプトラは、ほぼ上記のような形態をしていたことが分かっている。

パータリプトラの都市形態は,南北に長い長方形であり、その周りを壕が囲んでいた。また、壕によって南北に分断され、南側が宮城域、北側が市街域であった。しかし、市街域の道路体系については不明である。このように、マウリア期(B.C.322185)の都市も「地形学的二重性」をもっていた。

 

 

 バクトリア・ギリシャの影響下の都市(B.C.2世紀~A.D.1世紀前半)

 紀元前2世紀から1世紀にかけて栄えたシルカップ(Sirkap)(図1-1-4)の古代都市にグリッドパターンの都市形態が見られる。シルカップは、インダス文明の都市とは違って、完全なグリッドパターンの都市形態を持っている。幹線道路は、南北に走り、狭い道路が直角に幹線道路を横切って東西に走る。東西に走る道路の間隔は、殆ど同じである。シルカップのグリッドパターンはギリシャ文明の影響を受けたものであると言われている。また、南側は丘陵のある町で、特に西南端はアクロポリスである。

 しかし、発掘作業が進んでいないため実際に古代インドのグリッドパターンの都市を見つけることは不可能である。現在、グリッドパターンを持っていると推測される古代インド都市は、オリッサ州のシスパルグラ(Sisupalgarh)(図1-1-5)の一つだけである。シスパルグラは1世紀から2世紀にかけて栄えた要塞都市である。それは、1辺1.5キロメートルの正方形の都市である。各辺に2つずつ門、合計8つの門がある。各門から反対側の門へと線を引くと、完全に9つの正方形に分割される。残念ながら、発掘調査が成されていないためそれ以上の事は分からない。

 

 

*1 Ohji Toshiaki,The "Ideal"Hindu City of Ancient India as Described in the Arthasastra and the Urban Planning of Jaipur.

*2 『インディカ』の要約は以下の論文による。『都市形態の研究:インドにおける文化変化と都市のかたち』(『SD』臨時増刊号)1969年

:丸山次雄「パータリプトラの都市形態 東インド初期歴史時代の都市形成との関連において」p83.

 

 

2. ヒンドゥーの建築書

 古代ヒンドゥー教の理想都市については、シルパシャストラ(Silpa sastra)に描かれている。シルパシャストラとは、都市計画・建築・彫刻・絵画等を扱ったサンスクリット語の文書群のことである。最も完全なものは『マナサラ』(Manasara)であり、他に『マヤマタ』(Mayamata)、『カサヤパ』(Casyapa)、『ヴァユガナサ』(Vayghanasa)、『スチャラディカラ』(Scaladhicara)、『ヴィスバカラミヤ』(Viswacaramiya)、『サナテゥチュマラ』(Sanatucumara)、『サラスバトゥヤム』(Saraswatyam)、『パンチャラトゥラム』(Pancharatram)の9種がある。『マヤマタ』の著者はマヤ(Maya)であると考えられている。マヤは最も評判の高い天文学書『スルヤシッダンタ』(Suryasiddhanta)の編者であると考えられている。内容は『マナサラ』と大差がない。『カサヤパ』は著者名が本の題名に成っている。しかし、著者は人類の先祖の一人で大洪水の時に生き残った7聖人の第一に位置する人であり、神話上の人物である。『ヴァユガナサ』も著者名を書名に用いている。著者は「ヴァイナバ」(Vainava)僧団の創設者である。内容は建築的というよりむしろ宗教的である。『スチャラディカラ』の著者は「アガスタヤ」(Agastya)とされている。この本にしかない項目もあり、彫刻に関しては優れている。その他では『マナサラ』と大差無い。『ヴィスバカラミヤ』は内容的には『マヤマタ』に基づくものが多く、『マナサラ』に近い。『サナテゥチュマラ』は、『ヴィスバカラミヤ』に基づくものであり、『マナサラ』の流れを汲むものである。したがって、シルパ・シャストラに関しては『マナサラ』を参照するのが最適である。『マナサラ・シルパシャストラ』(Manasara Silpa Sastra)という題名であるが、「マナ(mana)」は「寸法」(Mesurement)また「サラ(sara)」は「基準(essence)」を意味し、「マナサラ(Manasara)」とは「寸法の基準(Essence of Mesurement)」の意味である。しかし『マナサラ』とはこの本の題名で有ると同時に、この本の作者の名前であるという説もある。また、「シルパ(Silpa)」とは規範、「シャストラ(Sastra)」とは科学という意味であり、「バストゥ(Vastu)」は建築という意味であり、「バストゥ・シャストラ(Vastu Sastra)」は「建築の科学(Science of Architecture)」の意味である。したがって、本来的には、この本の題名は『マナサラ・バストゥ・シャストラ』(Manasara Vastu Sastra)であるべきであるとされる。成立年代はアチャルヤ(P.K.Acharya*1によると6世紀から7世紀にかけて南インドで書かれたものであると考えられているが、村田治郎*2は中に述べられている建物形態から近世に増補されたものであると考えている。

 都市の形態と内部構成の詳細について述べている他のサンスクリット語の文書は『アルタ・シャストラ』(Arthasastra*3である。これは理想的な首都についてもっと明確な考え方を示している。『アルタシャストラ』は富国について議論した文書である。著者は紀元前4世紀頃栄えたマウリヤ王朝,チャンドラグプタ1世(ChandraguptaⅠ)の首相であったと信じられている伝説上の英雄カウテリヤ(kautiliya)であると考えられている。この文書は紀元前2世紀から2世紀の間に編纂された。

 

 

 『マナサラ・シルパ・シャストラ』

 『マナサラ』の構成について、アチャルヤの研究*1にしたがって紹介する。

 目次は、以下のようになっている。本稿では、寸法体系と都市と王宮について述べている章を取り上げ、マナサラに見られるインドの都市・王宮について考察する。

第1章 内容紹介 、第2章 建築家の資質と寸法体系 、第3章 建築の区分  第4章 敷地の選定 、第5章 土壌のテスト 、第6章 日時計の作り方と杭  第7章 配置 、第8章 捧げ物 、第9章 村落 、第10章 都市と要塞、第11章 建物の寸法、 第12章 基礎 、第13章 柱脚、第14章  柱礎 第15章 柱、 第16章 エンタプラチャーと屋根、 第17章 結合部 、第18章 建物の一般的特徴、第19章 1階建ての建物、第20章 2階建ての建物、第21章 3階建ての建物、第22章 4階建ての建物、第23章  5階建ての建物、第24章 6階建ての建物、第25章  7階建ての建物、第26章  8階建ての建物、第27章 9階建ての建物、第28章  10階建ての建物、第29章 11階建ての建物、第30章  12階建ての建物、第31章 宮殿、第32章 寺院、第33章 玄関と窓、第34章 あずまや、第35章 邸宅、第36章 住宅の配置と寸法、第37章 住宅の開口部、第38章 扉、第39章  扉の寸法、第40章 王宮、第41章 王の側近、第42章 王権の体制と象徴、第43章 馬車と戦車、第44章 寝台・揺り椅子、第45章 王座、第46章 アーチ、第47章 中央劇場、第48章 装飾樹、第49章 王冠、第50章 装身具と住宅の家具、第51章 シバ、ビシヌ、ブラフマの像、第52章  リンガ、第53章  祭壇、第54章 女神達、第55章 ジャイナ教の偶像、第56章 仏教の偶像、第57章 聖人の偶像、第58章 神祇物の像、第59章 帰依者の像、第60章 グース(ブラフマの乗り物)、第61章 ガルーダの像(シバの乗り物)、第62章 牛(シバの動物)、第63章 ライオン(パルバティの乗り物)、第64章 偶像の寸法比較、第65章 最大のテン・ターラー寸法、第66章 中間のテン・ターラー寸法、第67章 垂直方向の寸法規定、第68章 偶像のワックス仕上げ、第69章 計画寸法を誤った場合の罰、第70章 開眼

 アチャルヤの研究によると、このようになっているが異説*4もある。

 

 

 寸法体系                                    

 寸法体系については第3章で述べられている。一部と二部に分かれており、一部は芸術家の系譜について述べている。芸術家は、すべてブラフマの子孫であるとされている。二部は寸法体系について述べている。マナサラに述べられている寸法体系は、すべての物体の最小構成単位である原子から始まる。しかし、実際に使用される寸法は人体寸法である。すなわち、「アンギュラ」(angula)は指の幅、「ヴィタスティ」(vitasti)は手をいっぱいに広げた幅、「ハスタ」(hasta)は腕尺である。また村落や都市をはかる寸法としては「ダンダ」(danda 竿)の長さを用いた。また、寸法体系は8進法を用いている。

 野口英雄*5は、『マナサラ』に見られる寸法体系について、「コスモロジー・宇宙観」と寸法の神聖化、身体性と実用性、象徴性の占有、文化伝播に着目して考察を進めている。野口によると、インドの建築寸法は身体寸法に立脚しており、寸法の身体性はタイ・ジャワ島・バリ島にも見られることから、これらの地域との文化における関係を示唆している。

 

 

 建設プロセス

 『マナサラ』では、第九、十章で村落、都市・要塞について述べているが、その前に第三,四,五章でその敷地の選定に付いて、第六章で方位の定め方について、第七章で配置計画の基となるマンダラについて述べている。これは、都市計画のプロセス順に論述されているものと考えられる。

① 敷地の選定を行う:その判断基準は土壌のテストによるたいへん科学的なものである。インドは、乾燥する土地であるので水が一番重要視される。そして、その次に地盤が重要である。

② 方位を求める:これは日時計を用いる。都市・建築にとって方位が大切であることは自明である。建物は東もしくは北東を向くべきで、南東は不吉であるとされている。これは、低緯度なインドで

日差しが建物に直接入るのが良くないためであると考えられる。

③ 配置計画:敷地が決定されると、その上にマンダラを描く。マンダラとは、正方形を等分割し、分割してできた各正方形にヒンドゥーの神々の名前をあてはめた図である。このマンダラはバストゥ・プルシャ・マンダラと呼ばれる。これは、マンダラ上に寝ているとされるせむしの神、バストゥ・プルシャ(図1-2-1)にちなんだ名前である。『マナサラ』には32通りの分割方法が掲載されており、それぞれのマンダラに名前がある。都市や建築の計画によく使用されるのは、64分割のチャンディカ(candika)(図1-2-2)や81分割のパルマ・サディカ(parama-sadhika)(図1-2-3)である。

④ 村落、都市・要塞の計画:『マナサラ』では、村落も都市・要塞も計画手法は同じである。都市は村落の大きいもの、要塞は村落の防衛に重点のおかれたものとされている。

 始めに、各辺の中央から向かいの辺の中央に道路が引かれる。こ

れで、中央に四辻が形成される。次に城壁建設・門の設置・道路配置がなされる。道路配置は村落には8パターン、都市にも8パターンある。要塞にも8パターンあるが、立地によってさらに分けられる。そして各パターン毎に名前がある。その後、バストゥ・プルシャ・マンダラの各正方形毎に施設が配置される。一番内側には寺院や集会場や王宮(都市の場合)が建てられる。一番外側の区画には、学校・迎賓館・図書館といった公共施設。そして、この二つの間に住居がある。住居は、カースト毎、職業毎に配置される。そして、火葬場や恐ろしい神々の寺院は城壁外の北西に建設される。また、都市は川や山の近くに建設され、商業機能を持つべきであるとしている。

以上が村落、都市・要塞の建設プロセスである。

 

 

 都市形態

 はじめに規模であるが、最も小さい都市で、100×200 ダンダであり、最も大きなもので 7200 ×14400 ダンダである。また、都市は東西、南北という軸に沿って配置される、川や山の近くに位置する。 都市施設としては外国人との貿易・商業の施設、城壁・濠・城門・下水・公園・公共地・店舗・両替所・寺院・寺院・迎賓館・大学等がある。軍事・防衛目的のため、都市は一般的にかなり要塞化されて造られている。都市はそれぞれ、煉瓦か石によって築かれた壁によって囲まれており、その外に都市に対する攻撃を阻止するだけの幅と深さを持った濠を持っている。また、一般的に各面の中央にメインゲートがあり、多くの場合四隅にも門が有る。壁の内側には、壁に沿って都市の廻りを走る大きな街路があり、それに加えて対面する門を結ぶ2つの大きな街路がある。その街路は都市の中央で交わり、そこに集会用の寺院やホールが建てられる。このようにして、都市は大きく4つのブロックに分けられ、それぞれのブロックは、そのブロックを通り抜ける道によって更に分割される。

  都市の中央で交わる道では、道の片側だけに家と歩道があり、それらの家は一階が店舗になっている。都市の外周路もまた、片側だけにしか歩道と家がなく、それらの家は主に学校・図書館・迎賓館といった公共の建物である。他の全ての通りでは、両側に住居があり、家の高さは統一されている。貯水池は、全ての居住地に掘られ、多くの住民に便利なように位置している。同じカースト、職業の人々は大抵同じ場所に住まわされている。様々な宗派の人の場所の分割は、為されているとは言い難い。最良の場所は、一般にバラモン(僧侶)と建築家のためにとられている。

 一般的には、都市は上記のような形態をとるが、8つのパターンそれぞれについて詳しく考察する。復元図はアチャルヤによるものである。

「ラジュダニ(Rajudhani)」(図1-2-4)

 このパターンは9階級*1ある王の位の中で、最高位の王の都に用いられるパターンである。9階級の王とは上から順に、「チャクラヴァルティン(Chakravartin)」、「マハラジャ(Maharaja)」、「ナレンドゥラ(Narendra)」、「マンダレサ(Mandalesa)」、「パルシニカ(Parshinioka)」、「パッタドゥハラ(Pattadhara)」、「マンダレサ(Mandalesa)」、「パッタブハジュ(Pattabhaj)」、「プラハラカ(Praharaka)」、「アストラグラヒン(Astragrahin)」である。全体の形は長方形であり、都市の中央で交わる大通りがあり、都市の形態に沿って3重に道が走っている。このタイプの都市はいわゆるグリッド・パターンの道路体系ではない。

 また、このタイプは四辻が公園になっている。また公園に面して、シバとヴィシヌの寺院があり、それを取り囲むように王宮(北西)・集会場(北東)・ブラフマ(南東)の住居・司祭の住居(南西)がある。また、その外周にはクシャトリア(貴族)・医者・市場・ヴァイシャ(武士)・貴族・首相の住居が配置される。そのさらに外周には総督府・建築家の住居・宝石職人の住居・貯水池・グランド・兵器職人の住居・スードラ(奴隷)の住居・油業者の住居・乳業者の住居・洗濯業者の住居・仕立て職人の住居・学校・織物職人の住居が配置された。その外周の施設については特定不可能である。最外周には兵士のためのバラックが建てられていた。

「ナガラ(Nagara)」

 「ナガラ」は「ラジュダニ」のスケールの小さなものであり、配置計画等は同じである。しかし、道路体系はグリッド・パターンとなっている。

「プラ(Pura)」、「ナガリ(Nagari)」

 このタイプは、アチャルヤは復元を行っていない。また本文中の記載が少なく復元することができない。

「ケタ(Kheta)」

 このタイプの全体の形は、八角形を半分にした形である。八角形の中心にあたる位置に広場があり、そこから放射状に道路が広がっている。このタイプは王宮を持たない。中心の位置の施設は不明であるが、その外側にはスードラの住居、さらに外側には市場・倉庫があり、城壁の外には川に面して港がある。このタイプは都としての都市ではなく商業都市に適用される都市形態であると考えられる。

「カルバラ(Kharvata)」

 このタイプの全体の形は、円形である。都市の中心で四辻を形成する道路が東西・南北に走り、さらに4本の道路が四辻から放射状に伸びている。また同心円状に4本の道路が取り囲んでいる。

 中心には寺院が、一重目には公共施設・貴族の住居・クシャトリアの住居・司祭の住居が位置し、その外側にはクシャトリアの住居・芸術家と建築家の住居・ヴァイシャ(武士)の住居がある。

「クブジャカ(Kubjaka)」

 このタイプの全体の形は、長方形+半八角形である。道路体系は、基本的にはグリッド・パターンである。半八角形の中心の位置で、大通りが交わり四辻を形成する。四辻には寺院がある。

 半八角形の部分には、王宮・貴族の住居・公共施設が位置する。長方形の北側には、芸術家・ヴァイシャ(武士)の住居が設けられ、中央部には、首相とブラフマの住居が設けられる。

「パッタナ(Pattana)」

このタイプは、アチャルヤによる復元案がない。このタイプは大きな商業港を持ち海や川の堤に位置していると書かれており、商業都市に適用される形態であると考えられる。

 以上が『マナサラ』に述べられている8つのタイプの都市形態である。

 

 

 これらの都市形態とチャクラヌガラとの比較であるが、都市形態の面からは「クブジャカ」がいちばんチャクラヌガラに近い。以下共通点と異なる点を述べる。

 共通点

①全体構成が東西に長い長方形であること。

②メインストリートが形成する四辻に面して王宮があること。

③メインストリートの北側に1ブロックの居住地があること。

④道路体系がグリッド・パターンであること。

⑤東西8ブロックからなること。

 異なる点

①チャクラヌガラは、半八角形の部分を持たない。

②王宮の位置がチャクラヌガラの場合、四辻の北東角である。

③チャクラヌガラは、南北に5ブロックからなる。

④チャクラヌガラには城壁がない。

 このように「クブジャカ(Kubjaka)」と呼ばれるタイプはたいへん形態的にはチャクラヌガラに似ている。

 

 

 王宮

 王宮の建設過程も次に、村落、都市・要塞と①,②,③までは同じであると考えられる。都市内に於ける王宮の位置は、第10章で都市の中心が望ましい、と書かれているだけで具体的な位置については述べられていない。第40章では、王宮の内部構成について述べている。王には9階級ありそれぞれに王宮の規模が違う。この章では具体的に「パルマ・サディカマンダラ(parama-sadhika)」を用いて王宮内の建物の位置について述べている。

 王宮は、内陣と外陣とから構成されている。内陣には、戴冠式のパビリオン、兵器庫、倉庫、食堂、台所、風呂、寝台等の王にとって必要な建物があった。外陣には、皇太子・王家の司祭の住居、謁見場、寺等があった。果樹園、池は外陣の中に自由に、馬・牛・象小屋は中央門の近くに設置された。闘鶏場は特別に建てられていた。牢獄は王宮から離れた位置に建てられた。寺院は北東に建てられる。王宮の主門は東面する。アチャルヤは『マナサラ』の記述から王宮を復元している。

以上が『マナサラ』の都市と王宮に関する記述である。『マナサラ』は理念よりもむしろ、建設過程順にならんでいる構成からみても、ローマのヴィトルヴィウスの『建築十書』のような建築工学に重点をおいた建築書であると考えられる。次にアルタシャストラ(Arthasastra)について考察する。アチャルヤは『マナサラ』とヴィトルヴィウスの『建築十書』の比較研究*7を行っている。

 

 

 『アルタシャストラ』(Arthasastra

 アルタシャストラは国富を追求する事を議論した文書である。著者は紀元前4世紀頃栄えたマウリヤ王朝、チャンドラグプタ1世(ChandraguptaⅠ)の首相であったと信じられている伝説上の英雄カウテリヤ(kautiliya)であると考えられている。この文書は紀元前2世紀から2世紀の間に編纂された。

 理想都市の形態と構造については2巻の3章・4章で議論されている。(アルタシャストラの本文はShamasastry,R.,trans. 1976. Kautilya's Arthasastra. 8th ed. Mysore:Mysore Printing and Pubulishing house.1st ed.,1915による。)

第三章 城塞化された市場都市(sthaniya)の建築

1.都市の形態:王国の中心に城塞化された首都(sthaniya)を持つのが望ましい。場所は、目的に最も合うようにする。(中略)、要塞は円型もしくは長方形の形をしている、また濠で囲まれており、水路と陸路の両方に接続している。

2.都市の濠と城壁:要塞を囲んで、濠が3本有って、それぞれ1danda(6feet)の間隔がある。各濠の幅は、14、12、10dandasである。濠から(内側に)4dandas(24feet)離れて城壁が高さ6dandas、幅はその2倍で建てられている。

第四章 城壁内の道路パターンの詳細・公共施設と私邸の空間構成

3.王道とそれらの幅:城壁都市内の土地の区画は、始めに西から東へ王道を3本、南から北へ3本通すことに作られる。(中略)王道、車道(中略)は、それぞれ幅4dandas(約24feet)である。

4.城門:城塞都市 は12の城門から成っている。それぞれには道路と水路そして秘密の抜け道がある。

5.寺院:城塞都市の中心に、AparajitaApratihataJayantaVajiayantaSivaVaisravanaAsvina神の神殿そしてMadiraの神の住居が位置する。

6.王宮:4カースト全ての人々の家々の中央に、城塞都市の内側の中央から北に、東面もしくは北面して王宮が、建設される。王宮は城塞都市の全敷地の9分の1(9番目の正方形)を占める。

7.王宮の北寄りの東側:王の教授達、司祭、生け餐えの場所、貯水池、首相が敷地を占める。

8.南寄りの東側:王室の調理場、象舎、町屋が敷地を占める。

9.隣接した東側:香水・花輪・穀物・酒を扱う商人は、職人やクシャトリアと共に、家を構える。

10.東寄りの南側:金庫、大蔵省、様々な工場が場所を占める。

11.西寄りの南側:森の産物を扱う町屋、兵器庫が建てられる。

12.南に:市・商業・工業・軍の指導監督者が、調理米・蒸留酒・肉を売買する人と同時に、それに加えて、売春婦・音楽家・Vaisyaが住む。

13.南寄りの西に:ロバ・ラクダの小屋と作業場

14.北寄りの西に:乗り物と戦車の小屋

15.西に:毛糸・木綿の糸・バンブーマット・毛皮・鎧・武器・手袋を作る職人が、Sudraと同時に、住まいを構える。

16.西寄りの北に:店舗と病院

17.東寄りの北に:金庫と牛・馬小屋

18.北に:都市の王の主護神、鍛冶屋、宝石職人は、Brahmanと同時に居住する。

 何人かの学者が上記に文書を用いてヒンドゥーの理想都市の復元を試みている。イギリスのカーク(W.Kirk*7、インドのベグデ(P.V.Begde*8、日本の応地利明*9である。

 応地案は、マンダラを基にしたものである。応地は、ヒンドゥー教の世界観から構成されるマンダラを考慮にいれなければ、インドの都市を理解することはできない、としヒンドゥー教の聖典の一つである『ビシヌ・プラナ(The Vishinu-purana)』(ヒンドゥー教の聖典の一つ)をあげている。「世界はジャンブ(Jambu)大陸を中心に同心円状に7つの大陸から成っている。各大陸は、円形の海に囲まれている。このことから、世界は7つのリング状の大陸と、同数の大陸の間にある海から成っているということが分かる。ジャンブ大陸は、円盤状の形で直径は100,000yojyanas(約1500,000m)である。ジャンブの中央に、メル山が標高84,000ヨジャナス(yojanas)(約1260,000m)でそびえている。メル山は、直径32,000ヨジャナス(約480,000m)の平らな頂上を持っている。」

また、応地はヒンドゥー教では、都市は世界の縮小モデルであると見なされていた、としている。

 先に『マナサラ』でみたように、インドの都市計画はバストゥ・プルシャ・マンダラをベースとして行われており、応地案の中の先の2つの復元に対する批判も妥当であると考えられる。したがて、本稿では応地案からインドの理想都市の構成を読み解く。

  応地は、復元案に64区画からなる「マンドゥカ(Manduka)」(『マナサラ』では「Candita」)を用いている。それによると、

1.中央は寺院

2.その外の北東は王宮、その他は4階級の住区

3.その外は公共施設・政府の施設。

4.一番外側は、私的な施設。商店が多い。各階級の住居がある。東は貴族・南はスードラ・西は武士。

 応地によると同様のコンセプトが、中国の『周礼考工記』(図1-2-13)にも見られるという。共通の特徴として、①都市の形態:4つの角を持つ正方形 ②門:各辺3つ、計12個の門 ③道路体系:2組もしくは3組の道路が東西・南北に走るグリッドパターン ④市域の分割:16の正方形に分割される ⑤ゾーニング:中央と2~3のベルトがそれを囲む。をあげている。違う点としては中央がインドは寺院であるのに対して、中国は王宮や政府の建物である事をあげている。

 

 

*1 P.K.Acharya. ARCHITECTURE OF MANASARA MANASARA SERIES 4. Delhi 1934.を参照した。

*2 村田治郎『新訂 建築学体系 4-Ⅱ 東洋建築史』彰国社 昭和32年

*3 Shamasastry,R.,trans. 1976. Kautilya's Arthasastra. 8th ed. Mysore:Mysore Printing and Pubulishing house.1st ed.,1915

*4 M.A.ANANTHALWAR AND ALEXANDER REA. Indian Architecture Vol.1 Architectonics.Delhi 1980.の目次は異なっている。

*5 野口英雄「ヒンドゥの建築寸法(ヴァーストゥ・マーナ)」日本建築学会学術梗概集昭和58年9月

  野口英雄「マーナサーラにみるインドの建築寸法」日本建築学会近畿支部研究報告集昭和57年6月

*6 P.K.Acharya.Indian Architecture MANASARA SERIES 2.P134-159. Delhi 1934. ・黒河内宏昌

*7 Kirk,W.1978.Town and country planing in ancient India according to Kautilia's Arthasastra.Scottish Geographical Magaszine 94.

*8 Begde,P.V. Ancient and medieval town planning in India. New Delhi 1978.

*9 OHJI Toshiaki. The "Ideal" Hindu City of Ancient India as Discribed in the Arthasastra and the Urban Plannning of Jaipur.

 

 

3. インドの空間構成 -都市と王宮-

 

 都市

 古代インドの都市の特徴として、応地*1は準グリッドパターンである事があげられるとしている。しかし、シルカップのビルマウンドは、準グリッドパターンの都市計画ではない。アーリア人の侵入以前のインダス文明の都市計画は準グリッドパターンの都市計画であり、またギリシャの影響を受けて建設されたと言われるシルカップのタキシラはグリッドパターンの都市である。

 実際に建設された都市は、様々な要素が関係し必ずしも都市理念が反映されているとは限らない。しかし、建築書においてはその建築理念は明確に表される。先述の『シルパ・シャストラ』と『アルタシャストラ』からインドの都市理念を考察する。先に、『アルタシャストラ』によるインドの理想都市の復元案を示した。しかし、『マナサラ』の内容とは異なる点も多い。『アルタシャストラ』は王都に関する書であるので、『マナサラ』の王都のパターンとの比較によりインドの都市構造を明らかにする。比較には『マナサラ』の「ラジャダニヤ(Rajadhaniya)」(図1-2-4)と呼ばれるタイプの王都を用いいる。「ラジャダニカ」は9階級*1ある王の位の中で、最高位の王の都に用いられるパターンであり、ここに王都の理想像が描かれていると考えられる。

 『マナサラ』と『アルタシャストラ』で異なる点は、

①道路体系:

・『マナサラ』では完全なグリッドパターンではない。

②ゾーニング:

・『マナサラ』では中央の広場に面して王宮が北西に立地するが、『アルタシャストラ』では王宮は中央には位置しない。

・『アルタシャストラ』の場合、内域帯には4階級すべての住居が設けられるのに対し、『マナサラ』ではクシャトリアとヴァイシャの住居のみ。

③都市施設

・『アルタシャストラ』の場合、城門は12であるのにたいし『マナサラ』では4。

・『マナサラ』には市場の位置が示されているが、『アルタシャストラ』には示されていない。

④都市形態:

・『アルタシャストラ』の場合正方形であるのに対して、『マナサラ』は東西に長い長方形。しかし、これは応地案がマンダラを参考に復元されたものであるからである。他の2案は東西に長い長方形である。応地の描いた『アルタシャストラ』の復元案はあくまでも理念型であると考えられる。

 共通点、

①道路体系:

・都市の中央で道が交わり四辻を形成する。

・都市の外周路がある。

②ゾーニング:

・中間帯にある施設の構成、例えば貯水池等。

・全部で同心の4つの帯から構成される。

③都市施設

・都市の中央に寺院がある。

・城壁と濠に囲まれている。

 以上の比較から分かるインドの理想都市の構造は、都市の中央で交わるメイン・ストリートがあり、入れ子状のゾーニングがなされている、ということである。また、都市の中心には寺院があり、王宮は中心付近に位置する。

 

 

 王宮

 王宮には王の階級別に9つのタイプ*2がある。ここでは、一番小さいアストラグラヒン王の王宮を例として考察する。規模の大きな王宮も基本的な構成は同じである。『マナサラ』に書かれている記述に従って、「パルマサディカマンダラ(Parama-Sadhika)」上に王宮を復元する。王宮の復元図を図1-3-1に示す。マンダラとはヒンドゥー教の世界モデルである。マンダラの取り方にはいくつか方法があるが、この図では一つの例を示した。寺院の位置は北東とされているだけでマンダラ上の正確な位置は示されていない。王宮は、外陣と内陣から構成されており、内陣・外陣別にマンダラが適用される。規模の大きな王宮では、内陣は一つの区画とし建設されるが、外陣はいくつかの区画に分割される。

  形態上の特徴としては、①幾重もの区画から構成されている、②寺院は北東角に設けられる、ことがあげられる。

 インドの王宮の空間構成上の特徴として、入れ子構造ということがあげられる。世界の中の都市、都市の中の王宮、王宮の中の内陣にそれぞれマンダラが適用される。都市、王宮、内陣がそれぞれ完結した世界を構成しているのである。


*1 OHJI Toshiaki. The "Ideal" Hindu City of Ancient India as Discribed in the Arthasastra and the Urban Plannning of Jaipur.

*2 9階級の王とは上から順に、「チャクラヴァルティン(Chakravartin)」、「マハラジャ(Maharaja)」、「ナレンドゥラ(Narendra)」、「マンダレサ(Mandalesa)」、「パルシニカ(Parshinioka)」、「パッタドゥハラ(Pattadhara)」、「マンダレサ(Mandalesa)」、「パッタブハジュ(Pattabhaj)」、「プラハラカ(Praharaka)」、「アストラグラヒン(Astragrahin)」である。