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2026年4月8日水曜日

布野哲郎 自分史 布野修司編

 布野哲郎自分史

  二〇〇四年一月一三日零時三八分永眠 

 法名 釈 賢哲 

         源空光明はなたしめ

     門徒につねにみせしめき

     賢哲愚夫もえらばれず

     豪貴鄙賤もへだてなし

 

     「高僧和讃」一三、『親鸞和讃集』、岩波文庫、名畑應順校注、p141

  

 [1]目次

 

布野家系譜

法名一覧

   布野家系図

   西紀・年号・家族年齢一覧表

   ふのむら地名

生い立ち

二・二六事件

  住友工業入社と新居浜の思い出(一)

  徴用の六か月間

  鉄道帯入隊から除隊まで

  新居浜の思い出(二)

  東部第八十七部隊に召集から終戦まで

  住友鉱業依願退職

  終戦後の知井宮のこと

  松江市役所に奉職


はじめに

 自分の生い立ちやその家庭環境、当時の世相、ご時世といったものを、後になって考えると、それなりにいろいろの思いがある。良くても、悪くてもこの年まで生きてきて、今年古希を迎えた。小さい時のこと、若いときのこと、いろいろと記憶を辿りながら、書き留めてみることにするか。

 本籍は、と聞かれたら、島根県簸川郡知井宮村大字知井宮本郷八百九十六番地、現住所は、と聞かれたら、島根県簸川郡知井宮村大字知井宮本郷千二十一番統ノ一地、と答える。

 こんなことを繰返し親父に教えられた、あれは昭和七年工業高校の入学試験、口頭試問の時だったろうか。毎朝五時過に起きて、母の準備してくれたお茶漬をかき込んで弁当を受け取ると自転車に飛び乗って今市の駅(現出雲市駅)まで出る。駅の近くに自転車を預けておいて、六時五分発の汽車に乗り通学していた。松江駅に七時過について、学校は八時に始まっていただろうか。帰りはもちろんその逆で帰宅時間は五時半頃になったから、平素は自宅で二時間とか三時間とか勉強した記憶は殆どない。期末試験の発表があると、予定を立てて準備をしようとするのだが、どうしても眠る時間を割かなければならないから疲れて何科目かは試験範囲に目を通すこともなく試験の当日が来てしまう。

 十一月から三月までは、始業時間が遅くなり、六時頃に起きて知井宮発七時頃の汽車で通学した。帰宅も日が暮れて七時頃になった。往復一時間宛の汽車の中は大抵座席に座れることが多かった。この頃から汽車に乗ると何か本がないといけないような癖がついた。後になってこんな通学をよく続けてたものだとも思わない。自分は体も小さかったし、一年の時はりゅうまち診断書で過激な運動は禁止され体操も見学したりしていたからあの頃は大変だったと思うけれど、それより次々と私の弟達を同じように通学させた母の苦労がどんなに苦痛だったかと思うと今でも目頭が熱くなるのを禁じ得ない。

 私が工業高校へ入学したのが昭和七年、おなじように一番下の弟が工業を卒業したのが昭和三十一年三月、特に三男の卒業する昭和二十年までは、その間が切れることはなかった。母は決して頑丈な身体ではなかった。昼間は祖母と一緒の農作業があった。よく耐えたものだと思う。

       

  和三郎(一八三五~一九0三)は、天保六年簸川郡塩冶村(現出雲市塩冶町)高西佐藤家に生まれた。実家は長男が相続して、和三郎は簸川郡知井宮村大字知井宮本郷字嘉儀辰己屋(大工勝部姓、後年住吉屋と改号)の婿養子となる。家付娘との間に一女をもうけたが、家付娘が若死にして舅、姑と折り合いが悪く不縁となり、後妻トミ(乙立村出身当時辰己屋の子守、一八四八~一九0七)と近所森の下(屋号)の近くで別居、仮住まいする。

  嘉儀部落内綿屋(布野姓)は、嘉永三年(一八五0)茂五郎没後断絶していたが、部落内分家小綿屋(布野姓)、同魚屋(布野姓)共に和三郎に本家の名籍を立てさせることにしたので、和三郎布野姓となり知井宮本郷千二十四番三地に建築移り住む。(一八七0頃、後年吉田屋と改号)  和三郎・トミ長男宇太郎(一八六八~一九四七)、次男栄次郎(一八七一~一八九五)、三男貞之助(浅津おきよ屋号ますだ屋に婿養子)、長女トキ(大社町柞築伊藤虎次郎に嫁す)、次女マン(嘉儀部落内製材所、山本定市に嫁す)、宇太郎は明治二十七年五月家督相続。二十八年八月簸川郡多岐村大字多岐(現多伎町大西)中林幸次郎・ときの長女テリ(一八七六~一九五八)と婚姻。

  宇太郎・テリ長男和一(一八九五~九八夭折)、次男寛蔵(一八九八~一九七八)[2]、三男正慶(一九00~三七江津町山根    長女富子と婚姻、支那事変で戦死)、四男義三(一九0三~〃夭折)、長女ソデ(一九0五~九四、村内大字知井宮本郷字両下大工屋岡田才蔵に嫁す)、次女キクエ(一九0八生、那賀郡嘉久志村現江津市、田中静夫に嫁す)、三女節江(一九一0~一一夭折)、四女末ノ(一九一三生、現大阪市港区八幡屋、八木義晴と婚姻)、五女クマノ通称悦子(一九一五~四六、那賀郡渡津村出身、大連市、井上久男と婚姻引揚げ前大連で死亡)、寛蔵は大正八年十二月知井宮本郷字嘉儀中林米蔵(一八~一九四0、中林幸次郎長男、テリ弟)・チイ(一八    ~一九四五簸川郡多伎町久村山根伝次郎妹)の長女鶴子(一九0三~八一)と婚姻。

  寛蔵・鶴子長男哲郎(一九一九生、松江市で居住)、次男寛威(一九二一~元松江市米子町内田安定長女幸子一九二五生と婚姻、広島市安佐南区で居住、八九死亡)、長女恭子(一九二四生、村内知井宮本郷八九六ノ一布野和一郎一九二一生と婚姻嘉儀部落で居住)、三男益男(一九二六生、松江市竪町小室幸子一九二六生と婚姻小室姓、後雑賀町四五0に転居)、次女栄子(一九二九生、江津市田中静夫弟田中宗道一九二三生と婚姻、松江市古志原町で居住)、三女雅子(一九三0~六七生家で死亡)、四女郁子(一九三三生、兵庫県城崎郡日高町石井四四中嶋和夫と婚姻、日高町で居住)、四男恵之(一九三五生、簸川郡大社町川方北松本花子長女美佐子一九四0生と婚姻、大阪府交野市倉治で居住)、五男宣臣(一九三七生、出雲市見見久町一00六ノ四白築文重五女白築光恵一九三五~七九と婚姻、本籍地で居住。寛蔵、鶴子遺産を相続。昭和五十七年松江市浜乃木町布施茂野一九三五生と再婚)。  哲郎は昭和二十三年四月那賀郡江津町大字渡津三一二藤田由人・ユミ三女藤田隆栄一九二五生と婚姻。

  哲郎・隆栄長男修司(一九四九生、東京都世田谷区代田五ノ一七ノ七唐沢高美・舒子次女美智子一九五一生、と婚姻。東京都朝霞市で居住後小平市に移住、現在京大宿舎で居住)、長女裕子(一九五二生、埼玉県越谷市大字下間久里三一一富田静雄・光江次男富田克己一九五0生、と婚姻富田姓。埼玉県熊谷市広瀬居住後大宮市東大宮に移住)、次男泰広(一九五五生、千葉県銚子市愛宕町二九六六ノ八、永田長也・槇子長女永田美保一九五九生と婚姻千葉県流山市平和台で居住)。

  修司・美智子長女晶子一九七八生、長男琢也一九八一生。克己・裕子長女玲一九八三生、次女慧一九八七生、泰広・美保長女絢子一九九一生、次女翔子一九九四生。





 

            

ふのむら[3]地名

    ふぬのごう  布努郷  <布野村>

「古代]平安期に見える郷名。「和名抄」備後国三次ミヨシ 郡四郷の1つ。三次郡北部に位置し、現在の布野村一帯にあたる。「古事記」に見える「布怒豆怒神」が語源であるとする説がある(古事記伝)。中世の布野郷は当郷名の遺称と推定される。 

  ふの  布野  <布野村>

布野川流域の山間部。北は出雲国に接し、古代から陰陽を結ぶ交通の要衝になっていた。「和名抄」布努フヌ郷が転訛したものという。

[中世]布野郷  室町期~戦国期に見える郷名。備後国三次ミヨシ 郡のうち。府野・苻野とも書く。康正2年造内裏段銭井国役引付に「三吉大郎殿備後国布野郡 () 段銭」と見え、南方の三次比叡尾山城主三吉氏の支配下にあった。地内に槙原藤五左衛門の姫が岳城、三井某の黒平城などを伝えるが、これらは三吉氏麾下にあったと推定される。天文13年には当地で「府野崩」と呼ばれる出雲尼子と毛利・三吉氏の合戦があった。「陰徳太平記」などによれば、同年7月尼子国久はじめ新宮党が出雲赤名から雲石路を下り、離反した三吉氏を攻めんとした。尼子勢は府野に在陣して三吉氏の比叡尾山城に臨み、これに対し毛利氏は福原貞俊・児玉就忠らを援兵として遣わした。「双三郡誌」によれば、上布野山崎(芸藩通志は下布野とする)で行われた合戦は毛利方の惨敗に終わり、毛利方の将兵は多大の損害を被ったが、三吉広隆の奇襲攻撃により、尼子方は山陰へ退却した(閥閲録4046 )。地内にはこの合戦で討死にした者の首塚が残っている(芸藩通志)。布野合戦の後もこの一帯は三吉氏の領するところだったらしく、弘治3年の毛利元就書状で国衆知行分を記した中に、三吉致高地行として「布野七百貫」と見える(毛利家文書)。地内には式内社知波夜比売神社が鎮座する。また、高尾山八幡宮(明治40年知波夜比売神社へ合祀)は天平11年あるいは貞観元年の創建といい(芸藩通志)、建武元年の銘をもつ銅製鰐口、永禄 7年三吉隆亮再建の棟札を蔵す(高尾山八幡宮由来書)。そのほか長禄 2年奉納の般若経、三吉隆常・隆元奉納の神鏡も蔵す(芸藩通志)という。臨済宗松雲寺境内に「元亨二年壬戌五月二日勧進  沙弥宗円」の銘をもつ石造五輪塔がある。

[近代]布野村  明治22年~現在の自治体名。はじめ三次郡、明治31年からは双三群に所属。横谷・上布野・下布野・戸河内の 4か村が合併して成立。旧村名を継承した 4大字を編成。役場を上布野に置いた。明治24年戸数 613、人口 3,537。江戸期から稼行していた落合鈩場は、明治期官営広島鉱山の落合作業所として稼行し、鉄滓の再利用法や水力利用による送風装置などさまざまな実験がここで行われ、一時期日本炉製鉄の技術改良の中心としての役割を果し、同37年広島鉱山が廃止されるまで存続し、鉱山廃止後も米子製鋼所落合分工場として稼行した。同41広島県が共同苗代を農民に強制したため、各地で反対運動が起こった。同42年当村会も地勢風土人情および農業作業の慣習上本村に適さない旨の反対決議をした(双三群三次市史料総覧第三編)。大正 7年広島電気会社布野発電所開設。同年三次で起こった米騒動の影響を受け、 8月約80人の村民が村長宅へ押しかけて、米の村外移出禁止などを要求した。アララギ派の歌人中村憲吉は当村出身。中村家は酒造も営む大地主であった。昭和23年定時制の県立双三高校布野分校が開講し、のち全日制三次高校分校となったが、生徒減少により同55年廃校になった。昭和44年山村振興事業として生活改善センター落成。世帯数・人工は、大正 97773,736、昭和258204,227、同506482,354

 

  ふのがわ  布野川  <布野村>

1級河川江の川水系、神野瀬川の支流。双三群布野村横谷北方山中に源を発し、下布野南端で神野瀬川に注ぐ。流長13.8Km.当流域は県天然記念物の上布野・二反田逆断層に伴う河川の開析によって形成され、上流は急流をなし、下流はほぼ直線状の川谷平野を形成している。「和名抄」の三次ミヨシ 群布怒郷の故地で、近世初頭上下の分村が生じた。雲石路(赤名越)が河川に並行し、布野宿が設置され、藩営の鉄山地域となった。現在は国道54号となり、式内知波夜姫神社が往時をしのばせる。

 ~地名事典より~

                                     


           

   自分の生い立ちについて、大体四五才ぐらいの時から記憶に残っていて人に語れるほどのことは、当時の家族のことを含めてそうたくさんにはない。ただ、世の中の移り変わりに文字通り隔世の感があって、戦後生まれの人には想像しにくいことも多いと思うので、断片的で取りとめもない話でもなるべく淡々と記録して置くことにする。

  私は、父が二十一才、母が十六才のときにその長男として本籍地で生まれた。父は明治三十六年生まれで次男だったけれど、父が生まれる前に長男が夭折しているので長男のようなものである。祖父は明治元年生まれ、祖母は明治九年生まれで、私が生まれた時には祖父母、父母のほかに、叔父が一人叔母が四人いて十人家族だった。私の家は曾祖父の代から大工をしていたから、父は棟梁の祖父と一緒に毎日仕事に出かけていた。母は祖母の僅かばかりの農業を手伝っていたのではないだろうか。

  母の実家は、私の家から二百メートル程離れた近所で屋号を田岐屋といった。多岐村の出で祖父は建具職、祖母は豆腐作りをしていて、母はその長女だった。私の祖母と、母方の祖父が姉弟でだったから、私の父母はいとこ夫婦だった。

  昔はどの家でも同じだったと思うけれど、私には小さい時に父母に遊んでもらった記憶はあまりない。父母が若かったし大家族だったので、小学校に上がる頃まで相手をしてくれたのは叔母さん達である。年齢が近かったから叔母達にしてみれば可愛い弟が出来たようなもので、哲ちゃん哲ちゃんと可愛がってくれた。よくおんぶしてやったとか、しっこを引っ掛けられたとかいった話を後々までよく聞かされた。

  私のうちには、その頃隣近所では珍しいシンガーミシンがあった。母が唯一の嫁入り道具として祖母に買って貰ったものである。母はミシンを習うため今市の洋裁学校に何ヵ月か通ったようである。母が家にいるときは、ミシンを使うときで私は四、五才頃よくその母の側に座り込んで母の手もとを覗き込んでいた。母の裁縫台は幅が四十糎、長さが一米五十糎くらいあって厚さが一・五糎程の一枚板だった。母はその裁縫台の上で天竺木綿や、キャラコの白いきれの上に新聞紙の型紙を置いて、チャコで製図をしては大きな鋏できれを裁断していた。そんな時には決まって母から小学唱歌を教わった。小さい子供がみんな歌わされるポッポポや、白地に赤く日の丸染めては勿論だが、父は尾張の露と消え  母は平家に捕らえられ  兄は伊豆に流されて  おのれ一人は鞍馬山だとか、鹿も四つ足  馬も四つ足  鹿の越えゆく  この坂道  馬の越せない  道理はないと  大将義経真っ先に  のように意味も良く分からない歌を次々と教わった。飽きてくると私はつまらん、詰まらんと遊び相手のないのを寂しがった。母が何が詰まらんかというと学校へ行けないからつまらんと言っていた。この頃の光景はいつまでも鮮明に記憶に残っている。父や私達弟や妹も含めて、私達が小学校に通う間、下着類は一切母の手になるものであった。

  就学年齢に達すると父兄同伴で小学校から呼び出しがあり身体検査を受ける。これは今も昔も変わりない。大正十五年三月になると私も母に連れられて行った。私の体格は特別に心配する程ではないが、決して頑健な方ではなく、どちらかといえばひ弱な感じだったと思う。小学校の時の通信簿[4]があって一年生の時の身体の状況ノ欄を見ると、身長三尺四九、体重四貫二一0、胸囲一尺七0、概評丙、栄養乙、脊柱正、眼疾ナシ、聴力良、耳疾中耳炎、歯牙二と記載されている。

  この時にも数を数えさせられた。一、二、三、四、と数えて行って百、百一、百二、と数えるともう良いもう良いと止められた。岡ヨリ先生で一年生の担任になる先生だったが、昭和六十三年の先生からの年賀状に、早々に賀状をありがとうございました貴方の御名を読むと知井宮時代が思われ、貴方の頬の薄い皮膚を通して赤い血管が見えていた記憶がよみ返ります。今はもう立派な大人でその皮膚も平常でしょう、後略とあった。先生が九十一歳の年の六十二年前の記憶である。

  小学校は尋常科が各学年一学級づつ、高等科が一年と二年で一学級だった。私達の嘉儀部落で同級生が五人、うち女は一人で、私の叔母さん(母の妹)だった。一キロ程の登下校は道順から仲良しの利ちゃんと一緒だった。利ちゃんとは小学校時代良く遊んだが、支那事変が始まって戦死してしまった。夏休みになるとまだラジオ体操はなかったから、小学生は毎朝五時半頃に起きて氏神様に参るのが日課になっていた。朝露を踏んで素足で駆けて行った。私は初めは叔母さんに連れられて行ったがすぐに習慣になった。氏神様の境内で、本殿の右手小高いところにちょっとした広場があった。五、六十人の子供達がそこで男女両側に別れて思い思いに松の根っ子に腰掛けて待っていると、朝の勤めを終えた神官が上がってきて平家物語かなんかの話をしてくれた。それが楽しみで欠かさずにお宮に参った。神主さんは隣村の小学校の校長先生だった。

  大正十五年は、十二月二十五日に大正天皇が崩御されたが、この冬はこの地方も大雪が降った。後から記録を見ると九十一糎程だっが、私の背より高く積もっていたように思っている。一人やっと通れる程に雪を掻き分けた道を、高等科一年と五年生だった二人の叔母に連れて行ってもらった。とにかく学校は好きだから遅刻、早退、欠席なしだった。(小学校二年で三日、三年で五日、六年で四日欠席がある。)学年末には全校生徒の学芸会があった。各学年で練習を積んできた合唱や劇を、プログラムに沿って次々と全校生徒、父兄、来賓の前で聞いてもらう、今でもあるようなおきまりの学校行事である。どうしたいきさつだったか忘れたが私はお噺をすることになり、イソップ物語かなんかの可なり長いお噺をよく覚えていて身振り手まねでやって大喝采?を浴びたそうである。一年生だったから。この話は、里の法要の時に叔母達と昔話をしていたら、きくえ叔母さん(江津在住明治四十一年生れ)が話すのを大阪の叔母さん(大正二年生れ)がそぅそぅと云っていて、本人はそう言えばそんなこともあったなーと、物語の粗筋が微かに蘇ってきた程度。考えてみればきくえ叔母さんは、この年浜田の女子師範を出て、昭和二年四月最初の赴任校が今市小学校だった。確か二年担任になったと思うが、兎に角お話にしても材料はいくらでもあったし、私に教えて覚えさすにしても、本職だし、一生懸命だったろうから、本人より良く覚えているのも道理だと密かに思った。

  我達の先祖のことについて、祖父や、父から直接聞いた記憶がない。それらは後々叔母達から聞いたんだと思う。それによると、我が家は綿屋という布野家が絶家(一八五0ー過去帳による。)になっていたのを、私達の曾祖父和三郎(一八三五~一九0三)が名籍立てさせてもらって移り住んだと云う。典型的な田の字形プランの家で東隣、西隣と同じだったが、祖父宇太郎(一八六八~一九四七)の代に、母屋の向い側に作業場に六畳の間がついた納屋を増築していた。母屋も最初に四畳半であったものを、縁側を取り込んで六畳に広げてあった。

  この頃(大正十五年)父と二つ違いの叔父は、浜田歩兵第二十一連隊で下士官志願して営内居住、上の叔母はお嫁に行っていたと思う。私のすぐ下の弟は大正十年生まれ、その下の妹が十三年、その下の弟が十五年生まれで、この時も我が家は十一人家族だった。家が狭かったから、私がもの心ついてからでも、台所を広げて水事場や風呂場を母屋にくっつけて増築したり、濡れ縁をつけたりした工事を見ていて記憶している。

  上の叔母が嫁いだのは村内の他部落で、岡田という家(大工屋といっていた。)だった。岡田は初代が亨保年間からこの地方の大富豪中和栗屋の常大工であったが、代々この地方の大邸宅や、神社仏閣、学校等を手掛けていて、叔母はその八代目に嫁いだ。私たちの祖父は、岡田の六代目初太郎の弟子であった。岡田の叔父は県立工業学校の建築科を出ていた。私の父も工業の建築科に行きたかったが、祖父が工事を請負って損を重ね、経済的に苦しくて行けなかったそうである。私達が氏神様に参る時に通る耕地整理の道は祖父がつけたもの、役場の前の農協の倉庫も、祖父が建てたもので、祖父は請負する度に損をしたから、村長さんと云われたと、叔母達が笑いながら話してくれた。

  二年生になると一学期の間、級長に任命された。田舎の小さい学校で、一学級四十名程度のクラスだから、どおってことないけれど、叔母が教えている今市小学校の二年生に、影山哲夫という良く出来る子がいて、叔母はしょっちゅうその子との比較の話をして、父に、この子は自尊心が強いはーと言っていた。当時意味が分からなくて自尊心が強いってどんなことと聞き返したものである。小学校低学年の頃はいろいろときくえ叔母さんの影響を受けた。英語の歌を教わって得意げに歌っていた。小学校二年の国語読本に〃しひの木とかしのみ〃[5]という詩の形式の短文があった。それを教わっている頃、今市小学校の文集だったか副読本だったか忘れたが〃みぞれ〃[6]という題の詩が載っていて、叔母さんから詩のお手本だといって教わった。私はこの詩が大変気にいって、何べんも読み返して暗唱した。もうひとつは四年生の時の国語読本にあった〃町の辻〃[7]である。これらは私が小さかった頃の故郷の景色と重なり合って何時までも鮮明に記憶に残っている。また叔母さんから旧約聖書の話も聞かされたこの時は弟達も一緒だった。これは聞かされたという感じで余り馴染めなかった。賛美歌も教わった。

  営内居住だった浜田の叔父が、休暇で帰った時に祖父や父と酒を飲みながら哲郎は大きくなったら何になるといった。叔母が哲ちゃんは学校の先生になるわナ-といったら、叔父がいかんいかん哲郎学校の先生には絶対になるなよ、学校の先生は毎年毎年同じことばかり教えているから馬鹿になるぞといっていた。勿論叔母は抗議していた。叔父とは一緒にいなかったので余り記憶に残っていることがない。二年生くらいのときの教科書に、日清戦争の時の木口小平の話、〃死んでも喇叭を口から放しませんでした〃というのがあって、父や、叔父から木口小平は浜田の歩兵二十一連隊だった、浜田の連隊には木口小平の銅像があると、よく聞かされた。

  昭和三年は小学校の三年で昭和天皇即位の大礼は、奉祝行事に仮装行列のコンクールがあって、隣近所、まえ後ろの大人達がみんな寄って、私のうちの納屋で大わらわの準備をした。出し物は浦島太郎で鯛やひらめや魚がいっぱいいたが、多岐屋の叔父さんが乙姫さんになって、コンクールは一等だったから良く覚えている。

  大正末期から昭和初期の不況の時代に、我が家は経済的にもっとも苦しい時代だったがこんな時に私達兄弟は小学校時代を過ごした。次の弟が一年生になって私とおなじように岡  ヨリ先生が担任であった。弟も良く出来た。この頃農協の奨励があってか父母は養鶏を始めた。納屋の後ろで味柿の木の下に、父が鶏舎を作った。

  初めに鶏舎の審査があってこれに我が家の鶏舎は一等賞を貰って長らく鶏舎の入口に一等賞と書いた木札が打ちつけてあった。鶏は十二、三羽だったろうか飼うのは母である。私と弟は精米所に糠を買いに行かされた。一斗づつ袋に入れた糠を弟と二人で両端を握って帰った。卵は組合に持っていった。そんなお使いが、私達の手伝いであった。養鶏は叔母の弁当に卵焼きを作って入れるほかは、家族の栄養補給が目的でなく、わずかな現金収入が目的だったように思う。

  もうひとつおきまりの手伝いにのこくそ運びがあった。のこくそはオガ屑であって竃の燃料にオガ屑を使用していたから製材所から箱を取りつけた荷車で弟と二人で運んだ。その頃どこの家でものこくそくど(鋸屑竃)[8]を使っていたわけではなく隣近所の家では石工の作った既成の竃が据えてあった。それも台所の板間に座って直に焚けるようになっていたから煙突はなく焚き付ける時はくすぶりが小屋裏から戸外へ抜けて行った。私の家では炊事用燃料の薪に代えてオガ屑を使用するため、いち早く竃を築替えていた。母の実家(多岐屋)も豆腐作りをしていたのでこの竃だった。荷車は農作業用の重たいのでなく、ちょっと小型で軽いスマートな多岐屋の車を借りた。

  不況のどん底で大人は朝から晩まで忙しく働いていた。私の家では僅かばかりの小作で一年中食べる米はないから、父の現金収入は大家族の米を買うのに追われていた。何処の農家でも養蚕をして現金収入を得ていたが、我が家も祖母と母が養蚕もした。狭い家だから養蚕期間中は寝るところもないくらいであった。

  この頃であったか、我が家に執達吏が来て、そこらベタベタ紙を貼られたことを覚えている。当時何のことか分からなかったが、祖父が部落内の製材所の隣で、空き家になっていた中基屋の借家を借りて別居した。私等兄弟が代わる代わるそこへ食事を運んだ。要するに祖父のものは何もないという形にして何も持って行かれなかったが、後年叔母たちに聞いたところでは、祖父の借金でなかったが請判をしていて差し押さえられたそうである。

  小学校三、四年生の頃か、膝が痛くなって歩けなくなった。きくえ叔母さんが、今市の松ノ谷病院のお嬢さんの勉強を見てあげていて、病院から通勤している時だったから、松ノ谷病院にかかった。リュウマチということで注射と喉の焼けるようなきつい薬を貰って飲んだ。その頃祖父が頼んだのか父が頼んだのか大社町の長沢という家相見を連れてきて我が家の鑑定させた。風呂場の位置が悪く、長男が足が立たなくなると言ったそうである。この時は一応痛みもなくなったが、工業学校に通うようになって課外で五哩マラソンを走ったら再発したので、診断書をもらって一年間体操を休学した。

  昭和四年正月妹栄子が生まれた時、私は近所の男の子達と兵隊ごっこかなんかで部落内の桑畑の中を駆けずり回っていた。遊びあい手の男の子といっても弟の同級生なんかを含めて五、六人で、どれほど楽しかったという思い出はない。駆けっこなんかあまり自信のあるほうでなく、学校の運動会でも選手になったことなど一度もない。

  この頃多岐屋の武夫叔父さんが、広島の砲兵連隊へ現役で入隊したが、即日帰郷になって帰って来た。その後武夫叔父さんは寝込むようなこともなかったが、同じ頃幸雄叔父さんがぶらぶらしていて私はよく将棋をして遊んで貰った。後々この頃のことを考えると、叔父さんはもうすっかり良くなっていたが、結核で一応自宅療養中だったと思う。複十字のパンフレットなんかをよく目にしていた。将棋は特に誰かから手解きを受けた記憶はないが、同級生で近所だった利ちゃんの親父さんが強かったから、利ちゃんと競うようにして覚えたんだと思う。叔父さんとは戸外の日陰に涼み台を置いて毎日のように将棋を持ち出して二人だけのルールを決めてゲームをしたりした。

  祖父が借家で別居していたのは祖父の還暦の頃だが、比布智神社の改修工事で図面を書いていたのはその頃だろうか。図面を書いているところは余り記憶がない、借家で書いていたのだろうか。青写真を焼いているのはよく見ていた。そんな時は感光紙を作るために、クエンサン・テツ・アンモニヤとセキショク・ケツロエンを買いに行かされた。最初は忘れるといけないから紙切れに片仮名で書いてもらった。そのうちに紙に書かなくても忘れることはなかった。祖父が乳鉢でそれをすり潰して水に溶かし、薄暗いところで刷毛を使って模造紙に塗る。紙が乾いたら木枠に入れて天日で焼き付けていた。水洗いしたり乾かしたり、今考えると随分面倒なことをしていたものである。

  我が家の東隣は、屋号を塚穴(ツカナ)と云っていた。元は塚穴山と云って塚があったと云う。その頃の小学校では四年生になると理科を教わるようになり五年生になると国史・地理を教わっていた。国史は校長の山邊栄太郎先生に教わった。古墳や埴輪や野見宿禰の話を聞くと、隣家の古墳はどの程度のものだったろうかと、異常な関心の高まりを覚えた。我が家の敷地内から出てきた土器はとってあると叔母さんから聞いたので、父に頼んで見せて貰った。土器は縁側の下に纏めて置かれていて、発見した当時祖父がセメントでくっつけてほぼ完全なまでの形になった須恵器が一個、他は大小取り混ぜた円筒埴輪の欠けらが多かったように思う。

  当時はその土器の欠けらが意味するところも分からないし宝物としては無価値に見えたから、もっとすばらしい宝物がこの塚の回りに埋まっていないものかと思ったので、家人がいないときを狙って納屋の裏で、庭木の植わっていない空き地を掘ってみた。勿論何も出ないから、埋め戻ししてはまた次を掘って埋めた三か所ほど。そのうちに掘った後を祖父に見つけられてばれてしまい、こっぴどく叱られた。

  古墳について祖父から少し話が聞けたのは昭和十年頃である。その頃祖父は私に囲碁の手解きをしてくれていた。祖父は岡田家六代目初太郎の弟子だったが、岡田家建築沿革によれば、七代目永太郎は切れ味の永太郎で鳴らし、筆書、囲碁は群を抜いていたとあるから、祖父もその頃囲碁を覚えたのだろう。昭和八年岡田の叔父(祖父の娘婿)が島根県技師になって祖父に碁を教えてくれと云って来ていたことを覚えているが、私はこの時まで祖父が碁を打つことは知らなかった。そんなことがあったり、祖父も大分年をとって来て私に碁を教える気になったかもしれない。

  父は私に滅多に小言は云わなかったが、この時はあまり囲碁に熱中し過ぎて勉強を疎かにしていると、父から小言を聞いた。可笑しなものでそれから暫くは碁を打つ時は何か悪いことをしているような気になったものである。一方喧しかった祖父は優しくなったような気がした。

  古墳の話としては、大きな石が残っていてその石の上でよく夕涼みをしていたと云う。石室の中には何も残っていなくて、沢山の石は新道をつけるときに割って暗渠の石なんかに使われたと云うから、塚穴山の盛り土も新道に流用されたり、付近に均して整地されたものと思われる。

  更に後になって祖父が書いていた古墳の見取り図を、父が美濃半紙に筆写していて見せて貰った。祖父は明治元年生まれだから祖父の年齢から云って明治二~三十年頃までは、石室の格好が残っていたのではないだろうか。

 

二・二六事件

  昭和十一年は、例の二・二六事件のあった年である。この地方でも雪が積もっていた。工業学校の四年生の時で、建築沿革の時間に萩原  信先生が教科書を閉じたまま事件の話をしてくれて、生徒は喜んで聞いたが、戒厳令や事件の意味が解ったのはずっと後からである。当時はだんだんと軍部の発言が華やかに報道されるようになっていた。工業学校ではいち早く昭和九年度の入学生からカーキ色の制服、カバン、ゲートルになっていた。先生は、『今にみんなカーキ色の服になるぞ、君達もカーキ色の服が着たいか』と言った。生徒は一様に『こらえてごしない、先生頼ンます』と言った。

  このことは当時職員会議でもめていて、建築科長西森稜威穂先生と萩原先生が抵抗して呉れているように思っていた。今考えると、それは違うように思うけれど、軍事教練なんかが多くなってくるムードの中で、自由主義的な二人の先生が、生徒に人気があったと言うことか。このことだけではないだろうが、二人はこの年の五月一緒に辞めて変わって行った。

  五年生の一学期になって建築の専門教科、構造力学・鉄筋コンクリート構造・鉄骨構造の時間は、担任の先生がいなくなって実習の時間に振り返られた。六月になって代わりの先生は、玉湯出身で神戸工専を出て旭川師団の経理部で勤務していた山本樹夫先生が赴任してきて、毎時間猛スピードで教科書のページをめくり早口で説明する授業が続いた。

  この頃僕は、飯塚先生の家から学校へ通っていた。五年生になると汽車通学では勉強時間がなくて無理だということと、次の弟がこの年工業の機械科に入学して、飯塚先生に保証人を頼んだのがきっかけで、お父さんもお母さんも大変だろうからということで、僕だけは、市成の先生の家でご厄介になった。下宿代も何も取られないから居候だった。当時、先生の長男赳(タケシ) さんが小学校六年生、長女の喜久子さんが四年生、次男の裕史さんが二年生だったろうか。奥さんはもう学校の先生は止めておられた。おばあさんも元気だった。食事どきに背中を丸くしてよく鰹節を削っておられた姿を思い出す。皆さんから親切にして頂いた。期末試験のときは、同級生の松本時男(当時は晴男)君が家が近所だったので一緒に勉強した。この一学期僕は初めて席次が一番になった。

  実業学校だから、一、二の例外を除いては殆どが就職したが、早いところでは夏休み前に企業から学校に求人申し込みがきた。この年の最初の求人申し込みは、住友別子鉱山株式会社からのもので、飯塚先生から推薦するから、就職試験を受けるように言われたとき、私は少し不満であった。建築屋の職場として別子鉱山がピンと来なかったから。先生は、住友はボーナスや退職金が良いことをいろいろ例を引いて話してくれた。私は今退職金なんかどうでもよいと思って反発した。先生は、将来きっと良かったと思うから今日のことは手帳に書いておけといって説得した。

  一年生から五年生まで五年間学級担任であり、また僕は三カ 月間居候させて貰ったり、この後もいろいろと特別に目をかけて貰い大恩ある先生だが、この時のことと、いよいよ卒業する時に、君たちは上級学校へ行かないで職場で働くわけだが、これからは毎月月給の一割を本代に当てて、何でも良いから本を読め、それをするとしないのでは長い間に必ず差が出るからと教えられたことが、今に至るまで頭に残っている。

                                            

住友鉱業入社と新居浜の思い出(一)


  就職試験は、夏休みだったろうか。大阪の住友本社へ行った。大阪の末ノ叔母さんから頼んで貰って港区の今岡千之助さんの家で泊めて貰った。今岡さんは神西の山地出身で、住友機械で職長をしていた。末ノ叔母さんは前からお世話になっていたようだ。四月修学旅行で、神戸、法隆寺、江の島、上野、日光と回っただけでどこも知らなかったから、住友本社ビルの立派さに圧倒されそうな印象を受けた記憶が残っている。

  僕たちは、丸刈り詰め襟の学生服で、受付の人はキチット背広を着こなしていた。係の人に丁重に案内されて、広々とした立派なセットの置いてあるロビーで待たされた。週刊誌や新聞も配られた。二、三十人も居たろうか、大変緊張していた、リラックスしていたのは大学生だったろうか。とにかく初めて紳士のように扱われて面映ゆかった。

  就職試験といっても面接だけだ、最近どんな本を読んだかと聞かれて吉川英治の宮本武蔵(当時新聞に連載中だった)と答えた。最後にあんたは新居浜に行って貰うことになっているが、大阪で勤務することもできるかと聞かれた。僕は、大阪なら新居浜よりなおいいと答えた。それはどうしてかと聞かれて、僕は、建築屋の勉強するのに都会の方を希望しますと答えた。試験官は、分かりました、これは参考までに申し上げるが新居浜は今や大工業都市であんたの勉強にはなんら差し支えないから安心して赴任して下さいと言われた。後から考えて随分肩に力が入っていたものだと思う。ほかには何も覚えていない。

  試験が終わってあくる日、末ノ叔母さんに阪神電車で神戸の三宮あたりまで連れていって貰った。叔母さんはその頃芦屋あたりの稲垣さんとかいう家にいた。三宮で幸雄叔父さんと落ち合い、後は叔父さんに神戸市内を案内して貰った。山の手の高級住宅街を通って高台から初めて見る神戸港の眺望に、都会の文化と豊かさが、強く印象に残った。淡路島が遠くに見えた、叔父さんは市電の車掌をしていた時に、ストライキであの島に行っていたことがあると話してくれた。神戸では、柳楽の叔母さんの家に一晩泊まった。灘区上野通り三丁目にある文化住宅だった。千代子叔母さんところへ行ったのはこの時一度だけで、その後叔父さんにも、恵美ちゃん、百合ちゃん、節明さんにも合ったことはない。

  就職も決まり、二学期になって先生のご好意にいつまでも甘えている訳にもいかないので知井宮からの汽車通学に戻った。親友石倉君は戸田組に、山根君は島根県庁に(後で国鉄に替わった)入り、昭和の初めからの不況で芳しくなかった就職事情は、この年になって希望者全員の就職が決まった。

  昭和十二年四月五日に入社日が決まって、父や母は、大変苦しい家計の中で僕の身の回りの準備を整えてくれた。初めて背広を作るのに飯塚先生に和多見の浜崎洋服店を紹介して貰い、先生の見計らいで合服一着を作った。三十七円だった。縞のワイシャツとソフトカラーも買って、ネクタイの結び方を教えて貰った。ソフト(帽子)とネクタイは、天神さん前の佐藤洋品店で自分で選んだ。新しく蒲団を作り、絣の着物やセルの袴も家にあるものでもみんな手入れして下着と共に揃えてくれた。男の子は嫁入り支度がいらないから、今度がそれのようなものだと言っていた。

  機械科卒業で一緒に新居浜の住友機械に就職した小村英夫君は、庄原の呉服屋だった。お互いに連絡を取りあっていたものだろうか、どうせすぐ要るようになるからセルの着物を作らないか代金は後でよい、と言ってくれて七円くらいだったかセルの着物も作った。

  赴任する前に一度浜田にも遊びに来いと言われて、春休みの間に正慶叔父さんのところに行って、富子叔母さんに畳ガ裏の辺や、商店街を案内してもらい、卒業と就職祝いに皮靴を買って貰った。この年の七月に日支事変が始まり、叔父は間もなく北支に出征、十月二十一日戦死したので、僕はこの時が正慶叔父さんとの最後の別れとなった。このように、僕の社会人第一歩はみんなに心から祝福して貰った。

  蒲団袋一個、柳行李一個を前もって送り出し、四月三日に小村君と、もう一人松江商業から別子鉱山へ入社する下山一夫君と三人で新居浜に向かった。米子で伯備線に乗り換え、倉敷から国鉄バスで茶屋町に出て、茶屋町から宇野、宇野桟橋から高松へ、新居浜に着くと暗くなった。新居浜駅には二年先輩で住友機械に就職していた梶谷さんが出迎えてくれた。タクシーの中から梶谷さんが、『あれが住友化学サ』といって指差した海岸の方には、真っ赤に染まった煙か水蒸気が、空一面に上がっていた。

  新居浜には、別子鉱山のほかに住友化学、住友機械、住友アルミ、住友電力と住友関係五社があった。独身寮は、五社共用で僕達の寮は淡親寮といった。二、三年前に建てられた南寮と、一年くらい前に増築された北寮が、東と西の端の渡り廊下で繋がれていた。南寮も北寮も五間梁間の二階建で、一間の中郎下の両側に、一間の押し入れと、一間の板床がついた六畳の間が続いていた。

  西側の渡り廊下に、便所と洗面所があって、東側の渡り廊下と南寮の接続部分から別棟の娯楽室、食堂、浴場になっていた。寮生は、二、三年前から各社の新入社員が入寮していて八十人ほどいた。食費と寮費で、月十五円くらいだった。

  住友別子鉱山株式会社は、新居浜市惣開(そうびらき) 一番地にあった。木造の二階建で、寄棟に黒瓦を葺いたドイツ下見板張りの、随分頑丈そうな古い建物であった。正面入口に掲げられている社名看板も、厚い竪板に社名が墨書されていて、可なり年数を経た、如何にも開坑二百五十年になる鉱山会社の本社に相応しいものだった。

  この年の新入社員は、二十人あまりだったろうか。僕達中等学校出は四等職員の辞令と、月俸金三十五円ヲ給スと、技術(事務)実習を命スの、二枚の通知書をもらった。僕がもらった社員バッチのNOは、815だった。四月末まで新入社員は研修期間だった。専務の訓示から始まって、部課長から各事業所の業務について話を聞いた。当時は毎日住友スピリットを叩き込まれると冗談いっていたが、決して堅苦しい話ばかりでなく、後半になると施設の見学も日程に組み込まれて、結構楽しい毎日だった。採鉱部は、端出場(はでば) にあってそこまでは鉄道がついている。坑道は更に奥の東平(とうなる) から入る。トロリー線で薄暗い坑道をゴトン、ゴトンと奥へ進んで坑内銀座といわれる四通八達の広場まで行って、そこからエレベーターで海面よりまだ低い採鉱現場に下りて見学した。また精練所がある四坂島にも一泊で出かけた。説明は五十年以上経った今は何も覚えていないが、真っ赤に溶けた鉱滓がバケットから海岸に注がれる様が、暮れ行く瀬戸内海に映えて、得も言われぬ美しさだったことがいつまでも強く印象に残った。

  僕は、初めのうちは隔週くらいに故郷に便りを出した。そして四月二十日に初めて給料を貰うと、父に感謝の気持ちを込めて十円送金した。

  寮の南は、四十メートル程の高さの山に面していた。星越山というそうである。寮から見える山の北斜面は植林がしてあるが、頂上付近にはコンクリートのタンクのようなものが見える。またここに来た時から気がついていたが、星越山の向こうから絶えず工場の機械が回っているような音がしていた。天長節の日に僕は一人でこの山に登ってみた。山の南斜面は、上の方から下まで段々の敷地になっていて屋根も壁も波形スレートの建物選鉱場であった。後で解ったことだがボールミルという鋼製のタンクの中に鉱石が入れられていて、回転しながらゴリンゴリンと二十四時間音を出していた。なーんだという気になったが、その向こう側の景色が目に入った途端に、わぁー奇麗だと思った。

  そこは谷が全部社宅だった。地形に緩やかな勾配があって、ゆったりした道路で区画され、全部平家の社宅が各戸に生け垣で囲まれ、一様に日の丸の国旗を掲げてひっそりと静まり返っていた。生け垣の緑と、日の丸の白と赤が、鮮やかなコントラストでこれほど纏まっているのを高いところからいきなり見たときの驚きだった。新居浜を離れて半世紀にもなると、あの星越山の上から見た山田の宅は、どんなに変わっただろうかとあのときのことを何時までも思い出す。

  五月になると、それぞれの部課に配属させられた。僕は業務部土木課で、勿論一人だった。寮で同室の広島工業出身高橋君は、精練部で四坂島に行った。松江商業から一緒に来た下山君は、採鉱部へ行った。大学出の人達四五人も含めて職場が決まり、同時入社のみんながバラバラになると、寮で朝夕顔を合わせる人とだんだん親しくなって行った。住友鉱山、住友機械の人が主で、会社は朝七時から午後四時までだから会社が退けてから十分の余暇があった。当分は毎日のように誰かの室で新しい情報が聞かれた。たとえば初任給は三五円、次の年は一月一日昇給で三八円、次は四三円、次は四円といったことになっていて、あの人は三八組、あの人は四三組といった具合。そのうちに上期のボーナスはどのくらい、下期のボーナスはどのくらいということまで聞いてきて、早速洋服屋を呼んで夏服の注文したりした。昇給や、ボーナスに個人差はないかという問いに、五~六年はみな同じで差が出るのはそれから後と、先輩から聞いた話を披露する。

  淡親寮の東隣は、住友の倶楽部になっていて、僕たちも自由に出入りできた。ただし、服装が規制されていて、作業服や和服の着流しは御法度だった。僕たち寮生は、普段は作業服で出勤するので寮に帰って着替えるときは和服だったが、背広に着替えるのは面倒だから袴だけつけて誰からともなくスリッパのまま玉砂利を敷いた通路を走って倶楽部へ駆け込んだ。倶楽部では玉突きをしたり、卓球をした。玉突きはゲーム代もなく教える人もなかったから、暇つぶしにやるだけでは旨くならなかった。卓球はよく着物の袖付が綻びて、寮の小母さんに繕いを頼んだ。囲碁将棋のできる部屋や、音楽でも聴ける広い談話室、その南には藤棚に覆われたテラスがあって、更に広い洋風庭園に続いていたが、食堂とともにそれらは利用しなかった。それでも倶楽部に行くと心ゆたかな気分になった。建物は木造だが外観も含めて垢抜けがしているように思えて、会社で先輩に聞いてみたら、長谷部竹腰建築事務所の設計だということだった。

  淡親寮の西隣は、のり敷きに芒が生い茂っている程の水路があって、その向こうが住友病院であった。病院の南が未整備だったが、競技場ほどの広さがある空き地であった。その内に銘々にグローブを買ってきて、キャッチボールやノックを初めた。「いくよ」と怒鳴ってバットを振っても球は飛ばずに尻餅ついたりしていた。病院の窓から看護婦が見ていた。草野球でもするほどの人数は集まらなかった。軈てグローブをラケットに替えてテニスコートに出掛けるもの、飲みに行くことを覚えるものと、それぞれ得意とする道に進むことになった。卒業する頃の流行歌は、「ああそれなのに」だったがこの頃から「青い背広で」が流行り出した。

  入社当時は業務部土木課だった。鉱山会社だから他に総務部、採鉱部、精練部があったことぐらい記憶しているが、他の部課のことは殆ど分からず仕舞である。それ程僕が新居浜にいた期間は短い。土木課には設計係、工事係、機械係、庶務係があって、課長は真鍋準一郎さん、設計係長は斉藤武幸さん、工事係長は町田さん、機械係長中島さん、庶務係長は桧垣さんで、斉藤さん中島さんの外は五十才を過ぎた年配だったから昭和十八年に僕が復職した時はもう逢えなかった。機械係は別なところで、住友鉄道の車輌修理や整備をしていたから僕は何も関係はなかったけれど、中島さんはまだ四十前のように見えるので課に打ち合わせに来ている時に先輩に聞いてみたら、あの人は東大出で非常に多趣味だと教えてくれた。

  斎藤さんは九大出の土木屋さん、技術屋は土木と建築が六対四くらいの割合だったろうか、工事監督のために長期出張で新居浜を離れている人も常時四~五人あったようで、課内にいた人は庶務係も含めて四十人ぐらいである。大ざっぱにいって課長、係長クラスは二等職員、中堅どころは三等職員、入社四五年までの四等職員、他に地元採用の準職員、図工がいた。

  出勤は殆ど作業服である。今若い人達が着ているジーンズ同じごつごつした服地で、色はブルーか黒の霜降りで折襟になっているが胸元いっぱいにボタンがついている。七時の出勤時間といいこの作業服といい採鉱部に合わせたものかもしれない。但し、もう一種類少し柔らかい生地で、茶の無地の折襟胸開きの通勤服があって、さすがに設計や事務の人はこのユニホームでネクタイを閉めていることが多かった。仕事は自社の営繕、新居浜の住友姉妹会社の営繕、の他に国内他社の鉱業施設、港湾施設等官庁工事の設計工事管理をやっていた。

  六月一日に住友鉱山株式会社は、住友鉱業株式会社に社名変更になり、新居浜は別子鉱業所になった。僕らの入社前に決まっていただろうが詳細は分からない。とにかく記念品に社名と井桁マークが入った三ッ重ねの杯と、紅白の菓子が全社員に配られた。

  設計係に釜洞正元という建築の先輩がいて僕はこの人から非常に大きな影響を受けた。釜洞さんの出身は大阪の今宮工業で大正元年生まれで僕と七つ違いだけれど、卒業して何処かにいて、しばらくして住友に入ったと云っていた。農家の離れに下宿していたが、会社が退けると本を読んだり、レコードを聞いたり、習字の練習をしたり、日曜日には絵を描きに出かけるか、山歩きをするかしていると云う。今なら何でもないこんな会話でも、当時経済的に恵まれない環境に育ち、学校の授業以外なんにも教わっていない、ゆとりとか文化に無縁であった僕には新しいことばかりだった。招かれるままに一~二度釜洞さんの下宿を訪ねたとき、釜洞さんが読み終えた単行本を十冊くらいもらって来て読んだ。又釜洞さんは土木課内の仕事以外に人間関係についてもいろいろ教えてくれた。斉藤さんは入社歴の古い建築屋宮崎又三郎さんとよく山に登るが、大体仕事一点張りで課内に趣味の交際は少ない。

  僕は間もなく千寿亭という旅館の工事現場で実習した。田んぼを山土で地上げした千坪くらいの敷地に、木造の二階建てと平家の数棟を渡り廊下で繋いだ、程度のいい旅館だった。やはり長谷部竹腰建築事務所の設計だったと思う。監督は大久保重明さんといって温厚な先輩でその下に夏目さんという準職員の人がいた。この現場だけでないけれど、後年住友在職中を振り返って考えると、住友時代に先輩から厳しく教えこまれた鍛えられたという記憶はひとつもない。僕ら若造も簡単に言えば紳士扱いであった。

  この頃、釜洞さんが尊敬している山野井さんという建築の大先輩が、西条町(当時)に居られるので紹介して貰うために、日曜日の午後和服に袴をつけてバスで出掛けた。その時の山野井さんの話。決して漫然と職人の仕事を見ているのではなく、大工が何時から何時までに板を何枚削った、柱を何本削った、また貫穴を何個あけたといった類の記録をこまめに取ること。それで見積もりが出来るようになる。(もちろん当時でも歩掛り表はあったが、今ほど詳細豊富に出回っていなかった。)現場では危害予防のためにカンカン帽が良いこと等。また趣味の話になると弓を引くのがいい、玉を突くのがいいと薦められた。静かな夜中に一人玉を突く、コツコツンという音を聞きながら何とも言えない気分になると。長押には弓が懸けてあった。いつまでも覚えている。

  十月になってからか僕は本課へ帰ることになった。本課では、富山さんが設計している、四日市か何処かの硫酸工場の鉄骨上屋の図面を書かされた。トラス部分を書きかけたけれど、応力計算、断面決定からやらなければならないのに、やったことがないから、毎日製図版とにらめっこで全然進まない。試されていたのだけれど焦燥感だけの毎日だった。

  秋になって寮生で風邪を引いたのがいた。友達が二三人彼の枕元で、例の如く夫々の情報を持ち寄ってだべっていた。各自が自分の体温を計ったりしながら。この時僕の体温は三十七度二分あった。気になってその後も計ってみると、午後になると大体七度二分~四分くらいある。結核は微熱が続くといった知識があったので、勿論何回も病院で診察を受けたが、医師は写真では肋膜の癒着した後があること、肺門リンパ腺が少し肥大しているので過激な運動はしないほうがよいといった。

  庄原出身で一緒に赴任して住友機械に入った小村君とは、寮の娯楽室で時々将棋や囲碁をしていた。他に囲碁将棋をよくするものがいなかった。彼は僕と同じくらいの技量だった。その小村君が病気で入院しているというので見舞いに行った。郷里からお母さんが来て付き添っておられた。紫斑病だといっていた、一週間くらい後で彼は亡くなった。人の命の儚さを身近に経験した。

  十一月になって明治節の日、採鉱部の社宅がたくさんある山根で弓道大会があって見に出かけた。帰り道で吐き捨てた唾に血が混じっていた。血啖だと思ったのでまた病院に行った。その時は三十八度ほど熱があったので、入院して見ることになった。

  朝七時一斉に鳴る各事業所の始業サイレンを、初めて病院のベッドの上で聞いた寂しさはひとしおだった。僕が小学校四、五年生の頃近くの母の里で幸雄叔父さんによく将棋をしてもらった。幸雄叔父さんは結核で自宅療養していた。武夫叔父さんの入営の時の記憶もあるが武夫叔父さんは即日帰郷になっていた。叔父さんは寝込むことはなかったが、やはり結核だった。病院でこの秋からの経過を振り返りながら僕も来るところへ来たような気がして心細かった。釜洞さんは見舞いに来て、ホームシックだと云った。

  二、三日して身体にかゆみが出たので、回診の医師に見て貰ったら皮膚の柔らかいところに発疹が出来ていた。それから大騒ぎになり、僕はむりやりストレッチャーに乗せられて隔離病棟に移された。猩紅熱だと云うことで病室から出られないから派出看護婦会に手配して貰って夕方小母さんが来た。外部と一切連絡がない。この小母さんと看護婦だけが相手の四、五日を過ごした。僕は、結核病棟に入るンかと思っていたが、隔離病棟で助かったと看護婦に云ったら、看護婦から、猩紅熱何て子供の病気ですヨ、でも布野さんはまだ十代だからネとからかわれた。そして結核病棟は、菌の出る重い患者ばかり入院していること、僕の肺門リンパ腺炎は良くも悪くもなっていないこと等教えられた。僕が煙草は吸うが酒は飲まないと云うと、付き添いの小母さんは、煙草は止めたがいいですよ、若い人でも酒は少しくらい飲んだ方がいいですよと云った。

  この時と同じような会話をその後何十ぺん繰り返したことか。五十年前のことである。まさか小母さんが喫煙と肺癌の関係や、今の禁煙運動を予見していたとも思えない。たぶん亭主が煙草を吸わないで適量の酒を嗜んでいたのだろう。一週間でやっと風呂に入れて隔離病棟を出ると退院した。有給休暇はなくなっていたが、微熱が下がらないので郷里に帰って療養することにした。

  昭和十二年七月に始まった支那事変は、みるみる戦線が拡大して云った。浜田の歩兵第二十一連隊にも動員が下令されて叔父は真っ先に出征していた。准尉だったが大陸に渡ると間もなく少尉に任官して、北支山西省太原に向かって進んでいたが十月二十一日忻口鎮で名誉の戦死したと公報が入っていた。また、十一月十一日には僕たちの末弟のぶおが生まれているから大変な時だった。父は宣戦布告の年に生まれたから宜臣と命名した。祖父母と両親、それに九人兄弟の大家族で今考えてもどうして寝起きしていたのだろうと想像もつかない程だった。叔父は戦死により二階級特進で故陸軍大尉布野正慶となり、開戦間もなくのことであり村葬が行われることになり人の出入りも多く、僕は到底家で寝ている訳にいかなかった。そういった騒ぎが納まるまで僕は田岐屋(母の里)で休ませて貰った。母方の祖母は誰にもまして優しかった。

  当時結核の治療と云っても、栄養を摂って安静にして自然治癒を待つという方法がとられていたと思う。医者の勧めだったか、僕は牛の肝臓を生で奨油をかけただけで食べた。五十キロ程の体重は五七キロまで増えたが微熱は相変わらずだった。病気になっていつまでも容態が好転しないと神頼みの心境が芽生える。とても信仰なんて云えるものでないもっと単純なものだが、僕はこの休職期間中に成長の家の生命の実相を読んだ。特に求めたものでなく、父が全集になったものを揃えていた。また聖書も家にあったものを拾い読みしたが、この方はなかなか馴染めないので、マタイ伝第五章を繰り返し読んだ。僕は僕なりにそれらを糧としようとし神に祈る気持ちだった。

  昭和十三年三月二十四日三か月間の休職となり無給となった。六月更に三か月の休職を願い出た。斉藤さんから手紙で、入社後日が浅いので今回は休職許可が難しいかもしれない、もしそのようなことになっても貴殿はまだ年も若く前途は長いから、気落ちすることのないよう療養専一に、一日も早い全快に勤められたいと云ってきた。

  今考えると不思議な気もするし、おかしな話だけれど、医者がどう云っていたか殆ど記憶がない。今市町(今の出雲市)の病院だったけれど何という病院か覚えていない。田中の叔母さんは浜田の女子師範を出ると最初の赴任地が今市小学校でその頃松ノ谷病院のお嬢さんの受験勉強を見てあげていたことがある。そんな縁で僕も小学校の四、五年のとき関節リウマチで、松ノ谷病院にかかったことがある。新居浜から帰ったときどの病院に行ったのか他に心当たりはない。とにかく住友病院のときから肺門リンパ腺炎と云う病名で診断書はもらっていた。毎日微熱が続くので引き続き自宅療養が必要だという診断書だけを書いて貰ったのだろうか。

  休職期間は三か月延長されたが、夏になっても微熱は同じだった。蒲団を敷いて寝ていたわけではないが安静にしていなければ駄目だと思っていたから、納屋の横の通路が風通しがよく直接陽の当たらない木陰になっていたので、そこに縁台を置いて薄縁を敷いて、その上で横になっていた。  八月も半ばを過ぎると、復職をするためには身体を慣らす必要があると思い、ひそかに鍬を取り出して裏の畑を打った。おっかなびっくりだったけれど、生命の実相を読んでの実践だった。検温は止めた。怖くて無理はしなかったが、少し汗をかくと横になって休んだ。三日程して不安だったがそっと体温計を当ててみた。熱はなかった。

  昭和十三年九月二十一日に復職した。当分は無理をしない程度ということで、住友機械や、住友化学の営繕工事を担当している鈴木さんに連れられて、広い工場の中の小規模の営繕工事を回ってその処理方法を教えてもらい手伝っていた。課内では斉藤さんの歩掛り資料を整理したり、(これは図工がB5判に浄書して青焼きで横綴りにしたものが既に七、八集くらいまで設計係に配布されていた)誰彼からともなく頼まれる補助的な仕事をしていた。

  当時課内にはドローイングマシンが五、六台あった。秋山さん(京大土木)と、富山さん(土木)は何時もどこかの鉄骨建屋の図面を書いていた。それらの図面は三、四人の図工が、烏口を使って墨入れしていた。建築の人は木造の図面を書いていた、詳細図やデザイン関係の図面を書いている人はいなかった。土木の人は大きな図板は使わないし、建築も年配の人は、机の上の製図版で計画図か、打ち合わせ用の小判の図面を書く程度だった。

  竹中さんという人は、早稲田を出た建築屋さんだけれど、五十才くらいで斉藤さんより年は上だが始めから住友にいた人でないらしく平素は孤独に見えた。四、五年前から新居浜にどんどん建てられた病院やクラブや寮の建築に関係して来た人のようだった。しょっちゅう病院に出入りしていたし、よく薬も飲んでいた。宮崎又三郎という人が建築では一番古いらしく採鉱部の施設等も含めて詳しかった。よく斉藤さんと打ち合わせして若い人に指示していた。釜洞さんは、宮古の精練所に長期出張中だった。

  十月の中頃だったか竹中さんが、布野君山根の現場へ行ってみないかと、誘ってくれた。竹中さんが斉藤さんに断わって、二人で惣開駅から住友鉄道で出掛けた。住友鉄道は惣開から星越・土橋・山根・黒石・端出場(はでば)まで上っていた。端出場から坑道入口東平(とうなる)まで三粁程は、索道がついていて鉱石を積み出していた。

  山根で降りた。山根は山の麓の集落で山で働く人達の社宅がたくさんあって小学校もあった。現場は住友病院の分院の増築工事だった。木造の平家で、屋根工事も終わり病室の間仕切りをしていた。竹中さんが、地元出身の現場監督の説明を聞いてから、少し打ち合せ指示をした。僕はこの人とは始めて会った。

  一時間足らずで現場を辞すと、竹中さんは散歩でもするかと云って瑞応寺というお寺へ案内してくれた。秋晴れのとてもいい天気で長い参道の木陰が気持よかった。苔むした由緒あるらしいお寺の境内の雰囲気が落ち着いた気分にしてくれた。道々肩の凝らない話をしていたが、竹中さんが建築やは芸術家だと思うかねと聞いてきた。芸術家ではないでしょうというと、うんそうだな芸術家だったらこれほど悲惨な芸術家はないね、だってそうだろう絵画きは自分の画いた絵が気にいらなければ簡単に破ってしまうことができる。彫刻家だって同じだよ、気にいらなければ壊せるが、建築やは自分で設計した建物が気にいらなくても壊してしまうことが出来ないからなと自分で答えを出した。僕はこの時の悲惨な芸術家という表現が耳新しく記憶にのこった。

  お寺は高いところにあったから、帰りに遠くに見た緑のきれいな高原の景色をあそこは何ですかと聞いたら、ゴルフ場だと云っていた。竹中さんは日曜日にでも遊びに来ないか、レコードも沢山あるよと云ってくれたが、遂に機会を得なかった。この時から十か月ほど後で僕は徴用で行って、昭和十八年に復職した時には、竹中さんは亡くなられたとかでもう会社にいなかった。

  昭和十四年の正月は寮にいたのか知井宮に帰ったのか記憶していない。会社では僕で出来るような適当な仕事が回ってきて、図面を書いたり設計書を作ったりしていた。それらは倉庫や工員食堂でたいてい木造だった。地元の出入り業者の請負に掛けるが木材は会社の山から出したものを農林課で製材して支給するので柱や母屋など正角とか押角とかでなく五寸丸太→四寸角、四寸丸太→三・五角といった明細書を作った。仕事を回してくれる人も、それらの処理の仕方を教えてくれる人も宮崎御大だった。宮崎さんは、小柄で地味な人で僕らに親切だった。前にも書いたが僕の住友在職期間で仕事の面で鍛えられたと思うことはなかった。例えば期限のある仕事で製図板に張り付いて残業して図面を仕上げたことなんか全然ない。図面だけでなく仕事をせかされ尻を叩かれた記憶は全くない。このことが良かった悪かったということとは別問題で、何時もマイペースだった。

  六月十五日頃だったと思うが郷里に帰って、今市町で小学校の友達と一緒に徴兵検査を受けた。判定は第一乙種合格であった。また昭和十四年には国家総動員法によって国民徴用令が発令されることになり、七月の末頃だったか建築技術者に初の徴用令という見出しの新聞記事が出て、うちの会社なんかも建築屋が纏まっているから何人か来るかもしれないと、会社の昼の休み時間に話題になった。日ならずしてその徴用令が近藤一さんと僕に来て、愛媛県庁に出頭した。身体検査があって僕の場合東京と、台湾でどちらを希望するかと聞かれた。勿論東京を希望しておいた。近藤さんは身体検査で刎ねられると思って行ったのに、なんと建築屋なんて胸椎から脊椎まで右と左の寸法が違う畸のようなのがいて、自分なんかいい方だったと云ってぼやいていた。妻帯者だから億劫だったのだろう。

  軍隊の召集令状は赤紙だったが、正式令状は白だった。東京市麹町区隼町陸軍航空本部に徴用になり、八月十八日麹町小学校が集合場所になっていた。寮を引き払うため荷造りして知井宮に送った。張り切っていて、もう此処には帰らんぞと思っていたし、机なんか人に呉れてやった。忙しかったがそこそこに挨拶していったん知井宮に帰った。


  住友鉱業在職期間(  印月数)

                          病欠・休職・徴用・兵役期間

  昭和12 4/ 5 11/   8.'11/     12/31 病欠                  1.

    13   9/21 12/31 3.' 1/ 1 3/23 病欠  3/24 9/20 休職9.

    14   1/ 1 8/17 8.' 8/18 12/31 徴用                  4.

    15                ' 1/ 1 2/19 徴用  2/2012/31 兵役12

    16                ' 1/ 1 12/31 兵役                  12

    17                ' 1/ 1 12/31 兵役                  12

    18   4/ 7 12/31 9.' 1/ 1 4/ 6 兵役                  3.

    19   1/ 1 6/14 6.' 6/15 12/31 兵役                  6.

    20   8/28 10/ 1   ' 1/ 1 8/26 兵役                  8.

                      34'                                  67

               

           

   徴用令書で召されるのはこの時が初めてであったが召集の時と同じように赤襷をかけて送られた。時世が時世だから、兄弟九人が揃うことがもうないかもしれないと思いながら、記念撮影をした。東京での宿は、逓信省に勤めていた同級生木谷繁君が新橋で間借りしていたので、飯塚源吉先生が連絡をとり頼んで呉れて、取りあえず木谷君の宿に蒲団袋を送り込んで置いて、身体ひとつで転がり込んだ。背広でパナマ冒をかぶっていた。若干の下着と、参考書建築工学ポケットブック上下巻は、蒲団袋に突っ込んで持っていった。三畳ほどの部屋で、寝る時は二人とも座机の下に足を伸ばしてやっと寝られた。勿論外食で木谷君が利用している食堂での朝飯、晩飯と屋台での立食いまでいろいろ経験し、納豆もこの時初めて食べ方を教わった。麹町小学校に集合したのは年齢二、三十才ぐらいで四十人程だったか、丁度夏休み期間中だから教室で係官から注意や説明があって明日から各自戦闘冒を持参することになった。みんな一般サラリーマンの服装だったから、戦闘冒は嫌だったが買い求めて行った。当分は、麹町小学校で軍隊式敬礼や書類の受け渡し、言葉使い等教育された。そして木造兵舎とか倉庫とか軍の建物のマニヤルを渡されて勉強させられた。またそれらの建物の検査要領といったものの講義があった。陸軍航空本部の玄関を入ってそれぞれ配属された職場の席に着いたのは一周間程してからだった。徴用で来たものの身分はは一律に技術員だった。前からいた人は技師、技手、雇員とあって、課に一人くらい女子職員もいた。僕は他の数名と一緒に第三部第十課熊谷班だった。初日に講堂に集められて勅任技師の訓示があった。勅任技師は軍人の将官クラスに当たるそうである。もう五十年以上前のことだが、要は民間の建築技術者を軍に引っ張って来たのだから、時局の重大さを認識させることであり、諸君は今や、やれ銀行建築だとか、美術建築だとかいっている時でない、ナチスドイツの建築を見たまへといった話だった。

  木谷君の室に何日ほど一緒にいたのか、木谷君が屋台店の親父に頼んで貸間を捜してもらった、近くで直に適当なのが見つかって移った。階下は玄人上りの母娘が住んでいて、時々踊りを習いに若い娘さんが出入りするということだったが、二階は八畳を印刷屋で独身の職工さんが借りていた。そして僕は、その八畳と四枚の襖一重で隔てた四畳を、当時部屋代は畳一畳当り二円が相場だったから八円で借りた。通りから路地を入ったところでちょっと陰気だが静かだった。幸い勝手口の横から一階を通らずに二階に上がれたし、隣の印刷屋さんは夜遅くまで仕事で、朝は遅くまで寝ていた。

  朝は電車道まで出て市電を利用した、三宅坂で降りると大勢の人と一緒に役所に入った。仕事は個人個人でなく、班毎の流れ作業か共同作業で、積算の仕事か設計書作りだったように思う。それも資料を駆使して誰がやっても画一的な結果になるように纏めることである。要するに慣れだけの問題で気楽であった。月給は僕の場合四十六円で、当時住友での本俸は四十三円だったから、会社の給料は止まった。帰りは半蔵門から桜田門あたりのお堀端の景色が好きで大抵歩いて帰った。それも年が明けると入営することになるので、軍人勅諭を暗誦するのに毎日このお堀端を歩く時間を当てた。

  宿に帰るとすることもないので、まず今日の晩飯はどこで何を食べるか決めなければならない。それと一緒にその日の時間の過ごし方が決まる。新橋の縁日は賑やかで夜店がいっぱい並ぶ、木谷君に予め聞いていたので行ってみた。

  今度の宿で南京虫が出るので閉口しているというと、南京虫を捕まえるものを夜店で売っているというから、試してみようと思って買いに行った。厚紙で細長い溝、U字型に作ったものに溝の内側になるところだけ黒いつるつるの紙が貼ってある。溝の幅、深さが三センチ畳の縁くらい、長さが八十センチほどのもの、小口になるところは塞いである。説明を聞くと寝るときに蒲団の周囲にこのものを連続して置くと南京虫が外からこの溝に攀登って溝の中に入り溝の中からは、滑って攀登れないで朝まで溝の中にじっとしているそうである。眉つばもの子供だましのようなものと思ったが、縁日も南京虫も初めての経験だから、適当に買ってかえって置いてみた。寝ている周囲全部置くには数が足らなかったが、朝起きてみると二、三匹南京虫が中にいた。何日試したか覚えていないが南京虫騒ぎも一応納まった。

  銀座は近いからよく夜の散歩に行って夜店を覗いて歩いた。気分的に都会生活を満喫していると思っていたのだろう。日曜日には名所らしきところにも行ってみたが、歩いて行ける程度の暇つぶしだった。十月一日付けで現場に行くことになって現場服が必要になったから、銀座の夜店で中古のジャンバーを買った。十円程だったが純毛の合い物で、僕はこのジャンバーが気にいって戦後まで長く愛用した。ズボンとカッターとネクタイは、カーキ色でゲートルを巻いて戦闘冒を被った。

  現場は、陸軍航空本部下館建築工場といった。林主任技手、亀山技手、小林雇員の三人と、技術員藤井、福原、布野が建築屋で六人、添田、他一名の雇員が土木屋で、計八人だった。下館の南四、五キロの所で内陸部の新設飛行場だったと思うけれど工事規模等何にも覚えていない。現場に仮設宿舎や事務所が出来るまでは、下館駅前の旅館に泊まって現場に通った。藤井、福原は現場から帰ると旅館の娘愛ちゃん、茂ちゃんと麻雀をするのが楽しみで張り切っていた。亀山さんもやってたかもしれない。添田さんは、この地方の人か旅館にはいなかった。一週間程で仮設宿舎が出来て引っ越したが亀山さんは業者に麻雀卓や牌も揃えさせた。

  林技手は責任者として本部への報告その他事務的なことも処理していておとなしい人だった。亀山技手が現場をたくさん経験したベテランで、業者にも押しが効いた。二人とも四十前だったが亀山さんは病欠の後とかだった。小林君は東京育ちで一番若く現場は初めてだった。藤井技術員が二十五才大阪市役所から来ていて、格納庫の図面を見ておけと云われていたから亀山さんから見たら一番頼りになったと思う。福原技術員は岡山県だと云っていたが二十四才、僕とどちこちなかった。僕は雑品庫の担当であった。土木屋さんは、それぞれの持ち場でごそごそやっている感じで、時々林さんや亀山さんに報告して、指示を受けていた。建築の若い者四人は事務所にいるときは仕様書を良く勉強して熟知して置けと云われていて、基礎工事から始まった工事の工程を一々検査チェックさせられた。それらを手際よくチェックして、おかしいところを早く指摘して直させるのは、やはり経験がものをいう。基礎コンクリートの打ち込みでは空練り三回、水を入れて四回の仕様書通りの練り方がどうしても省略されがちになる。そんな時には練り板の上に飛び上がって両手を広げて止めろと、亀山さんは云う。そんな時、よその現場の話だけれど土方も気が立っているから、なにっ頭かち割ったるぞと云って練りスコを振り上げてきたので、監督は事務所へ逃げ帰ってきた。けしからんと云うので自分が行って貴様らそこへ並べ、今からトラックで憲兵隊へ連れて行ったると、怒鳴ったら請負人の代人が来て平謝りに謝って納まったと。事務所ではそんな話も聞かされた。

  木材の材料検査は、仕様書を頭に入れていて業者の作った明細書によって、人夫が二人掛りで次から次と入れ替えする柱や梁の規格品等を、瞬時に合否の判断をして検印を押さなければならないが、長い経験がなければ出来ることでない。特に住友では会社の山、会社の製材所の支給材だから経験はなかったので大の苦手だった。

  この現場で伐り土のところに出来た霜柱は五センチ程もあって、陽が昇るとサラサラッと音を立てて崩れた。秋晴れの日曜日にスケッチブックを持って私鉄常総線で下妻まで出掛けた。今はその時のスケッチブックもどこにあるか分からない。正月には宿舎で初めて関東のお雑煮を食べた。戦後にもこの時が懐かしく雑煮にはかしわを入れて食べた。納豆も松江で買えるようになるとよく食べた。

  正月には皆で下館の写真館に行って記念撮影をした。二月二十日に入営することが決まって、十日頃に皆にお別れして宿舎を発った。途中宮城、明治神宮、熱田神宮、伊勢神宮、柏原神宮に参拝して西下、新居浜の会社に挨拶に行って後知井宮に帰った。徴用は二月十九日までとなった。

 

 

                                                           

 


                   

 

  徴兵検査は第一乙種合格だったがこの頃は第一乙種合格でも通常現役兵として入隊していた。小学校の同級生と、早生まれで一年上級だったものが一緒に徴兵検査を受けて、甲種合格も何人もいたし、いろいろだったが、一緒に入隊するものはいなかった。出雲部でも簸川郡までは浜田連隊区の管内で歩兵は第二十一連隊、八束郡宍道以東は松江の歩兵第六十三連隊だったが、二月二十日に広島の西練兵場集合のものは村では僕一人だった。隣の布智村で日野善蔵というのが一緒だったが、小学校友達は誰が何処に行ったかも分からない、竹馬の友なんて後から戦死したと聞かされただけだ。戦後も軍隊の同年兵だったということで日常の交際をしてきた友達はいない。

  祝入営の幟を立てて知井宮駅頭で役場の人や、近所の人、親戚の人に万歳で送られることは何時もと同じだった。国民服というかカーキ色の私服で襷を掛けていた。小郡回りで広島の宿まで父が送ってきた。集合場所では、点呼があって隊の編成があったのだろうが細かいことは覚えていない。とにかく並んで引率されて被服廠に行った。大変長い時間をかけて順番に軍隊の襦袢股下、軍服、外套、編上靴、略冒、飯盒、水筒を支給された。

  若干の私物を残して私服その他一切父にもって帰ってもらい、宇品から乗船するので隊列を組んで移動する時に、道の両側に並んだ見送り人と別れた。乗船して船が動き出すまで、船が動き出しても日本を離れるまで何日何時間経ったか、何しているんだろうという感じだった。船の中での食事の分配、その他やらなければならないことは当番割で、その都度説明や指示があってごちゃごちゃやっていたが、いよいよ本格的に船が走り出した時には、思えば去年船出してお国が見えずなった時玄海灘で手をにぎり…という戦友の歌の文句を思い出して多少の感懐があった。

  大連港で下船して鉄路に乗り換える時、初めて踏む大陸の土地で二月末の空気の固さを実感した。ごとごとと奉天(瀋陽)、新京(長春)と北上するのもまた三四日かかって哈爾濱で降りて鉄道第三連隊の営門を入ったのは三月一日の朝である。

  誰もが同じだったろうけれど何の予備知識もなく、入隊してから分かったこと教えられたことばかりである。それも五十年以上経った今では、何の記録もなく、持ち帰った写真を見ていても、記憶違いや忘れてしまったことが多い。

  鉄道隊は、千葉に第一連隊があって津田沼が第二連隊、哈爾濱は第三連隊で、牡丹江に第四連隊があった。あと北支に鉄五、鉄六と出来て終戦時には鉄道第二十連隊まであったとか。鉄三では第一中隊から第八中隊までと、材料廠中隊があったが第二大隊(第三、四中隊)は満州里に駐屯していた。

  私は材料廠で第二内務班に所属していた。内務班長は清水伍長、教育助手は二年兵で内藤上等兵と松浦一等兵、戦友は三年兵の吉崎上等兵だった。八個内務班まであってどの班も初年兵は十二三人、ほぼ同数の古年次兵がいた。現役初年兵の教育期間に経験したことはどこの隊でも大差ないと思う。

  私は、内務班で毎日やらなければならない銃の手入れ、編上靴の手入れ、その他掃除洗濯等、手と身体を動かしてやることは早く出来なくて苦労した。日夕点呼のときには早めに整列させられ一日中の教練、学科などについて初年兵係は勿論、古年次兵が質問する。これを吸いつくと云っていたが、即答出来なければ点呼後又一くさり文句を云われ、揚げ句の果てはビンタになったりする。これにはそんなに困らなかったが、何と言っても昼間の教練と、内務班で休みなく動かなければならないのでものすごく疲れた。幹部候補生の試験を受けるため、消灯後予備室へ行って勉強することが許されていて、各班から幹候を受けるものはこの室に来て自習したが、私はすぐに居眠りが出るので見回りに来た班長に見つかって布野貴様は帰って寝ろとよく追い返された。鉄道隊は軌条や枕木を担ぐ、そういった力の要る時はどうしても人並みには出来なかった。つくづく体力がないと思った。

  それでも一期の検閲で軌条を担ぐ時は班長をやらされた。十米の三十七瓩軌条を前にして背の順に並ぶ班長は背に関係なく一番右にいる。まず「掛れ」と号令し十二人が軌条に手が届く位置まで進むつぎ「あー」で膝を伸ばしたままみんな軌条の頭を持つ、呼吸をあわせて「げ」の号令で胸の高さまで引き上げる。つぎ「腕に」で、みんな左を向きながら右腕に軌条を載せる、間髪をいれず「肩に」と号令する。軌条は反動つけて肩に勢いよく跳ね上がる。「前へ」で、いっちにー、いっちにーと号令かけて歩き出す。検閲ではみんな張り切っていて、気合いが揃っていたから見事なものだった。私はこの時は肩に応えないから助かった。

  内務班ではみんな並ばされてよくビンタをもらった。それでも私だけがいじめられた記憶はあまりない。戦後野間宏の真空地帯を読んだがあの小説のように、軍隊生活の経験のない人には理解しにくい毎日だった。

  この頃父の一番下の妹悦子(戸籍はクマノ)叔母さんは井上久男という人と結婚して、大連に住むようになった。多分私が入隊した後からだと思う。井上の叔父は満鉄に勤めていたが、江津の出身だから島根県に帰って結婚したのだろう。井上の叔父の友達で戸田さんという人が、三果樹(哈爾濱郊外で満鉄の鉄道工場のあるところ)にいて三人で面会に来てくれた。四人で写した写真の私は、一つ星だから八月頃だと思う。叔父にも戸田さんにもこの時初めて会ったが、終戦後引き上げ前に亡くなった悦子叔母さんとはこの時が最後になった。父も弟は北支で戦死、妹は大連、長男は哈爾濱だから自分も大陸に渡る気になったのだろう、翌年に大連経由で北支に渡った。

  幹部候補生の試験には落ちた。同じ班の東大出の大田は受かって、宇部から来ていた同じ建築屋の鼠屋は落ちたが、彼はいたって気楽にしていた。私は若干プライドが傷ついた感じだったが、考えてみれば居眠りばかりしていたから当たり前だと後から思った。幹候に受かったものは教育のため内地に行ったが私らは特業教育が始まった。

  特業教育は技能教育で経験のあるものは勿論その道で、大工は木工、電気屋は電工、旋盤工、製缶工、鍛工とあったが未経験者もいた。他に通信、印刷、写真があった。

  私は一人写真工であった。印刷工も山口君一人で、写真と印刷は複式教育である。工場が煉瓦造の小さな平屋建一棟で、入り口から左が電工場、右が写真工場になっていた。写真工場は床が張ってあった、そこで学科や写真の仕上げ作業をする、その奥が土間の印刷室で石版印刷機が置いてあった。

別に暗室がある。教官は電工と写真印刷工は兼務、写真印刷の教育助手に佐藤三喜之真という上等兵がいて、教官はこの助手に任せきりであった。弱兵だと云われていた私に、清水班長の配慮だった。同じ二班の鼠屋は建築屋だから木工だった、本職の大工だった五班の馬橋と仲良く木工場に行っていたが、馬橋のようにはいかんと云っていた。佐藤上等兵は地方で写真館にいたので写真の知識と技術をいろいろ教わった。器材として使用する写真機は、その頃写真館で使用していたと同じような組み立て暗箱式で、レンズはf45のテッサを使用、三脚付きで、キャビネ判か手札の乾板を使用していた。軍隊式に型に嵌めた特業教育は仕方がないとして、私には当時から軍隊がこんな写真機を使うことが如何にも不似合いに思えたが、兵隊の間は、写真工であったためにどれだけ助かったか分からない。他に小型写真機でパックフイルムを使用するものもあったが、普段はあまり使用しなかった。

  一般中隊は、機関員とか、通信とか、軌道車の特業教育があったが詳しくは分からない。特業教育とは別だが衛兵勤務は一般中隊だけで材料廠中隊にはなかった。

  八月二十日に二~三十パーセントの初年兵と一緒に一等兵になった。

  秋になってから写真工場に中隊の人事係鈴木曹長が来た。佐藤上等兵に写真工場には秘扱いの写真や、原板はないかと言い、ありませんと答えると、撮影済の原板はどのように扱っているかと質問して、佐藤上等兵の説明を聞くと、防諜には十分注意するようにと云って帰って行った。私らが扱い、また見聞きするものは、当時としてもあまりに原始的なものばかりだから私にはピンとこなかった。

  写真工場から帰ると鈴木曹長が呼んでいると言って週番上等兵が迎えに来た。事務室でなく曹長室だった。曹長は、布野これはお前が書いたもんだなと云って一冊のノートを示した。私の手箱の中に入れていた大学ノートが曹長の手にあった。「はいそうであります」「ここを読んでみろ」と曹長が開いたところから読まされた。どんな情報によるのか知らないが、佐藤上等兵と、私や山口の私物はみんな曹長に点検されていた。

  私は、入営することが決まった頃から漫然とではあるが、いずれ戦地に行って戦死することになるだろうと考えるようになり、その寂しさに絶える為になんか生きていた証を残したいと思うようになった。そして、今はその時その時に思うことを書き残すぐらいしかないと考えていた。この時のノートがそれだったという訳でもないが、入隊後折にふれての自分の心の動きなんかを記録していた。勿論それは内務班教育の不平不満や矛盾を誇張して綴ったり、批判がましいことを書いたり、厭戦的なことが書いてあった訳でない。例えば初年兵は可笑しいことがあっても笑うとニヤニヤするなと怒鳴られる。いつも苦虫を噛み潰したような顔をしていろと云われる。人間が自然の感情に従って笑うのがそんなにいけないことか。可笑しい、嬉しい、悲しい、恐ろしい、そういった感情は苛烈な戦場では無用だから、平素から感情をもてあそぶなと云うことだろうと、自問自答している。自分を納得させるものだったり、また二年兵はたったひとつしか年が違わないのにものすごく鍛えられていて逞しい、といったことを並べ立ててその後に、それでもすべての点で二年兵が初年兵に勝っているとは思わないと書いていた。曹長に読まされたのはこのところだった。云わずもがなのことを書いたもののようだが、そうではなくこれが云いたかったのだと思う。曹長は真意を確かめるようにいろいろ云ったが。私は答えられなかった。それでも鈴木曹長は怒鳴らなかった。そして鈴木は鈴木より下のものに全てで勝っているとは思わない。しかし少尉殿から上の人は全ての点で鈴木より勝っていると思っていると、諭すように云った。夜になると清水班長に下士官室に呼ばれた。班長にはお前はもう何も書くなと注意されたが、叱られたとは思っていない。ノートは俺が燃してやると云った。

  軍隊では演習教育の時間外に使役と云うのがある。夕方なんかに週番下士官が各班使役五名集合といったように招集をかけて作業をさせる。使役には人数的に無理でも大抵初年兵が出る。それだけ内務班のことや自分のことが出来ないから、出るものも残るものも大変である。材料廠では貨車の入れ替えなんかもあった。これは貨車の両側に並んでいっちにい、いっちにいといつまでも押し続ける、焦っても仕方がない。何にも考えることがない、これが満州の夕日だなと奇麗な空を眺めながらいろいろな感懐が頭の中で去来する、あれからもう何も書かなくなった。

  初年兵も一通りの教育が終わると勤務につけられる私は真っ先に一週間ほど中隊当番を経験した。炊事当番は遂に経験することがなかった。何と言っても衛兵勤務のないのが助かった。極寒期になると哈爾濱では大地が掘れなくなる鶴嘴も弾くそうである。そのためこの頃になると、冬の間に焼却のきかないごみを埋める穴を、予め掘らされた。

  年が代わると、内務班では三年兵が朝に夕に満期が早くなるそうだとか、満期が伸びるそうだとか勝手情報で一喜一優している。二年兵も早くなると云えばいいですね、伸びるそうだと云えばそんなことないですよと、無責任に調子を合わせている。内務班の空気は格段に和らいできた。

  二月二十日には、第一選抜で上等兵に進級した。二年兵、三年兵でも一等兵が残っていたからよく二年兵の一等兵から布野上等兵殿といってからかわれた。

  昭和十五年徴集の初年兵が入隊して来ると、清水班長のもとで初年兵係教育助手をやらされた。この時は福島県出身の戸村勇五郎君とコンビだった。彼は色白で優型だのに特業は鍛工だった、何より素直で良く働いたから皆からも好かれ、第一選抜で上等兵になっていた。当然だけれど一年前は教育される側で誰もがものすごく疲れて、私は体力のないのをかこっていたのに、今度は内務班では自分でやらないで監督するだけだから弱兵でも大丈夫だった。

  一般に軍隊の初年兵時代は何が何だか分からないのに殴られるという。確かにそんなこともあるが誰か一人の非を取り上げて共同責任だとしてみんな並ばせておいて殴る。非をみんなに分からせるためだと思っている。ずるいものは別だが私は一生懸命にやっている初年兵をとても殴る気にはなれなかった。ただその非を理解させるためには口喧しく叱った。戸村君も同じ感覚だった。私は軍隊生活の全期間を通じて殴られることの最も少なかった一人だと思っているし、また殴ったことも最も少ない方だったと思っている。私は、この頃になると少なくとも内務班に於ては、古年次兵も初年兵も含めてだんだんと好ましい人間関係が培われて行くように思った。

  鈴木曹長は人事係で暫くして准尉になったけれど、この時は営内居住していて、古年次兵は鈴木ワンパと云って恐れていた。古年次兵だからといって手加減しないで怒鳴りつける。

  この頃朝の点呼後の三十分古年次兵で勤務に支障ないのは銃剣術の稽古に出て来いとのお達しが出た。古年次兵はまたかと敬遠するが、曹長自ら防具をつけて営庭でハリキッテいる。強制でないし準備された防具の数もそんなにないから、好きなものと真面目なものが二十人ぐらい出る、好きなものはあまりいない。私は真面目に大抵出た。鈴木曹長の稽古は荒かった。稽古に出ないものが多かったが、どのくらい続いたか、私は剣道の経験もあったのでその内に多少自信がついてきた。

  特業教育が始まると、写真工と印刷工は教官が電工と兼務で、助教は電工は宮崎軍曹だが、写真印刷にはいない。私と山口が助手で万事教わった知識と技術の範囲内で教えた。最も写真は書店で買い求めた本で知識を補充しながらやった。印刷工はこの年も一人だったが写真工は二人だった。何れにしても彼らは天好天好だったと思う。

  写真印刷工の特業教育は、この次の年昭和十六年徴集の兵隊も実施したし、後に津田沼で補充兵教育でも実施したので、兵隊は全部で十四、五人いたが今残っている写真を見ても正直言って名前も、前後もこんがらかって正確に覚えていない。教育期間中材料廠構内で機関車の動輪なんかを被写体に選んで撮影、現像、焼き付け、引き伸ばしと練習したが、教育期間中一度は営外演習と云うことで、哈爾濱市街地の寺院や、郊外の忠霊塔や、太陽島での撮影に行った。

  鉄道隊に荒木工兵大尉の歌という軍歌がある。勿論入隊して初めて教わって軍歌演習ではしょっちゅう歌っていた。昭和七年十二月興安嶺作戦で戦死した鉄道隊唯一の個人感状受賞者だそうである。昭和十六年はその戦死から十年になるとかで、隊から墓参団が出て私も加わった。墓参団といっても将校一、兵四、計五名で私は例の組立式写真機を持って行って写真を撮るためである。他の兵隊は予め木工場で作った四寸角、長さ一間程の木柱に、故陸軍工兵上等兵何某戦死の地といったように墨書した墓碑を運んで建てるのである。

  墓碑は四本ぐらいだったと思う。汽車で哈爾濱から北上して最初に平安の方に行った。戦死者の墓は一人づつ点々とあって、荒涼とした丘に何も目安はなかったが、教官がここというところを選んで、草の中に真新しい墓碑を建てた。草を刈って持参した一升瓶を二本並べて置き、草花を添えてみんな並んで合掌した。私は写真を撮った。遺族に送るのだろうか。

  このように兵隊の戦死者の墓碑を建てて回り最後に斉斉哈爾(チチハル)に出て、そこから北上して、博克図(ブグト)付近、とにかく大興安嶺の中で荒木工兵大尉の戦死の地に行った。鉄道の線路添いに五十平方米位の墓域があって中央に立派な墓碑があり、対の灯篭も建てられていた。五月頃だったろうか、写真を見るとお墓の背景になる小高い山には、一面に木は生えているが緑の葉は出てなくて、根本には雪が残っていた。同じように参拝して、写真を撮って帰隊した。

  この間五日間ぐらいだったか、どうでもいいことだが私が満州で哈爾濱の外に出た数少ない記録である。

  八月二十日付けで三、四人一緒に兵長になった。一人は三班の五十嵐であと四班の樋泉と六班の井川兵長である。樋泉は山口、井川は秋田出身で共に小柄色黒でがっちりしたタイプ、一緒に初年兵教育をしていた。五十嵐は山形出身色白ででっぷりした寡黙なタイプ、字がうまいので最後まで事務室勤務だった。この頃には幹部候補生の乙幹は帰隊していたかも知れない良く分からない。

  もう一回哈爾濱から外に出たのは関特演の時である。同じ昭和十六年で、九月末だったか鉄道三連隊にも動員がかかって大忙しになった。それまでにも独ソ開戦から独逸軍の目覚ましい進撃のニュースなども兵隊の間でも話題になっていたから、特別大演習と云っても国境に向かって出動することは対ソ戦の準備だということは分かっていた。出動の準備は材料廠構内での資器材の積込である。

  今この時のことを考えると分からないこと、忘れてしまったことが多い。多分香坊駅からの引込線があって、そこから貨車を入れて積み込みが終わった貨車を次々と入れ替えしていたように思う。

  積込した資器材は、軌条、枕木を初め大きなものでは軌動車なんかも貨車に積んだ、とにかく使えるものはみんな持って行くということだったんじゃないか、出発までに一週間近くかかったように思う。その間一般中隊の者はどうしていたのだろう、先に出動したのだろうか、忘れてしまった。我々は材料廠だから実戦の時もこんな形になるのかもしれない。屯営にはどれだけの者が残っていたのかも分からない。

  出動して行った先は北安(ペイアン)、孫呉、を過ぎて国境の街黒河である。黒龍江を挟んで対岸はブラゴヘシチェンスクである。当時の黒河は今の愛輝(アイホイ)である。その愛輝の手前に三神府というところがあって私らはそこにいた。  清水軍曹が酒保の責任者だったので、私はその助手をしていた。みんな何していたのだろう。何か任務をもらっていたかどうか分からないが時々国境に添って白樺の林を縫って車を走らせノロ撃ちに出掛けたりしていた。私も白樺林の点在する北辺の風景が印象深く残っている。

  それまでは国境付近で発砲することなど固く禁じられていた。黒龍江の川岸でも対岸がよく見える位置まで出ることも戒められていた。対岸から狙撃される恐れがあったという。それが独ソ開戦以来こちら側で発砲しても対岸は静まり返っているとか、勿論真偽は分からない。満州北部で厳寒期になれば大部隊の作戦行動は不可能だ。三神府でも蜜柑の缶詰が凍っていてストーブで暖めてもザクザク音がするようなのを食べた記憶がある。関特演が終わって何時屯営に帰還したのか、十一月の初めだったろうか記憶が定かでない。

  昭和十六年徴集の初年兵が入隊してきた時のことはちょっとした記憶がある。それは隊列を組んだ初年兵が戦陣訓の歌を歌っていたからである。昭和十六年に陸相東条英機が戦陣訓を発表して、これをテーマに作られた歌だ。日本男児と生まれ来て  戦の場に立つからは  名をこそ惜しめ武士よ散るべき時に清く散り  御国に薫れ桜花  というのでその後も広く歌われた。哈爾濱ではまだ歌っていなかったし、今入隊するのが歌っていて、曲がちょっと哀調を帯びていたから強く印象に残ったのだろう。もう一つこの初年兵を内地から引率してきたのは松田少尉だった。松田少尉は東大出だが私らと同年兵で隣の一班にいたが、幹部候補生から任官していた。ちょっとがに股が目立つので、窓から覗いて見ていた同年兵が、松田だ松田だ矢張りがに股は直っておらんわと云って見ていた。

  この時に入隊した初年兵の基本教育は、松田少尉が教官だった。助手は当然二年兵がやるから私らは直接は関係なく、工場勤務だったように思う。特業教育が始まると写真の特業教育をやった。教える側でも二年目は余裕も出来るし、内容も多少豊富になったように思う。写真工も二人だったか、一人は島根の江津工業の建築を出た荊尾重次(後森脇に改姓)がいた。このほかにも材料廠の十六年徴集組には仁多の小林(後松浦に改姓)、松崎、江津の坂根、浜田の半田なんかもいてお互い同県人と云うことで気心を通わせていた。島根県人でも中隊が違えば殆ど現役中顔を会わすことはなかった。私の戦友は秋田出身の菊地正男といって良く出来た、字が旨かったから後に事務室勤務になった。

  材料廠の工場勤務と云うのは、どの特業教育を受けた者でもどの工場でも、普段どんどん材料を使ってものを造ったり、何かを修理したりしていたわけでない。

  写真工場でも教育期間が過ぎれば特に思い出に残るものは何もなかった。当時の写真帖で二、三コ

メントのついたのを転記して見ると、次のようなのがある。

  その一、鉄監の佐藤閣下の写真(キャビネ判)

          将集に額に入れて掛けるからと云うので複写して四ッ切りに伸ばしたけれど、思うように

          出来なくて「シン(心)が疲れた」五枚六枚と勿体無くも失敗に期した写真を眺めては

          「ブルドッグがマータイを着ているようだと中野と荊尾と顔を見合わせて笑った。17.12

          此の隊長は、関特演の編成が完結した時の軍装検査で訓示して曰く「婦女子を辱めるな、

          戦地に行ってそんな我慢の出来ないような癖の悪い    は切って捨てて仕舞へ」と、

          げに百姓親父である。

  その二、18年2月達頼諾爾に耐寒演習に行った面々(キャビネ判)

          防寒帽、防寒作業衣、防寒手袋、防寒靴の二十四五人、後列は駱駝に乗って写っている。

          まるで山賊が勢揃いしたようだ、何しろ零下四十度近くも降るので、皆んなアゴを出した

          らしい。小生も行ける筈だったけれど、もう満期を目の前に控えていたし、それに演習の

          目的が兵器や脂油類の耐寒試験であり、自分達写真工には極寒時に於ける試験撮影である

          ので将来性ある後輩に譲ったけれども、帰って来た奴等にノロ撃ちの話を聞かされた時は

          惜しいことをしたと思った。焼き増しは大いに能率を上げたが、点呼を引いて夜間作業を

          すれば大抵達頼湖の土産の鯉を刺身に作って暗室でコッソリ舌鼓を打ったものである。叺

          に入れて帰った魚や、ノロの肉はコチコチに凍っていて、二重になった窓の間に置けば何

          時までも大丈夫だった。これを一匹づつ取り出しては慣れない手つきで刺身にした。そん

          な時には新しい現像皿を大いに活用した。軍隊で然もそれが満州では刺身は食べられない

          だけに、あの時の味は忘れられない。

 

 

  その三、18年3月  任官記念写真(八切り判)

          兵隊さんの記念に一枚伸ばして置こうと思って腕を奮ったのがこれ、貧弱なのは肩の星だ

          がこれは仕方がない。

  満期が近くなって二月二十日付けで任官した。五十嵐、樋泉、井川も一緒である。内地帰還のため哈爾濱を出発したのは、三月下旬である。今度は釜山まで通して鉄路であった。玄海灘は大変荒れていた。内地も鉄道で千葉の東部第八十六部隊(鉄道第一連隊)に着いたのは四月二日頃だった。哈爾濱から一週間ぐらい掛かったように思う。千葉で検疫のため五日くらいいて、四月七日現役満期除隊となり、四月八日予備役編入になった。

 

  (追  記)

  昭和十四年徴集までは内地帰還のうえ除隊になったが、昭和十五年、昭和十六年徴集の兵隊は終戦まで内地帰還はなかった。関特演で対ソ武力発動は中止になったが、兵力動員は続行されて、関東軍は七十万の大軍団になり、これが名実共に関東軍が頂点に達した時期でありのちに、大戦末期には南方戦域各地への兵力供給軍団になったから、鉄三主力も中支に転戦してそれぞれ戦地を経験した。

  戦後も高度成長期にもなると所謂戦友会といった形で軍隊で一緒に戦争を経験し、命あって復員した元軍人兵隊が、それぞれの部隊毎に全国大会を開いて、戦死者物故者の冥福を祈り慰霊祭を執り行い、その後懇親会を開いている。鉄道隊関係は、一応全鐵連会の網が掛っているが、主体は鐵三会である。どの県で開いた時も準備委員や、大会役員は鐵三出身者である。昭和五十一年には島根大会をやり大会副員長を勤めた。昭和五十四年には宮島の大会に行った。昭和五十六年には湯田温泉の鐵三材料廠だけの会に出た。後は何時も誘われるが私は余り興味がなく出ていない。津田沼に召集になった時に出会った友達には、その後一人もあっていない。軍隊経験ではよく運が良かったとか、運が悪かったとかいうが、私はそのどちらか分からない。とにかく敵に銃を向けたことはなかった。

 

 

                                                   

 


             (二)

 

  昭和十八年四月新居浜に復職した時には、四年前に徴用で出た時と会社の組織や人がいろいろと変わっていた。勿論住友鉱業株式会社別子鉱業所はそのままだけれど、事業部土木課でなく工作部土木課?となっていて、事務所も惣開の本館でなく星越町?の機械工場のところだった。土木課設計係は出る前の設計係と同じだから戸惑うことはないけれど、人は大分入れ替わっていた。私が出る時の斉藤武幸係長(九大)は、戦後住友建設の社長になられたが、この時は何処に居られたろうか、記憶していない。設計係長は秋山養之助(京大)さん、課長は徳島大学から来た人で上野正夫さん、前からいた人でも宮崎さんはいたが、長期主張なんかもあったのだろう、私が一年余り後で、召集でまた出るまでに会えなかった人に富山さん、釜洞さん、三好さん等々がある。その代わり建築でも吉田正彦さん(早稲田)、岡田秀治さん(神戸高専)、富岡茂[9]さん等が(何れも先輩、後輩の大井君は兵隊に行っていた。)入社していた。

  設計係は、係長の秋山さんが東の窓際から西向きに座っていて、以下吉田さんから順に北側の窓に沿って一列に並んでいた。左光線で窓に直角に図板を立てて図面を書き、通路に向かった机で積算や設計書を作る。窓際にキャビネットを置き一人一人の席がボックスになっている。私の席は大沢さんの席と富岡さんの席の間である。喋りながら図面を書いて居ても係長席からは見えない。

  通路を置いて中の列には図工や若い人の席があったけれど、若い人は大分減っていたように思う。  当分の間は、大きなものはやった記憶はない。吉田さんのお供をして住友アルミに行ったりしていたから、設計の部分下請けのような仕事をして居たと思う。富岡さんも同じだが、彼は香川県庁にいたが、徴用でここに来たとか云って居た。仕事は達者だった。お互いに図板に新しい紙を張り替えると今度は何ですかと図板の陰から覗きあって私語しながらやっていた。

  寮は入社した時は淡親寮だったがこの時は山田の(星越町か)成簣寮に入寮していた。成簣寮は、新築の時三村専務が、九仞の功を一簣に虧くの諺から、一簣を欠かないで成すという願いを込めて命名したものと聞いていた。淡親寮より先に建てられて古い人が入っていた。富岡さんも私より前に此処に入っていた。この寮では入社早々の時のように、友達同士で部屋を行ったり来たりするようなことはなかった。会社が違ったり余暇の過ごし方がそれぞれといった感じだった。

  十月初めだったろうか、私は福岡県の星野金山の選鉱施設解体現場に行くことになった。選鉱場は機械設備とその上屋を解体輸送するので、機械課から阿部さんと、大庭さんの二人、建築関係は私の外に楠という補助職員の人(名前はみんな不確か)で、四人が一緒に行った。阿部さんは四十才位の三等職員、大庭さんは三十五才位の準職員で年齢は私が一番若かった。

  いろいろ段取りは上の方で進められていて、業者は新居浜の業者が行った。最初に建築の御大宮崎さんが、現場の説明と具体的な指示をするため、私等は宮崎さんについて行った。

  九州に渡るのは、今治からかだったか船で行った。何処へ上がったかも忘れたが、船が大変込んでいたのが記憶に残っている。鹿児島本線は、久留米の二駅位手前か向こうか分からなくなったが、私鉄に乗り換えて福島迄行って、そこから先はバスで三十分位行ったかな。と云うのも今地図を出して見ても、五十年近くも前の記憶が曖昧で、その後一度も立ち寄ったことがないから、地名も鉄道も変わってしまっていて、ああ此処だったと云う感じはない。星野村の石橋旅館が予約した宿だった。

  星野金山でどれだけの金鉱石が掘り出されたか、操業後間無しに対米英関係は決定的に悪化して、余り操業していなかったんじゃないかと思う。この施設は解体の上新居浜に移して、蛍石の撰鉱場を作る計画だそうである。

  宿では早速のお客さんに、鯉のご馳走が出た。刺身だったか、煮付けだったか、味噌汁だったか、その二品だったか忘れたが、池で飼っている鯉を掬って来るのだそうである。その後もよく鯉は食べさせられた。石橋旅館の前の道ををバスが通っていた。旅館の裏には山までに少し田んぼがあった。宿を出て三百米位で山の入り口の本星野部落を抜けると山道にかかる。現場までは三十分位掛る。

  選鉱場の上屋は木造波形スレート葺きで、壁も波形スレートか波形鉄板で最初にそれらを取り外して一か所に積み上げた。大工の棟梁と二三人がトラスや軸組の要所に記号をつけて回った。要は積み出し輸送が出来るよう解体するから新築(移築)に必要な記録とメモを取った。

  機械関係は、直接関係しなかったし、分からなかったが、ボールミルとか云う大きな重量物や、直径も高さも三米以上もあるような円筒形のタンクがあって、こんなのはどうするのだろうなと思っていた。タンクには水が一杯溜っていた。それらは鳶の仕事で、早速タンクの水は抜かれた。

  一週間くらいしてから、星野川の魚がたくさん死んで流れていたと云う話を聞いた。星野川はバス路線と平行して西行している川である。その時は全くの他人事として聞いていた。そして何も問題にならなかった。昭和三十年代になって水俣病だとか、有機水銀中毒が騒がれ出したとき、私はあの時星野川でたくさん魚が死んだのは、あのタンクに溜っていた水を抜いて流したからに違いないとひそかに思った。

  上屋解体は何も難しいことはないが、私は機械類の取りはずしから重量物の移動に、三又を組んでかぶらさんでジリジリと巻き上げて、コロの上に移し、梃子で移動して行くのを感心して見ていた。

  現場から帰ると四人は夜どうしていたのか、食事は一緒だったのか、部屋は幾つ使っていたのか、二人位づつ一緒だったのか全々記憶がない。大庭さんが早速に巾一尺程の削った板を、業者に準備させたのだろう持ち込んで来て、この上で寝ると云っていた。西式健康法である。木枕も頼んでいると云っていたが、朝夕は別だったと思うから部屋は違っていたのだろう。四人で麻雀をするなんてことはなかった。よく飲むということもなかった。

  石橋旅館は主人夫婦と、二十歳過ぎの娘がやっていた。その下に女学生の妹と中学生の弟がいた。やっていたと云っても鉱山が閉鉱になってからは利用する人もなかったんじゃないだろうか。御主人の名前は石橋悦蔵さん、上の娘はヒラキと云い、下の弟は徹と云って、母親がよくヒラキシャン、トールシャンと呼んでいた。

  秋の夜長は退屈だったと思うが、少し慣れるとしょっちゅうヒラキさんが話に来た。ヒラキとは変わった名前をつけて貰ったねというと、普段は比良記と書いているの、と云って箸袋に奇麗な字で書いて見せた。楠君と三人でビールを飲むと僕が一番先に赤くなり、彼女が一番強かった。此処らは山の中で何もないから、女の人でもよくお酒は飲むし、強い人がたくさんいると云うのが彼女の弁だった。村のこともいろいろ聞いた。客間の長押に弓が懸かっていた、田舎に珍しいと思ったので、比良記さんに女学校で弓をやったのかと聞いてみたら、違っていた父が弓を引くと云う。私が弓を教わりたいと云うと、主人が早速巻藁を作ってくれたのには恐縮した。

  狭い裏の空き地で毎朝巻藁に向かって稽古した。楠君も一緒に始めたが、これは暇があるからやってただけ、主人は、僕が軍隊で鍛えているから腰がよく据わていると云って何べんも褒めてくれた。

  巻藁だけでも面白くないだろうから、的に向かって実射をしようと云うことで、夕方作業が済んでからカーバイトのカンテラを準備して山に出掛けた。一応二三日前から見当をつけておいた場所に行って的を置いて立射を始めた。暗くなっても的に灯りがあれば良いと思っていたが、実際にはそうでなかった。矢は的の回りに突き刺さるから、的の回りだけ明るければ良いと云うのは理屈であって、実際には矢が飛んで行く途中も全部見えないと、何時矢の行き先が分からなくなるか分からないような、不安があって射たような気がしないのである。これは一度だけで止めた。

  星野にいる二か月ばかりの間に一、二度久留米迄行った。なんの用達に行ったか覚えていない。又送金する為か星野の郵便局を訪ねて行った。郵便局はバス通りを二十分ばかり奥へ上がった処で、用を済ませた後、雑貨店があったから覗いてみた。もう何処の店でもまともな品物はお目に掛れないご時世だったがその店に純綿の?(残念ながら品物を忘れた)があって、まだ田舎にはこんなものがあると感心した。とにかく時候のいい時で、筑後の山々は一面に紅葉し実にのんびりした空気だった。

  本星野の部落には銀杏の木が沢山あった。この頃になると銀杏の実が沢山取れて、別けて貰って焼いて食べた。抹茶もこの部落の特産のようだった。砂糖が入っていて二百五十瓦の缶入りだった。

  晴天続きで現場もはかどり引き上げる時になって、私は銀杏と抹茶を土産に買いこんで帰った。

  縁あらば  またも来て見ん  君住まう  筑後の山々  紅葉せし頃  と何かに書きつけたが、弓を教えてくれた石橋旅館のご主人は、もう他界されたんだろう。ヒラキシャンはお嫁に行ったろう。徹さんは旅館を続けただろうかと、何時も懐かしく思い出すけれど再び星野を訪ねる機会はなかった。

  新居浜に帰ると宮崎さんと打ち合わせして今度建てる選鉱場の図面に掛ったと思う。十二月で寮で

は火鉢で銀杏を焼いて食べた。

  弓は前から引きたいと思っていたし、多分富岡さんに話したら彼もやると言い出したのだと思う。それが九州に行く前から弓道場に行っていたのか、星野の石橋旅館で巻藁で教わったのが初めてで、九州から帰ってから始めたのか、弓道具を求めた時の経緯も、すっかり忘れてしまっている。兎に角富岡さんとは会社では並んでいるし、寮では朝夕顔を会わすから、よく連絡を取りあって弓道場に出かけた。会社でも二人はよく弓の話をしていたのだろう。もう少し年配の人岡田さん、西岡さんのグループは謡曲をやっていて、二人に謡曲をやれと盛んに勧められた。秋山さんもやっていたが、自分でものにならんと云って止めたそうである。そのうちに岡田さんが弓と謡曲の交換教授をしようと言い出したので、遂に乗せられて二人一緒に鶴亀の稽古本を準備して貰った。先生の前に座って最初の稽古の時に、突拍子もない声を出して二人とも先生の前で吹き出してしまった。後で岡田さんからあんた方は心臓が強いと散々揶われた。それっきりと云う訳にもいかんし、招かれるままに岡田さんの社宅にも時々お邪魔して稽古をつけて貰った。

  新居浜時代は、改まった形での宴会は滅多になかったのに、この頃富岡さんと私は、その滅多にない宴会を早めに抜けて、弓を引きに行ったりした。弓道場には勿論照明設備があったが、夕方から誰も使っていないことが多かったから、デザートの蜜柑を安土において、金的だと云って二人で競ったりした。それほど好きだったからこの時は別として、二人は余暇があれば真面目に弓を引いた。

  今手元に当時求めた新修弓道という解説書が一冊ある、これはかなり読んだ記憶がある。弓道場には当然経験者で熱心に通って居た人もいたであろうし、そんな人の好意的なアドバイスはあったとしても、指導を受けた特定の人は思い出せない。

  昭和十九年の春頃から、九州から解体輸送して来た資材も交えて、新しい選鉱場の工事が始まった。現場は星越えの選鉱場だったように思う。私は六月に召集令状が来て、また新居浜を去ることになったが、それ迄に時々現場に行って工場の一部が建ち上がっていたのを見ていたように思う。

  それにしても決して大規模な工事ではない、傾斜地に建つ木造平家のお粗末な工場だのに、解体、輸送、設計、着工、竣功までに随分長い工期を掛けていたと思う。今様に考えれば極端な資材不足、輸送事情の悪化、極端な労務不足でこんなことになるのだろうか。私が終戦迄に関係した建築の仕事は一応戦争遂行に関係した仕事だったと思うけれど、決して活況に溢れるような工事はなかった。

  結局この工場も竣功を見ないで六月私は新居浜を去った。成簣寮も引き払って荷物は郷里知井宮に送った。

 

  (追  記)

  蛍石の選鉱場はその後どうなったか終戦になって聞いたところでは、北支から輸入する蛍石が戦況が悪化して輸入出来なくなったので、工事は中止して解体し、今度は国産粘土でアルミナを生産するため、伊豆に送ったそうである。戦後私は戦争の邪魔ばかりして居たようなものだと笑った。

 

 

                                                   

 


東部第八十七部隊に召集から終戦まで

 

  昭和一九年六月八日午後一時頃会社で召集令状が来たという郷里からの電報を受け取った。当時山田の成簣寮で寮生活をしていたので、身の回りのものを整理した後、十一日新居浜を発って知井宮に帰り、知井宮から十三日朝、応召のため勇躍して東上した。十四日東京駅降車口で弟寛威と待ち合わせして、一緒に宮城、靖国神社、明治神宮に参拝してから雨の中を津田沼に行った。隊から出ている案内係の案内で午後一時頃久々田の旅館に入った。弟は、四時頃までいて後立川に帰って行った。

  十五日早朝入隊のため、当日の集合場所南作業場に行って、受け付けてもらう。当日の応召者は、大多数が既教育補充兵(含む国民兵)で、それに教育要員としての既教育の下士官兵が百名余りもいたろうか。入隊は特業小生はよって材料廠附となったが、十五日第四中隊附に変更になり第一内務班附になった。班長は北村軍曹である。―註―当時材料廠関係特業要員についても、本業基本教育を第四中隊長が担当していたので、特業要員はすべて第四中退に入隊していた。四中隊には写真の下士官はいなくて、材料廠には五月二十日の応召者に石川軍曹がいたので、材料廠長は第四中隊長の申し出により小生を第四中隊附きとした。

  十六日から第一次補充員本業基本教育に出場した。また週番勤務にも服務した。そうこうする内材料廠附道幸少尉が、鉄三出身であったので、この人に工場勤務になるように頼んで、間もなく写真の特業教育をするため、材料廠勤務にしてもらった。

  七月十二日から第一次補充員の特業基本教育開始、兵七名斉藤、山本、深川、谷津、釣谷、……助手は菅沢一等兵、教官は道幸少尉だった。七月十五日第二次補充員入隊、本業教育には関与しなかったが第七内務班附となる。班長天野伍長。鳥取出身の長尾伍長が九一部隊に転属して、天野伍長は第四内務班長となり、小生が第七内務班長、班員は約一00名なり。軈て内務編成替えで、第九内務班長、班員は五0名ばかり、主力は第一次補充員だった。

  八月十二日から第二次補充員の特業基本教育が開始されたが、教官がこれを担任して、主として学科を行った。九月二日第一次補充員特業教育終了。九月五日第一次補充員召集解除。この頃疲労の蓄積が原因か発熱、練兵休で四、五日休務。第二次補充員は、第一次補充員召集解除と共に工場で特業教育開始、兵八名、牛山、速見、小関、稲田、小川、………十月十五日第三次補充員応召入隊。この補充員の基本教育助教の為材料廠勤務は解消のかたち、第四中隊において教育に当たる。教官は安藤准尉。

  十月三十日部隊改編により第四中隊より第三中隊附。中隊長は引き続き妹尾中尉。第六内務班長を命ぜられ、本科練成教育に出場。教官は津荷少尉。しゅとして転轍布設・架橋作業をやった。この頃からサイパン基地から敵機B29の偵察、及び飛行機工場の爆撃が開始された。

  十一月下旬週番勤務に服し、勤務が終わって、三十日朝から七泊八日の請願休暇が許可されて帰郷した。十二月五日お昼前『速やかに帰隊すべし』との隊長からの電報を受領、神戸の叔父を訪ねる予定を変更して夕刻出発して六日二十時頃無事帰隊した。

  隊では、十二月七日八日を期して敵の千機乃至二千機をもってする本土爆撃の情報が入ったので、部隊全員乙動員の態勢を整えて待機していた。小生も官給品の返納及び私物の整理をした。十二月七日敵の爆撃はなかったが、十三時頃大地震があった。八日正午頃集合がかかり東海道災害地復旧のため出動した。空襲下十四時頃津田沼を出発夕刻品川を通過、翌九日午前五時頃袋井に着く。当日器材却下、袋井小学校での宿営準備は一部の人員で行って、部隊は直ちに作業開始、路盤構築に当たった。二日後部隊は天龍に転進国民学校に宿営。十二日早朝より天龍川鉄橋橋脚の打杭作業開始。大梁間のトラスが地震で揺れて橋脚に横クラックが入った為、橋脚の両側に復列柱を組み、トラスを支える為第二小隊、第三小隊各一か所づつ受け持って、競争で十三日、十四日午前中に完成した。

  十五日十六日十七日は道路の補修、付近町家の復旧手伝い等を実施、部隊は一部集成残置中隊を残し屯営に帰還することになり十八日朝出発、十九日午前二時頃屯営に着く。十九日器材の却下等終えて出動中隊の編成は解かれた。

  年末に掛けて特別の作業もなく、兵隊は毎日使役、下士官は内務検査に備えて備え付け帳簿の整理をして、鉄道支援作業に関する中隊長の学科を受けた。一月に入り台湾行きの編成があって四日に部隊が出発した。一月中鉄道側より鉄道官が来て、支援作業に関する学科を行い、それに出席した。二月には十三日頃より月末にかけて測量助手の教育があって、それに出席した。教官は杉少尉だった。

 

  (付  記)

  以上は、記録として書き残してあったものによって整理保存の為入力した。勿論その都度書いたものでなく纏めて書いたものだ。この後測量隊で屯営外に出ることが多かったので、ここまで営内で書いたのか、或は召集解除後暇な時に書いたものか定かでない。以下記憶を辿り補足追記する。

 

  (追  記)

  天龍川鉄橋の復旧作業は、鉄道の線路添いに、台車に資器材を載せて、現場まで歩いていった。鉄橋の上から足場丸太を川面に建てて、これを伝って降りた。河は水の流れのあるところと、州になっているところと半々で、流れのあるところも浅かった。既存の橋脚は石積みで、目地にクラックが入っていた。作業の概要は、杭を打つため四本足の櫓を組んで、てっぺんに重錘を引き上げる滑車を取りつける。重錘は心矢を通して引き上げられ、落とされて杭の頭を叩く。二十人くらいの兵隊が両側に別れて、指揮者の号令に合わせて綱を手繰り、そして離す。号令は「イッチ  ニイ」である。杭の頭で錘を引き上げる間隙が一・五メートルくらいしかない時はこのかけ声で続けて「イッチ  ニイ」「ストン」、「イッチ  ニイ」「ストン」、と打って行く。杭の頭が下がると、二段モーションで錘を引き上げる。かけ声は「イチーニイのサンヨー」で「ズドン」となる。勿論節がついている。更に杭の頭が下がって、二段モーションで錘が上がり切らないときは「イチーニイのサンヨーのムッツ」「ズドーン」と三段モーションで打つ。杭は、末口径二十センチ長さ五メートルほどの松杭で、既存の橋脚の際から五十センチくらい離して最初の杭を打ってそれから一メートルくらい離して二列目を打つ。大変固いからなかなか入らなくて、どうかすると曲がって一・五メートルくらい打ち残しになっている。第二小隊長は津荷少尉、第三小隊長は佐藤万蔵少尉だったが、当然のことながら競争になったので、第三小隊では兵隊に、径の小さめの杭を運ぶよう指示し、また杭の打ち止まりを判断しながら杭の建て込み前に杭の長さを一・二メートル程切らせた。小隊長が大丈夫かというから理由を説明しておいた。中隊長が馬で回ってきた時に、「布野あの小さい杭は残して置け」と言って行ったので、佐藤少尉は「中隊長はやっぱり知っているな」と言って笑っていた。杭を打ち終えると、頭を切り揃えて二五センチ角程の土台で繋ぎ、太い木柱を杭の上に建てて柱の頭繋ぎでガーダーを支える構造である。与えられた作業時間は二日半だった。二日目の晩に中州で篝火を焚いて夜間作業をしているときに、空襲警報があってB29が飛んで来た。篝火を消して作業を中断しなければならなかったから、夜間作業は取り止めにして、兵隊は宿舎に連れて帰り休ませた。小隊長はすっかり信頼して任せてくれた。

  明朝現場へ行ったら、第二小隊は徹夜作業を終えて取り方付け中だった。津荷少尉は「布野俺ンとこは済んだぞ」と言って丸太に腰掛けてアルミコップの酒を飲んでいた。第三小隊は作業を再開して、十一時頃までに完全に終えた。その間に第二小隊のやった後を点検して回ったら、列柱の頭繋ぎとガーダーの間のパッキンは、スカスカでひとつも利いていなかった。二~三日道路補修している時に、この橋脚補強工事の後を鉄道側で検査手直ししていた。

  三月十日津田沼の屯営内にいた。空襲警報で兵舎前の防空壕の中から東京の空がいつまでも真っ赤に染まっているのを見ていた。この空襲で鉄道沿線が焼け野原になり、その火熱でレールや犬釘が熱せられたので、防腐剤を注入した枕木が、犬釘の回りだけ焼けて穴になった。勿論列車が通せないので両国、錦糸町辺りの復旧に出動した。

  四月になって、東北本線小山に防衛機関庫建設のための測量隊が派遣されることになり、教官に頼んで十名くらいの兵隊と共に行かせて貰った。一週間くらいの期間で、予定通り帰隊して成果品を提出した。五月になって常磐線の取手に行った。やはり兵十名くらいの測量隊である。今度は利根川の鉄道橋が爆撃でやられたときに、常磐炭が京浜地方へ入らなくなるので、いち早く五百メートル上流に迂回橋を作るため、予定ルートの地形図を作ることである。民宿で二週間くらいの予定だったから、雨の日もトランシット・平板に傘を差し掛けて測量した。杉少尉は、最初小山に測量隊を派遣するとき、布野は建築屋だ(土木屋でない)ので、大丈夫かなと心配していたと後で話していた。取手では兵隊に国民兵で三五才くらいの鉄道技師がいて、「班長殿民間ならこんな仕事、半年掛りですよ」と大袈裟に言っていた。だから雨の日も測量を休まなかったし、夜は内業をやった。それでも兵隊たちにとっては、夜間空襲警報の度に舎前の蛸壷に駆け込んでいた屯営内の生活より、ずっと楽しい毎日だった。

  取手が終わると、高崎の防衛機関庫を作るため信越線の安中に行った。安中は作業量も多く、作業隊が後から追っかけて来て、土工作業にかかる予定で。測量隊員は一四~五名になった。測量隊は希望者が多く、その都度人選して編成していた。二~三名のそれらしき経験者の外は、土木、建築、機械いずれでも図面の経験者、算盤、計算の出来るもの、飯炊き、炊事の得意なもの、その他心ききたるものといったところを選んで編成した。防衛機関庫というのは、機関車が機銃掃射を浴びると、ボイラーに穴が開いて使えなくなるので、山に機関車が二、三輌づつ入る防空壕(行き止まりのトンネル)を作る。機関庫の引込み線は安中駅の西で、信越本線の南で山側、田んぼの中で機関車転回のための松葉線を組んで、その山側の端末を三~四番線に分岐して、山に突っ込んだものが防衛機関庫である。宿舎は、最初安中でかなり大きな商家の二階を借りた。酒屋であったろうか、五間くらいの間口いっぱいガ低い腰つきの一枚ガラスのガラス戸が建てられていて、通りから広い店内に入ると左手に階段があって、直接二階に上がれた。階段も、二階廊下も、兵隊たちが器材を持って出入りして、傷をつけないようにやかましく言って注意した。毎日この宿舎から現場まで、器材を携行して隊互を組んで、軍歌演習しながら往復した。それが町民に鉄道隊の心証を良くしたらしい。測量は田んぼから山にかけて東西五百メートル南北三百メートルくらいの広さのところ、トラバー測量から初めて、要所で平板測量をしてつなげた。田んぼでは年老いたお百姓さんが田植えの準備を初めていた。そして言った「兵隊さんここは何になるか教えてくれ、自分達は文句を言うのではないが若い者はみんな兵隊に行って年寄りばかりで人手が足りなくて困っている。田植えをしても収穫まで待てないようなら田植えはあきらめるから」と、

  地形図が出来ると、鉄道側に渡して軌道のセンターを入れてもらい、定規図縦断勾配等打ち合わせして、センター杭打ち、縦横断測量、度量計算、幅杭打ちと進めていった。この頃になると津田沼から作業隊本隊が乗り込んできて、町の小学校に宿営した。自分は六月一日付で陸軍軍曹に進級したことを知らされた。各小隊は隧道のアプローチ部分の切り土を、田んぼの中の路盤に流して盛り土する計画だが、杭打ちが間に合わないので、兵隊を遊ばせていた。そんな具合だから例の津荷少尉なんか張り切って、早く自分の隊の作業区域に幅杭や、法勾配定規を打ってくれと測量隊に催促に来た。

  それでも番線によっては土工量が八千立方メートルから一万三千立方メートルと差があるので、縦断勾配を変更して土工量を減さなければならない。内業で土工量が減せれば、兵隊を二、三日休ませてもそのほうが早くなるからと、夜は土量計算、昼間は幅杭打ちと忙しかった。

  作業隊が現場に入って本格的な土工作業の段取りを進める頃、測量隊の宿舎も現場に近い大きな農家で二階の養蚕室が使わせて貰えたのでそこに移った。萩原梅吉さんという家で、食事は当番で小学校から運んだ。この養蚕室から南田んぼを隔てた山際に、作業場現場が遠望できた。作業隊は、隧道のアプローチ部分の切土を、田んぼの中の軌道予定敷へ流すのに、お手のものの軽便軌道を布設して下り勾配で台車を利用した。作業隊が一斉に工事にかかると、測量隊の現場作業は早朝とか夕方にした。食事を取りに行った兵隊が、向こうの兵隊からいろいろ情報を仕入れて来て報告する。半月もしたら炎天下の作業でみんなバテテしまっているという。

  その頃広島に新型爆弾投下、続いて長崎に投下、ソ連参戦みんなこの家で新聞を見た。そして八月十五日正午は、重大放送があるというのでこの家のラジオを縁側まで出してもらってこの家の人と一緒に庭で玉音放送を聞いた。放送は雑音が多くて解りにくかったが、戦争は負けて終わったんだと大意は掴めた。軅て見習い士官が桑畠で腹を切ったとか、兵隊が逃げたとか、どこの話か解らないような話、そういった情報でいろいろと混乱が起こり、更に事態を認識した。まず身辺整理だということで図面や書類は燃してしまった。

  急にすることがなくなり、川に行って水浴したり、車座になり句を捻ったりして遊んでいた。俳句とも川柳ともつかぬ句を、みんなが上の句、中の句、下の句と別々に作り、それを伏せて置いて無作為につなぎ合わせ、時たま傑作が出来たと喜んだりした。

  屯営に帰る為の車両の手当てが出来なかったためか、熊谷辺りまで行軍したような記憶がある。あとは列車で帰った。八月二十二、三日津田沼に帰って、返納するものは返納して八月二六日の召集解除だったように思う。

  戦後公害問題で度々安中が報道された。昭和四十年頃、信越線の上り列車で、懐かしい安中を通過したので、防衛機関庫をやりかけていた山手を見ると、工場が建てられていて黄色い煙が出ていた。


            退 

 

  召集解除で帰郷したがこれから日本がどうなるか、自分等はどうしなければならないか全然判断が出来なかった。私は住友に就職して八年余りずっと会社から給料は貰ってきたが、病気休職、徴用、現役入隊、予備役召集で三年足らずしか会社にいなかったので、財閥解体だと云っているし、会社もどうなるか分からないから復職することは考えていなかった。

  飯塚先生から、出雲の工業学校で建築の先生が要るそうだが行かないかという話があって、履歴書を書いて出した。どう云ったいきさつだったか忘れたが、飯塚先生が適当な人がいたら推薦して呉れと頼まれていて、私に勧めたものと思う。勿論初から教諭になれる訳でもないことは承知していた。

  会社に、召集解除になって郷里に帰っていることを、連絡していたかどうか忘れてしまったが、九月中頃になって、会社から速やかに復職されたしといって電報が来た。どうせ会社は辞めるにしても一度会社に行って挨拶して来なければならないと思って、取り合えずの支度して新居浜に出掛けた。

  会社に出て留守中のこと、これからのこといろいろ聞いた。会社では今希望退職を募っていて、希望退職者の数が少ない時は、会社側からの解雇もあると云う事だった。私に改まった話はなかった。  一番近いところで富岡さんに聞いてみたら、彼は退職して高松に帰り設計事務所を始めると云う。私も退職願いを出す事にして二人一緒に出した。

  係長は若い人が一緒に辞めるかねと寂しそうに云った。課長のところでは退職の意志確認の為か少し話し合った。富岡さんは設計事務所をやると云うから問題はなかったんだろう。私は辞めて何をすると云われて、まだ考えていないと云った。何処か決まったところがあるかと念を押されて、そんなところはないと云った。兎に角今まで会社に随分お世話になったが、会社の為にいくらも仕事をしていない。会社では希望退職を募っていると云う事だから、この際進んで引かせてもらうと云う意味の事を繰り返した。課長は、それは違う会社が退職して貰って云いと思っている人は、徴用なんかで無理に会社に来て貰った人、年配でも無理に勤めて貰っている人達で、君たち子飼いの人は、これから会社の為に大いに働いて貰わねばならないと思っていると。また君田舎へ帰ったら此処のように人がいないだろう寂しいよと。それはそうだと思いますと答えていた。

  この時の課長とのやり取りはほぼ正確だが、もうこの年まで生きて来ると私が課長の立場であってもこの時の課長のように云ったろうと思う。それにしても私は若かった。未熟だった。確かに郷里に帰ったら新居浜でいろいろ教えてくれたような先輩は少ないし、寂しいだろうと思ったが、その時は男が一度出した辞表が引っ込められますか、と云う意識だけが強かった。

  昭和二十年十月一日付けで、三等職員布野哲郎依願解雇スと云う辞令と、退職慰労金通知書(一金壹阡六百六拾圓也)と、特別手当通知書(一金七百貮拾圓也)の弐枚の通知書を貰った。

  もともと布団袋ひとつを手荷物に預け、他に大きなトランクひとつだけだから、二日後の十月三日設計係の人に新居浜駅のホームまで送って貰って新居浜を後にした。

  初めて赴任した日からこの日までちょうど八年半、ここで暮らしたのはその内の三分の一である。新居浜ほど私に懐かしい思い出を残し、ここでの人との出会いは、その後の私の人生に大きな影響を与えたと思うが、その後新居浜を訪ねていない。

  出雲の工業学校の方は、履歴書を出したきりになった。飯塚先生は私が新居浜に行ったので、復職したと思って、出雲工業の方は誰か別な人を推薦したのではないか。

  私は、会社や役所の辞令、通知書、給料袋を殆ど残している。いずれ処分するが、住友時代のそれらはいろいろな思いがあって、一括して反古にする前に、以下余白に記録して置く。

 

  辞令    布野哲郎  四等職員ヲ命ス                昭和十二年四月五日  住友別子鑛山株式会社

 

 

  通知書  四等職員  布野哲郎    月俸金参拾五圓ヲ給ス               

                          技術實習ヲ命ス                     

                  業務部土木課ニ付属シ實習ヲ為スベシ  四月廿八日 

                  自今月俸金参拾八圓ヲ給ス  昭和十三年一月一日  住友鑛業株式会社

                  三月間休職ヲ命ス  但シ其ノ間俸給ヲ支給セス  三月廿四日 

                  休職期間ヲ三月間延長ス  但シ其ノ間俸給ヲ支給セス  六月廿三日 

                  復職ヲ命ス                昭和十三年九月廿一日  住友鑛業株式会社

                  別子鉱業所事業部土木課設計係勤務ヲ命ス         

                  自今月俸金四拾参圓ヲ給ス  昭和十四年一月一日     

                  自今月俸金四拾八圓ヲ給ス  昭和十五年一月一日     

                  入営ノ為休職ヲ命シ其ノ間現俸三分ノ一ヲ給ス  二月二十日 

                  自今月俸金五拾参圓ヲ給ス  昭和十六年一月一日    住友鑛業株式会社

        三等職員    自今月俸金六拾七圓ヲ給ス  昭和十七年一月一日     

        休職〃      復職ヲ命ス                昭和十七年一月十日     

        三等職員    自今月俸金七十圓ヲ給ス    昭和十八年一月一日     

                  自今月俸金七十五圓ヲ給ス  昭和十八年四月七日     

                  自今月俸金八拾貮圓ヲ給ス  昭和十九年一月一日     

                  自今月俸金九拾圓ヲ給ス    昭和二十年八月二十八日 

  辞令              依願解雇ス                昭和二十年十月一日    住友鑛業株式会社

  退職慰労金通知書    一金壹阡六百六十圓也                住友鑛業株式会社別子鑛業所

  特別手當通知書      一金七百貮拾圓也                       

 

 

 

                                        


                 

 

  父が北支から引き揚げて来たのは昭和十九年始めで、二万円ほどのお金が出来たので、これで小さ

い子供達の養育費もあるから、食糧事情が悪いので田んぼでも買って農業をしようと思ったそうであ

る。田んぼは手の足りない人から少し譲って貰えても、みんな小作地で不便なところが多かった。前

から小作していた田畑を合わせて六反二畝程であった。お金は直ぐにインフレになったが、敗戦から

一般邦人の引き揚げの混乱を見たら、父は本当にいい時に帰ったと皆が思った。

  終戦になると、立川航空機にいた次男の寛威が真っ先に帰った。続いて私が召集解除になり、少し

遅れて三男の益男が除隊になり帰った。長女恭子は家で洋裁をしていた。次女栄子は県庁の臨時で勤

めていた。三女雅子は寝たきりであった。四女、四男、五男は小学校だった。祖父母も年老いていた

し、父も母も大変だったと思う。財産も蓄えもない大家族で、今考えると惨めの一語につきて、想像

もつかないが、その時はそんなに深刻に考えていなかった。と云っても食糧事情が悪かったから、山

を開墾して薩摩芋を植えたり、塩が手に入らないから大八車に四斗樽を積んで、外園の海に行って海

水を汲んで来たりしたが、それは別に恥ずかしいとも思わなかったし、私達だけの問題でなかった。

  戦前大正から昭和の初期に掛けて、不況と経済的な苦しさを経験してきた者の感覚では、終戦直後

の生活基盤と、経済情勢でそんなに深刻になることはなく、食糧事情と、物不足だけで皆が狂奔して

いた。軅て経験したことのない物価高とインフレになることも分からなかったから。

  何と言っても男の兄弟三人が元気で帰って来れたことが、父母の何よりの幸せだったのだろう。

  住友鉱業を退職して十月、十一月は、二人の弟と一緒に、父母の農業を手伝った。朝から晩まで本

格的に百姓をしたのではない。もともと父が一年前からの俄か百姓である。秋の取り入れ時になり農

作業がものすごく忙しくなり、どこの家でも手が足りない時だから、いい若い者が昼間から家に居るわけに行かない、刈った稲を運んで、はで場に架けたり、乾燥した稲を降ろして家に運んだり、力だ

けで出来る仕事を三人一緒にやっていた。稲を刈った後の田に麦を蒔くところがあって、ひと鍬ひと

鍬田の土を掘り上げて高畝を作るのは、力も要るが慣れないから腰が痛くて困った。三人かわりがわ

る腰を伸ばして立っていた。そして百姓の仕事は、もっと早く楽に出来る方法はないもんかのう、と

話し合っていた。しまいには母が立ってばかりいると格好が悪いから、もう止めて帰れと云って気き

を遣った。母に云わせると、父の仕事は丁寧過ぎてはかどらないと云っていた。農業の手伝いをしな

い時弟達は、新しい就職に備えて夫々に勉強していた。

  私達は同じ工業学校でも寛威は機械科を、益男は電気科を出ていた。寛威の場合立川で飛行機の胴

体設計をやっていたから、直に適当な就職先がないから、別な職業を選ぶ必要があったし、益男の場

合は、卒業したばかりだから、電気屋を新規採用する会社があるまで待たなければならなかった。

  私は十一月十日過ぎに、恩師飯塚先生から呼び出しの電報を受け取り先生の推薦で松江市役所に奉

職することになったが、弟達の苦労は更に一年余り続いた。

 

                                               

 


             

 

  十月初めに住友鉱業を依願退職して、十月、十一月は知井宮で家の農業を手伝っていた。十一月十日過ぎに飯塚先生から、「クチアリスグコイ」という呼び出しの電報を受け取って、松江に出た。

  飯塚先生は、工業学校の一年から五年までの級担任であり、私は五年生の一学期先生宅で居候させて貰っているし、就職はもとより格別にお世話になっていた。建築の卒業生は私だけでなく、卒業後も機会あれば、先生のところへは、挨拶に行っていたと思う。この時には学校の方は退職して鴻池組の山陰出張所長をして居られたが、卒業生の動静は殆ど承知して居られた。

  先生の話は、松江市内は戦時中建物の強制疎開をしたが、その復興をするのに疎開を担当していた県ではやらないし、松江市役所の土木課でも出来ないから、松江市役所の民生課でやることになったので、新しく建築技術屋を求めているから、行ってやらないかということであった。三人くらい技術屋さんを考えていて、矢張り島根工業の卒業生で大木喜義といって、鴻池組で十九年間勤めていた人が退職して帰っているので、その人に話したらやらせて貰うということでこれは決まっていると。

  私は、市役所ですかと云って即答を渋った。先生「県庁のようなところがいいか」、私「県庁でも大して違いはないでしょう」、先生「島根県へ帰ってきて住友のような会社はないよ」、私「それは承知していますが、もう少し考えてみます」、先生「今にどんどん引き揚げて来て就職先もなくなるよ」、私「そうかもしれません」、先生「市役所の方は君たちにお任せすると云っているから、疎開跡の復興だけでなく、将来都市計画までやってみたらどうかね」ここでも飯塚先生の説得を受けた。  住友に就職する時と云い、この時と云い、よくよく不肖の教え子だった。結局将来都市計画までやると云う発想に気持ちが動いて、市役所に出ることにした。

  戦時中松江市は空襲を受けていない。それでも焼夷弾による空襲被害を少なくする為か、木造建物を疎開と称して強制的に取り壊した。取り壊す建物の計画もあったであろうし、基準もあったと思うが、それらは建築物法の時代だから県の建築行政の担当者がやっていたらしい。七月九日から初めて三千余戸疎開したと云うから、終戦になってみると早く壊された家、壊す途中で中止した家、壊しを免れた家いろいろあって、事情を知っているものは復興だと云っても関わりたくないのが本音のようだった。市役所の建物は、木造入り母屋造りの二階建で、殿町の今の日本生命のところにあったが、その東側が昭和九年に竣工した鉄筋コンクリート三階建て(木子七郎設計)の公会堂だったので、市庁舎は率先疎開して、公会堂で執務していた。

  私の辞令は、松江市緊急住宅対策本部事務ヲ嘱託シ月手當金百圓給與とあって、昭和二十年十一月十七日付だった。大木さんは一日早く十六日付だった。

  市長は朝酌出身だとかの熊野英さんで、戦時中群馬県知事をしていた人。助役は小林誠一さん、民生課長は木山重良さん、厚生主任は勝谷信義さんで、緊急住宅対策本部の本部長は助役であったが、実質は木山さんと勝谷さんで企画し、判断して助役に報告了解を取ると云うやり方で、大木さんが相談にのっていた。因にこの時古参課長の木山さんの月給は百二十円、主任勝谷さんの月給は八十三円で、大木さんが百五十円、私が百円、一月になって来た中林さんが九十五円で、私達嘱託は一応別格であった。

  疎開跡の復興と云っても、当時住宅が建てられる資材が出回っているわけではなく、木材でも、釘でも、硝子でもみんな割り当て切符制であったから、当面は住宅補修用のそれら資材枠を確保して、必要な人に配給割り当てをする必要があった。資材枠の割り当てに関しては、県の商工課や、農林課が主管していて、松江市の建物強制疎開に対する優先割り当ての話し合いが、前もってあったんじゃないか、木山さんや勝谷さんが対県交渉に当たっていた。

  仕事を始める前に若干の事務的な準備があっただろうが、勝谷さんが前からの市の職員を使ってやっていた。大木さんがそれでも少し挨拶に行って置こうというので、天気のいい日に私もついて行った。要するに、松江に帰って来ました。市役所でこんなことをやります、宜しくということで大木さんの知ったところを三、四箇所、鴻池組は市役所のまん前にあった。大木さんは大阪だったけれど知った人が多かった。戦時中の統制会社だと云うことだったが、松江土建株式会社は、新大橋の袂藤本米屋を事務所にしていた。社長は山本要次郎さん、上尾実君がいた。私は知った人はないから、もっぱら聞き役だったが、この時を初めとして松江の業界関係の人とも段々知り合いになった。

  民生課は最初に公会堂の中郎下から西の方の室で、元和室と土間だったところが段がついていた。戦時中からの兵事係と云うのも残っていて主任もいた。保護係と云うか生活保護の係や、救護人収容所のような施設の係、庶務係等は勝谷さんが見ていた。とても狭くて住宅対策本部の席なんか設けられなかった。それでも住宅補修資材の申し込みを受けつけることにしたから、応接用の小さい丸テーブル(径八十糎位)で仕事をした。

  補修資材の申込を受けつけるようになって、初めの間はかなりたくさんの人が来た。その初日であったか、二日目であったか忘れたが、朝から次々と申し込みの人が来て、閉庁時間までその対応に追われた。この時には外壁補修用の板(ここらで雨覆板と云っている)や、その下地材、胴縁、垂木類で、必要数量を後日こちらの枠内で査定して、材木屋で手に入るように証明したんじゃないかと思う。勿論大工さんの手を煩わして、時間のかからない申し込みもあったが。中には素人だから自分でも何がどれだけ要るか分からない人もいて、そんな人に説明するのは時間がかかった。

  私は知井宮から汽車通勤していたが、帰る時になって自分のオーバーだけが無くなっているのに気がついて青くなった。この時の外套掛けは、この頃はあまり見掛け無くなったっが、昔室の入口によく置いてあって、周囲から五六着掛けられる丸型のものだった。民生課の入口近くに置いてあって朝来たら他の人と一緒にそれに掛けていた。この日は沢山の人が出入りしたし、外套掛けは掛っている上に重ねて掛けることもよくあることだったから、帰る時になって気がついてもどうすることも出来なかった。勿論一張羅で自分ではいい物だと思っていたし(新居浜で十二年に五十八円で新調)、女々しいようだがいくらも着ていなかったし(十三、四、八年)、第一代わりは求めようが無かった。

今は車が多くなったし、暖かくなってオーバーは殆ど着なくなったが、その頃は冬はオーバーなしでは外が歩けなかったから困ったことは一通りでは無かった。今ふっと気がつくことだがその頃松江で質流れとか、古着屋があったか無かったか。

  どうすることも出来ないので、妹に頼んで、軍隊から持って帰った外套を仕立て直して貰うことにした。妹は洋裁をしていて、人様のものも頼まれてやっていたが、勿論男物はやっていないから嫌がった。余り着ていないものだったが、暇をかけて丁寧にバラシて紺色に染め上げて、何とか着て歩けるものに仕立て直した。夜を日に継いで一週間くらい掛ったろうか、大変な苦労を掛けた。

  公会堂の正面玄関は両袖があって、入口は七、八米後退していた。両袖部分の右手は応接室だったが、左手に守衛室だったのか、入場券を売っていたとか云っていたが、細長いスペースがあって、正面入口に面して窓もあった。松江市緊急住宅対策本部はここに移って、初めて小さい看板を掲げた。入口は片開きのドアーで、床が玄関ホールから一段下がっていた。奥行きは七米位あったが幅は二米程、それでも奥の窓のあるところは、公会堂の外観に合わせて丸型だったが幅が三米位あった。

  ここで扱っていた資材は前に記したように、木材、洋釘、板ガラスで、県から割り当てられた枠の中で切符を出していた。木材は申込書の明細から石数を弾いて一・五石とか二・三石とかの切符を渡して、現物は材木屋で求めていた。洋釘や板ガラスも切符を渡して、現物は小売店で扱った。

  中林さんが来てから木材の石数弾きで、二人とも算盤が随分旨くなったと笑った。割り当て枠と切符の受け払いは罫紙を綴じて記帳していたが、現金を扱わないので当分は単純な仕事だった。

  私はこの仕事をしていて、この頃草光信成先生に巡り合える幸運に恵まれた。先生について何にも知らなかったが、あの気品があって優しそうな風貌で静かに入ってこられた。最初に中林さんが用件を聞いていたが、それはここではありません、何とか出来ないですか、どうしますかねと云うことで私が代わって聞いた。先生は組み立て住宅のチラシを持っていて、これを建てて貰いたいと云うことだった。その頃、京店の京橋通り突き当たりで松屋のところに、関西建築と云う業者が、組み立て住宅を扱っていた。この時の組み立て住宅は床、壁、屋根を松板のパネルで組み立てるもので、先生の持っていたチラシは、六畳のワンルームに押入、便所、台所のスペースで六坪迄のものだった。基礎はなく短い木杭を打って、土台を鎹止めするもので、価格は六千円とある。

  先生は、いろいろ聞いても良く分からないし、業者と交渉することなんかとても自分には出来ないから、役所の人に相談した方が良いと思って、お金を持って来たからこれで買って下さい。と云って千円紙幣六枚を机の上に置かれた。ここでお金を預かる訳にはいきません。それに今預金が封鎖されて、新円に切り替えられるから、早くしないとお金が証紙を張ったものしか使えなくなります。と云ったっら、これが先生にどうしても理解出来なかったらしい。説明も悪かったかもしれないが、先生は当惑し切ったような顔をして居られる。結局大木さんから、ついて行ってあげなさいと声がかかって、二人で関西建築へ行った。

  関西建築はここで二年位もやっていたろうか、私は、この地方で組み立て住宅が沢山売れると思っていなかったので、当時あまり関心がなかったが、後日友達や知り合いの中で、終戦後は関西建築にいたという者が五人も六人もいて、時々その時のメンバーが集まって一杯やっていると聞いて驚いたが、この時には知った人はいなかった。

  関西建築では、建築位置を告げて六千円に含まれる内容と仕事を確認して、支払いを済ませ、建てる日を打ち合わせして帰った。

  先生が、組み立て住宅を建てられるのは、朝酌の西尾部落で荒れた山畑のような土地が、持ち主の了解が得て借りてあった。関西建築で確認した内容を先生に説明しているうちに、先生は住宅が出来るまで相談に乗っていろいろ教えてくれということだったが、また日を改めることにして別れた。

  今考えると、それから先余り立ち入るのはどうかと思うが、その時は二三時間先生と話して大変失礼かもしれないが、先生が余りに純真で世事にうとい芸術家の典型のように思えて、到底このまま突き放す気にもなれず、何の抵抗もなく面倒を見てあげようと思った。

  その時の先生の住まいは母衣町今の乳児院の所で、建物疎開と関係があったかどうか分からないが解体途中のような感じだった。もとより東京に家があって郷里に疎開しておられる訳だけれど、朝酌の組立住宅はどうされるのか分からないので、関西建築が組み立て住宅を建てたのを見届けた後で、先生の宅へ伺って打ち合わせした。先生は松江に非常に愛着があって、近郊の風景や、道端の草花も松江に居る間、もっともっと描きたい、本籍も朝酌へ移したと云って居られた。

  先生は十畳位の板張りにした室に座布団を置いて、アトリエ代わりにして居られた。部屋いっぱいにスケッチや、描きかけの絵や、画材が散らばっていたが、派手な絵は見かけられなくて、先生のその時の心境を、彷彿とさせるようなものが多かったような印象が残っている。

  母衣町の家は何時まであったか忘れたが、先生は当分そのままで引っ越しはされなかった。何回か先生から連絡がある度に宅へ伺っているうちに、どうしても炊事場を二坪ばかり増築して欲しいと云う話になり、材料はどうして段取りしたか忘れたが、私の従兄弟岡田祐二君が一年前に工業の建築を出ていたので、大工道具を持って来て手伝って貰うことにして、二人土曜、日曜泊まり込みで、つけ降しの下屋を増築した。先生が、自分は何を手伝ったらよいかと云われたので、先生それなら円隆寺の下の川から、なるべく大きな石を二十個程拾って来て下さいと頼んだ。基礎石か束石に使うつもりだった。日が暮れても先生が帰られないので、近所の人に話して提灯を持って出て貰い一緒に捜して貰った。いくら大声で草光先生!草光先生!と叫んでも応答がないので、もう母衣町に直接帰って居られると判断して捜すのを止めた。翌朝先生は昨日と同じ格好で来られた、ショートパンツで荷車に川で拾った石を積んで。この時の荷車はミニの両輪で四十糎位の金輪がついていた。戦時中からこの頃まで使われていたが、砂利道をゴトゴトと母衣町まで往復されたわけだ。川で石を捜しているうちに寒くなったんだそうだ、九月頃だったろうか。

  私はこの頃だったか、もう少し後だったか記憶がはっきりしないが、先生に肖像を描いて貰った。勿論遠慮したが、先生は松江に帰っている内に百人程描かせて貰うと云いながら、そこらに散らばっている四号程のベニヤ板に花瓶か何か静物が描いてあるものを選び出して来て、私の話を聞きながらナイフで少し絵の具を擦って居られたが、それを裏返すとすぐに描き始められた。そんなに長い時間掛らないから後二、三回と云って居られたので、先生の云われるままに描いて貰った。私の二十六歳頃の胸から上の肖像で、私はこの絵が大変気にいったので、今でも大事な宝物のように思っている。

  二十二年の暮れに私の祖父がなくなった。どういった話からか記憶が薄れてしまったが、先生が祖父の写真があれば肖像を描いてやろうと云われて、これも描いてもらった。

  先生が朝酌に本籍を移したと云って、組み立て住宅を建てられたことに始まって、画家としての先生の生涯に全々関係のない私が、二十二、三年頃迄先生とどういった関わり方をしていたのか忘れてしまったが、昭和二十三年六月頃私が東京に出る機会があって、先生に連絡して東京の先生のアトリエを訪ねて行った。東京の家が締め切ったままでだいぶ痛んでいるので、機会があったら一度見てくれと頼まれて居た。その頃先生は、京都や東京を行ったり来たりだが京都に居ることが多いと云っておられた。(京都市立美術専門学校嘱託をして居られた時)その日も先生一人で建物の中には入らないで外から見て回った。北向きにあるアトリエの窓の敷居に、落ち葉がたくさん溜っていて、敷居が腐って穴が開いて居た。締切りだから庭木や日当たりの関係で、極端なのはそこだけだったが、近所に大工さんがいたら、取り敢えずこの敷居は取り替えて置かなければいけないと云ったっら、東京は大工さんも高いんでネ!と云って居られたが、暫くして先生は、布野さんあんた東京へ出て来てこのアトリエを使って設計事務所をやりませんか。東京ならいい金になりますよ。ずっと松江の市役所では惜しいですよと。私はそれは大変な買いかぶりだと思うと同時に、この時の先生の気持ちを測りかねたが、今思うと先生は大工さんを頼むなんて俗事がたまらなく嫌だったんだろうと思う。

  私は昭和二十三年に結婚して家内と一緒に飯塚先生の宅にご挨拶にいった。その時に客間に草光先生の描かれた先生の肖像画が懸かっていたので、あの時草光先生が云っておられた百人の肖像画のことを思い出した。後日草光先生が亡くなられて先生程の大画伯に、当時の私が認識が足りなくて、なれなれし過ぎたと思って、密かに反省した。ここに紙面を費やして書き留めたことも、一般の人に聞かせても特別に関心を寄せることではないと思う。しかし私にとってこの時の先生との出会いは、あの先生の風貌とともに生涯忘れ得ないものとなった。

  住宅対策本部で島根県から資材の割り当てを受けて、住宅の補修用に切符を出していたのは最初のうちだけであった。御存じ生活物資を初めとする、統制と配給切符は戦時中からの延長であったが、だんだん矛盾も出てきて、闇の流通が多くなり、配給切符は有名無実になっていく中で、県の松江市に対する割り当て資材も、現物に変わって来た。釘樽や、板ガラスは、当時まだ残っていた荷馬車を頼んで取りに行った。公会堂の敷地内で東北の付属小学校の境に、六坪程の木造倉庫を建てて格納した。セメントは業者から預かり証をとって、業者の倉庫に保管を依頼した。それらの大部分は、市から発注した住宅工事の支給材料になった。

  二十一年の春、戦時中に三瓶山の東の原で、軍用材として切り倒されてそのままになっている原木が、松江市に払い下げされることになり、大木さんと一緒に受け取りに行った。払い下げ後の処理があるので、大木さんの同級生岡本恒夫さんが、当時浜田土建にいたので一緒に行ってもらった。

  県の林務課?の扱いで、三瓶山の東の原一帯で道路から下の谷に転がっている原木を見て回った。県の方には丸太の径、長さ、本数の明細が在ったかどうか分からない。元軍用材ということで引き継いだ帳簿上の数字はあっただろうが、払い下げ数量がいくらかということは受ける側でも一応問題である。そうかといって一本一本当たって検収するわけにも行かないから、六千八百石もないですよ、でも帳簿上はあることになっている、谷の下の方では腐ってしまって使えないのもあるしね、といった問答を繰り返し折衝して六千三百石、腐敗材五百石とすることで話がついた。経緯、数字共に私の記憶でメモが在るわけでない。ただこの時の五百石が後で問題になったので敢えて書いた。

  この原木は、谷から引き上げて粕淵の製材所で製材することにして、製品を松江に送って貰うことまで一切を岡本さんに頼んだ。原木を製材にしてその分止まりは、六割くらいのものだそうで、大木さんと岡本さんが話し合って確認した。その他のことは一切記憶がない。この原木払い下げは有償だったのか、無償だったのか、原木の運搬費、製材費、製材の輸送費はどんな取り決めで契約が在ったのか、なかったのか、支払いがあったとすれば、大木さんが取り決めて来たことを、木山さん勝谷さんが了承して予算的な処置をして、事務処理は勝谷さんが係の尾崎さんにやらせていたことが考えられるが、私や中林さんはそれらに一切ノータッチだった。

  製材の現物が納められるようになって、それを集積するために東朝日町の空地を借りて貰った。納品の連絡があると、そこへ中林さんが出掛けて検収した。製材は三五角の柱、垂木、胴縁、貫、板類で、平田君という若い人を使っていたが、そこで野積みにして管理した。入荷の石数、払出の石数は勿論記帳していたが、特に盗難等で問題になったことはなく、それらの大部分は、市営住宅の支給材料としてそこで業者渡しにした。

  終戦から月日が経つに従って、復員、引き揚げ、或は県外からの帰郷等で、松江市内でも工業学校の先輩、後輩が市内で職場を得て仕事で行き来するようになったが、松江市住宅対策本部では暇なことが多くなったので、仕事がなければ退職してもいいですよと云っていたが、もう少し待ってくれと云うことだった。

  この年の暮れまでに城山の椿谷に、共同宿泊所と、引揚者の一時収容施設を建てた。それらは保護係で運営管理されるもので、何れも新築だった。私と中林さんが手分けしてあの狭いところで図面を書いて現場も見たが、これが建築屋としての初仕事だった。

  昭和二十一年度で、応急住宅として国の補助金のある市営住宅を初めて建てた。引揚者等で住宅困窮者を、越冬用に入居させる為のもので、七坪半程度のものを四戸建として、南田町米子川の左岸市有地に十六戸、浜乃木元競馬場の入口の市有地で、六戸建てを主体に四十六戸、計六十二戸である。それらの入居者の決定等は厚生係で従来からの職員が扱った。

  しばらくこの頃のことで多少話は前後するかも知れないが、昭和二十二年四月は初めて公選による知事と市長が誕生した。熊野市長は知事選に立候補したが、戦前からの代議士であった原夫次郎氏が知名度で勝り、熊野さんは破れた。熊野さんが辞任したので、松江市長は前助役の小林さんが立候補して、対立候補元助役佐々木茂丸氏との一騎打ちになった。松江市役所では県下で一番早く二十一年の二月一日に従業員組合を結成していて、結成時には木山さんや、勝谷さんもそれに関わっていた。

  二十二年二月一日はゼネスト騒ぎだったが、それと前後して従業員組合は、選対を組んで熊野知事、小林市長、立林市議で可なり活発に動いた。市長選は対立候補が、古いタイプの人だったこともあって、勝谷さんも、大木さんも小林選対の主要メンバーだった。こうして市長選は小林さんの圧勝に終わって小林市長が誕生した。

  松江に進駐軍が来たのは二十年の十一月で、短期間で部隊は二回程入れ代わり、二十二年三月に部隊は撤退したが、軍政・情報を担当する部隊は二十六年九月その機能が廃止されるまでいた。江津市に戦時中陸軍造兵廠石見(?江津)工場と云うのがあって、進駐軍に接収されていたが、この寄宿舎の建物が放出されて、一部松江市の住宅対策に使えという指示がきた。解体移築しなければならないので二十二年の五、六月頃大木さんと下調査に行った。寄宿舎は十二棟あって、木造二階建て黒瓦葺きで、一棟は延べ五百坪程だった。松江市の住宅に当てるのはこのうち四棟、日赤松江支部が乳児院にするのが一棟、出雲市や、江津市も二棟くらいづつを払い下げ受けることになっていた。未使用の建物かそんなに痛んでいなくて、戦時中の建て物としては程度のいい物だった。

  国の住宅施策で、昭和二十二年度では庶民住宅新築事業というのが始まって、島根県にも住宅課が出来た。松江市は、一戸十坪の住宅を百六十五戸補助事業として割り当てを受けた。その庶民住宅新築事業の内百戸は、江津から移築する木造アパートであり、一戸建または二戸建として建てる住宅は六十五戸だった。市が住宅困窮者に市営住宅を供給ためにはそれら住宅を建設するための用地を取得することが大変難事だった。当時の市営住宅は今考えるように、年度初めから計画や予算があって建てたものでなく、補助金枠について県と折衝し、市の予算について財政当局の了解を取り、建設用地の取得が旨くいった時にそうなったという感じだった。それらは殆ど勝谷さんがやっていた。昭和二十二年度の市営住宅は最初に浜乃木の競馬場跡地の市有地に一戸建で二十五戸建てた。後から二戸建で二十四戸を追加して建た。

  江津から移築する木造アパートは、未墾地買収農地などとの関係もあり市会議員でもあり農地委員でもある蔭山義夫氏の協力を求めて東朝日町小浜と、宮ノ沖で、それぞれ千坪程度を取得して解体移築に着手したが、用地取得の遅れた新築住宅十六戸は事業繰越した。

  他にこの頃余裕住宅改造事業と云うのがあって、間数があって間貸しすることが出来る住宅に、間仕切りしたり、簡単な炊事場を作ったりするのに補助金を出して同居を勧めていた。それらは別に技術者でない年配の人を嘱託として入れて住宅係と云うことでやっていた。

  選挙挙後かなり日数が経過していたが、住宅対策本部の木材が横流しされているという情報があって刑事が調べに来た。木山課長のところで一通りのことを説明して、どんな噂か知らないがとんでもないことでそんな事実はないとつっぱねたが、投書があったので一応調べさせて呉れと云うことで、関係者を聞いて帳簿を持って帰った。次に来た時に帳簿を書いている人に警察に来て貰って呉れと云って帰ったそうで、課長は気の毒そうに私に行って呉れと云う。そして市長選挙に絡んだ反対派の投書に違いないと推測でいろいろ話して呉れて、警察は正面から入ると新聞記者なんかに見られるとうるさいから横から入って宿直室へ来て呉れということだったと。払い下げ木材の受け払いの数字なんか私が説明したほうが一番良いと思ったし、私も多少面白半分の気持ちもあって、いいですよと云って出掛けた。当時は県警でなく市警で元勧銀の向い側にあった。

  警察の宿直室で、二人の刑事さんが帳簿の数字について一通り聞いたが、私の説明でそれはおかしいと云うことはなかった。そのうちに家一軒建てるのにどのくらい木材を使うかといった質問があって、私も素人さんだからと思って丁寧に説明していたが、刑事さんはそんなもんですか、と云って聞いていたが、今度は五十石の木材ではどのくらいの家が建てられるかと質問を変えて来たので、十五坪位の家なら建てられるというと、十軒かと云っているので、一軒ですよと云ったら、いやいやと云いながら、今度は二人が可笑しいなと云い出した。そのうちに一人が出たり入ったりで、済まんがもう少し待って呉れと云う。私は少し退屈して来た。今度は、この帳簿と別に私が知らないところで木山さんや、勝谷さんや、大木さんが木材を動かすことはないかと云う。私は絶対にない、そんなこと出来るわけがないですよ、と云ってニヤニヤしていた。あんたがそういうなら間違いないかもしれないが、でも五百石程合わないんだよと云う。

  私は咄嗟には何のことか分からなかったが、頭の中で思考がぐるぐる回転しているうちに、腐敗材ではないかと思い当たったので、その時のいきさつを話していたら、外に出ていた刑事さんが、分かりました、分かりました、と云って帰って来た。そして私の話を一緒に聞いていたが、終わるとそうだそうですな、と云って相棒に今の話と一緒ですわ、なかなか知ってる人が分からなくて、いや長時間済みませんでした、と云ってチョンになった。この間二時間半だった。

  帰って木山さん、勝谷さん、大木さん一緒に報告しておいた。それはご苦労さんでした。奴等投書するにしても全然的が外れちょうがの、わしら警察に呼ばれても手帳は飲み代の割り勘だけしか書いてないからちっとだいおぜことない。というのがその時の勝谷さんの弁だった。みんな笑っていた。

  最初に競馬場の土盛スタンド跡に建てた二十五戸には三瓶の払い下げ木材からこの寄宿舎一棟を、昭和二十二年度では五十世帯が入居出来るアパートとして、二棟分で新築庶民住宅百戸の補助対象事業とすることになり、解体移築は、株式会社清水組に請負わせた。清水組は戦時中から安来の日立製作所で仕事していて、この時は松江市の仮庁舎の工事中だった。

  市営アパートを建設する敷地を取得しなければならないが、東朝日町一帯が適地と考えられ、市会議員であり、農業委員であった影山義夫氏に協力を求めて、何とか取得することが出来た。それが今の小浜アパートと、宮ノ沖アパートの敷地だった。この後も市営住宅の建設用地を取得するために、勝谷さんと私は、度々影山議員を訪ねて協力を求めたが、今はそれを置いて先に進む。

  一棟五十世帯入居と云っても一、二階とも廊下階段を残して、廊下の反対側に下屋で共同炊事場をつけてそれらを含めて五百坪だから、一階二十世帯と、二階十世帯は、十畳と二間の押入が専用部分で、二階二十世帯は、六畳と一間の押入が専用部分であり、新設間仕切りは板壁であったから、当時としてもひどいものであった。

  江津から輸送するのに国鉄の貨車の手配が難しくて、初めに進駐軍の証明をもらって国鉄に交渉した。また基礎工事もセメントが不足していて煉瓦も使った。工事も遅れて一月頃に外回りの荒壁をつけるようになった。その頃県農業会の建物にいた進駐軍の民政部から、松江市長に呼び出しが来て、用件を聞いたらこのアパートの工事のことだと云うので勝谷さんと私が行った。ワイス大尉から通訳を介して説明を求められ工事の督促を受けた。それから一週間に一回、ワイス大尉は現場にジープを乗りつけた。農業会の民政部にも二、三回呼びつけられた。その都度勝谷さんが、布野さんワイスさんがまた来いとや行かや、と云って二人で出掛けた。一度はワイスさんが、赤い顔してテーブルを叩いて怒った。そんな時も通訳を介して聞くから変なものだった。また現場では壁土が凍結するから塗れないと云う説明に、焚き火をして凍らないように出来ないかと云ったり、今度来るまでにここまで壁を塗っておけ、若し出来ていなかったら市長以下お前たちも全員壁を塗らせるとも云った。それは小浜アパートで、宮ノ沖アパートは後から掛ったから、出来たのは五月末だったと思う。

  家賃は、二階の小さい室二十戸が月百円、後の十戸が月百九十円、一階の二十戸が月二百五十円だったが(二棟共)、お粗末なアパートでも長い間空き家になることはなかった。入退居は先に書いた住宅係で、新宮さん達が世話をした。

  昭和二十二年度の庶民住宅で一戸十坪のものは、初めに浜乃木の元競馬場スタンド跡に二十五戸、これは松江土建が請け負った。後から競馬場走路跡に二戸建で二十四戸建て、これは鴻池組が請け負った。東朝日町宮ノ沖アパートの隣接地で建てた十六戸は、石橋鉄工所からの用地取得が遅れて二十三年度に事業を繰越して完成した。

  こうした記述は、松江市緊急住宅対策本部で、私が仕事を通して経験して来たことを、私の記憶を主体に記述して来た。この後もそういったことで記述を続けようと思うが、当然記憶が曖昧なことも多い、例えば住宅対策本部で何時まで公会堂の玄関横の小さい室にいたのか、民生課も業務が増えて人が多くなったから、一階の中郎下を隔てた向い側の集会室に移って、私らも、そこへ行ってから二年くらい?あそこでは図板もおいて図面も書いていたと思うが、はっきりしない。

  というのも、土木課が公会堂の一階突き当たりの食堂であったところにいて、疎開後の仮庁舎は土木課営繕係で担当していた。今私の手もとにある新修松江市誌(昭和三十七年)、市政施行一00周年記念松江市誌(平成元年)には、昭和二十四年十一月八日仮市庁舎を完工し、公会堂を旧に復す。

とあるが、松江市職員組合編組合史では一九四七年一0月、旧庁舎跡に仮庁舎が完成して市役所は公会堂から仮庁舎に移転したとある。どちらも簡単な記述だけでどうでもよいことだけれども、要するに仮庁舎移転は窓口業務等が最初に移転したが、建設関係は二十四年の十一月まで、公会堂にいたと云うことだと思う。

  私は昭和二十三年三月三十一日付けで松江市技手月俸十九号給ということになった。[10]

 




[1] 父、布野哲郎は、生前、「自分史」なるものをしたためようとワープロを購入、机に向かうことが多かった。残されていた「自分史」関連のフロッピー・ディスクは七枚であった。文書数は七十。中に、「文書整理目次」という文書があって、

 

  [自分史]

  1.             

  2.               

  3.               

  [自分史資料]

  1.               

  2.               

  3.             

  4.               

  5.               

  6.                 

  7.                   

  8.              退 

9.                 

 

 とある。

以上に対応する文書があって、文章化されている。生誕から松江市役所へ奉職、結婚までの「人生」(一九一九年~四八年)が綴られている。他の文書は、以降の様々な記録である。一八三五年というのは、布野哲郎の曾祖父和三郎が生まれた年であり、「ふのむら地名」という文書があることから、自らのルーツを辿ろうとする気はあり、生前、そう話もしていたけれど、作業は進まなかったようである。他の文書の大半は一九四九年以降の様々な記録、日記などの断片である。「自分史」を書き継ぐつもりはあったようであるが、果たせずに終わっている。「自分史年表」が、印刷すればB4版で九枚残されている。一九一二年から一九九一年まで、「時代の出来事」「自分史」「家族の出来事」という三つの欄があって、「自分史」を除いて埋められているが、「自分史」の一九五三年から五九年、一九六三年から一九七六年は空白である。

 「はじめに」という文章に、「今年古希を迎えた。小さい時のこと、若いときのこと、いろいろと記憶を辿りながら、書き留めてみることにするか。」とあるので、書き始めたのは一九八九年のことと思われる。年表は一九九一年まで、「自分史」のための文書は一九九三年でほぼ終わっている。従って、集中して書かれたのは一九八九年末から一年余りだと思う。というのも、一九九一年の春先から、父は体調を崩している。そして、一九九三年八月、胃癌のため、胃、膵臓を全摘出する。その間、とても「自分史」どころではなかったことは克明な「健康メモ」が示している。病室にワープロを持ち込んでの日誌は、すさまじい、の一語に尽きる。生死を突きつけられながら、冷静に、ディテールを記録する心境は一体どのようであったのかと思うと、言葉を失う。「自分史」は、生死と向き合う日誌「健康メモ」へと連続している。

胃癌は両手に余る大きさであった。癌に犯された細胞そのものを実見した人はそうないのではないか。今も猶、生々しい。しかしとにかく、父は生還を果たした。そして奇蹟的に、転移もせず、以降、十年を超える「驚異的」な闘病生活となった。「自分史」を書き継ぐ余裕も心境もなかったように思うけれど、布野家系図には一九九五年一一月二八日修正とあるから、折りを見て、「自分史」のために、ワープロに向かっていたことは間違いない。

二〇〇二年一二月に倒れて、言葉を失うことになった、父の無念さは伝えようがない。意識は鮮明である、しかし、言葉が発せられない。筆談のもどかしさに、絶望する父の表情に、今でも涙が出る。母、隆榮が一日も欠かさず病室に通い、残したメモは手帳四冊になる。最後の一年については、いずれ記録に残したいと思う。

以下、とりあえず、本人がほぼ完成させた一九四八年までを取り急いでまとめた。一九四九年は、長男、修司が生まれた年であり、布野哲郎の「自分史」は、その子供たちそれぞれの「自分史」と重なり合う。いずれの日か、布野哲郎の人生をまとめて記録にしたいと思う。(布野修司)

 

 


 

[2]  父の発病から永眠まで(昭和五十三年八月・九月のメモから)

  八月十日(木)晴  夜晩く帰宅すると、知井宮(宣さん)から十時過ぎ電話があったとのことでこちらからかけてみる。

  父が身体の不調を訴え、七日県立中央病院で診察を受けた。今日再審でレントゲン写真を撮った結果、食道癌と診断された。明十一日更に胃カメラを呑む予定だが本人はもとより誰にも内密にしていると云うことだった。  こちらから、手術その他治療について、また入院等の対処の仕方について、明日医師に万事相談してみるように云って、十一時前電話を切る。大変ショックだった。

  十一日(金)晴  休暇を取って終日在宅、高校野球のテレビを見る。父の件詳細わからないまま、雑賀町小室と、広島寛威さんに電話して置く。

  十二日(土)晴  六時半ころ宣臣から、今日午後から出てくると電話があった。九時半出社、午後一時半退社、石原に行って癌に良いという酵素を分けて貰って帰宅する。

  宣臣が出松来宅、父の様子を詳しく聞く。春頃から不調だったようだが、最近はご飯が喉に詰まって食が進まない。七月末頃から病院で診て貰うように云っていたけれどなかなか行かなくて、やっと今月の七日に初めて県立中央病院で診察を受けた。はっきりしないので、十日の再診には宣臣がついて行った。内科の診察の後レントゲン写真を撮った。宣臣にだけ食道癌だと告げられた。十一日の再診は内科、外科、放射線科を回った。どの医師の所見も病状が進んでいて手の施しようがない、高齢でもあるし、手術も放射線治療も出来ないということであった。

  母には勿論話さないことにする。光恵さんには良く話して協力して貰うことにする。夜小室に来て貰って協議する。総合病院で積極的な治療がないなら、今後は自宅療養で開業医(加藤先生が良い)に診て貰うことにして、予め加藤先生の了解を得て置いて中央病院から回して貰うことにする。

  十三日(日)晴  知井宮に電話して、十五日隆栄と裕子と三人で仏様拝みに行くと連絡する。序でに加藤先生に連絡して盆休中でもお願いにお邪魔させて貰うように頼ませる。夜十四日十一時頃会って貰えると連絡が入る。

  十四日(月)晴  九時過ぎ小室に来て貰って出雲市加藤医院に出かける。日本生命にダイヤモンド婚の記念プレゼントを申し込むため、出雲市役所で父母の戸籍抄本を取って、宣臣と待ち合わせして十一時加藤医院に行く。先生は十二時過ぎに往診から帰宅、経過と事情を説明して父は自宅療養として、先生に往診して貰うよう頼む。先生は、明治は辛抱強いからネ!と飽きれていたが快く引き受けて貰った。寿司を馳走になり一時半に医院を辞して、更に三人市役所で打ち合わせして、三時半頃松江に帰宅。留守中修司が電話してきていて、広島の寛威さんから連絡を受けて東京で会ったら、溺れるものは藁をも掴むのたとえで、丸山ワクチンのことを云っていたと。

  十五日(盆休)晴  十時前日本生命松江支社で、父母ダイヤモンド婚プレゼントの申し込みをして、一畑デパートで蜂蜜を買って、十二時前の汽車で隆栄と裕子と三人で知井宮に仏様拝みに行く。お墓にも参り、田岐屋え仏様拝みに行く。父、母ともゆっくり話す。父は自分の室で布団は敷かず小さな扇風機をかけて横になっている、便所には一人で行く皆と一緒にお茶は飲まない。五時半のバスで出雲に出て松江に八時頃帰る。裕子が結婚したいと云う相手の人について詳しく聞く。

  十六日(水)晴会社は休む。物置から丸山ワクチンの記事が載っている文藝春秋を引っ張り出す。隆栄と裕子は帰京乗車券の買い求めと、泰広の蒲団をチッキで発送するため街に出る。夜修司と丸山ワクチンのことで電話連絡、裕子の結婚相手についても話して合えたら合ってみてくれと頼む。修司は九月初めに帰松すると云う。裕子に知井宮のお祖父ちゃんの病状について話す。結婚相手については、今の段階では面識もないので、一般論だとして自分の意見を話しておく。

  十七日(木)晴  会社から外出の序でに今井書店、園山書店で『癌は征服された』の本を探すも見当たらず、退社帰宅途中黒田書店で丸山ワクチンの本を買う。裕子は<やくも3号>にて上京する。

  十八日(金)晴  五時半退社。知井宮から電話連絡、十七日中央病院再診、十八日加藤医院初診。

  十九日(土)晴  市立病院吉岡事務局長に連絡して、杉原先生に会って貰えることになり、十時前から約一時間丸山ワクチンについて聞く。病院では使用しないと。

  二十日(日)晴  中林恒夫氏を見舞う、生協病院退院につき古志原の宅に。随分悪いのか本人に会えず。夕方丸山ワクチンの本を小室に回す。

  二十一日(月)曇  知井宮から今日も連絡なし。

  二十二日(火)晴  縁側敷居直しと雨戸直しに八時に大工さん来る九時過ぎ出社。石原で酵素を分けて貰って七時帰宅。夜美智子さん、裕子より見舞いの電話。知井宮に電話して様子を聞く。

  二十六日(土)晴  二時半帰宅。知井宮から宣臣が出て、丸山ワクチン使用について加藤先生にお願いした結果や、父の様子について聞く。酵素2000cc渡す。

  二十七日(日)晴  夕方小室が来たので丸山ワクチン使用その他昨日宣臣との話伝える。費用等纏め役頼むと。

  二十八日(月)晴  宣臣から加藤先生にお願いした丸山ワクチン関係の書類が整ったと電話連絡があり東京へ行くことにする。

  二十九日(火)晴  八時松江駅で特急券寝台券申し込み、八時半東京修司に電話して、三十一日上京するので、日本医大の受付日を確認の件頼む。二時特急券、寝台券購入、五時半退社。宣さんからレントゲン写真、医師の証明書届いている。夜修司、宣臣と電話で打ち合わせ。東京行き準備、疲れていて眠い。

  三十日(水)晴  朝合銀駅前支店で預金引き出し九時二十分出社。専務に三十一日休暇の了解をとり三時退社。入浴その他支度して五時三十七分出雲号で丸山ワクチンをとりに行く。

  三十一日(木)晴  七時東京駅に着く。七時半修司と待ち合わせ朝食後日本医科大学付属病院へ、八時三十分受付後、しばらく待ってスライドを見たりいろいろ説明を聞いて、十一時三十分丸山ワクチンを受け取り病院を出る。八重洲口に回り<やくも5号>の特急券が取れたので、修司と昼食後一時三十六分の<ひかり>で離京八時四十分帰宅する。

  九月一日(金)曇  会社を休む。知井宮に電話して宣臣十時過ぎに来る。丸山ワクチンを渡して打ち合わせして十一時半頃より出雲市加藤医院へ同道する。先生にワクチン注射の件頼み打ち合わせして、一時医院を辞して中央病院へレントゲン写真を返納する。一時半出雲市駅で宣臣と別れて汽車で四時頃帰宅。新聞切り抜き休養。

  二日(土)曇  六時十分~七時二十分隆栄と自転車で竹内神社に参拝する。夜知井宮より電話、父加藤医院へ連れて行って丸山ワクチンA皮下注射。以後九月四日より自宅で光恵さんが注射する。

  四日(月  古志原栄子から電話で、三日知井宮に行って来たと様子を知らせてくる。

  五日(火)曇  父散髪に行ったと。

  六日(水)晴  石原から見舞いの葡萄が届けられる。宣臣から二日以降の様子知らせてくる。

  七日(木)晴  夜大阪恵之から電話して来たので知井宮の状態を話す。見舞いに酵素を分けて貰って送ってくれと頼まれる。

  九日(土)晴  二時退社、ユニコンに寄って四時頃まで江沢社長から食道癌で亡くなられた母堂の治療経験について聞く。猿の腰掛けの煎じ薬、痛み止の注射と、医師と、看護婦と、付き添い家族等々。夜宣臣から電話、今日加藤先生に往診を頼み二時頃から先生が来て腹水を五00ccくらいとってぶどう糖の点滴をして貰った。江沢さんの話を少しする。

  十日(日)曇時々雨  九時過ぎに家を出て十一時知井宮へ。父の様子今日は痛みがなくお粥が一杯食べられた、石原からの葡萄美味しく食べられた。ぶどう糖点滴二本目、ワクチン今日五本目、咳も少い。五時過ぎのバスで出雲に出て汽車で帰宅。夜小室と、大阪恵之と、広島寛威に電話して知井宮の様子を知らせる。

  十一日(月)雨  五時四十五分退社、夜十時宣臣から電話、父発熱(三十七度八分)加藤先生往診腹水抜き取りは止めて、ぶどう糖に利尿剤を入れて点滴栄養補給する。先生が良い抗癌剤があるがと云って、帰り際に薬をとりに来いと云われたので、行ったら朝夕使用の新しい坐薬三日分渡された。

使用すべきかどうか。(抗癌剤と丸山ワクチン併用の問題)父は鬼門の清めとりんご汁を盛んに云う、懸命である。

  十二日(火)小雨後曇  今日は熱なし、点滴、丸山ワクチン(B)六本目。

  十三日(水)晴  夜泰広から電話明日帰松する。十時半宣臣から電話、本日三時往診腹水八00ccをとった二回目、ぶどう糖点滴。咳はひところより回数はうんと減り、弱くなっている。粘液がたくさん咳と共に上がる。食事は殆ど喉を通らない、重湯のようなお粥を茶碗に少し。岡田の叔母が見舞いに見えた。小室に連絡して置く。

  十四日(木)曇  点滴、丸山ワクチンA七本目、粉薬も水で飲めない。錠剤にしてもらってくれということで、丸薬をなめているように云われて貰ってくる。坐薬はなかった。重湯程度のものも殆ど喉を通らない。泰広帰松、知井宮のお祖父ちゃんの病気、大学院の試験、今後の進路等について話し十二時半就寝。

  十五日(敬老の日)晴  朝宣臣から電話、十四日母また脛が悪く勝部先生に行った。父は加藤先生の往診がないのを心細く思っており、入院して良くなるんだったら入院したいらしい。易で云う崇りを気にして、須佐の大宮さんに行ってお払いして貰うよう頻りに頼むので、これから(十五日)横丁の姉と一緒に須佐に上がる。医者はそろそろ入院をと云うが、どうが良いだろうかと。

  もうしばらく入院しないで自宅で頑張るよう宣臣に云って、午後古志原の栄子に来て貰って父の病状を詳しく話し、協力を頼む。夕方六時頃修司帰松、父の病状経過、裕子の結婚、修司のマンション購入、頭金預貯金等々話して十二時半就寝。

  十六日(土)曇  修司、泰広知井宮に見舞いに行かせる。隆栄が知井宮からの連絡で新聞社に電話してくる。父は昨夜から痛くて苦しむ。朝加藤医院で坐薬と痛み止めを出して貰って注射した。だらだらと眠りと覚めとの繰り返しだと。五時半退社帰宅、修司から知井宮の様子を聞く。入院を考えていて明日知井宮で相談したいと。午後二時半頃加藤先生が往診されて腹水一000ccくらい抜き取り点滴する。丸山ワクチン八本目注射。入院は中央病院を当たってみることにする。

  十七日(日)晴  修司、泰広、やよいで二十世紀梨を購入、手荷物にして発送、十四時五十二分やくも五号にて上京。

  小室の車で栄子と三人知井宮に行く。十五日父が苦しみ、十六日腹水をとって小康を得ているが、十八日には入院させるか、病室次第とゆうことで看護体制を協議する。恭子が夜昼付き添うと云うので頼むことにした。松江に三人帰ったのは七時半頃。夜宣臣から電話があって、あの後で恭子は自分とこの孫を預かると云うことでもめて御破算。この件小室に電話して置く。

  十八日(月)晴  十時過ぎ宣臣から新聞社に電話。昨夜から父の様子がおかしいハア ハア 云って口開けて眠り続ける、声を掛けると薄目を開けてまたすぐ眠る。とても大儀でもの言う気力もなさそう、顔色も悪く医者の往診を求めているが、遠方は通知したが良いかと。医師の往診の結果にするように云う。その後電話なし。帰宅後宣臣から電話、広島、大阪、郁子に知らせた。血圧最高七0、点滴二本続ける、丸山ワクチン。医者は危険な状態で今は動かせない。遠方は通知したが良いと云う。広島大阪に通知。

  十九日(火)曇  知井宮に電話して昨夜からの様子を聞く。変わったことなし、今朝のところ昨日より良いようだ、痛みもないと云っている。食事は全然喉を通らない。昨夜十時過ぎ広島の寛威、今朝大阪の八木の叔母さんと恵之が来ていると。九時半出社五時半退社。電話なくこちらから宣臣に電話を入れて様子を聞く。医師の往診あり、熱三十七度一分、血圧少し上がる、痛みはなし、咳もあまり出ない、粘液も上がらない、食物は全然喉を通らない、渇きに氷をなめていて氷を欲しがる。医者は頚部が固くなっていてそこにも転移していると云う、昨日より良いがもう痛みもあれっきりだろうとのとのことである。点滴のみ。

  二十日(水)雨  小室に電話して知井宮の様子を知らせて置く。いつものとおり出社。隆栄が知井宮に電話して栄子に様子を聞く。加藤先生往診点滴、丸山ワクチン十本目。寛威、恵之それぞれ帰る。夕方江津のきくえ叔母さん来て一泊。

  二十一日(木)曇  三時過ぎユニコンの山田さん、江沢社長からの猿の腰掛け届けてくれる。夜電話して様子を聞く。今日は痛まなかった、朝煎茶碗に一杯重湯が喉を通った。父は絶えず食べよう食べようと意欲を持っている。酵素を催促する、氷を欲しがる。朝中央病院の病室が開いたので今日午前中に入院しないかと連絡があったが、当分動かせないということで断った。加藤先生往診。隆栄、知井宮の煮豆をする。

  二十二日(金)曇  隆栄知井宮に障子貼り手伝い。

  二十四日(日)曇  十一時四七分の汽車、出雲からタクシイで知井宮午後一時、見舞金五万円、二十世紀梨一箱。恭子、小室来ている。足、手が腫れている。手は二、三日前から、目を開いたりつむったり、口が乾く氷をなめる、一時間に一回くらい寝返り、起きて座りたがる。腹水が溜っている。時々起こしてくれとせがむ。

  加藤先生六時頃往診、静脈注射痛み止め、後で点滴しようとするも血管が出なくて入らない。出来なかった。十一時半頃小室と共に知井宮を辞し帰宅、一時過ぎ就寝。

  二十五日(月)曇  朝栄子に電話して知井宮に行って貰うことを頼む。隆栄も朝預金引き出しの後

知井宮に行かせる。

  二十六日(火)  五時七分電話で起こされる小室知井宮から。自転車で南口へ出て五時四十分の下り列車で出雲市、タクシイで知井宮に六時四十分に着く。七時過ぎ皆起きてきて加藤医院へ電話を入れておく。八時様子が変わる。皆枕元に集まる。加藤先生来られて八時八分父は永眠する。

  八時四十分頃栄子、隆栄来る。親戚関係宣臣が通知する。あり合わせのもので交替で朝食だけ済ませると、隣の勝部正さんに諸事取り仕切ってもらうようお願いする。光明寺さんに枕経を上げて貰う。それぞれ手続き連絡の上、出棺は明日、葬儀は光明寺二十八日十時と決定する。広島からも来て通夜。

  二十七日(水)晴  朝までに大阪からも城崎からもみんな来て、九時から納棺する。一ノ谷火葬場

で火葬する。遠方の親戚も多く着替えもあるので、二十七日は小室の車で松江に帰宅する。

  二十八日(木)曇  五時過ぎ起床、六時家を出て小室の車で幸子さんと隆栄と四人で知井宮へ、七時過ぎ着いて朝食、九時二十五分胎泉寺から来られる。法名釈浄寛居士。花輪、弔電整理、係の人と打ち合わせ、十時葬儀。

  二十九日(金)昨夜来雨昨夜は母と共に父のやすんでいた室で寝た。夢は見なかった。雨はかなり降る、朝、市の典礼から来て祭壇を片付ける。十一時頃から会葬の御礼回りのため松江に向かう、十二時半帰宅。中電、松陽ビル、県庁、市役所、新聞社、ユニコンと回り三時半頃帰宅。小室は宣臣と共に再び知井宮へ、十時頃就寝。

 

[3] 葬儀後、富田慧の調査によって、布野村から『布野村誌』(通史編、布野村誌編纂委員会、二〇〇二年四月)が出版されていることがわかり、早速、取り寄せた。正式には「ふのそん」という。その歴史については、ほぼここに示される通りであるが、出雲について、以下のようにある。

 「布野左馬允:尼子・大内(陶氏)を倒して中国地方の支配者となった毛利氏は、・・・・旧尼子領の出雲国神門郡(島根県出雲市・簸川郡)は細かく分割して一一六名もの武士たちに与えているが、その中の一人に布野左馬允、知行高四〇石一斗六升四合の名がみられる。この左馬允の子孫にあたる出雲市の布野家に伝わる資料によると、彼は三次郡下布野にあった長福寺の本尊を出雲国神門郡塩冶郷(島根県出雲市)へ移して、天正一〇年(一五八二)浄土真宗長楽寺を建立している。また、江戸時代の文政一〇年(一八二九)にこの布野氏の子孫とみられる出雲の布野幾右衛門が戸河内村の王子神社(現在の奥津神社)に幟を奉納していることもあり、布野左馬允は元布野に住んでいた武士であることは間違いないとみられる。・・・・」(pp125126

 また、布野耕滋によれば、千葉県小見川町に布野城という城趾があり、布野姓は関東圏にもあるという。伝承によると、布野城には、藤原朝雄というものが居城していたが平忠常と戦って敗れたという。その後、布野左近が城主となっていたが、里見氏に攻められて落城したという。この布野と広島の布野とのつながりはまだわかっていない。

 さらに、『神西村史』第三編「藩政時代」第二章「武士の帰農」に次のようにある。

「尼子が滅(ほろ)んでから出雲武士はたいそう数が少なくなった。関ケ原役の後は、毛利の領地も防長2州に縮少した。出雲に封(ほう)ぜられた堀尾の家臣も多くはかの地から来たものである。特に、戦国時代に比べると一般に武士の数は少なくなり、尼子の末期では4万、5万という大軍を率いていたが、松江藩では、宝暦頃(1751~1763)「15,019人の家中、諸士ヨリ妻子百姓共」であった。これでは、妻子を除いた武士は、3千人から6千人ぐらいのものと思われる。尼子軍の10分の1である。こういう事情で、尼子滅亡後の出雲では非常に多くの浪人を生じ、この浪人ははとんど百姓になった。
 しかし浪人とはいっても、もとは武士であったから、領主とは特別の関係があって、1つの地域を持つ者もあり、不毛地の耕作権を得た者もある。農家になっても普通の農家より上位の階級にいた。「八幡宮古証文写し」に、「慶長19年、肝煎(きもいり)布野神兵衛、糸賀源右衛門、布野吉右衛門、宮奉行諏訪部神右衛門、大工玉串久左衛門、かちや与一右衛門、小村弥兵衛、山辺利右衛門、布野治右衛門、石富惣右衛門、神西藤右衛門」の名が見える。「肝煎」とは後の庄屋に当たるもので、「かちや」以下の6人は頭百姓に当たるものと思う。翌20年には、「肝煎多岐善右衛門、布野神右衛門、糸賀源右衛門、布野治右衛門、宮奉行諏訪部勘左衛門、玉串久左衛門」の名が出ている。そして肝煎は4名となっている。
 「多岐」の2字は「瀧」1字にも書く。瀧は、小浜から高岩の間に所有地があって、一時は富豪で名を知られたものである。山本醒翁の話では、古い俗謡に、「大津森広今市澤屋、塩冶角屋に古志馬庭小浜の滝にたちや(たては)あはぬ」とあることを聞いたが、当時小浜の滝家はそれほどの富豪であったということである。布野の本家は羽根坂の西あたりにあったのだろうか、これも富豪であったようである。『出雲鍬』に、「下郡、神西村布野与兵衛」という名が出ている。当家かその一族かであろう。塩冶村の布野氏と長楽寺は、毛利の保護のもとに、備後の布野から移った。羽根坂の布野と塩冶の布野とは関係があるかどうかよくわからない。しかし、羽根坂の布野も毛利時代に来たものと思われる。その家は今八島にあって、墓だけが残っている。この家が衰えたので、墓を惣廟1基に作ったようである。惣廟基台の四隅に五輪塔4基が載せてある。この家の初期には五輪塔墓であったのだろう。するとこれも武士であったことがわかる。このように当時の浪人は多く農業に携わることになった。時代は戦争から離れて産業に進む機運に向かったわけである。」

 

 

[4] 島根県簸川郡知井宮村尋常高等小学校尋常科通信簿

 

    '        學校家庭      簿          '

    '全操家農手裁体唱圖理地国算語  国修学学'

    '                        書綴読      '

    '績行事業工縫操歌畫科理史術方方方身期年'

    '1上    1   1 1 2       1 1   1 1 一第'

    '1上    1   1 1 1       1'1   1'1 二一'

    '1上    1   1 1 1       1'1   1'1 三学'

    '1上    1   1 1 1       1'1   1'1 末年'

    '1上    1   1 1 1       1 1   1 1 一第'

    '1上    1   1 1 1       1 1   1 1 二二'

    '1上    1   1 1 1       1'1'  1'1 三学'

    '1上    1   1 1 1       1 1   1 1 末年'

    '1上    1   1 1 1'      1 1 1'1'1'一第'

    '1上    1   1 1 1       1'1 1 1 1 二三'

    '1上    1   1 1 1       1 1 1 1 1'三学'

    '1上    1   1 1 1       1 1 1 1 1'末年'

    '1上    1   1 1 1 1     1 1 1 1 1 一第'

    '1上    1   1 1 1 1     1 1 1 1 1 二四'

    '1上    1   1 1 1 1     1 1 1 1 1 三学'

    '1上    1   1 1 1 1     1 1 1 1 1 末年'

    '1上    1   1 1 1 1'1'1 1'1 1 1'1'一第'

    '1上    1   1 1 1 1 1'1'1 1 1 1 1 二五'

    '1上    1   1 1 1 1 1 1'1 1 1 1 1 三学'

    '1上    1   1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 末年'

    '      1   1 1 1 1 1 1 1 1,1 1 1 一第'

    '      1   1 1 1 1'1 1 1'1 1 1'1 二六'

    '      1,  1 1 1 1'1 1 1'1 1 1'1 三学'

    '      1   1 1 1 1'1 1 1'1 1 1'1 末年'                                

[5] しひの木とかしのみ  (椎の木と樫の実)

     思ふぞんぶんはびこった

     山のふもとのしひの木は、

     根もとへ草もよせつけぬ。

     山の中からころげ出て、

     人にふまれたかしのみが、

     しひを見上げてかういった。

     『今に見ていろ、僕だって、

       見上げるほどの大木に

       なって見せずにおくものか。』

     何百年かたった後、

     山のふもとの大木は

     あのしひの木かかしの木か。

 

[6]     

   みぞれ北風  坊主山

     山のうえから  眺めたら

     僕のがっこが  見えました

     おそうじばんで  しめてきた

     まどが小さく  見えました

みぞれ北風  坊主山

      あしたは雪が  ふるでしょう

 

[7]    

     雪どけ道のぬかるみを

     杖にすがりてとぼとぼと、

     歩み来たれる老婆あり。

     ゆききの車馬のたえざれば、

     むこふの側へゆきかねつ。

 

     老婆の前を右左、

     行きかふ男女多けれど、

     北風寒き町の辻、

     みなりいやしき老婆には、

     手をかす人もあらざりき。

 

米屋のこぞうお得意へ

米をはこびし帰り道、

      ひらりと下りて自転車を

      角の下駄屋にあづけ置き、

      すぐに老婆を導きぬ。

 

      年の若きに感心な。

      

かくいう声を後にして、

      小ぞうは乗りぬ自転車に。

      国に母おや残すらん、

      彼のまぶたにつゆありき。

 

       下駄買ふ人も、売る人も、

       下駄屋にありし人は皆、

       彼の姿を見送りぬ、

       さとすべき子にさとされし

       小さき悔いをいだきつゝ。

 

[8] 九〇年十月十八日午前三時に以下のような文章が記されている。(修司)

90-10-18午前3時

  昨夜10時半頃から眠って最初に目が開いたのが1時40分用足しに行って後が眠れないままワープロの前に座る。古いことを書き残して置こうと思いながら(自分の能力の維持訓練のほかに何か為にしようとするものでない)とんと思い出したことのないのこくそくどのことを思い出した。

  のこくそはオガ屑のこと、くどは竃である。自分等が育った知井宮の家では昭和の初期からだったろうかのこくそくどだった。隣近所の家では石工の作った既成の竃が据えてあった。それも台所の板間に座って直に焚けるようになっていたから煙突はなく焚き付ける時はくすぶりが小屋裏から戸外へ抜けて行った。

  オガ屑を家庭炊事用燃料に使用する為の竃は台所の土間に戸外に面した壁にくっつけて二連築かれていて、それに続いてオガ屑がない時等万一に備えて既成の石工竃も高さを揃えて一基据えてあった。

  のこくそくどは、土間からの高さ90cm程に煉瓦を粘土で積み上げて作る。天端には鍋釜をかける金輪が二つあって、その中間はどうこといって余熱で湯を温める鉄製密閉型?の釜が天端を合わせて埋め込んである。(天端手前のほうに柄杓で水を入れたり湯を汲んだり兼用の口があって被

せ蓋がついている。)

  竃の構造として、火袋がΦ35cm高さ90cmの円筒形であり、上部に煙道があって、焚き口は前面最下端に鋳物で15cm程度の既製品蓋付きのものを使用していた。

  天端と前面は塗り仕上げがしてあった。後に修理の時には黒いモザイクタイルを貼って白い目地が大変新鮮に映ったのを記憶している。煙突は黒の土管で割り竹を当てて針金で括り控え金物だけは鍛冶屋に注文した。

[9]  富岡市手紙に返事

拝復  この夏入院していて、退院草々先月二日お電話を貰った時には何十年ぶりかで直接貴兄の声が聞けて、また新居浜時代若い頃の話ができて、本当に懐かしく思いました。普段は家内と二人ですが、五十日余り家を空けてこっそり入院していて、帰ったばかりだ ったので偶然とはいえ不思議でした。またその後手紙でご丁寧に近況をお知らせ頂いてありがとうございました。

 お説のとおり古稀を過ぎると、私も病気とのつき合いだけになったのかなと思う今日この頃です。十年ほど前から腰痛で随分悩まされましたが、八年前六十五才の時に椎間板ヘルニヤの手術をして幸い腰痛は完治しましたが、その頃から閉塞性換気障害、息切れがひどくて階段、坂道、荷物を持って歩くのが駄目、肺活量が普通の人の  くらいで医者は気管支喘息と云っていたけれど喘息の発作なんか全然ない。肺気腫である。朝夕気管支拡張剤を服用しているが、しばらくしたら薬のせいか手が震えて小さい字が書けない。そのためワープロを使用するようになったが、そろそろ職を引くべきだと思い七十才で建築士会(会長)も会社非常勤相談役)も一切辞めてしまいました。

  自分記でも始めるつもりで気の向いた時には自分の生い立ちとか、新居浜時代とか、徴用から現役入営、召集といったテーマ毎に気楽に書き溜めていましたが、最近は興味本意で古代史や考古学関係で時間を過ごすことも多く、自分記は停滞気味でした。

  そのうちに血糖値が高いということで(160 180) 二年ほど前から糖尿手帳を持たされて、呼吸器で通院する度に血糖検査を受けて、自分で食養生するように指導を受けていましたが、自分ではそれ程本気に養生していませんでした。

  この春五月十日の胃ガン検診では異常がなかったけれど、五月末に食べ物がみぞおちの付近で微かに支えるような感じがあったので、透視では見落としもあるから胃カメラを飲んで置いたほうが良いと云うことで、六月末に内視鏡検査を受けたら大きな潰瘍があるから直に入院だと云うことになりました。今までに胃腸が悪かった経験もないので何でこの年になって急に胃潰瘍だなんてと思ったので無理に頼んで入院でなく通院にして貰っていましたが、余り入院を勧められるのでこれはガンではないかとやっと気がついた次第です。

  七月初めに入院してもろもろの検査の後、八月四日胃の全摘術、膵臓の体部尾部、脾臓の合併切除を受けました。私の場合胃の上部から噴門にかけて巨大胃ガンがあり、尾部だけ残しても胃酸が直接食道に上がってメリットがないから、胃を全部とるということでした。

  六十キロくらいあった体重は、術前に五八キロ術後でこれから流動食という時に四八キロでした。退院時も今も四八~四九キロと横這いで簡単には体重も増えません。

食事を摂ることの苦痛が直接生きることに繋がることが分かっているだけに、他の人が同じ苦痛に耐えて元気になっていることを思うと、自分も頑張らなくちゃと思ったり、また膵臓も切除しているので、毎日朝と夕決まった単位のインスリンを自分で注射することによって、血糖をコントロールしなければなりませんが、自分の食欲次第で適当な食事をしていると低血糖の症状が出て嫌な気分になります。死ぬまでこんなことを続けるようならもうどうでもエエワと思ったり様々な思いがありました。二週間置きに通院するけれど内科、呼吸器科、外科があるので毎週半日づつ病院に行っています。それでも通院の度に二週間前を振り返ると大分良くなってきてると思います。退院して五十日やっと食事を摂ることにも慣れて普通食を食べています。五十年も前にたった一年間程一緒に過ごした時のことを懐かしく思い出しながら随分くだらぬ退屈なことをくどくどと書きましたが、お許し下さい。

富岡さんと私が新居浜で一緒に居たのは昭和十八年から十九年に掛けて一年ほどです。私は十八年四月に現役満期になり、工作課に復職した後十月、十一月は福岡県の星野金山の選鉱場施設解体現場に行って十二月初めに帰って来ましたが、十九年六月に召集で津田沼に行って終戦まで居ましたから丁度一年、その間に一緒に弓を引きに行ったり謡を習ったりしていたわけです。

  二十年十月一日付けで会社を辞めて夫々故郷へ帰ったわけですが、貴方を初めあの頃の先輩の人々は、私にとって忘れ得ぬ人の一人となりました。

  戦災を受けた高松市で、戦後設計事務所を開いてご活躍のことはよく承知しておりましたが、三、四年前に中村氏に貴方の消息を尋ねたときに病気をされて事務所の方はご子息が代わってやっておられると聞きましたのでお互いに歳を取ったからなーと思って居ました。

墓や法名の準備は誰も(普通の人はどうか知らないが)同じようなことを考えて居るもんだなーと思いました。砥部の骨壷までのこだわりには感心しています。それにもまして二千棟以上の全国の国宝建築を見て廻ったとは驚きです。私なんかこの歳になってもそんな発想も持たなかったから恥ずかしい限りです。

  もっとも私は役所勤めで、それも建築課長は昭和三七年から四三年まで、後は都市計画、区画整理、再開発等行政事務が多く直接建築営繕に関わることはなかったから。

  それでも戦前、戦中、戦後を通じて建築はいい職業と思っていたし、子供にもそんなに言っていたので、無理に勧めた覚えはないけれど長男は何時の間にかそっちの方へ行っちゃったし、次男は自分で航空工学を選んで宇宙開発事業団に入って今ワシントンに居ます。今度私が病気になったら誰か一人医者になって置けば良かったと言うのが子供たちの話です。

  この手紙もっと早く書くつもりでいましたが、食べることと下痢に悩まされ、絶えず腹具合が悪くて気分が悪いと、時間はいくらあっても無気力に無為に過ごしてしまって申し訳ないと思っています。重ねて八甲田ホテルからのお便りありがとうございました。また新鮮な林檎をたくさん送って頂いて恐縮しています。私は昭和五十年に恐山から浅虫温泉、弘前、十和田湖を回って帰った頃のことを懐かしく思い出しています。もうそんな遠出は出来ないだろうと思います。今年はワシントンの息子のところへ出かけるべく、準備していましたがお流れです。去年も行った奈良、大阪の王墓(天皇陵)巡りくらいはそのうち出来るかもしれません。取りとめもない私の近況です。別便で観光物産館に出している松江の名物の中から出雲そばと、あご野焼きを選んで送ります賞味してみて下さい。

         (九三年)十月二十五日                                                        布     

 

 上記の手紙に、天皇陵巡り、というのは、前年(九二年)のことで以下のようなメモが残されている。最後の遠出となった。

               廷の    墓を  歩く                                  92/06/0809

  平成4年鉄三全国大会は6月8日三重県榊原温泉で開催されたが出席しなかった。その前日6月7日奈良市で鉄三材料廠大会が開催されてこの方だけ出席した。出席者23名、同伴者13名、 欠席通知43名。

  7日15時集合記念撮影、18時~懇親会。

  8日9時出発大仏殿、二月堂、三月堂、春日大社観光のところ大仏殿だけ一緒して10;00 一行と別れて、大和朝廷初期の古墳めぐりの為、JR奈良駅11;23 発桜井に向かう(11;53)

  12時桜井駅で宇治市からマイカーで来た修司と美智子さんが待っていたので、食事のため駅の北側に回って少し走ると、小きれいなレストランを見つけて入った。大神神社の大鳥居の前である。そーめん定食を注文して食べた。観光シーズンにはお客でいっぱいになりそうな店であるが、今日は私たちのほかに客はない。13;10 行動開始。

  二の鳥居のところまで車で行って、車を降りると早速カメラのシャッターをきってから、緩い上りになった木立の中の参道を上る。さすがに落ち着いた雰囲気である。

  大神神社は三輪山がご神体で、本殿はなく立派な拝殿がある。拝殿前から社務所前、境内に参詣者が三々五々、静かな昼下がりだった。

  車に戻り県道を北に箸墓に向かう。一見してそれと解る前方後円墳、一応前方部正面からシャッターを切る。水濠の跡は解らない墳丘の裾と田んぼの境界に宮内庁の境界杭がある。ここからでは箸墓は旨く入らないので、この辺りから眺める三輪山の端正な姿をカメラに納めて置く。墳丘に沿って市道を南から東に回り、後円部東北から用水池の見える前方部を望んでシャッターを切る。

  県道へ出てJR桜井線を越えて景行天皇陵の前まで行く、県道付きに10台程度入れられる駐車場があるが1台も留まっていない。駐車場の外れは御陵の正面である県道には結構交通量があるが参詣者はない。正面に向かって右手駐車場の反対側に、宮内庁書陵部の詰所らしい建物がある。一間に一間半くらいの木造の粗末な建物で、中に職員が一人折りたたみ椅子に掛けている。御陵の正面に止めてあるオートバイはこの人が乗ってきたものらしい。写真を撮るのには至って都合が悪い。正面と水濠を含めた前方部の両側面を写す。

  崇神天皇陵は、景行天皇陵から更に約500m北にある。県道からのアプローチの部分も長く、更に拝所は30段くらいの石段で高くなっていた。事務所の建物も景行陵のものより大きく、机も椅子も二脚ずつあり、職員は一人だったがちょうど来客があって、世間話でもしているような様子だった。

  御陵の印を頂きたいと集印帖を出して来意を告げると、親切に丁寧に所定のところへ押してくれた。  水濠の見える所まで寄って行ったら、墳丘も水濠もほんの一部しか写らない。水濠の堤防に沿って立ち入り禁止の有刺鉄線柵があり、堤防に沿って3mくらいの農道があって、農作業の車も入っているので、御陵の南からカメラのシャッターを切りながら後円部の背面に回った。水濠は前方部と後円部では水面の高さが異なる。ダム式になっていて後ろが高い。

  後円部の背後の道は、日本最古の街道といわれる「山の辺の道」でその反対側奥の一段高いところに櫛山古墳がある。「双方中円」と云う珍しい型の古墳だが、説明板を読むだけで入ってみなかった。

  リュックを背負った女子学生らしい人が一人、三輪の方から来て、天理の方へ歩いて行った。曇った日で「山の辺の道」を歩いてみたいと思う程の天気ではなかった。県道に戻るのに車の通れない道幅の狭いところまで迷い込んだので、山道をバックして時間がかかったが、それでもまだ時間があるので、修司が渡部豊和(近くに住んでいるとか)さんに聞いて来て、今は何もないことは分かっていたが唐古鍵遺跡に行ってみることにした。

  重層の楼閣を線刻で描いた土器は、小学校のプールを造る工事の時に見つかったと云うので、地図を見ながら学校の建物を目当てに車を走らせた。学校のプールの近くまで車を入れたら先生らしい人が寄って来たので線刻土器のことを聞いてみた。ズバリ此処が出土地で、今月の始めまで土器が展示されていた。今は教育委員会に行けば話が聞けるかもしれないと。礼を述べて辞し国道24号から 165号を茶臼山古墳に向かう。

  茶臼山古墳は、前期古墳の中でもより古い形式で豪華な副葬品が発見されており、天皇陵級の古墳だと云うが、すっかり荒れている感じだ。

  周囲が市街地に接していて、空間がないせいもあるが、全然見栄えはしない。場所を確認したくらいで引き上げる。桜井駅の前でコーヒーを飲んで予約してあったとみやま館まで送ってもらう1730分。宇治市に帰ったのは 8時頃だったろう。  1820分夕食の案内があり3階の部屋から1階の広間まで下りる、客は他に若い人が1人。1940分~入浴。2030分~マッサージ、2220分就寝。

  9日6時20分起床、8時朝食、8時20分出発、近鉄桜井駅8時28分発、大和八木、橿原神宮前8時55分、古市9時30分。

  藤井寺まで行ってコインロッカーを使用し、タクシーを利用することを考えていたが、電車が古市止まりだったので、ショルダーバッグを肩に掛けて、方向を確かめながらゆっくり歩き出した。

  誉田八幡宮に参詣して、右回りに応神天皇陵の正面に回るつもりである。神社の境内に接して幼稚園があり、幼稚園の敷地の先が天皇陵古墳の外濠外堤である。一応後円部からの眺めを目に入れて置いて

八幡宮の境内を出て北に向かう。途中東高野街道と云う三角のおむすび形をした石の道標があったのでカメラに納めた。

  御陵の正面に回ると拝所の入口通路に、チェーンが掛っていて、参拝者、集印者以外立ち入り禁止の札がぶら下がっている。チェーンを跨いで拝所に進む。拝礼を終えてシャッターを切って時計を見たら1030分だった。

  古市陵墓監区事務所の建物に入って、御陵の印を貰いたいと云うと、課長のような人がどうぞと云って印箱を出してくれた。仲哀・応神・允恭・雄略・清寧・仁賢・安閑と七ヵ所の御陵の印があった。事務所も20坪くらいの広さがあり3~4人の人が執務していた。事務所を出て御陵の西に回りながら民家の間からフアインダーを覗いてみたが、大きな古墳だから全体が見えるような場所はなかった。

  この地域の古墳を一つ一つ観察して回っても仕方がないし、古市古墳群の立地、大まかな土地感のようなものが得られれば足るから、もうひとつだけ仲哀天皇陵を回って藤井寺駅に出ることにする。

  国土地理院の地図を手に、住宅街の中の道を、立ち止まっては方向を間違わないように荷物があるからゆっくりゆっくり進む。  前方に緑の森らしいものが見えるから、あれは仲哀天皇陵ですかと、自転車に乗った近くに住むと思われる人に聞いても、分からないという。2Kくらいの道のりを1時間半かかった。仲哀天皇陵12;00 写真を2枚程撮って、同じようにして近鉄藤井寺駅に出る12;50 。軽食喫茶に入ってやっと腰を下ろした。昼食する13;20 。あべの橋13;40 、天王寺駅13;50 、大阪駅14;10 、京都まで行くのは止めて新大阪で下りる14;40 。新大阪発15;41 松江着19;26  

[10] 以下に続けて次のようにあるが、文章は途切れている(修司)。

私は昭和二十年の十一月から汽車通勤していたが、前にも書いたように引き上げ、復員その他で帰郷してきた工業の卒業生は、鴻池組山陰主張所に飯塚先生を訪ねて夫々の消息を報告して、先生から他の同級生の消息を聞いていた。当時使っていた薄い小さなノートがあって、その余白に『二八会結成報告』と題した記録がある。それによると一月十八日(昭和二十一年)級友四人鴻池組山陰出張所で話し合って、とりあえず二十日の日曜日に飯塚先生宅で二十八期生会を再開することにした。中村重利君と、石倉信晴君を準備委員として消息の知れているかぎり連絡した結果当日次の九人が西川津町の先生宅に集まった。

  山根邦夫、渡部一雄、香川正浩、若槻卯吉、吉田豊秋、石倉信晴、中村重利、中村房一、布野哲郎  午後一時から八時頃まで歓談なかなか盛会で会名を二八会と命名し、会計係香川、会誌係布野、庶務連絡係中村と世話係を決定、会誌またはこれに変わるべきものの発行、名簿の作成をすることにした。その時に持田正、竹元定光君の戦死、木村竹市、宮地英一、田辺實蔵君の病死と、復員後既に他県に復職したもの、未復員のもの等々消息の分かる

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...