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2024年9月26日木曜日

「51C」:その実像と虚像―戦後日本の住宅と「建築家」―、鈴木成文・上野千鶴子・山本理顕・他:「51C」家族を容れるハコの戦後と現在,平凡社,2004年10月8日

  鈴木成文・上野千鶴子・山本理顕・他:「51C」家族を容れるハコの戦後と現在,平凡社,2004108

51Cは呪縛か

「51C」:その実像と虚像―戦後日本の住宅と「建築家」―

布野修司

廃墟の光芒---バラックの海

戦災によって焼失した住宅が二四〇余万戸、疎開などで取り壊された住宅が六〇余万戸、戦時中に建設さるべくして建設されなかったもの、引揚者用などを合わせると、戦後まもなく全国で不足していた住宅は四二〇万戸と推定される(一九四六年四月)。この圧倒的な住宅不足を前にして、「建築家」がいかに「住宅の問題」に取組むかを最大の課題にしたのは当然のことであった。

この課題に対する「建築家」のアプローチには、現実への回路がどのように想定されているか、すなわち、どういう主体(居住者)へヴェクトルが向けられ、どういう方法とプロセスが想定されていたかによって、いくつかのレヴェルがあった。建築行政、都市計画行政のレヴェルで住宅建設と都市復興を関連づけ、諸施策、諸事業の展開を考えるもの、公営住宅の直接的供給を前提とし、その方法、モデルを提示しようとするもの、住宅生産の工業化を目指しながら、「最小限住宅」という一つのプロトタイプを提出しようとするもの、住宅困窮者の運動を基盤としながら、「住宅生協」といった住宅供給のための組織をつくりあげようとするもの、などである。

大量の住宅建設という課題の一方で、また、その前提として求められていたのが、新たな住宅や生活のイメージである。「小住宅」コンペ(競技設計)が相次いで行われ、多くの若い建築家たちが情熱を込めて参加している。西山夘三の『これからのすまい』(一九四八年)、浜口ミホの『日本住宅の封建制』(一九五〇年)が示すように、建築家は、新たな住宅像の確立をまず目指し、それを具体化する様々な回路を現実の諸条件のなかで求めていたのである[1]

具体的な住居形式の追求は、主として二つの方向で行われた。一つは、公的な住宅供給を前提とした回路における新たな住宅モデルの提示、もうひとつは、住宅の工業生産化を前提とした回路における、新たな住宅プロトタイプの提示である。もちろん、二つの方向は最初から分離していたわけではない。いずれも、住宅の大量供給が前提であり目標であった。しかし、一方が、集合住宅を対象として、住まい方の標準化との対応で住宅の型を考えたのに対して、他方は、建築家が直接アプローチしうる戸建て住宅を対象とし、住宅生産技術にウエイトを置いていたという違いがある。

前者の方向を担ったのが、西山夘三とそのシューレおよび吉武泰水・鈴木成文とそのシューレであり、後者の方向を追求したのが池辺陽、増沢殉、広瀬鎌二らの「最小限住宅」プロトタイプの模索、また様々な組立住宅の試み、中でも、日本の近代建築を主導してきたと言っていい前川國男を中心とするMID(ミド同人)や山口文象を中心とするRIAなどのアプローチであった。

 

「51C」から「nLDK」へ

一面のバラックの海を眼前にして、いかに多くの住宅を公的に供給するか、どのような住宅を供給すればいいのか、「51C」誕生の背景は、およそ以上のようである。

西山夘三の『国民住居論攷』など理論的背景[2]についてここで触れる余裕はないが、要するに、ある制約条件(三五平米という限られた面積)において、「食べる場所と寝る場所を分ける」(食寝分離)、「寝室を分ける(二部屋確保する)」(就寝分離)という単純な二つのルールをもとに設計されたのが「51C」型平面(間取り)である。そして生み出されたのが、「食事もできる台所」=ダイニングキッチンDKである。ある意味では苦肉の策であったといっていい。51A51B型が同時に提案されているように、唯一の解答とは言えないけれど、二つのルールを前提にすれば誰が設計しても大差ない提案であろう。しかし、そこには、一部屋を壁で囲い独立性の高い部屋にする、台所を少し拡げて食事もとれるようにする、台所ともう一部屋はつなげて使えるようにする、真摯な思索と人間味溢れる配慮が込められていた。

問題はその後の展開である。「51C」が生み出したDKは、日本の近代住宅(戦後住宅)の象徴として広範に受け入れられていく。日本住宅の封建制を象徴する「玄関」や「床の間」に代わって、DKが住宅近代化のシンボルとなるのである。一九五〇年には住宅金融公庫法が成立している。本来、集合住宅の住戸モデルとして提案された「51C」であるが、DKは家事労働軽減の空間的提案として農家住宅にも導入され普及していくのである。

一九五五年に日本住宅公団が設立される。「51C」を原型とする2DK形式の住宅は、それを階段室によって積層する集合住宅形式とともに採用され、全国に蔓延する。この標準化された画一的な住宅形式とそれが建ち並ぶ「団地」の光景は、戦後日本の象徴のひとつである。建設当初、「花の団地族」という言葉とともにある種の憧憬の念をもって受け入れられたことは記憶されていい。

日本住宅の標準モデルとしての「51C」以降の展開を単純に図式化すれば以下のようである。「51C」に結晶化した「建築家」の創意は、規模拡大の論理へと接続されたとみていい。

「食寝分離」「隔離就寝」→「公私室分離」→「個室確保」

「食」と「寝」の分離が実現した後は、「公」と「私」の分離、すなわち、住居内における家族団らんの場としてのリビングLの確保が目指された。「モダンリビング」はDKとともに日本の戦後住宅のもうひとつの象徴である。住宅の工業生産化を目指すもうひとつの回路においては早くから提案されてきた。そして、次の段階として、家族成員個々の個室の確保が目指された。

日本住宅公団の供給した住宅の間取りを追いかけてみればはっきりするであろう。一九六〇年代前半には2DKとともに3DK3LDKが一般的となる。nLDKという標準型は「51C」以降の一〇年で確立するのである。

 

「nLDK家族」批判

51C」以外に戦後日本の住宅モデルの提案がないわけではない。「最小限住宅」の様々な提案があるし、例えば、水回りなどユーティリティをまとめて配置して残りは基本的に一室とするワンルーム・コアの提案は今日振り返っても素直である。また、住宅生産の工業化を目指す回路においても様々な平面形式が提案されたが、DKという発想は希薄である。量の問題を第一義的に前提とするのでなければ、解答は無限である。「住宅No.1」から番号を振りながら百を超える個人住宅を設計し続けた池辺陽がいる。その『すまい』(一九五四年)には、住宅を単に平面形式に還元するのではなく、材料、設備、構造、形態を含めてトータルに捉える視点がある。また、限られた条件においても、生活の質を落とさない「近代化」へ向けての提案を個々の住宅設計において積み重ねることによってしか問題は解決しないという姿勢がある。個を充実しながら全体へ向かうか、標準化によって全体に対応するか、「建築家」のアプローチにも大きな違いはあったのである。「51C」が前提にしていたのは明らかにひとつの「型」の提案である。

51C」を産んだ建築計画学の基礎にあるのは、ひとことで言えば、「生活と空間の対応」という理念である。生活様式と空間形式の間に一定の対応関係があることを「住まい方(使われ方)」調査によって発見し、それを「型」として提示する「型」計画の方法がその基本である。住宅計画に限らない。学校でも、病院でも、同じような方法が採られてきた。

上野千鶴子の「51C」=nLDK批判にはいくつかのレヴェルがあるが、その第一には、以上のように空間形式を特権的に扱う建築計画学への批判である。この批判も、「建築家」に対する根源的批判となる「空間帝国主義」批判のレヴェルと具体的なnLDK(という空間形式)批判のレヴェルがあるが、中心は後者にある。空間の規定力(暴力)を思考と方法の基礎におく「建築家」は、「空間帝国主義」という批判は予め認めざる(居直らざる)を得ないだろう。空間を生活が裏切る(想定通りに使われるとは限らない)というのも前提である。問題は、空間の「型」は一定の制度を前提にしてしか成立しないのではないか、という点である。

施設(=制度:インスティチューション)計画の場合がわかりやすいであろう。学校建築における、同一学年が教室単位で、黒板を背にして教師と生徒が向き合うという空間形式はある教育制度が前提である。ノン・グレーディング(無学年制)やティーム・ティーチングなどを理念とするオープン・スクールは、現実の学校の使われ方をいくら調べても発想されないであろう。同じように、51C→nLDKというモデル提示にはある家族の型=近代家族という制度が想定されていたのではないか。こうして上野千鶴子のnLDK批判は、もうひとつのレヴェルの批判、近代家族批判へと接続することになる。

日本全体で、世帯数を住戸数が上回るのは一九六八年(全都道府県では一九七三年)である。戦後まもなく不足していた四二〇万戸を回復するのにほぼ四半世紀を要したことになる。人口増とともに世帯分離が大規模に進行したからだとされる。戦前における大家族中心から核家族中心へ、社会を構成する基礎的な集団単位が変化するのである。

家父長制に基づく大家族から近代家族(核家族)の自立、そして、家族という制度から個の自立へ向かう過程は、一方で、戦後復興と高度成長を支える産業システムの編成、労働力再生産の仕組みの形成過程でもあった。nLDKは、結果的に、近代家族モデルを理想化し、産業的社会編成の仕組みを完成する空間的装置となった。そして現在、高齢化、少子化、介護、年金・・・その社会編成システムの綻び、破綻が明らかになりつつある。近代家族モデルを前提としてnLDKモデルによってあまりに画一的に社会空間を編成してきた「建築家」にその責任があるのではないかというのが、乱暴に要約すれば、nLDK批判、「nLDK家族(近代家族)」批判の骨子であろう。

 

「nLDK」を超えて――住宅生産消費のメカニズム

51C」にその責任はなかったか、と言えば、ないとは言えない、と思う。致命的であったのは、課題を住戸計画という閉じた世界にのみ設定したことである。すなわち、住宅地計画、地区計画、都市計画へと空間計画を主体的に展開し得なかったことである。結果的に、単なる住戸の平面形式の提案に止まったことである。しかし、そこには、ひとり「建築家」の責任問題に帰せられない、まして「51C」の提案者を問いつめてすませられない背景がある。

戦後まもなく住宅の問題に取組んだ「建築家」たちの関心はやがて住宅から離れていく。朝鮮戦争の特需によるビルブームとともに、少数の建築家を除いて、多くは大規模な公共建築や民間のオフィスビルへ眼を向けていく。ひとつには、一九五五年に日本住宅公団が設立され、公的な住宅供給が軌道に乗りだしたことも大きい。そして、一九六〇年前後に相次いで住宅メーカーが設立され、住宅産業が成立していったことも大きい。すなわち、実際の住宅供給は公団や自治体、住宅メーカーに委ねられるのである。篠原一男の「住宅は芸術である」(一九六二年)、八田利也の「小住宅設計ばんざい」(一九五八年)が象徴的である。六〇年代初頭には、「建築家」にとって住宅は、極めて私的な回路において対象とすべきものとなるのである。

住宅がnLDKという容器に還元され、一個の商品と化していったことは、社会全体の産業的空間編成の問題である。いくら提案があっても、それを受け入れる居住者、消費者がいなければnLDKが蔓延することは無かったはずである。問うべきは、空間の需要・供給のシステム、生産消費のメカニズム全体である。

こうして、「51Cは呪縛か」という問いの出発点に共通に立つことになる。

一九七〇年代初頭、日本の住宅メーカーは住宅建設の一五%弱をカヴァーするまでに成長する。一九七三年には一年で二〇〇万戸近い住宅が建設されている。そして、同じ年の突然のオイル・クライシスとともに「商品化住宅の様式化」現象が顕著になった。画一的なプレファブ住宅には「安物」のイメージがあり、個性を売り物にする様々なスタイルの住宅が商品化されるのである。しかし、平面形式としてのnLDKは揺らぐことはなかった。何故か。それが問いの出発点である。

そして、その問いを愚直なまでに問い続けている「建築家」の代表が山本理顕である。一九八〇年代初頭から二〇年、石山修武、大野勝彦、渡辺豊和らとともに、『群居』[3]なる雑誌を出して、それなりに考えてきたのであるが、住宅を中心テーマとする建築家はそう多くはないのである。山本理顕の拘りは、戦後建築家の最も良質な志を引き継いでいると言っていいと思う。

その『住居論』[4]が明らかにするように、nLDK家族モデルとは全く異なった住居で育ったこと、世界中の住居集落を見て回った経験が大きいのであろう。むしろ、日本のnLDKが理念(擬態)にすぎず、現実の住まい方、住居形態が遥かに多様であるという確信が一貫してある。「GAZEBO(雑居ビルの上の住居)」で「建築家」としてデビューする以前、「都市に寄生せよ」とか「愛人が同居する家」とか即日設計の課題を一緒に担当していたから証言できるが、住宅に限らず、個々の設計におけるテーマは、常に「nLDK的なるもの(制度)」を如何に超えるかなのである。

 

集合の論理と共用空間

一九七九年に東南アジア諸国を歩き出して、強烈なインパクトを受けたのは、セルフヘルプ・ハウジング(自力建設)あるいはハウジング・バイ・ミューチュァル・エイド(相互扶助)と呼ばれる供給手法である。中でも、コア・ハウス・プロジェクトと呼ばれる住宅供給の方法に眼から鱗が落ちる思いがしたことを思い出す。

コア・ハウス・プロジェクトとは、ワンルームと水回り(トイレと洗面台)のみを供給し、後は居住者に委ねるという手法である。それぞれの経済的余裕に従って、後は勝手に増築する。間取りは自由である。財源が乏しく、やむを得ない創意工夫である。コア・ハウスの形態はプリミティブではあるけれど実に多様である。思ったのは、日本の戦後まもなくの「51C」であり、「最小限住宅」である。オールタナティブはいくらでもあり得たのではないか。

その後、インドネシアで集合住宅のモデルを考える機会があった[5]。結果として、コモンリビング、コモンキッチンをもつインドネシア版コレクティブ・ハウスとなった。nLDKをただ積み重ねたり、並べたりするだけの日本の住宅がむしろ特殊であることは明らかである。

キーとなるのは、集合の論理である。あるいは共用空間である。

51C」以降、鈴木成文の仕事の主テーマは、一貫して、集合と共有空間、「いえ」と「まち」をつなぐ論理をめぐっている。それを充分展開し得たのか、という問いは、同時に自ら引き受けるべきであろう。山本理顕の保田窪団地や東雲の提案が「51C」を超え得ているかどうかは冷静に判断されていい。

上野の近代家族批判はラディカルである。しかし、近代家族という擬制も諸制度によって裏打ちされており強固である。そして、住居もまた極めて保守的である。しかし一方、nLDKという空間単位によって構成される社会が多様化する家族関係、流動化する社会編成に対応できないことははっきりしている。

では、どのような空間モデルが可能なのか。

あらゆる機会において、「建築家」には問われ続けているのである。

 



[1] 拙著、「Ⅱ 近代化という記号 住宅の近代化」、『戦後建築の終焉』、れんが書房新社、1995

[2] 拙稿、「西山夘三論序説」、『国家・様式・テクノロジー―建築の昭和―』(布野修司建築論集Ⅲ)、彰国社、1998

[3] 198212月に創刊準備号を出し、2000年までに50号刊行した。

[4] 山本理顕、『[新編]住居論』、平凡社ライブラリー、2004

[5] 拙著、『カンポンの世界』、パルコ出版、1991

2023年11月13日月曜日

歩く、見る、聞く―――臨地調査(Field Survey)のために 調査心得7ケ条、調査必携、2004

 歩く、見る、聞く―――臨地調査(Field Survey)のために

 

  調査心得7ケ条

 

 1 臨地調査においては全ての経験が第一義的に意味をもっている。体験は生でしか味わえない。そこに喜び、快感がなければならない。

 

 2 臨地調査において問われているのは関係である。調査するものも調査されていると思え。どういう関係をとりうるか、どういう関係が成立するかに調査研究なるものの依って立っている基盤が露わになる(される)。

 

 3 臨地調査において必要なのは、現場の臨機応変の知恵であり、判断である。不測の事態を歓迎せよ。マニュアルや決められたスケジュールは応々にして邪魔になる。

 

 4 臨地調査において重要なのは「発見」である。また、「直感」である。新たな「発見」によって、また体験から直感的に得られた視点こそ大切にせよ。

 

5 臨地調査における経験を、可能な限り伝達可能なメディア(言葉、スケッチ、写真、ビデオ・・・)によって記録せよ。如何なる言語で如何なる視点で体験を記述するかが方法の問題となる。どんな調査も表現されて意味をもつ。どんな不出来なものであれその表現は一個の作品である。

 

6 臨地調査において目指すのは、ディテールに世界の構造を見ることである。表面的な現象の意味するものを深く掘り下げよ。 

 

7 臨地調査で得られたものを世界に投げ返す。この実践があって、臨地調査は、その根拠を獲得することができる。

 

 

 

 

 

 


調査必携

 

 0命

  パスポート

  航空券

③ 現金(円、USドル) カード トラベラーズ・チェックなど

    以上3点セットは常に確認できるよう身につける。

 基本的に①②は下のD,Eで管理する。③現金については、分散する必要がある。財布の他、下のB、Cに分けてもつ。スーツケースには入れない。トラベラーズ・チェックは面倒くさい。最近では大抵の国で(タイ、インドネシアでも)キャッシュ・ディスペンサーで現金を引き出せる。円とキャッシュ・カード(Visa Master card)でOK。但し、イラン、ミャンマーのようにカードが使えず,USドルしか信用しない国もある。USドルはもっておいた方がいい。空港で使えるというメリットもある。

 

 Ⅰ 基本構成

  A スーツケース

  B  ハンド・ラゲージ

  C  デイ・バッグ(リュックサック):調査用

  D  ウエスト・バッグ

  E パスポート・ケース

 

    A⊃B⊃C⊃D⊃E

 

    移動時 Ⅰ A(⊃C)+B+D(E)

  調査時 Ⅱ C

  常 時     D(E)は身につける。

 

  基本的にABの2つに収める。3つ以上を持つと忘れる確立が増す。

 

 A スーツケース・・・以下の分類毎に収める

 A-1  衣類

下着類4日分基準 正装(人に会う場合を想定)一着 

 A-2  洗面用具 歯ブラシ、石鹸等一式  

 ○洗剤、洗濯物乾し用ロープ、折り畳みハンガー:ロンドリー料金が安い所では選択に時間をかけず、作業した方がいい。

 A-3 化粧品、爪切り用具、整髪料その他 必要に応じて 

A-4 文具:4色ボールペン、カッター、油性マジック、トレーシング・ペーパー、コピー用紙、三角定規、物差し、安く買えるから予備はなくてもいい。

 A-5 薬:胃腸薬 バンドエイド 頭痛薬 痛み止め、

     タイガーバーム 飲んでもいい 正露丸     

 A-6 土産(本、扇子、・・・)、調査御礼(絵葉書、・・・)、名刺、紹介状、依頼状

 A-7 ノート・パソコン関連グッズ:各種プラグ、電話線ジャック、電池、CD-RomMoなど、保存媒体。

 A-8 その他

     荷造りセット ガムテープ ヒモ、封筒各種 ビニール袋(衣類を分けるのに使う)、風呂敷

 A-9 文献資料等 

 

  ハンド・ラゲージ(移動中、どこでも仕事ができるものを入れておく) 大きさは航空各社が規定している手荷物の大きさ(50cm×20cm×30cm)。

B-1 ノート・パソコン

 B-2 電気器具等

     ●変電器(トランス)

     ●各種コンセント、電話ジャック、ケーブル、延長コード、乾電池(予備、ほとんど現地で調達できる)

 B-3 デジタル・カメラ

     バッテリー メモリー・カード 充電器 

B-4 各種文献、資料。移動中に読む

 B-5 日誌用ノート 小型ノート

     時間があれば、どこでも気のついたことをメモする。

     また、領収書やチケットの類はノートに貼り付ける

 B-6 文具一式 特にノリとホチキス

 

C デイ・バッグ(リュックサック):調査用、移動時はスーツケースに収める。

 

 C-1 スケール(5m)、磁石

 C-2 赤外線計測器 最近性能はいいが、屋外では使いにくい。歩測器(ゴロゴロ)は不正確。歩測を身につけること。また、タイル幅(30cm15cm40cm)を利用する。

 C-3 、調査用紙(方眼紙)、ベースマップなど 4色ボールペン

C-4 小型ノート(スケッチブック)

 C-5 デジカメ、予備の電池 予備の記憶カード

C-6 帽子(日射防御) 折り畳み傘(簡易雨具)、ジャケット、セーターなど必要に応じて

C-7 調査御礼用品(絵葉書など)

   

 

 

 

2023年10月16日月曜日

一瞬の建築/建築/環境/視線,特集 環境と視覚,『季刊デザイン』no.7,太田出版,200405

 一瞬の建築/建築/環境/視線特集 環境と視覚『季刊デザイン』no.7太田出版200405

 

一瞬の建築:建築・環境・視線

布野修司

 

 「建築architecture」という言葉の語源は、知られるように、ギリシア語のアルキテクトンである。アルケー(arche 根源)のテクトン(techton 技術)がアーキテクチャーである。カエサルに捧げられたウィトルウィウスの『建築十書』[1]は、確かに、「建築家」はありとあらゆる技術、学問に通じている必要があると言い、それらを列挙している。また、「建築」をつくり挙げるための諸原理と方法をこと細かく示している。「建築」には、俗に、「用」「美」「強」の全てが関わる[2]

ギリシア語のテクネーtechnē(技術)の訳語がアルス ars(ラテン語)であり、それがそのままアート,アール art(英語、フランス語)、アルテ arte(イタリア語、スペイン語)となり、クンスト Kunst(ドイツ語)、そして日本語の「芸術」となる。クンストは技術的能力にかかわる動詞 können(できる)に発しているから、語の起源を保持していると言えるだろう。

ところが、「美術」(ボーザール beauxarts(フランス語)、ファイン・アーツ fine arts(英語)、ベレ・アルティ belle arti(イタリア語)、シェーネ・キュンステ schöne Künste(ドイツ語))という概念の成立、すなわち、美学なるものの成立とともに、「技術」と「芸術」が分離すると同時に、「建築」もまた分裂することになる。

柳宋玄は、「美術」「芸術」という概念の成立について次のように書いている。「つまりこの概念は17世紀に発生し18世紀に一般化したものであり、当時の古典美礼賛の風潮(新古典主義)と結びついている。この時代には,感覚的価値としての美の定義が試みられ、自然美と芸術美が峻別されて両者のうち後者が人間精神の所産として優位にあるものとしてたたえられ(G. W. F. ヘーゲル) 、美の表現以外のものを目的としない純粋な芸術いわゆる〈芸術のための芸術 lart pourlart (V. クーザンが命名) こそ真の芸術であるとされた。ここでいう芸術という概念も実はこのころ発生したのであり、・・・美の表現をもっぱらの目的とする者、すなわち artist(美術家)とそうでない者、artisan(職人)との両者が区別され、前者を後者の上位に置いてこれをたたえたのである。しかし、美術が美の表現だけを目的とするものであるなら、建築や工芸など実用目的を第1にするものは厳密にいえばこれを除外しなければならないことになる。英語でいう art and craft(美術と工芸)は、工芸がその実用性ゆえに美術とは別のものであることを示すものである。建築においてはとくに機能性がきわめて重要であり,機能性をすべてとする見方さえ出てきており、これを美術に含めるべきかどうかは問題となろう。」[3]

建築における「視覚の優位」は、言うまでもなくこの分裂に関わっている。

 

ファサーディズムの極相―――ぺらぺらのポストモダニズム建築

もう遙か昔のことのように思えるけれど、近代建築批判を煽動することになったC.ジェンクスの『ポストモダニズムの建築』[4]1977年)の表紙(日本版)を飾ったのは、日本の建築家竹山実設計の「新宿二番館」であった。建物の表層を縞模様に塗り立てたその雑居ビルは、スーパーグラフィックの先駆けとして注目を集めた。

     


しかし、その衝撃はそう長くは続かなかった。建築の外壁を飾り立てるだけで建築のポストモダンが切り開かれるというほど甘くはない。「建築家」にとって「建築のポストモダン」、すなわち、近代建築批判の課題は依然として問われ続けているけれど、その解答は未だに見いだせていないのである。わかりやすく言えば、鉄とガラスとコンクリートの四角い箱形の近代建築にはもううんざりだ、とばかりに、画割のように表皮を歴史的様式で覆い、細部に装飾を復活させたのがポストモダニズム建築であった。振り返れば、時代のお先棒を担ぎたがる「建築家」たちが、1960年代にバラ色の未来都市の幻想を振りまいたのと全く同じように、またしてもピエロを演じたに過ぎない。さらに口を滑らせれば、「環境問題」(「サステナブル・デザイン」「エコ・アーキテクチャー」・・・)を唱えながら、ただ「建築」を緑で覆う(屋上緑化、壁面緑化)昨今の趨勢もその延長である。

C.ジェンクスは、ウインナー・ソーセージの形をしたハンバーガーショップや靴の形をした住宅などをポストモダニズム建築の例として面白おかしく取りあげた。ポップ・アートとしての建築、あるいは商業建築の正当な評価という視点がその近代建築批判のわかりやすさの背景にある。C.ジェンクスが強調したのは、端的に言えば、建築のメッセージ性、記号としてのコミュニケーション機能である。理論的にC.ジェンクス曰く、ポストモダニズムの建築とは、大衆のコードと建築エリートのコードの二重のコードをもつ建築である。もちろん、ラスベガスのストリート・ストリップ[5]やフィラデルフィアの建売住宅のデザインをものの見事に分析し、建築の記号性についていち早く着目し、建築理論として深化させたのはR.ヴェンチューリである[6]。そして、手法、引用、コラージュ、折衷といった操作概念によって、近代建築批判を先鋭に戦略化したのが、例えば磯崎新であった。




しかし、世界中を席巻したのは、皮相なファサーディズムである。すなわち、「ポストモダン・ヒストリシズム」と呼ばれる皮膜だけの様式建築であった。

ファサーディズム、すなわち、建築の正面(立面)をことさら意識し、豊かに飾り立てることは珍しいことではない。大通りの軸線上に威風堂々の記念建造物を配することは、むしろ、バロック都市が得意とする手法であった。近代において、例えば、曲面を殊更に用いたアムステルダム・スクールの手法はファサーディズムと呼ばれたが、その表現は煉瓦という素材と密接不可分であった。

しかし、表皮と構造を分離し、ぺらぺらの表皮における記号表現を最大化したのがポストモダンのファサーディズムであった。

 

キッチュの海

近代建築の規範から解き放たれた「建築家」たちは、すぐさま、「ポストモダニズム建築」「もどき」の「建築物」群に包囲されることになった。「もどき」というのは当たらないだろう。「ポストモダニズム建築」がそもそも「もどき」を方法としていたからである。

古今東西、世界中の建築の様式、装飾、言語、部分(ディテール)を集め、貯蔵する宝庫から自由自在に要素を取り出して建築を組み立てる手法は、引用、折衷、・・・といった操作概念によって理論化されようとしたけれど、結果的に跋扈することになったのは「もどき」である。「もどき」の方が潜在的な力を秘めていたといってもいい。

「もどき」をキッチュkitschという[7]。キッチュというドイツ語は、もともと「かき集める、寄せ集める」という意味で[8]、キッチュから派生したフェアキッチュンverkitchenという語は、「ひそかに不良品や贋物をつかませる」、「だまして違った物を売りつける」という意味である。19世紀後半の南ドイツにおいて、まがいもの、不良品、贋物、模造品、粗悪品、といった意味合いで使われていたキッチュという言葉が、次第に広範に使われ始め、より一般的な概念となっていった。何か貴重なもの、本当のもの、美しいもの、すなわち芸術と呼ばれるもの(の代替物)を身近に所有する欲望、それで日常の空間を飾り立てる欲求がキッチュである。装飾、すなわち、機能性を超えたある種の過剰はまさにキッチュの現れるところである。エキゾティシズム、折衷主義(エレクティシズム)、あるいはリヴァイヴァリズムと呼ばれる運動や精神には、深く、キッチュの精神が関わっている。

すなわち、キッチュは芸術の大衆化、俗化の現象である。日常生活への芸術の取り込みである。それ故、キッチュの発生は、市民社会の成立、そして市民(ブルジョワジー)の美学と密接に結びついている。ドイツにおけるビーダーマイヤー様式がその象徴である。

 建築のポストモダンは、キッチュ(ネオ・キッチュ)の海を生み出した。というより、アンチ・キッチュとして成立したのが新即物主義(ノイエ・ザッハリッヒカイト)であり、機能主義(ファンクショナリズム)であったとすれば、キッチュがそれを飲み込んだのである。ただ、その過程にはあるプロセスが必要であった。ビーダーマイヤー様式の発生は、住空間におけるインテリアの発生を意味するが、大衆社会、大量消費社会の出現とともに、室内に閉じていたキッチュの精神は、群衆の成立とともに外部化していく。すなわち、都市における百貨店やスーパーマーケットの成立とキッチュは大いに関係がある。群衆が集う場所、駅や商店街がキッチュの温床となるのである。そこでは大衆の欲望に根ざした流行とコマーシャリズムが支配する。W.ベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』[9]を書いたのは1936年である。

 商店のファサードを広告とする「看板建築」や屋根の形だけで社寺や城郭、豪邸を表現しようとする「帝冠(併合)様式がプリミティブな例である[10]。そして、建築そのものがキッチュと化す状況が、ポストモダニズム建築の出現において初めて現出したのである。

 「もどき」の世界においては、ひたすら、差異を競うことだけが求められる。とにかく屋根だけ勾配屋根とすべきだ、という景観条例も、高邁な建築論で武装した建築作品もそこでは等価である。磯崎新は、振り返って、「あの頃はまだ理論化もできずに「手法論」なんて言っていましたが、これをテクノニヒリズムと呼ぶことにしました」という[11]。今や、時代は、「建築」のイメージは全てコンピューターによって自動生成される、そんな段階へ行き着いてしまっている。

 

イリュージョニズム

建築がこうして、表皮へと還元され、視覚的な記号や図像による伝達手段と化す遙か以前に、建築における視覚中心主義は成立していたと考えていい。美学なるものの成立がそれに関わるが、さらに視線の問題として遠近法的空間の成立がある。様々な近代的施設=制度(インスティチューション)の成立と近代的視線の成立は密接に関わる。例えば、監獄のモデルとしての一望監視装置、パノプティコンの考案は、「公共」建築が監視装置であることを示している。学校、病院なども同様であるが劇場がわかりやすいだろう。

劇場やホールの設計では可視線という概念が用いられる。可視線とは文字通り客席から舞台が見えるかどうかを示す視線のことである。後ろの席になればなるほど観客が邪魔になって見えないから、客席を順に高くする必要がある。その高さを決めるために、断面図上に引かれるのが可視線である。もちろん、近代以前に可視線などという概念はない。見えない席どころか聾桟敷も当たり前であった。



劇場に、視線が持ち込まれたのは、プロセニアムとカーテンによって客席と舞台が二分化される「イタリア式額縁舞台」の成立においてである。ジャン・デュビニュー[12]によると、この「イタリア式の閉ざされた箱」(考案者の名を冠して「サバッチニの箱」)は、16世紀から17世紀にかけて現れるや、先行する2つの演劇体系の概念、聖職者たちの間に残存していたギリシア=ラテン的概念と中世のミステール(神秘劇)の概念を一挙に覆し、すなわち、スペインの劇形式とエリザベス朝の劇形式を消失させてしまう。

 

サバッチニたち「建築家」、機械装置の考案者たちが劇場に持ち込んだのは、既に絵画を支配していた遠近法の原理である。すなまち、演劇の場面を舞台面を基底とし一人一人の観客の目を頂点とする視覚的ピラミッドとみなしたのである。こうして、劇場空間での体験は、個々人の視覚のイリュージョンに依存することになる。イリュージョンが個人に委ねられる以上、個人は集団から分離される。そして、集団の中にありながら「覗き見」を楽しむことになるのである。

パラディオの傑作テアトロ・オリンピコ(ヴィチェンツア)は、実に奇妙な劇場である。舞台は、まるで都市がそのまま劇場であった時代を再現している。すなわち、コメディア・デラルテなど大道芸人が活躍し、カーニバルが繰り広げられた都市を立体的に再現している。しかし、俳優が舞台の屋へ遠ざかっていくと、次第に大きくなってしまう。街の建物のセットが遠近法の線に従って低くつくられているからである。



演劇はこうしてイリュージョニズムの支配する「閉ざされた箱」に詰め込まれ、世界中何処でも同一の規範で上演されることになったのである。

 

「建築写真」のトリック

ポストモダニズムの建築以後、キッチュの海から如何に離脱し、「アートとしての建築」を表現するかが「建築家」の課題となる。そこには、奇妙な「世界」が仮構され、維持され続けている。

「建築家」の「作品」集あるいは「建築専門誌」の「建築写真」には基本的に人が「居」ない。すなわち、人が写っていることがほとんどない。異様な「世界」と言っていい。

その「世界」において、写真家は、極力、人、そして人の気配を消すことを求められる。当然設置さるべき家具やカーテンなども、「建築家」がイメージし、想定したものでないと画面から外される。何度か撮影に立ち会ったことがあるけれど、写真家はファインダーを覗くよりも、家具を動かすのが大仕事である。

「建築家」はまた「建築写真」に電信柱や電線、隣接する建造物など「余計なもの」が写るのを極度に嫌う。写真家は、場合によると、撮った後で、画面から「余計なもの」を消す修整作業を強いられることがある。自らの作品を自立した一個のオブジェと見なすのが「建築家」の常だ。見えているものを見ない、不思議な世界である。

「建築写真」を見ると、「建築家」は、「建築物」あるいは「空間」にしか興味がない、といわれてもしかたがない。また、「作品」としての「建築」にしか興味がない、と言われてもしようがない。著名な建築作品を見て回るツアーなどに参加すると面白い。「建築家」たちが、人が画面に入らないアングルを求めて右往左往する様は滑稽である。「建築家」は、建築写真を撮る場合には、人通りが途切れるのを待つのが習い性になってしまっている。建築の細部についての情報が欠如するのが嫌だからというのが言い訳であるが、問題の根はもう少し深い。

「建築家」が興味あるのは、竣工した一瞬の「建築物」/「空間」のの姿である。ほとんど全ての「建築写真」は「竣工写真」であって、一瞬の記録でしかない。建築写真家は、「建築物」/「空間」を際だたせる一瞬を選ぶ役割を担う共犯者である。そして、写真が切り取るのは、あくまで「建築物」/「空間」の部分である。「建築写真」を見て勝手にイメージを膨らませると、実際体験する「建築物」/「空間」との落差に愕然とすることがままある。極端な場合、「建築家」は、部分の一瞬の光景の出現(写真)のみのために設計することもありうる。騙されるのは修行が足りない、ということになる。

建築が一瞬の「竣工写真」と化したのはそう古いことではない。

「空間」の「部分」の一瞬を「写真」として切り取って「作品」化する「建築家」の手法は、冒頭に端的に指摘したように「美術としての建築」が分離成立して以来のものである。「建築」は「視覚芸術」である、という。実際、一般に建築史は美術史の一科として叙述される。しかし、建築は、古今東西いわゆる「美術」を超えた何ものかである。建築にとって視覚は極めて重要である。例えば、日本には椅子座と床座の生活が混在し続けているのであるが、下手な設計だと、すなわち生活面の設定がおかしくて目線が合わないと混乱する。しかし、例えば、目の不自由な人を想定して見ればわかるように、「建築写真」の「世界」が極めて倒錯している、ことは明らかである。

建築空間は、端的に、物理的な構築物であり、「実用性」を持ち、人によって住まわれ、生きられるものだからである。「建築物」/「空間」は、全身、全感覚によって体験されるものだからである。

 









[1] 『ウィトルーウィウス建築書』、森田慶一訳注、東海大学出版会、1969年、1979年。

[2] ウィトルウィウスに依れば、「建築」は、オルディナティオordinatio(量的秩序:尺度モドゥルスに基づいて全体を整序すること)、ディスポシティオdispositio(質的秩序:配置関係を統一的に収めること)、エウリュトミアeurythmia(美的構成)、シュムメトリアsymmetria(比例関係)、デコルdécor(定則:慣習、自然、様式)、ディスプリブティオdistributio(配分:材料、工費)の6つの原理、概念からなる。

[3] 「美術」の項、『世界大百科事典』、平凡社。

[4] C.ジェンクス、『ポストモダニズムの建築言語』、竹山実訳、新建築社、1978

[5] R.ヴェンチューリ、『ラスベガス』、石井和紘訳、SD選書、鹿島出版会、1978

[6] R.ヴェンチューリ、『建築の複合性と対立性』、石井和紘訳、SD選書、鹿島出版会、1982

[7] A.A.モル、『キッチュの心理学』、法政大学出版会、1986

[8] 1860年頃のミュンヘンで広く使われ始めた。さらに狭い意味では、「古い家具を寄せ集めて新しい家具を作る」という意味に使われた。

[9] W.ベンヤミン、『複製技術時代の芸術』、佐々木基一編集、晶文社、1970

[10] 日本の近代建築の草創期において、それらは「虚偽構造(シャム・コンストラクション)」といって軽蔑された。

[11] 磯崎新・福田和也、「ヴェネツィア・ビエンナーレ「亀裂」と村上春樹」、『空間の行間』、筑摩書房、2004

[12] ジャン・デュビニュー、「閉ざされた箱」、『スペクタクルと社会』、渡辺淳訳、法政大学出版会、1973