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2023年11月13日月曜日

歩く、見る、聞く―――臨地調査(Field Survey)のために 調査心得7ケ条、調査必携、2004

 歩く、見る、聞く―――臨地調査(Field Survey)のために

 

  調査心得7ケ条

 

 1 臨地調査においては全ての経験が第一義的に意味をもっている。体験は生でしか味わえない。そこに喜び、快感がなければならない。

 

 2 臨地調査において問われているのは関係である。調査するものも調査されていると思え。どういう関係をとりうるか、どういう関係が成立するかに調査研究なるものの依って立っている基盤が露わになる(される)。

 

 3 臨地調査において必要なのは、現場の臨機応変の知恵であり、判断である。不測の事態を歓迎せよ。マニュアルや決められたスケジュールは応々にして邪魔になる。

 

 4 臨地調査において重要なのは「発見」である。また、「直感」である。新たな「発見」によって、また体験から直感的に得られた視点こそ大切にせよ。

 

5 臨地調査における経験を、可能な限り伝達可能なメディア(言葉、スケッチ、写真、ビデオ・・・)によって記録せよ。如何なる言語で如何なる視点で体験を記述するかが方法の問題となる。どんな調査も表現されて意味をもつ。どんな不出来なものであれその表現は一個の作品である。

 

6 臨地調査において目指すのは、ディテールに世界の構造を見ることである。表面的な現象の意味するものを深く掘り下げよ。 

 

7 臨地調査で得られたものを世界に投げ返す。この実践があって、臨地調査は、その根拠を獲得することができる。

 

 

 

 

 

 


調査必携

 

 0命

  パスポート

  航空券

③ 現金(円、USドル) カード トラベラーズ・チェックなど

    以上3点セットは常に確認できるよう身につける。

 基本的に①②は下のD,Eで管理する。③現金については、分散する必要がある。財布の他、下のB、Cに分けてもつ。スーツケースには入れない。トラベラーズ・チェックは面倒くさい。最近では大抵の国で(タイ、インドネシアでも)キャッシュ・ディスペンサーで現金を引き出せる。円とキャッシュ・カード(Visa Master card)でOK。但し、イラン、ミャンマーのようにカードが使えず,USドルしか信用しない国もある。USドルはもっておいた方がいい。空港で使えるというメリットもある。

 

 Ⅰ 基本構成

  A スーツケース

  B  ハンド・ラゲージ

  C  デイ・バッグ(リュックサック):調査用

  D  ウエスト・バッグ

  E パスポート・ケース

 

    A⊃B⊃C⊃D⊃E

 

    移動時 Ⅰ A(⊃C)+B+D(E)

  調査時 Ⅱ C

  常 時     D(E)は身につける。

 

  基本的にABの2つに収める。3つ以上を持つと忘れる確立が増す。

 

 A スーツケース・・・以下の分類毎に収める

 A-1  衣類

下着類4日分基準 正装(人に会う場合を想定)一着 

 A-2  洗面用具 歯ブラシ、石鹸等一式  

 ○洗剤、洗濯物乾し用ロープ、折り畳みハンガー:ロンドリー料金が安い所では選択に時間をかけず、作業した方がいい。

 A-3 化粧品、爪切り用具、整髪料その他 必要に応じて 

A-4 文具:4色ボールペン、カッター、油性マジック、トレーシング・ペーパー、コピー用紙、三角定規、物差し、安く買えるから予備はなくてもいい。

 A-5 薬:胃腸薬 バンドエイド 頭痛薬 痛み止め、

     タイガーバーム 飲んでもいい 正露丸     

 A-6 土産(本、扇子、・・・)、調査御礼(絵葉書、・・・)、名刺、紹介状、依頼状

 A-7 ノート・パソコン関連グッズ:各種プラグ、電話線ジャック、電池、CD-RomMoなど、保存媒体。

 A-8 その他

     荷造りセット ガムテープ ヒモ、封筒各種 ビニール袋(衣類を分けるのに使う)、風呂敷

 A-9 文献資料等 

 

  ハンド・ラゲージ(移動中、どこでも仕事ができるものを入れておく) 大きさは航空各社が規定している手荷物の大きさ(50cm×20cm×30cm)。

B-1 ノート・パソコン

 B-2 電気器具等

     ●変電器(トランス)

     ●各種コンセント、電話ジャック、ケーブル、延長コード、乾電池(予備、ほとんど現地で調達できる)

 B-3 デジタル・カメラ

     バッテリー メモリー・カード 充電器 

B-4 各種文献、資料。移動中に読む

 B-5 日誌用ノート 小型ノート

     時間があれば、どこでも気のついたことをメモする。

     また、領収書やチケットの類はノートに貼り付ける

 B-6 文具一式 特にノリとホチキス

 

C デイ・バッグ(リュックサック):調査用、移動時はスーツケースに収める。

 

 C-1 スケール(5m)、磁石

 C-2 赤外線計測器 最近性能はいいが、屋外では使いにくい。歩測器(ゴロゴロ)は不正確。歩測を身につけること。また、タイル幅(30cm15cm40cm)を利用する。

 C-3 、調査用紙(方眼紙)、ベースマップなど 4色ボールペン

C-4 小型ノート(スケッチブック)

 C-5 デジカメ、予備の電池 予備の記憶カード

C-6 帽子(日射防御) 折り畳み傘(簡易雨具)、ジャケット、セーターなど必要に応じて

C-7 調査御礼用品(絵葉書など)

   

 

 

 

2023年10月16日月曜日

一瞬の建築/建築/環境/視線,特集 環境と視覚,『季刊デザイン』no.7,太田出版,200405

 一瞬の建築/建築/環境/視線特集 環境と視覚『季刊デザイン』no.7太田出版200405

 

一瞬の建築:建築・環境・視線

布野修司

 

 「建築architecture」という言葉の語源は、知られるように、ギリシア語のアルキテクトンである。アルケー(arche 根源)のテクトン(techton 技術)がアーキテクチャーである。カエサルに捧げられたウィトルウィウスの『建築十書』[1]は、確かに、「建築家」はありとあらゆる技術、学問に通じている必要があると言い、それらを列挙している。また、「建築」をつくり挙げるための諸原理と方法をこと細かく示している。「建築」には、俗に、「用」「美」「強」の全てが関わる[2]

ギリシア語のテクネーtechnē(技術)の訳語がアルス ars(ラテン語)であり、それがそのままアート,アール art(英語、フランス語)、アルテ arte(イタリア語、スペイン語)となり、クンスト Kunst(ドイツ語)、そして日本語の「芸術」となる。クンストは技術的能力にかかわる動詞 können(できる)に発しているから、語の起源を保持していると言えるだろう。

ところが、「美術」(ボーザール beauxarts(フランス語)、ファイン・アーツ fine arts(英語)、ベレ・アルティ belle arti(イタリア語)、シェーネ・キュンステ schöne Künste(ドイツ語))という概念の成立、すなわち、美学なるものの成立とともに、「技術」と「芸術」が分離すると同時に、「建築」もまた分裂することになる。

柳宋玄は、「美術」「芸術」という概念の成立について次のように書いている。「つまりこの概念は17世紀に発生し18世紀に一般化したものであり、当時の古典美礼賛の風潮(新古典主義)と結びついている。この時代には,感覚的価値としての美の定義が試みられ、自然美と芸術美が峻別されて両者のうち後者が人間精神の所産として優位にあるものとしてたたえられ(G. W. F. ヘーゲル) 、美の表現以外のものを目的としない純粋な芸術いわゆる〈芸術のための芸術 lart pourlart (V. クーザンが命名) こそ真の芸術であるとされた。ここでいう芸術という概念も実はこのころ発生したのであり、・・・美の表現をもっぱらの目的とする者、すなわち artist(美術家)とそうでない者、artisan(職人)との両者が区別され、前者を後者の上位に置いてこれをたたえたのである。しかし、美術が美の表現だけを目的とするものであるなら、建築や工芸など実用目的を第1にするものは厳密にいえばこれを除外しなければならないことになる。英語でいう art and craft(美術と工芸)は、工芸がその実用性ゆえに美術とは別のものであることを示すものである。建築においてはとくに機能性がきわめて重要であり,機能性をすべてとする見方さえ出てきており、これを美術に含めるべきかどうかは問題となろう。」[3]

建築における「視覚の優位」は、言うまでもなくこの分裂に関わっている。

 

ファサーディズムの極相―――ぺらぺらのポストモダニズム建築

もう遙か昔のことのように思えるけれど、近代建築批判を煽動することになったC.ジェンクスの『ポストモダニズムの建築』[4]1977年)の表紙(日本版)を飾ったのは、日本の建築家竹山実設計の「新宿二番館」であった。建物の表層を縞模様に塗り立てたその雑居ビルは、スーパーグラフィックの先駆けとして注目を集めた。

     


しかし、その衝撃はそう長くは続かなかった。建築の外壁を飾り立てるだけで建築のポストモダンが切り開かれるというほど甘くはない。「建築家」にとって「建築のポストモダン」、すなわち、近代建築批判の課題は依然として問われ続けているけれど、その解答は未だに見いだせていないのである。わかりやすく言えば、鉄とガラスとコンクリートの四角い箱形の近代建築にはもううんざりだ、とばかりに、画割のように表皮を歴史的様式で覆い、細部に装飾を復活させたのがポストモダニズム建築であった。振り返れば、時代のお先棒を担ぎたがる「建築家」たちが、1960年代にバラ色の未来都市の幻想を振りまいたのと全く同じように、またしてもピエロを演じたに過ぎない。さらに口を滑らせれば、「環境問題」(「サステナブル・デザイン」「エコ・アーキテクチャー」・・・)を唱えながら、ただ「建築」を緑で覆う(屋上緑化、壁面緑化)昨今の趨勢もその延長である。

C.ジェンクスは、ウインナー・ソーセージの形をしたハンバーガーショップや靴の形をした住宅などをポストモダニズム建築の例として面白おかしく取りあげた。ポップ・アートとしての建築、あるいは商業建築の正当な評価という視点がその近代建築批判のわかりやすさの背景にある。C.ジェンクスが強調したのは、端的に言えば、建築のメッセージ性、記号としてのコミュニケーション機能である。理論的にC.ジェンクス曰く、ポストモダニズムの建築とは、大衆のコードと建築エリートのコードの二重のコードをもつ建築である。もちろん、ラスベガスのストリート・ストリップ[5]やフィラデルフィアの建売住宅のデザインをものの見事に分析し、建築の記号性についていち早く着目し、建築理論として深化させたのはR.ヴェンチューリである[6]。そして、手法、引用、コラージュ、折衷といった操作概念によって、近代建築批判を先鋭に戦略化したのが、例えば磯崎新であった。




しかし、世界中を席巻したのは、皮相なファサーディズムである。すなわち、「ポストモダン・ヒストリシズム」と呼ばれる皮膜だけの様式建築であった。

ファサーディズム、すなわち、建築の正面(立面)をことさら意識し、豊かに飾り立てることは珍しいことではない。大通りの軸線上に威風堂々の記念建造物を配することは、むしろ、バロック都市が得意とする手法であった。近代において、例えば、曲面を殊更に用いたアムステルダム・スクールの手法はファサーディズムと呼ばれたが、その表現は煉瓦という素材と密接不可分であった。

しかし、表皮と構造を分離し、ぺらぺらの表皮における記号表現を最大化したのがポストモダンのファサーディズムであった。

 

キッチュの海

近代建築の規範から解き放たれた「建築家」たちは、すぐさま、「ポストモダニズム建築」「もどき」の「建築物」群に包囲されることになった。「もどき」というのは当たらないだろう。「ポストモダニズム建築」がそもそも「もどき」を方法としていたからである。

古今東西、世界中の建築の様式、装飾、言語、部分(ディテール)を集め、貯蔵する宝庫から自由自在に要素を取り出して建築を組み立てる手法は、引用、折衷、・・・といった操作概念によって理論化されようとしたけれど、結果的に跋扈することになったのは「もどき」である。「もどき」の方が潜在的な力を秘めていたといってもいい。

「もどき」をキッチュkitschという[7]。キッチュというドイツ語は、もともと「かき集める、寄せ集める」という意味で[8]、キッチュから派生したフェアキッチュンverkitchenという語は、「ひそかに不良品や贋物をつかませる」、「だまして違った物を売りつける」という意味である。19世紀後半の南ドイツにおいて、まがいもの、不良品、贋物、模造品、粗悪品、といった意味合いで使われていたキッチュという言葉が、次第に広範に使われ始め、より一般的な概念となっていった。何か貴重なもの、本当のもの、美しいもの、すなわち芸術と呼ばれるもの(の代替物)を身近に所有する欲望、それで日常の空間を飾り立てる欲求がキッチュである。装飾、すなわち、機能性を超えたある種の過剰はまさにキッチュの現れるところである。エキゾティシズム、折衷主義(エレクティシズム)、あるいはリヴァイヴァリズムと呼ばれる運動や精神には、深く、キッチュの精神が関わっている。

すなわち、キッチュは芸術の大衆化、俗化の現象である。日常生活への芸術の取り込みである。それ故、キッチュの発生は、市民社会の成立、そして市民(ブルジョワジー)の美学と密接に結びついている。ドイツにおけるビーダーマイヤー様式がその象徴である。

 建築のポストモダンは、キッチュ(ネオ・キッチュ)の海を生み出した。というより、アンチ・キッチュとして成立したのが新即物主義(ノイエ・ザッハリッヒカイト)であり、機能主義(ファンクショナリズム)であったとすれば、キッチュがそれを飲み込んだのである。ただ、その過程にはあるプロセスが必要であった。ビーダーマイヤー様式の発生は、住空間におけるインテリアの発生を意味するが、大衆社会、大量消費社会の出現とともに、室内に閉じていたキッチュの精神は、群衆の成立とともに外部化していく。すなわち、都市における百貨店やスーパーマーケットの成立とキッチュは大いに関係がある。群衆が集う場所、駅や商店街がキッチュの温床となるのである。そこでは大衆の欲望に根ざした流行とコマーシャリズムが支配する。W.ベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』[9]を書いたのは1936年である。

 商店のファサードを広告とする「看板建築」や屋根の形だけで社寺や城郭、豪邸を表現しようとする「帝冠(併合)様式がプリミティブな例である[10]。そして、建築そのものがキッチュと化す状況が、ポストモダニズム建築の出現において初めて現出したのである。

 「もどき」の世界においては、ひたすら、差異を競うことだけが求められる。とにかく屋根だけ勾配屋根とすべきだ、という景観条例も、高邁な建築論で武装した建築作品もそこでは等価である。磯崎新は、振り返って、「あの頃はまだ理論化もできずに「手法論」なんて言っていましたが、これをテクノニヒリズムと呼ぶことにしました」という[11]。今や、時代は、「建築」のイメージは全てコンピューターによって自動生成される、そんな段階へ行き着いてしまっている。

 

イリュージョニズム

建築がこうして、表皮へと還元され、視覚的な記号や図像による伝達手段と化す遙か以前に、建築における視覚中心主義は成立していたと考えていい。美学なるものの成立がそれに関わるが、さらに視線の問題として遠近法的空間の成立がある。様々な近代的施設=制度(インスティチューション)の成立と近代的視線の成立は密接に関わる。例えば、監獄のモデルとしての一望監視装置、パノプティコンの考案は、「公共」建築が監視装置であることを示している。学校、病院なども同様であるが劇場がわかりやすいだろう。

劇場やホールの設計では可視線という概念が用いられる。可視線とは文字通り客席から舞台が見えるかどうかを示す視線のことである。後ろの席になればなるほど観客が邪魔になって見えないから、客席を順に高くする必要がある。その高さを決めるために、断面図上に引かれるのが可視線である。もちろん、近代以前に可視線などという概念はない。見えない席どころか聾桟敷も当たり前であった。



劇場に、視線が持ち込まれたのは、プロセニアムとカーテンによって客席と舞台が二分化される「イタリア式額縁舞台」の成立においてである。ジャン・デュビニュー[12]によると、この「イタリア式の閉ざされた箱」(考案者の名を冠して「サバッチニの箱」)は、16世紀から17世紀にかけて現れるや、先行する2つの演劇体系の概念、聖職者たちの間に残存していたギリシア=ラテン的概念と中世のミステール(神秘劇)の概念を一挙に覆し、すなわち、スペインの劇形式とエリザベス朝の劇形式を消失させてしまう。

 

サバッチニたち「建築家」、機械装置の考案者たちが劇場に持ち込んだのは、既に絵画を支配していた遠近法の原理である。すなまち、演劇の場面を舞台面を基底とし一人一人の観客の目を頂点とする視覚的ピラミッドとみなしたのである。こうして、劇場空間での体験は、個々人の視覚のイリュージョンに依存することになる。イリュージョンが個人に委ねられる以上、個人は集団から分離される。そして、集団の中にありながら「覗き見」を楽しむことになるのである。

パラディオの傑作テアトロ・オリンピコ(ヴィチェンツア)は、実に奇妙な劇場である。舞台は、まるで都市がそのまま劇場であった時代を再現している。すなわち、コメディア・デラルテなど大道芸人が活躍し、カーニバルが繰り広げられた都市を立体的に再現している。しかし、俳優が舞台の屋へ遠ざかっていくと、次第に大きくなってしまう。街の建物のセットが遠近法の線に従って低くつくられているからである。



演劇はこうしてイリュージョニズムの支配する「閉ざされた箱」に詰め込まれ、世界中何処でも同一の規範で上演されることになったのである。

 

「建築写真」のトリック

ポストモダニズムの建築以後、キッチュの海から如何に離脱し、「アートとしての建築」を表現するかが「建築家」の課題となる。そこには、奇妙な「世界」が仮構され、維持され続けている。

「建築家」の「作品」集あるいは「建築専門誌」の「建築写真」には基本的に人が「居」ない。すなわち、人が写っていることがほとんどない。異様な「世界」と言っていい。

その「世界」において、写真家は、極力、人、そして人の気配を消すことを求められる。当然設置さるべき家具やカーテンなども、「建築家」がイメージし、想定したものでないと画面から外される。何度か撮影に立ち会ったことがあるけれど、写真家はファインダーを覗くよりも、家具を動かすのが大仕事である。

「建築家」はまた「建築写真」に電信柱や電線、隣接する建造物など「余計なもの」が写るのを極度に嫌う。写真家は、場合によると、撮った後で、画面から「余計なもの」を消す修整作業を強いられることがある。自らの作品を自立した一個のオブジェと見なすのが「建築家」の常だ。見えているものを見ない、不思議な世界である。

「建築写真」を見ると、「建築家」は、「建築物」あるいは「空間」にしか興味がない、といわれてもしかたがない。また、「作品」としての「建築」にしか興味がない、と言われてもしようがない。著名な建築作品を見て回るツアーなどに参加すると面白い。「建築家」たちが、人が画面に入らないアングルを求めて右往左往する様は滑稽である。「建築家」は、建築写真を撮る場合には、人通りが途切れるのを待つのが習い性になってしまっている。建築の細部についての情報が欠如するのが嫌だからというのが言い訳であるが、問題の根はもう少し深い。

「建築家」が興味あるのは、竣工した一瞬の「建築物」/「空間」のの姿である。ほとんど全ての「建築写真」は「竣工写真」であって、一瞬の記録でしかない。建築写真家は、「建築物」/「空間」を際だたせる一瞬を選ぶ役割を担う共犯者である。そして、写真が切り取るのは、あくまで「建築物」/「空間」の部分である。「建築写真」を見て勝手にイメージを膨らませると、実際体験する「建築物」/「空間」との落差に愕然とすることがままある。極端な場合、「建築家」は、部分の一瞬の光景の出現(写真)のみのために設計することもありうる。騙されるのは修行が足りない、ということになる。

建築が一瞬の「竣工写真」と化したのはそう古いことではない。

「空間」の「部分」の一瞬を「写真」として切り取って「作品」化する「建築家」の手法は、冒頭に端的に指摘したように「美術としての建築」が分離成立して以来のものである。「建築」は「視覚芸術」である、という。実際、一般に建築史は美術史の一科として叙述される。しかし、建築は、古今東西いわゆる「美術」を超えた何ものかである。建築にとって視覚は極めて重要である。例えば、日本には椅子座と床座の生活が混在し続けているのであるが、下手な設計だと、すなわち生活面の設定がおかしくて目線が合わないと混乱する。しかし、例えば、目の不自由な人を想定して見ればわかるように、「建築写真」の「世界」が極めて倒錯している、ことは明らかである。

建築空間は、端的に、物理的な構築物であり、「実用性」を持ち、人によって住まわれ、生きられるものだからである。「建築物」/「空間」は、全身、全感覚によって体験されるものだからである。

 









[1] 『ウィトルーウィウス建築書』、森田慶一訳注、東海大学出版会、1969年、1979年。

[2] ウィトルウィウスに依れば、「建築」は、オルディナティオordinatio(量的秩序:尺度モドゥルスに基づいて全体を整序すること)、ディスポシティオdispositio(質的秩序:配置関係を統一的に収めること)、エウリュトミアeurythmia(美的構成)、シュムメトリアsymmetria(比例関係)、デコルdécor(定則:慣習、自然、様式)、ディスプリブティオdistributio(配分:材料、工費)の6つの原理、概念からなる。

[3] 「美術」の項、『世界大百科事典』、平凡社。

[4] C.ジェンクス、『ポストモダニズムの建築言語』、竹山実訳、新建築社、1978

[5] R.ヴェンチューリ、『ラスベガス』、石井和紘訳、SD選書、鹿島出版会、1978

[6] R.ヴェンチューリ、『建築の複合性と対立性』、石井和紘訳、SD選書、鹿島出版会、1982

[7] A.A.モル、『キッチュの心理学』、法政大学出版会、1986

[8] 1860年頃のミュンヘンで広く使われ始めた。さらに狭い意味では、「古い家具を寄せ集めて新しい家具を作る」という意味に使われた。

[9] W.ベンヤミン、『複製技術時代の芸術』、佐々木基一編集、晶文社、1970

[10] 日本の近代建築の草創期において、それらは「虚偽構造(シャム・コンストラクション)」といって軽蔑された。

[11] 磯崎新・福田和也、「ヴェネツィア・ビエンナーレ「亀裂」と村上春樹」、『空間の行間』、筑摩書房、2004

[12] ジャン・デュビニュー、「閉ざされた箱」、『スペクタクルと社会』、渡辺淳訳、法政大学出版会、1973

2023年7月9日日曜日

鼎談「建築評論をめぐって」,布野修司,八束はじめ,土居義岳,五十嵐太郎:建築雑誌,200409

鼎談「建築評論をめぐって」,布野修司,八束はじめ,土居義岳,五十嵐太郎:建築雑誌,200409

建築雑誌9月号特集建築評論の行方」鼎談

建築評論をめぐって

 

 

八束はじめ……やつかはじめ

建築家・㈱ユーピーエム代表取締役

1948年生まれ/東京大学卒業/同大学院博士課程中途退学/磯崎新アトリエを経て、1985年ユーピーエム設立/著書に『批評としての建築―現代建築の読みかた』(彰国社)ほか、共著に『メタボリズム――一九六〇年代日本の建築アヴァンギャルド』(INAX出版)ほか/作品に「白石情報センター」「砥用文化交流センター」ほか

 

布野修司……ふのしゅうじ

京都大学大学院助教授

1949年生まれ/東京大学卒業/同大学院修了/建築計画/工学博士/著書に『戦後建築論ノート』(相模選書)、『裸の建築家――タウンアーキテクト論序説』(建築資料研究社)ほか、編著に『アジア都市建築史』(昭和堂)ほか/作品に「スラバヤ・エコ・ハウス」ほか/1991年学会賞(論文)受賞

 

土居義岳……どいよしたけ

九州大学大学院教授

1956年生まれ/東京大学卒業/同大学院博士課程満期退学/建築史/工学博士/著書に『言葉と建築――建築批評の史的地平と諸概念』(建築技術)、共著に『建築キーワード』(住まいの図書館出版局)対論 建築と時間』(岩波書店)、訳書に『新古典主義・19世紀建築1(本の友社)ほか

 

 

 

 

 

司会

五十嵐 太郎

本号担当編集委員

 

 

 

批評をはじめた経緯

五十嵐 お三方の先生は、批評の批評、すなわちメタ批評的な仕事をされています。布野先生の『戦後建築論ノート』(『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』)は批評を含む日本の建築界の言説を概観されていますし、八束はじめ先生の『批評としての建築』は建築そのものの批評性を問う試みでした。土居義岳先生の『言葉と建築』は、もともと連載のタイトルで「メタ批評」という言葉を使っていました。まず個別に批評にかかわった経緯を語っていただきたいと思います。

八束 実は布野さんとはデビューが一緒なんです。75年頃の『建築文化』の連載特集で、一番年上が伊東豊雄さん、一番若いのが布野さん、2番目に若いのが私でした。あのとき、布野さんが私より若いのにあまりにもものを知っていた。私がものを書き始めたというか、その前提になる勉強を始めたのはそのショックからですよ。

布野 若いといったって1歳でしょう。誕生日が一緒だよね。ヨーロッパへ最初に一緒に行ったのがなつかしいね。『建築文化』の会議では、みんな上の世代の作品の悪口をガンガン言うんだよね。石山修武)さんとか毛綱さんなんかも夜な夜な現れて議論した。まさに批評をしているんですが、それを聞いているのが非常に楽しかった。伊東さんも「東中野の家」が出来る前だし、石山さんはドラム缶(コルゲートパイプ)「幻庵」、毛綱さんは反住器ができたぐらいで、若い建築家は食うや食わずの状況したね。やることがないからしゃべっていた。オイルショック直後でモノが建たない時期だったです。

五十嵐 批評を書くことが活動の出発点になるという意識は強かったんですか。

八束 仕事のない時代にそういうことが始まったというのは、スタンスにかなり影響があるでしょうね。川添さんがメタボリを先導したというスタイルの書き方はできようがない時代でした。ただ、まだ大学院生ですから、そんなに戦略があってやったわけでもなく、もちろん設計の仕事なんかいきなり来るわけはないから、差し当たってそういう人たちにくっついて何となく始まったんです。私の場合、長谷川尭さんが審査員の『建築文化』の懸賞論文に応募して入って、それと連載がほぼ同時に出ました。

布野 僕は建築計画の研究室にて何をすればいいのか考えていたんですが、正直やることがないように思えていたんです。戦後、いろいろなコンセプトを出してきたわけですが、どうもそれが役に立たないというか、限界が見えてきた、逆に批判されるような時代だったですね。例えば学校で言うと、学年毎に、先生が黒板を背にして生徒と向き合う形式を前提にしてきたんですが、ノン・グレーディング(無学年制)とかチームティーチング(集団指導)、オープンスクールといった概念が入ってくると同対応していいか分からない。近代的な制度=施設が疑問に思えてくる。みんなで教え合ったほうがいいというのは、寺子屋でやっていたことじゃないか。歴史を見直す必要があるというので、図書館にこもりだした。論文を読むんじゃなくて、明治のはじめからの雑誌を見て、コピーを取っておもしろがっていた。ただ、中心は建築計画学の成立とその起源でしたから、最初にあたったのは西山夘三さんの周辺ですね。戦中の国民住居論攷』なんかは読んだんです『満州建築』とか『台湾建築』なんかも眼を通しましたよ。

八束 私の場合、標的はメタボリストにあって、日本の近代の最後のフェーズという感じがあったんだと思います。伊東さんもいわゆる野武士の世代の一人になったし、菊竹さんのお弟子さんですから、師匠殺しのような意識は共有していたのかもしれない。

土居 ちょうど私が学生のころ、毎号雑誌に出ているお二人の文章をかじ取りにしてほかの文章を読んでいく。物差しにしていく。私らはそういう世代ですね。

私は歴史をやるんだけど、批評みたいなことに興味があったのか、歴史の延長でしたね。歴史はアカデミズムで書けることが決まってしまうから、はみ出す部分を批評で書きたいというスタンスでした。しかし、お二人と同じことをやっていたら到底かなわないから自分なりの方法論を考えた。それは歴史の方法論でもあるんですが、『言葉と建築』の原型は学生のころに考えていたんです。上の世代の批判はできないなと感じていて、もう少し距離を取って遠くから構図を一望に収めることで自分の立場ができるんじゃないかと。世代的にも私らはオイルショックの影響で何人か就職浪人が出たりして、結構大変な時代だったんですね。だから、ちょっと早いけど世紀末的な雰囲気が少しありました。

 

いかに批評を行うか

五十嵐 八束先生と布野先生は、ご自身批評家ではないと言われましたね。

八束 私も最初は同世代の建築への意識があったけれど、だんだん距離を感じはじめ、ちょっと違うなという気がして批評をやめてしまったんです。当初は理論と実践を一致させようという意識があったんですね。だけどだんだんそれはうそだなという感じになってきて、それが決定的になったのはコールハウスと話をしたときです。「おれは理論のためにデザインをするわけでもないし、デザインするためにものを書くわけでもない。それは全然違う活動だ」と。「あっ、それだな」という気がしてふっ切れたのです

 は批評というのは基本的に広い意味での近代の営為だと思います。自動的に批評イコール・メタ批評なので、基準がなくなったところに批評は成立しない。要するに、考える基準がない。たぶん「なくなった」と言っていても、自分ではモダニストだと思っているんです。その尾てい骨みたいなもの残っていて、抜けられない。

 ジャーナリズムもレビューも成立するだろうけど、批評は成立しないと思っているし、自分も設計の端くれをやっているからなおさら書きづらいということもあるんですが、基本的にはそういうものは書かないと決めています。コンテンポラリーなことをオピニオンリーダーとして引っ張っていくのが批評家の役割だとしたら、私は完全にそうではない。

布野 がやってきたのはある種のイデオロギー批判ですね。言説批判ではあるけれど、作品批評は書いたことがない。建築批評は経験を積んで、いわゆる目利きがきちんと言葉を研ぎ済ませて書くものでしょう。建築家なり建築を成り立たせる仕組みや制度、周辺のことに興味があって、それを書いてきました。もちろん、最近の若い人よりはるかに建築を見てますから、多少の目利きだとは思いますけどね。

五十嵐 以前、八束さんは、西澤文隆さんを挙げて、日本的な目利きの批評だと指摘されていましたが。

八束 レビューの最たるものは『新建築』の月評だと思うんです。ディテールに至るまで知悉している人が目利きとして書いている。私はああいうのはやりたくないなと、思ったんですね。たとえば歌舞伎の批評で「6代目はこうやったんだけど、いまのは」というのと同じなんです。つまらないとは思わないし、なるほどねと思うことはたくさんあるんだけど、徹底的にコンセプチュアルな話は何もないわけです。「あそこのひさしがもう少し下がったらよかった」と。そういうのはむしろ建築家が言える話ですが、いわゆる感想批評というのはベテランであろうが若かろうが、建築家でも一般の素人でもが言ってもいいんです。批評家がそれに対してアドバンテージを持っているというものではないと思うから、それをやるのはやめようと。

土居 常勤の批評家にはなれないし、なれてもなりたくないというところがあります。つまりほかの定職なり何なりがあって、ときどき批評家精神を発揮するというのが一番私にとってやりやすいというか、あるべきやり方なんですね。

 批評というのは自由にものを言える機会が与えられて、そのときに自分より偉い人を相手にして、それにもかかわらずもっと高いところから言うということですが、それはワンタイムパフォーマンスじゃないとおかしい。常に制度的に延々と成り立っているのは、ちょっとおかしいんじゃないかと私は思う。

作品の批評をするときは、端的に言えば褒める批評をしたいんです。それは建築家の意図せざる価値を見つけて、付加するということです。私はよく辛口と言われるけど本当はすごく甘い批評をしたいと思っています(笑)。近代の批評は、つくった本人から他者が作品を奪い取るような批評ですね。そういうことができればとりあえずひとつ批評したことになるという、自分のなかの業績主義ですね。

五十嵐 日本の場合、批評だけで食べていける常勤は難しいですね。

布野 批評家が経済的に自立するかどうかというのは、どの分野でもある問題ですね。建築の世界で生きながら建築家に嫌われようが思うように批評して、それでも食えるのか。日本では、評論家が自立して食っていく条件がないから食えないんですね。一番に責任を果たすべきは建築ジャーナリズムなんだけど、この間ずっと一人も食わせる力がない。長谷川堯さんも大学の先生になったし、松山巌さんぐらいじゃないですか、今、自立しているのは。それでも建築だけでは苦しい。

八束 とりあえず内容のレベルの話は別にして、美術批評だと展評というのがあるから、常勤の批評家は美術のほうが建築よりも多いですね。

美術の分野だとニューアートヒストリーとかあって、結構元気が良い方だけど、建築はそれがない。部分的に言えばフェミニズム批評とかコロニアリズム批評が建築に入ってくるのはあるんですけど。

 

趣味と論争

五十嵐 アメリカだと、新聞社の評論家が活躍していますね。

八束 ゴールドバーガーとかハクスブルグがいますけど、たとえばケネス・フランプトンみたいなのとは何となく違う。

布野 ヨーロッパは、一般ジャーナリズムが建築をきちんと扱うんじゃないですか。伊東さんが言ってましたが、スペインでは、ワークショップみたいなものをやるのが普通だけど、ちゃんと理解してもらえば聞が擁護してくれる。逆にたたかれることもある。風土が違うんですね。

八束 私が磯崎さんのところでロサンゼルスの現代美術館を担当していたとき、進行中に取材に来て、それがちゃんと新聞に載るんです。アメリカの新聞は全国紙じゃなくて、LAタイムズやニューヨークタイムズのようにローカル紙でしょう。だから建築は社会的な事件で、それに対して報道もするし、クリティックもする。

五十嵐 フランスの場合も、たとえばポンピドゥーやルーブルのピラミッドが登場したとき社会を巻き込んで議論が出ましたね

土居 政権交代ができる基盤があるから、権力抗争の政権の具になりうるというところがありますね。それは19世紀の様式論争からあまり変わっていなくて、ゴシックにするか古典主義にするか、要するに保守と革新とどっちが勝つかということです。逆に本質的なデザインの話があまり出ないんです。一方、展覧会は結構シビアに批評されますね。

布野 アジアだと、黒川紀章さんがタイで文化センターをやったら、日本の伝統を押し付けていると大騒ぎされたとかある金寿恨さんの扶余の文化博物館の門が日本の神社を思わせると叩かれた。勾配屋根とか、帝冠様式のレヴェルの話は少なくない。そもそも建築ジャーナリズムがないから、批評とか建築論も一般的にはほとんどない。

八束 シンガポールのあたりは少しあるでしょう。結局ヨーロッパに行って帰ってきた人たちだけど。漢字文化圏はいま、文化批評でおもしろい人がたくさん出てきているし、建築でもコールハースのハーバードのプロジェクトシリーズをやっていた優秀な中国系アメリカ人が北京に行っています。これから変わってくるんじゃないですか。

布野 中国は、これまで学会の『建築報』しかなかったのが、いまは清華大学が出している『世界建築』とか、この10年ぐらいで45新しい「建築雑誌ができています。

八束 いま中国では、ポスト・ストラクチャリズムの翻訳がどんどん出ています。少なくとも美術までは日本のレベルに追いついていると思います。建築も時間の問題でしょうか。

五十嵐 八束さんは『101』という雑誌の創刊にかかわりましたが、建築あるいは都市の批評理論をやるというもくろみですか。

八束 編集者がもともと80年代のニューアカデミズムを牽引した『GS』をやった人で、私のところに相談に見えたんです。私は「建築プロパーの雑誌をつくるのは意味がない。もう少し広い視野で、建築の範囲を広げるなら協力したい」と。私がやめてから建築のほうにシフトしていったけど。SDもなくなってしまったし、建築をやる人で文章を書きたい人が発表するメディアが激減したというのはありますね。もともとたいしてなかったから、それは大きいと思います。

布野 若い人にとってそれがかわいそうですね。言説以前に場所がなくなってしまっている。一般の雑誌は建築を扱ってくれるんだけどね。建築ジャーナリズムがまるっきり衰弱してしまった。『建築雑誌』若いにも誌面を開放してくださいという意見理事会あたりからも出るんです。それぐらい場所が無くなっている。もっとも、若い人はインターネットでやりあってるんでしょうけどね

五十嵐 確かに、建築の批評は趣味的なものだと思われています。

八束 たぶんわれわれ3人がドロップアウトしているのは、趣味的なものはやりたくないというのがあるからじゃないですか?もともと批評自体が成立しないで、あらゆることが趣味批評になりつつある。趣味の世界に論争はあり得ない(笑)。「おもしろいね」と言うか、「それはつまらない」と背を向けるか、どちかしかないから。

私は基本的にはポストモダンにメタ批評は成立しないと思っています。それを手を変え、品を変え、主題の不在から始まってテーマ化してきたのが磯崎さんだけど、彼の独走になってしまったのは、客観的な指標になり得ないけれど、語り口のうまさで決まってしまったということじゃないのかな。

布野 僕らの世代は、右に磯崎がいて、左に原広司がいて、それぞれ理論の展開があった。どう実践するか、追随しながらもそれをどう乗り越えるかということはチェックできたわけですよ。「解体の世代」以降、それこそ中心がなくなってしまった。要するに批評家、建築家を含めて、何をつくったらいいのかという理論なり方法をめぐって言説を吐く人がいないんですね。それに論争というのは若いが仕掛けるもんでしょう

土居 日本の論争は多分に世代間抗争みたいなところがあったでしょう。ひとつ上の世代にかみつくわけですね。それが少なくなった。

布野 アピールしたものが一般の世界にも聞こえていくんです。建築の世界で勝たないと世代交代が起こらない。そうすると仕事も来ないという構図になっているはずなんです。バブル期は黙っていても仕事が来たんですね。苦労しなくても下の世代に回っていった

八束 建築ジャーナリズムに議論を仕掛ける連中がいなくなった。かつてはおもしろがって仕掛けすぎという感じはあったけど、それもなくなってしまったことが大きい。

土居 私も鈴木博之さんや藤森照信さんを批判しましたが、よく読んでくれれば、行間にすごくリスペクトな気持ちがあります。私が心掛けていることは、枠を広げつつ、あるいは高めつつ批判しないとつまらないということです。自分以外のだれかに対して○×をつけるときに、何かネタをそこで考えるということをやっているんです。

ネタを創案したことに自分の業績がある。私の場合は、批評言語を捏造するということができたら人の悪口を言ってもいいかなと。あるいは批判しつつ、よく読んでみると歴史的にすごくいいところに位置づけているとか。相手はそれも嫌かもしれないけど。

 

戦争とメタ批評

八束 作家と作品の世界に批評が従属しないといけないのでしょうか

戦争中、浜口隆一さんは、建築をつくる立場とは独立した格好で建築論をやろうとしました。メタ批評を試みたという点で、浜口は画期的だったと思うんです。ただ、もっと前にたどると美術史でヴェルフリンとかリーグルが哲学のそのまたメタになっていく時代です。浜口は同級生の丹下健三さんに言説の世界で対抗しようというのがあって、それがあそこで挫折したんでしょうね。それは日本が最大のバックボーンを持とうとした時期だったから。ファシズムの話ですよ。もっとも大文字のストーリーを要求した時期だった。しかし、浜口さんは、戦後に民主主義の建築のはなしになってから話がつまらない。ほとんど剽窃理論ではあるけれど、国民様式の議論で、あれだけの骨格を組み上げたのは画期的だった。

布野 それは批評じゃないでしょう。

八束 私に言わせると、あれが批評なんです。彼はメタ批評にしたかったわけで、レビューはしたくない。あれも日タイ文化会館に引っかけているけど、最初だけで、あとはずっと別の話をするでしょう。ルネサンスの話をみんな引っかけてやるのも、丹下さんの「ミケランジェロ頌」も、板垣鷹穂の押し込みだと思います。岸田日出刀はたいしたものを書いていないけど、弟子の立原道造とか丹下、浜口たちが頑張った。岸田は板垣と親しかったし、弟子も美学研究室に出入りしていた。だから現象学の話もどんどん使う。

伊東忠太は戦前の最大の批評家です。法隆寺とパルテノンは同じレベルで議論ができるとやったときに、メタ理論の枠組みをやったのは建築哲学じゃないですか。建築史家の関野貞なんかはそういうことはしないわけですね。議論は相当粗いけど、そういう意味では、たとえば黒田鵬心よりは、伊東忠太のほうがずっと本格的なメタ批評をやった。学会の国民様式の議論もそうでしょう。ガーゴイルみたいなものがおもしろいという最近の評価には興味がないんだけど、メタ理論家としての伊東忠太はおもしろいと思います。そして堀口捨巳が乗り越えようとして、次に浜口が乗り越えようとした。

土居 世界史の中で日本をどう位置づけるかという永遠の問題があって、日本が一番最後に世界史の中に位置づくことに成功すると大建築哲学ができるんです。ただ、それからあとが続かないんです

八束 戦争に負けちゃったから(笑)。一番確信的なファシストだったのは坂倉準三だと思いますけど。前川國男もそうだったと思う。昭和の1けたでメタ理論を立てようとしている人たちはみんなモダニストで、その人たちは大なり小なりファシズムに行くんです。ファシズムはメタ理論だから。コミュニズムでもいいんだけど、それがなかったから。

 ル・コルビュジエがビシー政府にくっついたみたいなことを含めて、相当剣呑なほうに行っていると思います。これは丹下さんも、みんなそうですね。それを戦争責任という話にいきなり持っていってしまうから、その議論が成立しづらくなっているけど、保守的な連中はそういう議論をしない。帝冠様式をやっていた人たちは理論がないんだもの。

土居 八束さんの話を聞いていて、昔からすごく仕事が一貫しているなという気がしています。モダニズムをどう位置づけるかという話ですね。

八束 よきにつけ悪しきにつけ、とにかくそういう構図が最終的になくなったのが70年万博だというのが私の昔からの持論です。それからあとはポストモダンで、ある意味平和な時代で、せいぜい野武士的な郷土でしか建築が成立しなくなっている。

 

ポストヒストリーの批評

五十嵐 もう70年で批評は終わっていると。ポスト・ヒストリーということですか。

土居 ヨーロッパの感覚と比べると100年ぐらい遅れているでしょう。そう考えると日本はすごいことをやっていて、100年遅れて始めて、70年ぐらいにもう歴史が終わっている。あっという間に追い越したのか、あるいは到達しないうちに……。

八束 中国はそれをもっと短期間でやろうとしているから、すごいと思うよ。

 韓国は日本の植民地であったという事実が、議論を屈折させていますね。結局、日本の伝統論争みたいな話になってしまう。「日本の建築家は近代的な主体を経験したけど、韓国の建築家はそれをやっていないからだめだ」という、日本で言うと近代文学の連中が50年代にやった話をまだ言っているという感じが最近までありました。

 ナショナルアイデンティティーにこだわると、そういう話に絶対なってしまうんです。それがなくなったのがポストモダンだと思いますけど。

布野 はもう四半世紀インドネシアに通ってますが非西欧から見るとまた違う見え方がするんですね。ヨーロッパの近代運動入り方がそれぞれの地域で全然違う。アメリカ建築だってもともとはヨーロッパ世界の植民地建築ですよね。そちら側に視点を置いて歴史の終わりを読んで見せるという作業が要るんじゃないかと思うその辺りに、日本人の批評家がやれる仕事があるんじゃないかという気がしています。そうじゃないと日本の建築が世界史的に位置づかないでしょう。たとえば現代建築を位置づけるときには何をベースに議論するのか。歴史研究とは言わないけど、いろいろな見方を提示する役割はどこかにあるし、だれかにあると思うけどね。

五十嵐 他に批評は、どのような必要性がありますか。

土居 メタ批評が終わったんでしょう。だから、もっとベタな批評を(笑)。

単に賞を与えるだけのものだからその賞によって批評家がいい立場を得る。それは結構大事なことなんでしょうね。学者が論文を一本書くような感じで、世の中では建築家が賞を取るわけだから、そういうメカニズムはありますね。だからベタな批評は、そのあたりでかなり役割を果たすべきだとは思うんです。

布野 批評はすごく大事ですよ。たとえばつくる手掛かりを与えるとか、それを翻訳して一般的な世界に伝えるとかの役割は要るでしょう。建築の世界は、どうしようもなく閉じている。モノつくりには、あ・うんの呼吸というか、「わかる?」の世界があるじゃないですか。これは収まっているとか。可能な限りオープンにして、言葉にしないといけない。

 しかし、ジャーナリズムが努力していないし、斜に構える現役もいる。そうじゃないと、たとえばみんなポピュリズムのほうに行くんです。藤森さんにしても、鈴木博之さんにしても、みんな「建築を愛しなさい」とか「こんなに楽しい世界だよ」という言説になっていく。他にも、伝えるべきことがあるんじゃないかなあ

五十嵐 布野さんが『群居』にかかわられたのは、批評の場をつくるためですか。

布野 建築家が住宅の世界にどう取り組むかということをテーマとして、ああいうメディアをつくったんです。戦後間もなく、建築家にとって最大のテーマは住宅だったんだけれど、それが立ち消えになっているという意識があったんです。ハウスメーカー、住宅雑誌のような閉じた世界、家族の問題とか、住宅に関わる全部をどうクロスできるかを追及しようとしたんですけどね。いろいろな世界をつなぐ言説はどこで成り立つのかに興味があった。広がらなかったから敗北ですね。

八束 『Casa BRUTUS』は売れるんだけど、『新建築』は売れない。それで勘違いして、これだけ建築不況なのに学生が建築学科に押し寄せるから、問題が大きいですね。

 

アカデミーとコンペ

五十嵐 西洋のアカデミーの系譜から批評を考えるとどうなりますか。

土居 私はかなりさかのぼって古典主義あたりから見てみようという遠大な計画があったんですが、今日の議論で言うと、それは始めがあって、終わりがあって(笑)。

フランスのアカデミズムは、あまり王権にくっついていなくて、権力の側から割と重要視されなかったところがあります。意外と自由で、あそこで建築理論が練られたということを感じています。それで基本的な批評言語が古典主義の時代にできるんですね。

 ただ私は、古典主義的な批評というのはあまり批評ではないと思っています。批評の意味は、言っている人が直接の当事者じゃないことが重要です。建築家と施主の間ではなくて、第3の視点で、しかし何か力を持つ。それが力を持つのは、社会の中に公共空間があるから影響力を持つことができるわけで、これは市民社会ができたあとのことですね。建築を論じる場としてのフォーラムみたいなものですね。

 陳腐な例ですが、「紙の建築が石の建築を殺してしまった」もメタ批評になりうるようなことを言っている。そういう第3の立場があって、それが社会の中で機能するというのが批評の始まりですね。基本ができたのは19世紀じゃないですか。だから19世紀的な公共空間がなくなりつつあるんでしょうね。

布野 公共空間の成立と建築家という職能の成立とパラレルでしょう。建築家でRIBAみたいなものができていく。イギリスでうとほぼ一緒でしょう。彼らが何をしゃべっているかというと、いかにして他を排除して、いかに食うかですね。しかし、パブリックに建築が議論されるというのは、コンペの審査の場合でも、日本ではほとんどないよね。

土居 ところで、グローバル化の中で日本はまだ売れるんだろうかというのがお聞きしたいところです。結局何だかんだ言っても、日本には深いところがあるぞという蓄積をつくったじゃないですか。日本という商品をつくっていて、それを小出しにして売っている人がいます。私はそれはいいことだと思うんです。

八束 たとえば磯崎さんが向こうに行くと陰影礼讃の話にしてしまう。安藤さんの光と壁の建築なんて、日本には伝統的にないけど、あれが日本的だと思われてしまう。一応日本が売り物になっているでしょう。でも、東南アジアの人たちは何を売ればいいの? 

布野 インドネシアで僕のフィールドであるスラバヤにポール・ルドルフの作品がある。ジャカルタにもある。え、こんなところで懐かしい、と思うけれど同時に考えるのはグローバルなネットワークですね。テクノロジーを握っているのも外資、資本もそうだし、トップのレベルのコミュニティーというか、それが握っている。世界中の首都クラスに建っているのはだいたいアメリカの建築家で、それを例えば、日本のゼネコンがやっている。ポスト・コロニアルと言うけど、デザイン上はコロニアルな状況が続いている。たとえばケン・ヤングが出てきても、彼はヨーロッパ世界とつながっている。昔で言うとグローバル・デザイン・マフィアみたいなものが階層化されている。

八束 マーケットとしては植民地状態が続いているということになるんですね。

 アメリカとかヨーロッパに行って、最新のデザインも含めて情報を持って帰っているが結構いるわけです。たとえばリベスキントの弟子が、イランに帰ってから、超高層をボカッと建てたりするんです。

布野 インドネシアでも、インドもそうだけど、バラバラで一緒(多様性の中の統一)というのをどう実現するかがテーマなんですね。建築の話にすると、それこそインドネシアはアメリカ合衆国ぐらいの幅がありますから、ヴァナキュラーな建築がいろいろあるんです。民族抗争をやるし、日本よりはるかにヴァラエティーがあります。いまはたがが緩んでキリスト教徒とイスラム教徒とヒンドゥー教徒がドンパチをやりかねないから、デザインが争点をつくるというのは非常にデンジャラスな状況です。だから、デザインを売りにいくという話は、極めてデンジャラスという気がします。

五十嵐 土居さんの問いかけは、通史特集の問いかけから続いているものですね。

土居 いまはあまり歴史の本質論の時代ではないですね。大学の先生に問いかけられているのは経営者感覚なんです(笑)。いろいろな波及効果を考えて、純粋に論文の数だけじゃなくてということが社会的にはあるわけです。営業的にというか、やらなければいけないことがあると思うんです。社会の中で付加価値をどう与えるか。それが普遍的であればあるほどいい。地方で建築がちゃんと評価されるシステムを素朴なかたちでやらないとということが、いま問われています。それぞれの地域社会の興業主みたいに、学者とか建築関係者がならなければいけない。そうしないと、いかがわしい連中が……(笑)。

布野 実践的に問われているのはコンペで、審査委員で入るときにどれだけ頑張れるかという問題がある。みんなPFIになっていく。建築の価値が点数化されていくんだけど、どれだけ言語で表現できるか。普通の建築屋が入っているコンペとは相当違う言説を成立させないといけない。ポイント制は反対なんだけれどそうは言っていられない状況になってきた。

八束 横浜のフェリーターミナルのときに市の建築セクションがものすごく反対したんですが、最終的に磯崎さんが大演説をぶって、市民代表の審査委員を全部味方に引き付けたんです。市民代表が最初に投票したのは鹿鳴館みたいなのだったんですが最終的にポロたちの案に行くという、その腕力のすごさはありますね。

布野 坂本龍馬記念館のときもそうでしたよ。しかし、そういう世界が成り立たなくなりつつある。逆転ができないように点数が細分化されるんです。もうひとつの問題は、30年全部担保して、技術的な可能性も含めて審査しろと言われると、われわれプロでもお手上げだということです。国連のコンサルタント契約はみんなそうなっているんです。やっぱりポイント制で、そういうグローバルスタンダードのマニュアルができつつあって、みんなそれをまねしているという話です。だからこそ、建築は批評が大事だともえるわけです。

 

                            524 建築会館にて