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対談:NPOこれまでの10年ーーNPOと建築運動,特集 NPO Now,今田 忠,布野修司,建築雑誌,日本建築学会,201008
対談:NPOこれまでの10年ーーNPOと建築運動,特集 NPO Now,今田 忠,布野修司,建築雑誌,日本建築学会,201008
話し手:
布野修司 shuji FUNO 滋賀県立大学教授
今田忠 makoto IMADA NPO法人パブリックリソースセンター専務理事
聞き手:
饗庭伸 shin AIBA 首都大学東京准教授/編集委員会委員
木下光 hikaru
KINOSHITA 関西大学准教授/編集委員会委員
中江哲 tetsu
NAKAE 鹿島建設関西支店建築設計部グループ長/編集委員会委員
日時:2010年5月28日 10:00-12:00
場所:日本建築学会大阪・近畿支部事務局
写真:佐野恵津子
テープ起こし担当:佐野恵津子
饗庭 NPO法が出来て10年が経ちました。本日は、これまでの10年のNPOの歴史、さらにその前史を振り返ることによって、これからのNPO、特に建築に関わりのあるNPOのあるべき姿が見えてくればと思っております。
布野 私は建築計画学の研究室を出てから、住宅問題とそれに関わる都市問題を中心に、アジアの発展途上地域の住宅やその集合体である街区のあり方の研究を行ってきました。京都大学にいた頃は、「京都CDL(コミュニティデザインリーグ)」というコミュニティアーキテクト制のシミュレーションみたいな取り組みを数年間試みました。滋賀県立大学に移ってからは、近江環人(コミュニティアーキテクトとルビ)という、滋賀のまちづくり人材を育てる大学院の人材育成プログラムを実践しています。建築学会では、エリアデザインとコミュニティアーキテクトに関する特別研究会をやっています。
今田 日本生命財団で助成金の仕事をしていました。当時は NPO という言葉はない時代で、全国各地でいろいろな地域活動をしているボランティアグループに対してのお金の支援です。トヨタ財団の人たちとNPOの研究を行っていました。その後94年に笹川平和財団(現在の日本財団)に移り、阪神淡路大震災が起きた翌年に、震災復興のための「阪神・淡路コミュニティ基金」が創設され、そこで3年間助成の仕事をしました。
■NPOと建築運動 歴史の接点
饗庭 都市計画の分野を中心とした「まちづくり」の歴史をを見ると、1970年代から80年代にかけて地域社会の中に「まちづくり協議会」や「住区協議会」のような組織をつくり、行政のパートナーとして一緒にまちづくりに取り組むようになります。当時は地域社会の中でそれが十分に受け止められてきたわけではなく、ややもすると、都市計画のタテワリの下にある自閉した活動になっていました。しかし90年代に入ってNPOという言葉が登場し、現場に持ち込まれることにより、NPOという言葉を軸に地域社会の中で横断的に市民がつながることが出来る可能性が見えてきました。まず、NPOの登場がどういうインパクトを与え、どういう可能性を拡張したのかという辺りからお話いただきたいと思います。
今田 NPO という言葉は、日本では1992年頃、当時アメリカに居られた上野真城子さん(現関西大学)が持ち込んだのがはじめだと思います。その頃、市民の行う公益活動の制度を作っていこうという話が出てきて、その中心が佐野章二さん(現ビッグイシュー)でした。佐野さんがまとめられたNIRA(総合研究開発機構)の「市民公益活動基盤整備に関する調査研究」のプロジェクトに私も参加して研究報告ができたのが93年で、その研究報告に基づいて、94年にいろいろな政策提言をしました。「NPO 研究フォーラム」と「NPO推進フォーラム」が93年にでき、NPO法を作る目的で「シーズ・市民活動を支える制度をつくる会」が94年にできます。NPOをめぐるいろいろな機運が高まっていた時期に阪神淡路大震災(95年1月)が起きて、NPO 法が成立したのが98年です。よく阪神淡路大震災が起きて NPO の動きが出てきたと言われますが、それは違って、それまでに出てきた動きが加速されたということです。
NPO 法は制度ですから、制度の歴史を見てみると、明治時代に民法が制定されて公益法人という制度ができました。「学術、技芸、慈善、祭祀、宗教その他の公益に関する社団又は財団であって、営利を目的としないものは、主務官庁の許可を得て、法人とすることができる」というのが民法34条の条文です。当初は「許可主義」でスタートしました。それが第2次世界大戦後、公益に関しては、社会福祉、教育、医療とバラバラになって、公益法人は分野別の「認可主義」に変わりました。そうした状況の中で1980年代に市民が担う公益活動が出てきました。特にこの頃は、国際協力を行う団体や、住民による福祉活動(暮らしの助け合い)などが多く見られ、90年代になると、地球環境をターゲットにした活動が芽生えるようになってきました。ところがそういった団体を法人化するのは、とても難しかったわけです。法人化は法律に則ってすればいいわけですが、そのためには主務官庁の「許認可(認可?)」が必要で市民活動にはなじまない。官庁の側に「許認可」(認可?)する権限が握られている形ではない法律がほしいということでシーズが中心となってNPO 法制定の活動を始めたのが94年です。それからすったもんだがあって98年に NPO 法が成立し、そこからいろいろな NPO 法人が誕生して現在に至っているわけです。NPOは主務官庁の監督から外れ、所轄庁の「認証」により法人格を取得できることになりました。これは画期的なもので、国家公益主義からはじめて市民公益の制度ができたと言われます。さらにそれから10年後の2008年には、民法の許可主義による公益法人の制度がガラリと変わって新しい公益法人制度ができました。これにより許可主義、認証主義がはずれて準則主義になりました。公証人の定款認証を経て、登記によって成立する、つまり会社設立と同じ手続きで非営利法人が設立できるようになったわけです。
饗庭 1980年代に生まれた「市民が担う公益活動」とその前の時代の市民の活動、例えば賀川豊彦の活動(注1)などがイメージされますが、とは質が違うのでしょうか、両者の連続性はいかがでしょうか。
今田 賀川豊彦の活動は、生協の活動に引き継がれています。福祉については戦前から歴史がありますけれども、市民のボランタリーな活動は、やはり80年代がひとつの転機ではなかったかと思います。もうひとつ大きいのは、80年代の半ばくらいに経済界が変わってきたことです。85年のプラザ合意により日本はアメリカに進出して、健全なる資本主義社会は健全なる市民活動がないと成立しないというアメリカの市民社会を実感した。それまで経済界と市民活動は水と油でしたが、この頃、経団連が1%(ワンパーセント)クラブというのを作って、経済界がボランティア団体にお金を流し始めました。その頃はまだ NPO
法がありませんから、どこでどういう活動があるのかがわからない。経団連自身も登記を見て市民活動が把握できるような制度があればいいと考えていましたから、NPO 法の成立には経団連の後押しもあったと言われています。戦後の NPOは、どちらかというと体制に抗議していく市民運動的なものでしたが、抵抗から協働の理念に変わっていったのがひとつの特徴ではないかと思います。
饗庭 こういった日本の市民活動の歴史と、社会とのつながりを意識した建築家の運動や団体、つまり「建築運動」と言えるのかもしれませんが、その歴史はどのようにかみあうのでしょうか。
布野 建築屋はいまのお話のようなことで動いてこなかったので、ひとことで言うと、かみ合わないと思います。日本の建築運動の歴史は、近代建築運動の展開ということで1920年の日本分離派建築会の結成を起点に書かれますが、本日の座談会の脈絡だと、その前の日本建築学会の設立が最初の運動ということになるかもしれません。建築家が集まって社会的な基盤を獲得するために作ったのが学会の始まりです。いまは日本建築学会、建築家協会、建築士会、事務所協会などに分かれていますが未分化で、どちらかというと職能団体を目指していた。1914年に関西建築士会が開催され、翌年日本建築士会と名前を変えますが、そのころから役割分担が始まります。昭和のはじめから戦後にかけて、職能団体確立の熾烈な闘争を行ったのは日本建築士会です。職能を担保する建築士法を帝国議会に何度も提出しますが通らなかった。問題になったのは設計施工の兼業禁止の規定で、請負(ゼネコン)は反対し続けた。
1915年に岡田信一郎が「社会改良家としての建築家」という文章を書いていますが、明治末から対象にかけて顕在化した住宅問題、都市問題にどう対応するかが問題でした。結局、1919年に都市計画法と市街地建築物法ができて一段落ということになるのですが、岡田信一郎は「法律を作ったはいいけれども、莫大な人材がいる」と書いて、容易ならざる将来を憂えているんです。。
一方の近代建築運動は、分離派に続いて逓信省営繕課のドラフトマンが中心となる創宇社が1923年の関東大震災直後にできるんですが、昭和に入って社会主義運動と一体化した動きを始めます。「階級意識」に目覚めた創宇社の「左旋回」といわれます。1930年に諸集団が大同団結する「新興建築家連盟」が結成されますが、2カ月もたずに潰れます。戦後まもなくには、「新日本建築家集団NAU」が建築界をあげて結成されますが、これもレッドパージの圧力によって潰れます。「新日本建築家集団NAU」は、その後小会派に分裂して60年安保までは運動らしきものが続きますが、高度成長期を迎えて以降は表立った建築運動は見られません。強いて言うなら、反万博の運動があります。その頃から日照権運動や公害反対運動などの流れがあります。
建築士法については、戦後まもなくGHQ体制において、再び問題とされます。しかし、1950年に現行の資格法としての「建築士法」の成立によって決着します。
■建築的職能とその可能性
布野 私が「コミュニティアーキテクト」というような職能の必要性を言い出したのは、市民の公益的な活動という流れではありません。姉歯問題をはじめとする安全性の問題、防災の問題、景観の問題があり、まちづくりに手を出さないと建築家は生き延びることができないということなんです。戦後間もなくから、建築運動の流れの中で、住宅の問題に対して、小住宅の設計、工業化工法の開発、日本住宅公団の設立などによる公共的な住宅供給などが取り組まれてきました。しかし、1960年代末から70年にかけて、そういうことを本気で考える建築家の集団はほとんどいなくなっていたと思います。プレハブ住宅が1割を占め、住宅供給の主役に躍り出ていくわけです。しかも、ちょうどオイルショックが起こったことで量より質へとパラダイムが変わっていきます。そういう流れの中でまず考えたのが、C.アレグザンダーのいうアーキテクトビルダーという職能で、設計も施工も自分で責任を持ってやるという回路が必要ではないかと考えた。石山修武さんらと一緒に『群居』(注2)という雑誌を50号まで出して考えてきました。当時は東洋大学にいまして、学生は建築関連の工務店やガラス屋さんや左官屋さんの息子さんが多かった。そういう人たちがどういう立脚点で食べていくか、という視点です。ですから、使命感とか、啓蒙運動といったセンスは当初からありません。強いて言えば、産業構造と建築という社会的空間をつくる人材の配置が常に頭にあるということです。
饗庭 市民と何かをしたいというよりは、自分たちで役に立つものを考えて周りに提供していくというのが、現在に建築運動の先にあることなのかと思いました。現在は NPOだけではなく、社会的企業(注3)という選択肢もあります。建築家の内発的な動機は、NPOにはフィットしないけれども社会的企業には向くということはないでしょうか。
布野 コミュニティアーキテクトという場合、誰がお金を出すのかというのが基本的問題です。建築家はクライアントとの関係において報酬を得るわけですが、コミュニティアーキテクトが自治体と地域社会媒介するかたちが問題になります。一般的にコンサルタントというのは、国や自治体の下請けでしかない。NPOに期待するわけですが、まずは様々なやりかたで食べていけばいいと思うのですが、最近は、制度設計も必要かなとも思います。コンサルタント派遣とか、様々な試みがあり、その萌芽はあると思います。イギリスのCAVE(Committee of Architecture
and Built Environment)のようなものも考えられるかもしれません。日本の景観法も、法的根拠を持ってある程度コントロールできる武器を持つことになりました。デザインコミッティのようなものを国と各地方に設け、それぞれの活動がその地域にふさわしい動きなのかふさわしい景観なのかを議論しながら、支援できるようになるといいと思います。全国の業界団体に配分するのもいいですが、もうちょっとうまい仕組みができないかなと思っています。資金があれば多少なりともまちづくり活動ができるのでますが、レポート書いてお仕舞というのでは動きませんね。
今田 歴史的に見て、同潤会のような福祉系の住宅に民間の建築家は関心を持たなかったのでしょうか。
布野 同潤会の事業には、アパートメントハウス形式の提案など、建築家はかなり積極的に関与したと思います。その試みが戦後に引き継がれれば面白かったと思いますけど、同潤会から住宅営団(注4)になり、公団になる中で途切れてしまいます。同潤会のアパートメントハウス形式の提案が面白いのは、アメリカ的な集団生活のイメージと大正期の文化生活運動の理念が入っていて、共同生活のためのイメージがあった点です。「普通住宅」という木造戸建住宅も手がけていますし、不良住宅地区改良事業も手がけましたから、原点だったと思いますけど、結局は戦後にうまくつながらなかったと思います。
今田 第2次世界大戦後の占領政策にはいろいろな意味でいい点と悪い点がありましたが、どちらかというと戦後は戦前より国家の関与が強い制度になっています。日本の戦後の制度を設計したのが、当時のアメリカのニューディールレフトといわれる人たちで、どちらかというと社会主義的発想で日本の戦後社会は占領軍によって設計されました。戦前のほうが自由な発想で仕事ができたわけです。同潤会が営団になり公団になる中で、市民的な芽は、第2次世界大戦後の占領政策の中でかなり摘まれてしまったのではないでしょうか。それが1980年代になってようやく復活したわけです。
企業や企業家がNPO に対して資金的な支援をする「フィランソロピー」については、90年がフィランソロピー元年と言われましたが、私からすればそれは「ルネサンス」であって、日本における自発的な活動は50年間眠っていたという認識です(注5)。経済の面でもそれまでは国主導の傾斜生産方式による計画経済でしたが、80年代になって日本の製造業が海外に出ていって、フリーマーケットの中で力をつけてきたわけです。
饗庭 「ルネサンス」のイメージを具体的にお話ください。
今田 フィランソロピーの担い手である企業や企業家のマインドのルネサンスです。お金を出すと言ってもはじめの頃は相手がいなかったのが、NPO 法ができる頃になってようやくそういう団体が増えてきたので、市民社会の変化よりも企業のマインドの変化のほうが早かったと思います。
饗庭 同じころ、建築の分野はいかがでしたでしょうか。
布野 私は1968年に大学に入っていますので、万博直前とオイルショックの画然とした違いを経験しています。高度成長から低成長へパラダイムががらり変わりました。住宅でいうと、これからは量より質だ、高層から低層だ、新規開発より既存市街地の充実だ、これからは省エネだ、ということになった。「宇宙船地球号」が問題になり、資源は有限だ、地球環境のことを考えてまちづくりをしなければならないということで、当時の第三次全国総合開発計画(三全総)(注6)では流域定住圏ということを提案している。実際、停電も水不足もたびたび起こる。80年代広範にバブルが来るとは、正直言って夢にも思わなかったんです。そのバブルが再び弾ける状況の中で阪神淡路大震災が起きました。そこで最終的に、大きく変わったのかなという気がしています。コミュニティがしっかりしていないとだめだということがわかったし、そこを基盤に考えないといけないということもわかった。しかしその裏返しで、建築家は役に立たないし、責任も取らない。これをどうすればいいか、というところからコミュニティアーキテクト的な職能を考え始めたんです。
饗庭 震災後から現在にいたるまでが「ルネサンス」ということかもしれません。具体的にはどういった動きがあるでしょうか?
布野 楽観的な立場からすると、誰もが建築家でありうるということです。まちづくりは町の住民ががやるべきで、建築家の概念を拡張すればいい。拡張できないのは建築家のほうが悪いと考えます。建築を勉強したということは、非常な複雑な条件をまとめるトレーニングをしてきているわけで、それが得意なはずです。ですから、まちづくりをどんどんやっていけばいいと思います。例えば、横浜寿町で活動している建築家の岡部友彦()さんは、ドヤ(簡易宿泊所)を改修して外人バックパッカーなどにゲストハウスとして提供して、日雇い労働者にも宿泊や食堂のサービスをするソーシャルワーカー的な動きをしています。みんなで選挙に行きましょうという活動もしてその看板のデザインもする、というようなことをやっていて面白いと思います。京都の宇治市のウトロ地区の街づくりには寺川政司(CASEまちづくり研究所)さんが関わっています。日本の中の韓国の街づくりですが、韓国の建築家とも共同すれば面白いと思います。大企業の例では、竹中工務店(注7)には、ネパールに学校を作るといった本業とは別の活動をしている人たちがいます。そうした余裕のある組織にいる方の活動にはかなり期待を持っています。学会の特別研究委員会では、建築家が関わった全国の事例を集めていますが、いろいろな動きが出ています。大学も企業も、地域の中で一定の社会貢献的な役割を果たすのが自然の流れかなと思います。
中江 NPO 法ができてから、現在はまだ過渡期にあると思いますが、実際に壁にぶつかっているということはないのでしょうか。
今田 市民の公益活動がしやすくなったのは確かですが、新しい公共を作り出すのに役立っているかというと、必ずしもそうではないと考えています。私は、 NPOは、行政ではできないクオリティーオブライフ(QOL)をどう向上させていくかが鍵だと思います。例えば、社会的に排除された人たちをどう仕事に就けていくか。あるいは行政では守りきれない人の命と尊厳を市民レベルでどう守っていくか。市民活動の意義はそういうところにあると思っていますが、そういう意味ではまだ不十分です。事業をビジネスとして展開できればいいのですが、ビジネスになりにくい海外の支援や人権運動は、広く社会から支えられる寄付の仕組みを作っていかないといけない。そこが決定的に立ち遅れていると思います。
国情が違うアメリカと比べるのはあまり適切ではないですが、NPO が4万できたといってもやはり知れています。日本の非営利法人で寄付金控除の対象になる団体は100ぐらい、その他の制度まで全部合わせても1000もないと思いますけど、アメリカでは100万ありますから、基本的に市民が行う公益活動はまだまだ弱いと言えます。社会的企業では、日本には消費生活協同組合はあるけれども、生産協同組合がない。ガバメントと住民のガバナンスをバランスさせて住民による経済的、社会的自治を進めていくことがこれからの課題だと思います。
NPO 法は、当初は市民活動促進法という法律を用意しましたが、自民党守旧派の抵抗などで結局成立しませんでした。しかし、いままた市民活動法にしたほうがよいのではないか、という議論がなされています。公益的な活動に市民がどう参加していくかという制度の問題は、これから大きく動いて転換期に入るのではないかと思います。
■社会の基盤をどうつくるか
饗庭 「建築家の概念を拡張できないのは建築家が悪い」とのことでしたが、個人の問題はもちろんあるとして、社会の基盤、つまり制度的な問題、例えば建築士の資格法の問題はいかがでしょうか?
布野 資格法の問題はずっとあって、職能法はなかなか成立しない。日本の建築界がそういう体制になっていないから、百年河清を待つような話かもしれません。そういう中でも、建築家が食べていけて、面白いまちづくりが出てくればいい。そのためには、一律な制度ではなく、いろいろな助成が可能な仕組みができればいいと思います。しかし現状はそれができにくいようになっていて、なかなかサステイナブルにいかない。私もまちづくりで何回か助成をもらいましたけれども、いただいて1年か2年の活動ならいいのですが、サステイナブルにいかない。
学会も社団法人ですから、社会になにか還元しないといけないわけですが、我々自身の問題として、少なくともひとつの地域でボランティアのまちづくり活動をやるというのが第一歩かなと思います。また、緩やかでもいいからやはり情報交換の場としてコンソーシアムみたいなものを学会レベルで作るべきだと思います。
今田 建築に関して言えば、点としてはいろいろな試みをされていて、例えばグループホームとか、コーポラティブハウスなどの新しい試みは結構あるので、一人一人の建築家の方々は、市民マインドを持って仕事をされている方も多いと思います。しかしそれは点ですね。例えば、阪神淡路大震災の後で、専門家ボランティアというのがあって、建築家だけでなく、弁護士とか司法書士の方たちが携わっていましたが、やはり続いていません。そういう活動をサステイナブルに支援できる仕組みというのは、どうしたらいいのか。
あるプロジェクトをサステイナブルに支えていくというのはアメリカでもあまりできません。最初の2、3年はベンチャーキャピタルみたいなところがお金を出して、その後はビジネスとして展開して、ビジネスでの継続が難しい場合はそれを社会全体で支えるという寄付の文化が必要になります。
木下 寄付の文化が私たちの社会に根付く可能性はあるのでしょうか。
今田 日本でも寄付はみんなしています。例えば、阪神淡路大震災の時もいろいろなところから寄付が集まったし、世界各地で災害があると寄付が集まります。私は、NPO 法人パブリックリソースセンターというところでネット募金の寄付サイトの運営をしていますが、災害などが起きるとネット上でもお金が集まります。しかし阪神淡路大震災の時も、「私の寄付したお金はどこへ行ったのか」という苦情がけっこうありました。寄付の実態を調べて寄付白書を作ろうという動きもありますが、各団体各事業のアカウンタービリティが重要です。それと情報発信力を強化することによって、かなり寄付は集まると思います。寄付をする人は税制にあまり関係なく寄付をしますから、制度の問題も大事ですが、市民団体側がいかに共感を得られる活動をしてそれを発信していくかという部分が大きいと思います。
今田 アメリカの財団には、インディペンデント財団とコミュニティ財団があって、インディペンデント財団は大金持ちが社会貢献のために設立する財団で、コミュニティ財団は、コミュニティの人がコミュニティの開発のために寄付をして自分たちで支え合う仕組みです。アメリカで一番古いコミュニティ財団の「クリーブランド財団」が開発したレキシントンビレッジという郊外の住宅群は、戸建ての低所得者のためのアフォーダブル住宅です。地域計画を立案して、銀行などからの融資も引き出して、環境の悪い地区を財団自らが再開発して住宅地に変えました。そうした市民の寄付で成り立つ仕組みのコミュニティ財団が、アメリカには350くらいあります。
布野 日本でコミュニティ財団的な可能性は考えられないですか。普通の町では町内会費とかがあり、昔はそれをコミュニティの中で使っていました。滋賀県の小さな村などでは結構な額になっており、それを使わせてもらおうかという話も出ていたりします。
今田 日本では昔、公共工事も自分たちでやってしまうこともありました。貯めているお金をどういうふうに地域に使っていくか、その仕組みを考えていくといいと思います。京都には、公益財団法人
京都地域創造基金という市民が市民運動を支える財団ができています。これは、新しい法律で財団法人が300万円でできるようになったので、みんなから集めて作ったものです。政府は新しい公共と言っていますけれども、公的資金と民間の資金をどうミックスしてサステイナブルなまちづくりをしていくか、その仕組みを考えていく必要があります。
布野 近江環人ではサービスラーニングといって、地域貢献しながらそこで学習するみたいなアイデアも出ています。学生が実際に蔵を改造してシェアハウスにするとか、そういう動きはあります。財源が問題なのですが、滋賀のある地域の町内会では300万円どころではなく、億単位でお金を貯めていますので、うまくつなげられればと考えています。実際に地方の場合は、地域再生のために大学の若い「学生力」に期待しているのは確かです。先ほど個々人が地域でやれと言いましたが、大学も企業もそうですけれども、地域の中で一定の社会貢献的な役割を果たすのが自然の流れかなと思っています。
大学は潰れない限り若い人材を供給できますので、大学の機関、地域まちづくりセンターみたいなところがうまくつないでいく。イベント的ではない展開をすべきだと思います。あとは、団塊世代のリタイア組をうまく活用するといいと思います。
饗庭 NPOと建築運動の歴史を振り返ることから、建築系のNPOの立ち位置を確認することができ、さらには具体的な社会の基盤や制度のあるべき姿に踏み込むことができました。本日はありがとうございました。
註布野修司×今田忠
布野修司(ふの しゅうじ)
1949- 建築・都市研究家、評論家。東京大学建築学科卒業。東洋大学助教授、京都大学助教授を経て滋賀県立大学教授。1982年から2000年まで住まい・まちづくりの同人誌『群居』の編集長。著作=『戦後建築論ノート』『布野修司建築論集1・2・3』など。
今田忠(いまだ まこと)
1937- NPO法人パブリックリソースセンター専務理事。日本生命保険相互会社、日本生命財団、笹川平和財団主席研究員を経て、99年まで阪神・淡路コミュニティ基金代表。
著作=『NPO起業・経営・ネットワーキング』、共著『フィランソロピーの思想』『NPOと行政の協働の手引き』。『日本の NPO 史―NPOの歴史を読む、現在・過去・未来』
1 賀川豊彦
1888-1960 神戸の貧民街で伝道をする牧師から社会運動家となる。大正、昭和前期の日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動の指導に当たり重要な役割を担った。
2 『群居』
1982年に創刊された、住宅政策などを扱う草の根型まちづくり季刊誌。
3 社会的企業(ソーシャルエンタープライズ)
環境、福祉、教育などの社会的課題に取り組む事業体。市場メカニズムを活用して得る利益は、その社会的な目的のためにビジネスやコミュニティに再投資される。
4 住宅営団
日中戦争の激化の中で同潤会の発展的後身として1941年5月に設立。戦時下社会政策の住宅版を狙ったが、1947年GHQによって閉鎖の指定をされる。1955年に日本住宅公団が設立され、以後の住宅供給を担った。
5 『日本の企業家と社会文化事業―大正期のフィランソロピー』
山岡義典、川添登共著、東洋経済新報社、1987年。経済優先の思想に対置しうるのはフィランソロピーの思想であるとし、日本的な活動を模索した企業家たちの思想と行動を明らかにした書。
6 第三次全国総合開発計画(三全総)
国土庁の担当で1977年に閣議決定。あらたな大規模プロジェクトを打ち出さず、大都市への人口と産業の集中を抑制しつつ、地方復興で過密過疎問題に対処し、人間居住の総合環境の形成を図るため定住圏構想を中心に据えた。
7 竹中工務店設計部の有志が調査のために訪れたネパールのフィリム村(標高約1600m人口約800人の山村)で子供たちに学校をプレゼントするプロジェクトを立ち上げ、ボランティアの手で建設が進められた。
2024年6月17日月曜日
2024年6月16日日曜日
メディアの中の建築家たち 現代建築家批評31 「主題の不在」という主題 磯崎新の時代1968ー1989」,建築ジャーナル,201007(『建築少年たちの夢』所収)
現代建築家批評31 メディアの中の建築家たち 磯崎新
「主題の不在」という主題
磯崎新の時代 1968-89[1]
1931年生まれの磯崎新は、1970年代、80年代、90年代は自らの40歳代、50歳代、60歳代にそのまま重なる。磯崎自身、時代の転換は10年単位に意識され、例えば、10年毎に危機に陥り、挫折を繰り返してきたという。
「60年代、70年代の始まりの頃には肉体的にダウンした。それは肉体的な危機でもあった。80年代は、90年代の始まりには方法的にダウンした。仕事のやり方が転換した」[2]。
続けて、60年代:システム、70年代:メタフォア、80年代:ナラティブ、90年代:フォルムなどと自らの関心と軌跡を10年毎に説明しようとしたりしている。しかし、上述のように、決定的なのは1968年という閾である。
磯崎は、1968(-1970)において、「社会変革のラディカリズムとデザインとの間に、絶対的裂け目を見てしまった」と振り返る。「デザインと社会変革の両者を一挙におおいうるラディカリズムは、その幻想性という領域においてのみ成立するといえなくもない。逆に社会変革のラディカリズムに焦点を合わせるならば、そのデザインの行使過程、ひいては実現の全過程を反体制的に所有することが残されているといってよい」また「デザインを放棄する、あるいは拒否することだけがラディカルな姿勢をたもつ唯一の方法ではないか」というのが総括であった(『建築の解体』)。
若い建築家たちは、この磯崎の結論を前川國男の「いま最も優れた建築家とは、何もつくらない建築家である」[3]という発言と共に受け止めた。実際、建築から離脱していった、あるいは離脱せざるを得なかった多くの建築学生たちがいる。
建築の解体
磯崎が選択したのは、「デザイン」であり、「芸術(アート)としての建築」である。「反芸術」もまた「芸術」である、という「芸術消滅不可能性の原理」(宮川淳)が予め想起されていたのかもしれない。しかし、前提として、既成の「建築」、すなわち「芸術としての建築」は一旦は解体されなければならない。磯崎新が目論んだのは、「建築」をあらゆる頸木―時間的序列(歴史)、社会的コンテクスト(場所)、様式、テクノロジー―から切断し、自立した平面に仮構することであった[4]。
『建築の解体』(美術出版社)が上梓されるのは1975年であるが、その基になった原稿は、1960年代末から既に『美術手帖』誌に連載されていたものだ。1968年に大学に入学した僕らは、本の形になる前にコピーして読んだ。H.ホライン、アーキグラム、チャールス・ムーア、セドリック・プライス、C.アレグザンダー、R.ヴェンチューリ、スーパースタジオ、アーキズーム、当時の最先端の建築家の仕事についての情報源、虎の巻であった。
磯崎自身にとっては、「建築の解体」の連載を続けることは、自らの「分裂」状況、「ダブルバインド」状況を回避するための必死の作業であった。そして、実際、60年代における同世代の作家たちの拡散的な作業を、いわゆる<建築>の概念の否定、拡張(他領域言語の導入、建築の概念の全環境への拡張)と<近代建築>の規範(インターナショナル・スタイルと機能主義的方法)の解体の相互に連関する二重の解体作業として位置づけ、それを症候群として整理することで、自らの方向を見定めることになるのである。
この連載の第一回にも書いたけれど、僕の『戦後建築論ノート』(1981)(『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』(1995))は、第一章を「建築の解体―建築における一九六〇年代―」と題する。メタボリズムのイデオローグ川添登の『建築の滅亡』(1960)と磯崎新の『建築の解体』の間に「近代建築」批判の方向性を見出そうとした論考[5]である。繰り返し書くように、ターゲットはメタボリズムである。そして、関心は、磯崎新とメタボリズムの関係であり、その間の距離である。
1978年の磯崎論において次のように書いた。
「磯崎とメタボリズムとの関係は、磯崎を捉える上で欠かすことのできない視点である。何よりも、彼は、メタボリズムとの距離を自己確認のための最大の尺度としてきたのであり、メタボリズムへの批判、際の測定を専ら梃子としてきたと言いうるからである。そして、その関係は、われわれにとって、それ以上の意味をもっている。何故なら、その同相性(共有されていたもの)において、建築における60年代の位相を、その異相性(差異)において70年代の建築の位相を捉えることがとりあえずできるからである。」
手法:引用と暗喩
磯崎新が、最初の突破口としたのは手法である。『手法が』が上梓されるのは1979年であるが、「何故「手法」なのか」[6]「手法について」[7]は、早くも1972年に書かれている。
手法といっても、磯崎がまず依拠したのは、正方形とか円形という純粋な幾何学的形態、三次元に拡張すればプラトン立体を様々に-切断、射影、布石、転写、増幅、梱包、応答-操作する、そういうレヴェルの手法である。
磯崎が切り開いた幾何学的形態の操作を手法とする諸作品は、やがて「○△□」などと称され(レッテルが貼られ)、ポストモダンのフォルマリズムの流れに位置づけられることになる。純粋幾何学形態については、磯崎は後に、プラトン立体とともに、重源の「五輪塔」を持ち出し、宇宙の構成原理(コスモロジー)との関係を強調することになる。
もちろん、磯崎は振り返って理論武装をはかる。16世紀のマニエリストたちのマニエラ、ロシア・フォルマリズムにおける「異化」、M.フーコーの「レーモン・ルーセル」論における手法などが援用される。磯崎は「そのうち勝手に「手法論」と呼んでいたことの内実が広義のフォルマリズムであることが理解できはじめた」[8]と振り返るが、当初は、「形式主義的方法」「脱イデオロギー論的な技術主義」といった評価に反撥しながら、「手法が要請する物体や空間の異化作用が明確な違反を指向しているならば、それ自体としてアクチュアルな意味をもちかつ機能する」と自信に満ちて語っていた。拘るのは「違反」であり「アクチュアリティ」である。そして、磯崎の手法論は、引用論、記号論、修辞論[9]によって補強されることになる。
磯崎新のフォルマリズムは、同時に現れてきたコンテクスチュアリズム(文脈主義)にはっきりと対立することになる。すなわち、あらゆる関係を切断して建築を自立した平面に仮構するということは、都市を根拠とすることも峻拒されなければならない。「都市からの撤退」である。
磯崎新は、オイルショックで建設活動が縮退するなかで「北九州市立美術館」「北九州市立中央図書館」「群馬県立近代美術館」「富士見カントリークラブハウス」などを次々と実現してみせた。1970年代は圧倒的に「磯崎時代」である。対照的に、丹下健三は日本国内でほとんど仕事がなく、1960年代の方法のままに中東の石油産油国に出かけて行くことになった。また、磯崎の組み立てる言説空間の庇護の下で、多くの若い建築家たちがデビューしていくことになる。
建築の1930年代
「モデルは溶けました。何でもありです。時間も前後に入り乱れることが普通になりますし、東/西、中心/周縁といった空間分割による位置基準も失われてしまいます。「主題の不在」です。」と磯崎は振り返る。しかし、当初から新たな方向は模索されていたように思う。
『建築の解体』は、多様な方法を追いかけながら埋めることのできない巨大な空洞につきあたった感がある、と結ばれている。そして、巨大な空洞とは、主題の不在という主題であり、異なったヴェクトルをもった様々な活動は中心の空洞に向かい合うことを避けられなくなりつつある、と引き取られていた、のである。
磯崎の<切断>は、もともとその一瞬のみにおいて意味をもつ、そんな仮説でしかない。1978年の磯崎新論で次のように書いた。
「磯崎新の新たなフォルマリズムは、きわどいバランスの上に構築されていたと言えるであろう。それは、これまで<建築>が語られてきたコンテクストを一瞬、<切断>することにおいてのみ成立し得たからである。それは仮構された平面(別のディスクールの仮説作業)であった。それは例えば<二重底>の論理によって裏打ちされていたものではなかったか(吉本隆明+磯崎新「都市を変えられるかー1971」『美術手帖』1971年8月)。それは本質的に、「建てることではじめて建築家である」という先入観を放棄した地点からのみ組み立てうる論ではなかったか。観念が物質化されるときに受ける歪み、物質の中に刻印される観念の影、フォルムのリアリティ、おそらく様々な問いが、中心の空洞に向き合う作業の過程で反芻されねばならないはずである」。
そして続けて、磯崎新自身が、建築表現のあり方として、≪生≫の表現としてのS.ロディアの「ワッツ・タワー」、≪論理≫の表現としてのヴィトゲンシュタインの「ストロンボウ邸」、≪技術≫の表現としてのB.フラーのジオデシック(測地線)・ドームに触れている[10]ことを引きながら、磯崎自身は「『建築における1930年代』(鹿島出版会、1978年)の中で、モダニズムとリアリズムのコンフリクトの過程を、日本のコンテクストにおいて確認しながら、イデオロギーとしての「日本的なるもの」を主題化しつつあることを示唆している」と書いた。
手法論を展開する一方で、磯崎は、先輩建築家たちの戦時中の活動に焦点を当てたインタビューを行う。そして『建築の1930年代/系譜と脈絡』という一冊をまとめている。
同時代建築研究会(昭和建築研究会、1976年12月設立)は、当時、全く同じように、15年戦争期に焦点を当てて、多くの先達たち-山口文象、竹村新太郎、前川國男、高山栄華、浜口隆一、土浦亀城、神代雄一郎、鬼頭梓、平良敬一、藤井正一郎、川添登、宮内嘉久、稲垣栄三・・・-にインタビューを続けていた。そして、『建築の1930年代』に導かれるように、『神殿か獄舎か』で磯崎新をばっさり斬っていた長谷川堯と磯崎新が初めて同席するシンポジウムを仕掛け[11]、その議論を含めて、『悲喜劇 一九三〇年代の建築と文化』(現代企画室、1981年)をまとめる。
このころ、「近代の呪縛に放て」のシリーズで『建築文化』の編集部に通っていて、「磯崎新の現在」という特集(『建築文化』1978年9月)企画のために、磯崎アトリエを初めて訪れた記憶がある。そして、シンポジウムの縁で、お茶の水の自宅でのパーティに宮内康らとともに招かれ、磯崎自ら湯がいたパスタを頂いたことがある。1930年代に全ての主題は孕まれているという認識は共有されていたように思う。
分裂症的折衷主義
磯崎の軌跡は、1980年代に入って次の段階を迎える。第一に、手法論から引用論へと進化させた方法を結晶化した「つくばセンタービル」(1983)を完成させるのである。振り返って、「つくばセンタービル」は、日本のポストモダン建築の先駆とされ、磯崎新の代表作とされる。実際、「つくばセンタービル」によって、磯崎新は、「何でもあり」のポストモダン状況に首謀者として巻き込まれることになった。磯崎自身も『週刊本 ポストモダン原論』(1985年)を書いて、その潮流に乗ることになる。キャッチフレーズは「分裂症的折衷主義(スキゾフレニック・エクレクティシズム)」である。
「主題の不在」という「主題」を主題化したのであり、「主題の不在」を主唱したのではない。「建築の解体」において問うたのは「建築における近代性(モダニテ)」であって、「ポストモダニズムの建築」を喧伝したのではない。デコンストラクションが問題であってデコンストラクティビズムには責任はない、全て誤解だ、と磯崎は繰り返し弁解することになる。しかし、手法論、引用論で武装し、あらゆるものが等価であるという言説を組立て、「つくばセンタービル」を実現させた影響力は大きかった。
第二に、1980年代に入って海外の活動が開始された。「ザ・パラディアム」(1985)、そして「ロサンゼルス現代美術館(MOMA)」(1987)の設計がジャンピング・ボードになった。その経緯は建築界ではよく知られているが、「私の履歴書」は一回(21)を割いている。設計を始めたのは1981年1月から終了する83年9月までにおよそ30の案を提出し、建設委員会・運営委員会にあやうく提案を拒否される寸前で、一般ジャーナリズムの擁護によって救われるのである。磯崎は、続いてバルセロナ・オリンピックの屋内競技場「パラウ・サン・ジョルディ」(1990)の設計者に選ばれ、押しも押されもせぬ世界的建築家となる。
国家とポストモダニズム建築:筑波センタービル
「つくばセンタービル」をめぐっては、自らありとあらゆる批評(「つくばセンタービル論争」)を組織して『建築のパフォーマンス』[12]がまとめられている。僕もそこにインヴォルブされているが、当時竣工した大江宏の「国立能楽堂」、黒川紀章の「国立文楽劇場」、芦原義信の「国立歴史民俗博物館」、あるいは「第二国立劇場」のコンペ(1984)、さらに「科学技術博」(1985)も含めて論じた文章(「国家とポストモダニズム建築」[13])の中で磯崎新の「都市、国家、そして<様式>を問う」[14]をめぐって、次のように書いている。
「磯崎新の「つくばセンタービル」における国家と様式をめぐる自らの設問への解答は、しかしながら、いささか奇妙なものである。なぜなら、問いへの解答をできうる限り回避することによって解答しようというものだからである。」
国家と様式をめぐる問いに対する歴史的な解答をすべて拒否し、しかも現在、明確な像としては存在しない国家のあり方を確認した上で、なおかつ、その国家をシンボライズし、記念する様式とは何かを問おうとしたのが「つくばセンタービル」における磯崎である。結果として選択しようとしたのは、「決して明確な像が結び得ないような、常に横滑りし、覆り、ゆらめきだけが継続する様式」であり、「単一なイメージに全体が支配されつくされないように断片に断片を重ね、相互に軋轢を起こさせ、裏切らせ、縫合させること」であった。
「つくばセンタービル」を「中心が見えない。それでも中心がある。これが日本の天皇制の構造だ」と言ったのが浅田彰である。1990年代の10年、磯崎は浅田彰とともに、建築と哲学を問うAny会議を組織することになる。
宙づりにされた近代建築批判
1980年代には、さらに「東京都新庁舎」のコンペがある。黒川紀章がマスメディを使って激しく丹下健三批判を繰り返したこともあって、建築界の権力闘争かと大きな関心を集めた。結果として、丹下健三の日本への帰還を祝すことになるコンペの顛末をめぐっては、最近、平松剛が『磯崎新の『都庁』 戦後日本最大のコンペ』(文藝春秋、2008年)出した。
「新都庁舎」について僕は、請われるままに『朝日新聞』に5回ほど短い解説[15]を載せ、「記念碑かそれとも墓碑か、あるいは転換の予兆か」という評論を書いた[16]。今でも不思議だけれど、磯崎の中層案が炙り出した「新都庁舎」の孕む様々な問題について、誰も書かなかった。建築界からの声、批評はほとんどなかった。
新都庁舎の設計者が丹下健三に決定するとともに前川國男が逝った(1986年6月26日)。享年81歳、その一生は、敗戦を真ん中にして丁度前後40年となる。新都庁舎をめぐって政権交代はなかったけれど、世代交代を印象づけることになった。磯崎新は、1988年に「くまもとアートポリス」をスタートさせる。多くの若い建築家たちがその仕組みの中から育っていくことになる。そして、1980年代半ばから1990年代初頭にかけて[17]、日本列島をバブル経済の波が襲う。外人建築家が日本列島を席巻し、ポストモダニズム建築の徒花が咲き乱れることになった。
1989年にベルリンの壁が崩壊する。奇しくも日本でも昭和から平成へ元号が変わる。ベルリンの壁の崩壊はソ連邦の崩壊(1991年)につながっていくことになる。20世紀を通じた革命、社会主義国家の建設という「大きな物語」は終焉することになった。磯崎新は、1968年から89年までを「歴史の落丁」と呼ぶ。
振り返ってみると、「歴史の落丁」の時代こそが磯崎の時代であったような気がしないでもない。以降、磯崎新の相対的地位は低下したように思える。バブル経済によるポストモダニズム建築の跋扈が大きい。また、本連載で取り上げてきた「建築の解体」以後の世代がチャンスを得て刺激的な作品を実現し始めるのである。
個人的にも、「MOMA」、「つくばセンタービル」「東京都新庁舎」以降、「お茶の水スクエア(カザルスホール)」(1987)「武蔵丘陵カントリークラブ」「東京グローブ座」(1988)あたりから磯崎新が消えていった感じがある。僕は既に「住宅」をベースに都市あるいは建築を思考し始めており、『群居』を石山修武、大野勝彦、渡辺豊和らと開始していたからである。また、アジアのフィールドへのめり込みつつあったからである。
しかし、思い起こすのは全くもって時代が読めていなかったことである。黒川紀章が「東京湾埋立計画」を発表し、丹下健三もまた「東京計画1986」などという「東京計画1960」を中途半端に再現したような計画案を提出するのである。メタボリズムの復活であり、東京改造の狂騒はまるで黄金の1960年代の復活であった。近代建築批判という課題は宙吊りにされ続けてきたのである。
体制を立て直しながら書いたのが「ポストモダン都市・東京」[18]である。東京が世界都市として日本列島を離陸したのが1980年代後半である。アジアの発展途上地域の都市も、異様な展開を始めていた[19]。
[1] 磯崎新プロジェクト
1970-1972 大分県医師会館新館 大分県 Built
1971-1974 群馬県立近代美術館 群馬県 Built
1972 コンピューター・エイディッド・シティー計画 千葉県 Unbuilt
1972-1974 北九州市立美術館 福岡県 Built
1973-1974 北九州市立中央図書館 福岡県 Built
1973-1974 富士見カントリークラブ クラブハウス 大分県 Built
1974-1975 秀巧社ビル 福岡県 Built
1975 川原湯計画案 群馬県 Unbuilt
1975-1977 西日本総合展示場 福岡県 Built
1976-1978 神岡町役場 岐阜県 Built
1978-1980 NEG大津工場福利厚生施設 滋賀県 Built
1978-1983 福岡相互銀行本店増築 福岡県 Built
1979-1983 つくばセンタービル 茨城県 Built
1979 サウジアラビア外務省庁舎国際設計競技 リヤド、サウジアラビア Unbuilt
1980-1982 利賀山房 富山県 Built
1980 テーゲル港区計画国際設計競技 ベルリン、ドイツ Unbuilt
1981-1986 ロス・アンジェルス現代美術館 カリフォルニア、アメリカ Built
1981-1986 ビョルンソン・ハウス/スタジオ カリフォルニア、アメリカ Built
1982 利賀村野外劇場 富山県 Built
1982-1984 西脇市岡之山美術館 兵庫県 Built
1982-1986 ベルリン集合住宅 ベルリン、ドイツ Built
1983-1990 サンジョルディ・スポーツ・パレス 1992年バルセロナ・オリンピック屋内競技場 バルセロナ、スペイン Built
1983-1985 パラディアム ニューヨーク、アメリカ Built
1984-1987 お茶の水スクエアA館カザルスホール 東京都 Built
1985 フェニックス市行政センター国際設計競技 アリゾナ、アメリカ Unbuilt
1985 サフォーク郡裁判所総合庁舎設計競技 ニューヨーク、アメリカ Unbuilt
1985-1986 東京都新都庁舎計画設計競技 東京都 Unbuilt
1986-1987 武蔵丘陵カントリー倶楽部 クラブハウス 埼玉県 Built
1986 ダニエル・タンプロン財団美術館 バルボンヌ、フランス Unbuilt
1986 フランクフルト民族学博物館増築設計競技 フランクフルト、ドイツ Unbuilt
1986-1992 東京造形大学 東京都 Built
1986-1992 ブルックリン美術館・増改築計画、ジェームズ・スチュアート・ポルシェックと共同設計 ニューヨーク、アメリカ Built
1986-1990 水戸芸術館 茨城県 Built
1987-1989 レイク相模カントリークラブ クラブハウス 山梨県 Built
1987-1990 北九州国際会議場 福岡県 Built
1987-1988 ハラ・ミュージアム・アーク 群馬県 Built
1987 パタノスター地区再開発計画国際設計競技 ロンドン、イギリス Unbuilt
1987-1989 ボンド大学図書館、管理棟、人文科学棟 クイーンズランド、オーストラリア Built
1987-1991 ティーム・ディズニー・ビルディング フロリダ、アメリカ Built
1988-1989 東京キリスト教学園チャペル 千葉県 Built
1988-1996 パラフォルス・レクリエーション施設 パラフォルス、スペイン Built
1988-1989
EXPO’90国際花と緑の博覧会 水の館 大阪府 Built
1988-1995 JR上野駅再開発計画案 東京都 Unbuilt
1988 ストラスブール旧屠殺場開発計画国際競技 ストラスブール、フランス Unbuilt
1988-1990
EXPO’90国際花と緑の博覧会 国際陳列棟 大阪府 Built
1989-1991 富山県立山博物館/遥望館・展示館 富山県 Built
1989 ネクサスワールド・ツインタワー計画案 福岡県 Unbuilt
1989-1990 JR九州由布院駅舎 大分県 Built
1989 東京新美術館プロポーザル 東京都 Unbuilt
1989-1990 サンセバスチャンK地区再開発計画設計競技 サンセバスチャン、スペイン Unbuilt
[2] 「システムが自走した」<日本の夏1960-64こうなったらやけくそだ!>展カタログ、水戸芸術館現代美術センター、1997年。『反回想Ⅰ』所収。
[3] 『建築家』、1971年春号、日本建築家協会
[4] 磯崎新「デザインの刻印」特集「日本近代建築史再考/虚構の崩壊」『新建築』臨時増刊1974年10月
[5] 「60年代への喪歌」『建築文化』1977年10月
[6] 『a+u』1972年1月号
[7] 『新建築』1972年4月号
[8] 「『手法が』の頃を想い出してみた」『反回想Ⅰ』(GA,2001)p264
[9] 『建築の修辞』美術出版社1979。『建築の地層』彰国社 1979。
[10] 岩波講座『文学』1「文学表現とはどのような行為か」所収
[11] 「1930年代の建築と文化」(磯崎新+長谷川堯+植田実+宮内康)赤坂公会堂、1979年。
[12] 磯崎新編『建築のパフォーマンス <つくばセンタービル>論争 PARCO picture backs』(パルコ出版) 1985
[13] 『建築文化』1984年4月号
[14] 『新建築』1983年11月
[15] 私の新都庁舎論1~5 解説,朝日新聞,198612
[16] 『建築文化』彰国社,198605
[18] 『早稲田文学』1998年7月『イメージとしての帝国主義』青弓社1990年
[19] 「メガ・アーバニゼーション」『アジア新世紀8 構想』,岩波書店,青木保編,2003年。Shuji Funo: Tokyo: Paradise of
Speculators and Builders, in Peter J.M. Nas(ed.), Directors of Urban Change in
Asia, Routledge Advances in Asia-Pacific Studies, Routledge, 2005
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