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2023年11月9日木曜日

長谷川堯 『神殿か獄舎か』、相模書房、一九七二年、?、1999

 長谷川堯 『神殿か獄舎か』、相模書房、一九七二年

キーワード:神殿、獄舎、昭和建築、雌の視角


 本書を最初に読んだときの衝撃は今も忘れない。本を読んで著者に会いに行ったのは後にも先にもこの一書である。ちなみに徒党を組んで会いに行ったのは杉本俊多、三宅理一、千葉政継の面々である。六〇年代末の世代として、僕らはまず原広司のいささか難解な『建築家に何が可能か』を貪るように読んだ。しかし、時代が現前させたのは、「建築家に何も可能ではない」、「建築とは暴力である」というテーゼであった。

 神殿か獄舎か!。

 運動の後退期にこのスローガンは実にわかりやすく耳に入った。近代建築家を「神殿志向」として切って捨てる。そして、建築家は所詮「獄舎づくり」だ、と言い切る。その宣言は妙に時代の気分に合っていた。本書は日本における最初の近代建築批判の書である。日本における近代建築批判の書として、僕はこの『神殿か獄舎か』と磯崎新の『建築の解体』(美術出版社、一九七五年)をあげる。いずれも六〇年代末の雰囲気の中で書かれた。もちろん、二書の近代建築批判の位相は異なる。長谷川堯は磯崎新を神殿志向として予め切って捨てている。

 『神殿か獄舎か』の第一の意義は、「昭和建築」という範疇を提出したことである。すなわち、「昭和」の戦前戦後を通じて連続するものとして日本の近代建築思想を捉えたことである。具体的に、「建築の<昭和>の中央を汚す傷のようにかなりの数の歴史様式の建築と、さらにはあのファシズムの横行に付随したいわゆる帝冠式といわれる建築が分断している」が故に「<昭和建築>を戦後建築に顕著な合理性にもとづく近代的な建築の流れとして総合的に把握し、一つのカテゴリーとすることに無理があるように思われる」なかで「昭和のはじめに国際的に起こった近代合理主義建築運動の中で、特にそれが後発工業資本主義国において展開する時、ある歴史生理的必然から生ずるいわば正常な排泄物に近いものが歴史様式特に帝冠様式ではないか」として、<昭和建築>=近代合理主義の建築という規定を行うのである。

 長谷川堯が<昭和建築>なる範疇を提出したことの意味は、日本の近代建築を<昭和>という具体的なコンテクストに置いたことである。また、戦前戦後を通じて一なるものを対象化したことにある。

 そこで彼が意図したのは、「大正建築」を救うことであった。具体的に『神殿か獄舎か』において大きな評価が与えられているのは豊玉監獄の設計(獄舎づくり!)で知られる後藤慶二のような建築家である。また、前川國男、丹下健三といった近代建築の主流(神殿志向)ではなく、分離派や村野藤吾のような大正期に出自をもつ建築家である。

 長谷川堯の評論のわかりやすさはAかBかというディコトミーにある。続いて出された評論集は『雌の視角』(相模書房、一九七四年)と題されるが、「昭和に対する根源的批判は、メスの思想の存在によってのみ可能である」というのがテーゼである。明治以降、日本の建築のあり方を大きく規定してきた構造派を支えた思想をオスの思想、大正期の後藤慶二や分離派を支えた思想がメスの思想である。さらに言えば、メス性とは、自己性であり、想像性であり、身体性である。「外から上から」に対する「内から下から」という言い方もなされている。

 こうした単純な図式の反転には当初から違和感があった。ひたすら「内へ」「自己へ」向かえば、近代建築批判が達成できるとは到底思えなかったのである。長谷川堯の一撃は必要であった。続いて上梓された『都市回廊』(相模書房、一九七五年)も含めてその歴史の読み直し作業の意義は大きかった。しかし、その安易な二者択一の図式とその反転がポストモダンの建築を自閉の回路に導き入れたのはおそらく間違いないのである。

2023年11月8日水曜日

棲み分けの理論へ・・・「形の論理」と構想力、平良敬一氏の「『空間論』から『場所論』へ」をめぐって、C&D、1999

棲み分けの理論へ・・・「形の論理」と構想力

・・・平良敬一「「空間論」から「場所論」へ」をめぐって

布野修司

 

 やはり「西田哲学」にいくんですか、と思わずうなった。平良さんのヴァナキュラーなものへの注視、風土性・土着性・田園性のデザイン言語への期待は、かねてより直接話を聞く機会もあり、大いに共感し自分なりに理解してきたところだが、その哲学的基盤への思索が「西田哲学」へ向かいつつあるとはいささか意外であった。

 かって「西田哲学」を「社会的実践の理論としてはあまり有効性をもたない」と考えていたマルクス主義者平良敬一が「西田哲学」に向かうのにはもちろん理由がある。マルクス主義あるいはマルクス主義の進歩史観と親和性の強い近代的知(諸学)のフレーム(パラダイム)がその有効性を失いつつあるのである。考えるに「近代の超克」という方向性についてはマルクス主義と「西田哲学」には共通性がある。マルクス主義は資本主義の生産力を媒介にして、「西田哲学」は東洋思想を媒介にして「西欧近代」を超えようとしたのである。マルクス主義が歴史の発展段階、系譜や時間に関心を集中したとすれば、「西田哲学」は西欧の知的体系では捉えきれない異質の地域や世界、場所へ向かったのである。

 と、訳知りに言い切るほど「西田哲学」を理解しているわけではもちろん無い。京都に移り住んでいつかは「西田」を読まなければという強迫観念にとりつかれたままである。周辺には「西田哲学」をじっくり学んだ碩学が少なくなくないから、可能ならば触れたくないという気もある。難解な哲学的思索に耽るよりは、アジアのフィールドを飛び回っている方が性に合っている。

 専ら必要に応じて読んでいるのは、哲学的思索の平面を一歩も出ようとしない西田よりも、今西錦司以下の生態史観に関わる京都学派の著作である。とくに「棲み分け理論」に興味がある。人間の主体性を含み込んだ社会の「棲み分け理論」がおそらく建築や都市計画にとっての理論になるだろうという直感がある。具体的には、「世界単位論」「総合的地域研究」の方法が現在の最大の関心である。

 ただ、「西田哲学」についてはその最良の継承者であった三木清はじっくり読まなければと思う。西田の「場所の論理」とともに「制作(ポイエーシス)の論理」が気になるのである。要するに三木の「形の論理」と「構想力の論理」が棲み分けの生態学と地域社会をつなぐ大きな手掛かりを与えてくれるように思うのである。



 

2023年10月15日日曜日

2023年9月7日木曜日

西山夘三 『これからのすまい』、相模書房、一九四八年, 199906

 西山夘三 『これからのすまい』、相模書房、一九四八年

布野修司

 食寝分離、起居様式、住宅生産の工業化、土地の公有化、家事労働の合理化 


 浜口隆一の『ヒューマニズムの建築』(雄鳥社、一九四七年)とともに戦後建築の指針を示した書として著名。建築家によって貪るように読まれたという。

 戦後まもなく、建築家にとって全面的に主題になったのが、住宅復興である。日本の建築家たちは様々な回路で住宅問題に取り組むが、とりわけ勢力を注いだのは、新たな住宅像の確立というテーマであった。数多くの小住宅コンペが催され多くの若い建築家が参加したのであった。

 敗戦後まもなくの建築家の意識をきわめてストレートな形でうかがうことができるのが浜ロミホの『日本住宅の封建性』(相模書房、一九五○年二月)である。そこには、「床の間追放論」や「玄関という名前をやめよう」といったきわめてセンセーショナルな主張が展開されている。また、家事や育児のために過重な負担を背負ってきた婦人の解放の主張と結びついた、台所の生活空間としてのとらえ直しの主張に大きなウェイトが置かれている。その主張はきわめてヴィヴィドに戦後まもなくの状況を伝えてくれる。また、少し遅れて、池辺陽の『すまい』(岩波書店、一九五四年)がある。

 そうした戦後復興の混乱と昂揚の中で、住宅と都市に関して、その方向性を最も包括的なパースペクティブの下に提出したのが西山夘三である。『これからのすまい』の冒頭には簡潔に「新日本の住宅建設に必要な十原則」が記されている。

 一、ふるいいやしいスマイ観念をあらためて、文明国の人民にふさわしい高い住宅理想をうちたてる。

 二、国民経済の発展に対応する国民住居の標準をうちたて、在来の低い住宅水準を高めて行く。

 三、地方的、階級的に乱雑不合理な昔のスマイ様式を、働く人民の合理的なスマイ様式に統一してゆくo

 四、居住者の職業や家族の構成に応じた住宅を与えるため、住宅は公営を原則として住宅の配分を合理化する。

 五、生活基地を、細胞となる住戸から、組、町(部落)、住区(村)、都市という、それぞれの性格に応じた協同施設をもつ集団の段階的な構成にととのえて行く。

 六、生活基地の合理的な建設をするため、都市の土地制度を根本的に改革する。

 七、住宅の量の不足と低い住居水準を解決するため、住宅産業の位置を高めて完全雇傭体制の恒久的な一環とする。

 八、住宅生産を封建的親方制度と手工業的技術から解放して合理化工業化する。住宅は定型化され、その中に入る生活用具や家具も、それをつくる建築材料や部品も規格化される。

 九、住宅の構造は国産資源とにらみ合わせて我国の気候風土に適合した形の、新しい燃えない堅ろうな構造にかえて行く。

 十、狭い国土を活用するため、特に都市では集約的な高い居住密度の得られる複層集団的な住居形式にかえて行く。

 住宅生産の合理化・工業化、建築材料や部品の規格化(八)にしても、高い居住密度の得られる複層集団的な住居形式(九)にしても原則のいくつかは、戦後の過程において具体化されていった。もちろん、西山が終局的にイメージしていた住居や都市のあり方は、その十原則を貫くものであり、そうした意味では、それぞれが擬似的に現実化していったといった方がいい。住宅は公営を原則とする(四)、あるいは、都市の土地制度を根本的に改革する(六)、生活基地を細胞となる住戸から都市まで段階的な構成にととのえてゆく(五)、といった間題はほとんど手つかずだからである。その結呆、わが国の気候風土に適合した形の新しい住宅(九)が生み出されたかどうかは疑間だからである。

 敗戦後まもなく書かれた建築家による住宅論のなかで、また、戦前戦中の蓄積を踏まえた、きわめて其体的かつ現実的な方向性を提示する点で、本書はきわ立っている。西山がそこでとりあげている間題は、イスザ(椅子座)とユカザ(床面座)の間題、衣服様式と関連した二重生活の間題、家生活と私生活の関係の間題、間仕切と室の独立性の間題、非能率的家事労働の合理化、機械化、そして生活の共同化の間題、新しい家具と設備の採用の間題、国民住居標準の設定の間題などである。それぞれの間題について、実にきめこまかな鋭い眼が往がれている。例えば、起居様式(椅子座と床面座の間題)について、彼は、三つの改革の方向を提示しながら、「最も素朴で一見ブザマに見え又調和の失われている様に感じられる」第三のゆき方、すなわち、学生の下宿屋の起居様式、ユカザ生活を基調とし、とりあえず、起居、家内作業に必要な程度のごく少ない支持家具を導入しつつ、歪められた[ユカザ生活」を改善してゆくやり方を選ぽうとするのである。「少数の洋風生活心酔者、急進的な生活様式改革の主張者、建築家の試験的な住宅などにみられる、二重生活の完全な清算」による洋風椅子座生活、および、藤井厚二に代表される折衷的な住宅は、国民的住まい様式の改革過程としての現実性において否定されている。そこで、やがて完成さるべき起居様式として想定されているは椅子座様式である。そうした意味で、「二重生活の弊害の一端を最も明白に表現」する、また住の非能率的な側面を拡大する祈衷的な様式は、一層低い評価しかあたえられていない。西山もまたア・プリオリに、住宅の合理化、近代化の方向性を前提としていたことは確かである。しかし、彼にはしたたかに現実を見つめ、その矛盾を引き受けようとする姿勢があったといえようo

 西山のリアリズムに根ざした提案の多くは、きわめて日本的な解決の方向であった。少なくとも、いまふり返ればきわめて状況的であったといいうるであろう。しかし、その提案が現実の過程において担った実践的な意味はけっして過少評価することはできないだろう。その最も代表的なな食寝分離、隔離就寝の主張は、戦後における日本の住宅のあり方を大きく決定する役割を担ったのである。それは、やがて2DKさらに(nLDK)という平面形式をもった住宅を生み、戸建住宅にも取り入れられて、DK(ダィニング・キッチン)というきわめて日本的な空間を日本中に定着させることにつながっていったのであった。

   

◎西山夘三全著作(単行本)リスト

 四三 住宅問題、相模書房

 四四 国民住居論攷、伊藤書店

 四七 これからのすまいー住様式の話、相模書房

 四八 建築史ノート、相模書房

 四九 明日の住居、京都府出版協同組合

 五二 日本の住宅問題、岩波新書

 五六 現代の建築、岩波新書

 六五 住み方の記、文芸春秋

 六七 西山夘三著作集1住宅計画、勁草書房

  六八 西山夘三著作集2住居論、勁草書房

  六八 西山夘三著作集3地域空間論、勁草書房

  六九 西山夘三著作集4建築論、勁草書房

 七三 都市の構想、岩波書店

 七四 すまいの思想、創元社

 七五 町づくりの思想、創元社

 七五 日本のすまいⅠ、勁草書房

 七六 日本の住まいⅡ、勁草書房

 七八 住み方の記、増補新版、筑摩書房

 八〇 日本の住まいⅢ、勁草書房

 八一 すまいー西山夘三・住宅セミナー、学芸出版社

 八一 ああ楼台の花に酔う、彰国社

 八一 建築学入門ー生活空間の探求(上)、勁草書房

 八一 戦争と住宅ー生活空間の探求(下)、勁草書房

 八九 住まい考今学ー現代日本住宅史、彰国社

 九〇 まちづくりの構想、都市文化社

 九〇 歴史的環境とまちづくり、都市文化社

 九二 大正の中学生、彰国社

 九三 京都の景観・私の遺言、かもがわ出版

 九六 科学者の社会的責任(早川和男)、大月書店

 九七 都市とすまい、東方出版

 九七 安治川物語、日本経済評論社

2023年2月16日木曜日

2023年1月15日日曜日

シンポジウム:司会:歴史的街並みの活用とコミュニティ創生に関する東南アジア(ASEAN)専門家会議, 梶山秀一郎 木下龍一 東樋口護,京都市景観・まちづくりセンター・日本建築学会 第三世界歴史都市・住宅特別研究委員会,19991106ー07

 シンポジウム:司会:歴史的街並みの活用とコミュニティ創生に関する東南アジア(ASEAN)専門家会議, 梶山秀一郎 木下龍一 東樋口護,京都市景観・まちづくりセンター・日本建築学会 第三世界歴史都市・住宅特別研究委員会,19991106ー07 











 

2022年10月12日水曜日

エースが何人も欲しい 久米設計の元気の秘密,日刊建設工業新聞,19990118

 エースが何人も欲しい,日刊建設工業新聞,19990118

エースが何人も欲しい

久米設計の元気の秘密

布野修司

 

 久米設計の組織力とは何か。その総合力はどこにあるのか。フレキシブルなチームワークと言われるもの、個を生かす組織のあり方とはどのようなものか、というのがテーマである。もう少しストレートには、久米設計が実に元気だ、その元気の秘密に迫ってみたいということである。この未曾有の不況に元気とはうらやましい。是非、その秘密を知りたいと、突撃取材を試みた(忙しい時間を割いていただいたのは、代表取締役副社長・石村孝夫、取締役副社長・岡本賢、常務取締役・平倉章二、取締役第1 設計部統括部長・大牧民、大阪支社長・小笠史郎、大阪支社部長・上出利裕、大阪支社主席課長・竹田芳之の各氏であった。各氏の発言の引用についての文責は全て筆者にある。)。

 

 オープンな空間・・・自慢のオフィス

 本社を訪れ、まずは一通り案内して頂く。

 ご自慢のオフィスである。普段大学の蛸壺にいるから、心底うらやましい。図書室など設計に関する限り大学の図書館よりは充実している。実に伸びやかなアトリウム。スケールがいい。フレキシブルな新しいオフィス空間というのはこうなのか、という感じだ。上から、構造、設備、四部の意匠設計部がアトリウムを挟んで配置される。床に照明装置を埋め込んだブリッジがアトリウムを飛んで両方の空間を実際にも象徴的にも結びつけている。アトリウムと執務空間はエアーカーテンで仕切られるのみだ。視覚的には全体がつながっている。なんとなく一体感がある。もちろん、各チームの間にも間仕切りはない。開けっぴろげの空間がひとつの解答を物語っている。久米設計の組織の有り様がオフィス空間のオープンな構造に既に示されているのである。

 地下には食堂、カフェ・バー、夕方からはアルコールも飲める。実に居心地がよさそうだ。川に面したテラスなど臭いさえなければ夏など気持ちよさそうだ。もう少しハングリーじゃないと建築家は鍛えられないんじゃないかなんて憎まれ口のひとつも叩きたくなったのであった。

 

 久米設計とは・・・

 「久米設計とは」といきなり切り出す。反応は様々であるが、全体として一体感が伝わってきた。「ハイカラな感じ」「アトリエ的雰囲気」(石村氏)「総合力」(岡村氏)「組織力」(平倉氏)「家庭的」(大牧氏)といったところが咄嗟に出て来たキーワードである。

 大阪支社でも冒頭に同じ質問を繰り返した。「業界の中ではいつも雄であっていかないといかん。リーディングカンパニーという気持ちを持ってやっていかないといかん。それが久米設計の第一要素、条件ではないか。」とおっしゃったのが小笠氏、「大変若い組織。仕事はしやすい組織」とおっしゃったのが上出氏、「個人の顔が見える組織体(であってほしい)」とおっしゃったのが竹田氏である。

 

 権九郎という原点

 石村 久米権九郎はドイツで勉強して帰ってきてますから、非常にハイカラな感じでスタートしています。最初から個人を大事にした会社でした。権九郎が始めた個人的な事務所なんです。私が入社したのは昭和二十八年ですが、アトリエ的な雰囲気でした。久米先生が社員の間を回ってスケッチを描きながらやっていくんですが、個人の特性を伸ばそうということで、かなり自由にやらせてくれたわけです。二年目ぐらいから自由な設計をやった記憶があります。そういうことを許してくれた組織だったんですね。

 布野 任せたら全然口を出されないんですか。

 石村 いや、自分でスケッチを描くんですね。最終的にまとめたら任せました。途中で「ちょっとどいて」と、4Bぐらの鉛筆でスケッチして、「このほうがいいんじゃない?」というようなことでね。

 

 まず、挙げられるのは「伝統としての久米権九郎」(岡本賢、『新建築』199710月)である。そもそもアトリエとして出発したこと、ヨーロッパ仕込みのまた育ちのよさからくる「ハイカラ」な感じである。山口文象、前川國男、坂倉準三といったヨーロッパ帰りで日本の近代建築を華々しくリードした建築家と久米権九郎の文化圏は少し異なる。そもそも構造家として出発した経緯がある。

 

 技術の総合・・・多様なスタイル

 岡本 久米先生自身がデザイナーに特化した建築家のスタイルから出発されなかった気がしますね。要するに建築を単純に意匠デザインじゃなくて、技術を含めた総合的なものとして捉えられている。木造の耐震構造ということで、シュツットガルト工科大学で学位を取られて、ロンドンのAAスクールを経て戻ってらした経歴がある。

 布野 バスケット・コンストラクションとかいうんですね。

 石村 “久米式耐震木構造”と言って、今のツーバイフォーですね。細い部材で、細い単材で組んでいる。籠(かご)式ですね。軽井沢の万平ホテルは、その方式です。

 

 万平ホテル(1936年)は久米の戦前の代表作である。日光金谷ホテル(1935)など和風の建築がある一方三井上高井戸クラブハウス(1936年)や大倉邸(1936年)のようにフラットルーフの建築もある。明らかに自分の中に様式があるのではなく、様式が外にあるタイプの建築家である。施主に従って必ずしも拘りがない。シンガポールへ渡りゴム園を経営するなど事業家として出発したという経緯もその建築観に関係あるだろう。はっきりしているのは、様式論争など、狭い建築ジャーナリズムの議論に必ずしもインヴォルブされていなかったことだ。作品にはかなりのヴァラエティがある。

 

 個の集団

 どうも、久米イズムというもの、あるいは久米権九郎の建築観について、言葉として共有されているものはないらしい。「建築と環境を創造し、英知と先進を常に備え、誠実と信頼を基本に据え、社会と人間に貢献する」というのが現在の社是というけれど余りにも一般的だ。

 

 石村 久米先生がいて、技師長という形で、技術面で何でもやかましく言う人が1人いて、技術の面でガンガン文句言う。構造も設備も引っ張っていったんです。そういうバックアップのもとに、わりと自由に、みんな生き生きと仕事をして、だんだんと伸びていったんです。時代の変遷がありますが、一貫してずーっと個人を伸ばそうという形でやってきた。特に今の三代目の櫻井清社長になってから、個の集団という形が組織的に確立したんだと思います。

 岡本 久米先生自身は、ちょっと変わったもの、奇抜なものを極力押さえるといいますか、そういうことを指導されていたんです。一つの強い個性を押し切ろうとしなかった。だから下のものは自由だったんです。

 

 渡辺洋治氏が久米設計の出身だ、ということを初めて知った。その灰汁(あく)の強さは今でも伝説になっているらしい。個と組織の問題は、しかし、そう簡単ではない。はっきりと、新規さを追うな、という時代もあったという。二代目社長、永井賢城は、どちらかというとデザインよりはマネージメントが主体であった。そして、中興の祖として、経営を非常に安定させた。要するに、車の両輪として、久米先生がデザイン、マネジメントは永井専務、そうした役割分担が出発点である。組織が大きくなるとどうなるか。現在は七〇〇人を超える陣容である。

 

 アットホームで自由な雰囲気は変わらない

 五〇人から、七〇〇人ぐらいになる間に、組織論的に何か転換点があったのではないか。個を生かす組織といっても変わるんじゃないか。

 

 石村 うまく人数の増加とバランスがとれてきたと思います。だいたい、自由だったんですよ。初代の社長もアットホーム、二代目の社長もアットホーム、人格が反映しているんだと思います。二代目までは完全にありました。というと、三代目はクールということになっちゃうかもしれませんが(笑)。

 大牧 いや、今でも家族的なところはあるんですよね。私が入ったときは二百七十六人でした。

 話していて忌憚がない。取締役会議の雰囲気も和やかそうだ。しかし、平倉、大牧両氏は既に久米先生を直接知らない世代である。個と組織をめぐってはいささかニュアンスの違いはある。

 平倉 僕は大学を出てすぐ黒川紀章さんのところにちょっといたり、自分でやったりして、こっちへ入ることになったんです。もぐり込んだんですけどね。石油ショックで仕事が大変厳しかったこともあるんですが、建築というのは技術的な意味で、もう少ししっかりしたところで自分自身を鍛えないとダメだというふうに思ったんです。

 大牧 僕はもぐり込んだんじゃなくて、試験に受かりました(笑)。

 平倉 いやいや、僕も試験を受けた(笑)。

 大牧 まだ銀座に事務所があった頃です。一応大学の図書室で久米先生の写真と、奥様の写真と、作品は見ました。入ってから随分変わりましたが、ずーっと同じなのはアットホームな感じですね。久米先生がどういう切り口で建築をつくったか、それがずーっと社是じゃないけれども、事務所の中の一つの雰囲気としてある。いろいろものを判断するときの物差しになっている。今でもそれは残っている。

 

 組織論としての本社設計

 アットホームな感じは変わらないけれど、実際に建築をつくっていくシステムなり、考え方は相当変わってきたという。実は、本社移転には組織論があった。二百人を超えるところにひとつの転換点があるということか。

 

 石村 西麻布にいるとき、私が最後の室長で、二百人ぐらいを全部束ねていたんですね。それはやっぱり不合理だということで、このビルを設計するときに最初から四つに分けるつもりで、設計しんですね。こちらへ移ったときから四部制になったんです。二百人という一つの固まりでやるより、分けてやったほうがきめ細やかになる、それから、各チームのカラーが出てきますね。その点では成功したと思うんです。

 大牧 小さい単位を再構築したということだと思うんです。ただ、今は建築に対する考え方やカテゴリーがすごく広くなりましたので、作品を見ていただくとわかると思いますが、何か一つ通るものがあるかもしれないけれども、いろいろなものがある。作品にいろいろなテーストを許しているというか、いろいろな自由を許しているという、そういう管理の仕方をしています。

 

 いくつかの作品集が編まれている。膨大な量の作品があるけれど、『久米設計』(日本現代建築家シリーズ18 『新建築』199710)がわかりやすいであろうか。中に「えっ!これが組織事務所の作品?」と思えるようなものもある。

 

 個の作品をギャランティーするカンパニー

 石村 作品を責任を持ってギャランティーするのが会社だということです。だけど、その作品をつくるのはアーキテクトなんです。私も、ちょうど四十六番目かなんかのアーキテクトなんですね。そのときから流れはずーっと変わってないんです。

 

 個が最大限に生かされるということは、個の実力の総和が、相乗効果を含めて全体の実力になるということである。そうするとどんな人材をどう集めるかが大きな問題となる。個性は尊重するけれど、ある種の共通感覚は必要なのだ。久米設計では、プロジェクト毎にデザイン・レビューが行われる。久米設計の作品群に緩やかなまとまりがあるのだとすれば、その機能による。時として、個のデザイン提案が否定されることもあろう。そのデザイン・レビューの場の雰囲気がおそらく久米設計のキーになっていくのであろう。

 

 大牧 個も、人を受け入れることができるような寛容さを持った人じゃないと多少問題になる。採用の時によく「うちに合うかね」という。いくら優秀でも、うちのテーストにあうかどうかですね。いい体質が残っているかな、という気もしますけどね。だから、うちの人って、みんないい人ばっかりです(笑)。人間的に。

 平倉 デザインに特化した人を採ろうという話も出るんですけど、最終的には、ある判断基準というのが何となくでてくる。だから、デザインだけがうまい、性格的にはちょっと偏っている、そういう人がいてもいいとは言うけども、あまり入ってこないかな。

 岡本 あまりにも尖った感性を持っているとなじまないというのが、どうも出てきちゃうんですね。

 

  エースが何人も欲しい・・・プロジェクト・アーキテクト制

 久米設計はプロジェクト・アーキテクト(PA)制を採る。いわゆるチーフ・アーキテクトであるが、デザインのみではなく、コスト管理も工程管理も含めて、PAはプロジェクトの全てに責任を負う。PAは各統括部長によって統括される。四つの部が四つの設計事務所ということではなく、設計の単位はあくまでもプロジェクト単位である。十人のセットに二人のPAが置かれるのが平均である。支社も基本的には同じシステムが採られている。経験一〇年以上、三五才ぐらいからPAとなる。現在三〇名程度がPAだという。正確に同じではないが、一般に言えば、アトリエ事務所の建築家と同じである。そのチームを組織全体でサポートする形となる。下手なアトリエ事務所ではかなわなだろう。

 そして、PAのチーム編成は固定的ではない。随分柔らかいシステムとなっている。プロジェクト編成会議でそのつどチームがつくられる。

 

 岡本 エースが何人も欲しいんです。プロジェクトに対する責任は監理も含めてPA。PAはもう永久責任だと言っておりますから、後々まで面倒見ろと。

 

 個人が後々までプロジェクトの面倒を見る、こうしたシステムが機能するとしたら、ちょっとすごいことである。

 

 専門分化という悩み

 しかし、悩みも無くはない。だんだん、専門分化が進むのである。

 石村 最初は、スタートは四つの部がパラレルで、それぞれ何でもやれるようにということでスタートしてきました。けれども、仕事の中身がどんどん難しくなっていますから、どうしても掘り下げていかなきゃならない。あるものについて深くやっていきますと、次の仕事のときは今度は施主側も経験者、実績のある人をとなる。そうすると特化していっちゃう。今、かなり特化していますよね。

 岡本 特に病院関係、医療関係ですね。それから再開発とか、そういった関係のプロジェクトというのは、何となく特化していきやすい分野ですね。

 もうひとつ、個を全面に押し出すとき、他の組織とのジョイント・ヴェンチャー、建築家とのコラボレーションの場合、どういうことがおこるのか。当然のごとく、あまりないそういうケースは少ないのだという。

 岡本 コラボレーションをやるときは業務分担をはっきりさせます。例えばデザインはどちらがやる、構造はどちらがやる、設備はどちらがやる、と分ける。合体しちゃうときもありますけど、そのときでも、それじゃ、PAとなるべき人はどちらかは、はっきり最初から分けます。

 

 コンペへの対応

 久米設計に限らず、経験、信用を蓄積する組織事務所の力は大きい。しかし、その力があらゆるプロジェクトにおいて発揮されるかどうかは必ずしもわからない。例えば、公共建築のコンペなどの機会に組織事務所が常にすぐれた案を提出するかというとそうでもないのである。プロジェクトによって、同じ組織事務所でもチーム編成によって担当能力は異なる。同じ組織事務所といっても、作品のレヴェルが全く異なる場合が少なくない。

 だから、コンペの場合、常に担当者の実績が評価されるべきだというのが僕の主張である。組織事務所であれ、常に顔の見える組織にして下さい、というのが口癖である。久米設計の場合、そういう意味では文句はない。個をベースとして責任体系を明確にする限りにおいて、どんな仕事にも同じシステムで対応できよう。

 しかし、個が組織を超えて責任を果たすといったことはありえない。あくまで個の仕事をギャランティーするのが組織である。例えば、国際的な仕事の場合にどうなるか。久米設計の場合、国際的な仕事も多い。組織としてのアイデンティティがより明確にそこでは問われるのではないか。海外の場合、PAと現場との関係も気になるところである。

 

 石村 設計は各部の中のPAが任命されて、その人がやる。企画部という国内の営業があって、国際部、海外の営業部がある。両方で仕事を取ってきて、その下で設計部が仕事をやる。海外支社は、タイと、マレーシアと、ミクロネシア、サイパンにあったんですけど、閉めました。それからオーストラリア。日本の企業にくっついていったわけですから、日本の企業はいま全部撤退しちゃいましたから、いても仕事がない。

 

 ODAの仕事のような場合の日本という枠、日本の企業という枠、そうした中で個の表現は抑制されざるを得ないのではないか。

 

 支社と本社の関係・・・地域への対応

 バブルが弾けたということもあって、地道に地域とつきあう中から仕事を起こしていく雰囲気がある。地域の住民と一緒にワークショップ方式で仕事をしていくケースも増えている。再開発が主流になっていくとすれば、手間暇かけて、ということが、流れになっていく。その場合、組織事務所が対応できるのかという問題がある。地域にどう対応するか、というテーマである。建築というのは基本的にローカルである。実際地域毎に仕事は済み分けられているという実態がある。組織事務所の場合でも、全国各地に支店をもつにしても、一定の地域を拠点にして、まちづくりを展開するそうしたやり方はある。

 石村 地方と言っても、いっぱいまちがあるわけですから、とてもカバーしきれない。支社で対応しようということです。支社にはデザイナーもいるし、構造も設備もいる。本社と同じ配置です。人員はその土地に根ざした形にしていこうということで、基本的に全部、地元の大学から採用しているんです。その人たちを育てていく。大阪ですと、近畿五県か、六県見ていますから、全部はカバーしきれませんが、部分的にはできる。札幌ですと、ほとんど北海道の大学の人しか採らない。それが成功するかしないかは、一種の賭けだと思いますけども。

 岡本 原則的に全部地方で採用しますが、本社へ呼んで、設計部へ所属させて、二年とか、長くて三年ね、トレーニングして、それからまた地方へ帰す。久米設計のシステムというのをまずのみ込んでもらわなきゃいけない。こちらで訓練して、送り出す。そして、支社の人員をこちらに呼んで交替させる。

 

 大阪支社

 大阪支社は古市団地の設計を契機に開設される。石村副社長の最初の仕事だという。大阪の陣容は四六名。PAは三名。コンペは月平均一~二件。年間三〇ぐらいの建築設計の仕事をこなす。基本的には独立した機能をもった組織としての支社を本社がバックアップする関係である。

 

 小笠 私は生まれも育ちも大阪なんですが、関西の人間には対抗意識がある。大阪が設計できるものは大阪で処理をしようという気持ちはいまだに持っている。組織であれば、連携をとっていかない。でも半面独立心もある。支社ですので、蓄積が少ない、実績も少ない。ですから、本社の情報網を利用して資料提供をしてもらう。あるいは専門部署が先行してますので、相談してやっていく。

 上出 設計が本社で、窓口が大阪ということもあったのですが、日常のレスポンスは大阪がしなければいけない。地元からレスポンスが悪い、と言われるのが一番つらい。組織事務所の良さというのは情報とかが非常にスムーズでいろんなチャンネルがあるということです。決して地元に対するレスポンスということでは悪くない。大阪がきちっとまとめるということでご理解願うという状況です。必ずしも、全部大阪ということではなく、きちっと本社のバックアップを受けられるということの中で信頼を得ていくという形をとっています。ただ、私の小さな経験では、大阪は大阪でというニーズは非常に感じるんです。

 

 病院などは専門性が高いけれど、最近では支所でこなせるようになったという。また、阪神淡路大震災以後、免震構造、耐震診断調査、設計の仕事が大阪支社の独自の領域になりつつある。

 

 地元志向と地域密着

 もちろん、大阪は大阪で難しい面はある。地元志向、地域密着型が良くも悪くも趨勢である。そこで久米設計のアイデンティティはどう必要とされるか、それが大きなテーマになる。

 

 竹田 相手先の組織がそんなに大きくなければないほど、地元意識が強い。相手の組織が大きくなると、担当者との話だけで、住民の意向とか、使用者側の意向は間接的な形でしか聞き取れない。別に関西に限らないことですが。田舎にいって小さな自治体の決定者である市長やその周辺と直接話をしながら進めていく機会にはおもしろい場面もあります。苦戦する場面も多々ありますけど(笑)。

 小笠 大阪という町そのものが難しいところです。関西は個人のつきあいでまず大変ですね。それでつながっている部分が多い。有名な設計事務所、本社機構を持った事務所が在阪にある。それとゼネコンさんの立派な設計部がある。その中で生きていくのは支社の場合大変なんです。東京は東京だ、大阪は大阪だという意識が、官庁も民間もある。大阪支社は、官庁よりは民間の工事が多かったんですが、バブルが崩壊して、民間が冷え切りましたので、公共の仕事をやっていかないといけない。支社の場合、関西ではどうしても弱い。公共の工事に対して弱いという意味で、各社一緒だと私は思います。大阪市とか、当然地元志向なんです。京都でもそうだし、兵庫県もそういう考えを持っておられますね。

 

 誰もやめない

 布野 これだけ環境がいいと、辞める人は少ないんじゃないですか。

 平倉 ほかの事務所に比べると、やっぱり少ない。

 石村 平均して、年間で四、五人ですね。

 岡本 ある程度一人前になってから辞めますね。

 大牧 早くて十年ぐらいですね。

 石村 実はこのビルをつくったとき、将来、何人になるかということも考えて、辞める率を計算しませんと、ビルのスケールが決められない(笑)。で、統計を取ったら、意外と辞めない。びっくりしちゃった。

 

 久米設計の組織のあり方、実際に抱えている多くの問題のみならずこれからの建築界のあり方をめぐって、話はつきなかった。実にフランクであった。何でもいいたいことが言える雰囲気がある。はっきり言えるのは、久米設計の元気の秘密のひとつがこの自由なムードにあることである。



2022年9月11日日曜日

E.ハワードと植民都市ーA.J.トンプソンとパインランズ(南アフリカ、ケープタウン)、地域開発、1999年4月

 
E.ハワードと植民都市ーA>J.トンプソンとパインランズ(南アフリカ、ケープタウン)、地域開発、1999年4月


E.ハワードと植民都市

---A.J.トンプソンとパインランズ(南アフリカ、ケープ・タウン)

布野修司

 

 「田園都市」という理念は、20世紀の都市計画のあり方に最も影響を与えた理念のひとつである。しかし、一方で、世界中で建設された田園都市は基本的には失敗であったと総括される。例えば、その核となる「自給自足」(Self-contained)、土地公有といっ基本理念は、ほとんどの都市で実現しなかったからである。田園都市はほとんどが「田園郊外」にすぎなかった。

 しかし、そうした中で注目すべき田園都市がケープ・タウンに建設されたパインランズ(Pinelands)である。アパルトヘイト体制のなかでの白人居住区として、ひとつの完結した都市のイメージを維持してきたように見える。設計したのはA.J.トンプソン。彼はパーカー・アンウイン事務所の所員であった。その構想はストレートにE.ハワードにつながっている。そして、以降今日に至るまで、徹底したセグリゲーションが法制化される中で、パインランズは存続してきた。この事実は何を意味するのか。

 

 パインランズの建設

 パインランズ・ガーデン・シティの建設を発想し、推進したのは、事業家で連邦内閣の一員であったリチャード・スタッタフォードである。「スラムがケープの品位を落とす」、「伝染病の危険がある」という、貧困者の居住問題に対するその関心は、解決策としての田園都市の理念に向けられる。1917年に彼はレッチワースを訪れ、ハワードに会う。

 余程強烈な印象を受けたのであろう、時の首相 F.S.マランに接触、田園都市建設を政府に訴えている。議会はガーデン・シティ・トラストの設立に賛成し、400haの土地を寄付することになる。スタッタフォードは、「ヨーロッパ、アメリカ、アジア、アフリカ全てにとってのモデル」を提供する、と意気込んでいたという。しかし、自給自足、公的所有、周辺グリーンベルトなどは必ずしもスタッタフォードの頭になかったようだ。周辺の土地の取得を自治体に委ねる利益追求型土地開発だという評価がなされてもいる。いずれにせよ、貧困者、黒人のための住宅建設は後の課題とされていた*1

 

 A.J.トンプソン

 南アフリカ建築家協会の助言でトラストは地元の建築家によるコンペを行う。その結果、ジョン・ペリーの案が選ばれる。しかし、R.アンウインに欠陥を指摘され、替わってトンプソン・ヘネル・ジャイムズ事務所が推薦される。南ケンジントン大学の美術学校で建築を学んだトンプソンがアンウインの事務所に入ったのは1897年の3月とされる。1905年からレッチワースの設計に参加、1907年にはハムステッドの事務所で働き、1914年の事務所閉鎖まで勤めている。アンウイン事務所の番頭さん、実務家である。彼はいわば「田園都市」を輸出する最適任者として指名されるのである。

 トンプソンがケープ・タウンを訪れたのは、1920年のことであった。トンプソンの任務は住宅建設とインフラ整備である。トンプソンの案は基本的にはペリーの案を基礎にしている。 構造の類似性は明らかである。また、その中心地区はレッチワースに似ている。クルドサックも用いられている。19246月半ばまでに95戸完成、入居さらに翌年2月までに12戸が竣工している。こうして、パインランズは、南アフリカ最初の公式の都市計画事例になった。ハムステッド・ガーデン・サバーブに先行するのである。

 トンプソンは現実主義者であった。黒人に対する住宅供給については費用の点で拒否する。彼は契約終了後、南アフリカでいくつかプロジェクトを手掛けるが、プランを見る限り、今日でいう一般的な宅地開発だ。

 1927年には南アフリカを去り、ナイジェリアに赴く。ラゴスの政府土地測量部で働いた後、1932年帰国、事務所を経営、1940年に62歳で死んだ。

 

 アパルトヘイト・シティ

 田園都市の理念は以上のように南アフリカに直輸入される。オーストラリア、インド、マラヤなども同じような試みがある。アデレードでコーネル・ライト・ガーデンを設計し、マラヤに招かれ、最後はローデシアで自殺したCC。リードのような興味深い都市計画家もいる。しかし、南アフリカの場合、パインランズの建設はその特有の都市政策とリンクしていた。

 1923年の原住民(都市地域)法とパインランズの建設は全く平行しているのである。南アフリカの諸都市は白人の入植者によって建設された。白人たちは、黒人労働者を必要としたが、徹底した排除へ向かう。農村ー都市移動を制御し、白人の都市に黒人が隔離されて住むことになる。原住民(都市地域)法が意識的な都市セグリゲーションの全国規模の始まりであり、そして、1950年の集団地域法が決定的となった。ゾーニングの思想が徹底される中で存続したのが白人の田園都市パインランズなのである。

 

 田園都市をめぐっては、さらに大きなテーマがある。田園都市思想の形成にとって決定的であったのが植民地の経験とそのモデルであったというテーマである*2

 

*1 John Muller: Influence and Experience: Albert Thompson and South Africa's Garden City,Planning History Vol.17 No.3,1995

*2 Robert Home:Of Planting and Planning The Making of British colonial cities, E & FN Spon, 1997




2022年8月17日水曜日

シンポジウム:都市と建築の現在と未来,オーストリア現代建築展京都展「ミニマルを超えて」,19990206,シンポジウム,"高松伸,布野修司,竹山聖,Peter Alison, Friedlich Achleitner"

シンポジウム:都市と建築の現在と未来,オーストリア現代建築展京都展「ミニマルを超えて」,19990206,シンポジウム,"高松伸,布野修司,竹山聖,Peter Alison Friedlich Achleitner"




2022年6月28日火曜日

世紀の変わり目の「建築会議」, 篠原一男12の対話,篠原一男 渡辺豊和 布野修司,建築技術別冊4, 19990901

 世紀の変わり目の「建築会議」, 篠原一男12の対話,篠原一男 渡辺豊和 布野修司,建築技術別冊4 19990901

非西欧型モダニズムの探検


産業主義モダニズムからソシオ・カルチャル・エコ・ロジック(社会文化生態論理)へ

布野修司

 

 「非西欧型モダニズム」という言い方には違和感がある。「西欧」「非西欧」というディコトミー(二分法)は最早有効ではない。「西欧」の全否定は不毛である。また、常に「西欧」世界の欠落を補完するものとして持ち出されるのが「非西欧」である。「アジア」とはすなわち「非西欧」のことであるが、そもそも「アジア/ヨーロッパ」が同時に成立した概念であることは常に想起したい。

 「モダニズム」というのも、建築の世界では専ら「モダン・スタイル」の意味で用いられるからいささか狭い。モダニズムの建築を狭義にイメージすると、モダニズム建築に「非西欧型」という別の型があるようでちぐはぐな印象を受ける。要するに、ここでいうラディカル・ラショナリズムというのをもう少しはっきりさせておく必要があると思う。

 まず、モダニズムを産業主義モダニズムに限定して理解したい。「丹下流モダニズム」とは要するに産業主義モダニズムのことだ。「西欧」世界で生み出された産業社会の論理を如何に超えるかという設定であれば問題ははっきりしよう。

 そこでラショナリズムとは何か。敢えてラディカル・ラショナリズムというのは、産業社会の論理を支えるものとしての「西欧近代合理主義」と区別したいからである。要するに、「経済合理主義」「産業合理主義」ではなく、社会を支える正当性の根拠としての合理主義が問題なのである。「日常的合理性」、「意味論的合理性」という概念も提出されてきたけれど、単に経済の論理に回収されない生活の論理が問題であることを僕らは直感しているのである。

 近代日本の「建築家」とアジアをめぐっては、『廃墟とバラック・・・建築のアジア』(布野修司建築論集Ⅰ、彰国社、1998年)にまとめる機会があった。伊東忠太における「法隆寺のルーツ探し」という壮大なプログラムが示すように、アジアへの関心は日本建築のルーツあるいは存在証明を求める旅が大きな軸になってきた。日本建築を中国や朝鮮半島、インドや東南アジアとの関係において捉えるのはある意味で当然のことである。その視座が未だに閉ざされているのは、日本建築をナショナルな枠組みにおいて捉える近代日本の建築界の大きなバイアスの構図が生きているからである。近代日本においては「西欧」対「日本」という構図が固定化されすぎてきた。僕らには、アジアの無数の「辺境」に豊かな建築表現の文脈をいくつも見いだす膨大な作業が残されていると言わねばならない。

 そこで何が手掛かりになるのか。やはり、地域地域で建築を支える論理ではないか。産業主義がグローバルに地球を覆う論理であるとすれば、それとは異なった論理が求められているのではないか。地域という概念を支えるものとして重要なのは生態論理(エコ・ロジック)である。建築の根源的あり方は地域の自然のあり方に関わる。しかし、建築の表現は自然の生態のみに関わるわけではない。社会文化の生態力学としてのラショナルな論理に基づく建築のあり方が問題なのである。