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2021年2月14日日曜日

拡散する「建築家」像―アーティストか? アーキ・テクノクラ―トか? コミュニティ・アーキテクトか?

 

Avis de parution

La revue Ebisu. Études japonaises, fondée en 1993 et éditée par l’Institut français de recherche sur le Japon à la Maison franco-japonaise, publie des textes en langue française articles, traduc- tions, comptes rendus d’ouvrages dans le domaine des études japonaises.

 

Ebisu est dorénavant une revue numérique en accès libre dès parution sur OpenEdition.org

https://journals.openedition.org/ebisu/ Vous y trouverez les numéros parus depuis 2012 (n° 47).

 

Les anciens numéros sont sur Persée

http://www.persee.fr/collection/ebisu Du n° 1 (1993) au n° 46 (2011).

 

 

Itsuko Hasegawa, Yamanashi Museum of Fruit, 1992. Maquette. Bois, plastique, peinture.

Collection Frac Centre-Val de Loire © Philippe Magnon

 

Les architectes de l’ère Heisei (1989-2019)

Rôles, statuts, pratiques et productions

 

Dossier

Coordonné par Sylvie Brosseau et Corinne Tiry-Ono

 

« Introduction » par Corinne Tiry-Ono

  Funo Shūji, « Portrait diffracté de l’« architecte » : artiste, archi-technocrate ou community architect ? » (traduction de Mathieu Capel et Amira Zegrour)

  Kuwahara Yūki (dir.), « L’ère Heisei et l’architecture » (traduction de Léo Matsuura et Sophie Refle)

  Benoît Jacquet & Yann Nussaume, « L’évolution de l’architecture de Takamatsu Shin et le passage à l’ère Heisei : continuité ou fluctuation ? »

  Olivier Meystre, « Lignes et lignée. Réflexions sur la représentation graphique chez les héritiers d’Itō Toyō »

  Salvator-John Liotta & Aya Jazaierly, « Des architectes japonais en France. Les parcours de Ban Shigeru, Kuma Kengo, Fujimoto Sou et Tane Tsuyo

 

 

Institut français de recherche sur le Japon

à la Maison franco-japonaise

Umifre 19 MEAE-CNRS

3-9-25, Ebisu, Shibuya-ku, Tokyo 150-0013

   Tél : (03) 5421-7641

   Fax : (03) 5421-7651

E-mail : ebisu@mfj.gr.jp

www.mfj.gr.jp


Témoignages

  Manuel Tardits, « Vivre l’architecture au Japon »

  François Bizet, « Homo habitans. Le musée de Teshima »

« Conclusion » par Sylvie Brosseau

 

« Lexique »

 

 

Livres à lire

décembre 2020


 

 

拡散する「建築家」像アーティストか? アーキ・テクノクラ―トか? コミュニティ・アーキテクトか?

布野修司

 

-日本語概要:300字まで

 平成時代は、グローバリゼーションと情報伝達技術ICTが全面展開する時代として、冷戦構造の崩壊とCOVID-19によって区切られる世界史的区分と一致する。しかし、日本の平成時代は「失われた30年」と言われ、国際的地位を低下させていく30年となった。スクラップ・ビルド・ビルドの時代からリノヴェーションの時代へ転換し、相次ぐ大災害とりわけ東日本大震災によって、日本の建築界はその拠って立つ基盤を問われることになった。国際的に活躍する建築家を輩出する一方で、スーパーゼネコンが強大化し、建築家の活躍の場は縮小していった。一方、地域を基盤とするコミュニティ・アーキテクトの流れが生まれるが定着するまでには至らない。明治以来、理念とされてきた「建築家」の理念はこの間力を失いつつあり、目指すべき建築家像は、むしろ、拡散しつつある。

 

キーワード:58

国際建築マフィア、CAD/CAM/BIM、コミュニティ・アーキテクト、リノヴェーション、フクシマ、デザイン・ビルド、スーパーゼネコン、地球のデザイン

 

著者の伝記:150字まで

布野 修司(ふの しゅうじ)

日本大学特任教授。1949年,松江市生まれ。工学博士(東京大学)。建築計画学。東京大学工学研究科博士課程中途退学。東京大学助手,東洋大学講師・助教授,京都大学助教授,滋賀県立大学教授、副学長・理事を経て現職。『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』で日本建築学会賞受賞(1991年)。

 

 

日本大学特任教授。1949年,松江市生まれ。工学博士(東京大学)。建築計画学,地域生活空間計画学専攻。東京大学工学研究科博士課程中途退学。東京大学助手,東洋大学講師・助教授,京都大学助教授,滋賀県立大学教授、副学長・理事を経て現職。『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』で日本建築学会賞受賞(1991年),『近代世界システムと植民都市』(編著,2005年)で日本都市計画学会賞論文賞受賞(2006年),『韓国近代都市景観の形成』(共著、2010年)と『グリッド都市:スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生』(共著、2013年)で日本建築学会著作賞受賞(2013年、2015年)。主要論文にShuji Funo: Ancient Chinese Capital Models-Measurement System in Urban Planning-, Proceedings of the Japan Academy Series B Physical and Biological Sciences November 2017 Vol.93 No.9, 721-745.など。主要関連著作に、①戦後建築論ノ-ト,相模書房,1981615 ②戦後建築の終焉,れんが書房新社,1995830

③裸の建築家・・・タウンア-キテクト論序説,建築資料研究社,2000310

④建築少年たちの夢,彰国社,2011610⑤進撃の建築家たちー新たな建築家像をめざして,彰国社,2019

 


 

拡散する「建築家」像アーティストか? アーキ・テクノクラ―トか? コミュニティ・アーキテクトか?

  

-日本語概要:300字まで

 平成時代は、グローバリゼーションと情報伝達技術ICTが全面展開する時代として、冷戦構造の崩壊とCOVID-19によって区切られる世界史的区分と一致する。しかし、日本の平成時代は「失われた30年」と言われ、国際的地位を低下させていく30年となった。スクラップ・ビルド・ビルドの時代からリノヴェーションの時代へ転換し、相次ぐ大災害とりわけ東日本大震災によって、日本の建築界はその拠って立つ基盤を問われることになった。国際的に活躍する建築家を輩出する一方で、スーパーゼネコンが強大化し、建築家の活躍の場は縮小していった。一方、地域を基盤とするコミュニティ・アーキテクトの流れが生まれるが定着するまでには至らない。明治以来、理念とされてきた「建築家」の理念はこの間力を失いつつあり、目指すべき建築家像は、むしろ、拡散しつつある。

 

キーワード:58

国際建築マフィア、CAD/CAM/BIM、コミュニティ・アーキテクト、リノヴェーション、フクシマ、デザイン・ビルド、スーパーゼネコン、地球のデザイン

 

著者の伝記:150字まで

布野 修司(ふの しゅうじ)

日本大学特任教授。1949年,松江市生まれ。工学博士(東京大学)。建築計画学。東京大学工学研究科博士課程中途退学。東京大学助手,東洋大学講師・助教授,京都大学助教授,滋賀県立大学教授、副学長・理事を経て現職。『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』で日本建築学会賞受賞(1991年)。

 

 

日本大学特任教授。1949年,松江市生まれ。工学博士(東京大学)。建築計画学,地域生活空間計画学専攻。東京大学工学研究科博士課程中途退学。東京大学助手,東洋大学講師・助教授,京都大学助教授,滋賀県立大学教授、副学長・理事を経て現職。『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』で日本建築学会賞受賞(1991年),『近代世界システムと植民都市』(編著,2005年)で日本都市計画学会賞論文賞受賞(2006年),『韓国近代都市景観の形成』(共著、2010年)と『グリッド都市:スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生』(共著、2013年)で日本建築学会著作賞受賞(2013年、2015年)。主要論文にShuji Funo: Ancient Chinese Capital Models-Measurement System in Urban Planning-, Proceedings of the Japan Academy Series B Physical and Biological Sciences November 2017 Vol.93 No.9, 721-745.など。主要関連著作に、①戦後建築論ノ-ト,相模書房,1981615 ②戦後建築の終焉,れんが書房新社,1995830

③裸の建築家・・・タウンア-キテクト論序説,建築資料研究社,2000310

④建築少年たちの夢,彰国社,2011610⑤進撃の建築家たちー新たな建築家像をめざして,彰国社,2019

 

 

 はじめに

 「平成」時代(19892019)の建築家(その役割,その社会的地位,実践(作品)そして生産(成果))を振り返るに当たって,まず,問題とすべきは,「元号」という,ひとりの天皇の在位期間によって,建築の歴史を区分できるのか,ということである。建築の歴史は,国家や王朝の興亡の歴史をもとにした時代区分によって叙述できるとは限らない。とりわけ,産業革命以降については,各国史の時代区分よりもグローバルにみた建築技術の発展に伴う時代区分がわかりやすい。にもかかわらず,日本では,「明治建築」「大正建築」といった時代区分が行われてきた。長谷川堯(19372019)の『神殿か獄舎か』(1972)は,そうした時代区分によって,日本の近代建築の歴史を鮮やかに描き出すものであった。すなわち,西欧の建築技術を国家的目標(文明開化,殖産興業)に導入した「明治」時代から,建築家という自己の表現としての「大正」(大正デモクラシー)時代への転換は,建築史としてもくっきりと叙述できるのである。

 しかし,「昭和」時代は,明らかに一括することはできない。戦前と戦中で,建築の歴史は大きく切断される。そして,戦後の「昭和」も一括りにはできない。戦後復興から高度経済成長期にかけて,戦後建築が全面開花した1960年代と,2度のオイルショックに見舞われた1970年代とでは全く様相が異なる。さらに,1980年代後半から再びバブル経済が日本を世界の主役(ジャパン・アズ・ナンバーワン)に押し上げる。そして,バブルが弾けた。

 平成の始まりは,世界史的大転換の年とたまたま一致する。偶然だけれど,ベルリンの壁が崩壊したのが平成元(1989)年である。そして,ソビエト連邦共産党が解散するのは1991年である。もちろん,冷戦構造の崩壊と建築の歴史はそのまま連動しないけれど,1990年代に建築家の国際的な活動が加速したことは間違いない。多くの外人建築家が日本で作品をつくる機会を得た,そして,日本の建築家も,安藤忠雄(1941~),伊東豊雄(1941~)など新たな世代も加わって,活躍の場は世界に拡がることになった。一方,「平成」の日本を襲ったのは,阪神淡路大震災(1995年),そして東日本大震災(2011年)という大災害である。原爆によって焦土と化したヒロシマから出発した日本は,66年の時を経て,原発事故で無人と化したフクシマに再び向き合うことになる。戦後,焼野原から築きあげてきた街が再び瓦礫の積み重なる大地に帰した現実は,建築家のこの間の営為を根底的に問うことになるのである。すなわち,「平成」の始まりについては,グローバルな視野においても大きな区切りとなる。それに対して2019年がひとつの区切りとなるかどうかは,今のところ不明である。リーマンショック(2008年)と「アメリカ・ファースト」のトランプ・ショック(2016年)が既に次の時代を画しているのかもしれない。国際政治における,「アメリカ・ファースト」を掲げるアメリカ合衆国におけるトランプ政権以降,イギリスのブレグジットBrexitなど,自国第一主義そしてナショナリズムの台頭が新たな時代を告げているのである。

 本稿では,「平成」時代の「建築家」のあり方に焦点を当てるが,日本に「建築家」の概念がもたらされた起源に遡る,そして,日本における近代建築の歴史[1]を念頭に置きながら振り返ってみたい。

 

 Ⅰ 幻の「建築家」未成立の職能法

 日本における建築家の職能確立の歴史は,「造家学会」(1986(明治19)年)の設立に始まる。「造家学会」は,伊東忠太の「アルシテクチュールの本義を論じて造家学会の改名を求む」(『建築雑誌』90号,18946月)の提起を受けて,1897(明治30)年に「建築学会」と改称し,今日の「日本建築学会Architectural Institute of Japan(AIJ)」(1947(昭和22)年改称)となるから,意外に思われるかもしれないが,「造家学会」が当初目指していたのは「建築家」の職能団体である。「造家学会」は,河合浩蔵(18561934),辰野金吾(18541919),妻木賴黄(18601916),松ヶ崎萬長(18951921)の4人を創立委員として,創立発起人26名によって,「工学会」(1879年設立)から離脱するかたちで設立される。その規約は,「王立英国建築家協会RIBA」(1835年設立)「米国建築家協会AIA」の規約に倣ってつくられているのである。「日本建築学会AIJ」は,やがて,大きくその方向を転じていく。「日本の建築家は主として須く科学を基本とせる技術家であるべき」という主張が支配的になっていくのである。しかしそれにしても,学術,技術,芸術の統合をうたいながら今日に至る「日本建築学会」は,世界でもユニークな建築関連団体である。

 「建築学会」が学術団体としての性格を強めていくことで,日本における民間の建築家の職能団体の起源となったのは,辰野金吾,曾禰達蔵(18531937),中條精一郎(18681936),長野宇平治(18671937),三橋四郎(18671915)ら12名によって設立された「全国建築士会」(1914年)(翌年「日本建築士会」と改称)である。そもそも,日本で最初の建築事務所を設立(1888年)したのはJ.コンドル(18521920)である。J.コンドルが工部大学校で極めて実践的な建築科教育を行ったことはよく知られている。正確に言うと,日本で最初に建築事務所を設立したのは彼の教え子辰野金吾である。英国での実務経験を持つ辰野は,京橋山下町の経師屋の2階を借りて日本での建築設計活動を開始するのである(1886年)。辰野はすぐに帝国大学工科大学教授に招聘され,実質的仕事をしないうちに事務所を閉鎖している。辰野金吾は,工科大学学長を務めた後,1902(明治35)年に職を辞し,葛西万司(18631942)とともに東京京橋に辰野・葛西建築事務所(1903年)を,大阪中之島に片岡安とともに辰野・片岡建築事務所(1905年)を解説する。J.コンドルに続いたのは,滝大吉(18611902)であり,横川民輔(18641945)である(1890年)。1890年代から20世紀にかけて,中條精一郎,曾禰達蔵,河合浩蔵,三橋四郎らも続き,そして他に,山口半六,伊藤為吉,遠藤於菟などが民間建築事務所を設立する。こうした民間建築事務所の設立を背景として設立されたのが「日本建築士会」である。

 「日本建築士会」が直接的かつ具体的に目指したのが「建築士法」の制定である。しかし,「建築士法」は戦前には制定されることはなかった。昭和戦前期に数次にわたって帝国議会に提出された「建築士法」は,設計と施工の兼業も求める請負業(ゼネコンGeneral Contactor)の反対で成立しないのである[2]。戦後,1950年に「建築士法」が制定されるが,それは資格法であって,職能法ではない。日本では,職能法としての「建築家法」は,今日に至るまで成立することはないのである。

 

 Ⅱ 世界建築家と総合建築業戦後建築家の初心

 Ⅱ-1 廃墟からーヒューマニズムの建築

  戦後まもなく日本は廃墟であった(図Ⅱ1①)。原子爆弾を投下されて一瞬にして焼野原となったヒロシマ・ナガサキがその象徴である。首都東京は,194411月以降100回を超える空襲を受け,1945310日の東京大空襲では1日だけで100万人を超える人々が罹災し,5月末でまでにさらぬ4回の大規模な空爆を被った。日本全土で被害を受けた市町村数は430に及ぶ。

 廃墟の光景を目の当たりにしながら,建築家が何をめざしていたのかについては,浜口隆一の『ヒューマニズムの建築―日本近代建築の反省と展望』(1947年)にうかがうことができる。また,わかりやすいスローガンとして,新日本建築家集団(NAU the New Architects’ Union Japan)(1947年)の行動綱領[3]などがある。『ヒューマニズムの建築』は,いち早く,戦後建築の指針を示すものとして,多くの建築家にむさぼるように読まれた[4]。浜口は,そこで,近代建築の理想を,1.人民であろうとすること,2.機能主義によって制作すること,3.高度の技術水準をもつことー鉄・ガラス・コンクリート等,4.美しい作品であること-必然的にまた国際的なスタイルである,という4点にまとめた上で,それを実現するための現実的諸条件を検討している。そして,住宅と公共建築を重点的に問題にしながら,住宅については,(A)最小限住宅の問題と(B)住宅の工業生産の問題をとりあげている[5]。この浜口の近代建築の規定(=機能主義の建築=人民の建築)をめぐっては,後に「近代建築論争」と呼ばれることになる,建築における「マルクス主義」と「近代主義」の対立に関わる議論が展開される[6]。建築生産組織,経営組織の変革を展望する立場(NAU「行動綱領」)からは,浜口の主張は生温いものに思われたのである。日本の近代建築における戦前・戦後の連続・非連続の問題は,1970年代以降,あらためて掘り下げられることになる。しかし,戦後建築の出発点において,浜口隆一の示した戦後建築の指針,「近代建築」の実現という目標は,多くの建築家によって共有されていたと考えていい。

 住宅不足数は,被害を受けた230万戸に加えて戦地からの引揚者,人口増を含めて,420万戸と推計される。建築家の最大の仕事は住宅建設であり,あらゆる建築家が住宅の設計に取り組んだ。建築家の取組は,「最小限住宅」(増沢旬(192590)),「立体最小限住宅」(池辺陽(192079))のように一戸建住宅のモデル設計を行うもの,広瀬鎌二(19222012)のようにそれを住宅生産の工業化に結びつけようとするもの,吉武泰水(19162003)・鈴木成文(19272010)などのように公営住宅の供給を目指して「51C」(1951C型)のような集合住宅の住戸計画にむかうもの,住宅困窮者の運動を基盤としながら住宅生協といった住宅供給のための下からの組織をつくりあげようとするものなど,いくつかの流れを生み出していった。

 そして,日本の戦後建築が本格的に起動するのは,朝鮮戦争の勃発(19506月)による特需を背景にした「ビルブーム」においてである。日本で近代建築が具体的に建設されていくのは1950年代から1960年代にかけてである。その戦後建築の出発を象徴するのが,丹下健三(19132005)の「広島平和会館原爆記念陳列館」(1955年開館)である。広島の爆心地に建てられたこの建築は,日本の戦後復興と国際社会への復帰を内外に示したのである。1955年の『経済白書』が「もはや戦後ではない」と宣言して以降,日本は高度経済成長期を迎える。

 戦後建築を大きく規定することになる制度的枠組みが整えられたのは敗戦後の5年間である。建設業を営む者の資質の向上,建設工事の請負契約の適正化等を図ることによって,建設工事の適正な施工を確保し,発注者および下請の建設業者を保護するとともに,建設業の健全な発達を促進し,もつて公共の福祉の増進に寄与することを目的とする「建設業法」が成立するのは1949年,「市街地建築物法」(1919年)を抜本的に改定する「建築基準法」が成立するのが1950年,そして,「建築士法」が新たに成立するのも1950年である。実は,敗戦後の連合国軍最高司令部GHQの支配下で欧米流の「建築家法」の成立の可能性もあった。戦災復興院の「建築士及び建築工事管理に関する命令案」(194610月)には,はっきり「兼業の禁止」が示されているのである。しかし,審議の過程で「兼業の禁止」規定は削除され,職能法としての「建築士法」は実現しなかった。成立したのは,建築設計を行う資格のみを規定する「建築士法」である。戦前からの「日本建築士会」を中心とする職能法制定の運動には,一応,ピリオドが打たれるのである[7]

 日本の建築家が依拠する団体は,以降,いくつかに分かれることになる。日本建築士会は,「建築士法」を前提とする団体となっていく。また,戦時中,日本建築士会の一部有名会員を中心として結成されていた日本建築設計監理統制組合(1994年結成)が改組されて日本建築設計管理協会となる(1947年)。そして,日本建築設計管理協会のなかから,職能確立を一貫して目指す団体として「日本建築家協会」が発足する(1955年)。今日,建築関連団体として四会とか五会と言われる団体(日本建築学会,日本建築士会連合会,日本建築家協会,日本建築事務所協会+日本建設業協会)によって構成される構造は,戦中から戦後にかけて形成されてきたものである。

 

 Ⅱ-2 黄金の1960年代

 1960年代は,日本建築の黄金時代である。東京オリンピック(1964)から大阪万博Expo’701970年)にかけて,日本が国際社会に確固たるプレゼンスを得ていく過程で,丹下健三を先頭にメタボリズム・グループの建築家たち(槇文彦,菊竹清訓,黒川紀章,大高正人)など,国際的建築家が育っていくことになった。

 1960年代に入ると,建築家は,果敢に都市にコミットし始める。丹下研究室の「東京計画1960」,メタボリズム・グループの諸都市プロジェクト(菊竹清訓の「海上都市」「塔状都市」「海洋都市」。黒川紀章の「空間都市」「農村都市」「垂直壁都市」,槇文彦・大高正人の「新宿副都心計画」)などの提案は,都市へ向かう建築家の意欲的な姿勢を示すものであった。「われわれが提案するのではない。都市の混乱と麻痺が,そして建築の矛盾と停滞が提案させるのだ」(『メタボリズム1960』所収)と菊竹清訓は書いたが,「都市づく」ことは,建築の領域の拡大(仕事の機会の増大)を意味していたし,都市を課題の中心に据えることこそ,建築の未来を切り拓くと信じられたのである。アーバン・デザインという一つの領域を仮構し,建築家の構想力による都市のフィジカルな配列を提案することによって,その社会的,経済的,技術的実現可能性を問うというスタイルは,近代建築の英雄時代の巨匠のスタイルである。そこで前提とされている建築家のイメージは,思想家にして実践家,総合の人間であり,世界を秩序づける神としての「世界建築家」であった

 しかし一方,「建築家の危機」が意識され始めたのも1960年代である。ますます複雑化し,巨大化する建築の設計は,ひとりの建築家によって統括することができないことが次第に明らかになるのである。1960年代初頭に,建築家の職能,設計組織の問題について,極めて挑発的な提起を行ったのが村松貞次郎である。「明日を担う建築家」(『建築文化』19612月号),「建設業の建築家-彼らこそ明日の建築会のチャンピオンである」(『新建築』196111月号)と,それに続く一連のルポルタージュ「設計組織を探る」(浜口隆一・村松貞次郎『新建築』196111月~19626月)を経て,出された結論「設計施工を押す」(『新建築』19626月)がそれである。その主張は,さまざまな設計組織(建設業設計部,民間設計事務所,官公庁営繕,各種会社営繕,大学研究室)を比較し,民間設計事務所あるいは建築家協会は「カビの生えたルネサンス時代そのまま」のフリー・アーキテクト像を理念化する組織にすぎず,設計施工一貫体制を担う組織すなわち建設業設計部にこそ建築の未来があるというものであり,建築家の職能団体を目指す建築家協会vs建築請負業という戦前の対立構造を戦後において確認するものであった。

 この村松貞次郎の一貫する主張に対しては,多くの反論が出された[8]。しかし,ゼネコン(総合建築業)設計部vs建築家(建築設計事務所)という構造は,今日に至るまで引き継がれることになる。 

 

 Ⅱ-3 公取問題

 1970年代に入って時代は大きく転換する。2度のオイルショック(1973年,1979年)によって,1970年代から1980年代にかけて,建築活動は全く停滞するのである。

 日本の住宅建設の動向をみると,その転換をはっきりと確認することができる。1960年初頭の日本の住宅建設(フロー)は年間60万戸ほどである(69万戸(1963年))。高度成長期には,年々増加し,第一次オイルショック直前には191万戸(1973年)もの住宅が建設された。それが翌年には114万戸までに落ち込む。その後,ゆるやかに回復していくけれど,1980年代半ばに至っても,年間124万戸(1985年)にすぎないのである。上述のように,戦後まもなく420万戸が不足したと推定されているが,日本全体で住戸数が世帯数を上回るのは1968年,全国の都道府県で住戸数が世帯数を上回るのは1973年である。年間60万戸建設されれば10年足らずで住戸数は足りたと考えられるが,20年を要したのは,戦後の人口増加と世帯分離による世帯数の増加のためである。

 建設活動の低迷によって,建築のパラダイムが大きく転換するのは,ある意味で当然である。1960年代を主導してきたのは,都市化,工業化,官僚制化,高度成長,技術革新,合理化[9]といった一連の近代化の流れであるが,1970年代には,その流れへの反動,批判が顕在化してくる。一般に言われるのは,進歩から回帰へ,都市から地域へ,自然へ,空間から環境へ,場所へ,開発から保存へ,高層から低層へ,量から質へといったパラダイム・シフトである。

 日本で,この建築のパラダイム・シフトを象徴するのは,磯崎新の『建築の解体』[10]1975年)と長谷川堯の『神殿か獄舎か』(1972年)である。そして,この近代建築批判の流れは,グローバルには,ポストモダンの諸潮流を生む。磯崎が『建築の解体』で取り上げた磯崎と同世代の建築家たちに続く世代が1970年代から80年代にかけて育っていくことになる。日本については,『現代建築水滸伝 建築少年たちの夢』(2011年)で何人かとりあげたが,安藤忠雄,伊東豊雄がその代表である。すなわち,建築のポストモダンをリードしたのは,個人すなわち表現者としての建築家である。

 しかし一方,日本の建築家は,正確には日本建築家協会は,その存在根拠を社会的に問われることになった。いわゆる「公取問題」である。1979919日,公正取引委員会は,日本建築家協会に対して「違法宣言審決」を下すのである。建築家すなわち建築士事務所の開設者は,独占禁止法にいう事業者か否か,また建築士事務所の開設者を構成員とする日本建築家協会は事業者団体か否かをめぐって,1976年以降争われてきた問題に結論が出されたのである。すなわち,建築士事務所の開設者は事業者であり,日本建築家協会は事業者団体であった,と認定されるのである。

 発端は,「八女市町村会館」(1970年)における「疑似コンペ」問題であった。また,東京都の「都営高層住宅滝野川団地」(1972年)の「設計入札問題」であった[11]

 「疑似コンペ」とは,公共建築の設計者選定に当たって,実際は設計者が決まっているのに,公平性を装うために行われる指名コンペをいう。一種の「談合」である。「設計入札」とは,設計料の入札によって設計者を決定する問題である。「国や自治体が物品を購入する際には,「競争入札」を行うことが原則とされており,「公共施設」の設計料も安い方がいいということで,今日至るまで,多くの自治体で「設計入札」が行われてきている。会計法の29条,地方自治法の234条が根拠とされる。しかし,建築の設計は,物品ではない。建築の「施工」については,すなわち,工事費については,「競争入札」が原則とされるにしても,「設計」については入札はなじまない。「公共建築は単なる経済の論理を超えた質をもつ必要がある」「設計の質と内容は設計料の多寡によっては担保されない」のであって,「あくまで設計図書によって設計案が選定されるべきである」,というのが「建築家」(日本建築家協会)の主張である。公共発注における「裂け目」は大きい。「公取問題」は,この「裂け目」に関わって引き起こされたのであった。

 

 Ⅱ-4 ポストモダン都市・東京[12]

 オイルショックによって,高度成長期からの転換を余儀なくされた日本は,「成長の限界」「有限の資源」(ローマ・クラブ,1972年:「宇宙船地球号」)を前提とする社会編成に向かう,かに思われた。しかし,時代はそういう方向へは動かなかった。1980年半ば過ぎから高度経済成長期の再来かのような好景気が訪れるのである。

 その大きなきっかけとなったのは,19859月の先進5か国 G5 (米英仏独日)蔵相・中央銀行総裁会議における為替ルートの安定化(円高ドル安に誘導)の合意(プラザ合意)である。プラザ合意から19872月の先進7か国G7蔵相・中央銀行総裁会議のドル安に歯止めをかけるルーブル合意までの1年半の間に100円以上の急速な円高が進行する。日本は,プラザ合意直前には,円高不況と言われる深刻な不況にあり,輸出産業が大打撃を受け,中小の町工場の倒産が相次いでいたのであるが,政府・日本銀行は,国際公約として,公共投資拡大など内需拡大の積極財政策をとり,長期的に金融緩和策をとった。その結果引き起こされたのがバブル経済である。米国資産の買い漁りや海外旅行ブームが起き,賃金の安い国に工場を移転する企業が増えるなど,不動産や株式への投企が大きな流れとなるのである19871017日にはブラック・マンデー(世界株価同時安)があり,好景気の実感が一般化するのは1988年頃からであるが,19891229日の東証大納会で日経平均株価が史上最高値の38,95744銭(同日終値38,91587銭)を記録し,199014日の大発会から株価の大幅下落が始まる。振り返れば,198612から19912月までの51か月間がバブル経済期(平成バブル,平成景気と呼ばれる)である。その後は,とりわけ日本は長期の低迷期(「失われた30年」)に入ることになる。

 バブル経済を背景として,建設活動が活発化する。住宅建設戸数をみると,1985年には123.6万戸であるが,1988年には168.5万戸,1990年には1707万戸となり,そして1992年には1403万戸となるのである。高度経済成長の1960年代を通じて明らかになったのは高度大衆消費社会の出現である。1960年代の10年で日本の住宅は決定的に変化する。茅葺き・藁葺き屋根が消え,アルミサッシュの普及率が0%から100%となる。つまり,住宅の気密性があがり,エアコンが普及したことを意味する。そして何よりも,プレファブ住宅が登場し,住宅産業が成立する。すなわち,住宅は建てるものではなく,予め工場生産され,現場では組み立てるだけのものとなる。住宅そして建築は,耐久消費財となるである。不動産の動産化,すなわち土地や建物そのものの商品化,H.ルフェーブルのいう「社会的総空間の商品化」である。バブル経済期に出現したのは,そのさらに先鋭化した動向である。建築のポストモダンを支えたのは,工業社会へのアンチというよりその徹底化の趨勢である。

プラザ合意によって円が国際通貨になることで,東京は,国際的な金融中心として,日本の都市の中で特権的な地位を占める。それとともに,様々な東京改造論が提案された。そして,1980年代半ばから90年代にかけての東京論[13]の隆盛はすさまじいものがあった。ポストモダン都市・東京は,世界からも注目をあびるのである[14]。しかし,東京は,一極集中がますます加速されるなかで,都市として明らかに過飽和状態に達しつつあった。金があり余っており,投資の対象が求められているけれど,投資すべき不動産は日本に限りがある。海外の不動産をあからさまに買い占めるわけにはいかないとすれば投資効果の高い空間を創り出す必要がある。再び日本列島が沸き立つ開発の時代がやってきた。とりわけ大きなテーマとなったのが首都東京の再開発であり,東京大改造だったのである[15]黒川紀章は「東京湾埋立計画」を発表し,丹下健三もまた「東京計画1986」という「東京計画1960」を改訂するかのような計画案を提出した。メタボリズムの復活であり,東京改造の狂騒はまるで黄金の1960年代の復活であった。近代建築批判という課題はどこかにふっとんでしまったかのようであった。アジアの発展途上地域の都市も異様な展開を始めていた[16]

 前川國男が亡くなったのは1986626日のことである。享年81歳。その一生は,丁度1945年の敗戦を真ん中にして,前後40年となる。半世紀の時間の流れは大きい。日本の社会の変転は目まぐるしいものがあった。産業社会の成熟があり,国際社会においては有数の経済大国になった。建築生産の近代化,合理化,工業化の流れは直線的に押し進められてきたように見える。しかし,前川國男にとって,おそらく建築の近代は未成のままであった。その近代建築の理念を支えた素朴な理想主義は常に日本的風土において妥協を強いられ続けてきたと言っていいからである。現実に力をもつのは,経済原理であって,産業化の論理である。建築家の自由な主体性の必要性をいかに力説し,その理念をいかに高く掲げようと現実はその理想を裏切り続ける。また,日本の建築界を支配する独特の構造も一向に変わらないという問題も大きい。設計料ダンピング,疑似コンペ,ゼネコン汚職,重層下請構造,・・・依然と少しも変わらない体質が建築界にはある。前川國男の初心,戦後建築の初心に照らす時,その物語は今猶未完であるのみならず,もしかすると振り出しにおいて足踏みを続けているのかもしれない,という状況である。しかし,戦後建築の歴史は,半世紀という単純な時間的長さからいっても,既にその帰趨を見極める時に達していた。前川國男の死は,既に,確実に一つの時代の終焉を告げていた,とみるべきだろう。

 前川國男の死の3ヶ月程前,東京都新都庁舎の設計者に丹下健三が決まった。1980年代初頭,「ポストモダンに出口はない」と建築のポストモダニズム批判を口にしていた,前川とともに日本の戦後建築をリードしてきた丹下健三が,明らかにゴシック様式を思わせる歴史様式を採用して見せたことはスキャンダラスなことであった。それは,日本の近代建築の記念碑なのか,あるいは墓碑なのか,そのことが続く時代に問われることになった。

 

 Ⅲ 失われた30シュリンキング・ジャパン

 昭和から平成への転換,すなわち,1980年代から1990年代への移行をグローバルにみると,第一に,ベルリンの壁崩壊(198911月),ソ連邦の崩壊(199112月)による冷戦構造の崩壊がある。すなわち,ロシア革命(1917年)を起点とするによる社会主義世界建設の人類の壮大なる実験の失敗によって,資本主義世界の優位が明らかになる。以降,アメリカ合衆国が世界全体を主導する。そして,本格的にグローバリゼーションの時代が到来することになった。

 第二に,情報伝達ICT革命によるネットワーク社会の到来がある。インターネットの歴史は,1960年代に遡るが,1989年に地球規模のインターネット(TCP/IP)ネットワークが成立し,1995年には商用利用が開始される。インターネットの利用は瞬く,間に世界津々浦々に普及し,パソコン,携帯電話(モーバイル・フォン)の進歩と普及がネットワーク社会の実現に大きく寄与することになる。第一,第二は,もちろん,大きく関連している。

 しかし,アメリカのヘゲモニーに委ねられたかに思えた世界も必ずしも安定化に向かったわけではない。世界資本主義の進展すなわち市場原理の世界隅々への浸透は至る所に格差拡大をもたらすのである。そして,アメリカ流覇権主義に対する反撥は民族ナショナリズムの台頭を招いた。9112001年)の同時多発テロはその象徴であり,以降イスラーム原理主義のテロが頻発する。すなわち,1991年以降,世界史の大きな閾となるのは2001年である。世界建築史の流れの中で,ミノル・ヤマサキ(191286)設計の「プルーイット・アイゴー団地」(1951)の爆破解体(1972)は「近代建築」の終焉を告げる作品とされてきたが,同じミノル・ヤマサキ設計の「ワールド・トレードセンター」(1973)の一瞬の崩壊も「四角い箱型の超高層建築」の終焉の象徴となる。以降,超高層建築は,捻れたり,踊ったり,「アイコン建築」と化していく。

 さらに,1990年代以降の世界を大きく規定することになるのは,地球環境問題であり,世界人口の爆発的増加である。ふたつの問題とも,既に,1970年代から意識されてきたことであるが,貧困の問題,異常気象の問題,原子力廃棄物の問題など地球の存続に関わる事象がますます先鋭化しつつあるにも関わらず,その解決へ向かうパラダイム・シフトは必ずしも起こらない。地球温暖化対策に各国の取り組みが積極的ではないことは,スウェーデンの若き環境活動家グレタ・トゥーンベリが厳しく告発するところである。

 E.ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』[17]が出版され,大きな話題になったのは1979年である。著書は,戦後復興をなしとげ,高度経済成長を実現させた日本に焦点を当て,日本的経営を高く評価し,サブタイトルにうたうように「アメリカへの教訓」とするものであった。日本経済は既に減速し,不況に悩みつつあったが,1980年代後半のバブル景気と重ね合わされて,読まれることになるのである。日本の一人当たり名目GDP(国内総生産)は,1990年代前半には,アメリカ合衆国を抜いて世界一となった。しかし,バブル経済が崩壊した1992年以降は,GDPの成長率は,年平均1%前後で推移することになる。日本のGDPは,1955年から1973年までの高度成長期には年平均10%程度の成長を遂げた後減速するが,それでも1975年から1991年の年平均4%の成長率であったから,「平成」の30年間は,戦後日本の,以前とは異なる全く新たな時代であったことは明らかである。

吉見俊哉は,「平成」は「失敗の時代」だったという。また,「失われた30年」ともいう(『平成時代』岩波新書,2019年)。何が失われ,何に失敗したのかは問題であるが[18],世界経済における日本経済の地位が失墜し続け,「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が全く過去のものとなったのははっきりしている。

 そして,産業構造の変化も大きい。戦後まもなくの日本は農業国家であった。1950年には,就業者のほぼ半数は第一次産業(農林水産業)に従事していた(48.5%)のであるが,21.8%であった第二次産業人口が次第に増えていく(総務省統計局)。1960年には,第一次産業32.7%,第二次産業29.1%であったが,1965年には,24.7%,31.5%と逆転する。第一次産業の就業者数は,以降,急激に減り,1970年に2割を切り(13.8%),1985年には1割を切る(9.3%)。そして現在は,5.1%(2017年)である。第二次産業は,1975年に34.1%となり,1995年(31.0%)まで30%台前半を維持するが,21世紀に入って25%程度となる(25.9%(2017年))。1950年に39.6%であった第三次就業者は,一貫して増え,現在は3分の2を超える(67.3%(2017%))。日本は,農業社会から工業社会へ,そして,ポスト産業社会へ大きく転換してきたのである。

 人口構成の推移は,日本社会の構造変化に直結する。日本の総人口は,1950年に約7200万人,195080年(約11700万人)は10年ごとに年平均約10%,1980年~90年(12400万人)は5%強,19902000年(約12700万人)は3%強,増加してきた。しかし,21世紀に入って,2005年以降,自然増減率はマイナスに転ずる。2050年には9500万人,2100年には4800万人になると予測される。そして,2018年の総人口12644万人のうち65歳以上人口は3558万人(281%)である。1564歳人口は,1995年に8716万人のピーク以降,減少に転じ,7545万人(597%)と6割を切った。一般に,子どもが多く高齢者が少ない多産多死の社会から子どもが少なく高齢者が多い少産少子の社会に移行していくのであるが,日本の少子高齢化の人口ピラミッド構造は,世界で最も先鋭なかたちをとりつつあるのである(図Ⅲ0①)。経済そして人口の動向を見ると,第二次世界大戦後の日本は,大きく,1955年,1973年,1991年,そして2005年を区切りとして時代区分できる。

 バブル崩壊(1991年)以降,グローバルな政治経済に翻弄されてきた日本であるが,日本社会に大きなダメージを与えてきたのが相次いだ自然災害である。とりわけ,1995年の阪神淡路大震災と2011年の東日本大震災は,日本社会の拠って立つ基盤を根底から揺すぶるものとなった。以上を念頭に,「平成」の建築と建築家をふりかえってみよう。

 

Ⅲ-1 インターナショナル建築マフィアとコンピューター・デザイン(CADCAMBIM

 グローバリゼーションの進展は,すぐれた建築家たちに,国境を越えた活躍の場を用意することになる。1960年代にその実力を世界に示した日本の建築家たちの海外での仕事の機会は増え[19],日本のバブル経済は,逆に多くの外国人建築家を日本に招き入れることになった。昭和末から平成にかけて,日本に実現した外国人建築家たちの作品は実に多い。A.ロッシ(19311997)「ホテル・イル・パラッツォ」(1989)などM.グレイブズ(19342015)「百道浜の集合住宅(1989)などM.ボッタ(1943~)「ワタリウム美術館」(1990),N.フォスター(1935~)「センチュリータワー」(1991),C.ムーア(19251993)「シェラリゾートHAKUBA」(1994),シーザー・ペリ(19262019)「シーホークホテル&リゾート」(1995)「あべのハルカス」(2014)(図Ⅲ1①)など,ラファエル・ヴィニオリ(1944~)「東京国際フォーラム」(1996),・・・挙げればきりがないほどである。

 1990年代以降に,日本の建築家としてまずグローバルに活躍の場を広げていったのは,前川國男・丹下健三の次の世代,メタボリズム世代の建築家である。中でも注目すべきは磯崎新である。ニューヨークの古い映画館をディスコに改造した「ザ・パラディアム」(1985),「ロサンゼルス現代美術館」(1986)以降,「パラウ・サン・ジョルディ」(バルセルナ,1990)「クラコフ日本美術技術センター」(1994)「ア・コルーニャ人間科学館」(1995)「中国湿地博物館」(杭州,2009)など話題作をグローバルな建築界に投げかけ続けた。「ポストモダン建築」の理論家でもあり,キュレーターであり,オルガナイザーでもある磯崎新は,「プリツカー賞」[20]の初期審査委員を務め,「Any会議」[21]を組織するなど,自ら「インターナショナル・建築マフィア」と呼ぶ世界のリーディング・アーキテクトのコミュニティで重要な地位を占める。福岡市香椎浜のネクサスワールド」1992)には,オルガナイザーとして,スティーヴン・ホール,石山修武,レム・コールハウス,マークマック,クリスチャン・ド・ポルザンパルク,オスカー・トゥスケを指名しているし,熊本アートポリス(図Ⅲ1②)でコミッショナーを務めるなど,また,数々の国際コンペで審査員をつとめ,若い世代の建築家の登用に大きな役割を果たした。ザハ・ハディドがデビューすることになった1983年の香港のビクトリア・ピーク山上の「ピーク・レジャー・クラブ」のコンペ,国内では,高橋晶子(1958~)がデビューすることになった「坂本龍馬記念館」(1991)のコンペはよく知られている。

 磯崎以降,安藤忠雄,伊東豊雄,妹島和世(1956~)・西沢立衛(1966~)(SNAA),隈研吾(1954~)などが続く。21世紀に敗って入って急速に経済発展し,北京オリンピック(2008),上海万博(2010)を成功させた中国など,外国を拠点として活躍する日本人建築家も増えた。ICT技術の発展は,建築家のグローバルな活動を大きく支えることになる。図面や映像など大容量のデータを瞬時にやりとりできるようになり,クライアントや施工業者,現場,地域拠点(支店事務所)の間のコミュニケーションが極めて容易となったこともその背景にある。

 CAD(コンピューター・エイディッド・デザイン)からCAM(コンピューター・エイディッド・マニュファクチャリング),3DCG(3次元コンピューターグラフィックス)DF(デジタル・ファブリケーション)などコンピューター技術の発達は,単に設計図書の作成やグラフィックな表現手法を大きく変えただけでなく,建築の構造技術,施工技術など建築生産技術の可能性を大きく広げることになる。また,アルゴリズミック・デザインと呼ばれる新たな設計手法も生み出された。さらに,BIM(ビルディング インフォメーション モデリング)と呼ばれる,3次元のモデリングソフトウェアによって,設計から施工まで一括して構築管理するシステムが,実用化されている。

 建築において,このコンピューター技術の発展を具体的な作品として提示し続けた建築家の代表がザハ・ハディッド[22]である。実現されることなく終わった東京オリンピック2020の主会場「新国立競技場」の建築設計競技の最優秀案の設計者である。その斬新なイメージは,東京へのオリンピック誘致に少なからぬ貢献をしたと思われるが,予定建設価格の超過,プログラムそのものの曖昧さ,実施主体と決定過程の不明朗さ等々の理由で,監修者として決まっていた実施過程からもザハ・ハディドは排除される不幸な結果となった。この経緯には,日本の建築界が歴史的に孕んできた問題がある。その死去は,「新国立競技場」をめぐるトラブルで心労が重なったためともされる。デビュー作が実現しなかったように,その斬新な作品の多くは実現せず,ザハ・ハディドは「アンビルドの女王」と呼ばれてきたのであるが,21世紀に入ると,その作品は,次々に実現されていくことになる。アジアにも「広州大劇院」(2010)などがある。その作品が実現可能となった背景には,その「新奇な」デザインを要望するグローバル企業がクライアントとして出現したことがある。そして何よりも,三次元3D CADからBIMへ展開してきたコンピューター技術の進歩がある。すなわち,単に多様な形を生み出す段階から実際に部材,部品まで一貫して製造,組立,施工するシステムが完成したことがある。ザハ・ハディド・アーキテクツは,建築エンジニアリングでも世界最先進の設計事務所となるのである。

 建築におけるデジタル技術の発達を主導してきたのは,オーヴ・アラップ・アンド・パートナー(アラップ)社[23]である。ロンドンに本社を置き,エンジニア,プロジェクトマネージャー,コンサルタントなど14,000名以上のスタッフを抱え,世界89ヵ所に事務所を置く。アメリカ,オーストラリア,中東,アジア,ヨーロッパ,中東,アフリカなど160ヶ国以上でプロジェクトを展開するグローバル企業であり,日本支社は1989年に東京に設立され,現在,小栗新が支社長を務める。

 日本では,ザハやF.O.ゲーリー(1929~)(「ナショナル・ネーデルランデン・ビル」(プラハ,1995)「ビルバオ・グッゲンハイム美術館」(1997)「ウォルト・ディズニー・コンサートホール」(2003)など)のような新奇な形態を弄ぶかのような建築は実現されることはないが,新たな構造形式と形態を追い求める建築として,伊東豊雄の「せんだいメディアテーク」(2000(図Ⅲ1③)「みんなの森 ぎふメディアコスモス」(2015)「台中国家歌劇院」(2016)などがある。「せんだいメディアテーク」は,柱を細い鉄骨を組み合わせてチューブ状とし,チューブ内に設備系統を納め,さらにエレベーターや階段などの縦の動線とし,採光や通風の吹き抜け空間とする,しかも,チューブを均等に並べるのではなく,上下に捻れるように床を貫かせて,不均質な空間を作り出している。近代建築の均等ラーメン,ドミノシステム(ル・コルビュジェ)を超える試みと評価された。「台中国家歌劇院」に至る全く新たな空間創出の試みを可能にしたのはコンピューターによって複雑な3次元構造の構造計算が可能となったからである。構造を担当したのは,佐々木睦郎(1946~)[24]である。佐々木睦郎は,伊東豊雄,妹島和世・SANAAのほとんどの作品(「岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー マルチメディア工房」(1996,日本建築学会賞)「梅林の家」(日本建築大賞,2003)「金沢21世紀美術館」(日本建築学会賞,2004(図Ⅲ1④)の他,磯崎新(「静岡県コンベンションアーツセンター」(1998)「山口芸術情報センター」(2003)),原広司(梅田スカイビル(1993)札幌ドーム(2003))((図Ⅲ1⑤)など,多くの話題作の構造を担当している。

 

2 スクラップ・アンド・ビルドからリノヴェーションへ 

 グローバリゼーションとネットワーキングを推進するGAFAGoogle, Apple, Facebook, Amazon)のような巨大企業が世界支配を強める中で,日本の経済,産業,企業は,その相対的地位を著しく低下させて来た。基本的に地域産業である建設業は,日本経済の失速とともにかつての勢いを失うことになる。1960年代から70年代にかけて,建設投資額は全投資額の20%から25%を占めるに至る。日本は,戦後「農業国家」から「土建国家」に転じたとされる。オイルショック後 50兆円前後に落ち着いていた建設投資額は,バブル経済によってピークとなった84兆円(1992年)以降,徐々に減り,2000年には66兆円,2005年には51兆円となる。近年は,東日本大震災の復興投資もあって,また,東京オリンピックのための施設整備もあって,50兆円程度で推移しているが,建設業の就業者数は,1992年には619万人,1997年にピークの685万人となって以降減少が続き,500万人を下回るに至っている。建設業の許可業者数は,1999年にピークの60万業者となるが,47万業者(2018)に減っている。建築技術者[25]は,2000年には39万人であったが,2010年には,22万人に激減する[26]。そして,とりわけ建築技術者の高齢化と後継者難は,極めて深刻になっている。

 身近な住宅についてみると,「平成」時代における建築環境の変化は明らかである。新設住宅着工件数(フロー)は,バブル期には年間167万戸(198990)まで回復するが,バブル崩壊によって134万戸(1991)に激減,阪神淡路大震災と消費税増税前の駆け込み需要で163万戸(1996)まで揺戻すが,翌々年には118万戸(1997)に落ち込む。その後,115130万戸で推するが,耐震偽装事件と建築基準法改正で104万戸(2008)となり,リーマンショック後に78万戸(2009)となり,以降,消費増税前の駆け込み需要で99万戸(2003)になるが,100万戸を超えることはない。徐々に減って,2030年には約55万戸になると予測されている(図Ⅲ2①住宅建設戸数の変化)。

 建設の時代が終わったことは,住宅数(ストック)と世帯数の変化をみればはっきりする。上述のように,戦後まもなく420万戸不足した住宅数が全国で世帯数を超えるのは1968年で,住宅総数2559万戸,世帯総数2532万戸,空家率は40%であった。その後,空家は増え続け,空家数は,268万戸(76%,1978年)から820万戸(135%,2013年),1083万戸(170%,2018年)と推移し,世帯数の減少も加速して,2033年には2166万戸が空家となると予測される(図Ⅲ2②)。

 スクラップ・アンド・ビルドの時代からリノヴェーションの時代への転換は必然である。日本でリノヴェーションの嚆矢となるのは,1973年に浦辺鎮太郎が倉敷紡績の旧工場(1889)を観光施設に再生した倉敷アイビースクエアである。「ポストモダンの建築」が称揚される中で,戦前に建設された建築やその一部を修復保存する試みがおこなわれる。磯崎新の「お茶の水スクエア」(1987)は,W.M.ヴォーリスの「主婦の友社社屋」(1925)のリノヴェーションである。しかし,バブル経済の最最中には,歴史的建築の保存といっても,解体して新築する(スクラップ・アンド・ビルド)が一般的となる。手間暇がかかるし,建設費もかかるからである。今日につながる建築のリノヴェーションが流れとなるのは,青木茂(1948)の宇目町役場庁舎(大分県宇目町(1999))が注目される20世紀末頃からである[27]。何度も超高層への建替が検討された東京駅のリノヴェーションが竣工するのは2015年である。今やリノヴェーションは大きな流れとなっている。若い建築家の仕事の多くはリノヴェーションであり,リノヴェーション作品でデビューするのが一般的となるのである。

 大きな流れの転換ははっきりしているけれど,東京オリンピック2020の誘致や大阪万国博の招致,RI開発など,相変わらずの開発路線が変更されたわけではない。指摘すべきは,日本全体が一様に縮退していったのではなく,日本の中でも地域格差が拡大していったことである。バブル崩壊以降も,東京一極集中の趨勢はとどまらず,地方の衰退がますますはっきりしていったことである。また,非正規雇用が増大し,所得格差が拡大していったことである。富が集中する地域(中東,中国,・・)が,グローバルに建築家が活躍する一方で,日本国内で建築家が活躍する場所と機会が失われていったのが「平成」時代である。

日本の若い建築家が取り得る道は,①建築需要のある地域に仕事の機会を求める,②既存の建築の維持管理,改修,リノヴェーションに仕事の重点を移行させる,③第三の道を開拓する,の3つとなる。③第三の道の中心となるのは,コミュニティ・アーキテクトとして,地域のまちづくりに関わっていく道である。

 

Ⅲ-3 ヒロシマからフクシマへ―第二の戦後

 バブル崩壊以降,それ以前に構想されたプロジェクトを除けば,大規模な都市開発は行われない。都市再生,地方創生が一般的な課題となるのは,以上のように振り返って見れば,必然である。しかし,環境,防災,国際化等の観点から都市の再生を目指す21世紀型都市再生プロジェクトの推進や土地の有効利用等都市の再生に関する施策を総合的かつ強力に推進するために,内閣府に都市再生本部が設けられたのは「空白の10年」を経た小泉第一次内閣の2001年であり,東京一極集中を是正し,地方の人口減少に歯止めをかけ,日本全体の活力を上げることを目的とした地方創生政策が打ち出されるのは遙かに遅れ,東日本大震災後の第2次安倍改造内閣が発足した2014年のことである。

 経済の低迷に加えて,日本列島を立て続けに襲ったのは大規模な自然災害である。1970年代から80年代にかけての自然災害は,死者行方不明345名を出した長崎豪雨(1978年)が最大であった。19951月の阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)は,死者数6433人,伊勢湾台風(1959)の4697人を超える大震災となった。それどころか,都市直下型地震として,高速道路が横転するなど,多くの建築物が倒壊,日本社会に対して,とりわけ建築界に対して大きな衝撃を与えることになった。

 戦後50年の節目に当たる1995年は,日本の戦後50年のなかでも敗戦の1945年とともにとりわけ記憶される年である。阪神淡路大震災に加えて,「オウム真理教」というカルト教団による「地下鉄サリン事件」が起きた。この2つの大事件によって,日本の戦後50年の様々な問題が根底的に問い直されることになる。いずれも,戦後日本の物理的精神的復興の危うさを露わわにするのである。加えて,年末には,バブル経済のツケと言っていい「住専問題」(不良債権問題)が明るみに出た。われわれの生活の基盤はどうなっているのか,日本の戦後社会を支えてきたものが大きく揺さぶられたのが1995年である。とりわけ,建築と都市の建設に関わる「建築家」がいかに非力かを思い知らされたのが阪神・淡路大震災である(図Ⅲ3①)

 「瓦礫と化して原形をとどめぬ民家の群。延々と拡がる焼け跡。一キロにわたって横転した高速道路。あるいは落下した橋桁。駅がへしゃげ,線路が飴のようにひん曲がる。ビルが傾き,捻れ,潰れ,投げ出される。信じられないような光景である。新幹線の橋桁が落っこちる,そんなことがあっていいのか。・・・・ まるで戦後まもなくの廃墟のようではないか。廃墟から出発し,50年を経て,再びわれわれが眼にしたのはまた廃墟であった。」(布野修司2000第1章 戦後建築の50年)「Ⅰ 砂上の楼閣」)

 布野修司2000は,阪神淡路大震災の教訓を,a 自然の力・・・地域の生態バランスの重要性,b フロンティア拡大の論理の破綻,c 多極分散構造の必要性,d 公的空間の貧困(重要性), e 地区の自立性・・・ヴォランティアの役割,f ストック再生の技術の蓄積,j 都市の記憶の連続性,という7つ項目にまとめているが,最も重要と思われたのは,地区の自立性とヴォランティア組織の必要性である。

 目の前で自宅が燃えているのを呆然とみているだけでなす術がないというのは,どうみてもおかしい。同時多発型の火災の場合にどういうシステムが必要なのか。防火にしろ,人命救助にしろ,うまく機能したのはコミュニティがしっかりしている地区であった。救急車や消防車が来るのをただ待つだけという地区は結果として被害を拡大することにつながった。阪神淡路大震災において最大の教訓は,行政が役に立たないことが明らかになったことだというと皮肉に聞こえるが,自治体職員もまた被災者である。行政のみに依存する体質が有効に機能しないことが明らかになったのである。問題は,自治の仕組みであり,地区の自律性である。行政システムにしろ,産業的な諸システムにしろ,他への依存度が高いほど問題は大きかった。

 地区の自立性の必要性は明らかである。そして,ヴォランティアによる支援が不可欠である。阪神淡路大震災後,特定非営利活動促進法の制定(1998)によって日本であるいはNPO(非営利組織)が制度的に認められたのは必然である。コミュニティ・アーキテクトと呼ばれる,地域をベースとして活動する建築家のあり方が模索されだしたのは阪神淡路大震災がきっかけである。「平成」時代の建築の出発となるのは阪神淡路大震災といっていい。

 日本列島は,その後も,地震,台風に毎年のように襲われる。2004年(平成16年)には台風23号による風水害と新潟県中越地震に見舞われた。そして2011311日に,東日本大震災が起きた(図Ⅲ3②)。マグニチュード90の史上最大の巨大地震によって,東北地方は大津波に襲われ,しかも,福島第一原子力発電所(1号炉,2号炉,3号炉)の炉心溶融(メルトダウン)という大事故を引き起こした。死者・行方不明者の数は18429人,建築物の全壊・半壊は合わせて404890が公式に確認されている。震災発生直後,停電世帯800万戸以上,断水世帯180万以上,避難者は40万人以上におよんだ。原発事故の処理は未だに終わってはいない。どころか,汚染水,汚染度,使用済み燃料の処理を考えれば,気の遠くなるような時間を要する。「平成」末(2019430日)時点でも,避難者の数は5万人を超えている(図Ⅲ3③)

 ヒロシマ194508.06からフクシマ20110301へ,原子力を根幹に据える世界がいかに危ういかを,日本は,そして世界は,再び思い知るのである。原子爆弾による焼け野原と原発事故以後無人となった野原を比べるとき,後者には明らかに展望がない。日本の拠ってたつ基盤を根底から揺るがした原発事故のダメージは計り知れない。

 建築家の未来について一筋の光明を見出すとしたら,若い建築家たちのすばやい支援活動である。3・11直後,多くの建築家たちはすぐさま動いた。アーキエイドArchi-aidグループの建築家の活動や伊東豊雄などの「みんなの家」がその象徴であるが,応急仮設住宅の建設から復興計画の立案へ,被災地支援に通った多くのグループがいる。避難所の間仕切り設置,仮設風呂の建設,竹内泰グループ,滋賀県立大学木匠塾グループのループの番屋建設(図Ⅲ3④),陶器浩一グループの「竹の会所」「浜の会所」(図Ⅲ3⑤)など,戦後まもなく,最小限住居の設計に取り組んだ建築家を思い起こさせる動きであった。

 

Ⅲ-4 コミュニティ・アーキテクトの出現

 阪神淡路大震災によってすぐさま問題にされたのは,建造物の安全性を規定する建築基準法の基準である。大きな地震や災害の度に問題になり,基準は改定を重ねてきている。全半壊の建物が4385戸,一部損壊建物が8万棟を超えた1978年の宮城県沖地震後,新耐震基準を定める建築基準法の大幅の改正が行われたのは1981年であった。現在でも,1981年以前を旧耐震基準,以降を新耐震基準とする。

 阪神淡路大震災後,新耐震基準を遵守した建物に被害は少なく,旧耐震基準に従うものに被害率が高かったということが一部で主張された。しかし,被害の実態は様々であって,絶対安全な基準というのはない。高速道路や高架橋が倒壊したのである。2000年には,被害の多かった木造住宅について,地盤調査や接合部の金物屋耐力壁の設置などを義務づける建築基準法の改正が行われている。しかし,法を守っていればいい,ということではない。法や基準を守って建設された建物も劣化するということがある。実際被害の大きかった木造住宅は老朽化したものが多かった。白蟻や結露,漏水によって部材が腐っていたのである。木造住宅に限らない。どんな建物でも,新築の時には基準を満たしていても,次第に老朽化するのは当然である。要するに,安全は必ずしも法によって担保されるわけではないのである。

 そして奇妙なのは,旧耐震基準に従う「既存不適格」とされる建築物である。既存不適格建物とは,基準となる法が変わり,現行法では法律に適合しない,現在では建設できない建築物である。「既存不適格」建物は駄目であった,ということになると一体誰の責任になるのか。さらに,設計(書類)上は法や基準を遵守していても,手抜き工事などその通りに施工されない問題がある。誰が,そのチェックをするのか。震災以後,検査機関の必要性が叫ばれたのは当然である。

 阪神淡路大震災と同じような大地震を経験した中国の唐山市(唐山地震)の市長が,空き地は震度7にも8にも耐えるといったというが,名言である。建物は倒壊しても,近接する空き地に逃れる時間があれば人命が失われることはないのである。問題は,それ故,建築が集合する街区や都市のあり方である。一個の建築を設計する場合でも,考慮すべきは近隣との関係である。すなわち,「建築家」は一個の建築の設計を通じて必然的に都市(計画)全体と関わりをもつのである。阪神淡路大震災以降,特に特定非営利活動促進法の制定(1998)以降,地域を基盤とする街づくり活動が活発していく。1995年は,ヴォランティア元年といわれるが,コミュニティ・プランニング元年でもある。

 イギリスのR.アースキン(19142005)らによるコミュニティ・アーキテクチャー運動を紹介するニック・ウェイツとチャールズ・ネヴィットによる『コミュニティ・アーキテクチャー』[28](都市文化社)が日本語に訳されたのは1992年である。そして日本でも,阪神淡路大震災以前から,マスターアーキテクト制あるいはタウンアーキテクト制を構想する動きがあった。建築家(元倉真琴,山本理顕,芦原太郎,平倉直子,団紀彦,隅研吾,小嶋一浩,高橋晶子,鈴木エドワード,原尚他)と建築課長(住宅課長)として県や政令指定市に出向する建設省のスタッフとによる「建築文化・景観問題研究会」(199295)が(財)建築技術教育普及センター(1982年設立)に設けられたのは1992年である。きっかけは「違反建築」問題[29]である。「違反建築」の取締りばかりの建築行政では,日本の街並み景観は美しくならない,どうすればいいのか,というのが建設省(国土交通省)の問題意識である。そして「豊かな街並みの形成には「建築家」の継続的参加が必要である」という「アーバン・アーキテクト」制の構想が生まれた。建築行政としてすぐれた景観形成を誘導していく仕組みに建築家の参加を位置づけようという構想である[30]

 しかし,「アーバン・アーキテクト」制がまさに実現されようとする矢先に阪神淡路大震災が起こり,それどころではない,建築基準法の遵守を徹底するのが優先という流れとなった[31]1998年には「建築確認・検査の民間開放」を可能とする建築基準法の一部改正が行われる。従来は,地方公共団体の主事のみが建築確認,検査を行なってきたが,建築物の着工件数に比べ,建築主事の絶対数が不足しており,事実上検査が行なわれなかったり,検査がずさんであったり,欠陥住宅が数多く建てられる実態があったのである。

 この第三者検査制度の導入が,「構造計算書偽造」事件を(200509年)生むことになる。吉見俊哉(『平成時代』)は,山一證券証券の自主廃業(1997)など銀行・証券会社の失敗,家電の失敗を指摘するが,建設産業の基盤にも綻びや空洞が生じていたことを示している[32]

「アーバン・アーキテクト」制が立ち消えになった後にも,全国で様々なまちづくり運動が展開されてきた。筆者が直接関わったのは,「京都コミュニティ・デザイン・リーグCDL」(20002006)の活動[33],滋賀県立大学における「近江環人(コミュニティ・アーキテクト)地域再生学講座」(人材育成プログラム)の開設であるが,そうした運動を全国的に後押しした建築家・プランナーとして林泰義(1937~),遠藤安弘(19402018)などがいる。

そして,2004年に,景観形成の仕組み,ガイドラインを定める「景観法」が成立する。この「景観法」は,各自治体の景観条例とは別に,法的拘束力をもつ法律として制定されたものである。そして,いくつかの注目すべき仕組みが規定されている。景観行政団体となる自治体(市町村)が,景観計画区域[34]を決定し,景観計画区域における良好な景観の形成に関する方針を定めるとともに,良好な景観の形成のための行為の制限に関する事項を策定する景観計画を立案するのであるが,景観行政団体は,景観整備機構(特定非営利活動法人)を設けることができ,景観協議会を組織することができる。すなわち,景観整備機構あるいは景観協議会という組織の設定によって,権限と報酬と任期を明確化した上で,個人もしくは一定の集団が都市(地区)の景観形成に責任を負うタウンアーキテクト制も可能となるのである[35]

 この景観法の成立を受けるかたちで,国土交通省「建築・まちなみ景観形成ガイドライン」検討委員会(委員長山本理顕)が組織されたのは20072008年である。「建築文化・景観問題研究会」の遺伝子をひきつぐかたちで,イギリスのCABECommittee of Architecture and Built Environment)のデザイン・レビュー制度をモデルに日本版CABEを実施することが目指された。そして,年間,数十チームにガイドライン作成のための補助金を供与する仕組みがつくられ,20092010年実施されたが,2011311日の東日本大震災の発災によって,中断を余儀なくされたのであった。

 

Ⅲ-5 デザインビルドとスーパーゼネコン―発注方式の多様化

 日本の超高層建築時代の幕開けを切ったのは「霞が関ビル」(156m,36階,1968,三井不動産,山下寿郎)である。その後,日本一の高さを誇る超高層建築は,「世界貿易センタービル」(163m,40階,1970,日建設計,武藤構造力学研究所)「京王プラザビル」(179m,47階,1971,日本設計)「新宿住友ビル」(210m,52階,1974,日建設計)「新宿三井ビル」(225m,55階,1974,三井不動産,日本設計)「サンシャイン60」(240m,60階,1978年,三菱地所設計,武藤耕三力学研究所),そして「東京都庁第一本庁舎」(243m,48階,1991,丹下健三都市建築設計研究所)「横浜ランドマークタワー」(296m,70階,1993年,光美諸設計,ザ・スタビンス・アソシエイツ)「あべのハルカス」(300m,60階,2014,竹中工務店,ペリ・クラーク・ペリ・アーキテクツ)と推移する。この間の日本経済の動向を示している。200mを超える40棟の超高層建築のうち,6棟は1970年代に建てられ,1980年代は1棟もない。1990年代は1995年以前に8棟,計13棟,21世紀に入って2000年代が12棟,そして2010年代が10棟である。もちろん,この間,超高層建築は年々増え,東京,大阪,横浜,名古屋,福岡といった大都市から地方中核都市へと拡がりつつある。ニューヨークやシカゴ,上海や香港のような集積密度はないけれど,日本の大都市,少なくとも日本の首都・東京が行き着きつつあるのは,超高層やタワーマンションが林立する巨大都市である。

 超高層とともに,人工環境化していく都市の象徴となるのはドーム建築である。季節や天候に限らず,いつでも試合ができる空調設備を備えた球場として,「東京ドーム」(竹中工務店,日建設計)が竣工するのは1988年である。その後,「福岡ドーム」(竹中工務店,前田建設工業 共同企業体,1993)「ナゴヤドーム」(監修三菱地所; 設計管理:竹中工務店,1997)「大阪ドーム」(日建設計 協力:竹中工務店,大林組,電通1997)「西武ドーム」(早稲田大学池原研究室(球場建設),石山健一(設計アドバイザー),鹿島建設(ドーム化工事),1999)「札幌ドーム」(原広司 アトリエ・ファイ建築研究所,アトリエブンク,2001)と建設が続いた。「西武ドーム」は,屋根のみドームとし,壁のない(密閉しない)ユニークな球場である。「札幌ドーム」は,サッカー場をドーム内に引き入れる,野球サッカー兼用の球場である。もちろん,総てのドーム球場は,様々な用途に用いられる。ドーム球場以外にも,大館樹海ドーム(竹中工務店,伊東豊雄建築設計事務所1997),仙台市屋内グラウンド(シェルコムせんだい,佐藤総合計画,2000)「出雲ドーム」(鹿島デザイン,1992)など,また,ドーム建築に限らず,スライド式の屋根をもつ有明コロシアム,豊田スタジアムなども含めて,数多くの球技が可能な屋根付の大規模建築が,日本列島に作られていった。

 構造技術の発展は,もちろん,大規模建築にのみ関わるわけではない。ザハ・ハディド事務所が先進的なBIMシステムを開発してきたように,CADCAMBIMの展開は,小さなアトリエ事務所でも,むしろ,大きな武器となる。「平成」の構造技術を振り返る斉藤公男はその多様な可能性をまとめている[36]。しかし,超高層建築や大規模なドーム建築の設計そしてその施工のためには大きな組織が必要とされることはいうまでもない。1960年代における「設計施工分離か,設計施工一貫か」という論争は,1970年代のオイルショックを経て,巨大建築そのものの是非を問う「巨大建築論争」[37]に拡大されるのであるが,そこで問われたのは,「建築家」とは,「組織」か「個」か,ということである。「組織事務所」か「フリー・アーキテクト」(アトリエ事務所)か,という構図もまたはっきりしつつあった。「巨大建築」の建設を前提とするのであれば,大組織事務所がそれに当たるのは必然である。もともとアトリエ事務所として出発した建築事務所となっていく事例は,枚挙に暇がないのである。

 しかし,超高層建築やドーム建築など,1990年代以降の大規模建築の設計者をみていくと,ゼネコン(総合建築業)設計部vs組織事務所vs建築家(アトリエ事務所)という対立よりも,様々な組合せ(特別目的会社,共同企業体,監修・協力・アドヴァイザー,・・・)の設計組織がつくられていることがわかる。グローバリゼーションによって日本社会が国際化されていく中で,建築のクライアントのあり方が大きく変化し,建築界もそれに対応する組織形態を必要とされるのである。

 公共建築の発注方式が変化していくきっかけになったのは,その設計施工のみならず,その運営や維持管理に民間の資金,経営能力,技術的能力を活用しようとするPFIPrivate Finance Initiative)」の導入である。日本で「民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律」(PFI法)が制定されたのは,モデルとしたイギリスと同じ1999年である。翌年,PFI事業の基本的枠組みが民間資金等活用事業推進委員会(PFI推進委員会)によって策定されて開始されるが,破産した事例が出るなど試行錯誤が続いた[38]

 経営そして維持管理までも含む事業そのものは,従来の建築家の職能の範囲を超える。そして,PFI事業のコンペには,建設費のみならず,事業,運営に関わる資金計画の評価も合わせた総合評価方式が導入された。予め設計施工分離の原則は通用しないのである。PFIの事業手法としても,BTO方式  Build(建てて) - Transfer(移転して) - Operate(管理・運営する)BOT方式( Build - Operate – Transfer),BOO方式  Build - Own(所有して) – Operate),RO方式  Rehabilitate(改修して) - Operate)と様々ありうるのである。こうした民間における様々な事業方式の出現を背景として,「設計の受託者は当該工事の入札に原則として参加できないものとする」1959年の建設省事務次官通達によって,設計と施工を異なる者によって実施する設計・施工分離の原則も見直されることになる。20054月に施行された「公共工事の品質確保の促進に関する法律」によって,設計施工一貫の方式は明確に位置付けられることになるのである。設計施工一貫方式は,欧米ではデザインビルドと呼ばれる。設計施工一貫方式の採用は,グローバルな動向でもある。

 「公取問題」で「違法宣言審決」を受け,事業者団体としての認定を受けた「日本建築家協会」は,より開かれた組織へ改変を余儀なくされるのであるが,その支柱であった前川國男の死後(1986年),丹下健三を初代会長とし,新たに会員を加え,名称も新日本建築家協会として再スタートを切る(1987年)。1996年に名称を日本建築家協会と元に戻し,2013年に公益社団法人に変更して現在に至る。新日本建築家協会としての再スタート時には8000名を超えた会員数は,現在は4500人ほどとなっている。正会員は,建築設計監理を専業とする一級建築士免許登録後5年以上の実務経験者である。歴代会長は,組織系建築事務所とアトリエ系事務所の著名建築家が交互に務めてきているが,デザインビルドを含む発注方式の多様化の流れの中で,建築家としてのポジションを様々に模索しているのは組織設計事務所の建築家である。

 一方,日本建築家協会は,古典的な「建築家」の理念を基にした「世界建築家協会UIA」の建築家資格制度をモデルとして「建築士」制度を見直す新たな資格制度(「登録建築家」制度)の成立を,日本建築士会連合会(統括建築士)などとともに模索してきた。しかし,この動きに大きくブレーキをかけることになったのが,上述の構造計算書偽造」事件(200509年)である。事件を契機に「建築士法」さらには建築教育[39]など全体を見直さざるを得なくなった国土交通省は,一級建築士の中で構造設計・設備設計の実務経験を5年以上有するものから,講習と考査によって,構造一級建築士,設備一級建築士という新しい資格を創設するに至る( 2006年に建築士法が改正(2008年施行))。目指してきた建築設計全般を統括しまとめる建築家(登録建築家,統括建築士)の資格制度とは方向を異にした,専門分化を補強する制度となるのである。

 こうした日本の「建築家」をめぐる環境の大きな変化,今日の建築界の構造をありのままに示すことになったのが,「新国立競技場」をめぐる一連の経緯である。2012年に「全天候型ドーム構想を視野に」全面建替工事が決定され,「新国立競技場基本構想国際デザインコンクール」が実施されたが,コンペの実施に必要なプログラムには不確定な要素(オリンピック誘致の決定を含めて)を数多く含んでいた。審査委員長の安藤忠雄は,振り返って「アイディア・コンペ」だったいうが,ザハ・ハディド案(図Ⅲ5①)の白紙撤回,再コンペ(デザインビルド)の実施,その応募社の編成,決定方式等々,日本の設計コンペの抱えている問題の全てが集約的に現れることになった。また,大規模な建築プロジェクトをリードするのがスーパーゼネコンであることがはっきり示されるのである。

 

Ⅳ 地球と地域のデザイン ー 全てが建築であり,誰もが建築家である原点

 磯崎新は,1966年以降まる5年間,コア・スタッフのひとりとして「大阪万博Expo’70」の会場計画へ深く関り,様々な政治力学が鬩ぎ合う「渦中」に置かれ,翻弄された結果,「社会変革のラディカリズムとデザインとの間に,絶対的裂け目を見てしまった」という。「デザインと社会変革の両者を一挙におおいうるラディカリズムは,その幻想性という領域においてのみ成立するといえなくもない。逆に社会変革のラディカリズムに焦点を合わせるならば,そのデザインの行使過程,ひいては実現の全過程を反体制的に所有することが残されているといってよい」また「デザインを放棄する,あるいは拒否することだけがラディカルな姿勢をたもつ唯一の方法ではないか」と総括する(『建築の解体』(1975))。そして,日本の近代建築を主導してきた前川國男が「いま最も優れた建築家とは,何もつくらない建築家である」という発言をしたのが1960年代末である。

磯崎が建築家として選択したのは「芸術(アート)としての建築」であった。目論んだのは,「建築」をあらゆる頸木(くびき)―時間的序列(歴史),社会的コンテクスト(場所),様式,テクノロジーから切断し,自立した平面に仮構することであった[40]。しかし,バブル経済の波に乗ってポストモダニズム建築が跋扈し始めると,とりわけ「ポストモダン・ヒストリシズム」と呼ばれる歴史主義的建築が次から次へと実現していく状況が現出すると,磯崎新は当惑することになる。「そこで私は歴史的様式に設計者として手出しすることはやめた。・・・ポストモダニズムとして歴史的文書庫を荒らすヒストリシズムには加担しないことにする」[41]と宣言するに至る。あらゆる差異が消費される過程で,磯崎新であれ,誰であれ建築家が特権的である根拠は失われる。最早,磯崎新も「ワン・オブ・ゼム」でしかない。磯崎新は,2019年,しかるべく日本の芸術院会員となった。

戦後まもなく建築家が目指したのは,NAUの行動綱領が示すように,建築の生産体制全体の変革である。前川國男が常に念頭に置いてきたのは,建築技術の体系,設計施工の全体制のありかたである。磯崎新のいう「デザインと社会変革の両者を一挙におおいうるラディカリズム」が,戦後建築の出発点にあった。しかし,建築の設計施工,生産体制の全体を主導するのはスーパーゼネコンを頂点とする建築産業界であって,一人の建築家が建築生産過程の全てを統括することは不可能である。磯崎新は,その絶対的裂け目を確認するのである。「建築は社会がつくる」(林昌二)すなわち「建築は99%社会がつくる(1%に建築家に役割がある)」(村野藤吾)ということである。

「建築家」が生き延びるひとつの道は,以上のように,「アーティストとしての建築家」の道である。巨大な組織によって実現していくシステマティックなデザインに対して,「アートとしての建築」を求める需要はあるからである。実際,多様な設計チームが編成される中で,「建築家」の参加が求められる(名前が必要とされる)プロジェクトは少なくない。アーキニアリング(斉藤公男)という興味深い概念が提出されているが,アーキテクトとアーキ・テクノクラートが分裂するなかでも,プロジェクト毎になんらかの統合者は必要なのである。『日経アーキテクチャー』の,「平成」30年を振り返って,「時代のエポック」となった作品を挙げる試みを見ると,ほとんど全てが,個人名を冠した「建築家」の作品である[42]

一方,アーキ・テクノクラートが時代を主導していくこともはっきりしている。大規模なプロジェクトであればある程,様々なテクノクラートがアドホックな組織体を構成しながら設計していくことが一般的になっていくであろう。そして,設計施工を統括するトゥールとしてBIMが一般化していくことになるであろう。

問題は,そうした設計組織や建築システムが,「凡庸で画一的な」建築を大量に生み出していくことである。また,その方向が確固とした目標を持ち得ていないように思われることである。すなわち,その方向は高度成長期のパラダイムのままであり,「近代建築」批判の課題が宙づりにされたままであることである。「近代建築」の根源的批判による新たな建築のあり方は,バブル経済が弾けた後の30年間,必ずしも見出されていないことである。「凡庸で画一的な」建築であれば,早晩AIが取って代わるであろう。

「世界の枠組みが大きく変化する中で,新たな枠組みとなりつつあるのは「地球」という枠組みである。「戦後建築」が,あくまで,「日本」というフレームを前提として展開されてきたのだとすれば,これからの建築の展開を枠づけるのは「世界」であり,「地球」であり,「宇宙」である。「地球」という大きなフレームにおいて建築を考えることは,世界システムとしての建築を考えることである。一人の建築家の構想力を問題とする次元を超えている。・・・部屋,住居,近隣住区,地域,都市,国土とスケールは様々であるにせよ,おのように空間を編成するのか,ということは,そもそも建築家や都市計画家のテーマである。・・・果たして空間の編成について固有のヴィジョンを提出したのか。部分を限定し,部分系をモデルによって解くことだけに終始してきたのではないか。スケールの違う空間相互,例えば,建築と都市を連結する方法については放棄され続けてこなかったか。」(布野修司(1995)「「地球」のデザイン」「第四章 世紀末へ」「Ⅲ 世紀末建築論ノート」)ということである。

言うまでもなく,現実の仕事における模索のなかから「建築家」の未来を見出していく必要がある。ごく具体的に振り出しに戻って,「住宅の設計を最初の砦」(原広司)としたとして,共通のテーマとなるのは「より豊富な部分からなる<全体>へ向かうための,地域的,場所的部分を表現していこうという方法」である。

本稿で確認したように,日本は,最早,スクラップ・アンド・ビルドの時代ではない。身近な環境を維持管理し,修復保全していくサスティナブルな仕組みをつくりあげていくことは,ひとり建築家だけの課題ではない。そして,それを地区単位で成立させる大きな鍵を握っているのが「コミュニティ・アーキテクト」と呼ばれるような職能であることは,自然災害が頻発する,そして,少子高齢化の進行する日本ではっきりしている。

個々の場所には,あらゆる地域には「建築家」がその能力を求められる場所がある。身近に新たな建築のあり方を模索する若い建築家たちの現場を歩いてみたのが『進撃の建築家たちー新たな建築家像を目指して』(彰国社,2019[43]である。最大の問題は,建築家の実績のみで,建築家の創造力を問わない「プロポーザル・コンペ」の制度のように,新たな建築を目指す若い「建築家」を育てていくことをむしろ妨げている建築界内部に存在する巨大な壁である。

 

引用参考文献

布野修司1981) 『戦後建築論ノ-ト相模書房

布野修司1995) 『戦後建築の終焉れんが書房新社

布野修司2000) 『裸の建築家・・・タウンア-キテクト論序説建築資料研究社

布野修司1998a)『廃墟とバラック・・・建築のアジア布野修司建築論集Ⅰ,彰国社

布野修司 (1998b) 都市と劇場・・・都市計画という幻想布野修司建築論集Ⅱ,彰国社

布野修司 (1998c) 国家・様式・テクノロジ-・・・建築の昭和布野修司建築論集Ⅲ,彰国社

布野修司2011) 『建築少年たちの夢彰国社

布野修司(2015)    景観の作法-殺風景の日本-京都大学学術出版会

布野修司2019 進撃の建築家たちー新たな建築家像をめざして』彰国社


 

布野 修司(ふの しゅうじ)

日本大学特任教授。1949年,松江市生まれ。工学博士(東京大学)。建築計画学,地域生活空間計画学専攻。東京大学工学研究科博士課程中途退学。東京大学助手,東洋大学講師・助教授,京都大学助教授,滋賀県立大学教授副学長・理事を経て現職。『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』で日本建築学会賞受賞(1991年),『近代世界システムと植民都市』(編著,2005年)で日本都市計画学会賞論文賞受賞(2006年),『韓国近代都市景観の形成』(共著2010年)と『グリッド都市:スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生』(共著2013年)で日本建築学会著作賞受賞(20132015年)。主要論文にShuji Funo: Ancient Chinese Capital Models-Measurement System in Urban Planning-, Proceedings of the Japan Academy Series B Physical and Biological Sciences November 2017 Vol.93 No.9, 721-745.など。主要関連著作に①戦後建築論ノ-ト,相模書房,1981615日 ②戦後建築の終焉,れんが書房新社,1995830

③裸の建築家・・・タウンア-キテクト論序説,建築資料研究社,2000310

④建築少年たちの夢,彰国社,2011610⑤進撃の建築家たちー新たな建築家像をめざして,彰国社,2019



[1] 日本の近代建築の歴史を大きく振り返ると,以下のようになる。Ⅰ 近代建築の胚胎。大正から昭和への転換期,建築に対して決定的な影響を与えたという意味では,関東大震災(1923年)を挟んで前後数年の時期。日本において,はじめて近代建築運動が出現した時期であり,そうした意味では,分離派の結成(1920年)から新興建築家連盟の結成即崩壊(1930年)まで。Ⅱ 近代建築理念の定着。新興建築家連盟の崩壊(1930年)から建築新体制促進同志会の結成(1940年)へという直線的過程。1930年代。その後半は,ほとんどの建築用資材が強力な統制下に置かれ,軍用施設を除いて大半の権勢活動が停滞した。それに続く数年を含めて,満州事変から太平洋戦争へ至る15年戦争期。戦時ファシズム体制期。Ⅲ 近代建築の展開。戦後復興期から高度成長期への離陸直前までの時期。 Ⅳ 近代建築理念の解体。高度成長期への離陸あるいはCIAMの解体(1956年)から高度成長期の終焉,70年代初頭のオイル・ショック(1973年)までの過程。 Ⅴ 近代建築の解体以降。・高度成長期の終焉から1980年初頭。ポストモダニズム,脱(ポスト)産業社会のように,「ポスト・・・」としてしか規定できない時代(布野修司1981「Ⅲ  呪縛の構図」)。本稿は,この「ポスト・・・」の時代の帰趨を問うことになる。

[2] 「日本建築士会」が,建築家の職能の制度的裏づけを求める「建築士法」案の県議に至ったのは,1925年の第50回帝国議会である。その法案は,多くの反対を受け,衆議院を通過するも成立しない。続いて,第51議会(1926年),第52議会(1927年),第56議会(1929年),第59議会(1931年),第64議会(1933年),第65議会(1934年),第67議会(1935年),第70議会(1937年),第73議会(1938年),第74議会(1939年),第75議会(1940年)と続いて建議されるものの成立しなかった。最大の争点になったのは,第6条である。第6条は,設計と施工の兼業を禁止する。「第六条 建築士ハ左ノ業務ヲ営ムコトヲ得ズ 一 土木建築ニ関スル請負業 二 建築材料ニ関スル商工業又ハ製造業但シ建築士会ノ承認ヲ得タル者ハ此限リニ非ラズ」。立ちはだかった最大の勢力は,建設請負業であった(布野修司20004 幻の「建築士法」」「第3章 幻の「建築家」像」)。

[3] 結成後ほぼ一年を経て,NAUは,第一回臨時総会(194873日)において,以下のような行動綱領を採択している。

 綱領一 建築を人民の為に建設し人民の建築文化を創造する。

 綱領二 建築についての総ての問題を大衆の中で解決し実践する。

 綱領三 建築界全般を掩う封建制と反動性を打破する。

   一 建築生産組織,経営組織の近代化

   二 建築生産技術の機械工業化

   三 伝統の正しい批判及び摂取を基礎とする科学的建築理論の確立

   四 建築生産の民主化と人民のための建築を保証する建築立法建築行政の実現

   五 建築技術の教育及び研究機関の民主的実践的改革

 綱領四 建築技術者の解放と擁護のために闘う。

 綱領五 全国にわたる建築技術者の組織的結集を実現し,さらに海外の建築技術者の進歩的運動と提携する。

 綱領六 人民文化建設のために闘うすべての運動と協力する。

[4] 全体として,建築における機能主義とヒューマニズムを素朴に主張するものであったといっていいが,日本の近代建築の歴史的位置とその課題を,戦時体制下における日本的建築様式と記念建築の問題(第一章 過去における日本の近代建築),ヨーロッパにおける近代建築の歴史的発展(第二章 近代建築の本質),日本の近代建築の展開(第三章 日本近代建築の潮流)に見た上で,戦後建築を展望している(第四章 日本近代建築の明日への展望)。

[5] 『ヒューマニズムの建築―日本近代建築の反省と展望』については,布野修司(1981「第三章 近代化という記号―戦後建築の展開 1 ヒューマニズムの建築―戦後建築の課題」参照。その批判も含めて詳細に論じている。その要約は,浜口隆一自身による『ヒューマニズムの建築・再論―地域主義の時代に―』(建築家会館,1994年)の冒頭に20頁にわたって,そのまま引用されている。

[6] 『ヒューマニズムの建築』が公刊された時,すでに,NAUの機関誌である『建築新聞』紙上で,浜口隆一と図師喜彦との間で,近代建築の規定をめぐって論争が展開されつつあった。それに,佐藤三郎,神代雄一郎,西山夘三らが加わった。

[7] 建築士法制定以降,建築家の職能法制定の問題は「日本建築家協会」によって追求されることになるのであるが,唯一の例外が「五期会」の運動である。

[8]  布野修司(1981「第一章 建築の解体」「Ⅳ 諸神話の崩壊」「テクノクラシーの神話」

[9] 1960年代に大きなテーマとされたのは設計の合理化である。また,建築生産システムの合理化である。さらに,設計組織の合理化である。ゼネコン設計部,大手組織事務所でTQCTotal Quality Control)運動が展開された。

[10] 1960年代における同世代の作家たち,H.ホライン,アーキグラム,チャールス・ムーア,セドリック・プライス,C.アレグザンダー,R.ヴェンチューリ,スーパースタジオ,アーキズームの拡散的な作業を,いわゆる<建築>の概念の否定,拡張(他領域言語の導入,建築の概念の全環境への拡張)と<近代建築>の規範(インターナショナル・スタイルと機能主義的方法)の解体の相互に連関する二重の解体作業として位置づけ,それを症候群として整理することで,自らの方向を見定めていくことになる。

[11] 詳細は,布野修司(2000)(「Ⅱ 裸の建築界―建築家という職能 第3章 幻の「建築家」像 1 公取問題」)参照。

[12] 拙稿「ポストモダン都市・東京」『早稲田文学』19987『イメージとしての帝国主義』青弓社1990所収,布野修司 (1998b)所収)。

[13]  松山巌『乱歩と東京』(パルコ出版)陣内秀信『東京の空間人類学』(筑摩書房)藤森照信の『明治の東京計画』(岩波書店)が建築都市計画の分野からの火付け役となった。

[14]  東京論と称されるものは,その時間的パースペクティブに関して大きく三つに分けることができる。すなわち,レトロスペクティブな東京論,ポストモダンの東京論,そして,東京改造論である。レトロスペクティブな東京論においては,ひたすら,東京の過去が掘り起こされる。東京の過去とは江戸であり,1920年代の東京である。また,地形であり,水辺であり,緑であり,自然である。そして,そうしたものを失ってしまった東京がノスタルジックに回顧されるのである。一方,ポストモダンの東京論は,ひたすら,現在の東京を愛であげる。いま,東京が面白い,世界でも最もエキサイティングな都市「東京」という。しかし,この2つの東京論は,実は根は同じであった。都市の表層を覆うのは過去の建築様式の断片である。すなわち,皮相な歴史主義のデザインである。近代建築に対して,ポストモダンを標榜して装飾や様式が実に安易に対置されたのであった。過去や自然はいとも容易に掘り起こされて,現在の都市は,そのまがいもので飾りたてられ始めたのである。 そして,この2つの東京論が結果として覆い隠し,覆い隠すことにおいて支持し,促すのが東京改造のさまざまな蠢きであった。過去への郷愁は,それだけでは無力かもしれない。しかし,都市の過去や自然,水辺の再発見は巧妙にウォーターフロント開発や,都市の再開発へと接続されるのである。

[15] まずターゲットとなったのは,都心にある未利用の公有地であり,下町地域の住宅地である。いずれも利便性は高く,再開発による高度利用が可能である。要するにフロンティアとして最初に問題とされるのは空中である。続いて,開発のターゲットとなったのが,ウォーターフロントである。水辺空間の再発見とか,親水空間の意義とかが強調されるのであるが,その実は,水運や造船業の衰退で陳腐化していて,それ故,地面が値上がりしなくて安かった土地に目がつけられたということである。また,埋め立てればいくらでも土地を生み出すことができるとばかりに,埋め立て地がターゲットになるのである。さらに地下の空間にも目がつけられる。空中を利用するのであれば,地下も利用できるというわけである。

[16] 「メガ・アーバニゼーション」『アジア新世紀八 構想』,岩波書店,青木保編,二〇〇三年。Shuji Funo: Tokyo: Paradise of Speculators and Builders, in Peter J.M. Nas(ed.), Directors of Urban Change in Asia, Routledge Advances in Asia-Pacific Studies, Routledge, 2005

[17] Ezra Frivel Vogel1979),Japan as Number One: Lessons for America”,  Harvard University Press(『ジャパンアズナンバーワン―アメリカへの教訓広中和歌子・木本彰子訳,TBSブリタニカ,1979年)。

[18] 吉見俊哉は,世界の企業の時価総額ランキングを1989年と2018年を比較し,平成元年には,上位50社のうち33社が日本企業であったのに,30年後には35位のトヨタ自動車のみであることを指摘する。

[19] 1960年代に日本のリーディング・アーキテクトとなった丹下健三は,1960年代にスコピエ(現マケドニア共和国)の震災復興計画を手掛けた後,70年代末以降,「クウェート国際空港」(1979)「ダマスカス国民宮殿」(1981)「サウジアラビア王国国家宮殿」(1982)「OUBセンタービル」(シンガポール1986)など発展途上国を中心に仕事を得てきた。

[20] ホテルチェーン「ハイアットホテルアンドリゾーツ」のオーナー,プリツカーによって,1979年創設。「建築を通じて人類や環境に一貫した意義深い貢献をしてきた」存命の建築家を対象とする建築賞。日本人受賞者は,丹下健三(1987),槇文彦1993),安藤忠雄(1995),妹島和世・西沢立衛(SANAA)(2010),伊東豊雄(2013),板茂(2014),磯崎新(2019),40年で7人(組)を数える。アメリカ合衆国は8人であり,日本の建築家が国際的に評価されてきたひとつの証左となる。

[21] Any会議」は,P.アイゼンマンと磯崎新によって発想され,スペインのイグナシ・デ・ソラ=モラレス・ルビオーを加えた三人によって開始される。事務局経費は日本の清水建設が負担した。Anyとは「決定不能性」を象徴するのだという。①Anyone(建築をめぐる思考と討議の場,一九九一,ロサンゼルス)Anywhere(空間の諸問題,一九九二,湯布院)③Anyway(方法の諸問題,一九九三,バルセロナ)④Anyplace(場所の諸問題,一九九四,モントリオール)⑤Anywise(知の諸問題,一九九五,ソウル)⑥Anybody(建築的身体の諸問題,一九九六,ブエノスアイレス)⑦Anyhow(実践の諸問題,一九九七,ロッテルダム)⑧Anytime(時間の諸問題,一九九八,アンカラ)⑨Anymore(グローバル化の諸問題,一九九九,パリ)⑩Anything(物質/ものをめぐる諸問題,二〇〇〇,ニューヨーク)と続けられた。

この「Any会議」の討議の内容は,磯崎新+浅田彰の監修によって翻訳され,鈴木一誌の装丁になる本のシリーズによって日本には紹介されてきた。いささかタイムラグはあり,最終回(二〇〇〇年)の『Anything』が日本語で刊行されたのは二〇〇七年である。二〇一〇年一月末には,一九九〇年代を通じて組織してきた「Any会議」を総括する二冊も上梓された[21]

 浅田彰の総括によれば,「Any会議を通して新しい理論的な展望を示すことができたかというと,懐疑的にならざるをえない」けれど,旧来の理論的な枠組みが瓦解していくプロセスを体現しており,二〇世紀の総括という意味で意義深かったという(「Any会議が切り開いた地平」『Anything』)。

[22] ザハ・ハディド Zaha Hadid19501031日~2016331日)イラク・バグダード生まれの建築家。モスル出身の政治家ムハンマド・アル・ハジ・フサイン・ハディドと美術家ワジハ・アル・サブジを父母としてバクダードに生まれた。父は,左翼リベラル集団アル・アハリ(1932年)の設立者のひとりであり,イラク共和国(第一共和政)で財務大臣を務めた。ベイルートのアメリカン大学で数学を学んだ後,1972年にロンドンのAAスクールに入学,国際的に名の知られる建築家レム・コールハウスらに建築を学んだ。1980年に英国籍を得て,ロンドンにザハ・ハディド・アーキテクツ事務所を設立する。ザハの名が知られるようになったのは,本論で触れたが,香港の「ピーク・レジャー・クラブ」のコンペである(1983)。しかし,この作品も事業者が倒産したために実現せず,その後10年余りも「アンビルド」が続いたが,ニューヨーク近代美術館のP.ジョンソンらがキュレーターを務めた『脱構築主義者建築展』(1988年)で注目を集め,フランク・ゲーリーなどとともに,ポストモダンの建築の一派をなす「デコンストラクテイヴィズム」の旗手と見なされるようになる。代表作とされるのは,「ファエノ科学センター」(2005)「マギーズ・センターズ」(2006),「MAXXI 国立21世紀美術館」(2010)「広州大劇院」(2010)「東大門デザインプラザ(DDP)」(2014)などである。日本には,いずれもインテリア・デザインであるが「ムーン・スーン」(1990)「ニール・バレット青山店」(2008)がある。

[23] 構造エンジニアのオーヴ・アラップ, Ove N. Arup)が1946年に,コンサルティング・エンジニアリング会社として設立。業務は,土木・構造エンジニアリング,機械・電気設備エンジニアリング,火災安全設計,輸送交通技術コンサルティング,環境コンサルティング,地質地盤エンジニアリング,エネルギー・コンサルティング,材料エンジニアリング,プロジェクト管理,サステイナブル・コンサルティング,セキュリティコンサルティング,ITおよび通信技術コンサルティングなど多岐にわたる。

[24] 日本の近代建築をリードした前川國男建築設計事務所出身の構造デザイナー木村俊彦のもとで構造デザインを学び,1980年に 佐々木睦朗構造計画研究所,2002年にSAPS(Sasaki and Partners)を設立して活動してきた。この間,2002年に 名古屋大学大学院工学研究科建築学専攻教授(19992004), 法政大学工学部建築学科教授(20042016)を務めた。

[25] 国勢調査の職業分類でいう建設技術者は,主に住宅などの建築物の建設・改修・維持に従事する建築技術者と道路・橋梁・河川など土木施設の建設・改良・維持を行う土木・測量技術者からなる。ここでは前者の数字である。

[26] 東日本大震災の復興需要が増えた2015年でも,24万人程度である。

[27]  野津原町多世代交流プラザ(大分県野津原町)リファイン八女多世代交流館(福岡県八女市)リファイン 八女市立福島中学校屋内運動場(福岡県八女市)リファイン福岡市農業協同組合本店ビル(福岡県福岡市)リファインリベラほうしょう(愛知県知多郡武豊町)リファイン

 

[28] Charles Knevitt; Nick Wates, “Community Architecture”,  Penguin Books Ltd, 1987

[29] いわゆる「違反建築」の問題はわが国の「建築家」のみならず一般市民の建築および建築法規に対するある態度を示している。例えば,限られた土地に少しでも多くの空間を確保したいとばかりに,建蔽率,容積率違反は日常茶飯事である。日本の建築風土,建築文化の問題といってもいいかもしれない。一方,法の側にも問題がないとは言えない。全国一律の規定で地域の事情が考慮されない。例えば,伝統的に木造住宅が建てられてきた地区に木造住宅が防火上の理由で建設できないと言うことがある。実態として法を守れない状況があるのである。建築基準法がザル法といわれる由縁である。

[30] (財)建築技術教育普及センターによる「アーバン・アーキテクト」制の構想は以下のようであった。①アーバン・アーキテクトは自己の活動実績を含め必要事項をセンターに登録,センターはアーバン・アーキテクトのデーター・ベースを構築する(センターは登録料を経費に充てる)。②地方公共団体等が,景観形成やまちづくりに資するために建築の専門家を捜す場合,希望に基づきセンターがデータから情報を提供する(センターへは情報提供料を納入)。③アーバン・アーキテクトの関与するまちづくり事業については,建設局所管の助成事業との連携を図る。

[31] 他に,どう制度化するかとなると多くの問題があった。建築士法が規定する資格制度,建築基準法の建築計画確認制度,さらには地方自治法など既存の制度との関係がまず問題になる。さらに,それに関連する諸団体の利害関係が絡む。新しい制度の制定は,既存のシステムの改編を伴うが故に往々にして多くの軋轢を生むのである。

[32] また,ゼネコン各社から中央政界や地方政界に多額の賄賂が送られ,建設相,宮城県知事,茨城県知事,仙台市長が逮捕された「ゼネコン汚職」(199394)では,贈賄側として清水建設会長・副社長,鹿島建設副社長・専務・支店長,大林組副社長,ハザマ会長・社長・支店長,西松建設副社長,三井建設副社長,飛島建設名誉会長が有罪判決を受けている。以降,各社コンプライアンス遵守の改革を進めてきたと思われてきたが,2017年に,リニア中央新幹線の工事を巡る大手ゼネコンの入札談合事件が発覚した[32]。決着は現在もついていないが,建設業界の談合体質は必ずしも克服されてはいない。

[33] 京都コミュニティ・デザイン・リーグ(CDL)は,建築家(集団)が地域の環境を日常的にウォッチングし,ケアし,プロジェクト提案していく仕組みの構築,いわゆる「タウンアーキテクト」制あるいは「コミュニティ・アーキテクト」制の試行である。その活動は機関誌『京都げのむ』(1~6号)に記録されている。

[34] 景観法の中では,以下のように定義されている。一 現にある良好な景観を保全する必要があると認められる土地の区域  地域の自然,歴史,文化等からみて,地域の特性にふさわしい良好な景観を形成する必要があると認められる土地の区域  地域間の交流の拠点となる土地の区域であって,当該交流の促進に資する良好な景観を形成する必要があると認められるもの  住宅市街地の開発その他建築物若しくはその敷地の整備に関する事業が行われ,又は行われた土地の区域であって,新たに良好な景観を創出する必要があると認められるもの,  地域の土地利用の動向等からみて,不良な景観が形成されるおそれがあると認められる土地の区域

[35] 詳細は,拙著『景観の作法 殺風景の日本』(2015)参照。

[36] 「構造技術が拓いた建築と空間」(企画・監修 斉藤公男 『鉄鋼技術』20189月号)。対震構造という観点から,超高層建築の動向を,「多様な架構計画と性能志向型への転換」(19901999)「仕様規定型の設計から性能設計へ(20002004)「多様化する免震・制震システム」(20052009)「高さ300mを超えるスーパートール時代の幕開け」(20102014)「長周期地震動と既存超高層の制震改修」(2014~)と5期に分けて振り返っている一方,規模を問わず,構造デザインの多様な展開をまとめている。

[37] 神代雄一郎の「巨大建築に抗議する」(『新建築』19749月号)に対して,日本設計の池田武邦の「建築評論の視点を問う」(『新建築』19754月号),日建設計の林昌二の「その社会が建築をつくる」(同号所収)が反論した。その後,神代が「裁判の季節」(『新建築』19765月号)を書き,村松貞次郎が「部数の季節」(同,8月号)という,神代の「抗議」はそもそも議論に応じる価値もないと書くことで閉じられた。

[38] 筆者は,大津地方合同庁舎,大阪府警察学校のPFIの審査に加わった。国関連の庁舎,中央合同庁舎,東京国税局などでPFI事業は開始され,千代田区役所,地方自治体に拡大していった。破産した事例に,タラソ福岡,名古屋港イタリア村,近江八幡市民病院がある。

[39] 定期講習の義務化,受験資格要件の見直しなどが実施された. これにより,従来の学科認定が指定科目制(4年ごとに再確認) となった。

[40] 磯崎新「デザインの刻印」特集「日本近代建築史再考/虚構の崩壊」『新建築』臨時増刊一九七四年一〇月

[41] 「ポモ/デコン」『磯崎新の思考力』王国社2005

[42] 20人の選者が挙げた作品の上位10作品は,伊東豊雄建築設計事務所「せんだいメディアテーク」(2000),SANAA「金沢21世紀美術館」(2004),foa「横浜大さん橋国際客船ターミナル」(2002),原広司+アトリエ・ファイ建築研究所「京都駅ビル」(1997),石上純也建築設計事務所「神奈川工科大学KAIT工房」(2008),西沢立衛建築設計事務所「豊島美術館」(2010),レンゾ・ピアノ・ビルディング・ワークショップ・ジャパン「関西国際空港旅客ターミナルビル」(1994),槇文彦総合計画事務所「風の丘葬祭場」(1997),隅研吾建築都市設計事務所「馬頭町広重美術館」(2000),JR東日本建築設計事務所「東京駅丸の内駅舎保存・復元」(2012)である(内藤廣+日経アーキテクチャー『検証 平成建築史』日経BP社,2019年)。

[43] 取り上げたのは,①渡辺菊真②藤村龍至③大島芳彦+ブルースタジオ④平田晃久⑤伊藤麻里⑥アルファヴィル(竹口健太郎・山本麻子)⑦森田一弥⑧斎藤正⑨八巻秀房・飯島昌之⑩大井鉄也⑪丹羽哲矢⑫水谷俊博・水谷玲子⑬魚谷繁礼・魚谷みわ子⑭山本雄介⑮松本大輔⑯青山周平⑰岡本慶三⑱池上碧⑲岡部友彦⑳モクチン企画(連勇太朗・川瀬英嗣・中村健太郎・山川陸)㉑403architecture[dajiba](彌田徹・辻琢磨・橋本健史)㉒ツバメアーキテクツ(山道拓人・千葉元生・西川日満里・石榑督和)㉓香月真大㉔芦澤竜一㉕岡啓輔の25組の建築家である。