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2024年1月19日金曜日

日本建築学会2021年度大会パネルディスカッション 「都市インフォーマリティから導く研究・実践理論」討論会議事録 (2021.09.07 9:00-12:30開催/ 最終更新:2021.11.30)

 日本建築学会2021年度大会パネルディスカッション「都市インフォーマリティから導く研究・実践理論」討論会議事録(2021.09.07 9:00-12:30開催/ 最終更新:2021.11.30)

都市インフォーマリティから導く研究・実践理論

<討論会議事録>

小野今回報告がありましたが、公開研究会を5回開催し、その際に先生方にお越し頂いて意見交換を行って議論を深めてきました。今日はこの討論を通じて、先生方から学びながら、いかに私たちで新しい地平を切り拓いてくか、きっかけを掴んでいきたいという思いで討論を行いたいと思います。皆様よろしくお願いいたします。

前半では、先ほど各主題解説者から各コメンテーターに質問がありましたが、そちらに回答していただきます。後半は、この委員会のメンバーにも加わって頂いて「なぜインフォーマリティを問うのか」「なぜ研究を行うのか」というところの意見交換をしていきたいと思います。

では、前半の各主題解説者からの質問に対する回答をいただきたいと思います。都市インフォーマリティについて計5回で、居住環境・土地取得・参加型計画・建築物と技術・プロジェクト実践の5つの切り口で発表を行ってきました。第1回から、私の方でそれぞれ簡単に質問をまた紹介させて頂きますので、コメンテーターの皆様にはご回答いただければと思います。 5つの質問があり、岡部先生と布野先生、穂坂先生にそれぞれご回答いただければ幸いです。

 では初めに、第1回・居住環境のテーマからですが、成さんからのご質問です。岡部先生はご自身が取り組んできたプロジェクトを「古民家とスラム」と言い両者の共通点を、既成の社会システムの外にあるものという表現を使っています。岡部先生の「システムの〈外〉に身を置いてみると、必ず見えてくるものがある。」というコメントに対して、「具体的な実践方法や事例を教えていただけますか?」ということで、岡部先生よろしくお願いします。

 

岡部成さんから頂いた質問を私なりにもう一度解釈してみると、「〈外〉に身を置いてみると、必ず見えてくるものがある。」というのは宗教みたいな話で、かなり問い詰められているような感じがしました。具体的には「どうやって、一体何が見えてくるのか」が、聞かれていることかと思います。〈外〉をキーワードにして、もう一つの質問に対してもお答えしたいと思います。

〈外〉というのは冒頭の阿部さんの趣旨の説明にもあったように「フォーマルの外」を一般的に私たちは〈外〉と認識しており、私もここから入りました。 阿部さんの解説を読ませて頂くと、〈外〉ということで言うとフォーマル・インフォーマルの継続だと。つまりフォーマライズされていく、あるいはフォーマルを乗っ取るという話にもなるかもしれません。もう1つはフォーマル・インフォーマルの解体であり、3つのアプローチが示されていて、解体とはフォーマル・インフォーマルの枠組みを解体する話であり、それに合わないものとしてノンフォーマルに近いものがあるのかなと思いました。最後にもう一つはフォーマル・インフォーマルからの脱却というのがあり、これは穂坂先生がおっしゃったセルフフォーマル化というのがこれに近い話で、フォーマル・インフォーマルとは何か別の枠組みを作るという話なのかと思いました。

 では、私が言う〈外〉が何かというと「フォーマルの〈外〉」でもない。この3つのいずれでもない。「そのまた〈外〉?」と思われるかなと思いますが、そこに生きている人たちにとって自分が〈外〉にあることがどういうことかと考えると、それは意外にも「3つのいずれでもある」と思います。「矛盾する3つのいずれでもあるところが、〈外〉である」というのが、私がここで言いたい〈外〉であって、「ここに居続ける」、「ここにいる」ということが、ここにいてより良く生きていくことを諦めない、ということなのではないかと思います。

全体の話を聞いていて、なんとなく外から見ていると言いますか、ここに生きている人たちへの洞察力が薄れてきているのではないかと感じました。きっと皆様コロナ禍ですごく悩まれていて、フィールドから遠くなっていることもあると思いますが。

〈外〉に居続けるというは、別に環境が悪いのを政府のせいにしたり、市場や資本主義が悪いとするわけでもなく、では自助が問題なのかというと、自分が悪いわけでもない。そこでよりよく生きることを考えるというような意味で私は〈外〉という言葉を使っています。

 そこで何が見えてくるのかということですが、最後に雨宮さんが研究室のプロジェクトについてお話してくださいました。私はいつも雨宮さんに「住めば?」と言うのですが、一つそこに身を置くという中でも簡単なこととしては物理的にそこに住むということがあります。ただ、雨宮さん決して住もうとはしないのですね。今日もお話されたように、「外部者としての」というところにこだわっていて、私はとても大切なことだと思っています。住むのだけど外部者として住むのでとても孤独なのですが、「住む」みたいなことを通してそこへの洞察力を働かせていく。だから、「実現手法は何か」と先ほどの問いにありましたが、ともかく色々なこと、今まで持っていた先入観を取り払って住んでみる、住んでみることによって取り払わられるということだと思います。

では、そこでどんな良いことが起きるのかというと、そこでは常に空間をめぐる交渉が起きていて、ダイナミックに起きていると理解できるけども、それは普通に見ればいざこざが起きているということでもある。逆に制度やルールを作ればそのような、いざこざが回避されるじゃないかと普通考えるけども、空間をめぐる交渉や調停はみんながより良く生きるためにやっていて、その結果、先ほど成さんがお話されたような中国の四合院が大雑院になっていくというように環境がどんどん悪化していくのですよね。みんな自分がより良く生きようとして悪化していくのをどうしたらいいのか。その彼らが持っている空間を交渉するというのは、コミュニティが希薄化してきている問題を抱え、なんとかして人との繋がりを取り戻そうとしている私たちの方から見ると、必要に迫られて空間をめぐる交渉がいつも起きているということであって、そういうものがあるならばそこからより良く生きる方向にどう持っていけるのか、果たしてそれの支援ができるのかは分からないですが、その時にそこに生きている・生活しているという洞察力を持って関わっていく。その際、結果的にどちらかと言えば私たちの方が学んでいて救われている、ということなのかなと思います。

 

小野岡部先生ありがとうございます。成さんか阿部さんに振りたいと思いますけども、空間を巡る交渉が日常的に行われるという状況は私たちから見ると、もしかしたらすごくコスト大きいという風に見られるかもしれないのですが 、先生がおっしゃたように法律によって白か黒かを付けるというのは、必ず黒を生み出すという側面があって、誰一人取り残さないということを望む社会であれば日常的な交渉によってより良い社会を目指すというアプローチの仕方が必要なのかなと拝見しました。

ということで成さんか阿部さん、岡部先生のコメントについて〈外〉という場所がどこか分かりましたでしょうか?

 

:岡部先生ありがとうございます。自分自身の話から言うと、今の研究は修士から続いており、最初修士の研究では建物的なものしか見てこなかったのですが、研究が進むにつれて段々と自分の対象地のように、巨大な都市の中心部にあるが経済原理が働いていないところで、一般的な計画と異なる仕組みで動いているところに、すなわち、ある意味物理的には中にあるものの、システム上・ソフト面では離脱している〈外〉にあるところに関心を持ち始め今取り組んでいます。

 先程ご紹介できなかったのですが、再開発は本来であればみんな平等で、立ち退かせて同じような制度で対応すべきだと思うのですが、一方、所有や権利の問題をめぐって必ず平等になることは難しいとも思います。本来の一般的な建築設計であれば用途や使用者を決めてから建築設計を始めますよね。しかしこの対象地の場合は、少なくとも今のデベロッパーが用途やどのようなプロセスで進めるかが分からないので、自分がその場で用途と使用者を明確にすることで、この地区の再生が始められるのではないかと思い、研究に取り組んでいます。

 

小野:岡部先生が先ほど言われていた「〈外〉に住めるか」は委員会でも議論があり、住める派と住めない派に真っ二つに分かれました。後半のインフォーマリティーを問う意義のところで中心的な議論になるかと思いますのでよろしくお願いいたします。岡部先生ありがとうございました。

 それでは第2回の土地所有の回からの質問です。両川さんからのご質問です。岡部先生から「セルフフォーマル化というのが脱却ではないか?」というお話がありましたけども、そのセルフフォーマル化についてです。穂坂先生へのご質問です。

「南米のインフォーマル地区で住民組織によるフォーマル化を目指した活動がありました。しかし、こうしたセルフフォーマル化を目指す活動がどこでも起こるかというとそうでもないように思います。セルフフォーマル化が起こるための、あるいは起こりやすい条件についてどのようにお考えでしょか。 また、その際の外部の団体、行政やNPOの役割についてもお聞きしたいです。」ということです。

第3回の参加型の回からの質問も、穂坂先生に対するセルフフォーマル化のご質問ですので一緒にいきたいと思います。「セルフフォーマル化『self-formalization』の方法論が求められている、その意義も含めて改めて討論の中でご教示頂きたいです。加えて、穂坂先生は中間領域としての社会空間ということも言われています。その『self-formalization』における『中間領域」とは何かお聞きしたいと思います。また、国際的に見たとき日本の若手研究者・建築家に期待することは何でしょうか?そして、セルフフォーマル化が日本における参加に関する議論にどのように関連していく、あるいは逆に日本にどのように影響を及ぼし得ると思いますか?私たちの海外住宅参加型研究をどのように価値付けたらいいのでしょうか?』というご質問になります。たくさんありますが、よろしくお願いいたします。

 

穂坂:皆さん、こんにちは。両川さんのご質問で、「どのような条件か?」というのはなかなか一般化できることではないと思います。両川さんが例に挙げられたような人々がまず土地をスクワットしていて、そこから様々な生活環境を築いていくというプロセスを、私はかなり時代的な状況として、つまりグローバルな資本主義の下で居住の不安定化が進んでいるという現代的な状況下でインフォマル・セトルメントにどう立ち向かっていくか、その手がかりを得るという文脈で議論しています。現象そのものとしては昔からあるものだと思います。つまり、特に両川さんのフィールドであるラテンアメリカはそういう意味では先進的で、私が学生時代に大学の図書室で見た写真で未だに鮮烈な印象を持っているのは、ジョン・ターナーの論文の中でこれは50年代か60年代なのですが、ペルーのリマの郊外に一夜にして農村からやって来た人たちがセトルメントをつくるという迫力がある写真がありました。そこから、いかにして人々が都市生活への手掛かりを得ていくかがターナーのテーマだったわけです。これを先事例として、先ほどのから何人かの方がプレゼンなさっているように70年代のスラム改善やサイト・アンド・サービスが広がったと思います。これは、両川さんがおっしゃたように、世銀が後押ししたというのが圧倒的に大きいです。しかし時代背景というのがあって、この委員をされている皆さんはまだ生まれていらっしゃらない時代かと思いますが、70年代というのは本当にある意味「熱っぽい時代」で、先行する近代化路線に対してオルタナティブな開発が百家争鳴に花開いた時代です。

例えば、保健分野ではプライマリー・ヘルス・ケアが、また宮地さんがお話なったスモール・イズ・ビューティフルに始まるAppropriate Technology70年代に展開し、いろんな分野でそういう展開がありました。もちろん住宅分野ではアナーキストであるジョン・ターナーが国家・官僚による支配から脱するということで「housing by people」と定義しています。その中で一連のスラム改善も行われているということで、それを今振り返ると、例えばスラム改善にしろ、サイト・アンド・サービスにしろ、個々に総括すべきことはたくさんあるわけですが、まとめてざっくり一言で言うと所謂「pro-poor」が個別プロジェクトをちまちま重ねても、結局改善につながるようなシステムが生まれてこないのではないかという総括があったと思います。世銀は段々そこから手を引いて、もっとシステム的な住宅金融の問題であるとか自治体のマネジメントの方にいきました。一方で、ジョンターナーなど民衆派の人たちはそれを総括して個別プロジェクトを積み重ねるよりも、人々がまさに「housing by people」ではなく「housing themselves」ですよね。自分たちがhousingしていくためのリソースへのアクセスを確保できるような、それを保障するような政策に転換しなければいけないのではないか。具体的には土地、情報、あるいは社会的認知や融資であるとか、そういうリソースへのアクセスをどのように確保していくかということがイネーブリング戦略に繋がっていった。イネーブリング戦略そのものは、その後市場セクターにハイジャックされたと僕は思っています。そのため、イネーブリングそのものが批判されるようになっているわけです。

人々に必要なリソースをいかに確保するかは政府にしかできないことであって、それが一生ある種の前提としてそこにセットされていれば、人々が自ら改善していくことを明らかにファシリテートされるので、政府・行政・外部がとるべきスタンスとしては一つ重要なことだったと思います。今でもそれは重要だと思います。そういうポリシーを最も先進的に取ったのはスリランカでして、さっき太田さんがご説明になったコミュニティアクションプランニングは元々80年代後半にスリランカで始まって、自分たちは今何を必要としているかをコミュニティの中でワークショップを重ねながら、表明されたニーズに対応して政府がそれを支援していくプログラムをやっていたわけです。その問題はそれでまたありますが、私はその頃国連から派遣されてCAPの支援をする側にいました。その時同時に、国を越えたコミュニティプログラムをやっていたものですから、スリランカの現場にインドのムンバイで路上生活の女性たちの再定住プログラムを支援していたSPARCというNGOからトリマ・ゴパランという方を呼びました。彼女はタミール人で、まさにその頃スリランカ国内はタミール人と言えば焼き討ちに遭うという大変な状況だったのですが、幸運なことに彼女はスラムの中でタミール語を使って住民と話をすることできたのです。1週間現場を見てもらって、どうだった?とトリマに聞いたところ、トリマが言ったのは「こんなに住民のために一生懸命やる行政職員(つまりCAPというのは基本的に住宅公社がやっていたわけです)はインドではとても考えられない。それはそれで素晴らしい。だけど、これは明らかに参加型とは言え、政府のプログラムだ。自分たちのところでは、例えば路上でテントを張っている女性が隣のテントの女性から学び合う。あるいは街を越えて学び合う。(SPARCはその頃すでに国を越えたエクスチェンジもやっていたのですが)国を越えてコミュニティ同士の交流から新しい力が起こるようなことを私たちは考えている。」というようなことを言っていました。僕はその時は生意気だなと思いましたが、それから数年にしてスリランカのコミュニティアクションプランニングを支えていた大統領が暗殺されて、活動が解体されて、全然サスティナブルでなかったことが明らかになってしまいました。その中で、コミュニティ同士で学びながら出来上がっていったのが、女性組合というスラムの中でできてきた女性組織だったのです。

コミュニティ同士が学び合うというのは、実はコミュニティの人だけに任せたらなかなか上手く回っていかない。行政の中にも、それ程センスがある行政はなかなかいないので、やはりコミュニティのことについてよく知っていて尚且つ他のコミュニティを知っているNGO、ここで言う外部組織としてのNGOならばできることだと思います。コミュニティが学び合うというのは重要であり、単に上手く成功した一般化したモデルを他方に持っていくというよりも、さらに深く、コミュニティを訪問した人が、「こういうことが可能なのか」と感じた後に、まず自分たちの経験を振り返る。そこで、「あっちではそういうことやっているのか。じゃあ自分たちはこういうことができるかな。」と考えて、自分たち自身のイニシアティブをそこで振り返りながら発掘していく、新たにチャレンジしていくことで新しいダイナミズムが生まれる。NPOの1つの役割としては、コミュニティを媒介すること。それは、「風の人」ができることなので、外からやってきた研究者にもできることではなかろうか。私が参加させていただいた第3回目の研究会で最後に横山先生がそのようなコメントを残していかれたのではないかなと思います。

また、インフォーマル・セトルメントも参加型計画も倒錯した概念じゃないかと思います。参加型計画に関して、私は「デベロップメント」というのはそこに住んでいる地域の人たちが様々な資源を利用しながら生活を少しずつ向上させていくようなプロセスを言うと思います。それは昔から自然的な流れの中であるものですよね。だけど戦後、普通に開発と言うと、そういう風にしてそれを「開発」とは呼んでないわけです。それは1949年にトゥルーマンが選挙の洗礼を受けて、最初の大統領就任演説で「Point 4 Program」という戦後の冷戦構造を見据えた対東アジアへの戦略として自分たちの国の外交戦略を打ち出した。その中で、我々が今後やることの1つは、つまりPoint4のうちの1つは「Under development country」であり、「Under developmentとはそれぞれの国に対して進んだアメリカの科学技術の恩恵を及ぼして人々を貧困から救う。」ということを示し、これが「デベロップメント」になりました。つまり、援助としての「デベロップメント」はそこから私たちのイデローグに染みついてきました。

今、国際開発を学ぶ学生たち、新入生に、『「開発」ってなんですか?』って聞くと、「貧しい国を豊かな国が援助することです。」との回答になってしまいます。彼らだけを責められないのは、やはりそういったステレオタイプが一般化しているからです。例えば、海外の貧しい地区と言われる現場に出かけていき、「そこにいる貧しい地区に住んでいる人たちが貧しいな。これは何とかしたい、貢献したい。」と。そうすると、それはその「対象地域に住んでいる人々」として客体化されてしまうわけです。一旦客体化された人々が、また主体的に開発に参加するためにはどうしたらいいのかと、また苦労が始まるわけですよね。だから、それはすごく倒錯した話で、その主体的になってもらうためにいろんな手練手管を使っていく。PRA(Participatory Rural Appraisal)とか。

参加型の話というのは先ほど申しましたように、1970年代のジョン・ターナーの時代に参加やセルフリライアンスが議論されました。その後90年代以降、ロバート・チェンバースと共にPRAとか一連の参加型手法なるものを駆使して、一旦客体化された住民を主体化するという倒錯の話になっているわけです。それはおかしいじゃないかと。我々が本当に言いたいことは何だろうか、参加型計画で言いたいことは何だろうかと。

番外編の講演会で岩崎さんが「今痛めつけられているインフォーマル・セクターの人たちがどのように立ち上がるかというと、痛めつけられた中でも保っている、ある種農村的、自然的なクオリティから出発するしかない、のだと。そこでキーになるのは参加と自然なのだ」と言っていました。その時彼が言っている「参加」は参加型計画とはずいぶんニュアンスが違うじゃないかと僕は思います。

僕の言葉で言い換えると、それは「当事者主体の自治」ではないか。「当事者主体の自治」をどういう風に守っているか。そこに表れてくるクオリティをどう展開していくか。その時に、「支援」というと「援助」の話に戻ってしまうので、「支援プロジェクト」ではなくて「人間的交流の場」を作るのではないか。「当事者主体の自治」を外から支える人間的な交流。その中には支援もあるし、場合によっては技術的なアドバイスなど色々なことが含まれていいと思います。私たちのNGOの中では「フェア・トレード」という言葉もあります。そういうような形での展開がこれから目指される。

今頂いた質問の中で、「セルフヘルプというのは運営・実行が自前であり、自立性があるということか?」とありましたが、自立性というのは、まさにそういったことでありまして、それをなんとか外から支えられることがあったら支える、その中で研究活動を位置付けるということではないか思います。

 

小野:ありがとうございました。前半のお話はセルフフォーマル化が起こる条件についてでしたが、こちらについてはコミュニティ同士の学び合いがとても重要で、コミュニティ自身が気づくというプロセスが重要で、そこにNGOや研究者の果たしうる役割があるではないかというお話かと思いました。また、後半については参加型ではなく「当事者主体の自治」ではないか、支援ではなくて「外からの人間的な交流と視点」が重要なんじゃないかというお話かと思いました。後半の討論の中で両川さんと白石さんに引き続き議論して頂ければと思います。穂坂先生ありがとうございました。

 では第4回の質問に移りたいと思います。こちらは布野先生へのご質問になります。第4回ではですね、ノンエンジニアド建築について各国の比較を行いました。そこで、「複数の研究者・実践者が別々のフィールドで実践・研究しているときに相互比較が非常に難しいと感じた」ということですが、「相互比較するにはどうしたらいいでしょうか。またどのような相互比較なら可能と考えますか。」というご質問です。布野先生はアジアをはじめ世界各国の都市研究をされていますので、そういった視点から是非ご回答いただければと思います。よろしくお願いいたします。

 

布野:これはノンエンジニアドの度合いについての比較が難しかったから、どうしたらいいかということでしょうか。要するに何を比較するかということですよね。例えば穂坂先生の話、あるいはこの会全体が共有していると思われるコミュニティとコミュニティが相互に学び合う・経験交流をしていくということであれば、そのレベルで色々情報を共有できるのではないかと考えています。

まず、関連する研究報告や論文を読む時に比較した情報が揃わないというレベルのことにお答えしますと、僕自身は、基本的に建築計画学を出自としていますので、住宅で言うと使われ方や居住者にインタビューなどの住宅調査をします。しかし、1戸の住宅だけ見ていてもわからないことがある、基本的に住居の集合、街区、都市組織といっていますが、コミュニティ単位をベースに調査フォーマットを持っていいます。大体世界中どこでもやっていてそのレベルであれば共有できる。都市組織研究として、共有された調査手法があります。ノンエンジニアド建築については、当然、建築については、どこで資材を調達しどういう技術を基にしているかを調べます。都市組織研究については、比較可能なデータは構築できると基本的に思っています。

しかし一般的に言えば、個別のフィールドについて緻密なモノグラフを重ねてれば、研究者同士のコミュニケーションの中で比較できるのではないか、と思います。報告や論文に書かれていなくとも、研究者の研究交流によって比較はできるのではないかと思います。

ただ、何のために何を比較するかが問題ですね。個別のフィールドで得られたものがどれだけ一般化できるかは常に問われます。それで比較したいとなるわけですが、その基本は、、個々のでフィールドに「世界を読む」ということです。「地域研究(フィールド調査)」の存立根拠については議論が積み重ねられてきています。例えば、どこへ行ってもグローバルな資本主義の浸透があるわけですよね。そのメカニズムが、ある地区を調査しただけでも見えるはずですね。それを記述せよ、ということです。例えば、誰かが何かを食べているとしたら、それがどこで調達されて、どうここに届けられているのかというところまでちゃんと調べなさい、ということですね。「地域をディテールに世界を見る」というのが基本だと思っています。

あとは聞かれていないのかもしれないけど、僕が引っかかるのは「ノンエンジニアド」という言い方です。では、エンジニアが入れば良いのか、という前提です。これは、日本でも建築基準法や建築専門家によって絶対的な安全性とか、良好な環境とか、居心地のいい生活が担保されますか?ということです。既存不適格とかあるじゃないですか。大災害がある度に、国交省は法改正をして基準を改めていますが、それを通して宮地さんが議論されているようなことが果たして実際に担保されているのかが心配しているわけです。僕らの学生の頃には、AT (Appropriate Technology)IT (intermediate Technology)といっていましたが、ヴァナキュラーな知恵をどう活かしていくかということを考えていました。

フィジーの例、バングラの例、バヌアツの例、これは素晴らしい。僕らが考えていたATITの実践例ではないかと思います。それを基準にして、どこか別の所に輸出するという発想ではなくて、現場でそれぞれのコミュニティが選択するというのが基本だと僕は思っています。エンジニアド、ノンエンジニアドの定義がどうのこうのというのは次元が違う話ではないかと思って聞いていました。

 何を比較するのかというのはそれも調査であって、ディープな知恵を持っている現地の人や研究者から情報収集をする、本当に必要なら現地調査やればいいというのが僕の考えです。

 

小野:布野先生ありがとうございました。おそらく、この会自体がいろんな国や地域をフィールドにして、かつ専門分野が少しずつ違った研究者が集まっていて、その中で知を蓄積して新しい知見を生み出したいと思いつつも、少しずつの視点の違いでなかなか議論がしづらいだとか深まりづらいという部分があるのかなと思っています。この研究会で、どのようにアプローチしていけばいいのかというのも、これからご相談させて頂きたい部分かなと思います。

 

布野こうやって集まっているグループが素晴らしいと思います。番外編も含めて全部参加させて頂き、1年と半年くらい付き合っていて、、今日の報告を聞いても、ものすごく議論の密度が上がった感じがします。お互いはもう影響し合っていて、次にフィールドに行かれる時には、色んな視点で情報を得られるはずで、こういう場を積み重ねることと広げていくということにしたいとと思います。

 

小野心強いお言葉ありがとうございます。既にこの中で知識的な交流が生まれているということなのかなと思います。ありがとうございました。

 では最後、第5回は岡部先生へのご質問に戻ります。少し毛色の違う質問になりますが、川井先生より「成長モデルを前提とした近代の建築教育のフォーマットの限界を感じています。敷地が与えられ、建てることを前提にした設計演習中心のカリキュラムと現実には大きな乖離があります。所有概念そのものを捉え直す『行為としての所有、占有原理』の考え方を建築教育プログラムの中でどのように組み込めるのか、さらにはそこから働き方・就職先の変化として期待したいこと、についてご自身がお考えになっていることをお聞かせください。」というご質問になります。よろしくお願いいたします。

 

岡部川井先生の発表を聞きまして、今、湖東地域で取り組まれていることは、私が館山の南房総地域で取り組んでいることと重なることが非常に多くて、共感しながら聞きました。おそらく悩まれているのは、そうした周縁でいろんな気付きがあって、行ってみないと得られないような気付きを得て、あるいは、途上国のインフォーマル居住地のようなところでも気付きを得て、いざ大学の教員として若い建築の学生たちを指導しようというときに、そこにあるギャップに悩まれているのだと思います。結論からいうと、私はそこであまり悩まないところがあります。教育はどうなのか、これからこの子たちの仕事はどうなっていくのか、ということだと思いますけど、行為としての所有とか占有原理とか今のシステムの基盤になっているような所有の概念自体を覆すことに気づいてしまったときに、何か全て教育も働き方もガラッと変わってしまうのではないかという気がするのだけれども、どちらかというとそうではなくて、人間がつくってきた合理的なシステムは非常に不完全なもので長い間かけて精緻化するほどひずみが見えてきて、特に若い学生たちはそれに私らの世代よりもはるかに敏感で既に気づいていて、川井先生がなさっているようなことにも関心を持つようになっていると思います。

今日は〈外〉をテーマにお話ししましたけど、それはフォーマルの〈外〉のインフォーマルから発想しろという訳ではなく、フォーマル・インフォーマルという枠組みを取り払って考えてみましょうということです。建築だけでなくあらゆる教育において、人としての一般教養と専門的な教育があると思いますが、それの〈外〉の学びの場が必要なのではないかと。みんなそれを必要としているし、大学というフォーマルな教育の場では難しいが、何か別の学生との付き合いなどの中でそういった〈外〉の学びの場、専門教育や一般教養ではない〈外〉の学びの場をつくっていかないといけない。私はそれをコロナ禍で痛感するようになりました。

そういう気付きを得て私もゴンジロウ塾で〈外〉の学びの場をつくろうと思って試行錯誤をして、色んな大学の学生さんも参加し、必ずしも建築の学生だけでない。あるいは、人生の迷子さん的な人も参加するような教育の場をつくっているわけです。

じゃあ、そういう人たちがこれからどういう仕事に就いていくかということですが、仕事は仕事でこれまで人間が創ってきたシステムの中で「金銭と交換する」という意味での仕事が一つあると思います。その「金銭と交換する」とかしないとかを越えた、人間の本性として仕事をするという、つまり「仕事」=「生活」をどうしていくのかということが、問いになります。川井先生もおそらく琵琶湖の湖東地方でされているのはその問いを探ろうとしているということかと思います。それはロバーツの言葉を借りれば「On Work」すなわち「自分しごと」にもなるし、イリイチの「Tools of Conviviality」でもあると思います。そういうものを学ぶことが建築教育の中にあって、それを学生たちがある時気づくものになっているということなんじゃないか。生活の上で必要なものだし、実際の土地所有はあるルールの中で建築を造ったりしている中では「所有」は決められたものとしてあるけど、実際は、例えば植木は隣にも生えているし水も流れてくるということで、実際に排他的に所有というのは完全に虚構でしかないわけですよね。それが必要なものになって、そういうところを教育するのであり、彼らの新たな仕事の仕方として、「生活」と「仕事」をイコールで繋ぐような生き方に気づいていくことではないかと思います。それとは別に仕事はあってもいい。

具体的に言うと、去年1年間はコロナ禍でゴンジロウ塾を中心とした活動が多くて、途上国のインフォーマル地区には行けない状況だったので、私の場合は相対的には日本での活動が多くなりました。そういう中で実際に伝統工法の仕事をしたり裏山の木を切り出して何か建物を作ったりというのを学部4年の学生が学んで、その中から自ら大学院に進学するよりも大工の修行をしようと決めた人も現れました。そういうことが起こることもあるし、うちの研究室の場合では大手デベロッパーとか鉄道会社とかに就職する人とこのような活動をしていく人の2極化しているところがありますが、私はデベロッパーや都市開発系のところに就職していく人たちに結構期待しています。20年、30年後に何か起こるのではないかという期待を持って学生たちと付き合っています。

 

小野岡部先生ありがとうございました。川井さん何かありますか?

 

川井ありがとうございます。すごく心の奥のところまで読んでいただいて。まさに岡部先生がずっと考えて来られたこと、本当に人生の先輩として勇気づけられる言葉をいただいたなと思いました。僕自身、まさに自分がオンタイムでやっていると非常に盲目的になって「こうじゃないといけないのではないか」というように感じてしまうのですが、最後おっしゃっていた、デベロッパーとかに就職した子たちの20年、30年後に期待を持てるような感性、射程の深さのようなものを岡部先生から感じさせてもらいましたし、非常に勇気づけられました。良く色々なことを客観的にそして主観的に見られているなと思いました。ありがとうございました。

 

小野川井さんありがとうございます。私も岡部先生が本で書かれている、1週間を4日と3日に分けてみて金銭的なお金を稼ぐのとそうじゃない何か生活的な仕事をやっていくといいのではないか、というのがすごく印象に残っていてそれを思い出しました。一般教育と〈外〉での学びというところから、「フォーマル・インフォーマル」や「生活と仕事」の枠組みを取っ払って、そうやって分断されていたモノをもう少し繋げてその間に立つということかと理解しました。ありがとうございました。

 

岡部やはり人間は整理して物事を合理的に考えようとするところが得意なわけだから二分法で考えていくのはとても良いことなのですが、それじゃどうしても歪みが出てしまうのですよね。それを補完することを、無理にその中に作ろうとせずにその〈外〉に作ればいいのかなと。

 

小野でもそれは〈外〉と言いつつも中なのですよね?

 

岡部そうです、実は両方です。

 

小野その視点がおもしろいです。以上で前半の質疑応答を終わります。前半は若手研究者から先輩研究者への悩み相談の様な形になりましたが、後半は「インフォーマリティを問う意義」とはなにか、それぞれみなさんがどのような想いでフィールドに関わっているのかという題目から、願いとしては、先生方から学ぶ中で私たちがどのようにこの研究会や都市インフォマリティ研究をどこに向かって進めていけばいいのかを考えるきっかけを1つ掴みたいなと思っています。ここに集まっているメンバーが、フィールドから何を拾い上げてどこへ繋げようと模索しているのかをざっくばらんに意見交換できたらと思います。まず委員会メンバーの主査の阿部さんからどういう問題意識でこの研究に取り組まれているかをお願いします。

 

阿部(確認済)なぜ僕がこの研究をやっているかというと、建築学の講義や教科書では、スラムやインフォーマル・セトルメントがどうやって形成されるのかを説明する資料がなかったからです。このような既存の知識で説明できないものを自分なりに言語化できれば、それは建築学にとって新しい知識になるのではないかと考えたからです。

 またスラムでは、人間の生活が建築物にそのまま表現されているだろうと考えました。その表現は、住まい手によるセルフビルドや、増改築など、状況の変化に臨機応変に対応することでつくられていったのだと思います。他方で日本の家は、ファサードが整えられて、その中で暮らす人びとの生活が見えません。私がつくりたいのは、住まい手の生活とダイレクトにむすびつく建築です。そのための参考にしたいというという個人的な動機が、この研究を続けている理由です。

 

小野ありがとうございます。では次は宮地さんお願いします。宮地さんは農村研究をされていますよね。

 

宮地(確認済)私はこの委員会には太田先生から招待されて参加しました。インフォーマル市街地ではなく農村の研究をしているので、この委員会での自分の立ち位置をずっと模索してきました。私自身としては、インフォーマル市街地そのものというよりは、第5回で岩崎先生からご指摘があった「農村からインフォーマル市街地という課題が派生している」という点をこの5回の報告会とパネルディスカッションで深く考えてきました。特にフィールドの土地所有について深く考えたことがなかったので、土地所有はこんなにもいろいろな多元性があるのだと、この研究会を通して勉強させてもらっています。

5回を通してみて自分の立ち位置を振り返ると、根源的な課題というか人間の生活のあり方みたいなものを、農村研究を通して見えてくるものがあるという点で、研究の意義が段々と見えてきたかなと思います。ただ、それを整理していくことが難しいなと。布野先生に質問させて頂きましたが、相互比較となるとそれぞれバックグラウンドが違う中で、やはり自分の立ち位置を見つけていくのが難しいと感じ、今も勉強を続けているところです。

 

小野ありがとうございます。私もアフリカがメインのフィールドで、この研究会はアジアの事例が多くその中で議論していく中で、自分の立ち位置が見えてきたかなというところもあって、宮地さんもそういう農村の視点から見えてきたものが違うのかなと気になっていました。では、フィールド違いというところで、両川さんは南米からということで、いかがでしょうか。

 

両川僕がインフォーマリティを勉強し始めたきっかけは、南米のエクアドルに行ったことです。元々被災地の漁村みたいなところに行って、そういう意味では僕も都市スラムからは若干外れたところにいるわけです。行ってみてそこにいる人たちに圧倒されたというか、何でもできちゃう人たちがいるような感じがして、当時の自分にとってはすごいことだと思って。建てられる建築1つをとっても、すごく力強いものに見えるというか、それでのめりこんでいったというのが経緯になります。

 この研究会では、僕はラテンアメリカを扱っていて、アフリカや東南アジアとは違うような状況で、今コロナで行けていないので研究はあまり進んでいない状態なのですが、他の地域とは全然違うなと実感しています。自分の中ではまだそれが上手く言語化出来ていないのですが、そういったところをやっていければと思います。

 

小野ありがとうございます。たしか前、住めるか住めないかという話で、私と両川さんは住める派だったのですが、雨宮さんは住めない派でしたよね。

 

雨宮(確認済)僕がジャカルタに関わり始めたのがちょうど10年前で、岡部先生の研究グループの主催するワークショップにチューターとして参加しました。その時に住み始めていたら、こんな組分けはされなかったわけで(笑)、10年前に戻れたらどうするかな、と少し考えたりもします。

 今は自分の設計事務所を主宰していて、建築設計の仕事を生業としているのですが、その前に勤めていた設計事務所で某宗教団体の聖地を考える仕事を担当する機会がありました。30年後、あるいは100年後にも人々が豊かに集える聖地とはどういうものか、そこに向けて今何をデザインするか、という問題を考えていました。ただ、例えばそういう宗教の仕事をするときに、そこの宗教に入信しないと構想できないということはないし、むしろ外部の視点からの提案が求められます。そういう感覚に近いのかもしれないのですが、ジャカルタのカンポンに関わるとなった時も、30年後や100年後を見据えながら、現在に何か楔を打ちたい、というイメージがありました。もちろん、僕の個人的な素質として職人的にものづくりに没頭するタイプではないということもあるかと思います。

先ほど岡部先生が「外部者として住む」とおっしゃっており、腑に落ちたというか、「そういうことだよな」と思いました。僕は内部者か外部者かというところでインフォーマルかフォーマルかを見ているところがあります。阿部さんの論文の中にロイの理論を参考にして「全てがインフォーマル(インフォーマリティ)である」という図があったと思いますが、僕的には、逆に「全てフォーマルである」と言うこともまた可能ではないかと考えています。それは「人はどこの地域に行っても常に外部者である」というような視座です。そう見ることで、現地に行ったとき自分だけが外部者で、向こう側とこっち側という境界を設定せずに済むというか、そこに住む人たちも実はある枠組みにおいては外部者でもあると捉えることで、少し楽になるわけです。多分それは僕が最近自分の事務所を開放して、近隣の人たちとの付き合いを始めているという経験からでもあるのですが、コミュニティといっても結局みんな外部者であり究極的には孤独なのだと感じます。そう意味での「全てがフォーマルである」という捉え方もあるかと思うわけです。それはおそらくロイと同じことを裏側から言っているのだろうと、阿部さんの論文を拝読しながら感じていました。

 インフォーマル居住地をフィールドとして実践するモチベーションについては、私は建築設計をやっているので、ここで作った建築が批評的に世界でどう捉えられるのかという点は重要かと思います。その時に、「不完全さ」をつくるということ、つまり建築の完成のかなり手前で設計を止めるというやり方に可能性があるのではないかと考えていまして、それを1つのアウトプットの形として今後さらに追求していきたいと思います。

 

小野ありがとうございます。雨宮さんが〈外〉とは、どこかみたいなことを議論してくれました。先ほど穂坂先生からも「参加型」ということに対して、その言葉をどう捉えるかというお話がありましたが、白石さんがどういう視点や意義を感じながら研究をされているのかをお願いします。

 

白石(確認済)穂坂先生に質問させて頂いたように、立場や意義についてはずっと悩んでいます。私がフィリピンに関わり始めたきっかけは、卒業論文を書きましょう、では研究室がフィールドにしているフィリピンで調査しましょう、という流れ任せで特段に積極的とは言えないものでした。しかしその後現地の人々と関わっていくうちに、何か自分にできることはないかと考え始め、それが今日まで研究を続けている理由というか研究の出発点です。というのも、何か役に立ちたいのだけれども、現地でNGOの職員になる勇気も度量もないし、ではどうしようと考えた時に、研究も嫌いじゃないな、研究をして自分の食い扶ちはそこで稼いで、現地にJICAのお金をもってくるとか、現地で評価されていないような人を外国から評価したり、あるいは現地の人にとっては実践で忙しくて手の回らない調査や広範な情報収集などをやることが、私にできることなのかなと思ったからです。

 けれども、研究のフィールドにいると当然、研究の価値を考えざるを得なくなります。ネイティブのように英語で広範な知識や情報を集取できるわけではない、さらには日本独自の「建築計画」から見ている、といった中で、研究としての自分の活動をどう捉えるのか、自分が目指している実践としての価値と、論理武装しなければならない研究としての価値の間で悩んでいます。例えば、現地について、日本語での、日本での発表を行う際に、こちらとしては「日本もこの海外の例を参照すると良い」というような研究の価値付けを行っているつもりなのですが、なかなか理解してもらえない。揃いも揃って「なぜ地方都市でフィリピンの研究をやっているの?」と言われてしまいます。

そういった意味で、この研究会に期待することの一つは、みなさんそれぞれ勉強されていて、情報を持っている、ぜひそれを教えて欲しい、共有したいということです。もう一つは、みなさんがどのように自分の研究を捉えているのか、悩んでいるのか知りたいということです。そして何よりも、普段研究室にいるだけでは恐れ多くてアクセスしにくい先生方に、本や事例、国から飛び出て話しかけられる、とても貴重な場所だと感じています。

 

小野:ありがとうございました。「何でインフォーマル市街地の研究をしているの?」とよく言われますよね。それに対する答えは、定型文として用意はしていますがという。

太田さん、先ほどコミュニティ同士の学び合いが非常に大事で実際にその現場を目撃したってお話でしたけども、よろしくお願いいたします。

 

太田:委員会のモチベーションとしては大きく2つあるかなと思います。1つは、計画と実践とか、研究と設計とか、一旦概念として決められたことが揺らぐとか、動的になるような状態に期待している部分があります。分からないけど魅力的だなと思う部分があるといいますか。土地所有の多源性の話で、誰も土地所有に関しての唯一の正解を持っていない状態が起こるというか、フォーマル・インフォーマルと言うとすごく堅いのですが、誰も一義的な答えを持っていない状態が心地良い、良いなと思っている点があります。

もう一つのモチベーションとしては、コミュニティ同士が学ぶことが大事だというお話をさせて頂いて、穂坂先生からも補足いただきましたが、ただコミュニティ同士の学びは外部の研究者等の介入者なりの外側の繋がりを含めてじゃないとできないというのが、我々のある種の役割が明確になった気がします。一方で、CAPも政府のものになってしまって、コミュニティあるいは自分たちにとっていい政府のうちはできるが、そうじゃなくなると一気になくなってしまうということがあります。今まさにジャカルタのCAPも「アニスが州知事になっている間にやってしまえ」のようなことが起こっていて、また全然考え方が違う人がトップに立つとガラッと変わってしまう弱いモノでもあると思うので、そういう時にNGOや研究者など外側のつながりがある程度基盤としてあれば、政府がいくら変わってもそこはサポートでき、一緒に考えられる場を常に持っておけるというのが重要なんじゃないかと話を聞いて思いました。

 

小野:ありがとうございます。では竹村さんもフィリピンで研究と実践両方ともされているということでどうでしょうか。

 

竹村(確認済):私はフォーマルに何かを進めようとする癖があり、今の研究対象地へ入ったきかっけもインフォーマルなものに惹かれたからではありません。最初はインフォーマル居住地に建築家がいて小さな改善を通して大きなシステムを変革していくというプロジェクトをたくさん見る中で、自分もそういう活動をしてみたいという思いがあって留学をして、そのつながりでご縁があった先としてフィリピンの再定住地セントマーサエステートに入りました。ですので、穂坂先生から指摘があったインフォーマル居住地で参加型計画という倒錯した考え方にマルっと頭を染めた状態で行き始めたようなところがあります。そのため、すごくインフォーマルなモノに魅力を感じ、そこの原理を読み解こうという姿勢ではなかったので、特に第1回・第2回の発表は、私は発表者を「住める人たち」と呼んでいますが、その視点が新鮮で学びが多く、自分が対象地へのアンコンシャスバイアスを持って活動していることを強く自覚した回でした。

それでも、どうしてもフォーマルにフォーマルにと持って行ってしまう癖が自分にはあるので、そういった視点でもできることは何か、自分がやるとしたら何の意義があるかなと考えた時、私の指導教員はフォーマルな法制度やシステムを作っている人でそうした仕組みが働くものだとも理解しているので、そうじゃない人の視点や見方を取り入れつつ翻訳するようなことが自分にできたら、この研究会の中で役割はあるかもしれないなと、最後の討論を聞いて思いました。

 

小野:竹村さんありがとうございます。では川井さん、自らの生活実践の中から研究や実践されているようなところがありますが、よろしくお願いいたします。

 

川井:自分が取り組んでいるモチベーションと言うと、別の委員会・建築作品小委員会で主査をやっていて、6年くらい建築作品の批評をずっとやってきました。その中で若手の建築家の方と色んな議論させてもらってきましたが、日本に建築作品ってないなってつくづく思ったのですよね。というのは、ある制度の枠組みの中で作られた建築がいかにチープで、今それで積み上げられた建築家がいかにつまらなくなっているかを目の当たりにしたのですよね。その中で、僕自身が企画して、チャウドックというベトナムとカンボジアの国境にある西澤俊里さんの作品と、岩崎駿介さんの作品である落日荘を取り上げようと思っています。既成の枠組みを超えたところで起きているモノや現象を捉えないと建築批評ってできないのだなとこの委員会を通して痛感しました。自分自身も、研究者なのかどうかがずっと悩みだったのですが、この委員会で自分の考えを整理するなかで批評的にアプローチするというのは、自らが主体的になりながら他社性を帯びるというか、そういうところに身を置かないと建築作品も作れないし作品による批評性は生まれないのだとすごく改めて実感した次第です。

 その意味で、「インフォーマリティ」とは魅力的なテーマというか、あらゆるものにくさびを打つような価値観を提示できるのではないかとずっと期待しながら取り組んできました。

 

小野:川井さんありがとうございます。それでは、この討論の締めとしまして3名のコメンテーターの方に最後コメントを頂きたいと思います。以上のように、この委員会のメンバーは悩みながら「都市インフォーマリティ」に向かい合って自分の生き方や研究者としてのあり方を考えています。先生方から見てインフォーマリティを問う意義や私たちが今どこに立っていてどこに向かおうとしているように見えるのか、布野先生の論文に「スラバヤで研究を始めて40年」と書かれていましたが、その40年前から私たちは何か新しい地平を切り拓けているのかも含めてコメント頂けたら幸いです。

 

布野:今日、穂坂先生の方から70年代の話があって、ついつい思い出話を色々としたくなります。例えば、フィリピンのど真ん中の不法占拠地に行ったときに、周りがものすごく汚いのに家の中はすごく綺麗なんですよ。自分の空間ですから当然ですけどね。「なんで外も綺麗にしないのか」と聞くと、「綺麗にすると地上げ屋がやってくる」というんです。そういう原理は、ちょっとだけ見学しただければわからない。現地で学ぶことがものすごくあったとか、ついつい思い出して聞いていました。

建築学会的な歴史回顧で言いますと、「住居集落研究の今後と課題異文化の理解をめぐって-」という、若手特別研究ではなく協議会をやったことを思い出します。海外居住とか海外の都市についての研究が始まったのは70年代ですが、国際居住年IYSHInternational Year of Shelter for Homeless)の1987年頃に議論しています。その時の議論を2年連続で2冊の冊子にまとめましたが、それ見ると、「とりあえず海外行ってみました」、それで情報共有をして議論をしましたというところです。この段階では「異文化理解」という段階でした。だけど、皆さんのレベルはかなり進んでいる。学会としては、もう少しメンバーが拡大できるのではないかと思います。

僕個人としては、このグループに我が遺伝子を見いだして、すごく幸せな気分です。多分30年後に皆さんのお弟子さんたちが活躍するでしょう。それに期待します。僕らが海外へ歩きだした時には、経済侵略の次に文化侵略をするのかとか、研究で論文書くためだけに収奪しに来たとか批判があって、そのための議論を相当やらされました。その議論がある種の作法と言いますか、国境超えた場合の仕事の原理みたいになっています。みなさんには、ほとんど共有されていると思います。両川さんと川井さんの、個人でも国境を突破してやるということを僕は大事にしたいとも思います。穂坂先生がおっしゃたように、それはシステムにならないので、竹村さん辺りと協力してフォーマルな動きに繋げるか、とかいろいろやりようがある。私自身はそう言った経験をたくさんしてきています。

スラバヤ・エコハウスという実験プロジェクトをやりましたが、その時にはは色んな関係性の中での様々なネゴシエーションが必要になってきました。要するにジャパニーズ・スタンダードで建築の質を担保しないといけない、しかし、現場の基準でやれば倍の面積のものができる、ということがあった。具体的な実践にはいろんなことが起きます。皆さんのお弟子さんたちも含めて国際的に活躍するような牽引者になってほしいと思います。

 

小野:ありがとうございます。それでは穂坂先生、足りないところなどがありましたら補足をお願いいたします。

 

穂坂:さっき参加型計画というコンセプトそのものが倒錯しているのではないかと言いましたが、インフォーマル居住地もそうです。本来、人はみな必要に応じて服を繕ったり料理をしたり家族で住まいを作ったりとしていたのが、ある時からインフラは行政がつくる、住居は市場でお金を出して買うというような制度化が進んだために、その制度に乗らない人・乗れない人を「インフォーマル・セクター」だと一旦決めつけた上で、じゃあインフォーマル・セクターを何とか制度化に乗せてあげないといけない、フォーマライズしてあげないということで、土地のタイトリングをやるとか、市場で住宅を購入できるように様々な住宅の融資のシステムを作るなど、こういうところが倒錯していると思うわけです。

 とは言え、今問題なのは、それをどういう風に乗り越えていくか。僕の理解では、皆さんが一番テーマとして狙っているのはこれまで建築計画の中で自分たちが教えられてこなかったインフォーマル居住地の中にある原理・作法をなんとか見出していきたい、ということだと思うのですよね。僕は、それはプロセスだと思います。プロセスとしてのハウジング、プロセスとしてのデベロップメント。

例えば、岩崎駿介さんが番外編で落日荘のお話をされて、それの関連でインフォーマル・セトルメントのことを言ったときに、「そこの魅力はプログラム化されていない空間がそこにある」と。それは空間のこと、空間の「質」であると同時に、その空間がどのように出来上がっていくかのプロセスを指しているわけです。落日荘でそれがどうなっているのか非常に気になるところだったので聞いたときに、彼はどういう図面を引いたという話ではなくて、「何か問題を解決すると、その先で次の問題が見えてくるからそれに取り組むという形で展開してきた」というビルディングプロセスを話されていました。それが僕は非常に印象的でした。

プロセスというのはラーニング・プロセスであってプロセスの反対はブループリントですよね。非ブループリントであるという意味での、プロセスとしてのデベロップメントは1980年代から言われてきた。多分、一番最初にそういうことをしてきたのは、人類学者のマーガレット・ミードだと思います。これはミードそのものの本には出てきていなくて、夫の本に妻がそう言ったと出てくるのですが。それは、1940年代の初めです。その頃、彼女は世界に広がるファシズムを前にしてファシズムに対する人類学の役割を考えていたと思います。それが何かというと、ファシズムの中にあるのは目的に向かって手段を体系化しようとする慣例主義。それから目的達成のために人々を動員する、人に対する操作主義。これを批判して人類学的に考えると、ブループリントで書かれたターゲットに照らして人の行動を価値づけるのではなくて、個々人の行動そのものの中に一人一人のある種の方向性を見出していくという、ファシズムに抵抗する民主的な社会の在り様というのはそこにあるのだと言ったらしい。それが、僕がインフォーマル・セトルメントに見出したいと思っている一つのことですね。

もう一つは、太田さんの質問の「中間的な領域」の話は、まさに今海外でのインフォーマル・コミュニティの中で見たと思っていることと日本の地域福祉の現場で結びつけられると思っていることの一つと同じです。インフォーマルと言いますか地域社会と行政市場、つまり制度とある種の中間的な社会空間が必要だと。つまり、「後は自己責任で」とバラバラに放り出すのではなくて、もう一回そこで人間関係を作り直すような中間的領域が必要だという。それは僕がスリランカの女性銀行の中で見たことであり、日本の地域福祉の中で同じことなんじゃないかと見ていることです。

一つだけ、皆さんにこういう方向を目指されたらいいのではないかと思うのは、一過性の調査ではなく継続的にやっていったらいいのではないかと。第3回の時に横山さんもおっしゃったと思います。僕もそれは重要なことだと思います。そうやって継続してやっていくことで相手と友人になる。研究者に限らずコミュニティの人と友人になるという人間的な関係が生まれていく。これはロールモデルがまさに、布野さんが203040年、そうやってシラスさんやスラバヤの人たちと友人関係を結んでいってそこで発言して、友人として向こうも布野さんの言うことを受け止めてくれるという関係です。

 

布野:「これしゃべってくれ」と言われて、『スラバヤポスト』に何回か記事が掲載されたことがあります。外国の人に喋ってもらうというのは、日本でもありますよね。そういうこともやってきました。

 

穂坂:だから友人になると色んな新しい役割が人間的に生まれてくると思います。僕もスリランカに行くと、コミュニティ組織の中で調停をすることがあって、それって中の人間はなかなかできないことですよね。外の人間だから上手く調停しようと思えばできるようなこともある。是非この素晴らしい研究を継続的に担って頂きたいと思います。

 

小野:穂坂先生ありがとうございます。それでは最後、岡部先生よろしくお願いいたします。

 

岡部:私自身何が原点かと言うと、私は1970年代にメキシコで育っています。現地の公立小学校に行って、そこの公立小学校は裕福な人が行くところではなかったので、4年生くらいになったら仕事で辞めていってしまう友達が多いという学校に通っていました。その時に、ただ友達として付き合っていた人の存在は、私にとってはインフォーマル地区に入る時や、あるいは過疎地域に行く時には他の人とは違った距離感をもって入れるようになっているのだなと。子供のころは、何でこういう風になっていたのかと嫌っていたのですが、今はそういうに思っています。

 「インフォーマリティの意義」とは何かということですけども、農村研究との繋がりで言えば、私は都市と農村は何が違うのかというのは、倉沢進先生の定義が非常にピンと来ています。何か問題が発生したときに、自分で解決する、あるいは、仲間やコミュニティで解決しようとするのは農村で、そうではなく専門家に頼もうというのが都市だと定義しています。そういう意味で、農村からインフォーマル地区を形成している人が集まって住んでいるという直接的なこともあるけれども、やはり都市の中において問題が起きたら専門家頼みにせずに自分たちで解決しようというところだと思います。それは、今何でも精緻な仕組みの中で私たちは快適な生活ができている訳だけども、いざ何かが破綻したとすると自分では何もできないというのが、今の社会の最も大きな不安だと思っています。それが、インフォーマル地区に関心を持っているということや魅力があるというのは、そこにあるのだと思います。私たちが持っている不安を解消してくれる何かがある場所なのではないかと思います。

 今日のお話をずっと聞いていて1つ考え続けたのは、「正しさとは何だろう」ということです。それぞれ皆、劣悪な環境と言われる所でも、自分の生活や環境をより悪くしようと思っている人は誰もいなくて、皆より良い生活を求めて必死に生きているのに結果的にあるエリアを劣悪な環境に貶めていってしまっている。適正技術と言った場合も、「正しさ」には色々な「正しさ」があるのは分かるが、果たしてそれぞれのコミュニティに最適な技術があるのかと言うとそれも違うような気もする。穂坂先生がおっしゃたようにプロセスであって、人は皆より正しいモノ、より良いモノを求めていくわけだが、その「正しさ」は不確実なもので、だからと言って「正しさ」には意味がないのか?私は正義や適性という言葉にアレルギーがありますが、人間が「正しさ」を求めていくプロセスは非常に貴重なものだと思います。

学内などで「インフォーマルを研究してどうするのか。こんなに複雑で面倒なものを研究してどうするの。」と言われたときに、私は胸を張って答えたら良いと思っています。マクファーレンが言う様に、フォーマルかインフォーマルかは実践の一形態でしかなくて、全ての人が食べるものを選ぶ際も、別に法律で決まっているからその通りに食べるものを選択しているのではなく、好きなものを食べるという意味で、私たちはすごくインフォーマルな選択をしているわけで、インフォーマルな余地が無くなってしまうと窒息してしまう。都市もそうである。成さんがおっしゃいましたが、おそらくそこの地区に行ってその地区が再開発されてテーマパーク化されてしまうと、せっかくそこで都市が息をできていた、ふと一息つける場所が失われてしまうのではないかという不安を持っているのではないかと思います。ですから、「インフォーマルが無くなったら、生きていけないのではないか」と声を大にして言ってみたらどうでしょうか。

 

小野:ありがとうございます。私からは「この活動をぜひ仲間を増やしながら継続して行ってください」という応援の言葉と、「胸を張ってインフォーマリティ研究をするのだと言いましょう」という言葉を借りて締め、川井さんの総括に譲りたいと思います。川井さんよろしくお願いいたします。

 

川井:布野先生、穂坂先生、岡部先生のお話を頂いた中で共通していたなと思ったのは、フォーマルとインフォーマルの間のゆらぎに対して何かしようと、みんなすごく意識的にやっているのだろうと感じました。

例えば岡部先生の、「〈外〉にいる」=「より良く生きることを諦めない」という、相反するような存在をイコールで結んだということ。まさに〈外〉にいるけど内側にいるという、我々が二つの間を媒介する存在として研究なり実践をトライしようとしているのではないかと。すなわち我々は、異文化とかそういうことではなくてインフォーマリティに対する、それを伝えたいという意思や想い・面白さや興味関心を媒介して他者に伝えたい、自分たちが学びたいという研究者や実践者の集いであると改めて再認識した次第です。

我々が非常に渇望している、「人間的な交流」すなわち継続の中にあるプロセスということに対して、非常に敬意を持って活動しようとしているのではないかと。その継続性やプロセスに対して我々が引き続きトライをしていくことが大事だと思いました。

そして最後に岡部先生が言っていたことで、これは委員全員が思っていることだと思いますが、「インフォマリティが無ければ死んでしまう」と。基本的にはここのメンバーは1回だけしか直接お会いできていなんですが、何かフォーマルに対して抗おうというチャレンジ精神とバイタリティーと空気感というか、面白さを共有しているメンバーだなと会を重ねるごとに実感しているところです。すなわち、「インフォマリティがないと我々は死んでしまうのではないか」というのを根底に思っているのだろうなと今日実感した次第です。

 

2022年3月27日日曜日

『図書新聞』読書アンケート 2021上半期 下半期

 『図書新聞』読書アンケート 2021上半期 下半期 


2021年上半期

布野修司

 

❶山本義隆『リニア中央新幹線をめぐって 原発事故とコロナ・パンデミックから見直す』みすず書房20214

❷神田順『小さな声からはじまる建築思想』現代書館20212

❸松村淳『建築家として生きる 職業としての建築家の社会学』晃洋書房20213

❹辻泰岳『鈍色の戦後 芸術運動と展示空間の歴史』水声社20212

❺日埜直彦『日本近現代建築の歴史』講談社選書メチエ20213

❶は、「フクシマ」後、「コロナ・パンデミック」後の日本の採るべき指針を明快に指し示す緻密な論考。ローカル線が潰れていくなかでリニア中央新幹線の建設に突き進むのは日本の破滅への道である。❷は、「建築基本法」制定運動を粘り強く展開する建築構造家の自らの歩みを振り返る建築論。阪神淡路大震災、耐震偽装問題、東日本大震災を鋭く問う。❸は、文化欄では「建築家」しかしその他の欄では建築業者に過ぎない、そうした建築家「界」の重層的差別の構造を鋭く抉る。ありうべき建築家について考える必読書。❹は、展覧会を軸に戦後建築を問う。フランク・ロイド・ライトの帝国ホテルの工事管理で来日して以来、日本の近代建築の歩みに大きな影響を与えたとされるアントニン・レイモンドの占領期の仕事(戦時中は焼夷弾の延焼実験のために木造住宅地を設計(1942)、戦後は政商として動いた)が冒頭論じられる。❺は、日本の近代建築の歴史を、明治維新に遡って、「戦後」を含んだかたちで叙述するはじめての通史の試み。これまで書かれた日本の近代建築史は、何故か敗戦までの歴史であった。『戦後建築論ノート』(1981)を書いた評者としては、我が意を得たりである。

個人的な収穫としては、❻布野修司『スラバヤーコスモスとしてのカンポン』京都大学出版会20212月を上梓した。『カンポンの世界』(1991)以降のアジア都市組織研究の集大成である。起承転結の学術書のスタイルを超える?重層的な構成を試み、QRコードでカンポンの生活風景を映した動画も組み込んだ。(建築批評)



 

2021年下半期

布野修司

 

❶高島直之『イメージかモノか―日本現代美術のアポリア』武蔵野美術大学出版局202111

❷小野田泰明・佃悠・鈴木さち『復興を実装する 東日本大震災からの建築・地域再生』鹿島出版界20217

JCAABE日本建築まちづくり適正支援機構『建築系のためのまちづくり入門 ファシリテーション・不動産の知識とノウハウ』学芸出版社20219

❹松村秀一『建築の明日へ 生活者の希望を耕す』平凡社新書20217

❶は、『芸術の不可能性 滝口修造 中井正一 岡本太郎 針生一郎 中平卓馬』(2017)に続く日本現代美術論。前著同様、芸術の成立根拠を執拗に問う。イメージ(観念)かモノ(物質)か、本書のテーマはタイトルに端的に示されるが、日本美術の1970年前後、「もの派」そして「アンチ・フォーム」と呼ばれる系譜、反芸術、芸術解体、無芸術の系譜を追っている。❷は、東日本大震災以後、仙台を拠点に東北各地の復旧復興活動に建築都市計画の分野から最も深くかかわったグループによるその記録であり、総括であり、それに基づく地域再生論である。大震災によって東北地方は一気に2050年段階の人口に減少したとされる。少子高齢化の行き着く日本の地域社会の抱える問題が抉り出される。「復興を実装する」というタイトルは? ❸は、あえて「建築系のための」をうたって、日本各地のまちづくりの経験を伝えようとするマニュアルである。連ヨウスケによるマンガ「まちファシ物語」も巻末にある。ファシとはファシリテーターのことである。❷❸は一方で建築の明日は必ずしも明るくはない実態を説いている。❹は、「希望を耕す」という。「箱の産業より場の産業へ」「ひらかれる建築」など建築界の未来をめぐって発言を続けてきた著者の総まとめの感がある。(建築批評)

 

2021年11月6日土曜日

ポストメモリーとしての「大東亜共栄圏」―隣組と町内会、都市美、第2号、20210930

 『都市美』第2号 河出書房新社 2021年9月30日 


ポストメモリーとしての「大東亜共栄圏」―隣組と町内会

布野修司

https://funoshujislab.blogspot.com/2021/10/blog-post.html

はじめに

 『記憶と沈黙』(谷尾晶子(2003))の「訳者まえがき」に「その鮮烈な問題意識と実にロジカルな論の組み立てに感銘を受けた。とりわけポストメモリーという概念に大きな衝撃を受けた。」と書いた。そして,「ポストメモリー論として深めるべきは「第二次世界大戦」の「記憶と沈黙」である。訳者としても,ヒロシマ・ナガサキとフクシマ,大東亜共栄圏と地域コミュニティなど,建築などをめぐって本格的に考えてみようと思う。」とつい筆が滑った。この一行を見逃さなかった編集部から,『記憶と沈黙』をどう読んだのか,ポストメモリーと美術に関する論考への応答」を書くようにとの依頼である。正直,困った。「そのうちに,時間をかけて」という程度の決意だったからである。

 しかし,何らかの応答は必要だと思う。歴史、記憶,ポストメモリー,そして沈黙という概念をもとに、日本の近い過去がいかに抑圧され,沈黙させられてきたかを問い,「第二次世界大戦」をテーマとするアーティストの作品(実践)の意味を明らかにする『記憶と沈黙』の議論は,今日の名古屋トリエンナーレの「表現の不自由展」をめぐる議論にそのまま接続している。『記憶と沈黙』は,国家権力による「歴史」の隠蔽,「記憶」の抑圧とコントロール,「沈黙」化を鋭く指摘するが,それは「慰安婦問題」「徴用工問題」などまさに現在起こっていることである。とりわけ,安倍政権誕生以降,意識的戦略的な、「歴史」の操作(歴史修正主義),「記憶」の抹殺,「暗黙の強制」(忖度),水面下の「検閲」は、ますますエスカレートしつつあるのである。

 日本国家が隠蔽し,抑圧し,コントロールしようとするのは「15年戦争期」の「歴史」とその「記憶」である。その「手法」は,情報伝達技術の発達によるメディア環境の変化によって,より巧妙に,より複雑に不可視化されているけれど,「15年戦争期」の暴力的で露骨な「手法」と基本的には同じである。権力(「特高」(1928))による言論弾圧、検閲、過酷な尋問、そしてその監視網を支えたのは、身近なコミュニティにおける密告、相互監視のシステムである。ここでは,その総力戦体制=大政翼賛体制を支えた「町内会」と「隣組」の「歴史」と「記憶」について考えてみたい。『記憶と沈黙』の「自己と他人が融合なく共存する 母体としてのポストメモリー」という規定と『都市美』創刊第1号の特集「コミュニティ権―国家権力に対抗する権力」に触発されてのことである。

 

 1 「第二次世界大戦」の記憶―ポストメモリーとメタメモリー

 戦後生まれの筆者もまた「第二次世界大戦」を知らない。父母や祖父母の体験を通じて断片的な情報を知るに過ぎない。ただ,1979年以降,東南アジア各地を歩いてきて,しばしば,「第二次世界大戦」の「記憶」に出会ってきた。ジャワの山中でインタビュー中の農夫が「ラジオ体操」を演じて見せてくれたり,ベチャ(輪タク,リキシャー)の運転手が突然「海ゆかば」[i]を歌い出したり,日本人だというと「勤労奉仕」とか「憲兵隊」という漢字を書いてみせられたりした経験がある。「歴史」の「記憶」を突きつけられれば,当然,「歴史」について学ぶ。つい最近も,台風ヨランダで大きな被害を受けたレイテ島に復興支援に出掛けた際に(2015),再上陸するマッカーサー司令官たちの銅像(図A)を見て,否応なく「第二次世界大戦」の最終局面を思った。そして,大岡昇平の『レイテ戦記』(1971)を読んだ。「ポストメモリー」とは,さまざまな媒体を通して「追体験」することで,その記憶を自らのものとして獲得し,内面化してゆくことによって生成する記憶である(谷尾晶子『記憶と沈黙』)。

 図A レイテ島タクロバンの海岸に設置されたマッカーサー再上陸の銅像。筆者撮影 

 ヤマトホテル

 この40年間、筆者が臨地調査のフィールドにしてきたのは,スラバヤ(東ジャワ)の「カンポンkampung(都市村落)」(後述)である。ジャワ占領の口火をきったのは,スラバヤ沖海戦(1945226日)である。スラバヤを第48師団が攻略したのは,日本軍がジャワ全島を制圧する前日(38日)である。スラバヤには第16軍第14独立守備隊(4個独立守備大隊)が配備された。街のここそこに日本の「記憶」が埋め込まれている。

 クンバン・ジュプンKembang Jepunという名のジャラン(通り)がある。「日本の花」という意味である。かつて,歓楽街として,居酒屋,料理屋が建ち並び,床屋,行商人,街娼が溢れた通りである[ii]日本占領期には,日本領事館と三井物産,三菱商事,東洋綿花など主要な日本企業のオフィスが並んでいた。繁華街のトゥンジュンガン通り(図B)には、千代田百貨店[iii]、三星商店,トミ時計店などがあった。オラニエホテル[iv]はヤマトホテルとなり、向かいの電力会社ビルには海軍本部が置かれた。ヤマトホテルはインドネシア独立の発火点となる「国旗掲揚事件」が起こったのがヤマトホテルである。マジャパヒトホテルと名を変えたそのホテルのロビーには、オランダ国旗(三色旗)の青の部分を引きちぎってインドネシアの紅白旗としたその時の情景を描いた大きな油絵と写真が今も掲げられている(図C①②)。1945917日のその事件はインドネシアで広く記憶されている。

B 1930年代のトゥンジュンガン通り :Diessen, J.R. van (2004) , “Soerabaja 1900 - 1950. Havens, marine, stadsbeeld / Port, Navy, Townscape”, Asia Maio


C ヤマトホテルの「国旗掲揚事件」を描いた絵と写真 :筆者撮影 

 クロノポリティックス

 戦争の記憶は,占領した国と占領された国,戦勝国と敗戦国では異なる。アメリカにとって「第二次世界大戦」は,「パール・ハーバー」に始まり「ヒロシマ・ナガサキ」に終わる「悪に対する正義」の戦いである。「第二次世界大戦」はナチスのポーランド侵攻(193991日)に始まるが,それぞれ開戦日と名称は異なる。ソ連ではナチス侵攻(1941622日)を開戦日として「大祖国戦争」と呼ぶが,フィンランドでは「継続戦争」と呼ぶ。日本では,1931年の満州事変以降を「一五年戦争」期とし,1937年以降を「日中戦争」,真珠湾攻撃以降を「大東亜戦争」あるいは「太平洋戦争」とするが,中国は「抗日戦争」(2015年以降「世界反ファシズム戦争」)である。

 キャロル・グラック[v]2019)は,「第二次世界大戦」は,「戦争のヘプタゴン(七角形)」という複雑な「グローバルな幾何学」によって争われたという。「ヘプタゴン」とは,独,米,英,ソ連,中国,日本,そして東南アジアの欧米植民地諸国である。それぞれの国は、それぞれのストーリーによって「共通の記憶」すなわちネイション(国家,国民)の物語を形成してきた。キャロル・グラックが,「戦争の記憶」が作られる4つの領域として挙げるのは,①オフィシャルな領域(国立博物館,教科書),②ポピュラーな領域(写真/映画/テレビ/IT,大衆文化,記憶の活動家Memory Activist),③個人の記憶,④メタメモリー(記憶についての論争,クロノポリティクス)である。そして、「戦争の記憶」、そのネイションの物語は変化しうる、という。日本における歴史修正主義者による「自虐史観」批判がその例である。日本では,「国民は指導者のせいで被害者になった,国民は悲劇的な戦争に巻き込まれたのであって責任はない」というのが一つのストーリーである。しかし,そこには,戦争に反対したひともいたという話も,国のために戦って死んだ兵士の話も抜け落ちている、一国の中でさえ「一つのストーリー」はあり得ないと、キャロル・グラックはいう。ネイションの物語は,国内で問題となるだけでなく,国家間ではさらに大きな問題となる。「歴史認識」の違いは論争を生み、しばしば政治問題化する。ますます混迷を深める今日の日韓問題がそれを示している。ホロコースト・アウシュビッツ,ヒロシマ・ナガサキは,人類史を左右する,世界共通のトランス・ナショナルな記憶である。しかし,勝者と敗者の物語(「白黒物語」(キャロル・グラック))は揺らぐことはない。アメリカのいいなりの戦後日本がそれを示している(白井聡(2013,2018))。

 「グローバルな幾何学」によって引き起こされた戦争の記憶をめぐるクロノポリティックス,ナショナリズムが衝突するメタメモリーの場所では決着することはない。

 

 マトリックス

 ポストメモリーという記憶の場所は,筆者の理解では、キャロル・グラックが記憶の領域としてあげる①~④によって形成されるナショナルな記憶の上層、すなわちメタメモリー(クロノポリティックス)のレヴェルではなく,その深層すなわちナショナリズムに回収されないレヴェルに設定される。『記憶と沈黙』は,ポストメモリーとともに「マトリックス(母体)」(ブラチャ・リヒテンベルク・エッティンゲル)という概念に注目している。「マトリックス」とは,「自己と他者が融合せずに共存する象徴的な空間」である。そこで「共に出現する「私」と未知の「私」の間の出会いが起こる」場所であり、「それぞれが他人を同化も拒絶もせず,彼らのエネルギーは融合でも反発でもなく,連帯あるいは近接の範囲内での距離の継続的な再調整」を行う場である。ポストメモリーという記憶の場所は、「マトリックス」であることにおいて「世界共通の記憶の場所」となりうるのである。

 

 2 大東亜共栄圏と隣組

 「大東亜共栄圏」という用語が初めて公表されるのは,松岡洋右(18801946)外務大臣の談話である(1940年の81日)。一般に流布していたのは「東亜新秩序」という言葉である。松岡が「大東亜共栄圏」構想を打ち上げた裏には,日独伊三国同盟締結(同年927日)に先だって,ドイツ勝利を想定した戦後の講和会議において,ドイツによる植民地再編の対象から東南アジア地域を除外させるねらいがあったとされる(河西晃佑(2012,2016))。「大東亜共栄圏」は、当初、何の実体もない「想像の共同体」(B.アンダーソン)にすぎなかった。

 

 「八紘一宇」「亜細亜解放」

 「大東亜共栄圏」とは,中核に東亜共栄圏(「日満支」)を置き,それを東南アジアの英仏蘭の植民地(泰を除く)へ拡大結合するというものである(「帝国外交方針要綱」(同年928日)[vi]。注目すべきは仏印,蘭印の独立が想定されていたことである。もちろん,松岡洋右のいう南方独立は,「「手段としての独立」(独立を支援した後保護国として組み込む)であって,欧米の植民地支配からの「解放」を目的としたわけではない。しかし、「大東亜共栄圏」は,以降,公式の用語として,政策文書などに頻繁に用いられる。そして,「八紘一宇」「亜細亜解放」といったスローガンとともに,新聞や総合雑誌などのメディアで盛んに取り上げられることになる。

 空疎(不明)で根拠を持たない構想のみの「大東亜共栄圏」は,総力戦体制(国家総動員法(1939年))=大政翼賛体制(大政翼賛会(1940年))によって遂行された「大東亜戦争」の過程で「日本占領」という過酷な実体が付与されていくことになった。

 

 相互監視システムとしての隣組

 「大東亜共栄圏」という「想像の共同体」を実現するための「大東亜戦争」の総力戦体制=大政翼賛体制を支える社会の基礎単位として整備されたのが,町内会,部落会,そして隣組である。町内会,部落会が日本各地で整備され始めるのは日中戦争開戦(1937)頃からであるが,公的な隣保制度として位置づけられるのは,19409月の内務大臣訓令第17号「部落会町内会等整備ニ関スル」によってである。住民を基礎とする地域的組織として,また市町村の補助的下部組織として,市街地には町内会,村落には部落会を組織する,また,従属組織として10戸前後を単位として隣保班(隣組)を置くというものである。1943年には,法改正が行われ,市区町村長は,町内会,部落会及びその連合会の長に事務の一部を援助させることができるとされ,市区町村の従属組織となる。この訓令第17号は「隣組強化法」ともいわれるが,隣組を単位として,住民動員,物資の供出,統制物の配給,防空活動などを行わせる一方,思想統制や相互監視を行うものであった。

 

 五人組制度

 戦後,連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって、この隣組制度は、総力戦体制,体制翼賛体制を支えた「支配と強制」の装置となったという理由で禁止される(ポツダム政令第15号、1947年)。その際にGHQがまとめた『日本における隣保制度―隣組の予備的研究』[vii]1948)の分析は実に興味深い。日本の社会が血縁的な紐帯から徐々に解放され,非血縁的で地縁的な集団,すなわち隣保組織が発展してくるが,そのプロトタイプとなるのは「結」と「講」である。大宝律令・養老律令の規定する五人組制度は,1.相互扶助機能,2.連帯責任機能,3.秩序維持(命令伝達)の3つを機能とした。五人組制度は,平安時代半ばには消滅するが,室町時代末期から江戸時代初期にかけて幕藩体制を維持する制度として復活し,全国津々浦々に浸透していく。幕藩体制の五人組は,日常生活のほとんど全ての領域を覆い,1.公序良俗の維持,2.宗教の統制,3.年貢納入の保証,4.勤勉貯蓄の奨励,5.相互扶助,6.道徳教育の機能をもった。 明治維新によって,この隣保組織は,戸籍制度の法制化(1872),市制・町村制の施行(1888)などによって解体されるが,日露戦争(190405)頃から五人組復活の動きが現れ,昭和恐慌後の農村経済攻勢運動,そして日中戦争勃発とともに,戦時体制に組み込まれることになるのである(吉原直樹(2000))。

 共同体をめぐっては,『都市美』創刊第1号の特集が示すように多くの議論が積み重ねられてきている。確認すべきは,基本的に,共同体が内部構成員の保護(相互扶助機能)と内部構成員の統制(支配強制機能)の二重の機能をもっていることである。

 

 3 「大東亜建設記念造営計画」とKIP

 

  大東亜建築様式と建築新体制

第二次世界大戦と建築」,15年戦争期における建築と建築家については,同時代建築研究会編(1981)『一九三〇年代の建築と文化』(現代企画室)や「運動としての建築―昭和建築についての覚書」(『建築文化』197511月号)「国家とポスト・モダニズム」(『建築文化』19844月号)(『布野修司建築論集Ⅲ 国家・様式・テクノロジー―建築の昭和―』(彰国社,1998)所収)といった論考で,「戦前戦後の連続非連続」の問題を中心にそれなりに考えてきた。詳細はそれらに譲るが、一般的に議論されてきたのは,日本ファシズム様式としての「帝冠(併合)様式」(下田菊太郎)あるいは「大東亜建築様式」の問題であり,象徴的に問題とされてきたのは,丹下健三の「大東亜建設記念造営計画」(1942)(図D)である[viii]

D 丹下健三の「大東亜建設記念造営計画」(1942):『建築雑誌』194212月号

 「大東亜共栄圏」構想が,紙の上の構想のままであったとすれば,「大東亜建築様式」をめぐる議論も「空疎」なままで終わったかもしれない。しかし,実際に「大東亜共栄圏」の「建設」という名の下に「大東亜戦争」という「破壊」が行われたのであった。「建築新体制促進同志会」が結成されたのは19409月である。建築界も全体として翼賛体制に巻き込まれた。従軍した建築家,技師も数知れないし,文化工作のために「南方徴用」された建築家たちもいる。しかし,作家・文化人たちの夥しい「回想」に比すると,建築家たちの行動はほとんど明らかにされていない。

 

 カンポンの海

 東南アジアの欧米植民地では,その後の独立戦争,さらには冷戦構造下におけるヴェトナム戦争など混乱が続いた。スラバヤは,シンガポール,マニラとともに徹底的な破壊を受けた数少ない東南アジアの都市である。インドネシアでは,日本の敗戦から独立戦争,さらに930事件(1965)へ,混乱が続いた。加えて,爆発的な人口増加があり,ジャカルタ,スラバヤといった大都市は,農村から大量に流入してくる人々が形成するカンポン(都市村落)で埋め尽くされることになった。1930年代の都市基盤のままであり,上下水道や電気の供給もないカンポンの居住環境は劣悪そのままに放置されてきた。そうした中で,カンポンの住民たちは,自主的に自分たちの居住環境を改善する試みを始める。そして,それを自治体が支援する動きが開始される。カンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)と呼ばれる。

 このKIPは,基本的には,自治体は,上下水道を整備し,歩道を舗装し,公共トイレを設置するなど最小限の住環境整備をするだけで,住宅の建設は居住者に委せ,清掃,ゴミの収集,緑化,維持管理はカンポンの自主的な相互扶助活動に委ねるというものである。この自治体ベースで開始されたKIPは,公的な住宅供給が効果をあげないなかで,都市貧困層の生活要求に対する最も成功したアプローチの例として評価され,世銀や国連などの関心を集め,国家的政策にひきあげられていく。

 

 不法占拠地域

 イスラーム圏のすぐれた建築を表彰する第1回アガ・カーンAga Khan賞(1980)を受賞したのがこのKIPである。『カンポンの世界』(布野修司(1991))の冒頭に書いたけれど,この選定にはひとりの日本の高名な建築家が審査員として加わっていた。KIPは,結果的には全員一致で選ばれるのだけれど,その建築家はひとりだけ反対したのだと,いくつかの場所でその時のことを繰り返し述べている。

 「スクオッターというのは,不法占拠地域という意味です。難民とか,職がなくて都会に出てきた人が,その土地が誰に属していようとおかまいなく集団で丘やら原っぱを占拠し,そこに勝手に家を建てることによってできた村や町をいいます。そこには初めは電気もなければ水道もない。それを徐々に改良していって,道もでき,汚い水を流す開渠もでき,水も電気も引いてきて,さらに全体のコミュニティーセンターになるような施設も造る。こうしてできた村の例をいくつか挙げて,これにも賞をやってほしいというわけですよ。建築賞という名前がついているんですから,ある程度の文化性がないと困るんじゃないかと私は主張したんです。」

 カンポンのコミュニティそしてKIPには文化性がないかのような発言をした建築家とは,「大東亜建設記念造営計画」コンペで一等入選した丹下健三そのひとである。

 

 4 開発独裁とRWRT

 

 カンポンとコンパウンド

 「カンポン」は,マレー(インドネシア,マレーシア)語で,「ムラ」を意味する。「カンポン」は一般的に用いられる。「カンポンガン」というと「イナカモン」というニュアンスである。興味深いのは,大都市の居住地もカンポンという言葉が用いられることである。英語には「アーバン・ヴィレッジ」と訳される。C.ギアツ(C. Geertz1965))によれば,「共同体的」性格を色濃く残してきたデサが,都市において再統合されたものがカンポンである[ix]

 「カンポン」の生活を支えているのはゴトン・ロヨンgotong royongであり、ルクンrukunである。ゴトン・ロヨンは相互扶助、ルクンは調和あるいは和合、いずれもジャワ人の最高の価値意識とされる。ゴトン・ロヨンはインドネシアの国家的スローガンである。インドネシアの都市の行政単位クルラハンkelurahan)は,ルクン・ワルガRWrukun warga)-ルクン・タタンガRTrukun tetangga)からなるが、タタンガは「隣人」,ワルガは「住民」である。このカンポンという言葉が英語のコンパウンドの語源だとする有力な説がある[x]。興味深い説については省かざるを得ないが、オックスフォード英語辞典OED[xi]はそう説明している。大英帝国が植民地とした地域では,村落は一般的にコンパウンドと呼ばれる。「カンポン」について考えることは、おそらく、世界中の「ムラ」について考えることになる。示唆的なのは,「強制収容所」のような「囲い地」もコンパウンドと呼ばれることである。

 

 Tonarigumi, Aza, Joukai

 日本軍政下のジャワに,日本の隣保制度が持ち込まれるのは,太平洋戦争末期のことである。全ジャワ州長官会議で全島一斉に隣保組織を設立することが発表されたのは1944111日である。その「隣保制度組織要綱」[xii]には,隣組tonarigumi,字aza,常会joukaiなど日本語がそのまま用いられている。日本の隣保制度(19409月の内務大臣訓令第17号)のほぼコピーである[xiii]「郷土防衛,経済統制等の組織および実践単位とし,地方行政下部組織として軍政の浸透を計るものもので,ジャワ古来の隣保相互扶助の精神(ゴトン・ロヨン)に基き住民の互助共済その他の共同任務の遂行を期する」ことを目的とし,「デッサ内の全戸を分ち概ね十戸乃至二十戸の戸数を以って一隣組とする,隣組に組長を置くがその選任は実践的人物を第一とする,隣組は毎月一回以上の常会を開く。さらに字(カンポン)に字常会を設け毎月一回以上の常会を開く,字常会は字長および隣組長その他字内の有識者をもって構成する」というのである[xiv]

 太平洋戦争末期,わずか1年余りの期間にジャワ全島に及んだ隣組組織が現在のRW/RTの起源である。しかし,その隣組制度が今日にまで存続しているのは何故なのか。現在のRW/RTは,戦時体制下のそれと同じものと存続してきているのか。一方,日本の隣組-町内会制度は,戦後改革の過程で,果たして解体されたのか。戦後も存続してきた町内会と戦時体制下のそれとはどう違うのか。

 インドネシアにおいて隣組が辿った経緯は以下のようである(Sullivan, John(1992))。 日本の無条件降伏によって,インドネシアは独立戦争を戦うことになるが,RTそして字は,ルクン・カンポンルクン・カンポンRKとして存続する。RKは,税の徴収,住民登録,転入転出確認,人口・経済統計,政府指令伝達,社会福祉サーヴィスなどの役割を果たす隣保組織として存続するのである。ただ,RT,RKは社会組織として政府の援助と保護を受け,政府を補助するがインフォーマルであった。1960年にRT/RWに関する地方行政法が施行されるが,そこでも,RT/RKは,政府や政党からは独立した住民組織とされた。RT/RKを政府機関に組み込む動きが具体化し始めるのは,1965930日のクーデター以降の「新体制」においてである。

 

 930事件

 大統領に就任したスハルトは,外交方針を親米・親マレーシア・反共路線に転換し,インドネシアを国連に復帰させるとともに,東南アジア諸国連合ASEANを創設し(1967),事務局をジャカルタに置いて,近隣諸国との協調路線を採る。一方,内に対しては,強権的な独裁体制を敷く。ムシャワラ(話合い)とムファカット(全会一致)をモットーとする「パンチャシラ民主主義」は,スハルトの開発独裁を支える巧妙な仕組みに結びついていた。民主主義をうたいながら,ゴルカルGolkar(ゴロンガン・カリヤ Golongan Karya職能集団)[xv]という政府が支援する大政翼賛的な以外には,2つの野党(インドネシア民主党と開発統一党)しか許可しなかった。9.30事件の大量虐殺の「記憶」[xvi]を背景として,東チモール,アチェなどの独立運動を軍によって制圧し,民主化運動の活動家を拉致,換金,拷問,虐殺してきた。また,体制に批判的なマスコミについても徹底的に弾圧を行った。

 スハルトの「新体制」において,RT/RKは次第に独立性を失っていくが,制度上の画期となるのは1979年の村落自治体法(Village Government Law 5)の制定である。ルクン・ワルガが導入されたのはこの時である。そして、1983年の内務大臣決定によってRT/RWは,完全に国家体制の機関として組み込まれることになる。 

 RTが独立後も自律的,自主的な相互扶助組織として存続してきたのは,デサの伝統と隣組の相互扶助の仕組みが共鳴し合ったからである。しかし,開発独裁体制の成立過程で,RW/RTは国家体制の中に組み込まれることになる。生活を支える相互扶助活動と選挙の際に巨大な集票マシーンと化した「カンポン」の隣保組織の特性は,内部に対する相互扶助規制と外部に対する内部統制の共同体の二重規制そのものである。

 強力な政権基盤を維持することによって,スハルトは,630年の長きにわたって大統領の座に留まることになる。その間,工業化を推進し,経済発展をもたらすことに成功するが,政権の長期化とともに腐敗が堆積し崩壊する(19985月)。

 こうして,「町内会」「隣組」が総力戦体制に組み込まれ、崩壊していく過程は,開発独裁が成立し、崩壊していく過程として、繰り返されたのである。

 

 おわりに 

  山本理顕さんの『権力の空間/空間の権力 個人と国家の<あいだ>を設計せよ』(2010)『地域社会権モデル』(2015)そして「コミュニティ権」の提唱(『都市美』創刊1号)には,かねてから共感してきた。『裸の建築家-タウンアーキテクト論』(2000)を書いて,「京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)」や「近江環人(コミュニティ・アーキテクト)地域再生学座」を立ち上げ,それなりに実験的試みも行ってきた。理顕さんとは,国交省の「コミュニティ・アーキテクト制」に関わる施策立案に一緒に関わったこともある。

 根底で問われているのは,日本において「地域」とは何か,「コミュニティ」とは何か,である。すなわち,国家と個人の間に「地域社会圏」「コミュニティ権」を確立するその集団的主体をどう構築するか,どこに可能性を見出すか,ということである。

 戦後,GHQによって解体された「町内会」は,サンフランシスコ講和条約の締結による「ポツダム政令15号」の失効によって復活する。その後の日本の「町内会」をめぐる議論には深入りできないが,戦前戦後で「断絶」したという評価がある一方基本的役割は「連続」しているという評価がある。一般的に指摘されるのは「町内会」の空洞化であり,地域社会の衰退である。阪神淡路大震災以降,特定非営利活動促進法(1998年3月)の成立もあって,NPOやボランタリー・アソシエーションが様々な活動を展開し地方自治体に対しても一定の役割を果たしつつある。いずれにせよ,期待されるのは「ナショナリズム」「排外主義」を強いる「国家権力」の「下位組織」として回収されない「地域共同体(コミュニティ)」(地域社会圏,Local Republic,・・・)を再構築する様々な試みである。


E リスマ市長とクリーン&グリーンKIP運動 筆者撮影

 スラバヤのカンポンとKIPについては紙数を割けなかったけれど,実に生き生きとしたまちづくりが行われている。率いるのは,トゥリ・リスマハリーニTri Rismaharini1961年生まれ,在職:2010-20152016-)(図E)である。トゥリ・リスマハリーニ市長,愛称リスマは,スラバヤ工科大学ITSの建築学部の出身である。すなわち,筆者が長年共同してきたJ.シラス(1936~)[xvii]の弟子である。リスマ市長は,20109月に就任すると,地域密着型経済の実現,環境に優しい活気のある都市(クリーン&グリーン・カンポン)を宣言,積極的な施策を展開してきた。興味深いのは,31すべてのクチャマタン(地区)で様々なセミナーを実施し,取り組みに意欲的な市民をファシリテータとして各カンポンに配置,環境コンテストを開催するなど,カンポンの自主的な取り組みを推進していることである。コンポスト、雨水利用の浄化装置の設置、アーバーン・ファーミングと呼ぶ緑化、廃棄物利用のドレス、玩具の製作、・・・日本でもすぐにでも取り組みたいアイディアがある(図F①②③④)。



F コンポスト 雨水浄化 緑化 リサイクル

 国家の制度に回収されない、自律的なコミュニティを確立していくためには,国境を越えた経験交流を基礎にしたネットワーク構築がひとつの大きな力になる。フォーチュン』誌(20153月)は,「世界の最も偉大な指導者50人」挙げる中で,「直面している問題について正直に語り,市民を鼓舞する市長」として、米ミシガン州デトロイト市で財政破綻からの立て直しを図るマイク・ダガン市長とともにリスマ市長を24位に選んでいる。

参照文献

安達宏昭(2002)『戦前期日本と東南アジアー資源獲得の視点からー』吉川弘文館

安達宏昭(2012)『「大東亜共栄圏」の経済構想―圏内産業と大東亜建設審議会―』吉川弘文館

B.アンダーソン(1987)『想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行』白石隆・白石さや訳,Libro

大塚久雄(1955)『共同体の基礎理論』

河西晃佑(2012)『帝国日本の拡張と崩壊「大東亜共栄圏」への歴史的展開』法政大学出版局

河西晃佑(2016)『大東亜共栄圏 帝国日本の南方体験』講談社選書メチエ

倉沢愛子(2012)『資源の戦争 「大東亜共栄圏」の人流・物流』岩波書店

キャロル・グラック(2019)『戦争の記憶 コロンビア大学特別講義―学生との対話―』(講談社現代新書)

白井聡(2013)『永続敗戦論 戦後日本の核心』太田出版

白井聡(2018)『国体論 菊と星条旗』集英社

吉原直樹(2000)『アジアの地域住民組織』お茶の水書房

布野修司(1991)『カンポンの世界』パルコ出版

Geertz, Clifford1965, “The Social History of an Indonesian Town", M.I.T. Press

Sullivan, John(1992), “Local Government and Community in Jawa: An Urban Case Study”, Oxford University Press

 



[i] 信時清作曲。歌詞「海行かば,水漬く屍,山行かば,草生す屍,大君の辺にしこそ死なめ,かへりみはせじ,長閑には死なじ」は,大伴家持の長歌(『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」)から採られている。政府が,1937年の国民精神総動員強調週間を制定した際にそのテーマ曲としてNHKが製作した。「太平洋戦争」開戦後は,大本営発表が「玉砕」を伝える際に冒頭曲として流された。

[ii] 日本人が「南方」あるいは「南洋」と呼ばれた東南アジア各地に移住を始めたのは明治初期のことであり,最初は「からゆきさん」と呼ばれた女性たちの渡航があり,その女性たちの周辺で雑業(料理屋・貸席,理髪・髪結い,呉服,雑貨,売薬業など)を営む人びとの渡航が続いた。

[iii] スカルノのインドネシア独立宣言起草(1945)に前田精海軍少将とともに立ち会うことになる西嶋重忠が、一高時代に「左翼文献を読んだだけで」「特高」に逮捕され(1930)、ジャワに渡って(1937)最初に務めたのが千代田百貨店である。

[iv] オラニエ・ホテルは,1910年に,ルーカス・マーティン・サーキーズLucas Martin Sarkiesによって建てられた。イラン出身のアルメニア人であるサーキーズ4兄弟(図SF4㉘)(マーティン,アリエフArief)の長男マーティンの次男である[iv]。一族は東南アジアのホテル王として知られるようになるが,次男ティグランTigranがペナンのE&OホテルThe Eastern & Oriental Hotel1880),長男マーティンはシンガポールのラッフルズホテル(1887年),三男アラスクAraskはビルマのストランド・ホテルThe Strand1901年)を建設している。

[v] キャロル・グラックCarol N. Gluck1941年シカゴ生まれ。日本近代史専攻の歴史学者。コロンビア大学ジョージ・サンソム講座教授。1977年,博士号取得(コロンビア大学)。Japan's modern myths: ideology in the late Meiji period, Princeton University Press, 1985.『歴史で考える』(梅崎透訳,岩波書店, 2007),姜尚中,テッサ・モーリ・スズキ,比根屋照夫,岩崎奈緒子,タカシ・フジタニ, ハリー・ハルトゥーニアン『日本はどこへ行くのか(日本の歴史25)』講談社,2003年,講談社学術文庫, 2010年。

[vi] 大東亜共栄圏の確立/1)日満支三国を中心とし,仏印,蘭印,海峡植民地,英領「マレー」,泰,比律賓,英領「ボルネオ」,ビルマ等を含む地域の政治,経済文化の結合地帯を構成す/(イ)仏印 蘭印 先つ広汎なる経済協定(資源分配,共栄圏内部及外部に対する貿易の調整,為替及通貨協定等を含む)の締結に付努力するとともに独立の承認相互援助条約締結等政治的提携を策す/(ロ)秦 政治経済軍事に亘り相互援助提携強化を計る/2)共栄圏外に属する諸国に対しては我共栄圏建設を認め之に協力する様あらゆる工作を為す。

[vii] GHQ/SCAP, CIE, A Preliminary Study of the Neighborhood Associations of Japan, AR-301-05-A-5, 1948。「隣保組織の歴史的背景」(第1章)を幕藩体制下の「五人組」,さらには大宝律令(701年),養老律令(718年)が規定する「五人組制度」まで遡って振り返った上で,「1930年代以降における隣保組織の国家統制」(第2章)そして「東京都の隣保組織」(第3章)を具体的に検証したうえで,「隣保組織の解体」(第4章)を結論づけている。(吉原直樹(2000))。

[viii] 「大東亜建設記念造営計画」そして日本ファシズム様式としての「帝冠(併合)様式」「日本建築様式」という規定をめぐっては,井上章一の批判的提起がある(「ファシズムの空間と象徴」ⅠⅡ『京都大学人文学報』19821983。『戦時下日本の建築家 アート・キッチュ・ジャパネスク』朝日新書,1995)。この井上の提起については,上に挙げた論考などで議論したから繰り返さないが,その規定について書かれた文書がないから,「帝冠様式」は強制力をもっていたわけではなく,少なくともファシズムの大衆宣伝のトゥールとして使われたわけではない,と済ますわけにはいかない。戦時体制下で行われた建築競技設計(コンペティション)の多くは「日本建築様式」であること,「日本趣味を旨とする」ことを求めた。日本的表現の問題,国民建築様式の問題が,建築家にファシズム体制に対する態度決定を迫る大きな問題であったことは,まさに『記憶と沈黙』が問おうとする問題である。井上章一のいうように,「帝冠様式」は,上から与えられた,あるいは強制した様式としてではなく,大衆レヴェルに支えられ,下から生み出された様式すなわち「キッチュ」といっていい。丸山眞男は,ドイツ,イタリアのファシズムが「下からのファシズム」であるのに対して,日本ファシズムは「上からのファシズム」であることを指摘するが,国家権力が下から生み出されたものを体制維持のために利用することはむしろ一般的である。「伝統的」な建築の屋根の形態は,世界中至る所で,民族や地域のアイデンティティのシンボルとして用いられているのである。問題は,「帝冠様式」あるいは「大東亜建築様式」の建築が具体的に建設されていったことであり,その他の建築表現が消えていったことである。建築家が「沈黙化」させられていったことである。ナチスはこの問題もまた決して過去の歴史に属する問題ではない。自治体の景観条例や公共建築のコンペの規定を繰り返し問われている問題である。

[ix] インドネシアでは都市をコタkotaという。サンスクリット語のコタkoetaからの転訛で,元来は城壁に囲まれた場所を意味した。コタ(都市)に対するのはデサdesa(農村)である。デサも,コタ同様,サンスクリット語デシャdeshaに由来し,もともとは「地方」を意味した。

[x] 椎野若菜「「コンパウンド」と「カンポン」―居住に関する人類学用語の歴史的考察―」(『社会人類学年報』262000年。

[xi] コンパウンドには通常2つの意味がある。第1義は,他動詞の「混ぜ合わせる,混合する」,形容詞の「合成,混成の,複合の,混合のcomposite,複雑な,複式の」,第2義は,「囲われた場所」である。OED(オックスフォード英語辞典)は,コンパウンド(第2義)は,マレー農村を意味するカンポンがインド英語Anglo-Indian Englishを経て伝わったとしているのである。その意味は,(1)囲い込み(enclosure,囲い込まれた空間,あるいは,(2)村(village),バタヴィアにおける「中国人のカンポン」のような,ある特定の民族(nationality)によって占められた町(town)の地区である。

[xii] 「隣保制度組織要綱」(Azas-azas oentoek Menjempoernakan Soesoenan Roekoen Tetangga)(『KANPOONo.35-2604))は,隣組を「施策の迅速で適正な浸透ならびに深刻な住民相互間の対立摩擦の削除をおこない,民心を把握し住民の総力をあげて戦力の維持,存続をはかるための,行政単位に基づき行政機関と表裏一体である強力で簡素な単一組織」と規定する。要綱(『KANPOONo.35-2604)は,第1条「目的」,第2条「組織」,第3条「活動」,第4条「費用」,第5条「字常会」,第6条「上部組織との関係および監視」,第7条「地区」,第8条「説明その他」,「第9条公地にある字常会および隣組について」からなる(吉原直樹(2000))

[xiii] この詳細については、小林和夫(2000)「インドネシアの住民組織RTRWの淵源―日本占領期ジャワにおける隣組・字常会の導入―」(『総合都市研究』第71号、2000年)がある。

[xiv] 軍政監部は,1月から数ヶ月間,各地で説明会や研修会を各地で開催し,モデル隣組がつくられた。研修会では,幹部となる州庁役人に対する研修では行政一般に加えて,隣組の理論と実践,ジャワ奉公会の組織と活動,防衛義勇軍と兵補家族の保護,農民組織(ルクン・タニ),地方行政と隣組,食糧増産などが講義され,江戸時代の五人組制度の歴史についての講義も行われたという。州役人は,地域に帰って郡長や村長を訓練し,末端にその意義を伝えるのであるが,一般住民に対しても,隣組がジャワ社会の伝統であるゴトン・ロヨンの精神に根ざすこと,また,イスラームの教えにも一致するものであることなどが宣伝された。組織は瞬く間にジャワ各地に広まっていった。19444月末の調査に拠れば,ジャワ全域の住戸数は8967320戸,隣組数は508745組,字常会数は6477764,832),区の総数は19498であった。隣組は平均17.6戸,区(デサ)は平均33字常会ということになる。隣組はジャワの隅々にまでつくられたことになる。

[xv] その起源はスカルノ政権末期に遡る。スカルノは,政治的安定を欠いた独立後の政局を安定させるべく「指導される民主主義」を唱えてトップダウンの体制を整えるが,インドネシア共産党PKIの組織拡大を警戒した国軍は,PKIに対抗する職業別集団を組織化し,その調整機関として,ゴルカル共同事務局Sekber Golkarを発足させたのがその起源である。スハルトによる新体制とともに,ゴルカルは政権を支持する政治団体となる。政党・ゴルカル法は,各政党の支部組織の設置基準を,首都,一級自治体(州),二級自治体(県)レヴェルの3段階に限定した。そのため,ゴルカル以外の政党は,郡・村レヴェルでの組織浸透をはかることができず,末端のRW,RTレヴェルの住民組織は集票マシーンと化した。

[xvi] 本稿では触れる余裕はなかったのであるが,「9.30事件」(1965年)の「記憶」は「沈黙化」されたままである。倉沢愛子(2014)『9.30世界を震撼させた日』が,時を経て真相に迫る。筆者も,スラバヤのカリ・マス川に当時多数の死体が浮いていたという話を目撃者から聞いたことがある。しかし,その「記憶」は大っぴらに語られることはない。また,インドネシア独立戦争における残留日本人兵の存在とその活動については様々に証言されるが[xvi],日本とインドネシアの「共通の記憶」となりえていない。

 「大東亜共栄圏」における「第二次世界大戦」の「記憶」も脱植民地化を果たして独立した東南アジア諸国でそれぞれ異なっている。ほとんど大きな戦闘を伴うことなく占領されたインドネシアと空爆や激戦で国土を蹂躙されたフィリピンで「反日」感情に差があることは当然である。

[xvii] Johan Silas 1936年~,サマリンダ(カリマンタン)生まれ。バンドン工科大学卒業。1965年スラバヤ工科大学講師,1992年教授,現在,スラバヤ工科大学榮譽教授。この間,国際連合人間居住計画UN-Habitatやアガ・カーン財団など数々の賞を受賞し,世界中の人間居住に関する施策,活動,調査研究に関わるインドネシアの第一人者である。











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