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水牛ー風景のかけら 世界の集落を切りとる 鞍(鞍形屋根),KAJIMA月報,200604
風景のかけら 世界の集落を切りとる 鞍(鞍形屋根),KAJIMA月報,200604
鞍(鞍形屋根) 角、水牛、舟 トンコナン
トラジャToraja族、スラウェシSulawesi、インドネシア,Indonesia
建築物の屋根の形は、古今東西、実に様々である。しかし、基本的には、使用可能な材料によって、また、建築構造力学的条件によって、さらに雨風や暑さ寒さを凌ぐために限定されるから、その形に無限のヴァリエーションがあるわけではない。ドーム、ヴォールト、アーチ、方形、入母屋、寄棟、切妻など、基本的な型を人類は創り出し、用いてきた。しかし、そうした中で、このサダン・トラジャSa’dan Toraja族の屋根の形は世界中にそう例がない。鞍形屋根という言葉は、日本語にはないけれど、英語ではサドルsaddle・ルーフという。棟の反りがカヌーの様な小舟の側面に似ているということで、舟形屋根ともいうが、鞍の形がまさにぴったりである。
この鞍形屋根が連続的に並ぶサダン・トラジャ族の集落景観は実に壮観である。トンコナンtongkonanと呼ばれる住居の高床の空間は基本的に間仕切りが無くワンルームで、床に段差がつけられて3つに分かれ、中央が低く、前面と後方が高くなる。中央に1m角で高さ30cm程の炉Api Dapoが置かれる。中央のサリSaliが、居間、食堂・厨房兼用の多目的空間で、奥のグンブンsumbungが家長の空間、人口前面のパルアンpaluangは客もしくは家族の空間となる。興味深いことに、のみならず、倉も、そして棺も同じ形である。大切なお米を収蔵する倉、死者ための住まい、そして生きている住まいに共通する思いが鞍の形に込められているのである。
サダン・トラジヤ族の居住する地域は、標高800m~1600mの山地であり、今世紀初頭まで外界の影響を受けることが比較的少なく、ルウ(ブギス)人の居住する沿岸部とは、極めて異なった固有の文化を保持してきた。トラジヤとはもともと「山の人」を意味し、スラウェシ島内陸山地部の民族の総称である。ト通常、パル峡谷を中心とする「西トラジヤ」、ポソ湖を中心とした「東トラジヤ」(バレエ・トラジヤ、ポソ・トラジヤ)そして、サダン川上流部の「南トラジヤ」(サダン・トラジヤ)の3つのグループに分けられる。ひときわ目を魅くサダン・トラジャの住居と他の2つの住居は全く形が異なる。東(ポソ湖周辺の)トラジヤ族の住居は急勾配の屋根が直接床から建ち上がり、壁をもたない。また、土台・基礎を丸太で井桁に組んだものも見られる。
鞍形屋根は他に例がないと書いたが、わが国の古墳から出土する家形埴輪によく似たものがある。ただ、棟が直線的である(もっとも、簡易なトンコナンには棟が直線的なものがなくはない。棟が反り返り出したのは、外界との接触以降という説がある)。そして、もうひとつ、日本の住居との関連で興味深いのが、住居前面の棟持柱である。水牛の角がいくつも飾られて、その数が家の格を表わすと考えられている。水牛がサダン・トラジャ社会において持つ意味、とりわけ、その葬送儀礼の持つ意味、風葬を行う死生観などサダン・トラジャ族についての興味はつきないが[i]、この棟持柱は、鞍形屋根とともにサダン・トラジャの住居を特徴づける建築要素である。そして、この極めて象徴的な柱は、伊勢神宮に見られる棟持柱の原型ではないかとも言われるのである。
果たして、この鞍形屋根や棟持柱は日本の住居のルーツと直接関わるのであろうか。こうした楽しい推測に理論的根拠を与えてくれるのが、日本の竪穴式住居(「原始入母屋造り」)から東南アジア一帯に見られる多様な木造架構形式を統一的に説明する、G.ドメニクの「構造発達論」である。東はイースター島から西はマダガスカル島まで広がるオーストロネシア世界を見渡すといくつかの系統図が描けそうである。
北スマトラの、バタク・トバ族の住居の屋根は、サダン・トラジャ族とは一見異なるが、叉首構造を基本とする架構形式は基本的には同じである。屋根が滑らかな曲線となるのは割竹が用いられ、二重、三重に葺かれることによる。「切妻転び破風屋根」と呼ばれるが、屋根が前後に転ぶ(迫り出す)形はよく似ているし、相似形の住居棟と米倉が向き合う形で平行に並べられる集落構成も同じである。トラジャは、トバ・ラジャ(トバの王)から来ているという説もあるが真偽は定かではない。
ヴァナキュラー建築の世界の大きな魅力は、多様性の中にある体系が存在すること、地域毎に実に多様なあり方をする住居が一方で共通の要素をもつことである。同じバタク族でも、バタク・カロ、バタク・シマルングンといった種族の架構形式は同じような気候風土でありながら異なる。サダン・トラジャ族の場合は、バタク諸族と大きくは架構の原理を共有しながら、南スラウェシの風土の中で鞍形屋根という独特の形を生み出したのである。
[i] 布野修司編著、『世界住居誌』、昭和堂、2005年。布野修司(監訳)+アジア都市建築研究会、『生きている住まいー東南アジア建築人類学』、ロクサーナ・ウオータソン著, The Living House: An Anthropology of Architecture in South-East Asia,学芸出版社,1997年。
2023年10月20日金曜日
2023年8月29日火曜日
2023年6月25日日曜日
ネワール人の高密度居住,ネパールーインド紀行①まちの形とすまいの形,日刊建設工業新聞,19961108(布野修司建築論集Ⅰ収録)
①カトマンズーパタン ネワール人の高密度居住
天沼俊一の『印度仏塔巡礼記』(一九三六年)とモハン・M・パントさんの『バハ・マンダラ』(上海同済大学修士論文 一九九〇年)を携えてカトマンズの地を初めて踏んだ。アジアにおける都市型住宅の比較研究のための調査が目的でネパールの後インドへ向かう。ネパールではハディガオンという町の調査とトリブバン大学での特別講義が任務であった。
パントさんの論文は英文でサブタイトルに「カトマンズ盆地パタンの伝統的居住パターンの研究」とつけられている。バハとは仏教の僧院ヴィハーラからきたネパール語で、中庭を囲んだ形式の住居のことである。カトマンズ、バクタプル、パタンといったカトマンズ盆地の都市の魅力を、バハの形式が都市の構成原理となっていることを実証するパントさんの論文に導かれてじっくり堪能することができた。
カトマンズ盆地は京都盆地のおよそ四倍あるという。ヒマラヤをはるかに望む雄大な盆地の景観はそこにひとつの完結した宇宙があるかのようである。古来ネワール人が高密度の集住文化を発達させてきた。カトマンズ盆地には、パタン、バクタプル、キルティプルといった珠玉のような都市、集落を見ることができるのである。カトマンズの王宮、パタンのダルバル・スクエア(王宮前広場)、バクタプルの王宮、そしてスワヤンブナート(ストゥーパ)などが世界文化遺産に登録されたことが、その建築文化の高度な水準を示している。
カトマンズに着いて、いきなり、インドラ・チョークを抜けて王宮へ向かった。バザールの活気と旧王宮の建築のレヴェルの高さに圧倒される。パタンのダルバル・スクエアにしても、バクタプルの町にしても同様である。世界遺産といっても遺跡として凍結されているのではなく町は実にいきいきと生きているのがすごい。
そのひとつの理由はすぐさま理解された。広場や通りに人々が集う空間的仕掛けがきちんと用意されているのである。具体的にはパティと呼ばれる東屋、ヒティ(水場)、そして聖祠(チャイティア)が要所要所に配されているのである。様々な用途に今でも使われている。
そしてもうひとつは、都市型住宅の型がきちんと成立していることである。バヒはもともと独身の僧の施設で、バハは妻帯を行うようになってからの施設をいう。バヒの空間は中庭に開かれているけれど、バハは個々の部屋が壁で閉じられ閉鎖的となる。この住居の形式が都市の建築形式として、中庭を囲む形式へと段階的に展開していく。それをパタンに即して論じたのがパントさんの論文である。
天沼俊一の『印度仏塔巡礼記』を見ると多くの写真が載っていて丁度六〇年前の様子がよく分かる。一九三四年に地震があった直後の訪問で多くの寺院が破壊された様子が生々しいけれど、チャン・ナラヤン寺院、パシュパティナート、チャバヒ・バハ、ボードナートなど、今日の姿とそう変わらない。
もちろん、カトマンズは急速に変容しつつあり、スクオッター(不法占拠者)問題も抱えている。しかし、今日までまちの景観を維持してきた住居の形式、空間の仕掛けの力に、日本のまちづくりを考える大きなヒントをカトマンズ盆地の町に見たように思う。アジアにも都市型住宅の伝統は息づいてきたのだ。
2023年1月2日月曜日
2022年12月12日月曜日
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