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2026年8月9日日曜日

チャンディ・スク チャンディ・チョト,東南アジアの建築世界2,GLASS LIFE,セントラル硝子,199006

 チャンディ・スク チャンディ・チョト,東南アジアの建築世界2GLASS  LIFE,セントラル硝子,199006



東南アジアの建築世界2

チャンディー・スク    

チャンディー・チョト          

布野修司

 

 東南アジアの建築というとまず想い浮かぶのはアンコールワットやボロブドゥールのような巨大遺跡の建築であろう。東南アジア地域は古くから中国文明とインド文明という二つの大きな文明のインパクトを受けてきたのであるが、とりわけ、インド(ヒンドゥー)文明は東南アジア世界に深く及んでいる。その後、イスラム化の波が東南アジア全体を襲う。現在ではヒンドゥー教が支配的なのはバリ島のような特定の地域にすぎなくなった。しかし、一皮めくった基層文化として共通なのはやはりヒンドゥー文化である。その伝統は様々な形で今日でもみることができるのである。東南アジアのインド化の歴史を示すのが各地に残されたヒンドゥー(・仏教)建築である。そうしたヒンドゥー建築のなかにちょっと変わったチャンディーがある。チャンディー・スクとチャンディー・チョトである。

 

 チャンディー(     )とは、ジャワのヒンドゥー・仏教寺院の総称である。寺院といっても様々な建造物からなるのであるが、チャンディーというとストゥーパ(卒塔婆      )と違って内部空間をもつものをいう。礼拝供養の対象物(仏像、神像、リンガなど)を納めた祠堂である。一般的には、チャイティア・グリハ(              「礼拝物の家」の意)といわれる建造物に当たる。実際に僧侶が住む僧院はヴィハーラ(      )である。しかし、内部空間をもたない立体曼陀羅であるボロブドゥールもチャンディー・ボロブドゥールと呼ばれるし、いくつかのチャンディー群のコンプレックス全体もチャンディーと呼ばれる。ジャワでチャンディーというと、タイのワット(   )と同じように、日本語の「お寺」という感じで一般的に使われているのである。  

 建築物としてのチャンディーは、大きく三つの部分からなる。すなわち、屋蓋、身舎、基壇の三つである。その三層の構成は宇宙の三界(さんがい)を表現しているといわれる。すなわち、ヒンドゥーのチャンディーでは、マハーメールのそびえる神の領域であるスヴァルローカ(天界)、地下世界であるブール・ローカ(地界)、その間に広がるブヴァル・ローカ(空界)の三つをそれぞれが象徴する。また、仏教のチャンディーでも、須弥山を中心とする三界観(大乗の場合は、アルーパダーツ(無色界)、ルーパダーツ(色界)、カーマダーツ(浴界)の三界、南方上座部(小乗)仏教の場合、アルーパローカ(無色界)、ルーパローカ(色界)、カーマローカ(浴界)の三界)に対応してチャンディーも三つにわけられるのである。

 もちろん、ヒンドゥー教の宇宙観はそう簡単に図式化できるわけではない。以上は大まかな構成原理であって、細部は様々である。また、地域によって異なる。チャンディーも中部ジャワと東部ジャワとで違う。ヒンドゥー・ジャワとヒンドゥー・バリの建築も少しずつ違う。中部ジャワから東部ジャワへ、そして、バリへ、ヒンドゥー王国の中心は移動して行くのであるが、チャンディーの様式も地域地域で異なっていくのである。

 大まかにいうと、中部ジャワのチャンディーは、ずんぐりと太めである。それに対して、東部ジャワのチャンディーはスレンダーである。バリにはグヌン・カウィに石窟のチャンディーがあるのであるが、細身で東部ジャワに近い。プロポーションが一見して違うのである。また、チャンディーの向きについても違いがある。中部ジャワではいくつかの例外を除いて、東か西を向くのが原則であるが、東部ジャワではその原則が崩れることが多いのである。東部ジャワでは、東西南北より、ローカルなオリエンテーションの方が重視されるのである。メール山(須弥山)となる山の方向を向くことが一般的なのである。

 また、西部ジャワのチャンディーは装飾が過剰である。東南アジアのヒンドゥー・仏教建築に関する研究の先達であり、第一人者である千原大五郎氏は以下の三つの点をあげる(  )。

 (1)開口部や壁がんがカーラ・マカラ・オーナメントによって縁どりされていること

 (2)階段の両翼の耳石がS字形をなし、その上下端がカーラとマカラで装飾されていること

 (3)主堂の前面に突出して設けられている前房の屋根が日本建築の唐破風に似た曲版屋根であること

  カーラ(    )あるいはマカラ(      )というのは、ヒンドゥー教の宗教的表徴である。半神的性格をもち、動植物をモチーフとする彫刻や文様として表現される。カーラは鬼面のようにみえる。面白いことに中部ジャワでは、上顎までしかないのであるが、東部ジャワでは下顎さらに腕を含めて表現される。カーラとは、「時」あるいは「黒」を意味する。カーリーがカーラの女性形で、カーリー女神は、人の頭蓋骨を綴った飾りを首から垂らし、人の腕を綴った帯を腰につけている。おどろおどろしい。マカラはもともとは山羊だろうか、口の中にライオンがいる。学問の神様ガネシャ(       )は 象である。

 全体的に中部ジャワ期のチャンディーは、インド的祖型を強く残し、その理念型を忠実に実現しようとしているようにみえる。それに対して、東部ジャワ期のチャンディーは、より土着化し、変容を受けているようにみえる。

 

 ところで、そうした中でちょっと珍しいのがチャンディー・スクである。いささか謎めいている。以上に触れたチャンディーとは全く異なったチャンディーのようにみえるのだ。みた瞬間、想起したのはマヤのピラミッドである。よく似ている。きれいな四角錘台の形態をしているのである。

 チャンディー・スクというのは、中部ジャワの古都ソロ(スラカルタ)ーーブンガワンソロのソローーの東方、ラウ山(      )の山腹に位置する。ソロから車で一時間ほどであろうか、中部ジャワといっても、もう東部ジャワとの境界である。昨年、ソロのマンクヌガラ宮で開かれたユネスコの国際会議に出席した際、初めて訪れる機会があった。近くに変わったチャンディーがあるというのでふとでかけてみたのである。チャンディー・スクへ行くというとみんなにやにやする。エロティックなチャンディーというのだ。確かに、性のシンボルがところどころにおおらかに置かれたチャンディーであった。

 チャンディー・スクは15世紀の建造だとされるのであるがわかっていないことが多い。中部ジャワ期のチャンディーは、7世紀後半から10世紀後半の建造とされるから、中部ジャワに位置するといっても、チャンディー・スクが建てられたのは、ヒンドゥー王国の中心が既にクディリ、シンゴサリを経て、モジョパイトへと移ったころである。不思議なのはその形態だけではない。ピラミッドの階段を上がってみると、中央に穴がうがたれていた。そこには巨大なリンガが置かれてあったという。リンガとは男根である。チャンディーの多くはリンガを奉る。しかし、それを覆う建造物が残されていないのは何故か。そこには、バリに見られるような、何層かの木造の塔状の建築があったのではないか。実際、レリーフには、そうした建物が描かれているではないか。

 また、子宮のなかにマハーバーラタの英雄ビマ(    )を描いた巨大なレリーフは一体何に使われたのか。また、無造作に、甲が平らな大きな亀が投げ出されている。これは何を意味するのか。日本で亀の上に墓石を載せるように何かを載せていたのであろうか。亀というと、蛇の上に亀の載ったインドの宇宙図を思い出すのであるが、それであろうか。沢山のレリーフが方々に置かれているのであるが、意味のわからないものが実に多い。

 チャンディー・スクは、実に抜群の見晴らし台にある。軸線は一直線にとられ、下界を見おろしている。何故こんなところにという気がしてくる。立地も他のチャンディーと違っているのである。千原大五郎氏は、ジャワにも、インド化以前の土着固有の巨石文化が生きており、この巨石文化の名残と消え行くヒンドゥー文化が融合して造られたのがチャンディー・スクだという。果してそうだろうか。巨石文化というほどスケールはなさそうなのだ。

 チャンディー・スクで不思議な気分にさせられたあと山を降りようとすると、近くにもうひとつチャンディーがあるという。また、にやにやである。見逃す手はない。好奇心にかられて行ってみた。チャンディー・スクからさらに登ったところになるほど不思議なチャンディーがもうひとつあった。それがチャンディー・チョトである。

 チャンディー・チョトについてはほとんど情報がなかった。ジャワで出された『中部ジャワのチャンディー』(  )という本には記述がないのである。後で調べると丁寧なガイドブックにはちゃんと場所が示されていたのであるが、名のみで何の記述もない、そんなチャンディーである。まずは木造の建物の方形の屋根が目につく。バリのプラ(     寺院)に似ている。第一感はこれは新しいだろうということであった。イジュク(     やしの繊維)で葺かれた屋根や木造が新しいのである。しかし、もちろん、木造の建造物は何度も建て替えてきたはずだ。急な階段を上がると最初の広場に変なものがある。海亀の大きな姿が石のモザイクで描かれている。よくみると、魚や蟹がいる。そしてリンガもある。さらに、チャンディー・スクにあった甲の平らな亀がある。明らかに、チャンンディー・スクの親戚である。ここでは亀は階段の踏石として使われている。とすると、チャンディー・スクの亀石も踏石だったのではないか。

 スケールはチャンディー・チョトの方がはるかに大きい。ここでも軸線は一直線にとられ、はるかに下界をみおろしている。構成原理は同じだ。階段状の構成は、急でダイナミックである。最上部には同じようにピラミッド状のチャンディーがある。何故か、ここも上屋がない。

 チャンディーの前に二対の祠があり、そこにリンガが奉られていた。随分と具象的である。にやにやの理由である。男根崇拝は至るところにあるということか。ところが、その直後にみたものには、いささか度肝を抜かれてしまった。

 最上部のチャンディーのさらに上に建物の陰がみえる。木造の塔のようである。近づいてみると三重の塔である。イジュクに苔が生えているけれど、新しい。木造の技術も稚拙だ。しかし、かってはこうした塔がピラミッドの上に建っていたのではないか、その代わりに近くのカンポン(ムラ)の人たちが建てたのではないか。そう推測した瞬間、異様なものが眼に入った。なんと、塔の上に巨大なリンガがそびえたっていたのである。

 リンガを最重要の崇拝物とするのはシヴァ派である。あるいはシヴァ派と結び付いたタントラ教である。チャンディー・スク、チャンディー・チョトはその流れを汲むのかもしれない。タントラ教は、宇宙の生成、発展を男女の性的結合になぞらえて理解する。そのシンボルがリンガであり、女性性器ヨーニである。ヨーニはリンガを受ける台座として表現される。リンガ、ヨーニに対する崇拝はもちろんタントリズムに固有というより、ヒンドゥー教全体のものである。チャンディー・スクとチョトは、ヒンドゥー・ジャワ文化のデカダンスの姿だという説がある。怪奇的で独特な表現だという。また、イスラムによる偶像崇拝を禁ずるイスラムに対するはかない抵抗だという。しかし、俗っぽい感じはするけど、教義には素直ではないか。抵抗というより大らかな感じが強い。ジャワのチャンディーは、ずいぶんと見て歩いた。リンガもずいぶんみた。チャンディー・チョトの三重の塔の上の、こんなあっけらかんなのは初めてであった。

 

 

 

  *1 千原大五郎:『東南アジアのヒンドゥー・仏教建築』 鹿島出版界 1983年

    千原大五郎:『インドネシア社寺建築史』 1975年 

 *2                                                                             

 

 

 

写真リスト

 

①チャンディー・スク

②チャンディー・チョト 最上部のピラミッド

③チャンディー・チョト  軸線上の階段

④チャンディー・チョト  下から見上げる

⑤子宮のなかのビマ マハーバーラタの物語 :チャンディー・スク

⑥チャンディー・スクのレリーフ

⑦チャンディー・スクのレリーフ

⑧チャンディー・チョト  リンゴ(御神体)

⑨チャンディー・チョト 三重の塔

⑩チャンディー・チョト  三重の塔のリンガ

⑪チャンディー・スク    亀石

⑫チャンディー・チョト  海亀

⑬チャンディー・スクのレリーフ 三重の塔がある

⑭カーラ

⑮マカラ

⑯ガネシャ

⑰チャンディー・カラサン:中部ジャワ

⑱チャンディー・シンゴサリ:東部ジャワ

⑲ボロブドゥール

⑳ロロジョングラン(プランバナン)












2026年4月18日土曜日

布野修司監訳:生きている住まいー東南アジア建築人類学(ロクサーナ・ウオータソン著,アジア都市建築研究会,The Living House: An Anthropology of Architecture in SouthーEast Asia,学芸出版社,1997年3月

 布野修司監訳:生きている住まいー東南アジア建築人類学(ロクサーナ・ウオータソン著,アジア都市建築研究会,The Living House An Anthropology of Architecture in SouthEast Asia,学芸出版社,19973




2026年3月27日金曜日

ツリーハウスに泊まる 「樹上への憧れ」今もなお、日本経済新聞、2023年9月10日

 取材協力

ツリーハウスに泊まる 「樹上への憧れ」今もなお

NIKKEI The STYLE

 [会員限定記事]

木の上に小さな秘密基地をつくり、遊ぶ。そんなツリーハウスを子供の頃夢見た人は多いだろう。木と共に過ごすワクワク感は大人になってもなくならない。増え始めた「泊まれるツリーハウス」は日常を忘れさせ、自然と一体になったような時間を与えてくれる。木のそばで少しひと休み、してみよう。

鳥の目線で過ごす時間

うだるような暑さが続いていた8月、神奈川県箱根町の山中を訪れると、涼やかな雑木林にひっそり浮かぶ小さ...

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https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD151YP0V10C23A8000000/?n_cid=SCMR3004_20230915_a03



福山絵里子さま


 お手紙拝受。

 お訊ねに簡単に応答します。不明の点があれば、さらにメールいただければと思います。

 樹上住居tree house tree-dwellingが東南アジアに一般的にあったということはないと思います。
   世界のヴァナキュラー建築については、第一人者Paul Oliverが編んだ以下の百科事典3巻がありますが、tree houseについては、①Kati dobo houses, Mamberano River, Irian Jayaと②Mannubo house, Mindanaoの2事例をP.Oliver自らが執筆しています。添付します。
 Oliver, P. (ed.), “Encyclopedia of Vernacular Architecture of the World”, Cambridge University Press, 1997
 ①については、以下のAに引用していますが、福山さんの言うコロワイ族の住居です(イリアンジャヤ(西ニューギニア))。Wikipediaなどでは、敵対関係にある他の種族から身を守るためと説明されますが、実際は未婚の女性用で、襲われた時に投げ落とす石が置かれていたといいます。P.Oliverは、イリアンジャヤの西南にあるカイ諸島にも樹上住居があったと書いています。
 ②のミンダナオ島南のダバオ湾周辺で見られたものですが、太い樹、そしてそれを切った切り株上に本格的な住居を建設しており、系統は別ですね。

 東南アジアの住居は高床式住居が一般的ですが、例外もあります。
 全容については、以下を参照ください。
 
B 布野修司編:世界住居誌,昭和堂,2005
布野修司監訳:生きている住まいー東南アジア建築人類学(クサーナ・ウオータソン著,アジア都市建築研究会,The Living House An Anthropology of Architecture in SouthEast Asia,学芸出版社,1995 

 中国では、伝説上最古の建築師を有巣氏といいます。鳥が巣をつくるのをみて、人類に家をつくることを教えたという聖人です。
 チンパンジーは毎夜樹上に巣をつくるといいますが、シェルター(覆い)はつくりません。昆虫、動物などの巣作りは遺伝子的にプログラムされているのですが、樹上住居は住居の原型とはならなかった(樹上生活を放棄して二足歩行を開始した)、高床式住居をつくる能力を身に着けたのがホモ・サピエンスだと思います。
 イギリスのヴィクトリアン時代に貴族たちの間でツリーハウスを自然生活のシンボルとして建てることが流行ったとP.Oliverは書いています。

 P.Oliverには以下があります。
 Oliver, P., “Dwellings: The House Across the World”, London, Phaidon, 1987

 Oliver, P., Dwellings: The Vernacular House World Wide, Phaidon Inc Ltd, 2003『世界の住文化図鑑』、藤井明訳、東洋書林、2004

 Oliver, P., “Shelter and Society”, London, Barrie and Rockliff, 1969

 Oliver, P., “Shelter in Africa”, London, Barrie and Jenkins, 1971

 Oliver, P., “Shelter Sign and Symbol”, London, Phaidon, 1975

 

 




















2026年1月24日土曜日

アジアへ――もうひとつの集住の形式をもとめて、ミニシンポ 2002

 アジアへ――もうひとつの集住の形式をもとめて

布野 修司


 

  僕が最初に東南アジアに行ったのは、振り返って見ると、先ほどお話ししたような私が住まわされてきた日本のある種のステレオタイプ化した住宅形式とは全く違うものをみたいという意識があったんだと思います。

 東南アジアに通いだしたのは一九七九年からですから、丁度三〇歳からですね。東洋大に移ってすぐ、磯村英一学長から「東洋における居住問題の理論的、実証的研究」というのをやりなさい、と言われて研究費をつけてもらったんです。東大では、吉武研究室の最後の博士課程の学生なんですが、先生が定年前に筑波大学に出られて、指導教官はいないんです。鈴木成文先生のところに移って、何をしていいのかわからなかったんですが、公共住宅の違反増築を調べたり、建売住宅のファサード・デザインの記号論的分析なんてことをやりました。助手になるまで一本も論文らしい論文なんか書いていません。前田尚美先生、内田雄造先生に呼ばれて東洋大に移ったのが一九七八年です。吉武-鈴木スクールの住宅研究の流れと東洋大での東南アジアプロジェクトが決定的な出発点になりました。前田先生が住総研に太いパイプをお持ちで助成金を頂いて随分励みになりました。最初に太田邦夫先生と出掛けたのですが、太田先生の建築家としての眼には随分教わりました。

東南アジアの各地の伝統的民家に随分感動したのですが、私の担当は都市の「スラム」、不良住宅地でした。戦後日本の五〇年間の過程を一種追体験するという気がしてました。東南アジアの大都市は非常に貧しい状況にあった。今でもそう変わりません。そこらじゅうにバラックが建っている。それに対して、設計計画論として何をどう組み立てるか、をテーマとしたわけです。

戦後の貧しさの中で、西山先生、吉武先生が提案をされたのが51Cという形式だったわけですが、そこには集合の論理が抜けていたと思う。これははっきりしていると思います。そうではない住宅のあり方、もうひとつ別の「集住形式」に対する期待があった。それは間違っていなかった。二つあります。まず、「スラム」はスラムではない、ということです。私が集中的に調査したのはインドネシアのカンポンですが、それは居住地のモデルとして実に興味深かった。もうひとつ、貧しい中で創意工夫によって行われているハウジング(住宅供給)の手法が面白かった。全部仕上げずにスケルトンだけ供給するコア・ハウス・プロジェクトなど、むしろ、日本が学ぶことが多いと思ったんです。日本の戦後の住居のあり方には何かが欠落しているのではないかというのが直感です。

何故、こういう研究テーマに拘ってきたのかと問われれば、貧しい住まい体験と、住まいのことを研究する研究室に入ったことと、アジアの居住問題に触れたこと、全部重なっていますが、振り返るとそういうことかなと思っています。

 まず、東南アジアを回りまして、大都市と農村を見たんですが、その過程で、きちんとしたインテンシブな調査研究を国際共同研究のかたちで展開すべきだと選んだのがインドネシアのスラバヤのカンポンです。これは、ジョハン・シラスというひとりの建築家、研究者に出会ったことが大きいですね。多くのことを教えられ、ほぼ二〇年、一緒に仕事をしてきております。数えたら二〇年間に十六回通ってました。三週間平均とすると一年間住んだことになります。シラスは京都大学に客員教授として一年いましたし、今年は偶然ライデン大学で会いました。

インドネシアをやっているということで「イスラームの都市性」という文部省の重点領域研究というメンバーに加えてもらいました。陣内さんも一緒でしたが、何故か、関西チームに入れられ、京都大学の西川幸治先生、応地利明先生と出会います。結局何もしませんでしたが、実に楽しい会でした。イスラーム世界へ眼を開かれたのはこの研究会のおかげです。また、京都大学に移ることになるのもこの研究会の縁です。イスラームのまちづくりの原理に触れたのは大きな転機になりました。マスタープランよりも身近なディテールによって制御する手法、ワクフ制度という基金制度など近代都市計画の手法とは異なった手法が新鮮でした。また、都市型住宅の基本形としてのコートハウスのあり方を再確認もしました。

京都大学へ移ってまずやったのはロンボク島の調査です。都市計画におけるヒンドゥー原理とイスラーム原理の比較に興味をもったんです。それ以来、現在は滋賀県立大学に移られましたが、応地利明先生とご一緒させて頂いております。ロンボクのチャクラヌガラという都市は実に面白い都市でした。一種の発見だと思います。近々、ライデン大学から英文論文集がでます。チャクラヌガラというヒンドゥー都市がきっかけになって、インドに眼が向きます。まず手掛けたのはジャイプルでその後カトマンズ盆地にも手を広げることになりました。イスラーム都市としては、ラホール、アーメダバード、デリーの三都を研究対象としました。

その後、この五年間ぐらいはむちゃなことをやっていまして、植民都市研究ということで、五年望外の研究費を頂きました。去年、今年と世界一周をしたのですが、オランダ植民都市がターゲットです。インドネシアの宗主国がオランダだったという縁です。出島からゼーランジャ城(台湾)、バタビア(ジャカルタ)、マラッカ、コロンボ・ゴール、コチンと追いかけてケープタウンまで行ったら、西インド会社の都市が気になりだしたという次第です。世界中の都市を追いかけるという無謀というか、手を広げすぎましたけれども、そのなかでもいちばんの興味は、都市型住宅なんです。アジアでどういう都市型の集住形式をつくってきたか。これはたぶん陣内さんとも共有しているテーマだと思います。都市組織(アーバン・ティッシュ)がテーマです。いくつか図を持ってきていますが、これはヴァラナシ(ベナレス)です。基本的にはコートハウスになるわけですが、イスラーム支配が長かった。ヒンズーの聖地ですけれども、こういう形式をもっている(図・バラナシ)。

 植民都市コチン。都市型の住宅を発展させた国オランダはいまでも人口密度が大変高いわけですが、そのオランダがアジアにきてつくった都市型住宅はオランダ本国とは違うんですね。むしろ中国系といいますか、コートハウス、中国の街屋に近い(図・コチン)。

 同じインドでもジャイプルという町はなかなか面白くて、イスラームの住む地区と、ヒンズーが住む地区で、住まい方が違う(図・ジャイプル)。

 台湾もなかなか面白いところで、間口が狭いなかで、透天といって、階段室を直行でバーッと通して、各階プランが違う。(図・台湾)。

 かと思うと、ネパールの集落はすごく古くから集合住宅というか、都市型住宅を発達させてきています。ネパールの家はいちばん上がキッチンになっています。ちょっと信じられない。

 アジアはそもそも都市型住宅の形式の伝統が薄いところですけれども、アジアだけみても地域でいろいろ都市型住宅の形式を発達させている。それに対して、わが貧しい住宅遍歴を振り返ってみて、ちょっと専門家として情けない。日本でどうして住む形式、記憶とか原風景になるようなものを生み出してこなかったのかということをいつも考えています。


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...