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2022年7月30日土曜日

真のフィールドワークとは,建築雑誌,日本建築学会,200903

真のフィールドワークとは,建築雑誌,日本建築学会,200903


 『建築雑誌』200903「建築家資格の近未来――大学院JABEEは何を目指すのか」

 

 真のフィールド・ワークとは

 布野修司(滋賀県立大学教授、建築計画委員会委員長)

 

「実務」経験というけれど、「実務」の中身が問題である。インターンシップというけれど、インターン先の「実務」の中身が問題である。「現場」を知らずして建築の仕事が成り立たないことははっきりしている。また、建築家を育てるとしたら「現場」である。しかし、「現場」とは何か、が問題である。

インターンシップと称して、CADや模型製作、打ち合わせや様々な仕事の流れに接することが「実務経験」なのであろうか。また、「現場体験」とは、工事現場で働くことなのであろうか。

 建築系の大学院の大半が「実務」経験とか「現場」教育といった観点を欠いてきたことは認めざるを得ない。事実今回の実務経験年数の取得のために大半の大学院がカリキュラムの変更を余儀なくされているのである。

大学院は研究と称する論文生産の技術しか教えていないではないか、というのが実業界の声という。確かにそうだ。しかし、そうした声を聞くにつれ、また、議論が「資格」に集中するなかで、「実務」と「現場」の中身こそが問題だと、つくづく思う。そもそも建築という創造行為の全体を見失った実務のシステムが問題を起こしたのではなかったか。

 枠組みを固定された「現場」でいくら「実務」を積んでも、建築家としての能力は身につかない。「現場」とは、建築現場に限らない。新たに発生する問題に瞬時に対応するするトレーニングをするのが「現場」である。新たな問題を発見する能力、創造的な種を発見する眼がそこで養われるし、全体として解答する力が必要とされるのが「現場」である。法制度でがんじがらめになった実社会より、大学院の方がまだしも可能性をもっているのではないのか。大学院の方は大学院の方でがんじがらめになりつつあるのだけれど。 




2022年7月26日火曜日

期待のヤングパワー ミシェル・ヴァン・アカー, 日経アーキテクチャー,19970310

 期待のヤングパワー ミシェル・ヴァン・アカー, 日経アーキテクチャー,19970310




スリランカ「ツナミ」遭遇記,スリランカ・ゴールGalleでインド洋大津波に遭遇:現場報告 オランダ要塞に救われた命,みすず,200503

 スリランカ「ツナミ」遭遇記,スリランカ・ゴールGalleでインド洋大津波に遭遇:現場報告 オランダ要塞に救われた命,みすず,200503

インド洋大津波 2004年12月26日 スリランカ・ゴール1 (youtube.com)

投稿: 編集 (blogger.com)

スリランカ・ゴールGalleでインド洋大津波に遭遇:現場報告

オランダ要塞に救われた命

 

 

布野修司

 

 この数年間、われわれの分野では決して少なくない助成金を頂いて、「植民都市研究」と呼ぶ研究プロジェクトを展開してきた。最初の二カ年は英国植民都市をターゲットとし(「植民都市の形成と土着化に関する比較研究Comparative Study on Formation and Domestication of Colonial Cities」(国際学術調査(19971998年度)・研究代表者(布野修司))、続いての三年は、オランダ植民都市(「(植民都市の起源・変容・転成・保全に関する研究Field Research on Origin, Transformation, Alteration and Conservation of Urban Space of Colonial cities)(基盤研究(A)2)(19992001年度)・研究代表者(布野修司))に焦点を絞った。

 この研究成果は、幸いなことに、『近代世界システムと植民都市』(布野修司編著、京都大学学術出版会)という著書としてまとめられることになり、この二月に出版された。そこで扱っているのが、一七世紀から一八世紀にかけてオランダが世界中で建設した植民都市である。まず、アフリカ、アジア、南北アメリカの各地につくられたオランダの商館、要塞など植民地拠点の全てをリストアップした。そして、その都市形態について類型化を試みた。そして、臨地調査を行った都市を中心にいくつかの都市を採り上げて比較した。主な調査都市は、ケープタウン(南アフリカ)、コーチン(インド)、ゴールGalle(スリランカ)、マラッカ(マレーシア)、バタヴィア(ジャカルタ)・スラバヤ(インドネシア)、台湾(ゼーランディア城、プロビンシア城)、エルミナ(ガーナ)、レシフェ(ブラジル)、 パラマリボ(スリナム)、ウイレムシュタッド(キュラソー)である。

 この七〇〇頁にも及ぶ大部の著書の校正(三校)を慌ただしく終えて、スリランカへ旅立ったのが一二月一八日である。この著書で取りあげるべくして、果たせなかったのが、スリランカの諸都市であり、とりわけ、コロンボであり、ジャフナであった。一九八三年以降の内戦、シンハラとタミルの間の対立は度々自爆テロを引き起こし、とても臨地調査を行う事が出来なかったのである。幸い南部のゴールについては、後述するモラトゥア大学のサミタ・マヌワドゥ先生の協力で調査することができ、著書でもかなりの頁を割いた。オランダからイギリスの手にスリランカが渡ると、ゴールからコロンボに拠点は移る。スリランカのオランダ植民都市をゴールで代表させるのは問題ない。ただ、他の中心拠点であったジャフナは見てみたかった。また、コロンボについてはハルツドルフ地区についての調査を開始し始めたところであった。

共同研究者である山本直彦立命館大学講師とともに一二月一八日に日本を発ち、二三日に應地利明先生(滋賀県立大学教授、京都大学名誉教授)とコロンボで合流、二四日にゴールへ向かった。

スリランカに着くと、ジャフナに飛行機が飛ぶという。当初はゴールからジャフナに飛ぶつもりであったが飛行機はコロンボ-ジャフナ間しか飛んでいない。当初の予定通りであったとすればジャフナで津波に遭遇したことになる。應地先生の今回のターゲットのひとつは、古くから東西交易の要であった、インドとスリランカが繋がるアダムズ・ブリッジの付け根にあるマンタイMantai(マントゥータMantota)と聞いていた。ここで「元」の染め付けが見つかれば画期的な発見になる。また、そこにはオランダがつくったマンナールMannar要塞がある。先攻隊として予備調査をしよう、と思い切ってジャフナにまず飛んだ。

そして、LTTI(タミル・イマーム解放の虎)の管轄地を抜けてマンナールへ行くことができた。チェックポイントがきつく、パスポートを発行されるなど、まるで、国の中に国があるようであった。軍事キャンプというのでわれわれはマンタイの調査は断念したのであるが、幸い、ジャフナ要塞もマンナール要塞も見ることが出来た。ただ、ジャフナ要塞など地雷危険の立て札がそこら中に立っており、市街地にも無数の銃弾の跡がある廃屋が数多く残されているだけで、とても調査どころではなかった。今回の大津波で、このジャフナにも多くの死体が流れ着いたというし、スリランカ東北海岸が-その被害の様子はあまり伝わっていないが-、津波の直撃を受け、相当のダメージを受けたのは伝えられるところである。

いささ駆け足であったが、以上の日程をこなし、コロンボに二三日に辿り着くことが出来た。そして、應地先生と予定通り合流、ゴールに向かったのである。二四日、二五日にゴールに宿泊。二六日はマータラMataraへ向かう予定であった。いずれにもオランダ要塞があり、ジャフナ、マンナールとともに今回の調査のターゲットであった。中でも、ゴールの保存状態はよく、世界文化遺産に登録されている。ゴール・フォートは三度目で、丁度五年前のクリスマス・イブにも調査で訪れ一週間滞在したことがあった。初めて訪れる應地先生、山本講師の案内役をかって出たのが今回の旅であった。

 以下、その瞬間からの一日をレポートしよう。

 

一瞬に召された命数知れずああ大津波神のみが知る

 

 当日(運命の一二月二六日)、モラトゥア大学のサミタ・マヌワドゥ教授は九時(日本とスリランカの時差は三時間)にゴールのゲストハウスに迎えに来てくれた。僕が京都大学に赴任した一四年前に研究室に在籍中で、スリランカの古都についての学位論文を仕上げられたところであった。その後、ゴールの調査ではお世話になった。また、一昨年一〇月から昨年六月まで僕の研究室に在外研究員として所属し、歴史都市京都についての研究をされた、そういう仲である。帰国して教授に昇進、スリランカで設計活動を展開する一方、文化財保護、保存修景の分野での第一人者として活躍している。今回の「オランダ植民都市研究」でも有力な共同研究者の一人である。

サミタさんは、コロンボを七時に出発。一〇時までには来る、ということであったけれど、道が空いていて、早く着いたという。この予想外に早く着いたことがひとつの運命の分かれ目であった。二四日に、我々は、四時間以上かかって、コロンボからゴールへ約百キロを移動したのである。このゴール・ロードは今回大きな被害を受けた。一瞬のうちにズタズタに分断されたのである。スリランカ西海岸には、スリランカの生んだ有名建築家ジェフリー・バウアが設計したホテルなど高級リゾート・ホテルが数多く並んでいる。海辺のこれらのホテルは今回大きな被害を被った。

ゴールの手前三〇キロのところにアンバランゴダAmbalangodaというイギリス時代に遡る歴史的町並みが残されているということで、帰りに見よう、と思っていたのだが、全て失われたという。ゴール直前のヒッカドゥアHikkaduaでは列車が脱線、一瞬のうちに千人が死亡したという。幼児がひとり生還、名前とお父さんの名前のみで住所がわからずTVで紹介、おばさんが名乗り出たことを後で知った。

 

転がった列車の中から幼児が生還名前名乗るも住所を知らず

 

 應地先生は、七時に宿を出て、ゴール・フォートの海岸を散歩。調査の時はいつものことだけれど、早起きして朝の光線の中で写真を撮るのと陶磁器片を拾うのが目的である。この根っからのフィールド・サイエンティストにはいつも多くを教えられ、ご一緒するゴールでの数日が楽しみであった。應地先生によると、津波の直前には、ダイバーはじめ、多くの人が海岸にいたという。僕は、これもいつものように、特に仕事ということではなかったけれど、宿でパソコンにむかっていた。陶磁器片を袋に入れて、浜辺で買ったという、シングル・アウトリガーの模型を片手に、應地先生が宿に戻ったのは八時三五分であった。帆船など船の模型の収集は、カウベルの収集とともに應地先生の職業(学問的)的趣味である。サミタさんが宿に着いたときには、「まあ一〇時ぐらいになるんじゃないの」と言いながら、食堂で共に食事中であった。折角早く着いたのだから、九時半出発ということで、準備をし、荷物を車に積もうとしていた九時一五分、異様な声があがり、表へ出ると、路地をすごい勢いで水が押し寄せてくる。

 

高波が襲ったという人の声あるわけないよこの晴天に

突然に水が溢れる晴天にこれが津波と知る由も無し

 

快晴で青空。一瞬思ったのは、水道管の破裂である。

「満月の日」で近隣の人たちは正装してお祭りの準備中だった。高潮で波がフォートの要壁を飛び超えて入ってきたというけれど、信じられない。こんなことは生まれて初めてだ、とフォート生まれの宿の主人は言う。結果的には当然であった。

 よく考えれば、不思議だったが、水はほどなく引いていった。オランダ要塞の排水システムは極めてよく機能したことになる。潮の干満を利用するすぐれたシステムだ。

要塞の中にいたからよかったけれど、海岸部のバンガローだったらひとたまりもなかった。実は、クリスマスのホリデーということで、ゴール・フォート内のホテルは予約で一杯であった。かつて泊まって、蚊に悩まされた、フォート内随一のコロニアル・スタイルのホテル、コロンボのGOH(グランド・オリエンタル・ホテル)と並び称せられたニュー・オリエンタル・ホテルは超高級ホテルに改修中であった。フォートの外に取ろうか迷ったのであるが、折角だからフォート内に泊まりたいと、サミタさんのコネクションで、ようやく小さなゲストハウスを見つけた、というのが経緯であった。これも後から考えるとぞーっとする運命的選択であった。

事件が発生したのは、九時一五分である。振り返って、スマトラ沖地震の発生時間は六時五八分という。二時間ちょっとでゴールを津波が襲ったことになる。直撃されたスマトラのバンダ・アチェなど、瞬時に、街全体が、海水で襲われたことになる。どうしようもなかった、ことはよくわかる。ゴール・フォートは、結果的に、防波堤となってくれたのである。

 

 城壁に人が連なり海を見る氷のように一言も無し

 

状況を何も把握せず、出発すると、要壁の上に人が沢山いて海を見ている。

車を止めて、要壁に登ってみると、ゴミが浮いているのが少し異常なだけで、海は至って静かである―一波と二波の間であった。あるいは最初に引き波が来たとすれば、二波と三波の間だったかもしれない―。ただ、要壁内に誰のだかわからない濡れた男性の靴が転がっており、波をかぶって転げ落ちた母子が放心状態であった。要塞の高さは海面から五メートルある。襲った波は一〇メートル近かったという。

 

道端に座り込んでいる母子の眼宙を彷徨い震えるのみ

 

これは、津波ではないか、地震だ、という應地先生に対して、サミタさんはスリ・ランカには地震がありません、という―スリランカには、『マハーヴァムサMahavamsa』と呼ばれる6世紀に書かれた古事記、日本書紀のような年代記がある。その中に、紀元前3世紀に、津波らしい記録があるという。女王が波にさらわれたという伝説である。だとすると、二二〇〇年ぶりの津波ということになる―翌日には、そうした解説がTVでなされていた―。ゴール・フォート内を回ってみると、東側の低地には水が貯まっている。後で見回って分かったのだが、北の波止場、オールド・ゲートから海水が直接侵入してきたのである。

これは容易な事態ではない、とようやく認識。車を高台に止めて様子を見ることにしたのであった。

 要塞に登って街を見ると、唖然とする光景が広がっていた。

 

気がつくと昨日撮った橋がない津波に飲まれ跡形も無し

気がつけばクリケット場に舟浮かぶフェンス破ってバスもろともに

口々に逃げろと叫ぶ声空し迫り来る二波後ろに気づかず

シュルシュルと獲物を狙う蛇のよう運河を登る津波の早さよ

 

 昨日撮った木造の橋がない。車が横転している。国際クリケット場にボートが浮いている。川からゴミが流れて来て、それを二波が押し返す。街に向かって、みんなが口々に、逃げろ、逃げろ、と叫ぶけれど、声が届くわけはない。

 フォート内には、軍の施設があるが、為す術がない。警察官が、サミタさんの携帯を借りて連絡するけれど通じない。誰かが、「ひとり流されている」、と叫ぶけれど、僕の眼では確認できなかった-。この段階では、多くの人が津波に浚われたとは夢にも思わない―結果的に、二八日段階の新聞報道で、ゴールでの死亡五〇〇人、行方不明一〇〇〇人。帰国後の情報では、二〇〇〇人以上の死体が上がったという。ゴールで日本人は見かけることはなかったのであるが、一人の日本人の遺体が回収されたのは年明けの三日である―。二波あるいは三波が来て、海水はフォート前のエスプラナードを完全に覆うまでに至らなかった。もう少し待てば、なんとかなる、というのが判断である。マータラへ行こうか、コロンボに戻ろうか、と考えていたくらいで、呑気なものである。

一時間ほどして、スマトラ沖の地震だ、というラジオのニュースが口コミで伝わってきた。

 二時間半経って、とにかく、山道でコロンボに戻ろう、と決断。フォートを出て、再び唖然、である。

 

大車横転後転繰り返す押し流されて皆スクラップ

大津波バスを転がし押し流すビルに突っ込みようやく止まる

 

バスが横転してビルに突っ込んでいる。逆さになった車もある。生来の野次馬根性で、写真を撮りたいと、車を降りて夢中になってシャッターを押していると、サミタさんが「先生、危ない!また、波が来る!」と叫ぶ、街の人もいっせいに逃げ出す、あわてて車に飛び乗ったけれど、冷静なサミタさんが、僕が乗るかどうかの瞬間、扉を開けたまま急発進、危うく振り落とされそうであった。逃げまどう人々の間を、警笛をならしながら、一目散に高台に向かったのであった。

 

海岸線全てズタズタ引き裂かれ大型バスが山道塞ぐ

救急車サイレン鳴らし向かい来る命を思って皆道を空ける

 

 山道も海岸から五キロほど離れている程度で、大混乱。明らかに興奮した面持ちの人で溢れていた。また、大型バスが迂回したため、大渋滞。救急車も何台も向かってくる。結局、八時間かけてコロンボに辿り着いたのであった。

 予約のホテルも被災していた。一階は波を浴びて使い物にならない。津波が襲ったのは一二時半だったという。ゴールと三時間の時差があるが、真実だとすると、インド大陸に当たった波が反射したことになる。帰国後の報道では、レンズ効果ということで波が回り込んだというが、コロンボ近辺については違うのではないか。それにしても、津波の速度が時速四〇〇マイル(あるいは時速八〇〇kmともいう)というのには驚く。まるで、飛行機なみの速度である。水が動いているわけではなく、震動が伝わっている、ということをつくづく実感するのである。

 コロンボに帰って、情報が集まり出した。被害の状況も次第にわかってきた。わかるに従って、ぞーっとする、感じがしてくる。サミタさんの到着が一五分遅れれば、また、我々が予定通り九時にマータラへ向けて出発していたら、津波にあっていた。應地先生が、もう少し朝の散策を延ばしていたら、確実に遭難していた。

 スリランカの西海岸は、被害は比較的少ない、と思われたのだが、帰国前に、コロンボからモラトゥアにかけての海岸線をめぐってびっくりした。海岸部には、多くのスクオッター・セツルメント―シャンティ・セツルメント―、貧しい人々の掘っ立て小屋群-があったが、その多くが潰れていた。おそらく、スリランカ(総人口一九〇〇万人)だけで一五〇万人―一月五日段階で八〇万人という―は被災したと思われる。これは大問題である。

 緊急ハウジングなど復興には相当の時間がかかる、というのが直感である。帰国直前二八日に、モラトゥア大学を訪問、工学部長、建築学部長、学科長に会った。プランテーション労働者のためのハウジング・プロジェクトについて議論することになっていたのであるが、すっとんでしまった。スタッフのほとんども、親戚などが被災しているという。

コロンボの街は、弔意の白旗が通りのそこここに掲げられていた。

 

怪我人でごった返しの飛行場痛々しげにその時を語る

パスポート荷物もろとも流されて出国できない空港ロビー

傷ついて緊急帰国安堵の顔全員揃ってチケット獲れて

 

サミタ先生との縁もある。何か、プロジェクトを支援しないといけないかな、という気になっている。一月に入って緊急ハウジング(三〇〇戸)の依頼が来るかも知れないとメールをもらった。帰国直後のサミタ先生のメールは次のように言う。

 

Still I am wondering, who helped to save our life from disaster.

  More than 2000 bodies have been recovered from the vicinity of Galle.

 










2022年7月24日日曜日

最終審問者としての歴史,『科学』特集「建築と法律」,岩波書店,200409

 最終審問者としての歴史,『科学』特集「建築と法律」,岩波書店,200409

科学9月号 特集:建築と法律 何がよい建築か

最終審問者としての歴史

布野修司

 

都市はひとつの作品である。都市に住み、建築行為を行うことは、住民それぞれの表現であり、都市という作品への参加である。そういう意味では、都市は集団の作品である。

都市の建設は一朝一夕に出来るものではない。完成ということもない。人々によって日々手が加えられ、時代とともに変化していく。そういう意味では、都市は歴史の作品である。

 建築とは何か、をめぐっては古来気の遠くなるような議論がある。「建築architecture」という言葉の語源は、知られるように、ギリシア語のアルキテクトンである。アルケー(arche 根源)のテクネーtechnē(技術)がアーキテクチャーである。カエサルに捧げられたウィトルウィウスの『建築十書』は、「建築家」はありとあらゆる技術、学問に通じている必要があると言い、「建築」をつくり挙げるための諸原理と方法をこと細かく示している。「建築」には一般に「用」「美」「強」の全てが関わる[i]

 しかし、「建築」の語源を明らかにし、数多の「建築論」を下手くそになぞって見たところで、「何がよい建築か」がわかるわけではない。むしろ、一般的に「建築」を論ずることが、「建築」と非「建築」あるいは「建造物building」を予め区別する特権意識に結びついていることを指摘しておいた方がいい。感覚的価値としての美を定義づけることで「美学」なるものが成立するともに、「技術」と「芸術」が分離し、同時に「建築」と「建造物」も分離されることになった。「建築家」が専ら価値を置くのは「ファイン・アートとしての建築」である。

 しかし、全ての建築行為が、都市(建築環境built environment)=「集団的歴史的作品」への参加であるという観点に立てば、その評価の視点や軸は、閉じた「建築」の世界のそれとは自ずと異なる。建築行為は、実に多様な視点、多様な水準、多様な次元で評価できるのであって、「何がよい建築か」について一般的に語ることはできないのである。具体的な建築物の評価をめぐって議論を積み重ねることこそが重要である。

 第一に確認すべきは、「よい建築」すなわち多様な水準、次元で評価しうる建築、ということである。様々な方式の設計競技において、総合評価と称して、様々なチェック項目を点数化して総和をとったり、それを総工費で除して比較したりすることが行われるが、「よい建築」とはそうした一元的な評価を超えるものである。「ただ安ければいい」「法律さえ守っていればいい」というわけにはいかないのである。

 多様な評価が可能ということは、その建築が多様な価値をもっているということである。個々の建築物がそのために最低限備えるべきは、ディテール(部分詳細)とコンセプト(理念)である。コンセプトがなければ多様な解釈、読解に基づく議論は起きないであろう。また、訪れるたびに(日々)新たな発見があるような、また、周到に考え抜かれたディテールがなければ魅力は薄いであろう。

 多様な評価は、当然、社会的評価を含むから、公共性、社会的合理性が大きな鍵になる。私有地だからといって勝手にデザインしていいということにはならない。街並み景観、相隣関係などあるルールが前提されている必要がある。その場所に相応しいルールを自ら提示するのが「よい建築」である。

 それを誰が判断するのか(という大問題についてはここでは留保せざるを得ない)。単純に住民の多数決によればいいというわけにはいかない。そこにはある「眼」が必要である。問題はその「眼」を社会的にどう担保するかである

「何がよい建築か」を最終的に判断するのが歴史であることははっきりしている。様々な意味で「長持ちする」建築が「よい建築」である。使い勝手がいい、容易に壊れない、維持管理がしやすい、耐用年限が長い、・・・というだけではなく、変化に対応でき、多くの人に愛される、・・・といった社会的耐用性も当然求められる。歴史に耐え、多くの人々の記憶に保持され続ける建築こそが「よい建築」である。それを如何に鋭く感知して見抜くかが「眼」の問題である。

 



[i] 『ウィトルーウィウス建築書』、森田慶一訳注、東海大学出版会、1969年、1979年。ウィトルウィウスに依れば、「建築」は、オルディナティオordinatio(量的秩序:尺度モドゥルスに基づいて全体を整序すること)、ディスポシティオdispositio(質的秩序:配置関係を統一的に収めること)、エウリュトミアeurythmia(美的構成)、シュムメトリアsymmetria(比例関係)、デコルdécor(定則:慣習、自然、様式)、ディスプリブティオdistributio(配分:材料、工費)の6つの原理、概念からなる。