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2024年4月16日火曜日

建設省住宅局編:これからの中高層ハウジング,丸善, 1993年

中高層ハウジングの「かたち」と供給システム

布野修司

 

 中高層ハウジング=積層集合住宅(地)の多様な形式

 中高層ハウジングのめざすもの、その基本理念、指針、基本モデルのための5つの柱から、具体的にはどのような「かたち」が導かれるのか。

 中高層ハウジングというと、日本では「マンション」「公団住宅」などの中高層集合住宅がイメージされる。しかし、ここでいう中高層ハウジングは、現在日本に見られる中高層住宅を前提にしているわけではない。むしろ、日本のこれまでの中高層住宅と異なる「かたち」を目指したい。また、その基本理念は別の「かたち」を要求しているはずである。

 日本の集合住宅は必ずしも多様でもない。というより、画一的だと指摘されることが多い。住戸形式もnLDKという記号で表現されるほど定型化され、その定型化された住戸をただ並べ、積み重ねるだけの「かたち」が一般的である。そして、そうした集合住宅によって形成されるまちの景観もそう豊かではない。同じような集合住宅が建ち並ぶ日本の団地の景観は、日本のまちの象徴である。

 中高層ハウジングの解答はひとつではない、立地により、建設・維持のしくみにより、またそこに暮らす人びとの生活により、さまざまな「かたち」をとる、中高層ハウジングは多様である、というのが第一の基本理念である。

 中高層ハウジングといっても、必ずしも階(層)数が問題なのではない。2~3層が低層、エレベーターを用いない5層までが中層、エレベーターの必要なのが高層というのが一般的分類であるが、高齢者やハンディキャップトのために2~3階建ての戸建住宅にもリフトが使用されるとするとその区別は本質的ではない。接地性(地面への近さ)による区別も、庭園や立体街路を各層に取り込む形になると必ずしも本質的ではない。テーマとなるのは、積層する住居の集合の「かたち」であり、立体的に住む住み方である。

 

 都市型住宅のかたち=共用空間の多様な形式

 中高層ハウジングは都市型のハウジングである。一戸一戸が独立するかたちの戸建住宅とは違って、集まって住む「かたち」が問題となる。廊下階段、壁など躯体のみを共有する区分所有の形式が一般的であるが、「所有」から「利用」へ、住居に対する価値観が転換して行くとすれば、何を「共有」し「共用」するかが問題になる。中高層ハウジングの「かたち」、集まって住むかたちを決めるのは、ある意味では「共用空間」の「かたち」である。そして、その「かたち」は住戸の形式とも関わる。

 ・厨房、食堂、居間などの空間を含めてほとんど全てのサーヴィス機能を共有する形式(例えば、「ホテル型マンション」)。

 ・厨房、バス、トイレなど設備のいくつかを共用する形式(コレクティブ・ハウス、設備共用アパート)

 ・部屋を共用する形式(例えば、倉庫、ピアノ室、書斎・勉強部屋などを一定期間賃貸する)

 ・廊下・通路空間を共用居間として利用する形式。

 すなわち、住機能をどのように配分するかによって多様な「かたち」がつくられる。さらに、集まって住むために必要な施設、店舗や集会所などのコミュニティ施設が有機的に組み込まれて多様な中高層ハウジングの「かたち」がつくり出されるのである。

  

 中高層ハウジングの骨格=スケルトンの3つの型

 中高層ハウジングが以上のように多様な「かたち」をとることを前提にした上で、具体的な「かたち」を考えよう。積み重なって住むことを可能にし、しかも多様な住戸形式、集合形式を可能にする手法が「スケルトン(躯体)分離」である。スケルトンとインフィル(内装)を分離することによって、居住者自ら住環境をつくりだす手掛かりを与えることができ、維持管理に関わる耐用年限の違いにも対応できる。

 多様といっても、それを物理的に実現するシステムが問題となる。技術的には無限の方法があるわけではない。その基本は建設システム、中でもスケルトン(躯体)のシステムである。スケルトンは、原理的に以下のO、A、Bの三つに分けられる。

 O 柱列型スケルトン

 A  壁型スケルトン

 B  地盤型スケルトン

  もちろん、このO、A、Bのそれぞれにも構造技術的にヴァリエーションがある。しかし、めざすべき中高層ハウジングの「かたち」について大きな整理ができ、最初の出発点になる。O、A、Bは、それぞれ大きく集合形式を規定し、住戸形式にも制約を与える。例えば、A型は、O型、B型に比べて、住戸単位の「かたち」や大きさを規定する。また、「共用空間」のシステムなど集合のためのサブ・システムがさらに必要となる。

 いずれにせよ、スケルトンの3つの型によって、中高層ハウジングの骨格を得ることが出来る。

 

 中高層ハウジングの供給モデル=土地・建物の所有(権移転)のモデル

  中高層ハウジングの「かたち」は、その立地によって異なる。従って、具体的な場所を設定しなければその「かたち」を議論することが出来ない。ここで具体的な敷地を設定する前提として、供給モデルを設定する必要がある。手掛かりは現実性である。また、中高層ハウジングの基本理念である。土地・建物の所有権の移転、供給主体に着目して供給システムを分析すると以下のような三つの供給(事業)モデルを設定できる。

 供給O型:個人の土地所有者による供給モデル(賃貸マンション、定期借地権付きマンション)。

 供給A型:供給後、居住者が土地・建物を共有するモデル(分譲マンション)。

 供給B型:供給後、法人・公共団体が土地・建物を所有する供給モデル(公団賃貸住宅、社宅・会員制マンション)。

 すなわち、供給後の土地・建物の所有形態によってわけるのである。ストック社会における住居形態を考える上で、ストックをどう維持管理するかが極めて重要なのである。

 

  中高層ハウジングの立地と開発モデル

 供給主体、そして供給後の土地・建物の所有関係のイメージを、ある程度以上のように区別した上で、中高層ハウジングの立地を考えてみると、その供給(開発)規模によって供給形態を区別することができる。

 開発O型ー1(One  apartment)住棟規模:

 開発A型ー団地(an partment complex)規模:

 開発B型ー街区(Block)レヴェル:

   O型の開発が隣接すれば、複数棟の開発になり、あらかじめ計画されるとするとA型の開発になる。また、さらに複数棟の開発が連続すれば街区単位の開発につながり、B型につながる。そうした意味でO型は基本である。しかし、規模によって「共有空間」のとり方に差異がある。

 中高層ハウジングの敷地を具体的に設定するには、当然、協調建替え、換地など都市計画的手法が必要である。また、敷地の形状に応じて、何段階かの開発プロセスが必要となる。まちづくりのプロセスとリンクすることにおいて、中高層ハウジングは都市型ハウジングとなりうるのである。

 

 中高層ハウジングの三つの型 98O、98A、98B

 スケルトンのOAB、供給モデルのoab、開発OABの区分において、原理的には3×3×3=27(OO)(OoA)・・・・(BbB)のパターンが設定できる。しかし、現実に最も可能性が高い組み合わせが(OoO)(AaA)(BbB)の三つである。紛らわしが、OABという同じ記号を用いた理由である。特にスケルトンの型と開発(供給)規模には対応関係がある。スケルトンO型はどんな規模にも対応できるけれど、スケルトンA、B型はそれぞれ開発AB型が最も適している。そこでスケルトンの型と供給規模の型を合わせてAOBの三つの型を考える。供給oabとの組み合わせが9パターン考えられるが(oB)(bA)の組み合わせは考えにくい。最も可能性高いケースが(Oo)(Aa)(Bb)である。そこで基本設計モデルのために単純化して三つの分類視点を会わせて、OABの三つの型を区別する。戦後日本の住宅のモデルとなった51cにならえば、98OABである。(Oa)(Ob)(Ao)(Ba)もその応用としてかんがえることができるだろう。

 

  以上において、中高層ハウジングのおよその「かたち」(スケルトン、敷地規模)が設定できた。それでは、具体的な住戸、住棟、団地、街区のイメージはどのような「かたち」をとるのか。居住者によっては具体的な「かたち」こそ問題である。

 しかし、ここではnLDKといった住戸モデル、階段室型といった住棟モデルは提出されない。すべて、立地、維持管理の仕組み、居住者の参加に仕方等によって「かたち」は変わりうる。中高層ハウジングが目指すのものが、居住者自らの居住環境形成であり、集まって住む多様な「かたち」であるが故に、後は個々の実例を積み重ねる必要がある。具体的な「かたち」が積み重ねられることによって、いくつかの型が生み出されるとすれば、中高層ハウジングという中性的な名称ではなく、また、「マンション」「アパート」「公団住宅」といったネーミングとは違う名前が定着することになるであろう。「つくば方式」「保谷Ⅰ、Ⅱ」といった地域名が冠されることになるかもしれない。

 日本の「まち」に相応しい都市型住宅が成立するかどうか、はもちろん、日本における家族や社会のあり方がどうなるか、また、それを支える様々な制度がどうなっていくかが問題である。高齢化が進行し、高齢の単身者が増えて行くとすれば、厨房や居間を共用するかたちのコレクティブ・ハウスの形式やケア付き住宅は不可欠である。女性の社会進出も、住宅の形式を変える可能性がある。外国人など文化的な背景を異にする人が集まって住むとすれば、当然これまでと異なる形式が必要になる。nLDKモデルだけでは対応できないことは明らかであろう。

 それに中高層ハウジングがひとつのまちであるとすると、住居以外の機能を持った空間が様々に挿入された新しい形式が必要になる。その「かたち」が日本の集合住宅を大きく変えることになろう。



 

2023年12月11日月曜日

PFI(「総合評価」)による事業者(設計者)選定方式  建築のあり方研究会編:建築の営みを問う18章,井上書店,2010年

  建築のあり方研究会編:建築の営みを問う18章,井上書店,2010


PFI(「総合評価」)による事業者(設計者)選定方式

布野修司

「世界貿易機構(WTO)」案件はもとより、国の事業は、既に「PFIPrivate Finance Initiative)」事業が主流となっており、公共事業の事業者選定におけるPFI方式は着実に定着しつつある。国あるいは地方公共団体が、事業コストを削減し、より質の高い公共サービス提供する(安くていいものをつくるという「説明責任」を果たす上で極めて都合がいいからである。第一に、PFI事業は、事業者選定の過程について一定の公開性、透明性を担保する仕組みをもっているとされる。第二に、国あるいは地方公共団体にとって、設計から施工、そして維持管理まで一貫して事業者に委ねることで、事務作業を大幅に縮減できる、第三に、効率的な施設管理(ファシリティ・マネージメント(FM))が期待される、そして第四に、何よりも、設計施工(デザイン・ビルド)を実質化することで、コスト削減が容易となる、とされる。しかし、「説明責任」が果たせるからといって、「いい建築(空間、施設)」が、実際に創り出されるかどうかは別問題である。

 

日本のPFIPrivate Finance Initiative)法は、欧米PFIでは禁止されている施設整備費の割賦払を禁止していないばかりかむしろ割賦払いによる施設整備を促進しており、財政悪化の歯止めをはずした悪法となっていることなど[i]、その事業方式そのものの問題はここでは問わない。事業者(特別目的会社SPC)および設計者の選定に関わる評価方式を問題にしたい。決定的なのは、地域の要求とその変化に柔軟に、また動態的に対応する仕組みになっていないことである。

 

BOTBTO

 公共施設整備としてのPFI事業が、BOT(建設Build→管理運営Operate→所有権移転Transfer)か、BTO(建設→所有権移転→管理運営)かは、建築(空間)の評価以前の問題である。

PFI事業がBTOに限定されるとすれば、設計施工(デザイン・ビルド)とほとんど変わらなくなることは容易に予想される。すなわち、設計施工の分離をうたう会計法の規定?をすり抜ける手段となりかねない。

SPCは、民間企業として、事業資金の調達および建築物の設計・施工・管理を行い、さらに、その運営のための多くのサービスを提供するのに対して、公共団体は、その対価を一定期間にわたって分割して支払うのがPFI事業の基本である。地方公共団体にとって、財源確保や管理リスクを回避できることに加え、契約期間中に固定資産税収入があることで、メリットが大きい手法となるはずである。問題は、民間企業にとって、どういうメリットがあるかである。PFI事業の基本的問題は、すなわち、公民の間の、所有権、税、補助金などをめぐる法的、経済的関係、さらにリスク分担ということになる。

公には「施設所有の原則」があり、「施設を保有していないのに補助金は出せない」という見解、主張があった。公的施設の永続性を担保するためには公による所有が前提とされてきたからである。実際は、BTO方式によるPFI事業にも補助金を出すという決定(補助金交付要項の一部改正)がなされることになる。SPCにとっては、補助金がないとすれば、メリットは多くはない。BOT方式のPFI事業では、所有権移転を受けるまでの30年間(最近では10年~20年のケースが増えつつある)は、SPCの所有ということになる。従って、SPCは税金を払う必要がある。これではSPCにはさらに魅力がないことになる。

実際上の問題は、公共施設のプログラム毎にケース・バイ・ケースの契約とならざるを得ない。「利益が出た場合にどうするか」というのも問題であるが、決定的なのは「事業が破綻した場合に、その責任をどのようにとるか」である。契約をめぐっては、社会的状況の変化をどう考えるかによって多様な選択肢があるからである。公共団体、SPC、金融団等の間に「秘密保持の合意」がなされる実態がある。破綻した際の責任をだれが取るのか、建築(空間)の質の「評価」の問題も同じ位相の問題を孕んでいる。

 

責任主体 

PFI事業によって整備される公共施設の「評価」を行い、SPCの選定に関わる審査機能をもつ委員会は基本的に法的な権限を与えられない。従って、責任もない。これは、PFI事業に限らず、様々な方式の設計競技においても同様である。また、審査員がどのような能力、経験、資格を有すべきかどうかについても一般的に規定があるわけではない。

地域コミュニティや自治体に属する権限を持った「コミュニティ・アーキテクト」あるいは「タウンアーキテクト」、また法的根拠をもってレビューを行う英国のCAVE(Committee of Architecture and Built Environment)のような新たな仕組みを考えるのであれば別だが、決定権は常に国、自治体にある。都市計画審議会にしろ、建築審議会にしろ、諮問に対して答申が求められるだけである。

日本の審議会システム一般についてここで議論するつもりはないが、PFIをうたいながら、すなわち民間の活力、資金やノウハウを導入するといいながら、審査員には「有識者」として意見を言わせるだけで、予め設定した枠組みを全く動かさないという場合がほとんどである。

「安くていいものを」というのが総合評価方式であり、一見オープンで公平なプロセスであるように見えるが、プロジェクトの枠組みそのものを議論しない仕掛けが「審査委員会」であり、国、自治体の説明責任のために盾となるのが「審査委員会」である。

予め指摘すべきは、地域住民の真のニーズを汲み上げる形での公的施設の整備手法は他にも様々に考えられるということである。

 

プログラムと要求水準

公共施設整備の中心はプログラムの設定である。しかし、公共施設は様々な法制度によって様々に規定されている。施設=制度institutionの本質である。

民間の資金やノウハウを活用することをうたうPFI事業であるが、予め施設のプログラムは、ほとんどが「要求水準書」によって決定されている。この「要求水準書」なるものは、多くの場合、様々な前例や基準を踏襲してつくられる。例えば、その規模や設備は現状と変わらない形で決められてしまっている。また、容積率や建蔽率ぎりぎりいっぱいの内容が既に決定されており、様々な工夫を行う余地がない。極端に言えば、あらたな質をもった建築空間が生まれる可能性ほとんどないのである。

「要求水準書」は、一方で契約の前提となる。提案の内容を大きく規定するとともに、審査における評価のフレームを大きく規定することになる。すなわち、公共施設の空間構成や管理運営に地域住民のニーズを的確に反映させる仕組みを予めPFI事業は欠いているといっていい。参加型のワークショップなど手間隙はかかるけれどもすぐれた方法は他にある。

 

総合評価

公共施設整備の核心であるプログラムとして、設計計画のコンセプト、基本的指針が本来うたわれ、建築的提案として競われるべきである。そして、公的な空間のあり方をめぐってコンセプトそのものが評価基準の柱とされるべきである。あるいは、コンセプトそのものの提案が評価の中心に置くべきである。しかし、コンセプトはしばしば明示されることはない。PFI事業においては、「総合評価」方式が用いられるが、「総合評価」といっても、あくまで入札方式としての手続きのみが問題にされるだけである。

問題は、「総合評価」とは一体何か、ということになる。

A 評価項目とそのフレーム

多くの場合、審査員が参加するのは評価項目とその配点の決定からである。予め「先例」あるいは「先進事例」などに倣った評価項目案が示され、それを踏襲する場合も少なくない。すなわち、国あるいは地方公共団体の「意向」が反映されるものとなりやすい。

問題は、建築(空間)の質をどう評価するか、であって、そのフレームがまず審査員の間で議論されることになる。ここで、審査員によって構成される委員会におけるパラダイムに問題は移行することになる。例えば、建築を計画、構造、設備(環境工学)、生産といった分野、側面から考えるのが日本の建築学のパラダイムであるが、一般の施設利用者や地域住民にそのフレームが理解されることは稀である。「要求水準書」を満たすことは、そもそも前提であり、しばしば絶対条件とされる。審査委員会の評価として「プラス・アルファ」(それはしばしば外観、あるいは街並みとの調和といった項目として考慮されようとする)を求めるといった形でフレームが設定されるケースがほとんどである。

B ポイント制

フレームはフレームとして、提案の全体をどう評価するかについては、各評価項目のウエイトが問題となる。各評価項目を得点化して足し合わせることがごく自然に行われる。複数の提案から実現案1案を選ぶのであるから、審査員が徹底的に議論して合意形成に至ればいい(文学賞などの決定プロセス)のであるが、手続きとしてごく自然にこうしたポイント制が採られる。審査員(専門家)が多数決によって決定する、またその過程と理由を公開する(説明責任を果たす)のであればいいのであるが、ポイント・システムは、例え0.1ポイント差でも決定理由となる。建築の評価の本質(プログラムとコンセプト)とはかけ離れた結論に導かれる可能性を含むし、実際しばしばそうしたことが起こる。

各評価項目もまた、客観的な数値によって評価されるとは限らないから、多くの場合、相対評価が点数による尺度によって示される。個々の審査員の評価は主観的であるから、評価項目ごとに平均値が用いられることになる。わかりやすく言えば、平均的な建築が高い得点を得るのがポイント制である。

建築の評価をめぐる部分と全体フレームをめぐる以上の問題は「建築」を専門とする専門家の間でのパラダイムあるいはピア・レビューの問題であるといってもいい。

C 建築の質と事業費

「安くていいものがいい」というのは、誰にも異を唱えることができない評価理念であるが、「いい」という評価が、Bでの議論を留保して、点数で表現されるとして、事業費と合わせて、総合的にどう評価するかが次の問題である。

建築の質に関わる評価と事業費といった全く次元の違う評価項目を比較するとなると、点数化、数値化は全く形式的なものとならざるを得ない。そこで持ち出されるのが実に単純な数式である。

事業費を点数化して、建築の質の評価に関わる点数と単純に合わせて評価する加算法と、質は質として評価した点数を事業費で割って比べる除算法が用いられているが、数学的根拠はない。極めて操作的で、加算法を採る場合、質の評価と事業費の評価を5:5としたり、4:6にしたり、3:7にしたり様々である。除算法を採る場合、予め、基本事項(要求水準)に60%あるいは70%の得点を与える、いわゆる下駄が履かされる。基本的には、質より事業費の方のウエイトを高くする操作と考えられても仕方がない。

単純に事業費のみとは限らない。SPCの組織形態や資金調達能力などが数値化され、係数を加えたりして数式が工夫される。

事例を積み重ねなければ数式の妥当性はわからないというのが経営学の基本的立場というが、建築の質の評価の問題とはかけ離れているといわざるを得ない。

地方公共団体の施策方針と財務内容に基づいて設定された事業費に従って、施設内容、プログラムを工夫するやり方の方がごく自然である。

D 時間的変化の予測と評価

事業費そのものも、実は明快ではない。いわゆる設計見積を評価するしかないが、設計・施工のための組織形態によって大きな差異がある。そして何よりも問題なのは、時間の変化に伴う項目については誰にも評価できないことである。維持管理費やランニング・コストについては、提案書を信じるしかない。

結局は、予測不可能な事態に対処しうる組織力と柔軟性をもったSPCに期待せざるを得ない、ということになる。

事後評価

PFI事業の事業者選定委員会は、設計競技の審査委員会も同様であるが、多くて数回の委員会によってその役割を終える。当初から事業に責任がないことは上述の通りであるが、事後についても全く責任はなく、なんらの関係もない。そもそも、PFI事業は一定の期間を対象にしているにも関わらず、事後評価の仕組みを全く持っていない。

事業の進展に従ってチェックしながら修正することが当然考えられていいけれど、そうしたフレキシビリティをもったダイナミックな計画の手法は全く想定されていない。

 

以上、PFI事業による公共施設整備の問題点について指摘してきた。透明性の高い手法として評価されるPFI事業であるが、実は、建築(空間)の評価と必ずしも関わらない形式的手続きによって事業者が決定されていることは以上の通りである。PFI事業の制度は、結局は事業費削減を自己目的化する制度に他ならないということになる。「いい」建築を生み出す契機がそのプロセスにないからである。少なくとも、地域住民のニーズに即した公共建築のあり方を評価し、決定する仕組みを持っていないことは致命的である。

問題点を指摘する中でいくつかのオールタナティブに触れたが、「コミュニティ・アーキテクト」制の導入など、安くていい、地域社会の真のニーズに答える仕組みはいくらでも提案できる。要は、真に「民間活力」を導入できる制度である。

4800字 4p



[i] 割賦払いの契約を締結すると公共には施設整備費を全額支払う義務が生じ、施設の瑕疵担保リスクを超えた不具合リスクを民間に移転することが出来なくなるというデメリットが生じる。そして、公債よりも資金調達コストの高い民間資金を利用して施設を整備する合理的な理由がなくなる。


2023年9月3日日曜日

都市のかたちーその起源,変容,転成,保全ー,『都市とは何か』『岩波講座 都市の再生を考える』第一巻,岩波書店,2005年3月

 都市のかたちーその起源,変容,転成,保全ー,『都市とは何か』『岩波講座 都市の再生を考える』第一巻,岩波書店,2005年3月

第Ⅱ章 都市のかたち―その起源、変容、転成、保全

布野修司 

都市はひとつの作品である。

都市に住み、建築行為を行うこと自体が、住民それぞれの表現であり、都市という作品への参加である。そういう意味では、都市は集団の作品である。都市の建設は、一朝一夕に出来るものではない。完成ということもない。人々によって日々手が加えられ、時代とともに変化していく。そういう意味では、都市は歴史の作品である。

一人の天才によって都市のかたちが提案されることはある。また、古代の都市がそうであるように、それぞれのコスモロジー(世界観、宇宙観)に基づいて都市が理念的に設計されることも行われてきた。しかし、実際の建設には無数の人々が関わる。そして、理念通りに都市が完成されることはむしろ稀である。隋唐の長安城にしても、平安京にしても、グリッド(格子状、チェス盤状)・プランの全体が完成する以前に中心は左京に移動している。また、近代の計画的首都として建設されたブラジリアにしても、チャンディガールにしても、当初はスクォッター(不法占拠者)が蝟集(いしゅう)する事態を招いた。

本章では、集団の歴史的作品としての都市の具体的なかたちとそれを生み出す原理、あるいはそれを支える仕組みを問題にしたい。すなわち、都市を構成する物的要素(住居、建物、道路、下水道、空地、緑地、公園・・・)の布置、配列形式のあり方について考えたい。具体的には、都市の全体計画、地区計画、景観計画などフィジカル・プランニングのあり方をめぐって、都市再生の行方をグローバルに展望したい。

 

一 都市の原型

都市といっても古今東西様々である。そのかたちが多様であるのに加えて、その概念そのものも、地域によって、民族によって、多様である。都市のかたちを念頭に置きながら、まず、都市という言葉、起源、その原型と諸類型をめぐって基本的な事項を整理しておこう。

1 都市という言葉

日本語の「都市」という言葉は、「都(みやこ)」と「市(いち)」を合成した近代語である。「都」は、王権の所在地、天皇、首長の居所を意味したが、古代においては必ずしも固定的な場所ではなかった。「市」は、物が交換される場であるが、物だけでなく人々の自由な交渉の場でもあり、日常の生活や秩序とは区別される「無縁」の空間をも意味した。「町(まち、ちょう)」は、文字どおりもともと田地の区画を意味したが、やがて「都」の条坊の一区画をさすようになった。「都」、「市」、「町」のほかにも、津、泊、浜、渡、関、宿など、都市的集住の場を示す多様な語が日本語にある。

中国語では「城市」という。府、州、県といった行政単位の中核都市をいうが、「都」すなわち王都(首都)については「都城」を用いた。「城」の字が城壁で囲われる中国都市の形態の特徴を示している。中国の都城制を日本は導入するが、決定的に異なるのが「城壁」の有無である。

西欧語では、ギリシャのポリスpolis、ローマのキヴィタスcivitasがまず思い浮かぶ。ラテン語のキヴィタスは、シティcity、シテcite、チッタcittaなどの語源である。キヴィタスとは、第一義的には、自由な市民の共同体を指す。また、その成員権(市民権)をもつものの集まり(ネットワーク)をいう。そして、その成員の住む集落やテリトリーを含めた地域全体を指す。従って、中国や日本の都市の概念とは異なり、「国(くに)」=「都市国家」と訳される。キヴィタス群がローマ帝国となり、ローマ市民の一部が各地に送られて、形成したのが「植民都市(コロニアcolonia)」である。ポリスは、同様「都市国家」と訳されるが、形態的には、城壁(囲郭)都市を指す場合、その中心のアクロポリス(丘)のみを指す場合、城壁がなくてある領域を指す場合など色々ある。

ラテン語には、もうひとつ、アーバンの語源であるウルブスurbsという語がある。農村に対する「都会」である。ウルブスというのは、もともと、エトルリア地域で他と聖別された区域としての「ローマ市」を意味したが、次第に一般的に使われるようになったという。さらに、オピドゥムoppidumという語がある。「城砦」を意味する。

インドには、ナガラ(都市)、プラ(都市、町)、ドゥルガ(城塞都市)、ニガマ(市場町)といった語、概念がある。インドネシアでは、一般に都市・町をコタkotaという。サンスクリットの城砦都市を意味する語が語源である。

こうして、「都市」を意味する言葉とその語源をめぐる問いは、都市とは何かを伺う最初の手掛かりである。「都市」を意味する様々な言葉群に通底する共通特性が、すなわち「都市」の定義ということになろう。

2 都市の起源

都市の定義は、しかし、そう簡単ではない。市壁、要塞の存在をその本質とすれば、日本にそもそも都市はない、ということになる。M.ウエーバーの『都市の類型学』は、「①防御施設、②市場、③裁判所を持ち、さらに④団体として、⑤自律性、自主性を持つ都市「ゲマインデ」の団体的性格と「市民」の身分的資格」を都市の定義として、中国、インド、イスラームの諸都市、すなわち、東洋の都市はこの両概念を欠如しているから都市とは呼べないという。

都市のかたち、その物理的な構成要素に着目すれば、もう少し一般的に規定できるが、それでも以下のようにいくつかの特性を列挙することになる。『形づくられた都市』[1]を書いた建築史家のS.コストフは、シカゴ派の都市社会学者L.ワースの「都市とは社会的に異質な個人が集まる、比較的大きな密度の高い恒常的な居住地である」(生活様式としてのアーバニズム)、そして都市文明批評家L.マンフォードの「都市とは地域社会の権力と文化の最大の凝集点である」という定義を引いた後、さまざまな議論をまとめて、都市の特性、要素として、以下の9つをあげている。A活力ある群衆Energized crowding、B都市クラスターUrban Clusters、C物理的境界Physical Circumscription、D分業:用途分化Differentiation of Uses、E都市資源Urban Resources、F文字、書かれた記録Written Records、G都市と田舎(後背地)City and Countryside、H記念碑:公共建造物Monumental Framework、I建造物と市民Buildings and People。都市は単独で存在するのではなく他の都市とヒエラルキカルな関係をもつ(B)、また、必ず後背地との関係において存在する(G)といった視点が興味深い。

また、「都市革命」[2]を書いた考古学者のG.チャイルドは、遺跡を都市とする条件として次の一〇項目を挙げている。1.規模(人口集住)、2.居住者の層化(工人、商人、役人、神官、農民)、3.租税(神や君主に献上する生産者)、4.記念建造物、5.手工業を免除された支配階級、6.文字(情報記録の体系)、7.実用的科学技術の発展、8.芸術と芸術家、9.長距離交易(定期的輸入)、10.専門工人。高密度の集住、分業、階層化と棲み分け、物資、資本、技術の集中、権力、宗教の中心といった特性が共通に挙げられるが、ゴードンの場合、分業と階層分化(2,3,5,8,10)を重視している。

都市とは何か、についてもう少しストレートに問うとすれば、都市の発生、都市の起源を考えることになるが、ここでも議論は少なくない。都市の発生は、一般的には、農耕の開始によって定住的な集落がつくられ、生産力の増大とともに集落規模は拡大し、また、集落の数が増す、そして、集落を束ねる、ネットワークの中心、結節点としての都市の誕生に至る、というように理解されている。すなわち、農耕革命による生産力の増大、その余剰によって都市が成り立つというのが一般的な説明である。しかし、都市の発生と定住は同時である、あるいはむしろ、都市の発生が先行する、という見方も有力である。定住革命、農耕革命についても、定住を余儀なくされたために農耕が始まったという主張もある[3]

一般的な生産力理論に基づくA余剰説に対して、B市場説、C軍事(防御)説、D宗教(神殿都市)説、E政治権力説等さまざまな起源説がある。すなわち、都市の成立要因として、都市のどの特性を強調するかということになるが、市場や神殿の立地、防御・軍事機能、政治的統治機能が先行するといった諸説である。藤田弘夫の『都市の論理』[4]のように、都市の起源を権力の発生と同時と考える説によれば、都市の発生と国家の発生は同じ位相で議論される。この場合、余剰は最初から社会的余剰である。すなわち都市住民のために生産物を強制的に移動させる装置が都市である。

都市の諸類型

古代都市、中世都市、近世都市、近代都市といった歴史的な時代区分に基づいた類型、また、西洋都市、アジア都市、あるいはヨーロッパ都市、インド都市、中国都市、日本都市といった地域区分に基づく類型、さらに都市の機能に着目する①生産都市(工業都市、鉱業都市、水産都市、林業都市)、②交易都市(商業都市、貿易都市、交通都市)、③消費都市(政治都市、軍事都市、学術都市、宗教都市、観光都市、保養都市)といった類型など様々な都市類型論があるが、都市のかたちの類型は以上のような類型と一対一に対応するわけではない。

都市の原初的形態を探るためには、第一に、紀元前八〇〇〇年頃(スルタン文化)の農耕集落の遺跡として知られるヨルダン川西岸のイェリコ遺跡、また最古の都市遺跡といわれる紀元前六〇〇〇年頃と推定される小アジアのチャタル・ヒュユク(ホユック)遺跡など、そして、メソポタミア、エジプト、インダス、黄河の四大都市文明の都市遺構を訪ねることになるが、その全体像は解明されているわけではない。

ここでは、西欧列強が世界中に建設した数限りない近代植民都市を対象としながら、都市のかたちの類型を提示してみよう。植民都市は、都市建設の原初をある程度再現していると考えることができるのである。また、産業化以前における都市のかたちをめぐっては、ある程度、共通の類型を想定してみることができるのである。大きなヒントになるのが、宮崎市定によるモデルである。宮崎市定は、中国古代城郭の起源をめぐって、「紙上考古学」と称して、山城式→城主郭従式→内城外郭式→城従郭主式→城壁式という発展形式を想定する。そして、この発展過程はギリシャ、ローマの都市の場合と共通であるという[5]

近代植民都市の起源は、交易拠点として設けられる商館である。そこでの取引、貿易が植民都市の第一の機能である。そして、取引、貿易をめぐって引き起こされる様々な軋轢、抗争に対処するために防御機能が付加される。商館の要塞化、要塞の建設である。続いて、布教のための拠点として教会や修道院が設置される。交易や布教のための拠点を恒常的に維持するためには、商館員や兵士の常駐が必要とされる。植民あるいは移住によって市街が形成されることになる。市街地が成長すれば、それを支える後背地も成長する。植民地社会が拡大するにつれて、植民都市は段階的に都市の持つ諸機能を備えていくことになる。すなわち、植民都市は、規模や発展段階によって、Oロッジlodge、A商館factory、B要塞化した商館あるいは商館機能を含む要塞fortified factory、C要塞 (+商館)fort(+factory)+集落、D要塞+市街 fort+city、E城塞 castle、F城塞+市街 castle+cityにおよそ類型化出来る。

Aは交易のみのための最小限の施設である。専用の商館をもたないロッジOの段階をこれ以前に区別できる。商館も現地社会との関係によって防御設備が必要となる。A、Bの区別は必ずしも明確ではないが、要塞の内部に商館機能を含むかどうかで基本的にCとは区別される。要塞とは別に商館が設けられることも少なくない。そして市街地が形成され、全体が市壁で囲われたものがDである。港湾に立地する植民都市の場合、市街によって要塞が囲まれる形より、要塞と市街が連結した形態をとることが多い。要塞と市街が一体化したものがEである。CとEの違いは単に規模の違いではなく、内部に居住区を含むかどうかの違いである。さらにその外郭に一般の居住地が形成されるのがFである。単純な分類であるが、既存の集落、現地住民の居住区との関係でさらに分類できる。さらに、全くの処女地に計画されたものと既存の都市ないし集落を基にして建設されたものを区別することができる。

「市」の機能をその本質的要素とするなら、たとえ商館ひとつの建設でも都市成立の条件となる。また、防御機能を都市の本質と考えれば、要塞の建設は都市建設の第一歩である。数多くの植民都市の事例を見ると、A→Fは歴史的に段階を踏んで推移するように思われる。また、理念的にもA→Fの過程は、必然的なものとして想定できる。どの段階をもって類型化するかが問題となるが、当然のことながら、歴史的な時間の経過とともにひとつの都市も形態や機能を変えて行く。都市のかたちの原型は、A→Fの過程が重層するものとして理解できるであろう。

 

二 都市計画の系譜

都市が基本的に人工的な構築物であり、計画されるものであるとすれば、都市の発生と都市計画の発生は同時ということになる。都市は古代世界における基本的な「制度」のひとつとして成立したのである。

都市計画に関わる制度とは、具体的には、個々の建築行為、土地所有などを規制する法である。そして、都市のかたちはその表現となる。もちろん、「都市計画」Town-Planningという概念、制度が成立するのははるかに後のことである。「都市計画」という言葉が最初に用いられたのは、オーストラリアに渡って活躍した英国生まれの建築家J.サルマンの「都市の配置」(一八九〇年)という論文である[6]。また、英国で住宅都市計画等法Housing and Town Planning etc Actが成立した一九〇九年頃から一般的に用いられ始める。さらに、計画という概念が一般に流布するのは、計画経済が導入され、五カ年計画が行われ始めた一九二〇年代以降のことである。

欧米中心の都市史、都市計画史には、非ヨーロッパ世界の諸都市、特にアジアの都市についての視野が欠落している[7]が、ここではまず、各地域共通に、Ⅰ.都市文明の発生、Ⅱ.近代世界システムの成立(西欧世界の海外進出)、Ⅲ.産業社会の成立(近代都市の出現)、が大きな時代区分となることを前提としよう。都市計画史の段階区分としては、火器の誕生=攻城法の変化、そして、鉄道および自動車の出現が決定的である。

産業化以前の都市計画の伝統、その系譜を思い切っていくつかに類型化すると、以下のようである。この伝統をどう再生するのか(しないのか)、また、出来るのか(出来ないのか)、が今問われているのである。

1 ヒッポダミック・プラン―――グリッド都市

都市計画の起源というと、決まってミレトスのヒッポダモスHippodamos前五世紀頃)の名前があげられる。ヒッポダモスこそ、整然としたグリッド・パターンの考案者であり、最初の都市計画家である、とアリストテレスが「都市計画の考案者」(『政治学』第二書)と書いているからである。しかし、ヒッポダモス以前にヒッポダモス風計画(ヒッポダミック・プラン)、すなわちグリッド・パターンの都市計画がなかったかというと決してそうではない。エジプトのカフーンやエル・アマルナの労働者集落は規則正しいパターンをしているし、東トルコのゼルナキ・テベやアッシリア時代のパレスティナのメギドもミレトス(前四七九頃)に先立つ。また、ヒッポダモスがミレトスの設計にかかわったかどうかは明らかではない。アリストテレスは、ヒッポダモスを理想的な都市のあり方について思索した一風変わった社会・政治理論家といい、ペイライエウスという都市を設計したといっているだけである。いずれにせよ、考古学的発掘から、ヒッポダモス以前に、グリッド・パターンの都市計画が存在したことは、ミレトスとともにグリッド・パターンの都市の先駆とされる古スミュナルの発掘からも明らかである。

 何故、グリッド・パターンなのか。グリッド・パターンの都市をみると、そのほとんどは新たに更地(さらち)に建設された植民都市である。ミレトスは九〇にも及ぶ植民都市を建設したという。都市計画の技術的問題(測量、整地、建設)、土地分配、住民管理の問題などを考えると、植民都市におけるグリッド・パターンの採用は極めて自然である。古代ギリシャ・ローマに限らず、新大陸に西欧列強が建設した植民都市を思い起こしてみればいい。特に、土着の文化を根こそぎにする施策をとったスペイン植民都市が典型的である。

 古今東西、グリッド・パターンの都市は数限りない。

ぺルガモン様式―――記念碑都市

「ヒッポダモス様式」の都市とは別にもうひとつ、ギリシャ都市の伝統として自然な地形を活かすかたちのの都市がある。アレクサンドロス大王の東征は東方ヘレニズム世界に多数のグリッド都市を生むが、一方で統治者の威信を誇示するために都市を壮麗化する動きが起こってくるのである。

 グリッド・パターンの都市の建設は大きなコストを要した。都市の立地によっては大規模な造成が必要となるからである。白紙の上にグリッドを描くのは簡単でも、現実には多くの困難を伴う。一方、自然の地形をそのまま用いる都市には壮大な景観を生み出す可能性があった。小アジアを中心に、支配者たちは、都市を自らの業績の、永遠の記念碑として残すために、大きな景観の中に都市を構想し始める。

アリンダ、アッソス、ハリカルナッソスなどの都市が例として挙げられるが、こうした都市の記念碑化、壮麗化の頂点に立つのが小アジアの西海岸のペルガモン[8]である。町そのものが断崖の頂と南斜面に立地するペルガモンは、地形を逆にとって壮麗な景観を作り出すのに成功した。「ペルガモン様式」と「ヒッポダモス様式」は、古代ギリシャ・ローマの都市計画の、二つの異なる起源であり、伝統となる。

都市とコスモロジー――宇宙論的都市

 「ペルガモン様式」であれ、「ヒッポダモス様式」であれ、その内部構成に着目すれば様々である。二つの伝統とは別の次元で、第三の都市計画の伝統がある。都市のかたちを宇宙の秩序の反映として考える、宇宙論的都市の系譜である。宇宙の構造を都市の構造として表現しようとする都市かたちとして、古代中国や古代インドの都城が明快である。中国の都城は、理念として「天円地方」の宇宙を示すとされる。東西南北に走る道路で区画され、中央に王宮がある。その南に社稷、宗廟の祭祀施設、北側に市場が置かれる。『周礼』考工記の「匠人営国」の条は都城の理念を示すものとしてよく知られている。古代インドにも、理想の都市について記述した『アルタシャーストラ』がある[9]

「都城」について、それを支えるコスモロジーと具体的な都市形態との関係を、アジアからヨーロッパ、アフリカまでグローバルに見てみると、いくつか指摘できることがある。

 第一、王権を根拠づける思想、コスモロジーが具体的な都市のプランに極めて明快に投影されるケースとそうでないケースがある。東アジア、南アジア、そして東南アジアには、王権の所在地としての都城のプランを規定する思想、書が存在する。しかし、西アジア・イスラーム世界には、そうした思想や書はない。第二、都市の理念型として超越的なモデルが存在し、そのメタファーとして現実の都市形態が考えられる場合と、機能的な論理が支配的な場合がある。前者の場合も理念型がそのまま実現する場合は少ない。理念型と実際の都市の重層はそれぞれ多様な都市形態を歴史的に生み出してきた。現実の都市構造と理念型との関係は時代とともに変化していく。第三、都城の形態を規定する思想や理念は、その文明の中心より、周辺地域において、より理念的、理想的に表現される傾向がつよい。例えば、インドの都城の理念を具体的に実現したと思われる都市は、アンコールワットやアンコールトムのような東南アジアの都市である。

都市とコスモロジーとの明確な結びつきは、中国、インドに限定されるわけではない。J・リクワートは、ローマについてそのイデアを明らかにし、さらに様々な事例を挙げている[10]

ダイアグラムとしての都市―――幾何学的都市

 宇宙の秩序、あるいは理想的な秩序に基づいた都市を構想し、表現しようという試みは歴史の地層に幾脈の流れをもっている。プラトン、アリストテレス以降の理想都市論の様々な流れは、H・ロウズナウ[11]が明らかにするところである。

理想都市は、しばしば幾何学的な形態によって表現されてきた。プラトンの『法律』(第五書)では、都市は国家の中心に置かれ、アクロポリスは環状の壁で囲まれる。円形状の理想都市の全体は一二の部分に分割され、さらに土地の良否が平等になるように五〇四〇の小区画が計画される。また、プラトンは、伝説上の「幸福の」島、アトランティスについても理念型を記述している。アトランティスでは矩形の土地がそれぞれ正方形の六万の区画に区切られている。理想都市の二つの幾何学的形態、円形放射状のパターンとグリッド・パターンが、プラトンのユートピアにおいて既に提示されている。

この系譜のハイライトがルネサンスの理想都市である。完結的な幾何学形態への志向は、理想としての古典古代の発見、ギリシャ・ローマ都市の理想の復興という精神の運動を基礎にしていたが、具体的にはヴィトルヴィウスの建築論、都市論の発見と読解がその基礎にある。この形式化への志向を突き詰めることにおいて、理想都市の計画は中世における宗教的、象徴的な解釈から解放されることになる。しかし、理想都市の計画は、幾何学的な操作の対象に矮小化されたといえる。

ルネサンスの理想都市の提案の背景には、都市計画史上の一大転換がある。それ以前は、攻撃より防御に重点があったけれど、新たな火器、すなわち大砲の出現によって攻城法の飛躍的進歩が行われたのがルネサンスである。幾何学的形態は、稜堡を設けて死角を如何に無くすかをテーマとする理論に基づいて考案されるのである。

この都市計画の技術化、すなわち幾何学化、形式化、その機能主義がもうひとつの、第四の都市計画の伝統である。近代の都市計画も大きくはこの流れのうちにある

5 劇場都市―――スキノグラフィック・デザイン

ルネサンスの建築家たち、特にマニエリスム期の建築家たちが、もうひとつ都市計画にもたらしたものがある。遠近法の発見とその都市景観、都市構成への適用である。パースペクティブの効果はもちろん古来から知られていた。「ペルガモン様式」の都市計画の伝統がそうである。中国でも、隋唐の長安城の中軸線をなす朱雀大街は皇帝の権威を象徴化するヴィスタを実現していた。

しかし、記念碑的な建築物へ向かう大通りの直線的ヴィスタなどが意識的に使われだすのは遠近法が建築家の自由自在なものとなってからである。この遠近法によるヴィスタの美学を徹底して追求したのが壮麗なるバロック都市である。

ポアン・デ・ヴー(ポイント・オブ・ビュー)と呼ばれる大通りの焦点に記念碑的建造物を置く手法は好んで用いられてきた。放射線状のなす何本かの街路の中心に凱旋門や記念塔などを置く手法も同様である。

イスラームの都市原理―――有機的都市

 幾何学や透視図法を用いた都市計画の流れとは異なる伝統として代表的なのがイスラーム都市である。イスラーム都市は、迷路のような細かい街路が特徴で直線的ヴィスタは基本的にない。全く非幾何学的で、アモルフである。この有機的形態は、イスラーム以前に遡るからイスラームに固有とは言えないが、イスラームの都市計画原理はその形態に関係がある。

 全体が部分を律するのではなく、部分を積み重ねることによって全体が構成される、そんな原理がイスラーム都市にはあるのである。チュニスに関するB・S・ハキームの論文[12]によると、その原理の一端が理解される。極めて単純化して言うと、イスラーム都市を律しているのはイスラーム法(シャリーア)である。また、様々な判例である。道路の幅や隣家同士の関係など細かいディテールに関する規則の集積である。全体の都市の骨格はモスクやバーザール(市場)など公共施設の配置によって決められるが、あとは部分の規則によって決定されるという都市原理である。

 古来、理想的で完結的な都市がさまざまに構想され、建設されようとしてきたが、その理念がそのまま実現することは稀である。仮に実現したとしても、歴史の流れはその理念を大きく変容させるのが常である。そうした全体から部分へ至る都市計画の方法に対して、このイスラームの都市原理は、もうひとつ異なる起源を示している。部分を律するルールが都市をつくるのであって、あらかじめ都市の全体像は必ずしも必要ではないのである。

 イスラーム都市の場合、城壁をもつのが一般的であるが、こうした城壁都市の伝統と全く異なるのが日本や東南アジアの城壁をもたない、境界の明白でない都市である。東南アジアを最初に訪れた西洋人は、樹木に覆われ、その中に埋もれるように家々があつまる都市の形態に驚く。西欧の都市とは全く異なり、都市と思えないのである。農村的原理をそのまま維持するようなそんな都市ももうひとつの都市のパターンとして考えることができる。発展途上国に出現した大都市の多くはそうした農村集落を内に抱え込んできたのである。

 

三 現代都市のかたち:都市のプロブレマティーク

 一定の規模において空間的に境界づけられ、一定の秩序を前提に計画・形成されてきた都市のかたちは、産業革命の進展とともに大きく変わる。それまでの都市計画の伝統と全く異なるかたちで、また、それ以前の都市のかたちを断ち切るかたちで出現するのが近代都市である。

1 メガ・アーバニゼーション

 産業化はそれ以前の都市と比較にならない規模の都市を生んだ。交通手段の発展、蒸気船、蒸気機関車の発明が大きなインパクトとなる。一九世紀初頭に九六万人であったロンドンの人口は世紀末には四〇〇万人を超える。中世の都市壁は次々に取り壊されることになる。西欧列強が世界各地に建設した植民都市は都市改造を余儀なくされ、鉄道の敷設は都市の後背地への拡大を促すことになった。そしてもちろん、産業化そのものがそもそも人口(労働力)の集中を要求した。結果として、それまでに人類が経験しない人口集中と都市域の拡大が引き起こされたのである。

巨大都市(メトロポリス、メガロポリス)の出現は、都市と農村あるいは後背地との関係、また、都市間ネットワーク関係の変質変化の原因でありまた結果である。規模が人間的尺度を超えると同時に土地と人間との関係が根底的に変化したことがその大転換の本質である。

産業化の進展は、様々な都市の類型を生む。産業化が内発的か外部導入的かによって都市のあり方は異なるのである。発展途上地域では、「工業化なき都市化」、「過大都市化」と呼ばれる、産業化の水準を遙かに超えた都市化が引き起こされた。ある国、ある地域で断突の人口規模をもつ「プライメイト・シティ(単一支配型都市、首座都市)」は先進諸国では見られない類型である[13]

巨大都市化の趨勢は一貫して止まることを知らない。一〇〇〇万人を超える都市が世界各地に次々に誕生しつつある。そうしたなかで、近年注目されるのが「拡大大都市圏EMR[14]」の出現である。それは、ひとつの都市を核とする大都市圏ではなく、多くの核をもち、都市化しつつある多くの農村を含む。大都市がさらに周辺農村部をその内に取り込み、場合によると国境を越えて、その都市圏を拡大しつつあるのである。東南アジアには、ジャワ、バンコク、クアラルンプール、マニラそしてシジョリSIJORIという、五つの「拡大大都市圏」が出現しつつある。シジョリとはシンガポール、ジョホールバルー、リアウの三角地帯をいう。この五つでアセアンの都市人口の三分の二を占め、その規模はラテン・アメリカの都市地域の規模に匹敵する。世界都市システムにおけるその重要性は明らかである。東京大都市圏(一都三県)には全人口の四分の一が居住しており、一極集中現象はアジアの大都市圏と同じである。アジアの「巨大大都市圏」との熾烈な競争状況にあるのが「東京大都市圏」である。グローバリゼーションの進展、情報技術の発展によるネットワーク社会の拡大浸透など、世界資本主義システムは世界都市ネットワークをダイナミックに運動させつつあり、「拡大大都市圏」の出現に関わっているのである。

メガ・アーバニゼーションの究極の行き着く先は何処か。不気味に増殖を続ける「拡大大都市圏」に対して、オールタナティブとなりうる都市のイメージとは何かが二一世紀の大きなテーマである。

2 立体都市化―――人工環境化

巨大都市化は平面的な拡大のみならず立体化を伴う。都市の高層化を可能にしたのが、鉄とガラスとコンクリートという工業材料を三位一体とする近代建築技術である。また、モータリゼーションによる人、物の移動の速度と量の飛躍的増大が決定的である。スカイスクレーパーが林立し、諸機能が立体的に配置される都市のかたちは人類が全く新たに獲得したものである。

立体都市化は、高密度で効率的な環境を実現するとともに全く新たな空間関係を生み出す一方で、産業化以前の都市のかたちを破壊することになる。産業化に伴う巨大構築物の出現は都市景観を一変させるのである。また、高層化とともに、都市の構造を変え、都市生活のあり方を根底から変えた。

そして、世界中の大都市は同じようなかたちをとりつつある。同じ工業材料を用い、同じ技術によってつくられるのであるから、その色、かたちが似てくるのは当然である。鉄とガラスとコンクリートの超高層、四角い箱型のジャングルジムのような均質な空間は面白くない、と、表層を歴史的様式や装飾で覆うポストモダンの建築がしばらく跋扈したのであるが、その本質は変わらない。世界中の大都市の空間はますます均質化に向かいつつあるように見える。

そして同じようにはっきりしているのが都市空間の人工環境化の趨勢である。赤道直下の国の、大都市のショッピングセンターにアイスリンクがつくられる。ドーム球場では台風の中でも野球やサッカーが行われる。室内環境はもとより、都市環境全体が人工的にコントロールされる、そんな時代が既に実現しつつある。

3 都市村落

都市への急速な人口集中は、深刻な都市問題、住宅問題を引き起こした。スラムの発生がその象徴である。貧困や衛生問題は、近代都市計画誕生の大きなモメントである。以降、居住環境を改善し、都市への人口集中を制御し、分散化させることが都市計画の大きな課題であり続けている。

西欧諸都市の巨大化の過程で現出したスラムについて一般に指摘されるのは、家族解体、犯罪など様々な病理現象である。そして近代都市一般に指摘されるのは、地域コミュニティの弱体化である。しかし、都市の貧困者の居住区が一様に解体過程を辿るかというと必ずしもそうではない。特に、発展途上地域の場合、西欧の都市とは異なる都市形態を出現させてきた。都市の膨張があまりにも急速であったこともあって、都市内に農村的要素を取り込む形態が一般化するのである。オランダ領東インドにおける都市内村落カンポン[15]がそのいい例である。一般に「都市村落urban village」と呼ばれるが、物理的には時として生存のためにぎりぎりの条件であっても、コミュニティ組織はしっかりしていることが少なくない。土着の村落の共同体組織や慣習、生活様式は都市内においても保持され続けるのである。一九七〇年代以降、各国は大都市のこうした住宅地の居住環境整備に取り組んできたが、それが一定の成果をあげたのはその主体としてのコミュニティがしっかりしていたからである。

4 田園都市―――近代都市計画の終焉!?

都市問題、住宅問題、衛生問題の発生に対する対応策として近代的都市計画は成立するが、その根底にあるのは時代のユートピア思想であり、理想都市計画の伝統である。R・オーエン、サン・シモン、F・C・M・フーリエなど空想的社会主義と呼ばれたユートピア思想と近代都市計画思想は明らかに縁戚関係にある。ル・コルビジュエのユニテ・ダビタシオンとフーリエのファランステールの夢を比べてみればいい。近代建築の巨匠たちがユートピアンたちの末裔であることは明らかである。すなわち、前産業都市→産業都市→という先に想定されていたのは「社会主義」都市である。

ユートピア思想の終焉がはっきりと確認され、社会主義が歴史と化すことにおいて、近代都市計画の限界はこの間明らかになりつつある。様々な計画が行われてきたけれども、例えば、都市の成長拡大を制御し得たかというとそうは言えないであろう。

二〇世紀において、最も影響力をもった計画理念はE.ハワードの「田園都市garden city」という「都市―農村」理念である[16]。その理念は、フランスCite'-Jardin、ドイツGartenstadt、イタリアCuidad-jardinと各国語に訳され、広まっていく。日本では、当初「花園都市」「庭園都市」などいくつかの訳語が与えられるが「田園都市」という訳語が定着していく。そして、各国に「田園都市」協会がつくられ、各地でその建設が試みられた。先進諸国に限らない。南アフリカのパインランズ(ケープタウン)など大英帝国の植民地においても強力な都市理念として受け入れられていく。

しかし、「田園都市」運動は失敗であったとされる。その基本理念である、①人口移動の組織化(人口抑制)、②土地所有の平等と先行取得の必要(土地公有化)、③農業コミュニティと工業コミュニティの結合(自給自足)などを実現した「田園都市」はないのである。実現したのはニュータウンと呼ばれる膨大な数の「田園郊外garden suburb」にすぎない。少なくとも、日本のニュータウンはベッドタウンにすぎないのである。

もちろん、一世紀に亘る試行錯誤が失敗だからといって「田園都市」の理念そのものが無効ということにはならないだろう。「地球環境時代」の今日こそその再評価が求められており、それぞれの地域に、生態学的な意味での循環系を実現する「都市=農村」モデルが必要とされているからである。

 

四 都市の死と再生

 ある都市が無限に成長拡大することはありえないことである。歴史上の都市を見る限り、都市には栄枯盛衰があり、人間と同じように、生まれ、成長し、そして、場合によっては滅亡してきた。にも関わらず、都市の数も都市人口も一貫して増え続け、世界中の人々の暮らしは都市的なものとなりつつある。

都市化一〇〇%という都市社会の実現は果たしてありうるのか。成長の限界が最初にグローバルに意識されたのはオイル・クライシスの時点(一九七三年)であるが、単純に考えて、地球上の全ての地域が等しく発展し続けるということはシステム上あり得ないことである。事実、発展途上地域であれ、先進諸国であれ、現代の大都市は、総じて過飽和状態に達しつつある。大量輸送機関やモータリゼーションが発達したとはいえ、平面的な拡大にはは限界があるのである。一九八〇年代後半の日本で、「東京大改造」が大きなテーマとなったのはそのことを暗示している。さらなる開発のためにまずターゲットとなったのは、都心にある未利用の公有地であり、下町の住宅地である。いずれも利便性は高く、再開発による高度利用が可能であった。続いて、ターゲットとなったのが、ウォーター・フロントである。さらに地下開発もテーマとなった。

都心に歴史的建造物を確固として維持し、はるかに都市の骨格のしっかりしている西欧の大都市において、先んじて再開発がテーマとなったのは当然である。そして、植民地遺産を都市核に抱える発展途上国の大都市においても再開発は今共通のテーマとなりつつある。

発展途上国の大都市の場合、それ以前に、依拠する河川など、人口規模を支える生態学的基盤を欠いている場合がほとんどである。問題は、上下水道、道路、ゴミ処理、電気、ガスなどインフラストラクチャーが人口規模に対して未整備であることである。都市を支える生態学的基盤の問題は、「地球環境時代」の大きなテーマである。現代都市の問題を象徴するのは空気調和設備の普及である。その究極のイメージは、情報機器を搭載したインテリジェントビルが林立する都市のイメージ、あるいは、都市環境全体を完全に人工的にコントロールするドームで覆われた都市のイメージである。これも発展途上地域と先進諸国とを問わない。

いかに科学技術が発達するにしても、全環境を人工的にコントロールすることは難しいであろう。地震や台風、洪水などの自然災害を克服し得ていないことがそれを示している。また、地球温暖化の問題の拡がりがそれを示している。あらゆる都市が自然との共生関係を失いつつあることが最大の問題である。

現代都市が究極的に行き着く、都市が完成する姿を理論的に思い描いてみることが必要である。飽和の臨界に達する時点で都市は究極的に完成する。地球全体が人工都市化する段階がイメージされるかもしれない。完全に開発フロンティアが消滅するとすれば、しかし、それは都市そのものの死を意味する。そこで問題となるのは都市の維持システムであり、循環システムである。

日本の都市は、これまで「建てては壊すscrap & build」のが基本で、都市も仮設的である。しかし、資源、エネルギー問題が意識される中で、ストックを再利用すること、また、循環系を設定することがテーマとなりつつある。「コンパクト・シティ」なる概念も提案されるが、それぞれの都市、それぞれの地区がさまざまな意味で自立的であるかたちやシステムが共通に模索されていると言えるだろう。

アジアの諸都市においても「都市再生」は共通の課題になりつつある。都市再生とは何か。何を再生するのか。いくつかの事例に即して、その行方をいくつかみておこう。

1 ニュータウン・イン・タウン:ジャカルタ クマヨラン・バルー

 ジャカルタも東京(江戸)同様一七世紀初頭にその起源をもつ。一八世紀末に約一二万人(江戸は約三〇万人)の人口を抱えたバタヴィアは「東洋の女王」と呼ばれ、オランダ東インド会社の植民都市の中で最も美しい都市とされた。しかし、とりわけ独立後の人口増加はすさまじい。ジャボタペックと呼ばれるジャカルタ大都市圏の人口は二〇〇〇万人を優に超える。交通、ゴミ処理、上下水などの整備が依然として大きな課題で、住宅問題も解決されたわけではない。かつてのバタヴィア中心部コタ地区では、市庁舎のあったファタヒラ広場に歴史的建造物を改造した洒落たカフェができるなどコタ再生に向けての萌芽はあるが、周辺の運河は依然として悪臭を放っている。そんな中で注目すべきプロジェクトが、ニュータウン・イン・タウン(都市の中の新都市)プロジェクトである。

 発想の種は都心に位置し、周辺をぎっしりとカンポンに取り囲まれていた広大なクマヨラン空港の跡地である。滑走路を幹線道路に使うのは当然として、いくつか注目すべき今日的理念がある。ジャワ海に面する一画にバード・ウォッチングのできる広大な自然公園が確保されている。数十万人に及ぶバタウィと呼ばれるジャカルタ原住民の文化を維持していくことが謳われている。周辺の居住者にカンポン型の集合住宅を供給するのが前提とされている。居間や厨房、バス・トイレを共用にする、インドネシア型のコレクティブ・ハウスである。そして、全体として自己充足すること、全ての生活が新都市内で完結することが中心理念となっている。

 経済危機とそれに続く政変が仮になくても、このプロジェクトが成功したかどうかはわからない。しかし、このプロジェクトには強力な理念がある。都市再生に必要なのはいくつかの鮮明な理念である。

2 イスラームの新首都建設:クアラルンプール プトラジャヤ

 現在世界一の高さを誇る建築物はクアラルンプールのペトロナス・ツイン・タワーである。スズ鉱山開発の拠点として、一八五〇年代末に中国からの移民がクラン川とゴンバク川の合流点に集落をつくったのが町の起りで、かつては二〇万人を超える不法占拠者に悩む都市であった。いまや高層ビルが数十本林立してまるで別の都市のようである。クアラルンプールの人口は一六〇万人、周辺を含めて三〇〇万人余りの都市だから、世界一の高さは分不相応に思えるが、すさまじい経済発展がそれに相応しいシンボルを生んだということであろう。

 マハティール前首相が打ち上げた三つの巨大プロジェクト、新国際空港、新首都プトラジャヤ、新情報技術都市サイバージャヤの建設のねらいは、経済的、政治的構造改革であり、クアラルンプールの再編、再生である。

中でも興味深いのが新首都として計画されたプトラジャヤである。これまで、ブラジリア、キャンベラ、チャンディガール、イスラマバードなど近代都市計画理念に基づいていくつかの新首都が計画されたが、プトラジャヤは大いに趣が違う。各建物に中東のモスクを思わせる玉葱形のドームがいかにもイスラーム風に多用されているのである。

 計画人口はわずか三三万人という。理念として、インテリジェント・シティ、そしてエコ・フレンドリーをうたう。すなわち、最先端の情報技術が搭載され、紙は用いない、400ヘクタールの人工湖がつくられ、スローガンとしては田園都市の理念が採用されている。都市再生というより、全く新たな都市建設であるが、コンパクトで自立的な都市が目指されている。

3 アイデンティティとしての街区と町屋:マラッカ オールドタウン

東西交渉史の上で名高いマラッカであるが、二〇年前は、フランシスコ・ザビエルが一時葬られたセント・ポール教会など荒れ放題で、スタダイズ(市庁舎)周辺の歴史的建造物も傷んだままのうらぶれた田舎町でしかなかった。しかし今、マラッカは随分と活気がある。ほとんどの建物はそのままだから、変わったという印象は町のかたちがむしろはっきりしたというのに近い。

 マラッカが歴史的都市としてのアイデンティティに目覚め、ツーリズムの後押しもあって、世界文化遺産登録を目指すまでにいたったのはごく最近である。そこで、どの時代の都市を再生するのかが興味深い問題となる。英国時代に大きな改変はなく、オランダ時代の骨格が残されてきたからそれがベースとなる。しかし、ポルトガル時代も無視し得ないし、町を支えてきたのはババニョニャと呼ばれる土着化した中国人たちである。ヒンドゥ寺院、モスク、そして中国廟が並び、様々な民族が居住している。住宅の多くは連棟式の店舗併用住宅であるが、高床式のマレーハウスもある。こうした多民族社会において何をどう再生するかは大きな争点となる。様々な階層が様々な価値観を持ちながら共住するのが都市である。手掛かりとなるのは骨格となる空間の形式である。また、町のアイデンティティとなるのが景観である。マラッカの場合、その歴史的な町の骨格や景観をくっきりと浮かび上がらせることが選択されつつある。

4 カピス窓のある街並み:ヴィガン

北ルソンに石造の大きな邸宅が建ち並ぶヴィガンというユニークな街がある。一見ヨーロッパの町のようだが、よく見ると二階の窓が障子のようで何ともエキゾチックである。カピス窓と呼ばれるこの窓は、木格子枠に加工したカピス貝の殻をはめ込んだものだ。

ヴィガンは、セブ、パナイ、マニラについで建設されたフィリピンのスペイン植民都市である。アジアの植民都市でここまでかつての姿をとどめているのは極めて珍しい。その歴史的町並み再生の意義が評価され、一九九九年にユネスコの世界文化遺産に指定された。

ラテン・アメリカのスペイン植民都市は、一般にプラサを中心として格子状に街区をつくり、その回りに教会・行政施設・スペイン人指導階層の住宅などを建てる。その計画指針となったとされるフェリペⅡ世のインディアス法が公布された一五七三年は、ヴィガン建設開始とほぼ同時期である。

住宅はバハイ・ナ・バト呼ばれる。タガログ語で「石(バト)の家(バハイ)」という意味である。一階は石造、二階は木造という混構造が一般的で、地震と火災のために工夫された住宅形式である。一階には物置や車庫が置かれ、二階に、サラ(居間、ホール)、食堂、台所、寝室、アソテア(バルコニー)などが設けられ、一階と二階は屋外大階段で結ばれる。中心となるのはサラである。サラは道路に面し、フィエスタ(お祭り)の際には窓から、集った親戚・友人一同でパレードなどを眺める。建設の主体は都市富裕層の中国系メスティソであった。ヨーロッパ文化と土着の文化が出会って生み出されたのがバハイ・ナ・バトでありヴィガンの町並みである。

こうして個々の住居の形式がまちのかたちを決定づけ、再生の手掛かりとなるのである。ここで再生されているのは東西共有の相互遺産である。

5 解体された旧朝鮮総督府:ソウル

歴史的な建造物は大切に、という指針はどこでも正しいとは限らない。旧朝鮮総督府、韓国中央国立博物館は、光復(解放)五〇周年を迎える一九九五年に解体することが決定され実行された。

旧朝鮮総督府は一九一六年に着工され、二五年に竣工した。壬辰倭乱(文禄の役)の際、秀吉によって焼かれ、一八六七年に復元された景福宮の敷地に日本は総督府を建てたのであるが、その敷地の選定は「日帝断脈説」によるという。朝鮮人民が反抗するのを恐れ、気脈を断つために風水説にいう要所に杭を打ち込み、建物を建設したという説である。景福宮という、ソウルの、朝鮮のシンボルというべき敷地に植民地支配の拠点を建てる行為はいかにも戦略的であった。

柳宋悦が「今日光化門と勤政殿との間に実に厖大な西洋建築が総督府の手によって建ちつつある。然も位置はやや西側に片寄って、旧時の秩序を少しでも、省みる事がない。さしも大きな正殿も今日は門を通して見る事さえ出来ぬ。今日では既に勤政殿の全景を正面から見る如何なる位置もなくなったのである。何たる無謀の計画で之があろう。やがて之が正殿を毀し、光化門を棄てる前兆でないと誰が保証し得よう。」と書いたのはささやかな救いであった。柳の「失われんとする一朝鮮建築のために」は英訳され、朝鮮語訳される。反響を呼んで大きな効力をもつことになる。光化門は解体されず、移築されることになった。

七〇年後、その旧朝鮮総督府が槍玉に挙がった。そして、さすがに爆破解体は中止されたが多額の費用をかけて解体された。どんなに傑作であれ、壊されられなければならない建築はある。台湾総督府が、今も大統領府として使い続けられているのと実に対比的である。ソウルでは、かつての都市を取り戻すために解体こそが必要とされたのである。

 

(おわりに)

ますます個性を失い、アモルファスとなりつつある現代都市に対して、第一に個々人が構想しうるのは、個々人が自らを中心とする自律的圏域をどのように成立させるかということである。一軒の住居であれ、街の景観をくっきり浮かび上がらせるために資することを考えることである。ただ、それだけでは限界がある。多くのエコ・ハウス、エコ・シティの構想が力を持ち得ないでいるのは、都市の全体システムを提示し得ていないからである。外部システムに寄生する形でしか、システムの存続が想定されていないのである。

そこで拘るべきは、地域における、また、具体的な場所における、空間のかたちであり、そのあり方である。町には町の適正規模があり、それぞれに住み方のかたちがある。そこで、それぞれにかつては自律的であり得た地域社会主導の開発Community Based Developmentがひとつの鍵となる。地域社会の新たなかたちを都市の内部にそれぞれ構築することがとりあえずの指針である。ネットワーク社会が、情報、物、資本を如何に流動化させるとしても、土地と建物は自在に伸縮はしないからである。また、人々の日常生活も土地からは完全に自由にはありえないからである。

 



[1] S. Kostof, “The City Shapedurban patterns and meanings through history”, Little, Brown, 1991

[2] V.G. Childe, ”The Urban Revolution”, The Town Planning Review, 1950.

[3] 河川流域や沿岸部など食糧資源の潤沢な所で採集狩猟民が定住を開始し、人口が増加した結果、外縁部に押し出された集団が農耕牧畜を開始したというのがL.R.ビンフォードBinfordK.V.フラネリーFlanneryらの人口圧仮説である。あるいは、「追い込み猟」が家畜化のモメントとなり、採集狩猟の能力を失ったが故に人類は定住を始めたという説もある(松井健、『セミ・ドメスティケーション-農耕と遊牧の起源再考』、海鳴社、1989年。西田正規、『定住革命』、新曜社、1986年。加藤晋平・西田正規、『森を追われたサルたち 人類史の試み』、同成社、1986年)。

[4] 藤田弘夫:『都市の論理 権力はなぜ都市を必要とするか』、中公新書、1993

[5] 宮崎市定、「中国城郭の起源異説」、『宮崎市定全集3 古代』、岩波書店、1991

[6] John Sulman1849-1932The Laying out of Town, Australian Association for the Advancement of Science, 1890

[7] 例えば、欧米における都市計画史の教科書と言っていいL.ベネヴォロの大著『都市の歴史』(Leonardo Benevolo, “Storia della Citta’”, 1975。邦訳は、『図説・都市の世界史』Ⅰ~Ⅳ、佐野敬彦・林寛治訳、相模書房、1983年)は、Ⅰ.古代[1.先史時代の人間環境と都市の起源、2.ギリシャの自由都市、3.ローマ、都市と世界帝国]、Ⅱ中世[4.中世的環境の形成、5.イスラームの都市、6.中世のヨーロッパ都市]、Ⅲ近世[7.ルネサンスの芸術文化、8.ルネサンスのイタリア都市、9.ヨーロッパの植民地になった世界]、Ⅳ近代[11.産業革命の環境、12.後期自由都市、13.近代都市、14.今日の状況]という構成をとっている。また、よく知られたJ.R.コリンズの「計画と都市」と題するシリーズ(Gerge R. Collins, “Planning and Cities”, George Braziller, Inc, 1969。井上書店から翻訳が刊行されている。)は、テーマ毎に「未開社会の集落」「古代オリエント都市―都市と計画の原型-」「古代ギリシャとローマの都市」「コロンブス発見以前のアメリカ」「中世都市」「ルネサンス都市」「城壁にかこまれた都市」「近代都市―19世紀のプランニング」「パリ大改造」「工業都市の誕生-トニー・ガルニエとユートピア-」「アメリカの都市と自然―オルムステッドによるアメリカの環境計画―」「ル・コルビュジェの構想」「都市はどのようにつくられてきたか-発生からみた都市のタイポロジー-」「システムとしての都市―都市分析の手法―」を一冊ずつまとめている。

[8] 現在のトルコ、ペルガマ市。ヘレニズム時代に栄えたペルガモン王国の首都。発掘は1878年ドイツ人技師フーマンC. Humann とベルリン博物館のコンツェ A.Conze によって始められ,その後デルプフェルト,ウィーガント T. Wiegand らの考古学者に受け継がれた。

[9] 布野修司編、『アジア都市建築史』、昭和堂、2003年。第Ⅴ章「アジアの都城とコスモロジー」(応地利明)。

[10] ジョゼフ・リクワート、『<まち>のイデア――ローマと古代世界の都市の形の人間学』、前川道郎,小野育雄共訳、みすず書房、1991

[11] ヘレン・ロウズナウ、『理想都市 その建築的展開』、理想都市研究会訳、鹿島出版会、1979

[12] 『イスラーム都市――アラブのまちづくりの原理』

[13] 発展途上地域の大都市のほとんどは植民都市としての歴史を持ち、宗主国に依存しながら発展してきた。そうした意味では「自生都市」と「他生都市」の区別が必要である。内発的に発展してきたのか、異文化や外部社会との接触によって発展してきたのかを区別して、都市の発生変容を「系統発生的orthogenetic変容」と「異種発生的heterogenetic変容」という区分も行われる(R.レッドフィールドとM.シンガー)。また、都市がその国(地域)の発展に寄与するかどうかで「産出的generative都市」と「寄生的parasitic都市」といった区別も(B.ホーゼリッツ)も行われる。

[14] Extended Metropolitan Region.あるいはEMR-isation拡大大都市圏化.拙稿、「メガ・アーバニゼーション」(『アジア新世紀 8構想』、岩波書店、2003年)。 N. Ginsburg, Koppel, B. & McGee, T.G. (eds.):“The Extended Metropolis: Settlement Transition in Asia”, University of Hawaii Press, Honolulu, 1991. In McGee, T.G. & Robinson, I. M (eds.):“The Mega-Urban Regions of Southeast Asia”, University of British Columbia Press, Vancouver, 1995

[15] 布野修司、『カンポンの世界』、パルコ出版、1991年。英語のcompoundkampungに由来する(OED)。バントゥン、バタヴィアあるいはマラッカにおいて民族集団毎に囲われた居住地の一画をさしてそう呼ばれていたのが、インドの同様な都市の区画も同様にそう呼ぶようになり、compoundはアフリカ大陸の囲われた集落にももちいられるようになったという(椎野若菜、「「コンパウンド」と「カンポン」---居住に関する人類学用語の歴史的考察---」、『社会人類学年報』、Vol.262000年)。

[16] 1898年に出版された”TomorrowA Peaceful Path to Real Reform”(London, Swan Sonnenschein, 1898:『明日-真の改革への平和な道』)と、それを僅かに改訂し、1902年に出版された”The Garden Cities of To-morrow”(London, Swan Sonnenschein,1902:『明日の田園都市』)