このブログを検索

ラベル 共著 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 共著 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年12月4日水曜日

ダイニング・キッチンからnLDKへ、早川和男編:講座 現代居住全5巻 第2巻 家族と住居,東京大学出版会1996年7月

 早川和男編:講座 現代居住全5 2 家族と住居,東京大学出版会19967


12.ダイニング・キッチンからnLDKへ

 

 核家族の器

  戦後日本の住宅のモデルとなったのが「51c型」住宅である。いわゆる2DKの原型である。51cとは、1951年の公営住宅の標準プラン(間取り)abcのうち、cのタイプ(吉武泰水・鈴木成文)を意味するi。「51c型」の計画にあたっては以下の3点がテーマであった。①小住宅でも寝室は2部屋以上確保すべきである。②食寝分離のために少なくとも朝食がとれるような台所とする。③バルコニーや行水や洗濯のできる場所、物置、水洗便所といった生活を支える部分の重視。「51c型」住宅が歴史に記録されるのは、そのプランにおいて、日本の戦後(近代)住宅の象徴となるダイニング・キッチン(DK)が生み出されたからである。

 ダイニング・キッチンと戦後の日本人の生活は密接に関わる。ひとつには女性の立場の変化を象徴する。戦前の住宅では台所は裏側に隠されていて、そこで働く女性も家族の中では裏方であり社会的にも表にたつことは稀であった。ダイニング・キッチンの導入により、台所が生活の表舞台に現れることになる。核家族を基本とする住居には女中部屋がなくなり、女性の社会進出を促す生活スタイルが、家事の軽減を図るために間取りの変化を要求したのである。また、高度経済成長を支えた労働力の編成の問題として考えると、核家族の器として2DKは産業社会のニーズに応え、大いなる貢献したことになる。

 

 台所革命

 台所が食堂と並んで明るい位置に配置されたことは大きな革命である。そして、1950年のステンレス流し台の登場は2DK公団住宅にさらなる魅力を付加した。それまでの流し台はコンクリートに御影石のかけらを入れて磨き上げた人研ぎ流しであった。あるいは、タイル張りであり、トタンであった。住宅公団(1955年設立)による住宅建設とステンレス流し台の生産普及は同時進行であるii。当初、椅子式生活に慣れないことを考慮してダイニング・キッチンには食事用テーブルが備え付けられていた。「ステンレス流し台」と「食事用テーブル」はダイニング・キッチンには欠かせない要素として定着していくのである。ブームは「団地族」という言葉まで生んだ。2DK公団住宅での生活は、サラリーマンの憧れであった。ダイニング・キッチンを新しい生活の象徴として扱い、そこに積極的にモダンリビングのイメージを重ね合わせようとした意図があったのであるiii

 ダイニングとキッチンの一体化から誕生したダイニング・キッチンは、後にリビングが加わることで、家庭生活の中心的地位を確立していく。その過程で、台所に電化製品が次々に導入される。冷蔵庫、電子レンジ等調理器具だけでなくテレビが持ち込まれ、ダイニングには本棚が並んだ。ダイニング・キッチンは南面するよう計画されていて家族が必然と集まるように、そう仕向けられていた。ダイニング・キッチンは茶の間の役割も担うことになる。

 

 nLDK家族

 ダイニング・キッチンと4.5畳と6畳の二部屋からなるこの小住宅(2DK)のプランを生み出したのが食寝分離論(西山夘三)である。狭くても食事の場所と就寝の場所は分ける。そのために食堂が台所と一緒になってもやむを得ない。朝はダイニング・キッチンで簡単に食事をして夫婦共に働きに出かける、そんな家族像が戦後日本の出発点である。

 その後の展開もわかりやすい。戦後復興から高度経済成長期にかけて住宅の規模は拡大していく。食寝分離が保証された後は公私室の分離が目指される。リビングの誕生である(2LDK)。そして次は、個室の確保が目指される。1960年を過ぎた頃、3DKとか3LDKが日本の標準住宅となった。興味深いのは、この形式が農家住宅にも一気に普及していったことである。こうして日本の住宅と言えばnLDKという記号になる。

 nLDKとは核家族n人の住居である。今でも住宅の立地と形態(集合住宅か戸建住宅か)を知って、nLDKと聞けば、家族の形はイメージできる。驚くべき画一化であるといっていい。しかし、それだけ家族のかたちも一定であったのである。nLDKという空間形式が家族のかたちを表現した。だから日本の戦後家族はnLDK家族なのである。

 高齢化、少子化、女性の社会進出、熟年離婚・・・等々、家族を取り巻く環境はこの間大きく変化しつつある。そうした流れの中で総じて家族のかたちは多様化しつつある。家族の基礎である男女(個人と個人)の結びつき(婚姻)が急速に流動化しつつあるのである。家族は個人化しつつある、といってもいい。はっきりしているのは、高齢単身も含め独身期間が長期にわたり、単身居住が増えることである。

 この家族のゆらぎに対して、どのような居住空間を用意すべきか。予め言えるのは、多様な家族形態を受け入れる空間が日本にはほとんど用意されていないことである。

 

i 鈴木成文「住まいにおける計画と文化」

ii 公団仕様のステンレス流し台は1956年、浜口ミホらによって共同開発された。

iii ⅰに同じ

 

2024年9月28日土曜日

nLDKの誕生 近代日本の都市住宅事情,(『都市の暮らしの民俗学3 都市の生活リズム』,新谷尚紀,岩本通弥編,吉川弘文館 所収),200612

LDKの誕生 近代日本の都市住宅事情,(『都市の暮らしの民俗学3 都市の生活リズム』,新谷尚紀,岩本通弥編,吉川弘文館 所収),200612

 

LDKの誕生-近代日本の都市住宅事情-

布野修司

 

はじめにーーー日本の住宅-2005年

一冊のパンフレットから始めよう。

 『住宅情報タウンズ』京都・滋賀版(平成一七年六月八日発行、発行:株式会社リクルート)、表紙を合わせて全一一六頁である。隔週刊で、書店や不動産販売店のみならずコンビニエンス・ストア、駅、各種チェーン店に販売台が設置され無料配布される。京都府と滋賀県をA~Kの一一地区に分けて、「一戸建て・土地」と「マンション」のそれぞれについて「物件」が「間取り」付きで掲載されている。極めて限定された地域の限定された情報にすぎないが、日本の住宅事情の一断面をみることができる。発行元は、自らも住宅販売を行う子会社をもつ大手の住宅情報会社であり、日本全国をカヴァーしている。インターネットの住宅情報サイトを用いれば、日本全国の住宅を概観することも不可能ではないが、その必要はないだろう。現代日本の住宅の「型」にそう大きな地域差があるわけではない。日本の住宅のあり方、その空間の「型」をリードしているのはプレファブ・メーカーであり、大手の住宅販売会社なのである。

このパンフレットに、カタログに先立って「特別レポート」として掲載されているのは、大手の住宅メーカー、マンション販売会社の「物件」である。「一戸建て・土地」と「マンション」について、典型的なものを挙げると図1、2のようである。改めて詳述する必要はない。いずれも身近に知っている「間取り」である。多少のヴァリエーションはあるけれど、3LDK,LDKという記号で示すことができ、事実そのように表示されている。強いて注目すべき点を確認しておくとすれば、nLDKという形で表記される・である。すなわち、リビング・ダイニングLDとキッチンKが分離されていることである。

カタログを眼で追うといささかうんざりする。歴史的古都京都の「物件」を含むことで、狭い間口の長屋建て風の都市型住宅が目立つくらいで、後は、驚くべきワンパターンである(図3)。敷地面積・建築面積、nLDKという記号、立地、価格、建設年の情報があれば、その住宅形態は間取りや写真がなくてもおよそイメージできてしまうのである。

このnLDKという住宅形式は、どのようにして成立し、日本に定着していったのか、そして、いささか大風呂敷ではあるが、その日本住居史上の位置づけはどのようなものか、それが本稿のテーマである。

 

1.「51C」の誕生

 

廃墟の光芒---バラックの海

一九四五年八月一五日、東京、大阪など日本の大都市は、敗戦直前に受けた米軍のB29爆撃機による空爆によって市街地の大半が焼かれ、まるで廃墟のようであった。しかし、その廃墟はすぐさまバラックで覆われ埋め尽くされることとなる。人々はシェルターなしに生きていくことはできない。とりあえず、何処かに住着かなければならなかった。あり合わせの材料で次々に建てられたバラックが都市全体を埋め尽くしたのは当然の成り行きであった。

戦災によって焼失した住宅が二四〇余万戸、疎開などで取り壊された住宅が六〇余万戸、戦時中に建設さるべくして建設されなかったもの、引揚者用などを合わせると、戦後まもなく全国で不足していた住宅は四二〇万戸と推定される(一九四六年四月)。

戦後まもなく、人々はどのような住居を建て、住んだのか、その創意工夫は、今日振り返ってみると、実に逞しく、興味深い。戦時中の地下壕をそのまま利用した「壕舎住宅」、下水管などの埋設管を利用した「鉄管住宅」、廃車を住居とした「汽車住宅」や「バス住宅」、材木が足りないので梁を省いてつくった「三角住宅」、・・・、なかなかユニークな住宅のかたちがあった。「移動家屋」と称して車の着いた住宅を考案して貸し出そうとした人もいる[1]。モビール・ハウスの先駆である。住居表示や停留所の看板、缶詰の缶などをつなぎ合わせたブリキで屋根を葺くなど、身近に入手できる材料を利用するのは当然であった。今日で言えば、廃物利用のリサイクルである。

しかし、この人々の創意工夫が新たな日本の住宅建設に結びつけられることはなかった。実際、深刻な「住宅問題」の解決を個々人に委ねることは不可能であり、圧倒的な住宅不足を前にして、短期間に大量の住宅をどのように供給するかは、日本国家にとっての大問題であった。日本の戦後住宅のあり方を規定したのは、この短期間に大量に住宅を供給するという枠組み、条件である。

結果として生み出されたのが「51C(ゴジュウイチ・シー)」であった。鉄道ファンに愛された蒸気機関車の型番D51(デゴイチ)ならぬ「51C」である。一般には耳慣れない「51C」とは、公営(村営、町営、市営、府営、都営)住宅の平面型(間取り)の一九五一年のC型という意味である。他にA型、B型があった。

わかりやすく言えば、「51C」とは2DK(ニー・ディー・ケー)の原型である。すなわち、DK=ダイニング・キッチンという日本独特の空間を生み出す元になったのが「51C」なのである。「51C」が特にとりあげられ、問題にされるのは、それ故にであり、結局、この「51C」がnLDKに結びついていくからである。

 

DKの誕生

この「51C」がどのように生み出されたのかについては、その提案者の一人である鈴木成文[2]が繰り返し振り返っている。西山夘三の『国民住居論攷』[3]などその理論的背景[4]についてここで詳述する余裕はないが、要するに、ある制約条件(三五平米という限られた面積)において、「食べる場所と寝る場所を分ける」(食寝分離)、「寝室を分ける(二部屋確保する)」(就寝分離)という単純な二つのルールをもとに設計されたのが「51C」型平面(間取り)である(図4)。西山夘三は、戦時中に関西、大阪を中心として大量の都市住宅調査、いわゆる「住まい方調査」(間取りをどのように用いているのかを中心にする調査)を行い、狭小であるにも関わらず以上のようなルール、法則が守られていることを明らかにしていた。また、『これからの住まい』[5]を書いて、戦後日本の住まいのあり方についてその指針を世に問うていた。2つのルールを厳守することにおいて、一定の面積は確保するという強い方針がそこにはある。「51C」の設計はその方針に沿うものだったといっていい。

51C」を特徴づけるのが、「食事もできる台所」=ダイニング・キッチン(DK)である。ある意味では苦肉の策であった。51A51B型が同時に提案されているように、唯一の解答とは言えないけれど、二つのルールを前提にすれば誰が設計しても大きな違いはない。しかし、そこには、一部屋を壁で囲い独立性の高い部屋にする、台所を少し拡げて食事もとれるようにする、台所ともう一部屋はつなげて使えるようにする、という細かな配慮が込められていた。「51C」が想定したのは、都市における若い勤労者夫婦からなる核家族である。共稼ぎが多いとすれば、朝食は簡単にとれればいいのではないか、という判断もあった。

一九五五年に、住宅供給機関として日本住宅公団が設立され、「51C」を原型とする2DK形式の住宅が標準住戸として採用される。そして、この2DKは、2DKを階段室を挟んで並べ(バッテリー型という)積み重ねる集合住宅形式、すなわち「団地」という形式とともに全国に蔓延することになった。それどころか、「51C」によって生み出されたこのDKという空間形式は、日本の近代住宅(戦後住宅)の象徴として広範に受容れられていく。日本住宅の封建制を象徴する「玄関」や「床の間」に代わって、DKが「住宅近代化」のシンボルとなるのである。戦後まもなく、浜口ミホは、『日本住宅の封建制』[6]を書いて、「玄関」「床の間」の追放を訴えた。当時、実際に「玄関」も「床の間」もない住宅を設計した建築家は少なくない。替わって推奨すべきものとなったのがDKであり、「モダンリビング」であった。

一九五〇年には住宅金融公庫法が成立し、戸建住宅の復興が軌道にのり始める。本来、集合住宅の住戸モデルとして提案された「51C」であるが、DKは家事労働軽減の空間的提案として、都市のみならず農村部にも導入され普及していくのである。

 

51C」からnLDK

この標準化された画一的な住宅形式とそれが建ち並ぶ「団地」の光景は、戦後日本の象徴のひとつである。建設当初、「花の団地族」という言葉とともにある種の憧憬の念をもって受容れられたことは戦後史のひとコマである。ただ、その後の日本の住まいは必ずしも豊かに展開してきたとはいい難い。

日本住宅の標準モデルとしての「51C」以降の展開を単純に図式化すれば以下のようになる。「51C」に結晶化した「建築家」の創意は、規模(面積)拡大の論理へと接続されていくのである。

単純化すると、「食寝分離」「隔離就寝」→「公私室分離」→「個室確保」という流れとなる。

「食」と「寝」の分離が実現した後は、「公」と「私」の分離、すなわち、住居内における家族団らんの場としてのリビング(居間)=Lの確保が目指された。こうして2LDKあるいは1LDKというタイプが供給されるようになる。「モダンリビング」と呼ばれた居間=LDKとともに日本の戦後住宅のもうひとつの象徴である。住宅の工業生産化を目指すもうひとつの回路においては早くから提案されてきた。

そして、家族の集う公的な場としてのリビングが確保された次の段階として、家族成員個々の個室の確保が目指された。すなわちnLDKの誕生である。面積に従って個室nの数を増やしていくのである。

日本住宅公団の供給した住宅の平面型(間取り)を追いかけてみればはっきりする。一九六〇年代前半には2DKとともに3DK3LDKが一般的となる。nLDKという標準型は「51C」以降の約一〇年で確立するのである。

 

「最小限住宅」

戦後まもなく、圧倒的住宅不足を解消する大量建設の前提として問われていたのは、どのような住宅を供給するのか、である。「51C」以外に戦後日本の住宅モデルの提案がなかったわけではない。新たな住宅や生活のイメージを求めて、当時、建築界では、「小住宅」コンペ(競技設計)が相次いで行われ、多くの若い建築家たちが情熱を込めて参加している。「最小限住宅」の様々な提案があるし、例えば、水回りなどユーティリティをまとめて配置して残りは基本的に一室とする「ワンルーム・コア」の提案は今日振り返っても素直である。

具体的な住居形式の追求は、主として二つの方向で行われた。ひとつは、以上のように「51C」を生んだ、公的な住宅供給を前提とした回路における新たな住宅モデルの提示である。もうひとつは、住宅の工業生産化を前提とした回路における、新たな住宅プロトタイプの提示である。もちろん、二つの方向は最初から分離していたわけではない。いずれも、住宅の大量供給が前提であり目標であった。しかし、一方が、集合住宅を対象として、住まい方の標準化との対応で住宅の型を考えたのに対して、他方は、建築家が直接アプローチしうる戸建て住宅を対象とし、住宅生産技術にウエイトを置いていたという違いがある[7]

住宅生産の工業化を目指す回路においても様々な平面形式が提案されたが、DKという発想は希薄である。量の問題を第一義的に前提とするのでなければ、解答は無限である。例えば、「住宅No.1」から番号を振りながら百を超える個人住宅を設計し続けた池辺陽[8]がいる。住宅は本来、それぞれの家族のかたちに合わせて、その要求に従ってつくられればいい、住宅を単に平面形式に還元するのではなく、材料、設備、構造、形態を含めてトータルに捉える視点、限られた条件においても、生活の質を落とさない「近代化」へ向けての提案を個々の住宅設計において積み重ねることによってしか問題は解決しないという姿勢がそこにはある。個を充実しながら全体へ向かうか、標準化によって全体に対応するか、「建築家」のアプローチにも大きな違いはあったのである[9]。「51C」が前提にしていたのは明らかにひとつの「型」の提案である[10]

 

2.「nLDK家族」

住宅の型と家族の型

しかし、問題は、この住宅の型が何故かくも画一的に受容れられていったかである。言うまでもなく、それを受容れる家族にも一定の型があった(あるいは成立した)からである。

戦前期の日本は、一般に「家父長制」を基本とし、いわゆる「大家族制」を採っていたとされる。「核家族」という形態は、戦前期のみならず、江戸時代に遡っても少なくなかったけれど、明治民法(一八九八年)が規定する「家」制度が大きく家族のあり方を規定してきた。「家」制度についての議論は少なくないが、家父長(戸主権)の強さ、その先祖祭祀義務、家族の扶養義務、家督相続における直系卑属男子優先原則などを特徴とする。

具体的には、家長以下三世代が同居する拡大家族がモデルとなる。家長の座る「囲炉裏」端を中心とする農家住宅が、「大家族」に対応する住宅形式であった。明治期前半において、日本社会の八割は農村人口によって構成されており、第二次世界大戦直後でも、日本の総人口の六割は農業に従事していたのである。日本には町屋、そして長屋の伝統があるけれど、新たな都市型住宅が必要とされるのは明治以降である。

日本の近代住宅史を型に着目しながら簡単に振り返るとおよそ以下のようになる。開国から、文明開化、殖産興業の流れの中で、西洋風住宅が導入される。「洋館」と呼ばれたその新しい住宅は、しかし、基本的には「武家住宅」を基礎にしていた。すなわち、「洋館」は「武家住宅」の玄関の横に「洋間」を付け加えるかたちであった。主人(家長)の書斎、そして応接間として使われたのが「洋間」である。椅子座の導入が洋風化のひとつのシンボルとなった。「洋館」に住んだのは、もちろん、限られた上層階級である。

産業化の進展とともに都市化が起こる。大きな社会変動である。東京、大阪に「貧民窟」(スラム)が生み出されるのは1890年代のことである。流入人口を引き受けたのが「木賃宿」であり、「下宿屋」であり、「長屋」である。「長屋」の起源は江戸時代に遡るが、明治期のものは「百軒長屋」「千軒長屋」と呼ばれるほど大規模なものとなる。

やがて都市に居住する中間層、サラリーマン層が成立してくるが、彼らが住んだのが、いわゆる「中廊下式住宅」である。南面して8畳、六畳の続き間をとり、中廊下を挟んで北側に玄関、トイレ、台所、茶の間をとる。新しい型の住宅が生み出されたと言っていい。ベースとなったのは農家住宅である。しかし、それまでの農家住宅における「囲炉裏」を中心とする住居形式から「茶の間」を中心とする住居形式へ、という変化がある。都市型住居成立のひとつの萌芽である。

さらに、大正期に入って、生活改善運動、文化生活運動が展開される中で、居間中心型の住居形式、「(核)家族(家庭)本位」の住居形式が提案される。必ずしも定着したとは言えず、実際、「中廊下式住宅」は昭和戦前期まで都市型住宅の主流であり続けるが、「家」から「家庭」へという流れは徐々に一般的となっていくことになる。

一方、小住宅の系譜として長屋もいくつかの形式が現れてくる。昭和初期以降、一般庶民の住宅形式として大量に供給され出したのが、関西では「文化住宅」と呼ばれた長屋である。

いわゆる、集合住宅の形式は、早い例として、軍艦島と呼ばれた高島炭坑の労働者住宅(一九一一年)のような例が見られるが、本格的な導入の契機となったのは、同潤会による「アパートメントハウス」である。関東大震災の義援金をもとに設立(一九二三年)された同潤会は、日本最初の公的住宅機関であり、様々な事業を展開したが、その名をとりわけ高めたのが、「アパートメントハウス」事業である。青山、代官山、清洲、下谷・・など下町を中心に建設されたが、中でも興味深いのは江戸川アパートである。

単身者住宅と家族用住宅が組み合わされており、社交室など様々な共同施設が用意されている。共同生活について明確なイメージが示されていたことは記憶されている。戦後、同潤会を引き継ぐかたちで設立された日本住宅公団の団地は、nLDKを積み重ねるだけで共同生活のイメージは希薄と言わざるを得ないのである。

いささか単純化しすぎたかもしれないが、家族の容器としての住居の型はおよそ以上のようである。

日本の国土の全体を眺めれば、敗戦に至る昭和戦前期までは、江戸時代に遡りうる景観が維持され続けていたと見ていい。すなわち、農家住宅にそう大きな変化はない。都市化の進展の一方で農村の疲弊があり、地方の改善、生活改善はテーマとされてきたが、その空間形式は大きくは変わらなかった。一方、都市においては、新たな形式として、洋館、中廊下式住宅が現れ、徐々に定着していくことになるのである。

 

「近代家族」とnLDK

51C」の設計に当たっては、一定の家族像が想定されていた。すなわち、2DKという限られた面積であり、家族人数は二~四人、夫婦と若年の子からなる核家族が最も一般的な対象となるのは当然である。核家族という家族形態が以前から存在してきたことは以上にも触れた通りであるが、2DKという容器が核家族を対象としていたことの意味は大きい。

もとより、「51C」そして2DKは戦後住宅の標準型を目指したものではない。公共住宅供給の位置づけとしては、いわゆる「橋の論理」が前提であった。公共住宅に居住するのは、人生の一定期間だけであり、いずれ引越しをして移住する、公共住宅はその掛け渡しの「橋」の役割をするだけであるという論理である。「終の棲家」と考えられていたのは、「庭付き」の「一戸建住宅」である。一般にも、「方荘号字」(ホウソウゴウジ)という「住み替え双六」を「あがる」ことが平均的庶民の住居遍歴と考えられていた時代である。○○様方→○○→○○号→字(字)○番地と、最後は「持家」を建てるのが、個々人の責任というのが住宅政策の誘導方針であった。

ところが、51C→nLDKという系列は、仮の住まいではなく、「終の棲家」として定着していくことになる。戦後半世紀を経て、生まれて以来団地育ちという世代が次第に支配的になりつつあるのである。

この推移の背景には様々な要因が絡むが、大きいのは日本の家族のあり方、その制度である。家父長制に基づく大家族から近代家族(核家族)の自立、そして、家族という制度から個の自立へ向かう過程は、一方で、戦後復興と高度成長を支える産業システムの編成、労働力再生産の仕組みの形成過程でもあった。

日本全体で、世帯数を住戸数が上回るのは一九六八年(全都道府県では一九七三年)である。戦後まもなく不足していた四二〇万戸を回復するのにほぼ四半世紀を要したことになる。

何故、それだけの年月を要したかについて第一に指摘されるのは、日本全体における大規模な社会変動、都市化である。農村から大都市へ移動した層によって日本の戦後復興、高度成長は支えられることになるが、都市における急速な人口膨張は住宅不足のさらなる要因となるのである。

第二は、「大家族」世帯の世帯分離、いわゆる「核家族」化の進行、という指摘である。都市へ移動したのは、農家の次男、三男であり、彼らは都市で新たな世帯を形成するに至る。結果として、世帯数そのものが増えたために必要な住戸数もまた増加したのである。

こうして、大家族制から近代家族(核家族)制へ、家族のあり方が大きく変わる中で、その家族を受容れる容器として機能したのが、51C→nLDKの系列による空間編成であった。nLDKがかくも画一的に日本全国に蔓延した理由は、とりあえず以上のように考えることができるだろう。

 

「nLDK」批判

 少子高齢社会の到来とともに、核家族を主体とする社会編成は多くの問題を露呈し始める。個の自立という方向についての評価はともかく、顕著になったのは単身者(高齢単身者(独居老人)および晩婚化による単身者)の増大である。高齢化、晩婚化、少子化の進行によって、高齢単身者のケア(介護)の問題が浮上してくるのは当然である。高齢者の老後について「家族」が責任を持つ従来のシステムが破綻し始め、地域社会によって、あるいは公的介護によってそれをカヴァーせざるを得なくなるのである。

そこで同じように問題となるのが、nLDKを主体とする日本の都市の空間編成である。ケア付き住宅、単身者が集まって住むコレクティブ・ハウスあるいはシェア・ハウス、高齢者のためのグループ・ハウス(ホーム)など新たな住居形式が模索されるように、nLDKモデルだけでは対応できないのである。

近代家族批判をラディカルに展開してきた上野千鶴子[11]は、nLDKは、結果的に、夫婦とn-1人の子からなる家族のための容器である、という。そして、近代家族モデルを前提としてnLDKモデルによってあまりに画一的に社会空間を編成してきた「建築家」にその責任があるのではないかという[12]。そして、「51C」にその責任はなかったか、をめぐって議論も行われた[13]

「建築家」の側に大きな問題があるとすれば、課題を住戸計画という閉じた世界にのみに設定したことである。すなわち、住宅地計画、地区計画、都市計画へと空間計画を主体的に展開し得なかったことである。結果的に、単なる住戸の平面形式の提案に止まったことである。しかし、そこには、ひとり「建築家」の責任問題に帰せられない、まして「51C」の提案者を問いつめてすませられない背景がある。

すなわち、問うべきは社会全体の産業的空間編成の問題である。いくら提案があっても、それを受容れる居住者、消費者がいなければnLDKが蔓延することは無かったはずである。テーマとなるのは、空間の需要・供給のシステム、生産消費のメカニズム全体なのである。

 

3.プレファブ住宅の誕生――住宅生産消費のメカニズム

 

住宅産業の成立

日本の社会を構成する基礎的単位としての家族と住居は、以上のように、画一的にパターン化されてきたのであるが、それを決定づけたのは住宅産業の成立である。そして、その象徴となるのがプレファブ住宅の誕生である。

戦後まもなくバラックで埋め尽くされていた大都市の景観は、朝鮮戦争の特需によるビルブームとともに一変し始める。敗戦後十年を経て、『経済白書』が「戦後は終わった」と宣言した一九五五年以降、日本の高度成長期が始まる。その同じ年、日本住宅公団が設立され、本格的に住宅供給を開始するとともに2DKが全国に普及していったことは以上に述べた通りである。公団住宅の建ち並ぶ団地は、郊外住宅地として建設され、新たな住宅地の景観となるのである。

しかし、団地がカヴァーしたのは、量としてはごくわずかでしかない。団地に住んだのは「花の団地族」であり、その住居形式が蔓延するのは少し後のことである。

高度経済成長とともに、都市の膨張が始まる。いわゆる郊外スプロールである。とりわけ、首都圏における人口は著しく増加する。東京都の人口は、戦中一九四〇年に七三五万人であり、敗戦時に三四九万人に半減していたのであるが、一九六二年には一〇一八万人を超えるのである。結果として出現してきたのは、戸建住宅が建並ぶ郊外住宅地の風景である。

一九五九年は、日本の住居史の閾として記憶すべき年である。すなわち、日本にプレファブ住宅が誕生したのが一九五九年である。日本のプレファブ住宅第一号は「ミゼットハウス」と呼ばれる。

プレファブとは、プレ・ファブリケーションPre-Fabricationの略である。予めつくること、を意味する。その起源は一九世紀半ば、ロンドン万国博のクリスタルパレス(一九五一年)に遡るとされるが、プレファブ住宅の起源となる試みがなされるのは一九二〇年代である。バウハウスの初代校長W.グロピウスが提案した「トロッケン・モンタージュ・バウTrocken Montage Bau(乾式工法)」と呼ばれる構法がその嚆矢とされ、日本でも戦前期に研究されている。「乾式工法」とは、すなわち、漆喰壁や土壁など塗り壁を用いず、部材を組み立てるだけの構法で、プレファブ住宅は組立住宅とも呼ばれる。上述のように、戦後まもなくも、住宅生産の工業化の方向が追求されている。戦後建築を主導することになる前川國男が率いたMID同人による「プレモス」がその代表である。そして、工業化住宅の提案は、一五年を経て具体化されることになる。その第一号が「ミゼットハウス」なのである。

「ミゼットハウス」は、しかし、「ハウス」と呼べる代物ではなかった。わずか十一平米、三坪あまりで、庭先に建てる「勉強部屋」として売りに出されるのである。「ミゼットハウス」は、当時の住宅事情を物語っている。すなわち、庭先に小屋を建てる敷地の余裕があったこと、しかし、住宅の方には子供のための空間の余裕がなかったこと、である。一九六〇年前後、大都市周辺でも一般庶民のための住宅は基本的に平屋であったこと、また、その大半は、大工工務店によって建てられていたのである。

しかし、「ミゼットハウス」以降の二、三年の間に相次いで今日知られるプレファブ・メーカーが設立される。そして、各メーカーは、一九六〇年代を通じて成長を遂げることになる。平行して、建売住宅業者あるいは民間ディヴェロッパーが大量に住宅を供給し始めることになった。プレファブ住宅が成立するためには、すなわち工業化によって住宅を大量生産するためには、住宅の型は標準化されている必要がある。ヴァリエーションが多いと高価になる。プレファブ住宅の誕生にとって、nLDKという型の成立は好都合であり、逆にその型の一般化を強化していくことになるのである。

一九六〇年代後半には、住宅産業が成立する。プレファブ住宅メーカーによる住宅供給は、一九七〇には一〇パーセント近いシェアを占めるに至るのである。

 

大転換

こうして、日本住宅史の決定的な区切りとなるのは、一九六〇年代の一〇年である。最も象徴的なのはアルミサッシュの普及である。この十年でゼロからほぼ百パーセントとなる。要するに、住宅の気密化によって空調によって室内気候が制御されるようになった。すなわち、日本の住宅が自然との関わりを失い始めるのが一九六〇年代である。

また、日本列島から茅(藁)葺き屋根がほぼ消えることとなった。とって替わったのは、プレファブ住宅に代表される、新建材と呼ばれた工業材料を用いた住宅である。住宅生産の工業化の流れは、すなわち工具や構法、材料の変化は「伝統的」な木造住宅を大きく変質させた。木構造が変質するのみならず鉄骨造、鉄筋コンクリート(RC)造など様々な構法が導入されることによって、住宅地の風景も雑然としたものになると同時に、似通ったものとなっていく。世界中同じように生産される工業材料を用いることで、住宅地の風景-例えばその色彩-が似てくるのは当然である。住宅の地域性が失われ始めたのが一九六〇年代である。

一九六〇年代初頭以降、大都市圏を中心にニュータウン開発が開始されたことも大きい。もともとは、一九世紀末にE.ハワードによって提唱された「田園都市(ガーデン・シティ)」の理念に基づいたものであったが、日本においては、自立的な都市としてではなく、巨大な「田園郊外」、「ベッドタウン」として定着していくことになる。また、一九六〇年代末に至ると、「面開発団地」と呼ばれる高層住宅が建並ぶ住宅団地が主流となっていく。

一九六〇年代の十年は、間違いなく、有史以来の大転換期である。

その大転換の根底にあるのが、土地と住宅の分離である。本来、住宅は、それぞれの土地で、気候や地形、風土に合わせて建てられてきたのであるが、プレファブ住宅のように工場でつくられ、ただ組み立てるだけのものとなるのである。それとともに、住宅は自ら建てるものではなく買うものになる。住空間がひとつの商品となったことがはっきりするのが一九六〇年代なのである。

近代家族を容れる容器として、社会の産業的編成の空間的装置として成立し、受容れられていったのがnLDKなのである。

 

「家」の産業化

一九六〇年の一年間に、日本全国で建設された住宅は、およそ六〇万戸であった。そして、一九七三年には一年で二〇〇万戸近い住宅が建設されている(図5)。この年、全都道府県で全世帯数を全住戸数が上回ったことは前述の通りである。

そして、同じ年の突然のオイル・クライシスとともに、住宅についても「量から質へ」ということが盛んに唱えられるようになった。新規開発から既成市街地の再開発へ、高層住宅から低層住宅へ、画一性から多様性へ、というように住宅をめぐる言説のパラダイムは大きく変化するのである。

しかし、七〇年代における二度のオイルショックにも関わらず、住宅生産に関わる基本的趨勢は変わらなかったように思われる。興味深いのは、「商品化住宅の様式化」現象が顕著になったことである。画一的なプレファブ住宅には「安物」のイメージがあり、個性を売り物にする様々なスタイルの住宅が商品化されるのである。しかし、それにも関わらず平面形式としてのnLDKは揺らぐことはなかった。何故か。一言で言えば、生活そのものが標準化されているからである。また、「入母屋御殿」と呼ばれる地域の伝統、その固有性を標榜する住宅が地方で数多く建てられたことも興味深い。意匠は多様化したように見えて、ここでも、平面形式は大差がないのである。

八〇年代に入って、バブル経済が日本列島を覆う中で日本の住宅のあり方をさらに大きく主導するようになったのはプレファブ・メーカーであり、住宅生産の工業化の流れは大きく揺らぐことはない。

一九六〇年代に続いて区切りとなるのが一九八五(昭和六〇)年である。この年、年間新築戸数(フロー)のうち借家が持家を超えた。また、集合住宅が賃貸住宅を超えた。さらに、木造住宅が五割を切った。すなわち、一般的に手に入れることが出来る住居は、賃貸の非木造の集合住宅となったことが、指標としてはっきり示されるのである。

この間一貫するのは住宅を支えるテクノロジーの「進化」である。ハウス・オートメーション(HA)、ハウス・セキュリティー(HS)など、コンピューター制御による住宅機器が様々に開発されつつある。三種の神器(洗濯機、テレビ、冷蔵庫)の時代や3C(カー、カラーテレビ、クーラー)の時代に比べると、まさに隔世の感がある。住宅の設備は随分と高度になり、そして便利になった。掃除、洗濯、裁縫、炊事など家事労働の形は、家電製品の登場で大きく変わった。家事労働の時間は大幅に削減されることになったのである。

 一方、家の中での仕事は、どんどん、家の外へ追放された。すなわち、サービス産業によって代替されるようになってきた。食事の宅配サービスやハウス・クリーニングなど、家では何もすることがないほどである。その究極の形態はと問われれば、それはまるでホテルのような住まいである。ベッドメーキングからなにからなにまで、あらゆるサービスがついた住まいである。実際、そうした、ホテル型のマンションは既に建設されつつある。

 もちろん、そうした住まいが一般化していくのは簡単ではない。しかし、その前に問われるのが家族の関係である。あらゆるサービスが外化され、住居が単なる個室の集合となるとすれば、家族の結びつきの意味が改めて問われる筈だからである。

 

おわりにーーーポスト「nLDK」:集合の論理と共用空間

現在、高齢化、少子化、介護、年金・・・その社会編成システムの綻び、破綻が明らかになりつつある。nLDKという空間単位によって構成される社会が多様化する家族関係、流動化する社会編成に対応できないことははっきりしている。

では、どのような空間モデルが可能なのか。空間編成の上でキーとなるのは、集合の論理である。あるいは共用空間である。

第一に、多様な関係、多様な生活を許容する空間形式を追求することがひとつの指針となる。そして、問題となるのは、その基礎となる空間単位である。核家族の容器としてのnLDKという空間単位では機能しないとすれば、おそらく個人のための空間を基礎空間単位として、それをどう集合させるか、そのためにどういう空間を媒介(共有空間)とするか、が問われるのである。

また、住宅とそれが立地する場所との関係をどう考えるかがテーマとなる。住宅形態は、そもそも地域の生態系に基づいて多様であったのであり、土地との固有な関係は見直す必要がある。環境を完全に人工的に制御することはあり得ないであろう。それとともに、住宅生産の仕組みも再編成される可能性がある。プレファブ住宅が支配的となる地域はそんなに多くはないのである。

さらに、住居の形式としては、まちの形との関係が問題となる。すなわち、集合形式がさらに集積されてできあがるのがまちであり、要するに、住居のあり方は都市景観として表現されるのである。

こうした問題は、明らかにひとり「建築家」に問われている問題なのではない。適切な解答を生み出せるかどうかが、日本社会全体に問われているのである。

 

 

40枚

写真 5,6点

4 nDKの誕生-近代都市の住宅事情-  布野修司(滋賀県立大学)

 日本特有の「nDK住宅の誕生」とその歴史的背景について、また団地暮らしを中心とした近現代の日本の住まい方の歴史的変遷や社会的要因、さらに近代家族のあり方を規定する住居に関して、全体的に論じて下さい。

 節 3

 項 1200字

 


 



[1] 拙著、『住宅戦争』、彰国社、『戦後建築論ノート』、相模書房、

[2] 鈴木成文、『住まいの計画住まいの文化 : 鈴木成文住居論集』、彰国社、1988年他。

[3] 伊藤書店、1944

[4] 拙稿、「西山夘三論序説」、『国家・様式・テクノロジー―建築の昭和―』(布野修司建築論集Ⅲ)、彰国社、1九九八年

[5] 相模書房、194七年

[6] 浜口ミホ、『日本住宅の封建制』、相模書房、1949年。浜口ミホの主張にも関わらず、日本の住宅から「床の間」も「玄関」も必ずしも無くなったわけではない。また、浜口ミホが主張したのも、「玄関」とか「床の間」という名前を止めよう、ということであった。

[7] 様々なアプローチがあった。建築行政、都市計画行政のレヴェルで住宅建設と都市復興を関連づけ、諸施策、諸事業の展開を考えるもの、公営住宅の直接的供給を前提とし、その方法、モデルを提示しようとするもの、住宅生産の工業化を目指しながら、「最小限住宅」という一つのプロトタイプを提出しようとするもの、住宅困窮者の運動を基盤としながら、「住宅生協」といった住宅供給のための組織をつくりあげようとするもの、などである。前者の方向を担ったのが、西山夘三とそのシューレおよび吉武泰水・鈴木成文とそのシューレであり、後者の方向を追求したのが池辺陽、増沢殉、広瀬鎌二らの「最小限住宅」プロトタイプの模索、また様々な組立住宅の試み、中でも、日本の近代建築を主導してきたと言っていい前川國男を中心とするMID(ミド同人)や山口文象を中心とするRIAなどのアプローチであった。

[8] 池辺陽、『すまい』、一九五四年など

[9] 戦後まもなく住宅の問題に取組んだ「建築家」たちの関心はやがて住宅から離れていく。朝鮮戦争の特需によるビルブームとともに、少数の建築家を除いて、多くは大規模な公共建築や民間のオフィスビルへ眼を向けていく。ひとつには、一九五五年に日本住宅公団が設立され、公的な住宅供給が軌道にのりだしたことも大きい。そして、一九六〇年前後に相次いで住宅メーカーが設立され、住宅産業が成立していったことも大きい。すなわち、実際の住宅供給は公団や自治体、住宅メーカーに委ねられるのである。篠原一男の「住宅は芸術である」(一九六二年)、八田利也の「小住宅設計ばんざい」(一九五八年)が象徴的である。六〇年代初頭には、「建築家」にとって住宅は、極めて私的な回路において対象とすべきものとなるのである。

 

[10] 51C」を産んだ建築計画学の基礎にあるのは、ひとことで言えば、「生活と空間の対応」という理念である。生活様式と空間形式の間に一定の対応関係があることを「住まい方(使われ方)」調査によって発見し、それを「型」として提示する「型」計画の方法がその基本である

[11] 『家父長制と資本制』、岩波書店、1990年、『近代家族の成立と終焉』、岩波書店、1994年など

[12] 『家族を容れるハコ家族を超えるハコ』、平凡社、2002

[13] 鈴木成文他著、『「51C」家族を容れるハコの戦後と現在』、平凡社、2004年 

2024年9月26日木曜日

「51C」:その実像と虚像―戦後日本の住宅と「建築家」―、鈴木成文・上野千鶴子・山本理顕・他:「51C」家族を容れるハコの戦後と現在,平凡社,2004年10月8日

  鈴木成文・上野千鶴子・山本理顕・他:「51C」家族を容れるハコの戦後と現在,平凡社,2004108

51Cは呪縛か

「51C」:その実像と虚像―戦後日本の住宅と「建築家」―

布野修司

廃墟の光芒---バラックの海

戦災によって焼失した住宅が二四〇余万戸、疎開などで取り壊された住宅が六〇余万戸、戦時中に建設さるべくして建設されなかったもの、引揚者用などを合わせると、戦後まもなく全国で不足していた住宅は四二〇万戸と推定される(一九四六年四月)。この圧倒的な住宅不足を前にして、「建築家」がいかに「住宅の問題」に取組むかを最大の課題にしたのは当然のことであった。

この課題に対する「建築家」のアプローチには、現実への回路がどのように想定されているか、すなわち、どういう主体(居住者)へヴェクトルが向けられ、どういう方法とプロセスが想定されていたかによって、いくつかのレヴェルがあった。建築行政、都市計画行政のレヴェルで住宅建設と都市復興を関連づけ、諸施策、諸事業の展開を考えるもの、公営住宅の直接的供給を前提とし、その方法、モデルを提示しようとするもの、住宅生産の工業化を目指しながら、「最小限住宅」という一つのプロトタイプを提出しようとするもの、住宅困窮者の運動を基盤としながら、「住宅生協」といった住宅供給のための組織をつくりあげようとするもの、などである。

大量の住宅建設という課題の一方で、また、その前提として求められていたのが、新たな住宅や生活のイメージである。「小住宅」コンペ(競技設計)が相次いで行われ、多くの若い建築家たちが情熱を込めて参加している。西山夘三の『これからのすまい』(一九四八年)、浜口ミホの『日本住宅の封建制』(一九五〇年)が示すように、建築家は、新たな住宅像の確立をまず目指し、それを具体化する様々な回路を現実の諸条件のなかで求めていたのである[1]

具体的な住居形式の追求は、主として二つの方向で行われた。一つは、公的な住宅供給を前提とした回路における新たな住宅モデルの提示、もうひとつは、住宅の工業生産化を前提とした回路における、新たな住宅プロトタイプの提示である。もちろん、二つの方向は最初から分離していたわけではない。いずれも、住宅の大量供給が前提であり目標であった。しかし、一方が、集合住宅を対象として、住まい方の標準化との対応で住宅の型を考えたのに対して、他方は、建築家が直接アプローチしうる戸建て住宅を対象とし、住宅生産技術にウエイトを置いていたという違いがある。

前者の方向を担ったのが、西山夘三とそのシューレおよび吉武泰水・鈴木成文とそのシューレであり、後者の方向を追求したのが池辺陽、増沢殉、広瀬鎌二らの「最小限住宅」プロトタイプの模索、また様々な組立住宅の試み、中でも、日本の近代建築を主導してきたと言っていい前川國男を中心とするMID(ミド同人)や山口文象を中心とするRIAなどのアプローチであった。

 

「51C」から「nLDK」へ

一面のバラックの海を眼前にして、いかに多くの住宅を公的に供給するか、どのような住宅を供給すればいいのか、「51C」誕生の背景は、およそ以上のようである。

西山夘三の『国民住居論攷』など理論的背景[2]についてここで触れる余裕はないが、要するに、ある制約条件(三五平米という限られた面積)において、「食べる場所と寝る場所を分ける」(食寝分離)、「寝室を分ける(二部屋確保する)」(就寝分離)という単純な二つのルールをもとに設計されたのが「51C」型平面(間取り)である。そして生み出されたのが、「食事もできる台所」=ダイニングキッチンDKである。ある意味では苦肉の策であったといっていい。51A51B型が同時に提案されているように、唯一の解答とは言えないけれど、二つのルールを前提にすれば誰が設計しても大差ない提案であろう。しかし、そこには、一部屋を壁で囲い独立性の高い部屋にする、台所を少し拡げて食事もとれるようにする、台所ともう一部屋はつなげて使えるようにする、真摯な思索と人間味溢れる配慮が込められていた。

問題はその後の展開である。「51C」が生み出したDKは、日本の近代住宅(戦後住宅)の象徴として広範に受け入れられていく。日本住宅の封建制を象徴する「玄関」や「床の間」に代わって、DKが住宅近代化のシンボルとなるのである。一九五〇年には住宅金融公庫法が成立している。本来、集合住宅の住戸モデルとして提案された「51C」であるが、DKは家事労働軽減の空間的提案として農家住宅にも導入され普及していくのである。

一九五五年に日本住宅公団が設立される。「51C」を原型とする2DK形式の住宅は、それを階段室によって積層する集合住宅形式とともに採用され、全国に蔓延する。この標準化された画一的な住宅形式とそれが建ち並ぶ「団地」の光景は、戦後日本の象徴のひとつである。建設当初、「花の団地族」という言葉とともにある種の憧憬の念をもって受け入れられたことは記憶されていい。

日本住宅の標準モデルとしての「51C」以降の展開を単純に図式化すれば以下のようである。「51C」に結晶化した「建築家」の創意は、規模拡大の論理へと接続されたとみていい。

「食寝分離」「隔離就寝」→「公私室分離」→「個室確保」

「食」と「寝」の分離が実現した後は、「公」と「私」の分離、すなわち、住居内における家族団らんの場としてのリビングLの確保が目指された。「モダンリビング」はDKとともに日本の戦後住宅のもうひとつの象徴である。住宅の工業生産化を目指すもうひとつの回路においては早くから提案されてきた。そして、次の段階として、家族成員個々の個室の確保が目指された。

日本住宅公団の供給した住宅の間取りを追いかけてみればはっきりするであろう。一九六〇年代前半には2DKとともに3DK3LDKが一般的となる。nLDKという標準型は「51C」以降の一〇年で確立するのである。

 

「nLDK家族」批判

51C」以外に戦後日本の住宅モデルの提案がないわけではない。「最小限住宅」の様々な提案があるし、例えば、水回りなどユーティリティをまとめて配置して残りは基本的に一室とするワンルーム・コアの提案は今日振り返っても素直である。また、住宅生産の工業化を目指す回路においても様々な平面形式が提案されたが、DKという発想は希薄である。量の問題を第一義的に前提とするのでなければ、解答は無限である。「住宅No.1」から番号を振りながら百を超える個人住宅を設計し続けた池辺陽がいる。その『すまい』(一九五四年)には、住宅を単に平面形式に還元するのではなく、材料、設備、構造、形態を含めてトータルに捉える視点がある。また、限られた条件においても、生活の質を落とさない「近代化」へ向けての提案を個々の住宅設計において積み重ねることによってしか問題は解決しないという姿勢がある。個を充実しながら全体へ向かうか、標準化によって全体に対応するか、「建築家」のアプローチにも大きな違いはあったのである。「51C」が前提にしていたのは明らかにひとつの「型」の提案である。

51C」を産んだ建築計画学の基礎にあるのは、ひとことで言えば、「生活と空間の対応」という理念である。生活様式と空間形式の間に一定の対応関係があることを「住まい方(使われ方)」調査によって発見し、それを「型」として提示する「型」計画の方法がその基本である。住宅計画に限らない。学校でも、病院でも、同じような方法が採られてきた。

上野千鶴子の「51C」=nLDK批判にはいくつかのレヴェルがあるが、その第一には、以上のように空間形式を特権的に扱う建築計画学への批判である。この批判も、「建築家」に対する根源的批判となる「空間帝国主義」批判のレヴェルと具体的なnLDK(という空間形式)批判のレヴェルがあるが、中心は後者にある。空間の規定力(暴力)を思考と方法の基礎におく「建築家」は、「空間帝国主義」という批判は予め認めざる(居直らざる)を得ないだろう。空間を生活が裏切る(想定通りに使われるとは限らない)というのも前提である。問題は、空間の「型」は一定の制度を前提にしてしか成立しないのではないか、という点である。

施設(=制度:インスティチューション)計画の場合がわかりやすいであろう。学校建築における、同一学年が教室単位で、黒板を背にして教師と生徒が向き合うという空間形式はある教育制度が前提である。ノン・グレーディング(無学年制)やティーム・ティーチングなどを理念とするオープン・スクールは、現実の学校の使われ方をいくら調べても発想されないであろう。同じように、51C→nLDKというモデル提示にはある家族の型=近代家族という制度が想定されていたのではないか。こうして上野千鶴子のnLDK批判は、もうひとつのレヴェルの批判、近代家族批判へと接続することになる。

日本全体で、世帯数を住戸数が上回るのは一九六八年(全都道府県では一九七三年)である。戦後まもなく不足していた四二〇万戸を回復するのにほぼ四半世紀を要したことになる。人口増とともに世帯分離が大規模に進行したからだとされる。戦前における大家族中心から核家族中心へ、社会を構成する基礎的な集団単位が変化するのである。

家父長制に基づく大家族から近代家族(核家族)の自立、そして、家族という制度から個の自立へ向かう過程は、一方で、戦後復興と高度成長を支える産業システムの編成、労働力再生産の仕組みの形成過程でもあった。nLDKは、結果的に、近代家族モデルを理想化し、産業的社会編成の仕組みを完成する空間的装置となった。そして現在、高齢化、少子化、介護、年金・・・その社会編成システムの綻び、破綻が明らかになりつつある。近代家族モデルを前提としてnLDKモデルによってあまりに画一的に社会空間を編成してきた「建築家」にその責任があるのではないかというのが、乱暴に要約すれば、nLDK批判、「nLDK家族(近代家族)」批判の骨子であろう。

 

「nLDK」を超えて――住宅生産消費のメカニズム

51C」にその責任はなかったか、と言えば、ないとは言えない、と思う。致命的であったのは、課題を住戸計画という閉じた世界にのみ設定したことである。すなわち、住宅地計画、地区計画、都市計画へと空間計画を主体的に展開し得なかったことである。結果的に、単なる住戸の平面形式の提案に止まったことである。しかし、そこには、ひとり「建築家」の責任問題に帰せられない、まして「51C」の提案者を問いつめてすませられない背景がある。

戦後まもなく住宅の問題に取組んだ「建築家」たちの関心はやがて住宅から離れていく。朝鮮戦争の特需によるビルブームとともに、少数の建築家を除いて、多くは大規模な公共建築や民間のオフィスビルへ眼を向けていく。ひとつには、一九五五年に日本住宅公団が設立され、公的な住宅供給が軌道に乗りだしたことも大きい。そして、一九六〇年前後に相次いで住宅メーカーが設立され、住宅産業が成立していったことも大きい。すなわち、実際の住宅供給は公団や自治体、住宅メーカーに委ねられるのである。篠原一男の「住宅は芸術である」(一九六二年)、八田利也の「小住宅設計ばんざい」(一九五八年)が象徴的である。六〇年代初頭には、「建築家」にとって住宅は、極めて私的な回路において対象とすべきものとなるのである。

住宅がnLDKという容器に還元され、一個の商品と化していったことは、社会全体の産業的空間編成の問題である。いくら提案があっても、それを受け入れる居住者、消費者がいなければnLDKが蔓延することは無かったはずである。問うべきは、空間の需要・供給のシステム、生産消費のメカニズム全体である。

こうして、「51Cは呪縛か」という問いの出発点に共通に立つことになる。

一九七〇年代初頭、日本の住宅メーカーは住宅建設の一五%弱をカヴァーするまでに成長する。一九七三年には一年で二〇〇万戸近い住宅が建設されている。そして、同じ年の突然のオイル・クライシスとともに「商品化住宅の様式化」現象が顕著になった。画一的なプレファブ住宅には「安物」のイメージがあり、個性を売り物にする様々なスタイルの住宅が商品化されるのである。しかし、平面形式としてのnLDKは揺らぐことはなかった。何故か。それが問いの出発点である。

そして、その問いを愚直なまでに問い続けている「建築家」の代表が山本理顕である。一九八〇年代初頭から二〇年、石山修武、大野勝彦、渡辺豊和らとともに、『群居』[3]なる雑誌を出して、それなりに考えてきたのであるが、住宅を中心テーマとする建築家はそう多くはないのである。山本理顕の拘りは、戦後建築家の最も良質な志を引き継いでいると言っていいと思う。

その『住居論』[4]が明らかにするように、nLDK家族モデルとは全く異なった住居で育ったこと、世界中の住居集落を見て回った経験が大きいのであろう。むしろ、日本のnLDKが理念(擬態)にすぎず、現実の住まい方、住居形態が遥かに多様であるという確信が一貫してある。「GAZEBO(雑居ビルの上の住居)」で「建築家」としてデビューする以前、「都市に寄生せよ」とか「愛人が同居する家」とか即日設計の課題を一緒に担当していたから証言できるが、住宅に限らず、個々の設計におけるテーマは、常に「nLDK的なるもの(制度)」を如何に超えるかなのである。

 

集合の論理と共用空間

一九七九年に東南アジア諸国を歩き出して、強烈なインパクトを受けたのは、セルフヘルプ・ハウジング(自力建設)あるいはハウジング・バイ・ミューチュァル・エイド(相互扶助)と呼ばれる供給手法である。中でも、コア・ハウス・プロジェクトと呼ばれる住宅供給の方法に眼から鱗が落ちる思いがしたことを思い出す。

コア・ハウス・プロジェクトとは、ワンルームと水回り(トイレと洗面台)のみを供給し、後は居住者に委ねるという手法である。それぞれの経済的余裕に従って、後は勝手に増築する。間取りは自由である。財源が乏しく、やむを得ない創意工夫である。コア・ハウスの形態はプリミティブではあるけれど実に多様である。思ったのは、日本の戦後まもなくの「51C」であり、「最小限住宅」である。オールタナティブはいくらでもあり得たのではないか。

その後、インドネシアで集合住宅のモデルを考える機会があった[5]。結果として、コモンリビング、コモンキッチンをもつインドネシア版コレクティブ・ハウスとなった。nLDKをただ積み重ねたり、並べたりするだけの日本の住宅がむしろ特殊であることは明らかである。

キーとなるのは、集合の論理である。あるいは共用空間である。

51C」以降、鈴木成文の仕事の主テーマは、一貫して、集合と共有空間、「いえ」と「まち」をつなぐ論理をめぐっている。それを充分展開し得たのか、という問いは、同時に自ら引き受けるべきであろう。山本理顕の保田窪団地や東雲の提案が「51C」を超え得ているかどうかは冷静に判断されていい。

上野の近代家族批判はラディカルである。しかし、近代家族という擬制も諸制度によって裏打ちされており強固である。そして、住居もまた極めて保守的である。しかし一方、nLDKという空間単位によって構成される社会が多様化する家族関係、流動化する社会編成に対応できないことははっきりしている。

では、どのような空間モデルが可能なのか。

あらゆる機会において、「建築家」には問われ続けているのである。

 



[1] 拙著、「Ⅱ 近代化という記号 住宅の近代化」、『戦後建築の終焉』、れんが書房新社、1995

[2] 拙稿、「西山夘三論序説」、『国家・様式・テクノロジー―建築の昭和―』(布野修司建築論集Ⅲ)、彰国社、1998

[3] 198212月に創刊準備号を出し、2000年までに50号刊行した。

[4] 山本理顕、『[新編]住居論』、平凡社ライブラリー、2004

[5] 拙著、『カンポンの世界』、パルコ出版、1991

2024年9月16日月曜日

都市計画の幻想,『武装のための教育ー統一的都市計画』,インパクト出版,1997

 都市計画の幻想

布野修司

 

 一九五〇年代末から一九六〇年代にかけて、建築あるいは都市計画の分野ではひとつのパラダイム・シフトが起こりつつあった。

 CIAM(国際近代建築家会議)が崩壊した一九五六年以降、機能主義の乗り越えが様々に模索され始める。機能に変わる構造概念の導入、あるいは、成長、変化、代謝、過程、流動性といった時間に関わる諸概念の導入がそうである。また、機能に対して、素朴にその内容(地方性、有機性、人間性、生活、心理、想像力、自然、伝統・・・)を対置する諸傾向が次々に現れてきた。

 いま振り返って見ると、近代建築批判、近代都市計画批判に関わる重要な著作が一九六〇年代初頭に集中していることがわかる*1。都市計画の画一性と不毛性を経済学的・社会学的に分析し、都市における公園や街路の重要性を主張し、その多様性を維持するための小街区方式を提案した、J.ジャイコブスの『アメリカ大都市の死と生』*2(1961年)、都市の意味論的、象徴論的次元を提起した、K.リンチの『都市のイメージ』(1960年)、ポストモダン建築の最初の理論書、R.ヴェンチューリの『建築の多様性と対立性』*3(1962年)、設計計画のプロセスの徹底した論理化を目指した、C.アレグザンダーの『形の合成に関するノート』*4(1964年)などがそうである。

 日本には、都市や建築を新陳代謝するものとして捉えるメタボリズム理論と様々な都市プロジェクト(丹下健三「東京計画1960」、菊竹清訓「海上都市」「塔状都市」、磯崎新「空中都市」、黒川紀章「空間都市」「垂直壁都市」)がある*5

 「アルバのジプシー・キャンプ」(一九五六年)にはじまるコンスタントの「ニュー・バビロン」構想もそうした大きな流れの中で見ることができるだろう。コンスタントの名は日本では全く無名であるが、彼を建築へ導いたと思われる建築家アルド・ヴァン・アイクはよく知られている。「ニュー・バビロニアン」と呼ばれる住民は固定した住居をもたないノマドである。一方メタボリズムの場合、移動空間単位カプセルで構成されるメタポリスが未来都市の理想とされた。移動性を強調する点は似ている。「ニュー・バビロン」の周縁部分である「黄色地帯」のプロジェクトも、土台の構造物の上に、移動、交換、解体可能な様々な要素が整備されるという発想である。メジャーな基幹構造(インフラストラクチャー)とマイナーな構造を分離する考え方は当時共有化されていた。都市の要素を変わるものと変わらないものに分け、時間的、機能的変化に対応しようというのである。「機能主義的な都市を否定するのではなく、乗り越えるのだ」という構えもよく似ている。

 一九六〇年代初頭、都市の未来は悲観されてはいなかった。都市は理性的な諸対応によって統御できるものと信じられていた。コンスタントの一連の興味深いプロジェクトは、「もう一つの生活のためのもうひとつの都市」のための様々なアイディアに満ちている。そこでは「統一的都市計画」という概念はポジティブなものである。

 しかし、六〇年代初頭の建築家による未来都市のプロジェクトはすぐさま色あせたものとなる。SI脱退(六〇年)以後も「移動式はしごのある迷宮」(六七年)など七二年まで「ニュー・バビロン」の都市計画を構想し続けたコンスタントはある意味では執拗である。日本でも一九七〇年の大阪万国博の会場が擬似的な未来都市として実現するまでは余韻が残っていたと言えるかもしれない。しかし、一般に都市構想を白紙の上に描き、その技術的可能性を問うスタイルは、現実の過程で多くの批判にさらされることになったのである。理念の性急な実現(ニュー・タウン建設)が様々な葛藤衝突を生むのは当然であった。

 コンスタントやメタボリストの技術主義を批判するのは容易い。H.ルフェーブルのいう「社会的総空間の商品化」の進行、すなわち、空間の均質化、軽量化、交換価値への還元の動きは、工業的合理性の貫徹として、工業化、技術革新といったテクノロジーの発達と不可分なのである。移動可能な空間単位で構成される都市を構想することは、「社会的総空間の商品化」のメカニズムを技術的に裏打ちするにすぎなかったのである。

 さらに、C.アレグザンダーが暴いたのは、建築家の都市計画プロジェクトが全て「ツリー構造」をしていることだ*6。一見複雑に見える都市プロジェクトも分析してみると頂点(中心)があって段階的に部分へ至るヒエラルキカルな構造をしているのである。現実の都市はツリーなどではなく編目状(セミ・ラティス)だ、とC.アレグザンダーはいう。

 「都市計画は存在しない。それはイデオロギーにすぎない」

 「都市計画は都市計画批判としてしか存在しない」。

 ドゥボールらシチュアシオニストによる都市計画批判は、極めて根源的なものであった。「統一的都市計画」とは「日常生活批判」の実践なのである。

 H.ルフェーブルがシチュアシアニストとどういう関係にあったかは知らない。しかし、その『総和と余剰』(五九年)『日常生活批判』(五八年、六一年)などが『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌上で触れられるところを見ると、少なくとも六〇年前後には密接なつながりがあったのであろう。H.ルフェーブルの都市計画批判とシチュアシオニストの都市計画批判には明らかに呼応関係があるように見える。

 1960年代末から70年代にかけて、都市計画は徹底した批判にさらされることになる。そうした中で最もラディカルで体系的であったのがH.ルフェーブルの一連の著作である*7。かれはその『都市革命』*8において、むしろ、都市計画の依拠する全体性(「統一的都市計画」?)の概念こそ問題であり、幻想であるとするのである。

 都市計画とは「石とセメントと金属の線で、テリトリーのうえに、人間の住居の配置・秩序を描く活動」であるとH.ルフェーブルはいう。そしてさらに都市計画とは、都市的な実践を自らの秩序に従属させ支配させる活動である。確かにそうだ。しかし、都市計画にとってそれが出発点である。また、都市計画批判にとってもそうである。

 問題は都市計画の一元的性格である。それは芸術科学であり、同時に技術であり認識であると思っているがその一元的性格が幻想をおし隠すのである。

 第一に、都市現象の科学、すなわち都市認識のレヴェルと都市計画の実践レヴェルが分裂している。この分裂は極めて本質的である。いかに「統一的都市計画」は可能か。

 第二に、都市計画自体が分裂している。ヒューマニストの都市計画、プロモーターの都市計画、国家テクノクラートの都市計画、都市計画にもいろいろあるのだ。制度とイデオロギーに分離しているにも関わらず、体系性、完全性への幻想、ユートピアのみが語られる。この分離に眼をつむることは欺瞞である。

 第二に、都市計画は都市的実践(生活のリアリティ)を覆い隠す。全てを空間・社会生活・諸集団とその関係の表象に置換してしまう。具体的に、空間の生産、生産物としての空間、すなわち社会的総空間の商品化のプロセスを見落とす。すなわち、空間支配の資本の論理、社会空間の分配の経済論理を、実証的でヒューマニスティックでテクノロジックな外観で、覆い隠す。さらに例えば、病理的空間(スラム、不良住宅地)の治癒という医学的イデオロギーの背後で、抑圧的空間の再編成をするにすぎない。これまた本質的である。ヒューマニスティックな装いのもとに抑圧的空間が再編成されるのは犯罪的でもある。

 第四に、都市計画は一貫性を欠いている。むしろ、都市計画によって都市の現実は、理論的一貫性欠いたものへと断片化される。これは第一の分裂と関係し、問題を複雑化させる。

 H.ルフェーブルは都市計画に対する根源的批判をたたみかけるように展開する。その批判は、単に、いくつかの分裂を再統合すればいい、といったレヴェルのものでではない。都市計画そのものがその本質的に都市現実の真実を覆い隠すというのである。

 そして、都市計画にとって、最大の問題としてH.ルフェーブルが指摘したのが都市住民の沈黙、受動性であった。この沈黙、受動性こそ都市計画が真に克服すべき課題であり続けているように思う。

 こうした根源的批判に照らして、その後の展開はいささか心細い。冒頭に挙げた四人の理論家の仕事はそれぞれ貴重なものであったと言っていい。しかし、それぞれが限界をもつことは明かである。われわれができることは、この根源的な都市計画批判から出発し、繰り返し立ち戻ってきて常にそのあり方を問い直すことであろう。最悪なのは、都市計画の幻想を自ら覆い隠して気がつかないことなのである。

 

*1 拙稿、「都市計画批判のプロブレマティークーーー啓蒙・機能・普遍から参加・文脈・場所へ

」、『都市計画』、一九九七年

*2 J.ジェイコブス著、黒川紀章訳、鹿島出版会、一九六九年。残念なことに、第三部、第四部は翻訳されなかった。J.ジェイコブスは、それに先立つ「下町こそ人々のもの」(フォーチュン誌)で知られるようになった。また、『都市の経済』(一九六九、中江利忠他訳、邦訳名 都市の原理、鹿島出版会、1971年)において、都市が農村に先立つという説を唱えた。

*3 R.ヴェンチューリ著、伊藤公文訳、鹿島出版会、一九八一年。刊行は一九六六年であるが、一九六二年にニューヨーク近代美術館刊行のシリーズの第一巻として執筆された。

*4 C.アレグザンダー著、稲葉武司訳、鹿島出版会、一九七三年。本書に先立って「革命は二〇年前に終わってしまった」(一九六〇年、『A+U』、一九七一年四月)、シャマエフとの共著『コミュニティとプライバシー』(1963年、岡田新一訳、鹿島出版会、1967年)がある。

*5 拙著、『戦後建築の終焉』、れんが書房新社、一九九五年

*6 C.アレグザンダー、「都市はツリーではない」

*7 『都市への権利』(筑摩書房)『都市革命』(晶文社)『空間の生産』(晶文社)など、H.ルフェーブルの著作は数多くが翻訳され日本に紹介されている。

*8 今井成美訳、晶文社、一九七四年

 

 

 

2024年4月16日火曜日

建設省住宅局編:これからの中高層ハウジング,丸善, 1993年

中高層ハウジングの「かたち」と供給システム

布野修司

 

 中高層ハウジング=積層集合住宅(地)の多様な形式

 中高層ハウジングのめざすもの、その基本理念、指針、基本モデルのための5つの柱から、具体的にはどのような「かたち」が導かれるのか。

 中高層ハウジングというと、日本では「マンション」「公団住宅」などの中高層集合住宅がイメージされる。しかし、ここでいう中高層ハウジングは、現在日本に見られる中高層住宅を前提にしているわけではない。むしろ、日本のこれまでの中高層住宅と異なる「かたち」を目指したい。また、その基本理念は別の「かたち」を要求しているはずである。

 日本の集合住宅は必ずしも多様でもない。というより、画一的だと指摘されることが多い。住戸形式もnLDKという記号で表現されるほど定型化され、その定型化された住戸をただ並べ、積み重ねるだけの「かたち」が一般的である。そして、そうした集合住宅によって形成されるまちの景観もそう豊かではない。同じような集合住宅が建ち並ぶ日本の団地の景観は、日本のまちの象徴である。

 中高層ハウジングの解答はひとつではない、立地により、建設・維持のしくみにより、またそこに暮らす人びとの生活により、さまざまな「かたち」をとる、中高層ハウジングは多様である、というのが第一の基本理念である。

 中高層ハウジングといっても、必ずしも階(層)数が問題なのではない。2~3層が低層、エレベーターを用いない5層までが中層、エレベーターの必要なのが高層というのが一般的分類であるが、高齢者やハンディキャップトのために2~3階建ての戸建住宅にもリフトが使用されるとするとその区別は本質的ではない。接地性(地面への近さ)による区別も、庭園や立体街路を各層に取り込む形になると必ずしも本質的ではない。テーマとなるのは、積層する住居の集合の「かたち」であり、立体的に住む住み方である。

 

 都市型住宅のかたち=共用空間の多様な形式

 中高層ハウジングは都市型のハウジングである。一戸一戸が独立するかたちの戸建住宅とは違って、集まって住む「かたち」が問題となる。廊下階段、壁など躯体のみを共有する区分所有の形式が一般的であるが、「所有」から「利用」へ、住居に対する価値観が転換して行くとすれば、何を「共有」し「共用」するかが問題になる。中高層ハウジングの「かたち」、集まって住むかたちを決めるのは、ある意味では「共用空間」の「かたち」である。そして、その「かたち」は住戸の形式とも関わる。

 ・厨房、食堂、居間などの空間を含めてほとんど全てのサーヴィス機能を共有する形式(例えば、「ホテル型マンション」)。

 ・厨房、バス、トイレなど設備のいくつかを共用する形式(コレクティブ・ハウス、設備共用アパート)

 ・部屋を共用する形式(例えば、倉庫、ピアノ室、書斎・勉強部屋などを一定期間賃貸する)

 ・廊下・通路空間を共用居間として利用する形式。

 すなわち、住機能をどのように配分するかによって多様な「かたち」がつくられる。さらに、集まって住むために必要な施設、店舗や集会所などのコミュニティ施設が有機的に組み込まれて多様な中高層ハウジングの「かたち」がつくり出されるのである。

  

 中高層ハウジングの骨格=スケルトンの3つの型

 中高層ハウジングが以上のように多様な「かたち」をとることを前提にした上で、具体的な「かたち」を考えよう。積み重なって住むことを可能にし、しかも多様な住戸形式、集合形式を可能にする手法が「スケルトン(躯体)分離」である。スケルトンとインフィル(内装)を分離することによって、居住者自ら住環境をつくりだす手掛かりを与えることができ、維持管理に関わる耐用年限の違いにも対応できる。

 多様といっても、それを物理的に実現するシステムが問題となる。技術的には無限の方法があるわけではない。その基本は建設システム、中でもスケルトン(躯体)のシステムである。スケルトンは、原理的に以下のO、A、Bの三つに分けられる。

 O 柱列型スケルトン

 A  壁型スケルトン

 B  地盤型スケルトン

  もちろん、このO、A、Bのそれぞれにも構造技術的にヴァリエーションがある。しかし、めざすべき中高層ハウジングの「かたち」について大きな整理ができ、最初の出発点になる。O、A、Bは、それぞれ大きく集合形式を規定し、住戸形式にも制約を与える。例えば、A型は、O型、B型に比べて、住戸単位の「かたち」や大きさを規定する。また、「共用空間」のシステムなど集合のためのサブ・システムがさらに必要となる。

 いずれにせよ、スケルトンの3つの型によって、中高層ハウジングの骨格を得ることが出来る。

 

 中高層ハウジングの供給モデル=土地・建物の所有(権移転)のモデル

  中高層ハウジングの「かたち」は、その立地によって異なる。従って、具体的な場所を設定しなければその「かたち」を議論することが出来ない。ここで具体的な敷地を設定する前提として、供給モデルを設定する必要がある。手掛かりは現実性である。また、中高層ハウジングの基本理念である。土地・建物の所有権の移転、供給主体に着目して供給システムを分析すると以下のような三つの供給(事業)モデルを設定できる。

 供給O型:個人の土地所有者による供給モデル(賃貸マンション、定期借地権付きマンション)。

 供給A型:供給後、居住者が土地・建物を共有するモデル(分譲マンション)。

 供給B型:供給後、法人・公共団体が土地・建物を所有する供給モデル(公団賃貸住宅、社宅・会員制マンション)。

 すなわち、供給後の土地・建物の所有形態によってわけるのである。ストック社会における住居形態を考える上で、ストックをどう維持管理するかが極めて重要なのである。

 

  中高層ハウジングの立地と開発モデル

 供給主体、そして供給後の土地・建物の所有関係のイメージを、ある程度以上のように区別した上で、中高層ハウジングの立地を考えてみると、その供給(開発)規模によって供給形態を区別することができる。

 開発O型ー1(One  apartment)住棟規模:

 開発A型ー団地(an partment complex)規模:

 開発B型ー街区(Block)レヴェル:

   O型の開発が隣接すれば、複数棟の開発になり、あらかじめ計画されるとするとA型の開発になる。また、さらに複数棟の開発が連続すれば街区単位の開発につながり、B型につながる。そうした意味でO型は基本である。しかし、規模によって「共有空間」のとり方に差異がある。

 中高層ハウジングの敷地を具体的に設定するには、当然、協調建替え、換地など都市計画的手法が必要である。また、敷地の形状に応じて、何段階かの開発プロセスが必要となる。まちづくりのプロセスとリンクすることにおいて、中高層ハウジングは都市型ハウジングとなりうるのである。

 

 中高層ハウジングの三つの型 98O、98A、98B

 スケルトンのOAB、供給モデルのoab、開発OABの区分において、原理的には3×3×3=27(OO)(OoA)・・・・(BbB)のパターンが設定できる。しかし、現実に最も可能性が高い組み合わせが(OoO)(AaA)(BbB)の三つである。紛らわしが、OABという同じ記号を用いた理由である。特にスケルトンの型と開発(供給)規模には対応関係がある。スケルトンO型はどんな規模にも対応できるけれど、スケルトンA、B型はそれぞれ開発AB型が最も適している。そこでスケルトンの型と供給規模の型を合わせてAOBの三つの型を考える。供給oabとの組み合わせが9パターン考えられるが(oB)(bA)の組み合わせは考えにくい。最も可能性高いケースが(Oo)(Aa)(Bb)である。そこで基本設計モデルのために単純化して三つの分類視点を会わせて、OABの三つの型を区別する。戦後日本の住宅のモデルとなった51cにならえば、98OABである。(Oa)(Ob)(Ao)(Ba)もその応用としてかんがえることができるだろう。

 

  以上において、中高層ハウジングのおよその「かたち」(スケルトン、敷地規模)が設定できた。それでは、具体的な住戸、住棟、団地、街区のイメージはどのような「かたち」をとるのか。居住者によっては具体的な「かたち」こそ問題である。

 しかし、ここではnLDKといった住戸モデル、階段室型といった住棟モデルは提出されない。すべて、立地、維持管理の仕組み、居住者の参加に仕方等によって「かたち」は変わりうる。中高層ハウジングが目指すのものが、居住者自らの居住環境形成であり、集まって住む多様な「かたち」であるが故に、後は個々の実例を積み重ねる必要がある。具体的な「かたち」が積み重ねられることによって、いくつかの型が生み出されるとすれば、中高層ハウジングという中性的な名称ではなく、また、「マンション」「アパート」「公団住宅」といったネーミングとは違う名前が定着することになるであろう。「つくば方式」「保谷Ⅰ、Ⅱ」といった地域名が冠されることになるかもしれない。

 日本の「まち」に相応しい都市型住宅が成立するかどうか、はもちろん、日本における家族や社会のあり方がどうなるか、また、それを支える様々な制度がどうなっていくかが問題である。高齢化が進行し、高齢の単身者が増えて行くとすれば、厨房や居間を共用するかたちのコレクティブ・ハウスの形式やケア付き住宅は不可欠である。女性の社会進出も、住宅の形式を変える可能性がある。外国人など文化的な背景を異にする人が集まって住むとすれば、当然これまでと異なる形式が必要になる。nLDKモデルだけでは対応できないことは明らかであろう。

 それに中高層ハウジングがひとつのまちであるとすると、住居以外の機能を持った空間が様々に挿入された新しい形式が必要になる。その「かたち」が日本の集合住宅を大きく変えることになろう。