第Ⅳ章 ヒンドゥの建築世界…神々の宇宙
panorama インド世界
インド世界ということで、空間的にはインド亜大陸、1947年までのインド帝国の領土、を対象地域としたい。今日一般的に南アジアと呼ばれ、インド、パキスタン、ネパール、ブータン、バングラデシュ、スリランカ、モルディブの七カ国がある。北をカラコルム、ヒマラヤ山脈、東をアラカン山脈、西をトバカカール山脈によって画され、南はインド洋に逆三角形状に突き出している。古来相対的独立性は高い地域である。
インド---サンスクリット語でシンドSindhu(インダス川)、ペルシャ語でヒンドゥHindhu、ギリシャ語でインドスIndos、漢訳されて、身毒、賢豆、天竺---がひとつの世界として認識されるのは紀元前三世紀頃だという。古くはリグ・ヴェーダに見える最も有力な部族、バーラタ族Bharataの領土=バーラタヴァルシャBharatavarsaと呼ばれた。仏教では、ジャンブド・ヴィーバ(閻浮提えんぶだい)あるいは転輪聖王(チャクラヴァルティンてんりんじょうおう)の国土である。
ここではこのインド世界の建築に眼を向けたい。
インド建築史の先駆であるジェームス・ファーガソンJames
Fergussonの「印度及東洋建築史」"History of Indian and Eastern
Architecture", London,1899は、一巻がⅠ書BOOK I仏教建築BUDDIST ARCHITECTURE、Ⅱ書ヒマラヤの建築ARCHITECTURE
IN THE HIMALAYAS、Ⅲ書ドラヴィダ様式DRAVIDIAN STYLE、Ⅳ書チャルキア様式CHALUKYAN STYLE、続いて二巻がⅤ書ジャイナ建築JAINA
ARCHITECTURE、Ⅵ書北方/インド・アーリヤ様式NORTHERN OR INDO-ARYAN
STYLE、Ⅶ書インド・サラセン様式INDO SARACENIC ARCHITECTURE、そして東洋建築史がⅧ書インド遠方FURTHER INDIA、Ⅸ書中国と日本という構成である。ドラヴィダ様式では南アジアの、チャルキヤ様式ではデカン高原のヒンドゥ建築を扱っている。
伊東忠太の「印度建築史」は、緒言、第一章総論に続いて、第二章仏教建築、第三章、闇伊那教建築、第四章印度教建築という構成である。第四章ではファーガソンに倣って「インド・アールヤ式」「チャルキヤ式」「ドラヴィダ式」の三つを立てている。北部、中部、南部という三つの地域区分がその前提である。村田治郎は、1序説に続いて、先史時代と原始時代(2)を扱い、古代(3)、中世(4)、近世(5)という時代区分に従い、インド周辺のインド系建築(6)として、ネパール、セイロン、インドネシア、カンボディア、ビルマ、アフガニスタンを扱っている。最近作としてクリストファー・タジェルChristopher Tadgell, "The History of Architecture in
India", Architecture Design and Technology Press London,1990は、時代を追う構成をとっている。初期インドEARLY INDIA、1 仏教支配BUDDISTS
PREDOMINANT 4C B.C.-4C A.D.、2 仏教の変形と消滅 ヒンドゥ教支配BUDDISTS TRANSFORMED AND
HINDU PREDOMINANT 5C-13C、3 イスラームの侵入 ヒンドゥ教、ジャイナ教の防御 THE ADVENT OF ISLAM; HINDUS AND JAINAS DEFENSIVE 13C-18C、4 後期インドLATE INDIAという時代区分である。仏教建築、ジャイナ教建築、ヒンドゥ教建築(そしてイスラーム建築)という宗教建築別の区分、北部と南部(あるいは中部)という地域区分、インダス文明の時代以降、ヒンドゥ時代、イスラーム時代、英領時代、独立以降という便宜的な時代区分は前提とされている。
以上のようなフレームを前提としながら、本章で焦点を当てるのはヒンドゥの建築である。ジャイナ教の建築もインド世界独自のものとしてここで触れたい。インド世界の自然生態は極めて多様であり、民族、言語、宗教、社会経済文化のいずれの局面を見ても多様である。建築もまた多様な華を咲かせてきた。仏教建築、イスラーム建築、あるいは植民地建築の展開、そしてインドの都城については他章に譲ろう。実に多様なインド世界をひとつの地域として成立させてきた核にヒンドゥ教、そしてカースト制がある。その建築世界がここでのテーマである。そして「インド化」された東南アジアにも眼を向けよう。
1. ヒンドゥ教の神々
1 ヒンドゥ教の成立
インドに最も早く住みついたのはオーストロアジア系の民族とされる。そして、紀元前3500年頃に西方からドラヴィダ系の民族が到来し居住域を広げていった。そして、紀元前2300年頃、インダス川流域を中心とする地域に一大青銅器文明であるインダス都市文明(ハラッパ、モヘンジョダロ)が生まれる。しかし、文献から知られるのは紀元前1200年頃からのアーリア人の進入以降である。ヒンドゥ教の世界が成立する過程はおよそ以下のようである。
紀元前800年頃、鉄器の使用が始まり稲作が開始される。農耕社会の進展とともにバラモン(司祭)が台頭し、バラモン教の諸経典が成立するとともにカースト制度の原初形態としてヴァルナ制が成立する。紀元前600年頃になると政治経済文化の中心は東方のガンガー流域に移る。諸都市国家が覇を競う中で台頭したのがマガダ国である。紀元前4世紀半ばにはガンガの全流域を支配下に治めるが、この間、バラモン教に対抗する新宗教としてジャイナ教、仏教が成立する。
インダス川流域はアケメネス朝ペルシャの属州となり、また、アレクサンダー大王の征服を受ける(B.C.326~325年)。このギリシャ人勢力を一掃し、インド史上初めて統一帝国を成立させたのがマガタ国に起こったマウリヤ朝である。そのアショカ王はダルマに基づく統治を行い仏教を広めた。、紀元前Ⅰ世紀頃から再び西北方から諸民族が進入する。イラン系と見られるクシャーナ族が建てたのがクシャーナ朝である。そのカニシカ王は仏典結集を行い、仏教を手厚く保護した。
一方、紀元前後にかけて、ヒンドゥ教の核となる長編叙事詩『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』、また、『マヌ法典』が成立する。二大叙事詩は紀元前数世紀に原形が成立し、3~4世紀には成立したとされる。マヌ法典は紀元前200年から紀元後200年に成立したとされる。
4世紀初頭に、チャンドラグプタⅠ世(在位319~335)が出て、息子のサムドラグプタ(在位335~376)とともにマウリヤ朝以来の強力な統一政権となるグプタ朝を打ち立てる。そのグプタ朝のもとで今日に至るヒンドゥ教的秩序が確立することになる。
2 ヒンドゥ教
ヒンドゥ教は特定の教祖によって創始されたものではない。リグ・ヴェーダRg-veda、ヤジュル・ヴェーダYajur-veda、サーマ・ヴェーダSama-veda、アタルヴァ・ヴェーダAtharva-vedaといったヴェーダの聖典を基に発達したバラモン教が土着の民間宗教を吸収して大きく変貌をとげたのがヒンドゥ教である。広義にはバラモン教を含む。
聖典として、ヴェーダの他、二大叙事詩、その一部である『バガヴァッド・ギーター』、プラーナ(古譚)、そしてマヌ法典など膨大な数のサンスクリット文献がある。
ヒンドゥ教は多神教であり、太陽の神スーリヤ、月神ヴァルナ、火の神アグニ、風神ヴァーユ、暴風雨神ルドラ、河の神ガンガ、英雄神インドラなど実に多彩である。全ての自然景観の要素(樹木、丘陵、山腹、洞窟、湧泉、湖沼・・・)に聖性が宿る神が宿ると考えられている。
最もポピュラーなのはシヴァ神とヴィシュヌ神である。また、ブラフマーを加えて三神が一体(トリムルティ)と考えられる。ブラフマーは宇宙の創造を、ヴィシュヌはその維持を、シヴァはその破壊を任務としている。
ヴィシュヌはラクシュミ(吉祥天)を妃とし、マツヤ(魚)、クールマ(亀)、バラーハ(猪)、ヌリシンハ(人獅子)、バーマナ(小人)、ラーマ、クリシュナ、ブッダなどに化身(アバターラ)する。
ヒンドゥ教では数多くの女神が崇拝される。女神崇拝は古来行われるが、紀元後7世紀以降特に盛んになる。シヴァの妃パールヴァティーが有力で、貞女神サティー、水牛の魔神を殺すドゥルガー、血を好むカーリー女神、大母神マハーデーヴィーともなる。他にヴィシュヌの妃ラクシュミー、叡智の女神サラスヴァティー(弁財天)など多彩である。
また、方位に関わる守護神として、インドラ(帝釈天:東)、ヤマ(閻魔:南)、マカラ(魚:西)、クベーラ(財宝神:北)、アグニ(火神:東南)などがある。さらにヤクシャ、ガンダルバなどの半神半人、ナンディ(牛)、ハヌマーン(猿)などの動物、シェーシャ(蛇)・・・など枚挙に暇がない。
大部分の宗派はヴィシュヌ派とシヴァ派であるが、他に重要な宗派としてシヴァ神の妃ドゥルガーあるいはカーリーを崇拝するシャクティ(性力)派あるいはタントラ派がある。イスラーム神秘主義(スーフィズム)の影響を受けヒンドゥ教とイスラーム教の融合を図ろうとして16世紀に成立したのがシク教である。
ヒンドゥ教徒の社会生活を規定する法(ダルマ)はカースト制を基礎にしている。カーストはポルトガル語のカスタ(家柄、血統)に由来するが、インドでは同一血統の集団をジャーティといい、バラモン(司祭)、クシャトリア(王侯・貴族)、バイシャ(庶民・農牧商)、シュードラ(奴隷)の四姓をヴァルナという。ヴァルナは本来「色」を意味する。4ヴァルナの枠外に置かれるのが不可触民(指定カースト)である。このジャーティ・ヴァルナ制のもとでは、結婚、共食儀礼、職業などに様々な制限、ルールが設けられているのである。
また、ヒンドゥ教徒の生活は実に多くの儀礼によって律せられている。一生に40を超える通過儀礼があるという。また、毎朝、川や池で沐浴し神像を礼拝してから食事を行う、掃き清めた出入り口にヤントラ図形を描くなど、日々の生活も種々の儀礼行為から成り立っている。そうした儀礼行為の場としてヒンドゥ教の寺院をはじめとする空間はつくられてきた。
3 神々の図像
ヒンドゥ教の建築、そして空間を味わうためには、その神々の世界を思い描く必要がある。ヒンドゥ教の神々は仏教の中にも入り込んでおり、日本人には親しいものが少なくないし、動物など図像はわかりやすい。まず、ヒンドゥの神々を見分ける図像を知ることが大切である。
手掛かりとなるのは、神像の持ち物、着物、乗り物である。また、神々の関係(家族、化身)である。神像は普通4本の手を持ち、それぞれ固有の持ち物を持っている。また、独特の着衣、髪飾り、首飾りをしている。そして、神々は固有の乗り物(ヴァーハナ)として特定の動物と関連づけられている。以下に主だったものをみよう。
シヴァは裸体に虎の衣を纏い、首に数珠と蛇を巻きつけた姿で描かれる。額に第三の眼を持つのが特徴である。そして、手に三つ又の槍(三叉戟)と小さな太鼓、小壷を持つ。最大のシンボルは男根の形をしたリンガである。そして、乗り物はナンディ(牛)である。三叉戟、ナンディ、リンガがあればシヴァである。また、シヴァはしばしば妃パールヴァティ、また息子のガネシャ(聖天)、スカンダ(韋駄天)を加えてシヴァ・ファミリーとして描かれることが多い。富と繁栄、知恵と学問の神ガネシャは象顔でわかりやすいし、戦争の神スカンダの乗り物は孔雀である。シヴァは踊りの王ともされ、「踊るシヴァ」像が人気がある。
ヴィシュヌは5ないし7頭のナーガ(蛇)の傘を頭上にし、アナンタ(永遠という意)竜王の上に通常半跏の形で腰掛ける。四本の腕は、円輪チャクラ、棍棒、法螺貝、蓮華をもつ。乗り物はガルーダ(神鳥)である。上述したように、魚、亀、猪、人獅子はヴィシュヌの化身である。ヴィシュヌの妃ラクシュミー(吉祥天)は富と幸運の女神であるが、水に浮かぶ蓮華の上に立ち手には蓮の花を持つ。富の象徴としてコインや紙幣、宝石類が描かれることが多い。乗り物は象である。
ブラフマー(梵天)は4ヴェーダを表す四つの顔で描かれる。四本の腕には、数珠、聖典ヴェーダ、小壷、杓をもつ。乗り物はハンサ(鵞鳥、白鳥)である。ブラフマーの妃サラスヴァティ(弁才天)は、学問と技芸の神であり、一対の腕に数珠とヴェーダ(椰子文書)を持ち、一対の腕でヴィーナ(琵琶)を弾く。乗り物は孔雀である。水の神であり背後に川が描かれることが多い。
シヴァの妃パールヴァティは様々な異名を持ち性格を変えるが、武器をとって戦う女神となるのがドゥルガーとカーリーである。ドゥルガー女神は10本の腕に様々な武器を持ち、殺戮を行う場面が図像化される。乗り物は虎もしくは獅子である。カーリー女神は、さらに恐ろしく、生首などを持つ姿として描かれることが多い。
その他わかりやすいのは孫悟空のモデルになったともされる猿の神ハヌマーンである。神々の乗り物である様々な動物へ着目することが、『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』の世界とともにヒンドゥの建築世界に至る近道である。
2.ヒンドゥ建築
1 ヒンドゥ寺院
ヒンドゥ社会の中心にあるのがヒンドゥ寺院である。寺院は、神への礼拝の場として様々な儀礼が行われる場であり、教育の場であり、芸術活動(舞踊、彫刻)の場であり、ヒンドゥ教徒にとって全ての場である。実際、寺院での活動を核として村の経済もなりたってきた。ヒンドゥのコスモロジーと都城についてはV章で扱うが、宇宙そして都市の中心に置かれるのがヒンドゥ寺院である。
まず、ヒンドゥ寺院は、神の座あるいは壇(プラサーダ)、神の家(デヴァ・グリハム)である。神の像とその象徴がその中に収められる。神々は神像に一時的に宿ることによって顕在化すると考えられる。そして、人々にとってヒンドゥ寺院は礼拝という行為を通じて神との合一を体験する場である。すなわち、寺院は礼拝の場であり、神との交流のための儀礼の場である。儀礼を司るのがバラモンである。バラモンは地域社会の代表として、神と人間世界とを媒介する役割を担う。日々の祭礼を行うとともに、集団礼拝も司る。毎年定期の祭礼として、山車(ラタ)を用いる巡行の祭りもある。儀礼の場合、右肩回り(時計回り)で神像や寺院の回りを回繞(プラダクシナー)する。寺院の立地する場所、そして寺院の形式はこうした儀礼の形式に大きく関わっている
ヒンドゥ寺院は、神の家として宇宙と同一の形をしたものと考えられる。ヒンドゥ世界の中心、その宇宙の中心に位置するのはメール山である。また、シヴァの天上の住まいはカイラーサ山である。ヒンドゥ寺院はしばしばそうした至高の山にたとえられる。その形態は山の峰、山頂(シカラ)を象徴する。また一方、ヒンドゥ寺院は聖なる洞窟にたとえられる。洞窟は胎内であり、神が宿る場所である。そうした空間としてヒンドゥ寺院はつくられてきたのである。
2 マナサラの世界
インドには古来建築技術に関するマニュアルがある。『シルパ・シャストラSilpa Sastra』と呼ばれる諸技芸の書、都市計画・建築・彫刻・絵画等を扱ったサンスクリット語の文書群のことである。最も完全なものは『マナサラ』Manasaraであり、他に『マヤマタ』Mayamata、『カサヤパ』Casyapa、『ヴァユガナサ』Vayghanasa、『スチャラディカラ』Scaladhicara、『ヴィスバカラミヤ』Viswacaramiya、『サナテゥチュマラ』Sanatucumara、『サラスバトゥヤム』Saraswatyam、『パンチャラトゥラム』Pancharatramなどがある。『マヤマタ』の著者はマヤMayaで、天文学書『スルヤシッダンタ』Suryasiddhant)の編者であると考えられている。内容は『マナサラ』と大差がない。『カサヤパ』は著者名が本の題名に成っている。しかし、著者は人類の先祖の一人で大洪水の時に生き残った7聖人の第一に位置する人であり、神話上の人物である。『ヴァユガナサ』も著者名を書名に用いている。著者は「ヴァイナバ」Vainava僧団の創設者である。内容は建築的というよりむしろ宗教的である。『スチャラディカラ』の著者はアガスタヤ Agastya とされている。この本にしかない項目もあり、彫刻に関しては優れている。その他は『マナサラ』と大差無い。『ヴィスバカラミヤ』も内容的には『マヤマタ』に基づくものが多く、『マナサラ』に近い。『サナテゥチュマラ』は、『ヴィスバカラミヤ』に基づくものであり、『マナサラ』の流れを汲むものである。従って、シルパ・シャストラに関しては『マナサラ』を参照するのが最適である。
『マナサラ・シルパシャストラ』という題名であるが、「マナ mana」は「寸法」また「サラ sara」は「基準」を意味し、「マナサラ」とは「寸法の基準」の意味である。『マナサラ』とは作者の名前であるという説もある。また、「シルパ Silpa」とは「規範」、「シャストラ Sastra」とは「科学」を意味する。「ヴァストゥ Vastu」は「建築」であり、「ヴァーストゥ・シャーストラ Vastu Sastra」は「建築の科学」の意である。従って、本来的には『マナサラ・バストゥ・シャストラ』と呼ばれる。
『マナサラ』はサンスクリット語で書かれているが、その内容はアチャルヤ P.K.Acharyaの英訳(1934年)によって広く知られる。
全体は70章からなる。まず1章で創造者ブラフマーに対する祈りが捧げられ全体の内容が簡単に触れられ、建築家の資格と寸法体系(2章)、建築の分類(3章)、敷地の選定(4章)、土壌検査(5章)、方位棒の建立(6章)、敷地計画(7章)、供犠供物(8章)と続く。9章は村、10章は都市と城塞、11章から17章は建築各部、18章から30章までは1階建てから12階建ての建築が順次扱われる。31章は宮廷、以下建築類型別の記述が42章まで続く。43章は車でさらに、家具、神像の寸法にまで記述は及んでいる。極めて総合的、体系的である。成立年代は諸説あるが、アチャルヤ によると6世紀から7世紀にかけて南インドで書かれたものである。興味深いのはヴィトルヴィウスの『建築十書』の構成に極めてよく似ていることである。
3 ヒンドゥ建築の技法
まず寸法体系を見よう。第2章は、建築家の資格、階層(建築家、設計製図師、画家、大工指物師)を述べた上で、寸法の体系を明らかにする。八進法が用いられ、知覚可能な最小の単位はパラマーヌparama~nu(原子)、その8倍がラタドゥーリratha-dhu~li(車塵、分子)、その8倍がヴァーラーグラva~la~gra(髪の毛)、さらにシラミの卵、シラミ、ヤバyaba(大麦の粒)となって指の幅アングラanguraとなる。このアングラには大中小があり、8ヤバ、7ヤバ、6ヤバの三種がある。
建築にはこのアングラが単位として用いられるが、その12倍をヴィタスティvitasti(スパン:親指と小指の間)とする。さらにその2倍をキシュクkishku、それに1アングラを足したものをパラージャパチャpara~ja~patyaとして肘尺(キュービット)として用いる。すなわち、24アングラもしくは25アングラが肘尺とされるが、26、27アングラのものもあって複雑である。26アングラをダヌール・ムシュティdhanur-mushtiというが、その4倍がダンダdandaで、さらにその8倍がラジュrajjuとなる。キシュクは広く一般的に用いられるが主として車、パラージャパチャは住居、ダヌール・ムシュティは寺院などの建造物に用いられる。距離に用いられるのがダンダである。
配置計画については9章(村)、10章(都市城塞)、32章(寺院伽藍)、36章(住宅)、40章(王宮)に記述されているが、マンダラの配置を用いるのが共通である。そのマンダラのパターンを記述するのが7章である。正方形を順次分割していくパターンがそこで名づけられている。すなわちサカラSakala(1×1=1)、ペチャカPechaka(2×2=4分割)、・・・チャンラカンタChanrakanta(32×32=1024分割)の32種類である。円、正三角形の分割も同様である。
そしてこの分割パターンにミクロコスモスとしての人体、そして神々の布置としての宇宙が重ね合わせられるが、原人プルシャを当てはめたものをヴァストゥ・プルシャ・マンダラという。最も一般的に用いられるのはパラマシャーイカParama-s’a-yika(9×9=81分割)もしくはチャンディタChandita(8×8=64分割)である。
村落計画、都市計画についてはそれぞれ8つのタイプが区別されている。村落について挙げるとダンダカDandaka、サルバトバドラSarvatobhadra、ナンディヤバルタNandya-varta、パドマカPadmaka、スバスティカSvastika、プラスタラPurastara、カルムカKa-rmuka、チャトゥールムカChaturmukhaの8種である。都市および城砦についてはⅤ章に譲りたい。
建築の設計については、まず全体の規模、形式を決定し、それをもとに細部の比例関係を決定する方法が述べられている。一般の建築物については1階建てから12階建てまで、それぞれ大、中、小、全部で36の類型が分けられている。そして、幅に対して高さをどうするかに関しては1:1、1:1・1/4、1:1・1/2、1:1:1・3/4、1:2という5種類のプロポーションが用意されている。
4 ヒンドゥ寺院の類型
以上のようにヒンドゥ寺院の様式には建築種別毎に、また規模毎にいくつかの類型がある。また、マナサラには、建築様式についてナガラNagara、ドラヴィダDravida式、ヴェサラVesara式という三つの区分がよく出てくる。ナガラとは都市を意味し、ドラヴィダは民族名、ヴェサラとは動物のラバ(雄ロバと雌馬との間の雑種)のことである。アチャルヤの翻訳・解説によると、頂部(26章)、山車(43章)、リンガ(52章)の形について、ナガラは四角形、ドラヴィダは八角形もしくは六角形、ヴェサラは円形をいう。しかしまた、ナガラは北方、ドラヴィダは南方、ヴェサラは東方という記述もある(52章)。地域類型としても説明される。
ファーガソンはヒンドゥ建築を大きく地域区分し、北方をインド・アーリヤ様式、南方をドラヴィダ様式、その中間を王朝名に因んでチャルキヤ様式と呼んで区別した。そして、E.B.ハヴェルHavellは、その地域区分をマナサラの言う三区分に当てはめ、それぞれナガラ式(北インド様式)、ドラヴィダ式(南インド様式)、ヴェサラ式(混成様式)と呼んだ。用語については多少混乱があるが、いずれにせよ、北部(ヒマラヤの麓から中部のデカン)、中部(デカン高原)、南部(タミル・ナドゥ州、マイソール州)という地域類型は一般的に認められている。また、西のグジャラート、東のオリッサなどにさらに地域的変化型が見られる。
北方型と南方型のわかりやすい区別は上部構造の違いである。北方型を特徴づけるのはシカラsikharaと呼ばれる砲弾(玉蜀黍)形の頂部である。南方型の場合、基壇の上に柱梁が組まれたその上に頂部が載る。上に行くほど縮小していくテラスが重なった多層の屋根形態になる。多くのシャストラでは、前者をプラサーダprasada、後者をヴィマーナvimanaと呼んで区別している。シカラは北方では上部構造全体を指すが、南方では頂部のみを指す。南部では高塔全体をヴィマーナということから、シカラ式、ヴィマーナ式という分け方もなされる。
北方型と南方型の違いは、さらに平面や装飾、聖像群の配列にもみられる。北方式の寺院は、ガルバ・グリハgarbha-griha(字義的には「子宮室」。寺院の内陣)と呼ばれる聖堂とその前に置かれるマンダパmandapa(ホール、柱で支えられた東屋)と呼ばれる礼拝堂からなる。前者には砲弾形、後者にはピラミッド(四角錘)形の屋根が架けられるのが一般的である。南方型を特徴づけるのはゴープラgopuraと呼ばれる楼門である。祠堂より遥かに高く、断面が台形、四角錐台に幌(ワゴン・ヴォールト)形の屋根がそびえ立つ。また、南方型の寺院は二重、三重の牆壁をめぐらす大伽藍配置をとるのが特徴である。そして、寺院を取り囲む牆壁の東西南北の中央にこのゴープラが建つ。この門があれば、インド以外の地でも南インドからヒンドゥ教が伝わったと考えていい。
ヴェサラは以上の中間形ということであるが、細かくは地域によって、各王朝によって異なる。地域的様式は各王朝の様式とほぼ一致することから、グプタ朝様式、チャルキア様式、チャンデッラ様式、パッラヴァ様式、チョーラ様式など王朝名による様式区分も見られる。以下に具体的にみよう。
Column 各部の名称・・・プラン
3.最初期のヒンドゥ寺院・・・北方型寺院の成立
ヒンドゥ建築もまた元々木造建築であった。様々なレリーフに描かれた建造物は木造であり、後の石窟寺院や石彫寺院が木造を模していることがそれを示している。石造寺院は4世紀のグプタ朝に成立したと考えられている。
クシャーナ朝の滅亡後、北インドは分裂状態にあったが、やがてマガダ地方の支配者であったチャンドラグプタⅠ世が勢力を得てガンジス川中流域の覇権を握る。彼はマウリヤ朝と同じくパータリプトラ(現パトナ)に都を置き、320年にグプタ朝を開いた。その子サムドラグプタ(在位335-380)からチャンドラグプタ2世(在位380-412)の治世下にグプタ朝は最盛期を迎え、東はベンガル湾から西はアラビア海にいたるまでの北インド一帯を支配する広大な帝国となる。グプタ朝の繁栄の下に文化芸術は発展を遂げインド的な古典文化が大成する。ヒンドゥ教が栄え、特にヴィシュヌとシヴァの二神への崇拝が盛んとなった。グプタ朝の王の多くはヴィシュヌ神の信奉者で、「ヴィシュヌ・プラーナ」や「バガヴァッド・ギーター」などヴィシュヌ信仰を支える聖典や叙事詩が編纂され、王朝の紋章にはヴィシュヌ神の乗り物であるガルーダ(金翅鳥)が用いられた。造形美術においても、この時代に初めてヒンドゥの神々の聖像彫刻が現れる。
5世紀初期のマディヤ・プラデシュ州ティガワTigawaのカンカーリー・デヴィーKankali Devi寺院は初期ヒンドゥ寺院の原型をよく伝える。切石積みのきれいな外観で、平らな屋根をもつ方形の聖室と列柱に支えられたポーチが簡素な数段の基壇の上に建てられ、連続した軒まわりの刳形によって一体化される。この形式はサンチーの第17仏堂と非常によく似ていて、この寺院形式が宗教の違いを超えて適用されていたことを示す。サンチーの柱がまだ明らかにマウリヤ朝の様式であるのに対し、ティガワでは壺葉飾りの柱頭が採用されている。401年の刻文が彫られた最古のヒンドゥ遺構である中インドのウダヤギリの石窟寺院群でも柱頭の意匠は壺葉飾りであり、これらは新たな様式の現れを示す。
5世紀後半になるとインドの寺院建築における基本的な主題が表れる。その主題とは(1)壁面の分節、壁面中央部の張り出しと飾り扉、(2)聖像を埋め込んだ刳形による礎石部分の装飾化、丸い台座の上に円環形の刳形が載り、その上を蛇腹が回る上端部。(3)上部構造(シカラ)の建立。(4)巡回する繞道の明示である。
ウダヤプルUdayapurの初期の祠堂では、壁面が縦に三分割され中央の区画が張り出し、菱形模様が彫刻された刳形による帯が壁面を水平に二分割する。壁の下には装飾的な基部があり、上部には張り出した軒蛇腹が回る。軒蛇腹の上にはもう一段屋根板が加えられ、上部構造の端緒を示唆する。6世紀初期の建築であるデオガルDeogarhのダシャーヴァターラDashavatara寺院は、この時期の最も発展した段階のものである。広い基壇の上に建ち、後のヒンドゥ建築に一般的となる五堂形式(パンチャ・ヤタナ)がすでに見られる。上部構造はかなり損傷しているが、壁面の中央の区画に対応した張り出し部のあるピラミッド型の量塊が載る。聖室の扉口は、唐草模様が浅く刻まれた内枠が守門神から立ち上がり、上部中央には祭神であるヴィシュヌの聖像が掲げられ、神像のレリーフが周囲を巡る。その外側に、面取りをされ壺葉飾りの柱頭を戴く添え柱が立ち、まぐさには馬蹄形の切り妻屋根と柱廊が彫刻され、神の家の天蓋を表現する。最外枠の左右頂部には川の女神であるガンガ神とヤムナー神の聖像が置かれ、全体としてT字型の扉口が構成される。これはグプタ期の装飾芸術の傑作であり、その後の北方型寺院における扉口の様式を特徴的に表現したものである。聖室外壁面の飾り扉にはヴィシュヌ神や関連事物のレリーフが彫られ、添え柱間の基部は刳形や蛇腹を組み合わせて聖室の扉口と同様装飾される。
デオガルの広い基壇は繞道の空間を提供したが、聖室を回る屋根付きの繞道形式の発達が知られる最も早い例は、ブマラのシヴァ寺院やナチュナNachnaのパールヴァティ寺院である。ナチュナでは、シヴァ神のカイラーサ山の住居を表現したと思われるルスチカ風石積みの基壇の上に正方形の聖室が建つ。水平の屋根で覆われ周囲の回廊よりも一段高くそびえる聖室の周囲には、かつては繞道の屋根と壁が巡っていた。
聖室空間の上部化の流れは、シカラの建設を促進した。5世紀の建築であるビータルガオンのヴィシュヌ寺院は、この時代の現存する唯一の煉瓦造建築物である。高い基壇の上に建ち三つの部分に区画された聖室は付け柱によって分節され、ヴィシュヌ神やシヴァ神の神像がかたどられたテラコッタパネルが主要な区画にはめ込まれる。ミトゥナ像やシャクティ像による装飾帯を挟む二重の軒蛇腹の上にシカラが載る。シカラは上方ほど先細りする形で、半円形の装飾の列や刳形による層状の構成をしている。デオガルの寺院と同様、中央区画の張出が頂部まで連続することによって垂直性が強く強調される。全体の主題となるヴィシュヌ神の像に加えられた多くの半円形の装飾は、仏教石窟のレリーフに見られた積層屋根の装飾のようにも見える。ガルバ・グリハの前には入口ホールがおかれるが屋根は残っていない。ガルバ・グリハと入口ホールがともに持ち送り式ヴォールトであるのに対し、それらをつなぐ通路部分は、ヒンドゥ建築のとしてはきわめて例外的にアーチが用いられている。
4.石窟寺院
と石彫寺院
インドの石窟寺院は、前3世紀にマウリヤ朝のアショカ王がアージーヴィカ教に寄進したビハール州ガヤー北方のバラーバル丘の石窟群に始まる。前2世紀末からはインド西部を中心に仏教石窟の開窟が盛んとなり、アジャンター、バージャー、カールレー、ナーシクなどの前期仏教窟が開かれた。5世紀になると後期仏教窟の開窟に影響をうけて、ヒンドゥ石窟が開かれるようになる。ウダヤギリに最初のヒンドゥ窟が開かれ、6世紀中期から後期にはデカン地方北西部のジョゲーシュワリやバーダーミ、エレファンタ島などで開窟がおこなわれ、エローラではヒンドゥ窟に続いて仏教窟やジャイナ窟も展開する。またインド南東部、特にマハーバリプラムでも新たな石窟が開かれた。
ヒンドゥ窟は仏教のヴィハーラ窟から発展したと考えられる。しかし、ヒンドゥ教徒が修道的生活の必要がないことを自覚すると、僧坊が広間を囲む集中的形式は変化する。6世紀半ばに始まる前期チャルキヤ朝の都が置かれたバーダーミの第1~3窟は、内部ホールとその前面の柱廊型のベランダから構成され、奥の岩壁に石のリンガあるいは像が祀られた繞道のないガルバ・グリハが掘られている。仏教窟ではホールの両側面に設けられていた僧坊が、浮き彫りの彫像パネルに置き換わり、壁面は付け柱や半柱で区画された。天井に彫られた梁形の方向は、第1窟ではベランダと平行、第2窟ではベランダに直角、第3窟ではホールを囲むような同心状とそれぞれ異なり、さらに第3窟ではベランダの前面に矩形の前庭も設けられるなど、ヒンドゥ窟独自の空間構成への試みが窺える。
前期チャルキヤ朝、6世紀後半から開窟が始まったエローラでは、入口に相対して配置される聖室のまわりを巡回するという要求が解決され、繞道をそなえた聖室とホールとの間に洗練された関係が取られるようになった。初期のラーメシュワラ窟(第21窟)では、ナンディ像や小祠堂のある前庭が設けられ、石窟内部は横長の柱廊状のホールと、繞道を備えた大きな聖室からなる。これはヒンドゥ寺院の基本であるマンダパとガルバ・グリハからなる構成であるが、ホールの両端には副祠堂が設けられ、それらを結ぶ軸線と、ナンディ像と聖室を結ぶ軸線という二つの直交する軸線が両立する、より動的な空間構成となっている。こうした構成は、同じくエローラのドゥマル・レナ窟(第29窟/6世紀後半)やエレファンタ島のシヴァ寺院(第1窟/6世紀頃)で最も発展した形を見せる。両者ともほぼ正方形の列柱ホールの奥寄りに、壁で囲まれ四方に入口をもつ聖室が置かれる。入口と聖室とを結ぶ東西方向の主軸線は、天井に彫られた梁形によっても強調されるが、同時に聖室の前で直交する南北方向の軸線が導入され、全体として十字形の平面構成をとるのである。ドゥマル・レナ窟では聖室の奥は岩で閉ざされ主軸線の始まりと終わりをはっきりさせ、南北軸の両端は外部に開かれ入口が設けられる。一方、エレファンタ島では東西の主軸線の両端に外部に開いた中庭が設けられ、その一つは別な石窟の入口にも通じる。しかし軸線としては、むしろ南壁面中央の大きな三面のシヴァ像が焦点となる南北軸のほうが意識されやすい。
8世紀になると、石窟をさらに発展させ、寺院全体を岩塊から彫り出す石彫寺院が現れる。ラーシュトラクータ朝(753-973)のクリシュナⅠ世(在位757-775)によって造営されたエローラのカイラーサ寺院(第16窟)は、幅45m、奥行85mにわたって岩山から彫り出されたもので、その規模の壮大さにおいて他に例を見ない。その構成は前期チャルキア朝の主要都市であったパッタダカルのヴィルパクシャ寺院を模したとされる。ゴープラ(楼門)を備え、前庭にはナンディ堂が置かれ、その両側に記念柱が立つ。さらにポーチとバルコニー、玄関がついたホールからガルバ・グリハへと導かれる。ガルバ・グリハの上部には4層のヴィマーナがそびえ、外側には屋根のない繞道が巡り、さらに5つの副祠堂群がそれを取り囲む。こうした石彫寺院が登場するに至って、石窟寺院の発展は終わりを迎えることになる。
南方では7世紀頃からパッラヴァ朝やパーンディヤ朝および周辺諸国において石窟が造営された。中でもパッラヴァ朝の石窟は南方型寺院の諸要素が表れる最初期の事例として重要である。その基本的形式は、マヘンドラ・ヴァルマンⅠ世(在位580-630)の下で発展し、ダラヴァヌールのシャトルマッラ窟やティルチラパッリのラリタニクラ窟などがある。おそらく古来の木造建築の様式を取り入れたもので、東か西に面した正面に列柱が並び、内部の柱によって分節されるホールの奥や側面に、一つないしいくつかの聖室が掘られた。正方形あるいは八角形断面で初歩的な持ち送りの柱頭をもった柱に支えられ、簡素な基壇の刳形や付け柱、守門神をもつ聖室以外は、概して平板な空間である。
彼の後継者、ナラシンハ・ヴァルマンNarasimha-varmanⅠ世マッマーラ(在位630-668)が新たな展開を指揮した。それは「ラタratha」と呼ばれているもので、彼が建造した新たな港マハーバリプラムにおいて岩の塊から全体を彫り出したものである。それらは630年頃に建造されたが、石窟の発展もこの頃同じ場所で頂点に達していた。その多くはマヘンドラ王による石窟で定型化された平面形式を踏襲していたが、柱はますます装飾的になり、壮麗な聖像のレリーフがホールやガルバ・グリハの内側、突出する聖室の入口まわりにまで彫られるようになる。柱頭はいまや台座のようになり、面取りされた円環体の上に盆のような台が置かれ、さらに正方形の水平の板が載る。それが波状の溝が彫られた持ち送りを支えるのである。面取りされた柱身をもつ柱の基部は、当初は矩形のブロックであったが、後に王家の象徴である獅子の座像を柱礎とするようになった。ファサードには、上端が丸く面取られた軒庇が導入され、馬蹄形アーチの窓の装飾が並ぶ。後にはファサードだけでなくガルバ・グリハの入口にも軒庇が付けられ、庇の上には寺院の縮小型彫刻が並べられるようになる。3つの聖室があるマヒシャマルディーニ窟と聖室が一つのヴァハーラ窟が、マハーバリプラムにおけるナラシンハ王の初期と後期を代表する石窟である。
5 5つのラタ…南方型寺院の原型
南インドに残る最も古い建築遺構はマハーバリプラムのいわゆる5つのラタRatha(荷車、馬車、戦車、山車さらに寺院を意味する)である。パッラヴァ朝のナラシンハ・ヴァルマンⅠ世 の時代に彫り出されたこの5つのラタはまるで5つの建築形式の雛形である。興味深いのは、梁、垂木、斗供、柱など木構造を忠実に模していることだ。西からそれぞれダルマラージャDharmaraja・ラタ(No.1)、ビーマ・ラタ(No.2)、アルジュナArjuna・ラタ(No.3)、ドラウパディDraupadi・ラタ(No.4)、列を北に離れてナクラ・サハデヴァ・ラタ(No.5)と名づけられている。
No.1は方形平面にピラミッド状に段々の屋根が層状につくられ、最頂部には低い八角形のシカラが載っている。各層の庇には細かく馬蹄形の繰形(クードゥ、チャイティア窓)が設けられている。アルジュナNo.3はほとんどダルマラージャを小さくしたコピーである。No.2は長方形平面で幌(ワゴン・ヴォールト)形(シャーラーカーラ)の屋根、正面の二本の柱がライオンに支えられている。No.4はむくりのついた寄棟屋根で素朴な民家風である。No.5は、No.1(3)とNo.2の様式を併せ持つ。正面に2本の獅子柱をもつが妻入りである。しかし、最頂部の後部は円形になっている。これをエレファント・バック屋根と呼んだりする。平面も後円形である。まるでデザインを検討しているかのようである。伽藍としてつくられたわけではなく、No.1は未完のままである。No.1,No.3の屋根形態がいわゆるドラヴィダ様式、南方型の典型である。そしてNo.2はゴープラム(楼門)の屋根として一般的になる形態である。
この石彫寺院は、ナラシンハ・ヴァルマンⅡ世 ラージャシンハRajasimha(690-728)のもとで組石造に取って代わられたように思われる。その典型が海岸寺院である。
海岸寺院は東西向きを異にする大小2つのシヴァ神殿から成っている。海(東)を向く大祠堂にはシヴァ・リンガ、小祠堂にはシヴァとパールヴァティとその息子スカンダが祀られている。ヴィシュヌの新臥像を祀る細長い祠堂が二つの祠堂を繋いでいる。二つの祠堂とも単純に浅いポーチをもつ正方形のガルバ・グリハのみの構成だが大小を巧みにずらす見事な設計である。5つのラタのモデルに比べると遙かに急勾配の屋根となっているのは石彫寺院から構築寺院へのひとつの大きな変化である。
カンチープラムKanchipuramのカイラーサナータKailasanathaは同じくラージャシンハの時代に建造された。東西に並ぶ主祠堂と前室、礼拝室を小祠堂がびっしりと並ぶ周壁が囲み、東に突出する形で入口が設けられている。入口の外にもまず小祠堂が並び、三〇メートルほど離れてナンディ像が対峙している。主祠堂のヴィマーナは4層のピラミッド形で、入口のシヴァ祠堂には幌形の屋根が載っている。伽藍配置は僧坊が中庭を囲む形式に似ている。花崗岩が基礎と主要な構造材に用いられ、その他彫刻にレンガが使われているのを除くと砂岩が用いられている。全体は化粧漆喰で覆われ、彩色されていた。
さらに重要なのがバイクンタ・ペルマルVaikuntha-perumal寺院である。主神殿と礼拝室を獅子柱が並ぶ回廊が囲み(内陣)、さらに前室が突出する(外陣)構成がはっきりとしている。主神殿は4層からなるが全ての層にガルバ・グリハがある。下3段にはヴィシュヌ像が納められ、至る所様々な聖像や王家のレリーフが壁を飾っている。
6 チャルキヤの実験…
プラケーシンⅠ世によって6世紀半ばに興されたチャルキヤ朝は、バーダーミBadamiを都としてデカン一帯を治め、ラーシュトラクータ朝に滅ぼされる8世紀半ばまで存続した。この前期チャルキヤ朝の下でアイホーレ、バッタダカル、マハークータなどに多数の寺院が建設された。このチャルキヤ朝の建築様式はファーガソンがチャルキヤ様式というカテゴリーを立てたように、北方型、南方型の両方の要素を併せ持って多様である。
1 アイホーレの試行
アイホーレAiholeの初期の寺院は、グプタ朝のナチュナのパールヴァティ寺院のような北方型の流れに位置づけられる。
ラド・カーンLad Khan(7世紀末)の入口には、12本(4×3)の柱をもつポーティコが設けられる。ナイン・スクエアの平面が拡張された主ホール(4×4)は、同心状の柱列によって二重の回廊からなり、中央にナンディ像が置かれている。コンティグディKontigudi(gudiは寺の意)群の寺院はより素朴な形式である。長方形のマンダパが太い柱列によって縦に分割されている。これら初期の寺院の柱は、石の量塊そのままでそれほど装飾もされていないが、木造架構の主要素を再現している。柱は単岩で正方形断面をし、柱礎はないが柱頭には簡単な持ち送りが載る。ラド・カーンの内部の柱のいくつかは八角形で持ち送りには波状の刳形が彫られている。
チャルキヤ朝の寺院は、ガルバ・グリハが中央になく繞道がさえぎられるというラド・カーン寺院の難点を克服するために、以降、最外周の回廊をなくし、中央の高い身廊部と両脇の低い側廊部に分割する構成をとる。一つはナイン・スクエア型のホールの後部にガルバ・グリハのための三間の繞道のない祠堂が付加される。もう一つは側廊部が伸ばされ、ガルバ・グリハを巡る繞道となる。前者ではホールとガルバ・グリハの間に前室的な空間が付加され、後者ではガルバ・グリハとホール内部の柱間を仕切ることによって前室的な空間が形成される。タラッパグディTarappagudi寺院とナラヤナNarayana寺院は前者、フッチマラグディHuchchimallagudi寺院は後者の例である。
後者の形式の優美な変形例はドゥルガーDurga寺院であり、仏教のチャイティア堂の形式を踏襲している。アプス型(前方後円)の祠堂は主ホールと繞道が巡るガルバ・グリハを包含し、その外側に列柱回廊が周り、もうひとつの巡回路を形成する。
プラケーシン2世を讃えた634/5年の刻文があるジャイナ教のメグティMeguti寺院はアイホーレで唯一年号が記された寺院で、インドにおいて正確な年号の記された最も古い構築式の寺院である。丘の上に建つこの寺院は、前述の二つの型と異なる独自の形式をもつ。マンダパとガルバ・グリハはそれぞれ一つの区画をなし、玄関部分は二つの区画の間に配置されているのである。
2 パッタダカルの競演
メグティ寺院は、繰形のある基部や付け柱による壁面分割など南方型の要素を持つが、バーダーミの二つのシヴァラーヤ寺院はさらに南方型の要素が強い。上シヴァラーヤ(7世紀初頭)は、前室は失われているが聖室を繞道が取り囲む構成である。マーレギッティ・シヴァーラヤ(7世紀)は繞道を持たず、正室、前室、4本柱のポーチというシンプルな構成である。
さらにマハークータにも7世紀に遡る寺院群がある。マハクテシュバラ寺院は、繞道に囲まれた聖室、4本柱の前室、ポーチ、そして前方にナンディ祠堂という基本形式を完成させている。マリカルジュナ寺院も同様であるが、前室が8本柱の構成である。タンクを囲んで小祠堂が立ち並ぶ伽藍構成であるが、北方型のシカラもあり、まさに南と北が混交している。
以上の初期の形式を経てより大規模な寺院群が建立されたのはパッタダカルである。ヴィルパクシャ寺院とマリカルジュナ寺院は、第8代ヴィクラマディチャⅡ世がパッラヴァ朝を破った記念に745年頃建てられたもので、カンチープラムの建築家グンダによるとされる。カイラーサナータの影響を強く受けているとされるが、マンダパの三方向に入口をつけるのが特徴的である。さらにサンガーメーシュワラ寺院も加えて3つの大寺院はパッラヴァ朝の影響下にあり南方型であるが、パーパナータ、ガラガナータ、カーシーヴィシュワナータ、ジャンブリンガなどは北方型のシカラを戴いている。
7 華開くシカラ…北方型寺院の発展
8世紀以降、北インド中央を支配したのはカナウジを都とするプラティハーラPratiharas王朝である。この王朝において北方型寺院は成熟への展開を見せる。そして10世紀中葉に取って代わったチャンデッラ朝はカジュラホを中心としてヒンドゥ建築の妖艶な華を咲かせることになる。
また、オリッサのブバネシュワラを中心として栄えたカリンガ朝、東ガンガ朝が数多くのヒンドゥ寺院を残している。その最初期のものがパラシュラーメシュワラ寺院(7世紀)で、ガルバ・グリハとマンダパからなる基本形式をとる。続く古例としてヴァイタル・デウル寺院(8世紀)があるが、シカラの形がヴォールト形で珍しい。民家の屋根に由来し、「カーカラ」というが、他に例はない。
オリッサ地方ではガルバ・グリハをデウル、マンダパをジャガモハンと呼ぶ。そして、砲弾形のシカラが載る聖室をレカー・デウル、ピラミッド状の屋根が載る前室をピダー・デウルと呼ぶ。その二つからなる典型にムクテシュワラ寺院(10世紀後半)がある。また、ブラフメシュワラ寺院Brahmeshwara(1060年)が伽藍の四隅に小祠堂を建てる五堂形式(パンチャ・ヤタナ)を完成させている。他にラージャラニ寺院(11世紀初)も典型的オリッサの形式である。最も代表的なものは最大の規模を誇るリンガラジャ寺院(11世紀後半)である。デウル+ジャガモハンの前にナト・マンディル(舞堂)とボガ・マンダパ(献堂)を置いている。そしてオリッサのヒンドゥ建築として頂点に立つのはコナーラクのスーリヤ寺院(13世紀前半)である。レカー・デウルは失われているが戦車に見立てたピター・デウルは巨大であり、壁面の彫刻の豊かさは群を抜いている。
プラティハーラ朝の寺院は東西にガルバ・グリハとマンダパが並び東面する構成が基本で、五堂形式はまだみられない。しかし、その平面構成は次第に複雑化する。初期のものとしてはオシアンOsianのハリ・ハラ・グループの寺院がある。また、異形ではあるが、グワリオールGwaliorのテリ・カ寺院Teli-ka-Mandirがプラティハーラ朝の遺構と知られる。さらに、バロリBaloliのガテシュバラGhateshvara寺院、ギャラスプルGyaraspurのマラ・デヴィMala Devi寺院がある。
10世紀に入るとヨーガの行法などによって直接身体を通じて解脱を得るタントリズムが大きな影響を持ち始める。女性の力シャクティを崇拝し、男性原理と女性原理の結合によって至福を得ようとするこの運動はヒンドゥ教にも、仏教にも、そしてジャイナ教にも見られる。カジュラホの寺院群に鏤められた極めて開放的な男女交合の彫像はそのおおらかな世界を示している。
ダンガDhanga王(c.950-1002)のもとで中原を制したチャンデッラ朝は数多くの遺構を残している。首都カジュラホの遺跡群は西、東、南の三つに分けられる。最古の遺構は西群の南にあるチャウンシャト・ヨギニChaunshat Yoginiとされるが、その典型はラクシュマナLakshmana寺院(954年)に始まる。そして、ヴィシュヴァナータVishvanatha寺院(1002年)、チトラグプタChitragupta(1Ⅰ世紀初)寺院、デヴィ・ジャガダンバDevi
Jagadamba寺院(11世紀初)、カンダリーヤ・マハデヴィKhandariya Mahadevi寺院(1Ⅰ世紀中葉)が続く。近接してシカラが林立する西群の寺院群は壮観である。まず基壇の上に祠堂がつくられること、また五堂形式をとること、そして、4つの祠堂が一列に連なり、シカラが次第に高くなることが特徴である。最大にして最も優美なのが・マハデーヴァで北方型寺院の代表作とされている。東群はジャイナ教の寺院群で中心はパルシュバナータParshvanatha寺院である。
オリッサ、カジュラホとは別に西インドで北方系ヒンドゥ寺院の展開が見られる。グジャラートのマイトラカ朝とそれを引き継いだソランキ朝、ラージャスタンのオシアンの建築群である。
ソランキ朝を代表するのが首都モデラのスーリヤ寺院である。寺院は東西軸状に並ぶ二つの建物、ホールと繞道の廻る聖室とマンダパ、そして貯水槽からなる。緻密で豊満な彫刻がソランキ様式を特徴づける。また、ソランキ朝はギルナール山他多くのジャイナ教建築を残している。
8. 聳え立つゴープラ…南方型寺院の発展
1.チョーラ朝の建築
南方型ヒンドゥ建築をその頂点に導いたのはチョーラChola朝である。まずパッラヴァ朝からチョーラ朝への過度期の寺院としてナールッターマライNarttamalaiのヴィジャヤーラヤ・チョーリーシュワラVijayalayacholishvara寺院(9世紀半)がある。周囲に8つの小祠堂を従え円形のガルバ・グリハをもつのが特徴である。そして、初期のものとしてコドゥンバルアKodumbalurのムヴァルコヴィルMuvarkovil寺院(c.880年)がある。マンダパが失われ、ガルバ・グリハも3つのうち2つしか残っていないが、16の小祠堂をもつ伽藍が残っている。
パランタカParantakaⅠ世(907~49)の治世の初期になって作られたクンバコナムKumbakonamのナガシュバラシュヴァムNagashvarashvam寺院とプラマンガイPullamangaiのブラーマプリシュバラBrahmapurishvara寺院などにおいて重要な展開が見られるようになる。すなわち、ゴープラが主祠堂より高く聳え建つ伽藍形式が現れ出す。また、三祠堂形式となり、壁がんに彫像が置かれるようになる。
その後、ウタマ・チョーラUttama Chola(969~985)そしてラジャラジャRajarajaⅠ世(985~1014)の治世下にティルヴァルアTiruvarurのアカレシュバルAchaleshvara祠堂のような精密に装飾化された見事な建築ができあがる。 これを引き継いだティヤガラージャシュバミThyagarajashvami寺院(13~17世紀)は典型的な南方系寺院として知られる。
ラジャラジャRajarajaⅠ世の最後の10年に、帝都タンジャヴルTanjavurに巨大なブリハデシュバラBrihadeshvara寺院が建造される(1010年)。全体は約75m×150mの回廊で囲まれ、60mを超えるヴィマーナが聳える。東西軸状にゴープラ、ナンディ祠堂、二つのマンダパ、前室、ガルバ・グリハが一直線に置かれる。前室には南北からも出入り口が設けられるのがチョーラ朝のヒンドゥ寺院の基本形式となる。ゴープラは未だ低く横長だが、規模において、またその見事な構成において、南方型寺院の頂点に立つのがこの寺院である。
そして、それに匹敵するとされるのがラジェンドラRajendraⅠ世(1014~44)による、新首都ガンガイコンダチョーラプラムGangaikondacholapuram(ガンガを征服したチョーラの都)のブリハデシュバラBrihadishvara寺院である。ヴィマーナは、前者が直線的、後者が丸みを帯びていてやや低いことから「男性的」「女性的」と評されるところである。
この二つのブリハデシュバラ寺院の延長として、チョーラ朝を締めくくるのがダラスラムDarasuramのアイラヴァテシュバラAiravateshvara寺院(12世紀半)とトリブヴァラムTribhuvanamのカンパレシュヴァラKampahareshvara(13世紀初頭)寺院である。
2 後期チャルキヤ朝とホイサラ朝の建築
後期チャルキヤ朝はチョーラ朝に抗しながら南インドに影響を及ぼす。その主要な建築は、ラックンディのカシヴィシュヴァラ寺院、イッタギのマハデーヴァ寺院、クカヌールのカレシュバラ寺院、ハヴェリのシデシュヴァラ寺院、ニラルギのシダラメシュバラ寺院などである。
繞道をもたず、ガルバ・グリハ(聖室)+アンタラーラ(前室)+マンダパ(礼拝堂)が直線的に並ぶというのが基本構成であるが、平面形、規模はそれぞれ異なる。共通な特徴は、ヴィマーナを中心に極めて緻密な装飾が施されることである。特に、轆轤を用いて削り出される柱は寺院毎に独自のデザインがなされている。
西ガンガ朝のあとを受けてマイソール地方で栄えたホイサラ朝の建築は、首都ハレビード、そしてベルール、ソムナトプルを中心に見ることができる。
ヴィマーナが細かく分節されガルバ、グリハの平面がほとんど円形に近づくのが特徴である。それぞれ異なる姿態のヴィシュヌ神に献じられるヴィマーナを3つもつ特異な平面形であるが、ソムナトプルのケシャヴァ寺院(1268年)がその完成型とみられる。
3 ヴィジャヤナガルとナーヤカ朝の建築
南インドは、12世紀以降、パンディア朝、ヴィジャヤナガル王国、そしてナーヤカ朝によって順次支配される。そして、南インド型の寺院は大いに発展を遂げる。特に15~16世紀のヴィジャヤナガル王国において、寺院は巨大化し、その伽藍は都市的規模をもつに至った。
聖室の周りに幾重にも囲壁が巡らされ、いくつもの門を潜って内陣に至る構成が一般的となるのである。そして、巨大な楼門ゴープラが建てられるのである。寺院が都市生活と積極的に関わり、寺院が拡大するにつれて、様々な施設を取り込むようになる。実際、シュリランガムのように、寺院が町自体を形成するようになった例もある。また、ヒンドゥの聖地マドゥライのミーナークシ寺院など境内に列柱ホールや人造池などを取り込んでいる。
Column 白亜の宇宙…ジャイナ教寺院の発達
1 ジャイナ教 Jaina
東インドのビハールに生まれたヴァルダマーナVardhamana・マハーヴィーラ(B.C.549-477あるいはB.C.444-372)によって興されたジャイナ教は、非殺生、非暴力(アヒンサー)を教義とし、苦行・禁欲を根本とした。そして、集権的な教団をつくらず、布教にも熱心ではなかったから、仏教ほど大きな影響力を持たず、インド世界から外へ出ることもなかった。しかし、13世紀にはインドから消えてしまう仏教に対して、ジャイナ教は西インドを中心として現在にまで生き続け、多くの建築遺産を作り上げてきた。
ジャイナ教とはジナJina(勝利者)の教えのことである。マハーヴィーラは30歳で出家して12年の苦行の末ジナになった。その時既に23人のジナ、祖師(ティルタンカラTirthankara、ティルタは渡しをつくる人、救済者の意)がおり、24人目の祖師がマハーヴィーラである。
ジャイナ教はバラモンの供犠や祭祀を批判し、ヴェーダ聖典の権威を否定して成立したのであって、本来無神論である。断定をさけ、常に「ある点からすると(スヤートsyat)」という限定を付す相対主義をとる。
マハーヴィーラの死後、その教え、教団は弟子に引き継がれ、マウリヤ朝にはチャンドラグプタ王の庇護を受け隆盛を誇る。その後、教団は白衣(びゃくえは)派Svetambaraと裸行派Digambaraの二派に分裂する。前者が僧尼の着衣を認めるのに対し、後者は無所有の教えから裸行の遵守を説き、女性の解脱を認めない。現在、白衣派の多くはグジャラート、ラージャスタン州など、裸行派は南インドに居住する。
2 ジャイナ窟
ジャイナ教もはやくから石窟を開いた。オリッサ州のカンダギリKhandagiri,ウダヤギリUdayagiriの諸窟(BC1-2世紀)が古例である。二つの丘が向かい合いそれぞれ15窟、18窟残るが、最大なものがラーニー・グンパーで柱列の奥に僧室が並びコの字型に前面広場を囲んでいる。他に虎口を模した、蝦蟇蛙のように見えるバーグ・グンパ、象の彫像が置かれるガネシャ・グンパなどがある。
マディヤ・プラデシュ州のウダヤギリに自然窟に近いジャイナ窟(5世紀)、バーダーミにはティルタンカラ像が至る所に刻まれたジャイナ窟(6~7世紀)、カツナータカ州のアイホーレにはマンダパを三方から祠堂が囲む形式のジャイナ窟(6~8世紀)、そしてエローラには5つのジャイナ窟(第30窟~34窟、9世紀)が残るがいずれもヒンドゥ窟と併存している。エローラの32窟が最も大規模で、二層からなり、堂はジャイナ教特有のチャトルムカ(四面堂)形式をとっている。
3 ジャイナ教寺院
ジャイナ教徒にとっての最大の巡礼地は、最初のティールタンカラアーディナータが度々訪れたというシャトルンジャヤ山である。10世紀頃から多くの寺院が建立され、一大山岳寺院都市を構成する。寺院の様式はシカラを戴く北方系で統一されている。
シャトルンジャヤ山に次ぐ山岳寺院都市が、22代ティールタンカラ、ネミナータの涅槃の地とされる聖山ギルナール山である。11世紀初めにソランキ朝が建設したのが起源である。各寺院は、ここでもシカラを頂くが、マンダパに白を基調とするモザイクタイルのドーム屋根が載っているのが目立つ。タイルはもちろん近年のものである。
ジャイナ教の聖賢バドラバーフは南インドのカルナータカ地方に移住したとされる。南インドの最大の聖地がジュラヴァナベルゴラである。チャンドラギリ丘に10寺院が建ち並んでいる。ここでは南方型ヒンドゥ寺院を踏襲しているのが興味深い。
9. ヒンドゥー・ヴァーナキュラー…土着化するヒンドゥ建築
北方型、南方型、そしてその中間(中部)型という大きな区分はおよそ以上のようであるが、それぞれの王朝の核心域以外の周辺部においては様々な変化型が生み出されてきた。気候風土の違いによって、利用可能な建築資材が異なり、必要とされる建築技術も少しずつ異なるからである。グプタ朝時代において周辺地域であったカシミールやベンガル、南インドでもケーララなどにはヒンドゥ寺院の異なった形態をみることができる。
1 ベンガル
ベンガル地方は石材に恵まれず、古来、煉瓦、土、竹が主な建築材料であり、古代の建築遺構はほとんどない。もともと仏教の影響が強く、12世紀に勢力をもったセーナ朝も13世紀にはイスラームに取り込まれたこともヒンドゥ建築の遺構の少ない理由である。そうした中でヴィシュヌプルVishnupurに独特のヒンドゥ寺院の一群が残されている。ケシュタ・ラーヤ(1655)、シャーマ・ラーヤ(1643)など、17世紀から18世紀にかけての建造であるが、何よりもバンガルダールと呼ばれる棟が湾曲した独特の屋根である。明らかにこの形態はベンガル地域の農家バーングラの形態を模している。煉瓦の他ラテライトも用いられ、テラコッタのパネルで装飾される。平面は正方形で、求心性が高い。また、バンスベリアのハンセーシュワリ寺院(1814)などイスラームとヒンドゥの混交様式も興味深いところである。
2 ヒマラヤ
カシミールなど北インドのヒンドゥ建築も地域性豊かである。極めて雨の多いことから、急勾配の切り妻、寄せ棟、方形の屋根が用いられるのである。上部構造は失われているが、マールタンドのスールヤ寺院(750年頃)、アヴァンティプルのアヴァンティスワミ寺院(9世紀)、ブニヤールのヴィシュヌ寺院(900年頃)などが古例である。また、ヒマラヤ杉など木材が豊富な地域には、ナガル、スングラ、サラハンなど各地に木造のヒンドゥ寺院も見られる。山々に覆われたヒマチャル・プラデシュ州には、チャンバのラクシュミ・ナーラヤナ寺院群(14世紀)のようにシカラの上部を編み笠で蓋をするような木造屋根が見られる。
3 ケーララ
ヒマラヤ地域と同じようにインド亜大陸の最南端ケーララ地域も多雨地域であり、木造建築の伝統が生きている。トリヴァンドラムのマハデーヴァ寺院(14世紀)は壁体はラテライトであるが、屋根は木造である。ケーララ州を代表するのがトリチュールのヴァダクナータ寺院(12世紀)で円形の祠堂が独特である。
4 ラージャスタン
ラージャスタンとは王の国という意味であるが、古来、ラージプートの国(ラージプターナ)と言われ、インドでも独特の地域として知られる。古代からのクシャトリアの子孫であると称し、ムガール帝国の支配下においてもヒンドゥ的要素を維持し続けた。
18世紀初頭、ジャイシンⅡ世によって、ヒンドゥの都市原理をもとに建設されたジャイプルがいい例である。ジャイプルにはハワ・マハル(風の宮殿)、ジャンタル・マンタル(天文台)など独特の建築を見ることができる。また、ウダイプル、ジョードプル、ジャイサルメルなどラージプート族の築いた珠玉のような都市がある。
アンベール城、アジュメール城、ジュナガル城など城郭宮殿に見るべきものが多い。チトールガルは、8世紀から15世紀末までメーワール国の首都であり、チトール城の他、名誉の塔、勝利の塔と呼ばれる他にない高塔が残っている。
5 ネパール
カトマンズ盆地には、カトマンズ、パタン、バクタプルという三つの王都があり、リッチャビ朝時代(5~9世紀)から存続する30以上の小都市や集落がある。仏教とヒンドゥ教は、土着の慣習や信仰に加えて古くからネワール族に受け継がれてきた。ヒンドゥ寺院と仏教僧院や仏塔はごく近くに一緒に建てられ、ヒンドゥ寺院と仏塔が一つの伽藍を構成する例も多い。カトマンズ盆地の都市の街路や広場には都市コミュニティの日常生活のために、仏教僧院、ヒンドゥの神々を祀る寺院や祠、水場、休息所などが建てられ、独特の景観を形作っている。特に三都市の王宮とダルバール(王宮前)広場は建築の宝庫である。
都市施設として、まずダルマサーラと総称される巡礼者用の宿泊施設、地区の集会施設がある。規模によってサッタル、パティ、マンダパ、チャパトなどの種類がある。カトマンドゥのカシタ・マンダパが最大のダルマサーラである。仏教僧院にはバハ、バヒ、そしてバハ・バヒと呼ばれる三種がある。バヒは独身者用、バハは妻帯者用として成立し、地区の中心的会堂となったものをバハ・バヒという。いずれも中庭を囲む集合形式をとり、街区を秩序づけている。
仏塔、そしてストゥーパについてはⅡ章で触れた。ネパールの建築は木造を基本とし、煉瓦造が併用されるのが特徴である。特に、木造の塔が独特である。斗拱ではなく方杖(斜材)で軒先を支える点、煉瓦を併用する点など、日本の塔とは随分趣が異なる。
ヒンドゥ教寺院の中心はシヴァ派の総本山パシュパティナート寺院である。また、リッチャビ期に遡るとされるのがチャン・ナラヤン寺院である。
10. 海を渡った神々…東南アジアのヒンドゥ建築
東南アジア地域の「インド化」が開始されるのはおよそ紀元前後のこととされる。「インド化」とは、インド世界を成り立たせてきた原理あるいはその文化が生んだ諸要素、具体的には、ヒンドゥ教、仏教、デヴァラージャ(神王)思想、サンスクリット語、農業技術・・・などが伝播し受容されることをいう。
インド化以前の東南アジアには、水田稲作、牛・水牛の飼育、金属の使用、精霊崇拝、祖先信仰・・・など、ある共通の基層文化の存在が想定されている。セデスは先アーリア文化と呼ぶが、その段階でもインド亜大陸と東南アジアとの頻繁な交流はあり、インド先住民がアーリア人の進入とともに移動しその文化を東南アジアにもたらしたという説もある。カースト制は何故東南アジアには伝えられなかったか、など「インド化」をめぐる議論は興味深いが、ここではヒンドゥ建築の展開を中心に見よう。
東南アジアに現存する七世紀以前に遡るヒンドゥ建築の遺構はほとんどない。大きく地域区分をして、主要な王朝を軸にして概観したい。
1 クメール アンコール
東南アジアで最も古いインド化国家はフナンであるとされる。メコン・デルタを支配域とし、最盛期は4世紀とされる。オク・エオ遺跡が知られ、南方上座部仏教も行われたがヒンドゥ教が卓越していたと考えられている。
6世紀末頃にメコン河中流域に興り、フナンを征圧したのがクメール(真臘)であり、イーシャナプラ(現サンボール・プレイ・クック)に都を置いた。その周辺にはヒンドゥ教の祠堂の遺構が残されているが、基壇の上に直方体の身舎を置きその上に屋蓋を載せる形態には大きく段台ピラミッドを多層重ねるものと、高搭状のものと二種類ある。
9世紀に入ってジャヤヴァルマンⅡ世、続いてジャヤヴァルマンⅢ世が現れる。そして、インドラヴァルマンⅠ世(在位877~889)が登位してロルオスに首都ハリハラーヤを建設する。以降、1432年の廃都までアンコールはクメール王国の中心となる。アンコール・ワット(12世紀前半)、バイヨン(12世紀末)の建設がその最盛期である。
クメールの諸王はシヴァ教を信奉し、リンガ崇拝が盛んであったが、ヴィシュヌ信仰、そしてハリハラ信仰も行われた。また、大乗仏教も混淆し、バイヨンの建設者ジャヤヴァルマンⅦ世は観世音菩薩を重視したことが知られる。
アンコール期の王都、王、主要な建築などを列挙すると以下のようになる。様式は装飾文様や浮彫によって区別されているものである。アンコールでは五頭、七頭のナーガの像が至る所に見られる。また、乳海攪拌のモチーフが特徴的である。さらに、観世音菩薩面を鏤めたバイヨンなど他に類例がない。
ハリハラーラヤ インドラヴァルマンⅠ世(877~889) |
ロルオス遺構群:プラー・コー様式
プラー・コー 879 バコン 881 ロレイ祠堂 893
アンコール第一次(ヤショダラプラ)ヤショヴァルマンⅠ世(889~910) ハルシャヴァルマンⅠ世(910~922) イーシャナヴァルマンⅡ(922~928) |
バケン様式
プノム・バケン ヤショダラタターカ プノム・クロム
プラーサート・クラヴァン 921
コー・ケル ジャヤヴァルマンⅣ世(928~942) |
コー・ケル様式
アンコール(第二次) ラージェンドラヴァルマンⅡ世(944~968) ジャヤヴァルマンⅤ世(968~1001) スールヤヴァルマンⅠ世(1002~49) |
東メボン 952 プレー・ルプ 961
バンテアイ・スレイ 967・・・バンテアイ・スレイ様式
タ・ケォ ピメアナカス クレアン・・・クレアン様式
アンコール(第三次)ウダヤーディティヴァルマンⅡ世(1049~79) ハルシャヴァルマンⅢ世1066~ ジャヤヴァルマンⅥ世1080~ |
バプーオン様式
バブーオン 西バライ ムアン・タム
スールヤヴァルマンⅡ世(1113~1201) |
アンコール・ワット様式
アンコール・ワット ピマイ トマノン
アンコール(第四次) ジャヤヴァルマンⅦ世(1162~1201) |
バイヨン様式
バイヨン アンコール・トム タ・プローム バンテアイ・クディ プラー・カン ニャック・ポアン タ・ソム
クメールにはストゥーパの遺構はなく、寺院を構成するのは祠堂である。祠堂は基壇、身舎、屋蓋の三つの部分からなり、インド的宇宙観としての三界観念-ヒンドゥ教にいうスヴァルローカ
Svarloka(神の領域マハーメール)、ブーヴァルローカ Bhuvarloka(清浄無垢の領域)、ブールローカ Bhurloka(死すべきもの人間の世界):大乗仏教にいうカーマダーツKamadhatu(欲界)、ルーパダーツRupadhatu(色界)、アルーパダーツArupadhatu
(無色界)<三身説>:南方上座部仏教にいうカーマローカ、ルーパローカ、アルーパローカ-を具象化したものと考えられる。
寺院の形式は極めて幾何学的でありわかりやすい。平面形式としては、中心祠堂が一基のもの(①)、中心の一基を四基の副祠堂で囲む五基形式(②金剛宝座)、三基形式(③)、六基形式(④)などがある。また全体が平面状に展開するもの、段台ピラミッドの上に展開するもの(堂山形式)、山の斜面に段台テラス状に展開するもの、の三つの形式がある。
①にはバコン、ピメアナカス、バブーオン、メボン、トマノン、ピマイなどがある。大きく内陣が一室のものと平面分化が進んだ十字形平面をもつものとの二つにわかれる。②には、プノム・バケン、東メボン、プレー・ルプ、タ・ケォなどがある。タ・ケォは十字形平面をしており、段台ピラミッドの上に五基の祠堂が建つ。アンコール・ワットやバイヨン、タ・ブローム、バンテアイ・クディなどもこの五基形式が複雑化したものと考えられる。③にはプノム・クロム、バンテアイ・スレイ、ワット・シー・サワイ(スコータイ)などがあり、④はプラー・コーが知られる。
伽藍配置は極めて求心的なマンダラ形式をとるが、本殿→拝殿→楼門を一直線上に配するものも少なくない。南インドあるいは東北インドとの類似性が指摘される。基本的に墓廟であるアンコール・ワットが西向きである他、ほとんどの主祠堂は東を向いている。
2 ジャワ
アンコール期のクメールに先立ってヒンドゥ・仏教建築の華を開かせたのはジャワである。これまでに出土したサンスクリット碑文から5世紀にはジャワにインド文明が及んでいたとされるが、その起源については不明である。
チャンディ・アルジュナ、チャンディ・ビマなど最古の建築遺構は中部ジャワのディエン高原にあり、7世紀のものという。以降、シャイレンドラ朝(c788~9世紀半)によるものを中心に、7世紀末から10世紀初頭にかけて建てられた数多くの建築が中部ジャワには残っている。
ヒンドゥ教であれ、大乗仏教であれ、ジャワでは寺院を一般的にチャンディcandiという。チェディと同様チャイトヤから来ていると考えられるが、内部空間を持たないストゥーパと考えられるチャンディ・ボロブドゥールとヴィハーラもしくは経蔵とみなされる多層のチャンディ・サリとチャンディ・プラオサンを除くと、全て神仏像やリンガを収める祠堂である。
最も著名なのはチャンディ・ボロブドゥールとチャンディ・ロロジョングラン(プランバナン)である。前者はシャイレンドラ朝による大乗仏教の遺構であり、1814年に発見された。6層の方形段台ピラミッドの上に三層の円形段台が重ねられ、中心ストゥーパの周囲に72基の小ストゥーパが円形に並べられている。各層の壁面は仏典にまつわる浮き彫りのパネルによって飾られている。ボロブドゥールが一体何を意味するかをめぐっては様々な解釈がなされている。チャンディ・パオンとチャンディ・ムンドゥットが一軸上に並んでいることで1グループと考えられている。後者はシヴァ神を主神とするヒンドゥ寺院で856年の創建とされる。大小240のチャンディ群からなり、大きく外苑、中苑、内苑の三つの境内にわかれる。内苑には中心祠堂と両側の脇祠堂にそれぞれ対峙する少祠堂合わせて6つのチャンディが建っている。
他にチャンディ・コンプレックスとして、チャンディ・セウ、チャンディ・ルンブン、チャンディ・プラオサンなどがあり、いずれも極めて幾何学的な構成をしている。
10世紀中葉になるとヒンドゥ・ジャワ文化の中心は東部ジャワに移る。シャイレンドラ王のヒンドゥ教への改宗、シュリビジャヤ王国の脅威、ムラピ山の爆発など諸説あるが、ヒンドゥ王国の中心は、順にクディリ(c.930~1222)、シンゴサリ(1222~1292)、モジョパイト(1293~c.1520)に移る。いずれもブランタス川の上流に位置し、スラバヤがその外港である。
東ジャワ期になるとヒンドゥ教と大乗仏教の混交は一層進み、密教化する。ストゥーパ、ヴィハーラはなく神像を収めた祠堂チャンディが各地に残されているが、中部ジャワ期と比べると、一般的に幅が短く高さが高い。また、カーラ・マカラ装飾のうち上部のカーラのみとなる。カーラは陸の、マカラは海の、いずれも想像上の動物で開口部の上下に用いられる装飾である。多くの遺構があるが、バリ島のゴア・ガジャ、グヌン・カウィはクディリ朝のものである。チャンディ・キダル、チャンディ・ジャゴ、チャンディ・パナタランがシンゴサリ朝の代表的チャンディである。また、トロウラン周辺にチャンディ・ジャウィ、チャンディ・ティクスなどマジャパイト王国の遺構が残っている。
マジャパイト王国は、16世紀初頭には、イスラーム勢力に追われてバリ島に拠点を移すことになる。このヒンドゥ教の衰退期におけるユニークな遺構がラウ山、プナクンガン山に残るチャンディ・スクとチャンディ・チョトである。
3 パガン
クメール、ジャワと並んで、東南アジアにおけるヒンドゥ・仏教建築の三大中心とされるのはミャンマーのイラワジ河中流域のパガンである。
イラワジ川流域には、古来ピュー族の文化が展開していたとされる。古くからインドの影響が及んでいるが、例えば、ベイタノー遺跡には南インドのアーンドラ朝(c.B.C.250~350)の影響があるとされる。また、シェリ・クトラ遺跡にはアマラーヴァティ地方、あるいはベンガル、オリッサ地方の影響がうかがえるパゴダが残されている。
このイラワジ川流域に北方から南下してきたビルマ族が打ち立てたのがパガン王朝である。パガン朝の創始は二世紀初頭とする伝承もあるが、最盛期を迎えたのはアノーヤター王(在位1044~77)以降の250年間である。パガン朝の歴代の王らが造営した堂塔の数は5000にも及び今日なお2000を超える遺構が残っている。南方上座部仏教がパガン朝の中心であるが、8世紀以前には大乗仏教の影響が強く、さらにピュー族以来のヒンドゥ教の影響も色濃い。
パガン朝の建築は、一般的に、北インド式の、すなわちシカラ風の、高塔を頂く。塔すなわちパゴダおよび祠堂ツェディの塔部についてはⅡ章で触れたが、モン人が移入してきた11世紀中葉にいわゆるビルマ型のパゴダが成立している。ヴィハーラの遺構としてはソーミンディ、タマニ、アマナなどがあるが、中庭を囲む方形平面の基本型がある。
4 チャンパ
東南アジア大陸部の南シナ海沿岸部は古来中国の影響が強い。特に北部は紀元前111年に漢の武帝に征服され、1000年もの間その支配下に置かれている。この南シナ海沿岸部に興ったインド化国家がチャム族のチャンパである。林邑期(192~758)、環王期(758~860)、占城期(860~1471)に分けられるが、2世紀末から15世紀末まで存続する。ヒンドゥ教を主、仏教を従とした。林邑期の中核域は、ヴェトナム中部のトラキュウ、ミーソン、ドンジュオンの一帯でアマラヴァティとインド名で呼ばれている地域である。現在残る遺構はほとんどがヒンドゥ教の祠堂でカランと呼ばれる。
環王期になると中核域は南のクヮンホア、ファンラン(バーンドランガ)周辺に移る。ホアライには802年頃王位についたハリヴァルマンⅠ世が建立したというカラン群が残っている。
占城期になると中核域は再び北に移動し、クヮンナム周辺となる。代表的遺構として残るのはミーソンの南のドンジュオンである。9世紀のインドラヴァルマンⅡ世が大乗仏教を奉じたとされ、この時期チャンパでは唯一仏教の興隆をみている。
チャンパの建築様式については、隣接するクメールとの関係が深い。また、ジャワとの交流も古くから伺える。さらに、中国の影響も見ることができる。
参考文献
・ジョージ・ミッチェル著、神谷武夫訳「ヒンドゥ教の建築」鹿島出版会、1993
・ 神谷武夫著・写真「インド建築案内」TOTO出版、1996
・ 神谷武夫、インドの建築、東方出版、1996年
・ 佐藤雅彦、南インドの建築入門―ラーメシュワーラムからエレファンタまで、彰国社、1996年
・ 佐藤雅彦、北インドの建築入門―アムリッツアルからウダヤギリ、カンダギリまで、彰国社、1996年
・ 千原大五郎、東南アジアのヒンドゥー・仏教建築、鹿島出版会、1982年
・Christopher
Tadgell, “The History of Architecture in India : From the Dawn of Civilization
to the End of the Raj”, Phaidon Press Limited, London, 1990
・シャルマ・ラム・シャラン著、山崎利男/山崎元一
訳「古代インドの歴史」山川出版社、1985
Krishna
Deva, “Temples of India Vol. I-II”, Aryan Books International, New Delhi, 1995
“In
Praise of Aihore ・ Badami ・ Mahakuta ・
Pattadakal”, Marg Vol.XXXII No.1, Marg Publications
P.K.Acharya:Architecture of Manasara, Oxford University Press,
London, 1934