宮殿建築、『インド文化事典』丸善出版、2017
宮殿建築 The Rajput Palaces
古代インドの都城そして宮殿建築については、マウリヤ朝の創始者チャンドラグプタの宰相カウティリヤが書いたとされる『アルタシャーストラ』(実理論)が知られる。ヒンドゥー都城の理念型を示すものとして古来参照されてきたが、それを具体的に体現する王都や宮殿建築については定かではない。現在インド各地に残る代表的な宮殿遺構のほとんどはイスラームの侵入以降のもので、アーグラ、ファテープル・シークリー、ラホール、デリーに残るムガル朝の宮殿がその代表であり、地方勢力として一定の独立性を保ったラージプート諸侯もすぐれた宮殿建築を残している。
●ムガル朝の首都と宮殿
初代皇帝バーブルの年代記『バーブルナーマ』を読むとよくわかるが、サマルカンドからカーブルと下ってデリーへ向かう間のムガル朝初期の都は移動するオルド(宮殿)である。すなわち、移動建築ユルトの集合が都であった。その後も、アーグラ、ラホールと都は定まらず、アクバルによって珠玉のファテープル・シークリーが建設されるが長続きしない。帝都が定まるのは「もし地上に天国がありとせばそはここなり」と謳われたシャージャハナバードにおいてである。ムガル朝の宮殿建築の代表がラール・キラLal Qilaである。「バグダードの八角形」と呼ばれる全体は整然としたグリッドを基に計画されており、ヤムナー河からの水が流れる水路、池、庭園も極めて幾何学的である。多様アーチ、ダブルコラム、柱頭・柱身・柱脚の装飾などムガル建築を特徴づける要素をみることができる。
●ラージプートの王都と宮殿
奴隷王朝の成立によってラージプート時代は終わりを告げるが、ラージプートのラージャたちは一定の勢力を保持し続ける。諸侯の宮殿は拠点都市に1つ建設され、男性の領域マルダナmardanaと女性の領域ゼネナzenenaを截然と区別し、全体は小さな部屋と中庭を防御を考えて斜路や階段で複雑な形で構成されるのが一般的である。
現存最古の宮殿建築はチトールのラーナ・クンバ宮殿(1433-68)である。また、グワリオールのキルティ・シン宮殿(1454-79)がある。イスラーム勢力がその王都を破壊し、建築材料を再利用してきたために、その起源を遡るのは困難である。ムガル朝以前のこうした宮殿はラージプート宮殿の特徴を示している。柱頭の持送り、腕木、八角形の柱、四角な柱礎、曲面の屋根、小さな出窓・ジャロカjarokha、斜め庇・チャジャchajja、石のスクリーン窓・ジャリjaliなどはヒンドゥー建築の要素である。
17世紀初頭になると、オーチャのブンデルカンド宮殿、ダティアのゴヴィンド・マンディルなど宮殿の形態は極めて整然としてくる。インドには古来『マナサラ』などヴァストゥー・シャストラと呼ばれる建築書が知られる。建築物の寸法単位、空間の分割パターンを規定し、正方形を順次分割していくパターンについては32種類あげられるが、最も一般的に用いられるパラマシャーイカparamasayika(9×9=81分割)が用いられたとされる。宮殿建築の建設を担ったのは、ヒンドゥー教徒である。
17世紀から18世紀の初頭にかけて建てられた、アンベールをはじめとして、ウダイプル、ジャイサルメル、ビカネール、ジョードプル、ドゥンガルプルなどの宮殿群はラージプート・スタイルの宮殿の成熟を示している。そこには、多様アーチ、バンガルダールbangaldarと呼ばれるベンガル地方の農家の屋根を模した湾曲した屋根、フルーティング(襞飾り)のついた柱などムガル建築の影響が見られる。しかし一方、ラージプート伝統の装飾要素も引き続き用いられ、ペルシャ由来の幾何学的文様との融合をみることができる。また、彩色タイルよりも壁画やモザイクが一般的となり、鏡をモザイク状に張り巡らしたシーシュ・マハルsheesh mahalsと呼ばれる部屋が新たにつくられるようになる。
18世紀になると、ムガル建築の影響は大きくなる。ディグに建設されたバダン・シン宮殿(1722年)そしてスーラジ・マル宮殿(1760年)は、ラージプート宮殿がその独自性を失っていく過程を示している。そして18世紀末から19世紀になるとヨーロッパ建築の影響が見られるようになる。
●ジャイプルの都市設計と宮殿
ジャイプルはラム・シンの時代(1835~1880)に色が塗られ、今ではピンク・シティとして有名であるが、その建設は18世紀前半に遡る。ジャイプルおよびその宮殿建設は、ラージプートの歴史の中でも際立つ。アンベールから拠点が移されるが、平地にしかも新たに都城が建設された唯一の例である。そして、その計画的都市建設はヒンドゥーの都城理念を窺う上で極めて興味深い。ファテープル・シークリーそしてシャージャハナバードに勝るとも劣らないといっていい。
ジャイ・シンⅡ世は、ジャイプルのみならずデリー、ヴァーラーナシーなどにジャンタル・マンタル(天文台)を建設したことが知られるが、中央に王宮と天文観測のためのスペースを設けていること、また、整然とした街区割が一定のコスモロジーに基づいていることは明らかである。軸線が15度ほど時計回りに傾いていること、ナイン・スクエア(3×3分割)の北西の角が架け、南東に一街区飛び出していること、『マナサラ』のプラスターラに基づくという説などをめぐって議論がある。建築家としてヴィディヤダールの名が知られるが、骨格となるバーザール、交差点チョウパル(広場)、街区分割のパターンなど実にユニークである。
チャンドラ・マハル(1727-30)(図)は、バンガルダールを中央に連続的な突き出しバルコニー窓が印象的な均整のとれたムガル朝を代表する王宮である。また、ユニークなファサードのハワマハル(風の宮殿)(1799年)は、サワイ・プラタープ・シンの建設である。 [布野修司]
【参考文献】
[1] Tillotson, G.H.R., The Rajput
Palaces, Oxford The Development of an Architectural Style, 1450-1750, 1987
[2] 布野修司、曼荼羅都市・・・ヒンドゥ-都市の空間理念とその変容、京都大学学術出版会、2006年