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2025年8月23日土曜日

韓国近代都市景観の形成:段煉孺・李晶主編:『中日韓建築文化論壇 論文集』中国建築工業出版社,2021年4月

 韓国近代都市景観の形成:段煉孺・李晶主編:『中日韓建築文化論壇 論文集』中国建築工業出版社,20214

 







韓国近代都市景観の形成

Formation of Modern Korean Urban Landscape

Spatial Formation and Transformation of Japanese Colonial Settlements in Korea

 

 

布野修司

 

 本稿は、布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民著『韓国近代都市景観の形成-日本人移住漁村と鉄道町-』(京都大学学術出版会,20105月)のエッセンスをまとめたものである。本共著の目次は、大きくは、序章 韓国の中の日本と景観の日本化、第Ⅰ章 韓国近代都市の形成、第Ⅱ章 慶州邑城、第Ⅲ章 韓国日本人移住漁村、第Ⅳ章 韓国鉄道町、終章 植民地遺産の現在、である。第Ⅱ章は、韓三建『韓国における邑城空間の変容に関する研究-歴史都市慶州の都市変容過程を中心に-』(京都大学,199312月)、第Ⅲ章は、朴重信『日本植民民地期における韓国の「日本人移住漁村」の形成とその変容に関する研究』(京都大学,20053月)、第Ⅳ章は、趙聖民『韓国における鉄道町の形成とその変容に関する研究』(滋賀県立大学,20089月)の学位論文がもとになっている。

 

 韓国の中の日本と景観の日本化

『韓国近代都市景観の形成』が対象とするのは, 朝鮮(韓)半島の古都慶州,そして日本植民地期に形成された「日本人町」「日本人村」である。朝鮮王朝時代に各地方におかれていた,慶州に代表される「邑城」が植民地化の過程でどのように解体されていったのか,その伝統的な景観をどのように失ってきたのかを明らかにすること,そして「日本人町」「日本人村」がどのように形成され,解放後どのように変容していったのかを明らかにすることをテーマにしている。具体的に取り上げているのは,かつての王都であり,朝鮮時代に「邑城」が置かれていた慶州の他,日本植民地期に形成された「鉄道官舎を核として形成された「鉄道町」(三浪津,安東,慶州,そして「日本人移住漁村」として発展してきた巨文島,九龍浦,外羅老島である。

『韓国近代都市景観の形成』がテーマとするのは韓国における近代都市景観の形成である。焦点を当てるのは,街並み景観,都市施設のあり方,街区構成,居住空間の構成であり,その変容について臨地調査を基に明らかにしている。

19世紀後半,急速に進んだ「開国」によって,朝鮮半島の社会は大きく変動していくことになる。近代都市の形成もその社会変動の一環である。

朝鮮時代の地方に置かれた「邑城」は,開国以降の過程で解体される。もともと,「邑城」は,儒教を国教とした中央集権国家を打ち立て,維持する上で,地方統治の装置として設置された。中心に置かれたのは「客舎」であり,東軒」といった官衙施設であり,その他の宗教施設も商業施設も城壁内には置かれなかった。「邑城」は「地方の中の中央」であった。その「邑城」に植民地化に相前後して日本人が居住し始めると,日本の統治機構のために朝鮮時代の官衙施設などを改築し,あるいは解体新築することになる。そして,土地を取得して,日式住宅」を建て,商店街を形成するようになる。「邑城」は,こうして「韓国の中の日本」となった。

「江華島条約丙子修好条約・日朝(韓日)修好条規)」(1876227日)によって,釜山を開港させられ,「日本専管居留地」が設置されて以降,元山1879年),漢城,龍山1982年),仁川1883年),慶興1888年),木浦,鎮南浦1897年),群山,城津,馬山,平壌1899年),義州,龍巌浦1904年),清津1908年)と次々に「開港場」「開市場が設けられた。そして,「開港場」「開市場」に設けられた「日本専管居留地」「共同租界」,朝鮮半島にそれまでになかった景観(都市形態,街並み,建築様式)を持ち込むことになった。

 しかし、朝鮮時代の伝統的都市や集落の景観と異なる景観がより広範囲に導入されたのは,半島全域を鉄道線路で結んだ鉄道駅とその周辺に形成された「鉄道町」を通じてである。「開港場」「開市場」が置かれ,その後韓国の主要都市となった都市も含めて,半島の各地域の中心都市となった都市のほとんどは,鉄道駅を中心とする「鉄道町」を核として形成された都市である。「鉄道町」は,朝鮮時代以来の集落や街区とは異なるグリッド・パターン(格子状)の街区をもとにした新たな町として整備された。そして,「鉄道町」の中心には,「鉄道官舎」地区など日本人居住地が形成され,日本人が建てた建物が街並みを形成することになった。

そしてもうひとつ,「日本人移住漁村」もまた,「開港場」とは別に,はるかに一般的なレヴェルで,新たな景観を朝鮮半島にもたらすことになった。海岸部に接して密集する形態をとる日本の漁村と丘陵部に立地し,半農半漁を基本とする朝鮮半島の漁村とはそもそも伝統を異にしていた。「日本人移住漁村」の出現は,伝統的な集落景観に大きなインパクトを与えるのである。

開港期に造られた居留地(租界)の都市構造やそれを構成した建築様式を眼にすることは,朝鮮人にとって「近代」との最初の接触経験である。そして,全国的に広く形成された「鉄道町」や「日本人移住漁村」の「日式住宅」やそれが建ち並ぶ街並みは朝鮮人の都市,建築に関わる理念の変化に最も大きな影響を与えることになる。そして,朝鮮半島の居住空間のあり方そのものを大きく変えることになった。

 

 1 韓国近代都市の形成

 朝鮮半島における都市の起源は,日本同様,中国に求められる。すなわち,朝鮮半島最初の都市は, 三国,すなわち高句麗・百済新羅の王都に始まると考えられる。そして、朝鮮半島の都市の伝統は,朝鮮王朝時代の都城および「邑城」に遡る(図1①朝鮮時代の府・邑・面)。開国とともに出現することになる「開港場」「開市場」は、全く新たな都市である(図1②)。さらに,日本植民地期における近代都市計画導入が朝鮮半島の都市を大きく変えていくことになった(図1③市街地計画令適用都市)。

テキスト ボックス:      
図1①            図1②           図1③ 

 

 2 慶州邑城

 慶州邑城の空間構成,その骨格をなす街路体系については,朝鮮末期に描かれたと推測される『慶州邑内全図』(図Ⅱ①)と『集慶殿旧基帖』が手掛かりとしてある。テキスト ボックス:  図2① 『邑内全図』城壁内部の幹線道路は,他の「邑城」と同じく東西南北の城門を結ぶ十字街である。『舊基帖』の表記によると,十字路の中心から東門に至る街路は「東門路」,反対側は「西門路」である。中心から南北方向の道路の名称は確認できない。ただ,邑城の南門から南に延びる道路は「鐘路」と呼ばれたことがわかっている。この道沿いに「奉徳寺の大鐘」をぶら下げた鐘楼があったためである。

  『邑内全図』では小路は「客舎」の周辺に集中している。具体的には「客舎」の西側にある慶州邑城で最も広い街路と,「客舎」の東側にある郷射庁,府司,戸籍所,武学堂などの諸機関とを結ぶ接近路がそうである。

 『邑内全図』と地形図を比較してみると,100年を越える時間差があるのにもかかわらず,大きな変化は見あたらない。

 旧邑城とその周辺部を対象にし,土地台帳と地籍図をもとに変化をみると、邑城内部の東部里には国有地が最も広く分布し、終戦までほとんど所有者が変わらない。国有地には,郡庁舎,警察署,法院支庁,官舎などが立地し朝鮮時代の施設を再利用した。東部里における日本人の所有土地は,植民地時代の全期間において大きく増加した。それに対して朝鮮人の土地は大幅に減少した。終戦時点では,査定時に朝鮮人が所有していた旧邑城内土地の5割が減少し,邑城内に居住していた朝鮮人の半数が押し出されたことになる(図2②)。テキスト ボックス:      
図2②
図
図2①                   図2②
また,時期が下がるにつれ,日本人地主の出現が見られる。城内でも,朝鮮人が密集して居住していた北部里には,日本人所有地の増加はそれほど見られない。しかし,城外の路東里と路西里は宅地化が進み,終戦の段階でほぼ全てが宅地化される。ここでは,全体的な朝鮮人所有土地面積は減少していたが,宅地は面積が増加している。

 朝鮮時代の「邑城」には地方統治のための施設のみが集中しており,住民もこれらの施設に務める身分の低い階層が大多数を占めていた。「邑城」に居住しながら「守令」と地元住民の中間関係に立ち,地方官庁の実務を担当していた「郷吏」階層でさえ,本来は「邑城」の中では居住することが許されなかった。「邑城」の城門は,毎日決まった時刻に開閉され,用のない人々の出入りを禁止していた。また,僧侶などの「賎民」は「邑城」への出入りが許されていなかった。朝鮮末期の慶州邑城の光景を撮影した写真に,城門の前に,聖なる場所の入り口に建てる「紅箭門」が建てられているのを見ても,「邑城」は精神的な意味でもヒエラルキー的に区別された場所であった。

  朝鮮時代の地方都市,つまり「邑城」や統治施設が集中する地区は,空間的に中央の直接的な支配下に置かれていた。日本による植民地支配が始まると,空洞化した「邑城」の内部に,それまでの朝鮮人官吏に代わって,日本人官吏が入ってくることになった。官庁に務めていた「邑城」内の住民も失業者となり,他の職をもとめて「邑城」を去って行った。 邑城の内部は,朝鮮時代には「地方における中央」であり,植民地時代には「韓国における日本」であった。

 

 3 韓国日本人移住漁村

「日本人移住漁村」は,補助移住漁村」と「自由移住漁村」に分けられる。各府県,水産組合,「東洋拓殖会社」などによって計画的に移住が行われ,建設されたのが「補助移住漁村」であり,日本政府と「朝鮮総督府」は多大な補助と支援を行った。しかし,そうした多大な措置にもにもかかわらず,「補助移住漁村」の大半は,成果をあげることなく失敗している。これに対して,日本人が任意に移住,定着したのが「自由移住漁村」である。民間の漁民,商人,運搬業者などが主体となり,漁業のための生産・流通・商業の拠点として,また居住地として開発したものである。「自由移住漁村」の中には,失敗し衰退した「補助移住漁村」を引き継いだものもある。「自由移住漁村」の多くは,解放後には韓国の主要漁港として発展している。

韓国の伝統的漁村は主農従漁村あるいは「半農半漁」村が多かった。その大半は,丘陵性山地下端部の傾斜地に位置し,居住地は自然地形に従った曲線的形態を取る。これに対して,「日本人移住漁村」は海を生活の場とする純漁村あるいは「主漁従農」村が大半で,漁業,流通業,商業,加工業が複合する形で発展した。居住地は,海岸道路に沿って形成され,道路幅や敷地の規模は基本的に狭く,高密度に住居が建ち並ぶ都市のような形態をとる。すなわち,「日本人移住漁村」は,朝鮮半島沿岸部に,それまでになかった居住地空間と街並み景観を持ち込むことになった。

韓国伝統漁村

日本人移住漁村

3① 韓国伝統漁村と日本人移住漁村

韓国の伝統的漁村の大半は,丘陵性山地の下端部に位置し,海岸を前にして背後には丘陵を持つ傾斜地形に集落が形成されてきた。伝統的漁村は,農業を基盤として漁業を兼ねている主農従漁村と半農半漁村がほとんどである。近所に農地があり,食物と飲料水を得やすい土地,そして海風が弱い地形を選んで集落が立地するのが一般的であった。居住地は比較的に平坦なところに石垣を部分的に積み上げ,整地してつくられた。居住地内部を貫く路地は自然地形にしたがった曲線形態であるのが普通である。

テキスト ボックス:  
図3②
韓国の「日本人移住漁村」の分布(図3②)をみると,東海岸と南海岸に形成されたものが大半である。その中で,「補助移住漁村」はほとんど南海岸に集中しているが,「自由移住漁村」は南海岸を主としながら東海岸にも分布している。その形成時期をみると,南海岸が最も早く,続いて西海岸,最後に東海岸に立地したことがわかる。2 

「日本人移住漁村」の立地は,前述のように,,海岸,内陸水路の3つに大別される。特に海を生業と生活の場とする島や海岸に位置する漁村の場合,居住地は山のせまった狭隘地につくられる場合が多い。そのため街路や路地が狭く,家屋が肩を寄せるように密集して建てられ,共同井戸を利用して水を得ていた所が少なくない。こうした高密度な空間利用の集落形態が「日本人移住漁村」の特徴であり,それはそれ以前の朝鮮半島にはなかった形態である。「日本人移住漁村」の住宅は,日本の漁村とほぼ同様である。その特徴をまとめると次のようである(図3③)。

テキスト ボックス:  
図3③ 日本人移住漁村の日式住宅
①漁村は生産と生活の場を異にする。漁民にとっては,海上の生活が主で陸上の生活が従である。陸上にある住居は休息を目的に作られているため,屋敷内には庭や菜園などは見られず,家の中に広い土間を持たない。

②漁民は住居を転々と変える傾向がある。それは家に対する観念が船に対する観念と共通しているためとされる。漁民は経済状態により大きな船を買ったり小さな船に変えたりするが,家もまた同様の感覚で住み替える場合が多い。

③漁民にとって,住居は伝統的な格式を示すものではない。家の大小はその時々の盛衰を示すが,漁民は家を通じて先祖を尊び,先祖の徳を誇るようなことはほとんどない。

④漁民の居住様式に,海上生活の様式が取り入れられる場合がある。船は一般に「表の間」,「胴の間」,「艫の間」に分かれているが,このような船に乗っていた漁民の住居には船住まいの様式がそのまま持ち込まれる場合がある。

 

4 韓国鉄道町

韓国のほとんどの地方都市は鉄道の敷設によって形成された「鉄道町」をその都市核としている。「開港場」「開市場」とともに鉄道沿線に形成された「鉄道町」は,韓国近代都市の起源である。日本植民地期に形成された「鉄道町」の街区構造は,伝統的な朝鮮半島の集落や「邑城」とは大きく異なり,それを転換していく先駆けとなる。また,鉄道の敷設とともに建設された「鉄道官舎」地区は,「日式住宅」が建ち並ぶ,朝鮮半島にそれまでなかった街並み景観を持ち込むことになった。

 

テキスト ボックス:  
図4① 鉄道路線網
 朝鮮半島における鉄道の敷設は,1899918日のソウル-仁川間の京仁線の開通によって始まる。朝鮮の鉄道網において大きな軸線となるのは,京仁線,京釜線,京義線の3線である(図4①)。「鉄道町」の立地についてみると,まず港湾型・内陸型の2つがある。また,既存集落との関係によって,既存集落混合型・既存集落隣接型・開拓型(新町)の3つのタイプを区別できる。そして,鉄道線路と既存集落,新町との位置関係について,線路挟んで両側に既存集落と新町が形成されているもの,線路と既存集落の間に新町が形成されるもの,鉄道駅と新町が既存集落と離れているものの,3つのタイプを区別できる。

テキスト ボックス:    
図4② 鉄道官舎 7等級甲乙
 「鉄道官舎」は,多種多様であったが,基礎となり基準となったのは,京仁鉄道株式会社,京釜鉄道株式会社,臨時軍用鉄道監部による3つの系統である。それらは「朝鮮総督府鉄道局」の標準設計図に集約されていく。大きく,一戸建て型,二戸一型,マンション(集合住宅)型,独身者宿舎型の4つのタイプに分けられる。一戸建て型は,3等級官舎や4等級官舎,そして5等級官舎の一部に用いられた。高級職員向けで,組石造である。最も多く建設されたのは二戸一式型で6等級,7等級甲,7等級乙,8等級官舎として採用された。木造軸組構法で,外装は土壁漆喰塗り,または,板張りで,屋根にはセメント瓦が使われた。このスタイルが「日式住宅」の原型である。

朝鮮半島には,「オンドル」と呼ばれる伝統的な床暖房方式がある。しかし,日本が持ち込んだのは畳の部屋であった。「オンドル」については,朝鮮半島の厳しい冬の気候に対応するために,逆に「鉄道官舎」に用いられる。

「鉄道官舎」は,解放後も鉄道関係の韓国人によって居住し続けられるのであるが,1970年代から1980年代にかけて一般に払い下げられることになる。共通に見られるのが「出入口(玄関)」の変化である。植民地時代に建てられた「鉄道官舎」は,ほとんど全てが北入りであった。しかし,北からの出入りは,韓国の生活慣習には受け入れられず,南入りに変更されるのである。そしてこの出入口の変化は,「鉄道官舎」の空間構成を大きく変えることにつながる。まず,南側に設けられていた庭が「マダン」に変わる。「マダン」も庭と訳されるが,鑑賞主体の日本家屋の庭とは違って,作業も行われる様々な機能をもった多目的な空間が「マダン」である。「マダン」によって,居住空間の構成は,大きく「道路-玄関-「廊下」-部屋-庭」から「道路-「デムン」-「マダン」-玄関-「ゴシル」-各室」へというかたちに変化する。ここで内部に出現した「ゴシル」は,現代的「マル」といってもいいが,吹きさらしの「マル」ではないから,伝統的住宅には無かったものである。

一方,「日式住宅」の要素で,韓国の現代住宅に受け入れられていったものもある。「襖」「続き間」「押入」などがそうである。韓国の一般的な住宅は,部屋の面積が狭く,「押入」のような「収納」空間は設ける余裕がなかった。「オンドル」を用いてきたためでもある。「襖」によって2つの部屋を1つに繋げる続き間は,一部屋当たりの面積が少ない韓国の部屋の問題点を解決した重要な工夫となる。

 韓国の伝統的住宅では,「アンバン」と「コンノンバン」の間の「デーチョンマル」は「マダン」と同様,多様に使われ,特に,法事などの祭事は「デーチョンマル」と「マダン」を利用して行われるなど,極めて重要な空間であった。しかし,「デーチョンマル」のような一定の広さをもつ空間を確保できなくなると,都市住宅では,「鉄道官舎」で導入された「日式住宅」の空間要素である「続き間」が用いられるようになる。「ゴシル」と「アンバン」の間に取り外せる襖を設置し,2つの空間を繋ぐことで,法事などの家庭の行事を行うようになるのである。現在,「続き間」は,都市住宅を始め,農漁村の田舎の住宅まで広く使われている,「日式住宅」の空間要素がして受容された代表的な空間が「続き間」である(図4③)。テキスト ボックス: 図4 ③ 日誌機銃宅の変容

 

5 日式住居の変容

「日式住宅」の導入によって韓国の住居は大きく変化した。玄関の出現,便所と浴室の屋内化,台所の変化,押入と続き間などの設置などは,「日式住宅」が大きな影響を与えている。一方,韓国の伝統的住宅本来の機能を保ち続けている空間要素もある。代表的なのは,出入口の位置,「マダン」「ゴシル」の出現と部屋の配置である。また,道路の「ゴサッ」化など外部空間の利用方法である。

① 出入口の位置

植民地時代に建てられた「鉄道官舎」は,ほとんど全てが北入りである。北側からの出入は,「鉄道官舎」だけではなく「朝鮮住宅営団」の公営住宅や解放以後建設された大韓住宅公社,ICA住宅,国民住宅の初期モデルにも採用されている。しかし,この北側からの出入は受け入れられず,1960年代前後からはほとんどの住宅で正面入口として南側に出入口が設けられるようになる。北入りの配置は,韓国の生活慣習には受け入れられなかったのである。

三浪津,慶州,安東の旧「鉄道官舎」では,北側にあった出入口のほとんど全てがその位置を変更している。南側への出入口変更が最も多く,地形的な理由で南側に設けられない場合には,東あるいは西側に設ける。当然,出入口の位置変更によって玄関の位置も「デムン」のある位置に移動される。

韓国の伝統的住居空間では,基本的に南入口を重視してきた。すなわち,寒い冬場に北側からの厳しい風を遮断するため,また,敷地と面している畑などに繋げる勝手口の利用のため,さらには,法事の時,先祖の霊が通る死者の通路と認識されているため,北側以外に出入口を設けるのが一般的だったのである。

②「マダン」

居住空間の変容としては,出入口の位置の変更,庭の「マダン」への転用,主屋の増改築,別棟の増築などが重要である。

出入口は,北側から南側へと位置変更が行われると共に「デムン」という名称に変わる。南側にあった庭は多用途空間である「マダン」に変わる。そもそも「マダン」は,韓国の住居の中心空間であり,各棟を連絡させる空間である。全ての「マダン」は,主屋の前面(南側)に位置し,付属棟によって囲まれL字型,コ字型,ロ字型の構成を採り,各棟を連絡している。

一方,「鉄道官舎」では,「マダン」ではなく庭としての機能が与えられた空間が主屋の南側に設けられていた。そして払下げ以後,出入口の位置変更と共に全ての住宅で庭が「マダン」へと変えられる。

こうした庭の「マダン」への転用は,単なる空間の位置や形態の変化ではなく,その空間の機能と意味の違いによる変化である。すなわち,「鉄道官舎」の主屋の南側に設けられた庭は本来室内から眺め楽しむ空間であり,様々な植物を植えるなどの庭園的空間であったが,多様な作業ができる,オープンな多目的空間としての「マダン」へ,陰陽思想の位置づけとしては陽の空間へ変化するのである。住宅に関わる陰陽思想によると,主屋が陰の空間で,「マダン」が陽の空間である。陰と陽の間の円満な循環を図っているためには,「マダン」に植物を植えることや,大きい物を置くなどはよくないとされてきたのである。「鉄道官舎」に導入された庭のような空間は,韓国人の生活習慣にはあまり適合しなかったと考えられる。

③「ゴシル」の出現

「鉄道官舎」は,中廊下によって部屋を繋ぐ中廊下式住宅である。こうした中廊下の形式は,解放後も1960年代まで使用される。しかし,通路の機能を持った中廊下は,「デーチョンマル」を中心としてきた韓国人の生活習慣にはあまり浸透せず,中廊下を拡張することで「デーチョンマル」の代わりとなる「ゴシル」が創出されることになる。

「デーチョンマル」によって2つの部屋が分離されていた伝統的な韓国住宅は,「ゴシル」の出現と共に,「ゴシル」を中心とし,各部屋が「ゴシル」に面する構成へと変化した。外部空間としての「マダン」は主屋を始め各棟と接している。そして内部空間に「デーチョンマル」の代わりの空間として表れた「ゴシル」は,主屋の中で部屋は勿論台所,ユニットバス,「チャンゴ창고」に直接面し,内部空間の動線をコントロールしている。「ゴシル」は,動線のコントロールだけではなく家族の食事空間,法事,団欒の空間などに使われる複合的な機能を持っている。

以上のように,現代版の「マル」であるゴシルは,韓国住宅において複合的な機能を内在化する独特な空間となるのである。

④道路の「ゴサッ」化

「鉄道官舎」地区は,各宅地が副道路によって囲まれ,「ゴサッ」を創る配慮は全くなされていない。それは,「鉄道官舎」地区だけではなく全国の住宅地でも同様である。街路の「ゴサッ」化は,「鉄道官舎」地区に限らず,韓国の各都市の居住地で見られる。「ゴサッ」は,失われつつあるコミュニティ空間の代償であると考えられる。


2023年7月18日火曜日

植えつけられた都市–植民都市計画とその影響,都市計画特集「平和と都市計画」,都市計画学会,200508 25

植えつけられた都市–植民都市計画とその影響,都市計画特集「平和と都市計画」,都市計画学会,200508 25

植えつけられた都市 The Cities Planted

植民都市計画とその影響

 Colonial City Planning and its Influence

布野修司

 This article discusses the problematique on colonial cities based on our research work ‘Field Research on Origin, Transformation, Alteration and Conservation of Urban Space of Colonial cities’, the outcome of which were published as a book titled “Modern World System and Colonial Cities”. Modern colonial cities planted by western countries are classified into several types but basically spatial installations to dominate natives and local resources. Considerations are lastly leaded to the thesis ‘All cities are in a way colonial’.

 

 

インド洋大津波の日(20041226日)をスリランカのゴールGalleで迎えた。ゴール周辺で亡くなった人は約2,000人、たまたまゴール・フォートの中に居て命拾いした。振り返って、さらにTVなどで現場の映像を見て、改めてゾーッとする経験は未だに夢のようである。その顛末はもとめられるままに書いた別稿[1]に譲るが、つくづく思うのは、ゴールという要塞都市を築いた、低地、湿地、港市を得意としたオランダの築城術のすごさである。1988年に世界文化遺産に登録されたゴール要塞の城壁は津波にびくともしなかったし、城門から浸入した、あるいは城壁を飛び越えて城内を襲った海水はあっという間に引いて、要塞内に居た人々は全員無事であった。要塞内では400年前の排水システムがものの見事に機能したのである。大きな被害を受けたのは陸地側に広がる新市街地である。

この間、「植民都市の起源・変容・転成・保全に関する研究」と題した、オランダ植民都市をターゲットとする植民都市研究を展開してきた。ゴールに居たのは、その調査研究の一環であった。

今日発展途上地域におけるほとんど全ての大都市は植民都市としての経験をもっている。植民都市の歴史とプライメイト・シティ(単一支配型都市)、「過大都市化」の関係は様々に論じられてきたところである。一方、植民都市にはもう一つの重要な類型が存在する。植民地化の早い時期に商館都市として建設され、以後の植民都市拡大また独立以後の都市化の過程において重要な都市核として機能を果たし続けてきた植民都市の存在である。いわば、現代都市に埋もれた植民都市である。そこで浮かび上がってくるのがオランダ植民都市であり、ゴールもそのひとつである。

近代植民都市の全体について、そして具体的な事例については、『近代世界システムと植民都市』[2]に委ねることとして、ここでは、「平和」、「暴力」、「戦争」といった言葉に導かれながら、植民都市あるいは植民都市計画の本質をめぐっていくつかの考察を行いたい。

 

コロニア

植民地colonyあるいは植民都市colonial cityという言葉は、もともと古代ギリシャ・ローマにおいて、植民あるいは移住によって建設された居住地あるいは都市を意味する。すなわち、ラテン語のコロニアcoloniaに起源をもち、colony(英語)colonie(仏語)kolonie(独語)として広く用いられるようになった[3]人口過剰、内乱、新天地での市民権の確保、軍事拠点の設営などが植民都市建設の理由である。そもそも戦争、すなわち土地の占有に関わる争いごとと密接に関わる。すなわち、植民都市は、単なる移住地というより、ある集団が土着の集団を政治的、経済的、社会的、文化的に支配するために建設する都市を一般的にはいう。処女地に新たな都市として建設される場合も、土着の社会、後背地との間に支配-被支配の関係があり、一定の領域を支配するために既存の都市、集落を奪取、占拠することによって建設されることが多い。

いわゆる「地理上の発見」以降、西欧諸国が海外に建設した近代植民地の場合、支配-被支配の関係は明快である。もちろん、直接的に領土支配を行う場合に限らない。植民地化の「帝国主義的段階」において、「植民地帝国」として問題とされるのは、直接支配する「公式の帝国」のみならず、間接統治、二重統治などが行われる「非公式の帝国」も含めた支配―被支配関係である。西欧列強の進出を受けた地域は、保護国、保護地、租借地、特殊会社領、委任統治領などの法的形態を問わず植民地と呼ばれる。

 

近代植民都市

古来、人類は大規模な移動を繰り返してきたが、15世紀末以降、世界全域にわたった西欧列強による海外進出ほど大規模なものはない。世界中に植民都市を建設し、支配したのは、少数のヨーロッパ人であり、白人(コーカソイド)であり、キリスト教徒である。そして、植民地建設の中核を担ったのは奴隷貿易である。19世紀中葉以降に世界は「大量移民の時代」を迎えた。

植民地化の段階、産業化の段階、そして、脱植民地化の段階あるいは交易期、植民地期、新植民地期、脱植民地期といった「近代世界システム」の形成を追いながら、西欧列強の植民地と植民都市のネットワークの形成を順に位置づければ、およそ以下のようになる。

1.領域支配を含まない交易拠点のネットワークを形成したのが、ポルトガルのインディアス領である。ポルトガルは、明らかにアブー=ルゴド[4]のいう「13世紀世界システム」(の崩壊)をベースとしていた。

2.土地支配を含み、土着文化の徹底的破壊の上に一定の西欧理念に基づく都市を建設したのがスペインである。スペインの場合、ヨーロッパ世界の拡張と見なせるだろう。スペインは「世界帝国」になることに失敗するのである。そして、

3.沿岸部の港市都市をベースとし、土着社会を取り込む形で、多様な移住者を含み込む形で植民都市の原型を形づくったのがオランダである。オランダは、こうして最初のヨーロッパによるヘゲモニー国家となった。この段階では、しかし、地域内交易がベースであった。そして、1.~3.のシステムの重層の上に、

4.内陸部へ侵攻し、巨大な領土支配に及んだのがイギリス、フランスの二大植民地帝国である。そして、

5.7年戦争を制し、産業革命を契機として、オランダのヘゲモニーを奪ったのがイギリスである。

植民地権力の特質、移住集団の構成とその支配イデオロギーは個々の植民都市の特性に関わる。また、植民地化される社会の特質、民族学的、社会学的構成も植民都市の特性を左右する。宗主国と土着の地域社会の相互関係によって植民都市の類型を考えることができる。

 植民地化の手法や組織は、ポルトガル、スペイン、オランダ、フランス、イギリスなど西欧列強によって異なる。土着の社会についてのアプローチは、まず布教をめぐって、ローマ法王の超越的権威への服属を求め各地の文化的、精神的権威を認めないカトリシズムと個人の自発性を重視し、各地の文化や言語に距離を置いたプロテスタンティズムの違いがある。植民地の統治政策についても、間接統治、二重統治方式をとったオランダ、イギリスと副王による直接支配によったポルトガル、スペイン、そして「同化」政策を採ったフランスとでは大きく異なる。土着の社会についても、各地域の都市的伝統の度合いによって、すなわち例えば、都市的伝統の薄いサハラ以南のアフリカや南北アメリカの大半と長い都市的伝統をもつインドや中国とその周辺地域、またイスラーム圏とでは、植民都市のあり方は異なる。スペインは、高度な都市文明を誇ったアステカ帝国、インカ帝国を徹底的に破壊した。また、インディオの社会を絶滅させるに至った。インディアス法にまとめられるかたちで、極めて画一的に西欧都市計画の理論を適用しようとしたのがスペインである。

南アフリカ、中央アフリカでは、都市的生活とは白人的生活を意味するほどであった。要するに、ほとんどの都市はヨーロッパ人によって初めてつくられるのである。また、ポルトガルが西アフリカや中央アフリカで土着の都市を破壊したように、東アフリカの、アラブ起源の都市の多くもヨーロッパ人によって無視された。そして、アフリカ大陸からの黒人の大量移住によって南北アメリカとアフリカの社会は世界史的大変動を被った。

世界資本主義システムの展開が各地域を平準化していく過程においても、様々な点で地域差が存在するのは植民地化以降の過程における以上のような差異が複雑に絡み合っているからである。

 

火器と攻城法

何故、西欧列強が世界中に植民都市を築き、世界を支配することになったのか。その大きな要因のひとつは「火器」である。航海術、造船技術、測量術、築城術、・・・など、要するに「火器」に象徴される科学技術である。

西洋の城郭は古代ローマ帝国の築城術等を基礎として発達してきた。12世紀から13世紀にかけて、十字軍経由で東方イスラーム世界の築城術が導入され、またビザンツ帝国の築城方式の影響も受けて、西洋の築城術は15世紀には成熟の域に達していたのであった。しかし、中世の終わり頃にヨーロッパにもたらされた火薬と「火器」、「火器」装備船の出現による戦争技術の変化は、要塞や城塞の形態を変える。すなわち、馬に乗った騎士による戦争の時代ではなくなり、中世の城が役に立たなくなるのである。

新しい火器、大砲の出現によって都市が弱体化する15世紀までは、攻撃よりもむしろ防御の方が、ヨーロッパにおける城塞、都市、港湾、住居の形態を決定づけていた。川や谷、戦略にとって大事な地点を見渡せるように、土手や丘や山脈の上に要塞都市は造られた。丘の上につくられた街は、円形や矩形の塔、櫓が建ち上がっている厚い壁によって守られ、跳ね橋や、吊し門や、石落とし装置付きの入口門が設けられた。ヴェニスやブルージェやジュノヴァのような水の都の市壁は海面や湖面から直接立ち上げられていた。

ヨーロッパで火薬兵器がつくられるのは1320年代のことである[5]。火薬そのものの発明は、もちろんそれ以前に遡り、中国で発明され、イスラーム世界を通じてヨーロッパにもたらされたと考えられている[6]。火薬の知識を最初に書物にしたのはロジャー・ベーコンである[7]。戦争で最初に大砲が使われたのは1331年のイタリア北東部のチヴィダーレ攻城戦で、エドワードⅢ世のクレシー(カレー)出兵(1346)、ポルトガルのジョアンⅠ世によるアルジュバロタの戦い(1385)などで「火器」が用いられたことが知られるが、戦争遂行に「火器」が中心的な役割を果たすのは15世紀から16世紀にかけてことなのである。決定的となったのは、15世紀中頃からの攻城砲の出現[8]である。

ヨーロッパで火器が重要な役割を果たした最初の戦争は、ボヘミヤ全体を巻き込んだ内乱、戦車、装甲車が考案され機動戦が展開されたフス戦争(14191434)である。続いて、百年戦争(1328371453)の最終段階で、大砲と砲兵隊が鍵を握った。そして、レコンキスタを完了させたグラナダ王国攻略戦(1492)において大砲が威力を発揮した。こうして火器による戦争、攻城戦の新局面と西欧列強の海外進出も並行するのである。植民地建設の直接的な道具となったのは「火器」であった。

 

植民都市の類型

植民都市が支配-被支配(中心-周縁)関係の媒介(結合-分離)空間であり、異質な要素の重層的複合空間であるとすれば、空間の分離のあり方にまず着目する必要がある。極めてわかりやすく本質的なのは、城壁、市壁など居住地を限定づける境界のあり方である。都市のフィジカルな構成という観点からすると、ロッジ、商館、要塞、城塞、市街というように、様々な呼び方によって区別されるように、そのうちに含む要素によって、植民都市の規模やレヴェル、段階を区別することができる。

O ロッジ lodge

 商館 factory

B 要塞化した商館あるいは商館機能を含む要塞 fortified factory

C 要塞 (+商館)fort(+factory)+集落settlement

 要塞市街 fort+city

 城塞 castle

 城塞市街 castle+city

Aは、交易のみのための最小限の施設である。ポルトガルの最初期の交易拠点は商館のみが置かれるだけのものが多い。専用の商館をもたないロッジの段階Oをこれ以前に区別できる。ロッジは、沿岸部の交易拠点ではなく、内陸の地方市場に設けられたものをいう。F.S.ハーストラは、ロッジ、商館の発展段階を、①土着物産の購入と積み出しの段階、②商品を予約注文し、積み出しまで保管する段階、③商品の供給者に前渡金を供与し、生産管理行う段階、④物産を全て掌中に握る段階に分けている[9]

商館も現地社会との関係によって防御設備が必要となる。A、Bの区別は必ずしも明確ではないが、要塞の内部に商館機能を含むかどうかで基本的にCとは区別される。要塞とは別に商館が設けられることも少なくない。要塞は戦闘を前提にした防御施設である。基本的には軍隊あるいは兵士が常駐する。平時は使用せず、有事に立て籠もるかたちもある。

商館あるいは要塞の周辺にヨーロッパからの移住者のみならず各地からの移民や現地民などが周辺に居住し始めると、宣教、教化のための教会や修道院など諸施設が建てられる。そして市街地が形成され、全体が市壁で囲われたものがDである。港湾に立地する植民都市の場合、市街によって要塞が囲まれる形より、要塞と市街が連結した形態をとることが多い。そして、要塞と市街が一体化したのがEである。CとEの違いは単に規模の違いではなく、内部に居住区を含むかどうかの違いである。さらにその外郭に一般人(あるいは現地人を含めた)居住地が形成されるのがFである。単純な分類であるが、さらに、既存の集落、現地住民の居住区との関係でさらに分類できる。さらに、全くの処女地に計画されたものと既存の都市ないし集落を基にして建設されたものを区別することができる。オランダの植民都市はマラッカやセイロンの各都市などポルトガルの城塞を解体再利用したものが少なくない。

植民都市という場合、一般的にはD~Fがそれに当たる。しかし、既存の都市あるいは集落にA~Cが付加される場合、それも植民都市と呼べるだろう。都市の起源、その本質をどう規定するかが問われるが、市(マーケット)の機能をその本質的要素とするなら、たとえ商館ひとつの建設でも都市成立の条件とはなる。また、攻撃に対する防御機能を都市の本質と考えれば、要塞の建設は都市建設の第一歩である。

数多くの植民都市の事例を見ると、A→Fは歴史的に段階を踏んで推移するように思われる。また、理念的にもA→Fの過程は、必然的なものとして想定できる。

 

植えつけられた都市

植民都市の本質は、それが自らの社会とは異なった社会に移植されることにある。植民都市は、まさに、「植えつけられた都市」である。植民都市の本質はまさに「植民」にある。キーワードは、「プラントplant」あるいは「プランティングplanting」である。

コーヒーやサトウキビなど植物を植えつけること、そして、その栽培のための労働力として人々を植えつけること、すなわち、都市を植えつけることが植民地建設である。

単なる移住、移動、移植ではない。人や物が世界規模で移動し始めたことが決定的である。一定の地域で、物の生産、流通、消費が完結していた自給自足的世界、「60日経済」といわれる経済規模であった「ヨーロッパ世界経済」をはるかに超える「遠隔地」が世界経済に繰り込まれるのである。資本蓄積の原動力となるのは「格差」である。あるいは、圧倒的な「量」である。「遠隔地」貿易による時間差、賃金格差、物価、世界資本主義システムは、あらゆる格差を価値増殖に繰り込むシステムである。植民都市はそのシステムを稼働し続けるための装置として建設されたのである。

産業革命によるコミュニケーション手段の「進歩」はそれまでの植民都市の形態を根本から変える。蒸気機関車、蒸気船の登場は植民都市の歴史の上でも決定的であった。鉄道は、港市における植民都市から内陸への展開を可能にした。また、これまでの港市植民都市も港湾の大改造とともに大規模な再開発が必要となった。そして、急速な都市化と都市膨張のために、共通に過密居住による衛生問題、住環境整備の問題、都市基幹設備の問題が課題となった。世界中の現代都市は、そして都市計画は、今日に至るまでその課題を引き継いできている。

脱植民地期において、かつての植民地に巨大都市が次々に出現していった。とりわけ、注目されたのがプライメイト・シティ(首座都市、単一支配型都市)の存在である。「過大都市化」、「工業化なき都市化」といった概念で、その異常、その西欧モデルからの逸脱が論じられてきたが、巨大都市化の動向はさらに拡大しつつある。世界システムのさらなる展開は、世界中の都市を連動させつつあるのである。「拡大大都市圏EMRExtended Metropolitan Region)」の出現は、世界資本主義システムの加速的展開、グローバリゼーションの進展と情報ネットワーク社会の浸透と関係している。

 

あらゆる都市は植民都市である

『植えることと計画すること---英国植民都市の形成』[10]において、R.ホームは「全ての都市はある意味で植民都市であるAll cities are in a way colonial」という。I.ウォーラーステインの世界システム論が焦点を当てる世界経済の展開と植民都市の関係こそが主題であるが、それ以前にこのテーゼが前提とするのは、都市を本質的に権力との関係においてとらえる理論である。R.ホームが「都市は、農業の余剰生産物を集積し、サーヴィスを提供し、政治的管理をおこなうために、ある集団が他の集団を支配することによって生み出されるのである」という時、余剰生産物は藤田弘夫のいう「社会的余剰」[11]である。都市は、そもそもその成立、起源において権力の発生と結びついており、「都市は、巨大な権力が目的を達成するために、特定の場所に拠点を設け、そこに目的達成のための施設を建設するなかで形成された」のである。そうした意味で、植民都市は、都市の本質を露わにする都市である。

重要なのは、植民都市という概念が二重の権力関係、支配-被支配関係を含んでいることである。すなわち、都市と農村との支配-被支配関係のみならず、宗主国と植民地、あるいは、ある社会と別の社会との支配-被支配関係の二重の関係において植民都市は成立するのである。この二重の関係性が植民都市の本質に関わる。都市は、歴史的には、地理的に限定された社会において、農業生産物の余剰を奪取し、サーヴィスを提供するために、ある集団が他の集団を支配する権力の働きによって生み出される。そして続いて、その社会の内部に、さらに余剰を作り出し、搾取し、政治的支配を強化する手段として、別の都市が植えつけられる。これが植民都市である。さらに、この論理は、交通手段の発達によって、ある社会の境界を越えて他の領土を組み入れる過程にも拡大される。こうして、植民都市は、現地人に対する支配を確立し維持していくための道具となるのである。



[1] 拙稿、「ツナミ遭遇記」、『みすず』、みすず書房、2005年3月

[2] 布野修司編著、『近代世界システムと植民都市』、京都大学学術出版会、2005年。

[3] ギリシャ語では、植民都市はアポイキア apoikiaといった。

[4] Abu-Lughod, Janet L., ”Before European Hegemony: The World System A.D.1250-1350”, Oxford University Press, 1989. ジャネット・L.アブー=ルゴド、『ヨーロッパ覇権以前:もうひとつの世界システム』、佐藤次高・斯波義信・高山博・三浦徹一訳、岩波書店、2001

[5] バート・S・ホール、『火器の誕生とヨーロッパの戦争』、市場泰男、平凡社、1999. 火器がいつ出現したかについては議論があるが、1320年代にはありふれたものになっており、guncannonといった言葉は1930年代末から使われるようになったとされる。 

[6] 文献上の記録として、火薬の処方が書かれるのは宋の時代11世紀であるが、科学史家J.ニーダムらは漢代以前から用いられていたと考えている。ロジャー・ベーコン、『芸術と自然の秘密の業についての手紙』(1267)。

[7] ロジャー・ベーコン、『芸術と自然の秘密の業についての手紙』(1267)。

[8] 攻城砲を用いた典型的な戦例となるのがイタリア戦争(14941559)である。16世紀前半、イタリアはヴァロワ家とハプスブルク帝国との間の戦場となったが、フランスのシャルルⅧ世の軍隊は機動的な青銅砲と鉄の砲弾を搬送して、イタリアに乗り込み、中世の城郭を次々と撃破した。それまでの攻城戦では、籠城側は人馬だけを拒否すればよく、籠城側が有利であったが、大砲の出現はこれまでの立場を逆転させる。

[9] Gaastra, F.S., “De Geschiedenis de VOC, Walburg Pers, 1982, 1991.内容はほぼ同じであるがカラー図番を加えた新装版が2002年に出版された。

[10] Robert Home: “Of Planting and Planning The making of British colonial cities”, E & FN Spon, London, 1997:『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』、ロバート・ホーム著:布野修司+安藤正雄監訳、アジア都市建築研究会訳,京都大学学術出版会,20017

[11] 藤田弘夫:『都市の論理 権力はなぜ都市を必要とするか』、中公新書、1993









 

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...