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2024年12月5日木曜日

田島喜美恵、都市・建築の再生と建築計画—韓国ソウルの清渓川復元と近・現代建築— 建築計画委員会春期研究集会報告 、建築雑誌、20080703

 2006/07/03 KIMIE TAJIMA

都市・建築の再生と建築計画韓国ソウルの清渓川復元と近・現代建築

建築計画委員会春期研究集会報告

 

滋賀県立大学 布野修司教授が今年の4月から建築計画委員会委員長に就任し、最初の行事として、62日〜4日、韓国ソウルにて建築計画委員会春季研究集会が催された。

 

■企画準備

布野先生は京都大学から滋賀県立大学に移籍され2年目の現在、布野研究室には日本人学生だけでなく、韓国、スペイン、タイ、などからの留学生が机を並べ、研究内容も国際的なものが多い。

「日本で小さくやるよりは、海外で小さくやる方がいい」との布野先生の考えから、10人位の小さな団体で視察を中心にした研究会をということで具体的に企画立案された。しかし予想に反して、日に日に増える参加者は、最終的には52名にまで膨らんだ。

海外で建築計画委員会をするのは初めてのことで、難しい面も予想されたが、資料の準備では布野研究室に在籍する客員研究員の朴重信氏、博士課程の趙聖民氏を中心に、ワーキンググループを作り、日程や宿の手配、資料作りを研究室でおこなった。

当初、資料はペラ数枚をホッチキスで留める簡易な資料を考えていたが、日に日に頁数は増え59頁の立派な冊子になり、単なる旅行の栞としてではなく、韓国建築資料としてレベルの高い内容になった。

春季研究集会より一日早い61日に、布野先生、朴氏、私は関西国際空港から韓国に向かった。2001年に開港した仁川空港(設計:テリー・ファレル)は、飛行機をイメージした近未来的な雰囲気を持つ。空港からリムジンバスに1時間程揺られソウル市内に入った。タワーホテル(設計:金寿根)に荷物を置き、漢陽大学の朴勇換先生の研究室にお伺いし、御挨拶と翌日のシンポジウムの打合せ等を行った。

 

シンポジウム(62日)

『都市・建築の再生と建築計画韓国ソウルの清渓川(チョンゲチョン)復元と近・現代建築』シンポジウムを漢陽大学にて催した。韓国の学生、日本の学生が会場準備をし、滋賀県立大学 山根周講師が司会を務め、通訳を朴重信氏と趙聖民氏が務めた。最初に布野先生から開会の挨拶と本会の主旨と経緯の説明があり、大韓建築学会副会長 崔璨煥チェチャンファン)先生の御挨拶、続いて、大韓建築学会計画分科の徐鵬敎(ソブンギョ)先生の御挨拶を頂き、続いて3人の先生からご講演頂いた。

 

1)『韓国における建築計画の現状』:漢陽大学 朴勇換教授

本シンポジウムのプロローグとして、最近のソウルの建築事情として、外国の建築家とパートナーシップを組み建てられた建築と超高層住宅をざっと一流れで説明。高層住宅では低層部はマーケットやオフィスとして使われていて、中層、高層部は住宅になっている場合が多く、現在のソウルを象徴する風景になっている。

 

2)『近代化遺産の保存と再生』:清州大学 金泰永教授

ソウルの都市生活には近代建築が溶け込んでいる。韓国の1930年代の有名な小説の主人公の行動を引き合いに出しその雰囲気をあらわす。

具体的な活動として1990年から近代建築の記録化事業を始め、現在239件登録文化財があり、その内容は戦争関連施設、産業施設、公共施設、最近では共同墓地も登録されることになり、特にその中に宿泊施設は30を占める。保存修理の実例として、明洞聖堂、ソウル市立美術館などを説明され、またこういう動きの一方で、近代建築の修理基準を撰定するための活動もしている。また、韓国docomomoの活動を紹介した。

京都大学の客員教授時代、京都の町家に感動し、昔のものという要素としてだけではなく、現代建築においても意味のある要素があると感じ、それが今の活動の根底にある。

 

3)『韓国における都市再生の試み(清渓川復元)』:ソウル市住宅局 許煐局長

清渓川は元々、ソウルを流れる河川だった。水量はそれほどなかったことから、人口が増えるに従って水質は汚染され衛生的に問題視されるようになった。1910年代頃から浚渫工事を始め、川にコンクリートの蓋を被せ始めた。1958年に本格的に蓋をする工事を始め、1976年から高架道路工事を始めた。近年その高架道路も痛みが激しく、安全とは言えない状況になった。清渓川の周りの商店街も老朽化していた。

20021月、選挙に清渓川を復元することを公約に掲げた、民間企業出身の市長が誕生した。その日から事業が始まった。ソウルは都市としての競争力、文化を持つために、開発というイメージよりは、暮らしの質を高める、自然環境にやさしいということをコンセプトに掲げた。

復元工事を着手するにあたり、市民、清渓川は商店街が多く軒を列ねている商業者との間で、4000回以上の話合いが行われ、意見を反映させた多くの対策が作られた。

高架道路を撤去し復元した川の長さは5.85km3つのセクションに分けて工事を行った。また工事の際に発生した廃材約68万トンのうち約96%をリサイクルした。清渓川は、普段は水量が少ないが、雨季になったら洪水がおこる特性があることから、記録されている200年周期の降水率を元に、川の設計を行った。現在、漢江の12万トンの水と、毎日湧き出る22千トンの地下水を利用して、清渓川には一日につき142000トン(平均水深40cm)の水が流れている。

人の憩いの場としての親水機能はもちろん、緑を豊富に取り入れ、魚や鳥や虫などの生きものが生活できる自然の生態環境を作り出している。また清渓川は照明計画を綿密にして、夜の清渓川の風景も考えている。

最も危惧されていた、高架道路を撤去してしまうとソウル市内の道路が大混雑するのではないかという問題は、結果的に公共交通機関を使う人が増え、市内全体の車両交通量が減り混乱は起きなかった。

200511月の世論調査において、夏が涼しくなり、空気がきれいになり、車の騒音がなくなったなど、ほとんどの市民が環境が良くなったと答えている。経済的にも活性し、また不動産価格も復元後には2.5倍近く値上がった。

公共事業の中で行政と市民が話合いで多くの問題を解決しながら事業を行った良い例になった。

<シンポジウム写真2枚>

 

シンポジウム終了後、漢陽大学の構内にあるレストランに場所を移して、懇親会が催された。立派なレストランで、食事も豪華なものだった。千葉大学 宇野求教授、東京大学 松村秀一教授など参加者の先生方のスピーチなどもあり、華やかな懇親会となった。

 

 

視察(63日)

・徳寿宮(ドクスグン)とその周辺の近代建築

徳寿宮の周りには、多くの近代建築がある。朝の気持ちのよい時間に散策しながら徳寿宮を始め、韓国聖公会ソウル大聖堂、貞洞第一教会、ソウル市立美術館をまわる。

徳寿宮の大漢門では、当時の王宮守備隊の交代式の再現がされ、華やかな宮廷文化を垣間見ることができる。韓国聖公会ソウル大聖堂はロマネスク様式で十字型平面を持ち、壮観な姿をほこる。貞洞第一教会は木造のモダニズム建築で、教会の方が丁寧に説明くださり、この教会を美しく保存するために努力を惜しまない姿勢が感じ取れた。ソウル市立美術館は、裁判所をコンバージョンして誕生した現代美術館で、ファサードを残し内部は大胆な改築を施している。

<ドクスグン大漢門交代式写真1枚>

<ソウル市立美術館写真1枚>

清渓川(チョンゲチョン)

清渓川は、東京の日本橋問題の件でよく引き合いに出されることもあり、以前から個人的に非常に興味があった。前日の講演を受けてさらに興味が湧いた。週末ということもあり、家族連れが水遊びする姿、川魚が泳ぐ風景を眺めていると、つい最近まで高架道路だったとは思えない。ランドスケープとしてもとてもよくデザインされている。

<清渓川写真2枚>

昌徳宮(秘苑)

600年前に建立された昌徳宮は、特に造園が興味深い。作り込む庭ではなく、できるだけ原林を活かし、作意を感じさせないように作られている。その風景に溶け込むように建物が点在している。

ソウル北村 

都市型韓屋が多く残るソウル北村は、細い坂道を挟むように韓屋の背の高い塀が連なっている。塀や門扉はそれぞれ表情があり、不思議と圧迫感はそれほど感じない。

韓屋の博物館を観覧した。門扉を潜ってすぐマダン(中庭)があり、オンドル(床下暖房)も見られた。実際の韓屋の住まわれ方など、さらに興味が湧いた。

<ソウル北村写真1枚>

 

視察(64日)

・サンスン財団リウム美術館

住宅地と山に挟まれる敷地に、レム・コールハスの児童文化センター、マリオ・ボッタの古美術館、ジャン・ヌーベルの現代美術館、三つの建築が中庭を囲む形で配置計画されている。この美術館はまず、展示物の内容が良く面白い。展示物の内容を考え、それに沿ったデザインがされている。現代のソウルを象徴する美術館になっている。

<リウム美術館写真1枚>

ソウルの森

トゥッソムに位置するソウル森は元下水処理場である2005年オープンしたソウルの森は、市民と行政が一緒に作ることを主体とし、幾度もワークショップや話合いが行われた。約115万平米の敷地内に5つのテーマを構成している。多くの人で賑わい、レンタサイクルで公園内を走る人の姿も多くみられた。

<ソウルの森写真1枚>

 

 

まとめ

『建築計画学のあり方をめぐっては、今日様々な問題が指摘されますが、建築計画学を志した1970年代初頭、既に、例えば、縦割り研究、研究(のための研究)のマンネリ化という限界は指摘されていました。それは克服されたとは言えないと感じていますが、一方、果たすべき役割はあるのではないかと強く思います。とりわけ、グローバルな視野において、建築計画学をみると、その方向が見いだせるのではないか、という直感があります。特に、アジアについては、日本建築学会としても、JAABE(英文論文集)、ISAIA(国際アジマ建築交流シンポジウム)があります。建築計画委員会としても、積極的に関わりたいという思いが、今回の企画の背景にあります。』(2006年日本建築学会建築計画委員会春季研究集会 資料集/滋賀県立大学布野研究室)

資料冊子の冒頭頁の布野先生の挨拶は、これからの建築計画学の方向性を示唆していて興味深い。この最初の一歩としての今回の研究会はおのずと布野先生の意気込みを感じ、その通りに実りのある会になった。

私は生まれて初めて韓国の地に立った。右も左もわからずに、先生方の後をとにかく追って行く事しか出来なかった。帰国してすぐに韓国に関する本を読んで、特にその住環境に興味を持った。今度、韓国に行く時は、是非、住居を中心に見てみたいと思う。おそらく多くの参加者も何かしらの示唆を得ることができたのではないだろうか。

建築計画学委員会の課題は決して少なくないが、本研究会でひとつひとつ乗り越えていけるだけのエネルギーを感じることができた。今後の建築計画学委員会の発展を予感させられてならない。

<集合写真1枚>

 

 

 

写真計10

総文字数4400