https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/270130
traverese22
カンポンとコンパウンド
Kampung and Compound
Shuji Funo
布野修司
「ある都市の肖像:スラバヤの起源 Shark and
Crockodile」(traverse19,2018)で予告した著作をようやく上梓することができた。タイトルは、『スラバヤ物語―ある都市の肖像 時間・空間・居住』(仮)としていたが、最終的に『スラバヤ 東南アジア都市の起源,形成,変容,転生―コスモスとしてのカンポン 』(京都大学学術出版会,2021年)(図①)となった。
タイトルは一般に編集者すなわち出版社の意向を尊重することになるが、本書のサブタイトル「コスモスとしてのカンポン」は、京都大学学術出版会の鈴木哲也編集長(専務理事)の強い薦めがあった。本書は鈴木さんと組んだ11冊目の本になる。鈴木さんには『学術書を書く』(鈴木哲也・高瀬桃子共著,2015)『学術書を読む』(2020)という2冊のベストセラーがある。『学術書を読む』には、「良質の科学史・社会文化史を読む」「「大きな問い」と対立の架橋」「古典と格闘するー「メタ知識」を育む」「現代的課題を歴史的視野から見る」という「専門外」に向けての4つの指針が挙げられている。是非手に取ってみて欲しい。
『スラバヤ』は、建築計画学を出自とする著者の建築計画学批判に関わるひとつの決算の書(解答書)である。1979年1月、はじめてインドネシアの地を踏んでバラックの海と化したカンポンに出会い、戦後日本において建築計画学が果たした役割を思い起こしながら、ここで求められているのは日本と同じ解答ではない、と直感した。以降、毎年のように通い、調査を継続してきたのがスラバヤであり、この40年間に学んだことの全てを盛り込んだのが本書である。スラバヤで活躍したオランダ人建築家の近代建築作品など、スラバヤ、インドネシアそして東南アジアの住居・集落・都市についての基本的情報は収めてある。
「ある都市の肖像」のグローバルな射程については「結」に記した。「時間―空間―居住」「起源・形成・変容・転生」の重層的構成、長めの注カスケードCascadeによる時空の拡張、QRコードによる動画の組み込み(図②)など、起承転結型の学術書を超える挑戦的試みを評価して頂ければと思う。
コンパウンド
ところで、『スラバヤ』がキーワードとする「カンポンkampung」とは、インドネシア(マレー)語で「ムラ」という意味である。「カンポンガンkampungan」というと「イナカモン」というニュアンスで用いられる。そして、カンポン(ムラ)は都市の住宅地について用いられる。「都市村落urban
village」というのがぴったりである。
このカンポン、実は、英語のコンパウンドcompoundの語源だという。 コンパウンドには通常2つの意味がある。第1は,他動詞の「混ぜ合わせる,混合する」,形容詞の「合成,混成の,複合の,混合のcomposite,複雑な,複式の」である。そして,第2は,名詞で「囲われた場所」である。
英英辞書を引けば、compound(noun)は,an area surrounded by fences or walls that contains a group of buildings、と簡潔に説明される。フェンスや壁によって囲われたsurrounding領域がコンパウンドである。英語で「包む」は、wrap, pack, encase・・・、「取り巻く」はsurround,
enclose, circle…などがあり、それぞれニュアンスが異なるが、コンパウンドについて考えることは、<我々(建築)を包み、取り巻くもの>を考えることになる。人間社会を構成する最小の居住単位としての1軒あるいは何軒かの住居の集合体がコンパウンドである。英語には、コンパウンドの他、ホームステッドhomested、セツルメントsettlementが用いられる。他にも,移動性の高い場合はキャンプcamp、さらに,エンクロージャーenclosure,クラスターcluster,ハムレットhamlet,そしてヴィレッジvillageなどがある。
カンポン
学位論文『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究ーーーハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学,1987年)のエッセンスを一般向けにまとめた『カンポンの世界 ジャワの庶民生活誌』(1991)を書いた著者として、その不明を恥じたが、カンポンがコンパウンドの語源であることは、東京外語大学の椎野若菜さんから「「コンパウンド」と「カンポン」―居住に関する人類学用語の歴史的考察―」(『社会人類学年報』26,2000年)という論文を送って頂いて初めて知った。
椎野論文は、サブタイトルが示唆するように,人類学者として「居住」に関する英語の語源を確認することを目的としている。そして、その骨子は,コンパウンドは,マレー農村を指す「カンポン」を語源とする説が有力で,その英語への借入過程には,西欧諸国の植民地活動の軌跡が関わっている,ということである。
オックスフォード英語辞典OEDは,コンパウンドは植民地時代以降の慣例にみられるとし,異説を紹介した上で,マレー農村を意味するカンポンがインド英語Anglo-Indian Englishを経て伝わったとするユールとバーネルYule, H. and Burnel, A.C.(1903, William Crooke(ed.)の説を紹介している。コンパウンドは,(1)囲い込み(enclosure),囲い込まれた空間,あるいは,(2)村(village),バタヴィアにおける「中国人のカンポン」のような,ある特定の民族(nationality)によって占められた町(town)の地区を意味する。(2)の例として,1613年のポルトガル人の著書にcamponという綴りが見られるという。
ポルトガル語のcampoの転訛という異説を含めた議論の詳細は『スラバヤ』(Space FormationⅠデサ/村落4カンポンとコンパウンド)に譲ろう。カンポンについて考えることは、世界中のコンパウンドについて考えることに繋がるのである。
デサ
現在のインドネシアの行政単位は、農村部(カブパテンkabupaten)はデサdesa(行政村)である。農村部も都市部(コタマジャkotamadya)も下位単位クチャマタンkecamatanからなり,農村部ではデサがクチャマタンの構成単位となる。デサはさらに下位単位ドゥクーdukuhによって構成される。都市部では,クルラハンkelurahanがクチャマタンを構成し,その下位単位となるのがRW(エル・ウェー)(ルクン・ワルガRukun Warga)とRT(エル・テー)(ルクン・タタンガ)である。
デサは,もともと,ジャワ,マドゥラの村落を指す言葉であった。14世紀に書かれたマジャパヒト王国の年代記『デーシャワルナナ』(『ナーガラクルターガマ』)は「地方の描写」という意味である。サンスクリット語で都市コタkotaに対する地方、村落がデサだから、その歴史は古い。それに対して,スンダ(西ジャワ)では,クルラハンが村落という意味で用いられていた。そして,カンポンというのはカルラハンを構成する単位であった。
ジャワの伝統的集落デサについては、『ジャワ・マドゥラにおける現地人土地権調査最終提要』(以下『最終提要』)全3巻(1876~1889年)という大きな資料がある。土地権についての調査を主目的とするものであったが,調査項目総数は370に及ぶ。これを基にした19世紀以降のデサの特質についての議論も『スラバヤ』に譲るが、結論だけ記すと、共同体的な要素を濃厚に残してきたジャワのデサは,植民地化の過程において、むしろ、その共同体としての特性を強化してきた可能性が高いということである。20世紀初頭の植民地政府の原住民自治体条例によって再編成されたデサは,共同体(ヘメーンシェプgemeenschep(ゲマインシャフト))ではなく、ヘメーンテgemeente(自治体)として規定されている。しかし,資本制生産様式との接触が伝統的な社会構造を弱体化させるのではなく,むしろ共同体的性格は変形強化されたのである。
隣組と町内会
このデサが、デサ的要素を色濃く残しながら,都市において再統合されたものがカンポンである。C.ギアツは、ジャワ社会を,デサ,ヌガラ(国家 政府官僚制),パサール(市場)をそれぞれ中核とする3つの社会層からなるとして、インドネシアにおける都市化の歴史を構造的に解き明かすのであるが、都市化の過程で都市に再統合された居住地をデサと区別することにおいて,カンポンと呼ぶ。カンポンは,基本的に「都市村落」であるというのがC.ギアツである。
C.ギアツは,「カンポン・タイプの居住区はジャワのどこでも都市的生活の特性をもつが,同時に何らかの農村的パターンの再解釈を含んでいる。より密度高く,より異質性が高く,よりゆるやかに組織化された都市環境へ変化したものである。」という。
C.ギアツは,カンポン・セクターの地図を示している(図③)。ブロックを囲むように並ぶ白い四角がレンガ造・石造の家であり,黒い点がバンブー・ハウスである。
そして、実に興味深いのは、このカンポンの住民組織と日本の隣組・町内会制度が共鳴を起こしたことである。
日本は大東亜戦争遂行のための総力戦体制を敷くために,戦時下の大衆動員の施策として,内務省は1940年9月に「部落会・町内会等整備要綱」(内務省訓令17号)を発令し,隣保組織として5~10戸を1組の単位とする隣保班を組織することを決定する。この隣組・町内会制度は,日本軍政下のジャワにも導入される。この隣保組織のありかたは,カンポンのコミュニティ組織として戦後にも引き継がれていくことになるのである。
日本軍軍政当局が隣組tonarigumi制度を導入したのは太平洋戦争末期になってからにすぎない。1944年1月11日に,全ジャワ州長官会議で全島一斉に隣保組織を設立することを発表し,これに続いて「隣保制度組織要綱」(Azas-azas oentoek Menjempoernakan Soesoenan Roekoen Tetangga)(『KANPOO』No.35-2604)が出されるのである。
軍政監部は,1月から数ヶ月間,各地で説明会や研修会を各地で開催し,モデル隣組がつくられた。研修会では,江戸時代の五人組制度の歴史についての講義も行われたという。一般住民に対しても,隣組がジャワ社会の伝統であるゴトン・ロヨンの精神に根ざすこと,また,イスラームの教えにも一致するものであることなどが宣伝された。組織は瞬く間にジャワ各地に広まっていった。1944年4月末の調査に拠れば,ジャワ全域の住戸数は896万7320戸,隣組数は50万8745組,字常会数は6万4777(64,832),区の総数は1万9498であった(表Ⅳ2③)。隣組は平均17.6戸,区(デサ)は平均3.3字常会ということになる。隣組はジャワの隅々にまでつくられたことになる(倉沢愛子(1992)『日本占領下のジャワ農村の変容』草思社。)。
RT/RW
「隣保制度組織要綱」は,隣組を「施策の迅速で適正な浸透ならびに深刻な住民相互間の対立摩擦の削除をおこない,民心を把握し住民の総力をあげて戦力の維持,存続をはかるための,行政単位に基づき行政機関と表裏一体である強力で簡素な単一組織」と規定する(吉原直樹(2000)『アジアの地域住民組織―町内会・街坊会・RT/RW』お茶の水書房)。隣組tonarigumi,字aza,常会joukaiは,日本語がそのまま用いられるが,隣組すなわちルクン・タタンガRTは,「ジャワ民族において以前から受け継がれている相互扶助精神に基づく住民間の互助救済など共同任務の遂行に勤めなければならない」(第1条3項)という。 ルクンとは,ジャワの伝的概念である「調和,和合」を意味する。タタンガは,隣人である。相互扶助精神とは,ジャワではゴトン・ロヨンと呼ばれ,インドネシアの国是とされている。
太平洋戦争末期,わずか1年余りの期間にジャワ全島に及んだ隣組組織が現在のRTの起源である。日本では,戦後1947年になって,連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって隣組制度は禁止される。隣組制度が総力戦体制,体制翼賛体制を支えた「支配と強制」の装置となったが故に禁止する,というのである。
一方,インドネシアの隣組制度はどうなったのか?これも詳細は『スラバヤ』に委ねざるを得ないが、RTそして,字azaはルクン・カンポンrukun kampung=airka’エルケーRK’として存続する。税の徴収,住民登録,転入転出確認,人口・経済統計,政府指令伝達,社会福祉サーヴィスなどの役割を果たすのである。ただ,公式な政府機関とはみなされてこなかった。1960年にRT/RWに関する地方行政法(Peraturan
Daerah Kotapradja Jogjakarta no.9 Tahun 1960 tentang Rukung Tetangga dan Rukun
Kampung)が施行されたが,基本的には引き続き,RT/RKを政府や政党からは独立した住民組織として認めるというものであった。RT/RKを政府機関に組み込む動きが具体化し始めるのは,1965年9月30日のクーデター以降の新体制になってからである(Sullivan, John (1992) Local Government and Community in Jawa: An
Urban Case Study, New York: Oxford University Press.)。
RT/RKは次第に独立性を失っていくが,ひとつの画期となるのは1979年の村落自治体法(Village Government Law 5)の制定である。地方分権化をうたう一方,中央政府権力の村落レヴェルへの浸透を図るものであった。大きな変化として導入されたのがルクン・ワルガRWという,RTをいくつか集めた新たな近隣単位である。この時点で、RT/RWは,国家体制の機関として組み込まれたのである。
インドネシアの場合,以上のように,強制的に組織化されたRT-RWではあるけれど,自律的,自主的な相互扶助組織として存続してきたのは,デサの伝統と隣組の相互扶助の仕組みが共鳴し合ったからである。しかし,それは再び開発独裁体制の成立過程で,再び,国家体制の中に組み込まれることになるのである。カンポンの生活を支える相互扶助活動と選挙の際に巨大な集票マシーンとなるのは,カンポンに限らない共同体の二面性である。
<包むもの/取り囲む>ものという言葉は、ある領域の境界、そしてその外部と内部をめぐる普遍的問いを突きつける。日本の隣組-町内会制度は,戦後改革の過程で解体されてきたように思える。しかし、災害がある度に、そしてCOVID-19のコロナ禍において、共同体における相互扶助と内部規制という二重の機能が孕む基本的問題は問われ続けているのではないか。
Eindresume van het bij Guevernments Besluit
dd.10 Juni 1867 No.2 bevolen Onderzoek naar de rechten van den Inlander op den
Grond op Java en Madoera, zamengesteld door den chef der Agdeeling Statiseiek
ter Algemeene Secretarie. 1830年以降,ジャワ(マドゥラ)は,中部の王侯領を除いて,全てオランダの直轄領となっていたのであるが,植民地政庁は,この直轄領内の808村を選んで1868~69年にはじめて本格的な土地調査を実施した。その結果まとめられたのが『最終提要』(1876~1889年)である。土地調査の大きな目的は,私企業プランターの進出を可能にする方向を含めて,土地所有権および利用権を確保することである。その調査は,結果を1870年における農地法の制定に結びつけようとするものであった。