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2023年1月31日火曜日

UK-JAPAN ジョイントセミナ-,雑木林の世界06,住宅と木材,日本住宅木材技術センター,199002

 UK-JAPAN  ジョイントセミナ-,雑木林の世界06,住宅と木材,日本住宅木材技術センター,199002

雑木林の世界6

UK-JAPAN ジョイント・セミナー

                        布野修司

 

 昨年暮れに『住宅戦争』(彰国社)を出版した。野辺公一、大野勝彦に続く「住まいブックス」シリーズ第三弾である。今年は続いて『住まいづくりの仕組み』、『見知らぬ国の見知らぬ住まい』の二冊を予定しているのだけれど、どうだろう。出版記念会(十二月十五日)ではいろいろと批評を頂いて、針のむしろであった。二度とやるもんじゃない、と思うのだけれど、成るほど、そう見えるのか、という点が多々あって大いに勉強になった。

 ロンドンから帰って、すぐさま「家づくりの会」の公開講座第三回(十二月二日)。また茨城県に出かけて、工業高校と産業技術学院を訪問した(十二月六日~七日)。問題の根が次第に実感されてくる。工業高校の学生にもアンケートしてみた。いずれ報告しよう。

 さらに暮れもおしつまった頃、研究室のOBを中心とする「鯨の会」による山本理顕さんの講演会「表現と住宅」が開かれた(十二月二十二日)。建築家が住宅にアプローチする場合の基本的視点をめぐって面白かった。これまたいずれここで考えてみたい。

 

 

 さて、ロンドンである。主目的は、ロンドン大のバートレット・スクール(建築学科)で開かれた「建設産業研究に関する日英ジョイントセミナー」(十一月二十日)に参加することであった。千葉大の安藤正雄先生のオルガナイズで、日本からの参加者が二十名、全体で五十名ほどのセミナーである。正直に言うと、慌ただしくて気乗りがしなかったのであるが、行って大正解であった。セミナーも安藤先生の獅子奮迅の活躍で大成功。短期留学が遊学にしかなっていない先生が多いなかで、特筆すべき成果だと思う。有意義で得ることの多い一週間であった。

 セミナーでは、どんな国際会議でもそうなのであるが、まず意識させられるのが、彼我の違いである。まずは、ディシプリンの違いがある。建設産業を扱う中心は、経済学である。経済学と建築技術をどう問題にするかは共通に問題であった。また、前提となる建設産業のありかたが全く違う。工業化戦略、生産過程と生産技術、建設管理、情報技術という四つのセッションに分かれていたのであるが、内容は相当異なっていた。

 論文発表については、はっきりいうと、日本チームの論文発表がはるかに上だったと思う。少なくとも僕には日本チームの発表の方に学ぶことの方が多かった。それにある見方からすると、日本の建設産業が進んでいる、という印象である。続いていくつかの建築現場をみたのであるが、日本の大手建設会社の現場のほうがはるかにシステム化されているのである。

  しかし一方、イギリスチームの発表は随分と楽しそうであった。スライドで吊りガラス構造のディテールを何枚も見せてくれたアラン・ブルークス氏やビデオを用いて「知的な設計チームがインテリジェント・ビルをデザインする」と、設計のプロセスを構造化してみせたJ.A.パウエル氏なんかがそうである。プレゼンテーションは、やはり、イギリスの方が数段上だ。

 極めて印象的であったのは、イギリスでは、建築に関わる統計データを入手するのが極めて困難だということである。専ら、統計資料を駆使してマクロな押えを行った日本チームの発表に対して、数字だけ集めても意味がない、といった反応があったりしたのだが、聞いてみるとイギリスでは日本と同じような統計はとらないのである。

  当り前のことで書くのをためらうのであるが、イギリスの場合、建設需要の半分は増改築なのである。増改築というのは、統計にはのりにくい。住宅に関する限り、住宅が百年、二百年もつのは当然と考えられている。新築のウエイトは極めて低い。職人の編成も増改築主体に行われることにおいて日本とは全く事情が異なるのだ。

  ところで、折しもロンドンではチャールズ旋風が吹き荒れていた。チャールズをめぐっては「室内室外」(『室内』九〇年一月号)に書いたから繰り返しは避けたいのであるが、セミナーを通じて考えていたのは、チャールズの巻き起こした波紋についてであったような気がしないでもない。あちこちの建物が議論になっているのだから無理もないのだ。

 ロンドンの再開発をめぐって問われているのは広く言えば建築観なのである。チャールズの主張は平たく言えば、ストックとして歴史的な建築遺産を大事にしようということであろう。議論を単純化すれば、伝統か近代か、モダンかポストモダンか、という争点の背後でストックかフローかということも問われているのである。

 セミナーが終って、というより、そのプラグラムの一貫としていくつかの現場を見学した。スティーブン・グロアク先生のセットである。ロンドン大のステイーブン・グロアク先生は、住宅をめぐる国際的な雑誌『ハビタット・インターナショナル』の編集長でもある。セミナーの論文はこの九月出される『ハビタット・インターナショナル』に掲載される予定だ。『群居』編集長として、ずうずうしくも早速提携を申しいれた。もちろん大歓迎である。『群居』もこれを契機に国際的になっていくかもしれない。

 ところで、見学した現場のひとつが「英国図書館」であった。チャールズ皇太子が激しい批判を投げかけている建物だ。チャールズはなかなかの建築理論家なのだけれど、個々の建物の評価になると露骨にその趣味が透けて見えてくる。彼は、建築はこうあるべきだという、具体的なイメージをもっているのである。

 英国図書館は英国最大の図書館なのであるが、ただでかいだけで設計の密度がない、確かに、そんなによくない建物であった。しかし、周辺環境への配慮にしても、地場産材であるルーフタイルやレンガを用いる点にしても、それなりにポリシーをもった建物のように思えた。昨年、チャールズ皇太子に建築家が反論するテレビ番組もつくられ、ヴィデオを見せてもらったのであるが、英国図書館の設計者が朴とつにその主旨を説明するのが印象的であった。

 チャールズ皇太子がいうのは、国家的施設としての風格がないということである。そのイメージにあるのはカール・マルクスが通った大英博物館の閲覧室なのだ。議論は少しくすれ違っている。

  チャールズ皇太子と建築家の論争は当面続きそうなのであるが、その焦点はシティーであり、ドックランズである。シティーは歴史的建造物を残しながらの再開発がテーマであり、概ねチャールズ路線だ。ドックランズは、およそネオモダニストの路線といえるか。前者は、ポストモダン・クラシシズム路線、後者は、ハイテック路線と言っていいかもしれない。

  グロアク先生の案内でドックランズの現場をいくつか見たのであるが、雇用の問題にしろ、地盤の問題にしろ、廃棄物の問題にしろ、余りに問題が多い。シティーとドックランズは実に対比的な問題を僕らに提起しているのだ。


 


2002年2月  大反響 !?  そして、真摯な批判  もろもろ原稿募集中!  『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日

 『建築雑誌』編集長日誌                          布野修司

 

20022

 大反響 !?

 そして、真摯な批判

 もろもろ原稿募集中! 

 

200221

A:昨日 建築雑誌1月号が送られてきました。紙面も(杉浦康平の紙面構成術に似ていて)ずいぶん読みやすくなっていました。1月号のテーマもタイムリーです。そしてなにより、新しい息吹に満ちあふれていて、とても新鮮でした。編集長の抱負も、新しいものを生み出す意欲が全体から香っています。今後大いに期待しています。

B:びっくりしました! 編集者が変わるとこんなにも違うものかと、本当に本当にびっくりしました!!三十数年購読してきた「建築雑誌」での最も歴史的な出来事!美しく見やすく読みやすい!これなら今までなら読まなかった記事も読む気にさせる!こちらまで誇らしい気分になりました!!

C:ところで、ところで、『建築雑誌』1月号みましたが、・・・・ 誌面デザインをもういちど考えなおしたほうがいいのではありませんか???フルカラーは結構ですが、もう一つ渋く上品にならないものか?特集部分と連載部分にデザイン上のめりはりがないのも気になります。

D:表紙の紙質がやわらかいものになったことを、親しみやすく感じます。編集委員が関与しない広告やページがたくさんあることに驚きました。65ページ以降が多すぎると思います。字が細かくて読みにくいと思います。

 

早速、いくつかの反響が届いた。装幀については概ね好評のようだ。もちろん、Cのようにいくつか注文もある。可能なことであれば微調整していくことになろう。

問題は内容である。

今回の編集方針のひとつの柱として、できるだけわかりやすく!ということがある。その一環として、専門用語などに紙面の許す限り註をつけようという、ということになった。編集委員の手間はかかるが、読者には親切であろうと、異論はない。

しかし、そこでまず問題が明らかになった。註は編集委員会の手になるが、あたかも筆者によるもののように受け取られて困る、というクレームが執筆者から早速寄せられたのである。註といえども、そこに一定の評価が入り、価値判断がなされる。署名入りが原則であるが、そこまで注意が至らなかった。早くもお詫びの書状を書く羽目になった。主旨は「注は編集委員会が作成したものであり、主観的記述についてはあくまで編集委員会の主観であり、執筆者個人とは関係ない」ということである。編集長はいろいろやることがある。

問題となったのは、「建設産業の再編促進案」の評価である。

評価の根拠になった参考記事を挙げておこう。

 

岐路に立つ業行政、検証再編促進策<上>: 掲載日:2000/10/05     日刊建設工業新聞    

2日に開かれた中央建設業審議会(中建審、建設相の諮問機関)に、建設省が「建設産業の再編促進案」を提出した。「自己責任」や「淘汰(とうた)の時代」を強調してゼネコンの経営革新を迫った昨年の「建設産業再生プログラム」の発表から、わずか1年と数カ月。促進案を再び打ち出さざるを得なかったところに、再編が遅々として進まない業界の現状が図らずも露呈している。新しい促進案で今度は本当に再編が進むのかどうか、その効果を検証した。

「経営状況の改善が遅れている企業に保護的なスタンスとなっているのではないかという批判が根強い」 建設省が提出した「建設産業の再編の促進について」(案)と題する資料はA44ページ。その一枚目、新たな再編促進策の必要性を説く中で同省は、「保護行政」から建設省が依然として抜け切れていない、との批判があることをはっきりと認めた。

 建設産業再生プログラムが発表されたのは昨年7月。同プログラムは、ゼネコンが進むべき方向として「選択と集中」による競争力の強化、そのための経営形態の革新をうたい、行政側はこれを後押しする競争的市場環境の整備に取り組むと宣言した。自己責任と自助努力、さらには「優勝劣敗」や「淘汰」にまで言及したプログラムは、建設省が「護送船団方式」からの脱却と大幅な規制緩和へ大きくかじを切るものとして、関係業界から驚きと期待をもって迎えられた。

 それから13カ月。2日の中建審で同省の風岡典之建設経済局長は「(再生プロ策定以降も)現実には状況が変わっていない。マーケットが自動的に解決するという見方もあるだろうが、何か不足しているものがあるのではないか」と述べた。だが正確に言えば、変わっていないのは行政側も同じだ。

 再生プログラムは行政が実施する施策として計20項目を打ち出し、うち8項目は早急に実現を目指す施策に分類した。ところが、この13カ月で実際に具体化した施策はごくわずかだ。中でも、経営事項審査へのグループ評価の導入(グループ経審)、特定建設業の許可基準強化など「目玉施策」と目されたものがいまだ実現に至っていない。特にグループ経審は、業界との調整が難航。当初案を大幅に縮小した見直し案が今回、中建審にようやく提示された。

 「我々の業界で合併や提携が進まない最大の原因は、垣根があること。垣根を取らなければ、絶対に再編は起きない」

 日本建設業団体連合会の前田又兵衞会長は中建審で、銀行と証券、保険の相互参入規制撤廃を例に取り、金融機関の再編と建設業界の再編の違いが「垣根」の有無にあると指摘した。前田会長は、設計・施工の分離など公共工事の入札・契約に関する規制も再編を妨げる「垣根」に挙げた。

 だが金融機関との違いは「垣根」だけではない。まず、金融機関が外資との激しい競争にさらされている点は建設業界を取り巻く環境との大きな違いだろう。もう一つ決定的に異なるのは、政府が取り組んできた一連の金融システム改革が、そのプランとスケジュールを明確に示していることだ。金融機関はこれに従って、いや応なく再編と経営革新を迫られている。

 建設省は、昨年の再生プログラムでも今回の再編促進案でも、具体策は列挙したものの、実施期限を明示しなかった。対外競争の少ない業界環境と「調整型」行政が続くとすれば、新しい再編促進策の実効性にも疑問符が付きかねない。

 

200226

  夕刻より4月号特集「気候変動と建築」、巻頭鼎談「京都議定書は建築をどう変えるか(仮)」に出席、司会。

昨日は、神戸大学に呼ばれて学位論文の審査。北京内城の街区割りに関する論文で、なかなか楽しい議論ができた。その余韻の中で上京、新幹線の友は妹尾達彦『長安の都市計画』。五月号特集にも関係するし、専門的にも必読の書だ。

妹尾さんの話は研究会で一度聞いたことがあるけれど、長安が、ちょうど平安京と同じように、右京が廃れ左京に重心が移っていったという報告が面白かった。今度の本は小著だけれど長安研究の集大成の感がある。そして何よりも、バクダッド、イスタンブール、長安の同時代の三都を同一視野に納めるグローバルな都市文明論の展開がある。

学会に行くと専務理事(事務局長)から「ありがとうございました」と深々と頭を下げられる。一瞬きょとん!としたが、「随分読みやすくなった」ということであった。学会事務局周辺ではまあまあの評判らしい。そもそもカラー化の言い出しっぺは専務理事だから、不満だったら元も子もない。内心ほっとする。

 座談会は18:00からの予定だったけれど、その前に鈴木一誌さんと小野寺、片寄さんを含めて反省会。スタッフの藤田さんも加わる。僕の指摘は、座談会の頁と特集扉がやや違和感があるということと、後の会告の頁に空きが目立つこと、くらいである。後は鈴木さんのデザイナーとしての主体性に委ねるのみ、というのが基本スタンスだ。

鈴木さんからは、

・ 急遽カラー化となったので1月号ではカラーが十分生きていない。

   工程を早く安定させたい。4月号ぐらいでもう一度全体を見直したい。特に表を考えたい。

   レイアウトに際して拠り所となるコメントが欲しい。

   図が続くと紙面が似てくるので写真を入れたい。

   各号の各項目の位置づけが知りたい。目玉は何か。

ということであった。急にカラー化が決まったので随分と大変だったことを改めて認識する。いくつかの注文については、号を重ねる中で少しずつ調整してもらうことにする。もう少し、書き手に何を強調したいか、はっきりしてくれ!という鈴木さんから要望も当然である。編集委員としては書き手に要求することになる。緊張感がいいものをつくる前提である。

 

 座談会については伊加賀さんにお任せで大船に乗った気分で参加したのであるが、なんとなくずっと司会する羽目になった。伊加賀さんは仕掛け人として実に巧い。一流である。

メイン・ゲストは、森嶌昭夫()地球環境戦略研究機関理事長、中央環境審議会会長。ホスト役は、尾島俊雄早稲田大学教授/元日本建築学会会長と村上周三慶應義塾大学教授/日本建築学会副会長/地球環境委員会委員長。超豪華な布陣である。聞き手として伊加賀さんの他石田泰一郎幹事が加わった。

鼎談進行伊加賀メモは以下のようであった。

(1)京都議定書発効までの道程と日本の進むべき道

COP3 からCOP7 に至る交渉過程(森嶌先生)

・米国の離脱問題と発展途上国問題(森嶌先生)

・法規制強化、京都メカニズム(排出量取引など)(森嶌先生)

(2)京都議定書をめぐる建築界の対応

・建築学会声明1997.12LCCO230%削減、耐用年数3 倍延伸」(尾島先生)

・国土交通省社会資本整備審議会答申2002.01.31(村上先生)

(3)アジアの持続可能な都市発展と京都議定書

・IGES:アジアの巨大都市環境管理プロジェクト(森嶌先生)

・未来開拓学術研究:木造型と鉄鋼造型の完全リサイクル住宅(尾島先生)

・未来開拓学術研究:東京・ハノイのポーラス型高密度居住区モデル(村上先生)

(4)建築主の意識はどう変わりつつあるのか

・IGES研究施設新築に際しての設計者への注文(森嶌先生)

・建築主・テナントでもある企業における環境経営の定着(森嶌先生)

・住宅および建築物の環境性能表示と建築資産評価(村上先生)

(5)建築教育はどう変わるべきか(学会の役割)

・企業と環境、子供たちの環境教育と建築との接点(森嶌先生)

・学術・技術・芸術を統合した建築教育の今後(尾島先生)

・地球環境・建築憲章2000.06 と「シリーズ地球環境建築」教科書の出版(村上先生)

 

座談会というのは、まあ予定通りに行くものではない、と思っていたけれど、なんとなく伊加賀メモ通りに進んだように思う。さすがの読みである。森嶌先生の視野の広さに感嘆。乞うご期待。

 

先生方をお送りした後、伊加賀、石田両委員、そして、他の委員会担当で座談会に出席できなかった事務局の小野寺さんと軽く打ち上げ。小野寺さんは経費削減で学会事務局も大変なのだという。しかしそれにしても、37000部の雑誌にたった二人の編集部員というのはあんまりだ。繰り返し書くけど、最低二人ぐらい増やして欲しい。これは編集事務局の発言では断じてない。心底そう思うのである。学会全体で委員会の数を減らすべきだ。これは一理事としての本音である。頁数削減もやむを得ないけれど、学会改革も必要ではないか。とつい口がすべるが、話題は『建築雑誌』をどうするかである。伊加賀、石田両委員と分かれ、会告の隙間をどうするか、ということを話ながら小野寺さんと二人だけ新宿で降りる。用語集・悪魔の建築辞典はどうか、住み手の愚痴、建築家のぼやき、辛口の建築批評を書き貯めておいて埋めるのはどうか、建築に俳句を募集して入れ込むのはどうか、・・・「これがまあ終の住処か雪五尺」(小林一茶)、「月指して一間の家でありにけり」(村上鬼丈)なんていいじゃない、などとマスターに言われながら、・・・議論は延々続いて夜が更けたのであった。

 

200227

 建築学会賞作品賞委員会に13:00から出席。同時刻に5月号特集「都市と都市以前-アジア古代の集住構造-」(仮)「座談会:都市の起源 東アジア・東南アジア地域」が開催。出席者は、岡村秀典(京大人文科学研究所/中国考古学)、岩永省三(九州大学総合研究博物館/弥生考古学、古代都城史)、山田昌久(東京都立大学/縄文集落論、木製品・建築部材の考古学)、応地利明(滋賀県立大学/南アジア地域研究)で浅川先生が司会をつとめる。浅川先生から「27日もおもしろくなるだろう、とわくわくしています。中国に関しては、岡村くんと小生がいるので、なんら問題なし。応地先生には南アジアに集中していただき、その上で中国と比較するようにしたいと思います。」などとメールをもらっていたし、出席したかったのであるがどうしようもない。冒頭挨拶だけして作品賞委員会に集中。作品賞委員会はいささかもめたけれど決裂するほどではなく18:00前には終わった。

 打上げ会へ行く前に、編集部を覗くと、座談会もついさっき終わったとか。随分長丁場の座談会であった、さぞや盛り上がったのだろう、と思う。下で打ち上げているから寄ってください、ということなので先に顔を出した。座談会には、山根、青井の両編集委員も参加。議論はなんとなく続行中。作品賞委員会の打上げはキャンセルして加わることにする。というかキャンセルする間もなく議論に拉致されてしまった。

 新幹線で関西へ帰る応地、岡村、山根、青井、布野で楽しく議論しながら帰る。

気になったのはいつもはしゃぎまくる浅川先生がブスッとしていること。どうやら彼の思う通りには進まなかったようだ。察するに応地先生がしゃべりすぎたらしい。座談会は生に限る。

 

200228

 ロンドンからR.ホーム来日。15日まで滞在の予定。R.ホームは、東ロンドン大学の先生で専門は都市計画、土地管理で『国際計画史学会』の主要メンバーである。その著“Of Planting and Planning”を昨年日本で翻訳出版(『植えつけられた都市』、京都大学学術出版会)した縁と植民都市研究の一環として招いた。

 

  事務局から編集委員全員にメールが回ってくる。会誌窓口、kaishi@aij.or.jpへの投稿である。最初のすばやい反応だ。正直うれしい。

ところが読み出すと、冒頭に、特集は「詐欺」ではないか、とある。いささか穏やかでない。身構えながらとにかくざっと読む。極めて真摯な批評である、と思う。早速、事務局に、本人へ返答、ホーム・ページ掲載、本誌に掲載の可能性の検討を指示する。

以下全文である。

 
布野修司 建築学会「建築雑誌」編集長 殿

一学会員が、直接かつ突然に不躾かつ無礼なメールをお送りすることをお許しください。


建築雑誌1月号(Vol117No1482)特集への感想
 建築雑誌今月号の表紙を見て、建築業界で禄を食む身にとって、この特集の表題はいやが上でも目に飛び込んで来ました。大きな期待を持って読み始めましたが、その期待は大きく裏切られました。表題と内容のあまりの乖離に!裏切られたと言うより、これは「詐欺」ではないのでしょうか?
 この特集「建築業界に未来はあるのか」は、これはそのまま「この特集に内容はあるのか」という問いかけを編集局並びに執筆者にお返したい。
 悲観的、あるいは楽観的ということはさておいて、端的に言えば未来についての記述が全くない。
 建設業界に身をおく読者にとっては、建設業会の現状を憂え、真摯に将来を考えているだけに、大きな期待をもって瞬時に読了したが、そこに書かれていることは、ただ過去の事象を羅列したり、過去や現状を分析したり、あるいは論評したりして、「建築の今」を憂えて見せるだけで、未来に関する洞察、未来への予見あるいはあるべき姿についての論述は全くないといっていい。「未来はあるのか」「ないのか」の結論も書かれていません。ただ執筆者各自が勝手に言いたいことを記述しただけ。
 マー、学識者として色々と学術的能書きは述べたから、後は読者で未来は想像しろ、ということでしょうか。
 これが「特集」といえるのでしょうか?
 一体この特集は何を言わんとしたのか、何を訴えようとしたのでしょうか?
 読み終えて落胆したところで、ふと表紙のよく見たら、グラフの変化はやはり2000年あたりでプッツリ切れていて、その後の予想は何も描かれていない。そうか!建築業には未来はないのか?
 未来を語る特集だけに「将来」という単語にどうしても目が向きますがが、この特集で記述されている単語「将来」は、はるか昔を基点(1980)とした「将来」(2000)であって、何のことはないその内容は現在を語っているに過ぎないということが分かりました。

 

以下、各記事について

反省ばかりの文章が目につきますが、野城氏の「国内の新築市場が縮小してゆくという現実を直視しなければならない」という表現と、「建築の仕組みや商習慣そのものを変えなければならない」という、技術業である「建築ものつくり産業」を「サービス産業」に定義変えする記述が唯一「将来の雰囲気」を語っている?
 John Dickison氏の言わんとする内容は、下河辺氏の「国際化、地球化といって普遍的なものへの指向が強く、日本の伝統こそ普遍性があるという哲学が抜けてしまった」(p20)という意見と真っ向から対立する考え方だけに面白い。
 脇田氏が語るように、企業として「相手がつぶれるのを待ち、優秀な技術者をそこから拾ってきて自社の技術力を高めるというやり方がふさわしい」という認識は、少々乱暴との謗りは避けられないものの正直で端末的な審判ではあるが、現実的ではないし、ましてこのようなことをやっていたらポジティブで明るい産業の未来は約束されない。
 菊岡氏は過去の歴史のみの記述、枚数が尽きても少しは未来を語っていただきたかった。
 平野氏はやはり国家の官僚という立場からか、「建築生産システムの将来像」の中での建築産業政策の役割をどう位置づけるかの視点を気にしているだけで、国家政策として建築産業を将来どう再編成し、あるいはどう育成してゆくかの論述がないのは、やはり枚数が尽きたとはいえ寂しい。
 斎藤氏の記事は、比較産業論として一つの見方であろう。少し参考になりました。
 伊藤氏の分析?ただ集計しただけの報告は、一体何を言わんとするのかよく理解できない。集計分析の軸を変えたのはどうしてか?変えることによって何が見えてきたのか、がさっぱり分からない。
 松村氏の発言、「大学等の研究者は、自らの研究成果が産業構造上の取りまとめ役に影響を及ぼし得るように目論んでおけば概ね事足りた」というのは誠に正直な告白で感心しました。確かに一昔前までは、こういう悪乗りが多かった。しかしこの論文にも明るい未来はありませんでした。
 古坂氏は正直に、「未来を論じるよりも「今何をなすべきか」を論じ、そのなかに未来が垣間見えればよしとせざるを得ない」と正直に述べられているので未来論としては論外。土肥氏は建設の未来には全く関係のない社会正義派の論述で感想の述べようがない。ただ一言、健康で健全な精神を持ち苛酷な痛勤と労働に耐えてやっと手に入れたわずかな所得から税金を取られる人と、身障など種々の理由で働かなくても福祉上手厚く守られる人々との社会的処遇におけるバランスが気になります。
 岩松、遠藤両氏のデータ集は、全てのグラフが20012002年までで切れた図柄で、演繹的あるいは帰納的にでも未来に向かって全く線が伸びていないので論評は省略。
 唯一、元建設省次官の下川辺氏と日建連会長の平島氏との対談に、「未来の香り」が少しする程度。下川辺氏の冷めた目とご老人特有の頑迷さが滲み出た突飛な意見に対して、日建連会長がたじたじと受け答えに窮している様子はご愛嬌と理解するとして、下川辺氏の指摘や意見は突拍子のような響きを伴うものの所々いい線を語っているように思える。が、それでも未来に対してアクティブで具体的な絵を描いているのではない。
 建築学会は確か昨年に、「建築市場、建築産業が置かれた状況は大変厳しい」という認識で、建設投資規模がさらに縮小してゆくことが予想される中で、市場動向や建築・住宅産業のあり方を学術的なアプローチで研究するプロジェクトを立ち上げると発表しました。
 このプロジェクトのために、・将来の建築需要予測と新たな建築需要、・良質で安価な建築物を提供する産業の仕組み(材料費、労務費、研究開発費)、・働く人がやりがいのある仕事が出来る産業の仕組み、・建築における学術、技術の進歩を促進する仕組み、・社会・経済の変革に対応して建築産業が何をするべきか、の各種委員会を立ち上げるとありました。
 今回の特集は、この「将来の建築需要予測と新たな建築需要」委員会の問題意識の発表あるいは展望の表明かと最初は勘違いしました。
 また教育の面では、新築だけの技術を教える教育のあり方、産業界では当り前で必須の道具であるIT利用技術についてもその教育の不足を認識し、教育の面での改革もすすめると聞きました。

建築学会という学識者が比較多数を占める団体として、その本音がたとえ建築産業の低迷による建築への魅力の衰退と将来の少子化との相乗作用の結果もたらされる建築を学びたいと希望する学生数の減少に対して、大学の経営に非常な危機感を持つ教育界の危惧に直結しているとしても、先人が蓄積してきた技術や技能あるいは伝統を継承してゆかなければならないこと、一方で産業としては500万人以上の雇用を凌いでいる現状があり、また将来より良い国土の建設あるいは公共財としての社会資本整備の重要な役割を担わなければならない産業として、真摯にその将来を議論すべきだと思います。
 今、(個人的な意見ですが)建設業として真に問題なのは、適正な業者数の問題、コスト(あるいはプライス)の問題、生産性の向上の問題と大きく三つあります。特に、コストに関しては、本当のコストは何か、適正値(の範囲)はいくらかということは、学界や研究機関でもまた業界でも(業界では無理か)真剣に徹底的に研究や議論されたことはなく、相場という摩訶不思議な商慣習の流れに流されて曖昧模糊のまま、かつての皇宮1円入札事件などのような事態や談合ということが起こってしまいます。ちなみに、重量当たりのプライスの比較で言いますと、建築の実態は下記の位置にあります。

プライス 円/Ton
・トウモロコシ          23,000円(シカゴ先物230/Kg
・ダム              61,500
・建物             20
・船舶             200
・自動車            350万 
・カメラ、旅客機      1億円
・時計           5
・金            10億   (1,025/g7/5
・麻薬           20億   (2,000/g???)
・ジェットエンジン          28
DRAM         100億   (パソコン用CPU、メモリー)
・着物(加賀友禅)    100億   (100万円/11Kgで換算)
・コンタクトレンズ    200億   (20,000/g)原価12
 

如何に建築の付加価値が低いか。低いだけに、しかし社会的な存在が大きいだけに、また長寿命化のためにも真剣にこのコストを見極めるべきでしょう。現状の低価格押し付けの建築は、長持ちしない廃棄物を作っているに等しい。特に安い公共建築は、官、学、民の三者共犯ではないだろうか?
 最後に、上げ足をとるような話になって申し訳ありませんが、民間企業で禄を食む身として一言言わせていただきます。
 「企業としての盛衰は産業において不可避であり、また企業淘汰は産業の活性化に繋がる。しかし、そこで働く人々にこの企業盛衰の理論を摘要してはならない」と言う嘉納氏のご意見には全く賛成します。が、深読みすると「大学の盛衰は大学教育界において不可避であり、大学の淘汰は今の日本の教育の活性化に繋がる。しかし、大学で働く教職員にこの大学盛衰の理論を適用してはならない」とも聞こえるのは僻目でしょうか?
 申し訳ありません。             タイセイ総研 理事 林 俊雄(会員番号;6701558

 

明るい未来が書かれていない、展望がない、というのが全体を貫くトーンである。

しかし、建築業界に未来があるか、というタイトルは反語的であって、読みようによっては、未来はない、ともなるし、未来はある、ともなる、ということである。林俊雄さんに拠れば、明るい未来が書かれていない、ということだ。

編集委員会としては、特集主旨を繰り返すしかないであろう。

「・・・・その先にある未来は、いくらデータを精緻に積み上げても確定的に描ききるものではない。・・・建築業に未来があるとすれば、過去・現在を見つめたうえで、この建築界をどうしたいかという我々の構想のなかにある。今回の特集を通して、読者の方々は是非その構想を膨らませ、相互に議論を喚起していただき、豊富な未来像を描く契機となれば幸いである。」

建築業界に明るい未来がないのに明るい未来を書くわけにはいかない。明るい未来が全体として見えないというのはおそらく正確な指摘ではないか。ただ、それぞれの原稿には否定的にではあれコメント頂けているのだから、特集の意味はあったと編集長としては思う。幅広い議論の展開を期待したいと思う。また、特別研究委員会には明るい未来への展望を期待したいと思う。

R.ホーム来日もあって、返答をしたためる時間がない。編集委員の意見もまっていずれ返事を書かねばなるまい。

2002214

R.ホーム先生は、気さくな先生で、かってに自転車で京都を走って見て回ってくれたから楽だった。ただ、ついてまわった研究室の学生たちは大変だったに違いない。まあ、それでも奈良へ一日お供し、一夕は我が家へ招待したりしたから結構振り回されたのであった。

今日はアジア都市建築研究会でレクチャーしてもらい、その後、フェアウエル・パーティで、お別れしてきたところだ。帰ってメールを見ると、いつもながらの新居さんのアートディレクションについての真摯な問題提起が届いていた。いま、長野で現場があって忙しいのに頭が下がる。

 

これまでの建築雑誌に比べると、皆様のご努力によって、アートディレクションについて、一段と読みやすく好感が持てる誌面になったと思います。その上で、あえて勇気を出した意見を述べさせていただきます。

編集委員長の編集方針である3番目の「それぞれの業績として欲しい。」、6番目の「一般にアピールできる、・・・建築界をオープンに。」という点から気になる点があります。
 部分のひかるデザインは別として、全体のデザインから受ける印象では、鈴木さん自らの作品といいにくい、あるいは力を発揮できにくいことがあるのではないでしょうか。
 表紙の裏とそれに続く4ページの最初の広告は、デザインする側にとってはとてもつらいモノだと想像します。またスポンサーからみてもこれで宣伝になるとは思えない(緊張感のない)広告デザインと内容です。単なる業界のおつきあい、なれ合いを物語る出足です。屈折のある見方ですが、高貴(?)な学会はそれを見ないようにするということでしょうか。136138ページの名刺風の広告などはおつきあいそのものがあらわれているようで、まさに同窓会誌のようなモノに見受けられるモノです。広告料は否定できないとしても、視覚的にはこれからの学会のあり方と学会誌そのものが問われているような気がしました。広告のあり方を考えざるを得ないのではないでしょうか。

1)      3233ページの表などはたくさんの情報量を見やすくされている手腕は素晴らしいです。一方、時間が全くなかったのだと思いますが、3841ページの表の線や色などは統一されていません。これほどの色が使われたことの関係者のがんばりは容易に想像できるのですが、それならば、新しい建築誌のイメージができるほどのデザイナーの力が発揮できる色使いを期待したいものです。

2)          自身の拙文を棚において語る気恥ずかしさは十分感じるのですが、「地域の目」のプレゼンテーションについての個人的なとまどいがあります。確かにずいぶん読みやすくされています。しかし、地域の目タイトル文字が象徴しているようないろいろな色の扱い方があります。いろいろな地域がある、地域は様々なアラカルトができるものなのだよと言いたいようです。強いて言えば安心しきった中央からの眼でいろいろな地方があるよということが見えそうです。とても軽い、恣意的多色構成を感じるから、もしかしたらそういう意識なのかなあと感じてしまいます。編集にあたっての4番目、「・・本質に関わる問題を深く考えたい。」少なくともそうした姿勢で地域からこれからの日本を、建築のあり方を問う、提言できる機会になって欲しいと望むなら、別の表現があると思います。まずは、応えられる文章を期待しなければならないですが、各ページ独自に、強いメッセージ性、主張性、あるいは存在感があるようなページデザイン構成であっていいのではないでしょうか。たくさんある中の1個のイメージでなく、それぞれが独立し、自立して、メッセージを発しているというイメージを期待したいものです。字数には問題がある一案ですが、委員会側から短い文章で読者がすぐキャッチできる見出し文(キャッチコピー)をコピーライターなどによって準備していくと、地域の目の意図がより明確になるのではと思いました。                                  新居照和

 

2002218

 第八回編集会議のため上京。鞄には、送ってもらったばかりの高橋敏夫の『藤沢周平』(集英社新書)と柏木博の『20世紀はどのようにデザインされたか』(晶文社)の二冊を突っ込む。二人とも、かつての「国立読書会」の仲間だ。二人ともいまでは立派な批評家だけれど処女作を世に問うたかどうかの時代に月に一度集まっていた。なつかしい。

 まずは『藤沢周平』を読み出す。というか一気に読んでしまった。歴史小説、時代小説はほとんど読まない。山本周五郎、司馬遼太郎、松本清張、柴田錬三郎、山田風太郎、・・・それぞれ少しずつ読んだけれど、のめり込むことはなかった。藤沢周平は恥ずかしながら一冊も読んだことはない。高橋敏夫がこれほど藤沢ファンだとは知らなかった。

 「これでしばらく、生きていける」

 という感じがこの『藤沢周平』を書かせた、という。

 藤沢周平がそんな作家であることを充分感じさせる好著である。

 

 学会で、11:00から日刊建設通信社、13:30から日刊建設工業新聞社の取材を受ける。日刊建設工業新聞は神子久忠さん。前にも書いたけれど、僕の処女評論集『戦後建築論ノート』(相模書房)の編集者で気心は知れている。編集方針を淡々としゃべる。さてどういう記事になりますか。

 

 編集委員会は、7月号、8月号がメイン、9月号の建築年報特集、そして10月以降で「光の環境」(石田幹事)「建築の寿命」(野口委員)「公共建築をつくる プロセスをつくる」(小野田・田中委員)の三つの特集テーマ案が出される。7月号については、ほぼ確認のみであるが、村上副会長が続けて巻頭を飾ることについて注文をつけた。

 8月号は、依然として盛りだくさんで、もう少し焦点を絞る必要があると思う。

 ドーシさんへのメール・インタビューが出来るといい。

 9月号は20p増やしてもらってなんとかなるか、という感じ。研究レビューを是非行うが分野を大括りするフレームが必要となる。支部活動、委員会活動の報告をカットできるのか。

 「光の環境」はざっと議論。今後の詰めに期待。

「建築の寿命」については、おおよそ以下のような意見がでた(大崎幹事まとめ)。

野口先生にいただいた案につきまして,編集委員会で審議いたしました。
あまり時間は取とれなかったのですが,委員会での意見と,福和先生からのメールでのコメントをお送りしますので,ご検討いただきますようお願いします。また,この特集につきましては,福和先生と八坂さんも含めて議論してはいかがかと思います。
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委員会での意見 ------
 構造系だけで考えるとしたら,材料,診断,モニタリング,荷重などを総合して考えてはどうか。
構造にとらわれないのならば,社会的寿命(用途),設備の寿命,ライフサイクルコスト,リスクマネジメントなどが関連するのではないか。
 構造・材料としてはどれだけできるかをまず示して,そのご,社会的な制約などを述べてはどうか。
学会の「耐用年数を3倍にするための提言」を参考にしてどうか。
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福和先生からのメール -----

興味深いテーマですが、なかなか難しい内容ですね。タイトルは単純に、「建築物の寿命」が良いと思います。内容的には、いきなり耐久設計から入るのではなく、建築物の寿命をどう考えるべきかを論述する頭が有ったほうが読みやすく、特集の位置づけもはっきりするのではと思います。
 実際の設計では、寿命を考えた耐久設計は表には出てきていないと感じます。通常の設計では裏に隠れているので、私たちが知りたいのは、設計時に余り気にしていない耐久性の話がどのように担保が取れているかということだと思います。コンクリートのかぶり厚などは、この延長線上の話ですよね。
 それと、寿命面からは設備の方が重要になるので、設備の話がもっと出てきても良いと思います。他分野の紹介は少し多い印象がありますね。これに加えて、ライフサイクルコストの話題長寿命建築物を支えるスケルトンインフィルの話題さらに、これを担保する免震化の話題なども候補に入れても良いかとも感じました。さらには、長寿命ということは、遭遇する地震も多くなります。設計荷重を変える必要がありますね。
コンクリートで言えば、中性化の問題も関係しそうですね。それと中古市場を如何にして形成するか、リフォーム業者の育成とか。

「公共建築をつくる プロセスをつくる」は議論の時間がない。設計者選定、入札などの問題を含めて扱いたいと発言。

情報頁についても徐々に改革したい。空き頁には、会員の声を載せたい。

 

2002222

 この間、地域の眼の原稿に穴があきそうになって大慌てである。黒野、田中、山根、新居の各委員の間でメールが飛び交っている。原稿にどんどん注文がついている。いい原稿が欲しいという、熱意からである。


 お世話になっております。
 早速「地域の眼」の原稿をいただき、編集担当者で読ませていただきました。多彩な情報が盛り込まれ、大変参考になるのですが、コラムは字数の制限もありますので、できればテーマを絞ってお書きいただければありがたいと思っております。
 「地域の眼」では、活動報告や地域紹介というよりも、主旨文にありますように「地域に根差し、地域からの変革を求めて行動している方々に、それぞれが関わっている具体的な事例を通して、今地域で起こっていること、地域から見える様々な問題、これからの地域について考えることなどを報告していただきます。そうした「地域の眼」をもつことによって、読者にこれからの建築のあり方を見つめ直すきっかけを与えること」をねらいとしています

2002227

昨日、一昨日と国立大学は入学試験だ。昨日上京。

ばたばたしているうちに林俊雄さんへの返答を書くのがすっかり遅くなってしまった。とにかく挨拶をと東京からメールを打った。

 

林俊雄 様
 前略、建築雑誌1月号について、貴重な意見頂きましてありがとうございました。返事が遅れましたことをお詫びいたします。
 事務局によりますと、このような真摯な批評が建築雑誌に寄せられたことは近年ないそうです。ご指摘の内容を棚に上げていいますと、読まれるということを目標に掲げる当委員会としては、まずは喜んでおります。

ご指摘の内容について、個人的には、概ね、頷きながら拝読しました。

ただ、前文でいささか投げやりに納得されておりますが、本特集は、もともと未来予測をテーマとするものではありませんでした。編集長日誌に早い段階で書いておりますが、理事会で、「学会では特別委員会で二年かけて議論するというのですが、二年かけて学会として結論が出るというものでもないでしょう、とりあえず、考える素材を提出します」と発言したのが特集の背景です。各原稿にそれぞれコメントいただけたということは、否定的にではあれ、多少とも考える素材を提供できたのではないかと考えますが如何でしょう。原稿についての不満は常に編集部にもありますが、1月号については、会員からそれなりの書き手を揃えたつもりであります。
 建設業の未来については、あるのか、ないのか、どうお考えでしょうか。別の機会にじっくりご意見うかがえればと思います。議論がさらにどんどん広がればいいと考えます。
 編集委員会での合意はとれておりませんが、ご意見は誌面に掲載する方向で検討しております。その際にご確認しますが、それは困るということであればお知らせ下さい。
 編集長としてのご意見に対する見解は、「編集長日誌」(3月上旬掲載)で、全文公開の上、示さして頂きたいと思っております。全文公開についてご了承下さい。                   早々

 

2002228

  京都に帰ると、林さんから返事が届いていた。

 

布野 修司 様
ご丁寧なるお返事を頂き恐縮いたします。

私も過去に別の団体の機関紙の編集委員をやりましたが、その時の経験からも先生方の編集委員会でのご苦労はよく分かります。
 特集を企画された編集委員会の議論あるいは考え方や背景を顧慮せずに、一時の憤激で勝手な言い分をお送りしたことに今では少し恥ずかしく、悔やんでもいます。
 が、私の批判が一顧だにされずに無視されるような事態にはならなかったことには、正直ホッとしています。
 掲載をお考えとのことですが、ちょっと大人気ない品のない内容ですので、日本の建築界を代表する学会の機関紙である「建築雑誌」のような格調の高い雑誌に掲載するのは如何なものかと思います。私といたしましては、一度かいた恥は何度でも、という思いで掲載には異存ありません。
 掲載するかどうかは、文面の品格を編集委員会でご議論いただいた上で決めていただければと思います。

 林俊雄

 

 返答のタイミングを失した感はあるが、特集を組みながら個人的に考えていたのは以下のようなことである。別に求められて書いた原稿であり、いささかずるいが、これ以上の知見があるわけではないので、編集長の見解ととさせて頂きたい。建築コストについての考察はすぽっと抜けている。

 

 自立した個のネットワークへ:サブコン、職人、タウン・アーキテクト:果てることのない役割

                                       布野修司

 今年の一月号から二年間、二四号、日本建築学会の『建築雑誌』の編集長を務めることになった。半年ほど編集委員会で議論を重ねた末に一月号の特集タイトルは「建築産業に未来はあるか」となった。当然だと思う。日本の建築生産の仕組みが今こそ問われているときはないからである。

日本の産業界そして社会全体が大きな構造改革を求められる中でひとつの焦点は建設産業である。戦後まもなくの日本は農業国家であった。就業者人口の6割は農業に従事していたのである。その後の高度成長を支えたのは重厚長大の製造業そして建設産業である。スクラップ・アンド・ビルドが日本経済を勢いづかせ、日本の建築生産は一時国民生産の四分の一を占めた。「土建国家」と言われたほどだ。しかし、大きな流れは第二次産業から第三次産業へである。そして、バブル期の金融業が日本を舞い上がらせ、掻き回した上に糸の切れた凧のようにしてしまった。日本の製造業の空洞化は誰の目にも明らかである。

こうした趨勢の中で建築産業はどうなっていくのかは今建築界全体の切実なる問いである。明確な指針は手探りであるにせよ、とにかく考える材料を提供しようというのが先の特集である。一瞥頂きたい。

まず前提とされるのは建設投資が国民総生産の二割を占めるそんな時代は最早あり得ないことである。先進諸国をみても明らかなようにそれは半減してもおかしくない。そして、スクラップ・アンド・ビルドではなく、建築ストックの再利用、維持管理が主体となっていくことも明らかである。都市再生の大合唱はその方向を指し示すけれど、需要拡大のみを期待するのは大間違いである。技術のあり方、仕事のあり方そのものが変化せざるを得ないのである。さらに、建築産業の体質が厳しく問われるのも明らかである。すでに、公共事業に対する説明責任が各自治体に厳しく問われる中で、設計そして施工に関わる業務発注の適正化が求められつつあるところである。それ以前に、不良債権の処理がままならず、大手建設業の倒産がさらに続くと噂されつつあるのが現状である。

こうした中で現在起こっているのは就業人口の大きなシフトである。建設業界はこれまで就業者人口調節の役割を担ってきたけれどその余裕は最早ない。IT産業、介護部門への転換は不可避である。そして、建設業界で起こっているのは、熾烈なサヴァイヴァル戦争である。「生き残る者」と「そうでない者」との二極分解が急速に進行しつつあるのである。

取り敢えず現在の問題は「そうでない者」の方である。先の特集の座談会で下河辺淳先生の一言が耳について離れない。

「生き残れない者は死ぬんです」。

確かに、建設業界の高齢化率は高く、需要減によって新規参入がなければ早晩業界全体は縮小して一定の規模に落ち着くであろう。問題はその先である。熾烈な淘汰が進行した後に残存するのがどういうシステムかということである。おそらく、スーパーゼネコンを頂点とする重層下請構造と言われてきた日本の建設産業体勢は変わらざるを得ないのではないか。

 ひとつの根拠は国際化である。建築は地のものとは言え、国際的なルールは尊重せざるを得ないだろう。CM、PMといったシステムは様々に取り入られていくであろう。もうひとつの根拠としてソフト技術の進展がある。企業の規模に関わらないネットワーク型の組織体制がいよいよ実現していくのではないか。そしてもうひとつ鍵を握るのは技術であり技能である。結局は、ビジネスモデルを含めてものをつくるノウハウを握っていることが決め手となるのではないか。そうした意味では能力あるサブコンが建築生産システムのひとつの行方を握るであろう。

 一方念頭に浮かぶのは地域社会を基盤においた建築職人のネットワークである。建築の維持管理が主となるとすれば建築業はどうしても地域との関係を深めざるをえないはずである。小回りが利いて、腕のいい職人さんの需要は減ることはないと考えるけれどどうだろう。

 限られた紙数で、法的枠組み、資格、報酬、保険など様々な問題を論じきれないけれど、期待するのは組織ではなく、技能、技術を持った個人のネットワークによる建築生産システムである。建築家、設計者のあり方もそのネットワークにおいて問われるだろう。まちづくり、維持管理、国際化が建築家にとってのキーワードである。グローバルにみて、 各地域においてサブコン、職人、タウン・アーキテクトのネットワークが果たすべき役割はなくなることはないと思う。 日刊建設通信新聞 「私論時論」 200224日 

 

2023年1月30日月曜日

現実を読むレッスンー初めて建築を学ぶ人たちへ 座談:布野修司・松山巌・大崎純・石田泰一郎・高島直之・新居照和・小野田泰明・岩下剛、建築雑誌、200312

現実を読むレッスンー初めて建築を学ぶ人たちへ 座談:布野修司・松山巌・大崎純・石田泰一郎・高島直之・新居照和・小野田泰明・岩下剛、建築雑誌、200312

建築を学ぶ人たちへ

 いわゆる「建築家」のみが「建築」にかかわっているわけではない。施主がいて、設計者がいて、施工者がいて、……さまざまな関係のなかで、「建築」は実現する。誰もが施主になれるように、誰もが「建築家」になれる。しかし、どのように「建築」を学べばいいのか。はじめて「建築」を学ぶために、この一冊を挙げるとすればそれは何か? 建築学会を代表する人たちに問うた。解答はさまざまである。おそらく、挙げられたすべてを読めば「建築家」になれる、ということではないだろう。問題は、それぞれに共通する何かである。とりあえず、一冊を熟読吟味すれば、そこに「建築」の本質に触れる何かがあると思う。

 

To Those Who Study Architecture

Persons engaged in “architecture” are not only “architects.”  Architecture is employed in various relationships between owners, designers, and contractors.  Everybody has the potential to become an architect, just as everybody has the potential to become an owner.  Yet how best may one learn architecture?  What is the book of choice for an introduction to this subject?  This question was addressed to representative persons within architectural society.  Their answers varied, and probably reading all the books cited would not make one an architect.  The issue is something that is commonly dealt with in those books.  If as a first step you read only one such book with appreciation, you may find references to the essence of architecture.




































200312月号 

. 座談会

本の先に見えるもの

初めて建築を学ぶ人たちへ

 

 

岩下 剛……いわしたごう

鹿児島大学助教授

1964年東京都生まれ/早稲田大学卒業/同大学院修了/居住環境学/工学博士/共著に『悪臭防止法の改正と対策動向』『民家の自然エネルギー技術』ほか

 

石田 泰一郎……いしだたいいちろう

京都大学助教授

1962年福岡県生まれ/東京工業大学卒業/同大学院修了/建築光環境、色彩/工学博士

 

大崎 純……おおさきまこと

京都大学助教授

1960年大阪府生まれ/京都大学卒業/同大学院修士課程修了/建築構造学/博士(工学)/1996年学会奨励賞、2000Hao Wang AwardCOCOON2000受賞ほか

 

小野田 泰明……おのだやすあき

東北大学助教授

1963年石川県生まれ/東北大学卒業/建築計画/博士(工学)/建築計画に「せんだいメディアテーク」ほか/1996年学会奨励賞、作品「苓北町民ホール」で2003年学会賞(作品)共同受賞

 

新居照和……にいてるかず

新居建築研究所代表

1954年徳島県生まれ/関西大学卒業/同大学院修了/B.V.ドーシのもとにインド留学/アフマダーバードCEPT大学院絵画専攻修了/作品に「安曇野の家」ほか/主な作品掲載誌に『住宅建築』20005月号

 

司会

布野修司

本号担当編集委員会委員長・京都大学助教授

 

松山 巖

本号担当編集委員会幹事・作家

 

高島直之

本号担当編集委員会委員・美術評論家

学ぶ世代と、教える世代

松山 本特集では、これから建築を学びたい、建築を知りたいという人に向け、現役で活躍していらっしゃる建築界の方々から、何を期待し、何を考えてほしいかを語る手づるとして本を挙げてもらいました。

 本日出席されている方にも、初学者に薦める本を持参いただきましたが、ここでは本にこだわらず、むしろ学生にいま求めること、逆に学生から教師が求められていることを伺いたいと思います。

 私は東京藝術大学の大学院生と付き合って3年目ですが、学生に建築批評を書かせる授業をしてきました。そのとき、学生はあらかじめある答えを読み取る能力はあるけれど、自分で考えて問いを出すような学習をしてきていないように感じました。考えるということで、違う世界と結びついていくようなことがなかなかできない。自分の考えていることを文章に書く、あるいは言葉にするには、自分がただ単に好きだということだけではだめで、なぜ好きなのかと考えていく思考回路が必要なのです。

 布野先生は、自分の学生時代と比べて、あるいはいまの学生と接していてどのようにお感じですか。

布野 20年以上教師をしてきましたが、どうもいまの学生は建築をあまり好きではないのではと危機を感じます。内田祥哉先生は私が学生の頃、授業の途中で「君たち、これがいいってわかる?」と言うです。どこがいいのか全然わからないけど、そう言われると、この建築何がいいのか知りたくなります。

 私は学生時代に建物を見て回ることに楽しみにしていましたが、いまの人は建築を楽しんでいない。むしろ、われわれが嫌いにさせる授業をしているのかもしれません。

大崎 大学生の場合、高校の成績で行けるところに決めたという人が多く、とくに建築でなければならないということなく、建築に進んでいるような気がします。

布野 建築を知る前にあきらめているところがあります。建築はもうちょっと簡単なもので、建物を見て歩いたり、松山さんのように学生時代にセルフ・ビルドで何か建ててみたり、そういうことをやるなかでおもしろいことをたくさん見つけていくはずなのに、たぶんそういう機会がないのでしょう。

松山 私もそう思います。モチベーションというか、動機づけというか、やる気というか、おそらくそういう仕掛けがないのです。

 とくに建物を見に行っていないのは問題だと思います。情報が多いせいもあるのでしょうが、もうひとつ言うと現実を見るとかえって幻滅するのか、あきらめてしまうのか、とにかく怖がっている感じがするのです。

 あらかじめ情報を見ているから、たとえその建物を見に行ってもショックを受けたり発見があったりということがないのです。それが、逆に建築を知らない人から「こういうのはおもしろいですよ」と言われると、「それじゃ一緒に見に行こう」となるのです。

大崎 われわれが本を読むのは勉強のためとか、昔の有名な人が何を考えていたかを知るためです。おそらく計画系でも、昔の有名な建築家が何を考えてどういうものをつくったか読書をとおして勉強するのだと思いますが、とくに構造系、環境系では知識を得るために読むという割合が非常に大きいと思います。

松山 世の中には二つのことが、あるいはいくつかのことが矛盾して存在していることがあります。その矛盾がどうして併存しているのかを考えることがとても大切だと思います。いまの学生は、そういう考え方があまりできないと私はものすごく実感しています。

 つまり、教え込まれた答えについては即答できるのですが、それに反する意見や理論があることを考えもせず、たとえば設計でもあらかじめこういうものが学生らしいなという感覚で進めてしまうのです。

布野 建築というのは構造とか設備を一個にしないといけない。その技術をどこで身につけるかが大切だと思います。現在の環境は環境、構造は構造といった分野ごとの教育が気にかかります。

石田 松山さんと布野先生が仰るように、ようするにいまの学生はあまり建築が好きじゃないのではないでしょうか。もう少し広く言うと、勉強すること自体にあまり興味を持っていないのかもしれません。

 私は建築外の出身なので他学科の先生と話す機会がよくあるのですが、それは建築だけではなくて、ほかの分野でも同じことが言えるようです。

布野 松山さんは「対立するところは建築そのもののなかにすでにあって、複雑で相反することをまとめるのが本当は一番おもしろい」ということを言いたいですよね。

松山 そのとおりです。

石田 それは、布野先生や松山さんが勉強していたころは、統合する道筋なり方法が少し見えていたということですか。

布野 何か前提がありましたね。

松山 わからないけれども、わからないということを「わからない」と言っていたような気がします。だから、先へ進もうかな、勉強しようかなという気になります。そして建築という領域だけでなくて広げて考えようという気があったから、当時、布野先生とも付き合ったわけですね。

 その頃、布野先生も私も20代で、近代建築の始まりみたいなものを一緒に勉強していました。結局、本を読んだり知識を得たりというのは、自分でやる気にならない限りだめだと思いますが、そういう場所をつくろうとしないのか、でき得ない感じがします。

 たとえば、新居さんは設計だけではなくて環境問題の運動もされていますが、そこの若い人たちはどうですか?

新居 私は地元の私立大学で一週間に一度講義をしているのですが、学校のそとで吉野川に取り組んでいるボランティアの学生や20代の人たちのエネルギーには関心させられます。ものすごく生き生きしていて、全身で吉野川の環境問題にかかわっています。

 私は、人間の本当の幸せとは何かとか、生きるとは何かを日頃から考えています。そこにモチベーションがあるような気がします。実際に各国の建築を見たときに、建築に人生をかけてもいいと体全身で感動する機会があるかないかの違いです。

布野 新居さんは学生の頃にヨーロッパの建築を見て回って、次に「インドだ」と言って、インドに行ってしまうでしょう。それはどうしてですか。やはり強烈に建築が好きだったからですか? 

新居 ヨーロッパをまわっているうちに、自分たちが建物を建てることがもう少し大きな意味での人の幸せとか喜びにつながることだと気づいたのです。もちろん建築は好きでしたが、もっと大きな何かがありそうだという魅力にかられて、ずんずんインドにはまっていきました。

 今日は、初学者に薦める一冊ということで、学生のときに勉強したルイス・マンフォードの『歴史の都市 明日の都市』を持参しました。マンフォードは、文明や都市というものを、人間、生命、生体と絡めながら書いています。学生時代にヨーロッパから西アジアをずっと回っていて、都市というのはわれわれが日常的に言っている経済とか現象的・表面的な話ではなくて、もっとすごく深いもので成り立っているのだと全身で感じました。

布野 私も黒板の前では伝わらないことが、フィールドでは伝わることを実感します。現場でこうやれ、ああやれ、こういう場合はこういう判断をするだ、ということを教えるのはフィールドでなければできません。

 

「おもしろそう」から「わかる」「感じる」へ

松山 授業や設計のプロジェクトでも、当たり前のことながら、現実のほうがはるかに広いわけです。本もその取っ掛かりになるもので、その先の現実を見るように、と内田祥哉先生も藤森照信先生も次の特集Ⅱで書いています。つまり、お二方とも本をチャンネルにしながら外を歩き、あるいは現実を見、現場を歩くということを期待しているのです。

 教師のほうもあらかじめこういうことを教えていればいいのではないかという感じで、そこから先へ進まないし、学生から学ぶ、あるいは現実から学ぶということをなかなかせずに閉じこもってしまう。だから、学生のほうが生き生きとしていなかったり、建築を学ぶことが非常に狭い知識のところで終わっている気がします。現実には分断されていて矛盾だらけのことがたくさんあるにもかかわらず、それをつないでいく、あるいは矛盾を矛盾としてどこかで組み立てなおしていくことが、なかなかできていないのだと思います。

岩下 学生を見ていると、不景気といえども建築学科はそこそこ人気があるようです。一般向けの建築を扱った雑誌がたくさん出ていたり、テレビ番組でも建築がブームになっていたりして、おもしろそうだなと思って来ている学生は、まだまだたくさんいます。しかし、途中でつまらなくさせているのは、われわれ教師の責任かもしれません。「おもしろそう」と「本当に楽しい」というギャップを埋めるのが教師です。

 とくに環境や設備は設計演習で教えるのが難しく、どうしても知識や要素技術のバラ売りが必要です。しかし、なかには、学生に「段ボールで家をつくってみなさい」と言って、?????サートの風通しを測定させて「どういう家にすると風通しがいいか、実際になかに入って感じなさい」という授業をしている先生もいます。そうすると、これは涼しいとか、蒸し暑いとか、風通しの大切さを全身で理解できるのです。

 「おもしろそう」じゃなくて、「わかる」「感じる」というところまで持っていけると意味があると思いますが、なかなかそこのギャップが埋められていないと私は反省しています。

松山 私が大学院生に与える最初の課題は、自分の卒業設計あるいは卒業論文を簡略に説明させるというものですが、皆なかなか説明ができない。そして最後に建築を初めて学ぶ学生に出す設計課題を考えさせるのですが、突然住宅を設計せよ、敷地は一様になど、それから幅を広げて考えることができない。

 私もそうでしたが、卒業設計でも卒業論文でも、自分で社会に問いかけて、テーマを出していって、それがどういう答えになるかは別として問いかけることが必要なのです。

高島 このあとの特集Ⅱでは、単行本というかたちで集約されていますが、読書という意味だと、私が学生時代に建築に興味を持つきっかけとなったのは雑誌ジャーナリズムです。つまり単行本はどこかに連載されたものが集められて出されることが今より多かったのです。『朝日ジャーナル』『現代詩手帖』『デザイン批評』『美術手帖』など、ジャンルを越えたところで都市論や建築を引き寄せていくような問題設定がたくさん出ていました。

 たとえば、磯崎新さんの『建築の解体』も一冊になっているけれども、『美術手帖』に連載中に拾い読みしながらすごく刺激を受けました。

松山 私だと『デザイン』という雑誌です。長谷川尭さんの『神殿か獄舎か』はそこで読んでいました。

高島 昔はジャンルが横断したかたちで、雑誌ジャーナリズムが成り立っていましたが、今は『Casa BRUTUS』の時代になっているのです。建築を学ぼうとする人たちは、建築なら建築のジャンルからだけではなくて本当はいろいろなものから情報を得るべきですが、うまく作動していないという状況です。

布野 情報をインパクトあるかたちでまとめる建築ジャーナリズムの機能がすごく衰弱してしまっている

 日本建築士会連合会の会誌『建築士』(200310月号)で「建築への扉を開いた この一冊」という特集が組まれています。石山修武さんは師匠の渡辺保忠先生の『工業化の道』を、菊竹清訓先生は自身の「かたち、かた、か」というデザインの三段階方法論を考える端緒となった武谷三男の『弁証法の諸問題』を挙げています。このなかで、高橋晶子さんは『SD』の791月号「篠原一男作品集」だと書いています。

 高橋晶子さんは京都大学の卒業だけれど、そこから東京工業大学に入って篠原さんの研究室まで行ってしまったのです。私も、何か一冊が欲しくて神田の古本屋にバックナンバーを探しに通っていた記憶があります。

松山 建築の周りの状況はずいぶん変わってきたのかもしれませんね。

 

「効率よく」すべきこと、できないこと

大崎 建築というのは工業社会をリードする分野ではないから、機械や航空などの技術を導入せざるを得ません。免震・制振にしても考え方は建築独特のものですが、要素技術は他分野からもらうものなのです。しかし学生は、そういう情報を収集しないといけないという事実がわかっていない。修士論文にしても、できるだけ本を読まないで、できるだけ勉強しないで効率よく終わらせたいようです(笑)。講義にしても、何の役に立つのかを教えなければ勉強しません。

 今日はこれだけは絶対言いたいと思っていたのですが、とにかく新しいものを考え出そうと思ったら、基礎をみっちり固めないと新しいものは出てこない。私は日頃、「とにかく本を読みなさい。勉強しなさい。ほかの関連分野の情報を仕入れて、自分の基礎を固めてから新しいことを考えなさい」と言っています。

高島 雑多な情報を飲み込んで、どれが要らないかと削るのも本の読み方であり、ものの考え方だから、「効率よく」という考え方はあり得ないですね。

小野田 しかし、もともと情報がいっぱいあるなかに生まれた若い人たちは、サバイバルして受験競争で勝ち残るためにはいかに効率よく情報を集めるかを優先しなければならず、その才能に長けた者が私の周りに集まってきます。

 先日、若手映画監督の青山真治さんとお会いしたときに、映画を全然見ていないのに「映画をつくりたい」と言ってくる若い人がいると言っていました。そういう人たちに「映画館に行って、徹底してこの10本を見てこい。見てきたら話を聞いてやる」と言って、強制的に闇のなかで映画を見せ続けるそうです。そういうのは建築だけでなく、どこのジャンルでも同じようなことが起きているのだなと感じさせられます。

松山 あるとき私の授業で、『世紀末の一年』(朝日新聞社、ISBN:4022597356)という、いろいろな文献あるいは新聞から1900年について書かれた内容を編集した自書を「書評をしろ」と言ったのですが、「これは松山著じゃない。松山編である」と言うわけです。それで私は「それでは建築は何でもオリジナルなのか。コンクリートはオリジナルなのか。構造はオリジナルではないし、シェルもオリジナルではない。もうすべてやってあるではないか」と問いかけました。オリジナルということと、それを学んで自分がある表現をするということが、混乱しているのです。

 オリジナルなんていうのは、ものすごく専門的な研究をして基礎を勉強し続けたなかでギリギリになって出てくるものでしょう。脂汗を流しながら、そのことをずっと考えているからポッと出てくるもので、考えていなかったら出てくるわけはありません。

布野 松山さんの『世紀末の一年』をただ編集しただけだというのは、そもそも編集をばかにしています。いろいろな雑多な要素をひとつにくみ上げる能力を信じていないです。

松山 作家の堀江敏幸と話していたら「建築の学生さんはけっこうフランス語は熱心ですよ」と言っていました。彼は明治の工学部でフランス語を教えているのですが、文章を書かせると、いまの学生は接続詞がない文章を書くと言うのです。つまり「私は~が好きだ」「私は~がいいと思う」と並列して、「だから」「それゆえ」という言葉が出てこない。接続詞で論理を組み立てていくことが非常に苦手だと言うのです。

 映画でもいまはビデオですべてのものが見られるから、われわれと違い、記憶のなかで古い映画をあそこの映画館で見たという印象ではなくて、彼らは1920年代から1940年代、50年代、60年代の映画も最新映画も一緒に見られるわけです。それが並列にある状況で、もしかしたらおもしろいこともできるのだろうけど、あまりに情報が拡散しすぎているような気がします。

小野田 一般向けの建築ガイドブックを携えて建物を見に行き、「見てきました」という学生が増えています。

 私が昔外国に行ったときの笑い話ですが、日本人はみんな『地球の歩き方』を持って、見たところを丁寧にチェックして、そこに載っているところしか行かないことに驚きました。うまく使えばいいと思うのですが、履行することが義務になっていて、そこで何かをつかむのではなく、日本に帰ってから日本人の友だちに見せるためにここにいるんだなと思いました。

布野 私の研究室では『地球の歩き方』は禁止ですが、暗記する奴までいますよ。案の定ここでだまされましたとか(笑)。

松山 海外旅行に行って撮ってきた建築の写真ぐらいつまらないものはないですね。たとえばロンシャンだったら、本でよく見るアングルばかりでディテールが写っていない。その人なりの見方があれば、現場に行って違う写真を撮っているはずなのに、相変わらず二川幸夫さんが撮ったような写真になる。

 現実のほうが広いから、歩いてみたら全然違う方向に行くわけです。本というのはその回路のひとつだと思います。ひとつを深く読めば、関連する本が読みやすくわかると思います。ただし、一冊の本を深く読むという訓練が必要です。

 

教科書の存在

布野 岩下さんは何を持ってきたのですか。

岩下 私はレイナー・バンハムの『環境としての建築』です。これは何回か読んでいますが、最初は読んでも何だかわからない。建築家の名前もわからない。学部の12年でコルビュジエなりいろいろな建築家の名前がわかってきて、あらためて読んでみると今度は設備のことがわからないのです。そして設備の勉強をしてさらに34回読み直して、ようやくこんなことが書いてあるのかなとわかってきました。読むたびに全然視点が違うのです。

布野 バンハムでしょう、それからベネボロとか、スカーリーとか、僕らの世代の定番としての教科書みたいなものがありました。最近はそういうものがない。たとえば近代建築を勉強するときはみんなどうしているのですか?

小野田 私は、ヘルツ・ベルハーの『都市と建築のパブリックスペース』を薦めます。いかにも合理主義建築計画者が持っていそうな本ですが、パブリックとプライベートはこういう空間なのだという実例が入っています。

布野 それを使って学生に教えているですか?

小野田 これをスライドで見せると、プライベート、パブリックという抽象的なものが何なのか、「つまらない建築」と「よい建築」はどこが違うのか理解できます。

 私は、たとえば「建築論」をいまの学生に読ませても、きっとリアリティはついてこないと思います。しかしリアルな世界と論理の世界をつなぐ刺激をポーンと与えてあげると、いまの学生は結構やりますよ。

 私がいま学生にやらせているのは、映画を見せて「なんでもいいから、このなかに流れている空気の質を感じる建築をつくりなさい」という課題です。そうすると、相当おもしろいものをつくってきます。私たちは建築の形をつくるだけでなく、なかの空気をもつくり出すのだ、という理念が彼らに通じている証拠です。

松山 小野田さんが実行しているように、何か具体的なもので見せていかないと難しいのかもしれませんね。

新居 年輩の方々は、もう少し社会に対する大きな問題を自分たちにとってのリアルな問題として捉えていたのだと思います。しかし、いまはそのあたりが分断されて、そこから出てくる想像力や問題意識がとても小さくなっているのです。

布野 私は毎夏、岐阜の山のなかに入るんですが、学生たちが一個だけ作品をつくるんです。施主さんがいて、村が10万円出して、その範囲で施主さんのために犬小屋をつくったり、茶室をつくったりするんです。放っておいてもおもしろがってつくり上げます。これは体とモノと空間の近さを感じるためのトレーニングだと思っています。

松山 私の家にはテレビがありませんが、「プロジェクトX」という番組が流行っているでしょう。よくみんな泣くらしい。あれは挫折しながら夢を追いかけて何かを完成させたという話でしょう。

布野 高度成長期のエンジニアとか。

松山 そういう夢のあった右肩上がりの時代ではいまはないのです。ですから教師も学生に「これからは新しい都市づくりを」なんていうことはとても言えない。だからといって小さくなってしまうのはいけないけど、ではどうしよう?と悩んでいる教師の気持ちを学生は薄々感じています。

新居 現実に夢がないから自殺者が多くなっているのでしょう。

高島 そういう意味で、いまは教科書がないのですね。学生が選ぶ情報というのは、なにかインデックスを提示している側が存在しているのですか。

小野田 学生は友だちに威張れるというか、コミュニティのなかでこれを知っていないとまずいという感覚で情報をチェックしているようです。

布野 でも「最先端」の情報にはあまり興味ないですよね?

小野田 だから丸くなってしまう。しかし、逆に流行のMVRDVなどに対しては、すごい勢いで情報を仕入れ、あっという間にみんなオランダモダン建築のミニ評論家みたいになってしまいます。

布野 ところでみなさんは、授業でトレースなんかさせますか?

小野田 古い先生というか、しっかりした先生もいらっしゃるので、コピーからちゃんとやらせているところもあります。

松山 安藤忠雄さんは、コルビュジエの作品模型を学生につくらせていましたね。

小野田 あれは効果あると思います。私も好きな作品の模型をつくらせます。好きな作品の部分模型を同スケールでつくらせるのですが、トレースよりも早く理解できます。

 

なぜ建てるのか

布野 私が初学者に薦める本として持ってきたのはロクサーナ・ウォータソンの『生きている住まい――東南アジア建築人類学』です。屋根のシンボリズムの話、コスモロジーからテクノロジーの話まで民家を広く説いています。身近な住まいの問題から、建築をめぐるありとあらゆることを考えさせてくれます。

石田 私はトーマス・クーンの『科学革命の構造』という、いわゆるパラダイムという概念を最初に世に出した本を薦めます。考え方が違う集団同士で学際研究を進めていくときに、この本は新しいものを与えてくれると思います。

松山 パラダイム転換というとみんなわかったような気になるのだけど、クーンが言っているのは「見え方の違い、見方の違いが断続的に変化していく」、つまり「見方を変えなさい」と言っているのだろうと、私は理解しました。

 私が一冊挙げるとしたら、ケヴィン・リンチの『Site Planning』です。私が学生のときに話題になったリンチの本ですが、今でも教科書として通用すると思います。日本とアメリカではまち並みの形成あるいは隣棟間隔の違いはあるけど、こいうことを考えていかないといけないのかなというリストがずっと書いてあるのです。木の大きさまで書いてあって、こういうものは他にありませんでした。

布野 私はその頃、クリストファー・アレグザンダーの『Notes on the Synthesis of Form』(Harvard Univ PrISBN0674627512を英語で読んで、一生懸命プログラムを書いて、いかに設計プロセスを論理化するかなんていうことを考えていました。その後、アレグザンダー自身がパターン・ランゲージに走り、それからプログラムを書くことをやめてしまいました。パターン・ランゲージにしても『SD』や『都市住宅』の雑誌でバンバン紹介されて、学生がそれを読んで、それを卒論のヒントにもしていました。

大崎 私はEngel・Heinoの『空間デザインと構造フォルム』(日本建築構造技術者協会 訳、技報堂出版、ISBN:4765524167)をお薦めします。力の流れや伝わりについて書かれている図解集です。ぜひ、デザイン系の人に読んでいただき、最低限これぐらいは理解してほしいと思います。

布野 構造系の本で感心したのは増田一眞さんの『架構のしくみで見る建築デザイン』で、山のなかに入って小屋を建てるときに、風がこれだけあるところではガラス窓の厚さがこれぐらいで、壁の断面はこれぐらいといった、現場での計算に知恵を与えてくれます。

 本ではありませんが、私がすごく気に入っているのは、京都大学の増田友也研究室にいたドメニク先生の理論です。見事にすべての木造形式を説明し切っているのです。日本の竪穴住居から東南アジアの木造をみんなリーズナブルに説明できる構造発達論。木造設計するときに必要な構造原理です。

松山 大学で設計演習を担当している先生方と話をしていて疑問に感じるのは、教師が失敗談をしゃべらないことです。ここが難しかったという話をしゃべってほしいのです。

 片山和俊さんが「彩の国ふれあいの森 森林科学館・宿泊館」という木造トラスを使った施設を建てたので、「これはどこが難しかったのですか? なんどか失敗もしたでしょう」と聞くと、ここは予算が足りなかったなど、うれしがってしゃべってくれるのです。つまり、ほとんどの設計者は失敗の連続をしているのだから、その話をすればいいし、そういう仕掛けがないと学生は簡単に建物ができているものだと勘違いしてしまいます。

布野 林昌二さんが書いた『建築論集 建築に失敗する方法』(彰国社、ISBN4395001424)という失敗事例のような本を書けばいいのですね。

松山 山本理顕さんの『■■■■■■■■■■』はおもしろかった。失敗例集のようなものです。あれは反面教師ですよ。

小野田 昔は建物をどう建てるのかという課題に向かって、Howを学んでいたわけです。しかし、住宅戸数のほうが世帯数よりも多い現在、何を建てていけばよいのかが課題となっています。

 もう一冊挙げるとしたらクリスチャン・ノルベルグ=シュルツの『建築の世界――意味と場所』で、「建築は何で」というところを説き起こしています。人間が生きることと建築をつくる、もしくは建築のなかに住むとことはニアリー・イコールだということです。

大崎 必要だから建てる。そういう単純な話です。

布野 予算があるから建てるというのが多すぎる。

小野田 なぜ建てるかという疑問はないのですか?

松山 いや、一番の疑問でしょう。

大崎 私にしたら、デザイナーはなぜこんなにつくりにくいものを建てたがるのかすごく疑問です。

松山 それはきっとオリジナリティでしょう。別に根拠はなく、人と変わっていたいということだけ。

小野田 変わっていたいというか、困難な問題を解くのに、こういう解き方があったんだというのを、みんな見つけたいのです。

布野 オリジナリティかどうかわからないけど、新しい空間や見たことのない建築には、ある種の役割があります。しかし、オリジナリティが成り立つには、新しさの共通ベースがないとだめでしょう。

高島 なぜ建てなければいけないのかという疑問は大きな問題です。それは、小野田さんが言ったように意識に先立って「人間は存在しているから建てなければいけない」という、実存主義で突破しなければいけないと思います。

 私は建築を教えたことがないのでわかりませんが、子どものときにレゴや模型づくりが好きだったという人のモノづくりに対する執着心と、学生レベルでの「つくりたい」という欲望は関係があるのですか?

布野 幼児に建築教育している高崎正治さんから、2歳ぐらいまでに造形能力は決まってしまう、という話を聞きました。2歳までは非常に造形的なイマジネーションに富んだものを粘土などでつくっているのに、2歳を超えると母親の顔を見だすというわけです。家をつくるときに、家の格好をしていないとまずいんじゃないかなとか。

松山 建築教育において天才をつくるということは、あまり意味がないでしょう。天才がいるとすれば、そういう人はどうやっても出てきますから。

 繰り返しますが、世の中の情報より現実や歴史のほうが広く、本や講義などはその一通路にしかすぎません。そこから先にボーンと広がっている外の世界とのつながりを教えなければいけない。

大崎 それは教えるものでもないですね。建築というのは、いろいろなものをどう組み合わせていくかという作業で、研究も実務もそうです。いまこれをやればいいというポイントがないのであれば、いろいろな情報から自分で必要なものを選んで総合していきなさいという訓練をさせるのが一番です。それは教えるものじゃないので、それができない人は建築をあきらめたほうがましです。

岩下 『地球の歩き方』の先が欲しいですね。あれに出てくる美術の情報はすごく断片的で、もっと知ろうと思うと、図書館で調べなければわからない。そういうときって、すごく楽しいじゃないですか。もう1ランク上のことを知る喜び。

小野田 藤森照信さんの展覧会のカタログに「目玉相撲」というのがあって、見るときは目玉で相撲を取っている、勝ったと負けたがあるんだ、「これは負けた」みたいな、と書かれていました。

石田 研究でも何でも、小さいテーマでも集中して手足を動かして、これは設計でもそうだと思いますが、実践してみて一生懸命やって、何かつかむものがあるかどうかというのはその人の勝負です。

 大学の教育といっても突き詰めたところは職人の技を盗むというところがあるのではないでしょうか。

布野 どうもありがとうございました。

                             108日 建築会館にて

 

 

『歴史の都市 明日の都市』

ルイス・マンフォード、生田勉 訳/新潮社/ISBN:41050930101985

 

『環境としての建築――建築デザインと環境技術

レイナー・バンハム、堀江悟郎 訳/鹿島出版会/ISBN4306041239 1981

 

『都市と建築のパブリックスペース――ヘルツベルハーの建築講義録』

ヘルツ・ベルハー 著、森島清太 訳/鹿島出版会/ISBN43060433121995

 

『生きている住まい――東南アジア建築人類学』

ロクサーナ・ウォータソン、布野修司 監訳/学芸出版社/ISBN47615405751997

 

『科学革命の構造』

トーマス・クーン 著、中山茂 訳/みすず書房/ISBN: 46220166721971

 

Site Planning

Kevin LynchMit PrISBN:0262121069 3rd 1984

 

『空間デザインと構造フォルム』

Engel・Heino 著、日本建築構造技術者協会 訳/技報堂出版/ISBN:47655241671994

 

『建築の世界――意味と場所』

クリスチャン・ノルベルグ=シュルツ 著、前川道郎・前田忠直 共訳/鹿島出版会 /ISBN:43060428391991