『群居』創刊一〇周年,雑木林の世界42,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199302
雑木林の世界42
『群居』創刊10周年
布野修司
普請帳研究会(代表 宮澤智士)が出している『普請研究』という雑誌がある。十年前に創刊されて、年四冊、今年で四〇号になる。その三九号は「大工・田中文男」と題した特集である。田中文男といえば、「大文」(だいふみ)さんと呼ばれて知られる。大工の文さんをつづめた言い方だ。田中さんというのは世間に多すぎるから、自然にそう呼ばれ始めたらしい。
ところで、本誌の読者であれば「大文」さんを知っている人が多いのではないか。希代のインテリ棟梁である。「日本建築セミナー」や「木造建築研究フォーラム」での活躍もよく知られている。木造文化についての造詣の深さでは右に出るものがいないのではないかと思える程今ではヴェテランである。名人大工、棟梁は今でも日本に数多いけれど、『普請研究』のような研究誌を十年も出し続ける大工さんはいないだろう。
大学の研究室にいた頃から存じ上げていたのであるが、SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)の関係で、特にこの二年、近くで「大文」さんに接する機会を得ている。幸せである。声がでかい。会えば、必ず怒られる。僕のような大学の先生は特に駄目である。能書きばっかり言ってないで、もっと、木のことを勉強せい、と怒鳴られっぱなしである。特集「大工・田中文男」を読むと「大文」さんの人柄がよく伝わってくる。
棟梁田中文男格言集からいくつか引けば次のようである。
「職人だから焼酎を飲んでいればいい時代ではない」
「まず餌を投げて魚をつかまえる」
「自分の町のことは自分で考えろ」
「時代に賭ける勇気がなくてはだめだ」
「金持ちがつぶれるのは世の中のためーつぶれたくなかったら自分でがんばれ」
「職人は馬鹿でできず、利口でできず、中途半端でなおできず」
「粗悪品をつくってたら大学はつぶれる」等々
是非、一読をお薦めしたい(普請帳研究会 03-3356-4841)。
ところで、『普請研究』が創刊された丁度その頃、もうひとつの雑誌が創刊された。『群居』である。一九九二年の年末に三一号が出た。一九八一年末に、創刊準備号を出しているから、まさに丁度十年である。同じ季刊であるのに号数が足りない。『普請研究』には脱帽であるが、我ながらよく続いて来たと思う。『群居』の編集人というのは実は筆者なのである。
『群居』の母胎となったのは、ハウジング計画ユニオン(HPU)という小さな建築家の集まりである。大野勝彦、石山修武、渡辺豊和、と僕が最初のメンバーである。創刊の言葉は次のようだ。
「家、すまい、住、住むことと建てること、住宅=町づくりをめぐる多様なテーマを中心に、身体、建築、都市、国家をめぐる広範な問題を様々な角度から明らかにする新たなメディア『群居』を創刊します。既存のメディアではどうしても掬いとれない問題に出来る限り光を当てること、可能な限りインタージャンルの問題提起をめざすこと、様々なハウジング・ネットワークのメディアたるべきこと、グローバルな、特にアジア地域の各地域との経験交流を積極的に取り挙げること、等々、目標は大きいのですが、今後の展開を期待して頂ければと思います。」
恥ずかしながら、僕が書いた。この十年を振り返って、よく続いたと思う一方で冷や汗が出る思いである。
『群居』の十年で、何が出来て、何が出来なかったか。十周年記念ということもあり、少し、真面目に議論してみようということになった。上の四人に加えて、二十名余りが集まる機会をもったのであった(一九九二年一二月八日 群居「車座」座談会 東京・赤坂)。
色々な話が飛び出してなかなか面白かったのであるが、つくづく思うのはこの八〇年代という十年、特に後半のバブルの時代は一体なんだったのかということである。『群居』が出発した七〇年代末から八〇年代初頭には、二度のオイルショックを経験した七〇年代の閉塞的な雰囲気が濃厚であり、八〇年代半ばから後半にかけて、バブル経済の高揚によって、「建築の黄金時代」が再び訪れようとは全くもって予想することさえできなかったことである。
建築家がもう少し真正面から「住宅」の問題に取り組もうというのがHPUの素朴な主旨であり、その動きは建設省の「地域住宅(HOPE)計画」などの展開とも相俟って地道な動きにつながりつつあるようにも思えたのであるが、バブルはそうした展開を吹き飛ばしてしまったようにも見える。
七〇年代末において、建築家を取りまく状況は極めて厳しかった、議論の中で振り返ってみると今更のように思う。「われわれにとって、まず問題は、住宅を最後の砦としてではなく、最初の砦としてなにが構想できるかである」と、僕は『戦後建築論ノート』(相模書房 一九八一年)に書いた。バブルとともに登場してきた若い建築家たちには、想像できないことであろうが、住宅の設計が「最後の砦」である(原広司)という状況認識は広範に共有されていたのである。
六〇年代初頭、一斉に都市へ向かって行った建築家たちは、六〇年代末からオイルショックにかけて、次第に「都市からの撤退」を迫られ、住宅の設計という「自閉の回路」へ追い込まれていった。そうした過程を踏まえた上で「自閉の回路」をどう開いて行くか、それが『戦後建築論ノート』のテーマであった。八〇年代に、都市開発の巨大なプロジェクトが次々に構想され、建築家が無防備に再び「都市へ」と巻き込まれていくことなど夢想だにできなかったのである。
議論のなかで、「群居」する像を提示できなかったことが決定的な問題ではないかという話題になった。テーマとしては、住宅の生産流通の問題と住宅の表現の問題の関係、その裂け目をどう解くのかという、ある意味では最初からの基本問題も大いに議論されたのであるが、町をどうつくるかが具体的に考えてこれなかった、少なくとも、ありうべき町の像を示すべきではないか、そしてそれこそHPUが実践すべきではないか、という展開になってきたのである。都市構想を問う、「群居」の形を提示する、次の十年のテーマである。
十年というのはそう短くはない。それぞれ歳をとった。メディアを維持して行くためには当然若い世代の参加が不可欠である。様々な課題を意識しながら、『群居』はさらに「停滞無き緩慢なる前進」(田中文男)を続けようと思う。
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