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2023年11月4日土曜日

水牛ー風景のかけら 世界の集落を切りとる 鞍(鞍形屋根),KAJIMA月報,200604

風景のかけら 世界の集落を切りとる 鞍(鞍形屋根),KAJIMA月報,200604

 

鞍(鞍形屋根)  角、水牛、舟 トンコナン 

  トラジャToraja族、スラウェシSulawesi、インドネシア,Indonesia

 

建築物の屋根の形は、古今東西、実に様々である。しかし、基本的には、使用可能な材料によって、また、建築構造力学的条件によって、さらに雨風や暑さ寒さを凌ぐために限定されるから、その形に無限のヴァリエーションがあるわけではない。ドーム、ヴォールト、アーチ、方形、入母屋、寄棟、切妻など、基本的な型を人類は創り出し、用いてきた。しかし、そうした中で、このサダン・トラジャSa’dan Toraja族の屋根の形は世界中にそう例がない。鞍形屋根という言葉は、日本語にはないけれど、英語ではサドルsaddle・ルーフという。棟の反りがカヌーの様な小舟の側面に似ているということで、舟形屋根ともいうが、鞍の形がまさにぴったりである。

この鞍形屋根が連続的に並ぶサダン・トラジャ族の集落景観は実に壮観である。トンコナンtongkonanと呼ばれる住居の高床の空間は基本的に間仕切りが無くワンルームで、床に段差がつけられて3つに分かれ、中央が低く、前面と後方が高くなる。中央に1m角で高さ30cm程の炉Api Dapoが置かれる。中央のサリSaliが、居間、食堂・厨房兼用の多目的空間で、奥のグンブンsumbungが家長の空間、人口前面のパルアンpaluangは客もしくは家族の空間となる。興味深いことに、のみならず、倉も、そして棺も同じ形である。大切なお米を収蔵する倉、死者ための住まい、そして生きている住まいに共通する思いが鞍の形に込められているのである。

サダン・トラジヤ族の居住する地域は、標高800m1600mの山地であり、今世紀初頭まで外界の影響を受けることが比較的少なく、ルウ(ブギス)人の居住する沿岸部とは、極めて異なった固有の文化を保持してきた。トラジヤとはもともと「山の人」を意味し、スラウェシ島内陸山地部の民族の総称である。ト通常、パル峡谷を中心とする「西トラジヤ」、ポソ湖を中心とした「東トラジヤ」(バレエ・トラジヤ、ポソ・トラジヤ)そして、サダン川上流部の「南トラジヤ」(サダン・トラジヤ)の3つのグループに分けられる。ひときわ目を魅くサダン・トラジャの住居と他の2つの住居は全く形が異なる。東(ポソ湖周辺の)トラジヤ族の住居は急勾配の屋根が直接床から建ち上がり、壁をもたない。また、土台・基礎を丸太で井桁に組んだものも見られる。

鞍形屋根は他に例がないと書いたが、わが国の古墳から出土する家形埴輪によく似たものがある。ただ、棟が直線的である(もっとも、簡易なトンコナンには棟が直線的なものがなくはない。棟が反り返り出したのは、外界との接触以降という説がある)。そして、もうひとつ、日本の住居との関連で興味深いのが、住居前面の棟持柱である。水牛の角がいくつも飾られて、その数が家の格を表わすと考えられている。水牛がサダン・トラジャ社会において持つ意味、とりわけ、その葬送儀礼の持つ意味、風葬を行う死生観などサダン・トラジャ族についての興味はつきないが[i]、この棟持柱は、鞍形屋根とともにサダン・トラジャの住居を特徴づける建築要素である。そして、この極めて象徴的な柱は、伊勢神宮に見られる棟持柱の原型ではないかとも言われるのである。

果たして、この鞍形屋根や棟持柱は日本の住居のルーツと直接関わるのであろうか。こうした楽しい推測に理論的根拠を与えてくれるのが、日本の竪穴式住居(「原始入母屋造り」)から東南アジア一帯に見られる多様な木造架構形式を統一的に説明する、G.ドメニクの「構造発達論」である。東はイースター島から西はマダガスカル島まで広がるオーストロネシア世界を見渡すといくつかの系統図が描けそうである。

北スマトラの、バタク・トバ族の住居の屋根は、サダン・トラジャ族とは一見異なるが、叉首構造を基本とする架構形式は基本的には同じである。屋根が滑らかな曲線となるのは割竹が用いられ、二重、三重に葺かれることによる。「切妻転び破風屋根」と呼ばれるが、屋根が前後に転ぶ(迫り出す)形はよく似ているし、相似形の住居棟と米倉が向き合う形で平行に並べられる集落構成も同じである。トラジャは、トバ・ラジャ(トバの王)から来ているという説もあるが真偽は定かではない。

ヴァナキュラー建築の世界の大きな魅力は、多様性の中にある体系が存在すること、地域毎に実に多様なあり方をする住居が一方で共通の要素をもつことである。同じバタク族でも、バタク・カロ、バタク・シマルングンといった種族の架構形式は同じような気候風土でありながら異なる。サダン・トラジャ族の場合は、バタク諸族と大きくは架構の原理を共有しながら、南スラウェシの風土の中で鞍形屋根という独特の形を生み出したのである。

 



[i] 布野修司編著、『世界住居誌』、昭和堂、2005年。布野修司(監訳)+アジア都市建築研究会、『生きている住まいー東南アジア建築人類学』、ロクサーナ・ウオータソン著, The Living House: An Anthropology of Architecture in South-East Asia,学芸出版社,1997年。




 

2023年8月20日日曜日

伊東豊雄論のためのメモランダム,建築ジャーナルNo.1105,200607

 伊東豊雄論のためのメモランダム,建築ジャーナルNo.1105,200607

建築ジャーナリズムと伊東豊雄

 伊東豊雄論のためのメモランダム

リード

建築に限らず、美術の世界でも批評が成り立たない時代と言われる。主題を失い、主役を求めなくなったからだろうか。伊東豊雄らの建築の状況と、建築ジャーナリズムの興亡について考える。

<本文>

伊東豊雄が菊竹事務所を辞し、建築家としてデビューする「アルミの家」(1971年)から「中野本町の家」(1976年)に至る時期、頻繁に顔を合わせる機会があった。『建築文化』誌をメディアとする「近代の呪縛に放て」というシリーズ企画(197678年)のための会合である。伊東豊雄を最年長に、長尾重武、富永謙、北原理雄、八束はじめ、布野修司というのがコア・スタッフであった。まだ大学院に席を置きながら、この集まりに参加させてもらったのは僥倖という他ない。

 オイルショックから近代建築批判へ

 オイルショック(1973年)があり、建物は建たず、掲載に足る作品が少ないことを嘆いていたのが当時の田尻裕彦編集長である。建築ジャーナリズムの中心には『新建築』があり、部数はとるに足らなかったとはいえ、対抗メディアとして『建築文化』があった。いわゆる「『新建築』問題」*が尾を引いていたのは間違いない。建築エスタブリッシュメントの「格付け」を基軸とする『新建築』に対して、建築批評、建築ジャーナリズムの自立を旗標(はたじるし)とした『国際建築』、『建築』が潰れ(1967年)、ひとつの拠り所と考えられたのが、「特集主義」で建築界の問題を掘り下げる『建築文化』である。

そして、一方、平良敬一を軸として『SD』(19651月~)、植田実の『都市住宅』(19685月~198612月)が興され、棲み分けるように『建築知識』(19591月~)があった。この建築メディアの戦後第一次分裂時代を背景として登場してきたのが磯崎新と原広司である。「五期会*」が「60年安保」で活動を停止した後、丹下健三+メタボリズム・グループが日本の建築界をリードするが、その批判、すなわち近代建築批判をてこに登場したのが磯崎原である。また、長谷川堯の『神殿か獄舎か』以降の一連の近代建築批判が若い学生たちを捉えた。

「近代の呪縛に放て」のシリーズにおいて、若い建築家たちの標的はすでに磯崎―原であった。このことを最も意識していたのが、「アルミの家」で颯爽とデビューしていた(若い学生たちにはそう見えていた)伊東豊雄である。石山修武、毛綱モン太(毅曠)、渡辺豊和、六角鬼丈、石井和紘など、夜な夜なこの会の流れに参集した若い建築家たちも同様であった。伊東豊雄はこの時代のことを懐かしそうに振り返るが、その場が実に刺激的で楽しいものであったかは僕も証言できる。

この時代、皆喰えなかった。毛綱など、建て主に会いに行くスーツが買えない、といった状況である。しかし、建築ジャーナリズムは若い世代に優しく厳しかった。『TAU』(商店建築社)という雑誌が創刊され、真壁智治、大竹誠らの遺留品研究所、井出建、松山巌らのコンペイトウが集まった。布野、三宅理一、杉本俊多、千葉政継らの「雛芥子」にも紙面を割いてくれた。メディアが若い世代を育てる。振り返れば、この時代は、メディアと建築家の幸福の時代だったのかもしれない。

 主題喪失、野武士の時代に

 磯崎―原時代は、バブル時代を迎えて終焉を迎える。「ポストモダニズム」建築の跋扈(ばっこ)によって、共有化された主題が消え、主役も必要とされなくなるのである。バブル経済は、多くの外国人建築家を日本に招き、おそらく、明治以降かつてない多様な建築デザインの華が日本に咲いた。磯崎新が「大文字の建築」を論(あげつら)わざるを得なかったのは、それ以外に自らを特権化する術が残されていなかったからである。

かくして、磯崎―原を追随しながら乗り越えようとした伊東ら「野武士」たちの時代がきた。せいぜい、住宅スケールの作品しか仕事の機会がなかった原広司が梅田スカイビルやJR京都駅ビルを設計する機会を得、「野武士」たちもそれぞれに公共建築を設計する機会を得た。また、相次いで日本建築学会賞を受賞することになる。

 伊東豊雄は、当時「状況論から建築論へ」などという奇妙な論文を書くのであるが、この間、最も「状況的」であった、ように思う。「シルバーハット」(1984年)、「レストラン・ノマド」(1986年)は一般ジャーナリズムの関心を集めた。初めての公共建築である八代市立博物館(1991年)以降、堂々たる建築エスタブリッシュメントの道を歩むことになった。そして、「諏訪湖博物館」(1993年)、「大館樹海ドームパーク」(1997年)、「大社文化プレイス」(1999年)を経て、「せんだいメディアテーク」(2001年)に至ることになる。

 伊東豊雄とともにリーディングアーキテクトになったのは安藤忠雄である。安藤忠雄は、高卒で東大教授となったというサクセスストーリー、その分かりやすいキャッチフレーズなどから一般の知名度も高く、時代の寵児と言えるほどであったから、1990年代半ば以降は安藤忠雄時代といっていいかもしれない。伊東が東大に戻ってプロフェッサー・アーキテクトになっていたとしたら、安藤時代は来なかったかもしれない。

しかし、いずれにしろ、安藤、伊東とともに建築表現のメディアは一般に開かれることになった。『カーサブルータス』の創刊(1998年)、『SD』(200012月)、『建築文化』(200412月)の廃刊が象徴的である。狭い専門に閉じ続けて来た建築ジャーナリズムは急速に力を失うことになるのである。2001年から2003年にかけて、『建築雑誌』の編集委員長をつとめたが、状況の変化には隔世の感があった。インターネットの普及もあろう、若い建築少年のためのメディアが全く衰退してしまっているのに愕然としたのである。

 「ポストモダニズムに出口はない」という「天の声」とともに、バブルが弾けた後、近代建築批判の深度が真に問われ始めることになる。結果として、「野武士たち」も色分けされるようになった。例えば、コスモロジー派と呼ばれた、渡辺豊和、六角鬼丈、毛綱毅曠が沈黙を余儀なくされるようになる。

「奇観異観」の類は都会的なメディアにはなじまない。工業ヴァナキュラーで突破を図った石山修武にしても、『室内』(2006年廃刊)を場として鋭い批評を吐き続けたが、その造形には棘があり、ファッションとは成り得ない。時代を制したのは、ネオ・モダニズムと呼ばれるきちんとしたディテールの建築群である。この間の変化は、高松伸の作風の変化が象徴しているだろう。

 拡散した建築とメディアの状況

 せんだいメディアテーク以降、伊東豊雄は、憑き物が落ちたように、ふっきれたようである。密着ドキュメント『にほんの建築家 伊東豊雄・観察記』(瀧口範子著、TOTO出版、2006年)を読むと、その自在な心境と仕事ぶりがよくわかる。また、『トッズ表参道ビル』などの商業ビル作品を見ると、その変貌ぶりにギョッとしたりする。

伊東豊雄のこの自在さを支えるのはコンピュータ技術である。また、メディアも気にならないエスタブリッシュメントになった齢(よわい)である。「伊東豊雄現象」という状況が出現しているのだとすれば、あくまで「新しさ」を表現することにこだわり続けているのが伊東でありメディアだからである。昨年、久々に明け方近くまで一緒に飲んだ。若き日の伊東豊雄の印象は変わらなかった。最近の変貌も、原点は「アルミの家」ではないのかとも思った。

 伊東豊雄があくまでデザインの新奇性にこだわり続けているのに対して、空間の型、建築の在り方にこだわり続けているのが山本理顕である。この二人は、建築のモダニズムを真正面から正統に乗り越えようとしているように思う。そして、アンチ・モダニズム、エコロジー派の騎手として、脚光を浴びる藤森照信がいる。

 拡散状況の中でも、きらりと光る深度のある仕事をみたい。そして、それを的確に批評するメディアがほしい。伊東豊雄の作品を現象として扱うのではなく、きちんと批判しきることが今問われている、というのが本特集企画であるが、いきなりの依頼で紙数と時間がない。

『群居』(19822000年)、『traverse(2000)、『京都げのむ』(2001年)とメディアにはこだわってきたが、建築デザインの拡散状況と建築メディアの拡散状況とはおそらくパラレルである。『日経アーキテクチュア』(19764月~)のような情報誌、業界新聞などを除けば、強大な建築メディアが現われることはないだろう。小さなメディアでも強い批評言語を成立させることが当面の指針である。

 

編注

*『新建築』問題;村野藤吾設計の「そごう」の批評をめぐり『新建築』編集部と新建築社代表とが対立、編集部全員解雇となる

*五期会;大谷幸夫らを中心に展開された建築運動

 

ふの・しゅうじ|1949年島根県生まれ。東京大学工学系大学院博士課程退学。東京大学助手、東洋大学助教授、京都大学助教授を経て現在へ。著書に『戦後建築論ノート』(相模書房刊)、『世界住居誌』昭和堂刊)、『曼荼羅都市』京都大学学術出版会刊)ほか多数

 

<キャプション>

一般メディアの中の伊東豊雄

 左|『カーサブルータス』20063月号(マガジンハウス刊)

右|『にほんの建築家 伊東豊雄・観察記』(瀧口範子著、TOTO出版刊)






2023年8月10日木曜日

近代世界システムと植民都市,都市計画学会賞受賞に当たって,都市計画262,200608

 近代世界システムと植民都市,都市計画学会賞受賞に当たって,都市計画262,200608

植民都市計画研究のための基礎作業

布野修司

 

 研究経緯

 赴任したばかりの東洋大学で磯村英一先生(当時学長)から、いきなり「東洋における居住問題に関する理論的、実証的研究」という課題を与えられて、アジアの地を歩き始めたのは1979年初頭のことである。振り返れば、最初に向かったのがインドネシアであったことが運命であった。インドネシア、殊に、スラバヤという東部ジャワの州都には以降度々通うようになった。経緯は省かざるを得ないが、10年の研究成果を『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』という論文にまとめて、学位(東京大学)を得た(1987年)。そのエッセンスを一般向けにまとめたのが『カンポンの世界』(パルコ出版,1991年)で、光栄なことに日本建築学会賞論文賞を受賞することができた(1991)

 このカンポンkampungというのが曲者であった。OED(オクスフォード英語辞典)によると、コンパウンドcompoundの語源だという。バタヴィアやマラッカの都市内居住地がカンポンと呼ばれていたことから、インドでも用いられだし、アフリカなどひろく大英帝国の植民地で使われるようになったという。大英帝国は、最大時(1930年代)、世界の陸地の1/4を支配した。英国の近代都市計画制度が世界中で多大な影響力をもった理由の大きな部分をこの事実が占める。

 インドネシアの宗主国はオランダである。オランダは、出島を通じて日本とも関係が深い。オランダ植民都市研究を思い立ったのは、インドネシア、カンポン、出島という縁に導かれてのことである。

 

 受賞論文:近代世界システムと植民都市」(京都大学学術出版会、20052月刊行)

受賞論文が対象とするのは、17世紀から18世紀にかけてオランダが世界中で建設した植民都市である。オランダ東インド会社(VOC)、西インド会社(WIC)による植民都市の中で、出島は、長崎の有力商人によって建設されたことといい、オランダ人たちの生活が、江戸参府の機会を除いて、監獄のような小さな空間に封じ込められていたことといい、唯一の例外といっていい。論文は、オランダ植民都市の空間編成を復元しながら、17世紀から18世紀にかけての、世界の都市、交易拠点のつながりと、それぞれの都市が現代の都市へ至る、その変容、転生の過程を活き活きと想起する試みである。

 まず、アフリカ、アジア、南北アメリカの各地につくられたオランダの商館、要塞など植民拠点の全てをリスト・アップした。そして、主として都市形態について類型化を試みた。さらに、臨地調査(フィールド・サーヴェイ)を行った都市を中心にいくつかの都市をとりあげ比較した。比較の視点としているのは、都市建設理念の起源と原型(モデル)、地域空間の固有性によるモデルの変容、近代化過程による転生、<支配―被支配>関係の転移による土着化過程(保全)植民都市空間の現代都市計画上の位置づけ、などである。

 オランダ植民都市を起源とする諸都市はインドネシアなどを除いて、イギリス支配下に入ることによって変容する。そして同様に19世紀末以降、産業化の波を受けてきた。また、独立以降(ポスト・コロニアル)の変容も大きい。論文は、英国植民都市計画そして近代都市計画の系譜以前に、オランダ植民都市の系譜を措定して、その原型、系譜、変容、転生の全過程を明らかにしている。

 まず広く、西欧列強の海外進出を概観(第Ⅰ章)した上で、オランダ植民地拠点の全容を明らかにした(第Ⅱ章)。続いて、植民地建設の技術的基礎となったオランダにおける都市計画および建築のあり方をまとめた上で、オランダ植民都市計画理念と手法を考察し(第Ⅲ章)、オランダ植民都市誌として各都市のモノグラフをもとに、植民都市の変容、転生、保全の様相について考察する(第Ⅳ章)構成をとっている。巻末には、詳細な植民都市関連年表、オランダ植民都市分布図をまとめている。

 

 アジアからの視点

近代植民都市研究は、基本的には<支配←→被支配><ヨーロッパ文明←→土着文化>の二つを拮抗軸とする都市の文化変容の研究である。近代植民都市は、非土着の少数者であるヨーロッパ人による土着社会の支配を本質としており、西欧化、近代化を推し進めるメディアとして機能してきた。植民都市の計画は、基本的にヨーロッパの理念、手法に基づいて行われた。西欧的な理念がどのような役割を果たしたのか、どのような摩擦軋轢を起こし、どのように受け入れられていったのか、計画理念の土着化の過程はどのようなものであったのか、さらに計画者と支配者と現地住民の関係はどのようなものであったか等々を明らかにする作業は、これまでほとんど手つかずの状況であった。本論文は、飯塚キヨ氏の『植民都市の空間形成』(1985年)以降の空白を一挙に埋め、ロバート・ホームの『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』(布野修司+安藤正雄監訳,アジア都市建築研究会訳,Robert Home: Of Planting and Planning The making of British colonial cities、京都大学学術出版会、20017月)に呼応するアジア(日本)からの作業として位置づけることができる。

 植民都市の問題は、現代都市を考えるためにも避けては通れない。発展途上地域の大都市は様々な都市問題、住宅問題を抱えているが、その大きな要因は、植民都市としての歴史的形成にあるからである。また、西欧列強によってつくられた植民都市空間、植民都市の中核域をどうするのか、解体するのか、既に自らの伝統として継承するのか、これは、植民都市と地域社会の関係が、在地的な都市=地域関係へと発展・変容していく過程の中で現出する共通の問題でもある。具体的に、歴史的な都市核としての旧植民都市の現況記録と保全は、現下の急激な都市化、再開発が進行するなかで緊急を要する問題である。本論文は、現代都市の問題を大きな問題意識として出発しており、それぞれの都市の現況を記録することにおいて大きな意義を有している。都市問題、住宅問題の解決の方向に向かって歴史的パースペクティブを与える役割を果たし、さらに加えて、世界遺産としての植民都市の位置づけに関しても多大な貢献をなすと確信するところである。

 

アジア都市建築研究

17世紀をオランダ植民都市という切口で輪切りにしてみて、残された作業は少なくない。スペイン、ポルトガルと植民都市計画の歴史を遡行する作業ももちろんであるが、アジアからの作業として、前近代の都市計画の伝統を明らかにする必要がある。大きく、インド、イスラーム、中国の都市計画の伝統が想起されるが、ヒンドゥー都市についてその理念と変容を篤かったのが、『曼荼羅都市』(京都大学学術出版会、2006年)である。また、カトゥマンズ盆地の都市について“Stupa & Swastika”をまとめつつある(2007年出版予定)

この度の受賞は、さらなる作業のために大きな励みとなるものである。心より感謝したい。

 

アジア都市建築研究会は、布野修司を中心として1995年に発足したゆるやかな研究組織体で、20055月までで69回の研究を積み重ねて来た(研究会の内容は、http://agken.com/index.htm)。その主要な成果として、*『生きている住まいー東南アジア建築人類学』(ロクサーナ・ウオータソン著 ,布野修司(監訳)+アジア都市建築研究会、学芸出版社,19973月、*『日本当代百名建築師作品選』(布野修司+京都大学亜州都市建築研究会,中国建築工業出版社,北京,1997年 中国国家出版局優秀科技図書賞受賞 1998)、*『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』(ロバート・ホーム著:布野修司+安藤正雄監訳,アジア都市建築研究会訳,京都大学学術出版会、2001)、*『アジア都市建築史』(布野修司+アジア都市建築研究会,昭和堂,2003年)*『世界住居誌』(布野修司編著、昭和堂、2005)などがある。

受賞論文の元になっているのは、「植民都市の起源・変容・転成・保全に関する研究」と題した共同研究(文部科学省・科学研究費助成・基盤研究(A)2)(19992001年度)・課題番号(11691078)・研究代表者(布野修司))である。布野が、報告書をもとに全体を通じて筆を加えて受賞論文の原型となる予稿をつくった。それを各執筆者に回覧し、確認を受けたものを再度布野がまとめたのが受賞論文である。共著者は、魚谷繁礼、青井哲人、R.Van Oers、松本玲子、山根周、応地利明、宇高雄志、山田協太、佐藤圭一、山本直彦である。また、共同研究参加者は、以上に加えて、安藤正雄、杉浦和子、脇田祥尚、黄蘭翔、高橋俊也、高松健一郎、佃真輔、Bambang Farid Feriant、池尻隆史他である。








2023年8月4日金曜日

図説テキスト 環境設計   建築・都市・景観  出版企画

 図説テキスト

環境設計   建築・都市・景観

 

  1 空間計画(建築環境built environmentのあり方)を主としてテーマとする。

  2 身近なコミュニティ・レベルの計画を重視する。

住居計画→コミュニティ計画→市町村計画→  →地域計画→国土計画

  3 都市計画史に関わる基本事項は盛り込む。

  4 建築家、プランナーなど実際に環境設計を実践する専門家のためのテキストを目指す。

 

・この本の位置づけ
環境系・建築系・住居系学科の入門的教科書
・この本の構図(ねらい)
「住まいからまちへ」、「まちから住まいへ」。「地球上にすむ=環境からの恩恵、環境への働きかけ」を行ったり来たり(全編に通底するテーマとして意識する)。
・この本の執筆態度
 学問的到達をそのまま解説するのでなく、上記のテーマに照らしながらかみ砕いて説明したい。わたしたち(建築系学科で学び、将来何らかのかたちで建築(=環境)をつくる(担う)人たちがどう考えらよいかを中心に置いて解説する。
・目的
 環境を考える。環境と建築の基礎知識を蓄える。空間意識を育てる。具体的に(観念的ではなく、モノに即して)順序立てて考える。 
・表現の特徴
 わかりやすく文科系高校生の上級生でも分かる表現とする
 パワーポイントとキーフレーズで読み解く。=半分がパワーポイントの図、半分が文章。
パワーポイント  内容の流れを模式的に図示する
         内容のしくみを図示する
 なまの資料・写真も可。
・判型・分量
B5
判 本文160頁+付録など 最大180頁 
   1齣8頁 20齣以内として   本文(8×20頁)=160頁
     
1頁の文字数、文字と図のバランスなどレイアウトについてはもう少し検討させてください
・構成

 目次の作成と原稿の作成(従来とは違う原稿作成の順序)
 目次作成の段階でその章の意識が伝わるフレーズで展開する。
パワーポイントの図を作成(スケッチ)する
文章は図の詳しいキャプションといった意識で解説する。見出し、中見出しを多用する。
例えば、
1.環境設計の系譜 
ひとびとはどのような環境で暮らしてきたか、環境にどのように働きかけたか、どのように恩恵を受けてきたか、「建築家」(=建築に携わった人々)がどのような役割を担ってきたか。その行為と学問的(科学的)蓄積。

 2.環境技術の系譜
1章で扱ったことの学問的、技術的蓄積 技術と記述

 3.環境計画理論の系譜
理論だけを縦系列で追うのでなくて、時代の空気とつくりだしたものその理論の展開、つくり手の立場を解説。

執筆者=教科書採用者で最低300部(10年)を基礎票とする。

 


 

目次

序章 環境設計の世界        (布野修司)    

0.1 作品としての環境

0.2 環境という概念 

0.3  

0.4 

0.5 

0.6 環境問題の諸相

0.7 環境設計と環境科学

0.8 本書の構成

 

 

第Ⅰ部 環境設計の系譜

 

1章 ヴァナキュラー建築の世界(布野修司)

1.1       建築家なしの建築

1.2       環境と建築

1.3       建築の形態

1.4       建築の空間

1.5       建築の構造

1.6       建築の設備

1.7       建築のディテール

1.8       建築の生産

 

2章 環境技術(建築理論)の系譜・・・建築書の伝統・・・青井哲人(人間環境大学)

2.1    ヴィトルウィスの『建築十書』

2.2    ルネサンスの建築理論

2.3    マーナサーラ・ヴァストゥーシャストラ

2.4    アスタ・コサラ・コサリ

2.5    営造方式

2.6    匠明

2.7    木割書の世界

2.8    家相の世界

 

3章 環境(都市)計画理論の系譜(布野修司)

3.1    都市計画の諸類型

3.2    ヒッポダミック・プラン―――グリッド都市

3.3    ペルガモン・スタイル―――記念碑都市

3.4    都市とコスモロジ-―――宇宙論的都市

3.5    ダイアグラムとしての都市―――幾何学的都市

3.6    劇場都市―――スキノギラフィック・デザイン

3.7    イスラームの都市原理―――有機的都市

3.8    ユートピアの終焉と都市計画・・・自動車と超高層(調整)

 

4章 近代都市計画の手法

佐藤圭一(尚絅大学)

 手法ということで再構成すること

4.1 近代都市計画の成立
4.2
 産業社会の都市問題
4.3
 空想的社会主義と都市計画 オーエン、フーリエ、サンシモン
4.4
 田園都市の思想と展開
4.5
 線形都市論
4.6
 工業都市
4.7
 近代建築運動と都市計画
4.8
 ユートピアの崩壊(調整)

 

5章 コミュニティ計画の系譜(田中麻里(群馬大学))日本に焦点を?

1 住宅地の計画
住宅地計画前史 明治八幡製鉄所官舎群、大正、1919年都市計画法、私鉄郊外住宅地、昭和、戦後 住宅地の主要な開発方式一団地住宅施設経営事業 新住宅市街地開発法、土地区画整理事業

2 住宅都市の計画 
 
ニュータウン 近隣住区、ラドバーン等住宅計画理論とデザイン技法の実践
 3 地域性を考慮した計画
 ネイバーフッドセオリー アドボカシープランニング パタンランゲージ 地域住宅計画HOPE 富山八尾町
 4 都市組織と都市住宅
 
1968新都市計画法の制定以後の事業の多様化
都市再開発法、大都市地域における住宅地等の供給促進に関する特別措置法
ヒルサイドテラス コーポラティブ住宅

 居住環境整備
 
住環境政策の系譜 不良住宅密集地区の改良事業、住宅地区改良事業制度、小集落地区改良事業


 

第Ⅱ部 環境設計の基盤 法・経済・社会

 

6章 環境法と環境倫理(土屋正春(滋賀県立大学))

   6.1

   6.2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7章 環境経済論  (仁連孝昭(滋賀県立大学))

EMS ISO エコ・ヴィレッジ?

7.1

  7.2

  7.3

  .4

 

 

 

 

 

 

 

8章    環境と社会 宇野求(千葉大学)

 家族社会学、都市共同体論、公共性の再構築

 環境政策 参加、都市経営

都市総合計画

          都市計画と法・制度

          事業手法

      産業 労働

      交通 情報

      生活基盤 防災・資源

      保険福祉

      教育/文化

   市町村ベースの事例

土地利用計画(ゾーニング)

    区画整理

    再開発      

    地区計画

    交通計画

 都市地域施設計画

 

9章 環境心理と環境生理:環境と身体

久野覚(名古屋大学)

    シックハウス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10章 環境と時間 コンヴァージョンと都市再生・・・竹内 泰(三菱地所)黒川賢一(竹中工務店)

再考要請

 81節 都市の再開発

82節 対外政策と都市再開発

83節 住環境改善と都市再開発

8.3.1    都市更新

8.3.2    土地区画整理事業

8.4節 経済活性化の都市再開発

8.4.1    活性化の都市再開発手法

8.4.2    地区単位の開発手法/建築協定と地区計画

8.5節    都市回帰と都市再生

 

 

 


第Ⅲ部  環境設計の展開

 

11章 環境建築設計の手法:サステナブル・デザイン(松岡拓公雄(滋賀県立大学))

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12章 環境共生建築の手法・・・・今川朱美()

環境と地水火風空

熱環境

大気汚染 水質汚染  

環境測定 環境アセスメント

廃棄物

地球環境時代の都市

 

持続可能な環境共生地域
自分たちの住む地域の健康診断
 大気・土壌・水の汚染
 交通量・廃棄物など
自然環境を生かす地域づくり
自然のエネルギーを利用
 経済性の高い土地利用へ変換する
 コンパクトシティによるインフラの効率化
 環境ビジネスの導入
地産地消と循環型社会への移行
 移動距離の減少により交通量削減
くらしのサスティナブルデザイン
  良いモノを長く使う - 住宅の長寿命化
共住・共同生活
地域文化の継承と未来への飛躍

 

14章 地域住宅計画の手法

     大野勝彦(大野建築アトリエ)

     

 

 

 

 

 

 

14章 アーバンデザイン(都市構成)の手法(丹羽哲矢(愛知産業大学)

1)日本のアーバンデザインの系譜
年表やデザイン手法の違いにより分布させたマトリックス図などを用い
近代以降の日本のアーバンデザインの手法について概観する。

2)プランニングによるアーバンデザイン
関東大震災後の復興計画、戦災復興計画など面的な展開のアーバンデザ インをまとめ、その系譜と発展の過程を解説する。
3)重層する都市インフラストラクチュア
丹下健三の東京計画1960や西山夘三による京都計画など都市に立体的なインフラストラクチュアを導入した計画を解説する。
4)自己増殖システムと高度テクノロジー
メタボリズムグループなどによる増殖発展自己回復可能な都市の姿やテクノロジーの発展に立脚する都市提案(ex原広司の500m キューブ都市など)を解説する。        

 

 

 

 

 

15章 景観設計の手法・・・ランドスケープ・デザイン・・・宮城俊作(奈良女子大学)

    造園 広場のデザイン

ランドスケープ・デザイン

      都市のディテール

      ストリート・ファーニチャー

      照明計画

      サイン計画

     

 


第Ⅳ部  コミュニティ計画の実践

 

16章 タウン・ウォッチングの手法

デザインサーヴェイの手法・・・都市を読む ・・・脇田祥尚(広島工業大学)

都市を読む  環境設計のためのフィールドワーク
1.環境設計とフィールドワーク
建築と敷地、建築と都市、都市を読むということ
2.フィールドワークの系譜
伊東忠太、今和次郎、吉阪隆正、ケヴィンリンチ、「日本の都市空間」、デザインサーヴェイ、路上観察学会、、、、
3.都市を調査する
デザインサーヴェイ、参与観察調査、、、デザインコード、アクティビティ
4.都市を歩く まちづくりとフィールドワーク
歩いて見えるもの、、、自然(緑)、生活、水辺、歴史、ヒューマンスケール

 

17章 ハウジング手法:居住環境整備 (山本直彦)

発展途上地域の都市問題

 

 

 

 

 

 

 

 

 

18章 保存修景デザイン リニューアル・デザイン・・・・・・・・・山根 周(滋賀県立大学)

      町並み保存運動     保存修景計画   伝建地区

     世界遺産都市

     復元 テーマパーク

     ストック再生の技術

     コンヴァージョン

     日本の都市デザイン

都市デザインの要素

登録文化財制度

 

19章 地域防災計画 牧 紀男(京都大学 防災研究所)
9.
1 都市と災害
9.2
 防災都市計画の視座
9.3
 防災都市計画の手法

9.3.1    火災から都市を守る

水害から都市を守る

 

 

 

 

 

 

20章 まちづくりの手法・・・水谷俊博(武蔵野大学)

~住民参加型の設計によるまちづくり~

18.1 住民参加型設計の系譜 

 

18.2 住民参加型のまちづくりへの展開

 18.2.1 参加型への行政の展開

 18.2.2 コンバージョン(サスティナブル)

 18.2.3 コーポラティブハウジング

18.3 住民参加型のデザイン実践の手法

 18.3.1 参加のデザインの基本事項

18.3.2    参加型設計における計画事項(まちづくり?)

   ・プロセスデザイン(計画全体の進め方)

   ・プログラムデザイン(個々の進め方)

   ・形態のデザイン

 18.3.3 ワークショップ

18.4 住民参加型のまちづくりのフロー

 18.4.1 参加型デザインの構成員の役割

  ・住民

・行政

・設計者

・ファシリテーター

 18.4.2 参加型設計における組織構成の種類

・設計者とファシリテーターと同一(組織)の場合

・設計者とファシリテーターが協働組織の場合

・設計者とファシリテーターが異なる場合

・設計者の決まっていない場合

 18.4.3参加のデザインにおける参加方式の種類

・住民説明会型ワークショップ

・委員会型住民参加

・企画会議型住民参加

・グループワーク型住民参加

・イベント型住民参加

・運営・制作型住民参加

 18.4.4 参加型における各段階の参加の仕方

・基本構想

・基本計画

・基本設計・実施設計

・設計監理

・施設運営・管理

 18.4.5 参加のデザインにおける問題点

  ・ソフト、制度の問題点

  ・PFI

18.5 参加型のまちづくりケーススタディ

18.5.1 行政主体による例

・茨城県美野里町

 18.5.2 民間主体による例

    ・土佐堀研究会

 

終章 タウンアーキテクトの仕事・・・都市計画の組織とプロセス 法制度・・・(布野修司・渡辺菊真)

     京都CDLの実践

まちづくりの仕組み

     タウンアーキテクト

     ワークショップ方式 まちづくりゲーム

 

 

 基本資料

  建築生産

  建築士

文献解題・・・・・・・・・・