前川國男建築展 記念第一回シンポジウム
「前川國男をどう見るのか」
鬼頭梓/林昌二/松山巌/布野修司
■前川國男とモダニズム
【松隈】「生誕一〇〇年・前川國男建築展」は、二〇〇五年の暮れに始まりましたが、展覧会だけで終わらせたくなかったので、会期中にシンポジウムを開催することになりました。今日は、その第一回として、「前川國男とモダニズム」というテーマを掲げました。前川國男は、ル・コルビュジエやアントニン・レーモンドからどのような考え方を学び、日本という風土の中で、何を大切にして近代建築を育て上げようとしたのか。その方法を、仮に「モダニズム」と名づけるとすると、彼にとってモダニズムとは何だったのか。それを現時点で検証しておくことが、これからの建築や都市のあり方を考えるために大切だと思いました。今日は、前川國男について詳しい方々に、幅広くお話しいただきます。それでは、司会の布野さん、よろしくお願いします。
【布野】前川國男については、私自身、『建築の前夜―前川國男文集』(而立書房、一九九六年)という本をまとめるときに関わりました。前川さんにも、生前に一度だけ、お会いしたことがあります。最初に口頭試問のようなことを受けまして、ドギマギしたことを憶えています。そのことも含めて、『建築の前夜』の巻頭に、「Mr.建築家」という論考を書き、サブタイトルに、「前川國男というラディカリズム」とつけました。ラディカリズムというと、急進主義でテロリストみたいですが、そこに込めたかったのは、根源的に建築を考え続けた人ということなんです。
それにしても今回の展覧会は画期的な出来事です。これを機会に、前川國男を巡って幅広く議論がなされ、その精神が再確認されればと思います。前川さんに会った際のエピソードは、後ほど、松山さんからお願いします。それでは、まず、前川國男の下で学ばれた鬼頭さんから、口火を切っていただきたいと思います。
■前川國男との出会いと事務所の様子
【鬼頭】私は、一九五〇年に大学を卒業して前川事務所に入り、一九六四年までいました。前川さんの四十五才から五十九才までの間です。当時は、今のように建築の情報が溢れている感じではまったくなくて、ほとんど情報がないに等しかった。例えば、『新建築』は、厚さが五ミリくらいしかなく、ザラ紙でした。もっとも、載せる作品もなかった。その時代に私が知った前川さんの建築は、木造の「紀伊國屋書店」と「慶應病院」です。
当時、新宿駅東口の周辺には、闇市もあるような時代で、建物は木造のバラックばかりで、その中にポツンと「紀伊國屋書店」が建っていました。そこだけ、別天地みたいで大変感激したんです。大きな吹抜けがあって、とても明るい空間でした。「慶應病院」は、前が広くて芝生があって、二階建ての真っ白な建物で、すっきりした印象が強かった。とてもいい雰囲気でした。学生の頃、私には設計ができる能力はなさそうだから、何になろうかとだいぶ迷っていたんです。当時の大学は三年制で、三年になった頃、それでも設計がしたくなって、助教授の丹下健三さんの研究室に入りました。そこに、もう亡くなられましたが、浅田孝さんがおられて、「本気で設計を志したいのなら、前川國男のところに行くんだね」と言われて、たまたま二つの建物を知っていたので、それはいいなと思い、気楽に前川さんの所に、同級生の進来廉さんと二人で、入れてくれとお願いに行ったんです。
当時、前川事務所は目黒の自宅にありました。今、現物は、「江戸東京たてもの園」に移築保存されています。驚いたことに、三〇坪ほどの住宅が事務所になっていました。前川さんのプライベートなスペースは、前川さん夫妻の八畳の寝室とトイレ、浴室、台所だけでした。その他は全部事務所として使っていました。四谷に事務所ができるまでのほぼ十年間、そうした状態で、僕が入所したのはその中頃のことです。自宅に行って、すばらしい家だなと思いました。いよいよ入れてくれることになったとき、前川さんが、いきなり、「建築の設計という仕事は建築家一人ではできないんだ。それにはチームの力がいる。自分は今までこの事務所のチームを育てるのに苦労してきた。そして、このチームの力があるから設計ができるのであり、僕が死んでもこのチームが残っていけるようにしたいんだ。僕の事務所に来るならそのことを君も考えてくれ」と言われたのでびっくりしました。また、「君たちには、僕がやってきたような苦労をもう一度してもらいたくない、僕の苦労の上に別の苦労をしてほしい」とも言われて、これは大変なところに入ってしまった、と思いました。
■近代建築実現への熱気
【鬼頭】私が入所した頃は、前川さんにとって、初めての本格的な近代建築である「日本相互銀行本店」の設計の最中でした。前川さんは、戦前から戦中にかけて、近代建築を作りたくても、戦時制限もあってチャンスがなく、あり合わせの木造でモダニズムを追求していました。自宅も木造でした。ですから、戦後に建築制限が撤廃されて、ようやく鉄筋コンクリートや鉄骨を用いた本格的な近代建築ができるようになったとき、ともかく、事務所を構えてからずっと暖めてきたこと、やりたくてもできなかったことを、この建物で全部やろうと意気込んだのです。近代建築を成り立たせるボキャブラリーはすべて試みてみたい、という熱気が事務所全体にありました。僕もその中に入っていったのです。カーテン・ウォールでアルミ二ウムのサッシュ、純鉄骨で全溶接、しかも、実際にはそこまで実現しませんでしたが、当初の計画では、床も階段も全部プレキャスト・コンクリートでした。前川さんは、「今は大変だけれど、これができたらあとは楽になるぞ」と言っていました。ぜんぜん楽にはなりませんでしたけれどね(笑)。でも、そういって励んでいた時代です。
■日本相互銀行本店の失敗
【鬼頭】私の入所した一九五〇年は、戦争が終わって五年ですから、まだ至るところ焼け野原で、建築の技術レベルも低かった。それで、前川さんは悪戦苦闘するわけです。この「日本相互銀行本店」で、一つ失敗をします。外壁のプレキャスト・コンクリートから雨が漏ったんです。これは大変だ、ということで、前川さんは雨が降るたびに飛んで行って見ていました。私もつかまって、ある日、まだ暗いうちに起きて現場に行きました。足場からホースで外壁に水をかけると、たちどころに内側に水が入ってくる。今なら、こんな馬鹿なことをする人はいませんが、プレキャスト・コンクリートの目地が、全部モルタルで詰めてあった。当時は、目地というのは、モルタルで詰めるものだったのです。工事を請け負った清水建設も疑いを持たなかった。そこに細かなヘア・クラックができて水が入る。それを突き止めて、結局その目地を全部外して、コーキング・コンパウンドにやりかえました。当時、コーキング・コンパウンドはとても高価で、たしかアメリカ製のバルカテックスという製品を使いました。その費用を、前川さんは全部自分で支払ったのです。建築家の責任で問題が起きたのだから、補償は建築家がしなければいけない、と言って、自費で修復したのです。大きな失敗でした。
■技術を建築家が手にすることの意味
【鬼頭】その時、前川さんは、もう一つのことを発見します。建物のコーナーにバルコニーが出ていて、そこに両開きのドアがついています。その召し合わせ部分は、合わさっているだけの簡単なものです。でも、そこには空洞があるから、中には雨が入らない。前川さんはそのことに気がついたのです。そこで、外壁のジョイント部分の処理はこれでなければいけない、中に空気層を作れば雨は入らないんだ、ということを発見して、その後はそう改良していきました。
その「日本相互銀行本店」の完成直後、前川さんは、『国際建築』(一九五三年一月号)に掲載された「日本新建築の課題」という文章に、「単なる造形的興味からする絵空事ではなく、技術的な経済的な前提からの形の追求をいま身につけなかったならば、日本の新建築は永久にひとつのファッションに終始せねばならないであろう」と書いています。当時、前川さんは「テク二カル・アプローチ」というテーマを掲げていましたが、これは誤解され、技術至上主義とみなされた。
しかし、テク二カル・アプローチは、技術至上主義的な考えではなかったし、それが建築を作る主要な道筋だと考えていたとは、私には思えないのです。前川さんの真意は、近代建築は技術革新に支えられて生まれてきたのであり、それをメーカーとかサブコンとかに任せるのではなく、建築家が関与しなければいけない、それを抜きにして建築を考えてはいけないのだ、という意味だったと私は受けとっています。つまり、建築家の在り方を言われたのだと思います。
■プランの大切さ
【鬼頭】私が知っているのは十四年間だけですから、前川さんの全貌を伝えることはできませんが、僕がいた頃は、ともかくプラン(平面図)、セクション(断面図)、とりわけプランにうるさかったですね。前川さんは新しく入った者に、すぐプランをやらせるんです。新米には、ディテール(詳細図)は描けませんから。プランなら、自分の思ったように描かせられるという思惑もあったと思いますが、ともかくプランを描かせられました。そうすると、「君ね、プランというのは、間取りではないんだよ」と言われ、「間取りではないって、どういうことですか?」と聞くと、「プランというのは、空間を作ることなのだ。プランを見ただけで空間が彷彿としないようなプランは、プランではない」と言われたりしました。
また、私たちが、まず柱の列を書いてからプランを描いていると、「君、それは逆さまだ。柱は後から考えるんだ。どういうスペース(空間)がほしいかをまず考えて、それにどういうストラクチャー(構造)がいいかを考えるのが順序だぞ」と言われる。ですから、プランで時間を食ってしまう。たいていエレヴェーション(立面図)を描く頃になると、時間が足りなくなって、先輩の大高正人さんなんかは、「早くエレヴェーションを描こうよ」といつも言っていましたね。でも、エレヴェーションを描いたときには、矩計の図面がないと、また怒られてしまうのです。「このエレヴェーションは、どういう矩計になっているのか」って。少なくとも、矩計のスケッチができていて、このようにします、と言わないと、「そんなエレヴェーションをいくら描いたって、絵空事だからやめたまえ」と言われてしまう。これは、私たちだけではなくて、戦前に丹下健三さんが前川事務所にいた頃も同じだったようです。丹下さんが言っていましたが、「お前はすぐエレヴェーションを描く」と前川さんに怒られていたそうです。
戦前の話ですが、あるとき、前川さんが丹下さんと浜口隆一さんに、「前川さんは、いつもプランだ、セクションだと言うけれど、本気でそう考えているのですか? 建築ってプランとセクションでできるものではない。造形のことはどう考えているのですか?」と、だいぶ突き上げられたことがあると述懐していますが、本当にプランに執着していましたね。
【布野】それでは続いて、鬼頭先生の話を受けて頂いて、、林昌二さんに最初の発言をお願いします。
■日本相互銀行本店の衝撃
【林】私は、前川さんの話で出てくる立場ではないのですが、出されちゃったからしょうがない(笑)。前川さんについては、わからないことがたくさんあるのです。本当は、少しはわかりますが(笑)。
私が建築の世界に入ったときに、ちょうど「日本相互銀行本店」ができあがります。当時、日本相互銀行本店は、圧倒的な影響力を持っていました。東京にいればなおさらです。日本相互銀行本店の一部始終は、話題になり、関心が注がれたわけです。たしかにえらいことをいろいろやっています。例えば、軽量化も大変なもので、三階までは別として、四階から上のオフィス階の重量は、平方メートルあたりわずか〇・四六トンなのです。そんな建物は、その頃はなかった。一般的には一トンを越えていましたから、その半分以下でできていた。驚異的なことでした。どうしてそうなったのかというと、床スラブが九センチしかない。普通は十二センチありました。しかも、九センチのコンクリートが軽量コンクリートを使っているのです。床スラブは、構造的には二次的なものですから、軽量コンクリートでもいいのかもしれませんが、そこまでする人はいなかった。
■前川國男の変節の謎
【林】また、カーテン・ウォールは、全体の重量に対して、それほど影響がないと思いますが、それも徹底して軽量化して、アルミ二ウムを使っている。どうしてアルミなのか。前川さんは、鉄のサッシュがお好きな方だと思っているのですが、この場合は、アルミを使って、おかげで雨が漏ってしまった。でも、雨が漏ることは、当時、いろいろなビルでもあったわけです。ニューヨークの「国連ビル」も漏りましたし、その他の高層ビルでも、だいたい漏っていました。今日のようなコーキング材はありませんでした。当時は、セメント・モルタルを左官屋が塗って、目地を作る程度で外装ができていた。そうすると、当然失敗もする。でも、失敗しても、何としてでも、工業化された建物を実現しよう、という意気込みがすごかったですね。それにみんな感心して、若い人たちは何らかのツテを頼って、何度も見に行った。今は、そういう迫力のある建築はないと思います。東京駅に近い便利な場所にあったせいもありますが、ともかくよく足を運びました。あの建物が「教科書」になった感じが強かった。その通りやってよかったかどうかは別問題ですが(笑)、教科書的迫力を持っていた。前川國男というのは、私たちの年代にとって、そのくらい大きな存在でした。
当時は、そういう前川さんの姿勢が頭に刷り込まれていましたから、その線上で仕事を展開していかれると思って見ていたのです。しかし、その後あまりそうならない。「日本相互銀行本店」を発展させたような建築は作られなかった。それどころか、ある時を境に、傾向ががらりと変わった。特に晩年です。一番びっくりしたのは、「弘前市斎場」です。
考えてみれば、最初と最後だから、違うのは当たり前かもしれない(笑)。でも、その違いがあまりにひどい。まあ、コルビュジエだって違いますけれども。じつは、弘前は、最近見に行ったのです。たしかに、よいといえばよいのですが、同じ人がやったというのは、いかがなものかというのが、私の感想でした。弘前には、前川さんの処女作の「木村産業研究所」もありますが、これはとても面白い。初々しいと言いますか、日本相互銀行本店ほど遮二無二やっているのではなくて、普通の姿勢で取り組んでおられ、サッシュもスチールで、プロポーションやディテールに、どこかコルビュジエの雰囲気が感じられる。コルビュジエのところから帰ってきて、すぐにやった仕事だから、当然かもしれませんが、弘前にその二つの建物があることが、とても面白いと思いました。
【布野】さすが林さんですね、まずは、最初と最後、ケツを押さえた(笑)。「木村産業研究所」はあまり知られていなかったですね。「弘前市斎場」については、胸が痛くなる人がおられるかもしれません。前川さんが変わったという話は、もう少し前のことだと考えられていますね。MIDO後出??ミド・グループの戦後まもなくの時代の転換もありますが、普通は、打込みタイルが出てくる時代に変わったと言われますね。いきなり「弘前市斎場」となると、変わっているのは当然かもしれません。
■愚直な建築への姿勢
【林】そうですね、ちょっと行き過ぎかもしれません(笑)。前川さんは、軽量化といいますか、テク二カル・アプローチの時代から、打込みタイルを使う時代に入って、面白い開発をいろいろと試みていきますね。それには感心したんです。コンクリート打放しの外壁ではなく、その外側に焼き物を外装として使うやり方です。最初は難しいけれど、難しいことをあえてなさるのが前川さんで、そういう意味では「愚直」と言いたいですね。失礼かもしれませんが、愚直という態度で設計をなさっている。コーキング材が日本にはないので、輸入して、ご自分で費用を払ったことも、愚直そのものであり、それがプロたる者の覚悟である、という気がします。
一方、愚直の典型として、防水にも感心しました。私たちが設計を始めてしばらくの頃、丹下健三さんと前川さんの公共建築が、交互に建つような風景が展開されるようになります。その際、前川さんは必ずアスファルト防水なのです。一方、丹下さんはセメント防水で軽々と仕上げてしまう。そうすると、防水の端部がきれいに収まる。サッと終わるんです。アスファルトですと、それを立ち上げて、押さえなければならないので、きれいに納まらない。だけど、前川さんは断固アスファルトでした。丹下さんはセメント防水でやって、たちまち漏ってしまう。僕らは、丹下さんの方がきれいに収まっていて、うらやましいので、何とかセメント防水でやりたいと思ったのですが、日建設計には、まわりにうるさい先輩が大勢いて、「冗談じゃない、屋根防水はアスファルトでなければいけない」と言われて、私も愚直にそれを守った。それで弁償しなくて済んだ(笑)。そんな思い出もあります。
【布野】続いて松山さんに、日本近代における前川國男の位置について、お話いただけますか?
■前川國男という存在
【松山】大変なテーマを与えられたのですが、先ほど、布野さんから、前川さんに会ったときのことを話せと言われたので、その話から始めます。当時、布野さんと僕と宮内康さん、堀川勉さんらで、「同時代建築研究会」という会をやっていました。戦前から戦後にかけての建築思想をもう一度問い直そう、ということで、近代建築を作り続けてきた先達に話を聞くことを続けていました。例えば、山口文象さんや高山英華さんなどに会いに行って、証言を取るようなことをしていた。そうした中、前川さんにも一度だけ会う機会があったのです。そのとき、びっくりしたのですが、前川さんから、「近代建築をどう捉えるのか。そのことをはっきりしない限り、インタヴューには応じられない」と試験みたいなことを言われた。そこで、一番よくしゃべる布野さんに任せた。
布野さんは、近代というのは、セメントとか鉄骨とかガラスとか大量生産のものが出てきて、その中で建築が生まれる時代だ、というようなことをしゃべったのです。つまり、生産構造ができた上で、近代建築が生まれてきた、というようなことを、言ったのか言わされたのか、その辺がわからないのですが。前川さんは、「生産構造や下部構造がしっかりしない限り、近代建築はできないということを認識しないと君たちとは話さないよ」という感じでした。ちょっとびっくりしたのです。あの話を聞いたのが、今から三十年前ですから、「日本相互銀行本店」ができてからずいぶん経ったころです。一般的には、テクニカル・アプローチと言われる工業技術がなければ近代建築はできない、というような、社会の生産構造が上がらない限りダメだ、というニュアンスでした。後で考えると、丹下さんのような仕事を横目で見ながら言われたのかも知れませんが、造形的なものに対しては拒否をする、というニュアンスでしゃべっていたのだと思います。
当時は、大阪万博で丹下健三さんたちが頑張って、磯崎新さんが「建築の解体」と言っていた時期ですから、印象としては、ずいぶん固いなと思いましたね。でも、前川國男という人の個性を、僕は認めていた。前川さんという人がいなければ、日本の近代建築は遅れたのではないか。あるいは、前川さんの力は大きかったのではないかと思っていた。ところが、前川さんがそう言わないことにびっくりしたんです。先ほど、鬼頭さんが、「前川さんのテクノロジカル・アプローチは、建築家がいかに関わるべきか、技術にゼネコンやメーカーではなくて、建築家がもっと関わるべきだということであり、技術をそのまま重視して考えれば建築ができる、ということではなかった」と言われたので、なるほどと思いました。
それから、林さんが「日本相互銀行本店」を教科書的だと言われました。私もできてずいぶん経ってから見に行って、安っぽい建築だなあと思いました。ああいうものにどのくらいエネルギーをかけたのでしょうか。今、見ると、私と同じような感性で見る人が多いと思う。ねずみ色でポソッと建っている。いまだに使われていることにびっくりするくらいです。でも、そういうことを、前川さんは率先してやった。けっして、世の中の生産構造が充実したから歴史が動くのではなくて、前川さんがいたから動いたのではないかと思います。
■「公共」という教科書を作った前川國男
【松山】私は、前川國男は、日本近代の文化史の中でもかなりの巨人であり、思想や文学を含めて大きな人物だと思います。ただ、建築家というのはほとんど知られていない。知られていないからこそ、前川さんは、建築家の立場を確立するためにがんばった。彼の一番のすごみは、教科書を作ったこと、それも、「公共」という教科書を作ったことです。前川さんは、美術館、音楽堂、図書館、市庁舎といった公共建築をいくつも作っていますが、逆に言えば、彼が作ったがために、ありふれてしまった。でも、広場があって、それを囲んで回廊がある、そういう教科書的な文法は、前川さんがいなければ、日本には作られなかったのではないか、と思う。
私は、今から四十年前に東京藝術大学の建築科に入って、できたばかりの「東京文化会館」の二階の食堂に、チャプスイという安い食べ物を、週に一度くらいは食べに行っていました。上野には、前川さんの「東京都美術館」や「東京文化会館」の他に、師であるコルビュジエが作った「国立西洋美術館」や、戦前のコンペで前川さんと因縁のある「東京国立博物館」があります。その他、いろいろな美術館がありますが、前川さんの建築は違う。塀と門がないんです。コルビュジエの「国立西洋美術館」ですら、長い間、門扉で閉ざされていました。それに比べると、「東京文化会館」には、前庭だけでなく、場所としての広場がある。それもいくつか抜けられるようになっているから、閉じていない。単純なことですが、公共の広場という文法を、公の概念とでも言いますか、近代の中で、これだけ明快に作った人はいなかった。さらに言えば、前川さんの広場を作る方法を、みんなが真似したんです。その教科書作りをしたことが、前川さんのすごみです。それは一見、見慣れているけれども、上野の現状を見ても、実はそれだけの力がなければできなかったことだと思う。
前川さんは、最初から広場を作りたいという気持ちが強かったのではないか。戦前の「在盤谷日本文化会館コンペ応募案」は、書院造りのような大屋根を載せ、日本の伝統的な建築様式を真似したと問題視されましたが、あのプランニングは見事です。中庭と渡り廊下があって、内外の空間が伸びやかにつながっている。おそらく、前川さんは、戦前に考えたこのアイデアを、戦後になって練り上げようと努力したのではないか。林さんが、前川さんが守勢に回っていると指摘されました。それもわかるのですが、今の世の中では、ああいうやり方しか、前川さんとしては守りきれない時代に入ってしまったのではないか。後に、「東京海上ビルディング」という超高層ビルを作ってしまったのは問題ですが、私は、前川國男は、教科書、お手本を作った人として立派だと思います。
【布野】松山さんの話で思い出すのは、戦前と戦後の連続・非連続の問題ですね。転向の問題と言ってもいいんですが、丹下さんについても言われていることですね。せっかく水を向けていただいたので、戦前のことにも、触れたいと思います。松山さんから「在盤谷日本文化会館コン応募案」が戦後の公共建築を作る原点になっているとの発言がありましたが、鬼頭さんはどう思われますか。
■戦時下に育まれた建築思想
【鬼頭】「在盤谷日本文化会館コンペ応募案」についてのご意見には、私も賛成です。戦争中に、前川さんが激烈な文章を書いています。国粋主義的な圧力が強まる中、帝冠様式が出てきて、日本の伝統をいかに考えるか、に否が応でも応えざるを得ないところに、前川さんはいたのだと思います。それに対して近代建築を持ち込むときに、伝統と近代建築は前川さんにとって大問題で、そこできちんと伝統への対応を論破しないと、帝冠様式に負けるわけです。前川さんは、「在盤谷日本文化会館コンペ応募案」の説明書の中で、日本の建築文化をここで表現しなければいけない、日本と西洋の建築空間とはどこが違うのか、日本の建築空間は閉ざされたものではなくて、建物の内と外とが有機的につながって展開されるのが日本的な空間だ、と書いています。それが、前川さんの伝統把握だったのだと思う。戦後も、それにずっとつながっていく。「神奈川県立図書館・音楽堂」のプランもそうです。あのプランを考えているときに、前川さんは、しきりに「一筆書き」のプランを描いていました。空間がどのようにつながって、人間がどう流れていくのか、それを建築的にどう表現するのか、が一筆書きになったのだと思う。晩年の「埼玉県立博物館」の空間構成はもっと複雑になっていきますが、一連のものは、戦前から育てていったものだと思います。
【布野】林さん、前川さんの戦前の評価はどうなんですか。
【林】戦前のことはわかりません(笑)。でも、最近になると、少し変わってきたのかもしれませんが、戦後、ずっと国粋主義とか帝冠様式に対する反感が強すぎたため、日本の建築的な形態とか伝統に対しては、否定的な時代が続きました。否定し過ぎたと私は思っているのです。いまだに抜けきっていないようにも思います。やはり、戦争に負けるとひどいものですね。六十年経っても、まだ敗戦の傷が癒えない、という気がしてしょうがない。伊勢神宮とか、日本の古典的な建築の良さは、みんな知っているわけですから、それをことさら否定しようとしたのは、まずかったと思います。
話は飛びますが、今、私は、清家清の本を作っていますが、彼は、戦後、グロピウスに招かれてドイツに行って、しばらくして帰ってきて、仕事を始めるわけです。驚いたことに、清家さんから、西洋の印象とか、影響をほとんど聞いたことがないし、作品にも出ていないのです。頭の中が戦前から連続しているんですね。本当はそういうものだと思うのです。
【布野】清家さんの場合は、ドイツに行ったけれども、その影響がまったくなかったわけですか?
【林】ドイツに行って、グロピウスのところで、仕事を手伝ったり、勉強したりして、それからヨーロッパをスクーターで見て回って帰ってこられたのですが、帰ってきた後で、「いかがでしたか?」と聞いても、「う~ん、いろいろくたびれた」とか(笑)。あの人は本当のことを言わない。でも、その影響が言葉にもなっていないし、仕事にも出ていないのは、大変珍しいことではないか、と最近になって思っています。
【布野】前川さんと比較すれば対照的だし、ドイツといえば、山口文象とも違いますね。清家さんの場合、伝統という意味では、日本の伝統へスーッと入っていったという意味ですか?
【林】スーッと入っていったようにも見えますが、ずっと前から入っていた(笑)とも言えます。
【布野】ヨーロッパ的な影響を受けていないで、スーッと入ってきたとすると、前川さんとは別のタイプということですね。
【林】前川さんとか、坂倉さんとか、外国の影響を受けている人が、日本にはとても多いですね。でも、その影響を受けずに死ぬまでやった人は、日本の原住民としては珍しい(笑)。
【布野】今までにない座標軸が出てきました(笑)。松山さん、いかがですか?
■前川國男の変わらない眼差し
【松山】私は、むしろ、変わるのが当たり前だと思うのです。若いときに、「東京帝室博物館コンペ応募案」でフラット・ルーフをやった人が、最後に瓦屋根をかける。不連続なのが普通だと思う。前川さんの場合は、啓蒙しようという意識が強かった人でしょう。戦前の文章を読んで一番感じるのは、そのことです。建築家で文章を書ける人は珍しい。どういう内容かというと、呼びかけている文章です。連帯しましょう、君らも一緒にやろうよ、とほとんどアジテーションに近い。
前川さんが、建築家になりたいとどのように思ったのか、詳しくは知りません。でも、前川さんには、ヨーロッパ型の自立した個人主義、そういう人間像をこれからの日本は作らなければいけないという自覚があった気がします。その一番の証が、建築家という職能へのこだわりだと思う。建築家イコール自立した個人、という意識が、彼の中にはありましたね。だからこそ、建築家はプロフェッションとして、仕事をしながら、きちんと報酬をもらい、レクリエーションも勉強もする人にならなければダメだ、と何度も繰り返して言うわけです。彼には、近代日本人の在り方として、自立した人間を日本は作るべきだ、という使命感がものすごく強かったと思う。その点は、丹下さんと比較するとわりやすい。
丹下さんは、「群集」で考える人だった。「広島ピースセンター」以来、大衆というか、ワーッとお祭りのように集まるか、整然と並んでいるか、一九七〇年大阪万博で、お祭り広場の大屋根の下に、無定形に動くマスのような群集を想定していた人です。でも、前川さんは、思索する「個人」を考えていますね。だから、丹下さんのように、集まってお祭りをするような広場のあり方は、絶対にイメージしません。何か憩って考えている人が、そぞろ歩いているような広場です。普段見ると、少しさびしいのかも知れないけれど、そういう個人を中心において、建築を考えていた。そして、そのことを、床タイルから壁、ストリート・ファーニチャー、照明器具、そういうものすべての文法を作りながら考えようとした。そこが、前川さんのすごみだと思う。それが、今の大衆社会のようなもの、高度資本主義といってもいいのかもしれませんが、そうした流れが出てきたときに、前川さんとしては、時代とずれてしまった、という意識があったのだと思う。だから、逆に、晩年の作品に見られるように、中庭のような「小さな場所」を守ろうとしたのではないか。
先ほど、林さんが、「テク二カル・アプローチ」に触れて、戦後、前川さんは、技術的なものを指導していかなければならないと思ったのだろう、と言われました。おそらく、それは、「日本相互銀行本店」で実現したのだと思います。当時は、コルビュジエから受け継いだ、透明な空間を作ろうと本気で考えていたのだと思う。ところが、焼き物の打込みタイルの建物、例えば、「東京海上ビルディング」を見ると、はっきりとわかりますが、超高層ビルで、全面ガラス貼りのミース・ファン・デル・ローエみたいなものを、彼は、違うな、と直感的に思ったのではないでしょうか。人間をマスで並べて、ツルンとした表情がないような建物に収容することに、自分としては納得ができない。それは、人間に対する正しい考え方ではない、と思ったに違いない。ですから、前川さんは、人間への眼差しという点では少しも変わっていない。逆に、だからこそ、建築の姿は変わっていったのだ、と思うんです。
【布野】八束はじめさんが、『思想としての日本近代建築』(岩波書店,二〇〇五年)という本で、前川さんの戦時中に触れていて、前川はファシストだ、とはっきり書いています。八束さんは、私に論争しましょう、と言ってきてるんですが、何で私なんでしょう。最近の京都大学の修士論文で、前川國男の書いた「覚書」が、京都学派そっくりだという指摘がなされています。ここへきて、再び、戦前への関心が巡ってきていると思います。大切な視点です。
■近代建築は「人間のための建築」になり得るのか?
【布野】先ほどの松山さんの位置づけで、なるほどと思ったのですが、前川國男が公共建築の教科書を作ったとすると、前川さんにとって、近代というのは、松山さん流に言うと、止揚されてしまったわけですね。要するにできてしまった。それが、ある意味で、現在の日本の空間、風景になってしまったとも言えますね。一方、鬼頭さんの言われた「テク二カル・アプローチ」の延長上では、あるいは、建築家の職能確立という目指してきた線の上では、「未完」ではないのか。建築家というプロフェッションの自立について未成という思いで前川さんは亡くなられたのではないか。鬼頭さんはどう思われますか?
【鬼頭】前川さんは、当初は、本気で近代建築は人間の幸福を約束する、と思い込んでいた、そう思いたいと願っていた。その最後の作品が、「神奈川県立図書館・音楽堂」だと思います。あそこまでは迷いがなかった。でも、それからだんだん近代建築に迷い始めた。こんなことも言っていました。「コンクリートと金属とガラスは、優れたものだと思っていたけれど、コンクリートは風化する、クラックが入る、どんどん汚くなってくる、アルミ二ウムは火事に合ったら熔けてしまうし、頼りない。近代建築は、人間の存在から離れていってしまうのではないか、近代建築の本質は、金持ちのためではなくて、普通の人々の生活を支えることにあったのではないか」。
「人間のための建築」が、前川さんには大きな課題で、それが、近代建築では怪しくなっていって、その中で苦しみ抜いて、どこか不可解な建物も作っていったのだと思います。 私たちが仕事をしていた頃は、「建物には、マントを着せなければいけない」と言っていましたね。「建物は、裸ではダメだ、打放しコンクリートのままではダメなんだ。耐久力もないし、何を着せるのかが問題だ」と、しきりに言っていました。その上に着せる物として、焼き物にたどり着いたのだと思う。そして、晩年になると、「人間は、はかない存在だから、建築に永遠性を求める」と言っている。近代建築は人間の建築だ、という気持ちから始めた前川さんだからこそ、最後まで、模索してもがいていた、という気がします。
【布野】林さん、その話を受けてもらえますか?
■前川國男の自己否定の意味
【林】「神奈川県立図書館・音楽堂」までは、真正面に明るく進んでこられた、という意見には同感です。その後、ちょっと暗くなっていく。わからないのは、その理由なんです。世の中、思うようにいかないものだ、ということかもしれないけれど、その心境の変化に興味があります。晩年になると、前川さんは、パーキンソン氏病という、難しい病にかかって、体を壊されますね。そういう前兆が、いつ頃からあったのかは知りませんが、体の調子が悪くなると、仕事も変わります。そうなったら、どうしても、それまでの自分を否定するようになる。多くの作家がそうかもしれませんが、変わるだけではなく、自己否定が出てくるのが、少し辛い思いがします。
【布野】私たちの世代に、衝撃的だったのは、「今、最もラディカルな建築家は、何も作らない建築家だ」という前川さんの言葉です。一九六〇年代末から七〇年にかけての発言です。自己否定と言われたので思い出しました。打込みタイルは、六〇年代における、一つの転機というか迷いというか、課題だった。そして、七〇年代冒頭に、「作らない」という言葉が出される。林さんもよくご存知だと思いますが、どんな心境だったのでしょう。
【林】でも、作る人間としては、言うべきではなかったですね。作らなければいい(笑)。にもかかわらず、作るから、それまでと違うものができてくる。マントという話も、私にはわからなかった。裸の打放しコンクリートでは所詮ダメだと考えられて、もう一枚外に衣を着なければいけない、ということになったのかもしれませんが、それが焼き物になるというのが理解できない。今は、みんなガラスを貼って済ましていますが、ガラスでなくても、金属でも、初心に戻れば「日本相互銀行本店」のアルミでもいいわけです。どうして、鈍重な焼き物という、日本的なものを外に貼るような心境に変わったのか、本当は知りたい。でも知りたくない(笑)。
【鬼頭】前川さんは、焼き物が好きだったんです。「神奈川県立図書館・音楽堂」の図書館の日差しよけも焼き物ですし、ことあるごとに、庇の先端だとかに、焼き物を試みていました。焼き物を使うと、コンクリートは収縮しても、焼き物は収縮しないから、焼き物が落下する失敗も起きます。でも、焼き物は好きでしたが、タイル貼りは嫌いでしたね。タイルで貼りめぐらせた建物を見ると、気持ちが悪いと言っていました。レーモンド事務所時代に、タイルを団子貼りして、裏に水が入ってそれが悪さをしてしまうから、タイルを貼ってもコンクリートが思うようにならない。ペタッと貼ればいいというのはよくない。タイル貼りは反対だったけれど、焼き物は好きだったと思いますね。
■日本の近代建築は未完だったのか?
【布野】松山さん、今回の展覧会を見ても、前川さんは、愚直なぐらい一貫していますね。そして、その方法が一般化していったときに、前川さんは、丹下さんと主役の交代みたいなことになっていきますね。そのあたりの位置づけというか、彼にとって近代建築とは未完だったのか、迷ったのか。前川國男の遺したものという点についてはいかがですか?
【松山】近代は、あらゆるものがコピーされる世紀です。前川さんは、公共建築というもので「教科書」を作ったがゆえに、そのまがい物、コピーが次々に出てきてしまった。前川さん風のものを作れば、市民に供することができる、というような定説ができあがるわけです。前川さん自身も、そのようにやろうとしていた。でも、それができたときに、例えば、広場があって、渡り廊下があって、図書館があって美術館がある、箱物行政みたいなものに陥ってしまった。それこそ、一九七〇年前後に、明治一〇〇年に合わせて、そのようなものが出てきてしまった。前川さんが作った定型をやれば、一応は、Aランチ、Bランチというようなものになっていく。そういう事態に、前川さんは困ってしまったのではないか。ある意味で、自分が扇動したことなのかもしれないけれど、同じようなものがドンドンできてくる。時には、ポストモダン風になる。前川さんも、アーチをやって表情をつけ始める。それだけ豊かになったのでしょうが、外皮をつければ、耐久性だけではなくて、外側から見ると、生姜焼き定食に海老フライがついている。そういう感じもしないではない(笑)。
■三菱一号館のこと
【松山】話は違うのですが、松隈さんに、このシンポジウムで話すように依頼されたときに、なぜ私がふさわしいのですか、と聞いたんです。私は、前川さんをそれほど知っているわけではないですから。そうしたら、二〇〇五年一月の丸ビルでのシンポジウムの話を持ち出されたのです。そのシンポジウムの話をしてもいいですか?
鈴木博之さんが司会で、パネラーが、私を含めて五、六人、コンドルの「三菱一号館」を復元することについてのシンポジウムだったのです。私だけが反対した。なぜかと言いますと、そこに来た歴史家の人、ランド・スケープの人、三菱地所の人、東京都の人、全部が、取り壊された明治時代の煉瓦の様式建築を復元するから良いのではないか、という話しかしないのです。ところが、その話は、その街区の中の半分だけで、後の半分は超高層なのです。実は、東京都が、復元すれば容積を上げる、という法律を作ってしまったのです。さらにひどいことに、東京駅の周辺には、現在、戦前のオフィスビルの典型は、「東京中央郵便局」と「八重洲ビル」しか残っていないのですが、その「八重洲ビル」をわざわざ壊して、コンドルのレプリカを作ろうという計画なのです。レプリカを作ると、五階分くらいの容積が割り増しされるからです。
■「東京海上ビルディング」と前川國男の孤独
【松山】前川さんが「東京海上ビルディング」を作ったときに、こう言っている。「構造的に問題があると言われるが、それはない。環境を壊すようなことはない。交通量も増えない。交通量が増えないのは当たり前で、それまでの高さ制限が容積率に変わったのだから、広場を六割にして公開空地をとれば、高層でも容積が変わらない。だから、交通量も増えない。環境も公開空地に緑ができるのだから、むしろよくなる」と。そういう論理で説明しているのです。さらに、「アメリカの摩天楼に対するコンプレックスではない。都心で問題になっているハウジングを作ったらどうか」とも言っています。
残念ながら、前川さんが亡くなって二十年経って、話は逆転している。どういうことかというと、その頃は、容積率は一〇〇〇%でしたが、今や一三〇〇%に上がりました。さらに、公開空地を作ると、ボーナスが付いて容積率が上がり、保存したり、レプリカを作ると、さらに高く作ることができる。高く作ると、人も物も増えますから、交通量は違いますよ。いろんな制度が変わって、汐留の汐サイトなど、もともと四〇〇%だったところを、一二〇〇%に上げてしまった。これはひどい話ですよ。つまり、そういう問題が、「東京海上ビルディング」以降に、出てきてしまった。
前川さんは、「東京帝室博物館」のコンペのときに、誰に向かって、自分が今、言葉を使って伝えられるのか悩んだと思う。同じように、そのときも誰も賛成しないのです。そんな馬鹿なことをどうしてやるのか。ひどい話ですよ。三菱地所は、土地を持っているから、一街区ごとに超高層が建ちます。今後、大手町、有楽町あたりに、九十八棟も建つんです。汐サイトなど問題ではない。でも、そういうことを言っても伝わらない。非常に困った時代に入ったなと思いましたね。
それが、前川さんにしてみれば、自分もやってしまったと。後で「巨大なものは胸につかえるね」と書いています。よくわかるんです。オフィスならともかく、超高層マンションがどんどん建っていますが、前川さんはよく知っていますよ、ヨーロッパに超高層マンションなどありません。ホテルくらいです。「東京海上ビルディング」は、前川さんにとって、失敗だったのではないか。もし、前川さんが生きていたら、今回の動きに絶対反対してくれると思います。
■土に戻るような壁の建築を求めて
【松山】だから、私は、そういう時代に入ったときに、前川さんとしては、焼き物のタイルが本当に良いかどうかはわかりませんが、何も使わない空地を作ろう、という思想に戻ってしまったのではないかと思う。その中で、土に戻るような壁を作っておいて、その中に開いた中庭のような場所を作っておこう、という地点まで戻ってしまった。だから、林さんに言わせると、ずいぶん反動的に戻っている気がするだろうと思うのです。でも、せめて、そういうことしかできないのではないか、と前川さんは考えた。それで、もう作らないほうがいい、というような発言になってしまったのではないか。あれだけ責任をとって先導をしてきた人だからこそ、自分のやってきたことが一人歩きをして、違った方向に行ってしまったことに対して、考えざるを得なかったのだと思います。
【布野】今度の展覧会では、「時間の中で成熟する都市環境の試み」という視点から、最後のブースで、前川さんの未完に終わった計画のスケッチが展示されています。そこには、前川さんの問いかけを現代へとつなげたいという主催者の願いも込められていると思います。今の松山さんの話を受けて、林さん、前川國男が遺したものについてはいかがですか?
■建築家という職能確立への努力
【林】先ほどのお話で、超高層にしたことではなく、敷地の中での建物の作り方について、中庭を作ったり、アプローチをいろいろ工夫したり、その巧みな外部空間のデザインは、前川さんの残した大きな功績の一つだと思います。
さらに、ひと言つけ加えたいのですが、前川さんは、MIDOという組織を作って、建築家はどういうかたちで仕事をしていくべきか、と大変苦労をして、いろいろな試みをされました。しかし、それは未完に終わったのではないか、と思います。というのも、プロフェッショナル・コーポレーション、というような組織形態を残してほしかったからです。もちろん、前川さんに誰かが頼んだわけではないですが、そういう方向に、一歩でも踏み出してほしかった。
例えば、坂倉さんも、同時代にいろいろ工夫をしておられるけれど、あの方は、事務所を株式会社にはしなくて、個人の事務所としてがんばった。それはそれで見事ですが、やはり、両方とも極端で、今、会計監査法人とか、職能に応じた法人形態を作っている世界がいくつもある中で、建築家の世界は、それを作れずに今日まで来ていて、おかげでいろいろまずいことが起きている。「前川さんでなくて、お前やれ」と言われると、反論の余地もないのですが、前川さんの時代に、一歩でも踏み出しておいていただいたら、今日、実現していたのでないかと思います。それはとても残念なことです。
【布野】プロフェッショナル・コーポレーションとは、どんなものなのですか?
【林】これを話すと長くなりますが、私は、株式会社というのは、設計事務所にはまったく関係のない組織形態だと思うのです。ですから、資本金がいらない。もちろん、利益はある程度出さなければいけないのですが、利益のための組織ではなくて、プロフェッショナルな仕事をやっていくために人間が集まって仕事をする、という法人形態のことですね。
【布野】日本建築家協会の会長をやられた鬼頭さん、そのあたりを含めて、お話し下さい。
【鬼頭】前川さんは、それを志して、自分の事務所で実現したいと思っていたのですが、林さんが言われるように、その前川さんでも難しい。特に、自分の事務所でやろうとしたので、よけいに難しかったのかもしれません。事務所の中では雇用関係がある一方、一緒に仕事をやっていく仲間という関係もあって、それがうまく重ならない。基本的に矛盾しているところもあるので、事務所の組織形態が新しい形になかなかならない。たぶん、アメリカでやっているパートナー・シップについても、ずいぶん考えていたようです。私が前川事務所に入るときの話は先ほどしましたが、辞めた後、何度も事務所の中に委員会を作って、どのような組織にしたらよいかを議論していました。その度に犠牲者が出て(笑)。でも、前川さんは「うん」とは言わずじまいでしたね。
【布野】林さん、「やってほしかった」ではなく、「自分がやる」でいいのではないですか?
【林】そうですね(笑)。それで、身近なところでは似たことを試みたのです。日建設計は株式会社になっていますが、株主は社外にはいないんです。社員が株を持っている。株式会社という公共的な法人形態としては、良くないことかもしれませんが、外に変な株主が出て、この頃のように買い取られては大変だから、やらなくてよかった(笑)。持ち株会のようなものを作りまして、社員がみんな株主で運営している形態が今日でもできるのですが、人に言っても関心を示してくれないし、宣伝のしようもないですから、きちんと公に法人形態を作らなければいけない。これからの課題だと思います。
■前川國男展をどう見るか
【布野】今の日本建築家協会はどうなのでしょうか? この間の耐震偽装問題で、会長の小倉善明さんが、銀座でビラを配っていました。「自分たち建築家と、今回の問題を起こした建築士は違います」という内容のビラです。本当にそれで良いのかどうか、疑問ですね。前川さんなら、けっしてそうは言わなかったはずです。
それでは、最後に一言ずつ、今回の前川國男展を、若い人にどう見てほしいか、をお話いただけますか。
【鬼頭】どう見てほしいって、よく見てほしい(笑)。展覧会には作品が出ていますが、松山さんも言われたように、同じく会場に展示されている前川さんの文章がすごいんですよ。若い方には、ちょっとわかりにくいとは思いますが、ぜひ読んでほしいですね。
【布野】私は、「バラックを作る人はバラックを作りながら全環境に目を注げ」という言葉が一番好きです。
【鬼頭】『建築の前夜』が、文集としては一番充実しています。会場でよく見てよく読んで、もういっぺん文集も読んでいただくといいな、と思っています。
【松山】今、耐震偽装問題が騒がれていますが、そうした事件が起きた中で、展覧会をきちんと見てほしい。世の中はコンピュータを動かすと儲かる仕組みになっていますが、建築という実体を伴ったモノを作ることがどれほど面白いことか、責任はありますが、それをぜひ感じ取ってほしいですね。
「モラル」という言葉の意味を勘違いして、「法律を守ればモラルだ」、などという馬鹿なことを言う人がいますが、とんでもないことです。モラルが一番なくなるのは戦争のときです。当たり前ですが、戦争になれば、法律も教育も人を殺せというのです。そういう時代の中で、彼はデザインの自由がなくなるからと、日本的な屋根だけでなく、いろいろなデザインがあることを主張したのです。そうした深く考え抜かれたものが実感の中で育てられて生きていく。建築とは、本来そういうものです。でも、先のことなど考えず、とりあえず作ってしまえばいい、ということで、今の建築や都市の末期的な状態がある。前川國男は、そういうことと一番遠いところで考え続けた人です。それを読み取ってほしいと思います。
【林】前川國男について、もう一つ、記憶に残ったことがありました。前川さんが作った建築は安物というかバラックだと言った人がいました。私もずっとそう思っているのです。「日本相互銀行本店」などは、今にして思えば、安物ですね。しかし、当時はそれどころではなくて、とても贅沢な感じを我々は持った。それだけ、世の中が変わって贅沢になったのです。でも、贅沢になった意味は何なのだろうか、とこの頃ずっと考えさせられています。贅沢になる意味はあるのかないのか。建築というのは安物ではいけないのか。むしろ安ものだっていいではないか。ものがなくて、お金がなくて、非常に貧しい状態で作ったものに、とても貴重なものがあるぞ、ということを、今日は最後に言っておきたいと思います。
【布野】今日は、みなさんには迷惑だったかもしれませんが、自分自身が楽しむつもりで司会をしました。充分楽しみました。これで、シンポジウムを終わらせていただきます。
【松隈】パネラーの方々が、舞台裏を見せるような形でお話しされたので、かえって前川國男についての視点が広がり、次の機会につなげていける印象をもちました。
私自身は、前川國男は、現在の建築や都市のあり方を考える上での大切な手がかり、「ものさし」を残してくれた人だと思います。それを共有することによっていろんなものが見えてくる。そのために展覧会を組み立てたつもりです。会場では、そうした点も見てほしいと思います。