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2025年1月15日水曜日

犂と大工道具と露台ー道具学への準備体操,山口昌伴著『地球・道具・考』栞,住まいの図書館,1997

 犂と大工道具と露台ー道具学への準備体操,山口昌伴著『地球・道具・考』栞,住まいの図書館,1997

 犂と大工道具と露台・・・道具学への準備体操

 布野修司

 

 いたって無趣味である。

 無趣味というのは大いにコンプレックスの種である。学生諸君と登り窯をつくって陶芸の真似事を始めたのもそのコンプレックスの裏返しに違いない。料理にはいつか手を染めたいと思うのであるが、一向に身につかない。フィールド・ワークにおいて、何が一番大事かというと、食うことである。しかし、その土地土地の食べ物の名前がなかなか頭に入らない。飲む方は別だけれど、飲めば似たようなものだからたいしたことはない。困ったものだ。

 例えば、幼い頃から切手だとかマッチ箱だとかコースターだとか集めてみようとするのだけど、一度として長続きがしたことがない。蝶の採集にインドネシアの島々に出かけるなんて話を聞くと心底うらやましく思う。コレクターにはつくづく向いてない。所有するという欲が希薄なせいであろうか。マニアックな体質はどうも僕にはないらしい。困ったものだと思う。きらきら輝くような才能に恵まれないものでも、こつこつとひとつのことを積み重ねていれば、何事かの仕事ができるかもしれないのである。

 そういうわけで絶対続くはずはないと思うのであるが、最近、ちょっとしたきっかけで大工道具を集めだした。といっても、全部あわせても二〇いかない。まさに始めたばかりで、どうなるかわからない。第一、置いておくスペースがない。研究室の本棚に置いているのであるがかさばってしようがない。買っても持って帰るのに骨が折れる。第二に、竹中大工道具館のような立派な展示館もあれば、立派な大工道具研究があるから、集めてどうこうしようということではない。

 きっかけは、応地利明先生(京都大学東南アジア研究センター教授)である。僕の尊敬する先生のひとりだ。「先生」というと必ず「先生というのはやめましょうや」と、どんな場所でも、会議の席でも飲み会の席でも、必ずおっしゃる、実に気さくな先生である。本当のことをいうと、先生は照れているのではなくて「先生」を軽蔑しているのである。「先生」というのは、書斎に閉じこもって蔵書の山に埋もれ、文献だけを頼りに専門の狭い枠内でのみ論文を書く人のことをいう。応地先生は全く違う。稀代のフィールド派である。真の意味での先生だから、つい先生と言ってしまう。

 フィールドからものを考え、組み立てる、その方法を完全に身体化している、京都大学東南アジア研究センターには、そんな先生が少なくないのであるが、応地先生はそうした一人である。つき合い出して一〇年足らずだけれど、フィールドでは随分教わった。

 例えば、車に乗るとする。歩き疲れたわれわれは睡魔に襲われウトウトするのが常である。しかし、応地先生はスケッチ・ノートを離さない。緑の小さな手帳である。赤青黒の三色ボールペンでメモをとり続ける。眼に映ったものを時刻とともに記録し続けるのである。小さな字がびっしり並ぶが、驚くべき事に実に綺麗だ。そのまま誰でも読める資料である。早速真似を始めたのであるが、とても駄目だ。車が揺れるから字が震えて書けない。あとから見ると、自分でも読めないのである。相当の技術が必要で訓練がいる。

 応地先生はもともと人文地理の出身で特に農業に強い。原生林がどういうものか、焼畑の痕をどう見分けるか、パンの木がどれで、コーヒーの木がどれで、といちいち教わった。図鑑や教科書だけではなかなか頭に入らないけれど現場で見るのが一番いい。僕らはつい建物に眼が行くのであるが、植栽、樹種が区別できるから、それを記録するだけで地域の生態を理解できる。車で移動している間、僕らが昼寝している間にフィールド・ノートが完成してしまう。

 もちろん、応地先生の場合、フィールドに終始しているばかりではない。すぐれた論文が何本もある。つい最近出た『絵地図の世界像』(岩波新書)を読んでみて欲しい。知的な興奮に誘われることは間違いない。中世の日本図に描かれた架空の陸地「羅刹(らせつ)国」と「雁道(かりみち)とは何か。一見荒唐無稽な古地図に描かれた不思議な名前を読み説いていく、その筋道はまるで推理小説を読むようだ。今昔物語の分析など見事なものである。一〇年近くもつき合いながら初めて知る話ばかりだ。フィールドの知は実に奥深い。

 話は横道にそれたが、そうした応地先生と一緒にフィールド調査をしていると、手伝わされることがある。犂の測定である。犂を見つけると応地先生は必ず写真をとって長さを測るのである。一体何のために、変な趣味だと最初は訝しく思ったのであるが、話を聞けばなるほどである。大袈裟に言えばアジア各地の稲作文化の系譜を解く鍵が犂にあるのである。

 アジアにおける家畜・家禽と言えばまず水牛である。稲作のための役畜として欠かせないもので、極めて重要で神聖視される。東南アジアの各地で、水牛の角や頭部の形態がは様々な形でシンボルとして用いられていることがその特別の位置を示していよう。アジアスイギュウは紀元前30002500年ころインド北部高原で家畜化されたといわれる。沼沢水牛と河川水牛の二つにグループに分かれ、東南アジアで飼われるのは沼沢水牛である。半水生の動物である。高温多湿の環境を好み、熱帯作業の水田作業に適している。

 水田耕作のためには一般には犂を引かせる。犂には様々な形態があるがインド犂と中国犂の二系列あって、インド犂の系列に連なるマレー犂のタイプは二頭で、中国犂の系列は一頭で引かせる。マレー犂は犂底が短く、犂身と犂底の角度は鋭角である。中国犂は犂底が長く、屈曲して前方に伸びる犂くびきが特徴的である。犂を用いず、水牛を水田に追い込んで蹄で田踏みさせる蹄耕を行う地域がマレー半島、スマトラ、ボルネオ、スラウェシ、チモール、ルソン島の低湿地である。

 農耕具が文化(カルチャー)、耕作の根幹に関わっているのは当たり前のことである。

 だから、建築の場合、大工道具なのだ、というとそうでもない。いずれアジアの大工道具についてまとめてみたい、という大それた気もないわけではないが、きっかけはカウベルである。ある時、インドネシアのロンボク島だったと思うけれど、応地先生が農夫と交渉してカウベルを入手するところを目撃することがあった。アフリカへ行っても、インドへ行っても、必ずそうするのだという。安く手に入る土産(代わり)だとおっしゃる。よし、まねしようと考えて、大工道具を思いついたのである。土産といっても誰も喜ばないけれど、少なくとも旅(調査)の記念品にはなる。いちいち交渉して手に入れるから思い出も深い。

 次の日、全く偶然なのだけれど、あぜ道を鉋一丁持って歩いてくる年老いた農夫に出会った。椰子の幹でつくった手作りの鉋で長さ六〇センチもある。鉄の刃を差しただけの全く単純な鉋と呼べない鉋である。ただ使い込んで椰子の木に艶がでだしている。

 譲ってくれというと嫌だという。当然である。仕事に行く途中なのである。相場の見当がつかないので、まあ日本円で五〇〇円ぐらいのつもりで一万ルピアを出した。みるみる顔が紅潮するのがわかった。同時に、本気かというような疑いの眼が向けられるのを感じた。金で大事な仕事の道具を買うのか、という眼では結果的にはなかった。こちらが本気だということがわかると、すぐさま鉋を譲ってくれたのである。農民にとって優に一ヶ月分の収入である。

 お金を手にすると、彼は奇声をあげ、畦道を飛ぶように走り去った。あっけにとられたのはこちらの方である。宝くじに当たったか、神様に出会ったかのように思えたに違いない。

 以後、市場を乱さないように周到に値切るように心がけている。道具に込められた価値観が様々にわかって興味深い。しかし、カウベルならまだいいけれど、使っている道具を買うのはどうもすっきりしない。仕事の邪魔をしてしまうからである。だから、道具や建材屋に行って買うのであるが、これがあんまり面白くない。北京もバリも似たり寄ったりなのである。道具はやはり使い込んで使い手の命が吹き込まれたものがいい。

 墨壷、物差し、風水の羅盤、大工道具にも面白いものが沢山ある。彫刻の施された凝った骨董品もあるけれど、今のところ手元に集まったのは以上のように実際使われていたものを強奪したものだ。ネパール、インド、北京、台湾、韓国、インドネシア・・・数が増えないのは、行くところが限られているからである。

 ところで、道具といえば、山口昌伴先生である。応地先生のように僕の尊敬する先生のひとりである。同じようにフィールド派である。とにかく、世界中飛び回るそのフットワークにはいつも驚かされる。週末には、外国のホテルで原稿を書く、というスタイルは真似ができない。実にうらやましいと思う。フィールドを御一緒したことはないけれど、話を聞いたことは何度もある。いつもお酒を飲みながらである。色々なことを教えていただくばかりである。フィールド派にはお酒が好きな人が多い。フィールドで得た情報、見たこと聞いたことを肴に議論をする、実に楽しいことである。

 フィールド派といっても、ただ、歩いて、見て、聞けばいい、というものではない。フィールドを通じて鍛えられた眼と、その眼を通じて蓄えられた知が大事である。同じ風景を見ても、ぼんくらな眼には何も映らないのである。山口昌伴先生がすごいのは、なにげないものに宿る命(意味)を一瞬にして読みとる眼をもつことである。また、それだからこそ事物の、とりわけ道具をめぐって、あれほどの量の文章が書けてなおつきることがないのである。

 僕の場合、空間や建築の構造的な成り立ちに眼がいって、その実の生活を見ていないことが多い。道具はその点、身体の延長であることにおいて生の意味そのものに直接関わる。山口昌伴先生にいつも敬服するのは、その眼によって、空間を志向しながら空虚しか見ていない自分に気づかされるからである。

 ところで、大工道具は以上のように中途半端に始めたばかりであるけれど、東南アジアをもう二〇年近く歩いていて気になるのが露台である。露台といってもいろいろあるけれど、家の内外で使われるベンチや寝台、四本足の台のことだ。あるいは東屋であり、倉である。倉や東屋は、道具とは言えないかもしれないけれど、東南アジアの住文化を考える鍵と思えるのである。要するに、床のレヴェルの使い方の問題に興味があるのである。あるいは、様々な建築形式の意味にまだ興味の中心があるのである。

 研究室の若い仲間と翻訳したロクサーナ・ウオータソンの『生きている住まいー東南アジア建築人類学』(布野修司監修 アジア都市建築研究会訳 学芸出版社)が実に刺激的である。東南アジアのみならず、中国南部から台湾、場合によると日本を含めて、西はマダガスカルから東はイースター島まで拡がる広大なオーストロネシア世界に様々な共通性があるということをウオータソンは説いている。そのひとつの鍵が高床式住居である。

 R・ウォータソンは、次のように書く。

 「東南アジアの地域社会においてそれぞれ発達してきた建築様式を一瞥してみると、即座にある類似性が鮮明に浮かび上がってくる。その類似性は、距離的には離れていても、共通の起源をもつことを強く示唆している。……まずは、この共有された物理的特徴のいくつかを見ることから始めよう。これらの特徴のうち、最も明らかなのは高床式の基礎を用いていることである。これは、ごく一般的に、東南アジアの大陸部と島嶼部、またミクロネシア、メラネシアにも見られる建築形式の特色である。しかし、さらに東へ視点を移していくと、ポリネシアにおいてこの特徴は消えてしまう。そこでは、建物は、石の基壇上に造られる事が多い。」

 しかし、高床式とは一体何なのか。露台に眼をやる時、別の見方が生まれてくるのではないか。

 東南アジアの伝統的建築が高床式であることはよく知られた事実である。しかし、例外がある。今日のジャワとマドゥラ島がそうである。また、バリ島がそうである。また、西ロンボクがそうである。他の例外はあんまり知られていないかもしれない。西イリアンとティモールの高地、そして小さな島であるブル島が、高床式住居の伝統を欠いている。東南アジア大陸部の大部分の地域もまた高床式である。例えば、タイ北部の山間地方においては、地床式住居はごくまれであり、高地の寒気に対応するためか、もしくは、ヤオの例のように中国の影響を受けている場合のみである。

 東南アジアといっても、大陸部と島嶼部では環境条件は違うし、自然条件や生態学的条件をみると地域ごとに実に多様である。高床式住居というのは、そうした多様な各地域でそれぞれ独自に造られるようになったのであろうか。それとも、どこかに起源があり、それが次第に伝播していったものであろうか。高床式住居はどのようにして生み出されたのか、その起源は何か、あるいは、どこか、興味深いテーマである。

 面白いことに、中部ジャワ、東部ジャワの九世紀から一四世紀に建てられた寺院の壁に描かれるのは全て高床式住居である。ジャワの歴史において、かつては高床式建物が一般的であった事を示している。地床式建物の採用は、一般的にインドの影響と考えられる。ヒンドゥー教圏であり続けるバリでは、穀倉を除いて地床式なのである。

 ところがよく見てみると、バリにしてもロンボクにしても、地床式というけれど基壇がある。ベッドや露台がある。ロンボクのササック族は、内部空間を約一メートルの高さの土壇で高くしている。そして、ブルガと呼ばれる東屋を持っている。マドゥラ島にしてもそうである。ランガールと呼ばれる礼拝棟は高床である。また、レンチャクという露台を使っている。

 どうも高床だとか地床だとか二分法で捉えてもはじまらないのではないか、と最近思い出している。人は地面や床からの高さをどう使っているのか。高床であれ、地床であれ、床面と床から一尺から一尺五寸の高さ、さらに机・テーブルの高さ、どんな地域でも少なくとも三つのレヴェルを使い分けているのではないか。それを解く鍵が露台のような家具である。

 こう思いついて、住空間の人類学を道具の側から組み立ててみたいと、ようやく山口昌伴先生の道具学へ本格的に参入する準備体操を終えつつあるかななどと思いはじめているのである。






  

2025年1月10日金曜日

書評 住まい学エッセンス 原広司 『住居に都市を埋蔵する ことばの発見』 平凡社 図書新聞   住居と都市:言葉と空間をめぐる格闘

 書評 住まい学エッセンス 原広司 『住居に都市を埋蔵する ことばの発見』 平凡社

図書新聞 

 

 住居と都市:言葉と空間をめぐる格闘

 布野修司

 梅田スカイビル(1993)、新京都駅ビル(1997)、札幌ドーム(2001)の3部作で知られる日本を代表する建築家、原広司、その原点には住居があり集落がある。1960年代末以降の建築理論家として、多くの著作を残した磯崎新に比べると、著書そのものは多くはない。評者の世代すなわち団塊(全共闘)世代に向かって強烈メッセージを送った『建築に何が可能か 建築と人間と』(1967)の後、『空間<機能から様相へ>』(1987)『集落への旅』(1987)まで20年の時の流れがある。そして、間を置かずに上梓されたのが本書(1990)である。そして、東京大学定年退官を記念して刊行された『集落の教え 一〇〇』(1998)を加えて4冊が主要著書である。

本書は、住まい学エッセンス・シリーズの一書として出版されたように、原広司の住居論を編んだアンソロジーである。新たに、原広司の一番弟子と言っていいプリツカー賞受賞者山本理顕への初版の編集者の植田実によるインタビュー(「建築家にして教育者」)が付されているが、山本理顕は、その中で「原広司は基本的にずっと住宅だと思います」と言っている。そして、本書のまえがき「呼びかける力」には、前三著のエッセンスが住居論の骨子というかたちで要約されているように思える。全体は、1990年までに設計された住宅をめぐって、Ⅰ 多層構造、Ⅱ 反射性住居、Ⅲ 未蝕の空間、Ⅳ 有孔体という構成で、時代を遡って自らが設計した住宅に即した論考がまとめられている。原広司の一連の住宅は、一般には知られないであろうが、特に、「粟津邸」(1972)原邸(1974)など「反射性住居」と呼ぶ一連の住宅群は、1970年代の日本の住宅を代表する作品として評価されている。

「住居に都市を埋蔵する」は、この「反射性住居」群の発表とともに、1975年に書かれた。「住居の歴史は(十全な生活を可能にする)機能的要素が都市に剥奪される歴史である」と書き出される。そして、「このままでゆけばおそらく将来はテレビしか残らないだろう・・・・建築家の創意はひとえにこの衰退した住居への逆収奪に注がれなければならない」と大きな指針が示される。時はオイルショックの渦中である。建築家たちがさまざまな都市プロジェクトを世に問うた1960年代初頭からExpo’70(大阪万博)にかけての「黄金の1960年代」が暗転、住宅の設計しか仕事が無くなった若い建築家たちを勇気づけたのは、「建築に何が可能か」「住居に都市を埋蔵する」とともに「最後の砦としての住宅設計」、そして「ものからの反撃-ありうべき建築をもとめて」(『世界』19777月)といったスローガンであった。「住居に都市を埋蔵する」は、今なお建築家の指針であり続けているといっていい。「都市はその内部の秩序を維持し、外部からの諸々の作用を制御する空間的な閾(しきい)をもっていた。空間的な閾は境界、内核、住居の配列形式によってできていた」「ひとつひとつの住居にも、こうした閾が用意されていた」など、随所にその指針が記されている。

こうして、住居を「最後の砦」として出発した建築家が、冒頭にあげた大規模な建築も手掛けることになるが、それを可能にする建築理論、建築手法が「住居に都市を埋蔵する」という理念と方法に既に胚胎されていたということである。本書を編むのと並行して「梅田スカイビル」「京都駅ビル」の設計とともに「未来都市五〇〇m×五〇〇m×五〇〇m」(1992)「地球外建築」(1995)の構想がまとめられるのである。

 その建築理論を一貫するのは画一的空間が単に集合する「均質空間」への批判=近代建築批判であり、大きく言えば「部分と全体」に関する理論である。最初の理論は「BE(ビルディング・エレメント)論」(学位論文『Building Elementの基礎論』(1965))である。ガリ版刷りの学位論文は今でも手元にあるが、数式が溢れている。原広司は「チカチカチカ数学者になりたい」(『デザイン批評』六号、1969)と書いているが、その理論の基礎には数学がある。しかし、数学で建築は組み立てられない。そこで設計理論としてまとめたのが「有孔体の理論」である。さらに「住居集合論」が集落調査をもとに組み立てられるが、基本的には、住居集合の配列を数学的モデルによって説明することに関心があったように思える。

 しかし一方、原広司の建築理論の基礎に置かれているのが「言葉の力」である。本書の副題は「ことばの発見」であり、本書は、住居の設計における言葉についての論考にウエイトを置いて編集されている。Ⅲ 未蝕の空間は、「埋蔵」、「場面」、「離立」、「下向」という言葉(概念)についての考察である。『空間<機能から様相へ>』の序には「設計は、「言葉」と空間の鬼ごっこなのだ」と書いている。すなわち、原広司は常に理論的営為と設計行為の間のギャップを意識している。そのギャップを埋めようとする試みが「空間図式論」であり、「様相論」であるが、最終的に鍵とするのが「言葉」である。本書にも所々で文学作品が言及されるが、言語表現と建築表現が同相において考究される。大江健三郎との交流が知られるが、表現空間が共有され、共鳴しあっているからであろう。

「呼びかける力」には、「告白すれば、私は「ことば」に構法上の自由度である逃げをとった。ことばの逃げによって「もの」としての住居を納めてきた。ことばは事実というより希望と幻想であり、いまもなお次にはすばらしい住居ができるかもしれないと思い続けてきた持続力である。」と書いている。

 



2025年1月5日日曜日

書評:21世紀の資本と建築の未来〜飯島洋一『「らしい」建築批判』(青土社,2014年)〜,布野 修司,建築討論004,日本建築学会,201504

https://www.aij.or.jp/jpn/touron/4gou/syohyou001.html 

書評001

21世紀の資本と建築の未来

飯島洋一『「らしい」建築批判』(青土社、2014年)

 

布野修司(日本大学特任教授)

 

力の入った現代建築批判である。

執筆の大きな動機となっているのは、新国立競技場計画設計競技の問題であり、最優秀賞を獲得したザハ・ハディド案(写真1abc)だという。

「らしい」建築とは、ハディド「らしい」建築という場合の「らしい」建築である。確かに、広州大劇院(写真2ab)、北京・銀河SOHO(写真3abなどこの間の一連の作品[1]をみると、ハディド「らしい」建築とはどのようなものかはおよそ理解できる。著者によれば、「そのどれもが、グニャグニャしていたり、壁が反りあがっていたりするものばかりである」。「敷地の条件や、その土地の歴史や風土、周辺環境や気候、予算、あるいは実際にそれを使う人たちのことよりも、彼女自身の建築美学とダイナミズムの方を常に最優先する」建築である。著者は、フランク・O・ゲーリーのルバオ・グッゲンハイム美術館1997年)、 ナショナル・ネーデルランデン・ビル (通称「Dancing Building - "踊るビル"プラハ1995年、写真4)などの一連の作品[2]、レム・コールハウスのCCTV中国中央電視台新本社屋など一連の作品も「らしい」建築とする。

すなわち、世界的に著名な建築家たちの名前がブランドとなった建築が「らしい」建築であり、世界的建築家(アーキスター、スターキテクト)のブランド作品ということだけで選ばれる事態、「資本主義の欲望」の「マーケット」で「建築」が消費されていく「暴走」への危機感が本書の基底にあるという。

問題は、「何者も国家と資本の論理から逃れられない絶望の只中で、未来の建築をいかに構想できるのか」(本書「帯」「誰のための建築か?」)である。

 

 「らしい」建築批判

著者の主張は極めて明快である。

「建築」は「建築家」の自己表現としての「作品」ではない、すなわち「芸術」ではない、故に、「自立した建築」、「美学としての建築」は認められず、「らしい」建築は否定されねばならない、建築は、その場所の歴史性、地域性を踏まえて、使い手のことを第一に考え、使い手と一緒になってつくるものである、というのが著者の基本的な視点、立場である。

全体は1~9の章(節)に分けられているが、その主張のポイントをまず要約しよう。

新国立競技場のコンペをめぐっては、東京開催も含むプログラムそのものの問題、敷地選定の問題、応募者の選定の問題、技術的問題など様々な問題が指摘されるが、著者が批判の中核に据えるのは、「ブランド建築家」の「圧倒的な造形性」をアピールする作品が極めて政治的な戦略として選定されたという点である(1 新国立競技場計画設計競技、2 ザハ・ハディド案)。

「らしい」建築は、一方「アイコン建築」と呼ばれる。「アイコン建築」は、C.ジェンクスの“Iconic Building(アイコン的建築物)”(2005)に由来するが、「1990年代以降に世界各地で相次いでいるグローバル資本と結びついたスター建築家(スターキテクト)の設計による建築物を総称」するのが「アイコン建築」である。「アイコン的建築物とは、相矛盾するイメージが圧縮された、人目をひく得体の知れない形態を持つ建築物をさす」(3 ブランドとしての建築家)。

著者は、建築がアイコンと化し、建築家がブランドとなり、ともにグローバル資本の商品となりつつあることを確認しながら、一方、建築がアート(美術品)として、美術館に展示される事態をも指摘している。具体的に取り上げられているのは石上純也(「空気のような建築」)である。

如何にこうした事態に立ち至ったのか、著者は大きく歴史を振り返る(4 革命の終焉)。「らしい」建築がとくに顕著になったのは1970年代以降である。著者によれば、1789年のフランス革命が近代の起点であり、それとともに始まった近代化プロジェクトは1968年のパリ五月革命によって終焉を迎える。以降、資本の論理が優位となり、建築はそれに準じていくことになる。ポスト・モダニズム建築はその先駆けであり、建築はイデオロギーではなくスタイルとなり、革命抜きの趣味的なものとなり、スノビズムによって支配されることになった。

そこで著者は、70年代初頭に活動を始めた安藤忠雄と伊東豊雄に焦点を当てながら、日本建築の70年代以降を問う(5 「社会性」からの撤退)。まず取り上げられて批判されるのは、1960年代初頭に「住宅は芸術である」と宣言し、「社会から隔絶された小さな住宅内部にのみユートピアが宿る」とし、「他者性を一切無視して、自閉的で、自己だけが満足できる抽象性の美学」に浸った篠原一男である。そして、その自己閉塞性を離れて、バブル経済とともに本格的に資本主義社会(建築的ブランド社会)へと没入した、安藤・伊東の世代の試みも、近代以降の「大きな物語」(J.F.リオタール)が砕け散った後の「小さな物語」の散乱にすぎないという。詳細は省略するが、それぞれ丁寧に言説と作品が追いかけられている。結論は、それぞれ「らしい」建築を再生産し続けるブランド建築家となったということである。安藤忠雄の作品について、「確かに一般的には、安藤はこれまで地域性を考えている建築家として評価されてきた。地域性を普遍性と融和させ、コンクリート打ち放しの建築なのに温かみがあると評価されてきた。社会と建築との関係性を考える建築家だと評価されてきた。」、だがしかし、安藤の作品は、世界のどの土地に建築を計画しても、そのどれもが同じような、コンクリート打ち放しの箱ばかりである。」K.フランプトンが「批判的地域主義(クリティカル・リージョナリズム)」と評したのは「事実誤認」であり、安藤は自己の定番商品を再生産し続けているだけである、という。

では、どこを目指すべきなのか。著者は、ポスト・モダニズムの潮流の中から現れてきたネオ・モダニズムの動向に眼を向ける(6 ポスト・モダニズムからネオ・モダニズムへ)。ネオ・モダニズムの建築は、1995年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催された“Light Construction”展を淵源するというが、具体的には、1990年代後半以降に現れてきた、1910年代から1920年代に出現したモダニズムの建築を踏襲するかのような一群の建築をいう。SANAAの一連の作品にひとつの焦点が当てられるが、ザハ・ハディドが「ザハ・ハディドとシュプレマティズム」展を開催し(2012年)、マレーヴィチやエル・リシツキーの作品と自らの作品を比較するように、モダニズムの建築の出自に眼が向けられ始めるのである。

しかし、ネオ・モダニズム建築に著者が期待するところはない。何故なら、「「社会革命」や「政治性」が不在だからである」。ネオ・モダニズム建築は、モダニズム建築のヴォキャブラリーをリサイクルしたり、リバイバルするのみであり、美学の建築であることはポスト・モダニズム建築と変わるところはない。「美学としての装飾性」が「美学としての抽象性」に置き換わっただけであり、引用の対象の違いに過ぎないとする。いずれも「革命的」でなく、「趣味的」である。ネオ・モダニズム建築は、モダニズム建築の「パスティシュ」(模倣、物真似)であり、ジャンク(ゴミ)である。

以降、著者のターゲットは伊東豊雄あるいは石上純也に向けられ、とりわけ、東日本大震災以前と以後の伊東豊雄の「転向」をめぐって批判が展開される。まず、仙台メディアテーク(2000年)以降の作品における伊東の方法をトレースしながら、伊東「らしい」建築を明らかにする(7 建築は芸術か?)。そして、「らしい」建築に対して、世界中に散りばめられた無名の建築、B.ルドフスキーのいう「建築家なしの建築」を「らしくない」建築として対置した上で、建築と芸術の概念の成立を振り返ったうえで「建築は芸術ではない」ことが確認される。

続いて、東日本大震災以後の「みんなの家」(写真5abc)に関わる伊東豊雄の言説をとりあげて、その「転向」、「自己批判」、すなわち、「作品」「個の表現」を否定し「社会性」を重視する方向をよしとする(8 誰のための建築か?)。すなわち、「場所の歴史性や地域性をよく考え」「使い手のことを第一に考え、素朴で地味な建築を、使い手と一緒になってつくる」ことが建築家の役割だとする。一方、石上純也については、「社会改革」の意識が著しく欠落しており、「高度資本主義システムを、ただ黙って追認しているだけである」と厳しい。

そして最後に、東日本大震災以後、「社会性」の方へと大きく舵を切ったかに見える伊東豊雄について、3.11以後の「被災地の中」と「被災地の外」の仕事を比較しながら、その「作品主義」、「ブランド建築家」の本質は変わらないとする(9 東日本大震災)。「「みんなの家」は、それまでの伊東の「作品」と、その見せ方を少し変えただけのものに過ぎない」、「「みんなの家」と称して、東日本大震災という悲劇の物語を、自分自身の建築家としての「業績」に、都合よく取り込んだ」如何にも伊東「らしい」建築であるとする。そして、コンペに参加しながら改修案を提出した伊東の新国立競技場への態度についても、一貫性がないと批判する。

最後の結論は、いささか投げやりである。

「したがって建築家は、これからも、イデオロギー抜きの趣味的な社会で、ただ資本主義体制に倣っていくだけである。少なくとも、いま、はっきりとわかっていることは―これは絶望的な事実であるが―ただ、それだけなのである」

 

「らしくない」建築とは?

 さて、いくつか議論のポイントを抜き出してみよう。

 第一に、以上の結論のみであれば、なんでもあり、ということになりかねないのではないか。本書が鋭く批判する伊東豊雄、安藤忠雄、ザハ・ハディド、レム・コールハウス、フランク・O・ゲーリー、SANAA,石上純也なども、「資本主義システムの論理の中で、実にうまく立ち回っている」ということですんでしまうのではないか。

 第二に、本書は、「らしい」建築批判ということで、一般的に、建築を建築家の個の表現、すなわち作品ととらえる立場、建築を芸術と考える立場を、表現主義、作品主義、建築至上主義・・・として予め排除するとするのであれば、それ以上議論は進展しないのではないか。本書は、芸術の成立をめぐってかなりの頁を割くが、建築とは何か、建築家とは何か、表現とは何か、作品とは何か、芸術とは何か、ということであれば、それぞれ多くの論考があり、議論の歴史がある。

 第三に、著者は、建築の「社会性」を「らしい」建築、「自立した建築」に対置するけれど、「社会性」とは何か、その具体的なありかたは必ずしも明快に論じられていない。

「建築家が「自律した建築」を追求していると仮定したとしても、それは、わずか200年ほど前からの話である」というが、目指すべき建築のあり方は200年前以前の建築のあり方であろうか。

著者は、「らしい」建築に「らしくない」建築を対置して、「建築家なしの建築」に言及する。ヴァナキュラーな建築世界を支える原理に着目するということであれば、その方向性については、評者も含めて、共感し共有する建築家は少なくないと思う。しかし、そうした建築世界を現代においてどう実現していくかについては掘り下げられていない。もちろん、その課題は、著者のみならず、現代建築のあり方を批判する全てが共有すべき課題であるが、建築家など要らない、「使い手のことを第一に考え、使い手と一緒になって」つくればいいといって済むほど単純ではないだろう。使い手とは誰か、誰がプロジェクトをオルガナイズするのか、誰がつくるのか、建築の主体、建築をつくる方法、仕組みと過程をめぐって様々な問題を議論する必要があるのではないか。

第四に、わかりにくいのが著者の近代建築とその歴史についての評価である。フランス革命を近代の開始と捉え、「市民革命」とともに歩んできた近代建築あるいはモダニズム建築を著者は高く?評価しているように思える。少なくとも近代建築批判の視点は希薄なように思える。近代建築の初心に戻れ!ということであろうか。

著者は、1968年に「革命は終わった」といい、以降、資本の論理が建築を支配するようになったとする。そして、以降に現れたポスト・モダニズムの建築、ネオ・モダニズムの建築などを全否定する。それらには「社会革命」や「政治性」が不在だからだという。であるとすれば、何故「革命が終わったのか」についてのさらなる分析が必要ではないか。そして、未来の建築を構想するためには、現在において「社会革命」がどのように展望されるかを示す必要があるのではないか。

第五に、1968年以降、資本の論理が建築を支配するようになったというが、資本の論理はむしろ一貫しているとみるべきではないか。H.ルフェーブルが社会的総空間の商品化と規定する、不動産が動産化し、土地のみならず建築空間そのものが売買される事態は1960年代に世界中で顕在化していた。今や、空気や水まで商品として売買されるところまで至りつつあるけれど、1970年代以降に建築をめぐって顕在化していったのは、計量可能な空間のみならず、そのイメージすら商品化される事態である。プレファブ住宅もただの箱では売れず、そのスタイル、デザインが売られるようになる。著者が指摘する通り、ポスト・モダニズムの建築の跋扈はまさにそうした資本主義の新たな位相に照応するものであった。指摘したいのは、ヴァナキュラー建築の世界を解体してきたのは、むしろ、近代建築の理念であり、産業化の論理ではないか、ということである。世界中どこでも同じような建築(インターナショナル・スタイル)を建てるという理念は、場所の歴史性や地域性を無視すること前提としており、工業化工法(プレファブ建築)は建築を土地と切り離すことを前提としているのである。

  問題は、産業的空間編成の問題であって、単に建築デザインの問題ではない。著者がいう「社会変革」が空間編成のレヴェルで構想されているとすれば全く異議はない。ポスト・モダニズム建築が、単に空間を覆う表層デザインのレヴェルにおけるスタイルの選択に終始したという指摘もその通りである。

ただ、未来の建築を構想する可能性があるとすれば、原理的には近代建築の根源的批判の上にしかないことははっきりしているのではないかと思う。そして、様々な近代建築批判の具体的な試みの中から可能性を見出すしかないのではないか。多様な試みが、好み、趣味、スタイルのレヴェルにとどまる限り、資本主義システムのうちに回収され続けるであろうことは、著者の指摘する通りである。もしかすると、著者は、個我、オリジナリティ、作品、芸術といった近代的諸概念を廃棄し、超越した地平に建築の未来をみようとしているのかもしれないけれど、「らしくない」建築で覆われた世界がどのようなものか、どのような空間システムによって可能なのか、少なくとも本書において示されているわけではない。

  

「アイコン建築」と21世紀の資本

議論の発端は、「アイコン建築」の出現である。そして、「ブランド建築家」の出現である。

第一に、「アイコン建築」を可能にしたのはCAD,CGなどコンピューター情報技術ICTである。自由自在に形、アイコンを操るトゥールの発達があり、それを実現する施工技術、建築生産技術(BIM)の発達がある。「アイコン建築」は、だからCADBIM)表現主義とも言える新たな動向とみることができる。

第二に、「アイコン建築」が出現する背景にあるのは、四角い箱型のジャングルジムのような超高層がヴァナキュラー化するほど林立する大都市の状況である。経済的合理性の追求が生み出した、画一的で、均質化する都市景観の中で、それを異化する個性的な形態、スタイルが求められるのである。そこに作動するのは資本主義の差異化のメカニズムである。

第三に、クライアントの出現がある。「アイコン建築」を欲求し、実現させたのは、とてつもない富を蓄積した富裕層である。

すなわち、「アイコン建築」はひとり「ブランド」建築家によるものではない。グローバル資本主義の大きな流れの中で生み出されたのが「アイコン建築」である。ただ、「アイコン建築」の「楽園」と言われる中国については、今後の動向を含めて別個の分析が必要であろう。資本統制が敷かれており、世界富裕ランキングに多くが名を連ねているといえ、富を自由に移動できるかどうかは疑問であり、グローバル資本主義の自動運動というわけにはいかないからである。市川紘司がレポート(「21世紀中国建築論とアイコン建築の終焉について」『建築討論』003号)するように、「アイコン建築」統制の動きもある。このこと自体、建築表現と政治の問題として議論すべきであろう。

本書が焦点を当てるのは、いわゆる建築家、それも世界的建築家(スターキテクト、アーキスター)である。著者は、加熱する資本主義システムに加担すると「世界的建築家」を批判するが、「世界的建築家」の相対的地位の下落は明らかである。

近代建築の英雄時代の巨匠たちは、思想家にして実践家、総合の人間であり、世界を秩序づける神としての「世界建築家」として理念化される存在であった。近代建築の歴史の過程で国境を越えて活躍する「世界的建築家」が生まれるが、近代建築の理念とそれを実現する建築家の理念は共有されてきたといっていい。しかし、世界資本主義のグローバルなさらなる展開において、建築家は、最早「世界建築家」ではありえないし、その理念も成立しない。問題は、それどころか、「スターキテクト」「アーキスター」と呼ばれる世界的著名な建築家が「ブランド建築家」として資本に使われる事態が出現しているのである。

確かに、ありとあらゆるものを差異化し、商品と化していく資本主義の底知れぬ潜在力をまず認めるべきであろう。しかし、一方、その行く末も見極める必要もある。

トマ・ピケティの『21世紀の資本』(みすず書房、2014年)は、18世紀以降今日に至る世界の富の蓄積と分配の歴史を明らかにするが、1970年代以降、資本と労働の格差、持てるものと持たざる者との格差は大幅に増大する。ポスト・モダニズム建築の百花繚乱とますます富を蓄積する富裕層の増大とは照応している。「アイコン建築」の勃興もマクロには富のかなりの比率を所有すると予測されるトップ10%の富裕層の動向と不可分とみることができるであろう。トマ・ピケティの指摘で興味深いのは、20世紀前半の革命と戦争の時代、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時代に格差がもっとも縮まっていることである。皮肉なことに、産業革命以降に蓄積されてきた富のストックが破壊されたからだという。

トマ・ピケティの予測によれば、グローバル資本主義の自己運動に委ねられることになれば世界は大きく二分化されていくことになる。そうなると、建築家の世界も「ブランド建築家」と「アーキテクト・ビルダー」(あるいは「セルフ・ビルダー」)に二分化されていくのかもしれない。

 

本書で、最も厳しい批評が加えられているのは伊東豊雄である。その言説のぶれについては、評者も論評したことがあるが[3]、著者が執拗に問うように、東日本大震災後の「みんなの家」とそれ以前の作品群との落差、分裂はこれまでにないもののように思える。この分裂は、磯崎新が1968年に「社会変革のラディカリズムとデザインとの間に、絶対的裂け目を見てしまった」という、その裂け目に通じる分裂かもしれないとも思う。磯崎はこう書いていた(『建築の解体』)。

「デザインと社会変革の両者を一挙におおいうるラディカリズムは,その幻想性という領域においてのみ成立するといえなくもない。逆に社会変革のラディカリズムに焦点を合わせるならば,そのデザインの行使過程,ひいては実現の全過程を反体制的に所有することが残されているといってよい」「デザインを放棄する,あるいは拒否することだけがラディカルな姿勢をたもつ唯一の方法ではないか」

建築家に一貫するものとは何か、何がそれを要求するのか、何がそれを担保するのか、ということを否応なく考えさせられる。先の評論で「建築の永久革命」と書いたが、伊東豊雄という建築家は、常に新たな建築空間を追い求めてきた建築家だと思う。一貫するもの(例えば様式)が内にある建築家と外にある建築家がいる。後者であれば、「作品」毎に自在に様式を選択、折衷することが一貫する方法である。引用論、記号論、手法論などで理論武装するポスト・モダニズムの建築がまさにそうであった。前者の例としては、著者が挙げるようにコンクリートの箱をつくり続ける安藤忠雄がまさにそうである。伊東豊雄の場合、様式選択主義とは無縁である。造形主義でも、表現のための表現を追求しているわけではない。著者は、方法論の再生産といって非難するが、そうだとすれば、伊東豊雄に一貫するのは方法論である。方法、理論は議論の前提である。何も伊東を弁護しようというわけではない。伊東の「転向」「分裂」は、まずは方法論に行き詰った、理論的に破綻したのではないか、とみるべきではないかということである。「らしい」建築と一括するけれど、個々の方法の差異はみる必要があるということである。方法論には方法論を対置する必要がある。「みんなの家」の方向をよしとするのであれば、それが世界を覆う方法論を鍛えて提示すべきということである。

致命的問題は、建築の方法論なるものが、また、建築を語る言語が、建築界の内部で、建築家の仲間内で閉じていることである。本書が全体として告発するのは、建築専門雑誌などの媒体を含めて、一般的に開かれていないということである。全くその通りである。敢えて言えば、本書における議論も一般には難しいだろう。次元は異なるが、少なくとも、一般にわかりやすい写真や図が欲しかったように思う。閉じていると言えば、この書評もそうなのである。












 



[1] 1998 - ローゼンタール現代美術センター(シンシナティオハイオ州2003年竣工)、2010 - 国立21世紀美術館MAXXI)(ローマ)、2012 - ヘイダル・アリエフ文化センターバクーアゼルバイジャン)等々。

[2] 1989 ヴィトラ・デザイン・ミュージアム(ドイヴァイル・アム・ライン)、1999 メディア・ハーバー・ビル(デュッセルドルフ)、2000 エクスペリエンス・ミュージック・プロジェクトなど。

 

[3] 「第三章 かたちの永久革命 伊東豊雄」『現代建築水滸伝 建築少年たちの夢』彰国社、2011年。


2024年11月14日木曜日

建築が建ち上がる根源についての問いがそこにあり続ける,書評:『白井晟一の建築1 懐霄館』『白井晟一の建築Ⅱ 水の美術館』,図書新聞3140号,20140101

 建築が建ち上がる根源についての問いがそこにあり続ける,書評:『白井晟一の建築1 懐霄館』『白井晟一の建築 水の美術館』,図書新聞3140号,20140101 



2024年11月5日火曜日

話題の本06、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199607

話題の本

紹介者    布野修司 京都大学工学部助教授 地域生活空間計画学専攻


006

⑭色と欲 現代の世相1

上野千鶴子編

小学館

1996年10月

1600円

 帯に「爛熟消費社会は日本人の生活と心をどのように変えたか」とある。現代の世相シリーズ全8巻の第1巻。左高信編『会社の民俗』(第2巻)小松和彦編『祭りとイベント』(第5巻)色川大吉編『心とメディア』(第9巻)とラインアップにある。本書の冒頭には家をめぐる欲望に関して、三浦展「欲望する家族」山本理顕「建築は仮説に基づいてできている」山口昌伴「台所戦後史」の3論文がある。山本理顕論文は世相を斬るというより真摯な住居論である。

 

⑮東南アジアの住まい

ジャック・デュマルセ 西村幸夫監修 佐藤浩司訳

学芸出版社

1993年

1854円

 オックスフォード大学出版局のイメージ・オブ・アジアシリーズの一冊。東南アジアの住居については、評者は20年近く調査研究を続けているけれど、なかなかいい本がない。そうした中で本書は手頃な一冊。R.ウオータソンの「生きている住まい」をアジア都市建築研究会で訳したのであるが、近々ようやく刊行される、という。

 

⑯群居41号 特集=イギリスー成熟社会のハウジングの行方

布野修司編

群居刊行委員会(tel 03-5430-9911

1996年11月

1500円

  評者が編集長を務める。1982年12月に創刊準備号を出して、細々と刊行を続けている。最新号は、イギリス特集。フローからストックへというけれど、そのモデルとしてイギリスに焦点を当てた。安藤正雄、菊地成朋、野城智也、瀬口哲夫等々イギリス通のベストの執筆陣を組んだ。



2024年11月4日月曜日

話題の本05、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199611

 005

⑬数寄屋の森 和風空間の見方・考え方

中川武監修

丸善株式会社

1995年3月

3200円

 数寄屋とは何か。本書は中谷礼仁をキャップとする早稲田大学中川研究室の若い建築学徒のその問いに対する回答である。数寄屋名作選(1章)から入り、まず歴史が解説される(2章)。読者はおよそ数寄屋なるものの歴史を手に入れることができる。続いて、近代編(3章)素材編(4章)がきて、現在編(5章)で締めくくられる。中心となるのは京都のフィールドワークをもとにした素材編である。数寄屋の基礎用語、構成要素、年表など付録もつけられている。

⑭居住空間の再生

早川和男編 講座 現代居住3

東京大学出版会

1996年9月

3914円

 居住空間の再生と題されているが、扱われているのはインナーシティの問題だけではない。要するに居住空間が全体的に衰退してきたという認識から、その再構築をどう具体化するかがテーマである。居住空間再生の担い手をどう考えるかがひとつの焦点である。

⑮建築の前夜 前川國男文集

前川國男文集編集委員会

而立書房

1996年10月

3090円

 前川國男といえば、日本の近代建築をリードし続けた巨匠である。ちょうど10年前に亡くなった。本書はその文章を可能な限り集めた文集である。近代建築家としていかに悩みが大きかったか文章の端々から伝わってくる。巻頭に「MR.建築家ーーー前川國男というラジカリズム」という文章を書かせていただき、各時期の解説をさせて頂いた。「バラックを作る人はバラックを作り乍ら、工場を作る人は工場を作り乍らただ誠実に全環境に目を注げ」という一節が耳にこびりついている。

 

 



2024年11月3日日曜日

話題の本04、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199609

04


⑩住生活と住教育

奈良女子大学住生活学研究室編

彰国社

1993年

2400円

 

 この7月、奈良女子大学の大学院に集中講義に招かれる機会があって、今井範子先生から頂いた。扇田信先生の古稀の記念論集で、奈良女子大学で先生に教えを受けられた諸先生が執筆されている。今井先生は「”動物と暮らす”住生活」を書かれている。かねがね、ペットの飼えるマンションを、と思っているのであるが、鳴き声がうるさいと裁判ざたになったわが東京のマンションを思い出してうんざりする。女性執筆陣の中で”白(国)二点”が、西村一朗、高口恭行両先生の論考である。

 

⑪ファミリー・トライアングル

神山睦美+米沢慧

春秋社

1995年

2369円

 

 著者二人の対談集。米沢慧さんは郷土の先輩という縁もあって面識がある。『都市の貌』『<住む>という思想』『事件としての住居』などがある。ものにはならかったのであるが、東京論のために東京を一緒に歩き回った経験がある。神山睦美氏には、『家族という経験』がある。僕とほぼ同世代である。その二人が、それぞれの家族体験をもとに「高齢化社会」の行方をめぐって重厚な議論が展開される。ファミリー・トライアングルとは、職場、住居、家族のトライアングルを背景とする、家族の関係(三角形)を意味する。

 

⑫家の姿と住む構え

納得工房+GK道具学研究所

積水ハウス

1994年

2500

 

 納得工房訪れたことのない人は是非行ってみてほしい。京阪奈丘陵、関西文化学術研究都市のハイテック・リサーチ・パークにある。様々な体験ができる。GK道具学研究所は、山口昌伴先生に率いられる。ユニークな集団による、納得のすまいづくりあの手この手が披露されている。「女性でも建物でも、まっ正面から見るなんてことは滅多にない」といったポイントが多数、イラスト・写真とともにぎっしりつまる。


 

2024年11月2日土曜日

話題の本03、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199610

03

⑦⑧講座現代居住 全5巻 「1 歴史と思想」(大本圭野・戒能通厚編)

 「2 家族と住居」(岸本幸臣・鈴木晃編)

編集代表 早川和男

東京大学出版会

1996年6、7月

3914円(1,2巻共)

 

 「豊かさの中の住宅貧乏」とでも言うべき、日本の現代居住の様々な局面をグローバルな視点から問う総合講座。多分野にわたる数多くの専門家が執筆。現在、2巻まで刊行されており、以下、 「3 居住空間の再生」、「4 居住と法・政治・経済」、「5 世界の居住運動」と続刊予定。第1巻は、総論において、居住をめぐる今日的問題を明らかにし、基本的な視座を述べた上で、居住をめぐる理念、思想、政策の歴史と諸問題を論ずる。さらに、具体的な問題として、ホームレス問題、巨大都市問題、国土計画、地球環境問題など、現代的論点を考察している。

 第2巻は、現代家族の揺らぎ、女性の社会進出、高齢化、少子化など家族と居住空間の関係を論じる。布野も「2 世界の住居形態と家族」を執筆している。

 

⑨コートヤード・ハウジング

S・ポリゾイデス/R・シャーウッド/J・タイス/J・シュールマン 有岡孝訳

住まいの図書館出版局

住まい学体系075

1996年4月

2600円

 

 1982年にカリフォルニア大学出版会から初版が出され、1992年にプリンストン建築出版から再版されたものの翻訳である。副題に「L.A.の遺産」と小さくあるように、原題には「in Los Angeles」がついている。ロスアンジェルスの中庭式(集合)住宅(コートヤードハウス)を対象にした、南カリフォルニア大学グループの都市の類型学研究の成果である。しかし、コートヤード・ハウスは、古今東西、都市型住宅の形式としてどこにも見られるものであり、本書の議論は広く応用可能である。スパニッシュ・コロニアルの中庭式集合住宅の成立の過程を学びながら、地域に固有な都市型住宅のあり方を考えることができるのではないか。


2024年11月1日金曜日

話題の本02、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199608

 02

④ヒルサイドテラス白書

槙文彦+アトリエ・ヒルサイド編著

住まいの図書館出版局

住まい学体系071

2600円

1995年12月

 「ヒルサイドテラス」とは、東京は代官山に建つ集合住宅である。近くに同潤会の代官山アパートが建つのであるが、戦前戦後を通じて、このヒルサイドテラスもまた、建築家による集合住宅としてその評価は高い。第一期のAB棟(1968年)が建設がなされて以降、第六期のFGN棟(1992年)まで、槙文彦と元倉真琴をはじめとするその若い仲間たちが継続的に設計に携わってきた。本書はその記録集である。

 

⑤住宅の近未来像

巽和夫・未来住宅研究会編

学芸出版社

3296円

1996年4月

  近未来実験集合住宅「NEXT21」(大阪ガス)を実現した関西グループを中核とする未来住宅研究会の住宅論集である。具体的には、関西ビジネスインフォーメーション(KBI)主催の研究会がもとになっており、住様式、家族、集住、テニュア、居住地、エコロジーをキーワードに主論と特論から構成されている。

 

⑥家事の政治学

柏木博

青土社

2200円

1995年10月

  デザイン批評を基盤として幅広く評論活動を展開する気鋭の評論家による家事労働論。もちろん、住居論としても読める。「キッチンのない住宅」「家事はロボットにおまかせ」など、魅力的な目次が並ぶ。しかし、必ずしもそこに未来の住宅についてのヒントがあるといった類の本ではない。住宅という容器のなかの出来事をじっくり考える本である。A



2024年10月31日木曜日

話題の本01、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199607

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 今回から本欄を担当することになりました。ご挨拶代わりに(厚かましくも)まずは自分の著書編著を紹介させて頂きます。

 

 ①布野修司編、『日本の住宅 戦後50年 21世紀へ 変わるものと変わらないものを検証する』、彰国社、19953

 戦後50年を振り返って、これからの日本の住宅のあり方を展望する。50人の建築家の50の住宅作品を選定。また、地域に根ざした建築家50、日本の家づくり、まちづくりグループ50を掲載。建築家の作品を通しての住宅戦後史の試みには限界があるけれど、様々な視点での論考を含む。特に、戦後の住宅文献50は参考になる。

 

 ②布野修司、『住宅戦争』、彰国社、1989年。

 住まいにとっての豊かさとは何か、というのがサブタイトル。受験戦争という言葉があるのに住宅戦争という言葉がないのはおかしい。日本人の一生が如何に住宅(の取得)に縛られているかを考える。F氏の住宅遍歴として著者自らの住宅遍歴を振り返るほか、山口百恵など有名人の住宅選択についても詳述している。

 

 ③布野修司編、『見知らぬ町の見知らぬ住まい』、彰国社、1990

 100人の筆者に100の住まいを紹介してもらう。日本の住宅はどこかワンパターンじゃないか、世界にはもっと楽しい住まいがあるんじゃないかというのがテーマ。100人に頼むと同じような事例が出て来るんじゃないかと思いきやすべて違う例が出てきた。住宅というのはそれぞれ違うのが当たり前なのである。



2024年10月29日火曜日

書評 井上章一「戦時下日本の建築家-アート・キッチュ・ジャパネスク」

書評 井上章一「戦時下日本の建築家-アート・キッチュ・ジャパネスク」

 

布野修司

 

 本書のもとになったのは、「ファシズムの空間と象徴」と題された論文(『人文学報』、第五一号(一九八二年)、第五五号(一九八三年)である。その二本の論文をもとに『アート・キッチュ・ジャパネスクー大東亜のポストモダン』(青土社、一九八七年)がまとめられ、さらにタイトルと装いを変えて出版された(一九九五年)のが本書である。

 実は、この一連の出版に評者は深く?関わっている、らしい。最初の二本の論文を送ってもらい、「国家とポスト・モダニズム建築」(『建築文化』、一九八四年五月号)で井上論文に言及したのがきっかけである。この言及はいたく井上氏を刺激したらしい。その経緯と反批判は長々と「あとがき」に記されている。その「あとがき」に依れば、この間、布野論文を除けば本書に対するほとんど表立った批評がないのだという。

 筆者の文章は、磯崎新の「つくばセンタービル」、大江宏の「国立能楽堂」などが相次いで完成し、建築のポストモダニズムが跳梁跋扈する中で、「国家と様式」をめぐるテーマが浮上しつつあることを指摘するために井上論文に触れたにすぎない。文章全体が一般の眼に触れることはなかったから、反批判のみが流布する奇妙な感じであった。幸い『国家・様式・テクノロジー』(布野修司建築論集Ⅲ、一九九八年)に再録することができたから、本書をめぐる数少ない批判の構図は明らかになることになった。

 争点は「帝冠様式」の評価をめぐっている。「帝冠様式」あるいは「帝冠併合様式」とは、下田菊太郎という興味深い建築家によって「帝国議事堂」(現国会議事堂)のデザインをめぐって提唱されるのであるが、簡単に言えば、鉄筋コンクリートの躯体に日本古来の神社仏閣の屋根を載せた折衷様式をいう。具体的には、九段会館(旧軍人会館)、東京帝室博物館など、戦時体制下にいくつかの実例が残されている。

 「「帝冠様式」は日本のファシズム建築様式だというのがこれまでの通説であるが、「帝冠様式」は日本のファシズム建築様式ではない(さらに、日本にファシズム建築はない)」というのが本書の主張である。もちろん、本書は「帝冠様式」のみを扱うわけではない。「忠霊塔」コンペ(設計競技)、「大東亜建築様式」の問題など全体は四章から構成され、一五年戦争期における「建築家」の「言説」を丹念に追う中で、建築界が抱えた問題に光を当てようとしている。しかし、全体としてテーマとされるのは以上のような「通説」の転倒である。

 それに対して、布野が指摘したのは、何故、そうした通説が転倒されなければならないのか、という本書が担う政治的立場である。本書には随所に「どんな(建築)イデオロギーも、意匠のための修辞にすぎない」「モダニズムが「日本ファシズム」と徹底的に戦ったことなど、一度もない」「”大東亜建設記念営造計画”が社会的にになった役割は、戦争協力という点から考えれば、無視しえるものだ」といった挑発的な断言を含んでおり、大きな違和感をもったのである。「ファシズム期における建築様式についての戦後の評価を転倒させようとする意識が先行するあまり、ファシズム思想との無縁性のみを強調するバランスを欠いたものといっていい。また、そのことにおいて、露骨なイデオロギーのみを浮かび上がらせるにとどまっている。」と書いた。いたくお気に召さなかったらしい。

 ファシズム期の日本の建築家をめぐっては、「建築様式史上の造形の自立的変遷」にのみ焦点を当てる本書を得ても、なお検討すべき問題がある。新興建築家連盟の結成即即解散(一九三〇年)から建築新体制の確立(一九四五年)への過程は、建築家の活動を大きく規定するものであった。その体制全体の孕む問題は、拙著『戦後建築の終焉』(れんが書房新社、一九九五年)でも触れるように、建築技術、建築組織、建築学の編成、植民地の都市計画など、単に「帝冠様式」だけの問題ではないのである。

 それ以前に、「帝冠様式」の問題が残されている。戦時体制下において開催された設計競技の多くは「日本趣味」「東洋趣味」を規定するものであった。この強制力は、果たしてとるにたらないものなのか。具体的に、今日、公共建築の設計競技や景観条例において勾配屋根が求められたりする。これは景観ファシズムというべきではないのか。「帝冠様式」の位相とどう異なるのか。

 「帝冠様式」をキッチュとして捉えるのは慧眼である。「帝冠様式を日本のファシズム建築様式ととらえる通俗的な見方を否定して、上から与えられた、あるいは強制された様式としてではなく、大衆レベルによって支えられ、下から生み出された様式としてとらえる視点」は興味深い。なぜなら「国民へ向かって下降するベクトルが逆転して国家へ向けられるそうした眼差しの転換をこそファシズムの構造が本質的に孕んでいたとすれば、そうした視点から、大衆的な建築様式と国家的な建築様式との関連をとらえ直す契機とはなるはず」だからである。

  屋根のシンボリズムについてはその力(強制力)をもう少し注意深く評価すべきであろう。民族や国民国家のアイデンティティあるいは地域なるもののアイデンティティが問われる度に、「帝冠様式」なるものは世界中で生み出されるのである。また、建築における「日本的なるもの」、についてももう少し掘り下げられるべきであろう。本書の「あとがき」には、井上氏も、植民地における帝冠様式など残された課題を列挙するところである。

 一五年戦争期における日本回帰の諸現象と建築における日本趣味とは果たして関係なかったのか。「モダニズムが日本ファシズムと結託した」という命題はもう少し具体的に検証されるべきではないか。問題にすべきは、「日本的なるもの」のなかに合理性をみるというかたちで、近代建築の理念との共鳴を見る転倒ではないか。日本建築の本質と近代建築の本質を同じと見なすところに屈折はない。その屈折のなさが、科学技術新体制下における建設活動を支えたのではないか。本書に対する未だに解けない違和感は、数々の断言によって、例えば以上のような多くの問いを封じるからである。

 

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...