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伊東豊雄はどこへ行く? 書評/伊東豊雄 『日本語の建築 空間にひらがなの流動感を生む』 PHP新書 (2016年11月29日)伊東豊雄はどこへ行く? 2017/02/14 | WEB版『建築討論』, 011号:2017年春(1月ー3月)http://touron.aij.or.jp/2017/02/3548
『建築討論』011号 ◎書評 布野修司
── By 布野修司 | | 書評, 011号:2017年冬号(01月-03月)
Book Review
伊東豊雄はどこへ行く?
Where Toyoo Ito is going?
伊東豊雄『日本語の建築 空間にひらがなの流動感を生む』PHP新書、2016年11月29日
台中国家歌劇院が10年がかりで竣工した。仙台で開催された第11回アジアの建築交流国際シンポジウムISAIA(International Symposium
on Architectural Interchange in Asia)(東北大学、2016年9月20日~23日)の基調講演の中で本人自らの説明を聞いた。現場の大変さを聞いていたのであるが、よくぞ竣工にこぎつけたと思う。この見たことのない傑作は21世紀の名建築として歴史に残ることであろう。
東日本大震災後、被災地に何度も通って「みんなの家」を被災地に建てた。そして、2012年開催の第13回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展に、陸前高田の「みんなの家」を出展、金獅子賞を受けた。そして、プリツカー賞も受賞した(2013年)。さらに、新国立競技場の設計競技については結果的に3度挑戦し敗れた。この間、日本の建築界の中心にいて、その一挙手一投足が注目される建築家が伊東豊雄である。
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そんな伊東豊雄が2016年に立て続けに新書を出した。本書と『「建築」で社会を変える』(集英社新書、2016年9月)である。東日本大震災直後の『あの日からの建築』(集英社新書、2012年10月)と合わせると、立て続けに3冊の新書が出版されたことになる。いずれも、インタビューをもとに、編集者、企画者がまとめるスタイルである。本書のタイトル、「日本語の建築」「空間にひらがなの流動感を生む」という方向性は必ずしも詳述されるわけではない。従って、伊東豊雄のこれまでの『風の変容体』『透層する建築』のような建築論を期待して読むと裏切られるが、この一連の新書から、伊東豊雄がこの間何をどう考えて、何をしてきたのか、建築家としてのある着地点に向かいつつあることを知ることができる。
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「壁、壁、壁…。前を向いても後ろを振り返っても、右も左も壁ばかり。渡る世間は壁ばかりです。」と本書は書きだされる。壁とは、例えば、巨大な防潮堤で、「安全・安心」の壁が実は「管理」という壁と同義語で、お上が自分の管理責任を問われるときに必ず持ち出されるのが「安全・安心」の壁だという。本書は、プロジェクト毎に出会う「壁」についての物語である。
まず興味深いのは、第一章「新国立劇場三連敗」である。3連敗とは、最初のプロポーザルコンペで負けたこと、また、ザハ案への反対運動の過程で自ら提案した改修案が採用されなかったこと、さらにデザイン・ビルド方式に応募(B案)で敗れたこと、の3連敗である。
新国立競技場をめぐる問題が、建築界で深く受け止めるべき問題を孕んでいることはこの間様々な場所で議論されてきた。このWEB版『建築討論』でもまず「デザイン・ビルド方式の問題」http://touron.aij.or.jp/2016/04/1827、そして「契約方式の問題」http://touron.aij.or.jp/2016/09/2643をめぐって議論がなされている。設計施工の分離を前提とした建築家の基盤が大きく揺らぎ、設計者、施工者、そしてクライアントの関係が複雑に変化し多様化していることが確認される。ただ、建築の契約発注について、また、建築家が果たすべき役割について、必ずしも建築界が一致する方向性は必ずしも見いだせていない。
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新国立競技場のコンペについては、歴史的、構造的な問題が露呈しているといっていい。別の場所でじっくり議論したいと思うが、しかしそれにしても、何故、伊東豊雄はデザイン・ビルドのコンペに応募したのか。本書を読んで初めて知ったのであるが、様々な柵(しがらみ)の中で頼み込まれたのではなく(A案一案だけではコンペが成立しないから)、コンペへの応募は伊東豊雄の方からもちかけたのだという。というのも、『あの日からの建築』において、あるいは本書においても、東京(都市)から地方へ、あるいは「新しさ」から「みんなの家」へ、自らの建築家としての方向を大きく転換したと思われているからである。その伊東が、東京のど真ん中の国家的プロジェクトに自ら挑む構図がしっくりこないのである。
伊東豊雄は、自らの案がすぐれていると、公表された点数の問題に絞って疑問を提示するが、新国立競技場のコンペの問題は点数制による評価方法を問う以前にある。コンペのフレームすなわち敷かれたレールがそもそも問題であって、敷かれたルールに乗って戦って負けたということである。結果として、ルールに従って選定しましたというアリバイづくりに参加することになった。「壁」をカムフラージュし、補強する役割である。
結局、何故、3回目の戦いに参加したのかについては、「建築に携わろうと思ったら、大手の組織系事務所に入るしかない」状況の中で「個人の建築家としてどこまでできるのかチャレンジしてみたいと思った「若い人に知ってほしかった」」というだけである。
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この間の伊東豊雄の「転向」をめぐっては飯島洋一『「らしい」建築批判』(青土社、2014年)の厳しい批判があり、この書評欄でもとりあげた(「21世紀の資本と未来」https://www.aij.or.jp/jpn/touron/4gou/syohyou001.html)。繰り返しは控えたいが、飯島は、東日本大震災以前と以後の伊東豊雄の「転向」、「自己批判」、すなわち、「個の表現」「作品」としての建築を否定し「社会性」を重視する方向をよしとしながら、その「作品主義」「ブランド建築家」の本質は変わらないと批判する。そして、コンペに参加しながら改修案を提出した伊東の態度も一貫性に欠けると批判する。飯島に言わせれば、白紙撤回後のデザイン・ビルド・コンペに参加することなどもっての他ということであろう。
「仙台メディアテーク」までの伊東豊雄の建築論の展開をめぐっては、『建築少年たちの夢 現代建築水滸伝』(彰国社、2011年)で論じたが(「第三章 かたちの永久革命 伊東豊雄」)、確かに、状況に応じて状況と渡り合うその言説にはブレがある。それに付け加えることはないが、しかしそれにしても、東日本大震災後の「みんなの家」とそれ以前の作品群との間のブレ、落差は、それ以前のブレに比べて極めて大きい。ひたすら「新しいかたち」を求めてきた(「かたちの永久革命」)伊東がコミュニティ・ベースの「みんなの家」を提案するのである。
それに既存施設の改修案を提示しながらデザイン・ビルドの新築案に応募するのは明らかに首尾一貫しない。伊東に言わせれば、条件が違うのだから案が異なるのは当然ということであろうが、飯島ならずとも、戸惑わざるを得ない。
しかも、『あの日からの建築』で語った新たな建築の方向については、結局「みんなの家」しかつくれなかったと伊東豊雄はいう(第二章「管理」と「経済」の高く厚い壁 東日本大震災と「みんなの家」)。この言い方もいささか気になる。「今後、被災各地の復興は困難をきわめるだろう。安全で美しい街が五年十年で実現するとは到底思われない。しかし東京のような近代都市の向こう側に見えてくる未来の街の萌芽は確実にここにある。」と書いていたのである。釜石復興プロジェクトは挫折したという。しかし、一体何をつくりたかったのか。『「建築」で日本を変える』と言うのである。
結局、「管理」と「経済」を大きな二つの壁とする近代主義に凝り固まった思考と態度に拒まれたというけれど、何が阻まれたのか。
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その昔、「近代の呪縛に放て」という『建築文化』の連載シリーズ(1975~77年)のコア・スタッフとして毎月のように集まっていた頃を思い出す。伊東豊雄をトップに,長尾重武[1],富永譲[2],北原理雄[3],八束はじめ[4],布野修司というのがメンバーであった。「近代の呪縛に放て」というのは田尻裕彦[5]編集長の命名であったが,近代建築批判の課題は広く共有されていた。「アルミの家」によってデビューはしていたけれど、その時点で「中野本町の家」はまだ実現はしていない。近代建築批判をどう建築表現として展開するのか、口角泡を飛ばして議論したものである。結局、振出しに戻ったということなのか?出発点にとどまっているだけなのか、何ができて何ができなかったのか。
伊東豊雄は、第三章「「時代」から「場所」へ」で、これまでの自らの軌跡を素直に振り返っている。「社会に背をむけた1970年代」から「消費の海に浸らずして新しい建築はない」といっていた時代へ、そして、「八代博物館・未来の森ミュージアム」以降、公共建築の展開がある。建築家として自作を語るというより、時代の流れとの対応が語られる。インタビュアーとの応答がベースになっているからであるが、もともと伊東豊雄は「状況」に敏感な建築家である。自ら振り返って、はっきりと「バブルの時代の東京が一番好きでした」ともいっている。そして「仙台メディアテーク」以降は、地域や場所に密着した建築を強く意識するようになるのである。
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1970年代初頭、近代建築批判の流れはいくつかの方向に向かう。わかりやすいのは、近代建築の理念や規範が排除してきたもの、否定してきたものを復権することである。装飾や様式、自然やエコロジー、ヴァナキュラーなものやポップなもの、廃棄物やキッチュ、地域や伝統などが次々と対置された。そして、それぞれがデザインの問題と競われることにおいてポストモダンの建築として一括されることになる。様々な記号やイコンや装飾が浮遊するポストモダンの建築状況は、あらゆる差異が無差異化され同一平面上に並べられることによって消費される消費社会の神話の構造と照応していた。そうした中で、常に何か新しさを求めてきたのが伊東豊雄である。だから、装飾や様式、自然やエコロジー、ヴァナキュラーなものやポップなもの、廃棄物やキッチュ、地域や伝統を対置する構えはなかった。その伊東が「地域」や「場所」へ向かうというのである。
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鍵となりそうなのが「日本語の建築」であり、「ひらがなの流動感」だという。もちろん、「日本の伝統的な建築様式に戻ればいいと考えているわけではない」。「歴史や風土を踏まえたうえで、現代のテクノロジーを駆使して未来を見据えた建築のあり様をみつけ出したい」「アジアの建築家として、日本人の建築家として、一つ見えてくる道筋の先に、「日本語の空間」「日本語の建築」というあり方が存在するのではないかと考えるようになった」(序章)というのである。
「日本語の建築」というのは本書で突き詰められているわけではない。枕としてひかれているのは水村美苗『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』(筑摩書房、2008年)である。これについては、「建築討論」02号「日本建築の滅びる時」宇野求・布野修司対談https://www.aij.or.jp/jpn/touron/2gou/jihyou003.html で話題にしている)が、世界語、国際語としての英語と日本語、近代建築と日本建築という単純なディコトミーに基づいて日本を対置するというのだとすれば、よくある日本回帰のパターンである。辛うじて理解するのは、「壁」によって空間を区切ってしまうのではなく、空間の連続性を保ちながら、空間に場所の違いを生み出す、壁を建てない、区切られた部屋を極力つくらない、自然の中にいるような建築、具体的には「せんだいメディアテーク」の「チューブ」や「みんなの森ぎふメディアコスモス」の「グルーブ」、振り返れば「中野本町の家」のような空間がその方向だという。
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建築の壁と「渡る世間は壁ばかり」という「壁」はもちろん違う。壁を取っ払えばいい、というわけではないだろう。近代建築批判が単にデザインの問題ではないことは最初からわかりきったことである。この「日本語の建築」は社会的な「壁」の問題にどう重なるのか。
『「建築」で日本を変える』のあとがきに書かれているけれど、伊東豊雄は、2014年の秋から4カ月間病院生活を送っている[6]。この4カ月の膨大な時間にこれまでにつくってきた建築のこと、そしてこれからの自分の人生の過ごし方について考えたのだという。
結局は、自らの生き方として示すしかない、ということではないか。「作品」とか「個」の表現とかを突き抜けた地平で、依拠する場所を決めたということである。そうだとすれば、伊東豊雄は変わった、あるいは着地点を見出したのである。
最終的に行きつきつつあるのは大三島である。残された建築人生を大三島での活動に懸けたいという。伊東建築塾も大三島で行われる。大三島には土地も買った。ル・コルビュジェが晩年、モナコ近くの海辺に小屋を建て、のんびり裸で絵をかきながら過ごしたというエピソードにわが身も重ねるともいう。
そうした中で、熊本大地震が起こった(2016年4月)。熊本アートポリスのコミッショナーとしては動かざるを得ない。大三島を拠点としながらもまだまだ世界中を股にかけざるを得ないかもしれない。
しかしそれにしても、伊東豊雄のように「壁」と格闘する建築家が群雄割拠しないといけないのではないか。
[1] 1944年東京都生まれ。東京大学工学部建築学科卒業,東京大学大学院博士課程単位取得満期退学,工学博士(東京大学)。72~83年東京大学助手。77~78年イタリア政府給費留学生としてローマ大学に留学。'83~88年東北工業大学助教授。武蔵野美術大学教授,学長。作品に「国分寺の家」(1976年)「天日向家船」(1996年)など。著書に『ミケランジェロのローマ』(1988年)『ローマ・バロックの劇場都市』(1993年)『建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1994年)『ローマ―イメージの中の永遠の都』(1997年)など。詩集に『きみといた朝』(2000年)『四季・四時』(2002年)『愛にかんする季節のソネット』(2002年)。
[2] 1943年 台北市生まれ。東京大学工学部建築学科卒業。1967年~1972年菊竹清訓建築設計事務所。1972年富永讓+フォルムシステム設計研究所設立。法政大学名誉教授。「ひらたタウンセンター」で日本建築学会賞(2003年)。著作に『現代建築 空間と方法』(1986年)『近代建築の空間再読』(1986年)『ル・コルビュジエ 建築の詩』(2003年)『現代建築解体新書』(2007年)など。
[3] 1947年横浜生まれ。1970年東京大学工学部都市工学科卒業。1977年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。名古屋大学工学部助手,三重大学工学部助教授を経て1990年千葉大学工学部教授。千葉大学名誉教授。『都市設計』(「新建築学大系」一七,共著,彰国社,1983年)『公共空間の活用と賑わいまちづくり』(共著,学芸出版社,2007年)など。訳書に『アーバン・ゲーム』(M.ケンツレン),『都市の景観』(G.カレン)など。
[4] 1948年山形県生まれ。建築家、建築批評家。1979年東京大学都市工学科博士課程中退,磯崎新アトリエ(担当作品ロスアンゼルス現代美術館,筑波センタービル等)を経て1985年UPM(Urban Project
Machine)設立。1988年熊本アートポリスのディクレクター。芝浦工業大学教授、芝浦工業大学名誉教授。作品に「白石マルチメディアセンターアテネ」(1997年)「美里町文化交流センター「ひびき」」(2002年)など。著作に『逃走するバベル 建築・革命・消費』(1982年)『批評としての建築 現代建築の読みかた』(1985年)『近代建築のアポリア 転向建築論序説』(1986年)『ロシア・アヴァンギャルド建築』(1993年)『思想としての日本近代建築』(2005年)など。
[5] 1931年生まれ。早稲田大学文学部卒業。建築ジャーナリスト。1960年彰国社入社。『建築文化』編集担当,『施工』創刊編集長を経て,1970年『建築文化』編集長(企画室長の任期を挟んで82年まで)。著書に『この先の建築』『建築の向こう側』(2003年)など。
[6] 実は、丁度その期間に滋賀県新生美術館のコンペがあり、伊東さんが選考委員会に一度も出席できず、僕は審査委員長として2段階の公開ヒヤリング方式を実現するのに孤軍奮闘することになった。この公開ヒヤリングによるコンペ方式を僕は20年前から続けているのだが、新国立競技場も何故透明性の高いコンペ方式がとられなかったのか、その組み立てにそもそも疑念がある。点数制の問題も新生美術館でも当然問題になった。
2025年5月10日土曜日
2025年2月23日日曜日
「日本のモダニズム建築の初心とは?」布野修司 | 2016/10/12 | 書評『磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談議』六曜社,2016年8月25日, 『建築討論』010号:2016年冬号(10月ー12月)
『建築討論』010号 ◎書評 布野修司
── By 布野修司 |
2016/10/12 | 書評, 010号:2016年冬号(10月-12月)
日本のモダニズム建築の初心とは?
The Original Intention of Japanese Modernist Architects?
『磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談議』六曜社、2016年8月25日
今や、こうしてじっくり「建築」について語り合う建築家がいなくなったという思いがこみ上げてくる。もしかすると、こうした議論を取り上げるメディアが少なくなったというべきか。そんなことはない、日々酒場で、あるいはSNS上で活発な議論は行われているという声もあるかもしれない。しかし、建築をつくる力となる、そんな熾烈な議論がなされているかどうかは、疑わしいのではないか。もとより問題は、こうした建築談議に耐える建築がつくられなくなったのではないか、ということである。
本書は、磯崎新と藤森照信の対談集(「建築談議」)であり、『磯崎新と藤森照信の茶席建築談議』に次ぐ第二弾である。モダニズム建築談議をめぐっては第三弾として「モダニズム建築談議
その2」が用意されているという。
「モダニズム建築談議」でとり上げられるのは8人の建築家である。西欧経験によって2人ずつペアで組合せられて議論され、そのまま4章構成、アントニン・レーモンド(1888-1976)と吉村順三(1908-97)―アメリカと深く関係した二人―(第一章)、前川國男(1905-86)と坂倉準三(1901-86)―戦中のフランス派―(第二章)、白井晟一(1905-83)と山口文象(1902-78)―戦前にドイツに渡った二人―(第三章)、大江宏(1913-89)と吉坂隆正(1917-80)―戦後一九五〇年代初頭に渡航―(第四章)とされている。
レーモンドは、1888年生まれであり、ル・コルビュジエ(1887-1965)とほぼ同い年である。フロンク・ロイド・ライト(1867-1959)のもとで学び、帝国ホテルの建設のために来日(1919年)、1921年に日本に事務所を開設している。8人のなかでは別格であり、日本におけるモダニズム建築の師匠のひとりであり、ひとつの水脈源といってい。吉村順三はレーモンド事務所出身であり、前川國男もル・コルビュジエのもとから帰国して勤めたのもレーモンド事務所である。大江宏と吉坂隆正のペアはいささか苦しい。吉坂は本書では最年少で、戦後1950-52年にフランス政府給費留学生としてル・コルビュジエのアトリエで学んでいる。前川國男とは一回り世代が違う。大江宏と言えば、ペアとして東京帝国大学の同級生丹下健三(1913-2005)が思い浮かぶが、本書では、岸田日出刀、丹下健三、浜口隆一、浅田孝は脇役という(序)。中心軸として前提されているのは、日本のモダニズム建築のチャンピオン、丹下健三である。丹下健三については、丹下健三・藤森照信『丹下健三』(新建築社、2002年)があるし、生誕100周年を期にまとめられた『丹下健三を語る 初期から1970年代までの軌跡』(鹿島出版会、2013年)がある。
序は「語られなかった、戦前・戦中を切りぬけてきた「モダニズム」」と題される。日本の近代建築を主導してきた建築家たち、本書では、8人の建築家が、戦前戦中をどう切りぬけてきたか、モダニズム建築をどう受容し、どう展開してきたのかが本書のテーマである。取り上げられる建築家は全て戦前生まれであり、その戦前戦後の「切りぬけかた」が問題にされる。「モダニズム建築」の受容、咀嚼、そして展開がテーマである。
確かに、「15年戦争期」(満州事変の勃発(1931)から第二次世界大戦の終結(1945)まで)の日本建築については、今でも「語られていない」といっていい。戦後70年(2016年)を経て、今まさに「安保法制」が大きな議論を呼ぶ中で戦前戦中の建築そして建築のあり方がとわれるのは問われるのは大きな意味がある。
もちろん、戦前・戦後の連続・非連続をめぐってこれまで問題にされてこなかったわけではない。1960年代末から1970年代にかけて、僕自身、同時代建築研究会(1976年~1991年)を組織する中で、建築における戦前戦後の連続非連続を問題にしてきた。そのひとつの成果が同時代建築研究会『悲喜劇 一九三〇年代の建築と文化』(現代企画室、1981年)である。1960年代を1920年代に、1970年代を1930年代に重ね合わせて歴史を振り返る、そうした時代感覚が70年代にはあった。磯崎新にも『建築の一九三〇年代 系譜と脈絡』(鹿島出版会、1978年)がある。
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スリ・オーロビンド・ゴーズ僧院宿舎」 撮影:布野修司 |
A.レーモンドについては、日本の近代建築の初期作品としてとり上げられる「赤星喜介邸」(1932)、「夏の家」(1933)、戦後建築の出発となる「リーダーズダイジェスト東京支社」(1951、現存せず、日本建築学会賞作品賞、1952年)などが知られ、軽井沢の「聖ポール教会」(1934)、「東京女子大学礼拝堂」(1934)、旧井上房一郎邸(1951)、「群馬音楽センター」(1961)、札幌ミカエル教会(1961)、札幌聖ミカエル教会(1961)、南山大学(1964)など、その作品の多くは身近に親しまれている。
僕も、ポンディシェリーの「スリ・オーロビンド・ゴーズ僧院宿舎」(1937)も含めて多くを見ている。しかし、これまでじっくりその軌跡をたどってみたことはない。今回の談議によって初めて知ったのは、レーモンドの自邸「霊南坂の家」(1926)とそれを紹介する日仏対訳の『一建築士の住宅』(洪洋社、1931)である。藤森照信によれば、この小冊子の出版は、この自邸でオーギュスト・ペレ(ル・ランシ―の教会、1923年)に次いで世界で2番目にコンクリート打ち放し表現の作品をつくったのは自分であることを主張したかったためだという。コルビュジェの「スイス学生会館」が着工するのは1930年で、コルビュジェの打ち放しコンクリートの第一号であるが、それより早い、というわけである。談議は、こうしていきなり、本吉精吾の自邸(1924)に始まる日本におけるコンクリート表現の歴史が話題とされる。一般には、「白い家」あるいは「豆腐を切ったような建築」と揶揄されるように、木造でペンキを塗って仕上げるスタイルのみ真似した「近代建築」が導入されたとされるのであるが、コンクリートの建築表現そのものの歴史が通観されるのである。また、ディテール、仕上げの変遷も語られる。もちろん、木造モダニズムの系譜も語られる。吉村順三の「軽井沢の山荘」(1962)がそのひとつの焦点となるが、A.レーモンドの半割丸太の「手挟み」構法にも触れられる。
A.レーモンドについては、一般にも、第2次世界大戦の最中、アメリカ軍少将カーチス・ルメイが焼夷弾の効果を検証する実験のためユタ州の砂漠に東京下町の木造家屋の続く街並みを再現する際協力したこと、また、今日も大手の国際的建設コンサルタント会社として有名なパシフィックコンサルタンツ株式会社を共同設立(1951)したことなどが知られている。この建築談議においては、それらに加えて、レーモンド家はチェコのユダヤ教改革派の代表的な家であったこと、プラハを去ったのは。チェコ(プラハ)工科大学の建築学生クラブの会計責任者をしており、その金を持ち逃げしたからで、国際手配を逃れるためにアメリカでは改名していたといったエピソードが語られている。
戦前戦中のエピソードについては、他にも様々に話題にされている。戦争中に、丹下健三、浜口隆一が、今は時勢だから、「新日本建築様式」をやるべきだと迫ったこと、日本の敗戦を覚悟して北海道に対比した浜口隆一に対して、丹下健三は竹槍で玉砕すると言っていたこと、日本共産党の活動家として大森ギャング事件(銀行強盗)に関与し、逮捕された今泉善一(1932~44年収監、出獄後、前川國男建築設計事務所に所属、新日本建築家集団NAUの結成に加わった)は、共産党内に入り込んだスパイMによって騙されて資金稼ぎを試みたこと、強盗事件は問題にされず、拷問はなかったこと、坂倉準三が「シュメールクラブ(スメラ学塾)」という日本主義、天皇主義の右翼グループを組織していたこと等々、モダニズム建築の作品が語られる背景として、なまなましい戦中の建築家の立ち居振る舞いについて、歯に衣着せずというか、誰に気兼ねをすることなくというか、遠慮なく語られている。
僕は、戦前から戦後にかけての建築運動の流れを追いかけ、上述のように、幾人かの当事者にインタビューを重ねたこともあり、また、藤森さんから直接聞いて知っていたことがほとんどであるが、作品や出来事の位置づけ、ディテールについては認識を新たにしたことが少なくない。
僕が『戦後建築論ノート』(1981年)を上梓した頃までは、戦中の建築家の行動についてはヴェールに包まれていて、それを問題にするのはタブーと思われるような雰囲気があった。戦前戦後の連続非連続を問う必要性が意識されたのはそれ故にであり、焦点になったのは、前川國男の建築家としての軌跡をそのまま日本の近代建築の歴史とする「非転向」の神話である。
1930年にコルビュジエのもとから帰国して以降、前川國男は全てのコンペ(競技設計)に応募する。そして、落選し続ける。「日本趣味」、「東洋趣味」を旨とすることを規定する応募要項を無視して、近代建築の理念を掲げて、近代建築の象徴的なスタイルとしてのフラットルーフ(陸屋根)の国際様式で応募し続けた、この前川國男の軌跡は、日本の近代建築史上最も華麗な闘いの歴史とされる。しかし、果たしてそうか?戦中の建築家の活動についての探索が開始されたのは1970年代以降である。
前川國男が最後までフラットルーフの国際様式によってコンペに挑み続けたというのは事実ではない。また、日本ファシズム体制に抗し続けた非転向の建築家であったというのは神話にすぎない。前川國男が侵略行為に決して荷担しなかった、というのも神話にすぎない。まして、戦争記念建築の競技設計へ参加しなかった、というのは史実に反する。敢然と近代主義のデザインを掲げてコンペに挑んだ前川國男は、ついには節を曲げ、自らの設計案に勾配屋根を掲げるに至った。パリ万国博覧会日本館(1937年)の前川案には確かに勾配屋根が載っている。また、在盤谷日本文化会館のコンペでは、あれほど拒否し続けた日本的表現そのものではないか。コンペに破れ、志も曲げた。
前川國男は二重の敗北を喫したと、この時期を前川國男の「暗い谷間」といい、その掘り下げを主張し続けたのが宮内嘉久である(『前川國男作品集-建築の方法 Ⅱ』美術出版社,1990年)。また、井上章一は、帝冠様式の問題を軸に、忠霊塔(1939年)と大東亜記念営造計画(1942年)、さらに「在盤谷日本文化会館」(1943年)というコンペをめぐる建築家の言説と提案を徹底的に問題とし、前川國男に代表される日本の近代建築家の全体が究極的には転向、挫折していること、従って、戦中期の二つのコンペに相次いで一等入選することによってデビューすることになった丹下健三のみが非難されることは不当であること、さらに、帝冠様式は日本のファシズム建築様式ではないこと、帝冠様式は強制力をもっていたわけではなく、少なくともファシズムの大衆宣伝のトゥールとして使われたわけではないことを主張する(『戦時下日本の建築家 アート・キッチュ・ジャパネスク』朝日新聞社、1995年)。さらに、前川國男については、松隈洋が『建築の前夜 前川國男論』(2016)をまとめている。「「Mr.建築家-前川國男というラデカリズム」」と題して書いた前川國男についての僕の位置づけは本書によって大きく揺らぐことはないが、若い世代の建築史家によって。より広範に、多くの建築家について掘り下げられる必要があると思う。
白井晟一と山口文象をめぐっても多くの謎がある。談議には、白井晟一をめぐる艶っぽい話(ラブアフェア)が数々と出てくる。林芙美子との恋愛関係は一般的にも知られるが、林芙美子邸を設計したのは山口文象である。三人は同時期にヨーロッパに滞在していた。不明なのは、白井晟一のヨーロッパにおける、そして帰国後の「左翼」としての活動である。山口文象については、創宇社、新興建築家連盟といった建築運動の展開を軸にして、水谷武彦、山脇巌といったバウハウスに学んだ建築家たち、高山英華、西山夘三らを含めた「左翼」建築家の系譜が議論されている。革命、すなわち社会主義、共産主義の実現を目指す運動の中でモダニズム建築の実現を目指す建築家たちが如何に葛藤したかが、様々に話題にされるのである。
随所に興味深い発言がある。藤森照信が「新興建築家連盟が潰れて何が起こったかというと、今泉、梅田(譲)の創宇社系は、地下に潜っていく。帝国大学系の山田、谷口、土浦、前川などは、社会主義路線を捨てて、リベラル左派に変わり、バウハウスを範に日本工作文化連盟を結成する。この流れの遠い果てに磯崎さんや私なんかは続くわけです。」と言えば、磯崎新は「テクノクラートとしての硬派と軟派がいて、軟派はデザイナーです。僕はこの分類については、藤森さんの先生の村松貞次郎さんからお前は軟派だというように決めつけられたことが買ってあります。俺たち硬派で建築を考える奴らには、もっての外の不届きしごくという感じですよ。村松さんはそういう人でしょ。ところがその弟子のが軟派中の極め付き軟派なんだから、まあ世の中はいろいろ不思議ですよね。」と言う、雑口罵乱な感じである。
焦点は、革命(社会変革)と建築、権力と建築、テクノロジーと表現の間の関係をどうとらえるかにある。磯崎新は、「1968年」に社会変革と建築デザインの間の絶対的裂け目をみたというが、一貫して、そのアポリアに拘り続けているように思える(「「世界建築」の羅針盤 磯崎新」:布野修司『現代建築水滸伝 建築少年たちの夢』(彰国社、2011年))。 すなわち、戦前戦後におけるモダニズム建築をめぐる問題は決して過去の問題ではない。
最も興味のあるのは「日本という国が建築を表現だとみなしていない」(「建築をイデオロギーの表現とみていない日本」)という発言である。第二次世界大戦中にファシズム体制をつくりあげたドイツ、イタリア、日本の3ヵ国についてかねて指摘されてきたことであるが、ドイツは古典主義建築を、イタリアはモダニズム建築を、そして日本は「日本趣味」「東洋趣味」(帝冠様式)建築を、ファシズム建築様式と規定するように、ファシズム体制と建築様式に一対一の対応があったわけではない。しかし、ファシズム体制に与した建築家たちが戦後永久に追放されたドイツ、イタリアと異なり、日本ではそうしたパージは行われなかった。日本では建築様式は趣味の問題であり、思想戦略、文化戦略の対象とならなかったのは、佐野利器的建築観が支配的であったからだと藤森照信はいう。磯崎新は「日本では、建築デザインは趣味の問題と見られていて、建築家がそれを表現するという観点が社会的に成立していなかったわけですよ。たとえば僕が、帝冠様式はそれに対して、日本の左翼運動とモダニズム派とがお互いに組んで抵抗した様式だと言うと、井上章一さんはそういう証拠はないと反論します。日本政府がこれを日本国家様式として認めて、これをやれと言った記録の証拠がないんだから、帝冠様式を批判するわけにはいかないと彼はいいます」という。もちろん、証拠がない、関心がないということと表現のイデオロギーそしてその方法の問題は同じではない。デザインの問題が単なる覇権争いということであれば、今日の建築界もその延長にあることになるであろう。
僕の白井晟一論については「虚白庵の暗闇 白井晟一と戦後建築」(布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジー:建築の昭和』彰国社、1998年)「」(白井晟一『精神と空間』青幻社2010年『』)などに委ねたいと思う。山口文象については、まとめて論考を書く機会はなかったのである、晩年何度かお会いして白井晟一との関係なども尋ねた折に、戦後RIAに展開していった事務所の歩みを振り返りながら、独り粘土を捏ねたい、と言われたことが耳に残っている。
大江宏をめぐっては、まず、磯崎新によって同級生である丹下健三、浜口隆一を加えて3人の卒業設計の比較がなされる。それぞれの作品と元ネタと思われるモダニズム建築の対比は実に面白い。モダニズム建築の粋を実現したと評価される「法政大学55・58号」から「乃木神社」「神宮美術館」「国立能楽堂」へ、日本建築へ回帰していったと目される大江宏の軌跡について、藤森は日本建築のリヴァイヴァルとするが、一方でその正統性が確認されている。興味深いのは、大江宏が数寄屋、茶室を手掛けなかったことである。
「国立能楽堂」が建設中の頃、僕は、彰国社の新建築学体系第一巻『建築概論』(1982)の編集委員会で月一回大江先生と会う機会があった。毎回、ゲストを呼んでの建築談議は実に楽しかった。そうした中で、強烈に覚えているのは、建築と非建築というものがあるんだ、と繰り返し離されたことである。当時大江宏先生のご自宅近くに住んでおり毎回タクシーで送ってもらったのであるが、タクシーのなかでの会話はいまでも忘れない。怖いもの知らずで、劇場史についての俄か勉強をもとに能舞台の目付柱がどうのこう、僕はバラックに建築を見たいなどとしゃべった。今でも冷汗が出てくる。
ヴァナキュラー建築については一概に否定されたわけではない。インドネシアの住居を紹介する機会があったのだが、アチェの住居のプロポーションがいい、と食い入るように見られていたことも覚えている。また、談議でも触れられるが、「混在併存」ということを離されていた。大江宏の可能性はさらに掘り下げる意味があると思う。
吉坂隆正をめぐっても興味深いエピソードが明かされる。磯崎新が丹下健三邸で結婚式を挙げた初婚の相手は吉坂研究室に所属していたのだという。また、藤森照信は、建築家としてデビューするとき、吉坂の「満州の泥の家」のスケッチに力を得た、という。コルビュジエのロンシャンの礼拝堂、グロピウスそしてU研究室の集団設計、今和次郎のバラック装飾社などをめぐって談議は弾んでいる。
こうして、磯崎・藤森の建築談議は、戦前戦中に遡り、翻って、現在の日本建築を撃つ。それとともに二人の立ち位置も浮かび上がらせる。全体の構図は、丹下スクールと今・吉坂スクールの共存で、磯崎、藤森それぞれがそれぞれのスクールを引継いでいるというわけである。
磯崎新のあとがきはこうである。
「丹下健三、白井晟一は縄文的なるものについて語りますが、根本は弥生的です。これに対して、藤森さんが今和次郎、吉坂隆正のラインを取り出します。本人達は何も語ったりしないけれど、焼跡バラックに住み込むことから思考を開始している。彼らの思考こそが縄文的と呼ばれるべきでしょう。私は前者に学んだのだから、やはり国家的・社会制度的・技術主義的な近代主義者の末裔です。藤森さんは日本の近代化の総過程を相対化したあげくに、みずからゴミ拾いを演じて歴史の深層へと分け入ります。」
共著者
磯崎新 いそざき・あらた
1931年大分県生まれ。東京大学工学部建築学科卒業後、丹下健三研究室を経て、1963年磯崎新アトリエを設立。60年代に大分市を中心とした建築群を設計、90年代にはバルセロナ、オーランド、クラコフ、京都など、今世紀に入り中東、中国、中央アジアまで広く建築活動を行う傍ら、建築評論をはじめさまざまな領域に対して執筆や発言をしている。またカリフォルニア大学、ハーバード大学などの客員教授を歴任、多くの国際コンペでの審査員も務める。著書に『磯崎新と藤森照信の茶席建築談義』(六耀社、2015)、『磯崎新の建築談義 全12巻(六耀社、2001-2004)、『磯崎新建築論集 全8巻』(岩波書店、2013-2015)、『挽歌集』(白水社、2014)ほか多数。
藤本照信 ふじもり・てるのぶ
1946年、長野県生まれ。東京大学大学院博士課程修了。専攻は近代建築、都市計画史。東京大学名誉教授。1986年、赤瀬川原平、南伸坊らと路上観察学会を結成し、『建築探偵の冒険・東京編』を刊行(サントリー学芸賞受賞)。1991年<神長官守矢資料館>で建築家としてデビュー。1998年、日本近代の都市・建築史の研究(『明治の東京計画』および『日本の近代建築』)で日本建築学会賞(論文)、2001年<熊本県立農業大学校学生寮>で日本建築学会賞(作品集)を受賞。著書に『磯崎新と藤森照信の茶席建築談義』(六耀社、2015)、『藤森照信の茶室学』(六耀社、2012)、『日本建築集中講義』(淡交社、2013)『日本の近代建築』上・下巻(岩波新書、1993)ほか多数。
2025年2月4日火曜日
世紀末建築論の予兆 ,建築思潮Ⅰ『未踏の世紀末』,学芸出版社,199212
世紀末へ
世紀末建築論の予兆
布野修司
世紀末である。この世紀末へ向かう十年の間に建築に何が起こるのであろうか。フランス革命の頃、ルドゥやブレーなどの建築家が現れ、球体や円錐形など斬新な建築ヴィジョンを提示したのが一八世紀末である。産業革命からロシア革命にかけて近代建築の胎動において、鉄という素材を駆使したアールヌーヴォーの華が開いたのが一九世紀末である。そうした世紀末を思い浮かべてみると、何となく激動の予感がしてこないか。
革命、あるいは急激な社会変動が、建築的想像力を刺激し、解放することは以上を思い浮かべるだけでも明らかである。今、湾岸戦争が世界を揺さぶりつつある。東欧の民主化が加速度的に進み、ソビエトの体制が搖れている。世界の枠組みが大転換するなかで、建築もまた大きく変化していくのであろうか。
そうした世紀末を見通すかのような本がでた。磯崎新と多木浩二による対談集『世紀末の思想と建築』(岩波書店)である。帯に「建築と批評をめぐる現在にケリをつける徹底対談」とある。ケリがつけられているかどうかは疑問であるが、忙しすぎて全く議論がなくなったかのような日本の建築界に一石を投じていることは間違いない。
「六八年にすべての源があった」で始まる対談は、この二五年を五年づつ五期に分けて振り返っている。六八年は、「五月革命」の年である。世界中で学園闘争の嵐が吹き荒れた年である。この文化革命が結果として産んだのは何だったのか。果してポストモダニズムに行きつくより他に道はなかったのか。政治、資本主義、テクノロジー、形而上学等々、建築をめぐってテーマは拡散するのであるが、全体の通奏低音になっているのは六八年におけるラディカリズムの行方である。
全ての枠組みが失われつつあるかにみえる現在、建築の根拠は何なのか、創造の源泉は何なのか。それを見抜いた建築家のみが世紀末を生き抜き、二一世紀への展望を持つことができる。対談を読みながら、そんなことを思う。
2025年1月29日水曜日
書評 鶴見良行著『ナマコの眼』, 日本図書新聞、1990
書評 鶴見良行著『ナマコの眼』
布野修司
「ナマコを最初に食べたやつは偉い」なんてよくいう。面食いの食わず嫌いはそういって決して箸をつけようとしないのだけれど、ナマコ(にお酒)というとすぐにもよだれが出そうになるものは、「ナマコをグロテスクで気味が悪いと思うなんて全くの偏見だ」とかなんとかいいながら、秘かにそう思っている。ほんとに最初に食べたやつは偉い。しかし、ほんとに最初に食べたのは誰だろうなんて思ってみたことなどはない。大抵は、ナマコなんて昔から自然に食してきたのだろう、と考えてなんの疑問もないのである。
ところがびっくり仰天である。本書を読んで心底驚いた。ナマコを最初に食したのが誰か、ということがどうやら解きあかされようとしているのである。というより、ナマコをめぐって思いもかけない壮大な歴史の物語が語られているのである。たかがナマコではない。ナマコをめぐって五百頁にも及ぶ本が書かれたのである。ナマコもすごいし著者もすごい。
壮大な歴史の物語と思わず書いた。「ナマコのマナコ」と語呂合わせのようなタイトルを冠したこの大著をどういえばいいのだろう。この壮大な作品は、単なるドキュメンタリーではない。また、単なる歴史書ではない。すなわち、単なる産業史や経済史の書物ではない。アジア史、東南アジア史といった地域史の試みでも、植民地化の歴史を追っかけた本でもない。また、単なる民俗学、文化人類学の本でもない。そしてまた、ナマコの料理法の本でも生態学の本でもない。この壮大な作品は、それらを合わせた全部であり、それらを超えた何物かである。既存のディシプリンには収まりきらない。かといって単なる学際的な本といってすますわけにもいかない。「ナマコ学」の大著といえばいいのかもしれないのだが、好事家の暇にまかせた書物などでは決してない。
ナマコにマナコなどありはしない。「これは仮空に視線を合わせ事実を追った一片の物語である」と著者は最後の一行でいう。少なくとも、僕には惑々するような物語であった。『バナナと日本人』、『エビと日本人』(村井吉敬)といった書物でとられた視点と構えがここでもとられている。すなわち、日本人の生活に欠くことのできない「もの」の生産・流通・消費の構造を明らかにすることによって、日本人の生活そのものを根底的に問う姿勢がある。また、西欧中心史観や国家史観、常識やこれまで支配的となってきた眼差しを常に疑ってかかる精神が息づいている。本書は、もはや「鶴見良行」学とでもいうべき「学問」のありようがはっきりと形をとりはじめたことを示す作品である。
フィジーでホシナマコ加工が始まったのは一八一〇年代、採集加工にあたったのはアメリカ船であった。ナマコの加工法を伝授したのは「マニラメン」であり、ホシナマコはマニラを中継基地として中国市場に送られた。メラネシア一帯で、ナマコの採集、加工に従事する実に多様な人々の間に「ナマコ語」なる合成言語が生みだされていた。
一七世紀後半から南スラウェシの漁民(マカサーン)が、オーストラリア北岸アーネムランドへ毎年ナマコを採りに出漁していた。彼らは浜に小屋掛けしてアボリジニーとともにナマコを煮干しにして持ち帰った。オーストラリア北岸のナマコ産業は今世紀初頭まで続き、そして廃れた。
マルク圏は香料交易で知られるが、ナマコなど特殊海産物の生産、交易を行ってきた海域でもある。マカサーンがアーネムランドへ至る中継基地「踊り場」になったのがこの海域である。また、ミンダナオの南西に連なるスルー群島は、マカッサルと並ぶナマコの産地である。一八世紀後半から一九世紀前半にかけてスルーのナマコ産業は最盛期に達した。
ナマコは、既に『古事記』、『風土記』に登場する。古代から調(みつき)、 (にえ)として宮廷、神社へ納められていた。北九州、瀬戸内海、能登、伊勢・志摩、北海道と五つのナマコ文化圏が古くから日本列島には存在してきた。
本書は、四部からなる。「太平洋の島々」、「アボリジニーの浜辺」、「〈東インド諸島〉の人びと」、「漢人の北から」、と題され、四つの地域に焦点があてられている。そのそれぞれからほんの断片を抜きだしたのが例えば以上のようだ。一見脈絡のない以上の事実がどのようにひとつの壮大な物語へと組みたてられるか、ナマコを最初に食べたのは誰かという謎とともに読んでのお楽しみである。本書は下手な要約を許さないのだ。
国境という見えない線によって僕らの眼が如何に曇らされているか、見慣れた世界地図の盲点が繰り返し告発される。海の遊牧民(シー・ノマド)たちの自前の世界が生き生きと描かれる。そして、全体を通じて、手前勝手なヒトの視点に対してナマコのマナコが鋭くもひょうひょうと対置されている。
2025年1月15日水曜日
犂と大工道具と露台ー道具学への準備体操,山口昌伴著『地球・道具・考』栞,住まいの図書館,1997
犂と大工道具と露台ー道具学への準備体操,山口昌伴著『地球・道具・考』栞,住まいの図書館,1997
犂と大工道具と露台・・・道具学への準備体操
布野修司
いたって無趣味である。
無趣味というのは大いにコンプレックスの種である。学生諸君と登り窯をつくって陶芸の真似事を始めたのもそのコンプレックスの裏返しに違いない。料理にはいつか手を染めたいと思うのであるが、一向に身につかない。フィールド・ワークにおいて、何が一番大事かというと、食うことである。しかし、その土地土地の食べ物の名前がなかなか頭に入らない。飲む方は別だけれど、飲めば似たようなものだからたいしたことはない。困ったものだ。
例えば、幼い頃から切手だとかマッチ箱だとかコースターだとか集めてみようとするのだけど、一度として長続きがしたことがない。蝶の採集にインドネシアの島々に出かけるなんて話を聞くと心底うらやましく思う。コレクターにはつくづく向いてない。所有するという欲が希薄なせいであろうか。マニアックな体質はどうも僕にはないらしい。困ったものだと思う。きらきら輝くような才能に恵まれないものでも、こつこつとひとつのことを積み重ねていれば、何事かの仕事ができるかもしれないのである。
そういうわけで絶対続くはずはないと思うのであるが、最近、ちょっとしたきっかけで大工道具を集めだした。といっても、全部あわせても二〇いかない。まさに始めたばかりで、どうなるかわからない。第一、置いておくスペースがない。研究室の本棚に置いているのであるがかさばってしようがない。買っても持って帰るのに骨が折れる。第二に、竹中大工道具館のような立派な展示館もあれば、立派な大工道具研究があるから、集めてどうこうしようということではない。
きっかけは、応地利明先生(京都大学東南アジア研究センター教授)である。僕の尊敬する先生のひとりだ。「先生」というと必ず「先生というのはやめましょうや」と、どんな場所でも、会議の席でも飲み会の席でも、必ずおっしゃる、実に気さくな先生である。本当のことをいうと、先生は照れているのではなくて「先生」を軽蔑しているのである。「先生」というのは、書斎に閉じこもって蔵書の山に埋もれ、文献だけを頼りに専門の狭い枠内でのみ論文を書く人のことをいう。応地先生は全く違う。稀代のフィールド派である。真の意味での先生だから、つい先生と言ってしまう。
フィールドからものを考え、組み立てる、その方法を完全に身体化している、京都大学東南アジア研究センターには、そんな先生が少なくないのであるが、応地先生はそうした一人である。つき合い出して一〇年足らずだけれど、フィールドでは随分教わった。
例えば、車に乗るとする。歩き疲れたわれわれは睡魔に襲われウトウトするのが常である。しかし、応地先生はスケッチ・ノートを離さない。緑の小さな手帳である。赤青黒の三色ボールペンでメモをとり続ける。眼に映ったものを時刻とともに記録し続けるのである。小さな字がびっしり並ぶが、驚くべき事に実に綺麗だ。そのまま誰でも読める資料である。早速真似を始めたのであるが、とても駄目だ。車が揺れるから字が震えて書けない。あとから見ると、自分でも読めないのである。相当の技術が必要で訓練がいる。
応地先生はもともと人文地理の出身で特に農業に強い。原生林がどういうものか、焼畑の痕をどう見分けるか、パンの木がどれで、コーヒーの木がどれで、といちいち教わった。図鑑や教科書だけではなかなか頭に入らないけれど現場で見るのが一番いい。僕らはつい建物に眼が行くのであるが、植栽、樹種が区別できるから、それを記録するだけで地域の生態を理解できる。車で移動している間、僕らが昼寝している間にフィールド・ノートが完成してしまう。
もちろん、応地先生の場合、フィールドに終始しているばかりではない。すぐれた論文が何本もある。つい最近出た『絵地図の世界像』(岩波新書)を読んでみて欲しい。知的な興奮に誘われることは間違いない。中世の日本図に描かれた架空の陸地「羅刹(らせつ)国」と「雁道(かりみち)とは何か。一見荒唐無稽な古地図に描かれた不思議な名前を読み説いていく、その筋道はまるで推理小説を読むようだ。今昔物語の分析など見事なものである。一〇年近くもつき合いながら初めて知る話ばかりだ。フィールドの知は実に奥深い。
話は横道にそれたが、そうした応地先生と一緒にフィールド調査をしていると、手伝わされることがある。犂の測定である。犂を見つけると応地先生は必ず写真をとって長さを測るのである。一体何のために、変な趣味だと最初は訝しく思ったのであるが、話を聞けばなるほどである。大袈裟に言えばアジア各地の稲作文化の系譜を解く鍵が犂にあるのである。
アジアにおける家畜・家禽と言えばまず水牛である。稲作のための役畜として欠かせないもので、極めて重要で神聖視される。東南アジアの各地で、水牛の角や頭部の形態がは様々な形でシンボルとして用いられていることがその特別の位置を示していよう。アジアスイギュウは紀元前3000~2500年ころインド北部高原で家畜化されたといわれる。沼沢水牛と河川水牛の二つにグループに分かれ、東南アジアで飼われるのは沼沢水牛である。半水生の動物である。高温多湿の環境を好み、熱帯作業の水田作業に適している。
水田耕作のためには一般には犂を引かせる。犂には様々な形態があるがインド犂と中国犂の二系列あって、インド犂の系列に連なるマレー犂のタイプは二頭で、中国犂の系列は一頭で引かせる。マレー犂は犂底が短く、犂身と犂底の角度は鋭角である。中国犂は犂底が長く、屈曲して前方に伸びる犂くびきが特徴的である。犂を用いず、水牛を水田に追い込んで蹄で田踏みさせる蹄耕を行う地域がマレー半島、スマトラ、ボルネオ、スラウェシ、チモール、ルソン島の低湿地である。
農耕具が文化(カルチャー)、耕作の根幹に関わっているのは当たり前のことである。
だから、建築の場合、大工道具なのだ、というとそうでもない。いずれアジアの大工道具についてまとめてみたい、という大それた気もないわけではないが、きっかけはカウベルである。ある時、インドネシアのロンボク島だったと思うけれど、応地先生が農夫と交渉してカウベルを入手するところを目撃することがあった。アフリカへ行っても、インドへ行っても、必ずそうするのだという。安く手に入る土産(代わり)だとおっしゃる。よし、まねしようと考えて、大工道具を思いついたのである。土産といっても誰も喜ばないけれど、少なくとも旅(調査)の記念品にはなる。いちいち交渉して手に入れるから思い出も深い。
次の日、全く偶然なのだけれど、あぜ道を鉋一丁持って歩いてくる年老いた農夫に出会った。椰子の幹でつくった手作りの鉋で長さ六〇センチもある。鉄の刃を差しただけの全く単純な鉋と呼べない鉋である。ただ使い込んで椰子の木に艶がでだしている。
譲ってくれというと嫌だという。当然である。仕事に行く途中なのである。相場の見当がつかないので、まあ日本円で五〇〇円ぐらいのつもりで一万ルピアを出した。みるみる顔が紅潮するのがわかった。同時に、本気かというような疑いの眼が向けられるのを感じた。金で大事な仕事の道具を買うのか、という眼では結果的にはなかった。こちらが本気だということがわかると、すぐさま鉋を譲ってくれたのである。農民にとって優に一ヶ月分の収入である。
お金を手にすると、彼は奇声をあげ、畦道を飛ぶように走り去った。あっけにとられたのはこちらの方である。宝くじに当たったか、神様に出会ったかのように思えたに違いない。
以後、市場を乱さないように周到に値切るように心がけている。道具に込められた価値観が様々にわかって興味深い。しかし、カウベルならまだいいけれど、使っている道具を買うのはどうもすっきりしない。仕事の邪魔をしてしまうからである。だから、道具や建材屋に行って買うのであるが、これがあんまり面白くない。北京もバリも似たり寄ったりなのである。道具はやはり使い込んで使い手の命が吹き込まれたものがいい。
墨壷、物差し、風水の羅盤、大工道具にも面白いものが沢山ある。彫刻の施された凝った骨董品もあるけれど、今のところ手元に集まったのは以上のように実際使われていたものを強奪したものだ。ネパール、インド、北京、台湾、韓国、インドネシア・・・数が増えないのは、行くところが限られているからである。
ところで、道具といえば、山口昌伴先生である。応地先生のように僕の尊敬する先生のひとりである。同じようにフィールド派である。とにかく、世界中飛び回るそのフットワークにはいつも驚かされる。週末には、外国のホテルで原稿を書く、というスタイルは真似ができない。実にうらやましいと思う。フィールドを御一緒したことはないけれど、話を聞いたことは何度もある。いつもお酒を飲みながらである。色々なことを教えていただくばかりである。フィールド派にはお酒が好きな人が多い。フィールドで得た情報、見たこと聞いたことを肴に議論をする、実に楽しいことである。
フィールド派といっても、ただ、歩いて、見て、聞けばいい、というものではない。フィールドを通じて鍛えられた眼と、その眼を通じて蓄えられた知が大事である。同じ風景を見ても、ぼんくらな眼には何も映らないのである。山口昌伴先生がすごいのは、なにげないものに宿る命(意味)を一瞬にして読みとる眼をもつことである。また、それだからこそ事物の、とりわけ道具をめぐって、あれほどの量の文章が書けてなおつきることがないのである。
僕の場合、空間や建築の構造的な成り立ちに眼がいって、その実の生活を見ていないことが多い。道具はその点、身体の延長であることにおいて生の意味そのものに直接関わる。山口昌伴先生にいつも敬服するのは、その眼によって、空間を志向しながら空虚しか見ていない自分に気づかされるからである。
ところで、大工道具は以上のように中途半端に始めたばかりであるけれど、東南アジアをもう二〇年近く歩いていて気になるのが露台である。露台といってもいろいろあるけれど、家の内外で使われるベンチや寝台、四本足の台のことだ。あるいは東屋であり、倉である。倉や東屋は、道具とは言えないかもしれないけれど、東南アジアの住文化を考える鍵と思えるのである。要するに、床のレヴェルの使い方の問題に興味があるのである。あるいは、様々な建築形式の意味にまだ興味の中心があるのである。
研究室の若い仲間と翻訳したロクサーナ・ウオータソンの『生きている住まいー東南アジア建築人類学』(布野修司監修 アジア都市建築研究会訳 学芸出版社)が実に刺激的である。東南アジアのみならず、中国南部から台湾、場合によると日本を含めて、西はマダガスカルから東はイースター島まで拡がる広大なオーストロネシア世界に様々な共通性があるということをウオータソンは説いている。そのひとつの鍵が高床式住居である。
R・ウォータソンは、次のように書く。
「東南アジアの地域社会においてそれぞれ発達してきた建築様式を一瞥してみると、即座にある類似性が鮮明に浮かび上がってくる。その類似性は、距離的には離れていても、共通の起源をもつことを強く示唆している。……まずは、この共有された物理的特徴のいくつかを見ることから始めよう。これらの特徴のうち、最も明らかなのは高床式の基礎を用いていることである。これは、ごく一般的に、東南アジアの大陸部と島嶼部、またミクロネシア、メラネシアにも見られる建築形式の特色である。しかし、さらに東へ視点を移していくと、ポリネシアにおいてこの特徴は消えてしまう。そこでは、建物は、石の基壇上に造られる事が多い。」
しかし、高床式とは一体何なのか。露台に眼をやる時、別の見方が生まれてくるのではないか。
東南アジアの伝統的建築が高床式であることはよく知られた事実である。しかし、例外がある。今日のジャワとマドゥラ島がそうである。また、バリ島がそうである。また、西ロンボクがそうである。他の例外はあんまり知られていないかもしれない。西イリアンとティモールの高地、そして小さな島であるブル島が、高床式住居の伝統を欠いている。東南アジア大陸部の大部分の地域もまた高床式である。例えば、タイ北部の山間地方においては、地床式住居はごくまれであり、高地の寒気に対応するためか、もしくは、ヤオの例のように中国の影響を受けている場合のみである。
東南アジアといっても、大陸部と島嶼部では環境条件は違うし、自然条件や生態学的条件をみると地域ごとに実に多様である。高床式住居というのは、そうした多様な各地域でそれぞれ独自に造られるようになったのであろうか。それとも、どこかに起源があり、それが次第に伝播していったものであろうか。高床式住居はどのようにして生み出されたのか、その起源は何か、あるいは、どこか、興味深いテーマである。
面白いことに、中部ジャワ、東部ジャワの九世紀から一四世紀に建てられた寺院の壁に描かれるのは全て高床式住居である。ジャワの歴史において、かつては高床式建物が一般的であった事を示している。地床式建物の採用は、一般的にインドの影響と考えられる。ヒンドゥー教圏であり続けるバリでは、穀倉を除いて地床式なのである。
ところがよく見てみると、バリにしてもロンボクにしても、地床式というけれど基壇がある。ベッドや露台がある。ロンボクのササック族は、内部空間を約一メートルの高さの土壇で高くしている。そして、ブルガと呼ばれる東屋を持っている。マドゥラ島にしてもそうである。ランガールと呼ばれる礼拝棟は高床である。また、レンチャクという露台を使っている。
どうも高床だとか地床だとか二分法で捉えてもはじまらないのではないか、と最近思い出している。人は地面や床からの高さをどう使っているのか。高床であれ、地床であれ、床面と床から一尺から一尺五寸の高さ、さらに机・テーブルの高さ、どんな地域でも少なくとも三つのレヴェルを使い分けているのではないか。それを解く鍵が露台のような家具である。
こう思いついて、住空間の人類学を道具の側から組み立ててみたいと、ようやく山口昌伴先生の道具学へ本格的に参入する準備体操を終えつつあるかななどと思いはじめているのである。
布野修司 履歴 2025年1月1日
布野修司 20241101 履歴 住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14 1949 年 8 月 10 日 島根県出雲市知井宮生まれ 学歴 196...
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