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2025年8月22日金曜日

書評/種田元晴 『立原道造の夢見た建築』 鹿島出版会(2016年9月20日) 今,夢見る建築とは? | 2017/04/27 |WEB版『建築討論』 012号:2017年夏(4月ー6月)http://touron.aij.or.jp/2017/04/3845

 書評/種田元晴 『立原道造の夢見た建築』 鹿島出版会(2016920日) 今,夢見る建築とは? | 2017/04/27 |WEB版『建築討論』 012号:2017年夏(46月)http://touron.aij.or.jp/2017/04/3845

http://touron.aij.or.jp/2017/04/3845



立原道造(1914~1939)、享年24歳。僕(評者)の24歳などほとんど何もなしえていなかったに等しい。もうその3倍近く生きてきたけれど、この夭折の詩人・建築家の生の密度は想像もできない。
だからというわけでもないけれど、若くして多産なその仕事について、これまで考えることがなかった。もちろん、その名は知っていた。角川版の『立原道造全集』全六巻(1971~73)が出たのは大学院の頃である。
立原道造の同世代の建築家一人である吉武泰水(1916~2003)の研究室に僕は所属していた。直接教わらなかったけれど生田勉(1912~1980)は駒場の図学の先生だった。丹下健三(1913~2005)の「アーバン・デザイン」の講義は聞いたし、大江宏(1913~1989)には『新建築学体系第1巻 建築概論』(1982年)の編集会議で1年にわたって随分親しく教えを受けた。浜口隆一(1916~1995)には何度かお会いして、その『ヒューマニズムの建築・再論―地域主義の時代に―』(建築家会館叢書、1994年)には僕の『戦後建築論ノート』を随分長々と20頁に亘って引用して頂いている。本城和彦(1915~2002)には、アジアを歩き始めた頃お世話になった。インドネシアで開かれた国際会議にご一緒する機会もあった。
言いたいのは、立原道造の青春時代をともに生きた諸先生の雰囲気は多少わかるということである。要するに、立原道造は僕の父親世代である。ただ、太平洋戦争も戦後も立原道造は生きることがなかった。
学生の頃は、戦前・戦後の連続・非連続の問題に関心を集中させており、1939年に亡くなった立原道造に関心を向ける余裕がなかった。それに日本浪漫派に傾倒した作家という評価も影響したと思う。今も手元にあるけれど、橋川文三の『増補 日本浪漫派批判序説』(1965年、1974年第17刷)を見ると、「日本ロマン派が悪名高い「東洋的ファシスト」「帝国主義その断末魔の刹那のチンドン屋、オベンチャラ、ペテン師、欺偽漢、たいこ持ち」(杉浦明平)であったことは知られている」といった所に線が引いてあるのである。



提供:太田邦夫

●大きな物語

著者種田元晴、刊行時34歳、もとになった学位論文執筆時は30歳、序によれば、塾講師をしている学生時代に『国語便覧』によって立原道造を知ったというから、ほぼ立原道造が建築を学んでいた同年代の時期にその仕事を受け止めたことになる。この共鳴共感は、果たして人生のある特定の年代のものなのか、時代のものなのか、あるいはその両方のものなのか、興味を持った。
この際、『立原道造全集』(筑摩書房版は2006~2010年刊行)をじっくり読んでと思ったけれど叶わなかった。専ら、立原道造については本書をガイドとすることになる。予め評者失格である。
学位論文を大幅に書き直したというけれど実に読みやすい。立原道造の建築に関わる基本情報が的確に整理されている。今後、建築家・立原道造に関する定本になるであろう。学位論文は手にしていないけれど、推測するに、本書の第二章「透視図に込められた物語」における28の透視図の分析と第三章「建築を包む理想の山」における詩における山と村の出現頻度の分析を中心としたものではなかったかと思う。本書は、それを含みこんだ大きな物語を語っている。



提供:太田邦夫

●都会の風景vs田園の風景

全体は、五章(+終章)からなるが、まず、第一章「出会った建築、焼きつけた風景」では、立川道造の一生が丹念に振り返られる。立原道造は東京の下町、東日本橋(都営新宿線・馬喰横山町駅付近)で生まれ、尋常小学校、府立第三中学校は自宅から通い、旧制第一高等学校時には寮生活をするが、それも現在の東京大学本郷キャンパスの農学部にあったから週末には帰宅する学生生活であったし、1年半後には病弱であることを理由に自宅通学を許されている。そして、東京帝国大学工学部建築学科に入学すると、自宅の2階テラス脇の屋根裏部屋を自室にする。さらに、卒業して石本喜久治の事務所に勤めると、銀座の数寄屋橋にあった事務所に自宅から通った。要するに、立原道造は、その短い一生を東京という大都市で過ごした。
一方、関東大震災罹災後の疎開、奥多摩の御岳山麓での避暑、浅間山麓での夏季休暇、そして修学旅行を含めて、数々の旅に焦点があてられる。長崎を目指した最期の旅(1938年11~12月)では、夜行で奈良へ行き、唐招提寺、薬師寺を見て、夕方京都に向かい、日本浪漫派の代表的人物とされる旧制三校教授芳賀檀(1903~1991)の家に泊まっている。翌々日、京都を発って、山陰線舞鶴経由で松江に至る。松江には11月一杯逗留するが、松江城、山口文象の「小泉八雲記念館」(1933)などを見ている。「長崎ノート」など克明に見聞したものをトレースできるのである。
もちろん、交友関係も含めてその人生における様々なエピソードも豊富に語られるが、構図は、都会の風景vs田園の風景である。冒頭に明快に書かれるが、立原の「原風景」を確認することによって、その田園の建築への志向を裏づけるのが第1章である。最期の旅の東京―京都―松江の山陰線コースは、30年後に、同じ年ごろの僕が通ったルートである。松江を「日本の都会のタブローを完成している」と評しているというが、僕にとっては立原道造を考える大きな手掛かりとなる。しかし、立原道造は、北方気質を自任しており、直前の盛岡への旅の方を遥かに美しい思い出としているという。


●一枚のスケッチ:パースの構図

「一枚のスケッチから」とした序が予め示唆するように、本書は、「無題[浅間山麓の小学校]」(1935年春)を一枚のスケッチとして、その背景にある建築観(立原道造の夢見た建築)を問う構えをとる。この一枚のスケッチは、設計課題「アパートメントハウス」の次の課題(「小学校」)のための下絵という。建築図面というより風景画である。
第2章において、建築学科在学中の一連の設計課題作品についての分析が行われるが、専ら対象とされるのはパース(透視図)である。分析も、パースの視点、構図に集中することになるが、立原道造自身、建築の外観、風景の中の建築の見え方に最大の関心を寄せていたことが指摘される。学友・入江雄太郎に、「・・・外からの眺めの方につい酔ってしまうのです。そんな群落の一角を僕はそのまま風景画のやうにして、光のなかでながめてゐます。建築家失格のところで、僕は、ものを見たりかんがへたりしてゐるらしいのです」と書き送っているという。
著者は、一枚のスケッチ「無題[浅間山麓の小学校]」こそ、立原独自の建築観が色濃く表れていると結論づけ(第二章)、その鳥瞰図の構図がセザンヌの「サント=ヴィクトワール山」に想を得ていることを明らかにする(第三章)。
文芸評論家川本三郎の本書の書評「自然美のなかに建てられる芸術品」(『毎日新聞』2017年1月8日)は、本書の射程、すなわち、文学の世界の関心を惹きつける内容をもっていること、を示しているが、セザンヌの「サント=ヴィクトワール山」に想を得ていることを発見と評している。


●モダニズム建築批判?

ただ、以上において明らかにされるのは、山への憧憬、理想の山に包まれた建築のあり方に魅かれていたことだけである。建築の「方法論」が問われているわけではない。立原道造が「風景画」のような表現を選び取った理由が明らかにされなければならない。
テーマは、立原道造の建築観である。果たして、その建築観は外から眺めるだけの建築観なのか?
立原道造の設計課題作品を一覧すると、モダニズムの建築デザインで一貫しているようにみえる。そして、その立原道造の作品が一年次から3年連続で辰野賞(銅賞)を得ていることは、立原のすぐれたプレゼンテーション能力を示すとともに、1930年代初頭、東京帝国大学建築学科の設計教育がモダニズム建築教育を柱にしていたことがよくわかる。堀口捨巳(1895~1984)、石本喜久治(1894~1963)らの分離派建築会(1920~1928)による様式建築批判の展開があり、山口文象(1902~1978)らの創宇社建築会(1923~31)以降、岸田日出刀(1899~1966)らのラトーなどの小会派の運動が続いて、新興建築家連盟の結成即解体(1930)後の状況である。立原が所属したのは岸田研究室であるが、岸田日出刀が学位論文『欧州近代建築史論』を書いたのは1928年である。ナチスに追われたB.タウトが日本を訪れ、東京帝国大学で講義をしたのは立原道造が1年生であった1934年である。京都帝国大学の少し前(1930~33年)の雰囲気は、3歳年上の西山夘三(1911~1994)を通じて知られるが、その比較は興味深い。西山夘三は、森田慶一を通じて、同じく石本建築事務所に入所(1933年)するが、すぐに応召されて退所しているから立原道造とは出会っていない。
立原の一連の設計課題作品は、実にシャープなモダニズム建築である。そして「すぐにでも建ちそうなリアリティがあった」(吉武泰水)。一枚のスケッチは、しかし、趣を異にする。著者は、突き詰めて問わないが、モダニズム建築のデザインを立原はどう評価していたのか。立原道造の実作は唯一「秋元邸」であるが現存しない。しかし、図面から判断するに、ごく平凡な木造住宅のように見える。そして、自分のための別荘として設計した「ヒアシンスハウス」の図面も、手書きのむしろ味のあるタッチである。
立原の親友であった旧制一高時代の同級生、生田勉は、学生当時は「「何でも機能的にだけ設計すればそれが一番いい建築」だと皆が信じていて、「そのころはみんな白一点ばりで、建築は精神病院みたいに真っ白なのが一番いいことになっていた」」と振り返っている。そして、そうした中で、立原は、ひとりだけ色を塗ったり、石を張ったりしていたという(磯崎新編『建築の一九三〇年代―系譜と脈略』鹿島出版会、1978年)。




提供:太田邦夫提供:太田邦夫

●田園志向

第四章(田園を志向した建築観)では、山への憧憬を含めて、田園へ志向が様々な手掛かりをもとに明らかにされる。
明治末期から大正期にかけて、産業革命による都市化の進展が日本社会を大きく変えていく過程で、東京、大阪、名古屋が肥大化していく一方、農村あるいは地方の衰退が明らかになっていく。そうした中で、新渡戸稲造の『地方(じがた)の研究』や柳田國男の「郷土研究」、建築における「民家研究」が展開されるのであるが、文学の世界でも、失われてきた日本、民族、農村、田園はひとつの大きなテーマになる。文学史に関わる議論は本書で振り返られることはないが、立原道造が文壇の『白樺』派などの「田園志向」の流れの中にいたことは疑いない。ただ、著者が指摘するE.ハワードのガーデン・シティ論(『明日の田園都市』)と立原の関係はほとんどないといっていいのではないか。根拠とするB.タウトの講義をどう聞いたかは不明であるし、一般に流布していた内務省地方局有志編纂の『田園都市』(1907年)は、セネットの『田園都市』を基にして農村興新を目的に編まれてものであり、とてもE.ハワードの理念、理論を伝えていると思えないからである。また、卒業設計「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」とは直接関係ないと思えるからである。
専ら、ここで議論されるのは、立原道造の「田園」vs丹下健三の「都市」である。北方気質の立原道造vs南方気質の丹下健三という対比もなされる。丹下健三の「都市」というのは、もちろん、戦後の軌跡を踏まえた対比である。
著者の評価は、予め、丹下健三の向かった方へ、ではなく、立原道造が夢見た建築の方へ、である。神子久忠の書評「80年前の建築思想がいま現代に」(『建築士』2017年3月号)は、その方向をよしとする。
透視図レヴェルの分析として実に興味深いのは、丹下の「大東亜建設忠霊神域計画」と「無題[浅間山麓の小学校]」の比較である。
しかし、「本郷の喫茶店で立原と話していたとき、彼は突然、どうもシンメトリーで、軸線のすっと通ったデザインのほうがいい、と言い出したんだ」(『風声』第8号、1979年)という大江宏の証言もある。
ここでも、建築そのものが問題にされているわけではない。

●芸術家コロニー

問題の焦点は、こうして、卒業設計「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」ということになる。このプロジェクトは、「本計画は浅間山麓に夢みた、ひとつの建築的幻想である」と説明される。B.タウトの「アルプス建築」を思わせる。「優れた芸術家が集って、そこに一つのコロニイを作り、この世の凡てのわづらひから高く遠く生活する。それは隠者の消極的な遁世の思ひでなく寧ろ返って低い地上の生活にかゞやかしい文化の光を投げかけやうとする積極的な意欲から―」と続けられる。一種のユートピア計画とも思える。ドイツのヴォルプスヴェーデやダルムシュタットの芸術家村がモデルになっているとも指摘される。幻想ではあるが、地域区分、道路計画、施設配置、小住宅(約千戸)を中心とする集落計画の指針は示されている。
第五章(想いの結晶・芸術家コロニー)は、卒業設計の過程を追いながら、その構想の源、とりわけ敷地の設定について関心を集中させる。そして、芸術家コロニーの敷地の設定に大きく関わる大江宏と立原道造の関係をクローズアップする。
誤解を恐れず要約してしまうと、立原道造の卒業設計に託された夢は、大江宏の「追分の山荘」(1962)によって引き継がれ、多くの若い建築家が集う場として実現していったのである、というのが著者の読み解く大きな物語である。

●日本浪漫派と立原道造

もちろん、田園志向の、自然志向の建築プロジェクトの素朴な夢が引き継がれて、実現していったという物語で閉じるわけにはいかない。立原道造の建築の夢がどのように孕まれたのか、という問題は残されている。
著者は、もちろん、立原道造と日本浪漫派との関係に触れる。戦後、日本浪漫派批判の口火を切ったと言っていい杉浦明平(1913~2001)(『暗い夜の記念に』)は、立原道造の旧制一高の一年先輩で親友であり、立原の詩集を編むなどその功績を戦後に伝えた文学者であるが、立原道造を徹底的に批判しているのである(「立原道造における進歩性と反動性」宮本則子編『国文学解釈と鑑賞別冊 立原道造』(至文堂、2001年)所収)。立原道造が芳賀檀らに急接近して、血と大地、民族をうたうナチスの建築に魅せられ、日本ファシズムに傾倒していったことは明らかにされている。
15年戦争期、日本の建築界の動向は、モダニズム建築(様式)と日本(回帰)建築(様式)の対立抗争の構図として捉えられるが、「近代主義・自由主義あるいは社会主義的な傾向と、右傾した思想に結びつく浪漫主義的・復古主義的、あるいは国家主義さらには軍国主義的な傾向との間を大揺れに揺れていた」(浜口隆一)。日本の戦後建築を主導することになる丹下健三は明らかに後者に傾斜していく。磯崎新に言わせれば、丹下健三を日本浪漫派にオルグしたのが立原道造である。
日本浪漫派にインヴォルブされた立原道造についての以上のような批判に触れながら、著者は、主として立花隆・鈴木博之の対談「立原道造の建築と文学」(宮本則子編『国文学解釈と鑑賞別冊 立原道造』(至文堂、2001年)所収)に依拠にしながら、むしろ、立原道造は「日本浪漫派」的なるものに対して「アンチ」であった、少なくとも、戦時体制に向かう趨勢に対して「違和感」をもっていたと主張する。
立花隆の主張の要点は、芸術家コロニーは、「小住宅は住む者の気分的個性に従って、各戸が自由な立体図を持たねばならない」とするように、ファシズム的に決定されていない、という点である。しかし、「このコロニイにあっては住む者が何より先に選ばれたる芸術家であらねばならない。従って彼はまた優れた趣味と気分感情とを持つであらう」という個人=芸術家の趣味と気分感情が問題であり、「そしてまた互に共感と友情はこのコロニイに住む者同士のあひだに、常に保たれなければならない」という「共感」と「友情」、さらに最善の場合に予想される「調和と諧調」なるものによって想定されている社会(国家)が問題である。

●「方法論」

それに、しばしば「建築家はファシストか」「空間帝国主義者」と非難されるが、立原道造が「建築家失格」を自覚し、全体計画を放棄し、一枚のスケッチあるいは風景に包まれた「芸術コロニイ」のイメージの提出にとどまるのだとすれば、日本浪漫派に対する「日本ロマン派は、いわば解体期におけるインテリゲンチャのデスパレートな自己主張のパトロギーから生れ、イロニイと退廃をその自覚的方法として表現したものであり、とくに、昭和十年前後におけるおける都市インテリゲンチャの退行的な行動様式の極端な一翼を形作るものであった」(橋川文三)といった批判は、杉浦明平の激しい批判も含めた身近な仲間たちの証言から明らかにされるように、立原道造に対するものでもある。ロマン主義運動一般は「夢想とユートピア的理想」への逃避であり、「田園志向」についても日本浪漫派と「農本主義」あるいは「郷土主義」との関係は指摘されたところである。
問題は、建築の方法論である。立原道造の建築に関わる論考は少ない(わずか3点)が、卒業論文である「方法論」がある。また、未発表原稿「建築衛生学と建築装飾意匠に就ての小さい感想」では、「算式の氾濫した建築構造学には、既に今日以後にその進歩と寄与を期待しません」と言い、計画学の必然性を主張しているのである。本書に対する不満があるとすれば、この「方法論」の内容についての言及がほとんどないことである。結果として、立原道造の見た建築の夢として「田園を志向した芸術家コロニー」を強調するにとどまることになっている。
無理もないと言ってもいい。難解である。というより、具体的な建築の方法が語られているわけではないのである。いわゆる「建築論」、哲学的用語を駆使したメタ方法論の展開である。

●立原道造が生きていたら

立原道造の「方法論」については既に様々な言及がある。磯崎新は、日本浪漫派に傾倒した立原が生きながらえて戦中の五年間に建築家としての活動を続けたら、「なまぐさい国家的像の表象と取り組むことになっただろう」という。生田勉は、「もし仮に立原が生きていたとすれば、丹下さんとは全然違った立場には立つだろうけれども、お互い打てば響くというような対蹠的な立場に立って、互いに相補うというとへんだけれども、二人が一緒に活動できたらばどんなに面白かったろう」と丹下健三とよく話したという。また、八束はじめ(第四章「近代の超克」の諸相『思想としての日本近代建築』岩波書店、2005年)は、一方で、小説を書くことになったのではないかとも言いながら、立原に見られて、丹下・浜口に見られないのは現象学的関心であり、アヴァンギャルド的資質を欠いており、構成主義的モメントは稀薄であるという。また、「日本趣味」の反動ともアヴァンギャルドのモダニズムとも歩調が揃っていない、ともいいいながら、丹下、浜口という系列とは別な、空間論の系譜を引き取ろうとしたのではないか、という。
冒頭に断ったように、立原道造のテキストについて、僕は眼を通していない。「方法論」のレクチュールについては著者とともにのちの課題としたい。ただ、本書以外に、議論を展開する材料が残されているわけではない。
丹下健三の日本浪漫派への傾倒が指摘され、大ぴらに議論されるようになったのは1960年代末から1970年代にかけてのことである。角川版の『立原道造全集』の出版もそうした時代背景に関係がある。磯崎新の『建築の一九三〇年代―系譜と脈絡』(鹿島出版会)が上梓されたのは1978年であり、僕らの同時代建築研究会が『悲喜劇・一九三〇年代』(現代企画室)を上梓したのは1981年である。(石田純一郎の本書の書評「転換期の手触り」(『住宅建築』2017年4月号)が建築界の立原評価について触れている)。
建築における戦前・戦後の連続・非連続をめぐる問題は、基本的には解かれていない。というか、繰り返し問われるべきプロブレマティークを孕んでいる。世界各地でナショナリズムが台頭する中で、日本でも戦前回帰の動向は明確な趨勢となりつつある。本書が、そうした流れの中で読まれることは意識されるべきであろう。

●「ヒアシンスハウス」の方へ

問題は、「立原道造が夢見た建築」を今問うことである。著者は、上述のように、立原道造・大江宏のラインにみた。あるいは、立原道造・生田勉のラインに見ようとするのが「ヒヤシンスハウス」の復元である。

提供:太田邦夫

著者紹介:
種田元晴
1982年東京都生まれ。2005年法政大学工学部建築学科卒業、2012年大学院工学研究科博士後期課程修了。博士(工学)。一級建築士。東洋大学ライフデザイン学部人間環境デザイン学科助手を経て、現在、法政大学、東洋大学、桜美林大学非常勤講師。種田建築研究所勤務。2010年、日本図学会研究奨励賞、立原道造「無題[浅間山麓の小学校]」鳥瞰図の構図について- 立原道造の田園的建築観に関する研究 –で2017年日本建築学会奨励賞。

2025年8月14日木曜日

「東京:祭師と開発業者たちのパラダイス?」書評石榑督和『戦後東京と闇市 新宿・池袋・渋谷の形成過程と都市組織』鹿島出版会,2016年9月20日布野修司 | 2016/12/13 | 書評,『建築討論』 010号:2016年冬(10月ー12月)

 東京:祭師と開発業者たちのパラダイス?」書評石榑督和『戦後東京と闇市 新宿・池袋・渋谷の形成過程と都市組織』鹿島出版会,2016920布野修司 | 2016/12/13 | 書評,『建築討論』 010号:2016年冬(1012月)


『建築討論』010号  ◎書評 布野修司 

── By 布野修司 |  | 書評, 010号:2016号(10-12月)

 

Book Review

Masakazu, Ishigure

Tokyo Rising from the Postwar Black Markets:Shinjuku, Ikebukro and Shibuya after 1945

 

東京:祭師と開発業者たちのパラダイス?

Tokyo : Paradice of Speculators and Developers?

石榑督和『戦後東京と闇市 新宿・池袋・渋谷の形成過程と都市組織』鹿島出版会、2016920

 

新宿駅、渋谷駅、池袋駅、東京都民ならずとも一度は降りてみたことのある親しいターミナル駅といえるのではないか。評者の場合、18歳で上京して井の頭線沿線に住んだこともあって、毎日のように渋谷の街を歩いた。そして、新宿、池袋にもしばしば足を延ばした。名画座、人生座といった200円程度で見られる映画館があり、週末にはオールナイト5本立てなどという映画館があったから、頻繁に足を運んだのである。1960年代末から70年代にかけて、渋谷、新宿、池袋は、学生の街であった。その後も、京王線沿線、東上線沿線また東横線沿線、すなわち、環七沿線の西東京を居住圏としてきたから、四半世紀前までは池袋、新宿、渋谷の駅周辺はホームグラウンドのようなものであった。いくつもの居酒屋を知っているし、今でも通う店もある。

本書は、新宿、渋谷、池袋のターミナル駅周辺がどのように形成されてきたのか、とりわけ、第二次世界大戦後まもなくの闇市の興亡、その帰趨に焦点を合わせて、その変容過程を明らかにするものである。見慣れた町の知らない成立ちを活き活きと描き出しており、それぞれの街の景観の新たな相貌を発見することになる。そして、今、東京で進行しつつあるプロジェクトの背景を窺ういくつかのヒントを得ることになる。

 

 本書のもとになっているのは、『闇市の形成と土地所有からみる戦後東京の副都心ターミナル近傍の形成過程に関する研究』と題された学位請求論文(2014年、明治大学)である。論文は、(財)住宅総合研究所の第一回博士論文賞を受賞したことが示すように一級の仕事といっていい。丹念な膨大な作業がその論拠をしっかりと裏打ちしている。

 大幅に構成し直したというが、本書は、大きく4章からなる。東京のターミナルの形成を概括した上で(Ⅰ 東京のターミナルの形成と駅前広場)、新宿(Ⅱ 四組のテキ屋が組織した闇市の盛衰 新宿の戦災復興過程)、池袋(Ⅲ 一主体が所有する広大な土地が与えた池袋の戦災復興過程)、渋谷(Ⅳ 地主が開発したマーケットの簇生と変容 渋谷の戦災復興過程)が順に扱われる。

本書の目的、視点、方法、枠組については序章に簡潔にまとめられる(序章 東京のターミナルと闇市)。何故、ターミナル駅なのか、何故、闇市なのか。東京の都市構造は、鉄道ネットワークによって成立しており、日本の大都市圏のように鉄道ネットワークが張りめぐらされた都市はないと著者はいう。確かに、今や日本の全人口の4分の1が集積する世界一の大都市圏域となった日本の首都圏を支える鉄道ネットワークのパターンは世界に類例のないものといっていい。しかし、本書が焦点を当てるのはネットワークそのものではない。ターミナル駅はネットワークの結節点であり、都市のインフラストラクチャーの要である。それ故、ターミナル駅周辺の街の成立ちをテーマにすることは大いに意味がある。ただ、そうであれば比較すべきターミナル駅は世界中に無数にある。著者の関心は、おそらく、闇市の方にある。何故、闇市がわれわれを引きつけるのか。それは、土地の所有と占有をめぐる原初の攻防、都市が形成され、変容していくメカニズム、都市組織の構成原理を見ることができるからである。結章(所有と占有からみる都市史)でまとめられるのはまさに都市計画の基本に関わるそうしたテーマについての議論である。

   

 新宿、池袋、渋谷の戦災復興過程は、各章のタイトルが示すように異なっている。場所に積み重ねられた歴史が異なり、土地所有の形態が異なるから、当然である。

 新宿については、東口、西口の3地区と駅ビル、それに三越周辺、そしてゴールデン街が取り上げられる.新宿の闇市を組織した「尾津組」「野原組」「和田組」「安田組」という4組の「テキ屋」の「暗躍」が活き活きと描かれる。評者のように、1960年代末から歩き回っていた世代にとっては消えた建物、店は少なくないが、中村屋、高野フルーツパーラー、武蔵野館など、現在も場所を特定できるから、その変貌は容易にイメージできる。戦後まもなくの闇市の雰囲気を今でも残すのが、西口の「思い出横丁」であり、三光町の新宿ゴールデン街である。今や外国人観光客が数多く訪れる東京の名所であるが、東口の和田組の「八十八軒部」と呼ばれたマーケットが1951年に集団移転してできたのが新宿ゴールデン街である。新宿のみならず、池袋、渋谷についても戦後闇市の現存状況はそれぞれの章末に表として示されている。

 露天商を組織した「テキ屋」が「暗躍」した渋谷に対して、池袋の場合、東口には敗戦直前に疎開事業で駅前の建物が撤去された広大な交通疎開空地と東武鉄道の社主根津嘉一郎が所有する雑木林(根津山)、西口には豊島師範学校用地があるだけであった。すなわち、民間の土地所有者は一人だけであった。「森田組」の「東口マーケット」など5つのマーケットが成立するが、1948年半ばには解散している。変わって進出したのは「武蔵野デパート」を建設した西部資本である。根津山は露天商たちの移転の受け皿となる。戦災復興土地区画整理事業は、権利関係者が少ない分、新宿よりスムーズに進むことになる。

 渋谷は現在大きく変貌しつつある。戦後最大の大変貌が進行しつつあるといっていい。本書は、センター街の入口を含めて、現在一大再開発が行われている一体を対象とする。

 渋谷の場合、台湾人によって「駅前マーケット」が建設され、「松田組」との抗争にGHQも介入する事態となり、「渋谷華僑襲撃事件」(1946719日)が勃発する。新宿、池袋と異なる事態が進行する。渋谷の闇市の解消過程と戦災復興過程を特徴づけるのは、電鉄、百貨店などの有力資本の主導の一方で、小規模な土地を所有する地主が商店を立ち上げていったことである。

    新宿、池袋、渋谷のそれぞれの場所については、本書によって復元された地籍図と表を片手に歩いてみるといい。街がどのように形成され、変容していくかを具体的に実感することができるだろう。

結章は、それぞれの形成、変容の過程をいくつかに類型化する。

まず、テキ屋主導のマーケット街の形成(類型A)と地建者(地主・借地人)建設のマーケット街形成(類型B)が分けられる。すなわち、不法占拠のかたちで形成されたインフォーマルなマーケットと地権を前提として建設されたフォーマルなマーケットの形成がある。そして、地権者の中でも、鉄道会社や百貨店、大規模店舗などの戦災対応と復興過程(類型C)がある。さらに、公道上に発生した露店群の形成とその解消過程(類型D)がある。いずれの類型についても具体例に即して様々なヴァリエーションが明らかにされる。

結論を一言でいえば、「巨大ターミナルの近傍の形成過程は、時間を経るにつれて経路が増えていくが、戦後復興期に複雑化した空間に対する権利関係を単純化していく過程であった」ということである。

 こう整理してしまうと、身も蓋もないかもしれないが、圧倒的な結論といっていい。単純な権利関係によって整理された街が、われわれが世界中で手にしつつある街である。

さらに、著者はこうもいう。「闇市の整理の裏側で、大資本が土地の取得と戦災復興土地区画整理による集約を行っていたことを見てきた。こうした大資本の勢力伸長を推進するような換地設計が、計画段階でどれほど意図的に行われていたかは、今後さらなる実証的な検証を必要とするが、戦災復興土地区画整理事業を遂行する公権力側にこうした意図があった可能性を示している」。

   

かつて、「アジアの都市変革のディテクター」とは誰か?をめぐるライデンで開かれた国際シンポジウムに招かれ、東京についてしゃべらされたことがある(International IIAS workshop MegaUrbanization in Asia Directors of Urban Change in a Comparative Perspective International Institute for Asian Studies (IIAS) Leiden University Leiden 1214 December 2002 )。一冊の本にまとめられている(Peter J.M. Nas(ed.)“Directors of Urban Change in Asia ”Routledge Advances in AsiaPacific StudiesRoutledge2005)。「果てしない東京プロジェクト:破滅か?それとも再生か:コミュニティ・デザインの時代を目指して」(Never Ending Tokyo Projects Catastrophe? or Rebirth?Towards the Age of Community Design)と題して話したのだけれど、本になった時は「TokyoParadise of Speculators and Builders」という題になった。大都市東京を動かすものは何か?本書が提起するのはそうした大きな問題である。

豊洲問題の背後にあるものは何か、東京オリンピックの施設建設の水面下で蠢くものは何か。著者は、別のところで次のように書いている。

虎ノ門ヒルズの下層を通り、新橋まで延伸された環状2号線は、五輪までに選手村や競技場が建設されることとなる湾岸部を通り豊洲まで延伸されることになっている。すでに湾岸部では超高層マンションの開発が相次いでおり、1980年代からの都の懸案であった湾岸地域の開発が五輪開催決定と環状2号線の延伸、さらに築地市場の豊洲移転などを契機として急激に進展する。

こうした地域の再開発・開発は、交通インフラの整備だけではなく、2002年に施行された都市再生特別措置法に基づく特定都市再生緊急整備地域に指定されていることで、さらに後押しされている。特定都市再生緊急整備地域の特徴は、土地利用規制の緩和に加え、事業者が都市計画を提案できる点にあり、東京では約1,990haを一帯的に指定した東京都心・臨海地域、新宿駅周辺地域(約220ha)、渋谷駅周辺地域(約140ha)、新駅とその周辺の開発が進む品川駅・田町駅周辺地域(約180ha)の4区域が指定されている。こうした地域を中心に、都や国は五輪開催を経済の活性化に役立て、交通インフラの整備と規制緩和を用意し、海外からの投資を呼び込むことで東京を改造し、グローバルな都市間競争において確固たる位置を確立する戦略をたてている。」(「新宿・渋谷・池袋の再開発のいま」『建築討論』004https://www.aij.or.jp/jpn/touron/4gou/jihyou9.html2015年4月)。

半世紀後あるいは100年経った後、著者のような研究者が現れて、以上のような過程を実証的に解き明かすことになるのであろうか。

 

    

 

 本書を読みながら、いくつか思い浮かべたことがある。ひとつは、雛芥子名で書いた「祭師たちの都市戦略--劇場街〈渋谷〉批判-」(『同時代演劇2』マルス、19739月『布野修司建築論集2 都市と劇場 都市計画という幻想』彰国社、1998年)という、渋谷にPARCOが進出、西部劇場がオープンし、NHK放送センター・ホールのこけら落としがあった1973年の文章である。小見出しだけ列挙すれば、「報道のエクリチュール」「企業のエクリチュール」「公園通り(VIVA PARCO)」「闇市―ターミナル―「劇場街」」「<西武>という名の劇場」「イヴェント戦略」である。「都市の記号学」あるいは「都市の現象学」を標榜する都市批評の試みであったが、「闇市―ターミナル―「劇場街」」の項目を掲げている。読み返してみて、本書のような緻密な分析は欠いているけれど、およそ的を突いていたのではないか、と思った。本書の「あとがき」に、著者は、「東京の今と本書の内容はどのように関係するのだろうか」と書いて、「新宿・池袋・新宿などの巨大ターミナル近傍に限っては、もはや再開発を繰り返す場所として割り切るべきだと考える」という。また、「戦後の都市空間を残す場所、資本を投下し開発を繰り返す場所、選択が必要である」という。しかし、問題は誰が選択するのか、誰が割り切るのか、である。

 

 

 評者がもうひとつ読みながら思い浮かべていたのはスラバヤのカンポンである。もう35年以上フィールドにしているのであるが、当初、臨地調査で困惑したのは、土地建物についての権利関係が錯綜して容易に明らかにできないのである。近代的な土地所有関係、権利関係についての近代法はある。しかし、2か月単位の契約とか、固定資産税の納付と絡んで複雑な関係が形成されていた。というのも、カンポンの多くはもともとイリーガルな不法占拠地なのである。農村から職を求めて都会に移住してきて、とにかく住み着いてできたのがカンポンである。カンポン改善事業KIPは、結局、居住権をリーがライズする形で実施されていくのであるが、それを主導したのはカンポンのコミュニティ組織である。道路建設のための立ち退きなどの場合、権利関係を調整できるのはカンポンのコミュニティである。カンポンには共有地(コモンズ)のようなスペースもある。複雑な権利関係は、地上げに対する抑止力ともなっている。大規模な再開発は簡単にはできない仕組みがあるのである。

 闇市は「闇」市である。非合法である。しかし、闇市がなければ生きていくことのできない状況が戦後まもなく出現したのである。「テキ屋」という存在はその歴史を遡って論じなければならないであろうが、闇市を仕切る誰かが必要であり、それが暴利をむさぼる反社会的な社会集団も含まれる「テキ屋」であったということである。都市の発生、市の発生は、諸関係が生存をかけて絡まる中で、まさに起こるのである。そこには、当然、権力と法の成立根拠もある。いささか気になったのは、著者が闇市礼賛、闇市=盛り場論を批判する上で、闇市そしてテキ屋を都市計画の攪乱要因とのみとらえているように思えることである。著者自身も、「巨大ターミナル近傍に限っては、もはや再開発を繰り返す場所として割り切るべきだと考える」といいながら、「思い出横丁はこれまで幾度と無く再開発の計画が持ち上がったが、土地建物の権利関係の複雑さから、ことごとく立ち消えてきた。今後も新宿の遺産として残ることを期待する。」ともいう。例えば、吉祥寺にハモニカ横町に集う建築家たちは、何を考えて、再開発の仕事を手掛けるのであろうか。

 選択が必要というけれど、都市が全てそうであってはいけないのか。そうである、とは「闇市的なるもの」である、というと誤解が多すぎるとすれば、「カンポン的なるもの」である。

 

 

著者

石榑督和(いしぐれ・まさかず)

建築史・都市史、明治大学理工学部建築学科助教。1986年岐阜県生まれ。2014年明治大学大学院理工学研究科博士後期課程修了。博士(工学)2015年に論文「闇市の形成と土地所有からみる新宿東口駅前街区の戦後復興過程」で日本建築学会奨励賞受賞、論文「闇市の形成と土地所有からみる戦後東京の副都心ターミナル近傍の形成過程に関する研究」で住総研第一回博士論文賞を受賞。20142015年明治大学兼任講師、2015年より現職、2016年よりツバメアーキテクツ参画。






2025年8月12日火曜日

小泉龍人『都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る』講談社新書メチエ 2016年3月10日:布野修司 | 2016/05/14 | 書評, 『建築討論』008号:2016年夏(4月ー6月)

 小泉龍人『都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る』講談社新書メチエ 2016310日:布野修司 | 2016/05/14 |  書評『建築討論』008号:2016年夏(46月)

http://touron.aij.or.jp/2016/05/1744




『建築討論』008号  ◎書評 布野修司 書評008号(2016年夏号(4-6月))

 

── By 布野修司 | 2016/04/05 | 書評, 008号:2016年夏号(4-6月) 

 

小泉龍人『都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る』講談社新書メチエ、2016310

 

都市や国家はどのようにして生まれたのか、そして、何故、西アジアで「世界最古」の都市が誕生したのか、古来多くの論考が積み重ねられてきているが、本書は、西アジア考古学の最新の成果を踏まえた「都市の起源」論である。前著『都市誕生の考古学』(同成社、2001年)は、西アジア考古学のそれまでの成果を堅実にまとめたアカデミックな諸として評価が高いが、上梓されたのは2001年であり、15年の時が経つ。本書には、その成果も当然盛り込まれているが、新たな知見とともに、都市誕生のシナリオについての新たな提起が含まれている。

これまで世界最古の都市遺跡と考えられてきたのは,パレスティナのエリコ(イェリコ,ジェリコJericho (註1)あるいは小アジアのチャタル・ホユック Çatalhöyük(註2である。しかし,現在では,いずれも集落であって都市ではないとされる。

それでは、そもそも都市とは何か、数多くの住居址など古代の遺構が発見された場合,都市かどうかは一体どう判定されるのか。

本書でも冒頭に引かれるが(序章)、よく知られるのが“アーバン・レボリューションUrban Revolution(都市革命)(註3)を書いた考古学者のG.チャイルドの定義である。G.チャイルドが,発見された遺跡を「都市」とする条件として挙げるのは、次の10項目である。

1.規模(人口集住),

2.居住者の層化(工人,商人,役人,神官,農民),

3.租税(神や君主に献上する生産者),

4.記念建造物,

5.手工業を免除された支配階級,

6.文字(情報記録の体系),

7.実用的科学技術の発展,

8.芸術と芸術家,

9.長距離交易(定期的輸入),

10.専門工人



1 ウルク遺跡

規模が大きいと言っても相対的であり,人口何人以上が都市ということにはならないだろう。G.チャイルドは,分業と階層分化(2.5.8.10)を重視している。租税,文字,長距離交易といった社会経済関係に関わる要素も注目される。多くの議論があるが、評者なりに一般的に大きく整理すれば,Ⅰ.高密度の集住,Ⅱ.分業,階層化と棲み分け,Ⅲ.物資,資本,技術の集中とそのネットワーク化,Ⅳ.権力(政事・祭事・軍事・経済)の中心施設と支配管理道具(文字・文書,法,税,・・・)の存在が都市の本質,基本特性と考えられる。

著者は、「都市計画」「行政機構」「祭祀施設」の3つの存在を、古代西アジアの都市を一般集落や都市的集落(都市的な性格をもつ集落)から区別するための必要十分条件とする。「行政機構」(指導者の館、軍事施設、ドア封泥(部屋の扉を封印する粘土塊)、市場、絵文字的記号など)「祭祀施設」(街の守護神を祀る神殿など)というのは、Ⅳ.権力(政事・祭事・軍事・経済)の中心施設の存在ということである。「都市計画」というのは、都市が定義されないと同義反復であり、計画性ということであれば集落でも計画性のある集落もあるが、具体的には、城壁、目抜き通り、街路、水利施設の存在をいう。特に、都市成立の第一歩として城壁は欠かせない条件である、とする。この城壁の存在という条件は、例えば日本の都市には適用できないが、著者の3要件は、あくまで西アジアに限った要件とする。「都市的集落」とは、3要件の全てをみたさないものをいう。『都市誕生の考古学』では、その点については、より周到に議論されている。


2 ハブーバ・カビーバ南遺跡

エリコは、城壁をもつ。しかし、都市ではないとされる。では、「世界最古」の都市は何か。本書によれば、その最有力候補はウルク遺跡(図1)であり,ハブーバ・カビーラ南遺跡(図2)である。いずれもウルク後期とされる約5300年前の遺跡である。『都市誕生の考古学』では、ウバイド期(紀元前5500年頃~4,000年頃)に集落であったウル(現代名テル・アル・ムカイヤル),ウルク(ワルカ),エリドゥラガシュなどが「都市国家」となるのはウルク期(紀元前4,000年頃~3300年頃)後期のことであるとし、3要件をすべて満たす最古期の都市はハブーバ・カビーラ南としていたが、本書では、ハブーバ・カビーラ南はウルクのコピーとして建設されたとする。すなわち、都市誕生段階で都市と呼べる町はウルクとハブーバ・カビーラ南の2都市しかないという。この間の新たな知見に基づく見解である。

ハブーバ・カビーバ南は、ウルクの北西約900km、ユーフラテス河のはるか上流に位置する(図3)。何故、そうした地に、ウルク同様の都市が建設されたのか。ハブーバ・カビーバ南の周辺には、銀成分の含まれた方鉛鉱の産地があり、銀の開発が絡んでいるというのが著者の推理である。

楔形文字資料に「銀の山」と呼ばれる場所が記されており、それは南東アナトリアのタウルス山脈であったと推測され、ハブーバ・カビーバ南遺跡から銀を抽出する灰吹法の確実な証拠として最古級の工房跡が発掘されているという。すなわち、ハブーバ・カビーバ南は銀を精製し、ウルクへ輸送する中継地であった。

古代西アジアでは、銀の入手と安定的な供給のために、都市が計画的につくられていった、原料入手から製品流通に至るまでの一連の流れは都市になって具現化された、そして、都市誕生後、都市国家が分立する段階で、遠隔地から錫を輸入して、青銅が発明された、青銅の開発には、銀以上に、原料の確保から生産、流通にいたるまで複雑な工程と周到な人的配置が必要であり、組織化された仕組みが必要となる、すなわち、国家権力が必要となる、西アジアの都市の指導者は、銀とともに権力を掌握して、その権力を行使して青銅の武器を開発することになった、というのが本書の大きな見取図であり、興味深い提起である(序章 二つの「世界最古」の都市-神と銀の街)。

西アジアにおける都市誕生について、一般的に考えられてきたのは、灌漑農業との関係である。遠距離交易の成立も都市革命の条件としてG.チャイルドも挙げるところであるが、具体的に、銀の生産、流通に着目して都市誕生の地域連関を提起するのが本書である。

西アジアで農耕が開始(紀元前80007500年頃)されたのは、一帯に野生のムギが生育するレヴァント回廊で、定住的狩猟採集民による低湿地小規模園耕という形態であった。すなわち,レヴァントでは定住が栽培農耕に先行し、この段階ではまだ家畜を伴っていない。低湿地の栽培農耕は,やがて丘陵部の粗放天水農耕へ移行し、大規模な集落が出現するとともに,ヤギ,ヒツジの家畜化された。メソポタミア北部で成立したヤギ,ヒツジ,ウシ,ブタの四大家畜を伴う粗放天水農耕,農耕牧畜の混合農業は,ユーフラテス中・上流域を起点とし,西アジア各地に拡散していく。メソポタミア中・南部の低湿地に農耕牧畜が及んだのは,ザグロス山脈よりやや遅れ,紀元前5500年頃だとされる。年間降水量が200mmに足らない乾燥地域において農耕が成立するためには灌漑技術の確立が不可欠であった。平原・ステップ地域の南部で灌漑農業がまず開始され,シュメールに及ぶ。農耕牧畜の開始は最も遅れるが,農業技術の革新,灌漑農業技術によって,南部地域はメソポタミア全域に対して優位に立つ。これが都市革命の引き金となる。淡水での漁労,採集狩猟に加えて,農業遊牧による穀類の生産,ヒツジ・ヤギ・ブタの飼育によっても豊かな食糧を確保することができるようになったこと,瀝青(アスファルト),石灰岩以外には資源には乏しい地域であったが,鉱物資源を得るためにメソポタミア北部,トルコ,イランなどとの遠距離交易ネットワークを確立したこと,本書が強調するのはこの点であり、着目するのが銀である、灌漑農業そして紡糸,織布のために,分業による労働の組織管理システム,生産物の貯蔵管理システムを発達させたこと,そして,粘土板による文字記録システムを発明したこと,など都市成立の要件が出そろうのである。

本書では、以上を含めて、西アジアにおける農耕の発生と都市誕生のシナリオを前提にしながら、考古学的遺構をもとにして、古代都市の諸相を描き出す。全体は、序章と終章、第一章~第五章からなる。

第一章「川、墓、神殿―自然環境と祭祀儀礼」では、水利、舟運、墓の画一性と鍵なし倉庫にみる平等原理―これについては『都市誕生の考古学』でも強調される、神殿祭祀が記述される。第二章「「よそ者」との共存―街並みの変貌」では、約8000年前の気候変動、地球温暖化によるペルシア湾の海進とそれによる移住に焦点が当てられる。よく知られた事実であるが、この移住、「よそ者」の侵入が都市誕生のひとつの引き金になったというのは本書の強調するところである。第三章「安心と快適さの追求―都市的集落から都市へ」では専ら都市計画、都市形態に焦点が当てられる。これまでは、メソポタミアの諸都市には明快な計画原理はないとされてきたが、ハブーバ・カビーバ南が極めて整然とした構成をしていることが示唆するように、一定の計画性があることは、本書は重ねて強調するところである。第四章「人と人の拡散―「都市化」の拡散」は、都市間の関係、都市のネットワークに焦点が当てられるが、北メソポタミアでは「目の文様」が、南メソポタミアでは「ヘビの文様」が祭祀儀礼のシンボルとして共通にみられる精神世界のネットワークも銅、錫といった資源などの物流システムも合わせて扱われる。第五章「神を頂点とした秩序―都市の「陰」の部分」では、支配-被支配、都市の巨大化、戦争である。

3 メソポタミアの主要遺跡

近接するエジプト文明とインダス文明の比較は随所において行われる。また、都市の起源ということでは、中国、日本も視野におかれている。本書は、以上のようにアカデミックに多くの提起を含んでいるが、都市について多角的に考える様々な手掛かりを与えてくれる。ユニークなのは、都市を「陽」と「陰」の両面から捉えるとしている点である。「陽」とは、都市での暮らしの快適さや便利さ、出会いの刺激などであり、「陰」とは、様々な格差、差別、希薄な人間関係、支配構造などである。ただ、いささか現代都市の抱える問題に引きつけ過ぎという気がしないでもない。第五章に「陰」の側面をまとめるという構成もしっくりこない。その視点が構成にうまくいかされていない印象である。都市が「陰」「陽」を合わせ持つひとつの装置であることは、終章の「都市と権力―国家的な組織による秩序の維持」が示す通りである。

 

1 エリコ,ジェリコ。ヨルダン川西岸地区,死海の北西部に位置する。『旧約聖書』には繰り返し現れ,「棕櫚の町」として知られる。1952に,イギリスのキャスリーン・ケニヨンKathleen Kenyonらによって,遺跡の先土器新石器A期の層(前8350年頃~前7370年頃)から,広さ約4ヘクタール・高さ約4m・厚さ約2mの石の壁で囲まれた集落址が発掘された。初期の町は新石器時代の小規模な定住集落で,メソポタミアの都市文明とはつながらないとされている。

2 アナトリア南部の都市遺構。1958に発見され,19611965にかけてジェームス・メラート James Mellaartによって発掘調査されて,世界的に知られるようになった。最古層は紀元前7500年に遡るとされる。最古の都市遺構ともされたが,メラートは巨大な村落とする。2002年,世界文化遺産に登録された。

3  Childe, V. Gordon (1950) The Urban Revolution, Town Planning Review 21:3-17.

S.F.

 

 

著者

小泉龍人:1964年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業、同大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。博士(文学)。早稲田大学、明治大学、日本大学等で講師、国士舘大学イラク古代文化研究所共同研究員。西アジア考古学、比較都市論、古代ワイン。著書に『都市誕生の考古学』(同成社)、訳書に『考古学の歩み』(朝倉書店)など。


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...