書評 八束はじめ『ル・コルビュジェ』,共同通信,198311
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話題の本06、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199607
話題の本
紹介者 布野修司 京都大学工学部助教授 地域生活空間計画学専攻
006
⑭色と欲 現代の世相1
上野千鶴子編
小学館
1996年10月
1600円
帯に「爛熟消費社会は日本人の生活と心をどのように変えたか」とある。現代の世相シリーズ全8巻の第1巻。左高信編『会社の民俗』(第2巻)小松和彦編『祭りとイベント』(第5巻)色川大吉編『心とメディア』(第9巻)とラインアップにある。本書の冒頭には家をめぐる欲望に関して、三浦展「欲望する家族」山本理顕「建築は仮説に基づいてできている」山口昌伴「台所戦後史」の3論文がある。山本理顕論文は世相を斬るというより真摯な住居論である。
⑮東南アジアの住まい
ジャック・デュマルセ 西村幸夫監修 佐藤浩司訳
学芸出版社
1993年
1854円
オックスフォード大学出版局のイメージ・オブ・アジアシリーズの一冊。東南アジアの住居については、評者は20年近く調査研究を続けているけれど、なかなかいい本がない。そうした中で本書は手頃な一冊。R.ウオータソンの「生きている住まい」をアジア都市建築研究会で訳したのであるが、近々ようやく刊行される、という。
⑯群居41号 特集=イギリスー成熟社会のハウジングの行方
布野修司編
群居刊行委員会(tel 03-5430-9911)
1996年11月
1500円
評者が編集長を務める。1982年12月に創刊準備号を出して、細々と刊行を続けている。最新号は、イギリス特集。フローからストックへというけれど、そのモデルとしてイギリスに焦点を当てた。安藤正雄、菊地成朋、野城智也、瀬口哲夫等々イギリス通のベストの執筆陣を組んだ。
2024年11月4日月曜日
話題の本05、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199611
005
⑬数寄屋の森 和風空間の見方・考え方
中川武監修
丸善株式会社
1995年3月
3200円
数寄屋とは何か。本書は中谷礼仁をキャップとする早稲田大学中川研究室の若い建築学徒のその問いに対する回答である。数寄屋名作選(1章)から入り、まず歴史が解説される(2章)。読者はおよそ数寄屋なるものの歴史を手に入れることができる。続いて、近代編(3章)素材編(4章)がきて、現在編(5章)で締めくくられる。中心となるのは京都のフィールドワークをもとにした素材編である。数寄屋の基礎用語、構成要素、年表など付録もつけられている。
⑭居住空間の再生
早川和男編 講座 現代居住3
東京大学出版会
1996年9月
3914円
居住空間の再生と題されているが、扱われているのはインナーシティの問題だけではない。要するに居住空間が全体的に衰退してきたという認識から、その再構築をどう具体化するかがテーマである。居住空間再生の担い手をどう考えるかがひとつの焦点である。
⑮建築の前夜 前川國男文集
前川國男文集編集委員会
而立書房
1996年10月
3090円
前川國男といえば、日本の近代建築をリードし続けた巨匠である。ちょうど10年前に亡くなった。本書はその文章を可能な限り集めた文集である。近代建築家としていかに悩みが大きかったか文章の端々から伝わってくる。巻頭に「MR.建築家ーーー前川國男というラジカリズム」という文章を書かせていただき、各時期の解説をさせて頂いた。「バラックを作る人はバラックを作り乍ら、工場を作る人は工場を作り乍らただ誠実に全環境に目を注げ」という一節が耳にこびりついている。
2024年11月3日日曜日
話題の本04、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199609
04
⑩住生活と住教育
奈良女子大学住生活学研究室編
彰国社
1993年
2400円
この7月、奈良女子大学の大学院に集中講義に招かれる機会があって、今井範子先生から頂いた。扇田信先生の古稀の記念論集で、奈良女子大学で先生に教えを受けられた諸先生が執筆されている。今井先生は「”動物と暮らす”住生活」を書かれている。かねがね、ペットの飼えるマンションを、と思っているのであるが、鳴き声がうるさいと裁判ざたになったわが東京のマンションを思い出してうんざりする。女性執筆陣の中で”白(国)二点”が、西村一朗、高口恭行両先生の論考である。
⑪ファミリー・トライアングル
神山睦美+米沢慧
春秋社
1995年
2369円
著者二人の対談集。米沢慧さんは郷土の先輩という縁もあって面識がある。『都市の貌』『<住む>という思想』『事件としての住居』などがある。ものにはならかったのであるが、東京論のために東京を一緒に歩き回った経験がある。神山睦美氏には、『家族という経験』がある。僕とほぼ同世代である。その二人が、それぞれの家族体験をもとに「高齢化社会」の行方をめぐって重厚な議論が展開される。ファミリー・トライアングルとは、職場、住居、家族のトライアングルを背景とする、家族の関係(三角形)を意味する。
⑫家の姿と住む構え
納得工房+GK道具学研究所
積水ハウス
1994年
2500
納得工房訪れたことのない人は是非行ってみてほしい。京阪奈丘陵、関西文化学術研究都市のハイテック・リサーチ・パークにある。様々な体験ができる。GK道具学研究所は、山口昌伴先生に率いられる。ユニークな集団による、納得のすまいづくりあの手この手が披露されている。「女性でも建物でも、まっ正面から見るなんてことは滅多にない」といったポイントが多数、イラスト・写真とともにぎっしりつまる。
2024年11月2日土曜日
話題の本03、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199610
03
⑦⑧講座現代居住 全5巻 「1 歴史と思想」(大本圭野・戒能通厚編)
「2 家族と住居」(岸本幸臣・鈴木晃編)
編集代表 早川和男
東京大学出版会
1996年6、7月
3914円(1,2巻共)
「豊かさの中の住宅貧乏」とでも言うべき、日本の現代居住の様々な局面をグローバルな視点から問う総合講座。多分野にわたる数多くの専門家が執筆。現在、2巻まで刊行されており、以下、 「3 居住空間の再生」、「4 居住と法・政治・経済」、「5 世界の居住運動」と続刊予定。第1巻は、総論において、居住をめぐる今日的問題を明らかにし、基本的な視座を述べた上で、居住をめぐる理念、思想、政策の歴史と諸問題を論ずる。さらに、具体的な問題として、ホームレス問題、巨大都市問題、国土計画、地球環境問題など、現代的論点を考察している。
第2巻は、現代家族の揺らぎ、女性の社会進出、高齢化、少子化など家族と居住空間の関係を論じる。布野も「2 世界の住居形態と家族」を執筆している。
⑨コートヤード・ハウジング
S・ポリゾイデス/R・シャーウッド/J・タイス/J・シュールマン 有岡孝訳
住まいの図書館出版局
住まい学体系075
1996年4月
2600円
1982年にカリフォルニア大学出版会から初版が出され、1992年にプリンストン建築出版から再版されたものの翻訳である。副題に「L.A.の遺産」と小さくあるように、原題には「in Los Angeles」がついている。ロスアンジェルスの中庭式(集合)住宅(コートヤードハウス)を対象にした、南カリフォルニア大学グループの都市の類型学研究の成果である。しかし、コートヤード・ハウスは、古今東西、都市型住宅の形式としてどこにも見られるものであり、本書の議論は広く応用可能である。スパニッシュ・コロニアルの中庭式集合住宅の成立の過程を学びながら、地域に固有な都市型住宅のあり方を考えることができるのではないか。
2024年11月1日金曜日
話題の本02、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199608
02
④ヒルサイドテラス白書
槙文彦+アトリエ・ヒルサイド編著
住まいの図書館出版局
住まい学体系071
2600円
1995年12月
「ヒルサイドテラス」とは、東京は代官山に建つ集合住宅である。近くに同潤会の代官山アパートが建つのであるが、戦前戦後を通じて、このヒルサイドテラスもまた、建築家による集合住宅としてその評価は高い。第一期のAB棟(1968年)が建設がなされて以降、第六期のFGN棟(1992年)まで、槙文彦と元倉真琴をはじめとするその若い仲間たちが継続的に設計に携わってきた。本書はその記録集である。
⑤住宅の近未来像
巽和夫・未来住宅研究会編
学芸出版社
3296円
1996年4月
近未来実験集合住宅「NEXT21」(大阪ガス)を実現した関西グループを中核とする未来住宅研究会の住宅論集である。具体的には、関西ビジネスインフォーメーション(KBI)主催の研究会がもとになっており、住様式、家族、集住、テニュア、居住地、エコロジーをキーワードに主論と特論から構成されている。
⑥家事の政治学
柏木博
青土社
2200円
1995年10月
デザイン批評を基盤として幅広く評論活動を展開する気鋭の評論家による家事労働論。もちろん、住居論としても読める。「キッチンのない住宅」「家事はロボットにおまかせ」など、魅力的な目次が並ぶ。しかし、必ずしもそこに未来の住宅についてのヒントがあるといった類の本ではない。住宅という容器のなかの出来事をじっくり考える本である。A
2024年10月31日木曜日
話題の本01、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199607
001
今回から本欄を担当することになりました。ご挨拶代わりに(厚かましくも)まずは自分の著書編著を紹介させて頂きます。
①布野修司編、『日本の住宅 戦後50年 21世紀へ 変わるものと変わらないものを検証する』、彰国社、1995年3月
戦後50年を振り返って、これからの日本の住宅のあり方を展望する。50人の建築家の50の住宅作品を選定。また、地域に根ざした建築家50、日本の家づくり、まちづくりグループ50を掲載。建築家の作品を通しての住宅戦後史の試みには限界があるけれど、様々な視点での論考を含む。特に、戦後の住宅文献50は参考になる。
②布野修司、『住宅戦争』、彰国社、1989年。
住まいにとっての豊かさとは何か、というのがサブタイトル。受験戦争という言葉があるのに住宅戦争という言葉がないのはおかしい。日本人の一生が如何に住宅(の取得)に縛られているかを考える。F氏の住宅遍歴として著者自らの住宅遍歴を振り返るほか、山口百恵など有名人の住宅選択についても詳述している。
③布野修司編、『見知らぬ町の見知らぬ住まい』、彰国社、1990年
100人の筆者に100の住まいを紹介してもらう。日本の住宅はどこかワンパターンじゃないか、世界にはもっと楽しい住まいがあるんじゃないかというのがテーマ。100人に頼むと同じような事例が出て来るんじゃないかと思いきやすべて違う例が出てきた。住宅というのはそれぞれ違うのが当たり前なのである。
2024年10月30日水曜日
2024年10月29日火曜日
書評 井上章一「戦時下日本の建築家-アート・キッチュ・ジャパネスク」
書評 井上章一「戦時下日本の建築家-アート・キッチュ・ジャパネスク」
布野修司
本書のもとになったのは、「ファシズムの空間と象徴」と題された論文(『人文学報』、第五一号(一九八二年)、第五五号(一九八三年)である。その二本の論文をもとに『アート・キッチュ・ジャパネスクー大東亜のポストモダン』(青土社、一九八七年)がまとめられ、さらにタイトルと装いを変えて出版された(一九九五年)のが本書である。
実は、この一連の出版に評者は深く?関わっている、らしい。最初の二本の論文を送ってもらい、「国家とポスト・モダニズム建築」(『建築文化』、一九八四年五月号)で井上論文に言及したのがきっかけである。この言及はいたく井上氏を刺激したらしい。その経緯と反批判は長々と「あとがき」に記されている。その「あとがき」に依れば、この間、布野論文を除けば本書に対するほとんど表立った批評がないのだという。
筆者の文章は、磯崎新の「つくばセンタービル」、大江宏の「国立能楽堂」などが相次いで完成し、建築のポストモダニズムが跳梁跋扈する中で、「国家と様式」をめぐるテーマが浮上しつつあることを指摘するために井上論文に触れたにすぎない。文章全体が一般の眼に触れることはなかったから、反批判のみが流布する奇妙な感じであった。幸い『国家・様式・テクノロジー』(布野修司建築論集Ⅲ、一九九八年)に再録することができたから、本書をめぐる数少ない批判の構図は明らかになることになった。
争点は「帝冠様式」の評価をめぐっている。「帝冠様式」あるいは「帝冠併合様式」とは、下田菊太郎という興味深い建築家によって「帝国議事堂」(現国会議事堂)のデザインをめぐって提唱されるのであるが、簡単に言えば、鉄筋コンクリートの躯体に日本古来の神社仏閣の屋根を載せた折衷様式をいう。具体的には、九段会館(旧軍人会館)、東京帝室博物館など、戦時体制下にいくつかの実例が残されている。
「「帝冠様式」は日本のファシズム建築様式だというのがこれまでの通説であるが、「帝冠様式」は日本のファシズム建築様式ではない(さらに、日本にファシズム建築はない)」というのが本書の主張である。もちろん、本書は「帝冠様式」のみを扱うわけではない。「忠霊塔」コンペ(設計競技)、「大東亜建築様式」の問題など全体は四章から構成され、一五年戦争期における「建築家」の「言説」を丹念に追う中で、建築界が抱えた問題に光を当てようとしている。しかし、全体としてテーマとされるのは以上のような「通説」の転倒である。
それに対して、布野が指摘したのは、何故、そうした通説が転倒されなければならないのか、という本書が担う政治的立場である。本書には随所に「どんな(建築)イデオロギーも、意匠のための修辞にすぎない」「モダニズムが「日本ファシズム」と徹底的に戦ったことなど、一度もない」「”大東亜建設記念営造計画”が社会的にになった役割は、戦争協力という点から考えれば、無視しえるものだ」といった挑発的な断言を含んでおり、大きな違和感をもったのである。「ファシズム期における建築様式についての戦後の評価を転倒させようとする意識が先行するあまり、ファシズム思想との無縁性のみを強調するバランスを欠いたものといっていい。また、そのことにおいて、露骨なイデオロギーのみを浮かび上がらせるにとどまっている。」と書いた。いたくお気に召さなかったらしい。
ファシズム期の日本の建築家をめぐっては、「建築様式史上の造形の自立的変遷」にのみ焦点を当てる本書を得ても、なお検討すべき問題がある。新興建築家連盟の結成即即解散(一九三〇年)から建築新体制の確立(一九四五年)への過程は、建築家の活動を大きく規定するものであった。その体制全体の孕む問題は、拙著『戦後建築の終焉』(れんが書房新社、一九九五年)でも触れるように、建築技術、建築組織、建築学の編成、植民地の都市計画など、単に「帝冠様式」だけの問題ではないのである。
それ以前に、「帝冠様式」の問題が残されている。戦時体制下において開催された設計競技の多くは「日本趣味」「東洋趣味」を規定するものであった。この強制力は、果たしてとるにたらないものなのか。具体的に、今日、公共建築の設計競技や景観条例において勾配屋根が求められたりする。これは景観ファシズムというべきではないのか。「帝冠様式」の位相とどう異なるのか。
「帝冠様式」をキッチュとして捉えるのは慧眼である。「帝冠様式を日本のファシズム建築様式ととらえる通俗的な見方を否定して、上から与えられた、あるいは強制された様式としてではなく、大衆レベルによって支えられ、下から生み出された様式としてとらえる視点」は興味深い。なぜなら「国民へ向かって下降するベクトルが逆転して国家へ向けられるそうした眼差しの転換をこそファシズムの構造が本質的に孕んでいたとすれば、そうした視点から、大衆的な建築様式と国家的な建築様式との関連をとらえ直す契機とはなるはず」だからである。
屋根のシンボリズムについてはその力(強制力)をもう少し注意深く評価すべきであろう。民族や国民国家のアイデンティティあるいは地域なるもののアイデンティティが問われる度に、「帝冠様式」なるものは世界中で生み出されるのである。また、建築における「日本的なるもの」、についてももう少し掘り下げられるべきであろう。本書の「あとがき」には、井上氏も、植民地における帝冠様式など残された課題を列挙するところである。
一五年戦争期における日本回帰の諸現象と建築における日本趣味とは果たして関係なかったのか。「モダニズムが日本ファシズムと結託した」という命題はもう少し具体的に検証されるべきではないか。問題にすべきは、「日本的なるもの」のなかに合理性をみるというかたちで、近代建築の理念との共鳴を見る転倒ではないか。日本建築の本質と近代建築の本質を同じと見なすところに屈折はない。その屈折のなさが、科学技術新体制下における建設活動を支えたのではないか。本書に対する未だに解けない違和感は、数々の断言によって、例えば以上のような多くの問いを封じるからである。
2024年10月28日月曜日
2024年10月26日土曜日
書評 磯崎新『見立ての手法』,共同通信,1990
磯崎新『見立ての手法ーー日本的空間の読解』
熊本アートポリス展のコミッショナー、水戸芸術館の総合ディレクター、花と緑の博覧会の会場設計と、このところ、個々の建築の設計のみならず、建築のプロデュースで八面六ぴの大活躍なのが建築家、磯崎新である。その磯崎新も来年には還暦を迎える。今や建築界の重鎮だ。本書は、その最新建築論集である。
見立てとは、仮にみなす、あるいは、なぞらえる、という意味である。古来、日本庭園の作庭の手法として用いられてきた。竜安寺の石庭で、砂が海を、石が島や山を表す、という。そんなメタフォリカル(隠喩的)な表現がそうだ。本書は、そうした、日本的な表現手法をめぐる論考を集めて編んだものである。ほとんどが八〇年代に書かれたものであり、磯崎自身の建築的関心の推移をうかがう上でも興味深い。
建築における日本的なるものというテーマは、一九三〇年代、五〇年代と、これまで繰り返し問われてきた。みるところ、国際関係において、日本のアイデンティティーが問われる時代に、日本回帰の現象が起こっている。専ら、西欧の古典的建築に依拠してきた磯崎が、八〇年代に、日本的空間をどう捉えようとしたかは、八〇年代という時代をうかがう手掛かりにもなろう。
ま、かつら、にわ、ゆか、や、かげろひ、と全体は六部に整理されているのであるが、まず、取り上げられているのが、間(ま)という概念である。ジャパネスク・ブームのきっかけとなった、パリにおける間をテーマにする展覧会を契機とした文章が収められている。作家論や新都庁舎論なども含まれ、雑然とした感じもあるが、桂離宮論など読みごたえがある。
磯崎が拘るのは、徹底して、西欧人の眼で、あるいは、近代主義者の眼でみると、日本的なるものはどう読めるのか、ということだ。ひと味違う日本建築論になっているとすれば、その拘りの故にであろう。(悠)
2024年10月23日水曜日
宮内嘉久著『前川國男 賊軍の将』合評会 、日 時:2006年7月29日(土) 合評会:午後2時30分~5時30分
宮内嘉久著『前川國男 賊軍の将』合評会
○ 日 時:2006年7月29日(土)
合評会:午後2時30分~5時30分
出版記念懇親会:午後6時~8時
○ 場 所:国際文化会館
合評会:樺山ホール
出版記念懇親会:ルーム3
○ 主 題:『前川國男 賊軍の将』を主軸として,建築とは
何か建築家はいかに在るべきかを問う.
○ 司 会:布野修司
○ 書評者:鈴木了二.辻垣正彦,松隈 洋.山口 廣.
横山公男.
○ 発起人:磯崎 新.大谷幸夫.加藤周一.河原一郎.
鬼頭 梓.鈴木博之.平良敬一.鶴見俊輔.
永田祐三.橋本 功.武者英二.村井 修.
山口 廣.横山公男.
武者、磯崎、横山 欠席
合評会という形式 出版記念会
前川國男 賊軍の将
宮内嘉久
建築とは何か
建築家はいかに在るべきか
◎近代建築というスタイル 様式
・ 近代建築
・ 日本式 東洋式
・ 大東亜建築様式
◎建築と規制
・ 建築とファシズム
・ 建築と統制
・ 大東亜建築
◎建築技術・生産システム
・ プレモス
・ テクニカル・アプローチ
・ 打ち込みタイル
◎建築組織・職能
・ 事務所経営
・ 共同設計
・ 設計料
・ 著作権
・ 職能
・
・ コンペという仕組み
・ 箱根
◎都市計画・景観
・ 景観・都市
・ 東京海上
・
2024年10月10日木曜日
ゆるやかな統一 調整者としての建築家,書評内井昭蔵『再び健康な建築』,京都新聞,20030915
ゆるやかな統一 調整者としての建築家,書評内井昭蔵『再び健康な建築』,京都新聞,20030915
書評 内井昭蔵 再び健康な建築
ゆるやかな統一
建築はひたすら健康であれ
調整者としての建築家
布野修司
ポストモダンの建築が華やかなりしバブルの時代、建築界に「健康建築論争」と呼ばれる論争があった。著者はその中心にあって矢面に立たされた。近代建築の単調さ、画一性に対して仰々しく異を唱えた若いポストモダニストたちには、建築はひたすら自然で健康であれ、という素朴な主張は反動的で敵対的なものと思われたのである。
時は過ぎ、帰趨は明らかになった。「再び健康な建築」と題された本書には「健康な建築」を求め続けた建築家の一貫する真摯な声を聞くことが出来る。
しかし、「健康」とは何か。論は単純ではない。「「健康」であることは「病気」であることと同じである」と書かれている。また、「自然」とは何か。建築するということはそもそも自然に反することではないか。「人工」は病なのか。テーマは多岐に亘るが、装飾、生態、環境といったごく当たり前の普通にわれわれが用いている概念が繰り返し繰り返し問われている。
建築論の展開とは別に、著者の提起したマスター・アーキテクト制にも当然触れられている。建築家と言えば唯我独尊、頑固な独裁者というイメージが流布する中で、「ゆるやかな統一」を前提とする調整者(コーディネーター)としての建築家像は、ワークショップ方式のまちづくりが進展するなかで根づきつつある。京都コミュニティ・デザイン・リーグの運動もその流れのひとつである。
内井先生とは京都大学で三年ご一緒した。また、京都市の公共建築デザイン指針策定のための委員会で一緒であった。氏と京都との縁は深い。身近に接して第一に思い起こすのは、その思考の柔軟さである。景観についても予め色や形態を決めて規制するのは反対であった。さらに活躍が期待される大建築家であったが、昨年急逝された。本書は遺稿集でもある。その精神を学ぶ手掛かりがまとめられたことを喜びたいと思う。2003.0908
2024年10月7日月曜日
多様性に欠け,貧困な日本の住まいと家族のあり方,書評西川祐子,『図書新聞』,20060212
書評:西川祐子著、『住まいと家族をめぐる物語―――男の家、女の家、性別のない部屋』
「貧困の住まい」と家族の物語
布野修司
帯に「身近な住まいと街に刻まれた140年の日本近・現代史」とある。明治以降の日本の「住まいと家族をめぐる物語」を論じながら日本の近・現代史を照射するねらいが本書にはある。これまでの著書においても著者が一貫して追及してきたテーマである。ただ、本書はいささか「軽い」。
全体は一四章に分けられているが、丁度、半期の講義の一回一回のエッセンスをまとめる構えがとられており、実際、「ジェンダー文化論」の講義が元になっている。随所に講義の際のエピソード、発見が織り込まれており、臨場感がある。また、わかりやすく(「クリアー」)、一章一章が独立して、簡単に読める(速読できる)こと(「シンプル」)、そのことによって教室を社会に開く(「オープン」)ことが編集執筆方針である。「軽い」というのはそういう意味だ。
図式は、冒頭にそれこそ簡潔に示される。すなわち、家族モデルの旧二重構造(「家」家族/「家庭」家族)→新二重構造(「家庭」家族/個人):住まいモデルの旧二重構造(「いろり端のある家」/「茶の間のある家」)→新二重構造(「リビングのある家」/「ワンルーム」)というのが見取図である。「男の家」→「女の家」→「性別のない部屋」という単線的なわかりやすい歴史図式をもう少し構造的に捉えるのが味噌である。
さらっと読んでつくづく思うのは、日本の住まいと家族のあり方が実に画一的で多様性に欠けること、実に貧困なことである。とりわけ、住まい(空間、容器)の貧困は覆うべくもない。「空間の論理」に拘る建築家、上野千鶴子のいうところの「空間帝国主義者」にとっては考えさせられる多くの内容を本書は含んでいる。
ただ、いささか不満が残るとすれば、やはり、その図式の単純さに原因があると思う。それは著者自身が充分意識するところでもある。
第一に、住宅の地域性についての記述が薄い。「農家」住宅に存続し続けてきた「続き間」の問題など、都市と農村の住まいの二重構造、大都市のみならず地方都市における住まいのヴァリエーションは、同じように構造的に見ておくべきであろう。
第二に、住まいの集合形式についての視点が希薄である。長屋形式について一章割かれているが、他の考察はほとんど一戸の住戸(の間取り)に集中している。団地あるいはニュータウンなど、画一的な標準住居nLDKを単に並べ、重ねるだけの集合形式だけが問題にされているように見える。同潤会のアパートメントハウスなど、日本の集合住宅の歴史にはもう少し多様な展開の萌芽と可能性はなかったか。少なくとも、本書からは、街区や街の多様なありようが見えて来ない。
第三に、住まいという容器(空間)の生産―量と供給の論理―という視点が必ずしもはっきりしない。景気対策としての住宅金融政策には触れられるけれど、いわゆるプレファブ住宅、「商品住宅」は真正面から取り上げられない。日本の住居がかくも画一的であるのは、住宅生産の産業化の進展が決定的である。日本の住居史として、決定的な閾となるのは、一九六〇年代の一〇年である。一九五九年に日本に初めてプレファブ住宅(ミゼットハウス)が誕生する。そして、一〇年後に一〇パーセント近いシェアを占めるに至り、住宅産業が成立する。最も象徴的なのはアルミサッシュの普及である。この十年でゼロからほぼ百パーセントに至る。要するに、住宅の気密化によって空調によって室内気候が制御されるようになった。そして、日本列島から茅(藁)葺き屋根が消えた。この十年は有史以来の日本の住居の大転換期である。もうひとつの閾となるのは、一九八五年である。この年、年間新築戸数(フロー)のうち借家が持家を超えた。集合住宅が賃貸住宅を超えた。木造住宅が五割を切った。すなわち、資産を持たないものが手に入れることが出来る住居は、賃貸の非木造の集合住宅となって久しいのである。
日本の住まいは以上のように、地域性の論理、集合の論理、多様性の論理、歴史の論理・・・を欠いてきた。それ故、その近・現代史は一葉のマトリックスに収まってしまう、本書の主張はそういうことであろう。
それでは、「性別のない部屋」にまで還元された日本の住まいのこれからはどのように展望されるのか。「他人の記憶の形象」、「地球の裏側の親戚」などいくつかキーワードが匂わされるが、何故、そうなのかはクリアーではない。その方向は本書の整理の延長には無いのではなかろうか。
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traverse11 2010 新建築学研究11 Ondor, Mal & Nisshiki Jutaku(Japanese Style House):Transformation of Korean Traditional House オンドルとマル,そして日式住宅...