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2024年11月28日木曜日

日本建築学会 2001年学会賞(作品賞) 総評、建築雑誌、2001

 日本建築学会 2001年学会賞(作品賞) 総評

 布野修司

 今回の選考は、正直言って、あまり乗らなかった。現地視察を行う8作品にこれぞと思う作品のいくつかが残らなかったことと、残った作品のうちに重賞がらみの作品が3作品もあったことが大きい。

 重賞は絶対認めないというのではないが、余程の作品でなければ投票しない、というのが、基本姿勢である。要するに、学会賞は、「新人賞」的でいい、と思う。荒削りであれ、将来の日本の建築界をリードするような力のある若い作家に可能性をみたいと思う。学会賞のレヴェルが問題になるのは、若手の作品に勢いが無く、それなりのキャリアを積んだ卒のない作品の受賞が続いているからであろう。これも時代の流れである。

 受賞作の内では、公立はこだて未来大学は文句無いと思った。実に単純なビルディング・システムがかくも多様な空間を産むということにいささか感動を覚えた。山本理顕さんのプランニングの力量とともに、木村俊彦先生の到達点を見る思いであった。テクニカル・アプローチの、大袈裟に言えば日本の近代建築の目指したのはこのような作品であったのかもしれない、と思った。

 地下鉄線大江戸線飯田橋駅は、土木分野への建築家の果敢な試みとして評価したい。余計な仕上げを剥ぎ取るだけで地下空間の豊かな展開を示唆し得ている。しかし、それ以上を期待したい気がある。排気塔や天井を這う照明器具のインスタレーションはそれ以上の方向を指し示しているようには思えなかった。

 W・HOUSEは、版築の壁に好感をもった。しかし、都市型住宅のプロトタイプとしては、街に対しても、市場としても、いささか閉じすぎてるように思った。

 若い力に期待するという意味では「八代の保育園」に大いに期待があったが、勢いが感じられなかった。徹底するところがない、という印象である。透静庵は極めて水準の高い作品であるが、公開性に欠ける点がひっかかった。8作品に惜しいところで残らなかった竹山聖、宇野求の作品にしても、住宅スケールの作品には、「一連の作品」というのを、受賞対象から外した学会賞規定のハードルはいささか高い。

  

2024年11月27日水曜日

日本建築学会 2000年学会賞(作品賞) 総評、建築雑誌、2000

 日本建築学会 2000年学会賞(作品賞) 総評

 最終判断には委員会全体のある種のバランス感覚が働いていると思う。そういう意味では妥当な選考であった。

 ただ個人的評価は異なる。第一次選考で残った8作品の中で最後まで押したのは「上林暁文学記念館」「三方町縄文博物館」「中島ガーデン」の3作品である。前2作品は第一次選考で最も多い票を集めたが、現地調査で支持を失ったのが残念である。細かい収まりより大きな構想、新しい空間の予感、薄くてぺらぺらの建築ではなく存在感のある建築を評価基準としたけれど、眼につく欠陥の指摘を圧倒し返す言葉を持ち得なかった。

 「熊本県立農業大学校学生寮」は、豪快で、さすが当代の目利きの作品と、好感が持てた。特に食堂の空間が不思議な魅力がある。ただ、平面計画にしろ構造計画にしろ素人そのものなのは買えなかった。特に木造の扱いはこれで時間に耐え得るかと思う。また、旧態たる奇妙な設計施工の体制も気になった。「東京国立博物館法隆寺宝物館」は完成度において文句はないが、この作品によって「重賞」問題を突破するのをやはり躊躇(ためら)った。「中島ガーデン」は、日本型都市型住宅のプロトタイプ提出の試みとして「茨城県営長町アパート」とともに評価した。

 

2024年10月1日火曜日

「軽く」なっていく建築に未来はあるか,居酒屋ジャーナル3,建築ジャーナル,200609

 「軽く」なっていく建築に未来はあるか

 

21世紀の建築は、薄く軽くなっていく。かつてポストモダニズムが強調した個性の表出ではなく、実体感のない建築を打ち出す建築家がもてはやされいる。そんな時代に、建築家が本当につくるべきものは何かを、関西在住の建築家と識者4人が、批評精神旺盛に語る。

本文 187  195 (10788)


――今、建築家の仕事は減少しています。そんな中でも、建築家が手がけていくべき建築はあるのでしょうか。

 

「バラック」に糧がある

 

布野 1970年代のオイルショック後も不景気は大変でで、若い建築家には現在のように住宅設計の仕事ぐらいしかなかった。私が編集長ということになった『群居』では、住宅が中心だった。今でも建築家はもっと本気で住宅に取り組むべきだと思う。

永田 布野さんの場合は、建築家が実際に設計して分かるところを、設計前に、その建築の位置付けなり評価が読めてしまう。だからつくらず、批評活動しているのとちがうかな。

布野 住宅5棟ぐらい手がけたし、やる気はなくはなかったけど、俺よりあいつの方がうまい、というのが分かっちゃうんだよね。

永田 布野さんの若い頃の著作の中で、「家はウサギ小屋でいいじゃないか」と批評していた。ウサギ小屋の中に、未来の建築の可能性を打ち出すものがあるんやと。そして誰よりも先駆けてアジア建築に興味を持ってきちんと論じたことに、私は惹かれるわけ。

布野 何故か、廃墟とバラックに惹かれる。

永田 私も昔からそうです。大阪・

西成のドヤ街を電車で通りかかるとき、すごくいいのよ。バラックのような建物に屋根が1枚しゅっと降り、その下に花がきれいに植えてある。そういう混沌とした世界の中に、私たち建築家がイメージしてものをつくっていく上での糧がある。こういう方向で建築家が考えないから、東京の汐溜から品川に建つような、きれいなだけでつまらないビル群が出来ていく。いくらカーテンウォールのプロポーションを上手く収めても、力のある建築にならない。

 私らは、布野さんが論じる言葉の中のものを、日々、一生懸命図面に描いて形にしようとしている。

――布野さんは、理想とする住まいなり、都市のイメージがあるわけですか。

布野 はっきりあったら、建築家になってますよ。建築をつくるというのは、基本的に暴力ですよ。下手すると、地球を傷つけて、粗大ゴミをつくるのと同じですよ。

 建築の道に進んだ当初から、そのプレッシャーを感じていました。私は東大の吉武泰水先生の研究室に入りましが、入ったときの問題が東大闘争の発火点になった東大医学部の北病棟問題です。吉武先生がツー・フロア一看護単位というシステムを提案したんです。一階にひとつづナースステーションを設けるのが普通だったけど、二回にひとつでいい、という提案。そのとき看護婦さんたちが「労働強化だ」って怒った。合理的な設計として提案したんだけど、・・・吉武先生は、それを真剣に悩んで、自分のプランを全部説明して、一回生の私に「何か提案はあるか」と訊ねられた。先入観のない意見を求めたのでしょう。えらい先生だと思いました。

松隈 布野さんや永田さんの世代は、歴史の証人ですから。1970年安保のときに原広司がどうしたとか、個々の建築家の考えや動きを、若い人に向けてしゃべってほしいですよ。

 

社会性から外れたポストモダン

 

――建築家の力は弱くなってきて、今後どう生きるべきかを問いなおすべき、というのは前回、横内さんが問題提起されました。建築を志したときは、やはり希望を持っていたわけでしょう。

横内 私たちの世代は、松隈さんも同じですが、学園紛争も収まった1970年前半に大学に入学しました。だから先輩より、素直に建築を学ぺた気がします。ポストモダニズムがブームの頃で、刺激的な小住宅、都市住宅がつくり始められた。特にアメリカの建築が華々しくて、学生の私はそれに憧れました。卒業後、アメリカに留学しましたが、その地の先端的なポストモダニズムの建築を見てがっかりしたんです。ロバート・ベンチュリーやチャールズ・ムーアにしても、張りぼてみたいで、これは建築ではないと実感しました。帰国して日本のポストモダニズム建築を見ても、同様に表層的でした。モダニズムが持っていた普遍性や客観性が、ポストモダンの時代になって急に個人的な言語になり、社会から外れていったように思えたのです。そこで信用できる建築家は前川國男しかいないと事務所の門を叩き、5年間勤務しました。

 その後、たまたま妻の実家がある京都の京都芸術短期大学に講師として赴任したとき、あろうことかポストモダニストの権化のような渡辺豊和が上司になった。関西はすごいところだと思いました。安藤忠雄もそうですが、彼らの作家意識は強く、尋常じゃない。そのスピリットは永田さんにもありますよ。

永田 そうかな。

――上司と部下の目指すものが違ったわけですよね。

横内 教育の場でしたから、問題ありませんでした。それより社会の流れが組織的なところに向かう中で、渡辺さんの自分を貫く生き方には学ぶことが多かったですよ。「作家」の覚悟をひしひしと感じました。

永田 関西には作家がわずかしかいないからね。

横内 わずかしかいない人がすごい。

布野 その点、東京は東京芸術大学にしても人材を出していますよ。関西ももっとがんばらないと。横内さんも大学で自分の2世を育ててほしい。松隈さんにも言いたい。前川國男の展覧会が全国巡回し、巨匠の仕事を世の中に再認識させた功績は素晴らしい。しかし、これからは松隈自身のオリジナリティを出した仕事に期待したい。

 

「軽く」に向かう建築に疑問

 

――建築家として、つくりたいもの、つくるべきだと思うものはありますか。

横内 それは分かりませんが、言葉で表現できないからつくっています。私たちの世代は、ポストモダンに対する嫌悪感があります。そこでモダニズムを見直したのはいいが、、ネオモダンのようなものがスタイルだけで出てきている。一方で作家性を否定する。例えば隈研吾の「負ける建築」とか、作家性を否定することで逆に作家性を打ち出すところがある。だから、建築がどんどんと薄く軽く、実体あるものから単なる情報になっていくところに収斂しているような気がします。

布野 アンチポストモダンがネオモダニズムという流れになっている。私に言わせると「バラック」ですよ。山本理顕の仕事は、評価していますが、きれいな「バラック」ですね。伊東豊雄さんは、もう少し、先端を走りたい。

横内 伊東豊雄の建築はそれでも実体感があります。せんだいメディアテークだってやはりごつい。

布野 彼は、身について、ごついのは嫌いですよ。。しかし、建築と成立させるために、ごつさも許容する歳になった。。妹島和世、西沢立衛になると、ピュアにピュアに軽く軽くしようとしてきた。

横内 あの世代はつくる規模が小さいというのもある。

布野 昨年、伊東豊雄とは一緒に飲みました。若き日の彼と、あまり印象は変わらなかった。彼は今65歳で、自在に仕事をしている。安藤忠雄はもとより分かりやすく、「緑が大事」「水が大事」と一般受けが巧みだが、その路線は飽きられるか、スタンダードになるしかない。その点、伊東豊雄はがんばってると思う。コンピューター技術を駆使し、表現の最先端を追求している。制度的に勝負しているのは山本理顕だと思う。私の立場と近いところにいる。そういうことと一切関係なくエコロジー派で仕事をしているのは藤森照信。今、私が日本の建築家で一目置くのは、伊東豊雄、山本理顕、藤森照信の3人ぐらいです(次号に続く)。

 

<顔写真>

布野修司

永田祐三

松隈洋

横内敏人

 

<プロフィール>

ふの・しゅうじ|滋賀県立大学環境学科教授。1949年島根県生まれ。東京大学大学院博士課程中退。京都大学教授を経て、2006年より滋賀県立大学教授。主な著書に『布野修司建築論集』『戦後建築論ノート』など

 

ながた・ゆうぞう|永田北野建築研究所代表。1941年大阪府生まれ。1965年京都工芸繊維大学建築工芸学科卒業。竹中工務店勤務後、1985年永田北野建築研究所設立。1993年村野藤吾賞受賞(ホテル川久)

 

まつくま・ひろし|京都工芸繊維大学助教授。1957年兵庫県生まれ。1980年京都大学工学部建築学科卒業。前川國男建築事務所勤務後、2000年より京都工芸繊維大学助教授。著書に『近代建築を記憶する』など

 

よこうち・としひと|横内敏人建築設計事務所代表。1954年山梨県生まれ。1978年東京芸術大学建築科卒業。前川國男建築事務所勤務後、1991年横内敏人建築設計事務所設立。三方町縄文博物館設計競技1

 

<案内>

「居酒屋ジャーナル」参加者の募集

あなたも4名の常連とともに、建築界に物申しませんか? 参加ご希望の方は以下の連絡先まで。 

居酒屋ジャーナル担当:〒541-0047 大阪市中央区淡路町1-3-7キタデビル

建築ジャーナル大阪編集部 TEL06-4707-1385 

FAX06-4707-1386

E-mail  oosaka@kj-web.or.jp

 

 

 

 

 

 

2024年9月14日土曜日

昭和設計の造形を語る,日刊建設工業新聞,19971009

 昭和設計の造形を語る,日刊建設工業新聞,19971009

 

昭和設計の造形を語る

布野修司

 

 「なみはやドーム」は不思議な空間であった。丁度、国体のリハーサルの最中でレーザービームが飛び交い、幻想的雰囲気が溢れていた。周囲には日本の大都市近郊のありふれた住宅地の風景が拡がる。そこへ楕円球が舞い降りる。いかにも異質である。雑然とした日常風景から心地よい胎内空間へ、何とも言えない体験であった。

 組織事務所が組織事務所であるために、その組織力を売り物にするのは当然である。しかし、どんな組織でも組織の形があり、その編成の仕方が建築表現にも自ずと現れる筈だ、というのが僕の信念である。だから、組織事務所にも個性ある顔が欲しい、といつも思う。そして、こういう機会にはいうことにしている。どこのどの事務所がやったのかわからないようじゃ困まりますよと。

 実際、組織が巨大になればなるほどその表現は無名性を帯びる。個性の主張は好悪の評価を分裂させる。よけいなコンフリクトを避けたければ無難なデザインに落ち着く。無駄なエネルギーは組織の利益に反する、というのが凡庸な組織の論理である。

 「なみはやドーム」「ワールド記念ホール」「神戸ファッションマート」「神戸ファッション美術館」を今回見せて頂いて、ある一貫するものを感じて組織表現のひとつのあり方を思った。この一貫性は、果たして、川口衛という構造設計家のものかというと、おそらくそうではあるまい。昭和設計内部にこの一貫性を支える論理がなければ、また人が居なければ、こうまで意欲的デザインは展開できないはずだ。

 六〇年代から七〇年万博にかけての表現主義の時代とはいささか違う。街づくりあるいは再開発の複雑な関係を解く組織力とそれをひとつにまとめる際に果たす構造デザインの力の幸福な共同関係を垣間見た気がしないでもない。

 大阪湾の楕円形を写すとか、大阪城をすっぽり納める弾道形のアトリウムとか、UFOが舞い降りた形のオーディトリアムとか、いささかイージーなシンボリズムに頼り過ぎなのは愛嬌か。しかし、その一貫性を組織力とすぐれた構造家の天才で支えれば、才気走った若い建築家の出番はないだろう、と思わせる。

 昭和設計は果たして外部との共同を組織論として戦略化しているのであろうか。宝塚駅前(花の道周辺)再開発事業のコンペではたまたま審査員を努めた。永田祐三とのジョイント提案であり、群を抜いていた。能力あるタレントとの共同はひとつの可能性を示している。しかし、昭和設計のアイデンティティとは何か、ということは常に問われる。

 四〇年というのは既に歴史である。その創立から現在に至る堅実な仕事には心底敬意を覚える。しかし、どんな組織でも新陳代謝は避けられないだろう。昭和設計の組織論としての評価が画定するの次のサイクルにおいてである。大いに期待したいと思う。



2024年8月9日金曜日

ラディカリズムの行方,見えなくなった構図,建築文化,彰国社,198910

  ラディカリズムの行方・・・見えなくなった構図

 

 磯崎 ラディカリズムのレヴェルにおいては、彼はもはや、ぼくが七〇年代の初めにつつましくやったものをはるかに超えているし、どこまで行くか、というのにかけている人たちだと思うんですね。それは、連中ももう腰を据えているはずだと思うから、やはり七〇年代は頑張ってもらわないといけないのだ。

 原 彼らのやっている手法とか全体的な文脈を見てみると、微妙な差異があるんだね。

 布野 個々にですね。

 原 そう。……あと五年もすると距離がだんだん出てくると思うんです。それで、ある立体的な構造というのが出てくればすごくおもしろい。だれが正統なのか、アウトの中の正統なのか、ということもわからなくなってしまって、みんなそれぞれに存在理由をもつようなかたちで、建築家が分布する……、というような像が初めて出てくるのじゃないか、彼らが頑張れば。……

 ……七〇年代では磯崎さんがある意味でヘゲモニーをもっていたと思う。この次には、センターみたいなものがなくなるような状態が出てきてほしいと思うんです。……低いレヴェルで拡散しているのはやさしいけれども。……

………

 磯崎 布野さんはちょっと下のジェネレーションですね。だから、その下のジェネレーションから彼らがどう見えているか聞きたいところです。

 布野 世代が近いから、ぼくの場合はシンパシーはもつわけですよ、当然。だけど、全面的に乗れるかというと、ちょっと違う面があるんですね。……もうちょっと下になると、彼らを見ていて、つぶされるか、ビチッと立体的な場を広げてくれるかを見て表現し出すのじゃないかという……(笑)。わりとそういう感じなわけですよね。

      鼎談「建築・そのプログレマティーク」 磯崎新、原広司、布野修司*[i] 

 

 ニュー・アンダー・フォーティー

 編集長「突然なんですけど、最近の若い人たちをどう思ってらっしゃいますか? 」………「建築を勉強する若い建築少年が、少なくなったという話ですか。それなら『室内』*[ii]にちょっと書いたんですけどね」

 編集長「いや、ほんとに、本誌(『建築文化』)連載の『戦後、建築家の足跡』に登場する大先生ですら知らない、という若い人が多いんですよね。でも、その話じゃなくて、布野さんたちの世代の下、アンダー・フォーティーの建築家たちなんですけど、どうなんでしょう。いろいろ出てきたんですが」………「どんな建築家がいて、どんなもんつくってるんだか、よく知らないんだけど。雑誌を見てると随分器用な人たちが多いね。上の世代が、下手に見える。でも、そんなに印象に残る人が思い浮かばないんだけど、面白い人がいるんですか」

 編集長「竹山聖とか、小林克弘とか、宇野求とか、團紀彦とか、高崎正治とか、やたら威勢がいいんですよ。全共闘世代の、布野さんたちの世代は、三宅理一さんにしても、八東はじめさんにしても、杉本俊多さんにしても、藤森照信さんにしても、陣内秀信さんにしても、松山巌さんにしても、みんな評論家とか、歴史家になっちゃったでしょう。だから、建築家がいない。下の世代は、楽でいい、もう俺たちの時代だって、言ってるんですよ………「竹山、小林、宇野なんてのは、よく知ってるけど、そんなこと言ってんですか。團くんも、昔、エスキスみたことあるし、高崎くんには、智頭のコンペで縁があったし、その後の活躍を期待してるんですけどね。しかし、全共闘世代に建築家がいないなんていったら、怒られるんじゃないの。なんせ、数は沢山いるんだから。でも、卒業時に、オイルショックにかかって、なかなか、自立する条件がなかったということはあるかもね。それに、当時、前川國男大先生が「いま最もラディカルな建築家は、つくらない建築家である」なんていった時代だったから、建築を捨てた(あきらめた)という学生も多かったということもある。評論や歴史へ向かったというのも、それなりの理由があるんだけど、社会が建築についての評論を要請するから、目立つということであって、建築家がいないなんてことは、言えないんじゃないの。どういう意味で言ってるんだろう。今は、全く別の理由で建築についてのこだわりがなくなってるよね。「リクルート・コスモス」なんかに行くの多いもんね。銀行とか証券会社とか、ね。一方、いまは仕事が多すぎて、若い人たちが、どんどん独立する条件が出来てる。上の世代が、一〇年苦労したのに比べると、デビューしやすいかもね。しかし、忙しすぎて潰れなきゃいいけどね」

 編集長「その辺のことでいいんですけど、ちょっとお願いできませんかね。建築家の世代論について。全共闘以後とか、ニュー・アンダー・フォーティーとかいうことで」………「そんな、無理だよ。だいたい、建築家の世代論というのは、五期会あたりで終わらせていいんじゃないの。世代論というのはうさんくさいからね。下手すると、世代論の背後には、エリート意識がのぞくでしょう。建築ジャーナリズムのイニシアティブをめぐる。一般的にも、権力闘争のにおいがする。それに、実際問題なのは、実年齢じゃなくて、精神年齢なんだよね。だいたい、先行世代だって、磯崎、原から、山本理顕、高松伸まで、世代的には幅があるでしょう。渡辺豊和さんのように、年のわりに信じられないぐらい若いのもいるしね。世代というより、状況に対するスタンスの問題じゃないの。それにね.世代が問題になるときには、世代を規定して枠にはめてやろう、そして、大抵は批判してやろう、という意思や主張が明快にあるもんでしょう。上からでも、下からでも。若い世代の誰だったか、われわれの戦略目標とはなにか、とかなんとか書いていたような気がするんだけど、戦略目標を問うようじゃ駄目なんじゃないの。すでに共有されていて、具体的に先行する世代にぶつけるというかたちじゃなくては。彼らには、明快な主張と理論の展開の用意があるのかしら。どうも、建築はうまいんだけど、内に向かって、自分の世界に、閉じこもってるって感じがあるんだけど。それに、何か、みんなヴァリエーションに見えちゃう……」

編集長「いや、その辺りでけっこうなんですけど」………「いや、そんな無責任な。これ以上言うことないんだけどなあ」

 

 個室に封じ込められた人類?

 この夏、多摩ニュータウンで開かれた「ニュータウン再考・・浮遊する快適空間」と題するシンポジウム*[iii]に参加する機会があった。パネラーは、ほかに三浦展(パルコ出版『アクロス』編集部)、山崎哲(劇作家、犯罪評論)、吉田真由美(映画評論)の諸氏である。テーマは、ニュータウン再考。サブタイトルには「高度成長・団塊の世代そして新しい街づくり」とある。随分と拡散的である。結果として議論の中心となったのは、団地という家族の空間であった。連続幼女誘拐殺害事件が、世間の耳目を集めている真っ最中であり、その事件の舞台が近接していることもあって当然のように大きな話題になったのであった。

 議論に参加しながら思ったのは、日本社会の閉鎖化の深度のようなことである。地域共同体からの家族の自立へ、家父長制的な家族から核家族へ、そして個の自立へ、と戦後の過程において日本社会が開かれてきたように見える一方で、実際に進行してきたのは、個をひとつの閉じた空間に押し込めていく過程ではなかったか。

 器としての住まいを見ると、その推移は比較的わかりやすい。食べるスペースと寝るスペースの分離(食寝分離DK誕生), 公的なスペースと私的なスペースの分離(公私室分離、モダンリビングの誕生、プライバシーの確保)、個室の自立、といったことが次々に主張され、そして具体的なものとなっていったのである。家族の自立(核家族化、マイホーム主義)、個の自立というスローガンのもとに展開された建築家の論理は、住戸の広さを獲得していく以上の論理ではなかったのだけれど、結果として、日本中に蔓延したのはnLDKという住戸形式であった。nLDKの空間がほとんどつながりなく積層するのが、ニュータウンの空間である。

 しかし、いまnLDKという住戸形式によって象徴される家族像(nLDK家族モデル)が揺らいでいる。バラバラの個の単なる集合へと変容しつつある。住居が、単に、個室の集合へと還元されつつある、と言えば、わかりやすいであろうか。個室に封じ込められた個をオルガナイズするのが、さまざまな情報メディアである。各個室には、それぞれに、電話、TV、AV機器など(個電製品)があふれかえる。世界のあらゆる情報に開かれ、しかし、物理的には閉じた個室が浮遊し始めている。

 連続幼女誘拐殺害事件については、決してフィジカルな空間の問題ではない。金属バット殺人事件も、コンクリート詰め殺人事件も、すべて、建築家のせいにされたんじゃかなわない、と思わず口にしてはみた。しかし、考えてみれば、建築家も危ういのではないか。デザインの差異を競いながら、閉じた世界へとますます内向しながら、「浮遊する個室」をつくり続けているのが、結局は建築家の現在なのではないか。モダンリビングを解体すること、nLDKを解体すること、近代建築批判の課題は、若い建築家たちには、どのように引き受けられつつあるのであろうか、などと思ったのであった。

 

 大いなる迷走:団塊の世代って何?

 主催者の狙いの中心は、実は、多摩ニュータウンの居住者の一割余りを占める「団塊の世代」を問う、ということであった。しかし、ひとりの若者によるショッキングな事件のせいで、むしろクローズアップされたのは、若者論の方であった。『大いなる迷走・・団塊世代さまよいの歴史と現在』*[iv]をまとめた三浦展の提起も, いささか遠慮がちであった。他のパネラーが、すべて団塊の世代ということもあったが、何となく、高度成長=団塊世代=ニュータウン=幼女誘拐といった議論の構図が出来てしまいそうだったからである。

 三浦展がひとつ話題にしたのは、団塊世代は全国各地で同じように生まれながら、移動が多く、現在、例えば、多摩ニュータウンのような大都市の周辺に住む割合が多いのは何故か、ということであった。それに対しては、そうでない人もいるでしょう、というのがひとつの答えであり、そう言うと、それ以上に議論のしようがない。それに、年齢によって、すなわち、年齢によって居住地の選定が限定されるということであれば、世代によらず、時代によらず、そうだったはずなのである。

 『大いなる迷走』をのぞいてみよう。

 「終戦直後の一九四七~四九に生まれた約八〇〇万人は、これまで実にさまざまな呼び名で呼ばれてきた。「ベビーブーム世代」、「フォーク世代」、「全共闘世代」、「ニューファミリー世代」、「団塊世代」、「ニューサーティ」……。戦後四四年の日本社会の変化と歩みをともにしてきた彼らは、おそらくは純粋に世代論の対象として語られた最初の世代であろう。消費のマーケットとして、新ライフスタイルのリーダーとして、あるいは社会の変革者として、常に分析され、期待され、恐れられてきた。彼らは終生、注目され論じられるべく運命づけられているかのようだ。団塊世代がついに四〇歳となった今、彼らが再び世代論の俎上にのせられようとしているのも無理はない。」

 冒頭の一節である。何となく違和感の残る書出しである。「純粋に世代論の対象として語られた最初の世代」というのはどういうことか。世代論というのは、「戦中派」とか「昭和ひとけた」とかなんとか、もうすこし、一般的に語られ続けてきたのではないのか。純粋な世代論の対象とは何だろう。誰が対象にし、語ったのだろう。誰が、団塊の世代を、分析し、期待し、恐れてきたのであろう。誰が、終生、注目し、論ずるのであろう。誰が、再び世代論の俎上に載せ、誰が、そのことを無理ない、と思うのであろう。あるコンテクストが前提とされているようでいて、それが曖昧にぼかされた言い方をされるので、気味が悪いのである。

 前提される視線とは何か。あらかじめはっきり言ってしまえば、それは、マーケティングの視線ということになろう。あるいは、資本が量をとらえる視線といってもいい。『大いなる迷走』のあとがきは「団塊世代を一つの理論的枠組みの中に押し込めること」は、非常に困難であり、「個人個人の現在置かれている状況は極めて多様であり、安易な単純化・図式化を許さない」というのであるが、結果としてそこで取られているのは、統計的手法のようなものである。「団塊世代を、過去においては政治的かつ風俗的存在として、現在においては経済的存在としてのみとらえる視点では、この世代の本質はみえてこない」と言いながら、一定のフレームに収めようとする。そこには、無意識であれ、ある意思が感じられるのである。でもまあ、世代論とはそういうものである。

 団塊の世代とは、戦後日本の「ユダヤ人」である。集団就職の金の卵世代である。団塊世代は、共和国の夢を追い続けている。団塊世代女性はクロワッサン主婦である。団塊世代は、郊外で市民運動を展開し始めている。団塊世代の父はアウトドア志向である。等々、団塊の世代に対してさまざまなレッテルが張られるが、むしろ興味深いのは、下の世代との差異が強調される次のような指摘である。

 「団塊世代より一〇歳若い昭和三〇年代生まれは、物心がついた時にはすでに高度経済成長が始まっていた。この世代は、物の豊かさやテレビの面白さや広告の魅力を否定することが生来的にできない。もちろん、物質的豊かさやコマーシャリズムの虚偽性も理解できるが、それを全否定すれば、彼らの生活基盤そのものを切り崩すことになることを彼らはよく知っている。……日本のどこに住んでいても、テレビが彼らの意識を近代的な未来社会へ向かわせた。まさにその点に、団塊世代と昭和三〇年代生まれの本質的な違いがある。彼らは、マスメディアと商品がつくりだす疑似環境・記号環境としての消費社会に、ごく自然に接することができる。彼らにとってそれはすでにひとつの自然だからである。」「一般に団塊世代は、感性の世代ではあるが、感性を論理化できる世代ではない。彼らの中では、感性と論理は常に矛盾・対立している。感性は、論理によって抑圧されるものであり、また、論理からの解放のためにあるのだ、というのが彼らの認識である。が、論理化されない非合理な感性はファナティックな政治運動の推進力にはなりうるが、経済活動(コマーシャリズム)に乗ることはできない。言い換えれば、経済の論理の支配する企業社会・官僚制の中では、感性は抑圧されるばかりである。しかし、一九八〇年代は、まさにこの感性の論理化・商品化を目指して、多くの企業がしのぎを削った時代であった。感性は、抑圧されるどころか、新製品のように次々と大量に生み出され、宣伝され、流通され、販売され、もてはやされ、消費され、消えていった。……団塊世代にはまだ、個人の感性を商品化することに対する抵抗が強いが、昭和三〇年代生まれにはそれがなかったのである。」

 

 見えなくなった構図:リーディング・アーキテクトの消失

 マスメディアとコマーシャリズムがつくり出す疑似環境・記号環境としての消費社会を自然のものとするか、違和感をもつか、あるいは、感性の論理化・商品化に対して抵抗感をもつかどうか、というのは、決して世代の問題ではないだろう。『大いなる迷走』は、YMOの細野晴臣や、糸井重里や川崎徹に代表される広告文化人、都市の中の廃墟をトレンドスポットに変えてしまった建築家・松井雅美、日産の開発に携わったコンセプター坂井直樹のように、感性時代の先端を走るトレンドリーダーとしての団塊世代も存在するけど、少数派だという。しかし、僕に言わせれば、むしろ、感性の商品化を戦略化する一線で活躍してきたのは、全共闘世代のような気がしないでもない。建築の分野でも、感性の論理化を盛んに主張し、若い建築家をリードするのは、三宅理一のような全共闘世代の評論家なのである。

 しかし、感性を商品化することを戦術化できるかどうかは、建築家を区別する大きなポイントとなろう。問題なのは、マスディアやコマーシャリズムを所与のものとして前提し出発するかどうか、である。ア・ブリオリに、「建築」とか、「建築家」という理念を前提とするのではなく、消費社会の現実の中から、幾人もの「建築家」が生まれ始めているとすれば、大きな状況の変化なのである。果して、若いそうした建築家たちが陸続と生まれつつあるのであろうか。

 冒頭の鼎談は、ちょうど一〇年前のものである。そこでは、ある見取り図が何となく、語られようとしている。そこで、「彼ら」ということで具体的にイメージされていたのは、伊東豊雄から、高松伸まで、いまでは四〇代の何人かの建築家たちである。当時、アンダー・フォーティー、その鼎談で、落胤の世代と呼ばれている連中である。「彼ら」は、その後、どのように状況と渡り合ってきたのか。ある意味では、予想どうり「立体的な場」を広げてきたのであろうか。

 しかし、そうだとすれば、いま、アンダーフォーティーと呼ばれる世代は、どのような場を広げつつあり、一〇年後に、どのような場を広げると予想されるのか。いま、それを具体的に語りうるであろうか。いささか、こころもとない。建築家の役割が全く変わっていく、そういう予想があるのである。

 「彼ら」は、八〇年代を通じて、エスタブリッシュされていく。言ってみれば、彼らのラディカリズムは、建築界において次第に認知されていった。建築界でもっとも権威があるとされる日本建築学会賞のような賞が「彼ら」に次々に与えられたことが、それを示している。「彼ら」が社会的に認知されていくのに、大きな力をもったのがマスメディアである。建築ジャーナリズムの枠を超えたメディアに「彼ら」は、戦線を拡大することにおいて、それぞれの存在基盤を獲得してきたのである。原広司が予言したように、センターみたいなものがなくなるような状態が、出現してきたように見える。

 しかし、興味深いのは、「彼ら」の微妙な差異である。近代建築に対する根源的批判を出発点とする「彼ら」の方向性については、これまで折にふれて書いてきた*[v]のであるが、当初からその方向性を巡っては、微妙なというより大きな差異があった。それゆえ、建築ジャーナリズムの上のみならず、連夜のように激しい議論が闘わされていたのである。

 しかし、現在、その方向性を巡る差異は、逆に見えなくなりつつあるような気がしないでもない。近代建築の方向性をめぐる差異が、デザインの差異に還元されて、併置されてしまうのである。とても、「立体的な構造」とはいえないのではないか、と思えるのである。まさに「低いレブェルで拡散している」状況が訪れつつあるのである。こうなると、すぐさま群雄割拠である。八東はじめが、疑似アヴァンギャルドとか言って、歯ぎしりするのであるが、差異の主張はそこでは等価である。デザインの差異、感性の商品化のロジックのみがそこで問われる。単にデザインのみではない。ファッションすらもそこでは問われる。歌って、踊れて、しゃべれる、そんなタレントが、そこでは要請されつつあるのである。

 

 ラディカリズムの死:「大文字の『建築』と「建築批判」

 思うに磯崎新が、あからさまに「転向」を口にしながら、「大文字の建築」などということを言い出さざるをえなかったのは、以上のような状況を特権的に差異化したかったからではないか、と思う。「大きな物語」の崩壊と不可能性のみが論じられねる中で、無数の「小さな物語」が蔓延する状況に対して、そう言ってみたい気分は、わからないでもないけれど、ついに最後の言葉を吐いたな、という感じである。

 その磯崎に対して、『建築雑誌』で質問を投げかける機会があった*[vi](。その回答によると、建築家の仕事も、すべて、この「大文字の『建築雑誌』というメタ概念を把握しているかどうかで、評価できるという。「大文字の『建築』」というメタ概念こそが、建築的言説を成立させる論理と枠組みのすべてをしばりあげている制度である」というのだ。その制度としての「建築」の解体こそが問題ではなかったか、と問えば「それへの違反、免脱、破壊、解体、そして脱構築の作業がなされながら、おそらく、いま、明らかにされつつあるのは、『建築』とは、そのすべを成立させている論理を根底において支えている、名付けようのなかった何ものかを指すのだ」という。

 そこでは、近代建築批判も建築批判も無化される。世代も、時代も、状況も、問題とはならない。あまりに超越論的な地平へと到達してしまったものである。

 磯崎については、これまで幾度か論ずる機会があった*[vii]のであるが、その過剰な言説よりも、そのラディカリズムの行方にのみ興味があった。その行き着く先が、言説の上で明らかになったということであろう。

 そうした、磯崎の「大文字の『建築』」を鈴木隆之が執ように問うている*[viii]。彼が繰り返し主張するのは、「建築」なんて、ないのだ。すべてが「建築」でしかない、という認識だけがありうる、ということだ。あるいは、すれちがった思い入れかもしれないけれど、その指摘の多くに共感を覚えながら読んだ。

 制度としての建築をいかに解体するのか、「建築」から、いかに逃亡するか、という矛盾に満ちた問いを出発点にするとき、とりあえずの解答はそう言うしかない。少なくとも、僕の場合、磯崎の「建築の解体」とハンス・ホラインの「あらゆるものが建築である」というスローガンを同じものとして受け止めながら、原広司のいう「建築に何が可能か」を指針としてきたのである。「大文字の『建築』」というメタ概念は、一切の問いを停止させてしまう。

 ところで、鈴木隆之の、こうした「建築批判」の視座は、彼に属する世代に固有なものなのだろうか。そうではあるまい。状況とのスタンスとして、常に要求されてきたものであろう。むしろ、重要なのは、「建築」なんてない、すべてが「建築」である、という状況が具体的に現れ始めていることだ。そして、それを認識することである。デザインの差異が次から次へと消費される、消費社会の神話と論理が支配する中で、「大文字の『建築』」というメタ概念を知っているかどうかが決定的なのだ、と言おうが言うまいが、どうでもいいことである。

 「建築」なんてない、すべてが「建築」でしかない、という言説は、もちろん両義的である。マスメディアとコマーシャリズムがつくり出す疑似環境・記号環境としての消費社会そのものが、そうした言説を成立させるからである。「大文字の『建築』」などという概念とは無縁にこの状況を突破する筋道に、少なくとも、僕は関心があるのである。などと、言えば、やはり「団塊の世代」に特有なものいいということになろうか。

 『大いなる迷走』は、次のように締めくくられている。

 「戦後日本の社会と文化の中で、常に“アウトサイダー”的な役割を演じてきた彼ら(ユダヤ人! )が、「大いなる迷走」の果てに、ついに何ものかを見いだし、創造する日は来るのであろうか? 」

 果たしてどうか?



*[i]  「建築文化」四〇〇号記念、八〇 二

*[ii]  “室内室外”「国際買いだしゼミナール」八九 五

*[iii]  司会=高橋博史 八八・八・二六多摩市公民館

*[iv]  PARCO出版

*[v]  「戦後建築の終焉? 近代建築批判以後の建築家たち」『建築作家の時代』(リブロート)所収など

*[vi]  八九 一「特集 ポスト・ポストモダニズム」

*[vii]  「磯崎新論・・引用と暗喩ラディカル・エクレクティシズムの行方」『近代思想』、七八 一二月など)

*[viii]  「建築批判・・「大文字の建築」とはなにか」『思潮』No.





2024年4月2日火曜日

記念碑かそれとも墓碑かあるいは転換の予兆か,建築文化,彰国社,198605

記念碑か、それとも墓碑か、あるいは転換の予兆か

 

 今日(四月七日)、東京都が新宿西口の超高層ビル街(新宿新都心一四五号地)に建設予定の新都庁舎設計競技の最終審査結果が公表された。大方の予想どおり、丹下健三案の入選である。今、眼の前に九案それぞれの説明書が積まれている。膨大な量である。指名コンペであり、審査も非公開であったため、この間の経緯は一般には計り知れなかったのであるが、また早々と丹下本命説、出来レース(疑似コンペ)のうわさが流れ、建築界一般の関心は低かったといっていいのであるが、指名各社(者)によって、それぞれの作品にすさまじいエネルギーが投入されたこと、今回のコンペが実に熱気を孕んだものであったことを、眼の前の資料は物語っている。残念ながら、この膨大な資料に丹念に眼を通す時間がない。また、この間の経緯について、マスコミを通じた情報以上のものをもっているわけではないのであるが、求められるままに、ここでは今回のコンペが孕む問題について、あるいはその印象について、走り書きしてみようと思う。

 今回のコンペがいささかスキャンダラスなのは、入選者である丹下健三が、コンペの実施のはるか以前から、この新庁舎の建設のプログラムに深くコミットしてきたということが背景にある。丹下自身の言によれば、「二〇年来の野心」ということになるのであるが、さかのぼれば、現在の東京都庁舎の設計のときからそのかかわりは深い。また、決定的なのは、現知事との関係である。選挙参謀(確認団体の責任者)を努めたことが示すように、その昵懇の間柄は周知の事実である。公正なコンペ実施が危惧されたは、故ないことではない。審査員の一人である菊竹清訓によってその危惧が表明され、むしろ特命のほうがすっきりするといった指摘がなされたのは、建築界一般の空気を反映したものであったといよう。取り壊しが予定される戦後建築の傑作東京都庁舎の設計者でもあり、数々の名作を残してきた日本の近代建築のチャンピオンである丹下健三に、その集大成として記念碑的作品を期待するとしても表向きそう異論は出なかったかもしれない。

 指名コンペとなったのは、東京都の設計者選定制度に基づけば筋であろう。しかし、それにしても、わずか三ヵ月余りでこの大プロジェクトをまとめるうえで、丹下健三があらかじめ大きなプラス・ハンデを与えられていたことは否めない。もし、公平さを本当に期すとすれば、むしろ丹下は指名から外れ、審査員に回ったほうがすっきりすることはいうまでもないことである。いかに公正に審査が行われようとも、丹下当選の場合、出来レースの疑いが消えないのは仕方のないことである。「大方の予想」の根拠は、以上のようなものであろう。丹下健三にとっては、勝っても、負けても、痛くない(?)腹をさぐられる、またその力量を問われる、これまでにない厳しいコンペであった。歴史的な判断を下す審査員も、同様である。

 しかし、今回のコンペの孕む問題は、必ずしもそうした次元にあるわけではない。新都庁舎は自治体のシティ・ホールとしては、世界最大級の規模である。競技要項が「世界に冠たる大都市東京のシティ・ホール」をうたい上げるように、それは大東京の貌ともなり、ひいては日本の貌ともなる。設計者は誰であれ、東京の貌として、また日本という国家の貌として、どのような表現がありうるのかこそが問われているのである。東京都民にとっては、このプロジェクトは淀橋浄水場の跡地計画としての新宿新都心計画の総仕上げのプロジェクトであり、それと同時に、少なくともこれからの半世紀は東京の中心であり続ける新都心の形が決定される大きなプロジェクトである。この都心の移動は、東京という都市にとって大きな歴史的な意味をもつはずである。問われているのは、大都市東京のこれからを方向づける中心のイメージなのである。

 そうした一般の関心とともに問われているのは、これからの日本の建築のあり方である。殊に、丹下健三と共に指名を受けた磯崎新の参加によって、否が応でもそうした関心は掻きたてられる。

 「ポスト・モダニズムに出口はない」と言い放って近代建築家としての姿勢を矜持する丹下健三と、ラディカルに近代建築批判を展開し、ポストモダン建築のイデオローグでもある磯崎新の対決は、単なる野次馬的興味にとどまらない。また、すでに超高層を手掛け新宿新都心に形を与えてきたことにおいて、およそその作品の方向は予想されるとはい、単なるオフィス・ビルではなく東京の貌としてのシティ・ホールという課題に対して、大手設計事務所各社がどのような解答を与えるかも、今後の日本の建築の方向性を占ううえで興味深いはずである。近代建築の記念碑なのか、あるいは、その墓碑なのか。折しも、今年は建築学会創立一〇〇周年である。日本の近代建築の歩みを振り返るそうした年でもある。モダンかポストモダンかという形での単純な議論は問題となりえないにせよ、この間の建築のポストモダンをめぐる議論が審査の背景となるはずであり、いずれにせよ、結果はそうした議論へと投げ返されることになるであろう。少なくとも私にとって、今回の東京都新都庁舎のコンペめぐる問いと興味はおよそ以上のようなものであった。結果はどうか。議論はまさに今、始まろうとしているのである。

 いくつか思いつくことを記してみよう。予想どおり提示された九つの作品の間には、多くの争点があった。その最大の争点を仕掛けたのは、これまた予想どおり磯崎新であったようである。その設計概要の冒頭、基本理念はいきなりこうきり出されている。「超高層は採用しない。網目状格子となったスーパーブロックの新しい建築型に基づく。これが私たちの結論的な提案である」と。実に挑発的である。しかし、決して奇を衒ったり、斜めに構えたり、アイロニカルな提案なのではない。堂々と真っ向からの挑戦である。超高層ではなく、むしろ、それを横に寝かし、低く(二三階)押さえた提案をめぐって、その作品自体の検討以前に、審査委員会において激しい議論が展開されたであろうことは想像に難くないところである。磯崎案は、コンペの“暗黙の前提”を根本的に問いただしているからである。

 超高層を否定する磯崎案の論拠は、大きく二つある。一つは、東京都の行政組織あるいは業務形態を分析した結果、それが一元的な樹状構造ではなく、リゾーム状の「錯綜体」構造をなしており、超高層という形態に決定的になじまないという論拠である。もう一つは、シティ・ホールのもつ公共性、倫理性から、各財閥がその覇を競うかのような高さ競争に参画すること(磯崎の言葉によれば、「商業活動に基づく高さ競争をひきおこしている超高層に仲間入りすること」)は問題であり、むしろ、シティ・ホールの概念の根源的な解釈に立ち返るべきであるという論拠である。磯崎は超高層は「東京都民の感情的反発を買うことになろう」というブラフ(?)もかけている。

 こうした超高層を否定するある意味では素朴な主張は、まずはそれこそ素朴に議論されていいはずである。一号地のアトリウムを低く押さえ、周辺環境との調和に配慮を示した日本設計案も、素朴に高さの問題を提示している。ヒューマンスケールを超え、人工環境化した超高層にどう自然を取り込むか、それをどうヒューマナイズするかは、それを全面的にテーマとした日本設計に限らず、一つの大きなテーマであったといえるであろう。

 行政組織の問題についても、そもそも移転の大きな理由の一つが現都庁舎が分散していることにあった以上、行政機能をどう集約化するかはあらかじめ一つの争点であったといっていい。磯崎案とは全く対照的に、参考案であるが超高層一棟案を示した日建設計案も、そうした争点を提示するものである。

 しかし、超高層が否かという提起は、具体的にはコンペの前提条件である現実の法・制度そのものを問わざるをえない。磯崎案がラディカルに問いかけているのは、超高層を前提とした法・制度そのものであり、結局、敗因となったのも法・制度へのささやかな(と見える)違いである。問題は、新宿新都心特定街区における建築協定である。無論、磯崎案もそれを無視したわけではない。むしろ、それを前提としたうえで、新しい建築型を提示しようとしたのであった。首都の都心という特殊解であるが故に、それを都市建築の一般的なあり方として提示することは議論があろう。しかし、結果的に磯崎案が否定されたのは、公道使用といった違反犯のレヴェルではなく、新宿新都心計画そのものを全体的に否定する契機を、その提案が含んでいるからである。

 それとは全く別の位相で、やはり建築協定は大きな問題であった。もともと都の所有地であり、三敷地を一体化して使用できる条件があったとすれば、各案は全く異なったものとなったはずである。ことに、公開空地の設定による容積率のやりとりが現実のものとなりつつあるだけに(それ自体は大きな問題を孕んでいるといわねばならない)、単純な現行制度の適用による判断は、特にコンペの場合常に問題となるにせよ、一つの問題である。環境全体をグローバルにとらえたうえでの、前向きの判断があってしかるべきである。そうした意味では、奇しくも一致して五号地を、将来への対応を含めて空地として残した日本設計、日建設計の両案は、その背後にどのような思惑があるにせよ注目されていいであろう。

 審査報告書から察するに、上記二つの案は議論を生んだものの、最終段階ではあらかじめ省かれたようである。超高層はやはり前提であった。すでに林立する超高層群と、そう異和のない素直な山下設計案が丹下案の対抗として選ばれていることが、それを示している。だとすれば、決め手となるのは何か。配置計画など全体構成をめぐって細かな議論はあろう。しかし、最終的には「象徴性」である。

 競技要綱も真っ先にいうのであるが、丹下健三も東京都シティ・ホールの設計に当たり、冒頭にそっくりそのまま「二一世紀に向けて発展する東京の自治と文化のシンボルとなり、国際都市東京のシンボルとなるものであることを目標にしてまいりました」と繰り返している。「外に表現された象徴性に偏重することを避け、むしろ内に向けた空間性を重視している」と評された磯崎案は、ここでも丹下案に対するアンチテーゼとなっている。

 しかし、問題はここからである。なぜ、丹下健三は、無意識にであれ、意識的にであれ、明らかにゴシック建築の様式を思わせる表現を選び取ったのか。高さを競い合ったゴシック建築と超高層を、単純に重ね合わせたというわけではあるまい。歴史的な様式を直接参照する意識があったとは思えない。しかし、すぐさま「まるでノートルダム寺院のよう」と一般に許されたことが示すように、その「象徴性」がゴシック建築の権威の象徴性と結びつけられることは、予想されたはずである。

 明らかに丹下健三は、その方向性を転換させたといっていい。丹下自身は、その転換を「工業化社会から情報化社会への移行」に伴うものとして意識するのであるが、ここで示された位相は、建築のポストモダニズムが主張する「象徴性の回復」の位相とそう隔たってはいない。「内外からの単調さを避けて、横尾の窓、縦長の窓、あるいは格子窓などを内部機能に応じて用いることによって、江戸以来の東京の伝統的な形を想起させる」という手法と意識は、明らかにそうである。少なくとも、かつての伝統論の位相とは違う。また、「構造表現主義」的作品のシンボリズムの位相とも異なっていよう。同じように、「象徴性」を十分に意識し、エレベーター・シャフトをシンメトリーに配して、都市の門としてのシンボル性を強調した坂倉案と比較してみると、その位相の差異ははっきりしはしないか。

 日本の建築は、その歴史を大きく変える、そうした予感がこの丹下案にはある。いずれにせよ、議論はこれからである。歴史に残る議論であるだけに、それをしっかりと記録しておくことには大きな意味があるはずである。