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2024年4月2日火曜日

記念碑かそれとも墓碑かあるいは転換の予兆か,建築文化,彰国社,198605

記念碑か、それとも墓碑か、あるいは転換の予兆か

 

 今日(四月七日)、東京都が新宿西口の超高層ビル街(新宿新都心一四五号地)に建設予定の新都庁舎設計競技の最終審査結果が公表された。大方の予想どおり、丹下健三案の入選である。今、眼の前に九案それぞれの説明書が積まれている。膨大な量である。指名コンペであり、審査も非公開であったため、この間の経緯は一般には計り知れなかったのであるが、また早々と丹下本命説、出来レース(疑似コンペ)のうわさが流れ、建築界一般の関心は低かったといっていいのであるが、指名各社(者)によって、それぞれの作品にすさまじいエネルギーが投入されたこと、今回のコンペが実に熱気を孕んだものであったことを、眼の前の資料は物語っている。残念ながら、この膨大な資料に丹念に眼を通す時間がない。また、この間の経緯について、マスコミを通じた情報以上のものをもっているわけではないのであるが、求められるままに、ここでは今回のコンペが孕む問題について、あるいはその印象について、走り書きしてみようと思う。

 今回のコンペがいささかスキャンダラスなのは、入選者である丹下健三が、コンペの実施のはるか以前から、この新庁舎の建設のプログラムに深くコミットしてきたということが背景にある。丹下自身の言によれば、「二〇年来の野心」ということになるのであるが、さかのぼれば、現在の東京都庁舎の設計のときからそのかかわりは深い。また、決定的なのは、現知事との関係である。選挙参謀(確認団体の責任者)を努めたことが示すように、その昵懇の間柄は周知の事実である。公正なコンペ実施が危惧されたは、故ないことではない。審査員の一人である菊竹清訓によってその危惧が表明され、むしろ特命のほうがすっきりするといった指摘がなされたのは、建築界一般の空気を反映したものであったといよう。取り壊しが予定される戦後建築の傑作東京都庁舎の設計者でもあり、数々の名作を残してきた日本の近代建築のチャンピオンである丹下健三に、その集大成として記念碑的作品を期待するとしても表向きそう異論は出なかったかもしれない。

 指名コンペとなったのは、東京都の設計者選定制度に基づけば筋であろう。しかし、それにしても、わずか三ヵ月余りでこの大プロジェクトをまとめるうえで、丹下健三があらかじめ大きなプラス・ハンデを与えられていたことは否めない。もし、公平さを本当に期すとすれば、むしろ丹下は指名から外れ、審査員に回ったほうがすっきりすることはいうまでもないことである。いかに公正に審査が行われようとも、丹下当選の場合、出来レースの疑いが消えないのは仕方のないことである。「大方の予想」の根拠は、以上のようなものであろう。丹下健三にとっては、勝っても、負けても、痛くない(?)腹をさぐられる、またその力量を問われる、これまでにない厳しいコンペであった。歴史的な判断を下す審査員も、同様である。

 しかし、今回のコンペの孕む問題は、必ずしもそうした次元にあるわけではない。新都庁舎は自治体のシティ・ホールとしては、世界最大級の規模である。競技要項が「世界に冠たる大都市東京のシティ・ホール」をうたい上げるように、それは大東京の貌ともなり、ひいては日本の貌ともなる。設計者は誰であれ、東京の貌として、また日本という国家の貌として、どのような表現がありうるのかこそが問われているのである。東京都民にとっては、このプロジェクトは淀橋浄水場の跡地計画としての新宿新都心計画の総仕上げのプロジェクトであり、それと同時に、少なくともこれからの半世紀は東京の中心であり続ける新都心の形が決定される大きなプロジェクトである。この都心の移動は、東京という都市にとって大きな歴史的な意味をもつはずである。問われているのは、大都市東京のこれからを方向づける中心のイメージなのである。

 そうした一般の関心とともに問われているのは、これからの日本の建築のあり方である。殊に、丹下健三と共に指名を受けた磯崎新の参加によって、否が応でもそうした関心は掻きたてられる。

 「ポスト・モダニズムに出口はない」と言い放って近代建築家としての姿勢を矜持する丹下健三と、ラディカルに近代建築批判を展開し、ポストモダン建築のイデオローグでもある磯崎新の対決は、単なる野次馬的興味にとどまらない。また、すでに超高層を手掛け新宿新都心に形を与えてきたことにおいて、およそその作品の方向は予想されるとはい、単なるオフィス・ビルではなく東京の貌としてのシティ・ホールという課題に対して、大手設計事務所各社がどのような解答を与えるかも、今後の日本の建築の方向性を占ううえで興味深いはずである。近代建築の記念碑なのか、あるいは、その墓碑なのか。折しも、今年は建築学会創立一〇〇周年である。日本の近代建築の歩みを振り返るそうした年でもある。モダンかポストモダンかという形での単純な議論は問題となりえないにせよ、この間の建築のポストモダンをめぐる議論が審査の背景となるはずであり、いずれにせよ、結果はそうした議論へと投げ返されることになるであろう。少なくとも私にとって、今回の東京都新都庁舎のコンペめぐる問いと興味はおよそ以上のようなものであった。結果はどうか。議論はまさに今、始まろうとしているのである。

 いくつか思いつくことを記してみよう。予想どおり提示された九つの作品の間には、多くの争点があった。その最大の争点を仕掛けたのは、これまた予想どおり磯崎新であったようである。その設計概要の冒頭、基本理念はいきなりこうきり出されている。「超高層は採用しない。網目状格子となったスーパーブロックの新しい建築型に基づく。これが私たちの結論的な提案である」と。実に挑発的である。しかし、決して奇を衒ったり、斜めに構えたり、アイロニカルな提案なのではない。堂々と真っ向からの挑戦である。超高層ではなく、むしろ、それを横に寝かし、低く(二三階)押さえた提案をめぐって、その作品自体の検討以前に、審査委員会において激しい議論が展開されたであろうことは想像に難くないところである。磯崎案は、コンペの“暗黙の前提”を根本的に問いただしているからである。

 超高層を否定する磯崎案の論拠は、大きく二つある。一つは、東京都の行政組織あるいは業務形態を分析した結果、それが一元的な樹状構造ではなく、リゾーム状の「錯綜体」構造をなしており、超高層という形態に決定的になじまないという論拠である。もう一つは、シティ・ホールのもつ公共性、倫理性から、各財閥がその覇を競うかのような高さ競争に参画すること(磯崎の言葉によれば、「商業活動に基づく高さ競争をひきおこしている超高層に仲間入りすること」)は問題であり、むしろ、シティ・ホールの概念の根源的な解釈に立ち返るべきであるという論拠である。磯崎は超高層は「東京都民の感情的反発を買うことになろう」というブラフ(?)もかけている。

 こうした超高層を否定するある意味では素朴な主張は、まずはそれこそ素朴に議論されていいはずである。一号地のアトリウムを低く押さえ、周辺環境との調和に配慮を示した日本設計案も、素朴に高さの問題を提示している。ヒューマンスケールを超え、人工環境化した超高層にどう自然を取り込むか、それをどうヒューマナイズするかは、それを全面的にテーマとした日本設計に限らず、一つの大きなテーマであったといえるであろう。

 行政組織の問題についても、そもそも移転の大きな理由の一つが現都庁舎が分散していることにあった以上、行政機能をどう集約化するかはあらかじめ一つの争点であったといっていい。磯崎案とは全く対照的に、参考案であるが超高層一棟案を示した日建設計案も、そうした争点を提示するものである。

 しかし、超高層が否かという提起は、具体的にはコンペの前提条件である現実の法・制度そのものを問わざるをえない。磯崎案がラディカルに問いかけているのは、超高層を前提とした法・制度そのものであり、結局、敗因となったのも法・制度へのささやかな(と見える)違いである。問題は、新宿新都心特定街区における建築協定である。無論、磯崎案もそれを無視したわけではない。むしろ、それを前提としたうえで、新しい建築型を提示しようとしたのであった。首都の都心という特殊解であるが故に、それを都市建築の一般的なあり方として提示することは議論があろう。しかし、結果的に磯崎案が否定されたのは、公道使用といった違反犯のレヴェルではなく、新宿新都心計画そのものを全体的に否定する契機を、その提案が含んでいるからである。

 それとは全く別の位相で、やはり建築協定は大きな問題であった。もともと都の所有地であり、三敷地を一体化して使用できる条件があったとすれば、各案は全く異なったものとなったはずである。ことに、公開空地の設定による容積率のやりとりが現実のものとなりつつあるだけに(それ自体は大きな問題を孕んでいるといわねばならない)、単純な現行制度の適用による判断は、特にコンペの場合常に問題となるにせよ、一つの問題である。環境全体をグローバルにとらえたうえでの、前向きの判断があってしかるべきである。そうした意味では、奇しくも一致して五号地を、将来への対応を含めて空地として残した日本設計、日建設計の両案は、その背後にどのような思惑があるにせよ注目されていいであろう。

 審査報告書から察するに、上記二つの案は議論を生んだものの、最終段階ではあらかじめ省かれたようである。超高層はやはり前提であった。すでに林立する超高層群と、そう異和のない素直な山下設計案が丹下案の対抗として選ばれていることが、それを示している。だとすれば、決め手となるのは何か。配置計画など全体構成をめぐって細かな議論はあろう。しかし、最終的には「象徴性」である。

 競技要綱も真っ先にいうのであるが、丹下健三も東京都シティ・ホールの設計に当たり、冒頭にそっくりそのまま「二一世紀に向けて発展する東京の自治と文化のシンボルとなり、国際都市東京のシンボルとなるものであることを目標にしてまいりました」と繰り返している。「外に表現された象徴性に偏重することを避け、むしろ内に向けた空間性を重視している」と評された磯崎案は、ここでも丹下案に対するアンチテーゼとなっている。

 しかし、問題はここからである。なぜ、丹下健三は、無意識にであれ、意識的にであれ、明らかにゴシック建築の様式を思わせる表現を選び取ったのか。高さを競い合ったゴシック建築と超高層を、単純に重ね合わせたというわけではあるまい。歴史的な様式を直接参照する意識があったとは思えない。しかし、すぐさま「まるでノートルダム寺院のよう」と一般に許されたことが示すように、その「象徴性」がゴシック建築の権威の象徴性と結びつけられることは、予想されたはずである。

 明らかに丹下健三は、その方向性を転換させたといっていい。丹下自身は、その転換を「工業化社会から情報化社会への移行」に伴うものとして意識するのであるが、ここで示された位相は、建築のポストモダニズムが主張する「象徴性の回復」の位相とそう隔たってはいない。「内外からの単調さを避けて、横尾の窓、縦長の窓、あるいは格子窓などを内部機能に応じて用いることによって、江戸以来の東京の伝統的な形を想起させる」という手法と意識は、明らかにそうである。少なくとも、かつての伝統論の位相とは違う。また、「構造表現主義」的作品のシンボリズムの位相とも異なっていよう。同じように、「象徴性」を十分に意識し、エレベーター・シャフトをシンメトリーに配して、都市の門としてのシンボル性を強調した坂倉案と比較してみると、その位相の差異ははっきりしはしないか。

 日本の建築は、その歴史を大きく変える、そうした予感がこの丹下案にはある。いずれにせよ、議論はこれからである。歴史に残る議論であるだけに、それをしっかりと記録しておくことには大きな意味があるはずである。