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2025年7月30日水曜日

監修:岡本慶一 執筆:林和久 日建設計広報室『日建設計 115年の生命誌』2015年6月1日:布野修司 | 2016/01/25 | 書評, 『建築討論』007号:2016年春(1月ー3月)

 書籍紹介『進化する都市 都市計画運動と市政学への入門』(パトリック・ゲデス著 西村一郎訳 鹿島出版会)/太田邦夫 『木のヨーロッパ/建築まち歩きの事典』(彰国社 20151110)/陣内秀信『イタリア都市の空間人類学』(弦書房 20151015日)/鈴木哲也・高瀬桃子『学術書を書く』京都大学学術出版会 2015925日/隈研吾『オノマトペ建築』XKnowledge 2015918日/アルキテクト編『好きなことはやらずにはいられない 吉阪隆正との対話』 建築技術 201595日/中村敏男『日記のなかの建築家たち』編集出版組織体アセテート 2015820日/監修:岡本慶一 執筆:林和久 日建設計広報室『日建設計 115年の生命誌』201561布野修司 | 2016/01/25 | 書評『建築討論』007号:2016年春(13月)

http://touron.aij.or.jp/2016/01/102

『建築討論』007号 201611日刊行

  

◎書籍紹介

20150601

監修:岡本慶一 執筆:林和久

『日建設計 115年の生命誌』

日建設計広報室

 

 日建設計の起源は、1900年、技師長・野口孫一31歳、日高胖25歳を中心に26名の建築技術者が招集されて発足した住友本店臨時建築部に遡る。今日の日建設計が発足するのは1970年、その前身である日建設計工務が設立されたのは1950年であるが、創業115年、戦後70年を意識した出版である。野口孫一没後100年でもある。

執筆は、林和之日建設計・顧問、監修を岡本慶一会長が務めるとは言え、社史を一人が執筆するのは珍しい。

 全体は、|1章|明治に始まる近代日本の歩みとともに、|2章|「ゼロ地点」からの再出発、|3章|現代の「価値」をつくる、|4章|「日本」と「世界」、楕円形の二つの焦点のように、の4章からなる。創業以降~昭和戦前期、敗戦~1990年、19902010年、2010年~がおよその時代区分とされている。

住友家須磨別邸(1903)、大阪図書館(1904)以降、戦前期については、他に住友銀行東京支店(1917)、住友ビルディング(1926,1930)、大阪株式取引所(1935)、日本生命保険本店本館(1939)など時代を画する建築作品が順に取り上げられている。戦後は、広島県庁舎(1956)、パレスサイドビル(1966)、中野サンプラザ(1973)、NSビル(1982)、日本電気本社ビル(1990)・・・と続く。日本建築の歴史が浮彫になるかのようである。そして、3章、4章は、そのプロジェクトの多彩な展開が披露されている。S.F.




2025年7月29日火曜日

中村敏男『日記のなかの建築家たち』編集出版組織体アセテート 2015年8月20日:布野修司 | 2016/01/25 | 書評, 『建築討論』007号:2016年春(1月ー3月)

 書籍紹介『進化する都市 都市計画運動と市政学への入門』(パトリック・ゲデス著 西村一郎訳 鹿島出版会)/太田邦夫 『木のヨーロッパ/建築まち歩きの事典』(彰国社 20151110)/陣内秀信『イタリア都市の空間人類学』(弦書房 20151015日)/鈴木哲也・高瀬桃子『学術書を書く』京都大学学術出版会 2015925日/隈研吾『オノマトペ建築』XKnowledge 2015918日/アルキテクト編『好きなことはやらずにはいられない 吉阪隆正との対話』 建築技術 201595日/中村敏男『日記のなかの建築家たち』編集出版組織体アセテート 2015820日/監修:岡本慶一 執筆:林和久 日建設計広報室『日建設計 115年の生命誌』201561布野修司 | 2016/01/25 | 書評『建築討論』007号:2016年春(13月)『建築討論』007号 201611日刊行

  http://touron.aij.or.jp/2016/01/129

◎書籍紹介

中村敏男

『日記のなかの建築家たち』acetate022

編集出版組織体アセテート


 

 建築雑誌『a+u』の編集長の回顧録。20101月号から2年間『建築雑誌』で連載したものを、『日記』(19532015)をもとに検証、大幅な補筆を行ったもの。最後の25は、韓国人建築家、金壽根、金重業の二人との交流の思い出が書き下しで追加されている。

目次は、1 『近代建築』の頃、2 鹿島出版会の頃、3 a+u』の誕生、4 磯崎特集とカーン特集、5 ニューヨーク・ファイヴ、6 “インスティテュートIAUS)、7 ホワイト・アンド・グレイ、8 a+u』の写真家たち、9 ガラスの家、10 グロピウス邸からシンドラー邸へ、11 アンビルト・アーキテクトたち、12 ロサンゼルスの建築家たち、13 アルフレッド・ロート教授とチューリッヒ 114 アルフレッド・ロート教授とチューリッヒ 215 アルド・ロッシのこと、16 ミラノ・コモ・アスコナ、17 すべての建築がホラインである、18 ウィーンで会った建築家たち、19 ル・コルビュジエをめぐる人々、20 ロンドンの建築家たち、21 アムステルダムの建築家たち、22 ドイツ日記 1 ─ マンフレッド・シュパイデルのこと、23 ドイツ日記 2 ─「近代建築」をたずねて、24 プリツカー建築賞の人々、25 忘れえぬ人々、二人の韓国人建築家、である。

戦後建築ジャーナリズムの貴重な記録。巻末には、500名に及ぶ人物注が丁寧に付されている。S.F.

 

著者:中村敏男(1931年東京・王子生~)。建築ジャーナリスト。早稲田大学第一理工学部建築学科中途退学。『近代建築』編集部を経て鹿島出版会編集部。1969 年、『a+u』創刊。1995 年まで25 年間、取締役、編集長を務める。訳書に、ケネス・フランプトン『現代建築史』(2003)、アンソニー・ヴィドラー『歪んだ建築空間』(2006)、ピーター・ブランデル・ジョーンズ『モダニズム建築』(2006)他。編著に『Glass House』(2007)。

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2025年7月28日月曜日

日本建築の亡びるとき,対談:布野修司・宇野 求,建築討論002,日本建築学会,201409

日本建築の亡びるとき,対談:布野修司・宇野 求,建築討論002,日本建築学会,201409https://www.aij.or.jp/jpn/touron/2gou/jihyou003.html 


建築討論委員会 建築時評003 20140509

日本建築の亡びるとき

対談

布野修司(滋賀県立大学・建築討論委員会委員長)

宇野求(東京理科大学・建築討論委員会幹事)





布野:ようやく創刊号を立ち上げることが出来ました。いよいよ、出発ですね。2週間で1800ぐらいのアクセスがあったようです。

 ところが、今日は委員の皆さんが出席できないということで、宇野先生と対談ということになります。皆さんが売れっ子で忙しくてなかなか時間が取れなくなっているということはうれしいですが、もう少し、委員を若手に拡大しないと、活性化しないかもしれませんね。

宇野:委員会は、隔月開催です。委員の皆さんは、もっとも多忙な建築家や大学人で八面六臂の活躍をしているなかで、このメディアを立ち上げています。メンバー構成として充分アピール力はありますが、もう少し若手建築家や大学人に浸透していくといいなと思いますね。こうして記録がアーカイブとして残されるのは活動として大いに意味があることで、皆さんから認めて頂いているわけですし。1990年代までは、建築メディア上に活発に議論する場があったわけですが、建築や建築を巡る議論、あるいは意見を交わすそうした場の雰囲気というか意義について、そういう経験の薄い現在の若い世代の人たちはピンと来ない面があるかも知れません。その面白さと大切さを分かってもらうように努力しましょう。

布野:次回は、是非若い人たちにも声をかけましょう。建築会館の「建築書店」も30人ぐらい集まれるらしいから、「建築書店」で定例化するのもいいかもしれない。

 


夢と現実-香月真大君への期待

布野:始めましょうか?といっても、今回は007008、同じ設計者ですね。香月真大さですが、実は、Facebookで知っていて、会ったことないですが、活発に情報発信している若い建築家ですね。Facebookで建築討論委員会のことを紹介しますが、まだ応募が少ない、と書いたら、出します!と応答してくれました。どうも、石山修武さんの研究室の出身らしいですよ。弟子として認められているのか、破門?されたのかは知りませんけど(笑)。石山研究室からは随分ユニークな人材が育っていますね。僕が知っているだけでも、森川嘉一郎、馬場正尊、芦澤竜一、坂口恭平と多士済々です。

宇野:一見すると、同じ設計者の応募作品には見えません。石山さんの研究室の出身と聞くとちょっと納得いくところもあります。しかし、それはそれとして、007では、サルバドール・ダリの「建築は柔らかくて毛深いものになるだろう」という言葉を引いて、自作を説明しています。コンセプチャルにアプローチしているわけです。タイトルは、「柔らかい石」ですから、硬さと柔らかさ、抽象と具象、・・・相対するもの、相矛盾する事物の混交といったイメージでアプローチしているのですが、つくっているものはある種のシステムのように見えます。設計者なりの「幻庵」を目指しているのかもしれない。

布野:これは遊具でしょう。

宇野:遊具です。遊具ですが、これがどういう効果を及ぼすのか、僕にはちょっと分かりません。

布野:幼稚園に付属する展望台+遊具ということですね。1800モデュールの3600のキューブが傾いていて、中は三層、トラスで組まれている、「反住器」(毛綱モン太)までとは言わないけれど、面白そうな入れ子の空間構造を考えていますよね。ただ、木造と鉄骨とアクリルというけど大丈夫かなあ。

宇野:仙田(満)さんの初期の傑作の遊具を思い出します。メビウスという名前の遊具があって、とにかく本当に子供が喜びそうな遊具です。説明を要しない。だけど、この007の遊具で子供が楽しめるかどうかちょっと疑問な感じがします。着想が、観念的すぎるような気がします。

 二つ目(008)は、建売住宅です。これも言葉にひかれます。「ショートケーキ」という言葉に。石山さんが以前言っていた「ショートケーキハウス」は、多少デコラティブにおしゃれをした建売住宅をそう呼んで、建築批評的に扱ったということでした、ファンタジーを建築化することで、お弟子さんとしては感化されたかもしれないけど、ちょっと見ただけでは、普通の工務店さんがやるミニ開発とどこが違うかわからない。

布野:石山さんが「ショートケーキハウス」というのは、宇野さんが言うような意味であって、商品としての住宅を揶揄するニュアンスがあったけど、この香月さんは「ショートケーキのように切売りする住宅」というから、ちょっと違うんじゃないの、と言いたくなる。007の説明文には、「無力さを感じて何も出来ないと思って行動を起こしていない建築家は多い。だけど僕らがすべきことは復興に向けて提案し続けることではないだろうか?」と書いているから、建築することに対して随分意欲満々なことはわかるけど、ここでは何を仕掛けているんだろう?アイロニーなのかもしれないけれど、随分自虐的な気がしないでもない。

宇野:やるのであれば、批評性が欲しいところです。

布野:若い人が自立して設計を始める場合、身近なのは住宅ですよね。今や著名な大建築家になった建築家でもみんな最初はローコストハウスを如何に実現するかについて格闘してきた。ただ、1250万円で、全ての部材部品を標準化し・・・・、というだけじゃなくて、何か提案つまり全体としての表現が欲しい。

宇野:新しさを表現することがむずかしい。先輩たちがもう繰り返しやってきちゃったから、施工もノウハウを蓄え鍛えてきているし。

布野:デザイナーズ・ブランドの住宅もあれば、無印住宅」っていうのがある。

宇野:小さな家を建てて住む、というのは、日本の文化的伝統にもあるし、政府の持家政策がそう仕向けてきたという実状と、そこに課題もあります。しかし、そうした小さな夢を繰り返し再生産し続けていいのか、と思いますね。国交省は「100年住宅」とか「200年住宅」とか言い出したりはしてきましたが、それは持家-貸家問題、建材・ストック・廃材の同期問題だととらえるのが本質的でしょう。木造建築・木質建築についていえば、山林の手入れ、木材生産と木質建築の生産・ストック・廃棄の同期問題に帰着します。フローはフローできれいに流れるのが適切で、ストックはストックで長く使うというのだから、しっかりと計画設計施工運営をはかっていけばいい。

布野:石山さんが師匠だとすれば、住宅生産のあり方への提起も期待したいですね。僕は、木造住宅はスクラップ・アンド・ビルドでいい、と思っています。「200年住宅」というのは建築家の首を絞めると思うし、低炭素社会を本気で考えるのであれば、木を植えて消費する必要がある。ただ、戸建で高齢者が一人で住むのは余りにもエネルギー・ロスが大きい。木造のコレクティブハウスなり、複合施設のプロトタイプをつくる必要がある。とにかく、香月さんは、最前線にいるわけだから、そこから何ができるか見せて欲しいですね。

宇野:そうですね。

布野:是非二つの仕事を自分の中でつなげて欲しい。こっちは夢、こっちは仕事というように見えてしまう。

宇野:夢は夢で追って、現実には現実的に、っていうスタンスは、あまり感心できませんよね。両方が一致するところをねらって、頑張ってもらいたいと思います。

建築メディアの役割-『作品選集』と『建築討論』

布野:応募作品については以上ですが、あとは対談ということになります。どうしましょう。宇野さんと対談するのは初めてのような気がしますが、勝手にしゃべればいいというわけにはいかないので、まずは、宇野さんが前回提案されていたように、2014 作品選集』を覗いてみましょうか?学会賞(作品賞)も発表されて、この建築討論委員会の委員である山梨智彦さんが受賞されました(http://www.aij.or.jp/2014/2014prize.html#p3a)。学会賞委員会、作品選集委員会があるわけですから、個々の作品がどうこうというのではなくて、メタ・レヴェルの視点、最近の作品の傾向とか、作品選定の仕組みとか、メディアの役割とかを考えてみたらと思います。宇野さんは建築選集、建築選奨、両方の審査選考委員会の委員長として、『作品選集』201220132年間責任者として苦労されたわけですが、感じられていることはありませんか。討論委員会からは伊藤香織さんが委員として参加されていますが、選考の所感などざっと読ませていいただくと、『作品選集』がどんな価値をもつのかを議論してみてもいい、といったことを書いている委員もいらっしゃる。1年で100作品ですか。年間数え切れないぐらいの建造物が立つ中で100を選定するわけですよね。その評価のフレームというのは一体何か、ということですね。建築討論委員会に応募される作品はどういう位置づけになっていくのかということにも関係してくると思います。応募作品004は、2014 建築選集』にも選定されていますね。

宇野:『2014 作品選集』をざっと見て、水準は非常に高いと思います。また、この書籍の場合、英文テキストが載せてあることが重要です。

布野:最初の立ち上げは栗原嘉一郎先生(当時筑波大学)だそうです。建築計画委員会から『作品選集』のようなメディアが必要だという提起があったのがきっかけだと思います。

宇野:最初は、英文はなかった。25年、四半世紀継続してきたことが、とても大切なこと重要でしょう。10年で1000件の選抜された建築作品がアーカイブされたことになります。クオリティは高いし、規模も用途もヴァラエティがある。近年、アジアの都市が台頭してきて、そこでも多様な建築が建造されてきましたが、『作品選集』に掲載された建築の方が、製造物としての仕上がりの質は高いでしょう。

 アジアでは、ものすごい量の建設活動が行なわれて、コンピュテーションの普及もあって、見えがかりのデザインの水準は上がってきている。しかし、たとえば、南方だとモンスーン気候で、日射も強く激しい風雨にさらされるので、建築には厳しい気候だといえるし、高層建築のエレベータなど機械設備のメンテナンスの問題もある。近代建築を支える技術の移転継承などについても、『作品選集』は、日本の建築情報を俯瞰収集するのに重宝がられているのではないかと思います。長い間、アジアの国々の建築界では、欧米のArchitectural Recordhttp://archrecord.construction.com/)とかArchitects Journalhttp://www.architectsjournal.co.uk/)、Progressive Architectureなどの影響力が大きかったのだろうと思いますが、最近では、そうですね、ヨーロッパが統合して以降は、スペインのEl Croquishttp://www.elcroquis.es/Shop)とか、オランダの『MARK(http://www.frameweb.com/magazines/mark)などが影響力をもってきた。イタリアのCasabellahttp://casabellaweb.eu/)や『Domus    http://www.domusweb.it/it/home.html)などの古参メディアも、そろって英語を添えたweb版を出し始め、もちなおしてきている。他方、アジアの建築メディアは、シンガポール、香港、韓国、中国で立ち上がってきましたが、独自の建築文化都市文化を掘り下げるとことまでは、まだいっていません。そうしたなかで、日本の100選が継続的に記録されているこの媒体は、ユニークさとレゾンデートルを獲得できるのではないかと思います。

 付け加えますと、『建築選集』の選考の過程には、全国的に多数の建築家、技術者、建築学研究者が参加しています。数百万円もの予算を投じ、多数の専門家がたいへんなエネルギーをかけて選考が行われています。何重にも書類選考を行ない、現地審査を行ない、 公平厳正に選定しています。多様な価値観のクライテリアが現れる仕組みです。

布野:英文での情報発信の意義、クオリティの高さはその通りだと思います。しかし、アニュアルですし、作品当り見開き2頁という形式なので、『Casabella』などとは違う性格のメディアですよね。現地審査による相互学習、相互評価はすごくいいと思いますが、問題は、集められ方、そしてこうして集められたものの全体が意味するもの、発信するものは何かということだと思います。

 少し前の中国はすごかった。建築計画委員会を4年間(20062009)預かったんですが、春季学術研究集会は全てアジアの国の首都で開催した。ソウル(2006)は一緒でしたね。漢陽大学の朴勇煥先生と一緒に飲んだことを覚えています。翌年が北京で、台北、ハノイと続けましたが、北京で中国建築学会を表敬訪問したら、秘書長が200枚ぐらいのスライドを見せてくれました。各省の支部から集めたんでしょう、ものすごくヴァラエティがある。悪く言えばしっちゃかめっちゃかで、ポストモダンの百花繚乱といった感じでした。その時思ったのは、中国建築は一体何処へいくんだろうということでした。

宇野:日本大学の広田直行さんが、『作品選集』何年分かのデータを整理して分析していましたが、そうした分析を建築学会としてしたらいいと思います。巷で「失われた20年」といわれた時代に実際はどのような建築が評価されてきたのかとか、こういう傾向にあったとか、建築討論委員会として議論してもいいんじゃないですか。

布野:『作品選集』に集められたものは日本建築の実力ということで、それをアーカイブしていく意義はわかるんですけど、集められているものが全体として示しているのは何か、言葉を変えれば、日本の建築が目指しているものは何か、ということが気になる。そういう共通の目標や方向は最早ないんだ、ということでもいいのかもしれませんが、でも全体として、ある水準、クオリティを示しているし、共有化された何か、パラダイム、一定の雰囲気があるじゃないですか。2014作品選集』をざっとみて、もう10年ぐらい印象は変わりません。大きな組織の作品そしてプロフェッサー・アーキテクトの作品が多い。建築のクオリティという面では大きな組織の作品群が支えている感じがします。今回の作品賞の三作品のうち、二つは組織の作品ですね。作品賞については、選考委員を務めたことがありますが、作品賞は個人の賞だ、という方針が強くあったように思います。僕のときにも、ある受賞作品について、共同設計者を受賞者から外した例があります。委員長の独断だったので抗議しましたが。また、つい最近、同じように共同設計者が外された例があります。だから、二作品が組織の作品というのはある時代を表しているような気もします。僕自身は、建築作品は基本的には集団の作品だから複数の受賞者がいるのは当然と思っているんですが、ただ、個人を特定するのは原則です。象設計集団のように、集団名としてでなければ受賞しない、といった例もあった。難しいですが、音、熱、光、構造などについて様々なシミュレーション技術が要求されるようになってきているから、組織的な力が無いと仕事がこなせなくなっている状況があるんだと思います。もうひとつの篠原聡子さんの作品は、住宅スケールの作品ですし、『作品選集』には応募していないんですよね。それはそれでいいわけで、作品賞と『作品選集』そして作品選奨を別の次元のものとすべきだということは、僕も主張してきたところです。

宇野:『作品選集』の場合、300-330程度の数から最終的には100選びます。支部で現地調査を行い予選で選抜された130-50程度の建築が、本部審査委員会で書類選考されで100に絞られます。この段階では現地調査はされない。だから、100選んでみると、おっしゃるように比較的手堅い作品が選考される傾向はあるように思います。一方、作品選奨となると、必ずしも、組織事務所が手掛けた建築が選ばれるとはいえません(http://www.aij.or.jp/2014/2014prize.html#p6)。オリジナリティの点で少し及ばないんでしょうね。最終的には残れないことも少なくありませんでした。荒削りでも可能性のある作品をピックアップするには、審査委員の眼がポイントになります。審査そのものについては、公正公平に行われていまして、丁寧な手続きを踏んで学会あげてやっていますので、評価して頂いていると思います。審査委員の選考方法については多少の改革を進めていまして、やはり設計家としての実績を重視したいと思います。歴史家ももう少し入ったほうがいいと思います。長年やってきていますので、作品選奨受賞者も相当いらっしゃるわけで、半数以上は、選奨受賞者に審査委員になって頂ければと思っています。作品選奨については、信頼性が高く建築設計の顕彰制度として、もっとも水準が高くまた信頼性も高い賞として定着したと考えています。建築学会の「作品選集」は、選考が権威主義的だというご批判をいただいたりしてくこともあるようです。その辺は、各支部での選考についての議論であるようなのですが、改めるべきは改めていかなければ、と思います。「作品選集」の選考はプロセスも公開されますし、専門誌が特定の建築家を取り上げて応援するのとは違うスタンスで、むしろより多くの設計者に扉は開かれています。

布野:商業雑誌が若手建築家をプロモートしてこなくなったということが、そもそも『建築討論』の創刊のひとつの大きな理由ですね。そうすると、若手をもっと応援することを常に意識しておく必要がありますね。香月真大君頑張れ、ということですね。これからどういうものをつくっていけばいいのか、もうちょっとやれよ、これはちょっと!とか、走りながら考えていこう、というような感じでしょうか。

 もうひとつ、『建築選集』へのプロフェッサー・アーキテクトの先生方の投稿が目立つのは、大学で業績を求められることと関係していますよね。そもそも、その立ち上げにはそういうモメントがあったと思います。

宇野:黄表紙(論文集)と同等の位置づけということで、各大学それぞれですが、概ねそういう理解がなされるようになったと思います。大学の先生のみならず、別な観点からですが、組織事務所でもプロモーションの基準になっていると思います。

布野:そこで昨今の日本建築のシーンですが?

宇野:選ばれたものを並べてみたら、モダニズムが洗練されてきている、ということでしょうか。バロック的なものは選ばれていない。全体として数寄屋のほうに向かっているんじゃないか。モダニズムの洗練が評価基準になっているような気がします。

布野:もうずっと、そういう傾向が続いているんじゃないでしょうか。バロックではなくて、バラック・モダニズムと秘かに言っていたんですが、とにかく、ローコスト化を強いられる中で、スマートにまとめることが求められている。バラックは兵舎、この場合は安上がりというニュアンスで使うんですが。木村利彦さんと組んだ山本理顕さんの「はこだて未来大学」はその傑作だと思います。戦後の最小限住宅とか日本相互銀行本店(前川國男)の時代を思い出した。現在は、様々な道具が使えるから、性能をあげ、ディテールも色々工夫できる。それが蔓延している感じですね。しかし、バラックにはバラックの美学がある。石山修武さんが『バラック浄土』1982)を書いた頃も思い出します。2回「けんちくとうろん」公開座談会「日本近代建築の百年 19142014」(http://www.aij.or.jp/jpn/touron/touron2.html)でテーマになった「建築の1970年代」ですね。僕なんかは、基本的に表現派、コスモロジー派に興味があるから、もう少し、バロックも欲しいですね。ただ、リノベーションの作品がもう少し選ばれてもいいんじゃないですか?

宇野:東京スカイツリーにしても、NBF大崎ビルにしても、社会的には大きな意味があります。建築的な価値については議論すればいいと思いますが。確かに、リノベーションが少ない。僕が担当したときに、選奨に入ったというので大議論になりました。表現の多様性はありますが、その骨格になっているのはモダニズムの洗練ということだと思います。作品の背後には、少子高齢化する地方の問題とか、省エネの問題とか、数年後には顕在化するだろう様々な問題は見えているんですけど、それを建築作品としてピックアップできていない、その点が弱いかもしれませんね。

布野:『建築選集』の作品の背後にある問題を見開き2頁の情報からそれぞれ読み解くのはなかなか難しいですね。『建築討論』の役割のひとつはそこにあるような気がします。つまり、どういうテーマがあるのかを明示して議論することですね。

 

英語の世紀の中で-言語と建築

宇野:今日は、本を二冊持ってきました。ひとつは水村美苗さんの『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』(筑摩書房、2008年)、もうひとつは、歴史学者(日本建築史)、関野貞先生の『日本建築史講話』(岩波書店、1937年)です。

 最初の本は、数年前に出版された書き下ろしの評論です。タイトルがセンセーショナルで、日本語が亡びるというのですから穏やかな話しではありません。共通語としての英語は、19世紀の英国、20世紀の米国の時代を経て、21世紀にはインターネットの時代を迎え、世界共通語としてさらに普及、拡がりを見せています。情報の受け渡しには便利ではありますが、「母国語」ないし「国語」ではないために、深い内容や表現の記述力を身につけることが難しく、それ故、奥深い、込み入った話し、あるいは微妙なニュアンスや地域の環境文化に付随するコミュニケーションには適さない。「普遍語」としての英語で表現すると、すべてを平準化してしまう。グーグルがそれを加速していて、言語世界も図像世界もあらゆることをビット化、つまりデジタル化する作業を行っています。デジタル化された成果では、全てが均質化されます。言語は本来、それぞれの環境的文化的固有性に根ざして発生してきたわけで、日本の場合、古代の「現地語」から始まり、やがて「普遍語」としての漢語の到来、「国語」が同時に発生して環境文化との相関の内に発展する。こうした図式のもと、古今和歌集から始まって近現代の日本文学をクロノロジカルに振返る壮大なエッセイです。

布野:今、文部科学省は、グローバル人材の育成ということでやっきになっていますね。大学には、国際化せよ、というプレッシャーは相当かかっています。一方で、COCCenter of Community)といって、地域のことをもっとやれ!ともいうんですが、国際的に開いていかないといけない日本の現在がありますね。楽天やユニクロなどは、社内は全て英語で会議するという時代ですね。

宇野:この本で著者の水村美苗は、江戸時代から明治時代に移行したときの言語の混乱と近代後を創造構築する文学者の努力と葛藤について論考を加えています。たいへん面白い。文明開化を国是とした明治の日本では、まず、近代的な概念を表す言語としての西欧語を日本語に翻訳する努力が払われます。たとえば、「建築」という語は、「Architecture」および「Building」に対応する語として造語されます。日本社会では、奈良時代に導入された漢語、平安時代には仮名文字が発展し「国語」として独自の文学を生み出していきます。その後、公式文書は主として漢字に仮名をそえた文語で書き記され、口語を文字で記載することは、必要とされなかった。江戸時代に発展した芝居の脚本には、口語を文字で記述することがあり、また黄表紙などの戯作が庶民に愛されたことは知られていますが。さて、明治時代には、士農工商の封建階級制度が廃止され、江戸時代に培われた庶民文化が、導入された近代社会システムとシンクロナイズして爆発的に発展します。そうしたなかで、夏目漱石をはじめとする近代小説家たちは、新聞という媒体を通じて、ベストセラーを出していく。小説の創作を通じて、近代日本語を創造していきます。言文一致が目指され、口語体にマッチする新しい言語創造にむけた懸命な努力が払われます。そして、そこで創作された日本文学の数々は、世界水準の文学の高みに達していたと水村はいいます。なぜか。こうした文学者たちは、一方で、文語の素養を身につけていたからだといいます。儒教や漢学、江戸末には国学も展開されているなか、西洋の学問を導入する必要にせまられ、地域文化を表記表象する「現地語」、公用言語としての「国語」の高い素養を身につけて、さらに「普遍語」としての英語、ドイツ語、フランス語の日本語化に努めていたのだというわけです。そこに、近代社会が到来して、異質の文化が交差した明治から昭和に日本では水準の高い近代文学が成立した、という。しかるに、現代の日本文学は世界的には通用しない、なぜならば、「現地語」、「国語」の双方を培う地域文化地域社会が失われて、「普遍語」としての英語とさらにはインターネットを介する共通語としての英語の普及がすさまじいから、というわけです。ローカリティが喪失し、言語も「普遍語」だけで交わされるようになれば、日本文学なるものは失われ、日本語も亡びる。

布野:村上春樹なんか、欧米だけでなく、中国でも韓国でも翻訳されて読まれているわけですよね?

宇野:村上春樹は今日的な意味での普遍性を獲得したといえるのではないでしょうか。彼の小説は、日本文学ではなく、現代世界文学なのでしょう。はじめに綴られる言語が日本語だとしても、そこに描かれた世界は、日本ローカルの事象によっているのではない、ということがポイントです。だから、世界中で多くの言語に翻訳され、それで交感ができて、世界的に受け入れられている。建築で言うと、妹島(和世)さんの提示した建築が対応しています。「より薄くより軽く」は、伊東豊雄さんのオフィスで与えられた命題だったのですが、彼女は独立後間もなく、自分自身の問題として、強い形式性、あるいは少しずらした形式性を、現代の素材と技術を用いて揺すぶってみせた。世界の文脈から見たときに、欧米の建築史の延長上に、普遍性を獲得した世界建築がここにうまれたと解釈されていますが、彼女の建築も、また、伝統的な意味での日本建築ではない。もちろん、現代日本でないと、うまれようのなかった建築ではあります。文化的コンテクストとは別に、現代というものがもつ普遍性に触れることで、彼女の仕事は、中国でもラテンアメリカでも、ヨーロッパでも米国でも、人気を得てきました。とくに若い世代に人気があるのは、普遍性をそなえ現代的だからでしょう。

布野:普遍言語で書くという話と現代という普遍性を語るというのは次元が違うということですね。翻訳の問題もありそうですね。

宇野:建築のスタイルや形態を念頭に言うと、元来、世界各地には、それぞれ地域固有の建築言語がありました。一方、時と空間を隔てた遠隔地に、共通の建築語法が生じてもいます。文化伝達説では説明のできない遠隔地に共通の建築言語があったりもする。原(広司)さんは、その総体を「建築の文法:といっているわけです。話しをもとにもどすと、水村さんが日本文学について論じているのと同様のことが、日本建築にもあてはまる。そういう意味で、「日本建築」は亡びつつあるのではないか。先ほど、日本建築学会の「作品選集」を話題としましたが、そこでいう質とは、工業生産品としての質のことですね。工業技術の高さや高精度の施工など・・・しかし、「普遍語」の「Architecuture」としての評価基準となると、この水村さんの言語にかかわる議論と同じように、「ローカル」「グローバル」「現代」といった文化的でクリティカルなコンテクストとの関係におけるクライテリアが求められます。インターネット時代のクロスカルチュラルな建築についての多元的な議論のなかから抽出されるクライテリアが、建築的な質の水準をはかるメジャーとなるでしょう。槇(文彦)さんが、最近書かれたエッセイ「漂うモダニズム」で、50年前のモダニズムはだれもが乗っている大きな船であったと言えるが現在のモダニズムは最早船ではなく大海原、だと例えています。そこで、槇さんは、モダニティ、グローバリゼーション、ユニバーサリティについて、この1世紀の経過を建築言語と言語の比較を試みて、説明している。文化的な事象としての建築と文学に対する危機感は、水村さん、槇さん、両者に共通する時代性と文化人としての立場をみてとることができます。日本の現代建築についていうと、一見多様に見えるけれど、本質的には均質化しているのではないか。日本建築が依拠してきたもの、地域性とか日本文化とか・・が休息に失われている。水村さんの本に準えていえば、日本建築は亡びつつあるのではないか、世界を覆いつつあるのは現代的な超近代主義であり、現代的な超普遍現象ではないか。

布野:原(広司)さんの「均質空間論」は、まさにそうした提起でしたよね。それをどう超えるか、ということはずっと問われてきている気がするんですが、この問題の構図がグローバリゼーションの進展によってますます明確になったということでしょうか?原さんは「機能から様相へ」ということで全く新たな空間概念を求めるということだと思いますが、著者によると、日本語が亡びるとすると、日本語を復権せよ!ということになるんですか?その前に、日本語が亡びるというのは、若い人が使う言葉、僕らには理解できない造語、メールでの短縮表現なんかについては、触れていないんですか?

宇野:彼女は、子供時代からアメリカ合衆国で暮らしているようで、エール大学でフランス文学を専攻していたそうです。一方、少女時代深く日本文学に触れているようで、つまり、20世紀後期をクロスカルチュラルな環境で過ごした文学者であり研究者です。(経済学者の岩井哲人夫人でもあります。)アマゾンの書評にある読者コメントを見るとなかなか面白いのですが、ふたつほど指摘がされていました。ひとつは、近年の社会学や自然科学などの成果からすると知見がやや偏っている面があること、もうひとつは、まさに世代の問題です。彼女の価値観は、日本が西洋と出会い葛藤した1世紀半程度の期間の価値観にとらわれているのではないかという点です。文化多様性が世界のダイナミズムを産む源泉だという認識は、グローバル世界では一般に広まっていますが、日本においては真逆なことが起きています。言語も建築すなわち生活環境は、均質化の一途をたどり、社会も多様化を拒んでいる。

布野さんは、若者ことば、つまりスラングのことを指摘しましたが、それは、ビット化、デジタル化したアルゴリズムにのって、情報をやりとりしている現代の若者の言語空間から必然的に導出される言語で、世界的にこうしたビット系スラングは流通しているのが実状です。こうした言語空間からは地域文学はうまれえない、したがって、世界水準の文学はでてこないだろうというのが、水村のいっていることでしょう。しかし、ビット語から、またそうした言語空間における人間のありようは、それはそれで、現代的であり先端の事象ですから、そこから新しい世界文学がうまれないとは限らない。建築もしかりということでしょう。もっとも、建築の場合、土地に建設されて、そうは動かないものですから、ローカリティを表現すると、それが土地のユニークネスを造り出して、グローバルに展開するという、言語空間にはない特性があるので、日本建築と世界建築を追求するならば、建築情報空間といった視点からの分析と批評は、欠かせません。このweb版建築討論という媒体をつくったのは、そのためのプラットッフォーム兼アーカイブだけは、用意しておきたいと考えたからです。

布野:英語、英語と言われると、英語帝国主義という言葉が思い浮かびます。日本と同じような島国の英国の言語がこれほど世界を制覇しているのは、かつて七つの海を制覇した大英帝国の歴史があるからですよね。その最大の版図は1930年代で、地球の陸地の4分の1になります。植民都市研究を開始するにあたって、R.ホームの『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』(布野修司+安藤正雄監訳:アジア都市建築研究会訳,Robert Home: Of Planting and Planning The making of British colonial cities,京都大学学術出版会,2001年)を読んだんですけど、その冒頭に、歴史上の帝国主義者の中で最も偉大な都市輸出者で、「スポーツ、娯楽、英語の他に、アーバニズムは大英帝国の遺産を最も永らえさせている」といった誰かの引用(J.Morris1983)”Stones of Empire”、Oxford University Press)がありました。サッカー、ラグビーも英国発祥ですよね。ベースボールは米国起源かもしれないけれど、クリケットはコモンウエルスでは健在ですよね。近代建築や近代都市計画が世界制覇していくのも、基本的には英国的制度が輸出され植えつけられていったからではないか、ということなんです。ポスト・コロニアリズムが唱えられだして久しいけれど、現代のグローバリズムを捉えるには少し古いセオリーですかねえ。

宇野:そんなことはありません。旧英連邦のコモンウエルスやドイツ北欧のハンザ同盟、ユーラシアのシルクロード、南アジアの海のシルクロードなど、グローバリゼーションの進展でかたちを変えて浮かび上がってきた世界通商網は強力です。布野さんと初めてアジアに行った時(1980年)、マレーシアはほんとに若い国で、街が整っていた。マハティール大統領がすぐれていたのだと思いますが、教育制度も都市計画制度もきちんとしているので感銘を受けました。その20年後にクアラルンプールに行ってみると、英連邦のスポーツ大会(コモンウエルズ・ゲーム1998)をアジアではじめて誘致したころ、かたちのよい新しいサッカー兼陸上競技のスタジアム(Shah Alam Stadium)が建設されていました。設計者はAAスクールで学んだ建築家だと聞きました。

布野:宇野さんとは、まず、フィリピンに行ってマレーシアへ言ったんですよね。僕は、専らハウジングのあり方に興味があって、Freedom to Buildといったグループのセルフ・ヘルプ・ハウジングとか、エコ・ヴィレッジ・プロジェクトに関心があったけど、確かに、マレーシアとフィリピンはレヴェルが違いましたね。既に、AAスクール帰りの建築家が小奇麗なテラスハウス団地を設計していた。確かに、近代的なシステムという意味では、ヨーロッパに一日の長があり、アジアの国はそれぞれに学んできた。それを一概に普遍主義というわけにはいかない。「和魂洋才」とか「中体西用」とか、土着の文化との葛藤を受け入れながら学んできたわけですね。

宇野:アジアでは、われわれはつたない英語で各国の人とやりとりするわけですが、まあ、だいたいのかんじは、分かりますし、気持ちも通じます。自然環境と生活文化についての伝統に共通部分があるからでしょう。しかし、水本が例示しているような「岩にしみいる蝉の声」という言葉とその表現のニュアンス、響き、奥深さなどは、英語に訳して話しても、それだけでは伝わるはずもない。同様に、アジアの言語空間にも、英語を介してだと伝わらないことが多々あるでしょう。一方、近代英米文学の文脈でいうと、東南アジアでは、例えば、シンガポールのラッフルズ・ホテルでその滞在を好んだサマセット・モーム(英国)が世界各所の人間模様を描く平明な文体、あるいは、トルーマン・カポーティ(米国)の小さな自然の微妙な情景のニュアンスを英語(米語)でリズミカルに綴る文体・・・共通言語の英語では、表現力においてとても及びつかないわけですね。シェイクスピアから始まる近代英語の系譜は脈々とあるのでしょう。われわれの使うのは共通言語としての英語ですし、普及するのは平明で簡易な英語ですね。そうした言語空間でしか言葉を交わさなくなるならば、それは、われわれの思考のレヴェルを低下させてしまうでしょう。

布野:所詮われわれの英語はピジンPidgin・ランゲージというわけですね。ピジン語とは異なる言語の商人によって作られた言語をい言いますが、それ自体、面白いとは思っているんです。クレオール語ともいいますが、植民地生れで本国を知らないクレオールの話す言語ですね。カリブ海に行ったときは、パピアメント語ですか、ポルトガル語、スペイン語、オランダ語、西アフリカの諸言語が混ざっている。しかし、今、日本で英語、英語という時、経済の言葉、商売のための言語としてか考えられていない感じですね。なんか、建築も同じような流れにあるような気がしてきます。

宇野:グローバリゼーションもインターネットと共通語としての英語を介するコミュニケーションの流れを止めることはできないのですが、そこで、どうするか?建築についていえば、そもそも建築は、ひとつひとつつくっていく営為なので、そのなかでどうするのか?全体的な流れのなかでどのようなポジションをとるのか?このふたつの問題をごちゃごちゃにしないで、議論する必要があると思います。

布野:ひとつひとつつくるということでは、土着、地域への拘る作品はあるでしょう。2014 作品選集』には、芦澤竜一の沖縄の住宅が選ばれていますが、彼なんか、自然とか、土着とか、地域とかに徹底して拘っているように思えます。

宇野:工務店さんたちも含めていろいろな試みはあって、面白いからメディアがとりあげるのですが、全体量が少ない。いわば、絶滅危惧種だから注目されるというジレンマがあるように思います。

布野:絶滅危惧種ですか。

宇野:たとえば、僕は若いときに、原(広司)さんの事務所で、首里城の主礼の門のすぐ下の小学校(城西小学校)のキャンパスを設計したことがあります。バナキュラーなスタイルのオープンスクールです。沖縄の日射や気候、そして赤瓦を白い漆喰でとめた屋根並みを意図した建築で景観設計の走りだったともいえます。沖縄で活躍している建築家の福村(俊治)さんは、そのときのアトリエファイでの同僚でして、その福村さんは、地域に根ざした風土に合った建築を、ということで沖縄に残り設計活動を続けてきました。沖縄平和公園の沖縄県平和祈年資料館や記念碑「平和の礎」の設計を手掛ける一方で、沖縄に適した新しい住宅建築を勢力的に手掛けてきましたけれど、ここにきて限界を感じるというのです。高気密高断熱がいいんだということで、本土から大きな波がやって来て、皆さんそっちの方に行ってしまうということでした。空調と密閉空間、彼が目指した、日よけ、  風、空調なしの建築の逆に、閉じた箱のような家が増えつつあるようです。

布野:僕も同じような経験があります。小玉祐一郎さんの指導で、スラバヤ・エコハウスという実験棟をスラバヤ工科大学に建てたんだけど、日本で学んだインドネシアの若い先生に、何故高気密高断熱にしないんだ、と言われたんです。伝統的な民家にそんなの無い、気積を大きくとって、ポーラスにするのが原則ではないか、とやりあったんですけどね。

宇野:現場の課題と制度の課題がそれぞれあって、現場からの一点突破で、地域をよりよい方向に換えていくには、現状では困難さがありますね。個別具体的な突破をねらうとともに、一方で建築学会のようなアカデミーが指針を出して政策に訴えていく必要がある。かつてさかんに議論検討された中間技術(Intermediate Technology)論をしっかり展開する必要があると思います。実際のテクノロジーは、計算機と情報通信技術の飛躍的な進歩をともなって、かつてとは、比較にならないほど進歩していますから、実務的な可能性が多々あると思います。

布野:同感ですね。オールタナティブ・テクノロジーAT(代替技術)とか、1970年代には様々な動きがあった。僕なんか全く変わってない。ということは、戦略を間違えてきたということでしょうね。

『日本建築史講話』

宇野関野貞先生の本は、旧制武蔵高校の講演(講義)録で、昭和12年(1937年)の出版です。「関野貞 述」というちょっと変わったかたちで岩波から出されています。大正末に開校した同校が、東京帝国大学教官の関野工学博士を専門大家として招聘、高等科で開講した必修科目「民族文化講義」を纏めたものです。おそらく、日本で最初の体系的に書かれた日本建築史の教科書といえるでしょう。他界した関野が残した備忘録、訂正の筆記を更新の博士や文部省嘱託の専門家が校閲したと序文に書かれています。戦後の近代建築の流れを大きく方向付けた太田博太郎丹下健三は、この関野の教科書で日本建築の通史を学んだのではないでしょうか。とくに太田の場合、武蔵高校から東京帝国大学工学部建築学科に進学していますから、影響は少なからずあったものと思います。この講話を聞いて、建築史を志したのかもしれません。

出版当時の武蔵高校校長であった山本良吉が、序文に次のように書いています。ちょっと長くなるけれど、引用します。「明治19年に天皇が帝国大学に行幸あり、(中略)、(帝大)総長は日本に固有の哲学なしと(天皇に)御答申上げた。総長の奉答が典拠となったものが、その後幾十年の間、学校の数は年々増加したが、わが文化について教える施設は一般にきわめて少なく、またそれを教ふべきものとの意識も教育界全体に互って乏しくかった。従って、正式の教育を受けた学士といえば、特殊の士を除いては、自国文化について殆ど無識であり、反ってそれを誇る傾きさへもあった。」つまり、明治以来、西洋近代の先進的学門の習得はしてきたけれど、日本固有の思想や文化を研究し教える機関も人材も乏しく、関野博士をお呼びして、日本固有の建築通史を旧制高校の生徒に講話してもらったというわけです。文明開化で半世紀走ってきたけれど、昭和に入る頃に、どうも西洋追随だけだと、まずいんじゃないのといったリアクションが流れとして出てきた。西洋化に対する危機感があったのでしょう。一方、関東大震災による都市の壊滅が帝都復興事業に火をつけて、工学的近代化に走る時代でもあった。欧化と近代化と日本の見直しが、同時に混交しながら、日本社会に激流となって流れ込む時代でもありました。現在から、100年前、世界史でいえば、第1次世界大戦が起こり、世界の力学が大きく崩れ、20世紀が動きはじめた時代です。グローバルな現代の構図とも、共通するところが。少なからず見いだせるようにも思います。関東大震災、第1次世界大戦以降について「現代日本建築史」を次世代の若者に講演するべき時代になったのかもしれません。

布野:宇野さんも武蔵高校の出身ですね。最近、1960年代をふり返る書籍(『僕らが育った時代 1967-1973 れんが書房新社)を同期生で出したわけですが、読ましていただくと、1960-70年代の東京、その時代の高校生の雰囲気が伝わってきます。独特の校風は戦前にまで遡るのでしょうか。太田博太郎先生、内田祥哉先生も武蔵でしょう。

宇野:そうですね。建築に進んでだいぶ後に知るのですが、斉藤平蔵先生(計画原論)も武蔵の先輩でした。早稲田には、建築家の阿部勤さん、若い(?)世代だと工学院大学の後藤治さんなど、建築界には多数の同窓がいます。もしかすると、この関野先生の本がそうした源流なのかもしれませんね。

布野:関野先生の論文は東洋建築史については全て読んできたんですが、手堅い建築史学者という印象があります。こういう通史というか、総説があることは、迂闊にも見逃して来ました。伊東忠太とは同い年ですが、忠太の方が派手だったし、早く(1935年)に亡くなりますよね。

僕は、1930年代については、同じように明治維新以降進めてきた近代化の流れに対して、ある種のリアクションが起こった時代だと理解しているんですが、日本の場合の議論はスタイルの問題に集中してしまったんではないかと思います。象徴的なのは「帝冠(併合)様式」(下田菊太郎)の問題ですね。西欧建築に対して日本建築の伝統を見直そうとするんだけれど、屋根のシンボリズムのみに議論が集中することになった。一般に分りやすいですからね。一方、新興建築(近代建築)の側も、形だけ、四角い箱型の「豆腐を切ったような」フラットルーフの住宅を木造で実現するというレヴェルだった。関野先生が何を日本建築の伝統と考えていたのかは興味ありますね。

宇野:やはり、関東大震災の経験が大きいように思います。興味深い点は、いくつかあります。2-3紹介すると、まず、目次。第一章原始時代、第二章飛鳥時代、第三章寧楽時代、一帝都、とあります。平安時代の前に、一時代を画し、その始めに帝都という概念で、天皇歴代の都(難波の都、大津宮、藤原宮)を紹介、藤原京と続き、「唐の長安京の都城の制を参酌し、更に一歩進めた都市計画」と説明して、平城京を帝都として位置づけています。明治以降も面白い。「殊に、仏寺建築等に於ては廃仏毀釈の運動と相俟って殆ど見るべきものがありません。」と指摘していたりします。また、Diack(英国、明治3年来朝(来日))、M’Vean(英国、明治4年来朝)、Boinville(仏、明治5年来朝)、Capeletti(伊、明治9年来朝)などといった、あまり知られていない外国人建築家の名前に言及しています。

布野 ブルーノ・タウトがやってきて、「インターナショナル建築会」が呼ぶわけですが、日本の伝統建築を天皇芸術と将軍芸術にわけて、前者を桂離宮に、後者を日光東照宮に代表させた。新興建築(近代建築)側は、桂離宮の柱梁のシステマティックな構成に近代性をみるということで、天皇芸術だということを隠れ蓑にしようとしたんじゃないかという気もします。日本趣味とか、東洋趣味とか、帝冠様式はほとんど問題にしなかったと思います。桂離宮と日光東照宮をめぐっては、内田祥士さんの『東照宮の近代都市としての陽明門』(2009年)というすぐれた論考があります。日本建築の伝統をめぐってはより深い議論がなされていると思います。

 戦後にも、日本建築の伝統をめぐって伝統論争が展開されますが、そこでは基本的に戦時中と同じロジックが繰り返されたように思う。つまり、日本建築の伝統を伊勢や桂にみて、それと近代建築の方向は一致しているとみた。畳の床や障子、日本の伝統的住宅のエレメントがジャポニカスタイルとして海外にもて囃されたりもしたんだけど、それも日本建築の近代性(モダーン)という位置づけだった。様式建築の問題が一瞬にして消えて、近代建築の方向は確たるものとして共有されており、日本の伝統建築なんか問題ではない、ということだったのかもしれない。ただ、白井晟一の日本建築の伝統論は想起しておいたほうがいいですね。日本建築の伝統は弥生じゃなくて縄文だ、といったわけでしょ。白井の頭の中では、西洋建築VS日本建築と構図が強くあったと思うけど、一方で北京の天壇とかソウルの宗廟について、エッセイを書いている。日本建築の伝統をめぐっては色々議論があると思う。

 1970年代に入って、日本建築の伝統とか地域性が再び問われますね。日本が国際的にそのポジションを問われるときに、決まって建築における「日本的なるもの」、日本建築の伝統が問われる。当前ですよね。しかし、日本建築が滅びるという発想はなかった。これは、もう日本建築は滅びると考えて、建築の方法を考えたほうがいいかもしれない。

宇野:関野の講話は、「我々は、いまや日本の風土に適し、国史を背景として、日本人の趣味、生活に適合して独自な新建築様式を創造しなければならぬ時機の近づきつつある事を痛感いたすのであります。そして、過去の歴史を顧みる時、我々は必ずやかかる時機の到達する日のある事を確信して疑わないものであります。」といって閉じられています。要するに、外国文化、先進文化の輸入は、ほどほどにして、オリジナリティを追求しましょう、といっているんですね。時代背景を考えると、ナショナルな匂いもして、違和感もある論調ともいえますけれど、こうしたトーンが出てくるのは当時、自然なことなのだろうとも思います。昨今の日本は、この時代と比べられることも多く、気になるところではあります。話しを建築にもどして、技術的な近代化を達成した現代日本についていえば、輸入ではなく輸出に転じるべきなのでしょうけれど、それでは建築分野ではなにをエクスポートできるのか、ということが問われる時機となったということもできるでしょう。

布野:しかし、輸出と言っても、建築は基本的には地のものだし、スタイルや、畳や障子といった建築のエレメントじゃないとすると、何が輸出できるんだろう。突然、具体的になるけれど、日本が建築の分野で輸出できるとしたらサブコン技術じゃないの。いま、IT技術で、どこにいても、かたちはつくれて、構造計算が出来て、図面は描ける。問題は、どうつくるかだ。建設労働者の問題はあるけれど、現場で組み立てて収める技術は、日本に一日の長がある。

 しかし、やはり最終的に表現されるものが問題であるとすると、それは何かということですね。日本文化は玉葱みたいだってよく言われる。日本に固有なものは何か、日本起源のものは何かということで、皮を剥いていくと、最後には何も無い。全て、中国、朝鮮半島、あるいは東南アジア、そしてヨーロッパからもたらされたものではないか。あるいは、原さんがよく言っていましたが、日本に固有だと思っていることが、あるいは空間が、遠く離れた地域に存在することもある。

宇野:話しは変わりますが、つい最近、ニューヨークで、ザハ・ハディド、ノーマン・フォスター、レム・コールハース、リチャード・ロジャースが参加した超高層オフィスの設計コンペがあったようで、インターネット上で、各人のプレゼンテーションのビデオが紹介されていました。フォスターが勝ちましたけれど、そのプレゼンテーションは、マンハッタンの都市の成り立ち、景観、パブリックスペース、構造、設備ほかを丁寧に説明したもので、実にわかりやすかった。文化的背景や機能性を重視しつつ、歴史と都市のコンテクストに対峙して位置づける「ビルディング・アイデンティティ」というコンセプトが見事でした。ザハのプレゼンテーションは、ワーッとセンセーショナルなビデオ流すもので、まったくアプローチが違いました。面白いことは面白いのですが、結果、採用されませんでした。CG3Dモデルを駆使したプレゼンテーションが目新しかった時代は過去のものとなりつつあり、現場と技術に裏打ちされた信頼性のうえに、新しさや独自性を追求しようとする機運が出てきたのかなと思いました。建築は、地域文化を背景に、時を相手に勝負をしかける応用科学、テクノロジーを礎として、展開してきた実学実務の専門分野だといえるでしょう。中長期を見込みつつ、なにがしかの新しさを添えて、いま球を投げるという競技なのではないか。果たして、現在の日本の建築界の状況が、「日本建築が亡びる」過程にあるのか、近代性普遍性をそなえつつ見事に現地化した近代の「日本建築」は造り得たのか、グローバリゼーションは、日本建築を絶滅に追い込みつつあるのか、あたらしい日本建築の萌芽を認めうる状況なのか・・・そうしたことを鳥瞰する「世界建築講義」や「近現代日本建築講義」を著す歴史家が,若い世代から出てくることを望みたいところです。この建築討論では、市井の建築も含めて、新旧多様な建築をとりあげて、皆でディスかションできるようにしたいと思います。

布野:そうですね。「日本建築」めぐっても繰り返しやりましょう。ここで問題にしている日本建築は、世界文化遺産となるような過去の日本建築ではなくて、生きている日本建築、すなわち、日々建てられていく建築ですよね。日本建築が亡びるときというのを具体的に想定してみると、なんかヒントが得られるかもしれない。もしかすると、日本建築は既に滅びてしまっているかもしれないけどね。伝統というのは、トラデーレtradereというラテン語が語源なんですが、手渡すという意味なんです。要するに、未来に手渡すものは何か、何があるのか、ということですね。それがないのだとすると、若い世代がどうのこうのというより、われわれの問題ですね。香月真大君へ、われわれも頑張ります、と言わなきゃならないかな。

文責:布野修司・宇野求




 

2025年7月27日日曜日

Mohan Pant、The Nepal Earthquake 2015 and the Rehabilitation Works、 | 2016/01/22 | 海外建築事情, 『建築討論』007号:2016年春(1月-3月)

 http://touron.aij.or.jp/2016/01/498

── By  | 2016/01/22 | 海外建築事情007号:2016年春(1月-3月) | 0 comments


The Nepal Earthquake 2015 and the Rehabilitation Works

 

Mohan Pant

sribahal@gmail.com

In the sunny day on April 12, 2015, at 11:56 local time, a strong earthquake jolted the terrains of Kathmandu Valley. Series of aftershocks in the following months left around 9000 people dead and about half a million of structures collapsed in the zones hit by the earthquake. The magnitude measured is 7.6 and the jolt was experienced for about two minutes. At 12:20, it was hit by a shock of 6.6 and next day by that of 6.9. Another powerful shock of 6.8 on May 12 further damaged the buildings made vulnerable by the first motion and the series of aftershocks. The epicenter of the first jolt was 76 km northwest of Kathmandu in the district of Gorkha in the village of Barapak and of the aftershocks in the neighboring regions (Fig 1).[i] In Barapak itself among its more than 1100 households, only two units in masonry and about 20 RCC units survived taking a toll of 72 lives (Fig 2a,2b).[ii] The human loss would have been much more if it was not simply for the reason that people were out of their home at this day time following usual routine schedules. The school children also were not in the school as it was the weekend day.


Symbolic representations of the damage of this earthquake abound in papers and in websites. Among them is the collapse of Dharahara, a structure of 62 m height first built in 1832 and rebuilt after the 1990 earthquake (Fig 3a,3b). The tower built in fired brick with special mortar that uses lentil, molasses and lime collapsed breaking at its second ring with a slash of about 45 degree. The tower served as a city symbol as it could be seen from many locations of the city. Human casualty is thought to be considerable since there were people at the viewing balcony of this tower, and movement of people in the square around it is always substantial. Another image was a section of a highway connecting Kathmandu and Bhaktapur that sunk by about 1 m from the original road level (Fig 4). The author could observe a crevice of more than two meter deep in the fissure thus created. After around two months, the depressed section of the road was filled up restoring the normal flow of this arterial traffic. But Dharahara is now a point of debate on its cultural and historical significance, and the fate remains uncertain.


To the international community, the scene of damage of the World Heritage Sites—the palace sites of the three cities, and Swayambhunath was enough. In Bhaktapur Palace Square, five monuments are destroyed of which a Sikhara style temple dedicated to Vatsala Devi built in stone totally collapsed from the plinth level (Fig 5a, 5b). A number of other structures suffered serious damage whose walls are now given temporary support from sideways by means of timber posts (Fig 6). The five story temple the symbol of Bhaktapur, standing 30 m high from the ground with a high plinth of 10 m in five receding levels, however, remained intact except the damage at the corner of its topmost level (Fig 7). The temple also had remained intact in the previous earthquake of 1934 whose shock, according to the people who experienced it, was much greater than the present one.



The degree of damage in Patan Palace Square and in Hanuman Dhoka Palace is even severe compared to the scene of Bhaktapur. In Hanuman Dhoka Palace Square, either there is a complete collapse of the structures, or the structures suffered serious damage which requires reconstruction (Fig 8). The complete collapse of Kasthamandap, an ancient wooden structure confirmed from 12th century records, is a testament to judge the level of consciousness of the concerned institutions such as the Department of Archaeology with respect to the vulnerability of historic structures, and on the precautionary measures that should have been taken before any of such disaster takes place (Fig 9a, 9b).




The pattern of damage in the Kathmandu Valley suggests that the tremor hit particular locations more strongly than others. Settlements at the south east direction suffered more than elsewhere. And settlements with soil strata of rock and gravels didn’t suffer much. The buildings that suffered serious damage belonged to relatively older age which was built in brick with mud mortar. The study of various damage situations suggest that the damage occurred more in cases where there was lack of horizontal tie up with the vertical member such as wall masonry.

 Structures that are relatively new, of about 30-40 years, are built in RCC of which a greater majority is built in the past 15 years. This is particularly the case in residential units. These buildings by and large remained intact at least in their structure frame. In certain cases, serious damage occurred such as pancake collapse of the whole building, and falling of infill brick walls of the high rise apartment buildings (Fig 10, Fig 11). These represent situations of design and construction faults that ignored either the nature of soil strata or consideration of the common situation of building damage to be found in the seismic movements.


The April 25 and the May 12 tremor hit 31 districts of Nepal causing damage of different degrees of which 14 are crisis-hit. Around 9000 people lost their life and 22000 were injured. The governments of Nepal figures indicate that 602,257 houses were fully damaged, and 285,099 houses were partially damaged.[iii] The Ministry of Home Affairs has classified the affected regions into three categories—severe, medium and relatively less damage. 14 districts that include Kathmandu valley and its neighboring regions belong to the category of first severity. The total damage due to the quake to the entire country that includes private dwellings, educational and health facilities, government institutions and infrastructure has been estimated to reach 7 billion US dollars.[iv] The Post Disaster Needs Assessment (PDNA) done by National Planning Commission at the end of May 2015 gives breakdown in each cluster of services.

 With respect to the temporary shelter to be provided, there are no acts and regulations that stipulate government’s responsibility to the citizens. Ministry of Home Affairs, which holds the responsibility with its Disaster Management Control Unit, didn’t come to the stage to supply the emergency shelter units. The municipalities and district offices did coordinate the donation activities by nongovernmental initiatives didn’t have their own guiding relief activities with respect to the sheltering places.

People took shelter particularly in places such as in the urban squares, school grounds, and residential courtyards (Fig 12a, 12b). In the historic cities of Kathmandu Valley, Buddhist vihara courtyards proved to be of particular importance as emergency shelters. Probably all viharas of the Valley served this purpose with their limited open and sheltering space. Worst as sheltering place were the highway sides where one could find instances of people taking shelter in the green belt at the middle of the highway and using bus stop sheds. The largest shelter ground was the Tudikhel located at the east of the old city area of Kathmandu (Fig 12c).

What the government did with respect to the emergency shelter is the distribution of a limited quantity of tarpaulin sheets of 3.6 x 5.4 m size per family unit. Our observation visit shows that all the tents were supplied by international donors and religious institutions. And a great many of them were covered by plastic sheets that was either in the stock of the people or, if not, bought by the people themselves (Fig 13).

As the days passed on, the rainy season was nearing and the emergency shelters with tarpaulin or tents evidently were not going to protect the inmates from the weather. A shelter that could last for a period before one could move to the permanent home was of immediate necessity. But the government again was unprepared. There doesn’t exist standards to guide the construction of temporary shelters such as that on floor space and other quality matters. The government simply resorted to a measure declaring a support of RS 15000 asking the people to buy CGI sheets to protect them from the weather. The amount was intended for the roofing of two rooms.

The philanthropic organizations were quick from the beginning to provide CGI sheets for the shelter. There were already temporary unit models of CGI sheet material that covered both wall and the roof (Fig 14, 15). People consequently followed the CGI box model for their temporary dwelling unit. However, a unit of 3 x 4 m when covered with cgi sheet both in wall and roofing did cost around Rs 40,000. Yet by now, a great many varieties of such temporary sheds are to be found. Such sheds use recycled material from bricks, CGI sheets to doors and windows ( Fig 16a, 16b). These materials supplement to the Rs 15000 support by the state to get the cgi sheet and minimize the cost in building the shed.

At present, in Bhaktapur, which suffered more damage compared to Patan and Kathmandu, municipal records show that 6411 dwellings out of about 18,000 units in the historic town area suffered total damage (Fig 17a, 17b). More than half of the population has to shift either to temporary shelter or find rooms in rent (Fig 18). A considerable number of households live in their relatives’ place. It has been phenomenal that the houses whose upper story collapsed or suffered serious damage are cleared or dismantled leaving only one level over the ground floor (Fig 19). The floor is then given light CGI roofing. These dwellings are now so called ‘half architecture’ and are utilized for kitchen and storage if not for sleeping in the night for fear of further possible shock. The remodeled two story dwelling and the temporary shed which could be at certain distance from the location of the dwelling complement the regular daily life of the inhabitants.

Clusters of temporary shed are built in open spaces within the city or in the open fields in the fringe (Fig 20). The sites are not the planned evacuation sites. A site in Bhaktapur used for emergency shelter that housed around 100 families suffered from a flood in August 27 and had to shift to other location. Most of the sheds are built with the support of NGOs and NPOs, and are of CGI sheets for both walls and roofing with meager floor space of about 12 sqm. The CGI unit was popularized by the donating agencies and by the state and the local government. However, the performance of such units both in summer and winter is evidently worse and is taking the toll on the health of the refugees particularly to the children, elderly, and adults who require health care. In the ongoing winter, reports of death particularly of elderly due to the cold in the newspapers are creeping in. The state is now giving Rs 10000 to warm the winter cold.

It is a pity to know that there was a general trend on the part of the refugees to wait for state or some philanthropic institution to come to their aid. Local skills and material that were in their reach was not called for. It was only late that there are peoples who rather than waiting any outside help relied back to their own local strength in building their shelter. The local building material and the skill certainly will prove beneficial to the inhabitants in the long run.

The state at the early stage of assessing the damage declared a package of financial assistance to those whose houses were completely damaged. The assistance is a flat amount of Rs 200,000 to both rural and urban households. In addition, Rs 25,00000 to the urban household and Rs 1500000 to the rural ones could be provided in the form of low interest against the bank mortgage. The assistance is planned to be provided in installments as the construction of the house proceeds in stages. Further the dwellings have to meet the new construction standard that is specifically tailored to withstand seismic movements. In terms of technical validity, the rules are of empirical nature. Department of Urban Development and Building Construction (DUDBC) under the Ministry of Urban Development, in November, produced a guideline to be followed and to be referred by the municipalities and rural village development committees. In addition, in October, the Department in collaboration with JICA published 17 model types as a guiding reference in the reconstruction of dwelling units in rural areas.[v] The models, in compliance with National Building Code 1994, are of masonry construction of single and double floors, and either in brick or stone with cement or mud mortar reinforced by RCC horizontal tying bands at plinth, sill, lintel and floor levels (Fig 21a, 21b).

 But the models show lack of consideration of cultural patterns. They hardly reflect the floor plans or built forms of the houses that one finds in the rural settings of Nepal. However, certain instances of reconstruction effort from local initiatives that make a prior study of the locality and are sympathetic to the traditional dwelling form are coming up in the scene[vi].

The PDNA puts forth a number of guidelines to follow in reconstruction process-- community participation, coordinated effort of development partners, use of local resource and expertise, disaster risk reduction and resiliency, development of economic opportunities, environmental sustainability and equity. It also recommends the owner driven reconstruction process—the ODR. These theories of recovery have been formulated decades back, which carries much more weight in paper than in practice[vii]. The financial support by the state to build the individual units is accepted by the people, but the low interest loan works in favor of the people with property to mortgage.

Immediately following the aftermath of the quake, the state put a moratorium in building constructions asking the people to wait until a new regulation was formulated. On November, the Ministry of Urban Development brought forth a set of guidelines that controls the design and construction of the building in both the rural and town areas.[viii] To make these regulations work, there is a dire need of capacity building of the municipalities that now count to 217.

Further, the guidelines are to be adopted by respective municipalities while tailoring to their particular standards and needs. Historic towns of the Valley have special problems. After eight months, cities like Bhaktapur have not yet been able to come up with the new regulations. In this uncertainty, there are already instances of beginning of rebuilding by the households in their plots over the same footprint of the damaged building (Fig 22a, 22b).

A more progressive initiative in the reconstruction is shown by a community of Pilachen neighborhood at the eastern quarter of Patan. The locality has formed a community that includes around 85 households whose houses suffered various degree of damage. Their plan is to build together from the ground. But it is going to be in the same footprint of the earlier unit and will be built to meet the individual requirements of floor space. Community spaces such as streets and courtyards and shrines will be part of this community project. The project also explores new economic opportunities to attract tourists with facilities of home stay.

Concepts of urban regeneration are in the air and, occasionally, are the news highlights. However, the individual interests and conservative suspicions are a hard knot to crack, and hinder the way for a concerted community action. Municipality personnel can’t be excluded from this mindset.

Until now, the state has not taken initiatives to reconstruct the villages or the towns that have suffered a degree of damage that asks for the development in the scale of the village or a town block. It is at such places that the state will be in the position to realize the ‘Building Back Better’ concept embodied in the principle guidelines for reconstruction. This is also an opportunity to develop the areas that were inaccessible sectors of the quarter and where living environment were degrading due to excessive construction both in height and density. Entirely left to the principle of ODR, there is an evident danger that houses will be built in the same plots despite their inherent problems of access and difficult plot geometry making them similarly vulnerable to the future earthquakes. Steps towards this direction are urgently necessary to make the use of the financial resource effective that now takes around one third of the annual national development budget. The state should formulate relevant financial and legal framework for community action to support and guide the reconstruction initiatives. International Agencies and governments, such as the government of Japan, which has pledged the assistance of 30 billion yen for the post disaster recovery, should find a strategic framework of cooperation in this direction of housing and town building.[ix] The state at least could build small pilot projects in association with the local communities and create an atmosphere where real life experience is possible that will guide the community further in the rehabilitation and reconstruction works.

It is to be noted that following the 1934 earthquake a section at the southeastern part of the old city of Kathmandu was redeveloped introducing certain ideas of planning of the time (Fig 23). This experience almost is a forgotten past. Likewise, casual observation of the settlements of the Valley suggests an established tradition of community initiatives in building the towns.[x] It is only in modern times that the role of the state and of the community has devolved leaving all the responsibility to ODR. However, it is of importance to note that the post disaster reconstruction and rehabilitation work is an excellent opportunity to invoke the exemplary traditions and the value of which will pay back any financial expenses made in this regard when meeting the present needs.

List of Figures

 

 

Fig 1. Distribution of intensity of Nepal Earthquake 2015, April 25 (Wall Street Journal, US Geological Survey).

Fig 2a. The epicenter—Barpak, Gorkha. This hilly rural settlement thoroughly collapsed.

Fig 2b. Barpak before the quake.

Fig 3a. Dharahara before the quake (Wikimedia)

Fig 3b. Dharahara after the quake (Narendra Shrestha).

Fig 4. The quake created a fault in the Bhaktapur-Kathmandu section of Araniko Highway leading to the Chinese Border

Fig 5a. The Bhaktapur Palace Square (at the centre is the Vatsala devi temple in Sikhara style)

Fig 5b. The Vatsala devi temple collapsed from the plinth level.

Fig 6. Buildings of heritage importance are now supported by the side stays. The photo is a residential building in Khauma, Bhaktapur.

Fig 7. The Nyatapola (Five Story) Temple, Bhaktapur.

Fig 8. The medieval Hanuman Dhoka Palace in Kathmandu  suffered most serious damage. At right is 19th c neoclassical palatial building; In the front can be seen two pyramid like structures which are the stepped plinths of the two three tired temples that collapsed

Fig 9a. Kasthamandap, Hanumandhoka Palace Square. A 19th c painting, History of Nepal (Oldfield, H.)

Fig 9b. Kasthamandap after the quake. The structural members are transported to other location within the square.

Fig 10. The pancake type collapse of RCC structure, Sitapaila, Kathmandu.

Fig 11. The collapse of infill brick walls in a highrise apartment structure, Kathmandu.

Fig 12a, 12b. People taking emergency shelter in Sundhara Square (12a), and at a pati, a colonnaded structure (12b), Patan.

Fig 12c. Tudikhel, Kathmandu. Within a week the population taking emergency shelter reached around 12,000.

Fig 13. The tarpaulin sheet used for the emergency shelter

Fig 14. A model shelter by Arun Chaudhari put at Tudikhel, Kathmandu.

Fig 15. The CGI sheet boxes are the most common scene at present adopted for the transitional shelter.

Fig 16a, 16b. Different forms of the transitional shelter. The use of recycle materials. 16a uses the wooden members of the collapsed house; 16b uses fine earth packed plastic bags for walls and reuse of windows.

Fig 17a. A Damage Assessment map of Bhaktapur. UNOSAT (unitar.org/unosat)

Fig 17b. Jelan neighborhood, at the east of Bhaktapur, suffered heavy damage

Fig 18. A survey showing damage assessment of houses in Taulachhen, Bhaktapur. It also shows houses that are considered uninhabitable by the residents (Survey: Khwopa Engineering College, B. Arch 4th yr).

Fig 19. When the top floors collapsed, the dwellings are given roof at second floor and used for living or storage, Khala, Bhaktapur.

Fig 20. Clusters of temporary sheds of CGI sheets are built in available open spaces and in fields at the fringe of the old city.

Fig 21a, 21b. One of the model houses proposed by JICA and DUDBC for rural areas.

Fig 22a, 22b. New RCC structures and brick in mud mortar being built in the original dwelling sites, Bhaktapur.

Fig 23. A new area redevelopment immediately following the 1936 great earthquake, Kathmandu. 


[i] Gorkha bhukampa, 2072 (Gorkha Earthquake, 2015), Govt of Nepal, Jeth 12.

[ii] Milan Bagale, Barpak visit report (unpublished); Tandan, Pramod Kumar, Hakahaki, Dec 2072.

[iii] drrportal.gov.np

[iv] Nepal Earthquake 2015 Post Disaster Needs Assessment, Vol A: Key Findings; Vol B: Sector Reports. Govt of Nepal, National Planning Commission, Kathmandu, 2015.

[v] Design Catalogue for Earthquake Resistant Houses, Vol 1, Govt of Nepal, Ministry of Urban Development and Building Construction, Nepal Housing Reconstruction Programme, 2015, Oct.

[vi] A reconstruction program in Gudel Village, Solukhumbu initiated by Gudel Kiduk Samaj and CODE, Kobe.

[vii] Gujarat Earthquake Reconstruction and Rehabilitation Policy (GSDMA), The Gujarat State Disaster Management Authority, 2001.

[viii] Vasti vikas, sahari yojana tatha bhaban nirman sambandhi mapadanda, 2072 (Standard on Housing, Town Planning and Building Construction, 2015), Ministry of Urban Development (MoUD), 2015 Oct.

[ix] The Himalayan Times > Business > Japan assistance for Nepal earthquake recovery, Dec 21, 2015. This is a follow up of the International Conference on Nepal’s Reconstruction held on June 25, 2015.

[x] Stupa and Swastika—Historic Urban Planning Principles, Pant Mohan and Funo Shuji, 2007, Kyoto University Press.


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...