このブログを検索

2026年2月21日土曜日

研究発表:第15回都市形成・計画史公開研究会長崎:日本の空間景観システムと世界のシステム,オランダ植民都市と近代世界システム長崎歴史文化博物館2005年12月3日

 研究発表:第15回都市形成・計画史公開研究会長崎:日本の空間景観システムと世界のシステム,オランダ植民都市と近代世界システム, 長崎歴史文化博物館2005123


オランダ植民都市と近代世界システム


はじめに

『近代世界システムと植民都市』(布野修司編著、京都大学学術出版会、2005年)が対象としたのは、17世紀から18世紀にかけてオランダが世界中で建設した植民都市である。オランダ東インド会社VOC、西インド会社WICによる多くの植民都市の中で、出島は唯一の例外である。オランダは平戸に商館を建設したが、すぐさま解体を命じられている。出島を建設したのは長崎の有力商人達であった。オランダ人たちの生活は、江戸参府の機会を除いて、出島の小さな空間に封じ込められるのである。オランダ人にとって出島はいわば「監獄」のような空間であった。しかし、オランダが支配しつつあったのは広大な世界である。

出島および長崎の都市形成については、多くの既往研究に譲ることとし、本稿では、出島が存続した時代にオランダ人が交通していた世界の都市について概観したい。

 

1.日本とオランダ

 オランダ船リーフデ(Liefde 慈愛)号が豊後の臼杵湾に漂着したのは、関ヶ原の戦いの半年程前、1600(慶長5)年419[1]のことである。オランダと日本の歴史的な出会いとなった。

 日本が西欧世界と初めて接触したのは、中国人倭寇のジャンク船に乗船した3人のポルトガル人が種子島に漂着した1543923日である。種子島の領主、時堯は、この招かれざる来訪者を手厚くもてなし、火縄銃と火薬の製造法を学んだ。この火器の伝来が日本の天下統一に大きな作用を及ぼしたことはよく知られるところである。同じ年、コペルニクスの地動説が発表されるが、日本社会のコペルニクス的転回もまさに1543年に始まる。

翌年にはスペイン人ペロ・ディエスが訪れ、1546年にはジョルジェ・アルヴァレスの商船が来日する。そして、マラッカで、このアルヴァレスとアンジロー(ヤジロー)から日本についての情報を得たフランシスコ・ザヴィエルFrancisco de Xavier(150252)が、アンジロー、コスメ・デ・トレス、ジョアン・フェルナンデスを伴って鹿児島に着いたのが1549815日である。このときにザヴィエルが乗っていた船も倭寇のジャンク船である。ザヴィエルは半年鹿児島に滞在した後、京都に赴くが「国王謁見」を果たさず(1550)、平戸、山口などに23ケ月滞在した後、豊後を出帆(1551)、中国へ向かいマカオ付近に上陸直前、三州(上川)島で病没する。このいくつかの偶然を経緯とする世界史に残る出来事以降、イエズス会による日本布教が始まる。北九州の有馬、大村、大友など多くの大名が洗礼を受けてキリシタンcristãoとなった。

ポルトガルは、種子島漂着以降、頻繁に九州各地の港に出入りする。1550年にドゥアルテ・ダ・ガマが平戸を訪れて以来、定期的に日本に交易船を送るカピタン・モーロ制[2]が開始される。同時に日本人の海外渡航も本格化しようとした。ザヴィエルとともに出発し、中国からインドに渡った日本人ベルナルドは、日本人として初めて1553年にリスボンに着いている。マカオがポルトガルの交易、布教の拠点となったのは、1557年に居住権が認められて以降である。ガスバル・ヴィレーラが将軍から布教許可を得たのが1560年(1571年離日)、ルイス・フロイス[3]来日が1563年、フランシスコ・カブラル、オルガンティーノ来日が1570年、さらにアレッサンドロ・ヴァリニャーノ来日が1579年である。彼らは当時の日本の状況について貴重な記録を残している。ヴァリニャーノは、1582年、九州の3人のキリシタン大名の推挙をもとに青年代表を組織してローマに送った(天正遺欧少年使節団)。彼らはリスボンに上陸、サン・ロケ教会に1ヶ月滞在した後、エル・エスコリアルでフェリペⅡ世に謁見している。帰国は1590年である。

マラッカの司教区(1557年設置)から中国、日本司教区が独立したのは1575年である。初代司教ドン・ベルシオール・カルネイロ(在位15761580年)、後を引き継いだドン・リオナルド・デ・サー(158197)以降、中国、日本司教区の司教たちの継承順については、ジョアン・ロドリーゲスの『日本教会史』[4]が書いている。

ポルトガル船によって来日した中には他の外国人も含まれていた。ザヴィエルはそもそもスペイン(バスク)人であり、ヴァリニャーノはイタリア人である。しかしもちろん、彼らの来日はポルトガル国王を後ろ盾としたものであった。一方、スペインは、マニラに拠点を築き、中国日本への進出を企てつつあった。マニラからマカオへ向かうポルトガル船が流されて、乗船していたスペイン人修道士が平戸に到達したのは1584年のことである。翌年、グレゴリオⅩⅢ世の教令が発布され、日本への布教は東回りのポルトガルのイエズス会士に限られることになる。日本布教における混乱を避けるためにヴァリニャーノが教皇に要請した結果である。その結果、スペインはマニラに待機せざるを得なくなるが、1587年に秀吉のキリスト教禁止令が出て、日本布教の可能性を探ることになった。折しも、交易のためにマニラを訪れた原田喜右衛門がマニラのスペインについての情報をもたらしたことから、秀吉はマニラ総督に日本入貢の威嚇的勧告状を送る(1592)。日本とスペインとの正式な交渉が始まるのはこれを契機にしてのことである。マニラから3回送られた使節団の第3回目(1594)に宣教師に混じって日本を訪れ、『日本王国記』[5]を書いたのがアビラ・ヒロンである。

こうして、マカオとマニラを拠点として日本をねらうポルトガル、スペインに割って入ったのがオランダであり、そのきっかけとなったのが1600年のリーフデ号の漂着であった。

リーフデ号を含む5隻の船隊がフレーGoeree港を出帆したのは1598627日である。船隊はマゼラン海峡経由で東インドを目指した。しかし、1隻は途中で引き返し、1隻はチリでスペイン軍に投降、1隻は太平洋で沈没、さらにモルッカ諸島にたどり着いたもう1隻の乗組員はポルトガル人に皆殺しにされた。悲惨な航海となった。

唯一日本に到達したリーフデ号とて悲惨さは同じである。上陸したのは総員110名のうちわずか25名、5名は直後に死亡、生存者は船長ヤコブ・ヤンツ・クワケルナークJacob Jansz Quaeckernaeck、操舵手、英国人ウイリアム・アダムス(三浦按針)、書記メルヒオル・ファン・サントフォールトMelchior van Santvoort、ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインJan Joosten van Lodensteyn20名にすぎなかったのである[6]

 この20名の命からがらたどり着いたリーフデ号の乗組員たちが徳川家康の庇護を受け、幕府の顧問として、通詞として、また、貿易商人として活躍したことはよく知られている。ヤン・ヨーステンの名は「八重洲」という地名として残っている。日本側に資料は残されていないが、家康は、リーフデ号の武器を使い、オランダ人を砲手として用いた。そして、オランダの日本における貿易活動を準備したのはリーフデ号の乗組員たちであった。

クワケルナークが家康から朱印状を与えられ帰国を許されるのは1605年である。彼はパタニのオランダ商館に行き、ロッテルダム出身の従兄弟、コルネリウス・マテリーフCornelis Mateliefに会った。歴史の綾とともにオランダ人の世界をまたにかけてのネットワークが既に成立しつつあることがうかがえる。数奇な運命と言うべきか、クワケルナークはジョホール沖でポルトガルと戦闘中に死亡、帰国を果たしていない。

1609年、ローデ・レーウ・メット・ペイレン号とグリフィウーン号の2隻が平戸に入港し、マウリッツ公の書簡が届けられた。リーフデ号の漂着から10年たって、公式の交易関係が樹立されたのである。オランダ東インド会社の会社業務の責任者として日本に残ったヤックス・スペックスはヤン・ヨーステンとともに、自らシャム(アユタヤ)の商館との貿易を展開するために中国のジャンク船を購入して艤装した。また、平戸の密貿易商の頭目であるカピタン・チナこと李旦とともに中国貿易に従事した。このスペックスが平戸に出入りした12年間にオランダと日本の貿易関係の礎が置かれることになる。

ところがスペックスが去り、後任のレオナルト・カンプスLeonard Campsが着任する頃からその関係は悪化する。1621年にスペインとの休戦協定が終わり、オランダとスペインとの緊張関係が再び高まったことが大きい。オランダが台湾に交易拠点としてゼーランディア城を築いたことも幕府を刺激した。そして、キリスト教布教に対する弾圧の流れが決定的となった。 1639年のポルトガル人追放、1641年のオランダ商館の出島移転に至る徳川幕府の海禁政策の結果、いわゆる「鎖国」体制が敷かれるのである。

こうして、オランダは日本にとって唯一世界への窓口となった。科学技術、医学など、「鎖国」体制においてオランダが日本にもたらしたものは大きい。蘭学は日本の近代化を用意したと言っていいだろう。そして、「鎖国」の間、唯一、世界情報の供給源となった日蘭交渉についての日本での関心は高い。村上直次郎の『日蘭三百年の親交』[7]が出されたのは1914年、戦後も、板沢武雄の『日蘭交渉史の研究』[8]、金井圓の『日蘭交渉史の研究』[9]がまとめられている。つい近年も日蘭交渉400周年を記念して、日蘭学会によって『日蘭交流400年の歴史と展望』[10]がまとめられたところである。また、『江戸のオランダ人』[11]、『平戸商館物語』[12]などが出版され、オランダでもグラント・グッドマンの『日本とオランダ 1600-1853[13]が出版されたことは歴史的関心の深さを示している。

とりわけ強調すべきは、17世紀がオランダの「黄金の世紀」であったことである。世界史的にみて、17世紀は「オランダの時代」である。独立国家として呱々の声あげたオランダはたちまち「ヨーロッパ世界経済」の中核となる。I.ウォーラーステインの世界システム論に拠れば、資本主義的世界経済の歴史において最初のヘゲモニー国家となったのがオランダである。ヘゲモニー国家とは、世界市場の最も自由な状態において、最も競争力を持ち、最も利益を享受しうる国家のことである。17世紀になって、生産、流通、金融のそれぞれの次元においてオランダは圧倒的な優位にたった。そのオランダを通じて最先端の情報がもたらされたのである。

 実はリーフデ号の日本漂着以前に日本を訪れたオランダ人がいた。ポルトガル船の砲手としてゴアに滞在していたエンクハイゼン出身のディルク・ヘリッツゾーン・ポンプである。1585年にゴアから中国を経て、日本を訪れている。この時の経験を買われてポンプもリーフデ号の艦隊に乗り組んだが、途中でスペイン人に拿捕されてチリへ連行され、日本には至っていない。このポンプがヤン・ハイヘン・ファン・リンスホーテン(15631611)の盟友であった。そして、波乱に満ちた航海の末、ともにゴアからエンクハイゼンに戻っている。

 リンスホーテン、そしてポンプがオランダの海外進出に果たした役割はよく知られている。1580年のスペインによるポルトガル併合によって、ポルトガルの港湾から閉め出されて以降、海外拠点を求めてオランダがとった方針は、第1にスペイン・ポルトガル連合王国の勢力の及ばない地点を探すことであった。ポルトガルもスペインも、地理学的情報は国家機密として管理していた。その秘密主義の故に、エンリケ以降蓄積された海図の大半は今日まで伝えられていない。しかし、リンスホーテンらのようにポルトガルで働くオランダ人船乗りによってまず多くの情報が収集され、オランダにもたらされることになった。2人とも東洋におけるポルトガル植民地についての情報を地図や海図と共に出版するのである。有名な神学者で地理学者であったペトルス・プランチウスは、ヘラルド・メルカトールの弟子であった時代に、スペイン王のための地図製作者であったバルトロメウ・ラソを通じて、西インド、アフリカ、中国についての情報や詳細な海図を密かに手を入れていた。

そして、「遠国会社」による最初の航海が行われたのは1595年であった。コルネリス・ド・ハウトマンを艦長とする4隻の艦隊がオランダ独自の東インド航路を開くことになる。そして、1602年にオランダ東インド会社(VOC Vereenighde Oost Indische Compagnie)が設立される。それ以前に、こうしたいわゆる先駆諸会社フォールコンパニーエンが航海を企て、その経験がVOCの活動の基礎になる。VOC以前、いわゆる先駆諸会社が派遣した船団は計9回、34隻になる。そのうち帰国できなかったのはリーフデ号が参加した船団のみであった。

VOC1603年にジャワのバントゥン(バンテン、バンタム)に商館を建設し、1605年にマルク諸島のアンボンAmboina、テルナテTernate、ティドーレ Tidoreを押さえた。そして、次々に各地に交易拠点、そして植民都市を建設していくことになる。

 

2 オランダ植民都市

オランダが海外進出に伴って建設した植民拠点(商館、要塞、都市)は膨大な数にのぼる。一時的に建設されたロッジ(宿所)、や前哨基地も合わせるととても把握しきれないほどである。ファン・ダイクらの、「マンハッタンから韓国[14]まで」をサブタイトルとする『海外要塞』[15]があるが、網羅はしていない。幸い、A. F. ランカーLancker[16]1987)がほぼ全ての要塞を地図上にプロットしてくれている。

まず、オランダの海外拠点の全容を把握するために、その立地、土着の都市との関係、存続期間、規模、形態、機能など様々な観点から大きく分類してみたい。

極めてわかりやすく本質的なのは、城壁、市壁など居住地を限定づける境界のあり方である。植民都市が支配-被支配(中心-周縁)関係の媒介(結合-分離)空間であり、異質な要素の重層的複合空間であるとすれば、空間の分離のあり方にまず着目する必要がある。

序章でも簡単に触れたが、都市のフィジカルな構成という観点からすると、ロッジ(ロヒー)logies商館factorij、要塞fort, vesting、城塞kasteel、市街stadというように、様々な呼び方によって区別されるように、そのうちに含む要素によって、植民都市の規模やレヴェル、段階を区別することができる。

O ロッジ lodge

 商館 factory

B 要塞化した商館あるいは商館機能を含む要塞 fortified factory

C 要塞 (+商館)fort(+factory)+集落

 要塞市街 fort+city

 城塞 castle

 城塞市街 castle+city

Aは、交易のみのための最小限の施設である。ポルトガルの最初期の交易拠点は商館のみが置かれるだけのものが多い。専用の商館をもたないロッジの段階Oをこれ以前に区別できる。ロッジは、沿岸部の交易拠点ではなく、内陸の地方市場に設けられたものをいう。F.S.ハーストラは、ロッジ、商館の発展段階を、①土着物産の購入と積み出しの段階、②商品を予約注文し、積み出しまで保管する段階、③商品の供給者に前渡金を供与し、生産管理行う段階、④物産を全て掌中に握る段階に分けている[17]

商館も現地社会との関係によって防御設備が必要となる。A、Bの区別は必ずしも明確ではないが、要塞の内部に商館機能を含むかどうかで基本的にCとは区別される。要塞とは別に商館が設けられることも少なくない。要塞は戦闘を前提にした防御施設である。基本的には軍隊あるいは兵士が常駐する。平時は使用せず、有事に立て籠もるかたちもある。

商館あるいは要塞の周辺にヨーロッパからの移住者のみならず各地からの移民や現地民などが周辺に居住し始めると、宣教、教化のための教会や修道院など諸施設が建てられる。そして市街地が形成され、全体が市壁で囲われたものがDである。港湾に立地する植民都市の場合、市街によって要塞が囲まれる形より、要塞と市街が連結した形態をとることが多い。そして、要塞と市街が一体化したのがEである。CとEの違いは単に規模の違いではなく、内部に居住区を含むかどうかの違いである。さらにその外郭に一般人(あるいは現地人を含めた)居住地が形成されるのがFである。単純な分類であるが、序章でみたように、既存の集落、現地住民の居住区との関係でさらに分類できる。さらに、全くの処女地に計画されたものと既存の都市ないし集落を基にして建設されたものを区別することができる。オランダの植民都市はマラッカやセイロンの各都市などポルトガルの城塞を解体再利用したものが少なくない。

植民都市という場合、一般的にはD~Fがそれに当たる。しかし、既存の都市あるいは集落にA~Cが付加される場合、それも植民都市と呼べるだろう。都市の起源、その本質をどう規定するかが問われるが、市(マーケット)の機能をその本質的要素とするなら、たとえ商館ひとつの建設でも都市成立の条件とはなる。また、防御機能を都市の本質と考えれば、要塞の建設は都市建設の第一歩である。

数多くの植民都市の事例を見ると、A→Fは歴史的に段階を踏んで推移するように思われる。また、理念的にもA→Fの過程は、必然的なものとして想定できる[18]。従って、どの段階をもって類型化するかが問題となる。当然のことながら、歴史的な時間の経過とともにひとつの都市も形態や機能を変えて行くのである。そうした意味では、予め全体計画がなされているかどうかは分類の大きな視点となる。

 

3 オランダ植民都市の類型

都市形態、街区形態に焦点を置く際に手掛かりになるのは残された地図や絵画資料である。幸いデン・ハーグの王立公文書館ARAには膨大な地図資料が系統的に残されている。その膨大な地図資料を整理することによって、ファン・ウールス[19]は、157のオランダ植民都市(VOC管轄:南アフリカ6、東インド87WIC管轄:西アフリカ26、アメリカ38)をリストアップしている。地図が残されているということは、オランダ植民都市の中でも一定の重要性をもった都市であると考えていい。

ARAに地図が残されている157の植民拠点、植民都市のうち、都市のレイアウトが表現された都市図が残されている都市は38である。

38のオランダ植民都市の中から、都市の空間構成が読みとれるのは17であるが、その立地、規模、街路形態、全体配置・構成などについて整理すると、表のようになる。

まず、立地をみると、全く新たな処女地に計画都市として建設されたのは以下の都市である。

ウィレムスタット:キュラソー(オランダ領アンティール)/ケープタウン:南アフリカ/パラマリボ:スリナム/フィリップスブルグ:サン・マルタン(オランダ領アンティール)/スタブルーク(ジョージタウン):ガイアナ/ニーウ・アムステルダム:ガイアナ

最も代表的なのは、東インドへの中継基地として、新たに建設されたケープタウンであろう。他は、いずれもカリブ海に位置する交易拠点である。

土着の都市が存在していた場所にオランダが新たに建設したかたちとなるのが、

バタヴィア/スマラン/スラバヤ

といった今日のインドネシアの諸都市である。この3つの都市はいずれもジャワ北岸に位置しており、よく似た立地をしている。もちろん、代表となるのは東インドの拠点であり続けたバタヴィアである。

ポルトガルの拠点を奪って建設したのが、

アンボイナ/マラッカ/コロンボ/ゴール/コーチン/ネゴンボ/レシフェ

などである。ポンディシェリはフランスの拠点を占拠した例であり珍しい。レシフェは、ポルトガルのオリンダの資材を使って建設されたが全く新たに建設されたと考えていい。ポルトガルの拠点をベースとした都市としては、まず、マラッカ、そしてコロンボ、ゴールなどセイロンの諸都市、マラバール海岸のコーチン、コロマンデル海岸のネゴンボといった、要するに、VOCの交易拠点として大きな役割を担った都市がピックアップされる。

 植民都市としての存続期間をみると、現在もオランダ領であるウィレムスタット、フィリップスブルグ、そして1975年までオランダ領であったパラマリボがひとつのグループとなる。また、バタヴィアとどオランダ領東インドの諸都市が代表的なオランダ植民都市となる。そして、ポルトガルから奪取し、18世紀末から19世紀初頭にかけてイギリスに割譲された、しかし、オランダ時代の都市の骨格を今日に伝えるケープタウン、マラッカ、コロンボ、ゴール、コーチンなどが第3のグループとなる。ニーウ・アムステルダム(ニューヨーク)、レシフェ、ゼーランディアなどは存続期間は短く、第4の類型となる。

都市の形態、空間構成をみよう。主要なオランダ植民都市をまずAFの型に当てはめると図Ⅲ-1-5のようになる。

A 商館 factoryのみの例は枚挙に暇がないが、出島がひとつのモデルである。B 要塞化した商館あるいは商館機能を含む要塞 fortified factoryも例は多いが、フーグリー、スマラン(初期)などの図が残されている。C 要塞 (+商館)fort(+factory)は、要塞および商館が既存の集落が立地する場所に建設される場合と要塞の周辺に商館とともに集落が建設される場合(ゼーランディア/エルミナ/パラマリボなど)があるが、ケープタウンやスタブルーク、ニーウ・アムステルダム(ニューヨーク)などは市街が明確に計画される例である。そして、市街が市壁で囲われるD 要塞+市街 fort+cityの類型には、アンボイナ、バタヴィア、スラバヤ、ポンディシェリ、ネゴンボ、ウィレムスタット、レシフェなどがある。オランダ植民都市の典型である。他の類型として、E 城塞 castleには、コーチン、ゴール、ジャフナなど、F 城塞+市街 castle+cityにはマラッカ、コロンボがある。D、Fの例に見られるように、城郭の二重構造、要塞と市街との二元的構成を基本としているのがオランダ植民都市である。

 もちろん、ポルトガル植民都市もまた城郭の二重構造を基本としている。アントニオ・ボカロの『東インド領のあらゆる城塞、町、村についての書』[20]1635年)に載せられた20都市を見ると、モサンビーク(要塞、村、島)、モンパサ(要塞、島)、マスカット(要塞+城塞)、リベディア(要塞+村)、ディウ(要塞+城塞)、ダマン(要塞+城塞)、アガサイム(要塞+村)、パサイン(城塞⊃要塞)、タナ(要塞、村)、チャウル(要塞+城塞)、チョラン(城塞)、サルセテ(要塞)、マンガロール(要塞+城塞)、カナノール(要塞+城塞+城塞)、クランガノール(要塞+城塞)、コーチン(城塞)、コウラン(要塞+城塞)、サン・トメ(城塞)、マカオ(要塞+城塞)となる。オランダは基本的にポルトガルを踏襲しているとみていい。実際、コーチン、マラッカなど直接ポルトガル要塞を引き継いでいる。ただ、立地の選定にまず違いがある。専ら「低地」を選定するオランダに対して、ポルトガルは小高い丘を抱えた入江を選定する傾向がある。リスボンがモデルになっていたのではないかと思われる。起伏のある丘に建設されたマラッカやオリンダ(ブラジル)がその典型である。オランダはそのオリンダを破壊して、低地にレシフェを建設する。本国における築城術の伝統の違いである。

 オランダ植民都市の多くががグリッド・パターンを採用していることも丘陵地へ立地することの多いポルトガル植民都市との違いである。整然としたグリッド・パターンを全面的に採用し、市壁をもたないスペイン植民都市ほど徹底しないが、ケープタウン、スタブルーク、パラマリボなどでは明確なグリッド・パターンが採用されている。都市の内部構成、すなわち、基幹構造、施設分布、街区構成、住居類型などをめぐってそれぞれの植民都市に差異はあるが、形態的には、一定のモデル、あるいは一定の建設手法があったと考えられる。

 


4 オランダ植民都市のアジア・ネットワーク

オランダの交易拠点のネットワークは、西インド、東インドの全体に巡らされることになった。オランダの黄金時代を支えたのがこのグローバル・ネットワークである。このネットワークは18世紀末に至ってその大半を英国に譲り渡されることになる。それまでの間、すなわち、17世紀初頭からほぼ2世紀にわたって多くのオランダ人たちが海外に出掛け、各地で暮らした。

オランダの絶頂期168788年にVOCの在東インド職員数は、F.S.ハーストラによれば、航海中の船上の者も含めて21900人であった[21]。当時のアムステルダムの人口が約20万人(1688年)であったことを考えると、海外のウエイトは極めて大きかったことがわかる。その後、船員については8440(1688)8920人(1700)、12720人(1753)、9750人(1780)とほぼ変わっていない。しかし、彼らが運んだ人数は相当数に及ぶ。海外在住者は18世紀には倍増していたと予測される。オランダ東インド会社が16021795の間に送った船団は表のように推計されている。

VOCが存続した1602年から1795年までの期間中、オランダ本国を出国したのはほぼ100万人で、帰国したのは40万人にみたかった。VOCの職員の任期は35年であったが、海外生活には多くの困難を伴い、戦闘や遭難、伝染病などで死亡した者も少なくなく、60万人は海外に出たきりとなったのである。確かに、オランダ人は、世界史上初めてグローバルな拡がりの中で住む経験をしたのである。

オランダ人たちはどのような居住地をつくりあげたのか。オランダが建設した夥しい交易拠点のネットワークについて概観しよう。

それぞれの交易拠点における居住空間の編成は、まず、その交易方法、すなわち植民地支配の方法によって異なる。上述したように、植民地支配には①領域支配による交易独占、②地域の支配者を通じての交易、③条約や協定に基づく交易の3つが区別できる。地域社会との関係の取り方によって必要とされる施設は異なるのである。また、その拠点の経済的軍事的重要度によって異なる。交易ネットワーク上重要である拠点には必要とされる施設も多く、数多くの人口が居住するからその規模は当然大きくなる。

東インドについて見ると、各交易拠点の168788VOC社員の海外在住人口は表のようである。

ヨーロッパ人職員についてみると、バタヴィアBatavia(2641)、セイロンCeylon(2631)、ジュパラJapara(841)、アンボンAmbon(797)、バンダBanda(710)、マラバールMalabar(コーチンCochin(619)、マッカサールMacassar(467)、コロマンデルCoromandel(ナガパットナムNegapatnam(683)、テルナテTernate(417)、マラッカMalacca430)、バンタムBantam(427)、ジャンビJambi(201)、スマトラSumatra(195)、チモールTimor145)、パレンバンPalemban96)、スラトSurat(78)、ベンガルBengal(72)、シアムSiam37)、長崎(27)、ペルシャPersia(26)、トンキンTonkin(7)、アモイ Amoy(4)の順である。総人員は、セイロン(5497)、バタヴィア(4671)、バンダ(1874)、コロマンデル(1467 、アンボン(951)、マラバール(859)、・・・となる。名称と今日の地域区分が合致しないが、当時の管轄区分である。マラバールの中心はコーチンであり、コロマンデルの中心はナガパットナム、スマトラはパダンPadangである。ジャワ島には、バタヴィア、バンタムの他、ジュパラに拠点が築かれていた。

人数は、17世紀末における各都市の重要度を示すだろう。バタヴィアそしてセイロンが2大拠点となっていること、セイロンを拠点に、インドに対してはコロマンデル、マラバール両海岸に触手を伸ばしていたこと、マルク諸島には当然大きな人員が割かれていること、ジャワ島東部でジュパラのウエイトが大きかったことなどを読みとることができる。現地職員の数は、現地社会への土着化の度合いを示している。セイロンはバタヴィアより2倍の現地民を採用している。奴隷は、セイロンとバタヴィアに集中的に配されていた。

もう少し詳細にヨーロッパ人職員11,551人(1687/88)の構成をみると表Ⅱ-3-6のようである。その大半(67.6%)が軍人で、船員が12.2%、会社の中枢を担っていたのは7.6%である。都市建設に関わる技術者はその他に含まれている。

船員については、1413人というのはアジアを拠点とする人数であり、アジア海域で活躍していた船員全体については以下のようなデータがある。各交易拠点に居住する人数に匹敵する船員が各拠点をネットワークで結んでいたことになる。アジアの域内で交易を行う船員の数は相当数に上るから、上に見た各交易拠点の居住人口は膨らむことになる。

17世紀半ばの段階で東インドにおける通商圏は、完全にオランダの支配下に置かれたマルク諸島、バタヴィアを中心として西はマラッカ、東はマカッサルまでの圏域、そしてそれ以外すなわちマラッカ以西、ボルネオ以北という三つの圏域からなっていた。この第3の圏域のうち、北方には台湾、出島、中国、トンキン、シアムがあり、バタヴィアと繋がっていた。西はまずセイロンを一大拠点として、ナガパットナム、コーチン、アラカン、ベンガル、スラトによってインド亜大陸にとりついていた。そしてさらに西方にはモカがあった。マラッカは、インド、ペルシャをバタヴィアにつなぐ東西交渉の要として重要であった。

18世紀に入っての各交易拠点の人口推移はおよそ以下のようである。18世紀初頭には1687/88段階より約7000人増えている。そして、18世紀半ばにピークを迎え、それ以降は全体として人口は減っている。そうした中でケープタウンが増え続けているのが目立つ。中心は、バタヴィアとセイロンであり、セイロンを拠点にマラバール、コロマンデル両海岸にとりついているかたちは維持されている。スラトは18世紀後半急速に重要度を減じている。新たに人員が配されたのは、東ジャワ、そして西スマトラである。アンボン、バンダ、テルナテ、チモールにも一定の人員が配され続けている。18世紀末には、ボルネオ(カリマンタン)のポンティアナック、バンジャルマシンに拠点が設けられる。

 ニシン漁とともに成長してきた造船業を背景として、VOCは自ら造船業者としてその発展を方向づけた。各カーメルは「17人会」によって船団の艤装を義務づけられ、それぞれ独自の造船所、ドックを所有するに至る。VOC17世紀中に約1500隻の船を建造したとされる。造船技術の発展が「オランダ海洋帝国」を支えたことは言うまでもないが、季節風や海流などについての知識を含めた航海術も極めて重要である。出航時期、航海ルート、航海期間、寄港地、目的地、滞在期間、帰港時期などをVOCは体系的に管理する必要があった。VOCは、初期にはルートを指定せず、船長の経験をもとに最短距離を模索している。精力的に航海日誌が収集され、海図が集められて研究された。1614年頃まではヴェルデ岬が寄港地とされたが、1616年にテーブル・ベイが寄港地に指定されるとアジアへのルートがほぼ一定する。VOCが公式の航海指図書を発行したのは1617年である。

航海指図書は当初秋の出航を指定していたが、1627年に5月出航の指図書がつくられている。1655年にはあらゆる種類の海図、指図書が編集されて印刷されている。また、航海に必要な機器類が集められてアムステルダムのVOCカーメルに展示されるまでになっている[22]

こうしてオランダからは、9月のケルミス(定期市場の名称)船隊、12月あるいは1月のケルスト(クリスマス)船隊、春のパース(イースター)船隊の3隊が送られた。まず、スコットランドの北を回り込んで大西洋へ出る。そしてヴェルデ岬諸島の南を経て南アメリカの海岸に近づき、大きく弧を描いて喜望峰へ至った。海流の流れによるとギニア湾に吸い込まれるし、場合によると北に押し戻される。東インド会社と西インド会社の航路の分岐は地球儀を見るとよくわかる。喜望峰からは子午線に沿って直行するとまさにスンダ海峡に到達するが、1610年以降は危険を避けて少し南に迂回しアムステルダム島に寄港するのが通常となっていた。

当初ガムロン、スラト、コロマンデルへ直航したが、1636年以降はバタヴィアが集散地とされた。1665年にセイロンとの直航便が開かれ、ベンガルやコロマンデルへ直航便が拡大されたが、バタヴィア政庁が巻き返し、1700年にはゴールへの直航便が残された。その後,1728年広東との直航便が開かれ1756年まで続いた。また、1734年から最新モードに合う織物をいち早く持ち帰るためにフーグリが直航便の着く第3の港となった。

1636年の『バタビア商館長日記』[23]をもとに、科野孝蔵はバタヴィア港の発着隻数と輸出入品を明らかにしている[24]。発着隻数については、ジャワ島各港との間の発着が58.2%、それを含めたスンダ諸島との発着が75.1%を占める。モルッカ、ボルネオ、セレベスが9.2%で、84.3%がインドネシア各地との交易である。大型船を用いた遠隔地との交易としては、台湾・日本、中国、インド、ペルシャ、そしてオランダとの発着が記録される。17世紀中葉の交易品は以下のようである。

オランダ→ 毛織物・雑貨 →バタヴィア→ 磁気・漆器・香辛料・砂糖・銅→オランダ

ペルシャ→ 皮革・絹織物 →バタヴィア→ 砂糖・銅 →ペルシャ

インド→  綿・絹織物・雑貨 →バタヴィア→ 銀貨・砂糖・銅→インド

日本→ 銀貨・銅・米・樟脳・漆器・板→バタヴィア→ 生糸・絹・毛・絹織物・香辛料・染料→日本

中国→ 生糸・絹織物・磁器 →バタヴィア→ 染料・香水・香辛料・海草→中国

バタヴィア→ 香辛料・香水・船・水牛の角→台湾

モルッカ→ 香辛料 →バタヴィア→ 銀貨・絹織物→モルッカ

シアム→ 鹿皮・米・蘇木・チーク板 →バタヴィア→ 

カンボジャ→ 米・ゴム・薬物・塩魚 →バタヴィア→ 銀貨・銅・織物・樟脳→カンボジャ

広南 → 中国製品・磁器 →バタヴィア→ 銀貨・銅・樟脳・雑貨→広南

当初、オランダ本国へ送られた物は香辛料である。半分は胡椒であった。しかし、時代とともに胡椒のウエイトは低くなり、織物の比率が上がっていく。また、18世紀に入ると、茶とコーヒーの割合が増えていく。コーヒーの木そのものは東アフリカ原産であるが、その飲料としての利用はアラビア、イエメンに始まる。15世紀末にスーフィーたちが常用し始め、専らイエメンがコーヒーの供給源となった。イエメンは1536年にオスマン・トルコに征服されるが、コーヒーは、カイロあるいはレヴァント商人を通じてその交易圏となるイスラーム圏にまたたくまに広がりを見せ、17世紀中葉以降ヨーロッパに伝わる。モカのコーヒーがアムステルダムに定期的に輸入されるようになったのは1663年である。しかしオランダは、それ以前からコーヒー交易に参画していたことが知られる。表には示されないが、インド、インドネシアのムスリムのためにコーヒーを輸送していたのである。ヨーロッパにコーヒーが広まり諸都市にコーヒー・ハウスが建ち並ぶようになると、イエメンのみからの供給では当然間に合わなくなる。そこで考えられたのがコーヒー・プランテーションである。VOCは、コーヒー栽培を、まず1658年にセイロンで試み、1680年にバタヴィア総督ファン・ホルンがジャワで試みた。ジャワ・コーヒーは、1712年に初めて、アムステルダムへ直送されたのであった[25]

商品取扱高からみるとバタヴィアが40.35%~46.60%で、中心にあって、ベンガル、コロマンデル、セイロンが続く。ヨーロッパ-アジア航路によって、オランダ本国へはバタヴィア、セイロン、ベンガル、そして広東から商品が送られた。18世紀末になってベンガルをイギリスに奪われたことが大きな変化となる。扱われる商品は、インド綿を中心とした織物が中心となる。中国生糸の割合も高い。丁子、メース、ナツメグ、シナモンなど香辛料は合わせても数%から減っていく。減ったとはいえ18世紀初頭にまだ1割を占めていた胡椒も18世紀末には数パーセントまで減っていく。代わって、取引商品の主役になるのはお茶であり、コーヒーである。

個々の商品、個々の交易拠点をみていくと、各拠点の特性が浮かび上がる。各拠点の主要なもののみ列挙すれば、以下のようになる。扱われる輸出商品は、アンボンの丁子、バンダ諸島のナツメグ、ジャワのコーヒー、砂糖、胡椒、スマトラの胡椒、錫、マラッカ、シアムの錫、広東の茶、出島の金、銅、ベンガルの織物、生糸、阿片、硝石、コロマンデルの織物、セイロンのシナモン、マラバールの胡椒、スラトの織物、ペルシャの生糸、金、モカのコーヒーが主なものである。



[1] 三浦按針(ウイリアム・アダムズ)の日記の日付。グレゴリオ暦より10日遅いユリウス暦を用いたと考えられ、そうだとすると429日となる。しかし、日付変更線を超えた認識があったかどうか不明で、特定はできない。

[2] カピタン・モーロはポルトガル国王から強力な商業上、行政上、司法上の権限を付与された。

[3] ルイス・フロイス、『日欧文化比較』、大航海時代叢書ⅩⅠ、岡田章雄訳注、岩波書店、1965

[4] ジョアン・ロドリーゲス、「司教伝」、『日本教会史』下、大航海時代叢書Ⅹ、伊東隆夫、土井忠夫訳、岩波書店、1970

[5] アビラ・ヒロン、『日本王国論』、大航海時代叢書ⅩⅠ、佐久間正・会田由訳、岩生成一注、岩波書店、1965

[6] レオナルド・ブリュッセイ、「開放から隔絶へ-平戸における初期の日蘭関係、1600-1640年」,『日蘭交流400年の歴史と展望』,日蘭学会、2000年 所収。村上直次郎著『日蘭三百年の親交』(冨山房、1914年)は、漂着者24名、死亡6名、生存者18名としている。

[7] 冨山房、1914年。

[8] 吉川弘文館、1959年。

[9] 思文閣出版、1987年。

[10] 日蘭交流400周年記念論文集、「日蘭学会学術叢書第20」、日蘭学会、2000年。

[11] 片桐一男、中公新書。

[12] 永積洋子、講談社現代新書。

[13] Grant K. Goodman,Japan and the Dutch 1600-1853, Curzon Press, 2000

[14] 水原城の建設にオランダ人技術者が関わっている。

[15] Van Dijk, P.J.J., et al, “Vestingbouw oversee Militaire architectuur van Manhattan tot Korea”, Walburg Pers, 1996

[16] A.J.Lancker, Atlas van Bistorische Forten Obersee onder nederlandse vlag, Netherlands, 1987. 手書きのコピーの形式で市販はされていない。

[17] Gaastra, F.S., “De Geschiedenis de VOC, Walburg Pers, 1982, 1991.内容はほぼ同じであるがカラー図番を加えた新装版が2002年に出版された。

[18] 序章 3-1  植民都市の機能と形態。 宮崎市定、「中国城郭の起源異説」、『宮崎市定全集3 古代』、岩波書店、1991年、

[19] Van Oers, R., “Dutch Town Planning Overseas during VOC and WIC Rule[1600-1800]”, Walburg Pers, 2000

[20] Anto’nio Bocarro(text) & Pedro Barreto de Resende(plans), ”Livro das Plantas de todas as fortalezas, cidades e povoacoens do Estado da India oriental(Book of the Plans of fortresses,cities and boroughs in the State of Eastern India)”. 『「ポルトガルと南蛮文化」展 VIA ORIENTALIS』、図録、日本放送協会、1993年。

[21] F.S.Gaaastra; De Geschiedenis van de VOC, 1882: 科野(1985)&J.I.Israel (1995)

[22] J, R, Bruijn, F.S. Gaastra and I. Schoffer, “Dutch-Asiatic Shipping in the 17th and 18th Centuries”, 3 vols, The Hague, Martius Nijhoff, 1987.

[23] Dagh-Register gehouden int Castel Batavia, Anno 1636

[24] 科野孝蔵、『オランダ東インド会社の歴史』,同文館、1985

[25] コーヒーと植民地支配をめぐっては、臼井隆一郎『コーヒーが廻り、世界史が廻る 近代市民社会の黒い血液』(中公新書、1992年)がダイナミックな諸局面を見事に描き出している。

第15回都市形成・計画史公開研究会

「長崎:日本の空間景観システムと世界のシステム」

日本の近代の空間計画とは、地域の土着的風景と空間システムの中に、欧米の空間システムを構築してきた過程であった。今回は九州、長崎を対象とし、長崎の景観・都市・建築の形成・計画史を振り返るだけでなく、日本の空間システムと世界の空間システムの関係についてもあわせて考察する。戦災復興都市長崎は今「出島再生」が進み、都市中心部において新しい局面を迎え、独自の地形と歴史文化遺産に根ざした新たな景観都市への展開が期待される。都市形成と都市計画を地域空間の原形・原風景との関係から見直し、新たな都市像とそれを実現する都市計画の理念・方策・制度を議論する。

 

<主催>都市計画委員会 都市形成・計画史小委員会

 

  平成17123()13:3016:30

会 場 長崎歴史文化博物館講座室(長崎市立山1-1-1、路面電車蛍茶屋行、桜町から徒歩8分、TEL 095-8188366

内 容 司会・主旨説明 宇杉和夫・安田孝・佐々野好継

長崎の建築・都市の形成    林 一馬 (長崎総合科学大学)

オランダの近代世界システム  布野修司 (滋賀県立大学)

景観都市長崎と西欧のシステム 宇杉和夫 (日本大学)

長崎市の近代都市形成史    岡林隆敏 (長崎大学)

    ディスカッション

定 員 45

参加費 会員1,500円、会員外2,500円、学生1,000円、登録メンバー2,000

*資料代別途

申込方法 E-mail またはFAXで、催し物名称、氏名、所属、連絡先(住所、メールアドレス、電話、FAX番号)を明記のうえ、1125()までに下記宛先にお申し込みください。

申込み・問合せ

    大阪大学 大学院 工学研究科 地球総合工学専攻 木多道宏

    FAX 06-6879-7641 E-mailkita@arch.eng.osaka-u.ac.jp















0 件のコメント:

コメントを投稿

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...