田中俊明,布野修司,山根周他:東アジアにおける歴史的城郭都市の起源・形成・変容・再生に関する総合的比較研究ー近江近世城下町の東アジアにおける歴史的意義と位置づけの解明ー,滋賀県立大学特別研究助成,2007年
序章 アジアの都城の起源・形成・変容・再生―アジア都市論の視角―
布野修司
はじめに
本研究は、(1)日本,朝鮮半島,中国における城郭都市の構成とその特質に関する比較考察、(2)古代都城から近世城郭都市への変容の考察:変わるものと変わらないものは何か、(3)彦根城下町(近世近江城下町)の東アジア城郭都市における位置づけと意義の検討を具体的な課題としているが、まず、日本の近世城下町を位置づけるための大きな見取り図を示しておきたい。
「城郭都市」とは、一般には、城壁に囲われた都市のことをいう。城郭は、日本では、囲い、郭(くるわ)のことである。しかし、日本の都市の伝統として、都市は基本的に市壁をもたない。城郭で囲われた城はつくられるが、近世城下町においても城下町は市壁で囲われることはない。もともと、中国において、城郭とは「城」と「郭」からなる。軍事的機能をもち、王とその臣下、兵士たちが居住するのが「城」であり、一般の都市民が居住するのが「郭」である。それぞれ隔壁で囲った「城」「郭」が連結する、また、「郭」内に「城」を囲う「城郭都市」は洋の東西を問わず一般的に見られる。しかし、日本の場合、市壁はもたないのが特徴的である。欧米の学者の中には、日本の都市を認めないものもいるくらいである。
そこで、日本では「都城」という言葉が用いられる。ところが、「都城」について、たとえば『広辞苑』は「(周囲に)城郭をかまえた都市」という。また『世界考古学事典』で関野雄は「周囲に城壁をめぐらした都市の遺跡。従来の慣例から中国、朝鮮、日本に限定するのがふつう」としている。この二つの説明は、都城を「城郭あるいは城壁で囲まれた都市」とする点で共通する。広くユーラシアを眺めると、市壁は都市のみならず大村落にもみられる施設である。市壁の存在だけでは都市とは言えない。
都城とは、「都の城」である。前近代では「都の城」は、王権の所在地として他の都市からは超越した至高の存在であった。「都」とは、帝王が国家の名のもとに政事と祭事を執りおこなう場を意味し、王宮・官衙などの政事施設、また神殿・寺院などの祭事施設によって表徴される。この二つは一体化して、祭政一致の「都」の核心を構成していた。
「城」とは都城のもつ軍事的側面を意味し、市壁・濠などによって表徴される。都城を「市壁で囲まれた都市」とする定義は、「都の城」の「城」だけに注目しているにすぎない。もちろん市壁は軍事施設というだけでなく、中国では文明の表徴であり、また西アジアやインド世界では都市の格式を示す指標でもあった。
日本の都城は「都の城」のうちの「都」のみを採用して、「城」を受容しなかった。にもかかわらず日本では、おかしなことに「城」を強調して都城が定義づけられるのである。この「城」を強調する背景には、近世における「城郭」の成立があると言えるだろう。
近世日本の城郭都市を位置づける前提として以上に留意しておきたい。
1 植民地化と産業化
近代都市の誕生
都市の歴史を大きく振り返る時、それ以前の都市のあり方を根底的に変えた「産業化」のインパクトはとてつもなく大きい。都市と農村の分裂が決定的となり、急激な都市化、都市膨張によって、「都市問題」が広範に引き起こされることになった。この「都市問題」にどう対処するのか、都市化の速度と都市の規模をどうコントロールするかが近代都市計画成立の背景であり、起源である。
「都市化」は、しかし、「産業化」の度合に応じる一定のかたちで引き起こされてきたのではない。「工業化なき都市化」、「過大都市化」と呼ばれる現象が、工業化の進展が遅れた「発展途上地域」において一般的に見られるのである。結果として、世界中に出現したのは数多くの人口一千万人を超える巨大都市(メガロポリス)である。
「発展途上地域」におけるそうした巨大都市は、ほとんど全て、西欧列強の植民都市としての起源、過去を持つ。「植民地化」の歴史が、巨大都市化の構造的要因となったことは明らかであろう。植民都市が支配―被支配の関係を媒介にすることにおいて、先進諸国とは異なった、「奇形的」な発展過程を導いたと考えられるのである。すなわち、「植民地化」もまた都市の歴史における極めて大きなインパクトである。
『近代世界システムと植民都市』(京都大学学術出版会、2005年2月刊)で追及したのは、現代都市の構造、その孕む諸問題の遡源である。近代世界システムの成立と近代植民都市の建設は不可分である。
近代植民都市を可能にしたものは何か。造船技術であり、航海術であり、天文観測術であり、世界についての様々な知識である。要するに、通俗的な理解であるが、近代的科学技術である。
その一つが火器であり、それを用いた攻城法、また、それに対応する築城術である。
火器の誕生と築城術
都市の歴史において、遡って大きな画期となるのが、新しい火器、大砲の出現である。それ以前は、攻撃よりもむしろ防御の方が都市や城塞の形態を決定づけていた。
火薬そのものの発明は中国で行われ、イスラーム世界を通じてヨーロッパにもたらされたが[1]、火薬兵器がつくられるのは1320年代のことである[2]。最初に大砲が使われたのは1331年のイタリア北東部のチヴィダーレ攻城戦である。もっとも、戦争で火器が中心的な役割を果たすのは15世紀から16世紀にかけてことで、決定的なのは、15世紀中頃からの攻城砲の出現である。
ヨーロッパで火器が重要な役割を果たした最初の戦争は、戦車、装甲車が考案され機動戦が展開された、ボヘミヤ全体を巻き込んだ内乱フス戦争(1419~1434)で、グラナダ王国攻略戦(1492)において大砲が絶大な威力を発揮する。レコンキスタが完了した1492年は、クリストバル・コロン(コロンブス)がサン・サルバドル島に到達した年であり、コンキスタ(征服)が開始された年である。こうして火器による攻城戦の登場と西欧列強の海外進出は並行する。近代植民都市建設の直接的な道具となったのは火器である。火器の誕生による新たな攻城法に対応する築城術とそれを背景とするルネサンスの理想都市計画は、西欧列強の海外進出とともに、「新大陸」やアジア、アフリカの輸出されていくことになるのである。
この近代的な意味での火器が日本にもたらされる(鉄砲伝来)のは、ポルトガル人が種子島に漂着した1543年とされる。この1543年はコペルニクスの地動説が発表された年として世界史の大転換(コペルニクス転回)の年であるが、日本史にとっても大転換の年となる。戦国時代の帰趨を鉄砲という火器が握ることになるのである。織田信長・徳川家康の連合軍が武田勝頼を破った長篠の戦(1575年)の戦術は、逆にヨーロッパに伝えられたという。そして、(火縄銃(種子島)の出現は、築城術を決定的に変化させることになる。日本に城郭都市が出現する直接のきっかけとなったのは、端的にいって鉄砲である。すなわち、日本の城郭都市の成立も大きくは、世界都市史の一大転換期に位置づけられるであろう。
2 都市とコスモロジー――二つのアジア
それでは、「西欧世界」が「火器」によって、「発見」「征服」していった「世界」における都市の伝統とはどのようなものであったのか。具体的に、アジアに固有の都市の伝統とは何か。西欧中心主義者は、ギリシャ・ローマの都市計画の伝統をルネサンスの理想都市計画に直属させ、さらに植民都市計画理論と近代都市計画理論を一直線につないで、「アジア(非西欧)」を顧慮するところがない。
今日の「世界」が「世界」として成立したのは、すなわち、「世界史」が誕生するのは、「西欧世界」によるいわゆる「地理上の発見」以降ではない。ユーラシア世界の全体をひとつのネットワークで繋いだのはモンゴル帝国である。火薬にしても、上記のように、もともと中国で「発明」され、イスラーム経由でヨーロッパにもたらされたのである。本書で触れたように、モンゴル帝国が広大なネットワークをユーラシアに張り巡らせる13世紀末になると、東南アジアでは、サンスクリット語を基礎とするインド起源の文化は衰え、上座部仏教を信奉するタイ族が有力となる。サンスクリット文明の衰退に決定的であったのはクビライ・カン率いる大元ウルスの侵攻である。東南アジアにおける「タイの世紀」の表は「モンゴルの世紀」である。
「世界史」が成立する13世紀を断面にしてみると、アジアには大きく三つの都市の伝統と系譜があることがわかる。ひとつはインド都城の系譜であり、他の一つは中国途上の系譜である。そして、イスラーム都市の系譜がある。古代に遡れば、メソポタミア、エジプト、インダス、黄河の四大都市文明の核心域がその起源と考えられるが、直接はつながらない。ここで注目するのは、都市の理念の有無である。
政事・祭事・軍事の三つは、王権の権威と権力を基盤として展開される。その権威の源泉は、聖典や神話を通じて伝承されるコスモロジーである。古代中国の「天帝の地上における子としての天子」という王権思想、また「サンスクリット聖典の独占者バラモンによってクシャトリアの中から認証されたものとしての帝王」という古代インドの王権思想は、コスモロジーをその基盤に置いている。それ故、その王権によって建設された都城は、王権を媒介としてコスモロジーと結びつく。
都城とコスモロジーとの関係を視点にアジアを広く見わたすと、「コスモロジー-王権-都城」連関にもとづく都城思想をもつA地帯と、それをもたないB地帯とに二分される。王権の所産である都城の形成は帝国の成立地、核心域にみられる。しかしアジアの帝国成立地帯がすべて都城を建設したとはいえないのである。
A地帯に属するのは南アジア・東南アジア・東アジアであり、B地帯はその外に広がる西アジア・北方アジアである。両者の境界は、西方では湿潤と乾燥、北方では温暖と寒冷という生態条件の相違とほぼ対応する。
A地帯は、都城思想を自ら生みだした核心域とそれを受容した周辺域という<中心―周辺>構造を示す。その核心域は、二つ存在する。古代インド(A1)と古代中国(A2)である。両核心域のまわりには、それらから都城思想を受容した周辺域が存在する。A1の古代インド都城思想の受容地帯が、ベトナムをのぞく東南アジアである。A2の古代中国都城思想を受容したのが、朝鮮半島・日本・ベトナムである。
アジア都城の系譜
日本の都城は、A地帯の伝統にあり、中国都城の圧倒的影響を受けたA1地帯に属する。日本の都市の起源は中国にあり、その理念や設計手法を輸入することにおいて成立したのが日本の都市である。それ故、日本の都市を東アジアの空間的広がりにおいて位置づけるのは当然の前提である。
しかしそのまえにB地帯を概観しておきたい。B地帯は、現在は、ほぼイスラームの中核地帯に重なる。イスラームの諸帝国が建設してきた西アジアの王都は、中国、インドの都城とは異なっている。
独自構想にもとづくイスラーム世界最初の王都はアッバース朝のバグダードである。バグダードは「平安の都マディーナ・アッサラーム」の名をもつ。アッバース朝第2代カリフ、アル・マンスールがバグダードを建設したのは766年のことであり、平安京と同時代の都市である。そしてそのモデルとされる長安と並んで百万の人口を誇った大都市である。
その形態は、実にユニークで、他に例のない環濠と三重の市壁に囲まれた円形都市であった[3]。その総面積をラスナーにしたがって500万㎡とすると、半径は約1260m、円周は約7920mとなる。内部は、外円部と内円部に二分される。外円部は最も内側の市壁より外周の部分で、放射状の大路と小路で規則正しく分割されていた。そこは廷臣や将軍たちの住宅地であり、一般市民の居住は許されなかった。内円部の中心には正方形の大モスクがあり、その東北辺に付属するかのように金門宮とよばれた王宮があった。この二つを都市核として、そのまわりに王族の邸宅・諸官庁・警察・親衛隊駐屯所などが建設された。
円は、特定の方向への偏りをもたない等方的な形態である。内円部と外円部からなるバグダードも、等方性にしたがった同心円編成である。ただ、キブラによって走向を規定された4本の大路は、東西南北の方位からずれている。
バグダードは、それ自身の形態においてコスモロジーを示しているわけではない。イスラーム世界の中心にあるのはあくまでメッカ(マッカ)であり、あるいはメディナであり、その二つの生徒との関係(方位)が絶対的な意味を持っているのである。
イスラームにもコスモロジーは存在するが、個々の都市がコスモロジーを体現するという思想はない。あるのは、諸都市を群として相互に関連づける思想である。つまり都市の最重要施設であるモスクが、すべてマッカに向けて立つということである。その結果、イスラーム世界のすべてのモスクさらには都市がカアバ神殿を磁極として方位づけられる。この壮大なモスクと都市の星座的編成が、イスラームのコスモロジーなのである。これは、個々の都城が<王権を介したコスモロジーの縮図>とするA地帯とは、異なった原理である。歴史をつうじてイスラーム世界が帝国と王都を建設してきた点ではA地帯と同じであっても、同世界が都城思想をもたないB地帯とする理由が、ここにある。
イスラーム都市の系譜
イスラーム都市については、『ムガル都市―イスラーム都市の空間変容―』(京都大学学術出版会、2008年)において検討を加えており、また、主要な都市については概要を述べている。東アジアの都市の系譜と直接関わらないから。ここでは詳細は省きたい。
要点のみを抜き出すと以下のようになる。
A. 「イスラーム都市」として一般的にイメージされる,西アジア諸都市の,迷路状の街路に中庭式住居がびっしりと建並ぶ街区構成を基本とする都市形態は,明らかにイスラーム以前に遡る。
B. 西アジアの中でも,あるいはイスラームが成立する中核域であるアラビア半島,イラク,シリア地域を見ても,都市の形態,街区の空間構成は異なる。例えば,高層住宅が林立するイエメンのサナアのような都市がある。また,ダマスクスのように,既存都市(ローマの植民都市)を基にして築かれる場合がある。さらにイスラームがいち早く及ぶ北アフリカやイベリア半島(マグリブ)の諸都市を見ても,諸都市の形態は多様である。
C. イスラーム(「イスラーム国家」「イスラーム王朝」)が初めて自ら設計実現したバグダードの円城は,一方でホラーサーン地方の円形都市の伝統を継承しているとされる。また,その後,その設計理念,形態が他の都市に引き継がれた形跡がない。アッバース朝において,バグダードを遷都するかたちで建設されたサーマッラーは,精緻なグリッドを基盤にしており,バグダードとは全く形態を異にしている。
D. イスラームが,イラン,トルコなど非アラブ地域に及んだ時,各地にはそれぞれ土着の都市の伝統があった。さらに,南アジア,東南アジアにおいて大きな影響力をもっていたのはヒンドゥー都市の理念であり伝統である。イスラームがインドに建設した諸都市は,西アジアの諸都市とは様相を異にしている。さらに東南アジアの諸都市,ジャワの諸都市,例えば,バントゥンやマラッカのような都市と西アジア諸都市の形態は明らかに異なっている。
E. イスラームには,イスラーム固有の都市の理念型を著わす書物がない。
F. 都市や建築の具体的な形態,例えば例に挙げられるモスクの基本的特性,基本的要素が統一的であることを,果たして「・・・といった程度のことである」と言い切って済まされるであろうか。都市や建築の具体的形態を問おうとするものにとっては,モスクの存在は極めて重要な問題である。モスクが必ずメッカの方向を意識して建設されることは極めて特異なことである。通常,都市や集落の計画において重視されるのは東西南北の基本方位であり,また,立地する場所の地勢,山,川の位置と流れや勾配の方向なのである。しかも,支配者がムスリムであるかどうか,シャリーアsharī’a [4](イスラーム法)が統治原理となっているかどうかに関わらず,モスクという空間そのものが無視し得ない要素である。少なくとも,東アジアの諸都市において,モスクは必ずしも主要で本質的な要素ではなかった。モスクの形式や形態の差異を超えて,モスクが存在する都市景観そのものがその都市を特徴づけるし,それなりの空間秩序を持ち込むのは当然である。続いて強調するように,アジア都市論,あるいはアジア都市研究という大きな平面を仮構してみると,「イスラーム都市」と呼びうるような類型を区別できるのではないか。
G. イスラームが「都市」の「宗教」であり,「都市性」を基礎とするのであれば,それは具体的な都市の形態,空間構成に表現されることはないのか,という最初の問いも残されている。例えば,モスクとその周辺,あるいはスーク(バーザール)の空間は「イスラーム都市」を特徴付けるのではないか。ムスリム社会を分析する「市場社会論」「ネットワーク論」[5]を具体的な空間のあり方に即して確認してみる必要はあるのではないか。
H. 「イスラーム都市」論,とりわけ,B.S.ハキームHakim(1987)の『アラブ・イスラーム都市』[6]が刺激的であったのは,チュニスTunisの都市形成の原理を明快に描き出したことである。中でも,イスラーム法(シャリーア)とワクフwaqf(寄進)制度を基本とする都市計画手法は,決して大袈裟ではなく「世界都市計画史」という観点からも,また今日の都市計画手法の問題としても,注目すべきものである。すなわち,ディテール,相隣関係の細かいルールをもとに都市の街区が形成される仕組み,ワクフ(寄進)財として公共的施設を建設する仕組みは,予め全体計画(マスタープラン)として立案される都市計画の伝統とは異なるのである。イスラームの根幹にシャリーアあるいはワクフ制があるとすれば,それらが都市計画原理としても一般的に用いられたであろうことは大きな前提である。チュニスのみならず他の都市においてもB.S.ハキームと同様の作業が積み重ねられる必要があるのではないか。
ヒンドゥー都市の系譜
インド都城、あるいはヒンドゥー都市の系譜については、中国都城の系譜との比較が興味深い。
ヒンドゥーの理想都市のあり方を記した書物として,マウリヤ朝を創始したチャンドラグプタChandragupta王(紀元前317~293年頃)を助けた名宰相カウティリヤKautilyaが書いたとされる『アルタシャーストラ
Arthasāstra(実利論)』[7]がある。あるいは、シルパ・シャーストラの中に、工学の各分野を網羅するが,建築,都市計画に関わるものは,ヴァーストゥvāstu・シャーストラがある。「ヴァーストゥ」とは「居住」,「住宅」,「建築」を意味する。このヴァーストゥ・シャーストラには実に様々なものがあるが、最も著名なものが『マーナサーラ』[8]および『マヤマタMayamata』である。
『アルタシャーストラ』あるいは『マーナサーラ』が理念化する都市の構造としてはっきりしているのは,中央に神域(ブラーフマンBrahumā(梵)区画)を置き,それを順次,ダイヴァDaivaka(神々)区画,マーヌシャMānusha(人間)区画,パイーサチャPaiśācha(鬼神)区画で取囲む,同心方格囲帯状の構成である。
また、『マーナサーラ』は、理念的な村落、城郭都市、都市の8つの類型を挙げている。ダンダカDandaka,サルヴァトバドラSarvatobhadra,ナンディヤーヴァルタNandyāvarta,パドマ(カ)Padmaka,スワ(ヴァ)スティカSvastika,プラスタラ,カールムカKārmuka,チャトゥールムカChaturmukhaの8種である[9]。
しかし,そもそも,インドに『アルタシャーストラ』が描くような理想都市を実現した例があるのか。理念は理念であって,実際建設するとなるとその通りにいくとは限らない。仮に理念通りに実現したとしても,時代を経るに従って,すなわち,人々に生きられることによって変化していく。長安にしても,平安京にしても,極めて理念的に計画され建設されるが,まもなく右京が廃れたことが知られている。また,そのままの理念が必要とされるのは,その文明の中核よりも周縁においてである。ヒンドゥー都市の理念を忠実に実現しようとしたように思われるのは,東南アジアのアンコール・トムAngkor Thomのような都市である。
ヒンドゥー都市の系譜については、『曼荼羅都市』(京都大学学術出版会、2006年2月刊)に委ねたい。
3 中国都城の系譜
中国歴代都城
インド都城と対比しうる伝統として中国都城の伝統がある。その具体的な形態については以下の各論に委ねたいが、その起源と歴史について概観すると以下のようである。
中国歴代都城のうち、これまで最も古いとされてきたのは商(殷)王朝の都城(殷墟 河南省安陽県小屯村)である。甲骨文[10]から復元された殷王の系図が『史記』殷本紀と一致することからその実在が確認されたのは1920年代後半から30年代にかけての発掘調査による。『史記』など中国の古文獻は、始源に黄帝以下5人の聖王の時代があり、続いて、夏、殷、周の3王朝が継起したとするが、夏王朝以前については疑われてきた。
ところが、1959年に二里頭遺跡(河南省偃師市B.C.2080~1300)が発見され、さらに1983年に二里頭遺跡の東6キロのところで発見された偃師(えんし)城の遺構が夏王朝を倒した殷湯王のものと考えられるに至って、夏王朝の実在、すなわち二里頭遺跡が夏王朝の都城であることが明らかになった[11]。最初に発掘された1号宮殿は、基壇の大きさは東西107m、南北99mの規模で回廊に囲われた中に正殿(36m×11m)がある。2号宮殿の下には3号宮殿、南に4号宮殿、北には6号宮殿があるという[12]。全容が明らかになるのはさらに時間を要すると考えられる。また、夏王朝を開いた禹の都をはじめ他の都城[13]の所在地は依然として確定されてはいない[14]。
中国ではこうして夏王朝の諸都城、さらには堯・舜時代以前の都城の「発見」が大きな関心事となりつつあるが、商以降の中国王朝の系譜についてははっきりしている。例えば、「都市の『史記』」を自負する張在元編『中国 都市と建築の歴史 都市の史記』[15]は図Ⅰ―1-1のような系譜を示している。「中華都城本紀」「十一城市世家」「名城列伝」と『史記』の叙述スタイルが借用されているのが面白い。
しかし、日本でも世界史年表などに一般的に掲げられるようなこうした中国王朝とその都城の系譜図だけでは、変遷の空間的関係がわかりにくい。また、存続期間など各都城の歴史的重要性が表現できない。そこで、まず、歴代都城および陪都(副都)を地図上にプロットしてみると図Ⅰ-1-2のようになる。もちろん、これを読むのは容易ではないし、すぐには頭にも入らない。
大きな流れを把握するために、主要な都市に限定してみよう。その存続期間(奠都年数)に着目して、統一王朝の都城を中心に、主要な都城を挙げると表Ⅰ-1-1のようになる。西安(鍄京、咸陽、長安 1077年間)、北京(大都 1272~ 735年間~)、洛陽(885年間)、南京(健康 450年間)、開封(366年間)、安陽(ぎょう 351年間)、杭州(臨安 210年間)、現在、中国で七大古都とされる都市が上がる。統一王朝ということであれば五王朝であり、かつては五大古都と言われていたが、1930年代に杭州が加わり、その後の殷墟などの発掘成果を踏まえて安陽が加わった[16]。先の張在元編「都市の史記」「十一城市世家」は、北京、南京、西安を含むが、他は、成都、上海、天津、武漢、蘭州、ハルピン、敦煌、桜蘭と全くフレームを異にしている。因みに、「名城列伝」に挙げられるのは52都市である。
中国公認の古都に限定すると、その時間的変遷は、叶編『中国都城歴史図録』第1集~4集[17]も簡単な図を1枚掲げているが、殷墟(安陽)→咸陽→長安←→洛陽→開封→杭州→北京←→南京ということになる。ここまで単純化すれば、大きな流れはわかりやすくなるが、重要なのは、「中国」あるいは「中華」という時空におけるこの中心の移動が何を意味するのか、ということである。
中国の都市というと、以上のような都城、王権の所在地としての首都あるいは国都が第一に思い浮かぶのは、日本も含めた中国の周辺諸国の都市のモデルとなったのが中国都城の理念とその系譜だからである。本書がテーマとするのは、この王権の所在地としての都城である。しかし、「中国」という空間において、具体的な都市が全て中国都城の理念に基づいて建設されてきたのではないことは言うまでもない。少なくとも、「南方」には、「中華」あるいは「漢民族」の理念化する「中国都城」とは異なる都市の系譜が存在してきたことは明らかである。
まず、中国における都市形成の歴史を大きく振り返っておこう。そのために実にありがたい論文がある。アメリカで人類学を学び殷墟の発掘を手掛けた、中国考古学の祖といっていい李済の『支那民族の形成』である[18]。その主題は、書名の通り漢族がどのように形成されてきたかということであるが、諸民族の体質や姓などと並んで都市建設がその指標とされているのである。すなわち、城郭建設は漢族の特性とされるのである。
李済が採ったのは、史料として康煕年間に編纂された『欽定古今図書集成』を用い、その中に記された4487の「城邑」の存在を空間的時間的に整理し、城郭建設活動の推移を考分析するという方法である。一見、各省毎の城壁数、各時代の城壁数、放棄された都市数などの数値が無味乾燥に羅列されるのであるが、その数字を地図に落としてみると、漢族の城郭建設活動の歴史が見事に浮かび上ってくる。
大室幹雄は、李済のこの分析をもとに、次のような歴史的図式を抽出する。
現在「中国」と呼ばれる空間は、当初から「中国」であったわけではなく(①)、歴史的に徐々に中国化sinicizeされてきた(②)。中国化を担ったのは漢民族であり(③)、黄河流域のいわゆる中原地方から、南および南西、南東の方へ向かって中国化は展開された(④)。中国化とは南方地域の漢民族による植民地化colonizationの過程に他ならず(⑤)、具象的には城壁都市の建設によって表現され(⑥)、故に、中国化とは端的に都市化urbanizationであった(⑦)。
この中国化、植民地化、都市化の三位一体の過程は、それぞれの地域の歴史を振り返ることによって跡づけられるが、直接的に漢民族の移動を明らかにすることも試みられる。李済は、張、陳、朱、胡、郭、李といった姓の分布とその変化をもとに、また、中国の正史「二四史」の全てに書かれた国勢調査に関わるデータによって漢族の移動を論じている。漢民族の南方への大規模な移動は、西晋末期、3世紀末から5世紀にかけて、12世紀中葉から13世紀にかけて起こっている[19]。平野部を見ると、北から南へ順に、黄河、淮河、漢水、長江、西江がほぼ西から東へ流れている。黄河中流域のいわゆる中原で発達した農耕文化は、漢民族とともに、黄河→淮河→漢水→長江→西江のそれぞれの流域に伝播していったのである(図Ⅰ-1-4)。もともと、南方には漢族に属さない諸民族が居住していた。はっきりしているのは彼らが城郭建設の伝統を持たなかったことである。李済の城郭についての分析はそれを示している。さらに李済は、南方非漢族群いわゆる南蛮について、漢族との闘争の記録を史料に当たることによって、また、言語学上の分類を基礎にして、モン・クメール族、シャン族、チベット・ビルマ族の下位諸族を明らかにしている。
中国では今日一般に都市を「城市」というが、もともとは「邑」といった。「城邑」という言葉も古くから用いられてきた。
「邑」は「口」と「巴」からなるが、「口」=城(囲われた場所)に「巴」(人が住む)という意味である[20]。日本語の「邑」は、村=集落というニュアンスで用いられるが、「口」(囲壁)があるかどうかが問題である。「邑」は、「鄙」に囲まれており、「都」は中ぐらいの大きさの「邑」であり、より大きな「邑」が「国」であった。諸侯の住む「邑」が「国」、その分邑が「都」、そしてその「都」に直属するのが「邑」である。大邑―族邑―小邑、王邑―族邑―属邑という呼称もある。
いずれにせよ、中国における都市の原型は、囲壁で囲われた「邑」である。「邑」を単位とする中国における原初的国家体制を「邑制国家」という[21]。司馬遷(『史記』)や班固(『漢書』)は、「行国随畜の民」と「城郭の民」を区別する。すなわち、遊牧民とは異なり、定住農耕民が居住するのが「邑」である。
この「邑」を単位とする時代は、やがて、「県」を単位とする時代に移行していく。郡県制は秦において導入され、漢代末には普及するが、漢代には、「県」の下位単位として、「郷」「聚」「亭」そして「城」などがあった。いずれも、囲郭を有した単位である。さらに、宋代から元、明、清にかけて、市場経済が発達してくると、鎮市(市鎮)が形成され、成長する。
李済は、「城市」建設の数の変遷を図化するだけであるが、斯波義信は、殷代、戦国時代、秦代、漢代、宋代のそれぞれの「城市」の分布図を示している[22]。こうした各時代の諸文献をもとにした分布図から、都市化の動向とともに、殷墟(安陽)→咸陽→長安←→洛陽→開封→杭州→北京←→南京という都城の位置の変遷をより空間的に具体的に理解することができるだろう。
以上の見取図においてまず確認できるのは、いわゆる中原の諸都城と南方の諸都市が異なった類型に属するということである。南中国を代表する都市である南京、あるいは杭州を見ると、明らかにその形態は北方中原の諸都市と異なるのである。
漢族の南下を促した大きな要因となったのは、北方の遊牧民族、漢族のいう北方蛮族、いわゆる北荻である。中国のいう北荻の三大侵攻とは、匈奴・鮮卑の侵攻(304~580年)、契丹・女真の侵攻(907~1235年)、蒙古の侵攻(1280~1368年)である。
中国歴代王朝は、もとより、漢族のみが立ててきたわけでない。4世紀初めから5世紀半ばまでの中華分裂時代は五胡十六国時代と呼ばれるが、五胡とは、匈奴、羯、氏(てい)と羌、鮮卑である。鮮卑の拓抜部は、代国から北魏、東魏、北斉、隋、唐を立てる。契丹の遼、女真の金、モンゴルの元、満州族の清と異民族の立てた王朝は少なくないし、王朝の中枢が様々な民族によって構成されるのはむしろ一般的であった。そうした意味でも、また、北方諸民族と中国歴代王朝の攻防、その歴史的関係を考えると、李済が分析の対象とした史料の範囲を越えて、中国を大きく取り巻く空間を視野に収める必要がある。そのためには、「中華」にとって「蛮族」とみなされてきた側から歴代王朝の変遷を見てみる意味がある。大きな示唆を与えてくれるのが、中華の時空を遥かに超える壮大な時空を対象としてユーラシア世界史を構想する杉山正明の構図である[23]。念頭に置くべきは、空間の生態学的基盤である。大興安嶺山脈とアルタイ山脈によって仕切られたモンゴル高原は、南に向かってなだらかに傾斜し、そのまま黄土高原に連続するが、その東南部では大同盆地を経て華北平原へ急に高度を下げている。歴史的に「燕・雲の地」と呼ばれた北京、大同はその境界に位置している。華北平原は、乾燥ステップに連結する「乾燥農耕」の世界であり、モンゴル高原は、世界最大の草原であり、匈奴、東胡、鮮卑、柔然、高車、突厥、ウイグル、キタイ(契丹)、モンゴルなど遊牧国家の多くはここより興った。
すぐに気がつくのは、長安(西安)、洛陽、開封、業(ぎょう)(安陽)、北京がモンゴル高原と華北平原の境界域に位置していることである。すなわち、農耕世界と遊牧世界の間に歴代都城の多くは立地しているのである。長江の南に位置する健康(南京)、臨安(杭州)は別のグループに属する。既に見たように、中国化、植民地化、都市化は北から南へと及ぶのであり、漢族の植民都市として開かれたのが健康、臨安である。
遊牧民族との関係において、中国歴代王朝の版図、統治領域は伸縮するが、その境界は各時代に築かれた長城の位置が示している。そして、常に攻防の境となってきたのがモンゴル高原と華北平原とが接する半農半牧地帯である。
その境界域を前提として、中国歴代都城の時間的空間的関係を大掴みにするには妹尾達彦の図式[24](図Ⅰ―1-5)が便利である。妹尾もまたユーラシア大陸全体を視野に収めて世界史を再構成しようとするのであるが、ここでは「中国」の空間構成に集中しよう。
中国歴代王朝の統治空間は、大きく大中国と小中国に分けられる。小中国は内中国であり、その周囲の外中国を含んで大中国となる。具体的に、およそ清朝(1616~1912年)の最大版図が大中国、明朝(1368~1644年)の支配域が小中国である。そして、内中国は、北から南へ、華北、華中、華南に3区分され、沿岸部から大陸にむかって、さらに細区分される。また、外中国も、東北部から南西部へ、マンチュリア、モンゴル、新彊、チベットが区別される。
こうした空間区分の上に中国歴代都城をプロットしてみると、興味深いことに、歴代王朝は大中国→小中国→大中国という変遷を繰り返していることがわかる(図Ⅰ―1-6)。大中国を統治したのは、唐(鮮卑拓抜部)、元(モンゴル族)、清(満州族)であり、いずれも、非漢族王朝である。すなわち、中国歴代王朝の変遷は、周辺異民族の消長と密接に関係している。言い換えれば、中国歴代都城の立地は、遊牧世界と農耕世界との関係に依っている。あるいは漢族と非漢族(胡族)との関係によっている。
古代からの諸王朝の都城が立地したのは、いわゆる「中原」、すなわち黄河の中流から下流にかけての洛陽盆地とその周辺部である。黄河が大きく北へ湾曲してオルドスを抱え込む黄土高原の南、秦嶺山脈の北、渭水など黄河の支流が流れる関中平野が核心域である。長安、洛陽の東西両京がその代表である。長安は軍事・政治の、洛陽は経済・文化の、それぞれ中心となる両京制がしばしば採られた。
内中国と外中国の境界であり、半農半牧の農耕遊牧複合帯である。
その後、穀倉地帯が華北から江南に移動するとともに王朝の重心は西(開封)へ、南(南京)へ移動する。そして、南北攻防の軍事拠点として選ばれたのが北京である。
古来燕京と呼ばれた北京も内中国と外中国の境界、半農半牧の農耕遊牧複合帯に位置する。キタイ(契丹)帝国(大遼国)の副都、南京(析津府)、ジュシェン(女真)金帝国の首都、中都、そして、モンゴル帝国、大元ウルスの首都、大都が置かれたのが燕の地、北京である。
中国都城の空間構造―――その起源と転換
中国都城の起源は、もちろん、殷墟さらには夏王朝の都城に擬せられる二里頭遺跡以前に遡る。仰韶文化期B.C.4500~2500(河南省仰韶遺跡(1920年発見)、半坡遺跡(陝西省西安市)BC4800、大口鎮BC4300、河姆渡1973年発見 BC5000)、龍山文化期B.C.2500~2000(反山遺跡1986年発見、大観山遺跡)における、壕、土壁で囲われ一定の配置構造をもつ氏族制的集落址はその原初的形態と考えられている。
独自の都市国家論で中国古代の集落・都市の発展過程について大きな枠組みを与えた宮崎市定は、中国においては、極度に発達した集村型の集落が都市国家に発達したと考え[25]、殷末から春秋時代を「都市国家」の時代、戦国時代を「領土国家」の時代、秦漢時代を「大帝国」の時代とした[26]。そして、「紙上考古学」として、古文獻に依りながら、中国都城の起源とその発展段階を図式化している[27]。
まず、小高い岡に城が建てられ、周囲に人民が散居する山城式(第三式)→その周囲に郭を廻らす城主郭従式(第二変式(イ))→城郭が2重に囲われる内城外郭式[28](第二式)→内城の城壁がはっきりしなくなる城従郭主式(第二変式(ロ))→城壁(城=郭一体)式(第一式)という発展図式である。文献の上では、城壁(城=郭一体)式は、戦国時代以後あるいは秦漢以後に多く、内城外郭式は春秋時代に多いことから、原型として山城式を想定して、都市の発展過程を推定するのである。
極めてわかりやすい発展図式であるが、考古学が明らかにする具体的な遺構と付き合わせる作業は残されてきた。これまでに発掘された春秋戦国・秦漢時代の城郭都市の形態は、佐原康夫によって[29]、A内城外郭式、B外郭式、C連結式、D自然形式の4つにわけられるが、まず言えるのは、A内城外郭式は極めて少ないということである。外郭と壁を共有するものも合わせると臨汾(山西省)など7例数えられるが、回字型の2重壁構造をしたものは曲沃、呼和浩特(内蒙古)、漢・3封県(内蒙古)の3例にすぎないのである。内蒙古のものは秦漢の小規模な辺塞である。
圧倒的に多いのはB外郭式(宮崎の城壁式)で、約半数を占める。城郭の形が方形かどうかという分類軸を別次元とすれば、Dは基本的にBに含まれるが、その場合、城主郭従か城従郭主かということを図面から判定するのは難しい。C連結式には、燕下都(河北省)、臨瑙●さんずい(山東省)、懐来(河北省)、寧城県(遼寧省)などがある。城塞の規模を拡大する形で造られるのが一般的である。すなわち、B→Cという形で形成される。上例はいずれもそうである。燕下都は、東西2つの城から成り、南北に流れる1本の川で隔てられている。邯鄲の場合、趙王城は西城・東城・北城が連結する形をとっており、北東に少し離れて大郭となる大北城がある[30]。
宮崎はこのC連結式については議論していないが、内城外郭式(回字型の二重壁構造)の具体的な例として挙げるのは斉の臨しである。「臨し故城を発掘する企もある由、吾人は1日も早くその実現せんことを望んで止まぬものである」と宮崎は書いたのであるが、我々はその発掘成果をある程度手にしている。上述のように、臨しは城郭連結式である。内城外郭式が極めて少ないことを考えると、宮崎の言う内城外郭式には城郭連結式も含めておいたほうがいいだろう。城郭の二重構造ということであれば、洋の東西を問わず、具体的な事例を思い浮かべることができるし、より一般的な類型となる。
問題は、この城郭の二重構造がいつ出現したのかということになる。宮崎は、春秋時代に内郭外城式が多いとし、周都成周に特に触れて城主郭従式とするが、まさに西周期の東都成周を城郭連結構造の嚆矢とするのが楊寛[31]である。楊寛が着目するのは、礼制と城、郭、宮殿の配置関係であり、中国都城の形態、配置構造の変遷を大きく捉えるフレームを与えてくれている。
楊寛に依れば、中国都城の歴史には以下のような3つの発展段階を認めることができる。
Ⅰ 西周から春秋戦国に至る時期に、都城は、「城」のみのものから「城」と「郭」が連結するものとなる。そして、小「城」が大「郭」の西に位置する「坐西朝東」の構造が基本となる。
Ⅱ 前漢から後漢へ移ると、都城の構造は「坐西朝東」構造から「坐北朝南」構造へと転換する。
Ⅲ 三国時代南北朝から隋唐に移り、「坐北朝南」構造から東西対称、南北中軸線構造へと発展する。
①商(殷)代には、国都周辺の広大な地域を「郊」と呼んだ。「郊」には多くの「城邑」が含まれており、ひとつの「邑」をとりまく地域を「野」と称した。郊外が「野」で、城邑とその4郊が「郊内」である。郊・野制度と呼ばれる。また、商代は、1時代1都制、そして陪(副)都制を採っていた。商代の国都が「商」であり、王畿、すなわち国土は「大邑商」と呼ばれた。商代後期に長期にわたって国都であったのが殷墟(河南省安陽市)である。そして「大邑商」の中で陪都であったのが、牧(洙 ばい)である。商代前期の陪都だったと考えられるのが、鄭州商城(河南省鄭州市)である。
商代の城郭遺跡として、鄭州商城、殷墟のほかに盤龍城(湖北省黄陂県)が知られる。中国都城の遺構の立地を見ると、多くは川沿いの台地に築かれ、山城と言えるものはほとんどない。城郭内部に岡をもつ霊寿城(河北省)、紀南城(湖北省)、曲阜(山東省)があるが、山城式の典型ということであれば盤龍城ということになるだろう[32]。
商代の3つの城郭遺構に共通するのは、a防御施設としての城壁、壕の存在、b東北部を重心とする宮殿の配置、c外側の4周への墓地の配置、d手工業、農業のための作業場、住居の外周への配置である。この配置は統1的であり、規格が存在し、礼制として定められていたと楊寛は考えるが、東北部を重心とする宮殿の配置については疑問もある。夏王朝を倒した殷湯王のものとされるに至った偃師城の場合、宮殿は南部に置かれているのである。商代でも前期と後期で変化があったことになるが、1般化するには余りにも事例が少ないと言わざるを得ない。
②周王朝が華北を統1すると、西周B.C.1050~771の都城は、鎬京(こうけい 宗周 陜西省西安)に置かれる。それ以前に周の都とされていたのは豊(陜西省西安市)である。城壁と濠が設けられていたことが文獻から知られる。そして、西周時代の都城として重要なのが周公旦によって宗周の陪都として建設された東都成周(洛邑)である。
西周および春秋時代は、「国」と「野」を対置する郷遂(きょうすい)制度を行っていた。「郷」あるいは「郊」とは、国都及び周辺地域に住む人々の組織で、「遂」あるいは「野」、「鄙」は、郷をとりまく農業地域に住む人々の組織をいう。「国人」と呼ばれる「郷」の住民は、官僚、兵士など都市住民であり、「庶人」「野人」と呼ばれる「遂」の住民は井田で働く農民である。
豊、 鎬京(宋周)の具体的な形態に関する資料は残されていないが、大軍が駐屯しており、兵営とそれを守る施設とがあったと考えられている。1方、成周の建設については『逸周書』作各隹(さくらく)篇に記述があって規模が知られる。「乃作大邑成周于土中。城方千7百2十丈。郛方7十里」、すなわち、城は方1720丈、郭は方70里という。この1720丈は後代の文獻では1620丈とされるように誤りだとされる。1620丈は、6尺=1歩、300歩=1里とすると9里となり、『周礼』考工記の「方九里」と一致するのである。郛はすなわち郭であるが、この「方70里」については、大きすぎるということで、17里、27里等様々な解釈がなされてきたが[33]、いずれにしろ郭の存在ははっきりしている。楊寛は、「成周八自●」と呼ばれる大軍を駐屯させ防御を固めるため、また、商の貴族を遷徒させるために周公は大郭を建設したとし、発掘遺構の配置を吟味することによって、王城の東に大郭があったと推定している。
西周時代の都城と見なされるほとんど唯1の遺構が魯の曲阜(きょくふ)である。曲阜の場合、城郭連結の形はとっていないが、主要な居住区が西部および中央北部にあり、「坐西朝東」(主要部が西に位置し、全体が東向き)の配置構造をしている。これは東都成周と共通であり、「小城大郭連結」(「西城東郭」)構造、「坐西朝東」配置は西周期の特徴になる。
この曲阜魯城について、冒頭に見たように、駒井和愛は『周礼』考工記型の都城、すなわち内城外郭式(回字型の2重壁構造)であるとしている。中央に王宮の基壇が残されており、城壁で囲まれているのを確認しているのである[34]。宮殿遺構の上層は漢代、下層は春秋戦国時代に属することがわかっているだけで、西周時代の宮殿がここに建てられたかどうかわからないとする楊寛の解釈が妥当かどうかは不明と言わざるを得ないだろう。
③東周、春秋B.C.770~475時代、戦国B.C.475~221時代には、多くの都城が築かれた。周王室の権威失墜とともに中原の諸侯国は徐々に力をつけ、大規模な都城を国都として建設し始めるのである。斎の臨し(りんし)、鄭・韓の新鄭、晋の新田、秦の雍、趙の邯鄲、魏の安邑、楚の郢(えい)(紀南城)などである。ただ、春秋末以前に遡る都城遺構は少なく、ほとんどが戦国時代のものである。
臨しは、上に見たように、西南の小城と東北の大郭が連結する典型的な「小城大郭連結」、「西城東郭」、「坐西朝東」の配置構造をしている。新鄭は、北西から東南に流れる水有(い)水と南北に流れる黄水で囲われた土地にそう形で不定形の城壁が設けられているが、南北方向の城壁で2分され、やはり西が小城、東が大郭の配置構造である。新田には5つの古城が発見されている。中心となるのが平望、牛村、台神の3古城で品字形に連結している。この多くの宮城が連結する形は晋の特徴で趙に引き継がれる。現在のところ郭は見つかっていない。雍は、西壁以外は1部の城壁が残るのみであるが、矩形ではない。城壁式で、主要な宮殿、宗廟は城内中央やや西南よりに建てられている。「西城東郭」は確認されないが、「坐西朝東」の配置構造をしていたと考えられる。邯鄲は既に見た通りである。安邑は、大城、中城、小城と禹王廟の4つの部分からなっている。中城は大城内の西南部にあり、小城は大城の中央、中城の東に位置している。小城が中城の遺構であるとすると、中城は西城、大城が東郭となる。郢(紀南城)は、城壁式であり、その重心が東南部にあることも例外的である。
以上のように、ほとんどが「小城大郭連結」、「西城東郭」、「坐西朝東」の配置構造をとる。楊寛によれば、そのモデルとなったのが成周である。周の王都をモデルとして中原の諸国はそれぞれの国都を造営したのである。
楊寛は、さらに秦の咸陽、前漢長安城にもこの構造は引き継がれるとする。そして、第2の転換が起こる。「坐西朝東」構造から「坐北朝南」構造への転換である。そして、隋唐の長安・洛陽に至る過程で第3の転換が起こる。前漢長安、後漢・北魏の洛陽を含めて、長安・洛陽については改めて後章で触れることとしよう。
重要なのは、中国都城を特徴づけると思われる南北軸線の強調、「君子南面す」という、南向きを尊いとするオリエンテーション観念が古来のものではないことである。城郭連結の配置構造が採られるようになった背景には、支配力の増強、手工業、商業の発達、それに伴う人口増加、あるいは防御体制強化のための軍隊の駐屯など、政治的、経済的、軍事的理由がある。しかし、その場合、何故「坐西朝東」という構造をとったのか、すなわち、「城」の東に「郭」を設けたのか。『三輔黄図』『漢書』『史記』などの文献は、「厭勝(えふしょう)の術」に従って不祥を避けるために西南に居を構えるという思想がある、という。確かに、古代には、東北を不吉、西南を吉とする吉祥思想があった。西周時代に成立したと考えられる『周易』にはそうした考え方が示されているのである。しかし、それでは「東門」あるいは「北門」を正門とする理由が理解できない。吉祥ではなく、「西を上となす」、「西南隅、之を奥と謂ふ」という習俗と関係があるというのが楊寛である。王充の『論衡』には「夫れ西方は、長老の地、尊者の位なり。尊者西にありて、卑幼東にあるは、尊長、主なればなり」とあり、事実、古代の礼制では、室中の西南隅を尊長居住の場所としていた。要するに、前漢以前においては、西を上位とし、東向きを尊とする礼制の規定に従ったのである。
ところが前漢から後漢にかけて、南向きを尊とする礼制が表面化する。当時、皇帝の権力を高めるために、皇帝自身による祭天の儀礼が毎年の重要な典礼となる。この祭天の儀礼は南郊において行われた。この南郊祭天の儀礼の制度化が「坐北朝南」の構造へ転換するひとつの理由となったというのが楊寛説である。もうひとつ決定的なのは、大朝賀の礼が国家的な規模で元旦に行われるようになったことである。すなわち、全土から多くの3加者を集めて儀礼を行うために都市構造を南北軸に沿って改編する必要があったのである。
統1王朝の中央集権体制を強化するための1手段であった元会議(元旦に行われる大朝会)は、秦の始皇帝によって国家儀礼として開始されてから1貫して拡大し続けた。後漢はそうした拡大が極まった時代であった。洛陽に1万人以上もの人を集めて儀礼を行うためには、「坐北朝南」が必然的となるのである。
元会議は、魏晋南北朝以降も継続して行われ、唐代にいたって、さらに荘厳かつ大規模なものとなり、外朝の儀式となる。都城が北に位置する宮城を主体とし、南北の中軸線を基準にして、東西対称の構造となったのは、次第に大規模化する元会議に対応するためである。
そして、中国都城の第4段階の転換は、北宋の都城、べん梁(河南省開封市)から始まる。北宋のべん梁は、宮城を中心として、皇城、外郭という内外合わせて3重の城壁で囲われる構造をとり、市と坊は閉鎖的なものから開放的なものとなる。
以降、金の中都、元の大都、明清の北京はべん梁を踏襲することになる。
中国都城の空間モデル―――『周礼』考工記
中国の都城の基本理念を記した書とされるのが『周礼』考工記である。『周礼』(しゅらい)は、周代の官制、行政組織を記した書で、中国古代の礼書、三礼のひとつとされる。古くは『周官』ともいった。天官、地官、春官、夏官、秋官、冬官[35]からなるが、冬官は発見されず、『考工記』によってそれを補ったと言われる。周公旦の作とも言われるが内容的には疑問とされ[36]、秦の始皇帝の焚書を経て、漢代(B.C.155~130年)に編纂されたものが伝わる。上に見たように、『考工記』は、春秋時代の斉国の制を記した、あるいは成周がモデルであるという説がある。いずれにせよ、中国最古の技術書が『考工記』である。中国都城の理念型というと決まって引用されるのが、『考工記』「匠人営国」の条である。
『考工記』には、匠人(すなわち土木建築を担う官)で始まる条が、「匠人建国・・・」「匠人営国・・・」「匠人為溝洫・・・」と3つ並んでおり、その「匠人営国」の条が都市計画、宮室建築に関わる。
その冒頭は以下のようであり、都城に触れる部分は極めて短い。
(A)匠人営国、方九里、傍三門。国中九経九緯、経塗九軌。左祖右社、面朝後(后)市。市朝一夫。
そして、
(B)「夏后氏世室。堂脩二七。・・・」
と宮室についての記述が続く[37]。
最後は、門、道路の幅などについて以下のようにある。
(C)廟門容大局七介、闍●(偉)門容小局三介。路門不容乗車之五介、応門二徹三介。内有九室、九嬪居之、外有九室、九卿朝焉。九分其国、以為九分、九卿治之。王宮門阿之制五雉、宮隅之制七雉、城隅之制九雉。経塗九軌、環塗七軌、野塗五軌。門阿之制、以為都城之制。宮隅之制、以為諸侯之城制。環塗以為諸侯経塗。野塗以為都経塗。
様々な解釈、注釈がなされてきたが、およそ以下のように解釈される。
方九里、傍三門:都城は1辺9里で各辺に3つの門がある。
九経九緯、経塗九軌:南北(経)、東西(緯)それぞれ9条の道路があり、南北道路の幅(経塗)は車9台分の幅(9軌)(8尺×9軌=7丈2尺)ある。
環塗七軌、野塗五軌:城壁に沿う環状道路は車7台分(56尺)で城外の道(野塗)は5台分(40尺)とする。
左祖右社:宮城を背にして、左に宗廟、右に社稷を置く。
面朝後市:朝に向(面)かい、市を後にする。王宮は朝に向かい合っており、市が宮城の後ろにある、というのが一般的な解釈であるが、市が宮の後ろ(北)にあるのは事例が少ないことから、後を后とし[38]、面朝后市、皇帝は政務を司り、皇后が市を管理する、あるいは、午前は政務を執り、午後市を観る、という解釈もだされている[39]。
市朝一夫:市と朝はそれぞれ一夫(百歩四方)の広さをもつ。
この『考工記』の記述をめぐっては多くの論考が積み重ねられてきた。そして、具体的な解釈を示す都市(計画)図が描かれてきた。A.宋・聶崇義の『三礼図』「周王城図」、B.『元河南志』「周王城図」、C.『永楽大典』巻9561引『河南志』、そしてD.清・戴震の『考工記図』、E.『欽定礼記義疏』付録『禮器図』「朝市廛里図」などがそうである(図Ⅰ-3-1)。傍三門は共通であるが、方九里というのにB=Cは長方形に描かれている。A~Cは、東西南北、相対する門を3本の道で結ぶ。Dは、「1道3塗3道9塗」と書き込みがあるから、「九経九緯」の解釈は共通である。すなわち、ひとつの道には3車線あり、縦横3本ずつの道であるから「九経九緯」である。ただ、一般的に、この「九経九緯」を縦横9本ずつの道と解釈する説もある。
A、Cは文字の書き込みはなく情報量は少ない。Cの中央には4行3列の建物が描かれるが、同じBは、正宮を中心に、小寝5、小宮5の建物が描かれる。また、手前下部に面朝、上部に東市と書き込みがある。B=Cは、環塗は城壁外にめぐらされている。Dの中央には六宮六寝、三朝と、社稷、宗廟の書き込みがある。
六宮六寝は「匠人営国」条にはないが、魏晋以後、以下のように解釈されてきた。寝は王の公私にわたる生活の場であり、宮には后以下夫人、女後などが分居する。六寝(大極殿(前殿、後殿)、東堂、西堂、東閣、西閣)と六宮は南北に並び六寝の背後に六宮が置かれる。六宮は後宮とも称される。三朝とは、内朝、中朝、外朝をいう。
日本で最初にこの『考工記』の解釈を試みたのは那波利貞である[40]。そこで取り出されたのが「前朝後市」「左祖右社」「中央宮闕」「左右民廛」の原則であるが、その基になったのがE.『禮器図』「朝市廛里」である。これは王城全体を図化したものではない。傍三門ということで、各辺3門を道路で結ぶと16分割になるから、ナインスクエア(3×3=9)すなわち井田形に分割するパターンの都市計画図には問題があった。礪波護[41]、村田治郎[42]が指摘するところである。
『考工記』のごく僅かの記述から都城モデル図を作成するには限界があるが、もう少し、具体的で詳細な案が提出できる。ヒントは「方九里」である。また、「九経九緯」である。すなわち、9という数字は、九機、九州、九服のように極めて理念的な数字である。極めて具体的に「方九里」の正方形を各辺1里ずつ9分割すると全体は81区画からなり、1区画は方1里、すなわち、方300歩である。方300歩というと、すぐさま想起されるのは井田法の1夫(畝)である。井田法については続いて触れるが、方一里(3百歩)の正方形の土地を3×3=9、百歩×百歩=1畝ずつに分割する田制としてよく知られていよう。
中国古代において理想的と考えられていた井田法による分割単位(方一里)を前提とすると、『考工記』の記述からさらに具体的な空間配置が想定できる。「方九里」の都城空間を9×9分割した上で、『考工記』を解釈するのが賀業鋸である[43]。その図は、『考工記』をめぐってこれまでに描かれた最も詳細な図といっていい。
「九経九緯」をそれぞれ縦横の道と考えると、環塗を含めて考えるかどうかで、8×8と10×10という2つのグリッドが考えられる。要するに、「九経九緯」の内側には64の空間単位が区切られ、外側を含めると100の空間単位が出来る。一般的に考えると、「傍三門」の3門の間隔は等しい、とするであろう。単に分割の問題とすると1辺は4分割されるのが都合がいい。だとすると、8×8が自然である。応地利明も、『考工記』の都市理念を図化するにあたって、「傍三門」を等間隔に配し、それぞれ相対する門をつないで全体をまず4×4=16区画に分割した後で、各区画をさらに4分割し、8×8=64に分割したものを下敷きにしている[44]。古代インドと古代中国の都城理念を比較する目的もあるが、「九経九緯」を環塗も含めて考えると8×8分割が都合がいいということもある。
しかし、「方九里」というのであるから、まず全体を9×9に分割するのが自然である。とすると、各辺の3門を等間隔に配することは出来なくなるが、中央に主門を設けるのは当然だから、中央のゾーンは2分割するのが素直である。全体の分割は極めて自然に行うことが出来る。そして、間隔は異にするが、「九経九緯」となる。また、結果として、300歩×300歩の区画以外に300歩×450歩の2種類の区画が出来ることになる。
こうして出来た区画に各施設が割り当てられるわけだが、まず、中央の方三里(9区画)を宮廷に当てる。そして、その南、東に宗廟(左祖)、西に社稷壇(右社)を置く。宮廷前の3区画(井)を当てるのが妥当であろう。そして、宮廷前の区画に(外)朝、北に市を置く。それぞれ一夫であるから、そう問題はないだろう。『考工記』に書かれる施設の配置は以上のようであるが、賀業鋸は、さらに踏み込んで、まず、宮前区に府庫、厩を配し、主門に続くその前の2区画を官衛(官署)に当てる。また、市との関係を考慮し、東北の2区画を倉庫に当てる。さらに一般の居住区を貴族、卿大夫の国宅と商工業者の閭里(廛)に分けて配する。当然、国宅は宮廷近くに配されることになる。
以上の全体配置を基に、賀業鋸は、郭、城垣、宮城、宗廟、社稷、市、そして里の内部構成を順次検討している。
郭、城垣は明快であり、詳細についてそう問題はない。
宮城について主な手掛かりとなるのは、(A)の「左祖右社」「面朝後市」、(C)の「王宮門阿之制五雉、宮隅之制七雉」(C-1)および「廟門容大局七介、闍●(偉)門容小局三介。路門不容乗車之五介、応門二徹三介。内有九室、九嬪居之、外有九室、九卿朝焉」(C-2)である。
中心と周縁
中国の都城理念とその空間モデルは、中国各地に伝えられ、また、朝鮮半島、日本、ヴェトナムなど周辺地域に伝えられていく。実は、この理念をそのまま実現するものはほとんどない。唯一の嶺と言っていいのが、大元ウルスが『周礼』孝工記をもとにして中国古来の都城理念に則って計画設計したのが大都(→北京)である。
この中国都城の周辺地域への伝播とその受容については、他の論文に委ねたい。
4 朝鮮倭城と近世城下町
さて以上のような見取り図において、日本の近世城下町は、中国都城の伝統、その系譜とは明らかに異なった伝統に属しているといえる。冒頭に触れたように、日本の城郭都市は、大きくは、世界都市史の一大転換期に位置づけられる。すなわち、火器の出現と築城術の変化に対応するのが日本の城郭である。東アジアの空間的広がりにおいて興味深いのは、秀吉の朝鮮出兵においてつくられた倭城である。
豊臣秀吉は、文禄・慶長の役、すなわち、壬辰倭乱・丁酉再乱(1592~98)において、朝鮮半島南部に30にも及ぶ城郭、いわゆる倭城を建設した。侵略地において極めて短期間に行われたこの倭城の建設は、それまで日本で蓄積されてきた城郭建設の技術を集大成するものであった。そして、参陣した諸大名は、その経験を帰国後それぞれの国の築城に生かすことになった。すなわち、山上山下連結方式と呼ばれる倭城の形式は、日本の近世城郭の型となる平山城の成立に大きな影響を及ぼすものであった。
日本における中世城郭から近世城郭(都市)への変化は、日本社会の転換を大きく示すものである。平山城の典型である彦根城の位置づけ、評価に当たっては、日本の近世城郭との比較とともに、倭城との比較が必要となるであろう。
倭城については、秀吉以降の歴史的関係、植民地化の歴史、戦後の日韓関係などから、必ずしも、十分な調査研究がなされて来なかった。しかし、近年、日韓双方において、その意義についての認識が共有されはじめ、倭城遺祉が開発の波に襲われ失われる危険があるということもあって、「城郭談話会」[i]などによる研究が進められてきた。以下、倭城について、『倭城の研究』[ii]などをもとにその概要をまとめてみたい。
朝鮮出兵と倭城の建設
文禄・慶長の役=壬辰倭乱・丁酉倭乱(1592~98)の経緯はおよそ表1の略年表に示される。また、その間に建設された倭城とその位置は表2および図1に示される。
文禄元(1592)年正月に、秀吉が軍法度「高麗国禁制」を発すると、3月初めより、9軍に編成された朝鮮渡海大名の軍勢は順次名護屋城を離れる。当初より築城が命令されており、宋義智、小西行長の第一陣が釜山浦に上陸(4月12日)すると、数ヶ月以内に釜山鎮城の場外東西に釜山城が築かれた。築城者は毛利輝元、小早川秀秋らである。
宋義智、小西行長の軍勢は破竹の勢いで進軍し、5月3日には漢城府に入城、6月13日には平壌を占領する。補給路の確保が急務となるが、釜山浦と平壌の間には一日行程当たり一城、10余りの繋ぎ城が建設されたと考えられている。また、5月16日付で入明する秀吉のための御座所築城が指令されている。
しかし一方、日本軍は釜山浦西方での海戦で、李舜臣率いる朝鮮水軍に度重なる敗戦を喫する。沿岸部に補給基地を確保することが不可欠であり、初戦においては釜山浦周辺に数多くの倭城が建設されることになる。
文禄二(1593)年の正月、朝鮮軍の総攻撃をうけ、日本軍は平壌を撤退、さらに漢城府からの撤退も迫られる(4月)。講和交渉が開始され、文禄三、四年と休戦が行われるが、結局、城の破却と撤兵を強いられる。この間、21~22の倭城が建設されたが、第一次として、巨済島の4城など釜山浦以西を中心として10城、第二次として釜山補の東の西生浦、林浪浦、機張の3城が撤収した。加藤清正は、兵の一部を率いて機張城に入ったが、ついには城を焼いて帰還している(文禄五(慶長元)(1596)年)。釜山浦、金海竹島、安骨浦、加徳の4城は撤収していない。
大阪城における明使との交渉が決裂すると、秀吉は再び出兵を決意する。
新たに8城が築かれ、東は蔚山、北は梁山、西は順天まで戦線は拡大された。そして、慶長三(1598)年8月18日の秀吉の死によって、朝鮮出兵は終幕を迎えることになる。
倭城と倭城研究
壬辰倭乱・丁酉再乱(1592~98)において築城された倭城のうち、韓国の旧「史蹟」に指定されていたのは、機長城(釜山広域市機長郡竹城里)、金海竹島倭城(釜山広域市西区竹林洞山)、西生浦城(蔚山広域市西生浦面西生浦里)、安骨浦城(慶尚南道鎮海市安骨洞山)、蔚山倭城(慶尚南道蔚山市中区鶴城洞)
、梁山倭城(慶尚南道梁山郡勿禁邑禁里山)、泗川城(慶尚南道泗川郡船津里山)、順天倭城(全羅南道順天市海龍面新城里)である。日帝時代に日本人学者によって指定された「古蹟」を継承する形で、「史蹟」として保存・保護の措置がとられてきたが、1996年11月、韓国文化体育省は国指定の文化財である史蹟指定を解除し、地方自治体指定の文化財に格下げしている。倭城の評価が日韓で大きく異なるのは当然である。
倭城を遺跡として最初に調査したのは、八木奘次郎(東京帝国大学人類学教室、考古学)で、1900年と1901年の2度にわたって朝鮮を調査している[iii]。八木によれば、倭城は、山城であり、円形あるいは楕円形をしておらず、本丸・二の丸・三の丸という曲輪構成をとること、また、「濠渠」をもたないこと、「小城」であること、「天守」をもたないこと、を特徴としている。
以降、戦前期の倭城研究を振り返ると以下のようなものがある。[iv]
高句麗の都城
『三国史記』高句麗本紀に依れば、高句麗は、668年の滅亡までに、卒本(東明王即位(B.C.37)以前)、国内尉那巌城(瑠璃明王22(A.D.3)年)、丸都城(山上王13(A.D.209)年)、平壌城(長寿王15(427)年)、長安城(平原王28(A.D.586)年)と5箇所に都を置いたことになっている。卒本は、中国遼寧省桓仁に比定されている。しかし、国内城と丸都城、平壌城と長安城の関係をめぐって諸説あり、その場所については特定はっきりしない
亀田博、『日韓古代宮都の研究』、学生社、2000年
中尾芳治・佐藤興治・小笠原好彦編著、『古代日本と朝鮮の都城』、ミネルヴァ書房、2007年
金榮來、『百済滅亡と古代日本 白村江から大野城』、雄山閣、2004年、
(1) 日本,朝鮮半島,中国における城郭都市の構成とその特質に関する比較考察
(2) 古代都城から近世城郭都市への変容の考察:変わるものと変わらないものは何か
(3) 彦根城下町(近世近江城下町)の東アジア城郭都市における位置づけと意義の検討
序章(もしくは補章) アジアの都城の起源・形成・変容・再生
アジア都市論の構築に向けての視角を提示
アジアの世界遺産都市を網羅、その評価を問う
[編集] 主な倭城一覧
- 蔚山城 蔚山広域市中区鶴城洞(現・鶴城公園)
- 西生浦城 蔚山広域市西生浦面西生浦里
- 機長城 釜山広域市機長郡竹城里
- 東莱城 釜山広域市東莱区漆山洞裏山望月山
- 釜山鎮城 釜山広域市東区佐川洞裏山(現・甑山公園)
- 子城台 釜山広域市東区凡一洞
- 梁山城 慶尚南道梁山郡勿禁邑勿禁里
- 徳橋城 慶尚南道金海市酒村面徳谷里
- 昌原城 慶尚南道馬山市旧馬山海岸丘
- 安骨浦城 慶尚南道鎮海市安骨洞山
- 熊川城 慶尚南道鎮海市南門洞南山
加徳城 釜山広域市江西区城北洞山
長門浦城 慶尚南道巨済市長木面長木里
固城城 慶尚南道固城郡固城邑内
泗川城 慶尚南道泗川郡船津里山
南海城 慶尚南道南海郡南海邑船所里
順天城 全羅南道順天市海龍面新城里
研究情報
(14)倭城研究
1.倭城関係地図 e-mail:
koreauok@mbox.nc.kyushu-u.ac.jp
「倭城址図」九州大學九州文化史研究施設所蔵(「文禄・慶長の役城跡図集」佐賀県教育委員会、1985年)
名護屋城
『慶南の城址』慶尚南道、昭和6年
『蔚山城址考』発行者不明
『慶南の倭城址』釜山大学校韓日文化研究所、1961年
『倭城・』倭城址研究会
『日本の城の基礎知識』井上宗和著、雄山閣、平成2年、147-148頁、蔚山城・西生浦城・梁山甑城・金海竹島城・熊川城・加徳
城の6城」の平面図(1961年調査)
『巨済市城址調査報告書』東亜大学校博物館、1995年、長門浦倭城・松眞浦倭城・永登倭城の3城に関する城壁実測図と断面図を掲載。
『倭城の研究-特集・巨済島の倭城』創刊号、城郭談話会、1997年7月31日
『倭城の研究-特集・小西行長の順天城』第2号、城郭談話会、1998年8月31日--驚嘆すべき「綿密な調査と精密な図面」 。
今後、この調査報告を凌駕するものは当分の間現れないに違いない。
2.倭城所在情報(町田貢氏調査--1996年5月13日現在)
1. 釜山倭城--釜山広域市東区佐川洞裏山
2. 亀浦倭城--釜山広域市釜山鎮区亀浦洞
3. 西生浦倭城--慶尚南道蔚山市西生浦面西生浦里
4. 林浪浦倭城--釜山広域市機長郡林浪山
5. 機張倭城--釜山広域市機長郡竹城里
6. 東莱倭城--釜山広域市東来区漆山洞裏山望月山
7. 金海竹島倭城--釜山広域市西区竹林洞山
8. 加徳倭城--釜山広域市江西区城北洞山
9. 安骨浦倭城--慶尚南道鎮海市安骨洞山
10. 熊川倭城--慶尚南道鎮海市熊川洞南山
11. 見乃梁(唐島)倭城--慶尚南道巨済市見乃梁沿岸
12. 順天倭城--全羅南道順天市海龍面新城里
13. 泗川倭城--慶尚南道泗川郡船津里山
14. 永登浦倭城--慶尚南道巨済市長木面旧永浦里山6-17番地
15. 松眞浦倭城--慶尚南道巨済市長木面松眞浦里山6-3番地
16. 長門浦倭城--慶尚南道巨済市長木面長木里山130-43番地
17. 梁山倭城--慶尚南道梁山郡勿禁邑禁里山15
18. 昌原(馬山)倭城--慶尚南道馬山市旧馬山海岸丘
19. 固城倭城--慶尚南道固城邑内
20. 南海倭城--慶尚南道南海郡南海邑船所里
21. 徳橋倭城--慶尚南道金海市酒村面徳谷里
22. 蔚山倭城--慶尚南道蔚山市中区鶴城洞100
23. 椎木倭城--釜山広域市影島区青鶴2洞79-2
24. 迫門口倭城--釜山広域市中区中央洞7-20
アジア都市論の構築に向けての視角を提示
アジアの世界遺産都市を網羅、その評価を問う
東アジアにおける歴史的城郭都市の起源・形成・変容・再生に関する総合的比較研究 -近江近世城下町の東アジアにおける歴史的意義と位置づけの解明-
序章 アジアの都城の起源・形成・変容・再生―アジア都市論の視角- 布野修司
Ⅰ章 東アジア古代都城の構成とその特質 田中俊明
Ⅱ章 東アジア都城の起源・形成・変容・再生
Ⅱ-1 東アジア都市形成の考古学的検討 徐 光輝
Ⅱ-2 古都慶州の変容―日本人鉄道官舎地区を中心に― 趙 聖民
Ⅱ-3 古都西安の変容―回族居住地区を中心に― 川井 操
Ⅲ-4 韓国の邑城と邑治の変容 韓 三建
Ⅲ章 近世城郭都市の起源・形成・変容・再生―彦根を中心として―
山根 周
嶋田奈穂子
Ⅲ-1.日本における中世~近世城郭都市の系譜
1-1 鎌倉
1-2 朝倉一乗谷
1-3 秀吉の京都改造と大坂
1-4 江戸期の築城と城下町の整備
1-5 …
Ⅲ-2.戦国期~江戸期近江の城郭都市
2-1 戦国大名の山城
観音寺城(南北朝期):佐々木(六角)氏/小谷城(1524頃):浅井亮政・久政・長政
2-2 織豊期近江における城郭都市のネットワーク
坂本城(1571):織田信長,明智光秀/長浜(今浜)城(1573):豊臣秀吉/安土城(1576):織田信長/大溝城(1578):織田信澄/大津城(1586):豊臣秀吉・浅野長政/佐和山城(1590):石田三成
2-3 江戸期近江の城郭都市
膳所城(1601):徳川家康・藤堂高虎/大溝城(1619):分部光信/水口城(1634):幕府直轄→加藤氏
Ⅲ-3.城下町彦根の形成と変容
3-1 彦根城の築城と城下町の建設
3-2 彦根城下の変容
3-3日本城郭史,東アジア城郭都市史における彦根城下町の位置づけ
結章 彦根城下町の世界遺産登録へ向けて
調査研究経緯
東アジアにおける歴史的城郭都市の起源・形成・変容・再生に関する総合的比較研究 -近江近世城下町の東アジアにおける歴史的意義と位置づけの解明-
田中俊明
徐 光輝
布野修司
山根 周
東アジア近世城郭都市構成の分析
近江近世城下町の都市構成の分析
①本学中期目標「重点的に取り組む領域」における中期計画に「わが国と東アジア,東南アジアなどアジアを重視した地域研究の推進」があり,19年度年次計画に「東アジア諸国に焦点を当てた総合研究の具体的テーマの設定と研究体制の構築」が挙げられている。本研究は,この計画に対するプロジェクト研究として提示するものである。本学が位置する彦根は築城400年を迎え,世界遺産登録への機運が本格的に高まっている。しかし,彦根城下町の世界的な位置づけと意義を明確にする作業はまだきちんとなされていないのが現状である。数年前に「城下町・彦根」と「城郭都市・水原」の比較研究が本学特別研究に採択されたが,これは世界遺産にすでに登録された水原(韓国)と彦根を比較し,世界遺産登録を睨んだ景観整備手法の考察に焦点を当てたものであった。今,彦根城下町の世界における意義を,近世城下町,さらには東アジア(中国,朝鮮半島,日本)の城郭都市という枠組みの中で位置づける学術的作業が強く必要とされている。
代表者の田中はこれまで朝鮮半島を中心に古代都市の形成に関する歴史学的研究を継続してきた。また布野,山根らは建築学,都市工学的視点からアジアの歴史都市,植民都市の形成と変容に関する研究を重ねてきた。このように本学には東アジアの都市を対象とした多様なテーマと方法論をもった研究者がおり,それらが共同して比較研究をおこない議論を深めることにより,上記の課題に取り組むことができると考えたのが,本研究を構想した背景である。
②上記の背景をふまえ,本研究では,彦根をはじめとした近江の近世城下町および東アジアの古代から近世の城郭都市の形成と変容過程を,歴史学,考古学,建築学,都市工学など多様な視点から調査検討し,比較考察することにより,東アジアにおける近江城下町,特に彦根城下町の歴史的位置づけと意義を明らかにすることを目的とする。さらにその位置づけに基づき,今後の城下町,城郭都市の保存,再生に関する視座を得,指針を検討することを目的とする。それにより彦根城下町の世界遺産登録に向けた学術的貢献を目指す。
①研究テーマ:本研究では,以下の3つのテーマを主要な検討課題とする。
(4) 日本,朝鮮半島,中国における城郭都市の構成とその特質に関する比較考察
(5) 古代都城から近世城郭都市への変容の考察:変わるものと変わらないものは何か
(6) 彦根城下町(近世近江城下町)の東アジア城郭都市における位置づけと意義の検討
②研究対象都市:東アジア世界において,古代および近世に都市の形成,変容の画期となった以下のような城郭都市を対象都市に選定し,それぞれの形成過程と都市構成の特質を考察する。
(1)日本:藤原京,平城京,平安京(宮都・都城)および近世近江城下町(安土・坂本・長浜・八幡・大溝(高島)・彦根)
(2)朝鮮半島(韓国):公州,扶余,彦陽,益山,慶州,羅州
(3)中国:蓬莱(登州),西安(長安),敦煌,洛陽,広州,泉州
③研究組織:本研究では,主として歴史学,考古学的視点から古代都城の東アジアへの展開の中での都市の起源,形成を考察する「古代城郭都市比較研究班」(田中,徐)と,日本において城下町建設の画期となった16世紀末~17世紀初頭を中心とした近世に焦点を当て,主として建築学,都市工学的視展から東アジアの城郭都市の変容を考察する「近世城郭都市比較研究班」(布野,山根)という二つの研究班を設定する。そして古代班には若林亜矢(人文・博前/東アジア都市形成と風水思想),李暁雨(同/蓬莱都市形成の検討),福重麻木(同/益山都市形成の検討),近世班には趙聖民(環境・博後/韓国近世邑城構成の検討),川井操(同/西安都市構成の検討),嶋田菜穂子(人文・博前/近江近世城下町構成の検討)という計6名の大学院生が加わり,現地調査,データ整理,図面作成等の作業に協力する。
④現地調査:中国,韓国にて都市形成史関連資料収集と都市構成に関する臨地調査を実施する。
(1)古代班:8~9月(中国・2週間程度)および12月(韓国・1週間程度)
調査地:中国(蓬莱,西安,敦煌),韓国(公州,扶余,彦陽,益山)
(2)近世班:時期:8~9月(中国・2週間程度)および12月(韓国・1週間程度)
調査地:中国(西安,洛陽,広州,泉州),韓国(慶州,羅州,公州,扶余)
中国においては,中国西北大学教授・王維坤氏,西安工程大学科学技術学院副教授・段煉孺氏 他,韓国においては蔚山大学建築学部教授・韓三建氏 他の協力を得て現地調査をおこなう。
⑤研究会の開催:王維坤氏(中国西北大学/国際日本文化研究所),妹尾達彦氏(中央大学),塩沢裕仁氏(法政大学)ら,東アジアの都市史を専門とする研究者を講師に迎えた研究会を月1回程度開催し,日韓中城郭都市の古代的特質,近世的特質に関する議論を重ねる。
⑥研究スケジュール
[4~7月]:既往研究,文献資料の収集整理,研究会(月1回程度)による議論→[8~9月]:第1次現地調査→[10~11月]:調査データ整理,研究会(月1回程度)→[12月]:第2次現地調査→[1~3月]:研究成果とりまとめ
[1] 文献上の記録として、火薬の処方が書かれるのは宋の時代11世紀であるが、科学史家J.ニーダムらは漢代以前から用いられていたと考えている。
[2] バート・S・ホール、『火器の誕生とヨーロッパの戦争』、市場泰男、平凡社、1999. 火器がいつ出現したかについては議論があるが、1320年代にはありふれたものになっており、gun、cannonといった言葉は1930年代末から使われるようになったとされる。火薬の知識を最初に書物にしたのはロジャー・ベーコンである。『芸術と自然の秘密の業についての手紙』(1267)。
[3] イラン高原とメソポタミアに残るイスラーム期以前の円形都市遺跡は、ほかにクテシフォン(3~7世紀)、ハトラ(紀元前1~紀元3世紀)、ニシャープール(3~10世紀)など相当数にのぼる。円形都市という特異な幾何学的形態はイスラーム的な印象をあたえるが、バグダードは先行するササン朝ペルシアの都市を範型として建設されたのである。
[4] シャリーアは,元々「水場へ至る道」という意味であり,「ムスリムとしての正しい生き方を示す指針」である。
[5] 家島彦一,『イスラム世界の成立と国際商業-国際商業ネットワークの変動を中心に-』,岩波書店,1991年,加藤博,『文明としてのイスラム』,東京大学出版会,1995年など。
[6] Hakim,
B.S.,
“Arabic-Islamic Cities: Building and Planning Principles”,
London, 1986. B.S.ハキーム,『イスラーム都市-アラブの町づくりの原理』,佐藤次高監訳,第三書館,1990年。
[7] カウティリヤ,『実利論』上下,上村勝彦訳,岩波文庫,1984年。Shamasastry,
R., “Arthasastra of Kautilya”, University of
[8] Acharya,P.K. “Architecture of Manasara”,
[9] 『ヴィスヴァカルマ・ヴァーストゥ・シャーストラ』は,12タイプを区別している。また,『マヤマタ』は,街路体系について8タイプを区別している。類型の名前のうち3つは異なる。
[10] 1899年、マラリアに効くという「龍骨」に刻まれていた文字が発見され、周の金文より古いものであることが羅新玉(1866~40)らの研究によって明らかにされた。それらは殷の王室が用いた占いをした文字であり、甲骨の出土地が殷墟であることが明らかとなった。
[11] 岡村秀典、『夏王朝 王権誕生の考古学』、講談社、2003年
[12] 『中国文物報』、2003年1月17日(岡村前掲書、p125-131)
[13] 西晋代の280年頃河南省汲県で発見された竹簡文書『竹書紀年』は、陽城、斟尋、商丘、斟灌、原、老丘、西河の7つを挙げる。夏王朝最後の桀が都としたのは斟尋である。
[14] 古来、古文獻を基に夏王朝の王都の所在地を実在の場所に比定する試みはある。20世紀初頭にも丁山(1901~52)の比定がある(「由3代都邑論其民族文化」、国立中央研究院歴史語研究所、1935年)。
[15] 張在元編『中国 都市と建築の歴史 都市の史記、鹿島出版会、1994年
[16] その背景については、妹尾(前掲書)が説明している。杭州は、江南の中心、漢民族の拠り所として、南宋の王都・臨安の経済的・文化的繁栄を考慮したこと、安楊は、中華文明の発祥の地であることを考慮したことによる。
[17] 叶●●編、『中国都城歴史図録』、第1集~第4周、州大学出版社、1986年
[18] 李済、『支那民族の形成』、生活社、1943年。Li Chi, “The Formation of the Chinese People”,
[19] さらに、1937~45年の日中戦争、中華人民共和国樹立に伴う国民党の台湾移住も大移動に加えられる。
[20] 斯波利貞は、「邑」や「或」には、城郭の痕跡は認められず、「都」と「國」には城壁があったとする(「支那都邑の城郭と其の起源」、『史林』、第32巻第2号、1950年)。しかし、斯波義信『中国都市史』(p6)は、こう説明している。
[21] 宇都宮清吉、『漢代社会経済史研究』、弘文堂、1955年
[22] 斯波義信、『中国都市史』、東京大学出版会、2002年
[23] 杉山正明、『遊牧民から見た世界史』、日本経済新聞社、1997年。日経ビジネス人文庫、2003年。『逆説のユーラシア史』、日本経済新聞社、2002年。
[24] 妹尾達彦、『長安の都市計画』、講談社新書メチエ、2001年、61~84頁
[25] 宮崎市定、「中国における聚落形体の変遷についてー邑・国と郷・亭と村とに対する考察―」(1957年)、『宮崎市定全集3 古代』、岩波書店、1991年
[26] 宮崎市定、「中国上代は封建制か都市国家か」(1950年)、『宮崎市定全集3 古代』、岩波書店、1991年
[27] 宮崎市定、「中国都城の起源異説」(1933年)、『宮崎市定全集3 古代』、岩波書店、1991年
[28] 宮崎は触れないが、『管子』度地篇に「内為之城、城外為之郭」、「天子中而処、謂因天之固、帰地之利などとあり、内城に天子の居所があり、外郭に庶民が住んでいたことが推定できるのが内城外郭式である。
[29] 佐原康夫、「第1章 春秋戦国時代の城郭について」、『漢代都市機構の研究』、汲古書院、2002年。全部で52の城郭遺構の配置図が発掘報告文獻とともにリストアップされている。
[30] この城郭連結の形態は、インダス文明の諸都市における、いわゆる西高東低の構成、すなわち城塞が西の高台に位置し、東の低地に郭・市街地が設けられる形態を想起させる。
[31] 楊寛、『中国都城の起源と発展(中国古代都城的起源和発展)』、尾形勇、高木智見訳、西嶋定生監訳、学生社、1987年
[32] 愛宕元、『中国の城郭都市 殷周から明清まで』、中公新書、1991年。pp.21-23.
[33] 楊寛前掲書、p.59 註32。
[34] 駒井和愛の「曲阜魯城の遺跡」(『中国都城・渤海研究』所収)には詳細な報告があるが、瓦など出土品の多くは漢代のものである。
[35] 天官大宰,地官大司徒,春官大宗伯,夏官大司馬,秋官大司寇(だいしこう),冬官大司空の6人の長官に統帥される役人たちの職務が規定されている。これら6つの官は,理念的にはそれぞれ60の官職から成り、合計360という職務は1年の日数に対応するのだとされる。6官からなる政治体制は中国の官僚組織の根幹として後世にまで大きな影響を与えた。
[36] また前漢末の劉垢の偽作だとする主張もある。
[37] 宮室についての全文とその解釈は、田中淡の論考(「第1章 『考工記』匠人営国とその解釈」『中国建築史の研究』、弘文堂、1989年、5~26頁)参照。
[38] 『欽定礼器義疏』付録「禮器図」巻1「朝市廛里」の俗本の「後」は「后」の誤植であるという。
[39] 礪波護は、『周礼』天官冢宰の内宰の条に、「およそ国を建つるに、后を佐けて市を立つ。・・・」とあり、鄭玄は、「王は朝を立て、后は市を立つ。陰陽相成の義なり。」と注していることを指摘して、朝と市はそれぞれ天子と皇后によって主催されるべし、という思想があり、陰陽思想によって説明されるとする(礪波護、「中国都城の思想」、岸俊男編『都城の生態』、中央公論社、1987年)。
[40] 那波利貞、「支那首都計画史上より見たる唐の長安城」、『桑原博士還暦記念・東洋史論叢』、弘文堂、1931年。
[41] 礪波護、「中国の都城」、『日本古代文化の探求・都城』上田正昭編、1976年。
[42] 村田治郎、「中国帝都の平面型」、『中国の帝都』、綜芸社、1981年。
[43] 賀業鋸、『考工記営国制度研究』、中国建築工業出版社、1985年。『中国古代城市規画史論叢』、中国建築工業出版社、1986年。
[44] 応地利明、「Ⅴ アジアの都城とコスモロジー」、『アジア都市建築史』布野修司編、昭和堂、2003年
[ii] 上告懇話会(日本・大阪)編集発行:『倭城研究』創刊号「特集:巨済島の倭城」(1997年7月)、『倭城研究』第2号「特集:小西行長の順天城」(1998年8月)、『倭城研究』第3号「特集:九大シンポの成果」(1999年7月)、『倭城研究』第4号「特集:ソウル大「倭城図」と韓国の倭城研究」(2000年7月)、『倭城研究』第5号「特集:加藤清正の西生浦倭城」(1997年7月)
[iii] 高正龍、「八木奘三郎の韓国調査」、『考古学史研究』6、1996年
[iv] 福島克彦、「戦前の倭城研究について」(『倭城研究』創刊号)