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2022年9月30日金曜日

カンポンの世界,雑木林の世界14,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199010

 カンポンの世界,雑木林の世界14,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199010

雑木林の世界14

 カンポンの世界

                                  布野修司 

 この夏は暑かった。東南アジアに度々出かけて暑さには慣れていたつもりであるが、さすがにバテた。年かもしれない。七月末に能代で恒例になりつつある三大学合同の合宿(インターユニヴァーシティー・サマー・スクール *1)をした後、八月は、単行本をまとめるのにかかりきりになった。インドネシアのカンポンについての本だ。仮のタイトルを『カンポンの世界ーーージャワ都市の生活宇宙』という。

 十年ほど通ったインドネシアのカンポンについての調査研究は一応論文*2の形でまとめたのであるが、それを読んでくれた、ある編集者が本にしてみないかと勧めてくれたのである。もちろん、一般向けに書き直すのが条件である。最初、一般の読者は得られないのではないか、と躊躇したのであるが、ベテランで尊敬する編集者の重ねての勧めに作業をしてみようと思ったのである。うまくいけば、年内に出るかもしれないし、永久に出ないかもしれない。久しぶりに一生懸命勉強したという感じである。共同の編集作業が楽しみである。

 カンポン(kampung)とは、インドネシア(マレー)語でムラのことである。今日、行政単位の村を意味する言葉として用いられるのはデサ(desa)であるが、もう少し一般的に使われるのがカンポンである。村というより、カタカナのムラの感じだ。カンポンと言えば、田舎、農村といったニュアンスがある。カンポンガン(kampungan)とは田舎者のことである。しかし一方、都市の居住地も同じようにカンポンと呼ばれる。都市でも農村でも一般にカンポンと呼ばれる居住地の概念は、インドネシア(マレーシア)に固有のものと言える。

 ところが、しばしば、カンポンはスラムの同義語として用いられてきた。特に、西欧人は、カンポンをスラムと思ってきた。確かに、そのフィジカルな環境条件を見ると、都市のカンポンはスラムと呼ぶに相応しいようにみえる。生存のためにぎりぎりの条件にあるカンポンも多い。スクオット(不法占拠)することによってできあがったカンポンも少なくない。しかし、それにも関わらず、カンポンは決してスクオッター・スラムではない。 

 カンポンの世界は何故か僕を魅きつけてきた。今度の本で、僕は、カンポンの魅力について語ろうと思ったのである。何故、カンポンなのか。要するに面白いのである。日本の、のっぺらぼうな居住地が貧しく思えるほど活気に満ちているのだ。

 カンポンは地区によって極めて多様である。そして、それぞれが様々な人々からなる複合的な居住地でもある。カンポンは、民族や収入階層を異にする多様な人々からなる複合社会である。異質な人々が共存していく、そうした原理がそこにはある。

 日常生活は、ほとんどがその内部で完結しうる、そんな自律性がある。様々なものを消費するだけでなく、生産もする。ベッドタウンでは決してない。相互扶助のシステムが生活を支えている。つまり、居住地のモデルとして興味深いのである。カンポンは、決してスラムなんかではないのだ。

 カンポンは、ジャワの伝統的村落(デサ)の「共同体的」性格を何らかの形で引き継いでいる、という。ゴトン・ロヨン(Gotong Royong 相互扶助)、そしてルクン(Rukun 和合)は、ジャワ人最高の価値意識とされるのであるが、それはデサの伝統において形成されたものだ。そして、それは現在でも、カンポンの生活を支えている。

 カンポンには、ありとあらゆる物売りが訪れる。ロンボン(Rombong 屋台)とピクラン(Pikulan 天秤棒)の世界である*3。なつかしい。かって、日本の下町にも、ひっきりなしに屋台が訪れていたのだ。

 カンポンの住民組織であるルクン・ワルガ(RW Rukun Warga)、ルクン・タタンガ(RT Rukun Tetannga)というのは、実は、日本軍が持ち込んだものだという。町内会と隣組である。しかし、それが何故今日に至るまで維持されているのか。日本の町内会と隣組がどうしてインドネシアに根づくことになったのか。

 カンポンについての興味はつきないのである。

 もうひとつ、カンポンをめぐって興味深いのが、カンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)である。KIP(キップ)とは、フィジカルな居住環境整備の手法として、住宅地のインフラストラクチュアである歩車道、上下水道、ゴミ処理設備等、最小限の基盤整備を行い、住宅の改善については、居住者およびコミュニティーの相互扶助の活動に委ねるというものである。この手法は、大きな成果を挙げ、同じように居住問題に悩む発展途上国を中心に、世界的にも注目されてきた。

 このKIPについては、次のような興味深いエピソードがある。

 ジャカルタのカンポンを僕が最初に歩いたのは一九七九年の初頭のことであったが、その翌年、このKIPがある建築賞を授賞する。イスラム圏のすぐれた建築を表彰するアガ・ハーン(Aga Khan)賞である。そして、その一九八〇年の第一回アガ・ハーン賞の選定にはひとりの日本の高名な建築家が審査員が加わっていた。KIPは、結果的には全員一致で選ばれるのだけれど、その建築家はひとりだけ反対したのだという。聞けば誰でも知っている建築家である。余程、インパクトが強かったのであろう、いくつかの場所でその時のことを繰り返し述べている。

 「スクオッターというのは、不法占拠地域という意味です。難民とか、職がなくて都会に出てきた人が、その土地が誰に属していようとおかまいなく集団で丘やら原っぱを占拠し、そこに勝手に家を建てることによってできた村や町をいいます。そこには初めは電気もなければ水道もない。それを徐々に改良していって、道もでき、汚い水を流す開渠もでき、水も電気も引いてきて、さらに全体のコミュニティーセンターになるような施設も造る。こうしてできた村の例をいくつか挙げて、これにも賞をやってほしいというわけですよ。建築賞という名前がついているんですから、ある程度の文化性がないと困るんじゃないかと私は主張したんです。」

 ここで語られているのが、カンポンであり、KIPなのである。カンポンやKIPには文化性がないのだという。僕の立脚しようとする建築観とこの日本を代表する建築家の建築観とは全く異なっているようである。いささか不安になるが、違うものは違うのだから仕方がない。恐れながら、今度の本を精一杯の反論としようと考えたのであった。

 カンポンについて考えたことと、日本の都市や住居について考えることを、もとより、区別しているわけではない。カンポンに学んだことをどう自らのものとするか、こんどの本を通した僕のテーマである。

 

*1 拙稿 「秋田杉の町能代を見る」 『室内』 一九九〇年九月号

*2 『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究ーーーハウジング・システムに関する方法論的考察』 一九八七年

*3 拙著 『スラムとウサギ小屋』 青弓社 一九八五年

 


草刈十字軍,雑木林の世界02,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,198910

 草刈十字軍,雑木林の世界02,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,198910



気になるブラックボックス,人事,賞,コスト,日経アーキテクチャー,日経BP社,19921026

 気になるブラックボックス,人事,賞,コスト,日経アーキテクチャー,日経BP社,19921026 

気になるブラックボックス                       布野修司

                 

 困った。ブラックボックスが多すぎるというのが日頃の実感だからである。身近なところでいうと大学の建築学科の人事。もう少し、日本全体でオープンに流動化がはかれないか、などと言い出すと薮蛇である。人事は何処の世界でも難しい。学会の選挙、各賞の選考、論文審査・・・、本気で考えると、このテーマはやっぱり困る。

 あらゆる賞は情実で決まる、というのは山本夏彦大先生の名言である。コンペや建築賞もまずはそういうものだと思った方が健康的である。そうした上で、誰が誰を押してどういう力学でそうし決定がなされたかがおおっぴらにされればいい。賞が欲しくて料亭で接待とか、酒場で根回しなんてのはうんざりである。

 建築のコスト。これがわからない。おそらく最大のブラックボックスではないか。建築業界のありとあらゆる問題が絡む。流通の問題がある、重層下請構造の問題がある、コスト決定のメカニズムを明らかにしようとするとわからない問題にすぐつきあたる。アカデミックな作業として考えた場合にもそうである。ある現場とある現場のコスト比較は如何に可能か。外国に比べて日本の建設費が高いと言われるが実際どうなのか。

 そこで突き当たるのはまずは文化の問題である。そう、ブラックボックスというのは文化の問題なのだ。そこら中にブラックボックスを感じるのは日本文化の理解がまだ足りないからである。






2001年10月 未だ序走・・・表紙案出来る 『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日

 未だ序走・・・表紙案出来る

 

2001101

住宅総合研究財団(東京世田谷)で『すまいろん』のミニ・シンポジウムに参加。陣内秀信さんと対論。

題して「まちの原風景 すまいの記憶は都市を変えるか」。テーマをよく理解しないまま出席。つい最近の引っ越しまで、我が住宅遍歴を語る。拙著『住宅戦争』に図面も載せてある。つくづく思うのは、わが貧困の住宅遍歴は日本の戦後住宅史そのものである。それぞれに住宅遍歴を語ってもらう、こんな特集もおもしろいかもしれない。大邸宅に住みながらローコスト住宅を、とか、超高層マンションに住みながら町屋をまもれ、とか言っている先生が結構いるのだ。

 

2001102

学会賞委員会。編集委員では小嶋君が一緒。僕より若い建築家のなかでは、なんとなく信頼感がある。深く考えて設計している、誠実な感じがいい。出雲市(島根県)の地域交流センター「ビッグハート」の公開ヒヤリング方式のコンペでは僕は審査委員長であった。竣工後、車椅子が使いづらいと大問題になったが、シンポジウムを開催、きちんと対応しているのが強く印象に残っている。

 

2001108

休日であるが、タイからタルドサック講師(チュラロンコン大学)、ジャトゥロン君(キングモンクット工科大学)を編集委員の田中麻里さんが招いたスケジュールに合わせて、アジア都市建築研究会開催。もう十年近く続けていて48回目になる。題して‘The Role of Gentrification in Urban Conservation : The Case of Rattanakosin Historic Center of Metropolitan Bangkok’である。二人とはこの7月バンコクで会ったばかり。内容はショップハウスの保存の問題。ジャトロン君の先生は東大の西村先生のところで学位をとったとか。また、藤森研究室はラッタナコシン島で悉皆調査を実施中である。東アジア、東南アジアは既に共通に議論すべきフィールドである。

 

2001109

情報委員会。理事会。会員数減少の話題。財政問題は危機的で、『建築雑誌』も頁数削減が必死のようだ。頁数より、統廃合によって委員会の数を思い切って減らすとか、もっと本質的な構造改革があると思うけれど、頁数などが標的になる。総合論文集はどうも実施の方向である。「年内に決定して欲しい」と発言したけれど、覚悟したのは、建築年報は廃止、9月号を建築年報に当てる、である。この際、ユニークな年間総括を考えたい(考えるしかない)。

 

20011010日~11

学会賞委員会。一日作品審査。11日に8作品決定。専ら議論になったのは「重賞問題」である。僕の意見は、「重賞」は否定しないけれど「新人賞」的でいい、ということ。作品賞の性格を厳密に決める必要はない、と思う。常に問われているのは審査委員の見識である。

 

20011019

京都会館で京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の秋期リーグ開催。学生たちはパネルをつくって半年の調査結果を発表。14日は鴨川フェスタに参加、子どもたちを集めて「まちづくりゲーム」大好評。先日の理事会で、仙田会長が大学の地域社会に対する貢献の試みとして高く評価すると発言。うまく成長したら、他の「コミュニティ・ベースト・プランニング」の試みと一緒に『建築雑誌』で紹介できるといい。

建築学会の京都の景観に関する特別研究委員会(岡崎甚幸委員長)も一応の作業を終え、市民へ向けてのシンポジウムを12月に開催予定である。高田光雄さんにそのエッセンスを報告して欲しい、とお願いしたところ、本番にとっておくとはぐらかされた。いずれにせよ、提言より実践の段階なのだと思う。

 

20011025

4回編集委員会。上京の新幹線の中で新書をペラペラとめくる。どこか編集長というプレッシャーがあるのかもしれない。いつもは読まないものでも多少気になる。めくったのは『IT汚染』『公共事業の正しい考え方』『自治体・住民の法律入門』『天皇誕生』『謎の大王 継体天皇』である。後の二冊は、浅川先生の特集案とはあんまり関係ないかも知れない。出雲出身の出雲主義者である僕は、かなり古代史には興味がある。二冊とも天皇の誕生とその存続をテーマとしている。

表紙案4案を持参で鈴木一誌さん登場。いよいよ始まる、の予感。1月号は原稿待ち。二月号は、どたばただけれど、古谷、小嶋、塚本、貝島の4研究室の若い力と完成に大いに期待。3月号はほぼOKだけれど、なかなか発注に至らず大崎さんイライラ。4月号は、超大忙氏の伊加賀さん詰めるに至らず。次回に期待。常置欄は、まちづくりノートが少し遅れ気味。但し、概ね方向性出る。

 

4回編集委員会 議事録

 

<日 時>20011025日(木)14:0017:00

<会 場>建築会館202会議室

<出 席>委員長 布野 修司

     幹 事  石田泰一郎・大崎  純・松山  巖

     委 員 青井 哲人・伊香賀俊治・伊藤 明子・岩下  剛・岩松  準

         黒野 弘靖・高島 直之・田中 麻里・Thomas C.  Daniel

         塚本 由晴・土肥 真人・新居 照和・野口 貴文・羽山 広文

         脇田 祥尚

<議 事>

□布野委員長より、議事録をもとに前回議論の確認を行った。

 

□特集企画について

1月号「建築産業に未来はあるか(仮)」について

 末尾の「建築業界の現在・近未来を読むデータ集」(遠藤委員・岩松委員)において、『建築雑誌』の関連特集や文献紹介をしてはどうか、という意見が出された。

 また、伊藤委員から「諸団体のストラテジー+建築界ストラテジー俯瞰図」執筆するための「建設産業を取り巻く状況等に関するアンケート」について、進行状況が報告された。大まかに分類し統計を取ったうえ、全体的な動向を分析する方針との説明がされた。

 *アンケートは、最終的に依頼346件に対して回答125件がありました(回答率:36%)。

 鈴木一誌氏から、1月号の表紙デザイン案が4点示された。

 鈴木氏より、「この4つのグラフを重ねることで何が言いたいのか(言えるのか)が見えてこないように思われる。読者に何を読みとってほしいかを強調してみたらどうか」との指摘がされ、次の案が示された。

 1)グラフは、2つないし3つぐらいが妥当ではないか。

 2)「○○は××である」といったキャッチコピーか、読み解きを用意したらどうか。

 3)グラフに一般社会的事象を重ね合わせたらどうか

 上記の方針に対して、岩松委員から再度検討いただくこととし、3)については菊岡氏の原稿も見ながら最終チェックを加える方針とした。

 表紙の印刷では、白地を基調にし、予算の範囲で用紙も再検討する。

 本文用紙は、可能な限り再生紙を中心に使用することとした。

2月号「公共空間-なんでこうなるの?(仮)」について

 塚本委員から、特集で取り上げる対象のリストが提出された(ほかに「バス停」が追加された)。誌面は全体を見開きで構成し、左ページは全面写真、右ページはインタビュー記事により構成する方針が示された。取材は、担当委員の研究室に所属する学生さんにお願いする。表紙のアイデアは、担当委員の宿題とした。

 *その後、事務局より、布野委員長+担当委員のお名前による正式な取材依頼状を、各取材先にお送りしました。

 なお、布野委員長より、2月号には「2001年度の大会報告」が掲載されることが説明された。この報告は全体的に画一的・議事録的で、読み物として物足りない面があることから、会員に大会の概要をより分かりやすく伝えるために、今回の依頼では「発言者を羅列した画一的な記録よりも、当日の主要なテーマや、中心となった議論、その結果何が明らかになったのか、をご報告いただきたい」旨を強調して依頼したことが説明された。

3月号「建築の情報技術革命(仮)」について

 大崎幹事から最終企画案が提出され、原案どおりで依頼を行うこととした。

 なお、記事が2ページの場合と4ページとでは原稿の密度に大きな差が出やすいことに配慮し、3ページによる依頼も行って全体のバランスを図る方針が説明された。「CALSの現状」の執筆者は未定であったが、建築研究所に当たる方針で今後調整する。特集の末尾で大崎幹事による総括を掲載することとした。

 表紙は、情報関連用語を羅列したものをデザイン化する方針とした。

 また、この特集では難解な用語が多く用いられる場合も予想されることから、読者の理解を助ける「用語解説」欄を設けたらどうかという案が出され、各執筆のページ内かあるいは別ページとして掲載することとした(レイアウトを鈴木一誌氏に依頼)。

 *原稿依頼において、「執筆内容に関連する用語を一つお選び頂いたうえ、100字程度で説明してください」という依頼をしました。

4月号「京都議定書と建築(仮)」について

 伊香賀委員より企画案が提出され、議論した。出された意見は下記のとおり。

・用語の解説を入れたらどうか。

・用語はそれぞれの誌面で、記事に関連付けて掲載したらどうか。

・議定書の発効に伴い、例えば、いままで使ってきた建材が使えなくなる(使わない方が 良い)といった具体例が挙がると良い

・この特集のポイントを、①用語の解説、②地球環境問題に対してわわわれは身の回りで何をすべきか(何ができるか)の2つに置いたらどうか。

 

7月号「室内空気汚染問題の今」について

 岩下委員から企画案が提出され、議論した。今後議論を継続します。

5月号以降の特集テーマについて

 新たに提案された特集企画は下記のとおり。

 ・「建築コスト7不思議」(岩松委員)

 ・「多民族共生社会」(浅川委員)

 ・「インド建築」「非西洋世界の建築」「アジアから近代建築を考える」(新居委員)

 ・「被害調査の方法論」「木質構造特集」(藤田委員)

 布野委員長より、今後のテーマとして下記の大枠が説明された。

 ・5月号「古代遺跡」(浅川委員)

 ・6月号「木造または構造デザイン」(藤田委員) →大会予告号につき小特集

 ・7月号「室内空気汚染問題の現在」(岩下委員、羽山委員)

 ・8月号(都市関係で、北沢委員に原案作成を依頼)

 ・9月号「建築年報2002

 ・10月号(環境関係で、石田委員に原案作成を依頼)

 ・11月号(構造関係で、福和委員・野口委員に原案作成を依頼)

□特集アーカイブスの提案について

 青井委員から、「過去の類似テーマを総括する」という編集方針に基づき、毎月の特集において『建築雑誌』の過去の議論や作業を総括するという提案がなされた。また、1月号を想定した私案が提出された。議論の結果、新たにページ枠は確保せず、必要に応じて特集の枠内に組み入れる方針とした。

□連載について

  下記の依頼を行うこととした。

  →3月号 小笠原伸氏(テーマ:1960年代クレージーキャッツ映画と高度成長)

  →3月号 宇高雄志氏(テーマ:マラッカ)

  →5月号以降は、岩下・羽山・野口の各委員より企画案を提出していただく。

  →3月号 瀧澤重志氏(テーマ:人工生命関係)

    なお、伊香賀委員から環境工学関連ソフトが紹介された。

  →3月号 小山雄二氏(大阪→新居委員打診)、羽深久夫氏(北海道→支部通信委員)

 Foreign Eyes

  →2月号 Michael Webb氏(その後、多忙により後回しにしてほしいとの要望があり、

   急遽、Miodrag Mitrasinovic氏(アメリカ)に依頼しました。)

  →2月号 天野裕氏

□RILEM小委員会から、紹介記事の掲載依頼について

 RILEM小委員会より、RILEMのテクニカル・コミッティの紹介記事の掲載依頼について、掲載するとすれば「技術ノート」か「活動レポート」になろうという前提で議論した。①「技術ノート」として見ると、企画内容として不十分であるので、全体構成を4回程度の企画案としてまとめていただく。②「活動レポート」であれば、活動報告的な内容で随時掲載する。という2つの選択肢を検討していただくよう、RILEM小委員会に回答することとした。

□「情報ネットワーク」の改変案について

 標記について、情報委員会(編集委員会の上部委員会)で議論されている内容が事務局から報告された。改変の方針として、①分かりやすい誌面を構成する、②情報の多様化を図る、③経費の削減を図る、こととし、具体的なイメージが示された。

 誌面レイアウトについては、それぞれの項目ごとに分けたレイアウトやデザインを鈴木一誌氏に依頼する方針が確認された。

□ホームページについて

 大崎幹事より、進行状況が報告された。

□総合論文誌構想について

 布野委員長より、2002年度から新たに『建築雑誌』増刊として刊行される「総合論文誌」の構想が説明された。この刊行に伴い、「建築年報」の独立刊行を廃止すること、『建築雑誌』9月号の特集を「建築年報」の内容に充てる方針が説明された。

 

会議後、松山さんから、『路上の症候群 19782000 松山巖の仕事Ⅰ』(中央公論新社)を頂く。「何冊でるんですか?」と問うと二冊とのこと。二冊目は長めの論考を集めたという。じっくり読ませて頂こうと思う。

 

20011029

政策科学研究所(東京)に呼ばれ「アジアの都市と居住モデル」と題して講義。「都市における人間とテクノロジーに関する研究会」という。機械学科の先生が主体だけれど社会科学系の先生も多い。こんなテーマであれば建築学会はもっと活躍すべきだ、と思う。

 

2022年9月29日木曜日

「防災の日」を前に,事故は一定の確率で起こる?,日経アーキテクチャー,日経BP社,19920831

 「防災の日」を前に,事故は一定の確率で起こる?,日経アーキテクチャー,日経BP社,19920831

防災の日を前に                     布野修司

                 

 臍を曲げて言えば、「防災の日」などというのがまずよくない。また、それをたまたま発売日が会うからといってテーマにするセンスがよくない。「防災の日」に、防災訓練をしたり、いざという時のトレーニングをするのはいいだろう。災害時のパニックを避けるための準備は必要である。しかし、「防災の日」がないと災害のことなど考えないという感覚こそが恐ろしい。事実、「防災の日」があるおかげで、その日を除けば、一般庶民は災害をほとんど意識することはないのである。

 しかし、建設現場となるとそうはいかない。安全対策はどこの現場でも頭が痛い。注意をし、毎日点検するのだけれど、それでも事故は起こる。

 先日、暗然とするようなレクチャーを受けた。安全対策は徹底されてきたのであるが、それでも事故は一定の確率で起こっているのだという。要するに、極論すれば、安全対策の如何に関わらず事故は起こるのである。もちろん、これはマクロな統計上の話である。でも、例えばトンネル工事で、距離数に比例して死亡者が出るというデータをどう解釈すればいいのか。また、ヨーロッパやアメリカと比べても、その確率は高いのだとしたら、どうか。

 結論は、日本の建設産業の構造に根ざしているということになりはしないか。その体質改善は、「防災の日」だろうがなんだろうが、以前から一貫するテーマである。






2022年9月26日月曜日

書評 実にドラスティックなブルーノ・タウトの軌跡,書評:田中辰明・柚本玲『建築家ブルーノ・タウト』,図書新聞2994号,2010 12 18

 実にドラスティックなブルーノ・タウトの軌跡

布野修司

 

 本書は、建築家ブルーノ・タウトに関する、現在日本語で読める最良のガイドブックである。

 主著者は、一九七一年から七三年にかけて西ベルリンに滞在し、尋ねて来た恩師、建築家武基雄を、そのたっての希望でオンケルズ・トムズ・ヒュッテ(アンクル・トムの小屋)・ジードルング(集合住宅団地)に案内して、ブルーノ・タウトのジードルング作品を知ったという。爾来四〇年、ブルーノ・タウトの現存する作品の全てを見て周り、写真に収めた、その長年にわたるタウト詣でをもとにまとめられたのが本書である。中心は、そのいくつかが二〇〇八年に世界文化遺産に登録されたジードルング作品である。

 ブルーノ・タウトは、戦時中に日本に滞在したこと、そして「桂離宮」評価を軸とする『日本美の再発見』『日本文化私観』といった日本文化論を書いたことによって、近代建築家としての知名度は、日本において、ル・コルビュジェ、F.L.ライトらにまさるともおとらない。しかし、その建築家としての軌跡は必ずしも知られていない。

タウトの軌跡は実にドラスティックである。本書に掲載された略年表からもそれは容易に伺える。タウトと言えば、まず、「ドイツ工作連盟」博覧会の「ガラスの家」(一九一四年)である。そしてアンビルドの想像力溢れる「アルプス建築」(一九一九年)である。また、マグデブルグ市の建築顧問としての「色彩宣言」であり、ベルリン住宅供給公社(GEHAG)建築顧問としてのジードルング建設である。そして日本での活動である。タウトは「表現主義」の建築家として出発する。ロシア革命直後に「十一月グループ」のメンバーになっているが、ラディカルな建築家として知られる。しかし、一九二〇年代に入ると新即物主義(ノイエ・ザッハリッヒカイト)と呼ばれる機能主義建築家に転じていったとされる。その象徴が一連のジードルング作品である。そして、ナチスの台頭とともに、いわば亡命の形で日本に来るのである。

 一九七六年、初めて一人でドヨーロッパの諸都市を走り回った建築行脚を思い出した。この最初のヨーロッパ建築行脚のひとつのターゲットは「表現派」の建築であった。オランダのアムステルダム派の建築も随分見て回ったが、ドイツが中心であった。ヘーガー、ヘトガーといった北方ドイツの表現派を追いかけて、ブレーメン、ハンブルグ、ハノーバーにも足を運んだ。東ベルリンにも一日潜入して、ハンス・ペルツィッヒの「ベルリン大劇場」を見た。数え上げてみたらドイツだけで三二都市になる。振り返ってみると、他には眼もくれずに「近代建築」のみ見て回った若気の至りの旅行である。

ベルリンでは、もちろん、ブルーノ・タウトのみならず、ミース・ファン・デル・ローエ、W.グロピウス、H.シャロウンらが設計建設したジードルングを見て回った。オンケル・トムズ・ヒュッテとともにおそらくブルーノ・タウトの作品の中で最も有名であろう馬蹄形のブリッツ・ジードルングも見た。半世紀の時の流れを経て、汚れも目立っていたけれど、迫力があった。ただの団地ではないのである。本書に掲載されたタウトのジードルング写真を見て、その新鮮さに驚く(ブリッツ・ジードルングの写真がないのは実に残念)。日本の住宅公団の団地が世界文化遺産になることなど想像ができないことを思えば、彼我の差異をいまさらのように感じてしまう。

 タウトについての関心は、今でもやはり「表現主義」から「新即物主義」への展開である。本書にも掲載されている扇形のプラン(平面、間取り)をした自邸がある。小住宅である。彼にはこの自邸を「動線」をもとに機能主義的に分析した論文があって、いち早く日本語にも訳されている。すなわち、日本には合理的設計手法の先駆として紹介された経緯がある。そしてタウトはその延長において「桂離宮」を再発見(評価)したと考えられている。しかし、そのタウトと、「アルプス建築」のタウト、「色彩宣言」のタウトとは必ずしも結びつかないのである。本書に不満があるとすれば、この展開についてほとんど触れられていないように思えることである。 


シンポジウム:地方の時代と建築文化,岡山のまちづくりフォーラム実行委員会, 建築技術普及センター,建築文化・景観問題研究会,岡山,19951110

 シンポジウム:地方の時代と建築文化,岡山のまちづくりフォーラム実行委員会, 建築技術普及センター,建築文化・景観問題研究会,岡山,19951110














2022年9月25日日曜日

建築行政,これだけは改めたい,情報公開という唯一の指針、日経アーキテクチャー,19970127

 建築行政,これだけは改めたい,情報公開という唯一の指針、日経アーキテクチャー,19970127

情報公開という唯一の指針 

 布野修司

 

 「これだけは改めたい」というためには、建築行政全般が頭に入っていないと話にならない。断片的に指摘しても、青臭い議論だ、と一蹴されるのが常だ。それに特に今求められているのは、全ての行政分野における、ひいては日本社会全体の「構造改革」であって、小手先の修正ではないのである。

 例えば、建設業の構造改革(建設省経済局)ということで、職人(技能者)教育を改めて(考えて)欲しい、と言ったとする。しかし、それは労働行政の問題であり、文部行政の問題であり、さらに偏差値社会全体の問題につながって、容易ではない。建築指導行政(建設省住宅局)について、取締行政(規制)から誘導行政へ、といっても、具体的な現場では縦割りの施策と補助金の配分システムが問題であり、錯綜する権利関係を解くのは難しい。

 縦割り行政を廃せよ、地方分権を、規制緩和を、談合廃止、等々、現在の日本の官僚制度と官僚組織をめぐる議論の中におよそ問題は指摘されている。

 しかし、構造改革が一気に行われるなんてことはありえない。議論を持続するためにどうしても必要なことは、情報公開である。唯一の指針といってもいい。開かれた議論の中でユニークな試みも許容する新たな仕組みをつくりあげるしかないと思う。

 以上を前提として、敢えてひとつだけ「これだけは改めたい」というとしたら、設計入札である。さらにその廃止に伴う、公開ヒヤリング等を含む公共建築の設計者選定(設計競技)の仕組みの構築である。審査委員会の任期、責任の明確化から、検査士制度あるいはタウン・アーキテクト構想まで、あらゆる個別の問題から構造改革につながる提案が可能なのである。




2022年9月24日土曜日

建築界の涼しくなる話,そして、建築家はいなくなった、日経アーキテクチャー,19960812

建築界の涼しくなる話,そして、建築家はいなくなった、日経アーキテクチャー,19960812

そして、建築家はいなくなった・・・

布野修司

 

 建築学科が無くなるという話は、怪談でもミステリーでもない。現在進行中のノン・フィクションである。日常的にぞっとしている。させられている。

 建築学科が無くなるというのは、この間の大学改革(大学院重点化、教養学部の廃止等々)にともなって、その名前が消えつつあることを言う。もちろん、建築学科という名前が全ての大学で無くなるわけではなし、名前が無くなったって、「建築」あるいは「建築コース」が無くなるわけではない。

 しかし、建築学科の再編成の過程で起こりつつあることはそう楽観もできない。要するに問題は、建築学科はどういう人材を育てるのかである。あるいは、建築家を建築学科は育てられるのか、ということである。古くて新しい建築教育の問題である。

 現場を知らない教師が建築を教える。自分の住宅の設計もしない教師が建築を教える。これは、心底ぞっとすることである。もちろん、この教師とは僕のことだけれど、余りにそんな教師が多すぎないか。

 最近、土木の先生とつきあう。デザイン教育にすこぶる熱心な先生である。もうセンスは「建築家」と変わらない。やっぱり、デザイナーは建築学科でないと育たないといいたい気分はある。しかし、何の根拠もないことにぞっとする。土木と建築との間にデザインの境界などないのである。

 建築学科が何も建築家を育てるわけではない。安藤忠雄の例を出すまでもなく、独学の建築家は少なくない。また、インダストリアル・デザインや美術の世界からの転身の例も枚挙に暇がない。もしかすると、建築学科なんか要らないのかもしれない。逆に、建築学科という制度が建築家を生まないのだとすれば大いに滑稽でそれこそぞっとするではないか。 



 

2022年9月23日金曜日

現実とフィクションのあいだを建築的に論じる:映画的建築 建築的映画 五十嵐太郎,図書新聞,20090718

現実とフィクションのあいだを建築的に論じる:映画的建築 建築的映画 五十嵐太郎,図書新聞,20090718

布野修司

 

 題名に惹かれ、一端(いっぱし)の映画少年であった昔、年間200本を超える映画を見て過ごした、また、ドイツ表現主義映画の連続映写会(『カリガリ博士』『ゴーレム』『ノスフェラトゥ』『ドクトル・マブゼ』『ファントム』・・・・)・シンポジウムを開催したこともある学生時代を思い起こしながら手に取った。一読して、いささか後悔、評する資格がないと思った。なにしろ、取り上げられる映画のほとんどを見ていないのである。古今東西の映画がDVDやインターネットで見ることができる、本書はそうした時代の作品である。年間200本見たといっても、毎週土日にオールナイトで「ヤクザ映画」を5本見るといったレヴェルであり、そうした時代のことである。映画の成立する(映画(およびTV)産業が拠ってたつ、あるいはIT産業が用意する)メディア環境の大転換をまず思う。とても批評することは適わないのであるが、本書の概要を紹介して最低限の務めを果たしたいと思う。

 著者は、冒頭序に、映画(映像)と建築をめぐる言説の基本的スタンスの違いを整理してくれている。第一に、映画に登場する建築や都市を論ずるものがある。実在の都市・建築を取り上げるもの(飯島洋一『映画の中の現代建築』)だけでなく、第二に、架空の空間も論考の対象になる。建築が生活の舞台を用意し、都市景観を形成している以上、映画が実在の空間を舞台として用いるのは一般的なことである。現実の空間を形作る建築とそれを舞台として展開される映画は、必ずしもクロスするところはない。映画と建築をめぐってテーマとなるのは、どういう文脈で、映画の場所、舞台が設定されているか、建築がどういう象徴として、またどういう記号として扱われているかである。

現実の空間が舞台として設定される映画でも、セットが用いられる場合がある。これはもはやフィクショナルな空間であり、架空の空間もまた舞台とされる。舞台美術、セット技術、CGやアニメによる空間表現の問題がテーマとなる。著者に拠れば、『戦争と建築』『「結婚式教会」の誕生』に続く作品として、現実とフィクションのあいだを建築的に論じることをテーマとするのが本書である。

映像表現の問題としては、ここまでは古典的といっていい。あくまでも映画は何を表現するかである。なんとなく血が騒いで、S.クラカウアーの『カリガリからヒトラーまで ドイツ映画1918-33における集団心理の構造分析』(1947年)を思い起こして、本棚の奥からぼろぼろになった本を見つけ出した。映画が成立しつつあった過程の、まだ、トーキーがない時代の映画についてのすぐれた映像論である。F.ラングの『メトロポリス』で描かれた未来都市、架空の都市が、『ベルリン・アレキサンダー広場』に帰着する、見事な分析だと思う。映像表現は、時代の芯を捉えているかどうかが鍵である。

 続いて、著者は、映画と建築家の関係を三つに分類する。①映画の登場人物としての建築家(『摩天楼』1949、『冬のソナタ』2002)、②建築家のドキュメンタリー(『マイ・アーキテクト ルイス・カーンを探して』2003、『ヒトラーの建築家アルベルト・シュペーア』2005)、③建築家が自ら製作に関わった映像の三つである。①②は、しかし、「建築的映画」あるいは「映画的建築」というテーマと必ずしもクロスはしない。③は、建築家による自らの作品のプロモーション・ビデオが例として挙げられる。

 本書は、4部からなるが、以上のような整理に従うと、第4部が専ら①②③に関わる。『摩天楼』の他、ル・コルビュジェの『今日の建築』(1930)、イームズ夫妻の『パワーズ。オブ・テン』(1977)、シドニー・ポラックの『スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー』(2005)などが論じられる。おそらく、著者が最も興味を持っているのは第3部「架空の都市」ではないか。宮崎駿のアニメ作品、『新世紀エヴァンゲリオン』など、SFやアニメ作品が専ら扱われる。叙述は最も活き活きしているように思う。第2部「空間と風景」において、映像表現と建築空間の間が問われる。『ブレードランナー』『ブラック・レイン』ぐらいはついていけたが、大半は見ていないから、理解が及ばない点が多々ある。映像、建築、言語の表現の位相の差異を否応なく考えることになる。そして第1部「舞台と美術」では、小津安二郎作品、また美術監督種田陽平の手がけた作品を中心に、映画美術が扱われる。この第1部は、建築家にとっては最も親しい。映画のみならず演劇も含めて舞台美術(設計)は、建築の空間の設計と多くを共有しているからである。

 「映画的建築」というのは、映画のあるシーンを成立させる建築ということであろうか。空間に生起するある一瞬のシーンをイメージして設計するというのは建築家の基本的構えであり、映像作家と建築家はほとんど方法を共有しているといっていい。実際、すぐれた映画監督の絵コンテは建築家のスケッチやパース(透視図)と全く変わらないのである。本書では、美術監督の種田陽平や黒澤明映画の美術を担当した村木与四郎(『東京の忘れものー黒澤映画の美術監督が描いた昭和』)に触れられている。ただ、映像表現がシーンの不連続的連続(モンタージュ)を手法とするのに対して、建築空間は日常生活の時間と空間を引き受けなければならない。

 「建築的映画」というのは、単なる比喩であろうか。あるいは、映画のシナリオや映像が、建築が部材など各部の要素から組立てられるように構成される、具体的な手法についていうのであろうか。

小津安二郎の方法について、「日本映画に建築の方法をもたらした」というドナルド・リチーの指摘(『小津安二郎の美学』)が引かれている。「日本の大工が一定のサイズの畳や襖、同一の骨組みや横架材を使って家を建てるように、小津はいわば感情の基準寸法の映画を組み立てる時に、自分が使おうとする多くの画面のサイズ、そのイメージの輪郭を知っていたし、そしてこれらの画面はどの作品でも全く同じように繰り返し出てくるのである。」 「大工のように、・・・作品の仕上げに着手し、一連の構造上のアクセントとバランスで各場面をつなぎ、・・・完全な住居を作り出す」という「大工のように」は、職人芸といったレヴェルの比喩ではない。小津の場合、実際に映画において(あるいは映画の前提となる)空間を設計しているというのである。

 おそらく、映像によって空間を設計するといった小津映画のような「建築的映画」は、そう多くはないだろう。しかし、SF映画の場合、基本的に背景となる舞台は予め設計されるから全て「建築的映画」といっていい。本書で扱われる映画の多くがSF映画であり、アニメ映画であることは、著者の建築的関心からすれば必然でもある。「架空の都市」が1部を割いて扱われるのもよく理解できる。

 映画(演劇)と建築をめぐっては、集団的表現(制作)あるいは集団的想像力をめぐる問題、映画上映の空間(映画館あるいは上映スペース)の問題などをテーマとして思いつくけれど、本書の関心とは次元が異なっている。欲を言えば、映画の方法と建築の方法をより突き詰めて比較する論考が欲しかったように思う。 



日経アーキテクチャーへの注文,素人っぽさがいい,日経アーキテクチャー,日経BP社,19921221

 日経アーキテクチャーへの注文,素人っぽさがいい,日経アーキテクチャー,日経BP社,19921221

日経アーキテクチャーへの注文  

                 布野修司


 『日経アーキテクチャー』のいいところは、一も二もなく、徹底して記者の取材を基本とすることである。建築業界のあれやこれやにとらわれずクールなのがいい。素人っぽいといってもいいのであるが、一般人が普通に建築をみるバランスがいいと思う。

 当たり前のことなのだけれど、足で取材する建築ジャーナリズムがあまりにも少ない。デスクに座っているだけで、気の合う建築家からの情報や大建築家からの命令(?)に従うだけの、あるいは持ち込みを待っているだけの専門誌が多すぎる。編集部員が少ない、取材が費が出ない、言い訳はいつも聞くけれどもいっこうに改善の気配がない。

 その点『日経アーキテクチャー』は、編集部員が極めて多い。副編集長が4人もいる雑誌なんてそうざらにはない。編集費も潤沢のようにみえる。他の専門誌がかなわないのも無理ないのであろう。

 『日経アーキテクチャー』に不満があるとすれば、やはり、一般に開かれていないことである。一般の書店に置かれ、一般の人が手にすることが出来れば日本の建築界にとって「カクメイ」的だと思うのであるが、そうもいかないのだろう。日本建築学会の『建築雑誌』の書店置きにも色々と問題があるという。

  『日経アーキテクチャー』の独走は当分続くと思う。ほめ殺しかな。





2022年9月22日木曜日

現代の建築構造ー実践の内と外ー,2015年6月12日18:30~20:00 建築会館 建築書店,八束はじめ・布野修司対論シリーズ 第6回:ゲスト アラン・バーデン(英国生まれ 構造設計家),建築討論006,日本建築学会,201510

 https://www.aij.or.jp/jpn/touron/6gou/tairon06.htmlhttps://www.aij.or.jp/jpn/touron/6gou/tairon06.html

日本建築学会「建築討論web」

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6回八束はじめ・布野修司対論シリ

現代建築構造実践

 

日時201561218:3020:00
会場日本建築学会 建築書店

日英にかけて活躍中構造設計家実践研究
日本欧州での現場実践及大学での構造へのアプロチのいにれる、制度的文化的相違についての討論構造設計構造学
建築のその分野将来瞥見する。

ゲスト

アランデン(構造設計家 ストラクチャエンヴァイロンメント(SE)代表)

1960 イギリスまれ。東京とロンドンを拠点として活躍中日本構造デザイン受賞 
ロンドン大学インペリアルカレッジで学士及修士号東京大学博士号取得土木工学)。木村俊彦構造設計事務所構造設計集団SDG)を1997SE設立現在る。元関東学院大学教授芝浦工業大学非常勤講師 
作品 オレンジフラット(意匠設計長谷川逸子)、キへリング美術館意匠設計北川原温)、森山邸意匠設計西沢立衛

 

八束はじめ(建築家建築批評家芝浦工業大学名誉教授

布野修司建築計画、アジア都市建築史建築批評日本大学特任教授


八束それでは時間になったので、討論シリ6回目をはじめます。このシリズでは、最初からめているわけではなかったのですが、せっかく建築学会でやるんだから、建築学構成するいろいろな分野をおびしてやろうよと、から布野さんに提案しました。まで建築計画があり、建築史があり、建築設計があり、それから建築生産があり、都市計画工学)がありということなので、今回構造にしようというわけです。今回はアランデンさんをおびしていますが、バデンさんは元々ロンドン大学土木学位られて…

布野土木カレッジというんですか?

デン:インペリアルカレッジという…

布野すごいそうだね()

八束ロンドン大学って、日本大学とは全然違っていて、我々には理解しがたいカレッジの集合体でしょう?  われわれがっている建築はバトレットというに、一緒場所にもないみたいですね。バデンさんは建築ではなくて土木のカレッジにばれたわけですが、ここでばれた修士からは日本学位られて、東京とロンドンをったりたりの生活をされています。日本建築学科大部分工学部しています。美術系学校にあるのは一割たないといますけど、イギリスでいうと、有名どころでは、大学ですらないAAArchitectural Association)スクルや、さっきいったロンドン大学トレットなどはデザインスクルで、エンジニアリングの学校ではない。日本とロンドンの建築教育環境はずいぶんうといます。バデンさんが関東学院にいらしたのは10年以上前ですか?

デン:97着任して、2008まで大体11年間いました。

八束いわゆる構造設計家大学専任になるケスは、日本でも最近えてきていますがまだそこまでくない。構造実践とアカデミでの「」というのは、現場建築設計建築計画学よりももっときながあるのではないかというはしていますが、イギリスではどうなのかということをめて、国際的比較論をやって、メリットとデメリットを一般的におしてみたい。もちろんバデンさん個人構造設計家としてのフィロソフィなどもおありでしょうけど。この対論シリズは「はこれしかやらない」とじこもった議論をするよりも、もっと文脈展開したいといますので、そう意味めてバデンさんをおびした次第です。さんがえるためのいろいろな素材提供できればといますので、よろしくおいします。とはいえ、言葉だけではバデンさんの仕事じないといますので、最初自己紹介ねたいスライドレクチャ口火いてきたいといます。

ロンドンから東京へ civil engineering ということ

デン:紹介ありがとうございます。今日はじめて対論シリズにましたので、期待しているようになるかわかりませんが、頑張ります。

八束先生が、イギリスと日本比較教育実務など、いろいろなテマをしてくれましたが、それを全部話すのはもかかりそうですけれど、紹介り、のケしくて、日本には外国人のデザイナはいますけれど、構造エンジニアはほとんどいないですね。関東学院大学にも、常勤外国人教員工学部全体しかいなかった。ですから、とても戸惑いましたが、に、自由きなようにプログラムをんでやっていました。八束先生からイギリスの教育・実務土木出身というがあったといますが、イギリスでは構造家皆土木工学卒です。建築学科には構造をやるがいませんし、授業にも構造授業はありません。も、当時学士3年間でインペリアルカレッジを卒業してからはじめて建築家出会ったんです。土木領域には建築空間論社会的学問くなくて、卒業後にそれにぶつかりました。 

 まずはのバックグラウンドとして、きなエンジニアを紹介してからすことにしましょう。このトマステルフォ1有名土木エンジニアですが、このろに水道橋があってそこに運河れています(1)。産業革命以前時代で、鉄道ネットワクがなく、運河のネットワクが重要だった時代です。このから品物運河運搬して、どんどんこのネットワクががっていったんです。はいろいろ設計した土木設計者で、イギリス土木構造学会初代会長でもあります。でもその水道橋観光化されて、ることができます。15家族旅行両親れてってくれたにはじめてこの出会いました。鉄道本格的産業革命時代になると、このブルネルというエンジニアが鉄道関係仕事をやっていて、は、線路はもちろん駅舎設計しました2晩年汽船設計していて、写真ろにあるのはで、入水式った写真です。本当幅広いエンジニアリングをやった天才的ですけれども、この大好きなで、ロンドンからコンウォルのにある電車です(2)。120mスパンがつあって、右上写真のようなジャッキアップ工法えたものです。このはよく授業使でもあって、はもともと空間ではなく、もっと物理的なデザインをやろうと、土木んだのです。あまり空間興味がなくて()、どっちかというと躯体的なところに興味があったんです。これがブルネルの作品であるロンドンのパディントンですね(3)。ヒスロー空港からロンドンにく、ヒスロエキスプレスの駅舎になります。飛躍する屋根というか、苦労しない構造で、スパンのいアチになっていて、そこから自然採光ができるようになっています。 それと八束先生がよくご存知の、ロシアのシュホフというエンジニアがいます。1920年代のロシア革命期活躍したです319世紀鋳鉄錬鉄主流でしたが、20世紀ると鋼材普及して、鋼材使って設計しました。有名なのはモスクワのラジオアンテナです(4)。人件費くて材料いですが、当時で、素材のコストがとてもくて、極限までく、鋼材をなるべく使わないようにしてつくったものです。それはまさにエンジニアの役目で、それはよりない材料・資源で、よりきな効果すという役目です。がそれを天才的たしたといます。写真はモスクワの広場しているGUMという「デパト」ですが、建物があって、そのにアドのような屋根っています。ロシアのしい積雪えられるように、いア屋根られていますが、よくるとそのにそれを補強するのロッドがとして安定させています。その後彼はロシアのあちこちの通信塔とか、モスクワ郊外にテントのような屋根をつくっています。これは初期膜構造ですね。

八束しだけ言葉ませてさい。シュホフのタワは、つい最近ディベロッパがあれをして高層マンションをつくろうとして世界中建築家構造家大反対したというきな事件がありました。にもシュホフのおさんからアピルがってきて、川口衞先生などにをかけさせてもらいました。日本でも署名めて、一応即座しはれましたが、メンテナンス費用がどこからるかまっていないのでまた楽観できない状況です。って失礼しましたが、をどうぞ。

デン:それとアラップです4当時はロンドンのさなコンサルタントだったんです。シュホフもわりですがアラップもわりで、食事をもっと能率的にしようと使っていました。日本きなだったらしいです。代表作のシドニー・オペラハウスですが(5)、アラップはデンマまれで、コンペでったウッツォンと同郷です。コンペ模型をアラップが解析可能なように球面からせるように合理化しました。屋根面のタイルもすべて曲率ですから、生産的にも経済性くなるです。10に、現場写真てかっこいいなぁとって、こんな仕事ができればとっていました。左上がミックルイスという数学得意で、右下がジャックズンツ。アラップ事務所初期のリー達です。アラップは建築だけでなく、イギリスのほとんどのエンジニアとじように土木構造物もたくさん設計していて、このカイレスキュー橋大好きな道路橋です(6)。ものすごく地形にかみっているような、りのじようなで、自然えてきたなんじゃないかとうくらい風景とフィットしているです。

 そしてのロンドン時代のボスで、ティムマクファレンさんというで、事務所にいたのは86から882年間だけでした5。これは事務所めた物件ですが、ヨクシャー州にあるガラスの博物館です(7)。これまで二次部材として使われていた強化ガラスを、メインの構造部材として使っています。

 ガラスの、ガラスの屋根全部ガラスでできています。ると1ではなく3からできていて、ガラスが一枚割れてもいいようにってあります。そしてこれはグラスゴー市内地下鉄屋根じようにガラスの屋根でできています。 

 これは渡辺邦夫さん6東大留学している3年間橋梁技術んで、その1年間木村俊彦さんの事務所にいました。当時京都駅設計をしていましたので、それにわりました。雑誌掲載されていた渡辺さんの東京フォラムの実現しないだろうとっていました(8)。原先生梅田スカイビルのジャッキアップの渡辺さんにめておいして、をしました。木村事務所ではあまり模型らなくて不満だったので、92から97大学着任するまで渡辺さんの事務所SDGにいました。くて、東京国際フォラムの工程遺跡発掘調査のため延期になっていたで、その事務所りました。発掘調査中一年間設計のやりしがあったので、ガラスのアトリウムの設計わることができました。構造表現強烈参加できてよかったです。その2年間現場常駐していました。ケブルを使って安定させるとか、鋳造したりとか、なかなか体験できない現場本当がよかったです。それと大桟橋のタミナルです(9)。じつは東京国際フォラムの建築家ヴィニョリさんがSDGをポロさんたちに紹介してくださって、仕事まりました。1年間だけでしたのでかいところまでは参加しませんでしたが、これも渡辺さんのとてもいい作品だといます。

    布野影響けたエンジニア6で、えばそれぞれに共通するか、あるいは、影響けたけれどそれぞれ影響なのか、バデンさんとしては一番影響けたエンジニアがいて、はそれにプラスするとか、バデンさんは自分独自方法をどうっているのか、そういういてみたいんですが。しいかな。

    バデン:それぞれのエンジニアからそれぞれの影響けました。ただし共通点としてはがその時代しい素材工法最大限かすように構造システムを発想したわけです。それまでそのようなものがなかったのにしい可能性いて、それを具現化する行為素晴らしい事例しているとう。一人ばなければならないのであればブルネルになりますね。イギリスではがもう神様のような存在です。数年前世論調査では、史上重要なイギリスとして、第二次世界大戦のイギリス首相チャチルの二位になっていた。

    布野一番最初にでてきたテルフォドは土木学会会長だそうですが、土木学会は「ロイヤルチャド」なんですか?

    デン:これはChartered勅許収得済)の学会ですが、RIBAってICEinstitution(=royal institute)とのんだんですね。RIBAIinstituteになっています。

    布野発足RIBA王立英国建築家協会)よりいですよね。そこからAAまでつなげてもらうと、背景がわかるとったんですが。

    デン:教育資格関係いといます。イギリスの場合各学会資格える役割になるんです。王室勅許でその勅許をメンバえるようなことで、国家試験はないんです。建築家とエンジニアも。その意味では資格制度自由ですが、それでまたいろいろ混乱じるのですが、イギリスでは建物設計法律上だれでもできます。そののおばさんが構造設計をしてもいい制度制度とはばないかもしれない())になっています。布野シビルエンジニアの学会で、それに対抗してRIBAができる。それ以前にミリタリー・エンジニアにしてシビルエンジニアがらの職能主張していく段階があった。するに、学協会設立には業務独占問題んでいて、ロイヤルチャドなのかどうかはきな問題だった、そのために熾烈いの過程があったんではないかと勝手っているのですが、それとインペリアルカレッジの関係はどうなんでしょう?

   デン:インペリアルカレッジの場合は、エンジニアとサイエンス専門大学で、当時はロンドン20から30あるロンドン大学つのカレッジだったんです。卒業した15年位前ですかね、結局ロンドン大学から分離して、独立した大学になっています。バトレットはユニバシティカレッジの建築学科理解しています。ロンドン大学にユニバシティカレッジがあって、その建築のバトレットがあって、それとはにエンジニアの土木工学科があるというになっています。

   八束布野さんがミリタリー・エンジニアリングとシビルエンジニアリングというをしたので、ベシックなことなんだけれど、聴衆のために解説しておきたいといます。日本では、明治以降西洋からくの専門分野輸入して翻訳したわけですけど、アキテクチャを「建築」とか「造家」としたのはわからなくないとしても、シビルエンジニアリングは「土木」としたわけですね。そのまませば「公民エンジニアリング」ですけど。えばフランスのヴォバンは築城名手で、はミリタリー・エンジニアですよね7をかけたり道路舗装したりというのはすべて軍事事業だったわけで…

    布野ヴォバンは、ルイ14えた、コルベルの重商主義政策えた、一大ミリタリー・エンジニアであり、都市計画家であり、建築家であり、それらが一体化した存在ですよね。ヴォバン勝手ってるんですが、西欧列強植民都市街区割に、ものすごい影響えています。当時、エンジニアっていうのはつまりミリタリー・エンジニアで、それこそ大砲製造もやったかもしれないし、ルネサンスのユニヴァサルマンのようになんでもやるような存在だった。そういう存在から、シビルエンジニアが分化してきたという過程がある。

    八束フランスでうとナポレオンの学制改革てきて。たぶんイギリスもそういうことなのだろうとうのだけれど、軍事技術からもっと一般公民生活した技術分野というのが独立したわけですね。それが日本殖産興業的明治ではじなくて、公民とはの「お発想になってしまった。だから日本土木うものとヨロッパのたちがっているcivil engineeringのイメジとは、随分違うのじゃないかとうのですが、バデンさんがイギリスの土木学校て、また日本東大土木かれて、そのはすごくじるのではないかといます。

    布野説明だとインペリアルカレッジというのはずしもシビルエンジニアリングのカレッジではない。サイエンスにい、もっと理論的なこともうカレッジですね。バデンさんは、そうした基礎んだで、シビルエンジニアというか、建築構造デザインへの応用興味をもった。そういうセンスが面白いんじゃないか、たぶんインペリアルカレッジの影響きいんじゃないかと理解するんですが。

    デン:イギリスの教育制度日本より随分専門分岐いんです。自分場合普通いといますが16になると歴史英語外国語美術音楽地理、の科目全部終え、それから数学物理学科学三科目だけを18まで勉強する過程ました。大学ではしだけフランスをやりましたが、基本的には一年生から土木関係科目しか履修できない制度です。日本やアメリカからるとめて専門的教育制度えるといます。皆大体14時点理科系芸術系めなければならないのは事実です。

    八束このa+uが、友人今芸大えているトムヘネガンがゲストエディタでジェムススタリングの特集をやっていました。トムと時々スタリングってもうらないよね、かわしいことだとかしていたのですが、はそのじてa+u編集部しかけた結果特集をやるということになったらしいです。あの特集ていても、初期大学煉瓦建築三部作(レスタ、ケンブリッジ、オクスフォド)はぜったいにイギリスじゃないとやれない仕事だし、そのああいう仕事がなくなっていったのは非常残念なことだとっています。そののハイテックとうのともうし。トムはAAスクルの出身で、そのスタリングの事務所にいたのですが普通AAスクルというのは非常にコンセプチュアルなドロイングが90年代流行っていた―だにそうだといますが―イメジがいですよね。はバトレットやグリニッジのほうが過激表現になってきているんだけど、いずれにせよ基本的にはコンセプチュアルな美術表現ですよね。でもそればかりではない。ほどイギリスの建築学校構造授業がないとおっしゃっていましたが、そうなんですか?

    デン:物凄簡単授業はありますが、日本みたいに建築家住宅をすべて担当できるというのはありないんです。バトレットのにも専門的構造教育はないといます。設計できないんです。単純梁設計する能力もないです。にインペリアルカレッジの教育は、デザインの教育はまったくなかったですね。ものすごくハドで、毎日偏微分方程式をとかなければならない。ほとんど数学者じくらいの教育をやっていました。それでおまけみたいにってスケッチしろという課題はあって、でも三時間かけてスケッチしたという程度で、エスキスのしかたとかそういう教育はなくて、ハドな工学系教育ばかりでした。

   八束AAのディレクタだったモセンムスタハビというがいて、AAにハGSDGraduate School of Design)のディンをやっていました。でもそうかな? 四年くらい丹下さんの展覧会とシンポジウムがハドであって、ばれてったんですね。そののパティでモセンが最初に「ハドではHow to buildえない」とったので、はひっくりかえりそうになった()。日本建築学科主任がこんなことをったらたちまちクビになりそうだなとった記憶があります。松下希和)がハGSD卒業生なのでいたですが、GSDでも一応構造授業はあるみたいですね。だけど、当時日本から、にゼネコンの設計部から留学していたたちがいて、このたちがスラスラとラメンの計算をしすと連中見張ってくんだそうです。すると日本人のほうが ()日本場合工学部くと、将来意匠専攻でも構造専攻でも、最初2くらいは構造もスタジオも両方必修ですから、やらなきゃいけない。建築史志望でも、都市計画志望でもやんなきゃいけない、というような教育をしている。そのことによるいこと、いことというのはどうなんでしょう。

   デン:それはよくえることです。建築生産としては日本のやり総合的いといます。そういった統合的なやりかたをとっているのは、っているりでは日本韓国だけですよね。はエンジニアリングと建築学科分離している。

   八束韓国も、ソウル国立大学学科ですね。全部がそうかわからないけれど。

   布野歴史的には、韓国は、教育制度めて日本様々制度んでいますから。戦後も、日本勉強した先生方指導していった。金寿恨などは東京芸大んでますね。最近UIA建築家資格への対応で、5年生導入などわってていますが、韓国日本出発点のベスは一緒です。

   八束ソウル国立大学日本でいう東大みたいなところでしょ。学科うだけではなくて、年限う。

   布野UIA規定って5のトレニング期間めたので、大学でもエンジニア4とデザイン5と、年限うのが一般的になったようです。

   デン:建築生産としては日本のやりいでしょうけれど、意匠のみでなく構造設備電気と、いろいろ統合的教育なので。でもどうでしょう。西洋のやりすと、両方極端最先端まで頑張るので、わせでうまくいけば、おいに刺激しやすいようにじるんですけれど。統合的教育ですと、建築家がリドするので、エンジニアが下請立場にしかなりない。

   1. トマステルフォ Thomas Telford(1757-1834) スコットランドの土木エンジニア。とくに道路橋梁運河港湾、トンネルなどの建設なった。「道路巨人」ともされる。初代土木技術者協会長

2. イザムバキングダムブルネIsambard Kingdom Brunel1806-1859)イギリスの鉄道技術者鉄道関連様々構造物がけ、今日でも名前した国際的鉄道デザインがある。佐藤建吉 『ブルネルの偉大なる挑戦 日刊工業新聞社2006

3. ウラディミシュホフ Vladimir Shukhov (1853-1939) ロシアの鉄道技術者1929ニン賞受賞。モスクワのラジオ資材不足原設計半分以下になったが、原設計350m)ではエッフェル1/4鉄量計算であった。

4. ー・アラップ Sir Ove Arup (1895-1988) デンマク=イギリスの構造設計家傑出した構造家であったばかりか、総合的なアラップアソシエツをも組織し、それは現在世界中にブランチをする大技術事務所になっている。

5. ティムマクファレン Tim Macfarlane 1951)ガラス構造られるイギリスの構造設計家

6. 渡辺邦夫1939 日本構造設計家 日大理工学部出身構造設計集団SDG主宰

7. セヴァスチャンプレストルヴォバン Sébastien Le Prestre, Seigneur de Vauban 1633-1707)ルイ14えた著名軍事技術者建設のみならず後略などの実践 なった軍人である。

日本的事情建築vs.土木

八束なるほどね。日英比較に、っておくべきだとうのは、日本での土木建築分離なんです。えばじコンクリトでも、土木のコンクリトと建築のコンクリトは全然違うじゃないですか。ほとんど共通言語がないくらい。

布野基準がない。

デン:もったいないといます。ほとんどじものがダブって指針したり、教育過程をつくったり、それはやっぱりもっと能率よくできるとうんですね。だから、ヨロッパの場合はコンクリ構造物指針があって(Eurocode)、ヨロッパ連合一般的なコドになっているのですけれど、それは建築物でも土木構造物でもどちらでも適用できます。そのがいいとうのですね。日本分離する弱点のひとつはそこにあるといます。土木場合法律りはあまりないのですが、土木学会指針すんですね。建築学会じようなコンクリトとか鋼構造物とか木造構造物とかにじようなものをしていて、なおかつ建築場合建築基準法があるから、なかなか素早時代変化った対応出来ない。えば許容応力度などをえるとすれば、法律になると国会議事になってくるわけですから、たいへんじゃないかなとうのですね。学会だけに一任するならもっと柔軟対応できるとう。

八束この間私審査わっていたトウキョウ建築コレクションで、最優秀獲得した修士論文関東大震災のいわゆる「百号報告」をったもので、煉瓦造べてRC決定的有利であるとう、佐野利器筆頭にする建築構造技術者がやった報告が、はサンフランシスコの事例めた実施調査が、さしたる件数をしていなかったにもわらず、佐野たちの予断されたものだったという議論でした8当時、その報告信憑性しては土木側からは疑念されていたのに、日本建築耐震化にこれで決定的をとられたというのですね。その方針としての是非はともかく、建築土木っていなかったというひとつのです。

布野何回られそうになったよ。

八束に? 建築構造先生に?

布野建築構造先生に。まえをしてもいいけれど。土木建築のストラクチャエンジニアリングは一緒にやればいいじゃないの、と何度ってみたことがある。おうかって、れられる。建築にはいろいろある、二次部材とか、土木構造計算とはうんだ、とわれる。シンガポルのような岩盤くて、地震いようなところなら、設計者だけでできますよね、なんて暴言くからなんだけど。

八束土木基本的公共工事建築公共工事もあるけれど、民間いからというのはわからなくはないのだけれど指針のつくりまでうとね。発注仕方問題もありますよね。 磯崎さんとやっていたくまもとアトポリスで、牛深のハイヤ大橋というプロジェクトでレンゾピアノと岡部憲明、ピー・ライスのチムを指名したのですね。アトポリスでものプロジェクトはにもあったけれども、あれだけの規模めてだから、色々とびっくりすることがありました。日本土木では、さっきバデンさんにせていたような構造表現になっているという発想はもともとなくて、意匠というのは極端うと欄干設計なんだな。デザイナ基準うのがまずない、コストのめて。それでスパンとかアチとかの基本形式でマトリックスをつくってりこんでいくのですが、それは普通にやることだからいいとしても、最後には、ピアノとコストミニマム両方実施設計やらせる。つまり完全にひとつダミをつくるのです。そっちは協力してくれたエンジニアリング事務所がやったわけですが、そしてピアノとの差額でみましょうという。

宇野建築でも、じです。日本公共発注であれば、じことです。とくに地方では、そうしたことが常態化しています。

八束でもそれは、もうちょっと手前段階じゃないですか。対案実施設計というか、配筋図とか施工図みたいなのまで全部やらせる。10センチくらいはある設計書をつくって積算する。その膨大無駄たるやいです。

宇野戦前土木技師内務省ほかの政府技官でしたから、全体統括する主任技師という立場からトタルな設計工事管理ができましたが、戦後日本では、られた予算大量いで土木構造物をつくる必要があり、基準づくりと標準設計重要だったので、設計者工事者はすべて入札める仕組みとなって、そのため下部構造上部構造別々設計者設計したり、別々施工者工事をしたりと、全体統括することがなくなってしまいました。また、明治時代に、江戸時代普請作事奉行による都市建設分担のまま欧米技術導入、それで土木建築技術基準別々展開してきてしまった問題もあります。そうしたことを丁寧じないと…。日本仕組みがうとっていても、解決できないのではないですか。

八束その宇野さんのほうがよりしそうだから、解説してください。戦前戦後でどうったの?

宇野戦前といいますか、近代日本基本的軍事技術優先して西洋技術導入してきたようにいます。たとえば、帝国大学前身とする東京大学建築学科では、西洋建築技術工部大学校いたお建築家によって導入されたというようにわりますが実際は、薩摩などは英国関係もあり、幕末にはすでに大砲といった軍事技術導入していました。そういう意味では、構造工学とか造船技術がすでに幕末のころから日本ってきている。建設技術同様です。大学ができたのが明治20すぎ。その帝国大学となり、それで日本には大学じて近代技術導入されましたという歴史かれてきましたけれど、本当はそれより半世紀ほどから、英国から日本にヨロッパの技術ってきていた。軍事民事中央政府から各地方近代技術導入展開してきたのだといます。民間都市建築造営内務省統括していたのでトタルな設計工事ができたのですが、戦後は、内務省解体され、自治省創設され、事業官庁としてしく建設省運輸省がつくられます。そうした過程で、公共事業統括する主任技師立場われていきました。

 たとえば、一物二価問題もあります。断面のアルミのすり、あるいは同量仕様のコンクリトでも鉄筋でもいいのですが、以前は、建築土木工事単価がまったくものになっていました。市場がちがうために、建材でもそういうことがこります。明治以来土木建築技術基準別々発展してきたこともありますし、戦後日本社会は、資本主義市場主義)と社会主義併存しながらやってきたようなところがあって、市場としても両者分離していたというわけです。ゼネコンなども、同一会社形態をとっていますけれど、建築土木縦割りになっています。このままではグロバリゼションの時代日本建設市場はあまりにガラパゴス状態だから、さすがに調整しなければというはありますが、国内的には相変わらず八束さんがったように不合理なことがありますし、バデンさんが指摘したように非効率でもあるといます。

布野まずう。金額10100倍違う。がびっくりしたのは篠原修先生った委員会で、橋梁のデザインがどうしようもない、コンペにできないかとったら、ああいいよってって、平気800万円分浮かすんですね。計算やりしている。それでコンペにして、デザイナ最優秀賞をとって実施された。委員だったんだけれど、え、そういうことができるのと。するにコスト感覚とか、見積もり感覚全然違う。あるいは工程感覚相当違う。

八束ピアノのでもうひとつびっくりしたのは、単年度発注していくからいっぺんにはできないわけだよね。そうすると最初予算がいくらで、たとえば1000とかでまったとすると、それを三年度でやるなら三分づつとうじゃないですか。ところが二年目以降になると、それがどんどんがっていくんですよ。トタルで最初見込みより圧倒的がるのは土木ではたりということらしい。

布野それはで? 人件費とか資材費がるからかな、理屈としては。

八束一回発注してしまうと二度目からは競争原理かないというのもあるでしょうし、ひょっとしたら一度めは入札つためにれておいて、というのもあるのかもしれません。それを新聞かれて知事がびっくりしたということがあってね。でも担当土木課長さんなんかは平然としていた。新国立どころではなくて、どうなんだろうといましたね。

布野ロッパでもたようなことがあるのかな。

八束デンさんそのイギリスとかではどうですか?

デン:担当エンジニアにもよります。のスライドでせたカイレスキュー橋はアラップ事務所橋梁ムによるものですが、とてもいいだといます。きくないですが、世界的評価されていて、いろいろなえられた。当時のアラップ設計三人中二人はデンマ出身ですので北欧っているかもしれない。日本れた事例えるとすぐ葛飾かぶでしょう。首都高速道路公団がいくつかのコンサルやのグルプに設計委託したものですが(新日本技研日本建設コンサルタンツ、M+Mデザインオフィス(大野美代子さんの事務所)、埼玉大学田島先生)、その日本的委員会スタイルのプロセスから素晴らしいまれてきました。名前でさえ近所住民めてもらったそうです。結局どちらのシステムがいい結果すのはしい問題だ()。

布野ストラクチャエンジニアにとって、力学的計算というのは共通なのに、何故一緒にやらないのか。欧米一緒じゃないんですか。基準うのはどうえてもおかしい。でもそういうことをうと、社会的けているんだっていう。けの問題次元いますよね。

八束けといういい現状肯定ということでもあるわけですね。もうひとつの問題のあるけは、構造学構造設計けなんですね。一年生入門講義担当していて、全部分野してざっとしていたんです。そこで、構造だけじゃなくて建築計画設計があるし、設備もそうだし、するに各分野原論応用論がある、大学でやっている現場でやっている技術があるというをします。設計教員だけはプロフェッサー・キクテトであるにせよ実践家である建築家がやっているわけだけど、分野はそうではなくて、大学人原論担当している。構造くの日本大学建築学科教員原論である構造学解析をやっている、実験めて。だけどらは、トタルとしての建築構造物わないというか、えない。ある有名大学構造先生自宅友達設計して、当然その先生構造をやるかとったが、できなかったんですって。トタルのシステムとしての建築いは架構構造学はやらない。要素還元してモデルをてはするけど、それをインテグレトする作業はしない。このはどうわれますか?

デン:建築家じようにがいろいろあるんですよね。出来と、できないと。日本にも構造エンジニアがたくさんいますから。たまたまできなかったのかもしれない。いはあまりやりたくなかったかだといますけれど。 

 ただ、土木建築分離したことで、柔軟性がとんでいってしまいましたよね。そのために、えば、バス設計などでは、あまりいい結果がでていないようにいます。いは駅舎ですね。最近くなったのですけれど、はじめて日本には、すごいもったいないなといました。構造デザインという言葉きではないのですけれども、構造設計をしっかりやれば、におかけなくてもすごくいいものができたのに。なぜ、あんなにひどい駅舎ができているのかわからない。それはたぶん土木建築のかみうところがくなかったからだといます。ってきたのですけれど、それをしたのはたぶん土木建築のエンジニアが一緒になったことではなくて、まちづくりとか都市のデザインのたちが影響力えられるようになってきたからだといます。

八束土木建築関係というだけではなくて、建築でのけの問題だとうんですけどね。

8. 浦山侑美子関東大震災における建築物被害報告する一考察周辺史料してる『百号報告』の信憑性―」(九州大学大学院 人間環境学府 空間システム専攻 平成26年度修士論文

最適設計とフェルセ

布野構造先生自分設計出来ないというがありましたが、それとはに、構造先生全然違次元建築えているところがある。構造力学先生最適設計ということをおっしゃる。計算のためだけの計算える場合がある。数学的なきれいさをめるということもある。最適設計というのは、いといますが、単純化すると、ての部材同時れるということですよね。9.11に、ミノルヤマサキのWTCビルが一瞬崩壊した理由について、これが最適設計だといった構造先生実際にいるんです。常識的には、てが同時崩壊することはありえないから、それをえた設計するとうんですけど、バデンさんの意見きたいですね。
デン:WTCですけど、構造エンジニアはレズリー・ロビンソンさんというで、そのI.M.ペイと一緒に、香港のあのバッテンがいている超高層があるじゃないですか。
八束中国銀行Bank of China Towerですね。
デンそれとか超高層沢山やっていたです。あれは7374年頃ですかね、着工したのは。当時彼か、32貿易センタ設計したんです。でもまあ、あの、飛行機んでくるのは…
布野予想していなかった?
デン:なにか、さい飛行機るように予想していた、というか荷重た、というのはどこかでんだことがありますけど。
布野そうですか。
デン:巨大飛行機んでくるのは当然予測できなかったとうんですけど。施工中写真をみると、あれはのエレベコアはしたものではなくて、外周間隔っているのですね。1トルから1.5トルの細間隔っていて、それが横梁一緒きなラメン、フィレンディルをむんですが。まず、くと水平力抵抗できる能力がすごく欠損されるんですけど、それだけじゃなくてが、20mいスパンのトラスがっていて、それが接合する部分がれて、がれて結局柱座屈して、崩壊したんです。連鎖崩壊問題ですが、極端なケスですね。システムをぶときには、ひとつの構造部材をとっても、フェルセ設計というか、建物全体極小なダメジか欠損影響されないように設計しなければならないんですよね。まあ、極小が、どれくらい極小かというのは問題ってくるんですけど。
布野9.11のときにですね、タイのバンコクかなにかで、日建設計構造エンジニアの先生一緒にテレビてたんです。そしたら、あんなにストンとちるのは「おかしい」というんですよ。一階辺りに爆薬仕掛けてたんじゃないか、そうじゃないとえられない、と。日本場合の、りを前提にして設計しているから、という、直後説明はそうだったんですけど。
八束でも、燃料をいっぱいんだ飛行機んだんだから…
布野一挙崩壊するわけですか? 問題にしたいのは本当最適設計とはなにかということなんですよ。最適設計だったからとった構造先生は、「どの部材もミニマムに断面設計をしてあった。それが理想だ」というをしたんで、それはうでしょ、ということなんです。

    デン:あの、日常外力して最適設計があるとうんですけど、やっぱり現代ではテロのこともえないといけない。なにか爆発があったりとか、なにかぶつかってくることにしてもまた最適設計をしなければならない。フェルセ設計をおししてみますと、東京フォラムの最後だったんですけど、有楽町線に、ガラス構造のキャノピをつくったんですね(10)。はじめは鉄骨だったんですが、ある日渡辺さんが「いや、ガラスでりましょう」としたので、がさきほどのティムマクファレンさんのことをしてロンドンに電話したら、がすぐに模型をもって東京てプレゼンをしたんです。そのを、いろいろ詳細設計をしだしたんですが。まあこれ、はねしですけど、鉄砲をそのったがそのたったりしたとすると、強化ガラスですから、ガラスみたいに破片になってしまって、耐力一瞬失われるんですけれども、さっきのガラスミュジアムとじようにツを三枚入れたんですけれど、それだけではりなくて、ガラスの透明部分えますか? あれはアクリルなんです。アクリルはらかいから普段荷重負担にはかないんですが、かの爆弾みたいなもので全部強化ガラスがわれたに、落下しないようにさをえてくれる、極端なフェルセ設計れたんです。当時は、建築センタ評定をとり、安全性証明するプロセスに参加しました。

   布野旭硝子ですね? ガラスを構造材使っただといたことがある。

   デン:屋根部分旭硝子ですけど、はね部材はイギリスでつくって飛行機ってきたんですね。ティムさんがっていたサンゴバンというメがガラスをり、ロンドンにあるファマンがパツを強化してもらいました。当時は、予算がありましたから出来たんですね()。

   八束蛇足だけど、神戸設計した建物つあるんですよ。で、大震災のときに構造家がいちったら、りの建物みんなれているのに、らの建物平気だったんです。がそれにどうコメントしたか、というと、「かった」じゃなくて、「構造家としてはちょっと忸怩たるものがあります」と。

   布野最適設計でなくて、過剰だったということ。

   八束は、設計はいつも「梁太いよな、これ」とかってたから、やっぱり、とったんだけど、まあそのかったわけ()。つまりさっきの日建のエンジニアののいいね。安全率何処まで見込むかというのは、ルルでもまった基準はあるにせよ、結局その裁量になる。皆現場えていることでしょうけど、そのはなかなか微妙なところですよね。けどフェルセフというのは究極的には福島のように千年一度津波問題だってあるわけだからね、さじ加減ではまされない。


コラボレション―構造家建築家

八束話題じますが、さっきバデンさんは、ロンドンで土木めたは、関心空間よりはシステムだったとおっしゃっていたけれど。でもそれはスタ時点であって、でもそうではないのではないでしょうか? 駅舎でも、さっきのしい構造のようなものは空間だとう。空間ではないとうけれど、でも景観かれた構造物というのは空間的意識でしょう、物理的なシステムにまらず。からるにせよ、からるにせよ、そういうトルな架構というのは、エステティクスでないにせよ、そういうものをもっている。これは原論として、としての構造学われることは日本教育現場ではだといます。あれは建築家からみるととても違和感があるのだけれど、どうですか。

デン:エンジニアによるとうのですけれど。がさっきったように、空間はもちろん認識しますけれども、その物理的なところは、ではより重要になっている。多分キテクトは空間可能性すことにして、エンジニアは物理的可能性すという根本的関心いがある。えば接合部とかは、エンジニアの設計チャンスですよね。素材をきりかえられるところですし、いろいろな物理的表現ができるところですから。ですから構造家数学者彫刻家混合になっているものだとよくわれます。もし日本従来教育けていたら、じような感覚をもっているかわからないのですけれど。布野構造苦手なんだけれど、接合部とかディテルで材料えられるというのは、とてもおもしろい。

八束接合部力学的にも意匠的にもフォカスですからですね。アランさんのご自身設計は、さっきなさいませんでしたけれども、最近拝見していると、空間のことに非常関心のある設計家んでやってらっしゃるお仕事いようにいます。そこを橋渡しするというか、建築家構造のことを理解し、構造家設計のことを理解し、という関係ができないとなかなかしくて、そういう教育というのは、これは非常しいですね。昔丹下先生坪井先生のコラボレションのことをいたことがあるのだけれど、ふたりがわせをすると丹下先生構造ばかりして、坪井先生意匠ばかりするんですって。あるときに坪井先生海外留学されて一年間いなかった。その構造講義丹下先生がかわりにやられたらしいんですよ。丹下さんは数学かったらしいけれど、解析まで授業でやったともえないから、たぶん建築家としてれと空間架構は、こういう関係があってというを、実作してやられたのだろうといます。それはいてみたかった。

デン:代々木体育館きました。それはすごく健全関係だといます。エンジニアが空間提案したり、建築家構造についてして、徹底的においに信頼って、それをベスにしてコラボレションをしていけば傑作ができるかもしれない。八束でもそういうことができる建築家とできない建築家がいますよね。1990大阪博覧会でフォリをつくるプロジェクトをやったのですが、当時AAのディレクタだったアルヴィンボヤルスキ磯崎さんとふたりで人選をしたんです。自分てましたけれど、全体のコディネとしてたちの面倒なければならなかったのです。AA中心海外組今話題のザハハディドもめて、当時ほとんどてたことがない連中でしたが、わせしていると、直感的にではあっても構造のことを、あるいはろうとすると、まったくそうでないがいるんですよ。後者はとにかくアラップに相談すればとかしてくれると神頼みなんです、がとはいませんけど()。丹下坪井関係とはい。 

もっと最近ですけれども、佐々木睦郎さんとをしていて、たようなことがありました。佐々木さんは自由曲面構造デザインをたくさんされていますけれども、ハドとかAAとかのスタジオにったら、ているんだけれど、全然下わっていかないようなてくる、あれ全然わかっていないよ、というんです。当然重力くということはあるとしても、からにはかない。そのへんの教育というのは建築家にしても構造家にしてもある程度共通のベスがないとうまくいかないのかなと。しろディンが、we dont teach how to buildってっているところだからというがしました。で、そういう学生卒業してどこにくのかなとって、バトレットにった学生いてみたら、SF映画のアニメになるか、日建設計みたいなところにってそういうデザインはめちゃうかのどっちかだとっていました。例外的がザハの事務所みたいなところにくと。

          デン:建築家とのコラボレションについてですが、もアイディアがあれば空間について提案します。わせのには自由にそれを発言できるような環境必要ですよね。でも上手くいくわせはないですね。エンジニアとしては建築家才能ないと、つまりたちのがもっと上手くできますということだったら、つまらなくなるとうのですよ。もっと意匠自分よりできることをじたうえで、会話でおいに自由提案できるような環境重要だといます。 

場合渡辺邦夫さんみたいに、工学スにしてものすごく空間をつくろうという方針ではないから、建築家からの提案があれば、なるべくそれをじて、ダメになるまでは追及していこうといます。改善できるところがあれば、提案するのですけれど。のやりは、ディテルとか接合部とかはどんどんやりたいとうのですけれど、全体のコンセプトにはあまり影響しないようなでしょうね。そういう方針がエンジニアによっていますね。川口先生代々木体育館参加されたとうのですが、はエンジニアのベスが極端にしっかりしているで、システムを提案するからそれをけば空間影響することになりますけれども、デザイナ提案している空間をわざとして、エンジニアとしての方針そうとするタイプではないといます。

   八束代々木しては、現場担当だったのは建築だってくなられた神谷さんで、構造川口さんですけれども、お二人うと面白いです。でも理解ったりするんだな、お二人で。建築家とコラボレションするときに日本建築家とイギリスの建築家とそれぞれ、個人いではあるけれど、トレニングのいで日本がうまいとか上手くないとかじられることはありますか。それとも、それは個人差ですか。

   デン:日本ではくていい建築家ばかりとむことがいのですけれども、イギリスではまだ本当無名でまだほとんど設計経験のない建築家うので、全然違うんですね。仕事内容として。ティムマクファレンさんの事務所にいたがいろいろAAスク建築家仕事をしていましたから、時々素晴らしいコラボレションの場面目撃できた。わせがうまくくと魔法のように1+12以上になるような人間コラボレションをめてわいましたね。日本て、しばらくそれがなくて、東京フォラムにったころはまた、ヴィニョリさんたちのスタッフとわせをするときにまたそのような関係がうまれ、本当しかったです。建築家もそれをめているとうのだけれど、なかなかないですよね、本当生産的わせは。

   八束さっきの丹下さんと坪井さんの関係非常ているなとったのは、関西新空港のピアノとアラップの関係で、岡部憲明さんとしかったので、コンペに応募したりのにプロジェクトをせてもらいました。アラップは構造だけでなく環境もやる総合エンジニアリン事務所ですから、オプンダクトとかきくデザインにわってくるような議論しながら、めていったということを岡部さんが説明してくれて、非常感銘をうけて、これは絶対勝つだろうなといました。アラップにめばなんでもできてしまうとっているさっきの花博のフォリのデザイナたち(全部ではなくて)とは対極的です。こうしてほしいんだとっても、構造物はできない。そういうところのトレニングの問題こうでもあり、日本でもやちょっと問題になりつつあるとう。

   デン:かに時代当然変わっていくし、ロンドンでも建築家がいないケスがてきたりしているのですけれども、エンジニアが全部デザインしようとするとたぶんうまくいかないというがします。ピー・ライスも、パリで数回建築家なしで全部設計したことがあるのですけれども、講演会写真せていたのですが、失敗作でしたとご自身もおっしゃっていましたね。

   八束ヴィレットの博物館かな、改装の? 失敗原因は、どういういうことですか?

   デン:ヴィレットではなく、レクチャでみせたのはパリのあるビルにある屋内渡廊下だった。たちはたぶん真面目すぎるから、ないところ、いは裏切るところ、とか、そのもっと人間らしい部分りなくなっちゃうのだとうのですね。やっぱりどうしても力学的先入観すぎて、なかなか三角形せないとか、なかなかアチの放物線せない。それをすのはやっぱりデザイナ一緒わせをしながらだといます。その影響がないとおいに失敗だと。デザイナもエンジニアもいろいろ失敗があるとうのですが。コラボレションがものすごく重要です。

デザインとエンジニアリングの臨界


布野建築というのは、られた時間で、いはられた施工者とか、られた資源解答すわけですよね。それで結果として非常にうまくいく場合もあるし、失敗することもある。そこで一番大事にされているのはか、ということなんです。それはバデンさんが影響けた先人たちに共通しているものはか、といにもわってきますが、さきほどアラップの設計した自然からたようなだといわわれたのだけれど、それが一体何なのかといてみたい。するにキドをりたいのです。渡辺邦夫先生一緒日本建築学会賞審査員二年くらいやっていたのですね。そのときに藤森照信先生熊本県立農業高校て、は、これは絶対ダメだというんです。食堂なんかはどこにっているのかわからない非常幻想的空間ができていて、すごくいい。ったのは、これは20たったらとったかな、バランバランになりますよ、とおっしゃった。つまり構造エンジニアとしてここまではせるというか、コラボの許容範囲というようなもの、それがあるのではないか。それをキドだとすると、接合部とディテルかなともうんですが、どうですか。

   古瀬敏静岡文化芸術大学名誉教授しいいえてみてもいいですか? デザイナがこういうのをつくりたいというのが非常野心的だけどかなりしいものがでてきたときに、ストラクチャエンジニアが、ここまでならできる、これはできないとえての代案提案できる、それが、コラボレションで1+12以上になるというのひとつではないかとうのですが。アランさんは、造形物としての実際やりたかったことのつということでしたけれども、完成したその機能たし、なおかつ非常しいというそこのセンスがおありになるから、アキテクトとのやりとりが非常にいいところにいき、ちゃんととしどころが出来るようになるのではないかと、いました。

   デン:たちのトレニングとしては、さっきったように、教科書めば、トラスの場合三角形をつくりなさい。アチのときは放物線、リングのときにはちゃんとじてとか、そういうトレニングばかり、長年やってきました。いエンジニアはそういう原則まえてキャリアをはじめるのでしょうけれども、だんだん、いい建築家とコラボすれば、それをして、空間だけでなく、イキイキとした彫刻的なものが出来ることがわかってくる。ただ、たちだけではとてもできない。建築家対話しながらそれがてくるわけで。 三角形だったらどこでそうとするかとか、じたリングをどこから変則的にするかとか、布野先生がおっしゃった最適解をどうすか、そういうことは自分たちではできない、自信てないわけです。今日、そういう意味せようとっていたのですけれども、このビルは2004内海智行さんとやった建物で、ではどこにでもあるのですけれども、当時しかった構造です。せっかく敷地だったから、みたいな構造をやりましょうと、そういうんできたのですが、内海さんが提案してきたのかはれましたが、その構造がだんだん三角形じゃなくて、接点っていない外部柱というか、半分柱半分筋違という構造になってきた(11)。構造解析安全性確認できるんですけど、なにか方向性がないといけないんですよね。意匠方向性とエンジニアからの方向性から。これは割合とうまくまとまったので、では建物べると数十倍面白いとうんですけど()。集合住宅みたなのは、憂鬱になりますよね。

   八束くわかります。でも、「憂鬱になる」というその建物も、大学建築学科構造設計者がいるわけですよね()。で、その人達がそういう感覚共有しているか、っていうのが非常きな問題なわけで。多分そういうたちと、じアキテクト、内海さんなら内海さんがんで、こういうのができたかどうか、っていうのはわしいとうんです。一方通行ではいけない。退職した大学大学院で、意匠学生諸君構造のことをちゃんと理解してもらおうとって「構造設計特論」という、いろんな構造家にかわるがわる講義をしてくという授業って、バデンさんにもそれをおいしました。もちろん構造専攻学生にもてもらいたいとった。これは第一歩ですけれども、そこの感覚を、構造にも、意匠学生さんにもってもらって、という教育のシステムをつくっていくっていうのはなかなか大変だとはいます。この松村さんをゲストにした建築生産対論で「もかも四年間でというのはかすぎる」というをしたんですけれども、これは構造意匠問題だけではなくて、次回予定している環境にせよ、そういうインテグレトするような教育仕方はこれから議論していかなくてはいけないな、とっているわけです。

        数学造形臨界事例としてのコルビュジエとクセナキス

   布野数学造形関係として、クセナキス9とコルビュジエのコラボみたいなのは最悪だったのかどうか、ちょっといてみたいんです。クセナキスはクビになったんですね。たまたま、上杉春雄さんが、札幌にいる脳神経外科医でかつプロのピアニストですが、クセナキスをきながら、そういうことをってくれたんですよ。

    デン:まず、クセナキスは、どのくらいコルビュジエと一緒にやっていたかわからないんですけど。音楽をやっていたんですよね。数学から音楽をつくったり、エレクトロニクスな音楽ったり。

布野どっちがだろう? もともと数学者だよね。

12 八束いや全部同時んでいたみたいですけど、なくともパリにてコルビュジエの事務所入所したには、いずれにせよエスタブッリシュされた存在ではなかったはずです。は、作曲はダリウスミヨとかオリヴィエメシアンに師事したんだけれども、紹介したのはコルビュジエらしい。フィリップス12)とかではちゃんとクセナキスの名前はクレジットされているし、コンセプトも尊重されているから、二人関係はそんなにマズかったわけじゃないとうけど。

    布野「フィリップス」の評判くなってきた、コルビュジエが「これには、オリジナルはなにもない」とった。それで、コルビュジエに「あんたのつくっているものも、からやっていた、三角四角ですね」ってったらクビになった、っていてるらしい、上杉さんによると。

   デン:昔読んでいて、かに確率理論とかそういうような数学がたくさんげていて。まあ、確率とかリズムとかがではものすごく重要なことのようですけれども。もしかしたら。

布野そういう方向う?

   デン:普通のエンジニアとはちょっと方向ですかね。数学美めてたんですかね。自分がティムさんの事務所たときAAスクルで一回非常勤講師月間していました。ちょうどクセナキスがAAにレクチャをするがあって本人とボヤルスキー学長たちと食事しにった。らのくと建築よりクセナキスの音楽みが主題になっていて、コルビュジエとのコラボレションあるいは建築設計はほとんどなかったとう。布野建築理論って、古来音楽理論わってきていますよね。プロポションの理論とか、相互通呈するものがある。上杉春雄さんは、楽譜ながら全部説明してくれる。ピタッとるんですよね。上杉さんは、建築狂といってもいいくらいで、全部見ている。毛綱モンのを全部見た、とか、白井晟一全部見た、とかね。お何者だ、という、すごい外国行くとみんな大体全部見ている。ラトゥレットもた、当然ですけど。

   八束のことばでいえばアルゴリズムですけど、コルビュジエ自身がモジュロルとか、トラセレギュラトゥルとか数学化するのがきでしょう。そこへもっと数学いクセナキスがってきて、確率論とかで寸法決めをやったということですね、ラトゥレットだと波動ガラスというサッシュのけで、フィリップスになると三次元複雑なシェルの形状になる。だから構造ですよね。力学的計算までしたのかどうかはらないけど。布野さんが多分聞きたかったであろうことでいうと、コルビュジエもクセナキスも最初から数字ありきではなくて、もこんなじという直観的なことからはじまって、それを近似していったみたいですね。そこで一致するものがないとコラボにはならない。

9.ヤニスクセナキス Iannis Xenakis1922-2001)ギリシャの作曲家建築家 確率論取込んだ設計作曲なった。1997年京都賞受賞


リノベションの諸問題

八束で、話題にしたいんですが、これはフィルドとしては、より布野さんにわるとうんだけど、これからはリノベションがえていくだろうということです。これは前回松村さんが強調していたことでもあるけれども、たとえば、東京電機大今川憲英さんなんかも、今後はそれだということでかなり頑張ってらっしゃるようですけど、この分野構造家たす役割っていうのは意匠家以上きいものがあるのではないかということです。意匠担当であっても、勝手あけられてもるから構造のことがある程度わからないといわけですね。バデンさんのイギリスでのお仕事はやはりこの分野いようだと いうことでとりあげてみたい。それから、ほどのおにもありましたが、バデンさんはしい材料わせということに大変関心がおりだとうんだけど、そういう資質は、リノベションでは材料しい材料わせということでインベンティブな仕事可能にするのではないかというがあります。そのへんについてはどのようにおえでしょうか。

   デン:うん。たぶん10年位まえから「これから日本ではリノベションの仕事えます」とみんないってますけど、まだまだ、えてなくて。いろいろ問題があるといますね。まず、法律的にあまり簡単ではないですね。建物安全性証明して、もう一回確認申請をとる、というのは色々面倒くさいところがあって、簡単ではないので。でも、ほんとうには、可能性がたくさんあるといますね。オフィスビルを住居用途変更をしたり、リノベションするとか。もいろいろ提案するんですけど、なかなか。この関東学院大学4階建てのRC建物だったんですけど、耐震補強するかえるかっていうがあった。は、撤去して解体して、もっと4ともしかしたら5鉄骨でつけたして、もしかしたら耐震補強しは必要となるかもしれないですけど、建物くして耐震性くする。ただ乱暴補強するというやりだけではなくて、もう使って建物重量らしたりだとか、そういう可能性があるといます。

   八束けれども、のレヴェルでは、布野さんなんかがアジアのいろんな中国とかインドネシアとかんなところで調査をやってらっしゃるけど、近代的最先端構造建設技術やファブがない途上国今後起こってくるであろう、既存のストックとの一種のハイブリッドでやってかざるをない状況というのは、おなじリノベションといっても分野ですよね。最近、ネパルとかで地震があって、あれは人災だということがよくわれていますが、途上国では、そういうものをないから全部壊してしいものにえるっていうのはリアリティのあるではないので、それを補強しながらしいユスにえていくというのは大事業としてありうるとうんだけど。

   デン:あれは現代社会のエンジニアリングのきなミスですね。ネパルの歴史的組積造建物は、100年前からないっていうことを結構みんなわかっていて、それを立入禁止にするか、ある程度耐震性えるような計画てないのは、本当無責任だとうんですね。中国地震じようでしたよね。小学生沢山犠牲になっていた地震が、10ほどですかね。ありましたね。自然災害とよくわれるのですが、本当人工災害です。エンジニアが十分関与していないからいは関与させられる制度ができていない。

   布野は、地震はいろいろみてます。1976のバリ地震とかね。ネパルは、1936大地震経験しているんです。たまたま、そのときに訪問していた天沼俊一10先生かれているんですよ。

   八束京大建築史の?

   布野建築史天沼先生一冊「インドなんとか紀行」というね。だから、わかってたですよ。で、だいたいやられているのは補修方法ね。バリでも、モダンな手法れたのがやられていて、多分相当被害けたのは伝統的というような補修補修をいれていて、わかりませんよ。多分、セメントをめたりとか、いろいろやってきたのが多分ダメジをけた、というのがある。

    八束つまりずしもいものの問題というより中途半端改修問題であるというわけですね?

   デン:イギリスの場合はなかなか、建物さないから、たちがやっているものも、平凡なものがくて。数件だけおせしますけど、こういう、100かどうかわからないですけど、建物にお金持ちが地下をつくってプルをれたいというわけです(13)。で、煉瓦建物保持しながら、しづつったりする場合に、建物をどうやってえていくか、安全仕事めるか、そういう仕事なんです。鉄骨れたりしているわけですが、地下鉄筋コンクリトですから、結構、プロセスが複雑になってしまいます。あるいは、これは数百年前からある工場だったのですけれど、その2層建てのマンションを鉄骨して、住居スペスをる(14)。イギリス事務所では100くらいやってるんですけど、平凡なテラスハウスで、のアパトとのアパトとか、あるいはごと二分割とか、色々分割されていますけど、三層分を、ったり、もっと空間じるように鉄骨れたり、鉄骨わせたりとかしています。はビクトリア時代のものなので当然いじることができないのですが、近代的空間にしている。こういう仕事いですね。日本のリノベションとイギリスとでは、用途変更のプロセスもまったくったり、目的うし、使っている素材全然違います。イギリスではレンガ自体構造ですので、材料使えるわけですけれども、日本では地震があるから材料使えない。靭性のある鉄筋コンクリトか鉄骨になりますね。

   布野五重塔は、免震的といわれますね。ヴァナキュラ民家もそれなりの耐震性とか耐風性とかがあって、台風についても、地震についても、それなりに対応する工夫をしてきた。バリ1976地震のときれたのは、バリ伝統的住居ではなくて、みんなしい材料しい構法てた建物だった。日本でも、昭和のはじめの地震では筋交いをいれたほうがやられている。日本木造は、ったり、いだりして、100200年持たせてきたでしょう。リノベションについては、そういうことがこっていくんじゃないか。コンクリトに鉄骨れるとかね。無様だろうがなんだろうが、鉄骨先生だったら、それでいけますよ、という。ただ、日本基準うと、ヘンテコになりそうですね。耐震補強ってうとじブレスをれないといけないとか。するにね、リノベションでも、アランさんは平凡仕事ってうけど、現場現場工夫できることとか面白いことをつけてやられているんじゃないかっていうふうに、想像するわけです。だから、もっと多様なことがこっていくなかで、面白表現こっていく可能性があるのではないか、とっているんです。

   宇野いま自分研究室には、トルクメニスタンから留学生ています。ソヴィエト時代には、ソヴィエトが近代建築ってきたようです。1970年半ばに、コルビュジエに傾倒した設計上手建築家がいたらしく、写真ると、なかなかいRC近代建築があります。独立後20数年たったわけですが、現在、ソヴィエト時代建築されつつあって、フランス、ドイツ、そしてロシアから、また中国からも、さまざまな会社がやってて、それぞれのスタイルと技術建築っているそうです。様式技術がバラバラで、それをなんとかしたいってはいっています。また、一方で、1940年代きな地震があって、それまでの伝統的建築全部崩れてしまったとのことでした。日本関東大震災とほぼじような状況で、震災後RC近代建築普及したようです。僕自身は、トルクメニスタンにったことありませんし、しい情報もないんですけど、世界には、そういうところが結構あるんだなあっていました。つまり、その土地土地建築技術伝統近代建築出会った地域、さらには、その、さまざまな様式技術外国から導入されるときの混乱のようなものがあるわけです。 今日話題は、英国日本建築制度歴史的いとか、エンジニアとアキテクトのコラボレションのですけど、ら(日本社会)は経験してきていて、ある程度、どうすればより合理的になるか方向性えているといます。戦後社会制度としての近代急激普及したために、一般国民理解がまだ十分じゃないっていうことで、いろいろ問題があるのは事実ですけど、エンジニアリングの問題ではない、っていうか、そういます。

   八束それって、さきほどの日本がガラパゴスだという裏返しみたいね。

   宇野デンさんにおきしたかったのは、えば、トルクメニスタンみたいなところは世界にはいくつもあるわけで、そうすると、エンジニアというか、十分近代化した技術っている我々は(英国日本は)どのようにうべきか、っていうことです。えば、トルクメニスタンにはいろいろな建築んできていますけど、構造的えて耐震性めるにはどういう提案がありますか?ってかれたに、どうえればいいのか、はわからなかった。

   デン:もトルクメニスタンに全然詳しくないですし、ったこともないんですが。鉄筋コンクリ建物ですか?

   宇野伝統的には組積造で、鉄筋コンクリ近代建築導入される大地震一度壊れています。その鉄筋コンクリ建築導入されました。ただ、耐震性いソヴィエトの建築なので…

   デン:だったらそれを、一軒ずつ調査しなければならないですよね。調査して、耐震性強化して、方針えるしかいとうんですけど。調査なしでただ解体するとか、歴史的なものだったらそれが勿体無いわけですよね。

   宇野勿体無いですよね。耐震補強とかするといいのに、っています。ソヴィエトから独立してまだわずかですから建築基準ってないところに、他国がたくさんやってきて建築っているのです。トルクメニスタンは、天然ガスが豊富資源国で、お金持ちのです。そこをっていろいろな参入してきているというわけです。エンジニアリングの問題として、コンサルテションできることがいくつもありそうです。

   八束中国なんかだって、じことがこっているんじゃない? するに、中国だとかソだとか、あれだけいところで、一律基準くわけはないんで。アメリカなんかだったらごとに全部基準法うじゃないですか。そういうことが多分、きちんとできていない。世界遺産というがあったから、もうひとつついでに話題として提供しておくと、世界遺産たるものだけど、アンコルワット。日本では早稲田中川武さんのチムが修復やなんかにわっているんだけど、結構危ないらしいんですよ。一部禁止だし。友人構造家新谷眞人さんが結構コミットしていて、あれって全部石んでいるわけではないんですね。なんですけど、それの総重量計算して比率推測するというようなをだいぶにされていました。

   デン:地震があるからでしょう? 腐食して。

   八束んでいる結構流動化していくみたいなんです。その解消しないと、すぐにというのではないかもしれないけどない、っていうのを新谷さんにいたことがあります。だから構造家近過去のリノベションどころか、大過去のコンサベションまでってやる仕事現時点でもているということですね。

10.天沼俊一 18761947建築史家東京帝国大学工科大学造家学科卒業京都帝国大学・助教授・教授192036)。『日本建築史要』(1926)、『日本建築史図録』(1933-1939)、『成虫楼随筆』(1943)、『日本古建築提要』(1948)


構造家のレゾンデトル

デン:そういう耐震補強もそうですけど、リノベションもコンバジョンもものすごく可能性があるとっているんです。それでそのプロセスには、構造エンジニアが不可欠だといますね。エンジニアが存在しないとできない仕事で。その最適化色々コンピュタで最適設計というか、ボタンをせば、単純な、両側に、3とラメン構造があれば、ボタンをせばえがてくるかもしれないですけど。 そういえば、先週日曜日横浜大桟橋学会というかセミナがありましたよね。いらっしゃいましたか?

   宇野いていますけど、あいにく、くことはできませんでした。

   デン:さんと渡辺さんと、アレハンドロザエラポロさんがいましたけど。「THE SAGA OF CONTINUOUS ARCHITECTURE」「連続的建築はこれからどうなるか?」というようなテマだったんですけど、そのなかで、アメリカからたジェフリー・キプネスさん、オハイオ州立大学建築評論家がいるんですけど、が、渡辺さんの発表わったら「いや、でも渡辺さん、もうそろそろ構造エンジニアの時代わったといませんか」という質問をしたんですね()。通訳がうまくなかったから、渡辺さんにはその発言衝撃さが理解できなかったみたいですけど。でもそれをいて、建築をやっているでもそういうふうにえているはまだまだいのかな、とすごいしいいがしました。いかに構造エンジニアがやっていることが、社会わっていないか、コミュニケトしていないか、えました。

   八束キプニスはアイゼンマンのポスト構造主義理論家としてられていますが、元々物理学なんかをんだ本来理系のはずですけど、どういうもりでったのかな?

   デン:構造家不要とかいわれても、リノベションなんかだって、全然自動化できなくて、エンジニアの判断必要で、そのでどうやってコンバジョンが上手くいくかという発想必要で、構造がわからないと発想できないとうんですよね。コンバジョンの場合は、やっぱりみんな真剣えてないとうんですね。絶好のチャンスは新国立競技場ですよね。

   布野それきたい。

   デン:もうしたんですけど、競技場補強するとかいろいろながありたとうんですけど。

   布野まだっていて、使うかどうか。設計案がわからない段階で、全部とったりするのは、またおがかかる。

   デン:いや、学会が、再利用指針しているんですよ。

   布野そうか()。

   デン:そういうやりもできるとうんですけど。もっと地球にやさしい、日本わったということを絶好のチャンスだったとうんですね。

   八束この問題簡単には議論出来ないし、宇野さんたちがまた企画をおえみたいだから、時間えたし、今日はこんなところにしましょう。じゃあ、バデンさん、うございました。

文責八束はじめ)