実にドラスティックなブルーノ・タウトの軌跡
布野修司
本書は、建築家ブルーノ・タウトに関する、現在日本語で読める最良のガイドブックである。
主著者は、一九七一年から七三年にかけて西ベルリンに滞在し、尋ねて来た恩師、建築家武基雄を、そのたっての希望でオンケルズ・トムズ・ヒュッテ(アンクル・トムの小屋)・ジードルング(集合住宅団地)に案内して、ブルーノ・タウトのジードルング作品を知ったという。爾来四〇年、ブルーノ・タウトの現存する作品の全てを見て周り、写真に収めた、その長年にわたるタウト詣でをもとにまとめられたのが本書である。中心は、そのいくつかが二〇〇八年に世界文化遺産に登録されたジードルング作品である。
ブルーノ・タウトは、戦時中に日本に滞在したこと、そして「桂離宮」評価を軸とする『日本美の再発見』『日本文化私観』といった日本文化論を書いたことによって、近代建築家としての知名度は、日本において、ル・コルビュジェ、F.L.ライトらにまさるともおとらない。しかし、その建築家としての軌跡は必ずしも知られていない。
タウトの軌跡は実にドラスティックである。本書に掲載された略年表からもそれは容易に伺える。タウトと言えば、まず、「ドイツ工作連盟」博覧会の「ガラスの家」(一九一四年)である。そしてアンビルドの想像力溢れる「アルプス建築」(一九一九年)である。また、マグデブルグ市の建築顧問としての「色彩宣言」であり、ベルリン住宅供給公社(GEHAG)建築顧問としてのジードルング建設である。そして日本での活動である。タウトは「表現主義」の建築家として出発する。ロシア革命直後に「十一月グループ」のメンバーになっているが、ラディカルな建築家として知られる。しかし、一九二〇年代に入ると新即物主義(ノイエ・ザッハリッヒカイト)と呼ばれる機能主義建築家に転じていったとされる。その象徴が一連のジードルング作品である。そして、ナチスの台頭とともに、いわば亡命の形で日本に来るのである。
一九七六年、初めて一人でドヨーロッパの諸都市を走り回った建築行脚を思い出した。この最初のヨーロッパ建築行脚のひとつのターゲットは「表現派」の建築であった。オランダのアムステルダム派の建築も随分見て回ったが、ドイツが中心であった。ヘーガー、ヘトガーといった北方ドイツの表現派を追いかけて、ブレーメン、ハンブルグ、ハノーバーにも足を運んだ。東ベルリンにも一日潜入して、ハンス・ペルツィッヒの「ベルリン大劇場」を見た。数え上げてみたらドイツだけで三二都市になる。振り返ってみると、他には眼もくれずに「近代建築」のみ見て回った若気の至りの旅行である。
ベルリンでは、もちろん、ブルーノ・タウトのみならず、ミース・ファン・デル・ローエ、W.グロピウス、H.シャロウンらが設計建設したジードルングを見て回った。オンケル・トムズ・ヒュッテとともにおそらくブルーノ・タウトの作品の中で最も有名であろう馬蹄形のブリッツ・ジードルングも見た。半世紀の時の流れを経て、汚れも目立っていたけれど、迫力があった。ただの団地ではないのである。本書に掲載されたタウトのジードルング写真を見て、その新鮮さに驚く(ブリッツ・ジードルングの写真がないのは実に残念)。日本の住宅公団の団地が世界文化遺産になることなど想像ができないことを思えば、彼我の差異をいまさらのように感じてしまう。
タウトについての関心は、今でもやはり「表現主義」から「新即物主義」への展開である。本書にも掲載されている扇形のプラン(平面、間取り)をした自邸がある。小住宅である。彼にはこの自邸を「動線」をもとに機能主義的に分析した論文があって、いち早く日本語にも訳されている。すなわち、日本には合理的設計手法の先駆として紹介された経緯がある。そしてタウトはその延長において「桂離宮」を再発見(評価)したと考えられている。しかし、そのタウトと、「アルプス建築」のタウト、「色彩宣言」のタウトとは必ずしも結びつかないのである。本書に不満があるとすれば、この展開についてほとんど触れられていないように思えることである。
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