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2023年8月10日木曜日

近代世界システムと植民都市,都市計画学会賞受賞に当たって,都市計画262,200608

 近代世界システムと植民都市,都市計画学会賞受賞に当たって,都市計画262,200608

植民都市計画研究のための基礎作業

布野修司

 

 研究経緯

 赴任したばかりの東洋大学で磯村英一先生(当時学長)から、いきなり「東洋における居住問題に関する理論的、実証的研究」という課題を与えられて、アジアの地を歩き始めたのは1979年初頭のことである。振り返れば、最初に向かったのがインドネシアであったことが運命であった。インドネシア、殊に、スラバヤという東部ジャワの州都には以降度々通うようになった。経緯は省かざるを得ないが、10年の研究成果を『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』という論文にまとめて、学位(東京大学)を得た(1987年)。そのエッセンスを一般向けにまとめたのが『カンポンの世界』(パルコ出版,1991年)で、光栄なことに日本建築学会賞論文賞を受賞することができた(1991)

 このカンポンkampungというのが曲者であった。OED(オクスフォード英語辞典)によると、コンパウンドcompoundの語源だという。バタヴィアやマラッカの都市内居住地がカンポンと呼ばれていたことから、インドでも用いられだし、アフリカなどひろく大英帝国の植民地で使われるようになったという。大英帝国は、最大時(1930年代)、世界の陸地の1/4を支配した。英国の近代都市計画制度が世界中で多大な影響力をもった理由の大きな部分をこの事実が占める。

 インドネシアの宗主国はオランダである。オランダは、出島を通じて日本とも関係が深い。オランダ植民都市研究を思い立ったのは、インドネシア、カンポン、出島という縁に導かれてのことである。

 

 受賞論文:近代世界システムと植民都市」(京都大学学術出版会、20052月刊行)

受賞論文が対象とするのは、17世紀から18世紀にかけてオランダが世界中で建設した植民都市である。オランダ東インド会社(VOC)、西インド会社(WIC)による植民都市の中で、出島は、長崎の有力商人によって建設されたことといい、オランダ人たちの生活が、江戸参府の機会を除いて、監獄のような小さな空間に封じ込められていたことといい、唯一の例外といっていい。論文は、オランダ植民都市の空間編成を復元しながら、17世紀から18世紀にかけての、世界の都市、交易拠点のつながりと、それぞれの都市が現代の都市へ至る、その変容、転生の過程を活き活きと想起する試みである。

 まず、アフリカ、アジア、南北アメリカの各地につくられたオランダの商館、要塞など植民拠点の全てをリスト・アップした。そして、主として都市形態について類型化を試みた。さらに、臨地調査(フィールド・サーヴェイ)を行った都市を中心にいくつかの都市をとりあげ比較した。比較の視点としているのは、都市建設理念の起源と原型(モデル)、地域空間の固有性によるモデルの変容、近代化過程による転生、<支配―被支配>関係の転移による土着化過程(保全)植民都市空間の現代都市計画上の位置づけ、などである。

 オランダ植民都市を起源とする諸都市はインドネシアなどを除いて、イギリス支配下に入ることによって変容する。そして同様に19世紀末以降、産業化の波を受けてきた。また、独立以降(ポスト・コロニアル)の変容も大きい。論文は、英国植民都市計画そして近代都市計画の系譜以前に、オランダ植民都市の系譜を措定して、その原型、系譜、変容、転生の全過程を明らかにしている。

 まず広く、西欧列強の海外進出を概観(第Ⅰ章)した上で、オランダ植民地拠点の全容を明らかにした(第Ⅱ章)。続いて、植民地建設の技術的基礎となったオランダにおける都市計画および建築のあり方をまとめた上で、オランダ植民都市計画理念と手法を考察し(第Ⅲ章)、オランダ植民都市誌として各都市のモノグラフをもとに、植民都市の変容、転生、保全の様相について考察する(第Ⅳ章)構成をとっている。巻末には、詳細な植民都市関連年表、オランダ植民都市分布図をまとめている。

 

 アジアからの視点

近代植民都市研究は、基本的には<支配←→被支配><ヨーロッパ文明←→土着文化>の二つを拮抗軸とする都市の文化変容の研究である。近代植民都市は、非土着の少数者であるヨーロッパ人による土着社会の支配を本質としており、西欧化、近代化を推し進めるメディアとして機能してきた。植民都市の計画は、基本的にヨーロッパの理念、手法に基づいて行われた。西欧的な理念がどのような役割を果たしたのか、どのような摩擦軋轢を起こし、どのように受け入れられていったのか、計画理念の土着化の過程はどのようなものであったのか、さらに計画者と支配者と現地住民の関係はどのようなものであったか等々を明らかにする作業は、これまでほとんど手つかずの状況であった。本論文は、飯塚キヨ氏の『植民都市の空間形成』(1985年)以降の空白を一挙に埋め、ロバート・ホームの『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』(布野修司+安藤正雄監訳,アジア都市建築研究会訳,Robert Home: Of Planting and Planning The making of British colonial cities、京都大学学術出版会、20017月)に呼応するアジア(日本)からの作業として位置づけることができる。

 植民都市の問題は、現代都市を考えるためにも避けては通れない。発展途上地域の大都市は様々な都市問題、住宅問題を抱えているが、その大きな要因は、植民都市としての歴史的形成にあるからである。また、西欧列強によってつくられた植民都市空間、植民都市の中核域をどうするのか、解体するのか、既に自らの伝統として継承するのか、これは、植民都市と地域社会の関係が、在地的な都市=地域関係へと発展・変容していく過程の中で現出する共通の問題でもある。具体的に、歴史的な都市核としての旧植民都市の現況記録と保全は、現下の急激な都市化、再開発が進行するなかで緊急を要する問題である。本論文は、現代都市の問題を大きな問題意識として出発しており、それぞれの都市の現況を記録することにおいて大きな意義を有している。都市問題、住宅問題の解決の方向に向かって歴史的パースペクティブを与える役割を果たし、さらに加えて、世界遺産としての植民都市の位置づけに関しても多大な貢献をなすと確信するところである。

 

アジア都市建築研究

17世紀をオランダ植民都市という切口で輪切りにしてみて、残された作業は少なくない。スペイン、ポルトガルと植民都市計画の歴史を遡行する作業ももちろんであるが、アジアからの作業として、前近代の都市計画の伝統を明らかにする必要がある。大きく、インド、イスラーム、中国の都市計画の伝統が想起されるが、ヒンドゥー都市についてその理念と変容を篤かったのが、『曼荼羅都市』(京都大学学術出版会、2006年)である。また、カトゥマンズ盆地の都市について“Stupa & Swastika”をまとめつつある(2007年出版予定)

この度の受賞は、さらなる作業のために大きな励みとなるものである。心より感謝したい。

 

アジア都市建築研究会は、布野修司を中心として1995年に発足したゆるやかな研究組織体で、20055月までで69回の研究を積み重ねて来た(研究会の内容は、http://agken.com/index.htm)。その主要な成果として、*『生きている住まいー東南アジア建築人類学』(ロクサーナ・ウオータソン著 ,布野修司(監訳)+アジア都市建築研究会、学芸出版社,19973月、*『日本当代百名建築師作品選』(布野修司+京都大学亜州都市建築研究会,中国建築工業出版社,北京,1997年 中国国家出版局優秀科技図書賞受賞 1998)、*『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』(ロバート・ホーム著:布野修司+安藤正雄監訳,アジア都市建築研究会訳,京都大学学術出版会、2001)、*『アジア都市建築史』(布野修司+アジア都市建築研究会,昭和堂,2003年)*『世界住居誌』(布野修司編著、昭和堂、2005)などがある。

受賞論文の元になっているのは、「植民都市の起源・変容・転成・保全に関する研究」と題した共同研究(文部科学省・科学研究費助成・基盤研究(A)2)(19992001年度)・課題番号(11691078)・研究代表者(布野修司))である。布野が、報告書をもとに全体を通じて筆を加えて受賞論文の原型となる予稿をつくった。それを各執筆者に回覧し、確認を受けたものを再度布野がまとめたのが受賞論文である。共著者は、魚谷繁礼、青井哲人、R.Van Oers、松本玲子、山根周、応地利明、宇高雄志、山田協太、佐藤圭一、山本直彦である。また、共同研究参加者は、以上に加えて、安藤正雄、杉浦和子、脇田祥尚、黄蘭翔、高橋俊也、高松健一郎、佃真輔、Bambang Farid Feriant、池尻隆史他である。








2022年2月26日土曜日

すまいろん 研究哲学 海外住居研究の展開,『すまいろん』2002年夏号,通巻第63号,20020701

海外住居研究の展開『すまいろん』2002年夏号通巻第6320020701

 

すまいろん 研究哲学

海外住居研究の展開---アジアの住居に関する研究をめぐって

 

布野修司

 

はじめに

「海外の伝統的住居の研究論争」というのが与えられたテーマであるが、「海外」、「伝統的住居」、また「論争」について予め留保と限定を許されたい。研究対象として「伝統的」住居をうたう研究は極めて少ない[1]。「海外」[2]というと広すぎる。「論争」なるものも記録に残される形で展開されたことはないと思う。いささか勝手ではあるが、ここでは「日本人」[3]による「アジア」の「住居」に関する研究一般を念頭におきたい。

住宅総合研究財団(住宅建築研究所)による研究助成「地域の生態系に基づく研究」[4]以降、論者がこの間展開してきた調査研究は必ずしも「伝統的住居」そのものを対象とするものではない[5]。また、そもそも「伝統的住居」という規定は曖昧である。

「伝統的住居」の並ぶ集落と見えて、わずか五〇年あまり前に移住してきた集団の村であったという例がある。また、原住民の集落として大々的に喧伝される村が全戸土産物屋を経営するといった例がある。こうした例を「伝統的住居」研究というかどうか、「伝統的住居」とは一体何をいうのか、住居の何を問題にするのか、をめぐって既に議論が必要である。そうした意味では、「ヴァナキュラー(土着的)建築」(=「住居」)に関する研究を対象とするといった方がしっくりくるけれど、もちろん、ヴァナキュラーという概念、「地域の生態系」といった概念についても同相の議論は必要である。

「伝統」traditionという言葉は、もともとtradere---「手渡す」あるいは「配達する」---という言葉を起源とする[6]。各地域の住居に引き継がれてきたものを明らかにするということは住居研究における重要なテーマであるが、その前提となっているのは、住居が生き物であり、変容するということである。「伝統」という概念が「近代」において「成立」するのも「変化(近代化)」が強く意識されるからであり、伝統と近代(近代化)は表裏のテーマである。

われわれが直接研究対象としうるのは現代の住居である。文献資料に依る住居(史)研究も含むけれど、「海外住居」という時、主として問題とされるのは臨地調査(フィールド・サーヴェイ)を基礎にした研究であろう。そうした意味では、臨地調査の基本的問題がクローズアップされることになろう。

 

 1.日本におけるアジア住居研究

 日本におけるアジアの住居に関する研究の歴史は戦前期に遡る。その概要は京都帝国大学工学部建築学教室編『大東亜建築論文索引』(清閑社、一九四四年)で知られるが、体系的まとまりという意味では、村田治郎の「東洋建築系統史論」其一、其二、其三(『建築雑誌』、一九三一年四月、五月、六月)をもってその嚆矢とする。あるいは、郷土会そして白茅会(一九一六年結成)以降の、日本の民家研究の流れを端緒とする。小田内通敏『朝鮮部落調査予察報告』(朝鮮総督府、一九二三、二四年)が早い例で、今和次郎も一九二四年に『朝鮮部落調査特別報告、第一冊(民家)』を書いている。村田治郎も「南鮮民家の家構私見(一)(二)(三)」(『朝鮮と建築』、一九二四年三,五、七月)を書いて「マル」の起源を論じ、藤島亥治郎と若干のやりとりをしている[7]

 アジアの住居に関する研究の出自をめぐっては論ずべき多くの問題がある。その起源において既に今日の議論に通底する諸問題を指摘できる筈である。「アジア」という空間的枠組みの設定にまず問題がある[8]

しかし、ここでは出発点を一九八九年にとろう。平成元年だからということではない。日本建築学会の建築計画協議会『住居・集落研究の方法と課題:異文化の理解をめぐって』が行われ(一九八八年)、その記録・討論資料集『住居・集落研究の方法と課題Ⅱ:討論:異文化研究のプロブレマティーク』(一九八九年)がまとめられているからである。前者には、一九七五年以降一九八八年までの文献リスト(日本建築学会大会学術講演梗概集、支部研究報告集、論文報告集、建築雑誌、日本都市計画学会学術研究論文集、住宅研究所報、学位論文)があり、後者には中国(浅川滋雄)、中国窰洞関係(八代克彦)、台湾(乾尚彦)、韓国(朴庚玉)、インドネシア(佐藤浩司)について文献解題が書かれているのである。鈴木成文とハウジング・スタディ・グループ、原広司と世界集落調査隊、太田邦夫と東洋大AAA-Japan、武者英二と法政大民家・集落研究グループ、茶谷正洋と中国窰洞研究グループ他、青木正夫と九州大学・九州産業大学グループ、鳴海邦碩と大阪大学グループ、東京芸大中国民居研究グループ・・・・など、当時の「海外住居集落研究」に関わるグループをほぼ網羅している。論者はその協議会を組織し、まとめ役を務めた。グローバルには、B.ルドフスキーが先鞭をつけ、P.オリヴァー、A.ラポポートらが開拓してきたヴァナキュラー建築をめぐる議論も含めて、日本の戦後における「海外住居研究」の概要は以上の二冊の資料集に総括されていると考えている。

 

 2.住居・集落研究の方法と課題1988/89

 「住居・集落研究」の目的、対象、方法、意義、体制、課題をめぐっての総括は「住居・集落研究の課題」(一九八九年)として書いた。また、それ以前に、「都市集落町並研究の課題」[9]、「海外住居集落研究の課題」[10]を書いている。繰り返しを恐れず要点を列挙すれば以下のようである。この間、「海外住居研究」をめぐる論争があったとすれば、そのの種は以下に含まれていよう。

 

A.    研究の目的となるのは、「住居集落の構成原理の解明」「すぐれた建築を生み出す魔法のプロセス」の解明(稲垣栄三)である。あるいは、「集落モデルをつくる」(原広司)こと、「エスノ・アーキテクチュア(テクノロジー)」の解明(太田邦夫)、そして「住居の近代化のプロセス、現代における住居の変容を明らかする」(鈴木成文)ことである。

 

ここで問題とされるべきは「面白ければいい」「最終目標なんてない」と言い切る立場である。西村一朗は、「本質・発展追求的立場」「分布・系譜追求的立場」「学習・空間計画語彙獲得的立場」「遊戯的・趣味的立場」の四つの立場を区別するが、問われるのは研究の立脚する土台そのものである。

 

B.    何故、海外の住居なのか、異文化における住居を何故問題にするかと言えば、日本の住文化を相対化するためである。また、近代建築の理念を相対化するためである。何故アジアか、については、西欧vs日本という二項対立の図式が不毛だからである。「最も近い文化を有する韓国との比較が興味深い。類似性が高いだけに相違も目立ち、相対的に日本が見えてくる」(鈴木成文)。「沖縄というのはいったい日本なのか」(武者英二)。「その地域なり民族なりに固有の科学があり、固有の技術がある」(太田邦夫)。

 

A.と合わせて、「西欧近代における住宅計画の方法とは異なった方法の確立」、「地域に固有な住居集落の構成原理の解明」への期待がアジアの住居に関する研究にはある。

 

 

C.    海外の住居に関する研究の展開において否応なく問われるのは日本の「建築学」という学問のあり方である。海外の住居集落研究の場合、基本的に共同研究として行われる(のが原則である)。その場合、専門分野を異にする研究者が共同研究を行うことも珍しくない。そこで、例えば、日本に特有の「建築学」や「建築計画学」の存立基盤が問われることになる。

 

「建築計画学は輸出できるか」(青木正夫)。一体何のための研究なのかは、海外研究の場合、より厳しく問われることになる。

 

D.    「生活改善的立場」と「好事家的採集的立場」の差異は日本の民家研究、住宅研究の流れにおいても問われてきたが、「海外の住居研究」についても同様である(A)。そして、歴史(主義)か構造(主義)か、より具体的に建築史における民家研究と建築計画における住居研究の違いをめぐって議論がある。問題はディシプリンを截然と分ける態度であろう(C)。住居を対象とし、生活の全体を対象としようとする場合、アプローチに本質的差異はない。

 

 インドネシアの住居集落の場合、文献資料は皆無に近い。文献資料をもとにした実証史学は果たしてお手上げであろうか。地面に聞くこと、土地の形、建築類型を手掛かりにするティポロジア(類型学)の方法は共有されてきたのではないか。

 

E.    住居研究をめぐっては、さらに、人類学、民俗学、地理学など、境界領域、他分野との関係が問われる。その体系化を目指すのであれば固有の方法がそこで問われるであろう。個別専門分野を超えた地域研究の成立可能性を問う議論が関わっている。

 

F.    地域研究の成立根拠とともに問われるのは「エスノ・アーキテクチャー」なる概念、「地域に固有な住居集落の構成原理」である(B)

 

G.    調査研究の方法は以上の全てに関わる。風のように集落を駆け抜けることによって何が明らかにできるのか。単にフィジカルな形式を図面化すればいいのか。一方、インテンシブな調査とは何か。何年調査すればいいのか。ただ現地に住み込めばいいのか。人類学あるいは地域研究では臨地調査が不可欠とされるが、アームチェア・アンスロポロジストと呼ばれる学者がいないわけではない。臨地調査を出発点にするのが基本であるにしても、何をどう記述するのかは大きなテーマである。

 調査に関わる本質的な問題として「調査の暴力」がある。これは「海外」であるかどうかを問わない。被調査者に対して、その時間やプライバシーを侵すといった暴力にとどまらない。生活者の生活を断片化し、抽象化し、類型化し、一定の枠に嵌め込んでしまう、そうした思考の枠組みの暴力が問題にされなければならない。「スラム」改善のための調査が「スラム」のコミュニティの存在の根底を揺るがしかねないが故に大きな抵抗を受けることは一般的である。

 

H.    あらゆる調査研究には背景がある。アジアの「住居」研究に研究助成が行われる社会的背景がある。調査研究のための資金、研究体制について自覚的である必要がある。海外研究の場合、国際的な共同研究の組織体制の確立が不可欠である。相互に学ぶ研究体制がなければ、その持続はありえない。研究成果がいかに還元されるかは常に問われている。

 

I.    出発点となるのは現代の住居であり、集落であり、都市である。現代の住居、集落、都市をどう把握し、どういう計画的提案をなしうるかが建築計画研究における住居研究の基本的構えである。また、フィールド・サイエンスもフィールドから組立て、フィールドに還元するのが基本である。調査するのみでは、また、計画言語、空間的語彙を引き出すだけでは完結しない。得られた成果がフィールドに投げ返されチェックされることによってしか研究の全体性は保証されない。

 

 3.「海外研究」という枠組みを超えて

 以上のような確認の後、どのような研究が展開されてきたのか。残念ながら、九〇年代における研究展開は八〇年代までと比べると低調と言わざるを得ないのではないか。敢えて個々の研究グループの、その後の展開を論うことはしないけれど、持続的にアジアの住居研究を展開する研究者、研究グループはむしろ減っているのである。

問題は、少なくとも日本建築学会の論文集を見ると、きちんとまとめられた成果が少ないことである。また、日本の建築計画学の「手法」をアジアの住居に当てはめる構えの研究が目立つことである。むしろ、後退と言わざるを得ない。「手法」なるものがフィールドと切り離されて問題とされるところに大きな問題がある。

 九〇年代における研究状況を特徴づけるのはアジア各国からの留学生による研究の圧倒的増加である。極めて印象深かったのは、滋賀県立大学で行われた大会協議会[11]で「海外研究」のレヴェルの低さが槍玉に上がったことである。論文の生産性が低く、「手法」が未熟(研究方法がいいかげん)だというのである。また、「海外研究」を全体としてうさんくさいものとして否定する論調もあった。あたかも研究のレヴェルが低くなったのは留学生のせいだと言わんばかりの指摘にはいささか腹が立った記憶がある。レヴェルが低いとすれば、指導者なりカウンターパートとして留学生に対する日本の研究者の方であり、アジアからの留学生が増加してきた研究環境についてあまりにも無自覚な研究者は現在も少なくない。また、「海外研究」であれ「国内研究」であれ、研究の抱える問題の質は同じであることを理解しない研究者は少なくない。

 例えば、東南アジアについては、R.ウォータソンの『生きている住まいー東南アジア建築人類学』[12]を超える研究はこの間ない。日本建築学会集合住宅小委員会の海外情報WGの持続的活動もあるが、情報収集あるいは文献収集の段階を超えて、そろそろ、研究成果がグローバルな平面で問われる段階に達しているのではないか。一九九五年から行ってきた「アジア都市建築研究会」は既に五二回を数える。興味深いテーマは山ほどある。留学生を主体とする「アジアと建築の未来」(日本建築学会近畿支部創立50周年記念シンポジウム、一九九七年)、また、「アジアの建築交流国際シンポジウム」を第二回(神戸、一九九八年)、第三回(済州島、二〇〇〇年)と議論を重ねて、今年第四回を重慶で行う。英文論文集JAABEも発刊された(二〇〇二年三月)。アジアの住居研究が新たなステージを迎えていることは間違いない。

 

 4.アジアの都市住居モデル

 この二〇年余り、発展途上地域の大都市の居住地について考えている。ロンボク島[13]やマドゥラ島[14]など農村部の集落についての研究も展開しているが、その場合も主要な関心は都市と農村の関係にある。具体的に焦点を当て研究対象としてきたのは湿潤熱帯(東南アジア)の都市集落であり、続いて南アジアであり、それぞれの気候風土に相応しい居住地を構成する都市型住居モデルの開発を主題としてきた。「地域の生態系に基づく住居システムに関する研究」が常に原点にある。

二一世紀を迎えて「地球環境問題」がますます深刻なものとして意識されつつある。そこで、グローバルに大きな焦点となるのは、発展途上地域の大都市の居住問題である。今後ますます人口増加が予想されるのは熱帯地方の発展途上地域であり、人口問題、食糧問題、エネルギー問題、資源問題など地球環境全体に関わる様々な問題は既に先進諸国よりもアジア、アフリカ、ラテン・アメリカの大都市においてクリティカルに顕在化しつつあるのである。発展途上地域の大都市の居住問題に対してどういう解答を与えるかは、都市計画・地域計画の大きな課題であり続けていると思う。

とりわけ熱帯の発展途上地域が問題なのは、そこで先進諸国と同じように人工環境化が進行しつつあるからである。すなわち、問題は、先進諸国の住居がモデルとされ、目標とされ、エネルギー消費を考慮しないアクティブな技術が専ら導入されつつあることである。大きな課題となるのは、湿潤熱帯の気候に相応しいパッシブ技術を基本とする「環境共生」型の住居モデルおよび居住地モデルを開発することである。

一九七九年以降、インドネシアを中心とする東南アジアの居住問題に関わってきた。その最初の成果は、『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』[15]にまとめたが、そのハウジング計画論を基礎に生まれたのがJ.シラス教授(スラバヤ工科大学)による積層住宅(ルーマー・ススン)モデルである[16]。居間、バス・トイレを共用空間とするその集合住宅はインドネシア版の都市型住宅として注目を集め、ジャカルタなどでも建設されつつある。そして、その集合住宅モデルをもとに、地域産材の利用(ココナツの繊維を断熱材に用いた)、輻射冷房のための井水の利用、太陽電池など様々な「環境共生」技術を導入する実験住宅(「スラバヤ・エコ・ハウス」)を設計、建設する機会を得た[17]

以上のような経験を踏まえた現在の関心は居住地モデルの開発である。住居が集合する形式によって涼しく風通しのいい居住地の提案は可能である。事実、アジア各地においてもそうした形式が伝統的につくられてきた。各地の都市住居については、ラホール[18]、アーメダバド[19]、デリー、ジャイプル[20]、カトマンドゥ盆地[21]、ヴァラナシ、台湾[22]、北京[23]などで調査を展開してきた。それぞれに興味深い都市住居の形式がある。

研究は、もちろん、紆余曲折がある。スラバヤ・エコ・ハウスの開発過程で、「日本ではクーラーを無制限に使いながら、原初的な技術を押しつけようとしている!」という批判を受けた。本質的に突きつけられる問いである。モデル開発が先進諸国の側から一方的になされるとすれば、極めて傲慢と言わざるを得ないだろう。モデル開発は、基本的に日本の都市型住居モデル、居住地モデルの問題でもある、というのが前提である。

日本においては、発展途上地域の居住地モデル、都市型住宅モデルについての研究が極めて少ない。また、発展途上国においても、独自の居住地モデルを開発しようという動きは希薄である。「環境共生」技術、「環境共生」建築というテーマは、熱帯についてはほとんど等閑視されているように思われる。これまでの経験をつき合わせ議論する相手が少ないのはいささか寂しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



[1] 日本建築学会の論文集19801月~20003月を見ると、「伝統住宅」「伝統的住居」等をタイトルに含むものは以下にすぎない。

貞植 他、「韓国・河回における伝統住宅の空間構成に関する研究」、JAPEEAIJNo.417,pp.51-60 199011

富樫穎 他、「住居語彙からみたダイ族住居の伝統的空間構造」、JAPEEAIJNo.483,pp.169-17819965

上田博之、「中国雲南省孟連県のダイ・リャム族の伝統的住居の空間構造」、JAPEEAIJNo.518,pp.97-104 1999年4月

山根周 他、「ラホールにおける伝統的都市住居の構成」、JAPEEAIJNo.521,pp.219-22619997

 

[2] 海外のヴァナキュラー建築についての集大成は、EVAW(P. Oliver (ed.) ;”Encyclopedia of Vernacular Architecture of the World, Cambridge University Press, 1997)に示されている。また、CEDRCenter for Environmental Design Research)の論文集がある。その執筆者の研究全体を総括するのは手に余る。

[3] アジア各国からの留学生が日本人の指導によって日本で発表した論文も含むこととする。

[4] 地域の生態系に基づく住居システムに関する研究()(主査 布野修司,全体統括・執筆,研究メンバー 安藤邦広 勝瀬義仁 浅井賢治 乾尚彦他) ,住宅建築研究所, 1981年、(Ⅱ)住宅総合研究財団,1991

[5]  布野修司および布野研究室によるアジアの住居に関する研究は、いくつかのフレームをもつが、都市住居あるいは都市組織Urban Tissueに関する研究が中心である。また、基本的には居住環境整備という極めて実践的な調査研究を出発点としている。布野修司:カンポンの歴史的形成プロセスとその特質,日本建築学会計画系論文報告集,433,p85-93,1992.03/布野修司,田中麻里(京都大学):バンコクにおける建設労働者のための仮設居住地の実態と環境整備のあり方に関する研究,JAPEEAIJ,483,p101-109,1996.05/田中麻里(群馬大学),布野修司,赤澤明,小林正美:トゥンソンホン計画住宅地(バンコク)におけるコアハウスの増改築プロセスに関する考察,JAPEEAIJ,512,p93-99,199810月など。

[6] 14世紀に古フランス語を経て英語に入ってきたととされる。

[7] 藤島亥治郎、「抹樓の起源に就いて」、『朝鮮と建築』、一九二五年八月

[8] 近代日本の建築とアジアをめぐっては、布野修司建築論集Ⅰ『廃墟とバラック・・建築のアジア』(彰国社、一九九八年)で論じた。特にⅡ章「建築のアジア」を参照されたい。

[9] 日本建築学会『建築年報』、一九八三年

[10] 日本建築学会『建築年報』、一九八七年

[11]  「計画研究の新しい視座を求めて:アジアにおける住居・集落研究の蓄積を素材に」1996916日(『建築雑誌』、1997年2月号)。

[12]  布野修司(監訳)+アジア都市建築研究会,The Living House: An Anthropology of Architecture in South-East Asia,1990、学芸出版社,19973

[13] ロンボク島については、脇田祥尚,布野修司,牧紀男,青井哲人:デサ・バヤン(インドネシア・ロンボク島)における住居集落の空間構成,JAPEEAIJ,478,p61-68,1995.12/布野修司,脇田祥尚(島根女子短期大学),牧紀男(京都大学),青井哲人(神戸芸術工科大学),山本直彦(京都大学):チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)の街区構成:チャクラヌガラの空間構成に関する研究 その1,JAPEEAIJ,491,p135-139,19971/布野修司,脇田祥尚(島根女子短期大学),牧紀男(京都大学),青井哲人(神戸芸術工科大学),山本直彦(京都大学):チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)における棲み分けの構造 チャクラヌガラの空間構成に関する研究その3,JAPEEAIJ,510,p185-190,19988月など

[14] マドゥラ島については、山本直彦(京都大学),布野修司,脇田祥尚(島根女子短期大学),三井所隆史(京都大学):デサ・サングラ・アグン(インドネシア・マドゥラ島)における住居および集落の空間構成,JAPEEAIJ,504,p103-110,19982月など

[15] 学位請求論文、東京大学,一九八七年.日本建築学会賞受賞、一九九一年。『カンポンの世界』(PARCO出版、1991年)。

[16]  布野修司,山本直彦(京都大学),田中麻里(京都大学),脇田祥尚(島根女子短期大学):ルーマー・ススン・ソンボ(スラバヤ,インドネシア)の共用空間利用に関する考察,JAPEEAIJ,502,p87~93,199712

[17]布野修司,山本直彦,小玉祐一郎:湿潤熱帯におけるパッシブシステム実験住宅建設の試み・・・インドネシア・スラバヤ工科大学キャンパスにおけるエコ・ハウス,日本建築学会,2回アジアの建築交流国際シンポジウム論文集,神戸,199898-10/ Shuji Funo, Naohiko Yamamoto: Evaluation of Surabaya Eco-house Project (Passive Solar System in Indonesia) and the Future Program of the Sustainable Design in the Humid Tropics, International Symposium of Eco House Research Project, Institute of Technology Sepuluh Nopember-Surabaya, Ministry of Construction, Indonesia, 19th March, 1999など

[18] 山根周(滋賀県立大学),布野修司,荒仁(三菱総研),沼田典久(久米設計),長村英俊(INA):モハッラ,クーチャ,ガリ,カトラの空間構成ーラホール旧市街の都市構成に関する研究 その1,513,p227~234, 199811

山根周(滋賀県立大学),布野修司,荒仁(三菱総研),沼田典久(久米設計),長村英俊(INA):ラホールにおける伝統的都市住居の構成:ラホール旧市街の都市構成に関する研究 その2,JAPEEAIJ,521,p219226 ,19997月など

[19] 根上英志(京都大学),山根周,沼田典久,布野修司:マネク・チョウク地区(アーメダバード、グジャラート、インド)における都市住居の空間構成と街区構成,JAPEEAIJ,535, p75-82, 20009/山根周(滋賀県立大学),沼田典久,布野修司,根上英志:アーメダバード旧市街(グジャラート、インド)における街区空間の構成,JAPEEAIJ,538, p141-148, 200012

[20] 布野修司,山本直彦(京都大学),黄蘭翔(台湾中央研究院),山根周(滋賀県立大学),荒仁(三菱総合研究所),渡辺菊真(京都大学):ジャイプルの街路体系と街区構成-インド調査局作製の都市地図(1925-28)の分析その1,JAPEEAIJ,499,p113~119,19979/布野修司,黄蘭翔(台湾中央研究院),山根周(滋賀県立大学),山本直彦(京都大学),渡辺菊真(京都大学) :ジャイプルの街区とその変容に関する考察ーインド調査局作製の都市地図(1925-28)の分析その3, JAPEEAIJ, 539,p119-127,20011/ Shuji Funo, Naohiko Yamamoto, Mohan Pant: Space Formation of Jaipur City, Rajastan, India-An Analysis on City Maps(1925-28) Made by Survey of India, Journal of Asian Architecture and Building Engineering, Vol.1 No.1 March 2002など

[21] Mohan PANT(京都大学),布野修司:Spatial Structure of a Buddhist Monastery Quarter of the City of Patan, Kathmandu Valley,JAPEEAIJ,513,p183~189,199811/黒川賢一(竹中工務店),布野修司,モハン・パント(京都大学),横井健(国際技能振興財団):ハディガオン(カトマンズ,ネパール)の空間構成 聖なる施設の分布と祭祀,JAPEEAIJ,514,155-162p,199812/Mohan PANT(京都大学),布野修司:Ancestral Shrine and the Structure of Kathmandu Valley Towns-The Case of Thimi, カトマンドゥ盆地の町ーティミの空間構成と霊廟に関する研究 ,JAPEEAIJ,540, p197-204, 2001530日年2/Mohan PANT(京都大学),布野修司:Analysis of Settlement Clusters and the Development of the Town of Thimi, Kathmandu Valley  カトマンドゥ盆地のティミの街区組織の段階構成に関する研究 ,JAPEEAIJ,543, p177-185, 20015/

[22] 闕銘宗(京都大学),布野修司,田中禎彦(文化庁):新店市広興里の集落構成と寺廟の祭祀圏,JAPEEAIJ,521,p175181,19997/闕銘宗(京都大学),布野修司,田中禎彦(文化庁):台北市の寺廟、神壇の類型とその分布に関する考察,JAPEEAIJ,526,p185-192,199912/闕銘宗(京都大学),布野修司:寺廟、神壇の組織形態と都市コミュニティー:台北市東門地区を事例として,JAPEEAIJ,537, 219-225,200011月など

[23] トウイ(京都大学),布野修司:北京内城朝陽門地区の街区構成とその変化に関する研究,JAPEEAIJ,526,p175-183,199912/トウイ(神戸大学),布野修司,重村力:乾隆京城全図にみる北京内城の街区構成と宅地分割に関する考察,JAPEEAIJ,536,p163-170, 200010月など

 JAPEEAIJ)=日本建築学会計画系論文集