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2023年11月11日土曜日

新たな空間形式の創造・・・土地と建物の根源的関係を見直すタウンアーキテクトとしての建築家の役割,建築雑誌,日本建築学会,200012

  新たな空間形式の創造・・・土地と建物の根源的関係を見直す タウンアーキテクトとしての建築家の役割,特集 行く世紀,来る世紀,建築雑誌,2001年1月

新たな空間形式の創造・・・土地と建物の根源的関係を見直すタウンアーキテクトとしての建築家の役割

 布野修司(京都大学)


 松山巌に『世紀末の一年』(朝日選書、2000年)という仕事があって、その仕事をもとに100年前の日本を考えたことがある(『GA』2000年春号)。20世紀は人類史上最も激しい変化の世紀であった。にも関わらず、あまり変わらない、というより、全く「金太郎飴」だ、という思いがした。人間そう変わりはしない。100年後も、おそらく僕らは同じことを繰り返しているだろう、という思いがある。

 もちろん、この百年間における決定的な変化はある。百年前には飛行機も自動車もなかった。コンピューターについては、その変化を身をもって証言できる。パンチカードからカセット・テープ、CD-ROMまで、この間のめまぐるしい変化は想像を絶する。漢字をコード化して、ワープロソフトのプログラムを書いて喜んでいたのが馬鹿みたいだ。20世紀を主導し、支配してきたのは科学技術である。近代建築を主導してきたのも基本的には建築技術である。従って、来る世紀を占う上でも建築技術のあり方がひとつの鍵となるのであろう。情報技術(IT)が建築を変えるのだ!と扇動する建築家が既に跋扈している。しかし、百年後にも現在と同じような建築物が日本の町並みをつくっていることには変わりはあるまい。 


 建築家にとっての基本的テーマは空間の形式である。20世紀は、新たな都市や住居の形式を生み出してきた。その空間形式に未来はあるのか、が問われるべきだと思う。


 20世紀において決定的となったのは土地と建築の関係である。すなわち、建築と具体的な土地や地域社会との関係が切り離されてしまったことが大きい。ひとことで言えば、「社会的総空間の商品化」の進行である。建築生産の工業化といった方がわかりやすいかもしれない。工場生産された部品や材料でどこでも同じように建築がつくられる。結果として、世界中で同じような都市景観をわれわれは手にした(しつつある)のである。近代建築は基本的にそうした世界を目指してきたのではなかったか。だから、建築家にとって中心的課題は、依然として、近代建築の理念をどう評価批判するか、なのである。

 もちろん問題は産業社会の編成そのものである。問題は建築の領域を遙かに超えている。脱産業社会が呪文のように捉えられて既に久しいが、必ずしも行く先が見えたとは思えない。近代建築批判の課題は宙づりされたままである。

 ひとつの大きな手がかりは、「地球」という枠組みである。一個一個の建築の設計においても地球のデザインが問われているということである。『戦後建築の終焉』(1995年)で少し考えたけれど、具体的な指針は定かでない。警戒すべきは、なんでもエコロジーと言いくるめるエコ・ファシズムである。自律的(セルフ・コンテインド)な空間単位はどのような規模で成立するのか。おそらく「世界単位」論の言う地域的な圏域がグローバルに確立される必要があり、その圏域の基礎となる空間単位を具体的に提示する役割が建築家にはある、というのが直感である。


 日本の建築界については、戦後50年(1995)を契機に考えたことがある。休憩なしの3時間のシンポジウムを3回、司会を務めた。その記録『戦後建築の来た道行く道』(東京建築設計厚生年金基金、1995年)を読み返してほとんど付け加えることはない。この十時間に及ぶ真摯な議論を是非読んで欲しい。通奏低音となっているテーマは、建物の生命(寿命)である。端的に言って、建物をそんなに簡単に壊していいのか、ということである。資源問題、エネルギー問題など地球環境の存続が全体として問われるなかで建築と土地の関係は再度根源的に問い直されることになるであろう。

  具体的な指針としては、『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』(建築資料研究社、2000年)を書いた。日本の産業社会の再編成が進行する中で、日本の建築界の構造改革(リストラ)も必然である。20世紀後半のスクラップ・アンド・ビルドの時代からストックの時代への転換が起きるとすれば、建築家の役割も変わらざるを得ない。はっきりしているのは、建築を維持管理していく仕事が増加していくことである。また、建築家がタウンアーキテクトとして地域との関係を強めざるを得ないということである。世紀半ばまでには死に逝く世代としては百年の展望は必要ないだろう。

建築雑誌2000年12月

2001年1月 行く世紀、来る世紀