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2021年6月30日水曜日

床・・・高床と土間 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住

京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住,弘文堂,1997



 床・・・高床と土間 

 

 



 ジャワ・バリ・ロンボク

 東南アジアの住居の共通の特徴のひとつは高床式であることである。高床式住居は世界中に分布するのであるが、東南アジアの場合、集中的に分布することにおいて際立っている。東南アジアの大陸部と島嶼部のみならず、ミクロネシア、メラネシアにも見られる建築形式である。しかし、例外がある。ジャワである。そして、バリであり、ロンボク西部である。また、大陸部のヴェトナムの南シナ海沿岸部がそうだ。他の例外はあんまり知られていないかもしれない。西イリアンとティモ-ルの高地もそうだ。もう一つ、モルッカ諸島の小さな島、ブル島が高床式住居の伝統を欠いている。

 ジャワ(中部ジャワ、東ジャワ)の住居は、全て地床式である。バリにおいては、米倉を除いて、一般的には高く築かれた土壇の上に造られるが、地床式である。18世紀初期からバリのカランガセム王国によって統治された西ロンボクにおいてもバリ式住居が見られる。ロンボクの土着民であるササック族は、地床式の住居に住むが、興味深いことに、内部空間を約 一メートルの高さの土壇で高くする場合がある。その土壇は、牛の糞と藁を土に混ぜて作り、表面が滑らかになるまで磨かれる。この土壇は、主要な部屋の床になる。寝るとひんやりして気持ちがいい。米倉は高床式で、独特の屋根と共にバリの米倉に類似している。高床式、地床式といっても様々であるが、何故か、ジャワ・バリ・ロンボクは地床式である。土間を主要な生活面としている。

 ところが不思議なことがある。ボロブドゥールやプランバナンなど、中部ジャワ、東部ジャワの 9世紀から14世紀に建てられたチャンディー(ヒンドゥー寺院)の壁のレリーフには多くの種類の高床式住居が刻まれているけれど地床式の建物はないのである。この事実は、ジャワの歴史において、かつては高床式建物が一般的であったことを示しているのではないか。同じジャワ島でも、スンダ(西部ジャワ)の伝統的住居は高床である。今日では、ジャカルタ、バンドンといった大都市を中心とした地域では地床式住居が一般的となりつつあるのであるが、もともとは高床式である。それを示すのが、ジャワ島西部のバンテンのバドゥイ*1の集落であり、プリアンガン(バンドンを中心とする地域)のナガの集落である。

  何故、ジャワ、バリ、ロンボクが地床式なのか。一般的にはインドの影響と考えられる*2のであるが、果たしてどうか。南インドの住居が地床式であることから、その相互関係が指摘されるのであるが、その装飾などへの影響が明らかなことから、中国の影響を考えるものもいる。イスラムの平等主義がヒンドゥー・ジャワのカースト的社会を攻撃する上で、高床式住居を禁止したという説もある*3。興味深いテーマである。

 東南アジア大陸部の大部分の地域もまた高床式である。例えば、タイ北部の山間地方においては、地床式住居はごく稀だ。高地の寒気に対応するためか、もしくは、ヤオの例のように中国の影響を受けている場合のみである。

 
  ”干闌”式建築

 しかし、中国といっても広い。そこには多様な住居がある。浅川滋男によれば、漢代以前に長江流域・以南にひろく高床式住居が分布していたことが明らかになったのは、安志敏の「”干闌”式建築的考古研究(高床式建築の考古学的研究)」という論文(1963三年)が出てからである*4。興味深いことにその論文以降、中国でも、北方=竪穴、南方=高床という図式が定着してきている。ところが、実態はどうも違う。華南といっても、高床式だけではない。地床式住居も共存する。現在の西南少数民族の住居も高床式住居は多い。タイ系の諸族(壮洞(チワン・トン)語族)がそうである。また、近年の百越史研究では、チワン族、プイ族、トン族、スイ族、リー族などのタイ系稲作農耕民を百越の後裔とみる主張が有力で、干闌式(高床式)建築は百越文化の重要な構成要素とみなされている。

 ところで、高床式住居といっても色々ある。地面から一メートルにもならない日本の高床など揚げ床と言われたりする。かと思うとはるか見上げるロングハウスの床もある。東南アジアといっても、大陸部と島嶼部では環境条件は違うし、自然条件や生態学的条件をみると地域毎に実に多様である。高床式住居というのは、そうした多様な各地域でそれぞれ独自に造られるようになったのであろうか。それとも、どこかに起源があり、それが次第に伝播していったものであろうか。高床式住居はどのようにして生み出されたのか、その起源は何か、あるいは、何処か、興味深いテーマである。

 

 オーストロネシア世界

 湿気を防いだり、猛獣からの防御のために、湿潤熱帯において高床式の建物が多くの利点をもつことははっきりしている。しかし、それだけではその起源を説明するには十分ではない。北方にも高床式建物の伝統はあるのである。

 高床式住居はどこから来たのかという問題に手がかりとされるのが言語である。東南アジア諸島の大部分で用いられる諸言語は、言語学者の間でオ-ストロネシア語と呼ばれる、世界で最も大きな言語族を構成している。最西端のマダガスカルから最東端のイ-スタ-島まで、地球半周以上にわたって分布し、東南アジア諸島全体、ミクロネシア、ポリネシア、そしてマレ-半島の一部、南ベトナム、台湾、加えてニュ-ギニアの海岸部までにもわたる。この広大な地域の諸言語は、全て、プロト・オ-ストロネシア語と言語学では呼ばれる、少なくとも6,000年前までは存在していたらしい言語を起源として発達してきたとされる。言語学的な足跡は自然人類学や考古学の分析結果ともかなりよく一致し、新石器時代の東南アジア諸島における初期移住の状況を物語っている。

 プロト・オ-ストロネシア語の語彙の分布を復原することによって、人々の生活様式が色々とわかる。住居は高床式であり、床レベルには梯子を用いて登ること、棟木があったことから屋根は切妻型であり、逆ア-チ状の木や竹の雨仕舞いによって覆われていたこと、そして、おそらく、サゴヤシの葉で屋根が葺かれていたこと、炉は壺やたき木をその上に乗せる棚と共に床の上に作られていたことなど、語彙から窺えるのである。

 新石器時代に高床式住居が発達したことはタイの考古学的資料によっても裏づけられている。西部タイで、3千数百年前から 2千数百年前頃の重要な土器群が発見され、バンカオ文化と呼ばれる。言語学者ポ-ル・ベネディクトは、東南アジア大陸部のオ-ストロネシア語族の最初期の祖先達はオ-ストロネシア語とタイ語の両方の祖語になる言語を用いていたという説を提起し、このプロト・言語をオ-ストロ・タイ語と名付けた。彼が復原したプロト・オ-ストロ・タイ語は、「基壇/階」、「柱」、「梯子/住居へ導く階段」といった単語を含んでいるという*5。すなわち、高床式住居がオーストロネシア語族、特に、そのサブ・グループとしてのマラヨ・ポリネシア語族と密接に関わりをもっているのある。

 オーストロネシア語族の源郷はどこか、ということについては中国華南あるいはインドシナに求めるのが定説である。しかし、考古学的な根拠があるわけではないし、決着がついたわけではない。1980年代には、台湾にその源郷を求める見方も提出されている。

 

 

註1  バドゥイについてはリー・クーンチョイが「文明を拒否するバドゥイ族ーージャワ先住民説」(『インドネシアの民族』 伊藤雄次訳 サイマル出版会 一九七六年)として触れている。それによれば、バドゥイは、インドネシアにイスラム教が進出して以来、外界との接触を絶って生きている少数民族である。パジャジャラン王国の子孫であるといわれる。バドゥイ族の葬儀は非常に簡単で、死体は棺も墓石もなく葬られ、すぐさま忘れ去られる。バドゥイ領内には個人所有の土地はなく、労働に応じて分配を行う社会主義的なシステムをとる、というが分かっていないことが多い。バドゥイについては以下の論文がある。

  P. M. Sargeant,'Traditional Sundanese Badui-Area, Banten, West Java'. Masalah Bangunan, 1973

註2  R.Waterson(1990), THE LIVING HOUSE-An Anthropology of Architecture in South-East Asia,Oxford University Press,1990 

註3  D. Sumintardja,'Central Java Traditional Housing in Indonesia', Masalah Bangunan, 1974

註4  浅川滋男、「第7章 漢代までの高床式住居」(『住まいの民族学的考察-華南とその周辺』、京都大学学位請求論文、1992年)。「南中国の先史住居ー発掘遺構にみる住まいの多様性」(奈良国立文化財研究所 公開講演会資料 1992117日)

註5 Benedict,P.(1975),Austro-Thai Language and Culture:With a Glossary of Roots,New Haven:Human Relations Area Files Press.

 Benedict,P.(1986),Japanese/Austro-Thai,Michigan:Karoma


 


2021年6月29日火曜日

集落の要素・・・建築類型 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住

 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住,弘文堂,1997

  集落の要素・・・建築類型

 

 



住  住居と関連する建築形式として、穀倉、墓、東屋、露台、寺院、家畜小屋、作業小屋、見張小屋、儀式のための構造物、あるいは集会所など公共の建物、そして船などが挙げられる。

   住居とこうした建築諸形式の間には様々な機能が配分されるのであるが、その配分の仕方が民族によって地域によって異なる。住居と様々な建築物で構成される集落の形態は、生活様式や生業形態などによって規定されるが、儀礼的、公共的機能が多様な方法で諸建築物の間にいかに分配されるかにもよっている。

 

   起源の家・・・儀礼の場としての住居

   東南アジアの住居のなかには、実際には住まわれない、ある親族集団の「起源の住居」として維持されるものがある。具体的には儀礼の場として使われ、儀礼時に使用する様々な物やクランの聖なる宝物などが収蔵される。住居より寺廟に近い役割をする建築物である。

 インドネシアのいくつかの地域で、集落全体が人の住まない「起源の住居」ばかりの村に出くわすこともある。子孫たちが集まって儀礼を催すためだけの集落である。サダン・トラジャ族の場合も、空家のままのトンコナン(住居)は珍しくない。その子孫は、近くの近代的な住居に住み、あるいはジャカルタなどの大都市に住み、儀礼の時に伝統的な住居を使うのである。だから、空家のまま改修新築されることも少なくない。

 ケダンでは、ほとんどすべての村落が、「古い村」、すなわち起源の場所とみなされる部落をもっている。クランは、儀礼の場として用いられる「起源の家」をもち、そこには、石の祭壇、村の寺院、そして、フナーレラン、すなわち「古代の家」と呼ばれる、女性の先祖の住居を表現した住居のミニチュアがある。ミニチュアの家を持つ地域は、フローレス島のンガダ地域など他にもある。

 

   祭式の家・・・寺院、祭壇、仮設建築

   東南アジアの土着信仰のほとんどは別個に建てられた寺院ないし礼拝の場を用いない。住居あるいはその周辺が儀礼のために使用される。しかし、恒久的な儀礼のための構造物を持つ場合もある。

   マドゥラ島には、ランガールと呼ばれるムスリムの礼拝のための高床の建造物がある。屋敷地の西端に置かれ、東向きに開口が採られる。礼拝時以外は、様々な用途に使われる。住居は地床だけれども、ランガールは高床である。

   フローレスには、祖先崇拝と関連のある、様々なタイプの小さな「祭式の家」がある。ナゲ族は、男のクランの先祖に捧げた水牛の角を納めた男の祭式の家ボヘダと、家財と木製の先祖の人形とを納めた女の祭式の家サオ・ワジャとをもつ。エンデの祭式の家はサオ・ケダと呼ばれ、死者の骨を二度目に埋葬する際に用いられる。モルッカ諸島南部のタニンバル諸島の村々では、その中心に、舟の形をした石造構造物が立ち、時として装飾された木製の「へさき(船首)」と「とも(船尾)」がつけられ、村の儀礼的な中心となっている。

   また、各地域で儀礼時には仮設建造物がつくられる。トラジャの埋葬の儀式さえも凌ぐ、バリの葬儀においては仮設建造物が重要である。三界世界を象徴するという巨大な塔がつくられ、動物をかたどった棺に入れられた死体とともに火葬場に運ばれ焼かれるのである。

 

  バレ、バライ

   ロングハウスの場合、屋外のテラス、屋内の通路のように、半公共的空間があり、ひとつの構造物のなかに公私双方の空間に必要なすべての機能が満たされている。しかし、ビダユー族(陸ダヤク)のようにロングハウスに隣接してパンガという、集会のための特殊な構造物をつくる例もある。一般的には、集落はその内部に共同体のための施設をもっている。  

   インドネシアの多くの社会で、集落にはバライやバレと呼ばれる集会所がある。バレ、バライが分布するのは、ニアス、ミナンカバウ、マレー、バリなど極めて広範囲である。

   オーストロネシア語のバレ、バライは、もともと「壁で囲われていない住居」を意味するという。コバルヴィアスによれば、バリ語のバレは、「休憩所、住居、カウチ、あるいはベッド」で、住居の中庭にある壁のない休憩所がバレと呼ばれる*[1]。村落の広場にある集会場はバレ・バンジャールと呼ばれ、これも壁のない建物である。

   また、ミナンカバウ族の村落にあるバライルンと呼ばれる年長者用の集会所や、ニアス島にある男性集会所も同様に壁のない建物である。ルソン島のイフガオ族やロンボク島のササック族の両方でバレは住居そのものを指す。ササックでは別にブルガと呼ばれる壁のない高床の東屋(露台)があるが、スラウェシの言語のなかに見られるバルガと同じ語源とみなせる。そして、バルガもまた壁のない集会所を意味する。

 

   若衆宿

   若衆宿のような男性のための集会施設が建てられる地域も多い。既婚者と未婚者、あるいは男性と女性という区別によって施設が異なるのである。

   東北インドのナガや北ルソンのボントックは男性のための住居をもっている。ナガの村は父系のクランあるいはリネージに基づく地区に分けられており、それぞれの地区は男性の住居モルンを中心にしている。モルンは防御用の砦、議会、集会所、共同宿舎などの機能をもつ中心的施設である。北ルソンのボントックのパブフナンは昼間はある種の男性集会所、夜は未婚男性と客の寝室として機能する。ファウィは年配の男性が集まる建物である。

   ニアスの社会もミナンカバウの社会も男性のための集会所をもつ。知られるように女性が住居と土地の所有者になるミナンカバウの母系社会では、女性の権力は男性より強いのであるが、男性集会所があるからといって女性がないがしろにされるということでは必ずしもない。

   バタック・カロの穀倉は、集会施設と若い未婚の男性の宿舎、そしてお客が夜眠る場所を兼ねている。若衆宿も様々な機能と複合することによって様々な形をとるのである。

   サクディでは青年期の若者たちが、自分たち自身で特別の住居をつくる。そこで年長者から自立を果たすのである。女性のための家というと珍しいが、バタックのなかには、少女が年長の女性の監視のもとに共同の住居に寝る例があるという。また、モルッカ諸島南部のタニンバルに未婚の人びとのために建てられるクサリという建築物の例がある。クサリは小さな構造物であり、高い杭の上に建てられる。そして、このなかには身分の高い少女が結婚前のある期間隔離されたという。

 

2021年6月28日月曜日

集落の形式 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住

 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住,弘文堂,1997

 集落の形式

 

  



   集落を構成する諸要素がどのように配列されるかについては様々なパターンがある。一般には、地域毎に、民族毎に、ある共通の配列規則が認められるが、集落が立地する地形や気候など自然環境の条件によって多くのヴァリエーションがある。東南アジアに見られる集落の形式を分類するのは必ずしも容易ではないのであるが、いくつかわかりやすい構成原理を見ることができる。住居や集落の構成にヒンドゥーのコスモロジーが密接に関わっているバリ島のように、コスモロジーと集落の構成原理との対応関係が見て取れる地域が少なくないのである。

 

  リニア・パターン(平行配置)

   集落形式について東南アジア全体を見るとき、各地に見られ、その原初的形態と思われるパターンがある。住居と倉が、あるいは倉、家畜小屋、作業小屋など他の施設が平行に向き合って直線的に並べられるパターンである。リニア(線状)パターンとか、クラスター(房状)・タイプと呼ばれる。直線状の広場を中心に諸要素が配列されるパターンである。

 極めて明解なのが、バタック・トバ族の集落形式である。土塁で囲われた矩形の敷地に、一方に住居が一方に倉が、妻を向き合わせて平行に並べられている。中央の広場は様々な用途に使われる。住居はワンルーム(一室空間)であるが、中二階のブリッジをもち、広場側には簡単なベランダが設けられ太鼓などの楽器が置かれる。広場での儀礼時に使われる。米倉の下部は高床になっており、これもまた多様に使われる。住居の構造と広場など公共的空間の配置には密接に関連があるのである。

 バタック・トバ族の集落形式とよく似ているのがサダン・トラジャ族の集落形式である。住居と倉が妻を向き合わせて並ぶパターンは全く同じと言っていい。ただ、中央の広場空間が地形に合わせて緩やかにカーブする場合がある。もちろん、その場合もトポロジカルな関係は同じである。

 さらに、極めて素朴にこのリニア・パターンを残しているのが、マドゥラ島の住居集落である*[1]。北側に住居棟が南側に作業小屋、家畜小屋等が平行に並べられる。この場合は、平側を対面させる形で、ニアス島の集落の場合と同じである。西側にランガールと呼ばれるイスラームの礼拝棟が置かれるが、イスラーム化以前の原型を残すのがマドゥラ島のパターンである。

 

 ロンボク島の集落

 住居棟と他の施設群が平行に配される集落形式は、ロンボク島のササック族の間にも見られる*[2]。ただ、ロンボク島全体を見ると三つの地域類型がある。1)住居とブルガ(露台)が平行に配列されるパターン 2)住居と穀倉が平行に配列されるパターン 3)住居が丘陵の等高線に従って配置されるパターン。北部山間部のワクトゥー・テル(ササック族のうちイスラーム化ののちも土着の信仰を保持する種族。敬虔なムスリムであるワクトゥ・リマに対比される)が居住するバヤン、スゲンタール、スナル、ロロアンは1)のパターンをとる。住居がブルガを両側から挟み込むかたちで、それぞれ平行に並べられる。一つのブルガは、一世帯ないしは二世帯によって所有される。穀倉の配置には、それぞれ特徴が見られる。バヤンの場合、穀倉はまとめて集落の周縁部に配置されるのが一般的である。スナル、ロロアンの場合は、住居・ブルガと同様平行に配置される。スナルの場合、集落の内部にも穀倉が配置されるのに対し、ロロアンは集落の端部にのみ配置される。スゲンタールには独立した穀倉は見られない。住居内に貯蔵するのが一般的である。

 2)のパターンが見られるのは、サジャン、スンバルン、サピット、レネックなど北東部から東部にかけての諸集落である。ほとんどの穀倉は、その床下部分が居住部分にあてられている。穀倉の周囲を壁で囲い、内部に炉をきり、床下に露台を設置しそこで寝起きする。

 それに対し、3)のパターンの南部に位置するサデ、ルンビタン、スンコールでは丘陵地に集落が築かれている。乾燥地帯であるロンボク島南部において耕作の可能な平地は貴重であり、耕作の不可能な丘陵に居住するのが望ましいと考えられているのである。形態は非常に特徴的で、丘陵の等高線に沿って住居が配置されるのが極めて特徴的である。

 この1)2)3)の分類は単なる形態的な分類にとどまらず、それぞれ地域的な分類になっていることがわかる。そしてそれぞれの地域は、それぞれ特徴をもった建築形式をもつ。すなわち、ロンボク島北部では、イナン・バレ(6本柱)を持つ住居の存在やカンプ(祭祀集団の居住する区画)の存在が、その特徴となる。それに対し、ロンボク島南部では、独特の形をした穀倉アランの存在が、その特徴となる。

 

 バリ島の住居とコスモロジー

 バリ島の集落形式とバリ・ヒンドゥーのコスモロジーの関係については、諸文献が明らかにするところである*[3]。天上界、地上界、地下界という宇宙の三層構造は、バリ島全体→集落→屋敷地→住棟→柱へ、大きな空間構成からディテールに至るまで貫かれている。バリ島は山ー平野ー海という三つの部分からなる。住棟は、屋根ー柱・壁ー基壇に分かれる。柱も柱頭ー柱身ー柱脚の三つに分けて認識され装飾が施されている。それぞれミクロコスモスとしての身体の頭部ー胴体ー足部の三つの分割に擬せられるのである。

 集落のレヴェルでも、頭ー胴ー足という三分割が意識される。その象徴がカヤンガン・ティガである。集落は、プラ・プセ(起源の寺)、プラ・バレ・アグン(集会の寺)、プラ・ダレム(死の寺)という三点セットの寺(プラ)を必ずもち、北から南へ(バリ島の南部の場合)順に配置されて三つの部分に分けられるのが基本である。

 また、ナワ・サンガと呼ばれる方位観(オリエンテーション)が住居、集落の構成を大きく規定している。山の方(カジャ)が聖、海の方(クロッド)が邪、日の昇る方向(東 カンギン)が聖、日の沈む方向(西 カウ)が邪、という方位に対する価値付けがなされ、住居や他の施設の位置が決められるのである。バリの南部では、北東の角が最もヒエラルキーの高い場所で、屋敷地には屋敷神が置かれる場所(サンガ)である。

 しかし、以上のような集落形式は、ヒンドゥー化以降のもので、バリには他の形式も見られる。その形式が、また、住居と倉などその他の施設が平行に配置されるパターンである。バリ・アガ(バリ原住民)の集落といって、バリ・マジャパイトの集落とは区別されるのである。具体的には、風葬で知られるバトゥール湖のトゥルーニャンや東部のトゥガナンがそうである。極めて単純なリニア・パターンが東南アジアで見られる原初的な集落形式であると考えられるのは、バリ・アガの集落やササック族の集落の存在からである。

 

 環状パターン

 リニア・パターンに対して、広場を環状に取り囲む形式もある。アフリカや南アメリカののコンパウンド型の集落には綺麗な円形のパターンが見られる。東南アジアの場合、自然の地形に従って配置されるパターンが多く、環状パターン少ないが無くはない。スンバの集落がそうである。スンバではリニアな集合形式も見られるが、多くが求心的パターンである。また、スンバにはジャワのジョグロに似た住居形式が見られるのは興味深い。スンバが高床であるのに対してジャワのジョグロは地床式なのである*[4]

 集落形式について注目すべきは、中央の広場を囲んで環状に住居などが配置される形式が三つ連なって一つの集落となるパターンである。この形式はヌサ・トゥンガラの他の島々にも見られた。フローレスの集落は、前方部、中央部、後方部の三つに分かれていた。例えば、マンガライでは三つの部分に対する特別な呼び方が残っていて、それぞれアバン、ベオ、ンガウンと呼び、三つの部分それぞれに「聖なる場所」があったという*[5]

 

 オリエンテーション

 明確な集合形式を持たない場合も、個々の住居や施設の配置についてその向き(オリエンテーション)が意識されることが多い。建物の棟の方向、妻・平の方向が何らかの基準に合わせられるのである。その場合、東西南北の絶対方位が特に日の出・日の入りの方向として意識されることも少なくないが、多くの場合参照されるのは、山や川(上流下流)である。アチェやバタック・カロの場合のように、多くの建物の棟は平行に並べられる。伝統的な集落が調和ある景観をつくってきたのはこのオリエンテーションの感覚に依るところが大きい。

 

 



*[1] 山本直彦、『マドゥラ島の住居集落の構成原理に関する研究』、京都大学修士論文、1995年

*[2] 布野修司他、「ロンボク島の住居・集落・都市とコスモロジー」、『研究年報』、住宅総合研究財団、1993年、1995年

*[3] 布野修司他、『地域の生態系に基づく住居システムに関する研究(Ⅱ)』、住宅総合研究財団、1991年

*[4] 高床と土間参照

*[5] クンチャラニングラット 「フローレスの文化」


2021年6月27日日曜日

都市居住の変容  京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住

 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住,弘文堂,1997

都市居住の変容

 

 





都市村落

  東南アジアには都市的集住の伝統は稀薄である。東南アジア世界が人口の希少性を特徴としてきたことは強調される所である。

  ただ、香辛料を求めて東インド諸島にやってきたヨーロッパ人たちが最初に滞在した地域の大規模な貿易中心地、都市的中心は、16世紀のマラッカ、アユタヤ、デマックにしても、17世紀のアチェ、マッカサール、スラバヤ、バンテンなどにしても、当時のヨーロッパの水準からいうと極端に大きく、およそ五万人から十万人の人口をもっていた。ナポリとパリを除くヨーロッパのほとんどの都市よりも大きかったのである。しかし、その相貌はヨーロッパの都市とは全く異なっていた。

 都市といっても、庭に茂るココナッツやバナナなどの果樹のなかに半分隠れて、木造の高床式の風通しのいい住居が並び農村的生活パターンが都市においても続けられていたのである。小さな屋敷地の集積からなっている都市は、広大な領域に広がっていて、地中海や中国の典型的な都市にみられる、城壁のような明確な境界線はないのである。

 初期の旅行者は、アチェの田園的な風景をこんなふうに書いている。「森のなかにあって、とても広々としており、家の上にのらないと家々が見えない。我々はどこにも入ることはできなかったが、確かに家々があるのとたくさんの人が集まっているのはわかった。街はずっと全土に広がっているのだと私は思う。」。あるイエズス会の宣教師は、「籐や葦や樹皮でできた信じられないほど多くの家」が、「ココナッツや竹やパイナップルやバナナの木々のなかに沈んでいる」と書いている。港に着いても、都市の全体は見えない。岸に沿って生えた大きな木々がすべての家を隠してしまっていたのである。

  都市においても、農村的生活が展開される。これは、今日の都市についてもよく言われる。東南アジア諸国のみならず、発展途上地域の都市についても一般的に、都市村落(アーバン・ヴィレッジ)という概念が用いられてきているのである。

 

 カンポン

  インドネシア(マレー)語でカンポン kampung というとムラのことである。行政村ではなく自然村のニュアンスがある。というより、一般的に村、農村を意味する言葉として使われる。カンポンガンというと田舎者のことである。ところが、都市の居住地もカンポンと呼ばれる。インドネシアの都市の居住地の特性をよく示す言葉である。すなわち、コミュニティ意識は一般的に強固で、共同体的組織原理を維持しているのがカンポンである。日本軍が持ち込んだとされる隣組ー町内会(RT-RW)システムは、相互扶助の組織として様々な意味で大きな役割を担っているのである。

 このカンポンがどのように形成されてきたかについては、植民地化の歴史、植民都市の形成過程に遡る必要がある。バタヴィアにしても、スラバヤにしても、マレー・カンポン、チャイニーズ・カンポン、アラブ・カンポン、ジャワーニーズ・カンポンといって諸民族毎の棲み分けが当初からなされる。まさに植民によって、バリ人、ブキス人等のカンポンが形成された。その歴史は、それぞれの都市の通り名やカンポン名に残されている。諸民族が棲み分け、モザイク状に都市の居住地を形成するという特性は植民都市に共通である。現代都市においては、さすがに棲み分けの構造は崩れ、モビリティ(流動性)は高くなりつつあるが、それでも、スラバヤにおけるマドゥリーズのように一定地域のカンポンに居住する例も見られる。カンポンの社会は複合社会であり、諸民族が共住するのがカンポンである。

 

 アーバン・インヴォリューション

 カンポンの生活を支えるのはインフォーマルな経済活動である。その象徴がロンボン(屋台)とピクラン(天秤棒)である。カンポンに一日座っていると、ありとあらゆる物売りがやってくる。焼き鳥、焼きそば、かき氷、果物といった食料品から日用雑貨、植木や玩具、建材まで売りに来る。市場やスーパーにでかける必要がない。考えようによっては、実に便利な、居ながらにして全てを手に入れることができる高度なサービス社会である。

 こうしたサービスの体系を支えるのが過剰な人口である。様々なサービスを可能な限り細分化し、限られたパイを分配し合う(貧困の共有)原理がそこにある。C.ギアツの農業のインヴォリューションという概念を借りて、アーバン・インヴォリューションという概念が用いられる。

 カンポンは、従って、単なる居住地ではない。カンポンの内部には様々な家内工業が立地し様々な物が生産されている。生産と消費はそこでは一体化しているのである。

 インドネシアの居住問題を解決するのは、カンポンの存在そのものである、という言い方がなされる。カンポンは、都心に寄生する形でしか成立しないのであるが、極めて自律的なのである。また、カンポン自体が多様であり、ひとつのカンポンも多様な層によって構成される。どんな収入階層でも居住する場所を見いだすことができるのである。

 

 KIP(カンポン・インプルーブメント・プログラム)

 以上のような興味深い特性をもつカンポンもその居住環境は極めて劣悪である。カンポンと言えばスラムの代名詞であった。

 20世紀に入って、特に第二次世界大戦後、急激に膨れ上がった東南アジアの大都市は、その人口増加を支えるインフラストラクチャー(基幹設備)をもたず、深刻な環境問題に直面するに至ったのであった。

 そうした中で各国は様々な対策を展開してきたのであるが、必ずしも有効な手だてを見いだし得なかった。先進諸国におけるハウジング(住宅供給)の理念や手法は必ずしも有効ではないのである。そこで、各国は、オン・サイト(現場)の居住環境を改善することにウエイトを移すことになる。最低限、上下水道を設置し、歩車道を整備することを始めたのである。70年代から80年代にかけて、各国の大都市の整備がほぼ終わる。その代表例がインドネシアのカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)である。しっかりしたコミュニティ組織をベースに大きな成果を上げるのである。

 しかし、それにも関わらず、飲料水、下水・排水、ごみ処理、交通などの都市問題、居住問題は今日猶大きな問題である。さらに21世紀には百億に達すると予測される世界人口は、深刻なエネルギー問題、食糧問題、資源問題を引き起こすとされる。

 

 都市型住居

 80年代から90年代にかけて、東南アジアの大都市は急速に変化しつつある。ひとつには都心地区がほぼ建て詰まり、その再開発が大きな課題になって来た。また、加速する流入人口に都心からのJターンも含めて、都市周縁部(フリンジ・エリア)が急激に変化しつつある大きな問題がある。

 さらに、住民のモビリティが高まり、都市居住地の性格が変容しつつあるという点がある。カンポンの場合、KIPのインパクトは大きい。車道の整備によってコミュニティが分断され、車道沿いに所得階層の高い層が移入して来るという現象が各地で起こってきた。インドネシアでは、グドゥンガンとカンポンガンと言って、その階層差が意識され始めるのである。コミュニティの共同体的性格は一般的に弱まりつつあると言えるであろう。

 都心部の再開発という課題とともに、都市型住居をどうデザインするかが各国とも大きなテーマとなりつつある。中高層の集合住宅による高密度化が不可避である。例えば、インドネシアでは、コモン・キッチン、コモン・リビングといった形の共有部分を多くとった積層住宅(ルーマー・ススン)のモデルがつくられつつある。カンポンの生活を立体化するのがねらいでカ・スンと呼ばれたりする。

 首都の変容はさらに激しい。目覚ましい経済発展とともに新たな都市文化が生み出されつつあるのである。先進諸国の大都市の風俗、ファッションも瞬時に取り入れられるようになる。新たな都市居住文化の創出には情報テクノロジーの発展が大きいインパクトを与えている。 


2021年6月26日土曜日

間取り・・・住居の平面形式 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住,弘文堂,1997年

 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住,弘文堂,1997



 間取り

  ・・・住居の平面形式

 




 家社会

 住居の形式は様々な要因によって規定される。ひとつの大きな規定要因は親族組織のあり方である。家族の形と住居空間の形は相互に関連を持っている。親族集団の形は住居の空間の形式を決定づけるが、逆に、住居は親族集団に形とアイデンティティーを与える。

 東南アジアの場合、一般的に「双系」的な親族原理を持つと言われるが、「父系」や「母系」の親族原理を持つ民族もあり多様である。というより、伝統的な人類学上の概念としての家系の観念の枠組みにはほとんど当てはまらないという指摘さえある。「父系」や「母系」、「双系」といった分類は不安定で崩れる傾向にあるのである。

 そうした中で、R.ウオータソン*[1]は、住居と親族集団との同一視が究極的に東南アジアの住居を理解する真の鍵であるという。逆にいえば、親族体系の分析の問題は、親族体系を住居に基づく体系としてみることによってある程度明らかにされる。北アメリカの北西海岸の親族体系の分析によってクロード・レヴィ=ストロースが提示した「家社会」という概念で表現することがもっともふさわしい組織形態が東南アジア、特にインドネシアには存在する。住居を親族体系の主たる組織原理であると捉えた場合のみ、親族体系のあらゆる多様性を網羅する形でもっともうまく理解できるというのである。

 

 サパルイクーミナンカバウの住居

 住居の平面形式(間取り)を決定するもうひとつの大きな要素はビルディング・システムである。住居を物理的に組み立てる技術的な制約条件、あるいは物理的な構成システムが平面(空間)のシステムを決定するという側面がある。そして、その空間システムは極めて単純であることが少なくない。空間の単位をどう組み合わせていくか、がそこでの視点となる。

 ミナンカバウは、世界最大の母系制社会を構成することで知られる。母系のミナンカバウ社会におけるもっとも重要な単位は、サパルイク、つまり「子宮を同じくする人びと」であり、ひとつのルーマー・アダット(慣習家屋)もしくはルーマー・ガダン(大きな家)に住む人びとの集団である。その水牛の角を模したような屋根は特徴的であるが平面構成の原理は以下のようである。基本形は9本柱の家、あるいは12本柱の家と呼ばれる。梁間方向のスパン(間)がラブ・ガダンと呼ばれ、桁行き方向のスパンがルアンと呼ばれる。規模が大きくなると、梁間も桁行き方向のスパンも多くなる。母系に属する3世代が住むのであるが、基本的には、後方部の一間が既婚女性の家族によって占められ、全面はオープンな共用部分として使われる。家族数が増えれば桁行き方向にスパンを伸ばしていけばいい。極めてわかりやすいシステムである。

 

 ロングハウス

 ロングハウスは、それ自体ひとつの集落とみていい。あるいは東南アジアの伝統的住居としては珍しい集合住宅である。ただ、この住居形式は東南アジア各地にみられ、ボルネオだけでなく、ムンタワイやベトナムの高地にも広がっている。それは、イバン族やサクディ族のような平等主義の社会と、ケンヤー族やカヤン族のようなより位階的な社会の両方に見られる。

 ロングハウスというと大家族が居住すると考えられるが、複数家族が居住形態を共有している家族の実際の構成はかなり多様である。ボルネオの古典的なロングハウスは、長い廊下や開放されたベランダでつながっている多くの独立した部屋で構成されている。それぞれの部屋には、1世帯、すなわち1つの核家族が住む。平面形式はしたがってひとつの単位を横につなげる形をとる。

 ベランダを見ると各住戸単位で切れている。個々の住居がそれぞれ造るのである。屋外のベランダ→共有の廊下→居室→厨房という空間がワンセットになって長屋形式となるのである。

 

 ワンルーム住居

  バタック諸族の場合、住居の居住スペースは基本的にワンルーム(一室空間)である。しかも、複数家族が居住する。空間は壁によって仕切られることはないのであるが、基本的には炉の配置によって区分される。ひとつの炉を1~2の家族で共有するのである。バタック・カロの場合、ひとつの住居に4~6の炉が設けられ、数家族から十数家族が居住することになる。4つの炉で8つの家族で住むのが慣習法上のルールという報告もある。青年男子は食事は家族とともにし、夜は米倉に寝泊まりする。未婚の女性は夜はまとまって別棟(若衆宿)で就寝する。

 居住スペースにはヒエラルキーがあり、家長の場所など秩序に従って決められる。バタック・トバの場合、平面は、中央の階段(バラトゥク)に続く中央通路部分と左右のスペースにまずわけられる。そして左右のスペースは家族の数によって4~6に分けられる。中央部分はテラガと呼ばれ、各家族の共有スペースとなる。入口から入って右奥がジャブ・ボナと呼ばれる家長のスペースとなる。家の中で一番ヒエラルキーが高い。また、入口の左手はジャブ・スハットと呼ばれ、長男の家族の場所とされる。入口右手は客用の場所であり、奥左は既婚の娘のスペースといった具合である。

 

 分棟式住居・・・ユニット住居

 住居を一つの平面形式としてシステム化するパターンに対して、小さな建物を空間単位をとして配置するパターンがある。一般に分棟式と言われる形式である。基本的には母屋と釜屋を分けて屋敷地を構成する。日本でも沖縄・南西諸島から西南日本の太平洋沿岸に点々と分布している。また、いくつかの建物で屋敷地を構成するのはかなり一般的である。タイの村落の場合、バーンと呼ばれる住居は分散しており、同族の家族の住居は、それぞれ柵に囲まれて独立した居住地を形成している。バーンは住居の敷地そのものや村落を指す言葉でもある。日本では「屋敷地共住結合」という専門用語が用いられたりする。一般的な妻方居住の婚姻パターンでは、居住地内の住居は普通、結婚した娘たちの住居である。

 そうした中でその配置の原理が極めて概念的に理解されるのがバリの住居である。ウマ・メテンと呼ばれる主屋をはじめ、屋敷神の場所サンガ、厨房、倉などの各棟の位置、隣棟間隔は、人体寸法に従って決められるのである。

 大きなスパンの建物がつくれない場合、小さなユニットを組み合わせて住居をつくることが多いが、タイの平野部がそうである。一般には、二棟並べてひとつの住居とする。三つ並べたり、ロの字型に並べて真中に中庭を採るパターンもある。

 

 男の空間・女の空間・・・象徴的二分法

 基本的な空間分割が性と関係していると一般的にいわれる。住居のシンボリズムに関する人類学的分析として最もよく知られているのがカニンガムのインドネシア、チモール島のアトニ族に関する研究である*[2]。カニンガムは空間的な対比(高/低、内/外、右/左)と社会的なカテゴリー(男性/女性、年長/若年、親族関係/姻戚関係、子供/結婚可能な若者、身分の高い人/低い人、儀礼的な優/劣)に明解な関係があるという。例えば、地位の高い人が右側の高床に着座し、地位の低い人は左に着座する。男は外部で食事をし、女性は内部で食事をする、といった具合である。カニンガムは、横方向の原則(右/左)と集中方向の原則(中心/周縁)の双方の秩序について図式化するのであるが、女性は住居の内部及び左側と結びついており、男性は外部及び右側と結びついている、という。

 こうしたアトニ族に見られる男/女のディコトミー(二分法)、双分観あるいは象徴的二元論と呼ばれるものは、東南アジアの他の社会においても指摘される。島嶼部、特に東インドネシアの社会がそうだ。同じチモール島エマ族*[3]場合の、住居の内部は、「男」の側と「女」の側という二つの質の異なった部分に分けられるている。また、「男」柱、「女」柱と呼ばれる 2本の柱が、棟持柱が据えられる水平梁を支えている。「男」の側は、儀礼のために使用され、先祖の宝物や家宝がここに収められる。儀礼の物品のほとんどは、東側の壁すなわち「男の」柱の側にかけられる。

 スンバ島東部のリンディ族の場合も特徴的である。フォース*[4]によれば、日常生活においては、住居は特に女性の場所である。女性は家を賄う責任を担い、適切な理由がなければ住居を離れられないとされている。ここでも、内部/女、外部/男という区分が行われるのである。ただ、儀礼の場合、男性が主役である。儀礼の場合、「内部」は「男性」と結び付けられ、女性は周縁的な存在となる。住居は、内部の露台を中心に構成され、その露台は象徴的に「男性の」部分である右手と、「女性の」部分である左手とに分けられる。中央部の四本の柱もまた「男性」、「女性」に分けられている。

 囲炉裏の右側の二本の中央部の柱は「男性の柱」、左側の柱は「女性の柱」と呼ばれる。囲炉裏の左側の炉石は「女性の炉石」と呼ばれ、日常の食事の準備において唯一使用される炉である。一方「男性の炉石」と呼ばれる右側の炉石は、鶏の羽を占いのために内臓を使用する前に焼いたり、生け贄の動物を調理するために、儀礼時に使用されるのみである。

 空間の象徴的区分については、既に様々な議論がある。空間の解釈としては、余りにも図式的であるという批判もそうした議論のひとつである。確かに、以上のような断片的な要約だけ取りあげれば、また、図式のみとりあげるとすれば、そう意味がない。何も象徴的な秩序やコスモロジーを持ち出さなくても、料理や家事をする女性が炉や内部に結びつけられ、外で仕事をする男性が外部に結びつけられるのはある意味では当然のことである。性的分業が空間の利用と意味を限定づけていると考えてもいい。

 問題は性のシンボリズムではなく、分業の諸形態であり、空間利用の諸形態である。重要なのは、住居の内部と外部が日常時と儀礼時でそれぞれ男/女の結びつきを変えるといった例があるように、空間利用の形態は必ずしも固定的ではないということである。





 



*[1]

*[2] C.Cunningham,'Order in the Atoni House',Bijdragen tot de Taal-,Land-, en Volkenkunde,1964

 *[3] B.Clamagirand,'La Maison Ema(Timor Portugais) ',Asie du Sud-Est et Monde Insulindien,1975

*[4] G.Forth,Rindi;An Ethnographic Study of a Traditinal domain in Eastern Sumba,The Hague,1981

2021年6月25日金曜日

住居の原像 事典 東南アジア 風土・生態・環境

 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住,弘文堂,1997



 住居の原像

 

 



地域の生態系に基づく多様な住居

 東南アジアには地域毎に多様な住まいの伝統がある。

  タイの山間部には、樹木の葉で葺いた、小さな屋根の様々な形態の少数民族の民家がある。平野部に降りると、間口の狭い切妻屋根の高床の小屋を繋げていく形態が見られる。デルタに人が住み出して以降だから伝統としては新しい。チャオプラヤ川には多くの水上住居が見られる。

 マレー半島を南下すればいわゆるマレーハウスがある。高床の寄せ棟の形態である。装飾には中国の影響も見られる。マラッカ周辺、ヌガリ・スンビランには、西スマトラから移住してきたミナンカバウ族の住居があって少し変わっている。カンボジアには、タイのデルタの住居によく似た二連の高床式住居が見られる。屋根の勾配は緩やかだ。ヴェトナムの海岸部には地床式の住居が見られるが、山間部は高床式である。東マレーシア、サラワク、サバには様々なロングハウス(長屋)の形態がある。大陸部にもかってロングハウスが一般的に見られた。

 島嶼部に眼を写すと、住居の多様性はさらに広がる。ひとつの島毎に固有の形態があるかのようだ。否、小さな島でも地域毎に民族毎に住居の形態が異なっていることも多い。

 フィリピンのルソン島の山岳地方には、日本の南西諸島の高倉形式の建築構造のヴァリエーションとして小さな住居の多様な架構形式がある。平野部にはスペインの影響を受けた高床住居がある。ミンドロ島のアランガン族の住居の高床はかなり高い。ムスリムであるモロ族の住居はまた独特である。

 インドネシアの島々には、それこそ島毎に異なった住居がみられる。円形、楕円形の住居も珍しくない。ニアス島から西イリアンまで点々と分布している。また、ひとつの島でも地域によって異なる。スマトラ島など全長二千キロもあり、北海道から沖縄まで日本列島がスッポリ入ってしまうのだから当然といえば当然である。

 東南アジアは、大きく、大陸部、島嶼部に分かれ、生態学的にはさらに細かく区分されるのであるが、それぞれの地域の生態区分に基づいて、多様な住居の形態を見ることができる。

 

 木造文化

 しかし一方、今日見られる東南アジアの住居に共通する特徴も指摘できる。まず、木造あるいは竹造が基本であることがある。赤道直下でも標高が高ければ針葉樹も育つ。建築用の木材が採れるところに木造文化の花が咲くのは道理である。ヒンドゥー教や仏教の建築などモニュメンタルな建築には石造や煉瓦造が見られるが、住居となると植物材料で造られるのが一般的である。バリなどで、基壇や壁に日干し煉瓦も使われるけれど例外だ。東欧や北欧、日本と並んで木造建築の宝庫といえるのが東南アジアである。

 また、かって、またごく最近まで高床式であったのもほぼ共通である。日本の住居の伝統は、北方、あるいは西方の竪穴住居の系譜と南方の高床式住居の系譜の二つによって説明されるが、寝殿造や書院造など貴族住宅や伊勢神宮など神社建築は南方系とされ、東南アジア世界と共通性をもつことになる。

 東南アジアには都市住居の伝統は希薄である。それも共通の特徴である。ただ、ロングハウスと呼ばれる長屋形式の集合住居は大陸部にも、島嶼部にも点々とある。

 さらに、東南アジアの住居に特徴的なのが屋根の形態である。転び破風屋根、あるいは船型屋根、鞍型屋根といわれる大屋根が特に印象的である。棟が大きく反り、端部は妻壁から大きく迫り出している。もちろん、切妻、寄棟、方形、円屋根など東南アジアに様々な屋根形態はあるけれども、この転び破風の形態は東南アジアの住居のひとつの典型である。バタック諸族の住居、ミナンカバウ族の住居、トラジャ族の住居を代表例とし、大陸部ではカチン族の住居など、島嶼部ではパラオなどオーストロネシアに見られる。東南アジアの住居というとひとつの共通のイメージを抱くことができるのは、この鞍型屋根の存在があるからである。

 

 ドンソン銅鼓の家屋紋・・・住居の伝統と変容

 東南アジアのほとんどの各地域は、まず、インド化の波を被り、イスラーム化の波を受けた。基層文化としてインド文化、ヒンドゥー文化があり、土着の文化と混淆する。中国文明の影響は継続的にある。そして、西欧列強による、住まいの伝統を考える上で決して無視し得ない植民地化の長い歴史がある。住居の形態にもそうした大きな文明の影響が様々に及んでいる。そして、住居の形態もこの間大きく変容してきた。

  東南アジアの伝統的住居はどのようなものであったのか。今現存する住居の形態はいつごろ成立したのか。ヴァナキュラーな(土着の)形態はどのようなものであったのか。こうした問いに答えるのはそれ故難しい。

 しかし、相当以前から各地域の住居は同じ様な形態をしていたのではないか、また、東南アジアの住居が共通な起源と伝統を持つのではないかと思われる事実がある。

 手がかりになるのが、ドンソン銅鼓と呼ばれる青銅の祭祀用の鼓の円形の表面に描かれた家屋紋である。また、アンコールワットやボロブドゥールの壁体のレリーフに描かれた家屋図像がある。そしてまた、中国雲南、石寨山などから発掘された家屋模型と貯貝器がある。石寨山は、1950年代後半に発掘された前漢時代の墓葬群で、数多くの家屋銅器、家屋紋が出土し、住居の原像を考える大きな手がかりを与えてくれている。

 描かれた家屋を並べてみると、例えば、石寨山の家屋模型や貯貝器の取手は、西スマトラのミナンカバウ族の住居にそっくりである。また、ドンソン銅鼓に描かれた家屋紋も同様である。上述した転び破風の屋根形態が相当古くから東南アジアに存在してきたことを示しているのではないか。また、古くから高床式住居が一般的であったことが明らかである。ジャワのボロブドゥールに描かれたレリーフの住居も全て高床式なのである。

 ドンソン銅鼓はインドネシア各地でも発見されている。ジャカルタの国立博物館も一部屋全部を銅鼓に当てている。全ての銅鼓に家屋紋があるわけではないが、インドネシアで有名なのは、ヌサトゥンガラ諸島のスンバワ近くのサンゲアンで発見された銅鼓である。高床で、基礎柱にはネズミ返しらしきものがある。床下には動物がいる。屋根は、妻飾りがあって、棟束のようなものが描かれた屋根裏には家財のようなものが置かれている。

 サンゲアンの青銅鼓の家屋紋と雲南省の石寨山前漢墓から出土した彫鋳模像は実に似ている。華南と東南アジアが直結することは誰もが直感するところである。しかし、不思議に思うのは、銅鼓、貯貝器などに表現された家屋像が、それが発見された中国の少数民族の居住地域には見られないことである。何故、遠く離れた東南アジアの住居が雲南出土の銅鼓などに描かれているのか、東南アジアの住居の原像をうかがう大きな手がかりである。

 


2021年6月24日木曜日

現代建築家  宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』

  宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』,新曜社,1993


 現代建築家

 

 





 「建築家は文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識をもちたいものである」 ヴィトルヴィウス 『建築十書』 第一書第一章。

 

 「建築家 名詞 あなたの家のプラン(平面図)を描き、あなたのお金を浪費するプランを立てるひと」 アンブローズ・ビアズ 『悪魔の辞典』

 

 「建築家の定義 自分の創造力を崇拝するたたき上げの男」 リチャード・イングランド

 

 「偉大な彫刻家でも画家でもないものは、建築家ではありえない。彫刻家でも画家でもないとすれば、ビルダー(建設業者)になりうるだけだ」 ジョン・ラスキン

 

 「建築について知っている建築家はほとんどいない。五〇〇年もの間、建築はまがいものであり続けている。」 フランク・ロイド・ライト

 「ローマの時代の有名な建築家のほとんどがエンジニアであったことは注目に値する」 W R レサビー

 

 「エンジニアと積算士(クオンティティー・サーベイヤー)が美学をめぐって議論し、建築家がクレーンの操作を研究する時、われわれは正しい道に居る」 オブアラップ卿

 

 「建築家は社会的に有用であるとともに視覚的に美しい何かを作り出すべきだ」 チャールズ ウエールズ皇太子 

 

 「歴史と文学を知らない弁護士は、機械的な単に働く石工にすぎない。歴史と文学についての知識をいくらかでももてば、自分を建築家だといってもいいかもしれない。」 ウォルター・スコット卿

 

 「人間の命の短さは建築家という職能を憂欝にさせる」 ラルフ・ワルド・エマーソン

 

 「芸術のヒエラルキーにおいて、ボスは明らかに建築家である」 エリック・ギル

 

 「建築家とは、・・・  確実ですばらしい理性とルールに基づき、まず第一に、心のなかで知性に従って物事を如何に分割するかを知っていること、続いて第二に、実際の仕事において、物体を組み合わせたり積み上げたり、重量を配分することによって、人間の要求に極めてうまく適合するような材料を如何に統合するかを知っている人である」 レオン・バティスタ・アルベルティー

 

 「建築家とは、今日思うに、悲劇のヒーローであり、ある種の落ちぶれたミケランジェロである。」 ニコラス・バグナル

 「もし建築家の職能に未来があるとすれば、人々に自分たちの問題を自分で解くことができるようにするすぐれた理解者としてである」 コリン・ウオード

 

 「建築家と一緒に仕事をすることより悪い唯一のことは、建築家なしで仕事をすることである」 ジョン・パーカー

 

 「われわれはテクノロジーの盲目の司祭に問わねばならない、いったい全体、彼らは自分のしていることをどう考えているのかと」 「専門家の世界の自己満足は囚人の幻影である。扉を開く時だ。」 ルイス・マンフォード

 

 「ほとんどの建築家は建築について何も知らない。五百年もの間、建築はまがいものであり続けている。」 フランク・ロイド・ライト

 「建築家も医者や弁護士と同様色々である。いいのもいれば、悪いのもいる。ただ、不幸なことに、建築の場合、失敗がおのずと見えてしまう。」 ピーター・シェパード

 

 「建築家の仕事は、デザインを作り、見積をつくることである。また、仕事を監督することである。さらに、異なった部分を測定し、評価することである。建築家は、その名誉と利益を検討すべき雇主とその権利を保護すべき職人との媒介者である。その立場は、絶大なる信頼を要する。彼は彼が雇うものたちのミスや不注意、無知に責任を負う。加えて、労働者への支払いが予算を超えないように心を配る必要がある。もし以上が建築家の義務であるとすれば、建築家、建設者(ビルダー)、請負人の仕事は正しくはどのように統一されるのであろうか。」ジョーン・ソーン卿

 

 「建築家は、社会の、様式の、習俗の、習慣の、要求の、時代の僕である。」「建築家の人生は四五に始まる」 フィリップ・ジョンソン

 

 建築家とは何か。以上のように、昔から多くの定義や金言、椰揄や賞賛がある。いずれも、建築家についてなんらかの真実をついている。

 建築家という職能は、そうとう古くから知られている。ごく自然に考えて、ピラミッドや巨大な神殿、大墳墓などの建設には、建築家の天才が必要であった筈だ。実際、いくつかの建築家の名前が記録され、伝えられているのである。最古の記録は紀元前三千年ということだ。例えば、故事によれば、ジェセル王のサッカラ(下エジプト)の墓(ピラミッド複合体)は建築家イムホテプによるものである。もっとも、彼は単なる建築家ではない。法学者であり、天文学者であり、魔術師である。伝説の上では、ギリシャの最初の建築家はクレタの迷宮をつくったダエダルスである。かれもただの建築家ではない。形態や仕掛の発明家といった方がいい。ダエダルスというのは、そもそも技巧者、熟練者を意味するのだという。

 建築家は、全てを統括する神のような存在としてしばしば理念化される。ヴィトルビウスの言うように、建築家にはあらゆる能力が要求されるのである。この神のごとき万能な造物主としての建築家のイメージは極めて根強い。ルネッサンスの建築家たちが理念化した万能人、普遍人(ユニバーサル・マン)の理想がそうだ。レオナルド・ダヴィンチやミケランジェロ、彼らは、発明家であり、芸術家であり、哲学者であり、科学者であり、工匠である。多芸多才で博覧強記の建築家像は今日でも建築家の理想である。近代建築家を支えたのも、世界を創造する神としての建築家像であった。彼らは、神として理想都市を計画することに夢中になるのである。

 そうしたオールマイティーな建築家像は、実は、今日も実は死に絶えたわけではない。時々、誇大妄想狂的な建築家が現れて顰蹙をかったりする。建築家になるためには、強度なコンプレックスの裏返しの自信過剰と誇大妄想が不可欠という馬鹿げた説が建築界にはまかり通っている程である。

 A.ヒトラーがいい例である。彼は、二流の建築家であった。彼の建築狂いはA.シュペアーの『ナチス狂気の内幕』に詳しい。かって、建築家はファシストか、と喝破した文芸評論家がいたのだけれど、建築家にはもともとそういうところがあるのだ。

 一方、もうひとつ、広く流布する建築家像がある。フリー・アーキテクトである。フリーランスの建築家という意味である。この幻想も根強い。幻想というか、今でも建前として最も拠り所にされている建築家像である。すなわち、建築家は、あらゆる利害関係から自由な、芸術家としての創造者としての存在である、というのである。神ではないけれど、自由人としての建築家のイメージである。

 もう少し、現実的には、施主と施工者の間にあって第三者的にその利害を調整する役割をもつのが建築家という規定がある。上のジョン・ソーンの定義がほぼそうだ。施主に雇われ、その代理人としてその利益を養護する弁護士をイメージすればわかりやすいだろう。医者と弁護士と並んで、建築家の職能もプロフェッションのひとつと欧米では考えられているのである。

 まことに結構な理念なのだけれど、現実は、特に日本の現実は、そうはいかない。建築家というと土建屋というのが一般的イメージではないか。あるいは、山師のたぐいと思われている。高名な建築家が利権をめぐってスキャンダラスな週刊誌のネタになったりするのだから、自業自得の感もある。設計料をダンピングしたり、施工業者にバックペイを求めたりする建築家があとをたたないのだから、言語同断である。もちろん、そういうことを求める施主の風土もよくない。日本の場合どうも建築家の職能を認める社会の成熟がないのである。日本の場合、請負業の力が強かったということもある。そうした職能を制度化する法はいまだかってできない。建築家という職能は今日に至るまで未確立であるといっていいのだ。

 今日、建築家といっても、千差万別である。日本の場合、一級建築士、二級建築士、あるいはインテリアプランナーとかインテリアコーディネーターといった資格があるにすぎない。合わせると、七〇万人にものぼる。スター・アーキテクトから、建築確認申請の代願設計を専ら業とする町場の建築士まで色々なのである。

 フリー・アーキテクトというけれど、実態は全くそうではない。中小企業の社長にすぎない自称建築家も多いのである。また、ゲネコンの設計部や住宅メーカーといった企業内の建築家も多いのである。設計と施工を分離すべきかどうか、という問題は、戦前から問われ続けているのであるが、日本では、設計施工一貫の請負体制が支配的である。それ故、建築家の存在も実に複雑なのである。

 面白い本がある。『アーキテクト』という本だ。アメリカの建築界が実によくわかる。日本の建築家は、欧米の建築家の社会的地位の高さを口にするけれど、そうでもないのである。その最後に、建築家のタイプが列挙してある。日本でも通用しそうである。ひとりひとりの建築家を思い浮かべて当てはめてみるといい。

 名門建築家 エリート建築家  毛並がいい

 芸能人的建築家 態度や外見で判断される 派手派手しい

 プリマ・ドンナ型建築家   傲慢で横柄   尊大

 知性派建築家  ことば好き 思想 概念 歴史 理論 

 評論家型建築家  自称知識人 流行追随

 現実派建築家  実務家 技術家

 真面目一徹型建築家  融通がきかない 

 コツコツ努力型建築家  ルーティンワーク向き

 ソーシャル・ワーカー型建築家  福祉 ボトムアップ ユーザー参加

 空想家型建築家  絵に描いた餅派

 マネジャー型建築家 運営管理組織

 起業家型建築家  金儲け

 やり手型建築家  セールスマン

 加入好き建築家  政治 サロン

 詩人・建築家型建築家  哲学者 導師

 ルネサンス人的建築家

 

 今日、建築家といっても、ひとりで建築のすべてのプロセスに関わるわけではない。建築というのは、基本的には集団作業である。その集団の組織のしかたで建築家のタイプが分かれるともいえるだろう。そうした中で、注目されるのがC.アレグザンダーのアーキテクト・ビルダーという概念である。誤解をおそれずに言えば、現代における中世のマスタービルダーのような存在として理念化されるものだ。建築家は、ユーザーとの緊密な関係を失い、現場のリアリティーを喪失してきた。それを取り戻すためには、施工を含めた建築の全プロセスにかかわるべきというのである。上述したように、日本では設計施工の一貫体制が支配的であり、アーキテクトという概念が根付いていないから複雑なのであるが、アーキテクト・ビルダーという概念は検討に値しよう。建築家は単なるデザイナーでも、不動産屋でも、コピーライターでも、ドラフトマンでも、芸能人でもないのである。