進撃の建築家 開拓者たち 第24回 水谷俊博(開拓者29)武蔵野のベース・キャンパスー目指すは,歌って踊れる建築家!?「アーツ前橋」 2018年08月 (『進撃の建築家たち』所収)
武蔵野のベース・キャンパスー目指すは、歌って踊れる建築家!?
「アーツ前橋」
布野修司
水谷俊博(図⓪a)[1]は、何故かマイケルという。初めて会ったのは1995年の阪神淡路大震災直後である。設計製図の演習で二十歳のマイケルに出会っていたと思うけれど記憶にない。被災地の状況をとにかく見ようと京都大学布野研究室メンバー中心に10人余りで、電車が動いていた西宮から三宮まで徒歩で歩き、三田回りで戻って、何故か混み合う梅田の居酒屋で飲んだ。見慣れない顔があるので、誰だっけ、というと、マイケルと呼んでください、という。以後、マイケルである。
内井昭蔵研究室所属のM1で、内井先生が定年退職で棄て子になって布野研究室に所属することになったーこういう無責任なことがよくある。かくいう僕も何人か酷い目に合わせた。僕自身も吉武泰水先生が57歳で筑波大に転出、博士課程にいきなさいと棄て子にされた。M2だから1年間で修論を書かないといけない。その頃、韓三建先生(蔚山大学教授)が博士論文を書いていて、膨大な土地台帳データを処理する仕事があった。蔚山で書くのならOK!と、かなり水準の高い修士論文[2]を書いた。
神戸出身で親父さんが建設会社を経営していたというから、子どもの頃から建築家志望だったのであろう。オープンデスクで行ったのは高崎正治[3]の事務所である。高崎正治はよく知っていた。毛綱さんの事務所にいたことがあるし、渡部豊和さんとも親しかった。いわゆるコスモ派である。内井昭蔵と高崎正治とは作風は対比的に思えるが、高崎正治がなかなか採ると言わない。就職がなかなか決まらない時、たまたま僕に佐藤総合計画で人を探しているという話があった。声をかけると行ってみるか?となった。以来、折々に連絡をもらってきたけれど、東京に戻って近くに住むことになって会う機会が増えた。
みのーれ
再び会ったのは、大阪府のPFI委員会(大阪府警察寝屋川待機宿舎建替等整備事業に係る選定事業者審査委員会、2004年)である。佐藤総合計画がコンサルタント業務を担当、審査委員の僕と何度か会う機会があったのである。もっとも、度々社内報を送ってくれていて、それまでの仕事の様子は知っていた。佐藤総合計画では、茨城県の「小美玉市四季文化館みの~れ」(図①a)の設計に最初から最後まで関わった。徹底した参加型のプロジェクトでワークショップが楽しそうであった。オープニングの時には、縫いぐるみを着て舞台に立っている(図①b)。これからの建築家は歌って踊れないと駄目なんですよ、という。しかし、それにしても当時の佐藤総合計画の社内報はずいぶん元気がよかった。一緒に編集に当たっていたのはSUEP(末光弘和+末光陽子)の末光(中村)陽子さんという。
大阪府の仕事の際に研究室を訪れている際に、たまたま来ていた松本玲子(当時大林組設計部)さんと出会った。同じ兵庫出身で、とんとんと「みのーれ」となったのか?、知らないうちにー研究室内結婚は何組かあるのだけど、若い男女の機微に鈍感なのだろう、全て、え!であるー生活をともにする運びとなる(2004年)。松本さんはオランダ植民都市研究の一環でカリブ海の小さな島キュラソーのウィレムシュタットについて修論[4]を書いた。フルマラソンも走る才女である。今や事務所の片腕でもあり、武蔵野大学で非常勤講師も務める。
アーチの森―大地の芸術祭
結婚を機に独立を決意、同時に公募に応じた武蔵野大学に幸運にも採用された。以降、武蔵野キャンパスが拠点となる。毎年、その成果を送ってくれたけれど、学生たちと始めた武蔵野大学の学園祭(摩耶祭)のプロジェクトはわきあいあいと楽しそうである。「Arch Forestアーチの森」と題されたプロジェクトは2007、2009、2010、2017と続けられる(図②abc)。武蔵野大学の緑に覆われた素敵なキャンパスの中に工房があって、単純な部材であれば容易に制作できる(図②d)。
基本的にセルフビルドによる架構の追求は、「木匠塾」がまさにそうだけれど、学生たちの実践的トレーニングになるし、マイケル自身にとってその後のプロジェクトのベースになる。平行して他流試合として手掛けたのは、大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレへの参加である。これも2009,2015と採択されている。2009年は、十日町市越後妻有交流館キナーレ内に、カフェ及び団欒スペースと情報ステーション機能を持った「こへびカフェ」(図③a)。2015年は、地元ガイドが来訪者を案内するための拠点として「里山フィールドミュージアムビジターセンター」(図③b)をセルフビルドで建てた。
「小さな木からつくられていく 大きな森のような空間」は一貫して追及される。そして、「移動や変形が可能な部屋や開閉できる窓」など、建築のヴォキャブラリーが増えていく。椅子、ソファー、スツール、ベンチなどのプロダクト・デザインは、作品に実践的に使われていくことになる(図④abcde)。
武蔵野クリーンセンター
武蔵野大学着任とともに、自治体の仕事、各種委員会、審議会委員を務めるようになる[5]。まちづくりのワークショップに積極的に参加してきたのがきっかけという。佐藤総合計画での「みのーれ」の参加型計画設計の経験が大きい。
「新武蔵野クリーンセンター」(武蔵野市)への関わりも当初は、ゴミ問題、環境問題をめぐる公開シンポジウムなどへの一市民としての参加であった。力量を認められたのであろう、施設・周辺整備協議会委員となり、事業者選定委員会委員も務め、さらに、デザイン設計の監修者としても関わることになった。設計はKAJIMA DESIGNあり、全体コンサルティングは日建設計である。正直、たいしたものだと思う。「アーツ前橋」(2012年)の実績が評価されたということであろうが、プロフェッサー・アーキテクトとはいえ、小さな設計事務所が、こうした大きなプロジェクトの重要な役割を果たしうる、そうした好事例である。
竣工したということで案内をもらい、香月真大君(開拓者15)をさそって、西川編集長と一緒に見た(2017年6月16日)。クリーンセンターすなわち清掃工場である(図⑤abcd)。建築の中心はプラント施設であり,根幹となるのは廃棄物処理のエンジニアリングである。しかし、市街地の真ん中にある清掃工場を敷地内で順次建て替える全体計画、「ゴミを通して社会の環境問題にふれる」ための見学・展示空間の設計、そして外観デザインなど建築家が果たすべき少なからぬ役割がある。
「武蔵野の雑木林」というデザインコンセプトは、議論を積み重ねられるなかで設定されたのだと思う。外装のルーバーのデザインがひとつの解答である。細かい縦のルーバーの配列構成、茶系のベースに緑のツタを這わせる。そしてアクセントカラーとして茶色を微妙に変化させた色を所々に挿入する。既に様々に試みられつつあるが、無機的で無粋な概観をスーパーグラフィックで装うレヴェルは超えている。そのヴォリュームをいささか持て余しているように思えたが、本人に依れば、外観デザインにとどまらず、内部空間にも「武蔵野の雑木林」というデザインモチーフを展開し
プラントのヴォリュームに合わせて、見学者の動線空間の高さに変化をつけ、大きな吹き抜け部の壁面に 角度をつけることで雑木林の中に入りこんだような雰囲気を創出しようとしたのだという。
アーツ前橋
「アーツ前橋(前橋美術館)」のコンペ(審査委員長石田敏明、審査委員高橋晶子、池田政治、真室佳武他)に勝ったというニュースは、布野スクールの大きな話題となった。公共建築に携わるチャンスを最初に得たからである。新井久敏さんを中心とした群馬県における若手建築家に門戸を開いた一連のコンペ[6]の仕掛けは実に頭が下がる。竣工(2012年)したと聞いて見に行きたいと思っていたのであるが、京都大学の布野研究室出身で、ヨコミズマコトの富弘美術館のワークショップをはじめ様々なまちづくりにコミットする群馬大学の田中麻里さんと『東南アジアの住居 その起源・伝播・類型・変容』(京都大学学術出版会、2017年2月)の打合せを口実に高崎を訪問、見る機会を得た(2016年4月22日)。
まずはプログラムと審査委員会がすぐれていた、というべきであろう。130の応募者があったというが、コンヴァージョンということで若手建築家も提案しやすかったと思う。既存建物の緩やかな曲線状の外形は、特注の穴の空いたアルミパネルで覆って衣替えさせた。美術館内部は、既存建物を裸にした上で、全体を周遊する空間構成として、様々なヴォリュームの展示室やプロムナードを巧みに配した。大小の開口部を介して空間相互の関係を視覚的に連結する手法は一貫して追求されている(図⑥abcd)。
むさし野文学館
「アーツ前橋」「武蔵野クリーンセンター」を除くと作品は今のところ多くはない。住宅の設計をしながら、コンペに挑戦するのがベースである。そうしたなかで武蔵野大学の中に「むさし野文学館」を設計する機会を得た。竣工したというので渡邊詞男(メタボルテックスアーキテクツ)さんを誘って見学した(2018年5月10日)。文学部の教員であった文芸評論家秋山駿(1930~2013)さんの遺族から寄贈された著作、蔵書約4300冊を収める記念館で、研修施設「紅雲台」の八畳和室を改装した小作品である(図⑦abc)。
見学のあと水谷俊博建築設計事務所のある西荻に向かい、マイケルが2005年の着任以来ずっと一緒に設計製図を担当してきた大塚聡さんと飲んだ。大塚さんと渡邊さんは同じ早稲田の歴史研(中川武研究室)出身という奇遇、しかも、大塚さんは芝居好きで今でも、紅テント、新宿梁山泊と関わりがあるという。黒テントを設計した斉藤さんも知っているという。武蔵野大学のこと、早稲田の歴史研究室のこと、テント芝居のことなどで話は盛り上がった。「むさし野文学館」の仕事は文学部の土屋忍教授などから直接依頼されたのだという。学科主任を務めて全く時間がとれないという弱音も聞いたけれど、その活動を支えるしっかりしたコミュニティがあるのは頼もしい。
石神井台の家
住まい探訪のTV番組 『住人十色』だったと思う。「石神井台の家」(図⑧abc)が取り上げられているのをたまたま見た。アルファヴィル(竹口健太郎+山本麻子)の自邸や滋賀県大の連中が豊郷でやった改倉プロジェクトなど、身近な若い建築家の設計がとりあげられるから時間があればチャンネルを合わせることが多かったのである。びっくりしたというか、やるなと思ったのは、「脚長」(図⑧a(④a))という2階から3階に突き抜けた椅子に子供が腰かけている映像である。
是非見たいと思っていて、「むさし野文学館」の前にみせてもらった。大学へは自転車で行ける距離である。中古住宅のリノヴェーションであるが、建築家がそれなりに設計していて、いささか癖のある住宅であった。用途機能ごとに壁で細切れに分節された空間に対し、 柱を残して可能な限り壁を取り払ってゆるやかにつながるワンルームとした上で、家具などで仕切っていく。住宅内の機能を限定せずに曖昧に溶け合わせる、のが設計趣旨である。子どもの成長と共に物も増え、独立性への要求も強まるであろうけれど、子どもにとっては実に楽しい空間である。
訪問してちょうど一月後、京都大学の同級生のダブル大介(丹羽大介(鹿島デザイン)、伯耆大介(UR都市再生機構))が来るから来ませんかと、声がかかった。後輩の浅野(藤村)真樹(元野沢正光建築工房)ちゃんも誘って相棒とも一緒に出かけて、楽しいひとときを過ごした。談笑する中で、何故、マイケルなのか、わかった。マイケル・ジャクソンのマイケルだという。大学に入った頃からそう自称した。今でも丹羽大介と「親父バンド」を組んで演奏しているという。歌って踊れる建築家というのは口だけではない。
大学はいまやかつての大学ではない。まるで専門学校化であり就職予備校である。教員も学生も実に忙しい。この国の大学教育研究システムの劣化は著しい。僕もそれなりに対処してきて管理職も務めて言いたいことがやまほどある。マイケルの仕事を振り返って、プロフェッサー・アーキテクトの役割について一筋の光がみえる。大いに期待したい。
[1] 1970年神戸市生まれ,1995年京都大学工学部建築学科卒業,1997年京都大学大学院工学研究科建築学専攻修了,1997年~2005年株式会社佐藤総合計画,2005年水谷俊博建築設計事務所設立,2005年武蔵野大学専任講師。准教授を経て2014年同工学部建築デザイン学科教授。
[2] 水谷俊博「日本植民統治期における韓国の都市変容に関する研究ー地方都市蔚山を事例としてー」京都大学修士論文,1997年。
[3] 1953年鹿児島生まれ。1976年名城大学建築学科卒業。1982年TAKASAKI物人研究所設立。1990年(高崎正治都市建築設計事務所。物人建築
主宰、京都造形芸術大学教授、王立英国建築家協会名誉フェロー。
[4] 松本玲子「植民都市遺産の保存と活用に関する研究-ウィレムスタッド(キュラソー)を事例として」京都大学修士論文,2003年。
[5] 武蔵野市第四期長期計画調整計画都市基盤分野市民会議アドバイザー(2006.8~2008.3)西東京市総合計画策定審議会委員(副委員長)(2007.7~2008.12),西東京市人にやさしいまちづくり推進協議会委員(2008.5~2011.5),西東京市産業振興マスタープラン選定委員(委員長)(2009.9~2011.3),小金井市地域センター施設研究講座講師(2010.7~2010.9),新武蔵野クリーンセンター施設・周辺整備協議会委員(副会長)(2010.3~2011.3)など。
[6] 妙義山の公衆トイレ(1998)から富岡市新庁舎(2012)まで,公開プレゼンテーションによる審査は26件に及ぶ。
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