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2021年6月27日日曜日

都市居住の変容  京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住

 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住,弘文堂,1997

都市居住の変容

 

 





都市村落

  東南アジアには都市的集住の伝統は稀薄である。東南アジア世界が人口の希少性を特徴としてきたことは強調される所である。

  ただ、香辛料を求めて東インド諸島にやってきたヨーロッパ人たちが最初に滞在した地域の大規模な貿易中心地、都市的中心は、16世紀のマラッカ、アユタヤ、デマックにしても、17世紀のアチェ、マッカサール、スラバヤ、バンテンなどにしても、当時のヨーロッパの水準からいうと極端に大きく、およそ五万人から十万人の人口をもっていた。ナポリとパリを除くヨーロッパのほとんどの都市よりも大きかったのである。しかし、その相貌はヨーロッパの都市とは全く異なっていた。

 都市といっても、庭に茂るココナッツやバナナなどの果樹のなかに半分隠れて、木造の高床式の風通しのいい住居が並び農村的生活パターンが都市においても続けられていたのである。小さな屋敷地の集積からなっている都市は、広大な領域に広がっていて、地中海や中国の典型的な都市にみられる、城壁のような明確な境界線はないのである。

 初期の旅行者は、アチェの田園的な風景をこんなふうに書いている。「森のなかにあって、とても広々としており、家の上にのらないと家々が見えない。我々はどこにも入ることはできなかったが、確かに家々があるのとたくさんの人が集まっているのはわかった。街はずっと全土に広がっているのだと私は思う。」。あるイエズス会の宣教師は、「籐や葦や樹皮でできた信じられないほど多くの家」が、「ココナッツや竹やパイナップルやバナナの木々のなかに沈んでいる」と書いている。港に着いても、都市の全体は見えない。岸に沿って生えた大きな木々がすべての家を隠してしまっていたのである。

  都市においても、農村的生活が展開される。これは、今日の都市についてもよく言われる。東南アジア諸国のみならず、発展途上地域の都市についても一般的に、都市村落(アーバン・ヴィレッジ)という概念が用いられてきているのである。

 

 カンポン

  インドネシア(マレー)語でカンポン kampung というとムラのことである。行政村ではなく自然村のニュアンスがある。というより、一般的に村、農村を意味する言葉として使われる。カンポンガンというと田舎者のことである。ところが、都市の居住地もカンポンと呼ばれる。インドネシアの都市の居住地の特性をよく示す言葉である。すなわち、コミュニティ意識は一般的に強固で、共同体的組織原理を維持しているのがカンポンである。日本軍が持ち込んだとされる隣組ー町内会(RT-RW)システムは、相互扶助の組織として様々な意味で大きな役割を担っているのである。

 このカンポンがどのように形成されてきたかについては、植民地化の歴史、植民都市の形成過程に遡る必要がある。バタヴィアにしても、スラバヤにしても、マレー・カンポン、チャイニーズ・カンポン、アラブ・カンポン、ジャワーニーズ・カンポンといって諸民族毎の棲み分けが当初からなされる。まさに植民によって、バリ人、ブキス人等のカンポンが形成された。その歴史は、それぞれの都市の通り名やカンポン名に残されている。諸民族が棲み分け、モザイク状に都市の居住地を形成するという特性は植民都市に共通である。現代都市においては、さすがに棲み分けの構造は崩れ、モビリティ(流動性)は高くなりつつあるが、それでも、スラバヤにおけるマドゥリーズのように一定地域のカンポンに居住する例も見られる。カンポンの社会は複合社会であり、諸民族が共住するのがカンポンである。

 

 アーバン・インヴォリューション

 カンポンの生活を支えるのはインフォーマルな経済活動である。その象徴がロンボン(屋台)とピクラン(天秤棒)である。カンポンに一日座っていると、ありとあらゆる物売りがやってくる。焼き鳥、焼きそば、かき氷、果物といった食料品から日用雑貨、植木や玩具、建材まで売りに来る。市場やスーパーにでかける必要がない。考えようによっては、実に便利な、居ながらにして全てを手に入れることができる高度なサービス社会である。

 こうしたサービスの体系を支えるのが過剰な人口である。様々なサービスを可能な限り細分化し、限られたパイを分配し合う(貧困の共有)原理がそこにある。C.ギアツの農業のインヴォリューションという概念を借りて、アーバン・インヴォリューションという概念が用いられる。

 カンポンは、従って、単なる居住地ではない。カンポンの内部には様々な家内工業が立地し様々な物が生産されている。生産と消費はそこでは一体化しているのである。

 インドネシアの居住問題を解決するのは、カンポンの存在そのものである、という言い方がなされる。カンポンは、都心に寄生する形でしか成立しないのであるが、極めて自律的なのである。また、カンポン自体が多様であり、ひとつのカンポンも多様な層によって構成される。どんな収入階層でも居住する場所を見いだすことができるのである。

 

 KIP(カンポン・インプルーブメント・プログラム)

 以上のような興味深い特性をもつカンポンもその居住環境は極めて劣悪である。カンポンと言えばスラムの代名詞であった。

 20世紀に入って、特に第二次世界大戦後、急激に膨れ上がった東南アジアの大都市は、その人口増加を支えるインフラストラクチャー(基幹設備)をもたず、深刻な環境問題に直面するに至ったのであった。

 そうした中で各国は様々な対策を展開してきたのであるが、必ずしも有効な手だてを見いだし得なかった。先進諸国におけるハウジング(住宅供給)の理念や手法は必ずしも有効ではないのである。そこで、各国は、オン・サイト(現場)の居住環境を改善することにウエイトを移すことになる。最低限、上下水道を設置し、歩車道を整備することを始めたのである。70年代から80年代にかけて、各国の大都市の整備がほぼ終わる。その代表例がインドネシアのカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)である。しっかりしたコミュニティ組織をベースに大きな成果を上げるのである。

 しかし、それにも関わらず、飲料水、下水・排水、ごみ処理、交通などの都市問題、居住問題は今日猶大きな問題である。さらに21世紀には百億に達すると予測される世界人口は、深刻なエネルギー問題、食糧問題、資源問題を引き起こすとされる。

 

 都市型住居

 80年代から90年代にかけて、東南アジアの大都市は急速に変化しつつある。ひとつには都心地区がほぼ建て詰まり、その再開発が大きな課題になって来た。また、加速する流入人口に都心からのJターンも含めて、都市周縁部(フリンジ・エリア)が急激に変化しつつある大きな問題がある。

 さらに、住民のモビリティが高まり、都市居住地の性格が変容しつつあるという点がある。カンポンの場合、KIPのインパクトは大きい。車道の整備によってコミュニティが分断され、車道沿いに所得階層の高い層が移入して来るという現象が各地で起こってきた。インドネシアでは、グドゥンガンとカンポンガンと言って、その階層差が意識され始めるのである。コミュニティの共同体的性格は一般的に弱まりつつあると言えるであろう。

 都心部の再開発という課題とともに、都市型住居をどうデザインするかが各国とも大きなテーマとなりつつある。中高層の集合住宅による高密度化が不可避である。例えば、インドネシアでは、コモン・キッチン、コモン・リビングといった形の共有部分を多くとった積層住宅(ルーマー・ススン)のモデルがつくられつつある。カンポンの生活を立体化するのがねらいでカ・スンと呼ばれたりする。

 首都の変容はさらに激しい。目覚ましい経済発展とともに新たな都市文化が生み出されつつあるのである。先進諸国の大都市の風俗、ファッションも瞬時に取り入れられるようになる。新たな都市居住文化の創出には情報テクノロジーの発展が大きいインパクトを与えている。 


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