https://www.aij.or.jp/jpn/touron/4gou/tairon2.html
マイホーム神話とコミュニティ幻想-建築と社会学の間
主催:日本建築学会
建築討論委員会
日時:2014年11月14日(金)18:30~20:00
会場:日本建築学会 建築書店
建築が社会的な存在であるという命題は、ひどく当たり前であるために、かえってその意味を問われなくなっている。学際という言葉が語られるようになって久しいが、それも錆び付いた通行路のようになっているのではないか? 今回は気鋭の社会学者をゲストに招いて、居住やその元にある家族の問題から、都市やコミュニティの問題までを改めて論じてみたい。
ゲスト
■山本理奈(社会学者。東京大学総合文化研究科学術研究員)
現代社会論、都市住宅学、家族社会学
主著『マイホーム神話の生成と臨界ーー住宅社会学の試み』岩波書店2014
■八束はじめ(建築家、建築批評家。芝浦工業大学名誉教授)
■布野修司(建築計画、アジア都市建築史、建築批評。日本大学特任教授)
問題提起
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八束:今日はゲストに社会学の山本理奈さんをお迎えしております。山本さんの書かれた『マイホーム神話の生成と臨界-住宅社会学の試み』という本ですが、これは今年(2014年)出たのですよね。
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山本:はい、そうです。
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八束:岩波書店の『思想』に連載されていたテクストを集められて出た本ですね。今日はこの本を中心にして議論したいと思います。本来は宇野求さんに司会をお願いするはずなんですが、今たいへんお忙しくて事前にこの本を読んでいただく時間がなかったので、今日に限って―かどうかわからないけれども―、私が司会をさせて頂き、かわりに宇野さんには意見を言っていただくということでいきたいと思います。
最初に経緯をお話ししておいた方が位置づけが分かりやすいと思うので、自分のことにもなるので恐縮ですが、多少それに触れたいと思います。山本さんは、この本の中でも取り上げられていますけれど、工学院で、十年くらい前かな、山本理顕さんに呼ばれて私がシンポジウムに出たときのものに目を留められたらしく1、彼女の方の連載の抜き刷りを送って頂いたのがきっかけです。山本さんの師匠が、私と同じ世代の社会学者で、『10+1』の初期でもご一緒していた内田隆三さんです2。『10+1』は、色々なジャンルの書き手にお願いすると言うことで始まったわけですが、我々二人のメンターみたいな存在が、この雑誌の編集委員を私とともに務められ、先だって亡くなった多木浩二さんで、山本さんも『10+1』に寄稿されていますし、このご本も多木さんの引用で始まります。だから我々は、ある意味多木ファミリーみたいなものです。近代家族ではないファミリーですが。
とはいえ、山本さんのことをそんなによく存じ上げていたわけではなく、先日駒場で内田さんとご飯をご馳走になりながらお話をしたのがまとまった形での唯一の機会です。私自身も家族の問題―必ずしも今の山本さんの関心は家族の問題だけでないみたいなのですけれども―と建築の問題、制度の問題と容れ物の問題に関心があったわけです。私は、社会学寄りというよりは、だいたい歴史的なことに広げていきがちで、工学院のときは、理顕さんからのロシア・アヴァンギャルドの話をやれというリクエストで、その話を中心にしたのですけれども、本当は、他の例えばイギリスとかフランスの19世紀とかの居住とか都市の話をやりたかったのです。私が2005年に出した『思想としての日本近代建築』という本では、第二部で実際大正時代の住居と都市の問題を扱っていたし3、今年出た『ル・コルビュジエ-生政治としてのユルバニスム』もその頃書いたテクストが主ですが4、居住ではないものの、その辺の時代のヨーロッパを扱っています。理顕さんも今『思想』で「個人と国家の<間>を設計せよ」という連載をやっていますが、僕のと同じような時期の労働者住宅なんかを扱っている。僕自身はその後の関心が別の方向に行っちゃったこともあって、彼女の仕事を見て原点にちょっと立ち戻りたいという気がしていました。『生政治としてのユルバニスム』を今になって出してということもそれと関係があるかも分かりません。というようなことがあって、今回のゲストにお願いしようと考えた次第です。
それから、前回の対論で建築教育の話をしたのですが、建築教育あるいは建築学の一番の根幹にあるのが布野さんの専門である建築計画学ですけれども、その中で家族論・住居論は非常に大きな役割を果たしているはずです。山本さんのこの本の最初のところにも、社会学と建築学に共通する議論の場を模索したいと書いてあるので、その意味でも格好の人選だと思いました。山本さんは、実際に今東大都市工を中心にした社会人大学院みたいなものでも、住居スケールよりちょっと大きいコミュニティスケールを中心にした都市社会学のコースをやっていらっしゃるので、マイホーム神話の話を中心にしながら、そっちの方面まで発展できればとも思います。
ちょっと前振りが長くなりましたが、皆さん必ずしもこのご本を読んでらっしゃらないと思うので、建築界に向けてと言ったら大げさだけれども、山本さんの問題意識を中心に、まず自己紹介代わりのお話を頂いて、細かいことはその後の議論で私の方で振っていくみたいなことをやっていきたいと思います。じゃあ、よろしくどうぞ。
問題提起:「近代家族」論と建築計画学
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山本:みなさま、こんばんは。東京大学で研究員をしております山本と申します。今日は、この場にお招きくださってありがとうございました。いま、八束先生にご紹介いただいたように、今年の二月に岩波書店から『マイホーム神話の生成と臨界』という本を刊行しまして、その副題に「住宅社会学の試み」というタイトルをつけました。私は社会学が専門なのですけれども、住宅社会学という分野が社会学のなかに確立した領域としてあるのかというと、残念ながらまだありません。というのも、社会学者で住宅を主題として研究されている方は数えるほどしかいらっしゃらなくて。具体的にお名前をあげていくと、森反章夫先生5が住宅を社会学的な主題としてはじめて取り上げた先生として位置付けられているかと思いますが、そのほかには高木恒一先生6が都市住宅政策を中心にご研究されています。また同年代ですと、祐成保志先生7がいらっしゃいます。
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布野:祐成さんには『〈住宅〉の歴史社会学 ―日常生活をめぐる啓蒙・動員・産業化』を送ってもらったことがあって、『群居』に書いた原稿に触れていただいたりしていて恐縮した記憶があります。引っ張り出して読み直してこようと思ったけれど見つからなかった。申し訳ありません。森反さんは昔から良く知っています。「同時代建築研究会」で知り合って、関西へ行く前には公団の研究会などで一緒に議論した記憶があります。
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山本:住宅社会学という言葉をあえて使ったのは、そういった社会学の研究状況を変えていければと思ったのが一点目の理由です。二点目の理由は、これまで日本の住宅研究をだれがやってきたのかということに関わりますけれども、これはもう圧倒的に建築学で、構法の問題もそうですし、供給の問題、政策の問題もすべてにおいて建築学がリードしてきたという経緯があります。その点をふまえて、これまでの建築学の蓄積と社会学とが接点をもてる場でどうにかして議論することができないか、そういった問題意識のもとに、社会学と建築学をつなぐというと大きな試みですが、とにかくやってみようということで、住宅社会学という言葉をあえて使いました。
ただ、建築学と言っても広いですから、具体的にどの分野と共通点を見出せるのかを模索するなかで、先ほど八束先生が建築学の根幹とおっしゃられていた、建築計画学の勉強をしはじめたわけです。というのも、51Cの起源をめぐって、社会学者の上野千鶴子先生が、建築計画学者の鈴木成文先生と論争をされていますので、実際にはその辺から研究をはじめました。この論争をまとめた本には布野先生もお書きになっていらっしゃいますよね8。
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布野:「51C」には書いたかなあ? 何か書いたような気もするけど。
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山本:社会学では、80年代前半に、森反先生が「住空間の戦後的変容」という論文を発表され、磯村英一先生が『住まいの社会学20の章』を刊行されています9。それから少し時間が空いて、90年代になってから、上野先生のnLDK批判の議論(脱nLDK論)が出てくるという流れになっています。上野先生は、理論的には近代家族論に基づきながら、nLDKという間取りを近代家族規範の具体化された空間として批判しています。そのうえで、nLDKの起源は51Cにあると考え、51Cのプラニングに携わった鈴木先生や建築計画学をいわば論敵のようなかたちにして論争を展開されたのだと思います。
ただ、その一連の論争を見ていて、私は議論がすれ違っているのではないかと感じました。というのも、上野先生の議論はどちらかというと規範実在論なのですね。つまり、近代家族規範という規範があらかじめ存在し、それが間取りに具体化されていると考えています。これに対して建築計画学の先生方というのは、規範の存在をはじめから前提にするのではなく、住まい方の調査結果に基づきながら、人々の生活実践が生み出す実際の間取り、具体的にはモノの配置が重要となってくるのですが、そこから居住規範の存在を考えています。つまり、両者は規範に対して全く逆向きの想像力を働かせているわけです。こうした規範へのスタンスの違いが、議論のすれ違いの根底にあるではないかと考えました。この点については、『マイホーム神話の生成と臨界』の序章と二章で細かい議論を展開していますので、ご関心のある方はお読みいただければと思います(図1:近代家族論と建築計画学の解釈の違い)。
図1:近代家族論と建築計画学の解釈の違い この「規範と住宅の関係をどのように考えるか」という問いについては、八束先生からもメールでご連絡をいただいていましたので、本日は、スライドを用意してまいりました。図解して説明した方が、討論がしやすいのではと思いましたので。布野先生は鈴木先生の研究室で学ばれていらっしゃいましたし、今日はゲストというよりは、むしろ私の方が建築計画学の考え方を勉強させていただきたいと思ってこちらに伺いました。
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布野:私は、もともと吉武研究室出身なんですが、M2の時に吉武先生が筑波大学に異動されて、ドクターは鈴木成文研究室なんです。鈴木先生が教授になられて研究室の初代の助手にしてもらったんです。
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八束:それと京大に移ってからの布野研究室は元々西山研の後身ですね?
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布野:地域生活空間計画講座です。西山先生が絹谷祐規先生を当てられようとしていたんですが、オランダで交通事故で突然無くなられたんです。それで建築計画講座に巽和夫先生を建設省から呼び戻されて自ら動かれたんです。僕は孫弟子になります。吉武研究室、鈴木研究室を経て、西山研究室と渡り歩いたのは僕だけだと思います。全う出来ませんでしたけれど。地域生活空間計画という随分長い講座名ですけれど、気にいってました。
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八束:「住宅社会学」と「建築学」の各々の舞台の設定は一応整ったと言う感じですね。それではそのスライドを見せて頂きながら、つづけて説明お願いします。
スライド1
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山本:(スライド1)最初のスライドでは、51Cというプランの作成に至るまでの過程を図解しています。
まず、建築計画学では、現状の居住実態を分析するために住み方調査が行われるわけですが、たとえば西山夘三先生は、名古屋・京都・大阪などの三大都市で調査をされています。そこで人々の住まい方の実践がどうなっているのかを見てまわり、どんなに小さな住宅でも食べるところと寝るところを分けているという事実を発見されます。つまり、人々の住まい方の実践から居住規範を見出し、それを食寝分離と名づけられたわけです。ここでのポイントは、食寝分離という原理が経験的水準の規範だという点にあります。言い換えれば、食寝分離というのは、西山先生がこういう規範がいいと考えた理念的な規範ではなく、人々の住まい方の実践から抽出した経験的な規範であり、西山先生は人々によって生きられる経験的秩序を重視し、プラニングの基本に据えたのだと思います。
ただ、西山先生はそうした現状分析だけで終わるのではなく、将来の住まいに向けて現状批判もされています。たとえば、赤ん坊が押しつぶされたりとか、青年の男女が一緒だったりとか、そういった当時の過密就寝という問題を発見し、それを解決しなければならないということを同時におっしゃっています。つまり、住居の計画をするときには、食寝だけでなく就寝の分離も考えなければならないという問題意識を持たれていました。鈴木先生が所属していた吉武泰水先生の研究室でも、この問題意識を継承されて、食寝分離と就寝分離に基づく51Cというプランを作成されたのだと思います。ここで重要なのは、食寝分離が人々の住まい方の実践から抽出された経験的な規範であるのに対して、就寝分離というのは、設計者がこうあるべきと考えた理念的な規範だという点です。ここに、鈴木先生たちの当時の状況への批判が込められていたのだと思います。私は本の中でこの現状批判を「啓蒙の精神」と表現しましたが、こうした設計者の啓蒙の精神が、就寝分離という新たな理念的な規範をプラスすることによって、51Cというプランは生み出されたのだと考えています。
スライド2 (スライド2)そのうえであらためて考えてみたいのは、51CはnLDKの起源といえるのかという論点です。次のスライドでは、51CとnLDKの関係を図解しています。上野先生の議論ですと、51CとnLDKには連続性があるという解釈になるのですけれども、これに対して鈴木先生はその解釈は間違っているとおっしゃっています。この点について、スライドを見ながら少し考えてみたいと思います。まず、51Cというのは先ほどもふれましたように、食寝分離と就寝分離を基本としています。ただ、実際の住まい方がそうなったかというと、そうはならなかったということを鈴木先生はおっしゃっています。鈴木先生は当時、いろいろな住み方調査をされていますが、結局2DKでは、ダイニングキッチンに続く畳の部屋に、絨毯を敷いてテレビやソファを入れたり、ピアノを入れたりと、いわゆる耐久消費財を配置する洋風の空間、いわばリビング的な空間ですね、間取りとしてはリビングはありませんから、それを人々が生活実践の結果としてつくりだしてしまい、就寝分離はあまり上手くいかなかったとおっしゃっています。
つまり、当時の人びとは、残りの一室に集まって就寝することになったとしても、リビング的空間を確保することを選んだわけです。西山先生はこうした新しい住まい方の実践に着目し、そこに見られる居住規範を「公私室分離」と名づけていますが、こうした世の中の趨勢を取り入れるかたちで、公団の標準設計もnLDKへと移行していくことになります。これは、鈴木先生たちの側からすれば、豊かな消費を求める当時の人々の生活実践に、自分たちの啓蒙の精神が裏切られるような出来事だったのではないでしょうか。だからこそ鈴木先生は、nLDKというプランは建築家の産物というよりは、むしろ当時の社会状況の産物であり、51Cとの間には断絶があるという議論をなさったのだと思います。nLDKの起源を51Cに見出し、建築家の責任だとする考え方は、この点を見過ごしているように思います。論争が上手くかみ合わずにすれ違ってしまったのも、そのためではないかと思うんですね。
スライド3 (スライド3)この点を、もう少し深く掘り下げるために、人々の生活実践が生み出したリビング的空間をどう捉えるのかという点を、最後のスライドを見ながら考えてみたいと思います。上野先生や西川裕子先生の解釈では、リビングというのは、近代家族規範が具体化され空間、つまり近代家族の団欒のための空間だというふうに機能主義的に捉えられています。そのためnLDKを設計する建築家は近代家族規範を前提としており、だからこそ建築家にも責任があるという議論をされています。ただ、ここで考えてみたいのは、L的空間を生み出したのは、建築家の意図というよりは、むしろ人々の実践だったという点です。言い換えれば、nLDKというのは、建築家が目指した理念的な規範(就寝分離)が、人々の生活実践の結果である経験的な規範(公私室分離)に敗れることによって、はじめて生み出されたプランだったという点に注意しなくてはならないと思います。ですので、nLDKというプランの設計を建築家に帰責するというのは批判の対象を取り違えている、というのが本の中で私が提示した基本的な論点です。
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八束:たとえば近代家族みたいな規範を、実践というより観念として最初に作ってしまって、そういうものを、英語的に言うとファブリケート、日本語で言うとちょっと言葉きついけど、でっち上げというか、つくりあげてしまう危険はないか、という上野さんたちに対する批判として理解してよろしいですか?
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山本:近代家族論というのは少し分かりづらいところがあって、というのは、上野先生ご自身も「近代家族憎し」とおっしゃっているように、これは近代家族を肯定するのではなく、「近代家族規範批判」なんですね。ただ問題は、批判を通じて、まるで規範が実体としてあるかのように語ることなのです。
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八束:規範そのものを容認するかどうかではなくて、敵視するにせよ、その規範が支配的なものとして―規範は当然支配的ですがーあるといってしまう所が問題だということですね? 上野さんの場合は、近代家族とはもはや支配的なパラダイムとして成立していないから、標準化などせずに、おひとりさま向きを含めて、色んなタイプの解答を用意すればいいというスタンスですよね。凄いプラグマティズム。
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山本:近代家族規範というものがあらかじめ存在して、nLDKという間取りにそれがあらわれていると解釈されているのですが、間取りを離れて、規範が存在することを実証できない以上、それは分析者の側がある種の思い込みを投射しているのではないかと思うんですね。そこが基本的には問題だと思います。ただ、規範の存在を経験的事実との相関において思考すること、それ自体が間違っているわけではありません。問題となるのは、規範の存在を無自覚に自明視し、それを実体化する場合です。
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布野:うん。山本さんはそういう議論を展開されていますね。
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山本:ここで、仮に近代家族論の立場に立って考えると、もし人々の生活実践がリビング的空間を生み出したのだとすれば、建築家ではなく一般の人々こそが、近代家族規範を内面化していたのではないかという反論があるかと思います。つまり、人びとが家族の団欒を求めていたからこそ、リビング的空間は生み出されたのではないかと。この点を考えていたときに、私が決定的だと思ったのは、西山先生が住み方調査に基づきながら、リビングは多機能空間であり団欒というひとつの機能には還元できないという趣旨のことをおっしゃっていたことです。近代家族論者は、リビングを家族の団欒のための空間と考え、機能主義的な見方をする傾向がありますが、実際に住み方調査をしてみれば、ここは雑多な空間で、子供が勉強をすることもあれば、奥さんがアイロンをかけていることもあるし、ひとが来ることもあるし、実にいろいろなことが行われている、家族の団欒空間だけには還元できないとおっしゃっています。この点については、住田昌二先生も住まい方の調査を通してやはり同様のご指摘をされていて、人々の行為の次元から見て、リビングは団欒というひとつの機能には還元できない多機能空間だとおっしゃっています10。
このことにくわえて、私が重要だと思ったのは、鈴木先生が室内のモノの配置に注目して、住まい方の調査をされていたことです。西山先生や住田先生は、「行為」の次元に着目されたわけですけれども、鈴木先生は少し違っていて、「しつらえ」の次元に着目されたわけです。つまり、家具や耐久消費財の位置を、鈴木先生は見ていらしたのですね。その結果、リビングが、テレビやソファやサイドボードといった、三種の神器にはじまる当時みんなが欲しいと思った耐久消費財をディスプレイする空間になっていることを発見し、あらかじめ家族規範みたいなものがあって、それが空間に具体化されていると捉えるのは無理があるのではないかとおっしゃっていたわけです。
まとめると、西山先生も鈴木先生も、リビング的空間は、家族規範の影響によるものというよりは、むしろ当時の都市化であるとか産業化であるとか、そういった社会の構造的な変容が、人々の生活様式を変え、住まい方を変えたために生み出されたのだとおっしゃっています。つまり、都市化・産業化に媒介された大衆消費社会の到来があって、はじめてこの空間が出来上がっている、という議論です。この点が、社会学や消費社会論の議論にも接続していく場所なのですが、ここを上手く連接させ、社会学と建築学に共通の議論の場をつくるということを、本の中では試みました。建築計画学との兼ね合いで、私が本の中でどういう論点を考えていたのかという点を、ご説明いたしました。できれば布野先生にコメントを・・・。
51CとnLDKの関係—その解釈学
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布野:51CとnLDKの関係については、鈴木先生はずっと最後まで関係ないとおっしゃってましたけれども、要するに「型」計画、標準設計の問題だと、つまり組立としては同じだと、研究室の先輩たちは考えていたと思います。nLDKという空間の「型」には、それに対応する家族モデルが想定されているという理解です。
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八束:それは鈴木研究室では、先生とそれ以外の研究室のメンバーで考えが違ったということですか? あるいはこの段階では未だ吉武研だった?
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布野:空間論というグループがありました。船越徹先生、渡辺武信さん、下山真司先生、香山壽夫先生もそうですね。修士論文は「型」計画論なんですけど。要するに、平面計画じゃないんだ、空間なんだということが議論されていました。そういう中からSD法を用いて空間の意味を問う研究がでてきていました。
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八束:布野さんは、時代がずれているにせよ吉武−鈴木研と西山研を横断した形になっているけど、その両研究室の関係はどうなんですか?
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布野:西山夘三先生が「型」計画を提起され、吉武計画学はそれを住居以外の公共施設にも拡大しながら踏襲してきたと思いますが、出発点においては、具体的な人間のニーズと空間のずれが問題だった。そのずれをどう解決するのか、という発想だったと思います。実践論、矛盾論は吉武研究室の大先輩たちは読まれていました。実践と規範の関係ですね。具体的に「51C」という空間の型を設計することになるのは吉武研究室になるわけですが、西山先生が設計されたらどうだったでしょう。西山先生は中央に近いから吉武研究室に任せたというようなことを書かれています。限られた規模の住宅の平面計画だけを考えるとすれば、食寝分離と就寝分離、隔離就寝と言ったのではないかと思いますが、このふたつの方針に基づけば誰が設計しても同様な解答になったんではないかと思います。ただ、西山先生は、『これからの住まい』に下宿屋の畳の間に机を置いた無様な住まい方が実態としてあることを書かれていますが、生活実践と空間とのずれは意識されていたと思います。鈴木先生も同様だと思います。家具の配置の調査をずっと続けられるのは空間と生活のずれについての一貫する関心を示していると思います。
西山夘三研究室と吉武研究室は交流がありました。かなり厳しいやり取りをしていたようです。広原盛明先生と内田雄造先生など相当激しく議論したということを双方から聞いています。
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山本:鈴木先生は寝室分解とおっしゃっていますよね。
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布野:寝室分解って言ったかな。要するに、規模拡大、面積確保の論理だったと思います。非常に狭小な空間しか確保できない状況で、どうやって必要な空間を獲得していくのかということですね。第一の方策として食寝分離をまず言う。実際、例えば、長屋を調べてみたら最低食うところと寝るところは区別している、そういう原理がある。それから就寝分離・隔離就寝という原理が必要とされる。それを基に設計すると、たぶん誰がやっても、「51C」みたいなの平面計画が解答だということになる。日本の戦後社会において、「51C」とダイニングキッチン(2DK)、あるいは「団地」がもった象徴機能については別に議論すべきですが、「花の団地族」ともてはやされるわけですね、その後も規模拡大が主要な設計論理となる。豊かな生活=大きな広い住宅ということです。
就寝分離・隔離就寝の次に主張されたのは公私室分離、そして個室の確保です。こうしてリビングが生み出され、家族人数に応じて個室が付加されていく。51CからnLDKへのプロセスは、こうだと思います。少なくとも、僕はそう理解していますし、鈴木先生もそう説明されていたと思います。鈴木先生が明快にnLDK批判を始められたのは、僕が吉武研究室に入った1970年代初頭からだと思います。2DK,2LDK,3DK,3LDK・・・というかたちで公共住宅の規模が拡大していく中で、一方、工業化住宅すなわちプレファブ住宅の伸長が意識されていたと思います。当時、住宅計画に限らず、あらゆる公共建築の標準設計の問題が指摘されていました。住宅計画に即して言えば、生活の型と空間の型をステレオタイプとして捉え、標準化していくことが批判的に問われたわけです。鈴木先生も、その批判を共有した上で、「(個性)順応型」という「型」を提案されるんです。この「順応型」は、プレファブ住宅の「可変型」に対する批判としても提起されていて、研究室で議論になりました。鈴木先生としては、標準化して大量に生産される工業化住宅の「可変型」と居住者が個性に応じて自由に設える「順応型」というのは違うのだ、ということだったのですが、違いが分からない、「型」計画の放棄なのか、ということにもなる。僕自身は、東南アジアでセルフ・ヘルプ・ハウジングとかコアハウス・プロジェクトに出会って、スケルトン・インフィル・クラディング(躯体・外装・内装)分離方式などと向き合うことになるんですが、では「51C」は一体なんなのかということなる。「51C」のシンポジウム(「51C」は呪縛か)やった時も記録されているかどうか確認していませんが、亡くなられた内田雄造先生はフロアから、標準設計による画一的空間パターンを北海道から沖縄まで蔓延させることになったことにはそれなりの責任を負うべきだと発言されました。計画の論理展開に関するオールド・パラダイムとしてはそういうことだと思います。
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山本:当時のことを知らないので、むしろお伺いさせていただきたいのですけれども、鈴木研が公団で住み方調査をやった時に、結局、隔離就寝が進んでいなくてがっかりしたということを、鈴木先生は随分お書きになっていますよね。その時に発見したのがリビングで、間取りにはないけれども、リビング的な空間をみんなが生活実践で生み出していると。この空間の生成を、家族規範の具体化されたものであるというふうに、当時の研究室の方達もお考えになっていらっしゃったのですか。
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布野:その段階で僕は研究室にいなかったと思いますが、専ら空間側の論理として、空間というのは規定力がある、それを裏切るような現象が起こっている、という認識だと思います。それががっかりするということじゃないですか。一方、L的な空間の萌芽が見られる、公私室分離が必要だ、という構えだと思います。
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山本:だとすると、布野先生と私はそんなに立場が違わなくて、むしろ上野先生はそこでL的空間の生成、当時の計画に携わった人達が裏切られたと思うような空間ができたことを、近代家族規範に建築家がとらわれているからだ、という議論をされているように思ったのです。私は、そこは少し違うのではないかと思うんですね。
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八束:ちょっといいかしら?ごく基本的なことですが、nLDKというフォーマットは日本的なものだと思いますが、欧米だと?
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松下希和:ベッドルームの数として表現されていますね、Lとか、D、Kとかの存在は自明だという前提があって。
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八束:ただ、それは似て非なるものなのかもしれない。そもそも51C型も踏襲している、畳に布団と言う日本の伝統的な住形態では、ベッドルームという形で固定されていない。Lがなくともやっていけた所以ですよね。ベッドが導入されるとそれは特化した個室にならざるを得ないわけだし、ソファも同じ。先ほど洋風・洋間と山本さんもいわれたように、畳の上に絨毯を敷いたりして室の洋化を行なってL空間がつくられたわけですね。日本の戦後計画学ではこの過程をまず就寝機能の分離から民主主義的な個の確立と考えたわけだけど。それを補完するものとして家庭の団欒という、多分にイデオロギー的な、こういった方がよければ戦後民主主義的な選択、あるいは山本用語だと「神話」と対置させて成立したのがnLDKだということでしょうかね。
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布野:戦前から戦後にかけての家族制の変化については、様々な議論があるところでしょうが、大家族制から核家族制へというのが大きな流れでしょう。そして、近代的な個の、家族からの自立というストーリーというかイデオロギーがある。つまり、まず、大家族の空間から核家族が自立していく、そして、その中で個が自立していく、そのために個室が必要になるというストーリーですね。核家族の住居、すなわち「51C」モデルというのは、要するに、農村から―仮にわかりやすく大家族制というのですが―次男坊が都会に動員されていく、そういうことに対応するための空間的な装置であるという理解をしています。
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山本:それは私もおっしゃる通りだと思っているのですが、問題は、公団が住宅に結びつけて考えていたのは本当に核家族か、という点です。公団の当時の設計集を見ると1Kから始まっていますよね。つまり単身者用の住戸もつくっていて、すごくバリエーションがあるわけです。住戸に入るための抽選倍率を見ても、単身者用の倍率がわりと高いんですね。そうすると、当時の公団の設計に携わった人たちが考えていたのは、核家族というよりは、むしろ世帯と住宅を結びつけることだったのではないかと思うのです。世帯といっても、世帯類型はいろいろありますから、必ずしも夫婦と子どもからなる核家族世帯に限らないと思うんですね。かつ、住み替えを前提としたプラニングをしていたと思うんですよ。
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布野:そうです。ですからダイニングキッチンも、共稼ぎで、朝食を簡単に採って働きに行くという共稼ぎの生活スタイルに対応している。せいぜい子供が一人できた段階の住居で、公団では「橋の論理」といっていたのですが、基本的にはいずれ郊外の持家一戸建てへ出ていってもらうという考えが前提であったわけです、終の棲家は郊外にという自民党の持家政策とマッチしていたわけです。だけど日本の社会は高度経済成長期を迎えてもそうはならなかった。むしろ沈殿するとか、抜け出せなかった。その中で、nLDKも出来ているという理解です。
表1:脱nLDK論における近代家族の解釈
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山本:だとするとやはり、布野先生と上野先生は見解が違っていると私は思います。というのは、上野先生は近代家族をどう捉えているかというと、その理念型として標準世帯、つまり夫婦と子供2人からなる世帯をモデルとして考えていらっしゃいます。つまり、2DKの空間とはマッチしていないんですね(表1:脱nLDK論における近代家族の解釈)。
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布野:上野さんは、nLDKになってnLDK家族モデルと言うんじゃないですか。
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山本:ただ、nLDKの起源として51Cを見出すことにおいて、近代家族と2DKの空間を結びつけていると思うんですね。近代家族のモデルを標準世帯と捉えるのは、西川裕子先生にも共通していることですが、西川先生は、公団住宅の標準設計に3LDKが登場したこと、意識調査で子どもの数の理想が二人となったこと、これらの事実を主な根拠として、1975年頃に近代家族=nLDKという住まい方のモデルが、現実の居住実態と一致したということをおっしゃっています。
ただ、事実関係を調べていくと、公団の標準設計に3LDKが導入されたのは1968年ともう少し早い時期で、分譲用の設計ではすでに1960年頃から試作されているんですね。かつ、子供の数についても、たしかに1975年は標準世帯の割合が戦後でもっとも多い時期ではあるのですけれども、実際には二割程度にすぎないんですね。つまり、日本全体を見渡した場合には、約八割の方が違う居住形態で暮らしていたことになります。それにもかかわらず、夫婦と子ども2人からなる家族=3LDKが、1975年頃は住まい方の標準であり実態であるという解釈が、90年代から70年代を振り返ったときに行われ、nLDK批判が展開されてきたわけです。そして51Cをめぐる論争では、こうした近代家族=nLDKという図式の起源が51Cにあるという読み込みが行われたのではないか、と私は思っています。
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布野:なるほどわかった。僕は山本さんの本からそこまで読みとれなかったけれども、そういう位置づけですか。
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八束:標準世帯というモデルを近代家族と称して言説化することで支配的なパラダイムにしてしまったことを批判されているわけですね? そこから議論を演繹していると。ただ、それは社会学者に限らないような気はします。日本の建築学のなかでやはり住宅というのは極めて特別な地位を与えられていて、前回もいったような気がするけれども、建築とは住宅に始まり住宅に終わるみたいな教え方をするわけですよね。そこで、ほかのビルディングタイプに対して、住宅に何か特殊な地位を獲得させるものというのは結局、やはり家族論のイデオロギーだったんじゃないか。要するに日本社会の、あるいは明治以来の行政サーヴィス(フーコーなら生政治というわけですが)の基本的な単位としての家族というのがあって、それを保証するのが住宅だから特別であって、学校とか病院とかとはおのずと違うよ、というのはあったんじゃないですかね。
それと、こうした議論は歴史化してみる必要もありはしないでしょうか? 今その標準世帯なるものは実際には二割に満たないという話が出ましたが、『思想としての日本近代建築』で書いたのは、大正時代に戸建て住宅の啓蒙的なコンペが新聞社とかの主催で盛んに行なわれるけれども、その想定住民モデルである、当時のことばでいう俸給生活者、つまりサラリーマン、コーリン・クラークの分類でいうと三次産業従事者は、やっぱりせいぜい国民の二割程度だったんですね。でも啓蒙だから、それは山本さんのおっしゃる二割と違って、将来増えていくであろうという仮定的な規範にせよ意味があったと思うのです。そこから計画学も成立していったと思う。これに対して、後者の二割は、全国だとすると、地方では次男坊三男坊が出ていって都市に集中しまった場合、増える見込みはあんまりない。少子化傾向も含めると尚更ね。
建築計画学、その栄光と終焉?
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山本:この話から少し離れるかもしれませんが、前回の対論で建築計画学はもう終わったということを布野先生がおっしゃっていて、ただそれと同時に時代によって体系は変わるから、その時代時代に合わせて格闘しなければ、ということもおっしゃっていたんですね。私の理解だと、建築計画学というのは、自分の生きる現在の問題に立ち向かっていると思うのです。西山先生も鈴木先生も、戦後の焼け野原という当時の時代状況のなかで、圧倒的な住宅不足という彼らにとっての現在の問題に立ち向かい、これからの住まいの方向性を考えたと思うのですね。けれど、私たちが生きる現在は、もうマスプロダクションの構造的な限界が来ていて、まさに時代の転換点にあると思うんです。だから、昔とは異なる新しいヴィジョンを考えなければならない。むしろこれからの時代をどう考えていくかという点がいま問われているわけで、こうした困難な時代状況のなかで古い体系に縛られるのではなく、その時代と格闘すべきだという意味で、昔を批判されているのかなと思ったのですが。
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布野:それは仰る通りです。ただ昔を批判するだけでは意味ないでしょう。鈴木先生、西山先生、吉武先生らが戦後間もなくに初心として考えられたことは基本的にリスペクトしています。ところが、山本さんも書かれていると思いますけど、それがステレオタイプ化していくプロセスがあるわけで、近代家族論にしてもそうでしょう。理論と現実、空間と生活実践がズレていっているにもかかわらず、それに対応できていない。この間は、八束さんとは学校について話をしたと思いますけど、住宅でいうと「順応型」としか言えないというか、「あとは勝手に住めばいいでしょ」のような、その中でどのような提案ができるかというのが問題だと思うんです。まず、議論と理論が住戸計画に閉じていることが大問題ですね。住戸の間取りのみを考えるんじゃなくて、住宅一戸が二戸になって、二戸が四戸になって、どういう街ができるかというのが基本だと思っています。建築計画学は、施設計画、地域計画も含めて街をもう一度どのように作るかという原点に立ち戻ってもう一度考え直さないといけない、と思います。例えば、幼稚園と老人ホームが一緒であるとか、要らなくなった小学校をどう使うか、住む場所をどのようにアレンジしていくかということが、提案されなければいけない。山本さんも書かれているように空き家が沢山増えている状況で、どのような空間編成をすればいいのかは日本中の大きな問題です。
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山本:だとすると、建築計画学のスピリットは脈々とつながっていると私は思っていて。
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布野:ええ、僕はそう思っています、私は不祥の弟子ですけども。
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八束:では、いくつか質問をして議論を運びたいのですが、山本さんの議論で、成文さんは家具配置みたいな、山本用語でいうと「しつらえ」に注目したとされているけれど、それは消費社会にコミットしたということなんでしょうか、一般的には彼は啓蒙家だから、消費社会にはむしろ抵抗のイメージの方があるけど?
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布野:鈴木先生の家具配置への注目は、生活と空間のずれをみるというのが基本だったと思います。すなわち、家具の配置を見れば、どういう生活が展開されているかわかるわけです。家具そのものの製造とか購買、家具デザインとインテリア空間といったことにはあんまり興味がなかったような気がします。そういう論文はありますか? 消費社会というか、産業化の流れについては、工業化住宅についてははっきり批判的でしたね。僕は、建築生産、構法計画の内田祥哉研究室の先生方とその後関係を深めて、特にセキスイハイムを設計した大野勝彦さんとか石山修武さんと『群居』で一緒でしたので、かなり違和感がありました。産業社会批判は共有するんですが、鈴木先生の場合は、基本的に公的住宅供給を前提に住宅計画を考えられていたと思います。京都にいる時に、神戸芸術工科大学の非常勤に呼ばれて、「住まいをつくる」といった科目を二人でしゃべったのですが、公共住宅はしゃべるから、布野は民間住宅についてしゃべりなさいということでした。
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山本:私も布野先生のおっしゃるように、人々の生活実践と計画された空間のずれを問題視されていたのではないかと思います。おそらく鈴木先生は、消費社会に意図的にコミットしようとしたというよりは、むしろリビングという、いわば計画を裏切るような空間が生まれてしまったことを、「しつらえ」を通して捉えようとしていたのではないでしょうか。そして調査の結果として、豊かな消費を求める人々の欲望のかたち、言い換えれば消費社会の現実を、モノの配置を通して目の当たりにしてしまったということではないかと思います。
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八束:山本さんの論旨では、社会学の人たちは近代家族論を実体化してそれを基にやっているけども、建築計画学は調査から入っているという議論ですね。言い方を変えると、社会学は近代家族モデルから演繹的に議論を組み立てているが、建築計画学は帰納的に議論を組み立ててそこが違うといわれているように思います。その帰納的な理論の先に、かえって消費社会論にドッキングできるような話が見えるのではないか、という議論の流れに見えるのだけれども、布野さん、本当に建築計画学というのは帰納的な理論なのだろうか。
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布野:帰納的とは?
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八束:つまり議論にアプリオリに解があるわけじゃなくて、虚心坦懐に現実を見たらそこから何かロジックが出てくるだろうという考え方。
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布野:僕は必ずしもそう思っているわけではありません。何を発見するかが問題なんです。学校でも病院でもみんな一緒で、制度的な枠組みを前提として空間ができていて、それを調査をするわけですよね。現実的に制度のフレームの中である空間を調査して、何がわかるのか。問題は、ずれであり、矛盾であり、萌芽ですよね。鈴木研究室が、竣工して入居したばっかりの住宅を調査に行くのには批判的でした。要するに新たな空間をつくるとか、そういう話が本当に建築計画学の調査で出て来るかは今でも疑問に思っていますね。
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八束:調査主義批判ですね。僕らが大学院生の頃わりとそのような議論があった。我々は紛争世代だけど、その前の世代では結構調査は沢山やっていたわけですよ。宇野さんが院で在籍されていた原広司研究室のその後に出てきた調査なんかは、デザイン・サーヴェイとも関わっていてまた毛色が違うから例外かもわからないけど、調査の中から積み上げると出てくるみたいなやりかたというのは、何処かで逆立ちしているのではないか、仮に先ほどの議論で隔離就寝が戦後すぐの計画学のヴィジョンであったとしても、最低限存在の論理を超えたらそれだけでは済まないはずだ、という意識が当時の僕の中にもあったんだけど、布野さんも、それは共通していたと考えていい?
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布野:僕は吉武先生の研究室だったけれど、吉武研と鈴木研の間には方法論的な議論があったんですよ。吉武先生は、とにかく先入観なく観察しろという。例えば小学校の校門とかに、一日中立って見ていなさいという。それと、すべてのデータを捨てるなという。何か意味ある筈だという、そういうやり方です。鈴木先生の方は、西山夘三研究室の大量調査に対して、少数精鋭(典型)調査といったかなあ? それは標榜されてましたが、ある仮説ができるとアンケートをする、そういう仮設検証型の方法でした。
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八束:布野さん的にはどっちだったの?
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布野:僕は吉武寄りかな。アンケートは基本的にやらない。必ずしもフォーマットのないヒヤリングですね。また、観察調査が基本ですね。それと何より実測ですね。物の配列に何を読むかが基本です。デザイン・サーヴェイの方法と言っていいと思いますが、今和次郎、西山夘三が戦前期からやってきたのと同じだと思いますけどね。海外の調査では、何人かの集団で作業しますが、まずは歩き回る。そして、発見したことについて議論する。意味ある指標が見つかると組織的に分布図をつくる。そんなやり方です。
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八束:さっきのでいうと、吉武さんの方が帰納的で、成文さんの方がむしろ演繹的に見えますけどね。
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古瀬敏:それは対象が違うということもあったんじゃないの? 鈴木先生は基本的に住宅でしょ。吉武研は各種建物が対象だった。
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布野:どちらかというと、八束さんの言うような違いがあったという感じを持っています。
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古瀬:いや、少なくとも殆どの建物種別をカバーしていたわけだから、鈴木先生のように住宅にある程度特化して、だから居住者にアンケートするというか、一般的なサーベイとはちょっと幅が違ったのではないか。
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布野:そうですね。そういう面もあると思います。ただ、繰り返しになりますが、日本の制度的なフレームが前提になる場合とそうでない場合の違いはありますね。海外の場合も制度的な枠組みはあるわけですが、異なった視点から見ることができる。何も特別なフィールド調査をやっているつもりはなくて、家具調査を街区スケールでやる感じでしょうか。ただ、住み手にインタビューするというのは大事で、単に現状を把握する以上に、居住者の生活歴と記憶から何をどう引き出せるかによって調査の指針を得ることができます。一般的にアンケートによってデータを集めればいいということではないと思っています。
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八束:ちょっと話を戻しますが、さっき啓蒙と消費社会の話が出たのですけれども、それは言い換えるとモダニズムだと思うんですね。鈴木成文さんの議論は、51CとnLDKを一緒にされたくない、俺たちは啓蒙をやっていたんだからismがあり、ヴィジョンがある、でもnLDKのほうは、商業的なディベロッパーが何か知らないけど、消費社会になって現れてきたものを事後的に組み立てたにすぎないから、一緒にされたくないということですね? それに対して山本さんのスタンスは成文さんに対してかなり同情的だと思うのだけど、にもかかわらず、最後の方では圧倒的に消費社会論のほうに行きますよね。そこの啓蒙的なモダニズムと消費社会論、もっとポピュラーに言い換えてこの間布野さんの話で出てきた言葉でいうと、モダニズムがポストモダニズムに置き換わっていくところの話というのはどのように解釈されているのかしら。
山本:私は本の中で、啓蒙の精神が消費社会の精神に敗れたというような書き方をしていたと思うのですが、つまり鈴木先生は啓蒙を試みられたけれども、消費社会への転換のなかで、人びとは豊かな消費生活を求めて、結局、分かれて寝るよりもリビング的な空間の確保を選んでしまったと。これは鈴木先生の側からすれば、モダニズムの挫折だったと思うんですね。
でもそれを挫折として認識したということが重要であると私は考えていて、時代の転換を読んでいたということだと思うんですね。鈴木先生が、非常に消費社会に対して批判的であっただろうなというのはご著書を読んでいて端々から伝わってきますが、だからこそ時代の変わり目に、自分の目指す方向性とは異なる状況が出現していることに、鋭敏に気づかれたのではないかと思います。鈴木先生の現状認識の深さは大切なポイントですし、自分の議論との接続ポイントでもあるのですが、これでお応えになりましたでしょうか。
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住居形態の諸問題
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布野:ちょっと混乱させるかもしれないけれども、「51C」というのは基本的に集合住宅あるいは団地が前提じゃないですか。住戸計画に閉じているといったんですが、住戸のプロトタイプを階段室の両側にバッテリータイプで積み重ねればいい、というところで生まれた住戸型ということですよね。鈴木先生が「順応型」と言いだされた時に違和感があったのは、戦後の小住宅を設計した建築家たちは、例えば、ワンルームコアというタイプを提案していたことが頭にあったからです。狭いから水周りだけまとめてあとはワンルームでいい、住み手がそのなかで住みこなせばいいという提案ですよね。戸建住宅ではむしろ一般的な解答でリーズナブルですよね。
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山本:むしろ居住者の側が間取りの可変性を買うみたいなイメージですよね。
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布野:プレハブ住宅が登場するのはずっと後のことですが、空間のアイディアというかプロトタイプの提案としては、ありえたわけですね。山本さんの本で少し不思議なのは、「商品住宅」についての議論がかなり出て来るんですけど、住宅の商品化の問題を議論するにはやはりプレハブ住宅をとりあげるべきだと思うんですよ。プレハブ住宅は、どういう平面をプロトタイプとしたのか。基本的にnLDKじゃないのか。2DK、ダイニングキッチンというのは、定型化された空間として、農家住宅まで取り入れられていく。さっき言ったように、シンボリックな社会的な力をもって一気に蔓延していった。日本列島全体の生活のワンパターン化とnLDKの蔓延は問題にすべきじゃないかと思っています、要するに商品化ということで一番問題なのは住宅生産の工業化ですよね。住宅生産の工業化のためには、住宅と土地を切り離すのが前提になる。
日本で工業化住宅が登場するのは1960年前後ですよね。それが10年後の1970年には年間住宅建設の14%くらいを住宅メーカーがつくるようになる。それについて、鈴木先生は物凄く批判的だったように思います。公共住宅の役割が一方であるという意識だと思います。しかし、公共住宅の役割は大きく変質し、民間住宅と同じ位置づけになりつつあるのが問題だという意識だったと思います。住宅のあり方、住宅生産のあり方、供給主体とは供給量が戦後まもなくとは大きく変わってきている中で、そのプランはどうなっていますか、どういう論理で設計されていますかということですよね。nLDK家族モデルがそのレベルで議論できるのかどうか。
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山本:布野先生は51Cをめぐる本の中で、nLDK住戸を作ったところでそれを買う消費者がいなければどうにもならない、むしろそれを流通させるシステムの問題を考えなければならないというお話をされていたかと思うのですが、その話というのはこの問題と繋がっていますか?
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布野:流通というか。居住者、消費者ですか、選択するわけですよね。
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山本:先ほど、プレファブ住宅のところで、土地から切り離されて工業化が進んだというお話をされていましたが、ハウスメーカーが出てきて、さらにディベロッパーが出てくると、建物だけではなく土地を含めたトータルな商品化が行われていきますよね。
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布野:もちろん。H.ルフェーブルのいう社会的空間の商品化ですね。要するに土地と上物までも商品化されていくという過程が、日本では1960年代に全面化していく。それがまずは大きな問題。そこで「51C」とか「nLDK」がどう問題になってきたのか、そして、それに対して家族のあり方はどうかかわってきたのか、ということじゃないですか?51Cというのはいくつかの前提と方針をもとに組み立てられたプランニング型で、結果的に生み出されたダイニングキッチンという空間、多分世界でも珍しい空間が生み出され、蔓延していった。
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山本:先生がおっしゃるように、戸建ての系譜も商品化の中で考えていかなければならないと思います。ただ、私が戸建てではなく集合住宅に注目した理由をお話ししますと、戦後から現在に至る住宅の建て方別の割合を住宅・土地統計調査のデータをもとに考察してみると、集合住宅だけが一貫して増加していて、戸建ては減少しているんですね。だから集合住宅をみるほうが、今後の趨勢を考えるうえでは重要だという判断をしました。
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布野:切り替わるのは、昭和60年です。1985年に、フローで集合住宅は超えます、戸建てを。
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宇野:今でも、戸建て8割以上だったのではないですか?
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布野:ストックで8割・・・ぐらいかなあ。
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宇野:集合住宅は、全体としてはとても少ないですよね、たしか。10数%程度だったと思います。
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山本:全国ですか?
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宇野:全国です。
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松田達:居住世帯のある空き家ではない住宅が全国で4961万戸あって、その内一戸建てが55.4%、共同住宅が41.7%という数字があります11。
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宇野:いま、ネットで見たら、持家は全国では2400万戸、その内一戸建て2100万戸程度ですね。圧倒的に戸建てが多いようです。
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山本:ただ、東京都は、全住宅に占める集合住宅の割合が約7割に到達しています。地域によっても偏りがありますよね。私が注目したのは首都圏を中心とする大都市圏で、住宅のこれからの趨勢を見たいと思ったので。
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八束:戸建て8割以上というのは持ち家の中でということであって、それでなければ松田さんの数字だと55%ということでしょう? 山本さんは大都市圏に絞っていて所有形態は問うていないので、割合が逆転するのはむしろ当然かもしれませんね。
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宇野:こういう議論も、都市圏の都市構造の変遷をベースにしながらということを前提にしないと議論が噛み合わないですよね。例えば、プランの話は大切ですけど、一方で、山本理顕さんがいっているように、生産の場がない家庭中に家族を閉じ込める住居観・家族観、それらは戦後に作られたものですね。それは、労働者として、あるいは経済戦のための兵隊として、どこかに働きに、稼ぎに出て行かなければならない、そうした集合住宅を大量に作ってきたということが、根本の課題としてあると思います。そうした議論にこの問題を接続して論じないと、ほんとの社会の話にはならないのではないでしょうか。ですから、たとえば、そちらのほうに議論をダイナミックに展開していっていただきたいと思います。
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布野:僕が悪かったかも。途中でちょっと挟んだので・・・、言いたかったのは、計画学は、住戸計画のみの論理に閉じてきたんじゃないか、集合の仕方を問うべきではないか、住戸計画というのであれば、戸建住宅の問題をも問うべきじゃないか、ということですけどね。
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八束:宇野さんの指摘はその通りではあって、布野さんがさっき少し触れたと思うけれども、戦後のより広い社会史の中での住居、あるいは家族のあり方という捉え方をしないといけないとは思う。ただ、それはまたあとに触れるとして、もう少し建築スケールの話に留まりたいのです。宇野さんが指摘されたような住居・家族のあり方は戦後になってというより大正頃からでしょう。戦後はそれが量的に急激に加速されるだけで、公団のみならずその前の営団・更に前の同潤会、みんなそうですから。布野さんも仰ってたようにスケールアップしていく中で問題が変わっていくということはあるけれど、そこで違う問題になるものとそうでない変わらない問題と両方あるという気がするんですね。だから戸建ての住宅と集合住宅の問題というのは、必ずしも分離できないと思う。51C型はともかく、戸建てだってnLDKモデルと関わりないわけではないし。これがひとつ問題をややこしくしている。
それともうひとつは、山本さんは「しつらえ」という言葉を使っていらっしゃるし、現代の商品化住宅においても、あるいは成文さんの調査でも、家具の配置の問題が出てくるわけだけれども、「しつらえ」というのは「室の礼」と書くわけで、『思想としての日本近代建築』の中でも触れたけれど、平安時代からある概念ですね、もともとは。寝殿造では、年中行事に対応するのに、建築は変えられないから、家具・調度のレベルで対応した。というようなことを可能にしたのは、基本的に日本の空間というか室の作り方が機能に特化していないからでしょう? これは実は布野さんがさっき触れた戦後のワンルームコアとも違わない。水回りではないにせよ、コアとしての「塗り籠め」なんていう閉鎖ブースがあったわけですし、そもそも部屋が分化していくのは中世以降だから。それでも、日本の住宅では、ちゃぶ台を持ってくれば茶の間だし、押し入れから布団を持ってくれば寝室だし、襖を開ければ一続きの空間になるし、みたいなことが、ずっとこの話の底流にあることは見逃せない。だから、成文さんが壁を作って二つの部屋を仕切ったというのは、つまり、そういう作り方あるいは使われ方に一石を投じようというファンクショナリズムは、きわめてイデオロジカルな操作だったといえる。これは非常に重要なモメントだったはずなのだけれど、建築計画学的には、そうした機能純化というのが、nLDKではどうだったのだろうか、さらに商品化の話とはどうつながっていくのか?
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布野:八束さんの言う日本の住宅の融通無碍な特性については、「転用性」ということで議論がなされます。しかし、布団を敷けば寝室になり、銘々膳を並べれば食事室になる、というのは「余裕住宅」、上流階層の住宅の場合であって、狭小住宅に「転用性」を持ち込むことは狭さを容認することになる。だから、食寝分離が必要なのだ、という論理構成です。面積確保、規模獲得がその背後にあるという所以です。西山先生、鈴木先生は、ワンルームコアは念頭にはなかったと思います。
先進国における消費社会と非先進国における居住のあり方
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八束:山本さんに質問ですが、口当たりの良いそして受け入れられやすい「商品」としてのnLDKに対して、社会学サイドからも建築計画学からも個性がないという批判があるという指摘がご本の中でされていますが、山本さんは必ずしもその批判に同調されていないように見えます。それは実際の生活は、そのような平面形態というか、そのフォーマットだけには縛られておらず、あるいは、その元を規定しているとされている家族規範をも超えて行なわれているから、という認識であると考えてよいのでしょうか? それが生産のパラダイムに載る住形態の次にくる消費社会的なパラダイムであると?
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山本:近代家族論のnLDK批判についていえば、間取りの画一性よりも、むしろ住宅の間取りと家族との対応関係を暗黙のうちに前提とする考えの方が問題だと思います。つまり、「n」が夫婦の寝室+子供部屋の数を示し、「LDK」は家族の団欒のための空間である、という想定ですね。そもそもnLDK型住宅に住むのは家族とは限らないわけで、現在のように単身世帯が増加していく局面では、「n」の内訳は、趣味の部屋や書斎だったり、物置だったりすることもあるわけで、「LDK」にしても自分自身がゆったりくつろぐための部屋、あるいは友人を招くための場所となっていることもあるわけですよね。だから、nLDKに個性がない、あるいは現状にそぐわないという批判をするよりも、nを家族人員と結びつける発想、LDKを家族の団欒と結びつける発想、それ自体の恣意性こそ逆に問題とすべきではないかと思います。
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八束:さっきルフェーブルが出てきたけれども、僕らの世代はルフェーブルと羽仁五郎の世代だから、商品化というのはすべて悪と考えがちなんですね。僕にせよ、そうは考えていないけれども、それでも思想家としては消費論の積極的肯定派であるボードリヤールよりもルフェーブルの方にシンパシーがある。不思議なことにルフェーブルは今、英語圏で人気なんですよ。英訳がどんどん出たのは90年代で、日本語訳が出ていたのは70年代です。20年の差がある。日本的にいうとルフェーブルはポストモダンの前です。あの後でフーコーとかなんとかが出てきて新しい思想的な風景をなすわけだけれど、アメリカ的にはそっちの流行が終わった後にルフェーブルがまた再発見される。ということで、商品化の話または消費社会論というのは、かなり一律には言えない話になっていると思います。鈴木成文さんが、消費社会に対してアンチだったというわけですね? 啓蒙的なモダニストとしてはそうじゃなきゃと(笑)。布野さんはどうなの?
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布野:うん?
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八束:消費社会に対してのスタンス。さっき、プレファブとか言う話があったけれども。プレファブといっても元々は・・・
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布野:プレファブが象徴するのは、要するに空間の生産の産業化ですよね。産業的な空間の編成が問題であって、それに対してどういうあり方が展望できるのか。家族論としても、家族社会学があるわけですが、例えば、発展途上地域だと家族の形態はどうなっていくのか。東南アジアは多少知っていますが、双系的な親族原理を基にした日本から見るとややルースな家族関係をとっている。しかし、落合恵美子さんなんかは基本的には核家族の形態が増えていくという。シンガポールの場合だいたい先進諸国に追いついてきている、といったマクロな議論もあるじゃないですか。それと気になるのは、山本さんがやっているリビングの分節化とか言う話はいいんだけど、コレクティブとか、シェアハウスとか、家族の形が違ってきて新しい空間が必要とされているというような問題はどこからでてくるのか、ということです。我々がもっている空間、社会的に生産された空間・住宅空間は、マッチングしてないじゃないか、という点です。さっき宇野さんがそういうことを言おうとしたのかもしれないけど。
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山本:家族形態が変化してきているというのは、先生のご指摘の通りだと思います。ただ、コレクティブやシェアハウスというのは、家族形態の変化と住空間のミスマッチを示しているというよりは、一世帯=一住宅という戦後の住宅政策や住宅供給の基本的枠組みを問い直す現象なのではないかと、私は考えています。シェアハウスのような住まい方は多くの場合、複数の世帯の集住のかたち、つまり多世帯=一住宅を示すものですので。言い換えれば、家族=住宅というよりも一世帯=一住宅という図式を問い直しているのではないかと思います。本の終章の注でもふれましたが、森岡清美先生がご指摘されているように家族=世帯ではありませんので、この点は注意が必要だと思います。それと、今後の高齢単独世帯の増加を考えると、高齢期のシェアを検討することも必要になってくるかと思います。そうした居住者側の潜在的ニーズを考えあわせると、リフォームやリノベーションの必要性も含め、先生のおっしゃるように既存の住宅との間にミスマッチが生じていると思います。
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布野:戦後まもなくから1970年代初頭ぐらいまでは、規模と量の問題だった。大量供給のために定型化した住宅を積み重ねて、階段室でつないで集合住宅として、冬至4時間日照確保の南面配置の団地をつくっていった。大きな枠が前提になっていた。戦後まもなく、例えば、田舎の農家のように、とりあえず骨組みと屋根だけはつくっておいて、二階は仕上げずにおこう、お金が出来たら、家族が増えたら、仕上げましょうというようなアイディアはなかった。「51C」以外のプロトタイプはなかったのか、そんなことを思い始めたのはアジアを歩き出してからです。戦後の追体験みたいなことをしながら、別のストラテジーはないのかを考えるんです。日本でもやがて、スケルトン賃貸、昔でいう裸貸しというのを始めるわけですよね。現在の日本でも、ムスリムたちは、木賃アパートを一軒借りて、一室を礼拝室にしたりして、変容させている。それを我々もやっているんだけど、それがあまりにもチマチマしてるんじゃないか。超高層マンションでもそういうことをやっているということなんだけど、もうちょっと、広げてみる必要があるんじゃないの、ということかな。
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八束:別のパラダイムに有効なデータというか引き出しをもっと提供してくれるという期待があるということですね?
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布野:ある種の追体験、思考実験ですけど、建設資材も資金も限定された状況において、設計計画の方法を組み立てるときに51Cじゃない組み立て方はいっぱいあるし、実際あったということなんです。
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八束:なるほど、その議論は説得的ですね。
山本さんの関心は生産中心の社会から消費中心の社会へのシフトを住宅がどう受け止めたのかのようですが、そうなると理顕さんの場合はどうなのかしら? 先ほどの宇野さんの問題的に戻ってくるけれども。たとえば東雲だとSOHO(Small Office- Small Home)を住居の前面にもってくるという形になっていますが、これは、山本さんの消費社会的住居論からすると、あまりに生産的なパラダイムだと考えられるのでしょうか? 生産の場が住居に取込まれていたのは近代以前だと。たとえば民家における土間のように、むしろそれが常態であろうから?
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山本:SOHOへのニーズはあると思いますので、実際に東雲のSOHO向け住戸がどのくらい人気があって、計画と住まい方が実際に一致しているのかという点は気になります。ただ先ほどふれたように、今後の高齢単独世帯の増加を考えると、生産の場よりはむしろ広い意味での他者を招き入れる空間をどう計画に組み込んでいくのかという点の方が、クリティカルになってくるのではないかと思います。他者を招き入れると言っても、昔の座敷のような空間が必要だということではなくて、たとえば在宅しつつ、介護や医療の支援が必要となったとき、お医者さんをはじめ介護士やソーシャルワーカーなど様々な人と関わることになりますよね。そうした他者を受け入れる空間をどうするのかといった問題です。W・W・ロストウは、高度大衆消費の時代に入ると、生産から消費へと重点が移るとともに、広い意味での福祉の問題が社会のなかで重要性を増していくと言っていますが12、そうした点を計画の側も避けて通れなくなるのではないでしょうか。
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八束:なるほど。僕は、格差社会の問題とかは、生産中心ではなくて消費中心の社会で、所得が増えたとか減ったとかいうことよりも、別の問題が入ってきたことだと思っているのですが、それを始めるとまた大変なので、元に戻りましょうか? で、宇野さんの先ほどの発言は、そうじゃないと思っているということですね、理顕さんと仲良しだし(笑)?
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宇野:仲のいい、原研究室の先輩ですけど(笑)。理顕さんは、原理を追求するタイプです。彼が指摘しているように、家には生産の空間がある、ということだとか、人を招き入れてそこに生じる中間帯は住まいの必要条件である、それを住居というのだ、というような明確な住居観を理顕さんは持ってます。世界のさまざまな暮らし方や伝統的住居をみていくと、理顕さんが言うような、そういうタイプの建築の方が多いということがいえると思います。
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布野:本来の、公私の関係を取り込んだかたちの住宅ですね。理顕さんは「閾」というんだけど、51CとかnLDKには「閾」がない。集合の契機となる空間が仕込まれていないということですよ。
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宇野:マンションであろうが、プランが何であろうが、家族をそこに封じ込めて、それで学校に行きなさい、会社に行きなさいという、なにか家族を演じるために住居を与えたって言うのかな。戦後の日本社会のある種の、それは思い込みなのかエスタブリッシュメントが意図したのか分からないけど、みんな型に嵌められていってる。ところが実態はそういう家族形態は少なくなってきていて、変なことになっている。そのずれがどうなっているかという議論の方が面白いというか、関心があります。
住居という場—L空間と住空間の拡張について
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山本:私も、他者を受け入れる空間は大切だと思っているので、そこは山本理顕先生と近いのかもしれないですね。ただ、nLDK空間が家族と結びついているというふうに捉えることは神話だと思うんです。つまり住宅=家族と捉えることです。そこで、あらためて考えてみたいのは、nLDK空間というのは、ほんとうに家族と結びついていたのかという点です。この点は、私が本の中で提起した重要な論点のひとつなのですが、L空間というのは家族の空間というよりも消費の空間、つまり消費者Xの空間ではないかというのが、私の提示した解釈です。Xには家族も、DINKSも、単身者も入るし、様々な居住者が代入可能です。だからこそあの間取りは生き延びているのではないか、と私は考えたわけです。それが良い間取りかどうかという議論は当然あると思いますが、それはまた別の話で、事実としてそうなっているのではないかという議論をしました。
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八束:つまりnLDKは機能的に、家族像でも何でもいいんだけれども、何かに一対一に対応しているわけではなくて、空なる、しかし神話的な力を与える形式であるということですね? ちょっと突飛な連想ですが、マルセル・モースやレヴィ=ストロースがとりあげた「マナ」みたいなものというか、そのシミュラークルというか13?さっき私がいったような日本的な空間のあり方からすると、西欧的な「部屋」というより「空」に近いわけだし。ただそうなると、先ほど布野さんが言ったnLDKとワンルームの自由プランと言う対比はあまり意味がなくなるんじゃない? 山本さんの議論でも、問題になるのはL空間の方でnの個室の方ではない、というかそもそもnは個室とは限らない‥‥?
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布野:直接聞くとだんだん分かってきた(笑)。ただ、また混乱させるかもしれないけどね、僕は「群居」という雑誌をやってたんだけど、その準備号(1982年)の冒頭の論文は小野次郎先生の「住居を街路化せよ」というんです。その次元から組み立てようと思ってきたから、住宅内部のL空間だけには興味がなかった、というと怒られるかな。要するに、あんまり考えて来なかったということなんですけどね。それにそもそも群居に関心があった。もちろん、建築屋としては、現在の家族のあり方に即した空間のあり方を考えたいと思っていますが、その関心はさっき言ったようなコレクティブとかシェアハウスとか、空家の再生の方向であって、超高層マンションの方には向かない。今有り得てしまっているのとなんか違うプロトタイプを探したいということかな。
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山本:わたしは高所恐怖症なのでタワーには住めなくて(笑)、だからなんでこんなにたくさん建っていくんだろう、と素朴な疑問から出発しているんです。そのせいか、まちづくりや都市計画に携わる方々が、なんでこんなものがと批判されるのは、それはそれとして凄くわかって。ただ現実問題として、今の住宅市場を牽引している最後のマスプロダクションはやはりタワーマンションなので、それは事実として分析しなくてはいけない。その居住空間がどうなっているのかは見なければいけない。というのが、私がこの本を書いたときの立場だったんですね。
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八束:これも始め出すと問題が少々ずれるけれども、僕は、超高層マンション擁護派なんです。なんでこんなものがとは思わない。むしろ都市的な観点からして、というのは以前の対論でも出たけれども、僕は大都市集中容認派なものですから。和田先生がおられたら反対されそうですけど。ただ、超高層住宅は、僕にとっては住宅と言う以前に積層した土地であって、住戸プランは重要ではない。というか、むしろスケルトン・インフィルみたいになって、プランのみならず再プラン化というかフロア毎の再開発が可能であるというところがミソだと思う。山本さんは住宅市場と言われたけれど、それ以前に不動産市場でもある。山本さんのおっしゃる消費社会における住居論はしつらえの方にスケールダウンしていきますけれども、こっちの問題ではスケールアップしていく。前者はインフィルの問題だけど、後者はスケルトンの問題になっていくわけです。スケルトンは通常は建築の構造と考えられているけれども、実はインフラにもなり得るわけで。
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布野:スケルトンがインフラにもなるというのはそうだと思います。僕のスケルトン・インフィルの議論は、僕が歩いたアジアのハウジングの現場での議論がもとになっているんです。一般化すると、建築家が規範というか、空間をどこまでセットできるかということになるんだと思います。それは地形に対して一定の空間の型を一定程度つくって、後は、それこそ超高層マンションで起こっているような勝手にやってくださいというようなことかな、と思っています。要するにスケルトンの供給までかなと。
八束:それは分かります。どこまでを計画して、どこまでを住民とか使用者の自由なチョイスに任せるかという話は、実はそんなに新しいコンセプトじゃなくて、コルビュジエは30年代のアルジェとかパリの計画でそういうことをやっている(図2)。インフラとしてのスケルトンだけつくって、あとは住民に任せる手法です。
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布野:ドイツでもヴァクセンドハウス(成長する家)とかあります。
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八束:アルジェだとそこにムスリムの住居が載っていたりする。あの計画を水平にではなくて垂直に伸ばしていけば超高層にアジア的なハウジングが収まり得る。だからそれは対照するというよりは、階梯が違うと思います。メタボリズムの人工地盤も、丹下さんの東京計画の海上住居メガストラクチャーも基本的にそういうやり方ですから。地盤=不動産としてのインフラだけを作っている。
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宇野:竣工しないと使っちゃいけないというのだから、柔軟性が欠けていますね。。それが、結局は、さきほどからの話と全く逆の話になっている。つまり、住宅は民が暮らすためにつくるのに、そしてもともとは戦後復興のためのそこそこの法律で最低基準を国家が応急的に設けただけなのに、いまでは、細部に至るまで国家が指定するように完成させて住みなさいと、家のなかのこと、細かすぎることまであれこれ指図するようなことになっています。今の日本の住宅の在り方は、かなり妙なことになっているということができます。
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布野:だいぶ緩やかになった。確認申請は全部仕様を決定してないといけなかった。そして、それは土地と土地の所有の問題とリンクしている。
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宇野:あと、この10~15年ほどのあいだに、「パワービルダー」と呼ばれる建売業態が発展してきました。地盤のよくない、液状化するような郊外の土地に住宅を大量に建ててきています。20年もしない内にガタがくるような造りの家を30年のローンで購入させるようなことが、今でも日本では政策的に続けられていますね。
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布野:山本さんの本には、住宅経済学として問題にしたほうがはっきりする話がたくさんある。
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八束:生産の話を技術的にとらえるとそういうテクニカルな標準化とかの話になるけれども、もっと大きく流通のシステムまで考えると、産業の問題になる。でも、山本さんの本では、産業の問題に建築家があまり積極的ではなかった、やっぱり、産業の問題=商業主義みたいなのは嫌だったという話があったけど
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山本:そうですね、その点についてはふれています。
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八束:そこが建築家の遅れているところなのかもしれない。コルビュジエという人は若いころ産業の問題をすごく考えていたんですね。ドミノという構法は、第一次世界大戦の復興のために使えるのではないかと考えたものです。あれでパテントとって復興住宅に使ってもらって企業家になろうと彼は本当に思っていた。でもパテント取れなかったから、しょうがないから建築家になったんですよ。ああいう思考というのはその後の建築家にはあんまりなかった。だけど例えば、丹下さんにはそういう意識があったし、一番あったのは大高正人さん。さっき法律の問題があったけど、人工地盤はストラクチャーだけど、大高さんや藤本昌也さんは、あれを土地として法的にも扱いたかった。それをするためにはどういう法改正をしたらいいかというのを『ジュリスト』とかそういう雑誌で議論している。結局なんにもならなかったけど、そこまで踏み込んだ話を建築家がやる覚悟があるのかどうか、という広い意味での生産の問題はこの間ちょっと言ったのだけど、対論で取り上げるべき次の問題としてはあるのかなという感じがします
住居における近代と前近代
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宇野:整理のために発言していいですか? 僕は、1955年から59年まで、1歳から5歳までのあいだ、51Cとほぼ同じプランの団地で育ちました。祖母が和歌山から東京のその家を訪ねてきたときのこと、「なんでこんな小さく窮屈なところに、あなたたちは住んでるのか。東京はひどいところだね。早く帰ってきなさい」(笑)って。3階だったのですが、「空に浮いてるみたいで落ち着かない」っていって、すぐに帰っちゃったそうです。なぜ彼女がそういうことを言ったかっていうと、都市部が全部戦争で焼き払われて家がなくなっちゃったわけで近代建築がたてられていくのだけれど、都市部じゃないところでは昔ながらの生活が維持されていたからですね。当時の日本では、まだ地域性が色濃く残されていて実に多様な型の家に暮らしていたわけでしょう。多様な生活でもあった。都市部は近代化されて標準的な建築標準的な暮らしへと均質化されていくなかで、一方で、そうした多様性も残されていたのだと思います。
一方で「引き揚げ」がありました。戦前の日本は、産めよ増やせよと人口拡大が国是でありましたから、外地へどんどん人を出して拡張していったわけですが、戦争に負けて、一気に多くの人が内地へと戻ってきました。で、焼け野原と引き揚げによって、都市部では、もの凄い数の住宅の困窮者が都市部にあらわれたのです。
さきほどの文脈につなげていえば、吉武研究室は戦後復興を担った若い研究室だったのだと思います。戦後に再編された国や地方公共団体から復興計画の立案、耐火建築すなわち近代建築による公共施設の建設を軸に復興計画の策定を依頼されています。そこで、まず住宅が要るね、庁舎がいるね、学校がいるね、病院がいるね、図書館がいるね、、、と機能施設が高度成長にむかう日本の都市の復興で必要とされていったわけでしょう。配置計画を含めた機能施設群一式の具体的な都市計画を総称して建築計画と呼んだのでした。
鈴木成文さんというのはちょっと違って、仏文学者の息子さんだったからか、基本的に啓蒙主義を貫かれたのだと感じています。まだ、建築における近代技術が未熟な時代、東京では都市部の湿地帯に居住する相当な数の人が出てきます。地方から流入する人で、劣悪な居住環境のもとに暮らすことを余儀なくされる人が大量に発生したわけですが、成文さんは、弱者を救おうという考えがあったのではないか。細民救済といっていたようで、ある種の近代的啓蒙主義といえるかもしれません。今でいういわゆる「上から目線」ですね。鼻持ちならないと感じる人もいまでもいるかもしれませんけれど、大戦を挟んだ激動の時代、当時はそういうことだったんだろうなと思います。ですから、なんていうか、僕なりに思うのは、吉武さんの建築計画学と鈴木さんの建築計画学へのスタンスないしアプローチの違いは、戦後復興のプロセスにおいて、とくに建築の近代化のプロセスにおいて、どこに重きを置いたかということで、いずれも、日本の都市における、近代建築の導入期から発展期に、統治と生活文化の両面から、戦後復興から高度成長の近代都市を構築していく一時代のフロントを担ったのだと考えています。
要するに、日本では、東京、大阪、名古屋をはじめとする大都市部では近代化が爆発的に進展するなか、地方では伝統的な多様な暮らしが残されていた。全体を見ると、51CにはじまりnLDKといった型に嵌った家族観の中にプランがあり、プランができたからそうした家族観を皆がイメージするようになった。統計的にデータをみると、実は20%くらいしかないものが、皆がそうしているかのように思っちゃった、と。ある種のイリュージョンを見つつ、われわれは暮らしてきたのではないか?とか、そうした問題について議論してもらえれば、って思います
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松下:ですけれども、地方に伝統的にあった多様な住空間と言うのは、とくに女性の見地からすると、むしろ束縛であったりもしたのではないですか? 専業主婦や女中さんのような使用人がいてこそ成り立った空間というか。浜口ミホさんではありませんけど、近代住宅がそれを解放しようとしたということは見逃せないような気がしますが。
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八束:最初の会で言及した韓国の超高層住宅に対する女性たちの見解もそんな感じですね。近代以前と近代の関係と言うのは、なかなか一様には総括出来にくいとは思います。家が一家の団欒の場になる(と考えられるようになった)のは基本的に近代の構図ですね。先ほどの寝殿造なんかでは、主が主催する年中行事の空間をどうしつらえるかが最重要な問題で、家族は北の庇、つまり奥の方のマイナーなウィングに押し込まれた。それを代表する女主が奥方とか北の方とか呼ばれたのは、そのためです。封建期の民家だって、大正時代の文化住宅だって、実は生活のための空間は住宅において最重要とは見なされていない。だから西山さんのいうように団欒空間には還元できないにせよ、居間を住居の中心に仕立てたのをモダニストたちが封建的な要素からの解放と考えたのはそれなりの理由があったと思う。僕は、基本的にモダニストなので、以前の方が良かったといういい方には基本的には与しないのですが、ただそれは、絶対化は出来ない。
その意味で僕の経験で非常に面白かったこと、個別の作家の仕事として「へえ」と思ったのは菊竹清訓さんの「スカイハウス」なんです。あれは、ご存知のようにピロティの上にワンルーム空間があって、山本さんのいわれるL空間ですね。それを菊竹さんは「夫婦愛の空間」って、凄いネーミングをしたわけです。それで、僕はずっと、戦後というのが、核家族、それも夫婦という基本単位をベースにして出発する、というモダニスト菊竹清訓のマニフェストだと思っていたの。そしたら、ご本人にお話を聞いたらそもそも思想的なルーツからして全く違っていた。
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宇野:庄屋さんですね。
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八束:そう、庄屋さんというか大地主なんです、菊竹家って。福岡県の三分の一だか半分くらいをもっていた。それが戦後の農地解放でGHQに全部取られちゃうわけ。で、晩年になってそれの恨み言を延々というようになったんだけど、それは良いとして、菊竹さんの庄屋の家というのは、もちろん土間があるから生産の場でもあるし、周りの小作人の人たちがみんなそこにやってくる。庄屋さんはそういう農村じたいをマネジメントしていた。それを、GHQなんかにのった農林省の連中は分からずに、全部取り上げて民主化するのが正しいと思った、あれは大間違いです、とおっしゃる。で、私の「スカイハウス」は、そういう家族を超えた住空間なんだ、というわけ。布野さんが言及された小野次郎さんの「住居を街路化せよ」というのに対して、農村共同体の中心広場化した住居なんですね、これが。集合住宅の型におけるセミパブリック・スペースというのもそれですよ。だから、子供の部屋はその下に、ムーブネットとして吊るしておけばいいと。隔離就寝ユニットね。これは他のメタボリスト、たとえば黒川紀章さんなんかだと、近代的な個に対応するのがカプセル(菊竹用語ではムーブネット)なんですが―黒川さんだとその手の中心的空間はあまり重視されない―、スカイハウスでは、そこに重点はないんですね。この中心のL空間に周りの人たちがほんとうに入ってきたかどうかは、僕は知らないけど、イメージあるいは理念としては、彼はそういう・・・。
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宇野:おっしゃるとおりだと思います。
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八束:だからあれは、近代に抗する住宅だったということが、ご本人の話を聞いて初めて分かった。もちろん、それは庄屋目線での話であって、さっきの女性の住み手の問題のように、小作人あるいは使用人目線ではまた違う話があって不思議はないですが、近代家族というパラダイムを相対化する事例とはいえる。清家さんとかはオーセンティックなモダニストですが、丹下さんとか菊竹さんはちょっと違うんですよね。コールハースも、菊竹イコール・モダニストだと思ってたけど、話を聞いたら違う話が出てきてびっくりしたというのが『プロジェクト・ジャパン』のなかにあるけど、僕のと同じ話です。
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宇野:八束さんがオーガナイズしたメタボリズムの展覧会で、いくつものプロジェクトが紹介されてましたけど、そのうち、黒川さんの農村計画と菊竹さんのスカイハウスというのは、水田がベースにあるプロジェクトでした。水田というのはときに洪水を起こすところで、だから持ち上げるだと考えています。ピロティですね。音羽の山14に洪水は来ないんだけど、コンセプチュアルに、菊竹さんはそのことをイメージする凄い強力な力を持ってられました。いずれも、日本の伝統地域を現代化するプロジェクトで、伝統と近代の接続の仕方がとびぬけて先鋭的前衛的でした。
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八束:農村都市計画の住居タイプは、元はK邸、つまり黒川自邸の計画で、やっぱり柱の上に立っている。多分スカイハウスの影響でしょう。けれどもスカイハウスって、最初の案はピロティの上に無いんですよ。どかんと地面の上にある計画案が載ってるの、雑誌に(図3、4)。他のところは全く同じなんですけど、それをなぜか空中に持ち上げたんだね、実施案で。
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宇野:久留米では頻繁に洪水があったそうですね。
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八束:筑後川の反乱ですね。治水は地主さんの仕事だったというわけです。彼はお会いする度に、いかに久留米でみんな洪水に苦しんでいたか、東京の下町でもそれがあったと強調してました。
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宇野:そうです。
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八束:だから、海上都市とか江東地区を念頭にしたフローティングシティみたいなことをやったんだと、ずっと言ってらした。
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宇野:丹下さんの場合も原型は、桂離宮や厳島神社ですね。桂は、水をかぶる土地にあるのでそのように高床の建築となっていますし、ファンズワース邸もまた洪水にあう敷地に建てられています。いずれも、水面上の建築ということができますが、ある種の強力なイマジネーションで、建築を空中に持ち上げたところが、丹下さん、菊竹さん、黒川さんの凄いところで、日本の近代建築家のオリジナリティでしょう。で、言いたいのは、冒頭の話しでは、家族とプランの話に収斂してたんだけど、こうした住宅プランが生まれた元々のところ、当時の日本の居住文化の状況はもっと違うところにあって、近代と伝統のあいだに横たわるギャップやブリッジが、当時の日本社会や建築家に、ある種の勘違いかイリュージョンを生み出して、そうした中からオリジナリティとクリエイティビティ溢れる建築がうまれたんじゃないかと思います。
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布野:建築家というのはいくらでも空間の提案とかができるわけですよ。ただ今日の話としては、それと社会的総空間の編成の問題と結びついている必要がある、ということだと思う。
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八束:それはもちろん分かっています。本筋からは少しそれたかもしれない。山本さんは社会学的なことをとりあげているわけだし、布野さんは正統かどうか知らないけれども計画学を代表しているわけだけど、建築家の実践と言うのは所詮個別の例であって、特殊な形でパラダイムを反映するにすぎないことは承知しています。
ただ僕が言いたかったのは、宇野さんの、昔は日本の津々浦々にいろいろな住まい方があったという話があったじゃない、それと51CでもいいしnLDKでも公団でも商品住宅でもいいけれど、これをモダニズムのパラダイムとしても、それは完全に違う話として切れているかどうかというと、もうちょっと話は混みいっているのではないのかということなんです。そういう意味で言うと、スカイハウスのL空間も理顕さんの働く場(SOHO)の再導入というような話も、新しく出てきた訳ではなくて、元々近代以前の住宅は洋の東西を問わずそうだったわけだし・・・
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布野:古くて新しいテーマということですか。若い世代には新たな課題が浮かび上がっているという問題意識があるわけでしょ。山本さんの臨界っていうのはどういう状況をいうんですか、臨界点を超えると何が起きるの?
臨界 そして再度規範と計画について
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山本:臨界という概念については、本の終章の注のなかでも説明を行っているのですが、そこにも書いたように、臨界点を超えると終焉を迎えるという話になっていくと思います。ただ私は、マイホーム神話がカタストロフィを迎えた、つまり終焉したとは捉えていなくて、その手前で不安定な状態にあると考えています。いわば拘束力が弱まっていると思っていて、そうしたクリティカルな状態にあるということを表現したくて、あえて臨界という言葉を使いました。
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八束:先ほどの宇野さんの発言で、労働者のための住居、兵隊としてどっかに稼ぎにいかなければならない家みたいな話がありましたよね。山本さんの後半ではマイホーム主義の問題をそれに応える形で論じていると思うのですが。
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山本:本の三章では、マイホーム主義に関する先行研究について言及しているのですが、いまのお話との関係でいえば、私の修士時代の指導教官である見田宗介先生の議論が重要になってくるかと思います。見田先生は、マイホーム主義の背景には、産業構造の転換に伴う農村の分解と都市への大規模な人口移動があったという点をご指摘されているんですね。つまり、マイホーム主義というのは、ささやかな自分たちのマイホームをつくることを通して、農村から都市へと生活の拠点を移した出郷者が味わった家郷喪失の感覚や、退路を断たれた不安から生じるアノミーの意識、両者をともに代償するものだったということをおっしゃっています。
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八束:丹下さんの「東京計画1960」の冒頭の議論というのは彼の博論から来ていますが、地方から大都市圏への人口動態、産業的には一次産業から、二次、三次産業への移行という問題を取り上げていて、農業人口の多さ(当時の)は将来の都市人口の予備軍であって、それが東京と、もはや一次産業がはっきり減少していていわば増え代のない西欧の大都市と違うところだといっています。それ以前の丹下研の研究では、住居は殆ど量ないし政策の問題として扱われていて、質ないしプランやデザインの問題としては扱われていない。丹下批判はそういうところをつくのだけれど、僕はそれに必ずしも与しないんですね、人口減少期といわれる現状においてすら。減少しても集中が止まるわけではないから。
ところで、山本さん、もっと最初に聞くべきことだったと思いますが、規範という言葉はこの本の中でいたるところで出てくるのだけど、近代家族制にせよ、規範そのものの存在をそもそも否定されているというわけではありませんよね? 限定つきであることはいいのですが?
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山本:社会規範をどのように捉えるのかは、社会学の根本問題のひとつですので、非常に重要なテーマだと思っています。この点については、本の序章でも触れていますが、私は、規範が存在するか否かは原理的には知りえないという立場です。もう少し説明すると、分析者に行うことができるのは、経験的事実を媒介に、規範の存在の可能性を思考することだと考えています。たとえば、互いに顔を見合わせたこともない人々が同じような生活実践を行い、それが繰り返され、蓄積されていくとき、人々の実践が残す痕跡の無数の合致から、そこに何か共同主観的なものがあると考えざるをえないと解釈すること、それが規範の存在の可能性を思考することだというふうに捉えています。
私の理解では、建築計画学というのは、あくまで人々の住まい方の実践から経験的事実の水準にある居住規範を捉えようとしていると思うんですね。その意味では、いわば規範を経験的事実の関数のように捉えていて、規範を実体化する陥穽を上手くかわしつつ、素朴実在論を回避していると思うのです。ただ、それは建築計画学の現状分析の側面で、将来の方向性に関するプランの提示の側面では当為命題に近い理念的な規範も同時に扱っていると思います。
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八束:僕は、基本的に計画はすべて規範に関わるので、規範というのは簡単には捨てられないと思っている。それは山本さんの批判されるように、実体化されたものとして絶対化ないし固定化するのではなくて、イデオロギーではあるのだから、常に相対化する必要があるとは思いますが、かといって計画側からすると、作業仮説としての規範を考えないわけにはいかない。上野さんみたいに色んなタイプを用意すればというのは、まぁ、nLDKでn=1にすれば「おひとりさま」用タイプではないのかという気もするけど、それはともかく、浅い意味での標準化を均していくだけか、あるいは無イデオロギーという計画のニヒリズムにつながりかねないという気がします。
僕は今、「汎計画学」というのを次の仕事にしようと思ってやっているわけですが、それは計画の世紀が20世紀で終わった、ポストモダンの登場以来世の趨勢はアンチプランニング、アンチ規範であって、それが21世紀だという風な考え方に対してあえて抗してみようと考えていて、この間出したコルビュジエの本の最後にフーコーを出してきたのは、フーコーの仕事はずっとカンギレームとかを取り入れながら、規範を問題化しているじゃないですか。それを、簡単に批判をするとかいうスタンスではなくて。その問題に対してこの山本さんのご本は、内田さんに師事されたからかどうかは分からないけれども、規範の問題は非常に巧みに取り入れていると思う。言説としての規範の問題ね。
僕は30年くらい前に『批評としての建築』という本15を書いて一部の人には評価して頂いたんだけど、自分では建築が批評であるというのはどこか逆立ちしていると思いはじめたので、もう一度考え直そうと思って、広い意味でのプランニング論を、経済理論の話からやり直そうと考えている。そこを考えると「建築計画学はポストモダン以降自信をなくした」という布野さんの発言はよくわかるけど、気に入らないのよ。どう思う?
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布野:八束さんがそういう言い方するのはわかります。
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八束:そこで、吉武・鈴木計画学の正嫡たる布野修司が逃亡されては困る。成文さんに批判的だと言うのとはまた別ですけど。
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布野:逃亡する気はない。
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八束:心強いですね。先ほども建築計画学のスピリットは脈々とつながっているといいうことだったしね。是非そう願いたい。
住居からコミュニティの方へ?
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布野:僕が大学院とかの頃に考えていたのは、住戸計画の限界というか、住戸内でのみ考えることの限界ですね。それをいかに広げるかという問題意識は、一回り上の先輩にも共有されていて、というより、むしろ教わったんです。例えば住宅地計画に拡大していくときに武器は一体何かということです。住戸計画では、食寝分離とか隔離就寝、公私室分離といった、ある種のルール、規範、原理みたいなものを基にしてきたわけですが、住宅地計画としては何が手掛かりとなるのか、ということですね。それで鈴木研究室は領域論を始めるんです。松川淳子先生が中心です。K.リンチの『都市のイメージ』が出て何か武器になると考えたんです。空間をつくっていく、ツールとか、ボキャブラリーとか、コンセプトとかが得られないかと期待したんです。僕もイメージマップ法とか、写真識別法とかいろいろやりましたよ。
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八束:アメリカの行動心理学みたいな?
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布野:環境心理学というディシプリンになっていきます。一冊本16を訳したりしました。ランドマークとかパスとかエッジとか、シンボル配置論というのがわかりやすいかな。どういうふうに住宅地を構成していくか、住戸を積み重ねるのはもう限界がありますよという。それはなかなか上手くはいかなかったですけども。
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八束:その概念的なスケールアップでは、家族なり家庭なりの上の段階として、コミュニティとか地域というのがあるのかという話になっていくと思うんだけど。
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布野:どういう住戸配置が住民同士の関係を生むかというソシオメトリックとか、社会学的な調査とかも、当然関心があってそういうことをやって広げていこうとしていた。
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八束:住宅を超えたスケールということで、山本さんは先にも触れたように、東大のまちづくり大学院の「都市社会論」の一連の講義にも関わられているわけですね? 今日のイヴェントは「コミュニティ幻想」と一方で歌っているのだけれど、こっちはあまり話がいっていないので、それにちょっと触れて頂けませんか?
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山本:「都市社会論」の講義は、似田貝香門先生と森反章夫先生が中心となって運営されていて、林泰義先生と祐成保志先生も参加されています。今年は8年目にあたるそうで、私は今年からの参加ということもあり、まだあまり全体のしくみをよくわかっていないところがありますが、簡単にご説明すると、講義計画は「被災地復興論」「現代コモンズ論」「まちづくりの歴史」という、三つのテーマから構成されています。各テーマの後には、中間的総括という講義の回が設けられており、祐成先生と私はテーマに沿って議論を提起して、学生との対話を活性化するという役目を担っています。前回の講義では、「現代コモンズ論」の中間的総括を行ったのですが、私は、「コモンズ」というのは難しいなと感じているところです。
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八束:というのは?
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山本:コモンズとコミュニティの違いが、いまひとつ上手くつかめなかったからです。いいかえれば、コモンズという言葉を使う積極的な必然性が正確にはわからず、少し考え込んでしまいました。それと、これは授業とは直接関係のない私自身の問題意識ですが、現代の都市をコミュニティ論で語ることの適切性について、前から少し疑問に思うところがあって。というのも、「現代の地域社会には、かつての村落共同体に見受けられたような『共同性』が失われている。だから人々の主体性と連帯性を回復させ、『共同性』を取りもどさなくてはいけない」という説明が社会学ではよくなされるのですけれども、こうした疎外論的な問題構成は、都市の本質を見逃しているような気がするのです。都市の本質は、共同体を越境する領域性にあるのではないかという気がして。共同体を積分していけば都市の存在が見えてくるという発想には、どうしても馴染めないところがあります。
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八束:家族論に基づく住居論への疑問と同型のものですね?
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山本:現代コモンズ論や現代コミュニティ論というように、あえて「現代」という言葉を使用する意図や含意は、かつての入会地や村落共同体のように慣習による強制ではなく、人々の「自由な意思」により主体的に形成されているのだ、という点を強調することにあるのではないかと、私は思うんですね。ただ、こうした主体性に重きを置く社会契約論的な説明の仕方が、ほんとうに現代の都市における人々の集住や社会関係の構成論理を考えるときに有効といえるのかと考えると、すこし疑問を感じてしまうところがあります。
というのも、社会契約論的な思考というのは、契約の拘束力が及ぶ範囲として一つの閉じた領域を想定し、その外部と内部を峻別しますよね。ただ、こうした内部と外部の分節は、領域の外縁や構成員を確定しやすい小さな共同体においてこそ、最もよくあてはまるものだと思うんです。しかし都市というのは、その外縁も構成員も常に流動的であり、絶えず変化していますよね。そこが都市の魅力の源泉でもあり、存在の条件のようにもみえるので、都市における集住や関係の論理を、社会契約論とは異なるかたちでも考えなくてはいけないのではないかと、私は思っています。
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宇野:全面的に賛同します。建築計画、都市計画分野でいまだ旧来の議論が繰り返されていることに驚きとともに関心を覚えます。なぜ、現代都市の本質と離れたところで議論が繰り返されるのか?
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八束:うん、だから家族にせよコミュニティにせよ、疑問を持たずにそこから演繹してしまうのはとても拙いと思うんですよ。それはポリティカル・コレクトネスの一変奏でしかない。
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布野:コミュニティ・アーキテクトとか言ってきているんですが、コミュニティというのは、昔からそもそも胡散臭い概念と思っているんです。コミュニティ幻想というのは、僕もそう思います。共同体というのは二重性があるわけですね。大塚久雄17は「固有の二元性」といったかな、共同占取と私的所有、集団性と個人という矛盾する二つの要素のせめぎあい、ということなんだけど、平たくいうと相互扶助の共同性と側面と共同体規制の側面がある。僕は、最初にフィールドにしたインドネシア、スラバヤのカンポン(都市村落urban village)は、エル・テーRT(隣組),エル・ウェーRW(町内会)というコミュニティ組織が実にしっかりしていて相互扶助活動によって生活が支えられている。この町内会組織は日本軍が戦時中に持ち込んだものというアメリカ人の学位論文があるんですが、戦後も維持されてきた。インドネシアはゴトン・ロヨンgotong royongすなわち相互扶助は国是なんです。しかし、一旦選挙になると集票マシーンと化す。スカルノ、スハルトの開発独裁を支えたのがカンポンのコミュニティです。実体がないのにコミュニティ、コミュニティと言ってもしょうがない。マイホームも神話、コミュニティも幻想、山本さんの本のタイトルは実にいいと思います。では、どういう関係がつくり出されていくべきか、あるいはいくのか、そのための空間はどうあるべきか、ということですね。
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八束:じゃ質疑に移りましょうか?
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松田達:今回、山本さんのご著書をまだ読めていませんので、あまりちゃんと理解できていないかも知れませんけれども、ぜひお聞きしてみたいなと思ったのは、社会学者(もしくは歴史人口学者)のエマニュエル・トッドはどのように受け入れられているのか? また似たような手法の研究が日本にあるのか?ということです。
山本理顕さんに6年前にインタビューさせて頂いたときに、ずっとトッドの『新ヨーロッパ大全』の話をされていた18。トッドは親子関係が自由か権威か、兄弟関係が平等か不平等かで、家族関係を四つに分類することにより、ヨーロッパにおける複数の家族類型を示すわけですが、その家族類型と、各国で例えば集合住宅を好むのか戸建住宅を好むのかという居住形態との関連に、明確な相関があることを、理顕さんはおっしゃっていました。
先ほど「nLDK空間が家族と結びついているというふうに捉えることは神話」だというお話がありましたが、ヨーロッパの場合は家族類型と居住モデルの関係にも原則が複数あり、神話といってももう少し複雑なものを想定できそうな気がします。ひるがえって日本の家族類型を、例えばトッドと似たような手法で分析していったとすると、居住空間との関係に何か新しい知見みたいなものが生まれる可能性があるようにも思えたので、御意見をお聞きしてみたいなと思いました。
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山本:家族社会学では、かなりトッドは参照されていますね。ご質問が、まだ正確にはつかめていないのですが、トッドの理論との兼ね合いからすれば、もっと日本でも家族と住宅を結びつける神話のバリエーションが考えられたのではないかというご質問でしょうか? それはちょっと、お答えすることが難しいのですが・・・。
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松田:僕も今日の話をしっかり理解できていない部分があり恐縮ですが、トッドの場合は親子や兄弟の関係に踏み込んでいくわけですし、家族を人数だけで読み込まない方法が示唆されているように思いました。また理顕さんのお話も踏まえれば、家族類型と内部の空間モデルとの関連より、戸建住宅と集合住宅の違いの方をより大きく見るという視点も示唆されているように思いました。トッドのような別視点の分析により、もし日本において必ずしも人数によらない形での複数の家族類型が示されれば、それによって規範と住宅の関係に関する議論に影響がないのか、そのあたりの議論の前提条件との関係に興味があったのです。
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山本:複数の家族類型ということで、どのようなことをお考えになっていらっしゃるのかしら。たとえば、誰と暮らしているかを考えたときに、夫婦と子どもからなるいわゆる「核家族世帯」の場合もあれば、三世代同居や親戚のおばさんも住んでいるような「その他の親族世帯」の場合、あるいは血縁じゃない人と住んでいる「非親族世帯」の場合もあると思うんですね。そういう世帯類型ごとに住まい方が違うということはその通りだと思うのですけれども。
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八束:トッドの議論は面白いけれども、基本的には文化人類学だから射程がうんと長いし、複数というのも平面的ではなくて立体的なマトリックスですから、山本さんのようなもっとミクロな分析とはあんまり直接関わらないのではないかな? nLDKから脱nLDKへのシフトに複数の家族類型があるという話を介在させると、また家族類型というのを前提として引っぱり出すことになりかねないし。
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布野:今回の討論のポスター『マイホーム神話とコミュニティ幻想』をフェイスブックにあげたら、奈良女子大におられた西山夘三スクールの西村一朗先生が「ということは個が強大になるか、コミュニティを超えたものに期待するしかないんですかね?」とコメントが来た。あ!そういうことかな、とちょっと思った。コミュニティを超えたものというと国家が前面に出てくるのかな、今の状況とはそういうことかなと。要するに今の少子高齢化だとか、家族も崩れるは、コミュニティもぐじゃぐじゃになっているときに、なにを信頼するの、どういう空間に依拠していくのか、国家が強大化していく方向が既に見えている。
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八束:それは、簡単には答えは見つかんないでしょ? それをむしろ簡単に見つかっているかのごとき言説が未だにいっぱいあるのが問題だ、という話ではないの? さっきいったように、安易に家族に立脚した住宅論もそうだし、コミュニティ概念に立脚した共同体とか地域の計画の話もそうだと思うけど。
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宇野:冒頭に触れた、国民国家(Nation State) と国民の関係を組み立てて近代日本は百数年やってきました。しかし、現代に至って、国民国家はかつてのように作動しなくなってきている。企業は国境を乗り越えて活動を展開し、個人も国境を乗り越えやすくなり、さらに情報が世界を大量に多様なチャンネルで行き交うようになりました。グローバル都市間の経済競争が社会的な影響力のある主要なゲームとなりつつありますし、強いプレーヤーは楽々乗り越えるので、物理的な環境に拘束される面が相対的に減少しています。建築のポジションが変化している。また、現代日本社会の実情から住居のこれからを考える上でポイントとなるのは、物理的な資産ないし遺産として次世代に譲り渡せるか否かという点にあります。物的に構築した建築や都市を資産として継承する社会メカニズムが崩れていますから、築きあげた建築をたやすく廃棄してしまうようなことが続いています。100年住宅とか、近代遺産の継承とか、言われていはいますが、社会的な力となっていかない。なぜかといえば、実態として相続できない社会制度と社会メカニズムのもとで日本社会が営まれているからでしょう。
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山本:相続税も変わりましたからね。
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宇野:建築を相続したり、継承したりする仕組みが社会にありやなしや、という話までいきつくわけです。ただ、今日の話は住宅と家族がテーマですから、住宅に限って言えばいいのでしょうけれども、じゃあ今自分たちが住んでいる家が子供たち孫たちに継承されるのかというと、現在の我々はそういう生き方はしていないわけですよ。個人の意思で職業や居住地を選択できる、すなわち流動化する社会において、便利で自由な時代の生活を享受しているのだけど、その行きつく先に家族と住居はどうなっているのかというような討論が、今日僕が聞きたかったことでした。皆さんが、こうした点をどのようにお考えかは、次の機会に是非伺えればと思います。
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八束:そうですね。また相応しいゲストをお呼びして議論しましょうか? そのほかにご質問は?
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古瀬:nLDKに関して、どちらかというと都市と郊外との関係が日本と比較的近いのはイギリスとアメリカだと思う。戸建てがかなりメインで、例えばイギリスなんかはセミデタッチドだと、鏡対称なわけだけど、下がパブリックな、日本で言えばLDKにあたる空間で、上にバスルームと寝室がある。あれはどちらかというと日本の戸建て住宅に上手く合う。それが日本に入ってきたという側面があるのではないかと思っている。ヨーロッパの城壁で囲まれた町はもともと五階建てくらいの石積だし、どちらかというと51Cの流れに近いのではないか。nLDKはちょっとそれとは違うところから入っているのではないかと思う。
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山本:私もnLDKの起源については、いろいろ調べてみたのですが、結局、わかったことは二つ説があるということまでで。つまり、一戸建ての系列に起源を求める解釈と、集合住宅の系列に起源を求める解釈の二つがあるということですけれども、どちらも言われていますよね。ただ、社会学者が議論したのは51Cをめぐる解釈だったので、今回の本のなかでは、集合住宅の系列の説に着目しました。ただ、先生がおっしゃるように、戦後の小住宅の設計など、戸建ての系列についても検討することが必要だと思います。
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八束:外国の話が出たついでに、山本さんに少し前にご紹介したけれども、ロバート・フィッシュマンの郊外論は、今の話に通じていて、それまでは都心にみんな雑居して、仕事場も住居もブルジョアもプロレタリアも一緒くたでいたのが、ブルジョアジーが外に出ていってそこから旦那だけ都心に通勤してくるようになった。女房、子どもをあんな労働者のくさいやつらと一緒にできないというイデオロギーが出来てきて、それを媒介するのが福音派の教会なのだけど、それで、弱者としての女、子供を抱え込むという近代家族(あくまでブルジョアのということです)のある種のいやらしい原型がイギリスの郊外に出来て、それを労働者階級が田園都市で真似してという、話なんですね19。海外での、西洋に限ってもいいけれどもそういう家族の形態、居住の形態が日本に入ってきてどう同じでどう変容していったのかというのは分析する意味はあるだろうし、ちょっといきなり話が飛んでしまうけれども、宇野求流にいうと、割と最近まではそれは海外の話だから日本の家族の問題とは違うと言っていられたけれども、今はいきなりどかどかっとそういうのが入ってきてグローバルリズムという問題にまた接続されてしまうわけですね。布野さんのアジアの居住形態からの問題提起も同じ。
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宇野:日本は、例えば外国人、移民を認めないと言っているけれども、実状からいうと大都市圏のサービス業で従事している人はかなり外国人の若い人ですね。彼らは実際日本の都市に住んでいるわけで、実に面白い住み方をしているのだと思います。ですから、エスニックというよりはグローバルな都市状況の視点から、いろいろな国の人が行き来を始めている都市と建築の新しい有り様みたいなことに光を当てて、面白い討論をしてもらえたらって思います。
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八束:そうね。僕も移民導入論者だからそれは面白いと思う。移民だと尚更家族論なんて簡単には語れないだろうけど。
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布野:田園都市論というけど、その背景のひとつには植民地体験がある。E.G.ウエイクフィールド20の体系的な植民地化の理論が参照されている。ロンドンの郊外住宅は、労働者階層がインドに行って住んだ緑に囲まれたバンガロータイプの住宅をモデルにしたという説が強い。
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宇野:一つだけ日本の住宅を擁護しておくと、クリーンで便利に出来ているということは、世界中の誰でも言いますね。金持ちでも、そうでなくても、どんなバックグラウンドでも、家が広くても狭くても、東京で暮らしている外国の人は、日本の家は実に綺麗に便利に出来ているって思ってくれてるようです。
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八束:それは誰が立派なの?
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宇野:分かりませんけど、、、メーカーじゃないですか? 空調とか水道とか冷蔵庫とかそういうあたりのことでしょうか。あと、コンビニエンスストアも便利だと驚かれますね。
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八束:それは近代化、消費文化の洗練の勝利ともいえるのかな? 宿題としましょう。
(文責 八束はじめ)
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