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2022年10月12日水曜日

エースが何人も欲しい 久米設計の元気の秘密,日刊建設工業新聞,19990118

 エースが何人も欲しい,日刊建設工業新聞,19990118

エースが何人も欲しい

久米設計の元気の秘密

布野修司

 

 久米設計の組織力とは何か。その総合力はどこにあるのか。フレキシブルなチームワークと言われるもの、個を生かす組織のあり方とはどのようなものか、というのがテーマである。もう少しストレートには、久米設計が実に元気だ、その元気の秘密に迫ってみたいということである。この未曾有の不況に元気とはうらやましい。是非、その秘密を知りたいと、突撃取材を試みた(忙しい時間を割いていただいたのは、代表取締役副社長・石村孝夫、取締役副社長・岡本賢、常務取締役・平倉章二、取締役第1 設計部統括部長・大牧民、大阪支社長・小笠史郎、大阪支社部長・上出利裕、大阪支社主席課長・竹田芳之の各氏であった。各氏の発言の引用についての文責は全て筆者にある。)。

 

 オープンな空間・・・自慢のオフィス

 本社を訪れ、まずは一通り案内して頂く。

 ご自慢のオフィスである。普段大学の蛸壺にいるから、心底うらやましい。図書室など設計に関する限り大学の図書館よりは充実している。実に伸びやかなアトリウム。スケールがいい。フレキシブルな新しいオフィス空間というのはこうなのか、という感じだ。上から、構造、設備、四部の意匠設計部がアトリウムを挟んで配置される。床に照明装置を埋め込んだブリッジがアトリウムを飛んで両方の空間を実際にも象徴的にも結びつけている。アトリウムと執務空間はエアーカーテンで仕切られるのみだ。視覚的には全体がつながっている。なんとなく一体感がある。もちろん、各チームの間にも間仕切りはない。開けっぴろげの空間がひとつの解答を物語っている。久米設計の組織の有り様がオフィス空間のオープンな構造に既に示されているのである。

 地下には食堂、カフェ・バー、夕方からはアルコールも飲める。実に居心地がよさそうだ。川に面したテラスなど臭いさえなければ夏など気持ちよさそうだ。もう少しハングリーじゃないと建築家は鍛えられないんじゃないかなんて憎まれ口のひとつも叩きたくなったのであった。

 

 久米設計とは・・・

 「久米設計とは」といきなり切り出す。反応は様々であるが、全体として一体感が伝わってきた。「ハイカラな感じ」「アトリエ的雰囲気」(石村氏)「総合力」(岡村氏)「組織力」(平倉氏)「家庭的」(大牧氏)といったところが咄嗟に出て来たキーワードである。

 大阪支社でも冒頭に同じ質問を繰り返した。「業界の中ではいつも雄であっていかないといかん。リーディングカンパニーという気持ちを持ってやっていかないといかん。それが久米設計の第一要素、条件ではないか。」とおっしゃったのが小笠氏、「大変若い組織。仕事はしやすい組織」とおっしゃったのが上出氏、「個人の顔が見える組織体(であってほしい)」とおっしゃったのが竹田氏である。

 

 権九郎という原点

 石村 久米権九郎はドイツで勉強して帰ってきてますから、非常にハイカラな感じでスタートしています。最初から個人を大事にした会社でした。権九郎が始めた個人的な事務所なんです。私が入社したのは昭和二十八年ですが、アトリエ的な雰囲気でした。久米先生が社員の間を回ってスケッチを描きながらやっていくんですが、個人の特性を伸ばそうということで、かなり自由にやらせてくれたわけです。二年目ぐらいから自由な設計をやった記憶があります。そういうことを許してくれた組織だったんですね。

 布野 任せたら全然口を出されないんですか。

 石村 いや、自分でスケッチを描くんですね。最終的にまとめたら任せました。途中で「ちょっとどいて」と、4Bぐらの鉛筆でスケッチして、「このほうがいいんじゃない?」というようなことでね。

 

 まず、挙げられるのは「伝統としての久米権九郎」(岡本賢、『新建築』199710月)である。そもそもアトリエとして出発したこと、ヨーロッパ仕込みのまた育ちのよさからくる「ハイカラ」な感じである。山口文象、前川國男、坂倉準三といったヨーロッパ帰りで日本の近代建築を華々しくリードした建築家と久米権九郎の文化圏は少し異なる。そもそも構造家として出発した経緯がある。

 

 技術の総合・・・多様なスタイル

 岡本 久米先生自身がデザイナーに特化した建築家のスタイルから出発されなかった気がしますね。要するに建築を単純に意匠デザインじゃなくて、技術を含めた総合的なものとして捉えられている。木造の耐震構造ということで、シュツットガルト工科大学で学位を取られて、ロンドンのAAスクールを経て戻ってらした経歴がある。

 布野 バスケット・コンストラクションとかいうんですね。

 石村 “久米式耐震木構造”と言って、今のツーバイフォーですね。細い部材で、細い単材で組んでいる。籠(かご)式ですね。軽井沢の万平ホテルは、その方式です。

 

 万平ホテル(1936年)は久米の戦前の代表作である。日光金谷ホテル(1935)など和風の建築がある一方三井上高井戸クラブハウス(1936年)や大倉邸(1936年)のようにフラットルーフの建築もある。明らかに自分の中に様式があるのではなく、様式が外にあるタイプの建築家である。施主に従って必ずしも拘りがない。シンガポールへ渡りゴム園を経営するなど事業家として出発したという経緯もその建築観に関係あるだろう。はっきりしているのは、様式論争など、狭い建築ジャーナリズムの議論に必ずしもインヴォルブされていなかったことだ。作品にはかなりのヴァラエティがある。

 

 個の集団

 どうも、久米イズムというもの、あるいは久米権九郎の建築観について、言葉として共有されているものはないらしい。「建築と環境を創造し、英知と先進を常に備え、誠実と信頼を基本に据え、社会と人間に貢献する」というのが現在の社是というけれど余りにも一般的だ。

 

 石村 久米先生がいて、技師長という形で、技術面で何でもやかましく言う人が1人いて、技術の面でガンガン文句言う。構造も設備も引っ張っていったんです。そういうバックアップのもとに、わりと自由に、みんな生き生きと仕事をして、だんだんと伸びていったんです。時代の変遷がありますが、一貫してずーっと個人を伸ばそうという形でやってきた。特に今の三代目の櫻井清社長になってから、個の集団という形が組織的に確立したんだと思います。

 岡本 久米先生自身は、ちょっと変わったもの、奇抜なものを極力押さえるといいますか、そういうことを指導されていたんです。一つの強い個性を押し切ろうとしなかった。だから下のものは自由だったんです。

 

 渡辺洋治氏が久米設計の出身だ、ということを初めて知った。その灰汁(あく)の強さは今でも伝説になっているらしい。個と組織の問題は、しかし、そう簡単ではない。はっきりと、新規さを追うな、という時代もあったという。二代目社長、永井賢城は、どちらかというとデザインよりはマネージメントが主体であった。そして、中興の祖として、経営を非常に安定させた。要するに、車の両輪として、久米先生がデザイン、マネジメントは永井専務、そうした役割分担が出発点である。組織が大きくなるとどうなるか。現在は七〇〇人を超える陣容である。

 

 アットホームで自由な雰囲気は変わらない

 五〇人から、七〇〇人ぐらいになる間に、組織論的に何か転換点があったのではないか。個を生かす組織といっても変わるんじゃないか。

 

 石村 うまく人数の増加とバランスがとれてきたと思います。だいたい、自由だったんですよ。初代の社長もアットホーム、二代目の社長もアットホーム、人格が反映しているんだと思います。二代目までは完全にありました。というと、三代目はクールということになっちゃうかもしれませんが(笑)。

 大牧 いや、今でも家族的なところはあるんですよね。私が入ったときは二百七十六人でした。

 話していて忌憚がない。取締役会議の雰囲気も和やかそうだ。しかし、平倉、大牧両氏は既に久米先生を直接知らない世代である。個と組織をめぐってはいささかニュアンスの違いはある。

 平倉 僕は大学を出てすぐ黒川紀章さんのところにちょっといたり、自分でやったりして、こっちへ入ることになったんです。もぐり込んだんですけどね。石油ショックで仕事が大変厳しかったこともあるんですが、建築というのは技術的な意味で、もう少ししっかりしたところで自分自身を鍛えないとダメだというふうに思ったんです。

 大牧 僕はもぐり込んだんじゃなくて、試験に受かりました(笑)。

 平倉 いやいや、僕も試験を受けた(笑)。

 大牧 まだ銀座に事務所があった頃です。一応大学の図書室で久米先生の写真と、奥様の写真と、作品は見ました。入ってから随分変わりましたが、ずーっと同じなのはアットホームな感じですね。久米先生がどういう切り口で建築をつくったか、それがずーっと社是じゃないけれども、事務所の中の一つの雰囲気としてある。いろいろものを判断するときの物差しになっている。今でもそれは残っている。

 

 組織論としての本社設計

 アットホームな感じは変わらないけれど、実際に建築をつくっていくシステムなり、考え方は相当変わってきたという。実は、本社移転には組織論があった。二百人を超えるところにひとつの転換点があるということか。

 

 石村 西麻布にいるとき、私が最後の室長で、二百人ぐらいを全部束ねていたんですね。それはやっぱり不合理だということで、このビルを設計するときに最初から四つに分けるつもりで、設計しんですね。こちらへ移ったときから四部制になったんです。二百人という一つの固まりでやるより、分けてやったほうがきめ細やかになる、それから、各チームのカラーが出てきますね。その点では成功したと思うんです。

 大牧 小さい単位を再構築したということだと思うんです。ただ、今は建築に対する考え方やカテゴリーがすごく広くなりましたので、作品を見ていただくとわかると思いますが、何か一つ通るものがあるかもしれないけれども、いろいろなものがある。作品にいろいろなテーストを許しているというか、いろいろな自由を許しているという、そういう管理の仕方をしています。

 

 いくつかの作品集が編まれている。膨大な量の作品があるけれど、『久米設計』(日本現代建築家シリーズ18 『新建築』199710)がわかりやすいであろうか。中に「えっ!これが組織事務所の作品?」と思えるようなものもある。

 

 個の作品をギャランティーするカンパニー

 石村 作品を責任を持ってギャランティーするのが会社だということです。だけど、その作品をつくるのはアーキテクトなんです。私も、ちょうど四十六番目かなんかのアーキテクトなんですね。そのときから流れはずーっと変わってないんです。

 

 個が最大限に生かされるということは、個の実力の総和が、相乗効果を含めて全体の実力になるということである。そうするとどんな人材をどう集めるかが大きな問題となる。個性は尊重するけれど、ある種の共通感覚は必要なのだ。久米設計では、プロジェクト毎にデザイン・レビューが行われる。久米設計の作品群に緩やかなまとまりがあるのだとすれば、その機能による。時として、個のデザイン提案が否定されることもあろう。そのデザイン・レビューの場の雰囲気がおそらく久米設計のキーになっていくのであろう。

 

 大牧 個も、人を受け入れることができるような寛容さを持った人じゃないと多少問題になる。採用の時によく「うちに合うかね」という。いくら優秀でも、うちのテーストにあうかどうかですね。いい体質が残っているかな、という気もしますけどね。だから、うちの人って、みんないい人ばっかりです(笑)。人間的に。

 平倉 デザインに特化した人を採ろうという話も出るんですけど、最終的には、ある判断基準というのが何となくでてくる。だから、デザインだけがうまい、性格的にはちょっと偏っている、そういう人がいてもいいとは言うけども、あまり入ってこないかな。

 岡本 あまりにも尖った感性を持っているとなじまないというのが、どうも出てきちゃうんですね。

 

  エースが何人も欲しい・・・プロジェクト・アーキテクト制

 久米設計はプロジェクト・アーキテクト(PA)制を採る。いわゆるチーフ・アーキテクトであるが、デザインのみではなく、コスト管理も工程管理も含めて、PAはプロジェクトの全てに責任を負う。PAは各統括部長によって統括される。四つの部が四つの設計事務所ということではなく、設計の単位はあくまでもプロジェクト単位である。十人のセットに二人のPAが置かれるのが平均である。支社も基本的には同じシステムが採られている。経験一〇年以上、三五才ぐらいからPAとなる。現在三〇名程度がPAだという。正確に同じではないが、一般に言えば、アトリエ事務所の建築家と同じである。そのチームを組織全体でサポートする形となる。下手なアトリエ事務所ではかなわなだろう。

 そして、PAのチーム編成は固定的ではない。随分柔らかいシステムとなっている。プロジェクト編成会議でそのつどチームがつくられる。

 

 岡本 エースが何人も欲しいんです。プロジェクトに対する責任は監理も含めてPA。PAはもう永久責任だと言っておりますから、後々まで面倒見ろと。

 

 個人が後々までプロジェクトの面倒を見る、こうしたシステムが機能するとしたら、ちょっとすごいことである。

 

 専門分化という悩み

 しかし、悩みも無くはない。だんだん、専門分化が進むのである。

 石村 最初は、スタートは四つの部がパラレルで、それぞれ何でもやれるようにということでスタートしてきました。けれども、仕事の中身がどんどん難しくなっていますから、どうしても掘り下げていかなきゃならない。あるものについて深くやっていきますと、次の仕事のときは今度は施主側も経験者、実績のある人をとなる。そうすると特化していっちゃう。今、かなり特化していますよね。

 岡本 特に病院関係、医療関係ですね。それから再開発とか、そういった関係のプロジェクトというのは、何となく特化していきやすい分野ですね。

 もうひとつ、個を全面に押し出すとき、他の組織とのジョイント・ヴェンチャー、建築家とのコラボレーションの場合、どういうことがおこるのか。当然のごとく、あまりないそういうケースは少ないのだという。

 岡本 コラボレーションをやるときは業務分担をはっきりさせます。例えばデザインはどちらがやる、構造はどちらがやる、設備はどちらがやる、と分ける。合体しちゃうときもありますけど、そのときでも、それじゃ、PAとなるべき人はどちらかは、はっきり最初から分けます。

 

 コンペへの対応

 久米設計に限らず、経験、信用を蓄積する組織事務所の力は大きい。しかし、その力があらゆるプロジェクトにおいて発揮されるかどうかは必ずしもわからない。例えば、公共建築のコンペなどの機会に組織事務所が常にすぐれた案を提出するかというとそうでもないのである。プロジェクトによって、同じ組織事務所でもチーム編成によって担当能力は異なる。同じ組織事務所といっても、作品のレヴェルが全く異なる場合が少なくない。

 だから、コンペの場合、常に担当者の実績が評価されるべきだというのが僕の主張である。組織事務所であれ、常に顔の見える組織にして下さい、というのが口癖である。久米設計の場合、そういう意味では文句はない。個をベースとして責任体系を明確にする限りにおいて、どんな仕事にも同じシステムで対応できよう。

 しかし、個が組織を超えて責任を果たすといったことはありえない。あくまで個の仕事をギャランティーするのが組織である。例えば、国際的な仕事の場合にどうなるか。久米設計の場合、国際的な仕事も多い。組織としてのアイデンティティがより明確にそこでは問われるのではないか。海外の場合、PAと現場との関係も気になるところである。

 

 石村 設計は各部の中のPAが任命されて、その人がやる。企画部という国内の営業があって、国際部、海外の営業部がある。両方で仕事を取ってきて、その下で設計部が仕事をやる。海外支社は、タイと、マレーシアと、ミクロネシア、サイパンにあったんですけど、閉めました。それからオーストラリア。日本の企業にくっついていったわけですから、日本の企業はいま全部撤退しちゃいましたから、いても仕事がない。

 

 ODAの仕事のような場合の日本という枠、日本の企業という枠、そうした中で個の表現は抑制されざるを得ないのではないか。

 

 支社と本社の関係・・・地域への対応

 バブルが弾けたということもあって、地道に地域とつきあう中から仕事を起こしていく雰囲気がある。地域の住民と一緒にワークショップ方式で仕事をしていくケースも増えている。再開発が主流になっていくとすれば、手間暇かけて、ということが、流れになっていく。その場合、組織事務所が対応できるのかという問題がある。地域にどう対応するか、というテーマである。建築というのは基本的にローカルである。実際地域毎に仕事は済み分けられているという実態がある。組織事務所の場合でも、全国各地に支店をもつにしても、一定の地域を拠点にして、まちづくりを展開するそうしたやり方はある。

 石村 地方と言っても、いっぱいまちがあるわけですから、とてもカバーしきれない。支社で対応しようということです。支社にはデザイナーもいるし、構造も設備もいる。本社と同じ配置です。人員はその土地に根ざした形にしていこうということで、基本的に全部、地元の大学から採用しているんです。その人たちを育てていく。大阪ですと、近畿五県か、六県見ていますから、全部はカバーしきれませんが、部分的にはできる。札幌ですと、ほとんど北海道の大学の人しか採らない。それが成功するかしないかは、一種の賭けだと思いますけども。

 岡本 原則的に全部地方で採用しますが、本社へ呼んで、設計部へ所属させて、二年とか、長くて三年ね、トレーニングして、それからまた地方へ帰す。久米設計のシステムというのをまずのみ込んでもらわなきゃいけない。こちらで訓練して、送り出す。そして、支社の人員をこちらに呼んで交替させる。

 

 大阪支社

 大阪支社は古市団地の設計を契機に開設される。石村副社長の最初の仕事だという。大阪の陣容は四六名。PAは三名。コンペは月平均一~二件。年間三〇ぐらいの建築設計の仕事をこなす。基本的には独立した機能をもった組織としての支社を本社がバックアップする関係である。

 

 小笠 私は生まれも育ちも大阪なんですが、関西の人間には対抗意識がある。大阪が設計できるものは大阪で処理をしようという気持ちはいまだに持っている。組織であれば、連携をとっていかない。でも半面独立心もある。支社ですので、蓄積が少ない、実績も少ない。ですから、本社の情報網を利用して資料提供をしてもらう。あるいは専門部署が先行してますので、相談してやっていく。

 上出 設計が本社で、窓口が大阪ということもあったのですが、日常のレスポンスは大阪がしなければいけない。地元からレスポンスが悪い、と言われるのが一番つらい。組織事務所の良さというのは情報とかが非常にスムーズでいろんなチャンネルがあるということです。決して地元に対するレスポンスということでは悪くない。大阪がきちっとまとめるということでご理解願うという状況です。必ずしも、全部大阪ということではなく、きちっと本社のバックアップを受けられるということの中で信頼を得ていくという形をとっています。ただ、私の小さな経験では、大阪は大阪でというニーズは非常に感じるんです。

 

 病院などは専門性が高いけれど、最近では支所でこなせるようになったという。また、阪神淡路大震災以後、免震構造、耐震診断調査、設計の仕事が大阪支社の独自の領域になりつつある。

 

 地元志向と地域密着

 もちろん、大阪は大阪で難しい面はある。地元志向、地域密着型が良くも悪くも趨勢である。そこで久米設計のアイデンティティはどう必要とされるか、それが大きなテーマになる。

 

 竹田 相手先の組織がそんなに大きくなければないほど、地元意識が強い。相手の組織が大きくなると、担当者との話だけで、住民の意向とか、使用者側の意向は間接的な形でしか聞き取れない。別に関西に限らないことですが。田舎にいって小さな自治体の決定者である市長やその周辺と直接話をしながら進めていく機会にはおもしろい場面もあります。苦戦する場面も多々ありますけど(笑)。

 小笠 大阪という町そのものが難しいところです。関西は個人のつきあいでまず大変ですね。それでつながっている部分が多い。有名な設計事務所、本社機構を持った事務所が在阪にある。それとゼネコンさんの立派な設計部がある。その中で生きていくのは支社の場合大変なんです。東京は東京だ、大阪は大阪だという意識が、官庁も民間もある。大阪支社は、官庁よりは民間の工事が多かったんですが、バブルが崩壊して、民間が冷え切りましたので、公共の仕事をやっていかないといけない。支社の場合、関西ではどうしても弱い。公共の工事に対して弱いという意味で、各社一緒だと私は思います。大阪市とか、当然地元志向なんです。京都でもそうだし、兵庫県もそういう考えを持っておられますね。

 

 誰もやめない

 布野 これだけ環境がいいと、辞める人は少ないんじゃないですか。

 平倉 ほかの事務所に比べると、やっぱり少ない。

 石村 平均して、年間で四、五人ですね。

 岡本 ある程度一人前になってから辞めますね。

 大牧 早くて十年ぐらいですね。

 石村 実はこのビルをつくったとき、将来、何人になるかということも考えて、辞める率を計算しませんと、ビルのスケールが決められない(笑)。で、統計を取ったら、意外と辞めない。びっくりしちゃった。

 

 久米設計の組織のあり方、実際に抱えている多くの問題のみならずこれからの建築界のあり方をめぐって、話はつきなかった。実にフランクであった。何でもいいたいことが言える雰囲気がある。はっきり言えるのは、久米設計の元気の秘密のひとつがこの自由なムードにあることである。