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2024年12月8日日曜日

エースが何人も欲しい 久米設計の元気の秘密,大阪インタビュー、日刊建設工業新聞,19990118

 エースが何人も欲しい  久米設計の元気の秘密,大阪インタビュー、日刊建設工業新聞,19990118


 布野 先日本社でいろいろお聞きして、僕自身も楽しかったのですが、僕に対して、久米設計が非常に元気だ、その元気の秘密を探ってくれというのがぶっちゃけた話でして、それは組織の総合力ということで、大手設計事務所の中でも大変元気がよろしいということなんですよ。

 それで冒頭に、この間東京でもお聞きしたのですが、それぞれお三方に、久米設計とはということを最初に一言ずつお聞きしたい。

 小笠 業界の中ではいつも雄であっていかないといかんという前提で、リーディングカンパニーではないですが、そういう気持ちを持ってやっていかないといかんなと。先ほどのお話の「元気」という言葉にも関連すると思うのですが、リーダーシップ的に持っていくような会社でなければいけない。それが久米設計の第一要素、条件ではないか。それが久米設計だと(笑い)。

 上出 僕が入ったときは30年ぐらい前ですが、そのときは大変若い組織だという印象がありました。

 布野 そのときは権九郎先生は。

  上出 私のときはもういらっしゃらなかったですね。

 小笠 私ぐらいでしょうね、一緒にやりましたのは。

 上出 ちょうどいまの半分ぐらいの人数だったと思うのですが、私は西麻布のときに入ったのですが、本当に若いという印象があって、そういう意味で活気がある。いまはかなり組織化されている面もあって、仕事としてはしやすい組織じゃないかという印象があります。

 竹田 希望的なあれも入るのですが、個人の顔が見える組織体であってほしい。そういう可能性としてはあるのじゃないかと思います。

 布野 本社でお聞きしたときには、イシムラ副社長だと思いますが、久米権九郎先生のことにも伝統ということで触れられたのですが、お若い2人は入られるときに、久米先生について何かイメージをお持ちで入られたのですか。

 上出 久米先生については、大震災の後にヨーロッパに行かれて、久米式耐震壁とかを開発されて、技術的なことに造詣が深い先生でいらっしゃるということと、ドイツのハウジングを学んで来られたので、それでやられたということは入ってすぐ後ぐらいにわかったのです。

 当初入ったときに、私はもともと北海道でございまして、むしろ久米設計の代表作が北海道に集中していたという印象を持ったということで、もうそのときは組織事務所という感覚でございましたので、そういう印象で入ったということですね。久米先生のことはその後に少し教わったということで覚えております。

 竹田 私も正直申しまして入社後間接的に聞きました。ただ知識としては、日本近代建築史の中で特に辰野の関係とかでチラッと読んだことがある程度(笑)。

 布野 この間東京で聞いたときは、ヒラタさんだったかな、どこでもよかったと(笑い)、正直におっしゃってました。

 たとえばキャッチコピーはどうかとか、社是はないかとか、いろいろお聞きしたのですが、「個を生かす組織」ということで、皆さんがおっしゃって、ボワッと何となくわかってきたような気もしたのですけども。

 今日は主に組織のあり方とか、仕事の仕方の中に久米式というものがあるのじゃないかということで、特に支社、あるいは地域と本社というか、全体みたいなところをお聞きしたいのです。ざっと仕事の流れとか支社の位置づけをお聞かせいただけますか。

 小笠 東京と大阪といいますのは、地域的に、私は生まれも育ちも大阪なんですが、どうしても関西の人間は対抗意識的なものがあるのですね。その中で、大阪が設計できるのは大阪で処理をやっていこうという気持ちはいまだに持っている。本当はいけない、組織であれば、むしろ連携をとっていかないといけないことはあるのですが、半面そういう気持ちもまたあるのですね。やはり支社ですので、蓄積が少ない、実績も少ない、そういうときには本社の情報網を利用して資料提供、あるいはまた専門部署が先行してますので、そういうところと相談してやっていく。

 一般的な建物は大体大阪で処理できる。いまは病院もできるようになってきましたので、そのあたりは十分できるということで大阪は動いておるような状態なんです。

 布野 ざっと陣容は何名ぐらいですか。

 小笠 全体では710ぐらいですか。大阪は46人なんです、現場も全部含めまして。

 布野 そのうち設計は。

 上出 意匠・設計としては16人ぐらいです。

 小笠 あと構造、整備、積算、管理部門。本社部門を圧縮したような感じですね。

 布野 そうすると支社といっても他の支社とはちょっと違うわけですね。

  上出  支社の中では、セクション的には充実しています。

 布野 先ほど病院もやれるようになったとおっしゃいましたが、病院についてはスペシャルチームが育ってきたということですか。

 小笠 そういうことですね。ただ十何人かのうちの3人か4人が育ってきたということです。それでも人数は足りませんので、当然大きなプロジェクトが来ると、本社から応援が来たり、こっちでチームを一つつくったりはやるようになっています。

 布野 PA(プロジェクト・アーキテクト)は支社では何名ですか。

 上出 いまは3名です。

 布野 希望も含めて、本社でも「顔の見える組織、事務所でありたい」と。僕なんかも特にコンペなんかやるときに、多分いまコンペは担当者の実績という資料なんかの形になってきていると思いますし、組織事務所でも個人を出してくださいと、僕も審査なんかやったりするときに言うのですけど。

 たとえば大手のゼネコン設計部とか、大手の組織事務所にエースがいてという形はあると思うのです。「顔の見える」といったときの組織イメージというのはどんな感じでしょうか。あとは、言っちゃ悪いですけど、手を抜くと。僕もある地方に関わっていて、コンペなんかでとられるのはいいのですけど、必ずしも優秀なチームとは限らない、そういうことがよくあるのですね。そうじゃないチームが仕事としてやったりする。

 竹田 いま言われたように一握りのエースがいて、あとは日常的なルーティンワークをこなすという形ではあってほしくないというのは当然だと思うのです。特にこの担当者としては、それぞれが皆それぞれの顔を持って、その中で、ある機会があってチャンスがあった人間はより伸びていくだろうし、たまたま恵まれないにしても次の機会を待ち続けるという形ではあってほしいなと思います。そういう意味で希望的なというのはある。

 先ほど、仕事のやり方に久米式があるかというお話で、僕が入った頃はまだ二十数人ぐらいの非常に小さな組織でしたので、アトリエ的な色彩が残ってまして、本当の入り立ては別として、それぞれ1人でやっていたという形がだいぶ長い間あったのです。この六、七年の間に人数的にもだいぶ増えてきたということがあるし、チームとしての仕事のやり方をより強く出していこうという方向にはなってきているのかなと思います。

 布野 顔の見えるというと、先ほどのPAがそれに当たると理解していいのですか。

 小笠 若い人でもコンペとか参加して、アイデアとか、突然パッと出てきますので、それで逆にいえば当選したりする場合もあります。そういう若い人も入ってくるということでしょうね、PAじゃなしに。

 竹田 プロポーザルの場合ですと、総括なり主任という形で、PAクラス以上の人間が名前としては出てくるだろうと思います。実際の仕事になってきますと、実質担当の人間のほうがよりウエートが高いことになってきますので、その辺を僕としてはイメージしたい。その中の一人でありたい。

 上出 アーキテクトの集団としてPAの場合はマネージメント的なこともかなり負わされている。かなり広範でして。PAが一つのチームをつくって、PAがすべての責任をとって、社内的にも社外的にも一つの顔としても、実質的にデザインとかをやるのはもっと若い人がやる場合が多いという状況になっていますね。

 布野 そうすると実力の相場、相乗効果みたいなものが久米の実力になるわけですね。採用が非常に重要ではないかと申し上げたのです。その辺についてスペシャリストとしてどういう人材を確保するか。

 小笠 いま不景気ですからあれですが、当然会社の方針として、年間、意匠何人、構造何人、設備何人という採用の目標を立てるわけです。そこで各学校へ行きまして、先生方にお願いしているのが実情です。

 布野 本社採用ですか。支社で独自に。

 小笠 各支社から推薦して、ある程度支社で本人が書いたものがいろいろありますので、そういうものを見せて、支社は支社で検討して、なかなかユニークなものを持っているなとか、いいなとか、そういうことで推薦する。本社で全国から20人、30人を面接、多いときはまた試験をやってるようです。先生の推薦をまずいただいて、こういう意匠で優秀なものがおるぞ、ということでやっているのが現状です。

 昔は大胆なデザインをする人がおりましたけど、最近は大体同じような、均一ですので。

 布野 どうなんですか。それも本社で話題になったんです。僕は知らなかったけど、渡邊洋治先生がいらっしゃって、昔は大変だったとか(笑)。

 竹田  学生のほうからしても、志向として組織事務所を志向する人間と、アトリエ系と、いまこれだけ情報が流れている中ではわかってくるだろうと思うのです。先ほど話が出ましたが、それぞれの研究室の先生方からの推薦が基本になっていますので、その辺の先生方の適正判断みたいなものも当然入ってくるだろうと思うのです。その上でのこちら側での面接を通じての判断ということになってくると思います。

 布野 あとでまた地域との関わりみたいなことをお聞きしたいのですが、北海道ですと、北海道の大学とか、地元をわりと大事にしていますとおっしゃっていますね。

 小笠 以前は違ったのですが、ここ何年か前からはそういう傾向になってきていますね。対お客さんに対してもそのほうがスムーズに行くみたいです。環境も地元におった人間が一番よく知っておりますから、そういう傾向がだんだん強く、うちの事務所もなってきているのは事実ですね。

 布野 本社で何年かトレーニングというのは全員ですか。全員とは限らない。

  小笠 技術、意匠、全員だね。昔はそうだったけど、いまはちょっと変わってきているね。

 上出 いまは支社採用の人もいますし、支社から何年か本社へ行って、また戻ってくるというのも多いのじゃないですか。

 小笠 以前は本社へ行って、何年かやって、こっちへ戻ってきたのが事実ですね。バブルのときは即ということで変わってきたのかな。また今後変わってくるかもわからん。

 竹田 私の時代は1週間とかそれぐらいの研修があって、すぐ配属でした。

 小笠 使いものになる人間は即……(笑)。

 布野 本社が大きいですので、たくさん仕事が来て、仕事の担当を決めたりするときに、プロジェクトごとの編成を会議なんかでわりとフレキシブルにやられるという話だったのですが、支社ではどうですか。

 小笠 支社はPAと私の間で大体割り振りを決めていきます。人が少ないですから、それで十分いける。

 上出 3人しかいないのですが、PA会議みたいなものでどういうふうに仕事をするかという話を支社長のほうから仕事が来たときに話をして、適性とか、そのときの仕事の状況で割り振ったりするということをやっています。

 布野 仕事のジャンルといいますか、官民ということではだいぶ比率が変わってきているということもあると思います。先ほど病院という話も出たのですが、支社の特徴みたいなところがあるのですか。営業範囲とか。

 小笠 やはり本社機構が東京ですので、大阪という町そのものが難しいところでございます。難しいといいますのは、有名な設計事務所、本社機構を持った事務所が在阪にある。それとゼネコンさんの立派な設計部を持ったのがある。その中で生きていくためには、支社の場合大変なんです。東京本社、大阪支社ということは、今後厳しさがどんどん出てくるという意味で、大阪支社の場合は、官庁よりは民間のほうが多かったですね。バブルが崩壊してこういう状態になってきて、民間が冷え切りましたので、やはり役所をやっていかないといかん。どうしても支社というのは、関西の場合弱みがあるのは事実です。公共の工事に対して弱いという意味で、各社一緒だと私は思います。当然地元志向で大阪市とか、当然そうなってきます。京都でもそうだし、兵庫県でも多分そうだという考えを持っておられますね。

 布野 僕はコンペなんかのときに、顔が見える形であってほしいということと、もう一つは組織事務所の場合に、地域にわりと張り付いて、密着してやるのが不得手ではないかと。たとえば最近はバブルがはじけたということもありましたが、わりと時間をかけて地元の住民と話しながら、ワークショップ方式でとか、わりと手間暇かかるふうに今後なってくるのじゃないかといったときに、それだけ組織事務所が対応できるのかどうかということで、多少ご意見を聞いたりしているのです。その辺はいかがですか。

 特に支社の場合は、本社に比べて地域と密着していかないといけないというところがあるのですね。

 小笠 地域といいましても大阪市内、あるいは近畿全体のテリトリーの中で、山陰のほう、あるいは四国のほうへ行きますと、どうしてもいま先生がおっしゃるような問題が出てきますね。なかなか密着性というのは無理ですね。

 布野 それは経費的にとか、人員的に。

  小笠 人の数も影響しますね。

 上出 私もこっちへ来てまだ2年弱ですけども、たまたま再開発的なことで地元の意向というのは大変強い。再開発ですから当然そうなんですけど。そのときはたまたま設計が本社で、窓口が大阪ということもあったのですが、日常のレスポンスに関しては大阪がしなければいけないという状況なんです。大阪でなきゃレスポンスが悪い、というふうに言われるのが一番我々としてはつらくて、東京で仮にやっているとしても、組織事務所の良さというのは情報とかが非常にスムーズにいろんなチャンネルがあるということで、決して地元に対してのレスポンスということでは悪くない。大阪がきちっとそれをまとめるということでご理解願うという状況にあると思います。それは組織事務所の良さと思います。ですから必ずしも大阪だから、全部大阪だということではなく、情報的なものはきちっとした本社のバックアップを受けられるということの中で信頼を得ていくという形をとっています。ただ言えるのは、私が接した小さなあれでは、大阪は大阪でというニーズは非常に感じました。

 小笠 関西は強いですね。東京は東京だ、大阪は大阪だという意識が、官庁も民間の方もみな持っておりますね。

 布野 一番最初対抗意識があるとおっしゃいましたね、東京都に対して。それといまの東京本社の支社というので、地元になかなか苦戦するとか、その辺のジレンマについては。

 小笠 それはそのとおりでしょう。他社さんも一緒じゃないかなと私は思います。たとえば名古屋とか、他社さんが本社機能を持ってない地域は、まだましじゃないかと思うのです。大手さんの中で、たとえば九州、名古屋、北海道もそうですけど。北海道は北海道日建というのがありますね。そういう組織がないところではまだ動きやすいのじゃないかなと私は思うのです。

 布野 竹田さんは長いのですか、こっちは。

 竹田  最初2年ほど名古屋にいて、あとずっと大阪で14年ほどになります。

 布野 地域としての近畿なり大阪というのは……。

 竹田 特に相手先の組織がそんなに大きくなければないほど、その辺の意識が強い。また一方で、相手の組織が大きくなっていくと、そことの話というのが担当者レベルとの話で、先ほどの住民の意向とか、使用者側の意向は間接的な形でしか聞き取れないということはあります。これは別に関西に限らずということですが。

 田舎にいって小さな自治体の決定者である市長や、その周辺と直接話をしながら進めていくという機会にはおもしろいという場面もあります。苦戦する場面も多々ありますけど(笑)。

  布野 そういうインティメートな関係で仕事がどんどん来るということもあるのですか、担当者の。ある一つコンペで取ったりすると、次もとか。

 小笠 それはたまにありますね。東京と違うところは、個人と個人のつきあいのほうが、営業的には関西は強いですね。関東とか東京の場合はビジネスライクで割り切って、会社対会社というあれで営業的に成り立っています。関西は個人のつきあいで大変ですね。それでつながっている部分が多いです。お役所の場合は話が別ですけど、民間の場合は多いですね。

 布野 文化論になりますね。

 小笠 そうですね。歴史といいますか、昔からのあれがあるみたいな感じがしますね。

 布野 逆に東京本社の支社である強みみたいなものはどうですか。本社だからということではなくて、実力なんでしょうけども、たとえばあるコンペなんかでは、勝つ確率が高いとか、強みみたいなものはどうですか。

 小笠 最近はあまり確率が高くない(笑)。営業が下手で、なかなかうまくいかんですけど。

 布野 やっぱり情報とか組織力ということになるのでしょうか。

 小笠  なると思いますね。情報というのは東京から関西に入ってきますのは事実ですね。

 上出 きわめて末梢的な話で恐縮ですが、関東にいてクライアントと話している話し方と、こちらのクライアントと話していると、初め言っていることがよくわからない部分がありましたね。

 布野 日本語がわからないということではなくて(笑)。

 上出 日本語はよくわかるのですけど、何を意図して何を指示したいのかということがわからないことがあります。

 布野 僕らは京都でいまだにわかりませんから(笑)。

  上出  ずっと関西にいる同じ仕事の仲間に、「あれは何を言ったんだ」と聞いて、「そうか、そういうふうに今度やればいいんだな」と、そういう違いというのは東京と大阪は本当に感じます。逆に大阪にいる人のアンテナというのは、そういう意味では東京にいる人にはないものを持っていて、そういう面でのコミュニケーションはとりやすいと感じました。よく支社長に「微妙なものがあるんだ」と言われても、我々はわくわからない部分があるわけです。

  布野  いろんなジレンマとか、地元のライバル社がある中でいろいろご苦労されていることはよくわかっていますが、一方で久米設計の規模のように、そうそう日本にないぐらいの設計ですと、たとえば景観とか、ある町に果たす役割があるのじゃないかと僕は勝手に思ったりするのですが、その辺のお考えとか、意識というか。仕事を取るので大変だということかもしれませんが、いかがでしょうか。大阪の町に対するアプローチの仕方とか、久米流の考えとか。

 竹田 大阪という大きな町になると、それは局地的なその場所性においてどう作るかという話になってくるのじゃないかと思うのです。むしろ、もう少し小さな町のところで、町にとっては代表的な作品を1年担当させてもらうという機会はあるわけです。そのときには当然町の骨格を作っていくというような意識を持ってやるべきだろうと思います。それは久米だからどうこうという話ではないように思います。

 上出 この間の座談会のときに、これは大阪という地域性ではなくて、たまたま再開発なんかで1ヘクタールとかそういうオーダーでの街的なものを設計させてもらったときに、先生がおっしゃったつながりというか、周辺とのつながりをどうするかという話が出ましたときに、私どもとしては私的な空間と公共的な空間の間をつなぐ中間的な空間をその周りとの関係でどう作るかということが非常に重要だということで、街のつくり方、設計の仕方を一面で考えておりますということを紙野先生に申し上げたのですけど。

 私個人としては大阪というものをまだわかっておりませんので、そういうことしか言えなかったのですけども、そんなつもりで共通的に考えていこうかなと。うちはたまたま本社の恵比寿ガーデンプレイスにしても、そんなような視点でやらせていただいたということがあるものですから、そういうことを申し上げたのです。

 布野 再開発というのは当然日本のこれからあるメインの仕事になっていくのだろうと思うのです。その辺の位置づけはいかがですか。

 上出 大変面倒くさい仕事だと思いますけど、先生おっしゃられるように、新しい真っさらの土地なんてないわけですし、スクラップ・アンド・ビルドがあるかということもあるでしょうけど、再開発でないともう大きな仕事はないのじゃないかと思います。

 それこそ再開発の場合には、新しい都市の開発と違いまして、そこに以前から住んでいる人が、またそこに半分ぐらい住まれるという前提でのまちづくりなものですから、新しいコンセプトというより、その人たちが引きずっているようなこだわりをどう実現しているかというあたりもかなり重要なことなので、クライアントは再開発組合じゃなくて、むしろ地権者の方だという意識をすると大変面倒くさくて、大変な仕事だなと。うちの事務所は再開発が多いのですよね、いま確かに。

 布野 これからは多分そういう手間暇かかるのが主流になっていくし、あとはリニューアルですね、スクラップ・アンド・ビルドよりも。それは組織事務所に限らず、仕事がそういうふうになっていきますから、そっちのほうの人材なり技術なりノウハウをということになると思いますね。

  小笠 うちの事務所もそちらのほうに力を入れていこうと。建てたらいいという時代は終わりました。

  上出 たまたま東戸塚という物件を私も担当させてもらったのですが、東戸塚はほとんど更地で区画整理事業から始めたまちづくりで、それは十数年参画させてもらいました。再開発は5年、10年というオーダーがかかるということで、新しい開発と再開発の難しさは全然違うなという印象を持ちました。

 小笠 再開発というのはものすごく手間がかかり、スパンも長い。設計事務所も生きていくために大変なんですね。どうしても現実的なことを申し上げますが。

 布野 仕事が減ると、設計屋というのはみんな一生懸命やっちゃう。時間を使ってしまうから、管理する側からはとても合わない。

  小笠 そのとおりです(笑)。

  布野 それも自覚してもらわないといけない。要するに適当にやめると。設計者をあげるときに、時間は使わないとか、そういうことをおっしゃってました。

 小笠 そのとおりですね、のめり込んでしまって、プロポーザルもギリギリいっぱいまでやってしまうのと一緒で、のめり込んで時間は幾ら使おうが、どうしようが、関係なく設計者はやっていきますからね(笑)。

 大きい建物は新しいことを試みていこうと思うと、どうしても再開発でないとこれから無理ですね。

 布野 そのときはやっぱり組織力がものをいうと。

 上出 それはそういうふうに思いますね。やっぱり人がかかりますし、それだけのバックアップがないとできないですね。

 小笠 アトリエの人とか小さな事務所でしたら、パンクもいいとこですね。

 布野 ちょっとこまかい話になるかもしれませんが、最近のコンペですね、圧倒的にプロポーザルのほうが多い……。

 上出 はい、プロポーザルのほうがずっと多いと思います。

 布野 指名が……。

 上出 指名が多かったですが、工法型も出てきたのじゃないでしょうか。

 小笠 指名プロポーザルがまだ多いみたいですね。

  布野 そのやり方自体は労力という意味では、大変時間がかかってしょうがないからプロポーザルでという方針で来ているわけですが、最近の現状でコンペについてのお考えというか、お感じになっていることはありますか。多分公募型がどんどん増えると、ディスクローズしていかないといけないという流れにはずっとなっていくのだろうと思いますけど。

 小笠 大阪はこの前もコンペがあったのですけど、断ってしまった。指名コンペがあったんです、八尾の病院だったのですけど。断った経緯があるのです。そのときも病院でコンペというのは我々は問題があるなという想定をしておったのです。プロポーザルですと、決定してから変更してどんどん変えていくことはできますが、コンペの場合はなかなか難しさがある。

 最近コンペは確かに減ってきましたのは事実ですね。そういう意味で、プロポーザルのほうが多いですね。

  上出 プロポーザルは基本的には事務所とか人を選ぶ。コンペは案を選ぶということをよく言われていますが、この頃のプロポーザルはかなりコンペに近いプロポーザルです。

 布野 やる側も同じですね。

 上出 全部プランまでつくらなければいけないという状況になります。

 布野 僕は実を言うと反対なんです、プロポーザルですね。ある地域に建つわけでして、そのつど何がしかの提案がない限りにおいては選べないのです、審査委員なんかやるときに。非常に困るのです。やけに変なマニュアルが出てまして、何か案があったら失格だとか、全然おかしいのです。

 お聞きしたかったのはそういうことなんですよ。コンペと同じぐらいの労力を使わされて、しかも安上がりの(笑)、ですからそれは大問題だと思っているのです。

 小笠 そのとおりですね。設計事務所というのは零細企業ですので、プロポーザルをやらされますと相当な費用がかかってくる。ましていま先生がおっしゃるように確かにエスカレートしていって、コンペに近いプロポーザルだとなると、ある程度プランニングまでやっていかないといかん。それをうまく縮小して、そこまで書くなという条件だから縮小して、あるいはスケッチを書くなということであっても、やはりパースぐらい書いてやっていく。費用がべらぼうにかかってくる。あのあたりも見直しをやっていってほしいなという気持ちを持っていますけどね。確かに失格という時もあることはあるのです。

 竹田 我々の組織の人数とか実績からということで指名される機会は結構多いですね。プロポーザル、コンペをやる機会は、他の設計組織の形態に比べればきっと多いだろうと思うのです。それが日常的な業務として、やりだしてしまえばそれにかかってしまうのですが、すべてがすべてそういうものではないことも事実です。特に要項づくりといいますか、発注する側の用意、準備は不十分なままということも多いと思うのです。

 とにかくプロポーザル方式が推奨されているし、議会や地元に対しても通りがいいからということで、入札もプロポーザルに切り替えるところがある。それに参加する十何社とか、その事務所さんが何百万円という金を使って、1案を除いては全くの労力のむだになっていくわけですね。それは本当に問題だろうと思います。

 ただ、我々のほうとしてはそういう機会があるから、それに対して何回に1回でも通っていければ、逆にそういうところで提案が受け入れられる可能性も高い。単純に受注の機会としてもありがたい話だろうとは当然思わなくてはいけないだろうと思うのです。

 小笠 ただ議会対策ということでプロポーザルをやるのが確かに増えましたね。地方へ行くと、なおさらそういうことが多いですね。耳でどこかからプロポーザルという方式があると聞いてきて、中身は全然わからんと。地方へ行くとそういう町長とかが多いみたいですね。

 上出 オフレコでございますけど、先生がプロポーザルの審査委員をやられたものに、私、たまたま応募させていただいたことがあります。大津の湯野浜の公共公益施設、発表は伊藤という専務が。落選しちゃったのですが、あのプロポーザルは各社全部プランを作っていました。

 布野 僕はあのときは、怒って下ろさせてくれと言ってたんです。暮れのコンペだったですね。多分40日もなかったはずです。正月をはさんで。参加料40万円で、100億ですよ。僕のところに12月の頭ぐらいに審査委員になってくれと来られて、「いいですよ」という話をしたら、何のことはない、行って当日札を入れるだけなんです。要項も何も全然チェックもさせなければ。それで僕はこういうコンペは、主義として参加しない、しかも指名料が安過ぎる。しかも期間が短過ぎると言って、下りますと滋賀県のほうへ出したら、僕の上の先生とか、マアマアと、とにかくこの時は出席だけはしてくれという話になって、ブスッとしてあそこに座っていたんですよ(笑)。だけど何言うかわかりませんよという話で。

 あのときも池田タケフミさんを僕は個人的に知ってまして、そこで何か県を批判するような講演をされたらしい。それで指名から外れるとかいうことがあって、日本設計ならあけすけに聞いても大丈夫だなと思って、日本設計のときに僕がどう思いますかと聞いたんです。指名料40万円出して。県の幹部も審査委員で聞いているときに、あけすけに聞いたわけです。そしたら立派で、担当者が「1桁は最低違います」とズバッと言ったんです。それがものすごく受けたのです、結果的には(笑)。

 いまの内藤社長は、僕の汚い部屋にすっ飛んで来られましたよ。終わってから。何でうちが入ったんだ(笑)。連戦連敗だったのにね。「いや、説明がうまかったからじゃないですか」。だけど僕はひそかに、正直に言って、それで審査委員の特に学識関係の先生方が傾かれた。もちろん案があれだったのですけど。

 上出 先生が質問していただいたときの質問事項を覚えています。

 布野 何と言いましたか。

 上出 何で体育館が地下にあるのですか、というようなことを言われたのは覚えています。

 布野 あれはすごかったですよ。疑りたくないんですけど、県の部長クラスの審査会での発言はコーラスみたいでしたよ、声をそろえてある案を。それも反発したんですよ、みんなが。裏はいっぱいあるんですよ。

 もう一つだけ言いますと、ある個人事務所の先生が審査委員長をやって、まず指名参加者を決めるときに点数でやって。僕は点数主義もきらいなんですけど、一応評価しないといけないから。あれは地元が3ぐらいで、全国7ぐらい。その割り振りはいいでしょう。規模がでかいので、全国から知恵を借りましょうと、7社です。8のところに線が引いてあって、上から7がほぼ決まっているのです。そのときは高名な審査委員長だったのですけど、僕はふてくされまして、「何だ、これは委員会やる必要ないじゃないか、決まってるじゃないか」。 「布野君、そんなこと言うな」とか言ってね。リストが30ぐらいあって、「下のほうでも君がいいと思ったら推薦しろ、それで審査委員に来てもらった」と。僕はふてくされたんです、これで決めればいいじゃないですか、点数で決まってる。

 1番が日本設計だったんです。2番が日建設計。あと大手事務所が入ったり、いろいろ入っていて、他の建築家ですけど何人か有名な先生が入られていて、その先生はその路線に乗って下のほうから推薦したんです。ここまで候補に入れて決を取りましょうといって、やったら、下のほうのやつがみんな入って、日建が落ちたんです。得点で1番です。そしたらその先生が何を言い出すかというと、「これは困る」と言い出した。「別のところで仕返しされる」というんです。これは3年ぐらいそのコンペの後の話です。

 小笠 それはコンペですか。

 布野 コンペです。第一次の指名を決める段階です。裏が大変なんです。

 小笠 それを見極めるのが大変なんです、営業が(笑)。コンペの費用がすごいでしょう。何千万円かかります。先ほどの病院でしたら四、五千万いってしまうと思います。それをいかに見極めるか。

 布野 先ほどのこれから再開発とか、リニューアルとか、メンテナンスとか、日本の建築界全体がそうなっていくと思うのです。いまゼネコンさんは大変で、人ごとではなくて設計事務所だって同じだと思います。どう考えても土建業とか建設業は多すぎますね。学生を教育する側も同じことなんですけど。その辺はいかがですか。

 リストラはしていかなくてはいけないというのは、業界全体はそうですが、少し久米を離れてでも結構ですが、21世紀の設計事務所のあり方ということで。

 小笠 設計事務所のあり方となってくると、社長あたりぐらいが決めてもらわないと(笑)。

 布野 そういう質問をしたつもりだったのです。本社では久米設計の組織のリストラの話と勘違いされまして、「うちはリストラはやりません」(笑)。700なら700の規模の役割があるという話でありました。

 竹田 設計者の役割としては、いまよりもっと広い範囲、今日も言われた住民参加の組織をどうやって作っていくか、建築をもっと川上にさかのぼって、あるいはもっと川下にくだって、もっと広い範囲を担当していく勇気というのがあるだろうか。いま職業として成り立つのは限られた領域ですけども、可能性としてはあるだろうと思います。いっぱいそういうものがあるだろうと思います。それが実際の仕事になっていくかどうか、いま探っている段階だろうと思って、リニューアルとか、あるいはCMとかBMという話も含めまして。

 小笠 分担化して、分かれていく。支社長となってくるとどうしても目先のことになってしまいますからね(笑)。

 布野  仕事は全然落ちてないですか。

 小笠 やっぱり仕事量は減ってます。ダウンして、それを皆で上げていくにはどうするかということを考えていかないと。考えるものは、いま先生がおっしゃるような考えが理想というのはよくわかるのですけど、私、個人的には、現実的には本当にいま目先のことしか考えが出てこないです。理想じゃなしに。それが本当の僕のいまの気持ちですね。

 上出 設計工事自体は規模の大小とか用途に関わらず、やることはやらなきゃいけないという現状になっていますから、世の中がこういう状況ですから、どうしても大変だということですね。

 小笠 社員が逆にまじめになってきたね。まじめという表現はちょっとおかしいかもわからないですけど、バブルのときは、まあまあこのぐらいでもいいわ(笑)とやってましたね。絶対そうだと思うのです。仕事をどんどんどんどんこなしていかないといきませんから。それが仕事が減ってきたとなると、そこに一つの真剣さ、大きい、小さい、自分がやりたい、やりたくないという建物とは関係なく、やはり真剣に取り組んできているというのが事実ですね。それが逆にいえば、将来僕はプラスになっていくのじゃないか。この不景気を逆に利用しまして。そういう気持ちが僕はありますね。

 布野 あんまりのめり込まれると……(笑い)。

 小笠 そうです。

 竹田 モノを作る上で、設計というような立場で果たすべき役割は大きいと思うのです。実際やらなくちゃいけないことは山ほどあるわけですけど、それに見合うだけのフィーが得られてないというのが根本的な問題だと思います。

 小笠 いまは確かにそういうことです。

 上出 規模が小さければ自動的にフィーは少ないのですが、やる作業はそんなに変わらない。それは当然そうなりますね。

 本紙 大阪支社全体としての作品のジャンルの傾向として、振り返ってみますと、組織事務所ですのでほとんどのジャンルを含んでおられますが、いままで得意とした分野、それから座談会にも出てきていましたが、これから大阪支社として伸ばしていきたいジャンル、そのあたりを教えていただけますか。

 作品の数としては、オフィスビルが一番多いのですか。

 上出 いままでオフィスビルが多かったですよね。

 小笠 学校も多いですよ。事務所ビルも多いけど。以前は病院は少なかったですね、大阪支社は。それは事実です。ここ最近ですね、病院は。

 本紙 最初は古市の団地の住宅からスタートされて、それから間口を広げていかれて、事務所ビル、教育施設と。

 小笠 確かにいまおっしゃられましたように古市団地から、その時分は公共のアパート、それと住宅公団、ああいう共同住宅が多かったのは事実ですね。それに付随するというか、その中に学校が入ってくるという意味で学校もあったということですね。それは小学校、中学校ぐらいまでです。高校もその時入ってました。多かったですね。それから以降は大学も出てきてますね、大阪の場合は。75年でも、ゴルフ場、クラブハウスをやったり。

 上出 分野が多岐にわたっているということですね。

 本紙 病院は最近からやられていると。

 竹田 特に医療福祉系で。

 本紙 社会のニーズに対応してということですね。

 小笠 そういうことになってきますね。流れといいますか。いまは確かに病院が増えてきている。やはり世間全体が建て替えの時期になってきていますから、歴史そのものが受注の内容を反映してきていますね。

 本紙 将来的には、これから高齢化時代を含めて、老人福祉のあたりに事務所としても注目していくということになっていくのでしょうね。

 小笠 そういうことですね。

 本紙 先ほど再開発の話が出ましたが、大阪支社の再開発の実績は建築設計からのスタートでしたか。コーディネーター業務はまだ大阪支社は。

 小笠 事業コンサル的なことですね。それはやってないですね。

 小笠 最初は守口の駅前がそうですね。

 本紙 ユウユウの里。あのあたりのコンサル部門は。

 小笠 入ってません。建築設計だけです。

 本紙 将来的にコンサル部門は、久米の大阪支社としては。

 小笠 やるつもりはないです。いまの段階は無理です。

 布野 どこかと組まれるということになりますか。

 小笠 あくまで大阪は箱物の設計ということになってきますね。確かに今後そこまでこまかく入っていかないといけないのは事実ですが、この人数の中では当然無理だろうと思います。入りますと、また中途半端になっちゃうのですね。

 本紙 CM(コンストラクション・マネージメント)ですか、それから提案というのですか。コンペ等を含みますが、地域全体の活性化への提案という切り口でのCM部門も、これからはフィーがついてくるような気もするのですが。

 小笠 本社ではそれはやりつつあるということでしょう。いま急に言いだしましたからね。大阪の場合はそこまでは。将来的にはやるべきだと思います。

 本紙 まず最初に本社としてCM部門を確立して、それから大阪支社にそのノウハウを流していくということになるわけですね。

 小笠 ええ、そういう方法しかいまの段階はしょうがないですね。

 本紙 久米風のデザインといいますか、久米の伝統に基づくデザインは皆さん方意識されておられるでしょう、デザイナーの方は。

 小笠 やってないのと違いますか。逆に外から見られて初めて、言われてみるとそうかなという意識ぐらいと違いますか。

 上出 一昔前は、「久米さんは派手さはないけども、地道にやっている」という評価をいただきました。この頃だいぶ変わってきて、それは一つにはプロジェクト会議といいますか、デザイン会議を全社的な一つのデザインレビューとして、そういうことに久米の作品として出して統一してやっていくという、そういう全社的なあれはあれました。

 本紙 大阪支社の中でもデザインレビューというのですか。

 小笠 ミニ的なレビューをやって、メインの物件は本社のほうで必ずやると。

 本紙 大阪支社で実施された物件についても、大阪支社でデザインレビューをやって、大きな物件でしたら本社に上げて、本社の全体の中で、組織の中で。

 上出 来てもらったり、こっちから行ったりしながら、そういう検証をします。

 本紙 それは組織事務所としての総合力と。

 上出 言われればそうと思いますし、それがずっと続いております。

 本紙 そうしますと、たとえば建築家の顔の見える建築というのですか、そのあたりが出にくいような気もするのですが、そのあたりはいかがですか。

 竹田 まさにおっしゃるとおりで、我々の立場からするとその場が戦いの場でして、いかにこちらの思いを伝えて説得するか。

 小笠 ですから良いところを伸ばして、欠けている部分を補完するという形になれば、それは非常にうまくいきます。その辺は諸刃のあれというところがあるかもしれません。

 デザインというのはあくまでも絵的なデザインだけじゃなくて、エンジニアリングを含めた部分でのデザイン、そういう意味でのデザイン会議だと我々は思っております。

 本紙 支社の場合はたとえば月1回やるとか、定期的に開催するとか、物件ごと開催するとかですか。

 上出 物件ごとに。

 本紙 設計事務所の場合、金額でいくか、件数でいくか、非常に微妙な部分があるのですが、件数でいきますと、大体年間どれくらい大阪支社の陣容でこなしておられるでしょうか。

 小笠 地震以降、耐震調査とか設計が増えてきたのですね。その業務がいまものすごく増えているのは事実です。

 本紙 前年度はどうでしたか。実際の創作活動としましてはどれくらいこなされましたか。

 小笠 うちの場合、定期調査からすべて入ってくるのです。本当の基本設計から一つ一つやっていくというものだけをピックアップしたリストはないね。

 竹田 感じとしては多くても30という感じですね。

 上出 いまはもうちょっと多くなってるのじゃないですか。こまかいのを入れると。逆にバブル時代のほうが件数としては少なかったのじゃないか。いまは多いのじゃないか。

 竹田 一つ一つ耐震診断とか、設計とか、調査業務とかを含めれば、70とかになるのでしょうけれども。

 小笠 3か月で耐震は16件ありましたから。それも調査からみな含んでの話ですからね。

 本紙 大阪支社の特性としては、阪神大震災がありました。耐震診断に伴います補助関係が最近充実してきました。そのあたりで、耐震調査にからむ仕事が大阪の特徴としては増えてきているということが言えるわけですね。

 小笠 そうですね。

 本紙 ただその場合、耐震調査とか諸業務は、部門的にどのセクションが担当されているのですか。構造ですか。

 小笠 内容はいろいろです。1年ほど前にやりました尼崎の中学校か小学校のときは、結局調査して、それから全部補強設計をやれと。それだけでも10億とか十何億かかってくるわけです。建て替えのほうが安くつくぐらいです。それは日本の国の変なところですので、あくまで補強でやっていく。それの場合は意匠から設備からみな入ってきます、構造から。本当の純粋な構造計算だけというのは最近なくなってきましたね。意匠も若干入ってくる、調査の中でね。調査の仕事というのはちょっと本来のあれと違うのですけど。

 本紙 結局こういうものが震災を契機にして増えてきているということですね、リニューアルがらみにしてもそういうことですね。

 小笠 そうです。うちの事務所も積極的にやっていかないといかん中に、一ついまの調査が入ってきているということです。

 本紙 一つの物件を受注したときに、初めはどういうチームワークを組まれるわけでしょうか。

 小笠 意匠と構造と一通り入ってますね。

 上出 これは僕も感じましたのは、大阪の場合は一つのスペースに全部のセクションがおりますので、言ってみればすぐプロジェクトチームみたいな形になれるというところで、一つの物件だったら、PAがいて、その人が全部みるわけですが、それに意匠が1人、2人、3人とかついて、構造担当者、設計担当者、電気担当者がサッとつく。兼務はしますけど、そういう形でチームを組むような形になると思います。

 本紙 小さい物件でも大きな物件でも、基本的にはそういうチームを組んで。

 上出 基本的にはそういうことでやります。

 本紙 技術的に耐震とか免震関係が入ってきますと、本社の技術援助ということになってくるのですか。

 上出 たとえば構造プロパーが窓口になっても、免震とか耐震になったときに、免震なんかは全国区になりますから、情報をもらったり、やるということですね。

 本紙 そのあたりで全体的な総合的なエンジニアリングと。

 上出 バックアップするという形になりますね。

  小笠 免震をやったのは大阪のほうが先だからね。

 本紙 免震の物件は、大阪ではどこですか。

 竹田 ニッタ、免震装置のゴム部門を作っておられるところの自社の研究所にそれをという形で、当社だけでやりました。京阪奈です。

 本紙 建物としてやられたわけですね。いつ竣工ですか。

 竹田 地震のときが工事終盤だという話ですね。データとしてはとれてなかったのじゃないか。

 上出 惜しかったですね。

 本紙  免震関係につきましては久米の中では大阪支社は先駆けた仕事をやっておられる。

 小笠 最初のみな手探りの状態でやったのは事実です。それはどこの会社でも一緒だったですから。

 本紙 そのあたりは組織事務所としてお互いに情報データをフィードバックしつつ、総合的な技術力、ノウハウの蓄積を図っているということでよろしいわけですね。

 上出 そういうことだと思います。

 本紙 これからの久米のデザインのあり方なんですが、いろいろデザインレンジの問題もありますが、個人をいかに出すか。そのあたりで、エースをたとえば全面的に……。

 布野 久米デザインというか、久米流というのを本社で議論したのは、たとえば久米権九郎先生の初期の作品を見ると、いろんなものができる人なんですね。モダニズムのフラットルーフのものをやれれば。その辺は基本的に、様式が中にある人と、いろんな様式を使い分けられる人と大きく二つに分けると、どなたかの説明は、建築家というよりは事業者というのがあるから、お施主さんに合わせてやれる能力があった。それが戦後も引きずられていて、一緒に仕事をして久米様式というものを押しつける体制にはなかった。それが生きてるのだというのが説明です。

 ですから、PAによっては全然違うものが出てもおかしくないし、ヒラクラさんが編まれたのかな、これが一番いろんなバラエティーを示す。営業パンフみたいなものを見ると、無個性なものが並んでいるとか(笑)。ですからレビュー界が戦いだという話は出ていませんでしたから(笑)。

 小笠 久米事務所というのはひとつの伝統があるみたいです。自然にそうなってきているのです。

 布野 昔はスターは作らなかったでしょう。あんまり新規なデザインをするなという方針があったのだそうです。いまの桜井支社長になられてからは、エースではなくて、たくさんそういう能力を持ったものをつくる、そういう方針が出てきている。

 小笠 出てきましたね。だけどうまくそういうふうになってきたのかどうか、難しいところがあるのですけど。

 本紙 それとあわせて、大阪支社の特性として、震災以降、構造部の力が強くなったということはないわけですか。たとえば計画段階でディスカッションの中で構造の人間をまずお客さんのところへ営業が連れていって、性能表示ですね。どれくらいの構造の仕様が必要なんですか、これの単価はこうですよと、そこから入って、その後意匠が付いてくる。そういうふうに大阪支社の特徴として出てきているのですか、最近は。

 小笠 そこまできつくは……。

 上出 ただ昔よりは構造の人が市民権をより得たという感じはします(笑)。

 小笠 意見を相当取り入れているでしょう。昔は柱を1本抜けとか、無茶苦茶なことを。

 上出 それは違うと思います。

 本紙 建築基準法が性能規程に変わったということで、全体的に設計事務所の中でも構造のウエートが上がってきているという感じですね。

 小笠 ぐっとウエートが上がってきました。

  本紙 工事監理の問題なんですが、特に大阪事務所として最近神戸の地震を見ますと、工事監理の大切さが出てきましたね。そのあたりで、特に震災を教訓として大阪支社管内、久米全体ですが、工事監理のあり方が強化されたとか、マニュアルを新たに作ったとか、そういうことはないでしょうか。

 小笠 マニュアルは作っておりません。本社はマニュアルがあるのか、正直言って私はわからないのです。現役引退しましたので、この前にもお話ししたのですが、工事監理をやるのがいかに大事かということを痛感しましたね。地震以降、囲いもないときに乗り込んで、柱がこうなっているとか、提灯状になっているところとか、みな見て回ったのですが、やはりあの時分の内容を見ますと、私らでもそうなんですけど、大体あれになっているのはダイナル芯のところが多いのです。表に出てないのですけど、鉄筋を昔は90度まで曲げた、その遊びでそうなる。それが大方あれだったです。新聞には出てませんけど、大体あれが多かったのは事実です。

 ということはその時分の技術というのが、関西は特に地震が少ないということでしたので、だめだけどしょうがないなという調子でやってたのです。それがああいうことがあったから教訓で、なおさら法律的にも変わってきましたから、その辺監理者として改めていかないといけないし。また工事関係者もそういうあれをきちっとやっていかないといけないなと思うのです。

 それにはやはり、施主側の考えもちょっと変えてもらわないと困るというのがありますね。昔からそうなんですが、工事監理の建物に対する考え方があまりにもお粗末過ぎましたね。意匠ばっかり最優先にやっていましたから、その辺の見直し、今後はそれをむしろ持続性のある建物を作っていくとなると、それは最優先に考えを変えていかないといけないのじゃないか。それを第一優先して、それから意匠ありきじゃないかと私はそう思うのです。

 布野 工事監理も専任ですか。

 小笠 専任です。全く本社の縮小版です。設備からすべてにそれは言えるのです。

  布野 それは他の支社でも縮小版というのはそうですか。

 小笠  どうですか、名古屋は違うね、設計者が見てるでしょう。

 竹田 いや、最近はそうでもない。

 小笠 大阪はだいぶ前からそういうふうに分けてましたから。私は監理の親分でしたので、設計ができないものですから(笑)。

 本紙 やっぱり設計事務所は持続性のある、良質な社会資本ストックとして作るために、設計のデザインと合わせて、工事監理もきっちりと第三者性を確保してやっていくということが一番大切と。

 小笠 第三者的な扱いでやるほうが望ましいなと僕は思います。同じ総合事務所の中でそういう言い方をしてはいけないのですけど。

 本紙 総合事務所の中でも、工事監理というのは、

 小笠 独立性を持たさないといけないと思います。社内でもそうあるべき組織に作り変えていかないと絶対だめです。

 布野 設計監理という意味では、もちろん現場に出られるわけでしょう。

 上出 もちろん出ます。設計監理という意味では大変機会が多いです。

 小笠 大阪の場合わりに若い人でもね。昔はうちの事務所はだいぶ前から、若い人は何年か現場へ出せということでやってたのですけど、最近またなくなってきたのですね。だけど大阪はやっていきたいなという気持ちを私は持っているのです。

 本紙 現場を知らない人間は設計できないと。

 小笠 いや、逆に僕は現場を知らないほうがいいものができるのと違うかなと思っているのです(笑)。

 本紙 大阪の気質というのですか、東京と違って、工事監理のフィーのあたりが大阪人はノーフィーということもあるでしょう。

 小笠 お役所でも全然だめですね。民間はもちろんのこと、お役所でも全然そのあたりは考えていただけないし、つらいです。だからその改革からやっていかないといけない。

 本紙 意識を変えてもらうということが必要なんでしょうね。大阪の場合は民間でも、基本設計はただ、事前調査はノーフィーで、実施設計料だけでということを求めるお施主さんも多かったですね、東京と違いまして。そのあたりをいかに営業的に乗せていくかという経営のご苦労もあったと思うのです。

 小笠 つらいですね。

 本紙 コンペの対応ですが、最近大阪支社は何件ぐらいコンペは入りますか、月平均で。

 竹田 集中してくるのですね。

 小笠 平均して月一つか二つ。今月は四つか五つぐらい入ってます。さっきの話では、ここまでは大阪でできないから、たとえば本社で頼むよとか、その辺ができるのですね。断ると次の仕事が来ないとか、その辺があるもので。

 本紙 一つのコンペ、プロポーザルに対しまして、大体チームはどういう形でつくるわけですか。

 上出 それもモノによりますけど、構造的な提案、設備的な提案があるときには、基本はそこまで大体決めます。同じです。それは普通の設計とプロポーザルのうちのほとんど同じ決め方です。

 小笠 独自のチームというのは、人数が少ないから作れませんけど、そういうのはやってないです。

 上出 来たものに合わせて。

 本紙 フレキシブルに作っていくということですね。

 小笠 よその事務所ではプロポーザル用のチームを作ったりいろいろやっている事務所もあるらしいですが、それは大阪も本社もやってないです。

 布野 そうするとわりとはっきりするのじゃないですか。どのチームが当たる確率が高いと(笑)。

 小笠 ここのチームはよく当選するなとか、こっちはだめだというのはあるのじゃないですか。

 本紙 コンペの当選率は、目標として各事務所さん、おしなべて3割が目標とおっしゃいますよね。久米さんの場合も……。

 小笠 去年が3割だったんです。今年はもっとがんばらないとあかん。いま3割行ってないと思います。一昨年は25%とかいってました。

 本紙 やっぱり年によってばらつきがあるということですね。

 それと社員の教育、特に設計者の意匠、それから職員の研修、それとコンペ、プロポーザルとの関わりというのですか。むしろ積極的にコンペをやって、それを社員教育にするとか、そういう意味でのとらえ方といいますか。社員教育のあり方はどういう形でやっておられますでしょうか。

 小笠 社員教育もそうですけど、プロポーザルの研修というのは東京でやってますね。

 竹田 逆に偏らないほうがいいのじゃないか。プロポーザルばっかりやっているということは場合によってあり得ると思うのです。東京みたいな場合だと。それはできるだけなくしていく。一連のものにするというふうになってほしい。

 上出 それは支社の場合のほうが機会均等で、みんなが関われる。

 本紙 みんなが関わって、プロポーザルに挑戦することによってレベルを上げていくと。

 上出 それによって実質的なレベルでは上がりますけど、ソフトないろんな考え方をそこで訓練するという、まさにOJT的な感じかもしれませんけど、そういう形になっているのじゃないかと思います。

 本紙 いま大阪支社の設計関係で、平均年齢はどのあたりですか。本社に比べて若いとか。

 上出 30ぐらいの中盤が多いでしょうか。

 竹田 三十六、七。

 上出 30代ですよね。いま同じぐらいな構成だと思います。そんなに上ばかりじゃなくて、下ばかりじゃなくて、いると思います。

 布野 まんべんなく採用していかないといけないという会社の方針でもありますしね。

 本紙 佐藤総合さんなんかは、2年間東京へ研修に持っていくとか、グルグル本社と地方事業所と、人の回転をやっておられるように聞いていますが、久米さんの場合は、上出さんが東京から来られましたが、回転という意味で設計士さんはどうですか。

 小笠 東京と大阪だけかな。いま1人名古屋へ行ってるな。大体ローテーションじゃないですけど、東京と大阪は行き来しているのは事実ですね。一時そういうことで次に帰ったらまた来る、というのがだんだんなくなってきているのかな。構造設備はいまローテーション組んでますね。意匠もあなたまでが。

 上出 私の場合も浜田君が行ったりして。ガラッとはないですけど。

 竹田 行って、仕事が終わって、たまたまもう一つというぐらいで、気がついたら来るとか、戻ってくるとか、そういう形が意匠の場合は多かったですね。

 布野 いま4部制をとられているのですね。出入りは何部に行かれるとか決まっているのですか。

 上出 それはないです。四つの部のどこへ行くかは。若い人が向こうへこういうプロジェクトがあって、そこへちょっと行ったりするということもありますし。必ず大阪支社の第4設計へ行くとか、そういうことはないですね。

 本紙 大阪支社の場合は、デザイナーの部分につきましては各ジャンル平等にそれぞれのレベルまでやろうと。劇場関係とか集客施設が得意な人もあるし、分野別に得意な人がおられると思います。そのあたりはどういう形で今後教育していかれるのですか。デザイン的に特化させるというか。

 布野 本社の説明は、基本的には特化する思想はなかったのだけど、病院とか再開発部門とかはどうしても専門性が高いので、だんだん限られてきているという説明でした。

 小笠 ただ、病院のほうもいま仕事量が増えてきていますから、だれでもできるようにやっていかないといかんということで、わりにこうなりつつありますね。特に病院はそうだな。

 上出 病院はこれから受注も多くなるということになると思います。いままでは専門化していましたから。

 小笠 いま発注の数も減ってきましたからね。

 本紙 たとえば大学との交流はどうなんですか。構造部門でも、杭の問題でも、最近は専門性が高くて、大学と結びついて共同研究されている場面もございますね。大学との交流というのは、社員を派遣するとか。

 小笠 それはやってないですね。

 布野 そんなに大学って役に立つのですか(笑)。

 竹田 ただ構造に限っては、特に構造評定だとかが、いまの杭の打ちっ放しだとかいうことで、交流が一番多いだろうと思います。

 小笠 行くということはしないでしょう。

 竹田 そこに在籍するとか、そういう形ではないです。

 上出 センター評定の問題で、大学の先生が評定の委員になられて。そういうことはございますから。

 小笠 関西は京大の先生と決まってるから。

 本紙 最後にISOの支社としての取り組みですが、久米さんの場合は全社的にISOをやっておられますね。どの段階まで。

 小笠 本社と全く同じレベルです。

  竹田 9000の本審査が明日から3日間ぐらい受ける段階です、品質のですね。14000のほうが予備審査が先月末に終わって、来年2月に本審査を受けるという段階で、目標としては年度内に14000環境のほうをということです。

 本紙 現場は指定現場があるのですか。

 小笠 やってます。

 本紙 支社管内は何現場ぐらい指定現場でやっておられるのですか。

 竹田 14000は二つに絞ったのです。9000のほうはほとんど全部。

 本紙 工事の監理でキャルスが入っている現場はございますか。

 小笠 まだ入ってないな。

 本紙 これから役所さんもキャルスのほうは入ってこられますので、それに合わせて整備を進めていくわけですけども、これは久米としての全社的な取り組みということになるわけですね。

 小笠 そうですね。ただ、いまなかなかそこまで行かないのじゃないですか。東京とこっちと、電算はみなつながっているから行けるのですけど、こっちが手いっぱいの場合は、構造なんかでも向こうで頼むようとか、お互いにできますので、最近は便利がよくなりました。

 本紙 人事考課の問題ですが、人事考課は変わりつつあるわけですか。評定の仕方をいかに公平に。

 小笠 去年の10月に新人事制度に変わりまして、いま年功序列から脱皮しようということで始めまして、あと三、四年で給与の上と下の差が同じ年代でもつくのじゃないかなという想定で始めたのです。人事考課のやり方は、しゃべっていいのかどうか知らないですけど(笑)。

 本紙 設計関係でしたら、プロポーザルの当選率でやるのでしたら(笑)。

 小笠 それはないという前提です。将来そういうことになるかもわかりませんけども、人事制度が新しく変わってからはそれは前提に置かないというあれがあるのです。将来は知りませんよ。そのうちまた変わってくるかもわかりません。

  ただ、あいつはよく当選するから、6のところを8ぐらいにしておこうかとか9にしようかというのは将来あるかもわからないですね。今後設計事務所が生き残っていくためには、その辺が全面的に出てくる可能性はなきにしもあらずだと思います。

 本紙 現在のところは日常業務の中で考課を。

 小笠 設計部門は設計部門の項目があるのです。構造は構造のまた項目があるのです。構造の技術的な面、部分的には違うところがあるが、下は全く一緒という考課の方法ですね。そう上下差というのは変わらないのと違いますか。よっぽど大きな問題を起こさない限りは。そんな感じがします。経営者はどう考えているかしりませんけど、将来を考えているでしょう。

 本紙 これから役所の工事関係はプロポーザルとかそのあたりに変わってきますと、特命発注というのはなくなりつつありますね。傾向としまして、ある程度の規模以上のものは。そうなりますと、設計事務所としてコンペ対応、プロポーザル対応、組織をどういうふうにつくっていくか、それによって人事考課をどういうふうに進めていくかと。

 小笠 そうすると一体化になってきますかね。うちの本社へ行って経営者から聞いておいていただくとありがたい(笑)。

 本紙 時間が超過しましたが、お忙しい中本当にありがとうございました。(以上)



 


2024年10月4日金曜日

「タウンアーキテクト」と組織事務所,日韓建設工業新聞,20000618

 「タウンアーキテクト」と組織事務所,日韓建設工業新聞,20000618

 

「タウンアーキテクト」と組織事務所

都市・街づくり・建築設計と日建設計

布野修司

 

 つい先頃、『裸の建築家---タウンアーキテクト論序説』(建築資料研究社)という本を上梓した。日本におけるタウンアーキテクトの可能性について出来るだけ具体的に論じたつもりである。帯に曰くこうだ。

 「迷走する建築家の生き残る道を指す・・・・「建築家」はその根拠を「地域」との関係に求め、「裸の建築家」から「町の建築家」への変革を迫られている」。

  ターゲットは日本の建築士九〇万人。発想のきっかけは、地域の景観行政。地域の町並み景観の形成のために「建築家」が果たすべき役割、そのための仕組みについて議論した。建築界が否応なく構造改革を迫られる中で、仮に「タウンアーキテクト」と呼ぶまちづくりに関わる新たな職能が生き残りを賭けて必要であるという分析も基本にある。

 ただ拙著に決定的に抜けているのが組織事務所の役割である。「全ての「建築家」が「タウンアーキテクト」であれと言っているのではない。国境を超えて活躍する建築家は必要であるし、民間の仕事はまた別である」と書いて、考察を省いた。正直言って、現実には地域における仕事の配分をめぐるややこしい問題がある。

 日建設計を頂点とする組織事務所のあり方について問われるたびに言うのは「個人の顔が見たい」「地域の固有性をどう考えるか」ということだ。その組織力、技術力への信頼は大きいけれど、個々の仕事を担うのは特定のチームである。困るのは、公共建築のコンペの設計者選定の場面だ。指名コンペへの参加者の選定、あるいはプロポーザルコンペの場合、具体的な場所に対する具体的な提案より、組織としての実績が重視される。一般に様々な評価項目毎の点数が比較されるけれど、点数で判断するなら世界一の組織力を誇る日建設計が全ての仕事を奪ってもおかしくない。担当チームの実績を比べるべきだ、地域との関わりを重視すべきだ、というのが僕の基本的主張である。はっきり言って、全ての仕事にエースを投入できるわけではない。地域によって、組織事務所内部で設計チームが勝手に選別されているとしたら地域が可哀相だ、という思いがある。地域の景観には十分配慮しましたと言いながら、地方都市には不似合いな、都会ならどこにもありそうな超高層ビルを設計するといった事例は少なくないのである。

 タウンアーキエクトは地域の住人である必要はないけれど、地域と持続的な関係をもつのが原則である。組織事務所の組織原理と地域をベースとするタウンアーキテクトの原理は両立しうるのか。まちづくりには手間暇がかかる。ワークショップ方式によるプログラムの設定から、維持管理まで、組織事務所は果たして余裕をもって人員を割けるのか。そもそもまちづくりはNPOのような組織の方が向いているのではないか。自治体の営繕部局との関係はどうなるのか。それぞれの役割分担、棲み分けが楽観的な答えなのだろうけれど、果たしてどうか。

               日刊建設工業新聞社                2000618



 

2022年10月12日水曜日

エースが何人も欲しい 久米設計の元気の秘密,日刊建設工業新聞,19990118

 エースが何人も欲しい,日刊建設工業新聞,19990118

エースが何人も欲しい

久米設計の元気の秘密

布野修司

 

 久米設計の組織力とは何か。その総合力はどこにあるのか。フレキシブルなチームワークと言われるもの、個を生かす組織のあり方とはどのようなものか、というのがテーマである。もう少しストレートには、久米設計が実に元気だ、その元気の秘密に迫ってみたいということである。この未曾有の不況に元気とはうらやましい。是非、その秘密を知りたいと、突撃取材を試みた(忙しい時間を割いていただいたのは、代表取締役副社長・石村孝夫、取締役副社長・岡本賢、常務取締役・平倉章二、取締役第1 設計部統括部長・大牧民、大阪支社長・小笠史郎、大阪支社部長・上出利裕、大阪支社主席課長・竹田芳之の各氏であった。各氏の発言の引用についての文責は全て筆者にある。)。

 

 オープンな空間・・・自慢のオフィス

 本社を訪れ、まずは一通り案内して頂く。

 ご自慢のオフィスである。普段大学の蛸壺にいるから、心底うらやましい。図書室など設計に関する限り大学の図書館よりは充実している。実に伸びやかなアトリウム。スケールがいい。フレキシブルな新しいオフィス空間というのはこうなのか、という感じだ。上から、構造、設備、四部の意匠設計部がアトリウムを挟んで配置される。床に照明装置を埋め込んだブリッジがアトリウムを飛んで両方の空間を実際にも象徴的にも結びつけている。アトリウムと執務空間はエアーカーテンで仕切られるのみだ。視覚的には全体がつながっている。なんとなく一体感がある。もちろん、各チームの間にも間仕切りはない。開けっぴろげの空間がひとつの解答を物語っている。久米設計の組織の有り様がオフィス空間のオープンな構造に既に示されているのである。

 地下には食堂、カフェ・バー、夕方からはアルコールも飲める。実に居心地がよさそうだ。川に面したテラスなど臭いさえなければ夏など気持ちよさそうだ。もう少しハングリーじゃないと建築家は鍛えられないんじゃないかなんて憎まれ口のひとつも叩きたくなったのであった。

 

 久米設計とは・・・

 「久米設計とは」といきなり切り出す。反応は様々であるが、全体として一体感が伝わってきた。「ハイカラな感じ」「アトリエ的雰囲気」(石村氏)「総合力」(岡村氏)「組織力」(平倉氏)「家庭的」(大牧氏)といったところが咄嗟に出て来たキーワードである。

 大阪支社でも冒頭に同じ質問を繰り返した。「業界の中ではいつも雄であっていかないといかん。リーディングカンパニーという気持ちを持ってやっていかないといかん。それが久米設計の第一要素、条件ではないか。」とおっしゃったのが小笠氏、「大変若い組織。仕事はしやすい組織」とおっしゃったのが上出氏、「個人の顔が見える組織体(であってほしい)」とおっしゃったのが竹田氏である。

 

 権九郎という原点

 石村 久米権九郎はドイツで勉強して帰ってきてますから、非常にハイカラな感じでスタートしています。最初から個人を大事にした会社でした。権九郎が始めた個人的な事務所なんです。私が入社したのは昭和二十八年ですが、アトリエ的な雰囲気でした。久米先生が社員の間を回ってスケッチを描きながらやっていくんですが、個人の特性を伸ばそうということで、かなり自由にやらせてくれたわけです。二年目ぐらいから自由な設計をやった記憶があります。そういうことを許してくれた組織だったんですね。

 布野 任せたら全然口を出されないんですか。

 石村 いや、自分でスケッチを描くんですね。最終的にまとめたら任せました。途中で「ちょっとどいて」と、4Bぐらの鉛筆でスケッチして、「このほうがいいんじゃない?」というようなことでね。

 

 まず、挙げられるのは「伝統としての久米権九郎」(岡本賢、『新建築』199710月)である。そもそもアトリエとして出発したこと、ヨーロッパ仕込みのまた育ちのよさからくる「ハイカラ」な感じである。山口文象、前川國男、坂倉準三といったヨーロッパ帰りで日本の近代建築を華々しくリードした建築家と久米権九郎の文化圏は少し異なる。そもそも構造家として出発した経緯がある。

 

 技術の総合・・・多様なスタイル

 岡本 久米先生自身がデザイナーに特化した建築家のスタイルから出発されなかった気がしますね。要するに建築を単純に意匠デザインじゃなくて、技術を含めた総合的なものとして捉えられている。木造の耐震構造ということで、シュツットガルト工科大学で学位を取られて、ロンドンのAAスクールを経て戻ってらした経歴がある。

 布野 バスケット・コンストラクションとかいうんですね。

 石村 “久米式耐震木構造”と言って、今のツーバイフォーですね。細い部材で、細い単材で組んでいる。籠(かご)式ですね。軽井沢の万平ホテルは、その方式です。

 

 万平ホテル(1936年)は久米の戦前の代表作である。日光金谷ホテル(1935)など和風の建築がある一方三井上高井戸クラブハウス(1936年)や大倉邸(1936年)のようにフラットルーフの建築もある。明らかに自分の中に様式があるのではなく、様式が外にあるタイプの建築家である。施主に従って必ずしも拘りがない。シンガポールへ渡りゴム園を経営するなど事業家として出発したという経緯もその建築観に関係あるだろう。はっきりしているのは、様式論争など、狭い建築ジャーナリズムの議論に必ずしもインヴォルブされていなかったことだ。作品にはかなりのヴァラエティがある。

 

 個の集団

 どうも、久米イズムというもの、あるいは久米権九郎の建築観について、言葉として共有されているものはないらしい。「建築と環境を創造し、英知と先進を常に備え、誠実と信頼を基本に据え、社会と人間に貢献する」というのが現在の社是というけれど余りにも一般的だ。

 

 石村 久米先生がいて、技師長という形で、技術面で何でもやかましく言う人が1人いて、技術の面でガンガン文句言う。構造も設備も引っ張っていったんです。そういうバックアップのもとに、わりと自由に、みんな生き生きと仕事をして、だんだんと伸びていったんです。時代の変遷がありますが、一貫してずーっと個人を伸ばそうという形でやってきた。特に今の三代目の櫻井清社長になってから、個の集団という形が組織的に確立したんだと思います。

 岡本 久米先生自身は、ちょっと変わったもの、奇抜なものを極力押さえるといいますか、そういうことを指導されていたんです。一つの強い個性を押し切ろうとしなかった。だから下のものは自由だったんです。

 

 渡辺洋治氏が久米設計の出身だ、ということを初めて知った。その灰汁(あく)の強さは今でも伝説になっているらしい。個と組織の問題は、しかし、そう簡単ではない。はっきりと、新規さを追うな、という時代もあったという。二代目社長、永井賢城は、どちらかというとデザインよりはマネージメントが主体であった。そして、中興の祖として、経営を非常に安定させた。要するに、車の両輪として、久米先生がデザイン、マネジメントは永井専務、そうした役割分担が出発点である。組織が大きくなるとどうなるか。現在は七〇〇人を超える陣容である。

 

 アットホームで自由な雰囲気は変わらない

 五〇人から、七〇〇人ぐらいになる間に、組織論的に何か転換点があったのではないか。個を生かす組織といっても変わるんじゃないか。

 

 石村 うまく人数の増加とバランスがとれてきたと思います。だいたい、自由だったんですよ。初代の社長もアットホーム、二代目の社長もアットホーム、人格が反映しているんだと思います。二代目までは完全にありました。というと、三代目はクールということになっちゃうかもしれませんが(笑)。

 大牧 いや、今でも家族的なところはあるんですよね。私が入ったときは二百七十六人でした。

 話していて忌憚がない。取締役会議の雰囲気も和やかそうだ。しかし、平倉、大牧両氏は既に久米先生を直接知らない世代である。個と組織をめぐってはいささかニュアンスの違いはある。

 平倉 僕は大学を出てすぐ黒川紀章さんのところにちょっといたり、自分でやったりして、こっちへ入ることになったんです。もぐり込んだんですけどね。石油ショックで仕事が大変厳しかったこともあるんですが、建築というのは技術的な意味で、もう少ししっかりしたところで自分自身を鍛えないとダメだというふうに思ったんです。

 大牧 僕はもぐり込んだんじゃなくて、試験に受かりました(笑)。

 平倉 いやいや、僕も試験を受けた(笑)。

 大牧 まだ銀座に事務所があった頃です。一応大学の図書室で久米先生の写真と、奥様の写真と、作品は見ました。入ってから随分変わりましたが、ずーっと同じなのはアットホームな感じですね。久米先生がどういう切り口で建築をつくったか、それがずーっと社是じゃないけれども、事務所の中の一つの雰囲気としてある。いろいろものを判断するときの物差しになっている。今でもそれは残っている。

 

 組織論としての本社設計

 アットホームな感じは変わらないけれど、実際に建築をつくっていくシステムなり、考え方は相当変わってきたという。実は、本社移転には組織論があった。二百人を超えるところにひとつの転換点があるということか。

 

 石村 西麻布にいるとき、私が最後の室長で、二百人ぐらいを全部束ねていたんですね。それはやっぱり不合理だということで、このビルを設計するときに最初から四つに分けるつもりで、設計しんですね。こちらへ移ったときから四部制になったんです。二百人という一つの固まりでやるより、分けてやったほうがきめ細やかになる、それから、各チームのカラーが出てきますね。その点では成功したと思うんです。

 大牧 小さい単位を再構築したということだと思うんです。ただ、今は建築に対する考え方やカテゴリーがすごく広くなりましたので、作品を見ていただくとわかると思いますが、何か一つ通るものがあるかもしれないけれども、いろいろなものがある。作品にいろいろなテーストを許しているというか、いろいろな自由を許しているという、そういう管理の仕方をしています。

 

 いくつかの作品集が編まれている。膨大な量の作品があるけれど、『久米設計』(日本現代建築家シリーズ18 『新建築』199710)がわかりやすいであろうか。中に「えっ!これが組織事務所の作品?」と思えるようなものもある。

 

 個の作品をギャランティーするカンパニー

 石村 作品を責任を持ってギャランティーするのが会社だということです。だけど、その作品をつくるのはアーキテクトなんです。私も、ちょうど四十六番目かなんかのアーキテクトなんですね。そのときから流れはずーっと変わってないんです。

 

 個が最大限に生かされるということは、個の実力の総和が、相乗効果を含めて全体の実力になるということである。そうするとどんな人材をどう集めるかが大きな問題となる。個性は尊重するけれど、ある種の共通感覚は必要なのだ。久米設計では、プロジェクト毎にデザイン・レビューが行われる。久米設計の作品群に緩やかなまとまりがあるのだとすれば、その機能による。時として、個のデザイン提案が否定されることもあろう。そのデザイン・レビューの場の雰囲気がおそらく久米設計のキーになっていくのであろう。

 

 大牧 個も、人を受け入れることができるような寛容さを持った人じゃないと多少問題になる。採用の時によく「うちに合うかね」という。いくら優秀でも、うちのテーストにあうかどうかですね。いい体質が残っているかな、という気もしますけどね。だから、うちの人って、みんないい人ばっかりです(笑)。人間的に。

 平倉 デザインに特化した人を採ろうという話も出るんですけど、最終的には、ある判断基準というのが何となくでてくる。だから、デザインだけがうまい、性格的にはちょっと偏っている、そういう人がいてもいいとは言うけども、あまり入ってこないかな。

 岡本 あまりにも尖った感性を持っているとなじまないというのが、どうも出てきちゃうんですね。

 

  エースが何人も欲しい・・・プロジェクト・アーキテクト制

 久米設計はプロジェクト・アーキテクト(PA)制を採る。いわゆるチーフ・アーキテクトであるが、デザインのみではなく、コスト管理も工程管理も含めて、PAはプロジェクトの全てに責任を負う。PAは各統括部長によって統括される。四つの部が四つの設計事務所ということではなく、設計の単位はあくまでもプロジェクト単位である。十人のセットに二人のPAが置かれるのが平均である。支社も基本的には同じシステムが採られている。経験一〇年以上、三五才ぐらいからPAとなる。現在三〇名程度がPAだという。正確に同じではないが、一般に言えば、アトリエ事務所の建築家と同じである。そのチームを組織全体でサポートする形となる。下手なアトリエ事務所ではかなわなだろう。

 そして、PAのチーム編成は固定的ではない。随分柔らかいシステムとなっている。プロジェクト編成会議でそのつどチームがつくられる。

 

 岡本 エースが何人も欲しいんです。プロジェクトに対する責任は監理も含めてPA。PAはもう永久責任だと言っておりますから、後々まで面倒見ろと。

 

 個人が後々までプロジェクトの面倒を見る、こうしたシステムが機能するとしたら、ちょっとすごいことである。

 

 専門分化という悩み

 しかし、悩みも無くはない。だんだん、専門分化が進むのである。

 石村 最初は、スタートは四つの部がパラレルで、それぞれ何でもやれるようにということでスタートしてきました。けれども、仕事の中身がどんどん難しくなっていますから、どうしても掘り下げていかなきゃならない。あるものについて深くやっていきますと、次の仕事のときは今度は施主側も経験者、実績のある人をとなる。そうすると特化していっちゃう。今、かなり特化していますよね。

 岡本 特に病院関係、医療関係ですね。それから再開発とか、そういった関係のプロジェクトというのは、何となく特化していきやすい分野ですね。

 もうひとつ、個を全面に押し出すとき、他の組織とのジョイント・ヴェンチャー、建築家とのコラボレーションの場合、どういうことがおこるのか。当然のごとく、あまりないそういうケースは少ないのだという。

 岡本 コラボレーションをやるときは業務分担をはっきりさせます。例えばデザインはどちらがやる、構造はどちらがやる、設備はどちらがやる、と分ける。合体しちゃうときもありますけど、そのときでも、それじゃ、PAとなるべき人はどちらかは、はっきり最初から分けます。

 

 コンペへの対応

 久米設計に限らず、経験、信用を蓄積する組織事務所の力は大きい。しかし、その力があらゆるプロジェクトにおいて発揮されるかどうかは必ずしもわからない。例えば、公共建築のコンペなどの機会に組織事務所が常にすぐれた案を提出するかというとそうでもないのである。プロジェクトによって、同じ組織事務所でもチーム編成によって担当能力は異なる。同じ組織事務所といっても、作品のレヴェルが全く異なる場合が少なくない。

 だから、コンペの場合、常に担当者の実績が評価されるべきだというのが僕の主張である。組織事務所であれ、常に顔の見える組織にして下さい、というのが口癖である。久米設計の場合、そういう意味では文句はない。個をベースとして責任体系を明確にする限りにおいて、どんな仕事にも同じシステムで対応できよう。

 しかし、個が組織を超えて責任を果たすといったことはありえない。あくまで個の仕事をギャランティーするのが組織である。例えば、国際的な仕事の場合にどうなるか。久米設計の場合、国際的な仕事も多い。組織としてのアイデンティティがより明確にそこでは問われるのではないか。海外の場合、PAと現場との関係も気になるところである。

 

 石村 設計は各部の中のPAが任命されて、その人がやる。企画部という国内の営業があって、国際部、海外の営業部がある。両方で仕事を取ってきて、その下で設計部が仕事をやる。海外支社は、タイと、マレーシアと、ミクロネシア、サイパンにあったんですけど、閉めました。それからオーストラリア。日本の企業にくっついていったわけですから、日本の企業はいま全部撤退しちゃいましたから、いても仕事がない。

 

 ODAの仕事のような場合の日本という枠、日本の企業という枠、そうした中で個の表現は抑制されざるを得ないのではないか。

 

 支社と本社の関係・・・地域への対応

 バブルが弾けたということもあって、地道に地域とつきあう中から仕事を起こしていく雰囲気がある。地域の住民と一緒にワークショップ方式で仕事をしていくケースも増えている。再開発が主流になっていくとすれば、手間暇かけて、ということが、流れになっていく。その場合、組織事務所が対応できるのかという問題がある。地域にどう対応するか、というテーマである。建築というのは基本的にローカルである。実際地域毎に仕事は済み分けられているという実態がある。組織事務所の場合でも、全国各地に支店をもつにしても、一定の地域を拠点にして、まちづくりを展開するそうしたやり方はある。

 石村 地方と言っても、いっぱいまちがあるわけですから、とてもカバーしきれない。支社で対応しようということです。支社にはデザイナーもいるし、構造も設備もいる。本社と同じ配置です。人員はその土地に根ざした形にしていこうということで、基本的に全部、地元の大学から採用しているんです。その人たちを育てていく。大阪ですと、近畿五県か、六県見ていますから、全部はカバーしきれませんが、部分的にはできる。札幌ですと、ほとんど北海道の大学の人しか採らない。それが成功するかしないかは、一種の賭けだと思いますけども。

 岡本 原則的に全部地方で採用しますが、本社へ呼んで、設計部へ所属させて、二年とか、長くて三年ね、トレーニングして、それからまた地方へ帰す。久米設計のシステムというのをまずのみ込んでもらわなきゃいけない。こちらで訓練して、送り出す。そして、支社の人員をこちらに呼んで交替させる。

 

 大阪支社

 大阪支社は古市団地の設計を契機に開設される。石村副社長の最初の仕事だという。大阪の陣容は四六名。PAは三名。コンペは月平均一~二件。年間三〇ぐらいの建築設計の仕事をこなす。基本的には独立した機能をもった組織としての支社を本社がバックアップする関係である。

 

 小笠 私は生まれも育ちも大阪なんですが、関西の人間には対抗意識がある。大阪が設計できるものは大阪で処理をしようという気持ちはいまだに持っている。組織であれば、連携をとっていかない。でも半面独立心もある。支社ですので、蓄積が少ない、実績も少ない。ですから、本社の情報網を利用して資料提供をしてもらう。あるいは専門部署が先行してますので、相談してやっていく。

 上出 設計が本社で、窓口が大阪ということもあったのですが、日常のレスポンスは大阪がしなければいけない。地元からレスポンスが悪い、と言われるのが一番つらい。組織事務所の良さというのは情報とかが非常にスムーズでいろんなチャンネルがあるということです。決して地元に対するレスポンスということでは悪くない。大阪がきちっとまとめるということでご理解願うという状況です。必ずしも、全部大阪ということではなく、きちっと本社のバックアップを受けられるということの中で信頼を得ていくという形をとっています。ただ、私の小さな経験では、大阪は大阪でというニーズは非常に感じるんです。

 

 病院などは専門性が高いけれど、最近では支所でこなせるようになったという。また、阪神淡路大震災以後、免震構造、耐震診断調査、設計の仕事が大阪支社の独自の領域になりつつある。

 

 地元志向と地域密着

 もちろん、大阪は大阪で難しい面はある。地元志向、地域密着型が良くも悪くも趨勢である。そこで久米設計のアイデンティティはどう必要とされるか、それが大きなテーマになる。

 

 竹田 相手先の組織がそんなに大きくなければないほど、地元意識が強い。相手の組織が大きくなると、担当者との話だけで、住民の意向とか、使用者側の意向は間接的な形でしか聞き取れない。別に関西に限らないことですが。田舎にいって小さな自治体の決定者である市長やその周辺と直接話をしながら進めていく機会にはおもしろい場面もあります。苦戦する場面も多々ありますけど(笑)。

 小笠 大阪という町そのものが難しいところです。関西は個人のつきあいでまず大変ですね。それでつながっている部分が多い。有名な設計事務所、本社機構を持った事務所が在阪にある。それとゼネコンさんの立派な設計部がある。その中で生きていくのは支社の場合大変なんです。東京は東京だ、大阪は大阪だという意識が、官庁も民間もある。大阪支社は、官庁よりは民間の工事が多かったんですが、バブルが崩壊して、民間が冷え切りましたので、公共の仕事をやっていかないといけない。支社の場合、関西ではどうしても弱い。公共の工事に対して弱いという意味で、各社一緒だと私は思います。大阪市とか、当然地元志向なんです。京都でもそうだし、兵庫県もそういう考えを持っておられますね。

 

 誰もやめない

 布野 これだけ環境がいいと、辞める人は少ないんじゃないですか。

 平倉 ほかの事務所に比べると、やっぱり少ない。

 石村 平均して、年間で四、五人ですね。

 岡本 ある程度一人前になってから辞めますね。

 大牧 早くて十年ぐらいですね。

 石村 実はこのビルをつくったとき、将来、何人になるかということも考えて、辞める率を計算しませんと、ビルのスケールが決められない(笑)。で、統計を取ったら、意外と辞めない。びっくりしちゃった。

 

 久米設計の組織のあり方、実際に抱えている多くの問題のみならずこれからの建築界のあり方をめぐって、話はつきなかった。実にフランクであった。何でもいいたいことが言える雰囲気がある。はっきり言えるのは、久米設計の元気の秘密のひとつがこの自由なムードにあることである。