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2025年2月19日水曜日

建築プロジェクトにおける発注者の役割特別研究委員会報告書 特別研究42,日本建築学会,2009年3月

  建築プロジェクトにおける発注者の役割特別研究委員会報告書 特別研究42,日本建築学会,20093

第2回 発注者の役割特別研究委員議事録>

                                 070707

                         議事担当 古研究室 金祉秀

 

A. 日時:2007年6月30日 10:00~12:00

 

B.    場所:建築会館305号室

 

C.    目的:研究内容の協議、資料に関する情報交換

 

D. 出席者:小野田泰明(東北大学)

楠山登喜雄(フタバエンジニアリング)

齊藤広子(明海大学)

高田光雄(京都大学)

平野吉信(広島大学)

藤井晴行(東京工業大学)

布野修司(滋賀県立大学)

古阪秀三(京都大学)

南一誠 (芝浦工業大学)

金祉秀 (京都大学)

 

E. 配布資料:資料1-第1回議事録

     資料2-研究計画メモ

     資料3-研究スケジュール

     資料4-本委員会の委員構成

 

 

F.    議事内容

・研究対象の設定に関して

- 公共PFI

:いくつかのプロジェクトを国レベル、自治体レベルなど規模別に分けてみる。

住宅(発注と所有の組み合わせによる類型)、オフィス(規模)

- 投機的な対象とそうでない場合。

 

 

・研究の視点に関して

- 問題の構造+現在行われている動き→学会殻の発信

- 公的発注の問題を整理した上でのPFIおよび公共発注のあるべき姿について議論したらどうか。公的なセクター、民間セクター両方扱う。

- 公的な建前が生産システムをどうひずませているのか。

- 建設市場での問題と住宅市場および不動産市場におけるデベロッパーの位置づけについては分けて考える。

- デベロッパー問題がどういうふうに建築生産システムに影響を与えているか。

- PFIの中で、品質ブリフィングと連動したモニータリングのシステムが必要。

- 発注者の二重構造での責任を果たせるシステムはちゃんとできているのか。

 - 実際プロジェクトを支配している主体が明確化されれば横軸がちゃんと作られるのでは?

 - 建築企画主体の切り口をどこまでにするか。

 - 個々のプロジェクトが持っているバリューを分解しながらその中で関係性を求める。

 - 不動産デベロッパーの位置づけを明確に。

 

・追加委員に関して

- ファイナンス、SPC評価のための委員追加(今後検討)

- 野村不動産、国交省営繕のPFI担当を追加予定

 

・次回までに

 - PFIに対しての企画(布野、小野田先生)

- フレームの提示の中での発注プロセスとか発注者の今やっている役割、PMでの位置づけ(高田、齊藤先生)

 

G.    次回の委員会

日時:2007年8月1日 15:00~17:00

  場所:学会会議室

  内容:1.話題提供

               PFIにおける発注者の役割(国土交通省 川元氏他)

               不動産業の変遷と現状(野村不動産 賀来氏)

     2.研究内容の検討

     3.その他

 

2025年2月2日日曜日

 祇園祭・山鉾町と作事方・・・京町家と建築生産組織、

  祇園祭・山鉾町と作事方・・・京町家と建築生産組織

                              布野修司

       

 はじめに

 景観コントロールあるいは景観形成の手法をめぐっては「タウンアーキテクト」制なるものを考えたいと思う。しかし、ここでは極めて具体的に京都の都心部、山鉾町の景観について考える素材を提供したい。祇園祭の山鉾の巡航する山鉾町は、山鉾と町並みとの関係において何らかのコントロールが可能である(形態規制等の制限が多くの市民によって共有される)と考える。しかし、具体的な景観を支える、あるいは再生させるメカニズムには多くの問題がある。防火規制、税制等の問題も大きいが、ここでは京町家を維持する職人の問題を提起したい。

 かって、住宅生産を担う職人たちは、地域と密着する形で存在してきた。建築職人は単に住宅生産のみならず、地域社会に対しても様々な役割を果たしてきた。例えば江戸の鳶は、町火消しとして町内の便利屋的存在であり、後世まで地つきの頭として地域に大きな影響を及ぼしたとされる。また、祭礼への参加は地域の鳶、大工などの大きな仕事であった。今日でも、飛騨の高山祭りや秩父の夜祭りといった祭礼において、山や屋台を組み立て祭りを取り仕切るのは、ほとんどが同じ町内か特定の出入り筋の建築職人たちである。しかし、地域の住宅生産システムの解体、変容が一般的趨勢となる中で、建築職人の地域との関わりは希薄になりつつある。そこで、建築生産、特に住宅生産における新たな仕組みをどう再構築するか、街並み保存やまちづくりといった課題に対して、住宅生産システム(住まい手・地域住民・つくり手・材料・部品等の諸関係)をどう考えるか、が大きなテーマとなる。

 山鉾町には数多くの京町家が残っており、その保存、維持管理、修復、再生が大きな課題とされている。しかし、現実には、木造町家に関する防火規定など数多くの問題がある。そして、具体的な再生事例で意識されるのが建築職人不足の問題である。京町家の今後のあり方を考えるために、それを支える建築生産組織のあり方についての考察は不可欠である。祇園祭においてハイライトとなる山鉾の巡航のために、山車、笠鉾を組み立てる作業は大工、鳶など建築職人によって行われてきた。その持続的関係に、地域と建築生産組織の新たな方向が見出せるのではないかというのがひとつの視点である。しかし、その実態はいささか寂しい。

 

□山鉾町と建築生産組織

 a 山鉾町の建設動向

 山鉾町の構成を、建築構造別、階数別、人口別に見ると、全体的な傾向を明快に指摘できる。中心業務地区の中でもその中心といっていい四条烏丸付近は、そのほとんどが業務用建物であり、容積率一杯に建てられる中高層建築となっている。現行の建築基準法や消防法のもとでは、木造建築の増改築、新築は困難であり、木造建築物は一貫して減少している。

 木造建築物数の多い風早町、百足屋町、三条町では、低層建物が多く、相対的に人口も多い。一方、木造建築物の少ない長刀鉾町、凾谷鉾町、鶏鉾町では、5階以上の建築物の割合が全体の70%近く占めており、そのほとんどが業務用建物である。

 10年間(198595)の動向をみると、建替率が高いのは四条烏丸の交差点を中心とした地区である。建替率の低いのは新町通り沿いと綾小路通り以南の地区である。木造建築物率の低い地区ほど建替率が高く、逆に木造建築物率の高い地区ほど建替率が低い。10年間に山鉾町内で確認申請された建築物は125件、そのうち木造建築物は20件である。全体の52%を占める64件もの建物が5階建て以上の非木造建築である。また、木造建築のうち、4件が専用住宅であり、そのうち2件が木造3階建て住宅である。用途別では、専用住宅が15件、53件が事業所もしくは店舗など非住宅系の建築物である。住機能を有するものの内でも、専用住宅よりも店舗もしくは事業所併用住宅が多いこと、共同住宅よりも店舗もしくは事業所併用住宅が多いことが山鉾町の特色である。

 b 建築生産組織と山鉾町

 10年間(188695)の125件の申請建築物の設計者を見ると、山鉾町内に事業所を構える設計士事務所数は7あり、都心4区(上京、中京、左京、東山)に43、その他京都市内に43、京都府内に8、残りの24が京都府外の設計士事務所による。山鉾町内に事業所を構える施工者は1社だけであり、都心4区に22、その他京都市内に31、京都府内に4、残りの23が京都府外となっている。

 年度ごとに動向は異なり必ずしも一般化できないが、山鉾町と設計者、施工者が地縁的な関係をもたなくなりつつあることははっきりしている。京都府内(京都市以外)に分類される設計者、施工者がともに少なく、特に施工者は他府県からの参入が多いことがそれを示している。他府県からの施工者のうち最も多いのは大阪からで全体の82.6%を占めている。残りは東京が13.0%、愛知が4.3%である。注目すべきは、相対的に見て、施工者より設計者の方が山鉾町に地域的に関係が深いことである。

 京都市内に在住する設計者、施工者の分布状況を事業者統計をもとに行政区ごとに見た場合、設計者は多い順に中京区38.7%、左京区14.0%、下京区9.7%、北区8.6%、右京区・山科区7.5%、南区4.3%、上京区・伏見区3.2%、東山区2.2%、西区1.1%となっている。施工者の場合も一番多いのは中京区で24.1%、以下、右京区18.5%、下京区16.7%、左京区11.1%、西京区9.3%、伏見区7.4%、南区5.6%、山科区3.7%、上京区・北区1.9%となっている。

 設計者と施工者も多くが中京区を拠点としている。また、下京区もかなりの高い割合を示している。これは、京都市全体の行政区別全事業所の分布とはかなり異なっており、建築産業の特性を示していると考えられる。ただ、中京区の施工者のほとんどが西ノ京や壬生といった西部地区に立地しており、山鉾町に近接しているわけではない。

 

 □祇園祭と建築生産組織・・・祇園祭と作事方

 a. 作事方の仕事

 祇園祭の山車、笠鉾の組立に関わる人々は、祭礼時において「作事方(組立方・建て方)」と呼ばれ、役職に応じて「大工方」、「手伝方(てったいかた)」、「車方」、「屋根方」、「曳方・舁方」などに分けられる。祇園祭の諸行事で建築職人を中心とする人々(以降、作事方と総称)が関わるのは、鉾建・鉾曳初、山建・山舁初、山鉾飾、山鉾巡行、山鉾解体などである。

 現在の祇園祭が一般的に山鉾巡行、宵山、宵々山の賑わいを中心とすることから、作事方が祇園祭の重要な担い手であることは明らかであるが、彼らは以下のようなさらに多くの細かい仕事を担っている。

 ・人夫集め:祇園祭に関わる細事について、人口減少と財政的な面から、1975年頃から学生をアルバイトとして使ってきたが、学生も思うように集まらないのが現状である。山鉾町ごとに保存会などを通じて、京都府以外に住んでいる人を含めて地区外から集めるかたちが多い。人々を集め、それぞれを適当な位置に配置させ、取り仕切るのは作事方の役割である。

 ・吉符入り、その他の神事:吉符入りとは神事始めのことであり、各山鉾町は収蔵庫を開いて神餞を供え、約1ヶ月に及ぶ祭の無事を祈願するほか、各種の打ち合わせを行う。その打合せに作事方の代表は出席する。また、それ以降も山鉾町の諸行事のほとんど全てに出席するのが慣例である。それぞれの行事において作事方がなにがしかの重要な地位を占めることは滅多にないが、実際には作事方が全ての面で中心となっている山鉾町が増えつつある。

 ・山鉾建て:山鉾は、その都度組み立てられ、解体される。山鉾は710日頃から建て始められ、山鉾巡行の修了した17日の夕方に解体され始める。

 ・山鉾巡行:巡行時には交代人員も含めて約3040人もの人が山鉾に乗り、さらに多くの人々がそれに従う。それぞれの役割に応じて、曳方、車方、音頭取、屋根方、囃方などと呼ばれ、そのうち作事方が担うのは曳方、車方、屋根方の三役である。

 ・山鉾解体:巡行が終わるとすぐさま解体が始められる。解体終了によって、作事方の仕事は終わる。

 この他、駒形提灯等の飾り付けや交通整理、町席内の飾り付けや巡行中の留守番といった役割を作事方が行う山鉾町もある。また祭礼時以外にも、山鉾の修理や材料、人員確保など、日常から祇園祭と作事方は関わりをもっている。

 

 b. 作事方の継承

 作事方がどのような経緯で祇園祭と関わりをもつようになったのかは様々である。最も古くから山鉾建てに関わるようになったのはE山作事方のy大工店で1928年からである。最も新しいJi山作事方のw組で1986年からである。平均で19578年、約40年前からということになる。

 d工務店は、Ki鉾・U山・Ta山・To山の4つの山鉾の作事方を務めている。過去にはJi山、Ay鉾、Iw山、Si鉾、Mo山の山鉾にも関わったことがある。祇園祭に関わるようになったのは、1952年のKi鉾再建工事からである。昭和に入って再建されたTo山・Si鉾・Ay鉾はすべてd工務店が関わっている。他にも、先祭と後祭が統合される以前は2つ以上の山鉾の作事方をやっていたというところがかなりある。

 Tu鉾作事方のe工務店と、Ya山作事方のk工務店は兄弟弟子で、ともにTu鉾の作事方をしていたという関係がある。1957年にそれまでYa山の作事方をしていた棟梁がやめ、k工務店が引き受けることになった。k工務店は、現在でもYa山の作事方もしながらTu鉾の組立にも参加している。当時は現在のように山と鉾とで組立の日が違うことはなかったが、複数の山鉾を受け持つ作事方の都合で、四条通りより南は山鉾建ての日程がずらされたという経緯がある。Ab山とTo山の作事方も関係がある。先代の頃に呉服屋に出入りしており、その縁で頼まれて引き受けることになった。また、その呉服屋が所有していた長屋がTo山町内にあったため、To山の作事方も頼まれることになった。Ko山とE山の作事方も関係がある。vさんとyさんが兄弟弟子関係でE山の山建てを行っていた。1947年にKo山の作事方がやめて以来、vさんが引き受けるようになった。修理等は現在でも両者で行っている。

 Ho山作事方のi建設は、現在山鉾の組立を行っている作事方の中で唯一同一町内に在住している。しかし代々作事方を担ってきたわけではなく、1955年頃それまでの作事方が来られなくなり、たまたま町内在住ということで引き受けることになった。Ji山作事方のw組は、当初は取り引き先であったS建設の手伝いとして参加していたが、1994年から全権を委任されるようになった。

 Mo山の山建てをしているjさんは建築とは関係ない。もともと作事方を務めていた山科の棟梁がやめてしまい、作事方を引き受けることになったという経緯である。Ka山作事方のmさんは、もともと大工をしていたが現在は建築関係の仕事はしていない。実際の組立は息子さんがやっており、大工をしているわけではない。

 Ay鉾は、1884年以来途絶えていたが、町内の人々の努力などで1979年に復興した。当初d工務店が関わったが、現在は町の人だけで組み立てており、大工その他は一切参加していない。Si鉾も1871年以降途絶えていたが、1985年に再興された。当時の会長との縁でr工務店が作事方を務めることになった。

 以上、祇園祭に携わるようになった経緯は、昭和に入って復活した四基を除くとそのほとんどが、町の人との関係ではなく、日常の仕事で付き合いのある同業者からの紹介などで引き受けるようになったところが多い。また、祇園祭の作事方はその家が絶えない限りやめることはできないとされるが、実際にはかなり入れ替わっている。

 こうした作事方の継承関係は、公的な文書の形式で残されていない。秩父の夜祭や飛騨の高山祭の場合、、屋台の建て方を請け負った工匠や彫刻をほどこした名匠の名前や系譜が残されている。京都の祇園祭でも、山鉾の主役である飾りもの系譜等はどの山鉾も残っていることを考えると、祭礼における作事方の位置づけは秩父や高山より低いといっていい。

 

 □建築生産組織としての作事方

 a. 作事方の所在地と活動地域

 祇園祭の各山鉾町で実質的に中心となって作事方(大工方、手伝方の両者がいる場合は大工方)を担っている建築生産組織の事業所もしくは代表者とその所在地をまとめてみると、都心4区に所在しているのは10事業所、京都市内が12事業所、残りは宇治市、長岡京市、船井郡日吉町、船井郡丹波町に各1事業所ずつ分布している。山鉾町内に在住しているのはHo山の作事方だけであり、その所在地は広く京都市外にまで及んでいる。作事方と山鉾町は近隣地域としてのつながりはほとんどない。

 作事方のうち198695年に山鉾町で仕事をした例は4物件、2工務店のみである。

 ・展示場 木造二階建 1993年 中京区橋弁慶町

 ・鉾収蔵庫 3階建鉄骨造 1994年 中京区菊水鉾町

 ・事務所店舗 9階建鉄骨造 1994年 下京区月鉾町

 ・物販店舗併用共同住宅 7階建鉄骨造 1995年 中京区占出山町

 以上のうち展示場と鉾収蔵庫はいずれも山鉾保存会の施設であり、各山鉾保存会の会長が施主である。しかし、他は作事方ととなっている山鉾町とは必ずしも関係ない。

 

 b. 作事方の事業内容

 祇園祭の作事方として参加している建築生産組織は、祭礼時以外の日常においては、山鉾町とはあまり密接な関係はない。作事方を務める組織の業務内容はおよそ以下のようである。

 32基の山鉾のうち、建築生産組織と関わりをもたないものが3基あり、また、複数の山鉾に関わるものがあるため、作事方に関わる建築生産組織は25である。

 事業所の創業年をみてみると、最も古いのはe工務店が1890年創業であり、a工務店の1966年創業が最も新しい。半数近くが、戦後になってから創業している。創業以前から作事方として参加しているものが8ある。

 仕事の内容としては、増改築を主体とするものが多いのが特徴である。新築が100%とするものは1だけでで、90%以上が増改築のものが6ある。また、木造しか扱わないものが全体の50%以上にものぼり、木造以外の構造が多いというものはない。建物の用途については、住宅が100%というものが半数以上ある。そのうち70%を超える事業所が、100%在来工法による。

 京都市内で活動する事業所がほとんどであるが、山鉾町内において比較的多く仕事をしているとするものが2ある。また、かっては山鉾町内で数多くの仕事をしていたという事業所が1ある。他は、当初から山鉾町内での仕事はないのがほとんどである。

 

 □祇園祭という祭礼行事に関わる作事方の建築生産組織としての実態は以上のようである。その要点は以下のようになる。

 ・山鉾町では、この間一貫して、木造住宅の建て替えが進行しつつある。確認申請計画概要書調査から、木造から非木造への転換、専用住宅から非住居系建築への転換は、はっきり跡づけることができる。

 ・山鉾町と山鉾町で建設活動を行う建築生産組織(施工者、設計者)は、ほとんど地縁的なつながりをもっていない。

 ・祇園祭の山鉾の組立に関わる作事方は、祇園祭において極めて重要な役割を果たしている。しかし、作事方と山鉾町の地縁的関係はほとんどない。作事方が祇園祭と関わり始めた歴史的な経緯は様々であるが、必ずしも地縁的つながりがもとになっているわけではない。

 ・山鉾町と作事方との日常業務的関係は少ない。祇園祭に関わる24事業所のうち、山鉾町で仕事をしたのは、10年間で4件、2事業所のみである。10事業所は都心4区内にあり、12事業所はその他京都市内、他は京都市外を拠点としている。

 ・作事方の事業形態を見ると実質1人親方の形態が5あり、全体として小規模である。また、業務内容として、基本的に木造を主とし、増改築を行うものが目立つ。

 祇園祭を担う作事方と山鉾町のつながりは以上のように極めて希薄になっている。京町家の再生、維持管理を担う建築生産組織の将来を展望する上でこの実態は極めて憂慮すべきことである。京町家街区の景観維持が焦眉の課題であるとすれば、山鉾町と関わる建築生産組織の再構築が大きな課題となる。祇園祭をひとつの梃子にするのが最も具体的と考えられるが、京町家作事組の結成など、町家再生の事例に取り組むヴォランタリーな組織の動きとともに公的な支援の仕組みも期待される。

2024年10月5日土曜日

不可避の構造改革 これからの建築に期待すること, 建築画報,20060618

 不可避の構造改革 これからの建築に期待すること

布野修司

 

 あんまり進歩がないのかもしれない。二〇年ほど前に『戦後建築論ノート』(一九八一年)を書いて、それなりに建築の未来を展望したのだけれど、あまり付け加えることがない。丁度第二次オイルショックの後で、高度成長期が終息した閉塞感はバブルが弾けた今日とよく似ていた。「町並みや歴史的環境の保存の問題」、「地域の生態系に基づく建築のあり方」など既に議論している。

 五年ほど前にその改訂版『戦後建築の終焉---世紀末建築論ノート』(一九九五年)を出したけれど、主張の軸は変わっていない。バブルの残り火がまだ燃えさかっていたけれど、阪神淡路大震災によって「日本の近代建築」、「戦後建築」の課題が全て出尽くしたという思いがあった。そこで、八〇年代以降の建築の動向についての考察を加えるなかで、これからは個々の建築設計においても「地球のデザイン」が問われることを論じた。何も先見性を誇ろうというわけではない。近代建築批判の課題はそう簡単ではない、ということである。

 とは言え、二〇年の時の流れは重い。この間、冷戦の終焉という世界史的な大転換も経験した。求められているのは現実的諸条件の中での具体的指針であろう。「フローからストックへ」「環境共生建築」「サステイナブル・デザイン」・・・耳障りのいい言葉が飛び交うけれど、ストック重視となるとすると、日本の建築界の再編成、構造改革は不可避である。建築の寿命が倍に延びれば、あるいは先進諸国並に建設投資が半分になるとすれば、建設産業従事者は二分の一になってもおかしくない。余剰の部門は、維持管理部門へ、建築に関わるIT部門へ、そしてまちづくり部門へ、大きくシフトしていくことになるだろう。

 

    建築画報 2000618

2023年12月11日月曜日

PFI(「総合評価」)による事業者(設計者)選定方式  建築のあり方研究会編:建築の営みを問う18章,井上書店,2010年

  建築のあり方研究会編:建築の営みを問う18章,井上書店,2010


PFI(「総合評価」)による事業者(設計者)選定方式

布野修司

「世界貿易機構(WTO)」案件はもとより、国の事業は、既に「PFIPrivate Finance Initiative)」事業が主流となっており、公共事業の事業者選定におけるPFI方式は着実に定着しつつある。国あるいは地方公共団体が、事業コストを削減し、より質の高い公共サービス提供する(安くていいものをつくるという「説明責任」を果たす上で極めて都合がいいからである。第一に、PFI事業は、事業者選定の過程について一定の公開性、透明性を担保する仕組みをもっているとされる。第二に、国あるいは地方公共団体にとって、設計から施工、そして維持管理まで一貫して事業者に委ねることで、事務作業を大幅に縮減できる、第三に、効率的な施設管理(ファシリティ・マネージメント(FM))が期待される、そして第四に、何よりも、設計施工(デザイン・ビルド)を実質化することで、コスト削減が容易となる、とされる。しかし、「説明責任」が果たせるからといって、「いい建築(空間、施設)」が、実際に創り出されるかどうかは別問題である。

 

日本のPFIPrivate Finance Initiative)法は、欧米PFIでは禁止されている施設整備費の割賦払を禁止していないばかりかむしろ割賦払いによる施設整備を促進しており、財政悪化の歯止めをはずした悪法となっていることなど[i]、その事業方式そのものの問題はここでは問わない。事業者(特別目的会社SPC)および設計者の選定に関わる評価方式を問題にしたい。決定的なのは、地域の要求とその変化に柔軟に、また動態的に対応する仕組みになっていないことである。

 

BOTBTO

 公共施設整備としてのPFI事業が、BOT(建設Build→管理運営Operate→所有権移転Transfer)か、BTO(建設→所有権移転→管理運営)かは、建築(空間)の評価以前の問題である。

PFI事業がBTOに限定されるとすれば、設計施工(デザイン・ビルド)とほとんど変わらなくなることは容易に予想される。すなわち、設計施工の分離をうたう会計法の規定?をすり抜ける手段となりかねない。

SPCは、民間企業として、事業資金の調達および建築物の設計・施工・管理を行い、さらに、その運営のための多くのサービスを提供するのに対して、公共団体は、その対価を一定期間にわたって分割して支払うのがPFI事業の基本である。地方公共団体にとって、財源確保や管理リスクを回避できることに加え、契約期間中に固定資産税収入があることで、メリットが大きい手法となるはずである。問題は、民間企業にとって、どういうメリットがあるかである。PFI事業の基本的問題は、すなわち、公民の間の、所有権、税、補助金などをめぐる法的、経済的関係、さらにリスク分担ということになる。

公には「施設所有の原則」があり、「施設を保有していないのに補助金は出せない」という見解、主張があった。公的施設の永続性を担保するためには公による所有が前提とされてきたからである。実際は、BTO方式によるPFI事業にも補助金を出すという決定(補助金交付要項の一部改正)がなされることになる。SPCにとっては、補助金がないとすれば、メリットは多くはない。BOT方式のPFI事業では、所有権移転を受けるまでの30年間(最近では10年~20年のケースが増えつつある)は、SPCの所有ということになる。従って、SPCは税金を払う必要がある。これではSPCにはさらに魅力がないことになる。

実際上の問題は、公共施設のプログラム毎にケース・バイ・ケースの契約とならざるを得ない。「利益が出た場合にどうするか」というのも問題であるが、決定的なのは「事業が破綻した場合に、その責任をどのようにとるか」である。契約をめぐっては、社会的状況の変化をどう考えるかによって多様な選択肢があるからである。公共団体、SPC、金融団等の間に「秘密保持の合意」がなされる実態がある。破綻した際の責任をだれが取るのか、建築(空間)の質の「評価」の問題も同じ位相の問題を孕んでいる。

 

責任主体 

PFI事業によって整備される公共施設の「評価」を行い、SPCの選定に関わる審査機能をもつ委員会は基本的に法的な権限を与えられない。従って、責任もない。これは、PFI事業に限らず、様々な方式の設計競技においても同様である。また、審査員がどのような能力、経験、資格を有すべきかどうかについても一般的に規定があるわけではない。

地域コミュニティや自治体に属する権限を持った「コミュニティ・アーキテクト」あるいは「タウンアーキテクト」、また法的根拠をもってレビューを行う英国のCAVE(Committee of Architecture and Built Environment)のような新たな仕組みを考えるのであれば別だが、決定権は常に国、自治体にある。都市計画審議会にしろ、建築審議会にしろ、諮問に対して答申が求められるだけである。

日本の審議会システム一般についてここで議論するつもりはないが、PFIをうたいながら、すなわち民間の活力、資金やノウハウを導入するといいながら、審査員には「有識者」として意見を言わせるだけで、予め設定した枠組みを全く動かさないという場合がほとんどである。

「安くていいものを」というのが総合評価方式であり、一見オープンで公平なプロセスであるように見えるが、プロジェクトの枠組みそのものを議論しない仕掛けが「審査委員会」であり、国、自治体の説明責任のために盾となるのが「審査委員会」である。

予め指摘すべきは、地域住民の真のニーズを汲み上げる形での公的施設の整備手法は他にも様々に考えられるということである。

 

プログラムと要求水準

公共施設整備の中心はプログラムの設定である。しかし、公共施設は様々な法制度によって様々に規定されている。施設=制度institutionの本質である。

民間の資金やノウハウを活用することをうたうPFI事業であるが、予め施設のプログラムは、ほとんどが「要求水準書」によって決定されている。この「要求水準書」なるものは、多くの場合、様々な前例や基準を踏襲してつくられる。例えば、その規模や設備は現状と変わらない形で決められてしまっている。また、容積率や建蔽率ぎりぎりいっぱいの内容が既に決定されており、様々な工夫を行う余地がない。極端に言えば、あらたな質をもった建築空間が生まれる可能性ほとんどないのである。

「要求水準書」は、一方で契約の前提となる。提案の内容を大きく規定するとともに、審査における評価のフレームを大きく規定することになる。すなわち、公共施設の空間構成や管理運営に地域住民のニーズを的確に反映させる仕組みを予めPFI事業は欠いているといっていい。参加型のワークショップなど手間隙はかかるけれどもすぐれた方法は他にある。

 

総合評価

公共施設整備の核心であるプログラムとして、設計計画のコンセプト、基本的指針が本来うたわれ、建築的提案として競われるべきである。そして、公的な空間のあり方をめぐってコンセプトそのものが評価基準の柱とされるべきである。あるいは、コンセプトそのものの提案が評価の中心に置くべきである。しかし、コンセプトはしばしば明示されることはない。PFI事業においては、「総合評価」方式が用いられるが、「総合評価」といっても、あくまで入札方式としての手続きのみが問題にされるだけである。

問題は、「総合評価」とは一体何か、ということになる。

A 評価項目とそのフレーム

多くの場合、審査員が参加するのは評価項目とその配点の決定からである。予め「先例」あるいは「先進事例」などに倣った評価項目案が示され、それを踏襲する場合も少なくない。すなわち、国あるいは地方公共団体の「意向」が反映されるものとなりやすい。

問題は、建築(空間)の質をどう評価するか、であって、そのフレームがまず審査員の間で議論されることになる。ここで、審査員によって構成される委員会におけるパラダイムに問題は移行することになる。例えば、建築を計画、構造、設備(環境工学)、生産といった分野、側面から考えるのが日本の建築学のパラダイムであるが、一般の施設利用者や地域住民にそのフレームが理解されることは稀である。「要求水準書」を満たすことは、そもそも前提であり、しばしば絶対条件とされる。審査委員会の評価として「プラス・アルファ」(それはしばしば外観、あるいは街並みとの調和といった項目として考慮されようとする)を求めるといった形でフレームが設定されるケースがほとんどである。

B ポイント制

フレームはフレームとして、提案の全体をどう評価するかについては、各評価項目のウエイトが問題となる。各評価項目を得点化して足し合わせることがごく自然に行われる。複数の提案から実現案1案を選ぶのであるから、審査員が徹底的に議論して合意形成に至ればいい(文学賞などの決定プロセス)のであるが、手続きとしてごく自然にこうしたポイント制が採られる。審査員(専門家)が多数決によって決定する、またその過程と理由を公開する(説明責任を果たす)のであればいいのであるが、ポイント・システムは、例え0.1ポイント差でも決定理由となる。建築の評価の本質(プログラムとコンセプト)とはかけ離れた結論に導かれる可能性を含むし、実際しばしばそうしたことが起こる。

各評価項目もまた、客観的な数値によって評価されるとは限らないから、多くの場合、相対評価が点数による尺度によって示される。個々の審査員の評価は主観的であるから、評価項目ごとに平均値が用いられることになる。わかりやすく言えば、平均的な建築が高い得点を得るのがポイント制である。

建築の評価をめぐる部分と全体フレームをめぐる以上の問題は「建築」を専門とする専門家の間でのパラダイムあるいはピア・レビューの問題であるといってもいい。

C 建築の質と事業費

「安くていいものがいい」というのは、誰にも異を唱えることができない評価理念であるが、「いい」という評価が、Bでの議論を留保して、点数で表現されるとして、事業費と合わせて、総合的にどう評価するかが次の問題である。

建築の質に関わる評価と事業費といった全く次元の違う評価項目を比較するとなると、点数化、数値化は全く形式的なものとならざるを得ない。そこで持ち出されるのが実に単純な数式である。

事業費を点数化して、建築の質の評価に関わる点数と単純に合わせて評価する加算法と、質は質として評価した点数を事業費で割って比べる除算法が用いられているが、数学的根拠はない。極めて操作的で、加算法を採る場合、質の評価と事業費の評価を5:5としたり、4:6にしたり、3:7にしたり様々である。除算法を採る場合、予め、基本事項(要求水準)に60%あるいは70%の得点を与える、いわゆる下駄が履かされる。基本的には、質より事業費の方のウエイトを高くする操作と考えられても仕方がない。

単純に事業費のみとは限らない。SPCの組織形態や資金調達能力などが数値化され、係数を加えたりして数式が工夫される。

事例を積み重ねなければ数式の妥当性はわからないというのが経営学の基本的立場というが、建築の質の評価の問題とはかけ離れているといわざるを得ない。

地方公共団体の施策方針と財務内容に基づいて設定された事業費に従って、施設内容、プログラムを工夫するやり方の方がごく自然である。

D 時間的変化の予測と評価

事業費そのものも、実は明快ではない。いわゆる設計見積を評価するしかないが、設計・施工のための組織形態によって大きな差異がある。そして何よりも問題なのは、時間の変化に伴う項目については誰にも評価できないことである。維持管理費やランニング・コストについては、提案書を信じるしかない。

結局は、予測不可能な事態に対処しうる組織力と柔軟性をもったSPCに期待せざるを得ない、ということになる。

事後評価

PFI事業の事業者選定委員会は、設計競技の審査委員会も同様であるが、多くて数回の委員会によってその役割を終える。当初から事業に責任がないことは上述の通りであるが、事後についても全く責任はなく、なんらの関係もない。そもそも、PFI事業は一定の期間を対象にしているにも関わらず、事後評価の仕組みを全く持っていない。

事業の進展に従ってチェックしながら修正することが当然考えられていいけれど、そうしたフレキシビリティをもったダイナミックな計画の手法は全く想定されていない。

 

以上、PFI事業による公共施設整備の問題点について指摘してきた。透明性の高い手法として評価されるPFI事業であるが、実は、建築(空間)の評価と必ずしも関わらない形式的手続きによって事業者が決定されていることは以上の通りである。PFI事業の制度は、結局は事業費削減を自己目的化する制度に他ならないということになる。「いい」建築を生み出す契機がそのプロセスにないからである。少なくとも、地域住民のニーズに即した公共建築のあり方を評価し、決定する仕組みを持っていないことは致命的である。

問題点を指摘する中でいくつかのオールタナティブに触れたが、「コミュニティ・アーキテクト」制の導入など、安くていい、地域社会の真のニーズに答える仕組みはいくらでも提案できる。要は、真に「民間活力」を導入できる制度である。

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[i] 割賦払いの契約を締結すると公共には施設整備費を全額支払う義務が生じ、施設の瑕疵担保リスクを超えた不具合リスクを民間に移転することが出来なくなるというデメリットが生じる。そして、公債よりも資金調達コストの高い民間資金を利用して施設を整備する合理的な理由がなくなる。


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...