「世界建築家」丹下健三の死 丹下の生きた時代,丹下のいない時代,建築ジャーナル, 2005
丹下の生きた時代、丹下のいない時代
布野修司
丹下健三が逝った。92才の大往生である。近代日本の生んだ偉大な建築家であった。しかし、巨人の死に際して、例えば、今年生誕百年を迎える前川国男の死の時(1986年)のように、ひとつの時代が終わった、という沸き上がってくる独特の感慨はない。既に、藤森照信によって、その全生涯、全仕事が集大成[i]されていることもあるだろう。丹下の時代は既に過ぎ去っていた、という感が強い。
丹下健三については、これまで、何度か書いてきた[ii]。日本の近代建築とりわけ戦後建築を代表する建築家であるから、繰り返し触れることになるのは当然であろう。本誌『建築ジャーナル』でも、平良敬一、磯崎新、古谷誠章の諸氏と丹下健三と丹下健三をどう乗り越えるかをめぐって議論したことがある[iii]。10年前に、丹下は既に乗り越えるべき対象であったのである。否、10年前においても、丹下は乗り越えるべき存在であったというべきである。追悼に当たって反芻すべきなのもその問いであろう。すなわち、建築における「丹下的なるもの」とは何か、という問いである。
丹下における連続・非連続
丹下健三をめぐっては、デビュー作品である、戦時中の「大東亜建設忠霊神域計画」(1942年)、「在盤谷日本文化会館」(1942年)という、いずれも一等入選を果たしたふたつのコンペ応募作品と戦後日本建築の出発を記念する「広島ピースセンター」(1949年コンペ、1955年竣工)の間の連続・不連続をめぐって、すなわち、丹下における転向・非転向をめぐって、議論が行なわれてきた。そして、その帰結は現在ではおよそはっきりしている。
当初、強調されたのは、国粋主義者から近代主義者へ、という丹下のイデオロギーの転換、すなわち転向である。戦後日本浪漫派に心酔していた丹下が、一転、平和の旗手として広島ピースセンターの設計に関わることへの素朴な違和感は、丹下の輝かしい戦後の歩みにも関わらず存在し続けた。丹下自身が、「戦没学徒記念館」(1966年)の発表を秘してきたことがその事情を示している。日本の近代建築草創の歴史は、ファシズムに対する果敢な闘いとその挫折の歴史として描かれる。「日本趣味」「東洋趣味」を旨とすべし、という規定がなされていた一連の設計競技に、敢然と近代建築のスタイルを提出し続け、ついには「日本的なるもの」=「ナショナルなもの」を象徴する勾配屋根を受け入れるに至った前川国男の軌跡がその象徴とされる[iv]。丹下健三の場合、問題とされてきたのは逆向きの転向である。
しかし、確認されるのはむしろ連続性である。その作品、その設計手法を見る限り、戦前戦後に大きな変化はない。寝殿造り風の屋根を除けば、「大東亜建設忠霊神域計画」と「広島平和記念館総合計画」(1950年)は、その構成手法に差異はないのである[v]。戦後の伝統論争においてもその方向は変わらないが、日本的なるものに近代的なるものを見いだす、例えば、日本建築の木割を近代技術によって実現するといった解答が多くの建築家によって選択されてきた。丹下の場合、作品系列上の大きな転換は、むしろ、60年代に入ってからの構造表現主義の作品にみることができる。藤森照信の整理によれば、「柱梁の系譜」から「彫刻的表現」への転換である。そして、さらに問題にすべき転換は、「東京都新庁舎」におけるポストモダンへの傾斜である。しかし、いずれにしろ、丹下健三が一貫して近代技術の展開を基礎にしながら質の高い作品を表現し続けたことは衆目の一致するところである。
そして、連続性は「国家」との関係においても強調される。磯崎新は、前述の座談会などでも繰り返し指摘しているが、丹下の死に際しての追悼文においても[vi]、丹下の発想の内奥には、徹頭徹尾、国家への想いがあり、「超越的な何ものかにむかって引かれた一本の軸線がひそんでいる」という。丹下健三は、基本的に国家主義者であり、「国家の建築家」であったことになる。確かに、「大東亜建設忠霊神域計画」→「広島平和記念資料館」→「代々木国立屋内総合競技場」(1964年)→「大阪万国博お祭り広場」(1970年)と、丹下健三は日本の国家的プロジェクトに一貫して関わってきたのである。
世界資本主義の誘い
国家の肖像を描き続けるのが丹下の本質であったという磯崎の見方に立てば、1970年以降の作品はとるにたらない、ということになる。果たしてそうか。確かに、70年代に入って、オイルショック以降、丹下は転身したように見える。その後の歴史は、1974年に東京大学を定年退官し、設立した丹下健三・都市・建築設計研究所の歴史である。東京大学理学部本館(1973-79)、草月会館(1974-79年)やわずかの住宅作品を除いて、1970年代にほとんど丹下は日本で仕事をしていない。仕事の場はほとんどが海外である。そして、作品の質もかつての輝きはない。当時を振り返って、丹下健三は消えた、という印象がある。国内では、丹下健三批判の書と言っていい、長谷川堯の『神殿か獄舎か』が貪るように読まれた。また、磯崎新の『建築の解体』がポストモダンの方向性を示していた。丹下が日本に帰ってくるのは、「ポストモダンには明日はない」という発言、そして「東京都新庁舎」コンペとともにである。
丹下が海外へ向かったのは、単純には国内に仕事がなくなったからである。一方、オイルダラーで潤う中東の国々には多くの仕事があった。丹下健三には一度だけ会ったことがある。大学院生の時、「松江都市圏総合開発計画」(1974-75年)のアルバイトをしていて月尾嘉男に自邸に連れていかれたのである。専ら、中東情勢が語られていたのを思い出す。また、それ以前に二度ほど[vii]「アーバンデザイン」という科目の講義を聞いた。大阪万博を直前にして、その総合プロデューサーである丹下健三は大スターであり大御所であったが、講義の内容は、建築を学び始めた学生にはいささかショックなものであった。「君たちは不幸です。1980年代後半には、建築は衰退します」というのである。ロストウの経済発展の四段階説を下敷きにした歴史予測であった。振り返れば、そうした歴史的予測に基づいて丹下は日本を「離陸」し、海外に向かったのである。磯崎流には、国家が丹下という建築家を必要としなくなった、といってもいい。日本という国家が変質したのである。一方、国家の肖像を必要とする新興国が丹下を招いたのである。丹下と丹下の作品は、近代国家のシンボルとして「売れた」のである。そして、バブルとともに丹下は日本に帰還する。挑んだのは、世界都市・東京の貌をどうデザインするかという課題であった。
土地に固有な表現へ
こうして、丹下の一貫性は明らかではないか。磯崎のように、丹下を最後の「国家の建築家」として歴史的に封じ込めてしまうだけでは不充分であろう。さらに一貫するものを確認するには、丹下の都市へのアプローチを見る必要がある。丹下健三の学位論文は『都市の地域構造と建築形態』(1959年)である。また、戦後まもなくより多くの復興都市計画に関わってきた。その頂点にあるのが「東京計画1960」(1960年)である。この「東京計画」は、それ以前の大ロンドン計画を下敷きとする首都圏計画、すなわち同心円状に副都心、衛星都市を配する構造を根底的に転換するものであったこと、また、それにも関わらず、ハイアラーキカルなツリー構造(C.アレクサンダー)を免れていないことなど、多くの議論を生んだが、第一に問題とすべきは、丹下の都市へのスタンス、その立っている位置であった。
アーバンデザインという一つの平面を仮構し、都市のフィジカルな配列を提案することによって、その社会的、経済的、技術的実現可能性を問うというスタイルは、基本的に近代建築英雄時代の巨匠のスタイルである。そこでの建築家は、思想家にして実践家、総合の人間であり、世界を秩序づける神としての「世界建築家」のイメージである。丹下健三は、日本という国家が、戦後復興→講和、国連加盟→高度成長→東京オリンピック→大阪万国博という国際的地位を獲得していく過程で、「世界建築家」のイメージを体現し得たのである。
この「世界建築家」という幻想は、建築という行為の根源に関わるが故におそらく消滅することはない。しかし、それが大きく何かを動かす時代はもうないであろう。世界的建築家といっても、世界資本主義の運動に翻弄されながら建設市場を渡り歩く存在でしかない。多くの建築家たちは、対極的に、もう少し地域の現実に拘束され、土地に固有な表現を再構築するそんな存在に回帰しつつある。われわれはしばらく前からそんな時代を生き始めている。
[i] 丹下健三・藤森照信、『丹下健三 KENZO TANGE』、新建築社、2002年9月
[ii] 拙稿、「丹下健三と戦後建築」(「Ⅲ章 四人の建築家」)『国家・様式・テクノロジー―建築の昭和―』布野修司建築論集Ⅲ、彰国社、1998年
[iii] 磯崎新、平良敬一、布野修司、古谷誠章、「「丹下健三」の読み方 そしてそれを乗り越える戦略は?」、『建築ジャーナル』、No.874、1995年12月
[iv] 拙稿、「Mr.建築家―前川国男というラディカリズム―」(「Ⅲ章 四人の建築家」)『国家・様式・テクノロジー―建築の昭和―』布野修司建築論集Ⅲ、彰国社、1998年
[v] 稲垣栄三がつとにそのことを指摘している。稲垣栄三、『日本の近代建築』、丸善、1959年。SD選書、
[vi] 磯崎新、「建築家丹下健三氏を悼む 描き続けた国家の肖像」、朝日新聞、2005年3月23日
[vii] 丹下本人は二度ほどしか出校していない。残りの授業は渡辺定夫の代講であった。