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2021年3月31日水曜日

現代建築家批評17  形態は生産を刺激する  石山修武の建築思想

 現代建築家批評17 『建築ジャーナル』20085月号

現代建築家批評17 メディアの中の建築家たち


形態は生産を刺激する

石山修武の建築思想

 

 石山修武に、いわゆる「建築論」を展開する著書はない[i]。修士論文は『近代建築史における正統と異端』(1968年)というが、その後、「論文」と呼べる論文を書いてはいない[ii]。『バラック浄土』以降、数多くの本を、「自己運動」の記録として、またさらなる「運動」へ向けてのメディアとして、公にしてきているけれど、著書のほとんど全ては「ブログ」のようである。そして、その建築思想は、膨大な言葉の海の中で、断片的に語られるだけである。

安藤忠雄のようにコンクリートの幾何学をとことんつきつめるのでもなく、藤森のように建築の始原へ単純に回帰するのでもなく、伊東豊雄のように新奇な形態を求め続けるのでもなく、山本理顕のように社会のかたちと建築のかたちの関係を理論的につきつめるのでもない。

しかし、一連のコルゲートの住宅を「幻庵」に結晶させ、「開拓者の家」で一般解を確認(川井自邸を追体験)すると同時に、「卵形ドーム」等でバックミンスター・フラーのジオデシック・ドームを手の内にした頃、そして、コンテナを積んだ「神官の間」(1987年)までは、石山の位置は明快であった。建築家のポジションとして、安藤―山本、伊東―藤森がX,Y2軸の平面の場を設定するとすれば、石山は明らかに原点に位置して、3次元の下方に位置する筈であった。すなわち、石山は建築の工業的生産システムそのものを前提として、平たく言えば、工業製品を建材として建築表現の可能性を追求するのが石山修武の持ち場であった。

コルゲート住宅にしても、フラードームにしても、石山のオリジナルではない。川合健二にしても、フラーにしても、地球大の建築思想がある。石山が深く二人の建築思想に共鳴して出発したことは明らかである。しかし、システムそのものを提案する位相と石山が出発しようとした位相との間には、産業社会に対する期待や信頼において大きなずれがあった。

石山は、振り返って、「僕はやっぱり川合健二、バックミンスター・フラー、・・・流れとしたらそういう人たちの考え方をベースにしている・・・そういう人たちの考え方をベースとして、時々表現という演技はして見せるゾというような感じですね」[iii]という。

果たして、石山のやってきたのは「表現という演技」にすぎなかったのであろうか。

  

 小さな家の設計は可能か?

石山修武の初心、「建築(住宅)理論」の核は、『「秋葉原」感覚で住宅を考える』に最もシャープに示されている、と思う。その冒頭で、「小さな家の設計は可能か?」[iv]と石山修武は問う。そして、「建築家は無力である」と書き、「建築家は無力であってはならない」と書く。『住宅道楽』(講談社選書メチエ、1997年)には、「住宅建築家宣言」があり、「小住宅の可能性」を問う論考と共に、「世田谷村」へ至る住宅設計の悪戦苦闘が綴られている。

戦後まもなく、全ての「建築家」にとって共通に取り組むべきテーマは「住宅」であった。420万戸の住宅が不足する中で、住宅建設は喫緊の課題であったのである。その大課題に対して、建築家たちが採ろうとした方法にはいくつかの流れがあった。それぞれの流れの帰趨については『戦後建築論ノート』[v]に譲るが、1960年前後に住宅は「建築家」の主要なテーマでなくなる。変わって大テーマとなったのが、都市プロジェクトであり、アーバン・デザインであった。

八田利也の『小住宅設計ばんざい』(1958年)篠原一男の『住宅は芸術である』(1962年)が書かれたことが示すように、住宅の設計は、極く小さな回路の仕事に封じ込められてしまう。そして、60年代を通じて主役に躍り出たのが住宅メーカーである。「ミゼットハウス」(1959年)を嚆矢として出現した工業化住宅は10年後には住宅生産の1割を占めようとするまでに至る。日本に住宅産業が成立するのである。一方で、公団・公社・公営住宅の公的住宅供給の回路、他方、住宅メーカーによる住宅販売の回路、建築家が直接関与する機会はますます失われていく。1960年代末に至って、「建築家」に住宅設計を依頼する層が出現してくるのに合わせて創刊されたのが『都市住居』である。この『都市住居』が、次の世代の若い建築家が育っていくメディアになったこと、そして、原広司の「住居に都市を埋蔵する」、「最後の砦として住宅設計」という指針が若い建築家たちの指針になっていたことは、これまで繰り返し触れてきた通りである。

石山修武のコルゲート・パイプの住宅と「D-D方式」、そして大野勝彦の「セキスイハイムM1」は、住宅生産流通システムの全体、住宅産業を土俵とすることにおいてラディカルであった。『群居』が再構築しようとしたのは、「建築家」によるこの住宅戦線なのである。

 

 オープンシステムとフリーマーケット

「電気製品に秋葉原があり、カメラに新宿西口があり、雑貨に上野アメ横があるように、住宅にだって、自由な価格競争のおこなわれる、真のマーケットがある筈だ」というのが『「秋葉原」感覚で住宅を考える』の帯(キャッチコピー)である。「日本の住宅の価格、どこかおかしいぞ」「安くて、丈夫で、美しい、そんな家がなぜ持てないのだろう?」「住宅にも、フリーマーケット感覚を!」というのは今日でもわかりやすいスローガンである。住宅産業を支える基本的理念も基本的には同じである。しかし、住宅産業には「ブラック・ボックス」がある、という告発がそこに込められていたのである。

しかし、そもそも住宅は工業製品とは異なる。建築(住宅)は、基本的に「地」のものである。大野勝彦の「セキスイハイムM1」の場合、95%工場生産化されるけれど、具体的な敷地に据えられてこそ建築(住宅)であるとすれば100%工場生産化されることはあり得ないことである。車も飛行機もコンピューターも「全てが建築である」(H.ホライン)というのは「建築家」の夢である。石山もまたそれを共有するけれど、「住宅」そのものを「商品」としてフリーマーケットに委ねようというわけではない。石山の念頭にあったのは、住宅部品のフリーマーケットである。大量に工業生産されるものを使えば、もっと安く住宅をつくれる、というのが石山の主張であった。

 『群居』における石山修武と大野勝彦の間の争点は、オープン部品のあり方をめぐって、一定の生産システムを想定するか、セルフビルドを前提として住宅部品の全体マーケットを想定するかにあった。

「私たちの手元には工業化の方法はないと考えた方がいい。・・・いま何らかの手段を講じなければならぬのは、このブラック・ボックスの分解と再構成の方法を呈示することである。建設技術や工業製品の生産技術そのものに眼を向けるよりも、マーケットでの技術の流通の実相を把握することである。」と石山は書いている。

工業化構法を前提としながら、延々と「No.住宅」をつくり続けた池辺陽の例がある。それに対してビルディング・エレメント論から建築生産のオープンシステム論を展開する内田祥哉がいて、その弟子が大野勝彦である。工業化住宅として年間1万棟を超えるシェアを獲得した「セキスイハイムM1」にしても、それが「全体」を覆うことはありえないことははっきりしていた。

 

 「自己表現」のためのセルフビルド

 『「秋葉原」感覚で住宅を考える』は、石山の多くの著作がそうであるように、直接、「膨大な大衆」に訴えかける構えをとっている。「素人でも家は建てられる」[vi]、石山修武の住宅論は、直接「素人」にも向けられる。石山には「私たちも膨大な大衆の一断片として社会に漂っている」という感覚が当初よりある。『バラック浄土』が原点であり、無数のバラッカー、セルフビルダーへの共感が出発点にあるのである。

 しかし、出発点において、予め次のステップが問題であった。要するに個をどう「ひとつの全体」へつなげていくのか、それが問題なのである。石山修武がまずエールを送り、連帯しようとしたのが職人たちであった。

 「全国に散在する地場の工務店、そして、そこを拠り所にする大工さん、各種の職人さん諸君。更に、全国の中小、あるいは弱小建売業者諸君」と石山は呼びかける[vii]。「諸君が日本の住宅生産の、そして、その流通の主役であることはまぎれもない現実である。諸君は、その土地柄、風俗、習慣、趣向、気質といったことを知り抜き、身につけているひとたちである。別の言い方をするならば、風土固有の生産の形態を先験的に身につけている人々である。」。

石山は、こうして職人の方へ向かい、 大野勝彦は、地域住宅(HOPE)計画を仕掛けながら、『地域住宅工房のネットワーク―住まいから町へ、町から住まいへ』(彰国社 1988)の構築へ向かうことになった[viii]

 石山が工業社会において「奇人変人」に貶められてしまったセルフビルダーに眼を注ぐだけに終始したのですれば、「伊豆長八記念」以降の展開はありえなかった筈である。

 「この本は、自己表現のガイドブックである」と、2008年になってまとめた本が『セルフビルド SELF BUILD 自分で家を建てるということ』(交通新聞社)である。ホームレスのシェルター(完全0ハウス)やモビールハウス(モバイル電化ハウス)の中に、川合健二邸や「開拓者の家」の他、磯崎新の「隠れ家」、藤森照信の「神長官守矢史料館」、そして「ひろしまハウス」「世田谷村」も含まれている。

 誰もが建築家であり得る[ix]。自己表現するセルフビルダーにとどまるとすれば、また回帰していくのであるとすれば、「世田谷村」がその最終的な答えになるのであろう。

「バラック浄土」としては、あまりに「小乗」的かもしれない。

 

 鏝一本からのまちづくり

連帯を求めて、石山は「松崎町」へ向かった。部品→職人→まちづくりへという展開は、振り返って、実に鮮やかである。左官職人たちが鏝一本持ってかけつけることによってまちづくりが展開し始めるのである。

「システムか自己表現か」という問いは、石山に一貫するというより、「建築家」の思考に基底にある基本的な問いである。石山の場合、以上のように、徹底して「個から全体へ」である。しかし、石山があらたまってまちづくり論を展開することはない。石山の動きとそのネットワークの拡がりがそのまままちづくりなのである。まちづくりのプロセスと様々な仕掛けについて、われわれは『職人共和国だより 伊豆松崎町の冒険』『世界一のまちづくりだ』から多くのヒントを得ることが出来る。

メタボリズムの登場以降、1960年代を通じて、アーバン・デザインの方法、都市構成理論をめぐって、全体か個かー全体から個へ向かうのか、個から全体へ向かうのかーが問われてきた。メタボリズム・グループの建築都市論、すなわち、菊竹清訓の「代謝建築論」「か・かた・かたち」論、槇文彦の「生成建築論」「群造形論」、大高正人の「人工土地論」、黒川紀章の「行動建築論」のみならず、磯崎新の「プロセスプランニング論」、大谷幸夫の「Urbanics試論」、原広司の「有孔体理論」など、全て都市と建築をつなぐ方法をめぐっていたと言ってもいい。

しかし、1960年代の理論をめぐる議論はすぐさま醒めていく。理論より実践、大阪万国博やニュータウン計画など現実の計画が具体的な仕事になるのである。現実が理論を追い越していったといってもいいが、理論と現実との乖離が露わになったといってもいい。石山は、おそらくこの乖離をはっきりと自覚することによって出発したのである。

都市構成論のレヴェルにおいて、理論が理論にすぎないことははっきりしていた。そして、1960年代末から1970年代にかけて、とりわけオイルショック(1973年)によって、それが砂上の楼閣であったことは誰の眼にも明らかになった。石山は、この時代に『近代建築史における正統と異端』を書き、大阪万博の仕事に関わりながら、川合健二に出会い、コルゲート・パイプの住宅をつくり始めているのである。

理論より実践、砂上の楼閣ではなくリアリティ、石山の揺るぎない信念である。

 

 異形を産む生産方式

職人たちへのエールを送るに当たって、近代建築家の職能そのものの解体なくしては机上の空論に過ぎなくなる、と石山は書いている[x]。そして、C.アレグザンダーの「アーキテクト・ビルダー」という概念と地下水脈をひとつにするかもしれない、という。「アーキテクト・ビルダー」論については「建築家」の生き延びるひとつの道として、本連載の第一回で書いた。

石山は、しかし、次のように書いて、一線を画する。

「クリストファー・アレグザンダーの理論は近代主義の正当な継承である。誰にでも、どこにでも、安価で快適な住環境をという理念の実現は、B.フラーのルネサンス的なヒューマニズムと共に今世紀に残された最大の課題である。しかし、それはB.フラーの世界観と同じようにある主の限界を内在させている。それは近代の工業化された国々、地域では適応することができないのだ。・・・その参加の理念はウィリアム・モリスがそうであったように、あまりにも中世主義的なのである。また、その建築はモリスのそれがそうであったように、あまりにも凡庸なものなのだ。既存の生産方式と異なる方法で建設される建築が既存の建築形式と同じであるはずがなく、しかもそれのキッチュであるはずがないのだ。・・・特異なものを考案することこそが、彼のいうアーキテクト・ビルダーの、あるいは擬洋風を建てた大棟梁たちの特権的な力であったのではなかろうか」

C.アレグザンダーの「アーキテクト・ビルダー論」の背景には「パターン・ランゲージ」論があり、設計プロセスを可能な限り論理化しようとする『形の合成に関するノートNotes on the Synthesis of Form(鹿島出版会)』(鹿島出版会、1978年)があり、その理論は極めてラショナルである。そして、「パターン」にしても基本的には普遍的なものとして呈示されている。しかし、現場で、直接組み立てる『住宅の生産』の方法は共有していた。そして、中世のマスタービルダーへ回帰できるものではないというのもその通りである。石山にとって決定的なのは、「既存の生産方式と異なる方式であれば特異な表現(異形の建築!)でなければならない」ということである。

建築生産システムがあって、個々の表現はそのベースの上に(それに寄生することによって)成り立つというのは石山の建築理論にはない。すなわち、スケルトンとインフィル、躯体システムと個々の空間(意匠)を分けるような重層的なシステムの提案は石山修武の念頭にはない。

石山は、しかも、既存の生産方式と異なる方式であれば特異な表現でなければならない、というテーゼをひっくり返す。特異なもの(形態)こそが新たな生産方式を産む、というのである。

「未見の形こそが既存の建築の生産方法、生産形態の管理されて形骸化している体系を刺激し、ゆさぶり、解体し、流動して止まぬものへと誘起する原動力になる・・形態は生産を刺激することができるのだ。」[xi]

 

 プロフェッサー・アーキテクト!?

石山修武のシステム(体系)嫌いは本能的なものである。しかし、石山の建築(住宅)論、まちづくり論は、結局、石山という個を中心とするネットワーク・システムに収斂することになる。石山の理論が全体システムへの展開を拒否し続けるとすれば、そうならざるを得ない。石山のアポリアである。

石山システムは、持続性、すなわち、技術を継承、維持していくシステムをもたない。また、地域を統合し、維持していくシステムをもたない。石山が動くところ、波紋が広がるようにネットワークが広がっていく。しかし、波紋はそのままでは消えてしまう。

 1988年に早稲田大学の教授となって、石山修武の拠点は、大学という制度の中へ移動する。石山の「建築運動」はそのことにおいて、大きく転換したようには見えない。今振り返ると、石山は、波紋を次世代に伝える大きな役割を引き受けたと考えることができるであろう。

 かつて「住宅建築家宣言」を出した[xii]石山は、「小住宅休止宣言」(1999年)を出すに至る。「もうやってられないのである」という。弟子に仕事を分配するなど、全体的な継承システムがなければ、そうなるのは必然である。石山自身が世界中の住宅をひとりで設計するわけにはいかないのである。まちづくりについても同様である。託すべきは、第二、第三の石山であり、無数の石山を育成することである。石山の遺伝子を建築教育のシステムの中にインプットできれば、その理論は一環する。

 しかし、大学という制度は、建築の生産システムと同様一筋縄ではいかない。僕は、東京大学で助手を2年間した後、東洋大学、京都大学、滋賀県立大学と私立大学、国立大学、公立大学で30年以上建築教育に携わってきた。それ故、石山修武の早稲田大学での「苦闘」はよく理解できる。『早稲田バウハウス・スクールの実験 学校をいかに暮らすか 性での試み』(早稲田バウハウス・スクール編、TOTO出版、2000年)、そして『早大石山研究室・建築は終わらない』(ごうどゆきお、王国社、2001年)を読むと、そのあり様は、ほとんど奇跡であるようにみえる。大学という、論文の本数のみを数える、ますます幼稚化する管理社会において、「職人・芸術・建築大学(A3)ワークショップ」を維持することは並大抵のことではないのである。

 しかし、つまるところ、石山のコルゲート住宅に始まる部品論、セルフビルド論、まちづくり論、職人論、まちづくり論は、徒弟制度・・・全て「世田谷村」に収約されていくように見える。果たして、石山修武は、日本一小さな村である「世田谷村」で完結してしまうのであろうか。



[i] 石山修武の著作群:『バラック浄土』 (相模書房1982年)/『「秋葉原」感覚で住宅を考える』 (晶文社1984年)/『職人共和国だより 伊豆松崎町の冒険』 (晶文社、1986年)/『笑う住宅』 (筑摩書房1986年)/『現代建築 空間と方法4』 (同朋舎1986年)/『現代の職人』 (晶文社、1991年)/『住宅病はなおらない』 (晶文社、1993年)/『世界一のまちづくりだ』 (晶文社、1994年)/『住宅道楽―自分の家は自分で建てる』 (講談社1997年) /『夢のまたゆめハウス』 (筑摩書房、1998年)/『建築はおもしろい―モノづくりの現場から』 (王国社1998年) /『建築家、突如雑貨商となり至極満足に生きる』 (デジタルハリウッド出版局1999年)/『石山修武 考える、動く、建築が変わる』 (TOTO出版1999年)

『石山修武の設計ノート―現場の声を訊け』 (王国社、2003年)

[ii] 石山自身も編者となって編んだシリーズ『都市・建築・歴史』全10巻(東京大学出版会、2006年)にも論文なるものは書いていない。

[iii] 『石山修武考える、動く、建築が変わる』(TOTO出版、1999年)。

[iv] 『「秋葉原」感覚で住宅を考える』pp.30-35

[v] 布野修司、相模書房、1981年。増補改訂『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』、れんが書房新社、1995

[vi] 『「秋葉原」感覚で住宅を考える』pp.36-46

[vii] 「全国の大工さん、職人さんにおくる演説」(『「秋葉原」感覚で住宅を考える』pp.189-198)。初出は、「ロディアの塔―大工・工務店のオヤジさん・職人さん達へー」(『群居』創刊号、19834月)。

[viii] 大野勝彦も、またまちづくりへ向かう(『七つの町づくり設計―現代の住宅』 丸善、1997年)。工業化住宅「セキスイハイムM1」で著名な大野であるが、処女著作は、『現代民家と住環境体』(SD選書105鹿島出版会1976)であり、伝統的住居への視線は既に示されている。木造住宅については、『現代の住宅―木造住宅』( 丸善、1998年)がある。

[ix] 本連載02「誰もが建築家でありうる」『建築ジャーナル』20082

[x] 2001年の左官職人」『職人共和国だより』(晶文社、1986年)pp.23-38

[xi] 『職人共和国だより』(晶文社、1986年)P34

[xii] 「第一章 住宅建築家宣言」『住宅道楽 自分の家は自分で建てる』(講談社選書メチエ、1997年)pp.10-44

2021年3月30日火曜日

現代建築家批評16  建築トリックスター  石山修武の軌跡

 現代建築家批評16 『建築ジャーナル』20094月号

現代建築家批評16 メディアの中の建築家たち


建築トリックスター

石山修武の軌跡

 

 不思議な、実に魅力的な「建築家」である。国際的知名度、一般社会へのポピュラリティにおいては、安藤忠雄や藤森照信、伊東豊雄、隈研吾に劣るかもしれないけれど、日本を代表する「建築家」としてよく知られている。東京大学と並んで、数多くの著名「建築家」を輩出してきた早稲田大学のプロフェッサー・アーキテクトでもある。

しかし、石山修武にいわゆる「建築家」のイメージはない。ある意味では変わった「建築家」である。異端児といってもいい。「建築界の放蕩息子」[i]「駄々っ子」[ii]などとも言われる。

第一に、その仕事の全体はいわゆる「建築家」の範疇をはみ出している。石山修武は、「建築家」であるよりも、辛口のエッセイスト、コラムニスト、批評家としての貌を持っている。誤解を恐れずに言えば、建築よりも文章を書くことに意欲的である。若い頃、建築家にとって、つくることと書くことと、どちらが重要か、どちらが歴史に残るか、をめぐってしばしば議論した記憶があるが、いつも「つくることより書くことだ」、と言っていた。「僕は実ハ、何かを書いていないと自滅してゆくタイプだ」と自ら書いているし[iii]、現在も「世田谷村日記」というブログを書き続けている。

 第二に、その建築家としての「作品」は、いわゆるオーソドックスな「作品」とは異なっている。その表現は、デビュー作である「幻庵」(1975年)以降、近代建築の規範を批判することで一貫している。建築のポストモダンの旗手たちが、やがて、ネオモダンに回帰していくなかで、その「依怙地さ」は徹底している。

第三に、その仕事は、通常の意味での建築家の仕事のやり方を逸脱してきた。作品リストをみても、いわゆる公共建築は、吉田五十八賞の「伊豆の長八美術館」(1984年)、日本建築学会賞を受賞した「リアスアーク美術館」(1995年)ぐらいではないか。石山の場合、まちづくりを仕掛けて仕事にするのがむしろ普通だ。また、ツー・バイ・フォー(2×4)部材でつくった遊具を売ったり、日本各地の商品をダイレクトメールで販売したり、活動は多彩である。ある種の運動家といってもいい。

この連載でも何度か触れてきたけれど、石山さんとは『建築文化』の連載シリーズ(197577年)「近代の呪縛に放て」の頃出会った。また、ハウジング計画ユニオン(HPU)を結成し、『群居』を同人としてともに刊行してきた。「幻庵」で華々しくデビューして既に眩しい存在であったが、未だ確固とした仕事もポジションもなく、「建築家」としてどう活きていくかを模索する姿を身近に接して見てきた。

 僕が京都に移って(1991年)からは、ほとんど会う機会はなくなったけれど、その活躍の様子を『室内』などで読みながら、はらはらしながら注目してきた。心底共鳴しているのは、石山さんの近代建築批判が近代建築を支える建築の生産・流通・消費の構造そのもの、凡庸な諸言説を突き続けていることである。

  

 DAMDAN・幻庵・コルゲート

母の実家のある岡山で、疎開中に生まれ東京で育つ。父親は新宿高校の校長を務めた教育者で、祖父も学者だったと聞かされたように思うけれど、その生い立ちについては詳しくは知らない。何故、建築の道を選んだかについては、「岩登りに明け暮れていて、それなら土木だと友人に言われて、間違えて建築に入った」などと書いているが、冗談だろう。早稲田大学理工学部建築学科に入って学部生の時に友人と教会を設計したというから、意欲的な建築学生だったのだと思う。日本が東京オリンピックから大阪万国博Expo’70へ向かう時代である。高度成長期のさらに絶頂期であり、建築界は昂揚していた。

大学院で建築史(渡辺保忠)研究室に学んで、終了と同時に、同級生で白井晟一研究所に2年いた竹居正武[iv]ら同級生と一緒にDAMDANを創設している(1968年)。1988年に早稲田大学教授となるまで、丁度20年間、石山修武の活動のベースとなったのがダムダン空間工作所(1973年設立)である。大学院時代には、GKインダストリアルデザイン研究所(栄久庵憲司)でバイトをしたというが、「インダストリアルデザイン」のセンスを石山はもともと持っているのだと思う。「空間工作所」という命名にその志向が現れている。

「食い扶持はアイデアコンペなどで勝率8割ぐらいだった」とか、「食えなくてバナナの皮を炒めて食べていた」とか、様々な「伝説」を自ら振りまいているが、ダムダン空間工作所がどのような仕事をしてきたかについては、「日本万国博覧会のパヴィリオン設計の下請け、さらには元請けらしきことをする」(1969年)「シェル石油のサービススタンドのシステム開発を手掛ける」(1971年)「アメリカより住宅一軒分の部品を輸入して2×4で建てる」「マツダディーラーの店舗展開のシステム開発を手がける」(1973年)「東芝系列店舗のデザインシステム開発を手がける」(1981年)「サンチェーン店舗のデザインシステム開発を手がける」(1982年)「東京ガス店舗のシステム開発を手がける」(1983年)など断片的に明らかにされている。

石山の場合、こうした仕事は、決して身過ぎ世過ぎの事務所維持のためのものではなかった。大学院生の時に、「セキスイハイムM1」を設計した大野勝彦との出会いもこうした仕事においてである。建築の生産システムそのものが、その建築論、設計手法の根幹に関わることを示すのが一連の工業用コルゲート・パイプを用いた作品である。

川合健二とその自邸(愛知県豊橋市)との出会い(1969年)がやはり決定的であった。僕もまた、遅ればせながら(1980年)川合邸を訪問して本人にインタビューをする機会を得たことがあるが[v]、物としての自邸の迫力とその理論に圧倒された。中谷礼仁がまとめた労作『川合健二マニュアル』(アセテート、2007年)がある。

『川越の家』『望遠鏡』(1973年)『治部坂キャビン』(1974年)を小須田広利らと手掛けた後、生み出されたのが石山修武の出世作であり最高傑作である『幻庵』( 1984年)である。

 

 バラック浄土

 一方、石山の文筆活動も「川合健二」論(『建築』19705月)とともに開始されている。毛綱モン太(毅曠)と交互に連載した『建築』の「異形の建築(「奇館異館」)」シリーズ(19735月~19745月)を僕らは愛読していた。既に触れたが、毛綱モン太の「給水塔の家」のプロジェクト(毛綱邸計画)(『都市住宅』196910月。「北国の憂鬱」と同時発表)は強烈で、「反住器」(1972)は衝撃的であった。石山修武、毛綱モン太(毅曠)の二人がいつに最初に出会ったのかは知らないけれど、二人とも建築史の専攻である。渡辺豊和もそうで、3人揃うと、建築は歴史だよ、というのが常だった。「二笑亭」「栄螺堂」「田谷山喩伽堂」「巌窟ホテル」「吉見百穴」・・・毛綱は専ら歴史を遡行しながら「異形の建築」を掘り起こし、石山は現代の「奇館」を専ら探して来た。実に建築の世界は奥深く、日本にも奇怪な建築があるものだ、という強烈な印象が残っている。石山の独特の感性が探し当てた「作品」群は、処女論集『バラック浄土』(相模書房、1981年)にまとめられることになる。この「バッラク」感覚は、石山に一貫するものである。

 60年代から70年代初頭にかけては、当時の学生たちには全共闘の時代である。何故か、石山本人は口にすることはない。東洋大学で大田邦夫研究室の助手をしていたことがあるが、短期でやめている。学生に対しては実に激しい教師として知られるが、教育という仕事については父親から引き継ぐものがあったのだと思う。『高山建築学校』には第一回(1972年)から鈴木博之とともに講師として参加している。倉田康男が立ち上げたこの場所の驚異的な持続性については、『高山建築学校伝説 セルフビルドの哲学と建築のユートピア』(趙海彦+高山建築学校編集室、鹿島出版会、2004年)がある。

 移動を重ねたジプシースクールを第一期として、高山・数河(すごう)の地を拠点とした、その草創期、一度だけ呼ばれて(1981年)酷い目にあった記憶がある。鈴木、石山というこの二つの強烈な個性の毒気に当てられたのである。

石山の「類稀なる青春」としての『高山建築学校』は、早稲田大学に赴任して以降も『早稲田バウハウス・スクールの実験』(早稲田バウハウス・スクール編、TOTO出版、2000年)へ引き継がれていくことになる。

石山修武が建築家としての道を模索する過程で、もうひとつ注視しておくべきは旅である。初の海外旅行は韓国(1973年)、翌年インド、シルクロード・テヘラン(1978年)、アンナプルナ(1981年)と、とりわけアジアを歩いている。アジアについては、マニラのフリーダム・トゥー・ビルド(F to B[vi]を案内した時(1983年)のことがなつかしい。貧困者のためにセルフビルドのための部品を市場価格より安く売る。石山の「D-D(ダイレクト・ディーリング)方式」、『「秋葉原」感覚で住宅を考える』(晶文社、1984年)と共鳴するところがあったのだろう。頼みもしないのに部品の値段をチェックし出すのである。

 

『群居』・DD方式

『群居』は、198212月に『創刊準備号』、翌年4月に創刊号「特集・商品としての住居」を出して、以降18年間、同人たちの時代の経験と思索を書き留めた。200010月に50号「特集・21世紀の遺言」、そして12月号に『終刊特別号』を出して終止符を打つ。

 この経緯については、この連載の冒頭に書いた[vii]。『群居』は、僕の育った母胎である。編集長であったけれど、全てをリードしたのは「セキスイハイムM1」で知られる大野勝彦である。確認しておくべきは、『群居』はメディアであって、あくまで「実践」が先であった。HPU(ハウジング計画ユニオン)の結成が先であって、『群居』の創刊が後なのである。

『群居』の初心は公式には創刊宣言[viii]に示されている。そして、共有されていたのは小野次郎の「住み手の要求の自己解体をこそー住宅の街路化への提案ー」[ix]である。また、石山修武+大野勝彦+布野修司+渡辺豊和の座談会「箱・家・群居―戦後家体験と建築家―」(創刊準備号)「消費社会の神話と住イメージの商品化」(創刊号)「セルフビルドの可能性と限界」(第二号、1983年)「職人幻想と建築家」(第三号、1983年)に生の形で示されている。

何故、渡辺豊和がHPUなのか。振り返って、今猶、不思議な感じがしないでもない。しかし、「商品化住宅」や「建売住宅」など「建築家」の手を出す領域ではない、と思われていた中で、真っ先に建売住宅を「作品」化(「ロマネスク桃山台」など)したのが渡辺豊和だった。

石山修武は、しかし、『群居』に全精力を注いでいたわけではない。これも伊東豊雄に即して触れたが、並行して一方で「アデル・カルサヴィーヌの会」(伊東豊雄・石山修武・長谷川逸子・六角鬼丈・山本理顕)を結成して(1982年)、「商売」を仕掛けようとしている。また、それ以前に石井和紘、毛綱毅曠、六角鬼丈と「婆沙羅の会」を結成している。

 HPUと平行して、ダムダン空間工作所は、「D-D方式」と呼ぶ直接住宅部材供給システムの試行を開始していた(1980年)。『群居』編集会議では、住宅生産(・流通・消費)供給システムをめぐって、システムかゲリラか、全体か個の表現かをめぐって、いつも熾烈な議論があった。

 大野勝彦のシステム論と石山の部品論が見事に交錯していたのが『「秋葉原」感覚で住宅を考える』である。後にもう少し丁寧に見よう。

 

 松崎・職人共和国・気仙沼

 「幻庵」のあと、石山は、木造のジオデシック・ドーム[x]を手がけるが、なんとなく、オーソドックスな建築家としてのデビューを模索しているようにも見えていた。「つくしんぼ学園」という保育園の写真を見せられて、発表しようか、やめておいた方がいいかとか、わいわい議論した記憶がある。安藤忠雄が「住吉の長屋」(1978年)で、象(㈱象設計集団+㈱アトリエ・モビル)が名護市庁舎で(1981年)で日本建築学会賞を獲った。毛綱毅曠の「釧路市博物館・釧路市湿原展望資料館」(1984年)伊東 豊雄「シルバーハット」長谷川逸子「眉山ホール」(1985年)が続いて、ポストモダン建築の公認化が進行しようとしていた。コルゲート、そしてジオデシック・ドームとは別に石山の建築への一般解を見たい、というのが当時身近にいた僕らの期待でもあった。

石山が仕掛けたのが「伊豆の長八美術館」である。『群居』の刊行を準備していた1982年、ほぼ1年をかけて構想をまとめ、『左官教室』の特集「伊豆長八読本」(9月号)として発表する。小さなメディアかもしれないが、全国の左官職人がついていた。「入江長八」という鏝絵の名手の象徴性もある。時の松崎町の依田町長が乗ったのもよくわかる。絶妙の仕掛けであった。縁を最大限利用する仕掛けが石山の真骨頂である。その経緯は『職人共和国だより 伊豆松崎町の冒険』(晶文社、1986年)にまとめられている。

「伊豆の長八美術館」(1984)によって第10回吉田五十八賞を受賞する。建築家としてスタート台に立ったといっていい。40歳であった。

 松崎での設計活動は、「野外劇場」「ときわ大橋」(1985年)「カサ・エストレリータ」「なまこ壁通り集計計画」「ポケットパーク」「公衆トイレ」(1986年)「時計塔」「浜丁橋」(1988年)「入江橋」(1991年)と続き、まちづくりとして展開されていく。石山は、日本におけるタウンアーキテクトの可能性を逸早く鮮烈に示したのである。「伊豆の長八美術館」は日本建築学会賞の候補になっている。審査員たちが二の足を踏んだのは、岩地地区のカラーリング計画である。地区全体の住宅をうこん色、くちなし色などで統一しようという試みが建築家の横暴、ファッショと評価されたのである。その評価の当否は別として、景観法が施行された(2004年)現在から見るとあまりにも早すぎたといわざるを得ない。

 

 気仙沼・早稲田・リアス・アーク

 こうして、石山はコルゲートからまちづくりへ、職人の世界を媒介としながら向かっていくことになる。松崎から向かったのは気仙沼である。この間、『室内』で「現代の職人」の連載を行い(19855月~939月)、後に本[xi]に編んでいる。そして、気仙沼でのまちづくりは、「同時進行の物語」として企業PR[xii]に連載され、これも『世界一のまちづくりだ』という本[xiii]にまとめられる。

 一方、いわゆる「建築家」としての表現活動も開始される。ロックミュージカル[xiv]の舞台美術の仕事が舞い込んだ1985年以降、美術館やギャラリーの展覧会[xv]にも相ついで出展している。「幻庵」「伊豆長八記念館」をものにした石山への関心が一般に広がる中で、『建築文化』誌は、「特集:石山修武―家づくりへの探検」(19869月)、「特集:石山修武―街づくりへの探検」(19877月)と相次いで特集を組んだ。

 石山修武が早稲田大学の教授に招かれるのはその直後である。44歳であった。早稲田の場合、40歳を過ぎると教授にする、という慣行があったからそう異例とは言えないけれど、石山の上の世代から見ると驚きの人事であった。なにせ、「バラック様」の建築しか作品がないのである。

 この間、僕はアジアに「夢中」であり、学位論文を書くのに全時間を注いでいたから、経緯は全く知らないけれど、石山が「健康建築」批判を繰り返す背後に人事に絡むバトルがあったのではないかと、後になって思ったことがある。

 いま振り返って、早稲田大学にポジションを得て以降の石山が大きく変わった印象はない。松崎から気仙沼へ、その「運動」は回転していく。その「自己運動」の結果が作品として結びついた「リアス・アーク美術館」(1994年)で、プロフェッサー・アーキテクトとして、早稲田大学建築学科では博士の学位に匹敵するとされる日本建築学会賞を受賞するのは1995年である。

『世界一のまちづくりだ』を読むと、松崎と気仙沼の職人たちと、バルセロナでガウディのサグラダ・ファミリアを石工としてつくり続ける外尾悦郎たちが同時並行的に重層するネットワークの要に石山がいることが分かる。石山修武は類稀なる仕掛け人である。

「建築界の放蕩息子」というなら、素手(セルフビルド)で産業社会に挑むドン・キホーテといおう。狷介(けんかい)と山本夏彦に評されたというが、確かに「狷介孤高」の雰囲気がある。含羞(がんしゅう)がその背後にあることも山本夏彦さんの指摘の通りだ。

や自然界の秩序を破り、物語を引っかき回すいたずら好きとして描かれる人物、時には悪意を持って行動するが、結局は良い結果になることが多い、抜け目ないキャラクターとして描かれることもあれば、愚か者として描かれる場合もある者、トリックスターと言えば、しっくりくるのではないか。

 



[i] 第二回織部賞(1999年)受賞の際の受賞者紹介。

[ii] ごうどゆきお『早大石山修武研究室・建築は終わらない』あとがき、王国社、2001

[iii] 「長い長いあとがき」『石山修武の設計ノート―現場の声を訊け』 (王国社、2003年)。

[iv] 現在も代表取締役を務める。白井晟一研究所をやめて、すぐさま伊政府給費留学生としてローマ大学留学、1969年 アンジェロ・マンジャロッティ事務所(ミラノ)を経て、1971年にDAMDANに復帰している。

[v] 200Cまでの世界 トータル・エネルギー・システムと住宅」『新建築』19807月号(『川合健二マニュアル』、アセテート、2007年、所収)。

[vi] W.キースの率いたハウジング・グループで、市場価格より安く建材部品を供給するワークショップを拠点としていた。

[vii] 「01 メタボリズム批判の行方 ポストモダン以後」20081月号、「02 誰もが建築家でありうる」2月号

[viii] 『群居』創刊の目的:雑誌『群居』創刊の目的は、以下のように簡潔に示される。

 「家、すまい、住、住むことと建てること、住宅=町づくりをめぐる多様なテーマを中心に、身体、建築、都市、国家をめぐる広範な問題を様々な角度から明らかにする新たなメディア『群居』を創刊します。既存のメディアではどうしても掬いとれない問題に出きる限り光を当てること、可能な限りインター・ジャンルの問題提起をめざすこと、様々なハウジング・ネットワークのメディアたるべきこと、グローバルな、特にアジア地域との経験交流を積極的に取り上げること等々、目標は大きいのですが、今後の展開を期待して頂ければと思います。」(『群居』創刊準備号)。

 基本的には、「建築家」が住宅の問題にもっと積極的に関わるべきだ、というのが創刊の大きなモメントである。また、住宅の問題を家族のあり方、まちづくりのあり方との関係などを含めて、総合的に捉えたい、というねらいがある。さらに、グローバルな視点を大事にし、特にアジアの住宅の問題をとりあげたいという希望があった。そして、様々な業界の利益にとらわれない自由な批評精神が原点である。

[ix] 『建築文化』、19818月号

[x] 「渥美二連ドーム」(1976年)「卵形ドーム」(1981年)

[xi] 『現代の職人』、晶文社、1991

[xii] is19856月~19946

[xiii] 『世界一のまちづくりだ』、晶文社、1994

[xiv] 西部劇場『HOSS

[xv] 板橋美術館「都市に棲む」展、198583日~98日。ギャラリー間「石山修武の仕事 技術の万華鏡」、1986610日~73日。東京国立近代美術館、「近代の見なおし ポストモダンの建築 1960-1986」、198696日~1019日。世田谷美術館「日本の美術館建築」展、1987221日~322日。 

2021年3月29日月曜日

現代建築家批評15 建築をつくることは未来をつくること 山本理顕の設計手法

 現代建築家批評15 『建築ジャーナル』20083月号

現代建築家批評15 メディアの中の建築家たち


建築をつくることは未来をつくること

山本理顕の設計手法

 

 山本理顕は、徹頭徹尾、理論家である。そして、社会と空間のラショナルなあり方を問うことにおいて鋭い社会批評家でもある。少なくとも、単なる建築家、建築批評家ではない。例えば、磯崎新や伊東豊雄のように、世界の建築界の動向を見極めながら自らの位置を定めるといった構えはない。建築を媒介としながら社会的空間の編成について提案する、まさに「社会建築家」と言えるかもしれない。

 しかし、その理論が理論だけに終始するだけなのであるとしたら、大きな影響力は持ち得ないことははっきりしている。具体的な建築を現実に実現してみせるから、迫力があるのである。

山本理顕の住居論、建築論は、しかし、はっきり言って、「表現論」を欠いている。空間システム、構工法システムの追求がその設計方法のベースにある。弱点と言えば弱点と言えるが、だからといって、山本理顕の建築表現に力がないかというとそうではない。その理論に耳を傾けさせる基底には表現力がある。そして、その基底にあるのは、次のような深い問いである。

 「私の表現に対する思い入れは、どんなかたちで“私”を超えることができるのか。多少でも普遍性を獲得し得る可能性があるものなのか、あるいは“私”の内部だけに封じ込められるものなのか。表現に対する語り口は“私”にのみ固有の思い入れ、つまり“私”の固有性をどう超えることができるのか。その部分を突破しないかぎり、どんな表現に対する語り口も“私”以外の人々には、まったく効力を持たないと思えるからなのである。つまり、私の表現はどう共感されるのか。その仕組みは、どうなっているのか。そこを明瞭にしない限り、表現については何も語り得ないはずなのである。」[i]

 

 技術という記憶が埋め込まれた素材

「素材」が手がかりとなるのではないかと、上の問いに対して山本理顕は考える。初期の住宅作品群が「精神分裂」(渡辺豊和)と評されたことには前に触れたが、建築を始めたばかりの試行錯誤を、「「表現」の論理と「観察」の論理はまったく別ものなのだ、などと逃げまくらないで、どこかに接点が見つけられるんじゃないか。素材というものの解釈が「表現」に接近するための切り口になりそうに思えた」と素直に振り返っている[ii]

例えば「藤井邸」。鉄筋コンクリート造の上に軽い鉄骨造を載せるつもりが木造となった。僕はL.カーンのある作品を思い浮かべたけれど、木造は本意ではなかったらしい。木という素材を柱梁として用いただけで、「和風」に見えて驚いた。これは木の性能に基づくのではなく、木造が担ってきた歴史性、私たちの「記憶」に基づくのではないか。

木造については、その性能を突き詰める方向も見てみた域がするが、以降、残念ながら、掘り下げられてはいない。鉄とガラスとコンクリート、すなわち近代建築を支えてきた工業材料を前提として、「GAZEBO」「ROTUNDA」「HAMLET」、そして「保田窪第一団地」において、あるスタイルを確立したように見える。

鍵は、「屋根(ルーフ)」である。

GAZEBO」にしても曲率の緩やかなヴォールト屋根がなければ、「図式」だけの建築に留まったかもしれない。もちろん、山本理顕は「屋根」だけに拘ってきたわけではない。むしろ、端正なグリッド構成、ラーメン構造、鉄のディテールを研ぎ澄ませてきた。ポストモダニズム建築の跋扈の後、山本理顕をネオ・モダニズムの旗手にのしあげたのはその研ぎ澄まされたその構造システムとディテールである。

 しかし、その後「アルミプロジェクト」(2004)はその延長として理解できるにしても、「工学院大学八王子キャンパス・スチューデント・センター設計プロポーザル(案)」(2005)「N研究所」(2008)「城下町ホール(仮称)」(2009)になると、いささか異なった展開が見える。これまでの方針は揺れだしたのであろうか、新たな境地を見出しつつあるのであろうか[iii]

 

 仮設としてのシステムズ・ストラクチュア

 山本理顕の最初の公共建築は、実は、横浜博覧会の「高島町ゲート」(1986)である。「私は自分のつくったものを見て、美しいとか凄いとか思ったことは、それまで一度もなかったけれども、この建築のようなオブジェのような現象のような出来事のようなものを見て、掛け値なしにそれを美しいと思った」[iv]という。

 「高島町ゲート」を見て、僕も実に美しいと思った。

60.5mφの足場用の仮設パイプ材を組み合わせて、28mの高さの塔を40本建てた。28mの高さの塔をつくるための部材としては、余りにも脆弱でぐらぐらするので相互に塔を結びつけて全体がスーパーラーメンになるような構造にした。限られた種類の部材、大量に造られ、一般的に使われている部品でかくも豊かな表現が可能になる。石山修武のコルゲート・パイプによる作品にも相通ずるが、よりシンプルなグリッド(柱梁)構造である。山本理顕の「システムズ・ストラクチュア」[v]の原型は、「高島町ゲート」だと思う。

 「岩出山中学校」(1996)「埼玉県立大学」(1999)「広島市西消防署」(2000)「公立はこだて未来大学」(2000)には、鉄骨、プレキャストコンクリート(PC)による一貫して単純なラーメン・グリッドの追求がある。山本理顕が戦後モダニズムの正当な継承者だというのは、まず、このシステムズ・ストラクチュアとそのディテールの追求を根拠としている。ローコストを目指して工業化構法を追求した精神と共通するものがある。

 「GAZEBO」「ROTUNDA」「HAMLET」におけるスティールの既成の丸パイプを使ったディテールの追求に既にその片鱗が見られるが、19世紀の工業製品とかヴィオレ・ル・デュクを参照したというのも興味深い。『システムズ・ストラクチュアのディテール』における伊東豊雄との対談が二人のシステムに対するスタンスの違いを示して興味深いが、伊東が「HAMLET」を「バラック」と評するのが案外的を得ているように思える。バラックという言葉も様々なコノテーションをもつが、「戦場に仮設的に設けられる兵舎」という原義、すなわち、仮設性という点では「高島町ゲート」に通ずる。「邑楽町役場」で提案されたのも、50mmの角パイプを使ったほとんど仮設建築といっていい工法である。

 バブルが弾けた以降、徹底したローコストの追求、工期短縮・・・が要求された。山本理顕のバラック建築の洗練は時代と見事に照応したのである。

 山本理顕にとっての一貫する課題は、「システムが表現に転換する時」[vi]である。

 

 仮説としての制度・施設・空間

 「建築は仮説に基づいてできている」[vii]と山本理顕はいう。「ポストモダンなのかモダニズムなのかデコンストラクティビズムなのか」といっても、新聞の文化欄で話題になっても、一般人にとって日常の生活とは遠く離れた話だ。「形ばっかりで、中身のことなんか何にも考えてない」のが建築家であり、「形なんかどうだっていいのよ、中身が大切なんだから」というのが多くの人たちである。しかし、「建築の“中身”って何?」と山本理顕はラディカルに問う。

 仮説にすぎないじゃないか。

 「住宅擬態論」は既に見たが、「住宅というビルディング・タイプは家族という仮説に基づいてできている」というテーゼは、全てのビルディング・タイプ、公共施設に拡大適用しうる。 学校、図書館、病院、福祉施設、美術館、博物館、劇場・・・全て仮説としての制度によって規定されている。そして、空間の配列がその制度を裏打ちしている。

 「建築は制度に則ってできている。制度の忠実な反映が建築である。ひとつひとつの建築だけではなくて、身近な環境から都市環境まで含めて、およそ、私たちの周辺環境はいわば制度そのものである、という認識は、もはや多くの私たちの常識である。」[viii]

 冒頭に触れたように、公共建築の設計計画をテーマとしてきた「建築計画学」の研究室に所属したことで、制度=施設として予めあり得てしまっている空間の調査を基に設計計画の方法を組み立てることの問題点について否応なく考えてきた。「制度と空間―建売住宅文化考―」[ix]という文章はそうした論考である。 例えば、教育施設について、「ノングレーディング(無学年制)」「チーム・ティーチング」などをうたう「オープンスクール」の出現を前にして、戦後「建築計画学」がやってきたことは一体何だったのかと随分考えた。I.イリイチの『脱学校社会(ディスクーリング・ソサエティ)』、M.フーコーの『臨床医学の誕生』『監獄の誕生』、ハーバーマスの『公共性の構造転換』などが必読書であった。「建築計画学」批判が僕の出発点である。

 山本理顕の「建築は仮説に基づいてできている」は、「建築計画学」批判として実に説得力がある。しかも、建築家を鼓舞するように、制度=空間という常識を「仮説」と言い切る。そして、「制度はそんなに強固ではない」という。

「もし建築が制度の単純な反映でしかないなら、建築の設計者というのは制度を空間に変換する単なる自動筆記機械のようなものである。制度を空間に翻訳する翻訳技術者である。」[x]

 

 地域社会に固有な建築類型

山本理顕の設計手法は、以上のように、予め、身近な全ての空間に、そして既に見たように都市へと適用可能である。というより、空間の成立、空間の編成そのものが、すなわち、建築のプログラムの設定そのものが出発点となる。

近代的な諸施設がそれぞれ「ひとつのビルディング・タイプとして整備されるのはつい最近、日本が近代国家として整備される時期である」。そして、「国家のシステムから日常の生活、地域社会との関係として再整備されるのは、ようやく戦後になってからである」。「国家というシステムから地域社会へという理念を敷衍するための装置が建築だった」。

実に的確な状況認識である。

現在、日本の地域社会は危機的な状況にある。子どもたちが戸外で遊べない、「限界集落」がここそこに出現する。地域社会の崩壊は覆うべくもない。そして公共施設、地域施設のあり方は大きく揺らいでいる。少子高齢社会の到来によって、これまでの施設体系、空間編成の破綻は誰の眼にも明らかになりつつある。小学校・中学校といった教育施設が余り、高齢者のための施設がより必要になるのは当然である。加えて市町村合併がある。山本理顕は、そうした問題を遙かに深いレヴェルで見通していたのである。

日本建築学会の建築計画委員会―僕がその委員長を務める(2006-2009)のは歴史の皮肉だろうか―が「公共施設の再編成と更新のための計画技術」と題した設計競技(2008)を行ったのは、遅きに失していると言わざるをえないが、既に様々な試みが為されていることが明らかになったことは、山本理顕の建築家としての構えの先駆性と正統性を改めて証すことになった。

山本理顕は、「地域社会に固有なビルディング・タイプを本気で考案する必要がある」という。「問題なのは全国画一地域社会であり、そのための日本全国画一ビルディング・タイプである」ことははっきりしているのである。

 

つくりながら考える 使いながらつくる

どうすれば、新たなビルディング・タイプを発見することができるか、あるいは考案することができるか。出発点となるのは、現場(フィールド)である。現場から組み立てる方法がそこでは問われる。手前味噌であるが、アジアの諸都市についての都市組織(Urban TissuesUrban Fabric)研究、あるいは「ティポロジア」研究は、「地域に固有な」「都市組織」「建築類型」を発見するのが目的である。

山本理顕は、『つくりながら考える、使いながらつくる』[xi]という。内田祥哉先生の『造ったり考えたり』[xii]を思い出したが、「つくりながら考える」であり、「使いながらつくる」というところに新たな位相がある。そして、「プロセスが既に建築である」と言い切る。

プロトタイプか、プロセスか。「雑居ビルの上の住居」「岡山の家」「保田窪団地」のような「プロトタイプ」の提示の位相と展開はどう異なるのか。

『つくりながら考える/使いながらつくる』は、プロセスをそのまま本にするユニークな本である。「邑楽町役場庁舎」「公立はこだて未来大学」「横須賀美術館」「東雲キャナルコートCODAN」などの設計プロセスの一端が記されている。スタッフとの本音のやり取りの中で、次のようにいう。

20世紀の建築家たちは常にプロトタイプを目指したように見える。ドミノとかユニバーサル。スペースというプロトタイプを考える。・・・プロトタイプがないとしたら、その都度決定するにはどうしたらいいかという話になるわけでしょう・・・そのときにはじめて住民と呼んでいいのか分からないけど、その建築の当事者が登場するチャンスがあるんだと思う。・・・「住民」という言葉があやしんじゃないの。「住民」って、すごく抽象化されていて誰だかわからない。・・・」

ここでも山本理顕は原理的である。

設計プロセスを論理化すること、その決定プロセスを可能な限りオープンにすることは、逸早く、C.アレグザンダーが提起したテーマである。僕の卒業論文がC.アレグザンダーであったことは既に書いた[xiii]。山本理顕は、そのパタン・ランゲージ論を批判的に総括する。C.アレグザンダーの場合、パターンが余りにも普遍的に想定されているのである。

公共建築の設計計画、あるいはまちづくりにおいて、「住民参加」の手法として「ワークショップ」方式試みられるようになりつつある。しかし、システムを決定する主体とは誰か。山本理顕は「主体性」をめぐって繰り返し問うている[xiv]。「純粋空間」と「生活空間」、「身体感覚」と「共通感覚」、「個人作業」と「共同作業」、「共感される空間」・・・等々をめぐって真摯な思考が積み重ねられている。

「邑楽町役場庁舎」コンペ(原広司審査委員長)は、まさに「プロセスが建築である」ということを具体的に問い確認するものとなった。全ての過程をオープンにしたということは画期的なことであった。そして、「提案は他者のさまざまな見解を受け入れることができるシステムをもっていなくてはならない」「システムの誘起する建築の実現はなんらかの新しい美学に支えられること」という応募条件、評価基準は、山本理顕が考え続けてきているテーマであった。

 

 未来をつくること

 プロトタイプかプロセスか。誰が何を決定するのか。

「邑楽町役場庁舎」の不幸な経緯について、詳細に検討する余裕はここではない。山本理顕設計工場のオフィシャル・サイト[xv]、日本建築学会でのシンポジウム(2007316日)などの報告などに譲りたい[xvi]

 一般的に「住民参加」というけれど、意志決定をめぐる制度的枠組みには大きな壁がある。常に新たな形態を生み出すシステムを支える社会システム(法・制度)が問題なのである。

しかし、「常に新たな形態を生み出すシステム」は、別の次元で問題に出来る。誰がそのシステムを提案するのか、については、山本理顕の答えははっきりしている。システムを提案できるのが「建築家」なのである。「建築家」は、単なる「調停者」ではないのである。

山本理顕の眼は、日本の建築界全体へ、建築社会システム全体へ、日本の建築景観の全体に注がれ始めている。2007年から2008年にかけて、山本理顕は、国土交通省の「(仮称)建築・まちなみ景観形成ガイドライン」検討委員会[xvii]の座長を務めた。僕の「タウンアーキテクト(コミュニティ・アーキテクト)」論を知っていて、僕も委員に招かれた。その行方は日本版CABE[xviii]の展開を含めて、僕自身多大な興味を持っている。

山本理顕は、東洋大学以降、数々の大学で非常勤講師を務めてきている。1989年から2年間、上田篤に招かれて、高松伸とともに助教授を務めている。若い学生を教えること、というより、若者と一緒に考えることに山本理顕は、かねてから極めて熱心である。

Y-GSA(横浜国立大学大学院・建築都市スクール)に移って出したのが、『建築をつくることは未来をつくることである』[xix]である。



[i] 「私的建築計画学」、(原題「設計作業日誌7788―私的建築計画学として」『建築文化』19888月号)

[ii] 同上。

[iii] 山本理顕の主要作品。1986年 GAZEBO1987年 ROTUNDA1988年 HAMLET 1991年 熊本県営保田窪第一団地/199294年 緑園都市計画 /1996年 岩出山中学校1997年 横浜市下和泉地区センター・下和泉地域ケアプラザ /1999年 埼玉県立大学2000年 公立はこだて未来大学 2000年 広島市西消防署 2000年 横浜市営住宅三ツ境ハイツ /2001年 東京ウェルズテクニカルセンター/2002年 Dクリニック/2003年 東雲キャナルコートCODAN1街区/2003年 北京建外SOHO2004年 アルミ住宅プロジェクト/2005年 公立はこだて未来大学研究棟 /2007年 横須賀美術館

[iv] 「細胞都市」

[v] 『システムズ・ストラクチュアのディテール』、彰国社、2001

[vi] GAJapan7620059-10月号

[vii] 『現代の世相1 色と欲』(小学館、1996年)所収。

[viii] 「建築は隔離施設か」、『新建築』、19972月号

[ix] 『見える家と見えない家』、叢書「文化の現在」3、岩波書店、1981年。『スラムとウサギ小屋』(青弓社、1985年)所収。

[x] 「建築は隔離施設か」『新建築』199712月号

[xi] 山本理顕+山本理顕設計工場、TOTO出版、2003

[xii] 内田先生の本刊行委員会、1986年。

[xiii] 拙稿、「現代建築家批評 メディアの中の建築家たち 承前 02 誰もが建築家でありうる ポストモダン以後     ・・・建築家の生き延びる道02」、20082月号。

[xiv] 「計画する側の主体性が問われている」『建築文化』19966月号。「主体性をめぐるノート」『新建築』199911月号。「主体性をめぐるノート2」『新建築』20009月号。

[xv]  http://www.riken-yamamoto.co.jp/sitefolder/ryTopJ.html

[xvi] 「活動レポート 公共事業と設計者選定のあり方-「邑楽町役場庁舎等設計者選定住民参加型設計提案競技」を中心として-」『建築雑誌』(20076月号)

[xvii] 山本理顕委員(座長)、布野の他、岡部明子、木下庸子、工藤和美、宗田好史、蔀健夫、荒牧澄多。

[xviii] 英国のデザイン・レビュー・システム。Committee of Architecture and Built Environment.

[xix] TOTO出版、2007