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2021年3月5日金曜日

大興城(隋唐長安)の設計図-中国都城モデルA Plan of Chang'an- A Model of Chinese Capital

traverese16 2015 新建築学研究16 

 Plan of Chang'an- A Model of Chinese Capital
 大興城(隋唐長安)の設計図-中国都城モデルA 
Shuji Funo
 布野修司 

 

 『大元都市-中国都城の理念と空間構造,そしてその変遷』“Dà Yuán CityThe IdeaSpatial Formation and Transformation of Chinese Capital Cities”(京都大学学術出版会、20152月)を上梓することができた。「おわりに」に記したけれど、本書のきっかけになっているのは、村田治郎先生の『中国の帝都』(村田治郎(1981))である。その現代版をまとめることが最低限の目的であった。19919月に京都大学に赴任した時に与えられた部屋に村田治郎先生の様々な資料が残されていた。廃棄された資料のようであったけれど,直筆のゲラや写真など興味深いものが少なくなかった。1995年に「世界建築史Ⅱ」(「東洋建築史」を改称。Ⅰは西欧建築,Ⅱは非西欧建築)を担当することになって(~2004年),村田先生の仕事についてにわか勉強することになった。まさか本書を上梓することになるとは夢にも思わなかったが,その最初のきっかけは村田先生の雑然と積まれた資料であった。最低限の目標は果たせたと思う。『大元都市』には、いくつかの新たな視点を盛り込んだが、ここでは、平安京など日本の都城のモデルとなったとされる隋唐長安の設計計画について独自の案を提起したい。

 誰が設計したのか、ほとんど知られていない。宇文愷という。天才建築家である。そのドラフトマンになったつもりで、復元案をつくった。批判を乞う。

 

はじめに

隋の文帝(楊堅)(位581604年)が北周の後を承けて帝位につくと,開皇2582)年,高潁,宇文愷等に命じて新都を築き,大興城と号した。建設は,まず全体計画が立てられ,宮城,皇城,郭城の順に行われた。中国都城の建設がこれほど計画的に,白紙に図面を引くかたちでそのまま実施に移された例は大興城以前にはない。鄴にしても,北魏平城にしても,北魏洛陽の外郭城にしても,それぞれ作成されてきた復元図は,むしろ実際に建設された長安(あるいは平城京,平安京)をモデルとして,それを当て嵌めた理念図である。

 『隋書』巻68「宇文愷伝」は「及遷都。上以愷有巧思。詔領営新都副官。高熲雖総大綱。凡所規画。皆出於愷」という。すなわち,宇文愷は,新都造営の副官として,巧みな構想(「巧思」)を持っており,あらゆる所を計画し(「凡所規画」),全ては宇文愷から出たものである(「皆出於愷」)。大袈裟ではないであろう。

文帝は(てん)(りん)(じょう)(おう)(チャクラヴァルティン)[1]を任じたという。クビライ,洪武帝,乾隆帝…みな転輪聖王を認じた。いずれも、優れた建築家であった。

都城建設について文帝には明確な理念があったと考えられる。北方遊牧集団である鮮卑拓跋部のそれまでの都城建設経験を踏まえ,その理念型を具体化することである。すなわち,漢化政策をとった北魏孝文帝の平城の改造,北魏洛陽再建の経験を踏まえて,理想の国土「中国」の核となる都城を建設しようとした。その永遠の仏国土の設計をゆだねられたのが宇文愷である[2]

大興城は,宇文愷(555612年)という一人の建築家の頭脳の中で設計された。そして,ほぼその設計図通りに建設された,中国都城史上類例のない事例である。

 

 

1 宇文愷

宇文愷(字安楽)は,西魏恭帝の元廓2555)年に代々武将の名門の家に生まれた[3]。宇文氏は,もともとは,北朝胡族,鮮卑系に属するが,西魏=北周を起こした宇文氏とは別系統に属しており,文帝が即位して宇文氏を誅した際には,愷自身も危うく死罪を免れている。宇文愷は,文帝のもとで官僚建築家としての道を歩むことになる。まず,宗廟造営の際に、営宗廟副監,太子庶子,大興建設に関して営新都副監を拝せられている。続いて,広通渠開鑿を総督した後,萊州刺史を拝せられ,仁寿宮建設に当たって検校将作大匠に任ぜられる。煬帝による東都建設に当たっては,営東都副監をつとめ,ついには工部尚書を拝せられるに至る。

隋朝は2代わずか37年にすぎないが,この間の土木建築工事は,煬帝の大運河の開鑿が象徴するように,大規模で広範に及ぶ。長城の修築、広通渠・山陽瀆の開鑿、通済渠の開鑿、御道(馳道)の建設などのインフラストラクチャーの整備と並ぶ造営事業となったのが、大興城の造営、そして東都の造営である。そして、その2つの都城の設計を行ったのが宇文愷である。

隋唐長安城の設計については続いてみることとして、宇文愷の設計活動AK)を順にみていくと、以下のようになる。圧巻は、H 大張I 観風行殿、J 観文殿の、奇想天外ともいうべき、建築家の才である。

 A 北周旧長安城・宗廟

開皇元(581)年2月乙丑,すなわち,大興城営造に先立って,宇文愷は,北周旧長安城に宗廟の設計を命じられる。その形式についてはわかっていない。

B 大興城宮殿

開皇2582)年6月丙申に営造の詔を下し,左僕射高熲,将作大匠劉龍,鉅鹿郡公賀婁子幹,太府少卿高龍叉等に命じて新都を創造し,10月辛卯,営新都副監の賀婁子幹を工部尚書とし,12月丙子に新都を大興城と命名する(『隋書』巻1高祖帝紀)。宇文愷の名はここにはないが,宗敏求『長安志』巻6「宮室・唐上」には,左僕射高熲が総領し,太子左庶子宇文愷が制度や規模を創造したとある。また,中心的役割を果たしたのが宇文愷であったことは,上述のように『隋書』宇文愷伝に記されている。太子左庶子宇文愷が,宮城,皇城の主要な建築の設計に関与したことは間違いないが,その詳細はわかっていない。玄都観の配置,苑池の設定,禅定寺の木塔の設計,官署の門などが知られる。

C 明堂復元案

文帝は,大興城建設に際して,皇城前方,左(東)に宗廟,右(西)に社稷壇を造営する。宗廟は,同規模の4つの親廟(皇高祖・太原府君廟,皇曽祖・康王廟,皇祖・献王廟,皇考・太祖武元皇帝廟)によって構成されていた。文帝は,即位後祭祀制度の整備を行い,南郊に円丘,北郊に方丘,五郊に壇を築く。そして、明堂の復元計画に当たったのが宇文愷である。宇文愷は,『東都図紀』20巻,『明堂図議』2巻,『釈疑』1巻を撰著し(『隋書』宇文愷伝),『東宮典記』70巻を著した(『隋書』経籍志2)とされるがいずれも残されていない。文帝の勅命に対して,宇文愷は明堂の木様(木造模型)を提出したが議論に決着がつかず建設に至らなかった。そして,大業年間に至って,宇文愷は再び『明堂議』と様を造って上奏している。煬帝はその評議を命じたが結局は沙汰やみになる(『隋書』礼儀志)。

D 太陵:寿2602)年,独孤皇后が死去すると,文帝は宇文愷・楊素らに命じてその陵墓の設計を命じている。

E 広通渠

開皇4584)年6月壬子,大興と黄河を結ぶ広通渠が,開皇7587)年4月庚戌,淮河と長江を結ぶ山陽瀆(山陽―揚子)が開鑿された。渭水を黄河に連絡する広通渠開鑿工事の現場監督者として郭衍が知られるが(『隋書』郭衍田),文帝が宇文愷に広通渠の建設を命じたことが記録されている(『隋書』宇文愷伝,食貨志)。

F 仁寿宮

開皇13593)年2月丙子,文帝は,大興城の西北に仁寿宮を造営している(595年竣工)。この建築物の設計にも,総督楊素のもと,宇文愷が検校将作大匠として関わっている(『隋書』宇文愷伝,『資治通鑑』)。

G 東京城宮殿

仁寿四(604)年7月,文帝が崩御し,即位した煬帝は洛陽へ行幸,11月癸丑,新都建設を表明,直ちに長塹を掘らせている。翌大業元(605)年3月丁未,予(洛)州旧城下の住民を移し,同月戊申,新都東京営造の詔を発して天下の富商・大賈数万戸を東京に移させた。大業2606)年正月辛酉に完成,5月丙子,東都と改称された。宇文愷は,東都の造営に営都副官として関わり,乾陽殿,顕仁殿など主要な宮殿の設計を行っている。

以上の他に、煬帝は,宇文愷に命じて,「大張」を設計させている(「令愷為大帳」)。

H 大張

「大張」は,巨大な天幕建築で数千人が座ることができた(「其下坐数千人」)。北方巡行の際に,戎狄に誇示するために(「時帝北巡。欲誇戎狄。」『隋書』宇文愷伝)というから,移動式,組立式の大規模なゲルとみていい。大業3607)年,城東に「大帳」を建て,突の啓民可汗と部落3,500人を招いて宴会をしたという記事がある(『隋書』煬帝紀城)。

宇文愷はまた「観風行殿」なる建築を設計している。

I 観風行殿

「又造観風行殿。上容侍衛者数百人。離合為之。下施輪軸。推移倏忽。有若神功。戎狄見之。莫不驚駭。帝弥悦焉。前後賞賚不可勝紀。」(『隋書』宇文愷伝)という。「上容侍衛者数百人。離合為之。下施輪軸。」とはどういう建築か。上に数百人が居て,下の輪軸で回るのである。他に,間口3間で,両方に厦(庇)があり,1日で建て挙げられたという記事(『大業雑記』3年)がある。回転式スカイラウンジである。回り舞台のような人力あるいは畜力を利用した仕掛けは想像できるにしても,数百人を乗せたまま回転するというのは,しかも1日で組み立てられるというのは,相当の仕掛けである。大業5609)年に,高昌国の王を「観風行殿」に招き,30国以上の蛮夷の出席を得て宴を行った記事がある(『隋書』煬帝紀上)。

「大張」「観風行殿」は,『太平広記』に,それぞれ「七宝張」「大行殿」として引かれており,煬帝の奢侈と不祥の兆しとして触れられている。そして、組立,機械装置による建築として,もう1つ宇文愷設計になるとされるのが観文殿である。

J 観文殿

「観文殿」は,宮廷の書室すなわち図書館であるが,自動扉,自動開閉式の書架を装備していたという(『太平広記』引『大業拾遺記』)。

K浮橋

宇文愷は,煬帝の高麗遠征の第1次出兵(大業8611)年)に従軍,遼水を渡る際に三本の浮橋を造っている。ただ,ここで煬帝は高麗軍に大敗している。宇文愷はこの7か月後に死去している。

以上のように,宇文愷は,あたかもルネサンスのダ・ヴィンチやミケランジェロのような万能人にも比すべき存在のように思える。與服制度や車輦制度にも関わり,漏刻(水時計)の製作にも参画している(大業2606)年,『隋書』煬帝伝上)。

 

2 大興城

大興城の規模,門,里,市の数については,『隋書』巻29地理志京兆郡条には「東西一八里一百一十五歩。南北十五里一百七十五歩。東面通北春明延興三門。南面啓夏明徳安化三門。西面延平金光開遠三門。北面光化一門。里百六。市二」とあるのみである。

大興城を踏襲した長安城については,韋述(生年不~至德2757)年)『両京新記』(722),宋敏求『長安志』(1079),呂大防(10271097年)『長安図碑題記』(1080),程大昌撰『雍録』(116589),李好文撰『長安志図』(134446)などの史料があり,それらを元にした徐松(17811848))『唐両京城坊攷』の考証がある。徐松は,『全唐文』の編纂(180914)に携わる中で『永楽大典』(1408)の中に「河南志図」を発見,散逸してしまった宋敏求の『河南志』の図であることを突き止め,関係資料を拾い出して『元河南志』を編纂するとともに,『唐両京城坊攷』を著したのである。長安の形態については,以上のような史資料をもとにした多くの論考が積み重ねられている。隋唐長安をめぐる研究史については,妹尾達彦に委ねたい[4]

『唐両京城坊攷』の記述に従って、主な施設の配置と寸法関係に着目して大まかにその形態を確認すると以下の様である。宮城、皇城の内部構成に関わる記述は省略する。

宮城の規模は,東西4里,南北2270歩,城周13180歩,城高35尺とされる。北は御苑,南は皇城,東に東宮,西に棭庭宮が配置される。南に5門,北に2門,東に1門,西に2門開かれている。宮城の正殿は太極殿で,正門である嘉徳門,殿門である太極門を経て太極殿に至る。太極殿の両廊に左右延明門があり,左に門下省,右に中書省が配置される。中央軸線上には,太極殿の北には,朱明門,両儀門を経て両儀殿が置かれ,さらにその北には甘露門を経て甘露殿が配される。甘露門の前には東西に横街が走る。甘露殿の北には,延嘉殿,さらに承香殿があり,玄武門に至る。承天門以南が外朝,太極殿が中朝,両儀殿が内朝という三朝構成である。

 皇城の規模は「東西五里百十五歩,南北三里百四十歩,周十七里百五十歩」とされる。南面に3門,東西は,それぞれ2門ある。宮城との間に横街が走り,宮城へ5門が開かれている。皇城内は,「城中南北五街,東西七街」という。南北5街というのは,皇城南面の含光門(西),朱雀門(中央),安上門(東)と宮城南面の広運門(西),承天門(中央),長楽門(東)をそれぞれ結ぶ3街と東西城壁沿いの環塗2街である。全体は東西4×南北624街区に分割される。横街は幅300歩,その他は全て幅100歩とされる。「左宗廟,右社稷」,東南隅に宗廟,西南隅に社稷が割り当てられ,皇城には,百官の官署,6省,9寺,1台,4監,18衙が配置される。東宮の官署は,1府,3坊,3寺,10率府である。

大明宮は,太極宮後苑の射殿のあった龍首山丘陵に貞観18644)年に永安宮として建設され,その名に改称された。規模は「南北五里,東西三里」という。南面には5門が開かれており,正南門は丹鳳門である。東面には2門,西面には3門,北面には3門が開かれた。丹鳳門内の正殿を含元殿といい,その東西に翔鶯閣とその棲鳳閣があり,閣下に東西朝堂が置かれる。

 興慶宮は,外郭城の東壁に接し,皇城南の横大路東門,春明門の北に位置する。規模は1坊分あり,南に2門,西に2門,北に3門が開かれている。

御苑は,3苑あり,いずれも都城の北に置かれている。宮城の北に接する北苑は,南北1里,東西は宮城と同じ4里である。東内苑は,東内(大明宮)の東北隅にあり,南北2里,東西は1坊分の幅がある。禁苑(隋・大興苑)は,東西27里,南北22里,周囲120里,南は都城と接し,北は渭水,東は滻水に境界づけられ,西は前漢長安城を含み込んでいる。

 外郭城の立地について,前(南)は子午谷に当り,後(北)は龍首山を枕とし,左(東)は灞水に臨み,右(西)は澧水に至る,と徐松(「巻2西京」)は述べる。規模について,「東西一八里一一五歩,南北一五里一七五歩,城周六七里,城高一丈八尺」という。続いて,南面に3門,東面に3門,西面に3門,北面に3門,門名が列挙される。外郭城内には,東西大街が14本,南北大街が11本あり,皇城の正南面の朱雀門から延びる南北大街,朱雀大街の幅は100歩で,朱雀大街によって,東西は,万年県と長安県に分かれ,それぞれ54坊と市を管轄する。計108坊と2市からなることになるが,『隋書』は「里百六。市二。」としていた。市は2坊分占めるから必ずしも計算は合ってはいない。

坊数は,万年県,長安県,それぞれ9×213×357坊(区画)となる。東市,西市それぞれ2坊分を占めるから,それを引けば各県55坊(区画)である。計110坊であるが,東南の2坊が曲江・芙蓉園となって欠けているから,坊は108坊(万年県53坊,長安県55坊)である。また,大明宮の重修(662)に伴い,丹鳳門から南に丹鳳門街が造られ,大明宮前の善坊と永昌坊の2坊は東西に分割される。すなわち,東街は結果的に55坊になっている。

愛宕元(徐松撰・愛宕元訳注(1994))は,城内を108坊に区画したのは,中国全土を意味する「九州」と,秩序正しい時間の繰り返しである112月の9×12から得られる数である。つまり統一帝国としての全空間と時間を支配する皇帝の居所としての都城を象徴する数字である。また,宮城・皇城の東西では南北に13坊が配されるのは,112月と閏月を加えた13月を,皇城の南では東西4列に坊が配されているのは,春夏秋冬の四季を象徴したものとされる,という。出典は不明であるが,上述のように,分割される坊数は110であり,108という数字が予め意識されているのであれば,東南角が2坊欠けることが前提されていたことになる。112月としながら,閏月を加えた13という数字を問題にするのはちぐはぐでもある。

以上の情報と実測を踏まえて、設計図を復元しよう。

3 長安の設計図

長安城の設計図については,平岡武夫(1956)の開元・天宝年間の盛唐期を中心とする復元があって定説とされてきた(図①)[5]平岡武夫は,東西6600歩(9702m),南北5575歩(8195.25m)を前提として、1歩=146.9cm5尺(1尺=29.4cm)という尺度換算をもとにして復元図を示した。中国でもその復元図は影響力を持ってきた。


復元案は,街区(坊)の形状・規模に5種あるとする。東西方向の街区(坊)幅は,650歩,450歩,350歩の3種,南北方向の街区(坊)幅は,400歩,550歩,325歩の3種である。そして,街路幅員については,南北大街は環塗も含めて全て100歩幅,東西街路(街道)については,皇城南は全て47歩幅,宮城・皇城の東西は,横街に繋がる開遠門-安福門・延喜門-通化門の東西大街は100歩幅,他は環塗を含めて60歩幅とする。そして,市については600歩四方,東西の坊との距離すなわち市に接する東西の大街の幅は125歩,南に接する大街の幅は100歩とする。

この復元案については,東西街路幅が47歩というのがすっきりしない。また,南北街路が全て幅100歩というのも疑問である。さらに,南北325歩というのは,『三礼図』の記述にはない。そして実際,その後の発掘調査によると,南北の全長が実際は315歩ほど長く,坊間幅は平岡の想定(47歩)より短い,また,南北街路の幅員の大半は50歩前後である。全長を考えると,皇城南の坊は,南北350歩とした方が寸法的にも合う。


街区の規模と形については、徐松撰・愛宕元訳注(1994)は,400歩×650歩,550歩×650歩,350歩(一部325歩)×650歩, 350歩(一部325歩)×450歩,350歩(一部325歩)×350歩の5種としている。陝西省文物管理委員会[6]・中国科学院考古研究所西安唐城発掘隊[7]は,東西9721m6617.43歩=33087.1尺),南北8651.7m5885.51歩=29447.6尺)とする。そして宿白[8]らによって復元図がつくられている(図②)。復元案の中で,各部分の寸法を示しているのが傳熹年(2001)である(図③)。この復元図に示される実測値を出発点としよう。


 

1)基準グリッド-設計寸法

傳熹年(2001)の復元図からは,直ちには明快な街区寸法,街路幅員の体系は窺えないが,注目すべきは,宮城・皇城の左右(東西)の東西幅(B)が等しく(左右対称),また,皇城・宮城の南北幅(B)に等しいこと,さらに,皇城南の街区の南北はこの皇城宮城・宮城の南北幅(B)の1.5倍(3×1/2B)という指摘である。

1に手掛かりとなるのが,宮城の東西幅(A)である。『唐両京城坊攷』は,宮城は東西4里(1440歩),南北は2270歩(990歩)そして,皇城(子城)は東西5115歩(1915歩),南北3140歩(1120歩)という。宮城・皇城合わせた区域の東西は1915歩,南北は2210歩となる。実測値は,宮城皇城の東西長さ(A)は内法で2820.3m=1918.6歩である。そして,宮城・皇城合わせた南北長さ(B)は,3335.7m2269.2歩である。また宮城部分の南北幅は1492.1m=1015.0歩である。因みに,平岡武夫(叶驍軍(1986))は,東西幅を1900歩,南北幅を宮城960歩+皇城幅1220歩(横街300歩含む)=2180歩とする。

こうした寸法は,芯々制(シングル・グリッド)をとるか,内法制(ダブル・グリッド)をとるかで大きく異なる。また,歩を単位とすることは前提であるとしても,実測値(メートル)の歩への換算単位次第で異なる。歩の値も時代や地域によって異なる。傳熹年(2001)の実測図をもとにした復元図には,街路の幅員と街区(坊)の規模が分けて記されており,内法制が前提とされているようにみえる。しかし,その数値にはかなりのバラつきがあり,一定の体系は直ちには見いだせない。傳熹年が見出したのは,上述のように,A,Bという単位である。ということは,設計計画にあたって,まず,大きな区画が単位として設定されていたことを推測させる。

そこで宮城の寸法を見てみると,南北幅は960歩~1015.0歩,東西幅は1900歩~1950歩である。1,000歩×2000歩が予め設定されたのではないか。両端に接する南北大街の幅を100歩とすれば,芯々で2000歩という寸法となるからである。そして,宮城・皇城の左右の街区の東西幅を見ると,傳熹年(2001)の実測図に基づけば,3334.23458.5m2268.22352.7歩)(2268.8歩(3335.7m=B)である。3分割されることから,750歩×32250歩という設計寸法が考えられる。環塗と城壁部分を50歩として加えると2300歩となる。東西全長は6600歩で実測値に合致する。

そもそも傳熹年のB2268.8歩は,宮城・皇城の南北長さである。『唐両京城坊攷』は2210歩(宮城:南北2270歩(990歩)+皇城:3140歩(1220歩))というから,これも2250歩が設定寸法であると推定される。すなわち,傳熹年(2001)が示唆するように,宮城・皇城区域の左右街区の全体については2250歩×2250歩という寸法が設定されていたと思われる。宮城と皇城の間に横街があり,その幅を250歩とすれば(叶驍軍(1986)は300歩としている),宮城,皇城とも南北長さは1,000歩となるのである。皇城南の街区について見ると,傳熹年(2001)の想定によれば,南北の長さは3375歩(15B)である。南北は9分割されるから,均等に分けるとすると,芯々375歩(750/2)の坊に区分される。

 すなわち,宇文愷は,基準グリットとして1,000歩,2000歩,500歩,750歩といった1,000歩を2分割,4分割する極めて単純な寸法体系を設定したことが明らかになる(図④)。ただ問題がある。南北の全長が実測値と合わないのである。以上の単純グリッドだと,南北長さは2250歩+3375歩=5625歩となるが,南北の環塗・城壁分50歩×2100歩加えても,実測値5889.52歩より164.52歩短いのである。この差は無視しえない。


そこで第2の手掛かりとなるのが,建設プロセスである。妹尾達彦(2001)によれば,

最初に、

 ①南北の中軸線(朱雀門街)と宮城の位置を決め,

 ②宮城を囲む禁苑と皇城をつくる,合わせて

 ③宮城を基点に,外郭城に6つの主要道路,六街をつくる,そして,

 ④六街を基準に,六街を含む東西12,南北9の街路をつくる,そして最後に,

 ⑤外郭城の城壁をつくる、

というのが建設プロセスである。

もちろん,建設プロセスであって,予め全体計画はなされていたことは前提である。

注目すべきは③である。六街とは,中軸線となる朱雀門街と宮城東西に接する南北大街,そして東西の主要門を繋ぐ3つの東西大街である。城外へ通ずる街路と門の位置はまず設定されたと考えられるのである。すなわち,皇城南に接する金光門-春明門を結ぶ東西大街(横街),そして,延平門-延興門を結ぶ東西大街が予め設定されることで,皇城南の街区は北の四街と南の五街が分けて設計されたことが考えられる。すなわち,そこでも基準線が南にずらされた可能性がある。六街の幅員を100歩とすると,75歩ほどずらして設定された可能性がある。さらに,実測図を見て気がつくのは,最南端の街区(坊)の南北長さのみが長いことである。南城壁の建設に関わって拡張された可能性が考えられる。

以上,確認したのは,

Ⅰ 基準グリットとして1,000歩,2000歩,500歩,750歩といった1,000歩を2分割,4分割する極めて単純な寸法体系が設定されている,すなわち,

Ⅱ 街区(坊)には,芯々で500歩×750歩(A),625歩×750歩(B),375歩×750歩(C), 375歩×550歩(D),375歩×450歩(E)の5種がある。すなわち,長安城は宮城,皇城とAEの街区(坊群)および東西市からなる,そして,

Ⅲ 南北は大きく2ないし3つの区域に分けて計画されている,

ことである。

 

2)街路体系と街路幅員

通説によれば,街区(坊)の形状と規模には5種類ある。これは隋『三礼図』に「朱雀街第一坊東西三百五十歩。第二坊,東西四百五十歩。次東三坊,東西各六百五十歩。朱雀街西准此。皇城之南九坊,南北各三百五十歩。皇城左右四坊,従南第一,第二坊,南北各五百五十歩。第三坊,第四坊,南北各四百歩。両市各方六百歩,四面街各広百歩。」とあることを根拠にしており,復元の前提となっている。

 この5種類の街区(坊)を前提とし,さらに傳熹年(2001)の復元図の実測値を基にする復元案として王暉(「日本古代都城城坊制度的演変及与隋唐長安里坊制的初歩比較」王貴祥(2008))の復元案がある。王暉案は,平岡同様,南北街路幅は全て100歩とするが,皇城南街区の南北幅は350歩とし,坊間街路幅を40歩とする。図は『大元都市』に譲るが、東西街路幅の47歩を不自然とみて,街路幅員として40歩,60歩,100歩という完数(ラウンドナンバー)を想定する。しかし,この復元案では南北の全長は5790歩となり,実測値に100歩ほど足りない。そこで,王暉は,南北を実測値5885歩に合わせ,実測図に合わせた修正を試みているが、街路幅は、29歩、43歩、73歩…などてんでばらばらになる。設計街路幅について考えるのであれば、王暉の復元案を前提として,東西坊間街路幅を40歩でなく50歩とすれば,全長は90歩増えて5880歩となり,かなりすっきりとした体系になる。皇城・宮城の東西についても坊間街路幅は50歩として復元案を示すことができるから,坊間街路の幅員は,南北街路については全て100歩,東西街路は(東西のそれぞれ三門を繋ぐ三街(幅100歩)を除いて)全て50歩という案になる。まず、間違いない、のではないか。

Ⅳ 通説とされている復元案は,南北街路幅は100歩,東西街路幅は六街(100歩)を除いて50歩であり,街区(坊)は,400歩×650歩,550歩×650歩,350歩×650歩,350歩×450歩,350歩×350歩という5種(『三礼図』)からなる。

問題は,この通説の寸法と実測値が大きくずれていることである。街路幅員には大きなばらつきがある。南北街路幅が全て100歩ということは想定できない。六街と他の街路との間には区別を設定したと考えられるし,実際,大街,小街のヒエラルキーがある。傳熹年(2001)によれば,宮城・皇城に接する東西横街,朱雀門街を除けば,坊間の南北街路幅は4268m28.646.3歩),東西街路幅は3955m26.537.4歩)である。小街は大街の半分程度である。また,坊の大きさもまちまちで,以上の前提(Ⅳ)より総じて大きい。宮城の東西は,400歩×650歩とされるが,483歩×694歩~765歩,皇城の東西は,550歩×650歩とされるが,508歩~561歩×694歩~765歩である。さらに,皇城南,東西の街区は350歩×650歩とされるが,340歩~391歩×694歩~765歩,皇城直南の街区は,350歩×450歩,350歩×350歩とされるが,340歩~391歩×465歩~476歩,340歩~391歩×380歩~382歩である。

Ⅴ 通説(Ⅳ)は,否定される。

基準グリットとして1,000歩,2000歩,500歩,750歩といった1,000歩を2分割,4分割する極めて単純な寸法体系が設定されていると考えるのは,実測値にばらつきがあるからである。そこで,実測値に近い街路体系,街路幅員について試案を示すと以下のようになる。

Ⅵ 長安城の街路体系設計試案(図⑤)


①六街の幅員を100歩とする。

そして,

②環塗と城壁を合わせて50歩とする。

宮城・皇城の左右の街区の東西幅は2200歩(2250歩-50歩)となる。各坊の東西幅を700歩とすれば,南北小街の幅員は50歩となる(700歩+50歩+700歩+50歩+700歩)。また,宮城皇城の南北幅は,450歩+50歩+450歩+100歩+550歩+50歩+550歩+50歩=2250歩に,すっきり分割できる。すなわち,

③宮城の東西の坊は450歩×700歩,皇城の東西の坊は550歩×700歩とする。坊間街路幅は東西,南北とも50歩とする。

南北街路(小街)幅は,単純に朱雀門街など六街の半分という設定が行われたのではないかと考えられる。そこで,

④南北街路(小街)幅は全て50歩とする。

皇城直南の東西幅は,100歩+475歩+50歩+375歩+100歩+375歩+50歩+475歩+100歩に分割される。皇城直南の坊の南北幅については,以下の坊の分割に関わる議論が必要であるが,通説に従って350歩としよう。すなわち,

⑤皇城南の東西街路幅を25歩とする。

すなわち,

⑥皇城直南の坊は,350歩×475歩,350歩×375歩とする。

⑦皇城南東西の坊は,350歩×700歩とする。

問題は,基準グリッドと六街との接続をどう考えるかである。すなわち,皇城南に接する金光門-春明門を結ぶ東西大街(横街),そして延平門-延興門を結ぶ東西大街と基準グリッドをどう重ねるか,という問題が残る。100歩の幅を厳密に設定すると,基準線からのずれを,それぞれ,α=37.5歩,β=75歩とすればいい。なお,南北全長の実測値とのずれは,南端に残る(γ=97.5歩+50歩)。

 

3街区(坊)の構成

各街区(坊)の構成を考えよう。出発点とするのは基準グリッド(Ⅰ)である。

皇城南左右の街区の各坊は,最南端の一列を除いて,基準グリッドとして設定した芯々375歩×750歩のグリッドに収まっている。坊間の南北街路を30歩,坊間の東西街路幅を15歩とすれば,丁度,各街区は内法で南北1里(360歩)×東西2里(720歩)となる。街区規模は単純におよそ1里(360歩)×東西2里(720歩)と設定した可能性が高いのではないか。「同じ宇文愷の設計になる洛陽の場合,1里(360歩)×1里(360歩)(300歩×300歩)のグリッドが採用されている。

  基準グリッド(Ⅰ)を前提として,通説の400歩×650歩,550歩×650歩,350歩×650歩,350歩×450歩,350歩×350歩という5種の坊は,坊間街路幅の設定(100歩,75歩,25歩)によって導き出される。南北街路は全て100歩幅,東西幅は,Aについては100歩幅,Bについては75歩幅,C,D,Eについては25歩幅とすればいい。こうした指摘はこれまでないが,数字の体系として一貫性のある提案となる[9]

しかし,基本は面積の単位である。街区(坊)の分割を考える場合,1里=360歩を長さの単位とするのは極めて自然である。250歩×250歩というグリッドの単位も,1畝=240歩×1歩が意識されていると考えていい。周回に坊墻と環塗合わせて5歩の幅をとれば240歩四方となるのである。

Ⅶ 面積配分の単位は,方1里(360歩×360歩),1畝=240平方歩である。

そして,坊の分割単位,構成単位が問題となる。

 史資料から各坊は十字街によって,あるいは東西横街によって分割されることが明らかにされている。韋述『両京新記』の建物の記述をもとにその区画を詳細に検討した妹尾達彦によれば,A,B,C4×416分割,DE4×312分割される

Ⅷ 宮城皇城の東西の坊は,大小の十字街によって,1/4,1/16に分割される,また,皇城直南の坊は,横街によって,1/2,さらに1/6に分割される。

  王暉[10]は,350歩×650歩,そして350歩×450歩という坊を,それぞれ4×416分割(A,B,C), 4×312分割(DE)のモデル街区(坊)として,宅地分割のパターンを示している。基本的には24歩×10歩=1畝を単位として,大十字街の幅を10歩,小十字街の幅を4歩,宅地列間の路幅を3歩とする。

 唐代の坊肆,住宅などの遺址として確認されているのは,永嵩坊道路遺址,平康坊滲井遺址,長楽坊窯址(碑林区),普寧坊窯址(蓬湖区),崇化坊建築遺址(雁塔区)である。もちろん,その他に,多くの寺観,園林の遺址があり,坊の復元の根拠とされる。朱雀門街以東の全ての坊を調べ上げた先述の王貴祥は,唐長安里坊内部分住宅基址の規模を列挙している。どう計測したのかが不明で,1畝以下の宅地も多く,必ずしも明快な面積単位は見出せないが,坊が大小の十字街によって,1/4,1/16に分割されること(また,横街によって,1/2,さらに1/6に分割されること)は前提となる。

  以上をもとに,坊の分割パターンのモデルを提示したい。

Ⅸ 方一里坊モデル

  240歩=1畝制は実にフレキシブルな分割を可能にする。1畝の土地の形状の全てを検討する必要はないだろう。住居(四合院)の空間構成(間口)を考えれば,40歩×6歩,30歩×8歩,24歩×10歩,20歩×12歩,16歩×15歩といった単位を考えればいい。

②方一里,360歩×360歩の正方形の坊を,坊墻壁を含めた環塗(幅10歩)で取り囲むとすると,340歩×340歩が区分される。それを幅10歩の十字街で4分割し,さらに幅5歩の小十字街で4分割すると,80歩×80歩が街区の基本単位となる(坊の1/16)。

すなわち,80歩×80歩を基本単位としたというのが,本書が提起する新たな説である。

 そして考えられるのは,X,Y2案である

Xは,1/16坊=25畝(5×5),1/4坊=100畝,坊=400畝という構成になり,Yは,1/16坊=24畝(3×8),1/4坊=96畝,坊=384畝という構成になる。

中国の研究者たちは,Y説とするが,宇文愷の設計図はX図⑥)であったと考える。1/4坊=100畝という設定は極めて単純である。


Ⅹ 坊の類型モデル(図⑦)

  Xを基本として,坊の類型毎に分割パターンを示しておこう皇城南,東西の坊は360歩×720歩でいいであろう。皇城直南は,360歩×360歩と360歩×420歩とすればいい。


 

隋唐長安都城モデル

隋唐長安の設計図,その寸法関係は、以上のように明らかにできた。残された問題は『周礼』「考工記」「匠人営国」条との関係である。『周礼』考工記「匠人営国」条考については、traverse14号(2013)で独自のモデル図を示した。

『周礼』「考工記」「匠人営国」条の都城モデルと比較すると以下のようである。

①「方九里」については,「方」(正方形)ではなく,東西が長く,規模もほぼ倍(東西183里,南北15.5里)である。

②「傍三門」については,ほぼ従っていると見ることができる。が,北辺の門は七門ある。そして,東西南辺の門の配置は等間隔ではない。

③「国中九経九緯」については,徐松『唐両京城坊攻』の記述に従えば,10×13グリッドからなるから,環塗を含めなければ,9経×12緯,含めれば,10経×14緯となるから,従っているとは言えない。

④「経塗九軌」については,上の検討に基づく南北街路(小街)幅50歩,東西街路(小街)幅25歩(15歩,35歩,50歩)に合っているわけではない。

⑤「左祖右社」については,従っているといっていい。

⑥「面朝後(后)市」については,宮城の後方(北)と解釈すれば,「後市」となっていない。

⑦「市朝一夫」には従っている。

総じて,『周礼』「考工記」モデルと関係なさそうに思われる。だからと言って、既に確認したように,全体を108坊に区画したのは,中国全土を意味する9州と112月,9×12から得られる数であるとか,南北13坊が配されるのは,112月と閏月を加えた13であるといった説には説得力はない。

最大の問題は,「北闕」型であることである。既に北魏平城,あるいは曹魏鄴で「北闕」型の形式が見られるが,隋唐長安ほど形式的に整然とした例はない。応地利明(2011)の隋唐長安の形態解釈において最も興味深いのは,「北闕」型の空間構成についての指摘である。すなわち,北闕左右の構成は,鮮卑軍団の軍営組織に由来するという。依拠するのは,テュルク系遊牧集団に共通する「オグス・カガンの軍団編成」である(杉山正明(2008))。

中国都城の理念というけれど,北魏平城以降,「北闕」型都城を造営してきたのは遊牧民族である鮮卑拓跋部である。まず,遊牧民の集団編成の原理と都城の空間構成を関係付けるのは極めて自然である。「北闕」型が本来の中国都城であるという村田治郎の主張は否定される。

杉山正明のいう「オグス・カガンの軍事集団」は,ユーラシアにおけるスキタイ・匈奴に始まる遊牧国家の歴史的展開の基礎に関わる重要な空間編成原理である。その基本モデルは,ラシードゥッディーンの『集史』(131011)第1部第1章「テュルク・モンゴル諸部族志」の始祖説話(オグズ・カガン伝説)に示される。オグスには,右翼に「日」(キュン)「月」(アイ)「星」(ユルドゥズ),左翼に「天」(キョク,蒼天)「山」(タク)「湖」(デンギズ)という6人の子がいて,6人には,さらに4人ずつの息子がいる。左右にそれぞれ3×412,計24の集団を配するのである。

モンゴル帝国においてもこの左右両翼24軍の体制がとられる。チンギス・カーンを中央に,右翼の3人の息子ジョチ,オゴデイ,チャガタイにはそれぞれ4つの千人隊,左翼の3人の弟カサル,オッチギン,カチウンには,順に1,8,3の千人隊が割り当てられた。左翼の配分は均等ではないが,左右両翼はそれぞれ12の千人隊からなる。

そして,女真族が建てた後金,そして大清国の都盛京が実に興味深い。ヌルハチが建てた宮城は大政殿(八角殿)を北に置いて東西に十王殿が並ぶ。十王殿は八旗と右翼王,左翼王である。これは軍団編成そのものである。ヌルハチが採用した八旗制は清北京の空間構成原理となる。

このように,南面する中央と左右両翼の三極体制,十・百・千・万の10進法による軍事・社会組織は,ユーラシア東半に共通の国家システムである。応地利明は,宮城・皇城とその東西の空間構成は,この左右両翼24軍体制を空間化したものだという指摘は,これまでに全くない新説であるが,上にあげた事例に照らせば極めて説得力がある。上に解析したように,左右は,それぞれ3(東西)×4(南北)=12の坊,合わせて24坊からなるのである。杉山正明の図について,宮城,皇城,そして,東西の街坊がまず建設されたことを考え合わせると,「宮闕」と左右両翼の街坊を1つのセットと考えるのは自然である。建設過程が明らかにするように,まず,宮城・皇城と左右両翼部分が設定され,北区域と南区域が分離される。宮城に接して設けられる禁苑を含めて考えると,宮城・皇城は中央に位置するという見方もあるが,「北闕」型,すなわち宮闕区域を北に置くことがまず選び取られている。これは『周礼』都城モデルと決定的に異なる点である。

しかし,次に「六街」の配置が設定されていることは,『周礼』「考工記」「匠人営国条」の「傍三門」が意識されていることを示すであろう。そして,金光門と春明門を繋ぐ横大街より南の街区が東西183里,南北9.375里であること,すなわち「方九里」2個分であることも,『周礼』と無縁ではないと思われる。南の条坊区域のみについてみれば,環塗を除くと「九経」であり,金光門-春明門の横大街を加えれば「九緯」でもある。「

都城のかたちとコスモロジーとの関係についての議論は残るが,宮城区域の形式(三朝五門制),南面する中央と左右両翼の三極体制の空間化,体系的な土地班給システムに基づく坊墻制,南北中軸線と左右対称の空間構造の確立など,隋唐長安はいくつかの空間構成のシステムを総合化した都城モデルとなるのである。



[1] 古代インドの理想的帝王を「転輪聖王」(チャクラヴァルティン Cakravartinあるいはチャクラヴァルティラージャ Cakravartirāja)という。この王が世に現れるときには天のチャクラ(車輪)が出現し,王はそれを転がすことによって武力を用いずに,すなわち法という武器によって,全世界を平定するという。「転輪聖王」は,七宝を有し,32相を備えているとされる。32相と言えば釈尊がそうであるが,その誕生に際し,出家すれば仏となり,俗世にあれば「転輪聖王」になるという予言を受けたという話はよく知られる。

[2] 隋大興城,東京城の設計とそれを建設した宇文愷をはじめとする建築家たちについては,田中淡(1995)「第三篇 隋朝建築家の設計と考証」がある。この詳細な論考にほとんど何もつけ加えることはないが,田中淡(1995)は明堂復興計画を中心とする建築設計に重点を置いている。

[3] 以下『隋書』宇文愷伝をもとにした田中淡(1995)による。

[4] 妹尾達彦「唐長安史研究と韋述『両京新期』」(田村晃一編(2005))他。

[5] 平岡武夫編(1956)『長安と洛陽・地図』唐代研究のしおり第七,京都大学人文研究所。これには北宋・呂大防「長安城図」(残図)も含まれている。

[6] 陝西省文物管理委員会「唐長安城地基初歩探則」(『考古研究』3期,1958年)

[7]中国科学院考古研究所西安唐城発掘隊「唐代長安城考古記略」(『考古』第11期,1963年)

[8] 宿白「隋唐長安城和洛陽城」『考古』19786

[9] ただこの場合,A,Bの間,BC,D,Eの間で調整が必要になる。街路幅員はA,Bの間については,100/2+75/287.5歩,B,Cの間については,75/225/250歩といった寸法になる。特に,金光門と春明門をつなぐ横街の幅が50歩というと,南北大街の100歩に比べて狭い(平岡武夫・叶驍軍(1986)は47歩としている。実測図傳熹年(2001)は82歩とする。)からここで南へグリッド全体がずらされたと考えると南北の全長は実測値に近くなる。

[10] 下編「第3章 日本古代都城条坊制度的演変及興隋唐長安里坊制的初歩比較」(王貴祥等(2008))

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