The Grid City
グリッド都市
『traverse』創刊号(2000年)に、「植民都市の建設者・・・計画理念の移植者たち The Builders of Colonial Cities・・・Planters of Western Urban Planning
植民都市研究のためのメモ」というエッセイを書いた。『traverse』には毎号その時々の関心に即して書いてきたのであるが,振り返ってみると、「植民都市の特性と類型-オランダ植民都市研究 Characteristics and Typology of
Colonial Cities-Study on Dutch Colonial Cities」(04号)、「ハトとコラル 非グリッドの土地分割システム Hatos & Corales-Anti-Grid
Land Division System」(09号)、さらに「オンドルとマル,そして日式住宅 Ondor, Mal
& Nisshiki Jutaku(Japanese Style House)」(11号)の4本の原稿が近代植民都市に関わっている。この間、一貫して〈支配←→被支配〉〈ヨーロッパ文明←→土着文化〉の2つを拮抗基軸とする都市の文化変容の問題、より一般化すれば、建築・都市における異文化の接触、衝突・葛藤、受容・反撥、同化・異化の問題に関心を持ち続けてきたことを、今更のように思う。
本稿もまた近代植民都市に関わる。
「ハトとコラル 非グリッドの土地分割システム」がきっかけとなって、『グリッド都市―スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生』(京都大学学術出版会)を出版することになった。文部科学省の研究成果公表促進費の補助を受けたから、2012年度中に出版されることは間違いと思うけれど、この一年スペイン植民都市をターゲットとして考えてきたことのあれこれを以下にメモしてみたい。おそらくは、『traverse』13号と同じ頃出版されるであろう出版前?のアドヴァータイズメントである。
1 ホセ・デ・エスカンドン
何故、スペイン植民都市なのか。自ら顧みて不思議である。
正直、近代植民都市のあり方を問う『近代世界システムと植民都市』(布野修司編:京都大学学術出版会,2005年)をまとめて、一定の仕事をし終えたと思っていた。都市計画学会賞も受賞し、後の個々の都市や地域を緻密に掘り下げる作業は若い世代に委ねればいいと思ったし、と今でも思う。以降、関心は専らアジアの前近代都市へ向かった。実際、『曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』(京都大学学術出版会,2006年)、『ムガル都市--イスラーム都市の空間変容』(布野修司+山根周,京都大学学術出版会,2008年)を上梓し、今は、中国都城の系譜を明らかにする『大元都市』(仮)の執筆にかかっている。
セヴィージャ出身の建築家ホアンさん(ホアン・ラモン、ヒメネス・ヴェルデホ・現・滋賀県立大学准教授)と出会ったことが全てだと思う。僕は、スペイン語を解さないし、ワンパターンのスペイン植民都市計画という先入観があったから、スペイン植民都市に興味を抱く理由がない。加えて、フィールドワークのためにはラテンアメリカはあまりに遠い。
セヴィージャ大学の建築学部で修士号と建築家の資格を得た後、神戸芸術工科大学の博士課程に入学するために来日したホアン青年に初めて会ったのは1999年である。『traverse』創刊号に書いたように、その頃、われわれは植民都市研究をスタートさせ、『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』(ロバート・ホーム著:布野修司+安藤正雄監訳:アジア都市建築研究会訳,Robert Home: Of Planting and Planning The making of British
colonial cities,京都大学学術出版会,2001年)を前提に、オランダ都市研究を開始しつつあった。ホアン青年自身も、来日時にはスペイン植民都市を研究テーマにすることなど夢にも考えていなかったと思う。後になって聞くと、われわれのオランダ植民都市研究が大いに刺激になったのだという。
ホアンさんがスペイン植民都市研究を展開するに当たって最大の武器になったのがセヴィージャのインディアス総合古文書館Archivo General
de Indias(AGI)に収蔵された植民都市関連地図・図面全7152枚である。その中に、いくつも円を画いた地図(ハト・コラル図)があった。一体これは何だ!というのが出発である。これについては、「ハトとコラル 非グリッドの土地分割システム」に書いた通りである。ただ、僕もホアンさんもこの図に気がついたのは後のことである。
ホアンさんがまず注目したのは、ホセ・デ・エスカンドンJose de Escandon[1]によるヌエヴォ・サンタンデールNuevo Santander(現タマウリパスTamaulipas県)の15の都市の都市図である。同じような都市図が15枚もある。調べてみると、エスカンドンは,25もの都市を建設していた。ホアンさんがホセ・デ・エスカンドンの都市をテーマにして学位論文[2]を書いたのはごく自然であった。
エスカンドンの都市についてはいくつかの論文[3]を連名で既に公表しているから省略するが、面白いのは、エスカンドンがA、Bふたつのモデルを用いていることであり、そのモデルが必ずしも「インディアス法(「フェリペⅡ世の勅令」1573年)」の基本モデルに一致しないことである。さらに実際建設されたのは、全て同じで100ヴァラ[4]×100ヴァラの単純な正方形グリッドの街路体系をしていることである(図1)。
図1 エスカンドンの2つのモデル
15の都市の現状を当初の計画図と比べて思うことは、「変わるもの」と「変わらないもの」についての問いである。ホセ・デ・エスカンドンがヌエヴォ・サンタンデールに建設した諸都市のほとんどは,その当初の骨格を歴史的な建造物とともに残している。プラサを中心とする都市核は,20世紀初頭までは大きな変化は少なく,急激な変化,都市化が起こったのは20世紀後半である。大きな変化要因となったのは,自然の条件であり,洪水,黄熱病,治水のためのダム建設などである。極めて単純な街区構成と宅地分割による秩序が,250年近く,強く維持されてきたことは驚異でもあり、不思議でもある。
2 ヒッポダモス
中心テーマ、キーワードは、グリッドである。スペイン植民都市は,グリッド都市の代名詞とされる。改めて、グリッド都市の起源について基本文献を読み直した。焦点は,紀元前5世紀に活躍したギリシャの政治家,哲学者,医者,数学者,気象学者であるヒッポダモスHippodamus (498
BC ~ 408 BC)である。アリストテレスAristotelis(384 BC~322 BC)がグリッド・プランの発明者と呼び,さらに「都市計画」の創始者だと書いたことで,その名は「都市計画」の歴史の第一頁に記されて世界中に知られる。
「エウリュポンEuryphonの息子,ヒッポダモスはミレトスの人である。彼は国を区画することを発明し,ペイライエウスPeiraieusの町に碁盤状の道路を設計した。・・・最善の国政について論じることを企てた最初の人である。」(『政治学』第2卷「最善の国政についての人びとの見解と評判の高い国政の吟味」第8章「ミレトスのヒッポダモスの国制論に対する批判」1267b22-29[5])。
ヒッポダモスは,ミレトスMiletus[6]生まれで,「碁盤状の道路を設計し」「国を区画することを発明し」,さらに「最善の国政について論じることを企てた最初の人」である。すなわち,グリッド都市について考えることは, 都市計画の起源ひいては「国制」を考えることにも繋がることになる。
いささか変わった人物であったらしく,アリストテレスは,上の引用で省略した「・・・」の部分では,「彼は自負心のために普段の生活でも奇矯なところがあった。髪を長くたらして,高価な飾りをつけているのに,粗末で厚い衣服を冬ばかりか,夏の間でも着ているのをみて,あるひとびとは風変わりな暮らしをしていると思ったほどである。彼はまた,全自然についての知識に通暁していると自負していた。」と書いている。そして,アリストテレスは次のように続ける。
「彼が構想した国の建設案はこうである。国家の人口は一万人とし,3つの部分にわける。1つは職人,1つは農民,第3は国を防衛し,武器をもつ者とする。国土も3つの部分に分ける。聖なる地区,公共用地,私有地である。慣例によって神々に奉献する犠牲獣を供給するのが聖なる地域であり,防衛者の生活を支えるのが公共用地であり,農民が所有するのが私有地である。」(『政治学』1267b30-38)
ヒッポダモスの「都市国家」の空間配置に関わる言及はわずかに以上にすぎない。そして,実は,アリストテレスは,この3区分を徹底的に批判している。職人と農民と武器をもつ者であれば,武器をもつ者が権力を握ることになるのは当然である,武器をもつ者が畑を耕すのであれば,農民が武器をもつのと変わらなくなるなどと,職人,農民,武器をもつ者の相互の関係をそれぞれ問題にして,さらに,ヒッポダモスの法制についての理論をまとめた上で,その国政論の問題点を列挙するのである。
『政治学』がヒッポダモスに言及するのはもう1ケ所ある。
「個人の家の配置は,新式のヒッポダモス風の様式に従って[碁盤状]道路によって整然と区画されれば,もっと快適であるし,一般の活動のためにはもっと便利であると考えられる。しかし戦時の安全のためにはその反対に,むかしの時代にそうであったままの[入り組んだ]家並みがよい。なぜならそれは外国の軍勢にとって侵入しにくく,攻撃しようにも迷路が邪魔になるからである。それゆえ,都市は両方の方式を取りいれるべきである。というのは,農地で葡萄の樹の寄せ植えと呼ばれる植え方に倣って家屋を配置すれば,それは可能だからである。そして都市全体を整然と区画せずに,部分的にいくつかの地区にかぎってそうすればよい。このようにすれば,安全と美観の要求をともによく満たすことができるだろう。」(『政治学』第7卷「最善の国政」「都市の立地とその防衛」1330b21-31:牛田徳子訳)。
この「葡萄の樹の寄せ植え」というのは,「五つ目植」とも訳されるが[7],「サイコロの5の目のような配置で植えるやり方」と解説される。この配置でも連続すればグリッドとなるけれど,アリストテレスが言いたいのはグリッドを崩して高密度に住居を配置するということである。整然とした区画の地区は部分に限定し,全体はかつての都市のように入り組んだかたちにしたほうがいい,というのがアリストテレスであった。すなわち,アリストテレスの関心は,幾何学的な空間構成より,ポリス(都市国家)全体の構成(「国制」)にあった。
ヒッポダモスが生まれたミレトス[8]は,典型的なグリッド・パターンの都市であり,ヒッポダミアン・プランのプロトタイプとされる。しかし,第1に確認しておくべきは,ヒッポダモスが必ずしもグリッド都市の考案者ではないことである。ヒッポダモス以前にグリッド都市が存在してきたことは考古学的遺構が示しており,都市文明の起源である古代オリエントに既にグリッド都市の存在が知られている。都市計画の教科書[9]を繙けば,エジプトのセンウセルトSenusert Ⅱ世(中王国第12王朝:在位1897~79B.C.)がピラミッド建設のために建設した労働者居住区カフーンKahoon(ホテプ・センウセルト)やアメンホテプAmenhotep Ⅳ世(アケナテン:在位1379~62B.C.あるいは1364~47B.C.)が建設した王宮都市エル・アマルナ العمارنة al-‘amārnah)がグリッド都市の例としてまず出てくる。続いてアルメニアのウラルトゥ王国のゼルナキ・テペZernaki Tepeがある。また,レヴァントLevantのメギドMegiddoがある。時代は下るが,メソポタミアでは,ネブカドネザルNebuchadnezzarⅡ世(在位604~561B.C.)が建設したバビロンBabylonも整然とした居住区を持っている。また,ネブカドネザルⅡ世がバビロニアを刷新すべく,ユーフラテス川の少し下流に建設したボルシッパBorsippaも,明らかに規格的に設計されている。第2に指摘しておくべきは,ヒッポダモスがミレトスの都市計画に関わったというのも疑問視されていることである。ミレトスは紀元前494年にペルシア軍によって破壊され,紀元前479年頃再建が開始されたというからその再建に関わったことは十分あり得るが,それ以前にミレトスにグリッド・パターンが導入されていたことが明らかにされているのである。そもそも彼は理論家であり,実務家ではなかった。
3 エクシメネス
スペイン植民都市の起源として,スペイン以前の南北アメリカ大陸やフィリピンにおける土着の都市の伝統(A),15世紀末に到るイベリア半島の都市計画の伝統(B),それに大きく影響を与えてきたギリシャ・ローマの都市計画の伝統(C),そして,それを基礎にするルネサンスの都市計画理論の影響(D)の4つを考えることができる。(C)の象徴がヒッポダモスで、それを引き継いだのが(C)である。
イベリア半島の都市史,都市計画史について学んだが,スペイン植民都市計画の基本モデルに直接つながると考えられるのがエクシメネスFrancesc de Exiemenis(c1340~c1409)[10]の理想都市計画案である。日本ではほとんど知られていないのではないか。
その1385年のその代表作『キリスト教12書Dotzè llibre del Crestià』[11]は,建築書でも都市計画書でもないが,中に断片的に都市の理想について触れている。V.ベルトランVila Beltran[12]が,都市に触れる箇所を抜き出して検討しているが,それは106章から114章,263頁中,50頁から53頁の4頁である。
エクシメニスは,まず,立地として自然,風と水に触れている。「風は冷たく,土地そして人間にダメージを与える」「都市は水の近くにあるべきである」「都市は川の側に立地するのがいい。分割される場合は2つまで,それ以上は都市が弱くなる」「海は,人々が広がっていく場所であり,裕福になるところである」(106章,50p)などとある。さらに「主要道路には大きな下水道が必要である」(106章,50p)と排水に触れる。
続いて「都市の構成は美しい形態をとるべきである」(106章,50p)とし,天文学が重要だという。「天文学を無視すれば,不幸になる。天をよく観察すれば,幸せになり,永続できる」(109章,51p)。そして「直線がより美しく,規則正しい」(110章,51p)とする。
そして,「ギリシャの哲学者に従えば」と,「全ての都市は正方形(四角)であるべきだ」(110章,51p)という。「各辺中央に入口があり,各辺中央から市壁の角までは500パソpasos[13](1辺1000パソ)である。東西の門は広くて大きい。また,南北も同様である」また「教会は中央にあるべきで,隣接して大きな美しい広場がある」「広場の四方には階段があって高くなっており,攻撃を受けた場合,防御しやすいようにしてある。広場は,また,聖なる場所として維持されなければならない」(110章,51p)という。
V.ベテランの整理によれば,エクシメニスの理想都市モデルの基本は以下のようになる(図2)。
1) 立地:平坦な地形で自由に拡張が可能なこと。
2) 方位:都市の主軸は南東向きとし,北風を防ぐこと。
3) 広場:一辺1,000パソの正方形。
4) 市壁と主門:各辺の中央に門を設ける。正門は東門。
5) 副門:正門と市壁角との間に2つの副門を設ける。
6) 街路は直線とする。
図2 エクシメネスの理想都市モデル
7) 主街路と住区:主門と主門(東西,南北)を繋ぐ主街路によって4つの住区に分割する。
8) 広場:各住区は広場を持つ。
9) 教会:中心に位置し,主教,司祭の住居が近くにある。
10) 主広場:通路階段をもった主広場を教会の近くに設ける。市場の開設や処刑は禁止される。
11) 王宮:都市の境界に位置し(市壁に接し),直接市外への出入口をもつ。
12) 住区:各住区はいくつかの教区から成り,修道院,肉屋,魚市場,店舗,宿屋がある。
13) 各住区は様々な労働階層が居住し,水が豊富であること。
14) 病院,ハンセン氏病収容所,売春宿,下水道は,風下に置く。
15) 日常生活のための小売業は至る所に配される。
16) 農民は農園の近くに居住する。港がある場合,船員は海の近くに居住する。
エクシメニスにとっては,理想都市の計画図を作成する以前に,法的,倫理的基盤に従った秩序づけられた社会をつくりあげることが問題であった。秩序感覚がエクシメニスの理想都市計画の基礎であり,広場の形態や建設は次の問題である。教会があって広場がそれに隣接するのか,広場とともにその中に教会が建設されるのかはっきりしない。ガルシア・フェルナンデスは,エクシメネスのテキストを検討することで,その理想都市計画案を再現しているが,広場を先に設けている。これに対して,サルセドSalcedo[14]は,教会が広場に含まれた案を提案している。一辺1000パソ=5000ピエという広場の規模は,「インディアス法(フェリペⅡ世の勅令)」の「最低200ピエ×300ピエ,最大533ピエ×800ピエ,中間値を400ピエ×600ピエとする」という規模と比べるとかなり大規模である。教会や市庁舎を含めたコンプレックスを含んだ規模と考えられる。いずれにせよ,広場は教会とセットであり,広場はひとつの空間と考えられている。この広場の概念はイベロアメリカのスペイン植民都市に広く取り入れられていくことになる。
4 「フェリペⅡ世の勅令(1573年)」
インディアスの統治のために数多くの法令,勅令,訓令が出されるが,それを最初に体系化したのが,フェリペⅡ世の「インディアスの発見,植民,平定に関する新法令」(1573.07.13)である。「フェリペⅡ世の勅令」については,加嶋章博(2007)が全文邦訳,解題を試みているが[15]、スペイン語現代語訳であるが原文と照らし合わせながらじっくり読んだ。
「フェリペⅡ世の勅令」の原本は,カスティージャ語の手稿である[16]。冒頭「フェリペⅡ世国王から我が海外領土における副王,プレシデンテ,アウディエンシア,ゴベルナドール(総督),そして以下に言及する者,また関係者すべてに向けて」とある。全体は148条からなる。ただ,原文には第91条が欠如している。また,第69条および第111条の段落を2つに分け,69条の2,111条の2とする研究者がいる。この場合,全体は149条からなることになり,F.d.ソラノFracisco de Solano(1996a)は149条としている。しかしここでは。手稿の番号に従う。発見descubrimiento[17](第1~第31条),入植población(第32~137条),平定pacificacion(第138~149条)の3つの部分(章)からなる。
全体を通読すると,スペイン植民地建設の指針についてはよくわかる。指針と実態はもちろん異なるけれど、植民地化のプロセス(発見,入植,平定)がその背景とともによく理解できる。都市計画、建築の分野では、その形態に関わる条文にのみ関心を集中させてきたが,その数はそう多くはない。
フィジカルな形態に関わる「フェリペⅡ世の勅令」の条文は以下である。
1.全体はグリッド・パターンによって構成される。すなわち,全体の形は限定されず,同じ形式で延長可能である(第111条)。
2.プラサ・マヨールを起点とする。(第111,112条)沿岸部の場合には上陸地点に,内陸部の場合には中央に設ける。
3.プラサ・マヨールの形は,長さを幅の1.5倍とする長方形とする(第112条)。大きさは,最低200ピエ×300ピエ,最大533ピエ×800ピエ,中間値を400ピエ×600ピエとする(第113条)。
4.主要道路を広場の四辺の中央から1本ずつ,四隅から2本ずつ設ける(第114条)。広場に面してポルティコを設ける。ポルティコは主要街路によって切断されない。このポルティコについて,加嶋章博(2007)は主要街路の両側全てに想定するが,プラサ・マヨールに限定されたものとした(第114条,第115条)。
5.市街地のところどころに小広場を設け,その広場に付随して教会を設置する(第118条)という規定については,必ずしも一般的な図は想定できないが概念的にはダイアグラムに示せる。
フィジカルな計画について図化できることは以上のみである(図3)。これ以外に描かれた図は,作成者の解釈と考えていい。また,各地に建設されたスペイン植民都市は建設者の解釈によって計画設計されたものといっていい。ひとつの都市のモデル図が具体的に建設された都市計画図をもとにモデル図が作成されてきたということである。当然のことながら,実現した都市計画は現実の諸条件に規定されている。インディアス法の都市モデルは都市の規模,その境界については触れていない。城壁,市壁についての記述が全くないことは大いに注目されていい。街路は広場から四方に延長されるという規定があるだけである。また,都市の規模は入植に当たっての集団の規模によって想定されているだけである。
ホルヘ・エンリケ・アルドイ(Hardoy, Jorge E.(1983)[18])のリストによれば,1492年にコロンが第1次航海の際に,イスパニョーラ島に建設したナヴィダー要塞以降,1810年のポトレシージョ Potresillo (グアテマラ) にいたるまで,3世紀余りの間に約1000に及ぶ市,町,村が設立されている。そのうち,1573年の「フェリペⅡ世の勅令」までに建設が着手された都市は362にのぼる。こんどの著書で試みたことのハイライトのひとつは入手した都市図をもとにスペイン植民都市の全体形態,プラサ・マヨールと街区の構成,街路体系などをインディアス法(「フェリペⅡ世の勅令」)が規定する基本モデルと比較し,各都市の差異を明らかにするとともに,スペイン植民都市の類型を明らかにしたことであろう。
図3 インディアス法の都市基本モデル
これまで,セヴィージャのインディアス総合古文書館AGIに集められ,収蔵保管されている都市図を対象にして分析を行ってきたが[19],さらにマドリードの陸軍博物館Servicio
Historico Militar(SHM)/Servicio
Centro Geografico del Ejercito(SGE)の地図資料全1514 枚(全10巻)を加えて基礎資料とした[20]。すなわち、類型化をやり直した。類型の対象になったのは172都市である[21]。スペイン植民地帝国において建設された都市の2割近くを対象としたことになる。
類型化の詳細は著書に譲るが、類型化の軸となるのは「フェリペⅡ世の勅令(1573年)」の基本モデルである。すなわち、プラサ・マヨールの位置、規模、形状と街路体系である。今更のように確認したのは、基本モデルに忠実に従う都市が皆無であることである。特に、プラサ・マヨールの形状の規定(縦横比が1:1.5)に従うものは1例しかない。初期には,広場を最初に設定する建設のパターンは必ずしも一般的ではなく,要塞や教会の建設を一体的に行うのが一般的であった。また、全体として広場の各辺を延長する形の単純グリッドが圧倒的に多く,プラサ・マヨールは正方形のものが多い。都市の理念と実際の計画、そして現実に実現された都市の間のずれ、ギャップについて、グリッド都市をめぐってはより深く考えさせられることになる。
5 ラス・カサス
スペイン植民地帝国の歴史において、触れることを避けて通れない人物のひとりがラス・カサスである。コロンの「インディアス事業」の開始当初から一貫して問題になったエンコミエンダ制の非人道性について,ラス・カサスの告発が光を投げ続けているのである。著書では、コラムのかたちで、ラス・カサスの行動の軌跡を追跡し,スペイン植民地形成の空間的広がりの一断面をみたが,大きな関心は、ラス・カサスが提案した植民地に関する具体的な改善策,また,新たな植民地計画にある。
1516年にラス・カサスは『一四の改善策』を上申している。その植民都市計画案は,同じ年に出されたトマス・モアの『ユートピア』と比較して,また,後の植民都市建設の歴史に照らして極めて興味深い注目すべき内容を含んでいるのである。
ラス・カサスの生涯の詳細については著書に譲るが, 1502年2月に,ニコラス・デ・オヴァンドの大船団に加わってイスパニョーラ島に渡って以降,生涯に計5回,インディアスへ赴いている。金の採掘が目的であり、エンコメンデーロとして奴隷も使用していた。そして、第2回目の渡航では、ディエゴ・ヴェラスケスのキューバ征服軍に加わっている。しかし、スペイン人のインディオに対する残虐な行為を目の当たりにし続けることで回心する。自ら所有するインディオを解放することを公表し,エンコミエンダ制への厳しい非難を開始するのである。国王フェルナンドの死去後,カルロスの摂政をしていたトレド大司教フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロスFrancisco Jiménez de Cisneros(1436~1517)と後のローマ教皇ハドリアヌスⅥ世アドリアン(1459~1523)に覚書を提出する。これが『一四の改善策Catorce remedios』(1516)である。
『一四の改善策』は,エンコミエンダ制の廃止,インディオの生命と自由の保障,聖職者の役割の重視を柱[22]にするが,フィジカル・プランニングの観点から興味深いのが「第2の改善策」である。
①スペインの町を中心にして,インディオの村々を周辺に建設する。村は,スペイン人の町,鉱山,あるいは農作業の場所から15~20レグア内に建設する。各村は5~6名のカシーケに率いられ,1,000人が居住し,村と村の距離は5~7レグアとする。
②中心のスペイン人の町にはインディオのための各翼50のベッドをもつ,真ん中にミサのための祭壇を置く十字形の病院を建設する。
③エンコメンドーロは,所有する農地・牧草地,家畜,農具などの半分をインディオの村に貸与する。
④島(キューバ)に行政官1名,1集落に聖職者10名,文法教授1名(スペイン人の町に居住),医師,外科医,薬剤師各1名,法律顧問インディオ保護者1名,財務人口調査監督官5名,鉱山技術者20名を置く。
⑤インディオには文明生活の方法,また,読み書きと文法を教える。
⑥インディオの労働義務期間は年6ヶ月とし,2ヶ月の労働の後,2ヶ月の休息期間をもうける。労働は輪番制で行い,一定数のインディオは村に留まって,農作業に従事する。鉱山労働の場合,インディオの数は2,000名とし,1,000名が2ヶ月毎に交替する。労働日には,計4時間の食事と休憩の時間を与える。インディオには充分に衣服を与え,25歳以下,また45歳以上のインディオは労働に従事させてはならない。各集落から該当する男性総数の3分の1以上を金の採掘に徴用してはならない。鉱山から15~20以上離れた村からインディオを徴発してはならない。
⑦鉱山労働や農作業においては,鉄製の道具を使用させる。インディオを荷役に使用するのは禁止する。
⑧スペイン人の町に,カスティージャ人農夫を40名妻子とともに派遣し,それぞれインディオ5家族を割り当てる(第3の改善策)。
基本的には,自給自足の村落による地域共同社会の構想である。コロンの「インディアス事業」が商館をベースとする交易事業をめざした段階とは次元が異なっており、スペイン植民地計画のひとつの原型がここにある。
図4 ラス・カサスの都市基本モデル 布野+ヒメネス・ベルデホ
ラス・カサスは,以上の計画を実施するための収支計画も立てている。インディオの割当も認めるなど現実的な配慮も見せている。基本的には,「ブルゴス法」の条文も踏まえられていた。しかし,現実は,この『一四の改善策』の構想を許さなかった。この植民計画は「集産主義的かつ人道主義ユートピア」[23]と呼ばれることになる。上述のように,ラス・カサスの『一四の改善策』が出された1516年は,奇しくも,トマス・モアがアメリゴ・ヴェスプッチの航海に参加した水夫から聞いた話として書いた『ユートピア』がルーバンで出版された年であった。
トマス・モアの『ユートピア』も今回再読したが、モアのほうが計画内容についてはより詳細である。ただ、『ユートピア』はあくまで理念であり,ラス・カサスの場合、あくまで改善策であり、実施が前提であった。
『一四の改善策』に基づいてヒエロニムス会士に与えられた覚書あるいは指図書(インストルクシオン)は,集落の規模を,より少なく300人前後としている。そして,「各集落の戸数は家族人数によって決まり,増えた場合にも居住できるように住居の大きさを考慮すること」としている。さらに,「各集落には立派な教会といくつかの街路とひとつの広場をつくって,型どおりの村とすること,カシーケの家は大きく立派につくり,広場の近くに建てること。また,病院を1つ設けること」とする。「集落の区域の規模に応じて,アドミニスタドールを任命し,インディオの居住区外の石造りの家に居住すること」「住民300人の各集落に対して,なるべくなら,10~12頭の雌馬,50頭の雌牛,500匹の雄豚,100匹の雌豚を割り当てる。各集落に食肉係カルニセーロを1人置く」(『インディアス史』五p93)
しかし,こうした細々とした指図は遵守されることはなく,どころか,ヒエロニムス会士たちは,インディオの解放を前提とするその計画の実施を不可能と判断したのであった。
ラス・カサスについては、「ティエラ・フィルメ植民計画」(1518)も注目すべきであるが、著書を参照して欲しい。
6 レドゥクシオン
スペイン植民地帝国の統治に当たって大きな役割を果たしたのがカトリック教会である。「征服」の時代に「新世界」に移住してきた聖職者たちはフランシスコ会,ドミニコ会Dominican[24],アウグスティノ会Augustini[25],イエズス会Societas Iesu[26]など様々な修道会に属する伝道師であった。この伝道師たちはインディオの改宗を第1の使命としたが,宗教的活動のみならず,全ての面で植民地拡張の役割を担った。都市建設や教会建設に大きな役割を果たしたのも聖職者たちである。ラス・カサスが入会(1514)したのはドミニコ会である。
中には、トマス・モアの『ユートピア』の実現を本気で目指した修道士たちがいる。有名なのがメキシコのミチョアカンMichoacán教区の司教でオイドールでもあった(在位1531~35)ヴァスコ・デ・キロガ Vasco de Quiroga(1470-78?~1565)である。ヴァスコ・デ・キロガは,ガリシア出自の貴族の生まれで,法律そして神学を学び,法律家として南スペインそしてアルジェリアのオランで働いた(1520~1526)後,しばらく宮廷で仕事をしており,インディアス会議のメンバーとの密接な関係があったことから,1531年に再建されたアウディエンシアのオイド-ルに指名されたと考えられている。オイドールとしてヴァスコ・デ・キロガがまず行ったのは病院の建設である。自前でタクバ近くのサンタ・フェ・デ・メキシコ とパツクアロ近くのサンタ・フェ・デ・ラ・ラグナ の2箇所に病院を建てている。ヴァスコ・デ・キロガは,インディオの奴隷化に強く反発し,エンコメンドーロを激しく批判する書簡をカルロスV世宛てに送っている。ミチョアカン教区の司教に任命されると(1536),タラスカンTarascan地方の中心パツクアロPatzcuaro湖付近に拠点を移す。そして,カテドラルと神学校を建設して,インディオを集住させる インディオの共同体建設を目指した。カルロスⅤ世宛ての書簡に『ユートピア』のスペイン語訳が付されていたとされるが見つかっていない。彼は,インディオの共同体をレプブリカ・デ・インディオスRepublicas de Indios(インディオ共和体)と呼んだ。
図5 レドゥクシオンにつくられた集落
メキシコにおいては、当初、既存の都市集落組織(カベセラ-スヘート)を拠点として入植が行われるが,やがてインディオを強制的に集住化させる政策が採られるようになる。レドゥクシオンReductions[27]あるいはコングレガシオンCongregaciones[28]と呼ばれる。インディオ集落は,防御を考えて山間に立地するものが多く,改宗,徴税など行政管理がしにくかったからである。レドゥクシオンの建設は,ペルー副王領でも同様に展開される。レドゥクシオンの建設を担ったのが布教に当たった宣教師たちであり教団である。フランシスコ会,そしてイエズス会のレドゥクシオンは主としてペルー副王領で建設され,とりわけイエズス会のパラグアイのレドゥクシオンは成功を収めた例とされている。
レドゥクシオンは極めてうまく編成され,自給自足が可能であった。余剰物の交易によって利益を得るレドゥクシオンも少なくなかった。人口は2000~7000人,小規模な場合,2人のイエズス会士がひとつのレドゥクシオンを指揮し,インディオの労働から得られる利益を監理した。レドゥクシオンによっては,居住者のインディオのア-ティストによる図入りの印刷物を出版する例もあった。
レドゥクシオンは,基本的に標準プランに従って建設された。その図面も残されている(図4)。プラサ・マヨールには四隅に十字架が立てられ,聖者の像を載せた柱が建てられた。また,プラサ・マヨールに隣接して教会と教会広場,学校が設けられ,他の三辺に面して住居が並ぶ構成である。インディオたちが居住したのは,集合住宅であり,一棟に100世帯程度が住むのが一般的であった。寡婦向けの住居,病院,倉庫なども居住地に設けられた。
イエズス会のレドゥクシオンは150年あまりにわたって自立的コミュニティを維持し続けたが,自壊を始め,スペイン人社会に吸収されていくことになる。多くのレドゥクシオンは廃墟となっった。ボリビアのチキトス Chiquitosの6つの伝道所遺跡(1990)(サン・フランシスコ・ハビエル(サン・ハビエルSan Xavier),コンセプシオンConcepción
(Santa Cruz),サンタ・アナNuestra
Señora de Santa Ana,サン・ミゲル,サン・ラファエル,サン・ホセ,パラグアイのサンティシマ・トリニダード・デル・パラナSantisima Trinidad del
Paranaとヘスス・デル・タヴァランゲJesusu del Tavarengue,グアラニGuaraníのイエズス会伝道所群(ブラジルのサン・ミゲル・ダス・ミソンイスSão
Miguel das Missõesの遺跡群Ruins of
Sao Miguel das Missoes (1983 / 1984),アルゼンチンのサン・イグナシオ・ミニSan Ignacio
Mini ,ヌエストラ・セニョ-ラ・デ・サンタ・アナNuestra
Señora Santa Ana
,ヌエストラ・セニョ-ラ・デ・ロレ-トNuestra
Señora de Loreto,サンタ・マリア・ラ・マヨールSanta
María la Mayor),パラグアイのラ・サンティシマ・トリニダード・デ・パラナとヘス-ス・デ・タバランゲのイエズス会伝道所群
(1993),アルゼンチンのコルドバのイエズス会伝道所とエスタンシア群 (2000)が世界文化遺産に登録されている。
7 アントネッリ
植民都市の建設を担ったのはもちろん修道士たちばかりではない。最初のスペイン植民都市,サント・ドミンゴの建設に関わった建築家,軍事技術者として,オメナヘ塔(1507)を設計したイタリア人建築家フアン・ラベ,1543年に市壁を建設したスロドリゴ・リエンド,そして,1589年にサント・ドミンゴを訪れ,わずか20日間の滞在中に市壁再建計画を立てたバウティスタ・アントネッリの3人が知られる。
このバウティスタ・アントネッリ,様々な場所に名前がでてくる。サント・ドミンゴの他,ハバナ,プエルト・リコ,パナマ,ポルトベロ,ノンブレ・デ・リオスサン・フアン・デ・ウルアSan Juan de Ulua,プエルト・デ・カバジョス,カルタヘナ,サンタ・マリア,フロリダなどでも仕事をしているのである。
ややこしいことに,息子フアン・バウティスタ・アントネッリ,従弟
クリストバル・デ・ロダ・アントネッリ(1560~1631)という建築家の存在もある。実際,複数のアントネッリをめぐって歴史家の間でこれまで混乱が見られた。バウティスタ・アントネッリ(1547~1616)は5人兄弟で,20歳年上の兄はフアン・バウティスタ・アントネッリ(1527~1588)という。そして,息子もフアン・バウティスタ・アントネッリ(1585~1649)というのである。そして妹カテリーナの2人の息子,クリストバル(1550~1608)とフランシス(1557~1593)のロス・グラヴェリ・アントネッリLos Garavelli Antonelliも建築家である。
アントネッリ・ファミリーは,代々ハプスブルグ家に仕えた著名なイタリア人軍事技師の家系とされるが,スペイン植民都市の城塞建築に携わったのがイタリア人建築家,軍事技師のファミリーであったことは,記憶されていい。『近代世界システムと植民都市』(布野修司編(2005))においては,オランダ植民都市計画を担ったエンジンニア,建築家について,オランダにおける都市計画理論とともに,その養成機関等に触れたが,オランダの場合も,当初は北イタリアの技術を導入し,低地における都市計画技術を確立することになるのである。
アドリア海に近いガテオGatteoという村で育った兄弟がなぜスペインを訪れることになったのかは必ずしも定かではないが,長兄のフアンは,それ以前にイタリアでの要塞建設が知られており,その技術を買われての移住であったと思われる。フアンがスペインに来たのは1559年,32歳の時で,フェリペⅡ世に仕えることになるが,最初の20年(1560~1580)は,専らヴァレンシアの沿岸部および北アフリカ沿岸部において要塞建設に従事している。そして,1580年代には,トレドとリスボンを結ぶ河川整備に当たった。すなわち,フアン・バウティスタ・アントネッリは,「新大陸」には行っていない。混乱の第一は,孫が同じ名前であったことによる。
「新大陸」で最も活躍することになるバウティスタ・アントネッリ(1547~1616)は,兄のフアンに呼ばれて,1568頃スペインに来るのであるが,イタリアでの仕事は知られない。年齢を考えるとそう大きな実績はなかったであろう。すぐさまヴァレンシア副王サッビオネータ侯ヴェスパシアーノ・ゴンサガVespasiano Gonzaga(1531~91)のもとで働く機会を得て(1570~78),むしろ彼から訓練を受けたと考えられる。イタリア人貴族ヴェスパシアーノ・ゴンサガは,外交官であり文筆家であり,軍事技術者として,また芸術の庇護者として知られる。
バウティスタ・アントネッリがフェリペⅡ世に呼び出され,マガリャンイス(マゼラン)海峡の両端に2つの要塞の建設を命じられるのは,34歳の時である。以降,バウティスタ・アントネッリは4回大西洋を渡ることになる。
第1航海はしかし大失敗であった。1581年にカディスを発ち翌年リオ・デ・ジャネイロに着くのであるが,船が難破,多くの技術者,建設労働者,工具類等を失い,全く任務を果たせず帰国するのである(1583)。1585年に息子のフアンが生まれているが,第2航海まで何をしていたのかわかっていない。
1586年,フェリペⅡ世は再びバウティスタ・アントネッリに対して,「新世界」を探索し,「しかるべき場所に要塞を建設するためのプロジェクトを立案すべし」という勅令(Doc.No.15)を発する(2月15日)。具体的に立案が求められた都市は,カルタヘナ,パナマ,チャグレ(ノンブレ・デ・ディオス),ポルトベロ,ハバナ,サント・ドミンゴ,プエルト・リコ,フロリダである。ただ,第2航海で全てを訪れられたわけではない。バウティスタ・アントネッリは,キューバ総督に任命されたフアン・デ・テハダJuan de Tejadaと供に出立し,フランシス・ドレイクに襲われたばかりのカルタヘナ・デ・インディアスにまず到達する。防御施設の欠如がもたらした被害の大きさを確認したことは, バウティスタ・アントネッリのその後の計画提案を大きく規定することになる。
図6 モロ要塞 ハバナ
バウティスタ・アントネッリは,防御のためには自然の地形が重要であることを認識し,この時既に,パナマ地峡を調査して,大西洋岸のチャグレをポルトベロに移すことを提案している。続いて,ハバナを訪れ(1587),7ヶ月にわたって,要塞建設について検討するが,突然サント・ドミンゴ,プエルト・リコ,フロリダの調査を中断して帰国している(1588)。兄のフアンが死去した年であるが,それは偶然であり,キューバ総督テハダが同行していることから,緊急性が高かったからだと考えられる。すなわち,パナマ地峡,ハバナ防衛が極めて重要であることを宮廷に訴える必要があったのである。バウティスタ・アントネッリは,実際,カルタヘナ,ポルトベロ,チャグレ,ハバナについての多くの計画図,青図(実施図面),提案書を直接の監督官であったスパノッチ・ティブルシオSpannocchi Tiburcioに提出している。1588年は,スペイン無敵艦隊が英海軍に破れ,制海権を失った年である。
提案を受けて,プエルト・リコ,サント・ドミンゴ,フロリダ,ハバナ,カルタヘナ,サンタ・マルタ,チャグレ,ポルトベロ,パナマに要塞建設を行うことを命ずるフェリペⅡ世の勅令がバウティスタ・アントネッリに出される(1588.11)。第3航海は,10年の長き滞在(1589~99)となる。
まず, バウティスタ・アントネッリとフアン・テハダは,サン・フアン・デ・プエルト・リコに寄港し,その要塞化を指示,サン・フェリペ・デル・モロ城建設の提案をしている。その指示,提案は,ペデロ・デ・サラザールによって実施されることになる(1591)。
続いて, バウティスタ・アントネッリは,サント・ドミンゴを訪れる。20日間滞在して,市壁の計画案を提示したことは第Ⅲ章2で触れたが,この時既に,サント・ドミンゴは,スペイン植民地における相対的地位を低下させていた。1586年には,フランシス・ドレイクに襲われ,荒廃もしていた。
そしてハバナに到着したのは1589年の5月であった。様々な指示を出したと思われるが,この時の滞在はわずか7ヶ月であり,1590年1月には,サン・フアン・デ・ウルア(ヴェラクルス)に向かう。第2航海のパナマ地峡の調査も含めて,スペインにとって,ガレオン船貿易の維持が最大の関心事であったことを示している。
バウティスタ・アントネッリは,1590年9月にハバナに戻り,4年間ハバナに滞在する。助手としての人材が欲しかったのであろう。従弟のクリストバル・デ・ロダ・アントネッリを呼び寄せている(1591)。ハバナで集中したのはモロ要塞の建設である。結局は,モロ城塞がバウティスタ・アントッネリの代表作ということになる(図5)。
興味深いことに,バウティスタ・アントネッリの要塞デザインは,グリッド・パターンを基調とするスペイン植民都市計画とは異なり,不整形である。ハバナについて言えば,フランシスコ・カロナの計画案のような幾何学的な空間構成を優先的な理念としてはいない。ルネサンスの築城術を学び身につけていたことは確かであるが,場所の地形を重視し,ア・プリオリに左右対称といった形態を当てはめることなく場所毎の解答を求めている。
1599年にマドリードに帰ったバウティスタ・アントッネリは,すぐさま,ジブラルタルあるいはモロッコを訪れている(1600)。大西洋を股にかけての活躍である。そして,1603年,第4の最後の航海を行う。この時は19歳になったフアン・バウティスタ・アントッネリ(1585~1648)が一緒であった。ミッションは,ヴェネズエラ東海岸アラヤの製塩場の防衛である。オランダがしばしば襲う状況にあった。バウティスタ・アントッネリは,アラヤを視察した後,ハバナに寄って息子をクリストバル・デ・ロダ・アントネッリに委ね,1604年にマドリードに戻った。以降,「新大陸」に渡ることはない。死んだのは1616年である。
以上、『グリッド都市―スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生―』に関わる日本では余り知られない事実を中心とする余禄のようなメモとなった。
[1] 1700年5月19日-1770年9月10日。カスティージャ・ラ・ヴィエハCastilla
la Vieja地方サンタンデ-ルSantanderのソト・ラ・マリナSoto la Marina村で生まれる。15歳の時,ユカタンの総督なるホセ・デ・ヴェルティス・イ・ホンタノンJose de Vertiz y Hontanonの船隊と共にヌエヴァ・エスパーニャに渡り,70歳でメキシコ・シティで死ぬまで軍人政治家として活躍,ヌエヴァ・サンタンデ-ルに25の都市を建設している。その生涯はL.D.プラットが明らかにしている。Lyman D. Platt, ”The Escandon Settlement of Nueva Espana”, 316W.500N., St. Georgo, UT84770。
[2] Jimenez Verdejo, Juan Ramon(2005)“The Spanish-American City Study of the urban model used by Joséde Escandón to create the Colony of Nuevo Santander”, Ph. D Dissertation, 2005
[3] J.R.ヒメネス・ベルデホ,布野修司,齋木崇人(2007a)「ホセ・デ・エスカンドンの都市計画モデルに関する考察 Considerations on Urban Model by José de Escandón」日本建築学会計画系論文集,第617号pp95-101, 2007年7月
J.R.ヒメネス・ベルデホ,布野修司,齋木崇人(2007b)「ホセ・デ・エスカンドンによる計画都市の変容に関する考察」日本建築学会計画系論文集,第620号pp119-125,
2007年10月,Considerations on
Transformation of Urban Model by José de Escandón, J. Archit. Plann. AIJ, No.620, pp119-125
[4] ヴァラvaraは,ピエpieとともに,身近なスケ-ルについて用いられる。ピエは「足」を意味し,英米のフット,中国・日本の尺と同じである。ヴァラは「木組,足場」に由来し,「細長い棒」を意味する。ヴァラは3尺,半間と思えばいいが,半間よりやや短い。1ヴァラは3ピアで,現在は1ピエ=2.86cm,1ヴァラ=83.59cmとされているが, 国,地域によって異なる。
[5] ベッカ-版『アリストテレス全集』Aristotelis Opera, ex recensione Immanuelis Bekkeri, edidit Academia
Regia Borussica, Berolini, 1831-70の頁,欄,行。
[6] ミレトス学派と呼ばれるタレスThales
(c. 624 BC–c. 546 BC),アナクシマンドロスAnaximander (c.
610 BC–c. 546 BC),アナクシメネスAnaximenes
(c. 585 BC–c. 525 BC)という,「世界が何でできているか」を問うた3人の自然哲学者を生んだことで知られる。
[7] アリストテレス (2009)『政治学』田中未知太郎・北嶋美雪・尼ケ崎徳一・松居正俊・津村寛二訳,中央公論新社。
[8] ミレトスに関する主要な文献として,Th.Wiegand( 1906), “Milet Ergebnisse der Ausgrabungen und
Untersuchunge seit Jahre 1899”18vols; A.G. Dunham(1915), “The History of Miletus down to the Anabasis of Alexander”などがある。
[9] ポ-ル・ランプル(1983)『古代オリエント都市-都市と計画の原型-』北原理雄訳,井上書院。Lample, P.(1968)”Cities and Planning in the Near East”George Braziller, New York.
[10] エクシメニスはゲロナGerona生まれのフランシスコ会士で,著作家として知られる。先祖はユダヤ人だったという説があるが定かではない。ヘブライ語を解し,ヴァレンシアではユダヤ人街でヘブライ語の文書の調査をしたことが知られている。バルセロナの教会に入り,ケルン,パリ,オックスフォードの大学で神学を修めた(1365~1370)後,スペインに戻ってまずバルセロナ,後にヴァレンシアに住んだ。ヴァレンシア時代には,市政に積極的に参加し,教育や裁判に関わったことが知られる。修道院も建設している。1408年にはエルナElna(ルーシジョンRoussillon,
France, 当時はアラゴン王国)の司教に任命されている。死んだのはペルピグナンPerpignanで,1409年もしくは1412年とされる。エクシメネスに関する文献については,Viera, David J., Bibliografia anotada de
la vida i obra de Francesc Eiximenis (1340-1409?), Barcelona, Fundació Salvador Vives
Casajoana, 1980, 131 pp. ISBN 84-232-0159-7 。Viera, David J. & Jordi Piqué, La dona en Francesc
Eiximenis, Barcelona, Curial, 1987, 184 pp. ISBN 84-7256-303-0
。Studia
bibliogaphica, Girona, Universitat de Girona-Diputació de Girona, 1991, viii+327 pp . (Estudis sobre Francesc Eiximenis,
1). Hauf, Albert, D'Eiximenis
a Sor Isabel de Villena : aportació a l'estudi de la nostra cultura medieval, València-Barcelona, Institut de Filologia
Valenciana-PAM, 1990. ISBN 84-7826-153-2
。Brines, Lluís, La Filosofia Social i Política de Francesc Eiximenis, Sevilla, Novaedició, 2004, 653 pp. ISBN 84-609-0477-6
がある。
[11] Archivo de la Corona de Aragón .Spain.ES.08019.ACA/72.2//:ARCHIVO DE LA
CORONA DE ARAGÓN,MANUSCRITOS,SANT CUGAT,10:263pages.AER, Archivos Españoles en RED.Ed.Lambert
Palmart, Valencia. 1484. 復刻書にEiximenis, Francesc, Dotzè llibre del Crestià, vol. I,1, edited by Xavier Renedo,:Sadurní Martí and
alii, Girona, Universitat de Girona-Diputació de Girona, 2005, lxvii + 619 pp. (Obres de Francesc Eiximenis, 1) ISBN 84-505-4332-0 / Eiximenis, Francesc, Dotzè llibre del Crestià, vol. II,1, ed. Curt Wittlin and alii, Girona,
Universitat de Girona-Diputació de Girona, 1986, xxxviii + 518 pp. (Obres de Francesc Eiximenis, 3) ISBN 84-505-4331-2 / Eiximenis, Francesc, Dotzè llibre del Crestià, vol. II,2, ed. Curt Wittlin and alii, Girona,
Universitat de Girona-Diputació de Girona, 1986, 649 pp. (Obres de Francesc Eiximenis, 4) ISBN 84-8458-237-X
がある。
[12] Vila Beltran de
Heredia, Soledad .El plan regular de Eximenis y las Ordenanzas Reales de 1573.
La ciudad iberamericana. Actas del Seminario Buenos Aires 1985. CEHOPU. Madrid.
1987.P.375.
[13] 1パソ=5ピエ,139.3cm。
[14] Salcedo, Jaime.
El modelo urbano aplicado en la America Espanola: su genesis y desarrollo
teorico practico. Estudios sobre urbanismo Iberoamericano. Siglos XVI al XVIII.
Junta de Andalucia.Setlement.1990.
[15] 嶋章博(2007)は“探索,新入植,平定に関する勅令Ordenanzas del Descubrimiento, Nueva Poblacion y Pacificacion de las Indias”とするが,Fracisco de Solano(1996)に従う。
[16] Diego-Fernandez
Sotelo, Rafael, “Mito y Realidad en las leyes de poblacion de Indias”, Icaza Dufour, F. et
al(eds.)(1987),”Recopilacion de Leyes de los Reynos de las Indias”, Mexico, 1987
[17] 最初の部分,第1章にはタイトルはつけられてはいない。
[18] Hardoy, Jorge E.(1983)“La forma de las ciudades
colonials en la America Espanola
Estudios sobre la ciudad iberoamericanas”, C.S.I.C., Madrid
[19] J.R.ヒメネス・ベルデホ,布野修司,齋木崇人,スペイン植民都市図に見る都市モデル類型に関する考察,Considerations on Typology of City Model
described in Spanish Colonial City Map,日本建築学会計画系論文集,第616号pp91-97, 2007年6月
[20] スペイン植民地関連資料を所蔵する機関として,Archivo de la Corona de Aragon, Archivo de la Real Chancilleria de
Valladolid, Archivo General de la Administracion, Archivo General de Simancas,
Archivo Historico Nacional, Archivo HistoricoProvincial de Alava, Archivo
HistoricoProvincial de Bizkaia, Archivo HistoricoProvincial de Guipuzkoa,
Centro Documental de la Memoria Historica, Seccion Nobleza del Archivo
Historico Nacionalなどがある。
[21] インディアス総合古文書館AGI資料(113都市)と陸軍博物館資料SGE/SHM(78都市)には同一都市も含まれており,重複を除いてこの2つを合わせると172都市となる。172都市のうち,インディアス総合古文書館AGIと陸軍博物館資料SGE/SHMに共通する都市は23都市,インディアス総合古文書館AGIのみが所蔵するのは93都市,陸軍博物館資料SGE/SHMのみ所蔵するのは55都市である。都市一般図(D),都市計画図(E)は,それぞれ92(/172)枚,80(/172)枚ある。
[22] インディオの強制労働の中止(1),そのインディオへの周知(4),インディオの移島の禁止(8),インディオの生命を脅かす勅令,法令の撤回(9),インディオの生産物から利益を得ることの禁止,インディオに苛斂誅求を働いたスペイン人を処罰する権限を聖職者に与える(5),これまでインディオに関わる業務に関与した人物の以後の関与禁止(7)など。
[23] 『一四の改善策』の中で,ラス・カサスは,インディオの強制労働に代わる黒人奴隷の導入を主張しており,黒人奴隷制の創始者と目され非難されてきたが,インディアス向けの黒人奴隷貿易は1501年の勅令で始められ,1513年の許可状制の導入によって,奴隷貿易は開始されている。
[24] 1700年5月19日-1770年9月10日。カスティージャ・ラ・ヴィエハCastilla
la Vieja地方サンタンデ-ルSantanderのソト・ラ・マリナSoto la Marina村で生まれる。15歳の時,ユカタンの総督なるホセ・デ・ヴェルティス・イ・ホンタノンJose de Vertiz y Hontanonの船隊と共にヌエヴァ・エスパーニャに渡り,70歳でメキシコ・シティで死ぬまで軍人政治家として活躍,ヌエヴァ・サンタンデ-ルに25の都市を建設している。その生涯はL.D.プラットが明らかにしている。Lyman D. Platt, ”The Escandon Settlement of Nueva Espana”, 316W.500N., St. Georgo, UT84770。
[25] 聖アウグスティヌスの作った会則に基づいて修道生活を送っていた修道士のグル-プが,13世紀半ばに合同して成立した修道会。ドミニコ会やフランシスコ会,カルメル会と並ぶ托鉢修道会として知られる。宗教改革の火蓋を切ったマルティン・ルタ-はアウグスティヌス会の会員である。
[26] 1534年8月15日,イグナチオ・デ・ロヨラ(1491~1556)とパリ大学の同窓生6名がパリ郊外のモンマルトルの丘のサン・ドニ聖堂に集まり,イエズス会を結成する。「モンマルトルの誓い」のメンバーは,他にピエール・ファーヴル(1506~1546),フランシスコ・ザビエル(1506~1552),ディエゴ・ライネス(1502~1565):第2代総長,アルフォンソ・サルメロン(1515~1585),ニコラス・ポバディリャ(1507~1562),シモン・ロドリゲス(1510~1579年)。
[27] スペイン語で「削減・制定」を意味する。メキシコでのブルゴス法(1512年)ではレドゥクシオン後インディオが再び離散するのを防ぐために,古い村puebloを差配することも定められていた。税・労働力の搾取とカトリック宣教のしやすさから,レドゥクシオンは押し進められた。山本徹, Reduccion,『ラテン・アメリカを知る事典』, 平凡社, p463, 1999
[28] 「集合・信徒団」を意味する。
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