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2021年3月20日土曜日

現代建築家批評06  コンクリートの幾何学と自然   安藤忠雄の建築手法

 現代建築家批評06 『建築ジャーナル』20086月号

現代建築家批評06 メディアの中の建築家たち

コンクリートの幾何学と自然

安藤忠雄の建築手法

 

布野修司

 

結局、建築は言葉ではない。

「正直、私自身はいわゆるポストモダンムーブメントにはまったく興味はなかった。むしろ言葉ばかりが先行する風潮にある種の嫌悪感を抱いていた。しかし、ゲリラを名乗ったのは、モダニズムという建築主義に抗うためではなかった。私が挑みたかったのは、モダニズムの透明な論理で御しきれない矛盾に満ちた現実の都市であり、つくりたかったのは剥き出しの生命力に満ちた不条理の空間であった。今思えば建築というよりも彫刻をつくっているような感覚だった気がする。」[]と安藤忠雄は振り返る。

安藤忠雄の作品は、大きく見れば、驚くほどワンパターンである。住宅でも公共建築でも、打ち放しコンクリートの壁、あるいは箱によってつくられる。この建築手法は、日本のどこであれ、海外であれ、同じように用いられる。この愚直なまでの単純性、そしてその一貫性は、驚くべきことである。しかも、安藤は、建築の「地域性」、「場所性」を口にする。

近代建築を一言で言えば、「鉄とガラスとコンクリートの四角い箱形の建築」である。これは、まさに「安藤建築」そのものではないか。安藤が著名になり始めるにつれて、各地に打ち放しコンクリートの「安藤もどき」の作品が建つことになった。打ち放しコンクリートを綺麗に打つことができるのであれば、安藤の作風を真似することはそう難しくないように思える。実際、「安藤作品」のヴァナキュラー化が起こってもおかしくないし、既に起こっているようにも見える。近代建築批判の課題を自らに課すとすれば、「安藤建築」を批判すること、既に、そのことこそが若い世代に求められている。

 

打ち放しコンクリートの壁と箱

安藤忠雄に「加子母村ふれあいコミュニティセンター」(岐阜県中津川市)という作品がある。1991年に「木匠塾」という藤沢好一、安藤正雄の両先生と始めて、毎夏学生たちと岐阜の山中に通う。加子母村に拠点を構えて既に15年になる。長年通っているのだから、学生たちと一緒につくったら面白い、と熱心に訴えたけれど、村の人たちは「世界の安藤」を設計者に選んだ。「東濃ひのき」で知られ、伊勢神宮のための神宮備林を持つ林産の村だからコンクリートというわけにはいかない。安藤忠雄には数少ない木造建築である。

「唐座」(1988年)や「セビリア万博日本館」(1992年)、さらに「兵庫県木の殿堂」(1994年)「南岳山光明寺本堂」(2000年)「野間自由幼稚園」(2003年)など、他にも木造建築はあるけれど、安藤には「木」そのもの、また「木造架構」そのものに興味はない。用いるのは集成材であり、均質な構造材料としての「木質材料」である。安藤のコンクリートへの拘りは徹底していると言っていい。

ただ、安藤は「コンクリートにこだわっているのではない、20世紀の建築というものにこだわっているのだ」という。

コンクリートそのものは、建築材料として古代ローマから用いられてきた。広くはセメント類、石灰、石膏などの無機物質やアスファルト、プラスチックなどの有機物質を結合材として、砂、砂利、砕石など骨材を練り混ぜた混合物およびこれが硬化したものをいう。しかし、鉄筋コンクリート(RC)造の発見あるいは発明[]は、建築デザインの世界を根底的に変化させ、今日の建築界を決定づけるものであった。そして、その出現は、まさに近代建築の成立に関わっている[]

この新たな素材と構造は、「近代建築」の未来を約束するものと確信された。戦前期に遡る話は省かざるを得ないが、日本の近代建築が華開く戦後、鉄筋コンクリート造と打ち放しコンクリートの仕上げは、その象徴であり、多くの建築家が拘った。英国では「ニューブルータリズム」と呼ばれたが、型枠の木目が残るコンクリート建築は1950年代から1960年代の建築を特徴づける。

しかし、その施工、仕上げ、そして維持管理には技術的な問題があった。その問題を真正面から受け止め、「打ち込みタイル」を生み出したのが日本の近代建築をリードしてきた前川國男である。そして、剥き出しのコンクリートの肌は、タイルその他で覆われるようになる。そして、実際にも、アルカリ骨材反応など鉄筋コンクリートの限界が明らかになった。海砂を用いた鉄筋コンクリートはもろい。鉄筋コンクリート建築は決して永遠ではないのである。

近代建築批判が顕在化するのと建築の表層が再び多彩に覆われ出すのは平行している。その先駆けは「スーパーグラフィック」と称するペンキで表層を塗り立てる建築であった。

そうした中で、安藤はあくまでコンクリートに拘った。そこにユニークさがある。「安藤建築」を成立させる絶対の根本にその打ち放しコンクリートの仕上げの美しさがある。このコンクリートの仕上げの精度について、水セメント比、スランプ値、鉄筋と仮枠との間隔、鉄筋間の間隔などをめぐって悪戦苦闘の末の経験値をもっていることが大きな武器である。ここで安藤が先駆とするのは、「グランドツアーにおいて最大の衝撃であった」というル・コルビュジェの「ロンシャン礼拝堂」ではなく、ルイス・カーンの「ソーク生物学研究所」であり「キンベル美術館」である[]

安藤は、しかし、「ぼく自身はコンクリートをどっしりと重く見せたいという意識はほとんどありません」[]という。また、どうしても「汚く汚れてしまう」外壁の維持管理、補修、清掃に拘る。

安藤忠雄は、素材感を徹底的に斥ける。彼が関心をもつのは、コンクリートの肌合いではなく、滑らかな面である。この点、自然素材に徹底して拘る藤森照信と対極的である。『連戦連敗』のなかで、

安藤忠雄が「厚さをもった等質な材料」であるコンクリートを捨てることは最早ないかもしれない。

しかし、一方で僕らには鉄筋コンクリートに対する確たる信頼感は最早ない。

 

正方形と円

安藤の建築的嗜好(テイスト)は上述のようにはっきりしている。いわゆるモダニズムの建築の建築に対する偏愛は変わることがない。ガウディやオルブリッヒのストックレー邸、オルタの作品などアール・ヌーヴォーやR.シュタイナーなど表現主義の作品にも触れるが、自らがそうした方向へ踏み出すことはない。装飾あるいは歴史的様式には興味がない。従って、歴史主義的ポストモダニズム(ポストモダン・ヒストリシズム)に与することはない。また、以上のように素材そのものの表現に関心を払わないことははっきりしている。

しかし、鉄筋コンクリートの発明(発見)の当初、期待されたのはその可塑性である。鉄筋コンクリート造は鋳型にコンクリートを打ち込む形をとる。建築の骨組みは継目のない一体構造である。鋳型さえ出来れば、自由自在に形をつくることができる。しかし、どのような形をつくるのか、それが問題であった。

しかし、安藤は鉄筋コンクリートの可塑性をもとにした造形には興味がない。そして、概念建築(コンセプチャリズム)とは一線を画す。「関西の三奇人」の二人、渡辺豊和と毛綱毅曠が根源的な形の力を求めるのに対して、安藤は「形の力」に頼るところがない。

安藤が依拠するのは単純な幾何学である。曲線を用いるにしても、円もしくは円弧、せいぜい楕円といった初等幾何学的な図形を用いるだけである。中之島プロジェクトで用いられる楕円体が眼を引くが、一般的にもプラトン立体が用いられることはほとんどない。

安藤は、画家アルバースの「正方形礼賛」と名付けられたシリーズに触れながら、「私は、建築における形態として、単純な円や正方形を選ぶ」[]とはっきりいう。

何故、こうした正方形と円による単純な構成がかくもポピュラリティを獲得するのか。不思議である。人々の欲望は基本的にキッチュ[]である。

安藤は、「囲われた面を全て等質な材料で仕上げてしまうことによって、空間の持っている意味をそれ以上に問うことのできないところまで追い込んでみたらどうなるかということを考えてみた」のだという。また、「単純性の中に複雑な空間を生み出せないか」という。さらに、「コンクリートという現代を代表する材料と幾何学による構成、言い換えれば誰にも開かれた材料と構法をもって、誰にでもは決してできない建築空間を生み出したいと思っているのです。」[]という。これは作家の論理であり、美学である。

 

擬似的自然としての光、水、緑・・・

 素材感を消した極めて抽象的な線と面によって構成される空間を規定するのは、結局、その規模(スケール)であり、容量(ヴォリューム)である。規模について、F.O.ゲーリーが次のように語っている。

「安藤が姫路につくった「こどもの館」は驚き以外の何物でもありませんでした。私はどうして子供のためのミュージアムが他の彼の作品と同じでなければならないのか理解できませんでした。そこには彼の一貫した建築言語が使われ、非常に頑な感じがしました。実際、私は自分の子供を連れていきましたが、彼らは普通の子供の博物館に行けると思って期待して張り切っていたので、少しがっかりしたようです。」[]

安藤の大規模な公共建築については、同じような感じを抱かされる。スケール・アウトとは言わないまでも、「模型がそのまま建った」違和感がある。

安藤の真骨頂は、やはり、住宅スケールのインティメイトな空間である。そこで、唯一テーマとなるのが開口部である。開口部を除いて、基本的にコンクリートの打ち放しの壁なのであるから、開口部は決定的に意味を持つのである。開口部によって制御されるのは、光であり、風であり、・・・要するに自然である。古山正雄に、安藤忠雄を素材にした自らの建築論ともいうべき『壁の探求』(鹿島出版会、1994年)[10]なる安藤論があるが、書かれるべきは『穴(開口部)の探求』である。安藤忠雄論はそう多くはないが、最も本格的なものは、ヤーン・ヌソムの『安藤忠雄と環境(ミリュー)の問題』[11]である。彼はそこで「自然、敷地、伝統」を執拗に問うている。オーギュスタン・ベルクの弟子でもあるヤーンは京都大学の建築論研究室で安藤忠雄論と格闘したが結局日本流の学位(工学)を拒否され、フランスに帰国して安藤論を書いた。再来日して、しばらく僕の研究室にいて、近代日本の環境に関わる建築論集[12]を編んでフランスで出版するというすばらしい仕事をしてくれた。

 「単純な直方体の抽象性ヴォリュームに自然を導入することによって、建築を肉体化するのだ」[13]と安藤はいう。あるいは、「抽象を具象化する」という。

 極めて抽象化された幾何学的な空間構成であれ、具体的な場所に置こうとする場合、その場所を取り巻く「自然」との関係が決定的である。その関係を制御するために幾何学的な形態操作によって、「建築」を成立(肉体化、具象化)させる、一言で言えば、これが安藤の建築手法である。

 第一の鍵は「光」である。「視覚」ではなくて「光」である。単純に「明るさ」ではなくて「光」である。ここにいつどんな「光」差し込むか、それが空間構成の第一原理である。

 「光の教会」(1989年)、「光の教会・日曜学校」(1999年)、そして「地中美術館」(2004年)がそれを鮮明に示している。

世界中の「建築作品」を見尽くしたという写真家二川幸夫は、「巨匠と言われている建築家は、皆、「光」の使い方が上手」という。そして、「ぼくなりの建築家リストで、日本の中では、安藤さんが一番悪賢く「光」を利用している」という[14]

 安藤が建築行脚の旅において最も学んだのは「光」のあり方なのである。近代建築の傑作のみならず、古典的建築を体感してきたことが作品に滲み出ているといっていい。

 そして、次に「水」である。

 「水の教会」(1988年)が代表的であるが、「TIME’S」(1984)に遡って、安藤作品に「水」は頻繁に登場する。高瀬川という京都の都心を流れる川の川面へぎりぎりまでの接近を試みた「TIME’S」は衝撃的であった。しかし、安藤の「水」は必ずしも「流れる水」ではない。「水の教会」にしても、「兵庫県立子どもの館」(1989年)にしても、敷地内の自然の流れを利用するのであるが、多くは「張った水」である。安藤は、ここでも平面、「水面」に拘っているように見える。安藤の水は、「人工の水」であり、「操作された水」である。「ビオトープ」などという発想はない。

 安藤にとって「自然」とは何か。

 都市に緑を!と、安藤は言う。しかし、安藤が敷地に残すのはしばしば1本の樹木にすぎずせいぜい庭である。「六甲の集合住宅」の屋上を覆う緑は奇麗に刈り揃えられた「緑の面」である。

阪神淡路大震災後に花や樹を植える運動を展開したことはよく知られる。それ自体賞賛すべきことかもしれない。しかし、ますます人工環境化する都市に対して何が本質的なのかは別問題である。

 

プロトタイプ

「住吉の長屋」に結晶する小住宅における格闘の当初から、安藤は都市について語り続けている。講演などで決まって見せるのが「大阪駅前プロジェクトⅠ 地上30mの楽園」(1969年)である。シングルラインによる断面図にところどころ林立する樹木が描かれている一枚のスケッチである。事務所設立当初のスケッチであり、安藤のもうひとつの原点である。「都市ゲリラ住居」の初心である。大阪に拘り続け、冨島邸を改築して大淀のアトリエとして使い続ける安藤忠雄には一貫する志と執念があるようにみえる。

安藤忠雄について最終的に問うべきは、「住吉の長屋」とこの一枚のスケッチの間である。

「淡路花博」の会場構成(「淡路夢舞台))がファテープルシークリーを下敷きにしたものであることは上に触れたとおりである。幾何学を駆使したアクバルのこの都市構成はいかにも安藤好みである。そして、博覧会といえば、都市のイメージである。安藤は、おそらく、一枚のスケッチを実現する機会をもったのである。野外劇場、「奇跡の星の植物園」と題された温室、百段園と称した花壇、主立った建物は全て彼の手になる。安藤忠雄ワールドである。しかも、「淡路花博」は「自然」の再生をテーマとしていた。京阪神臨海部の埋め立てのために大量の土砂が採掘されて無惨な姿になった。その禿げ山に自然を蘇らせるのが花博の真のテーマだ[15]

その時次のように書いた。

「自然の再生をうたう会場に溢れる擬石や擬木、造花にいささか辟易しながら、夢舞台ゾーンに向かうと、・・・緑の山が再生されようとしていた。まずは壮大な実験に敬意を表する。日本中の禿げ山、コンクリートで固めた醜悪な崖面も即刻緑に復元すべきだ。安藤は一貫して自然との共生をうたう。しかし、彼は積極的に緑を取り込むことはしない。むしろ、自然をどう見せるか、自然と人工物である建築とをどう際だたせるかに意が用いられる。コンクリートとガラスと水の絶妙の配列が全体を形作る。圧巻は水面の下に敷かれた煌めく百万枚ものホタテ貝だ。本質的に、自然を傷つけることによって建築は成り立つ。傷つけて癒す、矛盾に充ちた行為だ。だから安易に建築に自然を取り入れればいいというわけではない。安藤は建築の本質を直感的に知っているのである」[16]

最後は、もちろん、皮肉であり、疑問である

結局、安藤建築の評価は、「住吉の長屋」が、あるいは「六甲の集合住宅」が、日本の都市住宅のプロトタイプになりうるかどうかに帰着するのだと思う。

安藤は、「小篠邸」において、明らかに転換の契機をつかんでいる。それまでの仕事は「猥雑な都市環境の中にある極小の敷地でいかに<豊かな>住空間を切り取れるかだった」のであるが、「小篠邸」は、「広大な敷地で、規模設定もプログラムも縛りのない」「住吉の長屋とはまったく正反対の視点で、自身の目指す建築の原型を追求できる好機」となったのである[17]

都市の「地」か「図」か。安藤忠雄が「抵抗の砦」を出て、「図」へ向かってしまったのだとすれば、新たな若いゲリラが「地」と格闘を開始している筈である。

 




[] 『安藤忠雄の建築1 住宅』、TOTO出版、2007年・p73

[] この鉄筋コンクリートは、引張りに強い鉄と圧縮に強いコンクリートを組み合わせる実に都合のいい合成材料であるが、いくつかの「偶然」がその「発明」の条件としてあった。鉄とコンクリートとの付着力が十分強いこと、コンクリートはアルカリ性であり、鉄はコンクリートで完全に包まれている限りさびる心配がないこと、そして鉄筋とコンクリートの熱膨張率が非常に近いことである。鉄筋コンクリート造建築は、耐久性があり、耐震耐火性のある理想的な構造方法と考えられたのである。拙稿、「100年前の建築デザイン/国家を如何に装飾するか」、特集 100年前のデザイン、『季刊デザイン』no.8、太田出版、2004年7月参照。

[] セメントとは、元来は物と物とを結合あるいは接着させる性質のある物質を意味するが、その利用そのものは古く、最も古いセメントはピラミッドの目地に使われた焼石膏CaSO4H2O と砂とを混ぜたモルタルである。しかし、鉄筋コンクリートは、せいぜい百五十年前に「発見」され、百年前から使われ始めたに過ぎないのである。

1850年頃に、フランスの J. L. ランボーが鉄筋コンクリートでボートをつくったのが最初で、その後1867年にJ. モニエが鉄筋コンクリートの部材(鉄筋を入れたコンクリート製植木鉢や鉄道枕木)を特許品として博覧会に出品したのが普及の始まりである。J. モニエは1880年に鉄筋コンクリート造耐震家屋を試作する。その後ドイツのG.A.ワイスらが86年に構造計算方法を発表し、実際に橋や工場などを設計し始め、建築全般に広く利用されるようになった。建築作品として、最初の傑作とされるのがA.ペレのパリ・フランクリン街のアパートで、建てられたのが百年前(1903年)のことである。

[] 型枠をとどめるセパレーターをそのまま化粧とし、パネルの継ぎ目をあえてVカットして出目地として表現する手法は構造家オーガスト・コマンダントとの協働によって生まれた。

[] 『家』、住まいの図書館出版局、1996年。Appendix 「生活空間とコンクリート」p12

[] 「抽象と具象の重ね合わせ」『新建築住宅特集』、1987年。P102

[] 「キッチュという言葉が新しい意味で使われ始めたのは、1860年頃のミュンヘンである。南ドイツで広く使われたこの言葉は、「かき集める、寄せ集める」といった意味を表すのだが、さらに狭い意味では、「古い家具を寄せ集めて新しい家具を作る」という意味に使われていた。そして、キッチュという言葉から派生したフェアキッチュン(Verkitchen)という語は、「ひそかに不良品や贋物をつかませる」、「だまして違った物を売りつける」といった意味に使われていた。それ故、キッチュという言葉には、もともと、「倫理的にみて不正なもの」、「ほんものではないもの」という意味合いが含まれていたのである。十九世紀後半のドイツにおいて、まがいもの、不良品、贋物、模造品、粗悪品、といった意味合いで使われていたキッチュという言葉は、次第に広範に使われ始め、より一般的な概念となっていくのであるが、そこでは、キッチュは必ずしも具体的なもの-ニセモノやコピー-を意味するわけではない。また、単に一つの様式-一定の様式にこだわらない寄せ集めの形式-をさすわけではない。キッチュとは、一つの態度、すなわち、人が物に対してとる関係のあり方の一パターンでもある。

[] 『連戦連敗』、p209

[] 『安藤忠雄建築展 新たな地平に向けてー人間と自然と建築ー』図録、1992

[10] 安藤論はそう多くはない。他に、松葉一清『アンドウ―安藤忠雄・建築家の発想と仕事』19969月、講談社、ISBN 4062075938/平松剛『光の教会―安藤忠雄の現場』200012月、建築資料研究社、ISBN 4874606962/フィリップ・ジョディディオ「安藤忠雄」(Shoko Yamashita訳)、20016月、タッシェン・ジャパン、ISBN 4887830394Philip Jodidio, Tadao Ando (Architecture & Design). 1997, 11, Taschen America Llc.など、

[11] Yann Nussaume, “Tadaô Ando et la question du milieu Réflexions sur l’architecture et le paysage”, Le Moniteur, 1999

[12] Yann Nussaume, “Anthologie critique de la theorie architecturale japonaise le regard du milieu”,  Ousia, 2004

[13] 「抽象と具象の重ね合わせ」『新建築住宅特集』、1987年。P102

[14] 『建築手法』、p118

[15] 石灰岩の採掘で荒廃した山を蘇らせたバンクーバーのブッチャート・ガーデンがモデルだ。ジオウエーブ工法というのだという。

[16] 淡路夢舞台 安藤忠雄      空のテラスから再生された斜面を望む 兵庫県淡路島  緑再生の巨大な実験 傷つけて癒す・・・建築の本質

[17] 『安藤忠雄の建築1 住宅』、p75

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