現代建築家批評12 『建築ジャーナル』2008年12月号
現代建築家批評12 メディアの中の建築家たち
「建築」の永久革命
伊東豊雄の建築手法
建築論というとやたら哲学用語を弄び、晦渋や韜晦を決め込むむきがあるが、建築にとって言語は極めて重要であり、多ジャンルにおける新たな概念が新たな空間、新たな建築を触発することは大いにある。伊東にとっても、言葉は重要である。ただ、文章は、具体的な作品に即してわかりやすい。自らの作品[i]についても、その都度真摯に考えたことが表明されていて、その建築手法を読み解く大きな手がかりを与えてくれている。「透層」といった造語も含めて、キーワードとされる言葉は、感覚的、詩的、文学的と言えるかもしれない。
伊東豊雄の目指す方向ははっきりしている。「閉じられた空間をどうやって物理的にも精神的にも開いていくか」[ii]が伊東の一貫するテーマである。また、「風の建築」「変様体」「流動体」「曖昧な境界」「形態の溶融」・・・といったキーワードも既に見てきたところである。
伊東豊雄は、実に器用な、繊細な建築家である。竣工したばかりの「中央林間の家」(1979年)を見に行って、全て面(ツラ)で収めるディテールへの拘りに感心したことを思い出す。伊東豊雄には、また、一貫して家具への拘りがあり、自らデザインもする[iii]。論集の中にも、大橋晃朗、倉俣史朗といった家具デザイナー、インテリア・デザイナーについての批評が多く収められている。そして、日の目は見なかったものの日産の手作り的な小型車「バイク・カー」のデザインを頼まれたりしている。
伊東豊雄はミリ単位のデザイン感覚を生まれながら持っている。コンセプチャリズム(概念建築)、フォルマリズム(形態主義)と呼ばれる建築が、図面や写真では「格好いい」ものの、しばしばディテールを欠いて訪れたものをがっかりさせるようなことは伊東の建築にはない。もっとも、「ディテールなんて関係ない」とひたすら新たな空間を追い求める渡辺豊和のような建築家もいるから、建築は面白い。
閉じつつ開く
多くの若い建築家がそうであるように、デビューは住宅であり、「ホテルD」(1974-77)「PMTビル」名古屋(1976-78)福岡(1979)などを挟むが、最初の公共建築「八代市立博物館」(1988-91)までは、伊東豊雄の主要な仕事は住宅であった。しかし、その住宅作品に必ずしも一貫するものはない。「アルミの家」(1970-71)→「中野本町の家」(1975-76)→「シルバーハット」(1982-84)と、その作品は揺れ動いている。
自らのスタイルを探し当てるまでは試行錯誤は多くの建築家にとって当然であるが、安藤忠雄がすぐさまその方向を見出して、以降一貫してコンクリートの幾何学を追求してきたことに比べると、いかにもフラフラしている。アルミという素材にこだわるのでもなく、石井和紘のように次から次へと新規な手法や形を繰り出すわけでもない。既に見たように、初期の伊東豊雄は実にナイーブに「文脈」を求め続けた。そして、変転する都市(東京)のリアリティが自らの依拠する文脈であることをはっきりと意識するに至る。
都市と住宅の関係をどう考えるかは、建築家にとって共通のテーマである。安藤も伊東も、住宅の設計に当たって当然真摯に考えた。伊東はURBOT-002のベッドカプセルを単体として独立させたURBOT-003を銀座の歩行者天国に点々と建ち並ぶモンタージュをつくっている。安藤忠雄も「都市ゲリラ住宅」を夢見ていた。全く同じ時期につくられたふたつの住宅「住吉の長屋」と「中野本町の家」は、最初の現実的な都市への解答であった。古今東西、都市的集住のための住居形式の基本はコートハウス(中庭式住宅)であるという意味では共通していたけれど、空間の質においては対比的であった。「中野本町の家」は、その内部空間の質において、これまでの日本の住宅にない全く新たな可能性を示していたと思う[iv]。問題は「中庭」であり、内部と外部の関係であった。坪庭に自然をそのまま取り込んだ「住吉の長屋」との違いは明らかである。これは、規模の違い、東京と大阪の違い、といった都市の文脈の問題を超えて、伊東のトラウマとなった。
伊東は、次のように書いている。
「それ程にこの空間は私自身にとっての砦であり、破壊すべき攻撃目標であった。この家は安藤忠雄の<住吉の長屋>とほぼ同時期につくられたのだが、彼がこのスターティング・ポイントとしての砦を防御し洗練し続けることに、この十年間粉骨を砕いてきたのを見るにつけ、建築家の生き方の違いをまざまざと感じる」[v]
当時、若い建築家を先導(扇動)していたのは、原広司の「最後の砦としての住宅設計」[vi]「住居に都市を埋蔵する」[vii]というアジテーションであり、方法意識である。60年代末以降から70年代初頭にかけての過程は、60年代初頭に一斉に都市づいていった建築家たちが次第に都市からの撤退を迫られていく過程であった。都市への幻想が打ち砕かれることによって、建築家は「建築」へ回帰し始める。そして、「最後の砦」と考えられたのが住宅という小宇宙であった。しかし、問題は、閉鎖的な小宇宙に閉じこもることでは明らかになかった。伊東豊雄は、はっきりそれを意識している。如何に「閉じつつ開く」[viii]か、こそが問題であった。
ドミノとチューブ
一方に、一斉に都市づいていった建築家たちを尻目に「住宅は芸術である」と言い切っていた篠原一男とそのスクールの存在があった。伊東が篠原とそのスクールに大きく惹かれていったことは上述の通りである。しかし、伊東は結局「住宅」を「開いていく」方向を選び取る。
振り返って見ると、「中野本町の家」を脱却して「シルバーハット」へ向かう伊東の方向性は明らかであるが、当時、「小金井の家」(1979)「中央林間の家」(1979)「笠間の家」(1980-81)と「中野本町の家」を超えていく試行錯誤が続いていると見えていた。そして、住宅を開いていく手がかりとして、最初に提示されるのが、ドミノ「Dom-ino」住宅(1981年)であった。
コルビュジェが提起した、床スラブを柱で支え、四周の壁を自由にする構法システム「ドミノ」は、石造、煉瓦造を基本としてきたヨーロッパにおいて、画期的な建築システムとして評価されてきたが、何故、伊東豊雄が日本において「ドミノ」なのか、必ずしもわからない。伊東豊雄によると、1980年代初頭、事務所では「毎週一回<住む>ことの意味をめぐってディスカッションが持たれていた」。「小金井の家」をベースにして標準的な都市住宅のモデルをつくってみたかったから」だという。
「中野本町の家」と「ドミノ住宅」は、対極的に見える。プロトタイプとその解体という伊東豊雄にとっての根幹に触れるテーマを、住宅について、ここに既に見ることが出来る。
「世に流通している商品化住宅や建売り住宅のプランにもあらためて目を向けざるを得なかったし、キッチン廻りの作り方、収納のあり方、冷房の考え方についても根底から再検討を迫られた」[ix]
当時、僕は、大野勝彦、石山修武、渡辺豊和と一緒にHPU(ハウジング計画ユニオン)というささやかな組織を立ち上げ、「住宅設計という小宇宙」を打破すべく動き出していた。そのためのメディアとして『群居』創刊準備号を出したのが1982年2月である。ほとんど伊東と『群居』同人は問題意識を共有していたと思う。中心にいたのは、石山修武である。『群居』とは別に、「アデルの会」というのがあって、「モダン・デザインが最もアクティブな展開を示した二〇年代のパリを舞台に、デザイナー志望の架空の少女アデルを設定し、彼女の遺した日記とそれに添えられたスケッチが発見される。それを現代に生きる五人の建築家が新しい解釈を加えながらデザインを起こして、できるならインテリアや家具として実現してしまおう」と企てていた。五人とは、伊東、石山の他、六角鬼丈、長谷川逸子、山本理顕である。
全体システムの構築か、オープン部品システムをベースとした個の表現か、『群居』の一貫するテーマであった。「セキスイハイム」というユニット住宅の設計者、大野勝彦は地域住宅工房に向かい、石山修武は、コルゲート・パイプの一連の住宅(幻庵、開拓者の家)から一種の産直住宅DD(ダイレクト・ディーリング)システムを展開しながらまちづくりに向かった。それぞれの帰趨は興味深い。
伊東豊雄が「せんだいメディアテーク」で採用したのは、「新しいドミノ・システム」[x]なのである。もちろん、ただのドミノではない。垂直方向を支えるのは捩れたチューブである。
考えてみると「中野本町の家」の空間はチューブである。そして「台中メトロポリタン・オペラハウス」では全面的にチューブがテーマとなっているようにみえる。チューブという空間は伊東の空間意識の深層にある。それを示すのが、「子どもたちに伝えたい家」つぉいて描かれた『みちの家』[xi]である。
パンチングメタル:ライトストラクチュアを目指して
「ドミノ」というわかりやすいシステムを別にすると、伊東豊雄は、新たな構造システムや建築生産施工の新たなシステムを提案するタイプの建築家ではない。ましてや、アクロバティックな構造を弄ぶタイプでもない。「大館樹海ドーム」(1993-97)のように、構造システムが全体を大きく支配する建築もなくはないが、あくまでもプログラムの中から形が産み出される。「空間」の有り様が先であって、建築はその次である。
「状態だけあって形態を持たない」建築の始原、建築が立ち上がる瞬間を原点とする限りにおいて、常に「新しさ」は伊東のもとにある。自在な発想とそれをフィジカルな建築として成立させる道具としてコンピューターが使えること、これは伊東の世代の前後で決定的である。伊東の最初の事務所は「アーバンロボットURBOT」であり、月尾嘉男とともに、コンピューターの可能性は出発点における前提である。
「中野本町の家」の後、鉄筋コンクリート(RC)造は安藤忠雄に委せたというばかりに、伊東は、「ライトストラクチュア」=「いかに軽快なフレームをスチールを用いて用意し、そのあいだに薄く透明感のある素材のスクリーンを取り付けて空間を区切っていくか」という方向をはっきり目指すことになる。
「住宅スケールではRC造の場合、ほとんど壁構造となる。ストラクチュアのデザインが同時に外部を覆ってしまうことになる。一方スチール・ストラクチュアの場合にはフレームがヴォリュームを規定するから、そのあいだを別の素材で埋めることになる。当然ディテールは複雑で多様になる。」しかし、伊東は「スチールに取り組み始めた途端に、その難しさとおもしろさに取り憑かれてしまった」のである。
風や光を通すアルミ・パンチングメタル、エキスパンドメタル、テント幕、ガラス、・・・透明、半透明、メタリックな平面材が伊東が集中して用いる素材である。
スチール構造かRC造か、物質の存在感か抽象性か、自然材料か工業材料か、建築家はここで大きく二分される。既に書いたが(連載09)、藤森照信は、伊東の建築を「ヒラヒラスカスカ」の建築と揶揄してきた。また、日本の建築界を、ル・コルビュジェを祖とし物の実在性を求める「赤」派とミースを祖とし、抽象性を求める「白」派に分け、伊東をその旗手と見なしてきた。しかし、伊東豊雄は「せんだいメディアテーク」以降、21世紀に入って、さらに自在な展開を見せ始めつつある。
エマージング・グリッド
藤森ならずとも驚かされたのが「ぐりんぐりん(アイランドシティ中央公園中核施設)」(2005年)である。伊東豊雄は、光と風について語っても、「環境建築」やエコロジーを主題にすることはなかった。まして、これまで「町に緑を!」などとは言わなかった。屋上や壁に緑を這わすのも「らしく」ない。しかし、柱が一本もない建築、地面と屋上が連なった建築、要するにやってみたかったのだ。「未だ見たことのない建築」は藤森もまた目指すところである。
そして、「トッズ表参道展」(2004年)「MIKIMOTO
Ginza2」(2006年)にしても「さすが!」と思う一方、こういうコマーシャルなエンターテイメントは伊東には似合わないのではと思ってしまう。もっとも表面性に執着したPMTビルへの先祖返りなのか、とも思う。
かと思うと、「松本市民芸術館」(2004年)「コニャックジェイ」(2006年)のような大家然としたオースドックスな建築を当然のようにこなす。少なくとも、何かを突き詰めようとする張りつめたようなものが消えた。「なんでもあり」という雰囲気である。
今のところ伊東豊雄の勢いは留まるところを知らないかのようだ。舞台は台湾である。そして、「エマージング・グリッド[生成するグリッド]」という概念が武器である。「均質空間」の根底的批判こそがついにターゲットとされるのである。そして構造デザインの世界が伊東を支えつつある。
この6月(2008年)、日本建築学会建築計画委員会の行事[xii]で台湾を訪れた。今、台湾では3つのプロジェクトが進行中である。その内のひとつは台湾大学社会学院で、台湾建築界の重鎮、理論家の夏鑄九台湾大学教授(建築與城郷研究所)は「ついに台湾大学の構内にまで外国人建築家に進入された」などと言っていた。他の二つは「高雄スタジアム」と「台中メトロポリタン・オペラハウス」である。いずれも油が乗りきった感があるが、中でも注目を集めるのが「台中メトロポリタン・オペラハウス」である。東大建築学科出身の楊さんが現地パートナーを務め、京大布野研出身の張瑞娟さんがその下で協働している縁でじっくり話を聞いたが、竣工までなかなか大変そうである。
しかし、新しい空間をリアライズすることこそ伊東豊雄が目指そうとしていることである。10年ほど前、「いつか外側のない建築をつくることができたら、と思う」[xiii]などと書いていたが、「台中メトロポリタン・オペラハウス」で実現しつつあるのは、内と外がゆるやかに一体化したようなかつてみたことのない空間である。
新しい空間のリアル
「そうそう新しいものはでてこないよ。ずっと考えに考えて来たから疲れるよ。」
京都大学の竹山聖研究室の展覧会(2005年)で久々に会って飲んだ時、ぽつりともらした伊東の言葉が耳に残っている。「もうつくりたいものをつくるよ」「まだまだ若い者には負けないよ」というようにも聞こえた。
建築家が歳を重ねると色気が出てくると言われる。理論的な拘りや積み重ねてきた作品の系譜を離れて、実はやりたかったことが本能的に表現されるようになるのである。既に伊東はその境地に達しているのかもしれない。
「グローバル・スタンダード等という言葉が横行しているけれども、土地に根付いた言語や慣習、あるいは文化的営みは一世紀やそこらで容易に変わるものではないだろう」[xiv]と伊東は書くけれど、伊東の建築には土地の臭いがしない。それは、伊東が依拠する都市・東京が土地の臭いを失ってしまった、それをそのまま反映しているのだと言える。「頼るべき田舎も自然もないことも知ってしまった建築家」が伊東豊雄である。
伊東豊雄が地域や自然に依拠することはおそらくないであろう。新しい空間を追い続けることが自らに課した宿命である。
しかし、建築を自然のシステムに近づけるエマージング・グリッドとは一体何なのか。テクノロジーが実現する複雑で豊かな秩序もまた伊東にとって超えるべきものであることも明らかではないか。「疲れた」という気分もわからないではない。
「建築は残らないけど、人は残る」というのも気になる。「僕にとって建築はつくるプロセスに大きな意味があるのです。どれだけの人が関わり、どのような議論をしたかということがとても重要です。人間が育っていくのと同じように、建築をつくること自体が建築を育てるということかもしれませんね。さらに、建築は完成した後も、使う人によって育てられ、つくられていく。そういうプロセスを大事にしたいのです。」。これも本音だろうけれど伊東らしくない。最後まで「新しい空間のリアル」を求めて一線を走り続けて欲しい。
しかし、ここで思い出すのが伊東の演歌である。伊東は、もしかすると帰るべき場所を求め続けているのではないか、という疑念も沸いてくるのである。
[i] 伊東豊雄主要作品
1990年 - アントワープ市再開発計画(ベルギー・アントワープ)中目黒Tビル(東京都)
1991年 - 八代市立博物館「未来の森ミュージアム」(熊本県くまもとアートポリス参加施設)
南青山Fビル(東京都)ギャラリー8(熊本県)
1992年 - 上海市再開発計画(中華人民共和国)HOTEL P(北海道)
1993年 - 下諏訪町立諏訪湖博物館(長野県)松山ITM本社ビル(愛媛県)
1994年 - 長岡リリックホール(新潟県)養護老人ホーム八代市立保寿寮(熊本県くまもとアートポリス参加施設)
1995年 - 八代広域行政事務組合消防本部庁舎(熊本県くまもとアートポリス参加施設)
1997年 - 大館樹海パークドーム(秋田県)横浜市立東永谷地区センター・地域ケアプラザ(神奈川県)
1998年 - 大田区休養村とうぶ(長野県)野津原町役場(大分県)
2000年 - せんだいメディアテーク(仙台市)ハノーバー万博テーマパークヘルスフューチュア館(ドイツ・ハノーバー)
2001年 - 大分アグリカルチャーパーク(大分県)
2002年 - ブルージュパビリオン(ベルギー・ブルージュ)サーペンタイン・ギャラリー・パビリオン(イギリス・ロンドン)
2004年 - まつもと市民芸術館(長野県) トッズ表参道(東京都)
[ii] 『風の変様体』p.90
[iii] 「東京遊牧少女の家具」(1986)。家具シリーズ:「フーフー・カタイ・キョロ」(1986-1988)
[iv] 実は、この連載の伊東豊雄論の3回を書き上げた後、白井晟一の虚白庵で開かれた小さな会(「原爆堂と日本の戦後」「虚白庵にてー白井晟一を語るー」虚白庵、8月15日)で伊東豊雄に会った。突然の出席でびっくりしたが、「虚白庵」の暗闇を実際見てみたかったのだという。そして、「中野本町の家」の時に虚白庵を参照しながら何度もスケッチを描いたのだという。
[v] 『風の変様体』p.90
[ix] 『風の変様体』p.271
[x] 「新しいドミノシステムとしての「」せんだいメディアテーク」『公共建築』1999年7月号
[xi] インデックス・コミュニケーションズ、2005年
[xii] 春季学術研究会「社区総体営造(台湾まちづくり)の課題」(6月6~8日)。台湾大学・建築與城郷研究所+芸術史研究所主催国際シンポジウム「日本與台灣社區營造的對話:地震災後重建、社區營造與地域建築師(Town Architects)」(台湾大学総合図書館B1国際会議庁、6月5日)。
[xiii] 「私空間」『朝日新聞』1997年9月1-4日
[xiv] 『透層する建築』p.45
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