現代建築家批評09 『建築ジャーナル』2008年9月号
現代建築家批評09 メディアの中の建築家たち
人類の建築を目指して
藤森照信の作品
建築家としてデビューした藤森照信をめぐって、様々な反応が表明されている。
磯崎新は「乞食宗旦みたいだな」[i]という。鈴木博之は「藤森一休説」[ii]を唱える。二人が示し合わせたように藤森を茶人にたとえるのは、「一夜亭」(2003年)「矩庵」(2003年)「高過庵」(2004年)「徹」(2005年)といった茶室作品が立たて続けにあり、そこに「数寄の精神」を直感するからであろう。そして、その振る舞い全体が、かつての初期茶人たちの世界を想起させるからである。
「織理屈、奇麗キッパ遠江、於姫宗和ニ。ムサシ宗旦」という狂歌を引いて、磯崎は、藤森を「ムサシ宗旦」、すなわち、「むさ苦しい」=千宗旦だという。
その見取り図が面白い。かつてブルーノ・タウトを珠光、堀口捨己を利休、丹下健三を織部に喩え、自身を「奇麗キッパ(立派)」すなわち「奇麗さび」の遠州に喩えたというのが伏線である。日本の建築状況を茶人の世界に見立てると、遠州亡き後、将軍指南役となった片桐石州が安藤忠雄で、宮廷や大徳寺の和尚たちに愛された、「お姫宗和」こと金森宗和が伊東豊雄、そして藤森が宗旦というのである。そして、見取り図に本阿弥光悦が欲しいという。また、宗二、ノ貫、庸軒などのポジションを用意できるという。
ヘタウマ:プロフェッショナルな日曜大工
日本の戦後のモダニズム建築の初心を生きてきたと言っていい高橋青光一は、「藤森さんの作品は安心して見ていられるんだよ。僕のライバルじゃないから。」という。「彼が僕の領域を侵すことはない。だから平和に付き合える。みんなそう思っているんじゃない?」
「専門家を超えた素人」(初田亨)「プロフェッショナルな日曜大工」(鈴木明)といった評もある。一体、藤森はプロなのか、素人なのか。
藤森が稀代の目利きであることは疑いない。藤森を支えているのは、少なくとも近代日本の建築に関しては、誰よりも見た、という自負である。しかし、彼の作品は、そうした近代建築の歴史とは無縁であり、あまりにもプリミティブに見える。
安藤忠雄の問いが面白い。
「藤森先生の建築はいわゆる現代建築史の流れと意図的にはずされているように見えます。ご自身の建築は歴史の<外>にあると思われますか、それとも<内>にあると思われますか?」
藤森本人は<内>だと思ってきたとさらっと答えるけれど、近代建築こそが自分の育ってきた母胎だと思い込んでいる安藤には藤森は理解できない。彼の学んできた近代建築の歴史の教科書に藤森は位置付かない。
藤森は、それではトリックスターか。
磯崎は、いつものように自らを常に特権的な位置において、藤森を位置づけて見せる。藤森が注目されるのは、クリティカルであることが先鋭的である時代が過去のものになり、ポスト・クリティカルとなったから、なのである。
建築世界は、公認の共通言語を失い、デザイン言語のみならず建築批評も支離滅裂になっている、「建築家たちは、理屈抜きで、マネーの流れにのることを競いはじめた。走るのに忙しくなり、語る言葉を失った。」「マネー絡みの噂話かお笑い番組風の駄洒落話になってしまった」。
そうした中で、藤森は、大真面目である。
自然素材の使い方
藤森は、自ら建築家としてデビューしたころ、日本の建築家を「赤派」と「白派」の二つに分けて見せた。物の実在性を求めるのが「赤派」であり、抽象性を求めるのが「白派」である。「白派」の代表は伊東豊雄であり、自身は「赤派」の代表というわけである。色分けするのであれば、もう少し多彩に(ヘルメットの色のように)分ければいいと思うけれど、ポストモダン以後、建築シーンを支配したのは、確かに「ヒラヒラスカスカ」のモダン回帰建築である。ローコストと単純性の美学を口実としたバラック建築の復活であった。
そうした中で、出現したのが「タンポポハウス」である。
この出現に最も敏感に反応を示したのが伊東豊雄であることは興味深い。「人工物の美的洗練のみに夢中になっていた現代建築家達のすべて」―要するに伊東豊雄自身―を、藤森は「タンポポ」というワンワードでノックアウトしてしまったといい、「アイランドシティ・ぐりんぐりん」(2005年)などを実際に作り出すのである。伊東のめまぐるしい変転については続いて詳細に見よう。
藤森は、「神長官守矢資料館」に続く「タンポポハウス」「ニラハウス」という、屋上に「タンポポ」や「ニラ」を植える奇想天外な発想でまず注目を惹いたのであるが、そのどこかで見たことのあるようなないような不可思議なかたちとともに強烈なメッセージとなっているのが、自然素材への拘りである。
枯木や藁や土を使うのは、なるほど、数寄の世界である。しかし、見るところ、自ら「野蛮ギャルド」という作品群に洗練されたところも、その気配もない。「自然素材を荒々しく」使うのが藤森流である。
『藤森流自然素材の使い方』(彰国社、2005年)を見ると、「鉄平石葺き屋根自然仕立て」「外壁左官荒壁仕上げ」「外手割り板カーテンウォール」「内藁入り着色モルタル塗り」・・・・・・・・実際に試みたディテールが並んでいる。楽しい創意工夫である。
日本建築学会賞
処女作「神長官守矢資料館」から、藤森照信は、日本建築学会賞に自ら応募してきたのだという。それだけ自信があったということであるが、「賞」が力を持つ、ということを熟知しているからだとも思う。論文の本数で評価される「学会」の体質を超越するには賞が一番である。
「タンポポハウス」に続く第三作「ニラハウス」で「日本芸術大賞」(第29回)を受賞する。赤瀬川源平邸ということが寄与したのかもしれない。とにかく、「学会賞」ではなく「芸術大賞」である。「あらゆる賞はコネクションである」というのは山本夏彦の名言である。
建築学会賞には続けて応募し続け、ついに第6作「熊本農業大学校学生寮」で受賞する。実は、僕は、10人の審査委員のひとりであった。
藤森のそれまでの作品は見ていない。しかし、「面白い」とは思ってきた。
誰もが建築家でありうる。
しかも、稀代の建築史家が本気で設計するというのである。
野次馬的好奇心などとはまったく違う次元で真に期待もあった。
「熊本県立農業大学校学生寮」を見て、正直「ヘタウマ」だと思った。「下手くそ」とも書いた[iii]。一箇所、食堂は「すごい」と思った。まるで「林」のように柱が「自在」に立っているのである。しかし、構造はどうなってるんだろう、という「疑い」も瞬時に持った。プランニングは一々気になった。バットレスが飛び出して、ただの光庭と化した空間には心底首を傾げた。構造分野を代表する委員であった渡辺邦夫さんが、これは20年たったら「バランバランになる」と言ったのが、ずしりと僕の評価に効いた。
賞というのはポリティカルなバランスというものがある。熊本アートポリスの一環であるこのプロジェクトであることを最大限考慮して一票を投じた。当然、共同設計者(藤森照信+入江雅昭+柴田真秀+西山英夫共同体)の役割を大きく評価してのことである。しかし、受賞者は藤森一人ということになった。経緯は省くが、不満であった。次のように総評を書いた。
「最終判断には委員会全体のある種のバランス感覚が働いていると思う。そういう意味では妥当な選考であった。
ただ個人的評価は異なる。第一次選考で残った8作品の中で最後まで押したのは「上林暁文学記念館」「三方町縄文博物館」「中島ガーデン」の3作品である。前2作品は第一次選考で最も多い票を集めたが、現地調査で支持を失ったのが残念である。細かい収まりより大きな構想、新しい空間の予感、薄くてぺらぺらの建築ではなく存在感のある建築を評価基準としたけれど、眼につく欠陥の指摘を圧倒し返す言葉を持ち得なかった。
「熊本県立農業大学校学生寮」は、豪快で、さすが当代の目利きの作品と、好感が持てた。特に食堂の空間が不思議な魅力がある。ただ、平面計画にしろ構造計画にしろ素人そのものなのは買えなかった。特に木造の扱いはこれで時間に耐え得るかと思う。また、旧態たる奇妙な設計施工の体制も気になった。「東京国立博物館法隆寺宝物館」は完成度において文句はないが、この作品によって「重賞」問題を突破するのをやはり躊躇(ためら)った。「中島ガーデン」は、日本型都市型住宅のプロトタイプ提出の試みとして「茨城県営長町アパート」とともに評価した。」
丹下健三論
長谷川尭が『神殿か獄舎か』でターゲットとしたのは丹下健三である。
長谷川堯の弟分を任じ、モダニズム批判の路線―近代建築史再考、様式建築再考―を仕事のベースにしてきた藤森が何故丹下健三なのか。『丹下健三』(新建築社、2002年)の序によると、藤森の方が「近代建築史家として、後世の人のために丹下先生の業績をまとめておきたいのですが、いかがでしょうか」と持ちかけたのだという。
「近代建築家として」という職業的使命は理解できないわけではない。藤森が丹下健三論を執筆している最中、上述のように、広島大学で年に何回か会う機会があり、未発表の「戦没学徒記念館」(1966年)の存在を教えられて、すぐさま見に行ったことを思い出す。丹下健三をめぐる数々の「発見」を夢中になって語る藤森は活き活きとしていた。藤森も間違いなく「建築少年」である。
むしろ、丹下健三がなぜ藤森を指名したのか、というべきかもしれない。丹下健三は、長谷川堯の『神殿か獄舎か』による一撃以降、日本から消えた。東京大学を定年退官になって丹下健三・都市・建築設計研究所を設立して(1974年)以降、その活躍の舞台は海外となる。
丹下の‘不在’あるいは‘留守’と藤森は言うが、まさにその期間に藤森の仕事の出発点がある。その出発点を確認し、自らの設計の方向を再確認するのが『丹下健三』である。
藤森は、次のように書く。
「1971年から数年間の長谷川堯の言論活動の衝撃はまことに大きいが、しかし、不思議なことに、建築界の方向は大して変わらなかった。味わい深く目の滑らないような仕上げを試み、人を優しく包むような空間と取り組み、建築と自然のことを本気で考えるような建築家は結局現れなかった。」
自らこそが「本気で考える建築家」たらんとしていることは明白である。復刻された『神殿か獄舎か』(2007年)のあとがき(「長谷川堯の史的素描」)を、「私の処女作は、長谷川さんの言ってたことを建築として実現したのではないか。部分的にはそういう面がある、と、今も確信している。」と結ぶのである。
人類と建築の歴史
『丹下健三』によって、『日本の近代建築』を戦後にまで書き継いだ藤森は、一気に建築を始源にまで遡行する。それが『人類と建築の歴史』(ちくまプリマー新書、2005年)である。
自ら「片寄ったというか」「破天荒というか」というけれど、その建築史観に大いに驚く。全六章のうちの四章が新石器時代までの歴史で、第五章が「青銅器時代から産業革命まで」、六章が「二十世紀モダニズム」なのである。
そして、恐ろしく単純である。
「人類が建築を作った最初の一歩は、世界どこでも共通で、円形の家に住み、柱を立てて祈っていた」などと書かれると、『世界住居誌』(昭和堂、2005年)の編者としては違和感を持つ、と言わざるを得ない。
しかし、藤森の言いたいことははっきりしている。「一九一九年開校のバウスによって世界は一つのところに行きついた。以後、白い箱に大きなガラス窓のあくデザインは、戦前いっぱいを通してヨーロッパや日本に広がり、さらに戦後にはいると、ナチスに追われてアメリカに渡ったグロピウスとミースのリードのもと、ガラスの箱としての超高層ビルが作られ、世界中の都市へと広まってゆく。」という乱暴な断言であれば、違和感はないのである。
「厚い壁より薄い壁を、太い柱より細い柱を、より軽く、より透明な空間を」求める抽象的な造形世界が中心にあり、その周りに「物としての存在感の回復を夢想する、バラバラでクセの強い少数者が散らばって叫んでいる」というのが、藤森の現代建築の構図である。上述の赤派と白派との対立構図である。
藤森は、そこで、素手で自然素材に帰ろうとする。縄文の昔に回帰するのだという(縄文建築団)。「課外授業へようこそ 家は自分で建てよう」(NHK、2001年)では、縄文式住居を実際に建てて見せた。縄文へ拘る建築家と言えば、渡辺豊和であるが、藤森の処女作「神長官守矢資料館」を唯一評価したのが渡辺だったというのも、何かの因縁であろう。
未だ見たことのない建築
ヴァナキュラー建築の世界への関心は、B.ルドフスキーの『建築家なしの建築』(Architecture without
Architects)以来、広く、建築界に存在している。日本でも、伊藤ていじの『民家は生きてきた』など、民家への関心は一貫するものとしてある。1960年代後半のデザイン・サーヴェイ、原広司の世界集落研究については、前に触れたとおりである。安藤忠雄も民家や伝統的な集落の魅力を語っている。しかし、藤森の場合、少し違う。ヴァナキュラー建築への関心は、普通、それを支えてきた『驚異の工匠たち』の世界へ向かう。歴史の中で育まれてきた技、創意工夫に学ぶ姿勢があるが、藤森は、裸で、素手で、原始の自然に向かおうとするところがある。まさに「野蛮ギャルド」である。
藤森には、無数の工匠は眼中になさそうである。あくまで関心をもつのは、以下のように「新しいかたち」なのである。
「歴史を偽造してまでも根本的に新しいかたちを見てみたい、なんなら歴史の後もどりだってしよう。物としての手ざわり感を建築から失いたくない。多様な形の面白さを味わいたい。」
「未だみたことのない建築」をつくりたい、という藤森を突き動かしているは、新奇性を後ろ向きに追求する、裏返しの近代のオリジナル信仰なのであろうか。枯木や泥壁や藁が「思想」だ、と藤森は主張すると、磯崎は深読みをする。そこでは、確かに、藤森はポスト・クリティカルの時代の旗手だ。
しかし、僕には、藤森は、素朴にテルボ(建築少年)であった世界を夢見続け、実現したいだけのような気もしないでもない。
[i] 「乞食照信を論ず」『ザ・藤森照信』pp86―87
[ii] 「高過庵の茶会―藤森一休説序説―」『ザ・藤森照信』pp89―91
[iii] 共同通信配信「見聞録」。「全体は懐かしい木造校舎のようだ。工事の時の残土を積み上げた小さな丘の割れ目を抜けると、生木の皮を剥がしただけの木が5本、入口の庇を突き抜けて建っていて、不思議な雰囲気を醸し出している。手作りの雨樋が楽しげだ。仕上げ材料は基本的に木と土、布と縄である。照明器具など、随所に手作りの味がある。自然(生物)材料を徹底的に用いる、というのがこの建築の方針である。
設計者は建築探偵、藤森照信をチーフにする地元の建築家共同体だ。熊本アートポリス事業として藤森が選ばれ、この建築のために地域の精鋭が招待されたユニークな試みだ。自宅「タンポポ・ハウス」の設計で建築家としてデビューして以来、藤森の作品は数作になるが、自然材料を基本とするのは一貫している。
工業材料が溢れ、世界中が同じような建築物で埋め尽くされる中で、可能な限り生の素材を使おうという単純な主張は、素朴な共感を呼んでいるように思う。しかし、実際は大変である。生木は捻れ、割れ、容易に人の言うことを効かないのである。現場は悪戦苦闘である。普通の建築家であればクレームに耐えられないかもしれない。
しかし、出来上がった空間は絶妙だ。圧巻は食堂である。無骨な生木が林立して森のようだ。さすが当代の目利きの作品だと唸った。建築がうまくなるためにはとにかく建築を見てまわることである、とつくづく思う。
建物を上から見ると、インベーダーゲームのキャラクターのようで、異世界から舞い降りたかのようだ。建築の訓練は受けたといえ、藤森の本領は建築史であって、建築のプロから見れば素人である。この建築はおよそ洗練とか、熟練とかからは遠い。下手くそといってもいい。しかし、出来上がった空間には建築の原点に関わる迫力がある。素朴に建てよ、誰でも建築家であり得るのだ、そんな藤森の声が聞こえるような気がしてくる。」
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