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2021年3月24日水曜日

現代建築家批評10  時の流れに身をまかせ  伊東豊雄の軌跡

 現代建築家批評10 『建築ジャーナル』200810月号

現代建築家批評10 メディアの中の建築家たち


時の流れに身をまかせ

伊東豊雄の軌跡

 

布野修司

 

日本のリーディング・アーキテクトとして、安藤忠雄と肩を並べるのが伊東豊雄である。同じ1941年生まれで、今年、67歳を迎えるとは思えない、二人とも実に若々しい。とりわけ、伊東豊雄は、相も変わらずカッコイイ。

この1941年-真珠湾攻撃による日米開戦の年―生まれの世代には、他に、長谷川逸子、毛綱毅曠(1941-2001)、六角鬼丈(1941-)、仙田満(1941-)らがいる。黄金の世代である。

この黄金の世代の中で、伊東豊雄は、一貫して「建築状況」を意識し、「建築状況」と渡り合ってきた建築家である。安藤忠雄が愚直なまでに打ち放しコンクリートに拘るワンパターンであるとすれば、伊東は、自在にそのスタイルを変えてきたように見える。「中野本町の家」から「シルバーハット」へ、「シルバーハット」から「せんだいメディアテーク」へ、そして「台中メトロポリタン・オペラハウス」へ、常に「最先端」を走り続けている。

伊東豊雄は、これまで二冊のクロニカルな論集『風の変様体』(1989年)『透層する建築』(2000年)[i]をまとめているが、これは磯崎の『空間へ』(1971年)[ii]のスタイルの踏襲である。磯崎のクロニクルは、1960年に始まり1969年で終わる。伊東のクロニクルは、1971年に始まり1988年、そして2000年へと書き継がれる。この三冊を続けて読むと日本の建築界の「最先端」がどう動いてきたかを身近に理解することが出来る。

伊東豊雄は、遂に、プロフェッサー・アーキテクト(常勤の大学建築教授)になることはなかった。この点でも、磯崎新[iii]の後継者と言っていい。二人とも、世界的なリーディング・アーキテクトとして、母校東大にプロフェッサーとして招かれてしかるべき建築家であったが、そうはならなかった。結果として、既成の団体や組織の原理からは自由であり続けたことになる。伊東豊雄が一貫して「最先端」の建築を目指し続けるのは、そうした軌跡と無縁ではないと思う。

いささか唐突であるが、スマートなイメージと、どうにも結びつかないのが、伊東豊雄の演歌である。記憶によれば、無類のカラオケ好きで、十八番(おはこ)は鶴田浩二である。かなりうまい、というか、プロ級である。その後、次々にレパートリーが増えているのであろうか、あるいは十八番は十八番であり続けているのであろうか。

「時の流れに身をまかせ」(テレサ・テン、作詞 :荒木とよひさ 作曲 :三木たかし)というのは、伊東豊雄が行き当たりばったりのオポチュニストだという意味ではない。伊東が建築家として真摯に時代を生きていたことは僕も証言できる。演歌好きの伊東豊雄が多分愛唱しているのではないか、という僕の思い込みのタイトルである。

 

デビュー前夜:

伊東豊雄とは、この連載の初回[iv]で書いたように『建築文化』誌(彰国社)の「近代の呪縛に放て」シリーズで出会った。以降、その颯爽たる軌跡を仰ぎ見てきたことになる。

1969年、菊竹清訓設計事務所をやめて、「アーバンロボット」を設立する(1971年)。その命名に時代の雰囲気と伊東の意気込みが表されていると思う。そして、『都市住宅』誌上でのデビュー作「アルミの家」(1971年)は鮮烈であったー繰り返し書くけど、僕らの学生時代の『都市住宅』[v]は実に刺激的だったー。しかし、「千ケ滝の山荘」(1972年)を経て次の飛躍のステップとなる「中野本町の家」(1976年)まで、クロニクルには空白がある。

独立して事務所設立まで、伊東豊雄は、東京大学吉武研究室の研究生となっている。けれども、当時の東大建築学科は「設計」どころか「研究」どころでもなかった。その年の1月、「安田講堂」が「落城」し、東大闘争は終息に向かい出すことになるが、誰も予測できない混乱が続いていたのである。当時、吉武研究室では、「設計」「研究」の根底が問われており、研究室をベースに行ってきた設計活動そのものが批判(産学協同批判[vi])に晒される状況にあった[vii]

そして、オイルショック(1973年)だ。

日本列島がパニックとなった。イラン革命(1979年)で第二次オイルショックに見舞われ、1970年代は若い建築家にとってバブル世代には想像できないほど厳しい時代であった。

伊東は、独立以降、実現する作品はほとんどなかったけれど毎日製図板に向かったのだという。それでも、事務所を開いて2,3年もすると、親戚や友人の伝手で仕事の輪が広がっていった。しかし、「ようやくスタッフにボーナスを払えるかと思ったのも束の間、オイルショックでほとんどすべてのプロジェクトは一夜の夢に終わった」のである。

議論だけが残されていた。不況になれば「建築運動」が起こるというが、仕事はなくても考えることはできる。「近代の呪縛」シリーズは、そうした議論のひとつの場であった。

「何処かで建築家達の集まりがあり、二次会となると、同世代の顔ぶれが自然に十名ばかり飲み屋のテーブルを囲むことになる。・・・最近の建築雑誌の話題作に関する批評、と言ってもほとんどは悪口雑言、身近な建築家達の噂話に始まり、少々酒が廻り出すと、同席している者相互の間にジャブが飛び交う。正確なストレートパンチはほとんどなく、ローブローばかりの応酬である。背後からも真横からも飛んでくる。全く油断もすきもなく、常に身構えていないととんでもないことになる。微差に縞を削り、足を引っ張り合う。」[viii]

伊東豊雄は、この間、自らの行方を見定めるように、ターゲットとする三人の建築家(菊竹清則[ix]、磯崎新[x]、篠原一男[xi])について書いている。

 

 下諏訪―中野本町

京城(ソウル)生まれで諏訪育ちという。若い頃に出会い、最近も京都大学でも非常勤講師として来てもらっていて会う機会はなくはなかったけれど、その生い立ちについて直接聞いたことがない。

「下諏訪町立諏訪湖博物館」(1993年)は、少年時代を過ごした町に建つ。それも諏訪湖に面していた。「学校から帰ってくるなりカバンを放り出しては庭先から釣糸を垂らしてエビや小魚を釣り上げ、自作のモーターボートを走らせていたものである」[xii]。庭先から釣り糸である、なんとも羨ましい!と絶句する環境である。「石を投げる場所、釣りをする場所、トンボを捕る場所、舟に乗る場所、花火を見る場所、さまざまな場所があり、それらはそれぞれに違った風景をつくっていた」、そして「小学生の頃毎日眺めていた湖はもっと大きくて美しかった」けれど、「設計しながら眺める湖は、どこも同じで小さかった」[xiii]

「大きい湖だった」というのは、確かにそうだろう。少年時代の身体空間は長じた「眼」に移る「空間」とは明らかに違う。面白いのは、藤森照信と伊東豊雄が育った環境を共有していることである。年の差5歳。テルボ(藤森)少年の育った諏訪郡宮川村高部[xiv]よりは拓けていたかもしれないが、諏訪湖博物館の敷地の周辺にも背後の山の中腹に一軒だけ掘っ建て小屋があり、炭焼きで生計を立てている状況だった。同級生の子が青大将をぶら下げて登校して、担任の教師がとまどったという。トンボやチョウを食べたりする世界、そして炭焼きと青大将、同じような環境で育った伊東豊雄と藤森照信が全く異なった方向へ向かう建築家になったことが実に興味深い。

伊東豊雄は「当時の湖や山々の風景のみを想い描きながら、この建築(「下諏訪町立諏訪湖博物館」)を考えた」といい、「場所性を喪った土地に建築をつくることによって、場所の持っていた力を回復したい」というけれど、藤森の解答と明らかに違うのである。後に触れるように、伊東が依拠するのは都市であり、東京である。

生まれ育った環境が建築家を育てるというテーゼからすると、中野本町の方が大きいかもしれない。諏訪で育って東京へ移って住んだ家は、「ハーバード留学より帰国して間もない若い建築家、芦原義信氏の設計になる三十坪ほどの平屋葺きローコスト住宅」[xv]であった。高校生(日比谷高校)になったばかりの伊東は棟上げに立ち会ったのだという。僕は、芦原義信先生とは縁あって親しく?つきあったけれど[xvi]、この事実を知らずに経緯詳細を聞き逃した。というより、伊東豊雄はデビュー前であった。芦原義信先生にしても自分が設計した住宅から伊東豊雄が育つとは夢にも思わなかったであろう。そこには「シルバーハット」(1984年)の土地であり、その土地に隣接して「中野本町の家」があった。

日比谷高校→東京大学というエリートコースであったという以外に、僕が知っているのは、これまた磯崎新同様、野球選手でサウスポーだったことぐらいだ。

 

 同級生

東大建築学科の同窓会「木葉会」[xvii]の名簿を開いてみる。1965年卒業に伊東の名前があるが、同学年に月尾嘉男がいる。そして、コーリン・ローの『マニエリスムと近代建築』(彰国社、1981年)を共に訳した建築家・松永安光(近代建築研究所)がいる。さらに日本建築学会の会長を務めた村上周三(慶応義塾大学)、日本建築家協会会長を務めた大宇根弘司(大宇根建築設計事務所)の名前がある。東大闘争で安田講堂に立て籠もって逮捕された内田雄三(東洋大学教授)も同じ学年だ。すごい学年である。

月尾嘉男と言えば、現在、「月尾嘉男・未来世紀日本」(北海道テレビ放送、毎月最終土曜25:3026:00)など[xviii]TV・ラジオ番組で知られるキャスターだ。また、改革派知事を束ねる(地域自立戦略会議)仕掛け人としても著名だ。さらに、カヤックやクロスカントリースキーを愛好し、全国各地で仲間とともに私塾を運営して環境保護に尽力する[xix]。東大建築学科が産んだマスコミで活躍するユニークな人材としては、女優菊川怜がいるが、月尾はそのはるかに先輩である。

伊東豊雄は、「アーバンロボット」(ウルボットURBOT)の頃、月尾嘉男と一緒に仕事をしていたことがある。僕は大学院にいて、月尾嘉男が立ち上げた「都市システム研究所」(72-75年)でアルバイトしていたことがある。翻訳などの仕事もしたけれど丹下健三の松江の仕事を手伝ったのが想い出深い。僕は、松江に誘致する大学の立地選定のプログラムを書いた。パンチカードの時代に磁気テープを使い、国際電話回線でアメリカのコンピューターとつないだ。『神殿か獄舎か』で激しい丹下健三批判を展開していた同郷(玉造温泉出身)の長谷川堯さんから丹下の手伝いをするとはけしからんと怒られた記憶がある[xx]

「都市システム研究所」には時々伊東豊雄が訪ねてきていた。伊東建築事務所を仕切る泉洋子は、もともとは「都市システム研究所」でのアルバイト仲間である。

 
 菊竹清訓建築設計事務所 1965-69

東京オリンピックの余韻の残る1965年、伊東豊雄は菊竹清訓建築設計事務所に入所する。世界デザイン会議を契機とするメタボリズム・グループの結成(1960年)から大阪万国博Expo701970年)まで、日本建築の黄金時代の中心に菊竹はいた。内井正蔵、土井鷹男、武者英二、仙田満、長谷川逸子、富永譲など多くの建築家を輩出することになる。

伊東豊雄が入所した時、菊竹は日本建築学会賞を受賞した「出雲大社庁の舎」(1963年、島根県簸川郡大社町)、そして、「東光園」(1964年、鳥取県米子市)を竣工させたばかりであった。そして、在所中に、「都城市民会館」(1966年、宮崎県都城市)、「島根県立図書館」(1968年、島根県松江市) 、「国鉄久留米駅」(1968年、福岡県久留米市)、「久留米市民会館」(1969年、福岡県久留米市)、「島根県立武道館」(1970年、島根県松江市)が手掛けられる。

菊竹清訓の初期作品は、生まれ故郷の久留米・九州から山陰を日本神話を辿るように駆け上っていく。山陰に菊竹作品は実に多い。当時の島根県知事田部長衛門に気に入られるのである。「田部美術館」(1979年、松江市)も菊竹の設計である。既に書いたが[xxi]、松江市役所にいた親父の元に本が送られてきたこともあって、その名前は中学生の頃から知っていた。出雲(知井宮)で生まれ、松江で育った僕は、「島根県立博物館」(1960年)以降の山陰に建った菊竹作品に日常的に触れることになった。「島根県立図書館」にはよく通ったものである。「島根県立武道館」は富永譲の担当と聞いた。

長じて、今宍道湖畔に建つ「島根県立博物館」(1999年、松江市)の審査委員を務めて、感慨深いものがあった。大高正人委員長の「各案の問題点、疑問点については全て布野が担当して聞け」という命令で高名な建築家の先生に「意地悪な」質問をさせられたのにはまいったが、文句無い満票の決定であった。「江戸東京博物館」が建設中であったが、同じ建築家の作品とは思えない出来栄えである。

伊東豊雄にとっての菊竹については後に触れよう。

 

 RIBAロイヤル・ゴールドメダル2006

 「中野本町の家」で本格デビュー[xxii]した伊東豊雄は、「中野本町の家」への「酷評」(?)に耐えながら次なる方向を模索することになる。一般には「酷評」とは思えない。しかし、伊東はその後方向を変えていくことになる。結果として「中野本町の家」は伊東にとって得意な作品となることになる。その方向を大きく左右したのが、篠原一男、そして多木浩二との出会いである。伊東によれば、「曖昧で気まぐれな私に、厳密さを教えてくれたのが篠原スクールであった」。

 しかし、伊東は篠原スクールに留まることなく、「篠原スクールの劣等生」を自認しながら、転進に転進を重ねていくことになる。「中央林間の家」「小金井の家」(1979年)を経て「笠間の家」(1981年)で「日本建築家協会新人賞」を受賞する(1984年)。そして、次の転機になるのが「シルバーハット」(1984年)による建築学会賞受賞(1986年)である。安藤忠雄に遅れること7年、45歳での受賞は早いわけではない[xxiii]。建築界のみならず、一般の関心を集めるのも、「「東京遊牧少女の包(パオ)」(1985年)「レストラン。ノマド」「横浜風の塔」(1986年)の頃からである。「シルバーハット」による転換については藤森照信が面白いことを書いている。みんなが「中野本町の家」の話ばかりして、分かってくれないので怒った、そしてみながシーンとしたというのである[xxiv]。確かに、僕はその場にいたが「シルバーハット」については、ほとんど何も見なかった。後にNHKの解説委員を務める律子夫人と建築と関係ない話を長々としていたことを覚えている。

そして、1991になって、初めて公共建築を手掛ける(八代市立博物館「未来の森ミュージアム」、同年毎日芸術賞)。50歳だからこれも早いわけではない。しかし、その後数々の公共建築を手がけることになった。「大館樹海ドーム」では、芸術選奨文部大臣賞(1998年)と日本芸術院賞1999年)を受賞する。数々の受賞[xxv]がその評価を示している。そして、伊東豊雄自身が次の大きな転機になったというのが「せんだいメディアテーク」(2000年)である。確かに、「せんだいメディアテーク」以降、伊東豊雄は、憑き物が落ちたようである。「トッズ表参道ビル」や「MIKIMOTO Ginza2」を見ると、その変貌ぶりにギョッとする。

還暦を過ぎて、世界建築のトップランナーに躍り出た伊東は、何者にも縛られず、新奇な形態を自在に追い求め始めたように見える。瀧口典子による密着ドキュメント『にほんの建築家 伊東豊雄・観察記』(TOTO出版、2006年)を読むとその自在な心境と仕事ぶりがよくわかる。

伊東豊雄は若い頃から、海外を飛び回ってきた。ほとんど知られていないが航空会社の海外拠点のチケット・カウンターのデザインをしていたことがある。そして、1989年頃から、海外での会議、レクチャー、そして仕事に世界を股にかけて飛び回ることになる。伊東豊雄がRIBA王立英国建築家協会)のロイヤル・ゴールドメダルを受賞するのは2006年である。

 冒頭に書いたように、また、別のところで書いたように[xxvi]、数々の大学で非常勤講師や客員教授をつとめた伊東も、常勤のプロフェッサー・アーキテクトになることはなかった。安藤忠雄が東大教授にならなかったら伊東がなっていただろう。伊東は、かなり早く(50歳になった頃)から大学のデザイン教育を憂えている。実際、教えることには極めて熱心である。

「我が国の大学では、学部の最終学年でもはやデザインを専攻しない学生たちも設計製図が必修科目になっていたり、逆に大学院ではほとんど設計製図が行われていなかったりするところに問題がありそうである。・・・一体いまの大学は本当に真剣に建築家を育てようとしているのだろうか、とさえ思いたくなる。」[xxvii]

伊東は多くの建築家を育てつつある。伊東事務所出身の建築家には、石田敏明妹島和世、佐藤光彦、曽我部昌史ヨコミゾマコト、松原弘典、平田晃久らがいる。



[i] 両書とも青土社刊。

[ii] 美術出版社刊

[iii] 磯崎新の場合、短い期間、芦原義信教授の下で武蔵野美術大学の助教授であったことがある。

[iv] 拙稿、「メタボリズム批判の行方 ポストモダン以後・・建築家の生き延びる道」 「建築ジャーナル」、20081月号

[v] 植田実、『都市住宅クロニクル』上下、みすず書房、2007

[vi] この点、産学連携をうたう昨今の大学をめぐる状況には隔世の感がある。

[vii]僕は、1971年に卒論生として吉武研究室に配属されたからすれ違いであるが、後輩になる。最初に会って吉武研究室当時のことを聞かされたが、実は、石井和紘の「直島小学校」を手伝ったのだという。「直島小学校」の設計を頼まれていた吉武先生は困り果てるが、やむなく、設計作業を若い石井和紘、難波和彦に委ねることになった。丁度研究生として戻ってきた伊東豊雄に「面倒をみてやってくれ」ということになったらしい。

[viii] 『風の変様体』p128-129

[ix] 「菊竹清訓氏に問う、われらの狂気を生きのびる道を教えよと」『建築文化』197510月号

[x] 「シンメトリーのパラドックス(磯崎新の身体的空間とマニエラ)」『新建築』19757月号

[xi] 「ロマネスクの行方」『新建築』増刊、197611

[xii] 「変様体としての環境」『住宅建築』19857月号

[xiii] 『透層する建築』p242-243

[xiv] 「建築探偵から建築家へ:藤森照信の軌跡」、7月号

[xv] 伊東豊雄「風の建築をねざして」『建築文化』19851

[xvi] 本連載04参照。『建築ジャーナル』2008年4月号

[xvii] 東京大学建築学科の同窓会組織。第1回卒業(1879年)に、逝去会員、片山東熊、佐立七次郎、曽禰達蔵、辰野金吾がある。

[xviii] 「ドクター月尾 地球の方程式」(TBS系、毎週月曜金曜5:20-5:25)「月尾嘉男、地球再生」(テレビ東京系 奇数月第2日曜16:00-16:55)、「日本全国8時です」(TBSラジオ系 毎週木曜8:00-8:12)「月尾嘉男ホットライン」(FMもえる 毎週土曜8:00-8:30)など。

[xix] もちろん、初心として目指したのは建築家である。磯崎アトリエを経て(Expo70のお祭り広場のロボットを担当した)、都市システム研究所を設立し(72-75年)、名古屋大学工学部建築学科助教授になる(76-88年)。ところがコンピューターが得意で、情報社会の台頭を予感して情報処理や情報通信の研究にのめり込み、世界最初ともいうCGによるアニメーション「風雅の技法」を制作、以後、人工知能、仮想現実など情報科学の先端分野に挑戦することになる。東京大学工学部産業機械工学科に招かれ(91-02年)さらに定年前に総務省総務審議官も務めた(02年)。

[xx] 槇文彦事務所にも夏休み1ケ月通ったことがある。また、吉武研究室の助手であった、下山慎司・曽田忠広梁先輩の事務所「設計計画研究所」と、なんとなくそりが会わなかった石井和紘・難波和彦の事務所(ランディウム)に掛け持ちでアルバイトしていたこともある。「直島幼稚園」「54の窓」の図面を引いたし、模型をつくった。

[xxi] 「02 誰もが建築家でありうるポストモダン以後    ・・・建築家の生き延びる道02」20082月号

[xxii] 伊東自身は、「惨憺たるデビュー」という。

[xxiii] 槇文彦が「平和な時代の野武士たち」と呼んだ建築たちが受賞するのは、・・・・・・・・・・・である。

[xxiv] 伊東豊雄の「藤森さん、教えて下さい。近代建築の矛盾を見てしまった建築家に、でも頼るべき田舎も自然もないことを知ってしまった建築家に、この先のあるべき建築を・・・」という質問に答える文章の中で、「石山、毛綱、布野、藤森で見に行った。・・・なんでこんなパネル張りというかヒラヒラスカスカした折り紙みたいな建物を伊東がやったのか全員がわからなかったのだ」。『ザ・藤森照信』『エクスナレッジムック』20068

[xxv] 1984 - 日本建築家協会新人賞(笠間の家)

1986 - 日本建築学会賞(シルバーハット)

1990 - 村野藤吾賞(サッポロビール北海道ゲストハウス)

1991 - 毎日芸術賞(八代市立博物館「未来の森ミュージアム」)

1993 - BCS(八代市立博物館「未来の森ミュージアム」)

1994 - 日本建築学会北海道支部北海道建築賞(ホテルP

1997 - ブルガリア・ソフィア・トリエンナーレグランプリ BCS(八代広域行政事務組合消防本部庁舎)

1998 - 芸術選奨文部大臣賞(大館樹海ドーム)

1999 - 日本芸術院賞(大館樹海ドーム)BCS賞(大館樹海ドーム)

2000 - 国際建築アカデミーアカデミシアン賞

2001 - グッドデザイン大賞(せんだいメディアテーク)

2002 - World Architecture Awards Best Building(せんだいメディアテーク) BCS賞(せんだいメディアテーク)ヴェネツィア・ビエンナーレ金獅子賞

2006 - RIBAゴールドメダル王立英国建築家協会ロイヤル・ゴールドメダル賞

[xxvi] 拙稿、「建築ジャーナリズムの中の伊東豊雄::伊東豊雄論のためのメモランダム」、本誌20067月号

[xxvii] 「大学のデザイン教育を憂慮する」『新建築』19918月号

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