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2021年3月28日日曜日

現代建築家批評14 家族のかたちと社会のかたち  山本理顕の建築論

 現代建築家批評14 『建築ジャーナル』20092月号

現代建築家批評14 メディアの中の建築家たち


家族のかたちと社会のかたち

山本理顕の建築論

 

山本理顕が執拗に問い続けてきたのは、家族のかたちと住居のかたちである。あるいは社会的な制度と空間の形式である。この建築家にとっての原初的な問いは、デビュー作である「山川山荘」以降一貫し、「GAZEBO」(1986)「ROTUNDA」(1987)「HAMLET」(1988)を経て「熊本県営保田窪団地」(1991)「岡山の住宅」(1992)、そして「東雲キャナルコートCODAN」(2003)まで住居に即してつきつめられ、学校、大学、役場など公共建築へその問いを広げてきた。

 山本理顕の建築家としての基本的構えは、空間の型と生活の型の対応を問うてきた建築計画学のそれと極めて近い。山本理顕が初期の作品をまとめる最初の雑誌特集を『山本理顕建築計画学』[i]と題したのは、彼自身「建築計画学」を意識していたからである。その後、「51C」をめぐって『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』(平凡社、2001)が編まれたりするのもベースが共有されていることを示している。

 山本理顕には、いわゆる建築論あるいは建築家論がない。近代建築の巨匠たちや歴史的な傑作、同世代の建築家についてのまとまった論考はない。また、一般的にいう表現論、技術論の展開もほとんどない。そうした意味では特異な建築家といえるかもしれない。論考の大半は、住居論である。しかし、その住居論は、建築論、都市論へとそのまま接続される同相の構造を持っている。

住居論の中核となる、『住居論』(住まいの図書館出版局、1993年)を含む『新編 住居論』(平凡社ライブラリ、2004年)と『建築の可能性、山本理顕的想像力』(王国社、2006年)の2冊を中心にその骨格、基本概念をみよう。

  

「領域」「閾」「ルーフ」

山本理顕の出発点は、前述のように、「世界集落調査」に基づく「住居集合論」である。そして、それ以前に、自ら「発端であった」[ii]という修士論文をもとにした「住居シミュレーション」[iii]・モデルがある。山本には、当初から住居という誰にとっても身近な空間の配列を執拗に問いつめる基本的視座がある。既に触れたが、その出自としての家族関係(育った家族、住居)と世の中で標準と考えられている(教えられる)家族のかたちと住居のかたちとのギャップが思考の原点にあるのだと思う。

原広司の場合、住居集合の配列を数学的モデルによって説明することに専ら関心があり、一方で、最低限、集落調査における発見を様々なレヴェルで表現あるいは設計手法に直結(還元)する構えがある[iv]。山本理顕は、徹底して原理的である。「領域論試論」[v]は、3つの集落(住居集合)の型を区別する。「ペトレス型」「クエバス型」「メディナ型」という3類型は、住居と住居集合における領域の「明快/不明快」という概念的分類に過ぎないが、実際に調査した集落を分類していることにおいて単なる図式的類型論ではない。3つの住居集合のかたちは実際あり得るのである。

この論文で「領域」という概念とともに「閾(しきい)」という概念が提出され、それをつきつめるのが「閾論Ⅰ」「閾論Ⅱ」である。山本理顕の住居論の中心はこの「閾」論である。

「閾」とは、日常語では「敷居」「入口」のことである。「領域」と「領域」の「境界」が「閾」である。

「領域」とは、何らかの特性を内包する空間であり、「境界」によって閉ざされている「場」である。特性とは「集団」の統一性のことであり、ひとつの「領域」にはただひとつの集団の統一性が実現されている。ひとつの「領域」に複数の集団の統一性を実現することはできない。

以上のように「領域」を規定すると、「ふたつ以上の「領域」が互いに交わって並立することはない」ことになる。しかし、集落(住居集合)がひとつの「領域」であり、個々の住居も「領域」である場合(ペトレス型集落)、「互いに干渉しないで、なお「領域」相互の接触を可能にするような」「空間」「装置」が必要になる。それが「閾」である。「閾」とは、具体的な空間としては「ホワイエ」「風除室」「気密室」のような空間である。

その論の多彩な拡がりを損ねるのであるが、単純化すれば、論旨は以上のようだ。山本は、「閉じられた領域内の秩序を維持し、かつ外部と交流するための空間装置」=「閾」を「仕掛け」と捉える。また、「閾論Ⅱ」は「<ルーフ>に関する考察」と題されるが、「機能を超えた、家族、親族、血縁集団といったスケールを捨象された」「単位」として、「閾によって秩序づけられた閉じた領域のすべてにあてはまる概念」として「ルーフ」という概念を提出し、より柔軟な概念モデルを練り上げている。閉じた領域のすべてにあてはまる「ルーフ」という概念の具体例として挙げられるのが、南インドの建築書「マーナサーラ」[vi]の村落都市のパターンである[vii]。住居、集落、都市をひとつの閉じた秩序として地域に住む人々の世界観=宇宙観の形象とみなす「マーナサーラ」の世界(「曼荼羅都市」の原理)と後に見る「イスラーム都市」の原理の対比は、山本理顕の領域論の鍵である。

 

 プロトタイプの脱構築

「閾」論を基にした山本理顕的住居論の2つのテーゼは以下である。

「家族という共同体は<共同体内共同体>である」。

「住居という空間装置はそのふたつの共同体、家族という共同体とその上位の共同体が出会う場面を制御するための空間装置である」。

 この実に単純なテーゼ、原理と「世界集落調査」が明らかにする多様な住居集合のあり方を前提とすると、日本の住居はあまりにも画一的である。このおそろしいほどの画一性とそれを支える生活像、家族像についてのステレオタイプ化された幻想を鋭く告発するのが「住宅擬態論」[viii]である。そして、家族と住居の擬態について考えさせる設計課題が「愛人の同居する家」であり、「一〇〇人の住宅」である。また、実際の試作品、モデルとして建設されたのが「岡山の住宅」(1992)である。

 しかし、山本理顕は、「山川山荘」において、既に、ステレオタイプ化した住居の形式に対する批判を試みていた。夏しか使わない別荘という特殊な条件ではあるが、ひとつの住居形式の提示である。吹きさらしの板の間は朝鮮半島の抹楼(マル)を想起させる。あるいは、安藤忠雄の「住吉の長屋」(1976年竣工、79年学会賞)を思わせる。70年代は、ポストモダン世代が相次いで住宅作品を発表した時代である。それは決して「狂い咲きの時代」[ix]ではなく、日本の社会が新たな居住形式をもとめる地殻変動のひとつの表現であった。銘記すべきは、住居という身近な空間形式を徹底して問うことが「建築家」が「建築家」となる出発点であったということである。

「山川山荘」とともに『新建築』(19788月号)に発表された「新藤邸」「窪田邸」「石井邸」は、一見バラバラである。渡辺豊和からは「精神分裂」と言われたという。また、伊東豊雄も「相当見かけのスタイルが違う」という[x]。しかし、山本の「閾論」に基づけばそう違和感はない。「形式としての住居」[xi]としてのいくつかの解答としてありうるからである。山本理顕における「スタイル」の問題、「建築表現」の問題は後にみよう。徹底して、住宅の画一化、ステレオタイプ化を批判する山本理顕が他の建築家―例えば伊東豊雄―と一線を画すのは、単に批判に終始するのではなく、あらたなプロトタイプを提示してみせるところにある。「<アーキタイプ>のない建築、それは私にとって「理想の建築」なのである」という伊東豊雄とも「未だみたことのない建築」をつくりたいという藤森とも違うのである。

「雑居ビルの上の住居」(「GAZEBO」「ROTUNDA」)は、ひとつのプロトタイプの提示である。幹線道路沿いの商業地域において、如何に住居が成立するか、その形式についてのひとつの解答である。その試みは「住吉の長屋」に匹敵するといっていい。全ての空間が経済原則によって支配されるなかで(社会的総空間の商品化)、「ただ最上階だけは渡さない」[xii]という覚悟がこのモデルにこめられている。

そして、戸建て住宅のモデルとして「岡山の住宅」が設計され、集合住宅モデルとして「保田窪団地」が設計された。山本理顕の住居へのアプローチが全くもって「正統的」であることは以上のように明らかである。

 

 細胞都市

 山本理顕の領域論がーまた「建築家」の多くがー前提とするのは、住居という空間単位の集合を拡大、重層していくことにおいて、集落、都市、世界が構成されるということである。土木の分野のように空間を支えるインフラストラクチャー(基幹設備)を重視する立場からすると、まったく異なった組み立てとなるであろうが、山本にとって、インフラストラクチャーも「閾」である。そして、「閾」論、「ルーフ」論は、スケールについては伸縮自在である。従って、その住居論は、建築論、都市論、・・・へ拡大可能である。また、そもそも山本理顕は都市への視座を持っている[xiii]

「緑園都市」の商業地区計画は都市への展開の第一歩であった。そして、山本理顕が提示するのは、「細胞都市」という概念[xiv]である。

 「細胞都市」という概念で具体的にモデルとされるのが「全体の計画が見えない」「アドリブ的」な「イスラーム都市」である[xv]。「イスラーム都市」は、「最終形に向かって徐々に向かって徐々に出来上がっていくような都市ではなく、その都度完成された都市」である。この「イスラーム都市」への関心も「世界集落調査」の第一回「地中海」に遡ることが出来る。山本は具体的な構成原理の詳細に触れることはないが、B.S.ハキームの『イスラーム都市-アラブの町づくりの原理』,佐藤次高監訳,第三書館[xvi] が出版されるのははるかに後のことだから、「イスラーム都市」への着目はいち早い慧眼であった[xvii]

 「細胞都市」とは、「一つの建築が都市の因子であり細胞であるような」都市である。「都市細胞」としての建築は、「一つの建築であると同時に、都市への増殖の契機をその内側に持っている建築」である。

 「全体の計画をまずつくって、その計画に従って個々の建築を制約していく方法ではなく、つまり都市という全体のための部分品であるような建築をつくるのではなく、・・・建築が次から次と連続してゆくときの、その連続のための因子を、自分の中に持っているような建築が考えられればいい」というのが、「緑園都市」の方法である。

 しかし、「緑園都市」の場合、「因子」というのは実に単純である。全ての建物に、隣接する建物に通り抜けできる道をつくる、というのが「連続のための因子」なのである。「通り抜けの道」を個々の建築に用意すればいい、ということではもちろんない。「イスラーム都市」の原理は、もう少し豊かな空間を生み出す仕掛けを持っている。

 

 職寝一体 SOHO

 「熊本県営保田窪団地」「緑園都市」の経験を経て、「東雲キャナルコートCODAN」の機会が与えられる。それを機会に「建外SOHO[xviii](北京)の設計というチャンスも得る。海外(異文化)における設計は、「閾論」の普遍性を試す絶好の機会ともなる。天津の「伴山人家」は潰れたが、「アムステルダムの集合住宅」(2008-)「パンギョ・ハウジング」(2008-)など楽しみである。

 しかし、もちろん、理論と現実は異なる。理念がそのまま実現するとは限らないのがむしろ一般的である。「緑園都市」の場合、「通り抜けの道」を因子としてセットするのが精一杯だったとも言えるのである。

 「東雲キャナルコートCODAN」は、都市基盤整備公団(現都市再生機構)のプロジェクトである。前身は日本住宅公団であり、日本の戦後住宅のプロトタイプを供給してきた日本最大の公的住宅供給機関である。その歴史的、社会的役割についてはここでは置くが、山本理顕など著名な建築家グループに白羽の矢が当たる必然性があったことは間違いない。半世紀の歴史を経て、その住居モデルが社会のニーズとずれてしまっていることは明らかだからである。

 山本理顕は、「洗面所や浴室のようなウォーターセクションと台所を窓側に寄せる」アイディアを試したかったという。そうすることによって、実際にはオフィスのように使ったり、仲間同士でシェアして大きなユニットに住んだり、多様な住まい方が可能になると考えた。民間の分譲マンションを依頼されて提案したけれど、実現しなかった。「分譲住宅として一般性にかける」、すなわち「分譲住宅は住まいというよりも一種の資産として購入するわけだから、誰にとっても過不足がないといったような一般性がないと売れない」とディベロッパーが考えたからである[xix]

 公団もディベロッパーであることに変わりはないが、賃貸住宅ということで社会的ニーズをより考慮できる余地はあった。また、公団としても、空家を出すわけにはいかない社会的プレッシャーがあった。

 7割をファミリータイプ、3割を提案型とした「東雲キャナルコートCODAN」は、平均倍率24倍という成功を収めた。成功の理由は、必ずしも「プラン」の型にあるわけではない。「職寝一体」「職住混在」がその主要な理由だと山本理顕は冷静に分析している[xx]

 山本理顕は「東雲」において何をなしえたのか。伊東豊雄、曽我部昌史との鼎談「東雲キャナルコートCODANを語る」[xxi]を読むと、悪戦苦闘の様がよくわかる。

 SOHOSmall OfficeHome Office)という住まい方に対しては、住宅市場において「デザイナーズ・マンション」が既に対応してきたところである。「ちょっとおしゃれな」デザインというレヴェルではなく「職寝一体」のモデルというのが山本理顕であるが、「多少はできた」「道半ばだなあ」というのが自己総括である。

 

「51C」批判!?

 日本建築学会の設計競技の審査で一緒だった宇野求に、「今日、理顕さんの「東雲」の見学会があるからいきませんか」と誘われて、工事中の現場を訪れた。行ってみると、鈴木成文先生率いる神戸芸術工科大学の学生たちをはじめごった返しの大盛況であった。簡単なビアパーティもあって議論は弾み、その勢いで、新大塚の鈴木成文邸に雪崩れ込むことになり、朝まで飲んだ。気がつけば横浜であった。

 その日の議論がきっかけになって、シンポジウムが企画され、その議論は、『「51C」 家族を容れるハコの戦後と現在』[xxii]という本になった。その全てをしきったのが田島喜美恵(大阪大学大学院)である。

 大きな焦点は、「51C」[xxiii]の評価であり、もうひとつの焦点は、上野千鶴子を急先鋒とする「建築家」=「空間帝国主義者」批判であった。

 その議論の全体は、『「51C」 家族を容れるハコの戦後と現在』に委ねたい。そこで「「51C」:その実像と虚像―戦後日本の住宅と「建築家」―」という文章を書いた。繰り返したいけれど、紙数がない。結論部を引けば以下のようだ。

「一九七九年に東南アジア諸国を歩き出して、強烈なインパクトを受けたのは、セルフヘルプ・ハウジング(自力建設)あるいはハウジング・バイ・ミューチュァル・エイド(相互扶助)と呼ばれる供給手法である。中でも、コア・ハウス・プロジェクトと呼ばれる住宅供給の方法に眼から鱗が落ちる思いがしたことを思い出す。

コア・ハウス・プロジェクトとは、ワンルームと水回り(トイレと洗面台)のみを供給し、後は居住者に委ねるという手法である。それぞれの経済的余裕に従って、後は勝手に増築する。間取りは自由である。財源が乏しく、やむを得ない創意工夫である。コア・ハウスの形態はプリミティブではあるけれど実に多様である。思ったのは、日本の戦後まもなくの「51C」であり、「最小限住宅」である。オールタナティブはいくらでもあり得たのではないか。

その後、インドネシアで集合住宅のモデルを考える機会があった[xxiv]。結果として、コモンリビング、コモンキッチンをもつインドネシア版コレクティブ・ハウスとなった。nLDKをただ積み重ねたり、並べたりするだけの日本の住宅がむしろ特殊であることは明らかである。

キーとなるのは、集合の論理である。あるいは共用空間である。

51C」以降、鈴木成文の仕事の主テーマは、一貫して、集合と共有空間、「いえ」と「まち」をつなぐ論理をめぐっている。それを充分展開し得たのか、という問いは、同時に自ら引き受けるべきであろう。山本理顕の保田窪団地や東雲の提案が「51C」を超え得ているかどうかは冷静に判断されていい。

上野の近代家族批判はラディカルである。しかし、近代家族という擬制も諸制度によって裏打ちされており強固である。そして、住居もまた極めて保守的である。しかし一方、nLDKという空間単位によって構成される社会が多様化する家族関係、流動化する社会編成に対応できないことははっきりしている。

では、どのような空間モデルが可能なのか。

あらゆる機会において、「建築家」には問われ続けているのである。」



[i] 『山本理顕的計画学7788』、『建築文化』、19888月号

[ii] 『新編 住居論』「はじめに」

[iii] 『都市住宅』、鹿島出版会、19704月号

[iv] 何故、原広司が「世界集落調査」へ向かったか、いくつか推測できるけれど、定かではない。風のように集落を駆け抜ける調査の学術的意味について、随分違和感も持ったし、議論もした。僕のアジア都市研究(都市組織Urban Tissues研究、都市型住宅研究)はその議論の延長上にある。

[v] SD別冊6

[vi] インド古来の『シルパ・シャーストラSilpasāstra(諸技芸の書)』のひとつである。Acharya,P.K. “Architecture of Manasara”, Oxford University Press, 1934.

[vii] これについては、拙著『曼荼羅都市』(京都大学学術出版会、2005年)を参照。

[viii] 『室内』連載。199235,7,9

[ix] 『住宅70年代・狂い咲き』、エクスナレッジムック、2006年。

[x] システムズ・ストラクチュアのディテール(彰国社、2001年)p10.

[xi] 『新建築』、19788月号。

[xii] 「破産都市」

[xiii]  2006徹底討論 私たちが住みたい都市〈編著〉(平凡社)

[xiv] 『細胞都市』、INAX1993。『細胞都市』英語版(システム環境研究所)、1999。『細胞都市』フランス語版(フランス建築家協会/フランス)、1999

[xv] 『細胞都市』、INAX1993(『建築の可能性、山本理顕的想像力』、王国社、2006所収)。

[xvi] Hakim B.S. 1986 “Arabic-Islamic Cities: Building and Planning Principles” London。邦訳は1990

[xvii] 「イスラーム都市」そのものの構成原理をめぐっては、遅ればせながら上梓した『ムガル都市―イスラーム都市の空間変容―』(布野修司+山根周、京都大学学術出版会、2008年)に委ねたい。

[xviii] 「建外SOHO」についても論じたいが紙数がない。1住戸の専有面積が230㎡というから単純には比較できない。持家政策へ転換後のプロジェクトであったが、昨年、100㎡未満という政策転換が行われた。今ならどういう提案が可能か、興味深いところである。

[xix] 「建築の社会性」、『JA51 riken yamamoto 2003』、新建築社、20039

[xx] 「「職寝一体」「職住混在」」、『季刊デザイン』No.5200310

[xxi] 『新建築』、20039

[xxii] 平凡社、鈴木成文・上野千鶴子・山本理顕他、2004108

[xxiii] 公営住宅の標準型を示す記号で1951年のC型という意味。他にAB型があり、「51C」は東京大学吉武研究室(鈴木成文他)によって設計された。

[xxiv] 拙著、『カンポンの世界』、パルコ出版、1991

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