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2024年12月12日木曜日

市民参加による大洲城天守の復元,日本建築学会業績賞2006、日本建築学会、2006

「市民参加による大洲城天守の復元」

 

大洲(大津)城は、鎌倉時代末期、伊予国守護宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城(13311568)を起源として、小早川隆景、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰ら諸大名の居城とされてきたものであり、1617年に伯耆国米子から加藤貞泰が入城した時点で城郭の大枠は既に整備されていたと考えられている。版籍奉還まで続いた加藤氏の治世とともにその天守と城郭は維持されてきたが、天守は明治半ば(1888年)に至って取り壊された。今回の復元に当たって、遺構として残されていたのは、最古の三の丸南隅櫓(1766年再建、1965年解体修理)の他、台所櫓(1859年再建、1970年解体修理)、高欄櫓(1860年再建、1970年解体修理)などである。

日本の数多くの地方中核都市のベースとなっているのは近世城下町の形態である。しかし、明治以降、産業化の流れの中で、そのほとんどは大きくその形態、景観を変えてきた。その最初の変貌の象徴が天守の解体であり、事実数多くの天守・城郭は失われてしまった。大洲城も例外ではない。その大洲城の天守が木造の伝統構法によって今回復元されるに至ったことは、大きな時代の転換の象徴というべきであろう。大洲の市街は今日なお江戸時代の町割りをよく残している。今回の天守の復元によって、肘川(ひじがわ)に接する小高い丘(地蔵が丘)に本丸を置き、河川を濠に引き込む絶妙の構成と景観が鮮やかに蘇った。近世城下町のひとつの姿を未来にも永く伝える貴重な業績として評価したい。

第一は、この復元が市民の熱意と浄財に支えられて実現されたことである。大洲城天守閣復元事業は、市政施行40周年の記念事業として1994年に開始され、2004年に竣工するまで10年の年月を要するのであるが、この間実に多くの人々がこの復元プロジェクトに参加してきた。まず、木造伝統構法による復元を当初リードした建築史家の(故)宮上茂隆氏の存在がある。また、今回数々の技術的、法的問題を解決した建築家・技術者群がいる。さらに、実際施工に当たった大工棟梁以下多くの職人さんたちがいる。しかし、それだけでは復元は実現しなかった。復元された各階の柱の一本一本は市民それぞれが寄付する形がとられている。実際の設計施工を含んで、プロジェクト全体を壮大な市民参加のイヴェントとして組織したことこそがユニークである。このプロジェクトへの参加者が建設現場の模型とともに展示されているのもその協働の精神を示している。この参加型のプロジェクトの運営、組織とその手法は大きな業績である。

第二は、この天守復元プロジェクトが地域活性化につながる可能性をもっているという点である。林産の町として、可能な限り、地域産財を用いるという方針は当然とも言えるが、実際には困難な問題も少なくない。大きくは、「地産地消」という環境負荷低減の試みとして位置づけ、評価することが出来る。

第三は、木造伝統構法による復元事業による木造技術・技能の伝承・普及の可能性を示している点である。これまで、大阪城、伏見城などRC造で天守・城郭の外観を復元する試みがいくつかなされてきたが、建築基準法等の制約がある中で、木造伝統構法による復元は極めて困難であった。木造建築技術の見直しの流れの中で、その先駆けとして本格的な木造大規模建造物の復元を法的な条件をクリアしながら実現させたことは大きな業績である。また、大規模木造建築物の構造解析の手法も評価しうる。

本業績は、既に第17回「国土技術開発賞」最優秀賞(2005年)、第1回「ものづくり日本大賞」(2005年)を受賞していることが示しているように、木造技術の伝承・普及に果たす役割がまず期待されるが、以上のまちづくりの手法としての貢献、地域活性化の可能性に関わる評価も加えて、日本の都市の、ひとつの原風景としての城下町の景観復元の意義を高く評価し、日本建築学会業績賞を贈るものである。 タイトル込み1634


                             2005年12月14日

大洲市役建設農林部建築住宅課

主 幹  蔵 本 和 孝 様

                      社団法人日本建築学会学会賞・業績部会

                           部会長  菊 池 雅 史

 

 拝 啓  

 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。

先般は当部会の現地審査におきましてご多忙中にもかかわりませず,ご対応を賜りましたこと,篤く御礼申し上げます。

 

さて,当部会は現在,業績賞に推薦する候補業績を絞り込む最終作業に入っております。

この作業の段階で,貴殿等の業績に対する部会委員全員による意見・提案を以下に記します。

 

.候補業績名の修正について

 ヒアリング等の結果,本業績の最大の原動力は,市民の参加によるものであるとの判断基づき,業績名「大洲城天守の復元」を,「市民参加による大洲城天守の復元」とする。

.候補者名の変更について

 1.の判断に基づき,候補者名を以下のように変更することを提案する。

 ①復元に当たって,市民のエネルギーを集結させた代表者を加える。

  例えば,復元の会の会長に相当する方

 ②行政の代表

  例えば,復元に止まらず,市民のエネルギーのベクトルと行政の町おこし・活性化に結びつけた個人(この候補者としては,部会委員全員が蔵本和孝氏を推薦致しております。)

 ③棟梁

  棟梁は,本業績に不可欠な候補者である。

 ④設計者

  慣例で候補者数は最大でも5名となっております。また,設計に対する等部会の評価は,前記の①,②および③に比べて4番目の位置づけとなっています。したがいまして,当業績に当初から参画し,現在に至るまで大きな功績を示された2名に絞り込んで下さい。(故人も対象となりえます。)

  設計者につきましては,以上のことを判断基準に2名を選出する。

 

 

 

 以上の業績部会の意見・提案は,貴殿等が申請している業績を,最終的に推薦する候補業績とするための条件と受け止めて頂いて結構です。

 

 急な提案ですが,是非上記の方向で関係各位と十分な折衝をされまして,適切にご対応

下さいますようお願い申し上げます。

 ご回答は,2006年1月10日まで,学会事務局の森田・米沢までしかるべき方法で頂ければ幸いです。

 

 末筆ですが,大洲市のますますのご発展をお祈り致しております。      

                                    敬 具

  

2024年11月28日木曜日

日本建築学会 2001年学会賞(作品賞) 総評、建築雑誌、2001

 日本建築学会 2001年学会賞(作品賞) 総評

 布野修司

 今回の選考は、正直言って、あまり乗らなかった。現地視察を行う8作品にこれぞと思う作品のいくつかが残らなかったことと、残った作品のうちに重賞がらみの作品が3作品もあったことが大きい。

 重賞は絶対認めないというのではないが、余程の作品でなければ投票しない、というのが、基本姿勢である。要するに、学会賞は、「新人賞」的でいい、と思う。荒削りであれ、将来の日本の建築界をリードするような力のある若い作家に可能性をみたいと思う。学会賞のレヴェルが問題になるのは、若手の作品に勢いが無く、それなりのキャリアを積んだ卒のない作品の受賞が続いているからであろう。これも時代の流れである。

 受賞作の内では、公立はこだて未来大学は文句無いと思った。実に単純なビルディング・システムがかくも多様な空間を産むということにいささか感動を覚えた。山本理顕さんのプランニングの力量とともに、木村俊彦先生の到達点を見る思いであった。テクニカル・アプローチの、大袈裟に言えば日本の近代建築の目指したのはこのような作品であったのかもしれない、と思った。

 地下鉄線大江戸線飯田橋駅は、土木分野への建築家の果敢な試みとして評価したい。余計な仕上げを剥ぎ取るだけで地下空間の豊かな展開を示唆し得ている。しかし、それ以上を期待したい気がある。排気塔や天井を這う照明器具のインスタレーションはそれ以上の方向を指し示しているようには思えなかった。

 W・HOUSEは、版築の壁に好感をもった。しかし、都市型住宅のプロトタイプとしては、街に対しても、市場としても、いささか閉じすぎてるように思った。

 若い力に期待するという意味では「八代の保育園」に大いに期待があったが、勢いが感じられなかった。徹底するところがない、という印象である。透静庵は極めて水準の高い作品であるが、公開性に欠ける点がひっかかった。8作品に惜しいところで残らなかった竹山聖、宇野求の作品にしても、住宅スケールの作品には、「一連の作品」というのを、受賞対象から外した学会賞規定のハードルはいささか高い。

  

2024年11月27日水曜日

日本建築学会 2000年学会賞(作品賞) 総評、建築雑誌、2000

 日本建築学会 2000年学会賞(作品賞) 総評

 最終判断には委員会全体のある種のバランス感覚が働いていると思う。そういう意味では妥当な選考であった。

 ただ個人的評価は異なる。第一次選考で残った8作品の中で最後まで押したのは「上林暁文学記念館」「三方町縄文博物館」「中島ガーデン」の3作品である。前2作品は第一次選考で最も多い票を集めたが、現地調査で支持を失ったのが残念である。細かい収まりより大きな構想、新しい空間の予感、薄くてぺらぺらの建築ではなく存在感のある建築を評価基準としたけれど、眼につく欠陥の指摘を圧倒し返す言葉を持ち得なかった。

 「熊本県立農業大学校学生寮」は、豪快で、さすが当代の目利きの作品と、好感が持てた。特に食堂の空間が不思議な魅力がある。ただ、平面計画にしろ構造計画にしろ素人そのものなのは買えなかった。特に木造の扱いはこれで時間に耐え得るかと思う。また、旧態たる奇妙な設計施工の体制も気になった。「東京国立博物館法隆寺宝物館」は完成度において文句はないが、この作品によって「重賞」問題を突破するのをやはり躊躇(ためら)った。「中島ガーデン」は、日本型都市型住宅のプロトタイプ提出の試みとして「茨城県営長町アパート」とともに評価した。

 

2022年9月15日木曜日

建築学会賞を論ずる,建築学会賞の「権威」,日経アーキテクチャー,日経BP社,19920608

建築学会賞を論ずる,建築学会賞の「権威」,日経アーキテクチャー,日経BP社,19920608

建築学会作品賞を論ずる                           布野修司

                 

 建築界に顕彰制度は数多い。それこそ掃いて捨てるほどある。しかし、一応「権威」あるものというとやはり「建築学会賞」ではないか。その次か並んで、文部大臣賞とか芸術院賞とか外国の「権威」ある賞があって、「最高権威」が「芸術院会員」というのが大方の見方だろう。

 もっとも、建築学会賞が実質的に「権威」をもっているかどうかは疑わしい。業界で一応「権威」があることになっているだけで、世間ではちっとも認知されてないからである。その証拠に一般誌には発表されない。当選者の喜びの談話がTVニュースになる芥川賞とか直木賞とは雲泥の差異である。

 なぜ、建築学会賞が「権威」をもつかというと、賞が乱立するなかで特権的な象徴が必要とされるからである。建築学会賞が、新人賞的だったり、年間賞的だったり、年功功労賞的だったり、結果的に性格を曖昧なままにするのもその象徴効果の保持を機能とするからである。

 いずれにせよ、賞の価値は審査員会の編成と個々の審査員の見識に負うところ大である。その点、建築学会賞の審査過程がオープン化されつつあるのはいいことである。裸の「権威」によるのではなく、内容の積み重ねが「権威」となるのが賞の真っ当なあり方だからである。ただ、建築学会賞が真に「権威」をもつためには、さらに一般に開く回路がどうしてもいると僕は思う。