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2024年9月17日火曜日

都市計画批判のプロブレマティ-ク 啓蒙・機能・普遍から参加・文脈・場所へ,都市計画,No.205,日本都市計画学会,1997

 都市計画批判のプロブレマティ-ク 啓蒙・機能・普遍から参加・文脈・場所へ,都市計画,No.205,日本都市計画学会,1997

 

啓蒙・機能・普遍から参加・文脈・場所へ

 

布野修司

 

 はじめに

 「近代の啓蒙主義、合理主義、機能主義、普遍主義などに対して提起された、住民の主体性、場所の文脈の重視などの方向性の意味と現代への影響を、ジェイコブス、ヴェンチューリ、リンチ、アレグザンダーらの議論に沿って考える」というのが与えられた課題である。この4人の建築家、理論家が一体どういう脈絡でつながるのか、以上の課題設定は少し乱暴ではないか、という気がしないでもない。あるいは、課題設定の中に解答(書くべきこと)が既に含まれているけれど、その筋を読み損なったらどうしようと不安でもある。

 例えば、大都市批判を展開し、都市計画の画一性と不毛性を経済学的・社会学的に分析し、都市における公園や街路の重要性を主張し、その多様性を維持するための小街区方式を提案したJ.ジェイコブスの都市理論は、基本的には近代都市計画理論の延長であろう。R.ヴェンチューリの近代建築批判(『建築の多様性と複合性』『ラスベガス』)は、ポストモダン建築理論の方向づけを行ってわかりやすいけれど、都市計画理論に何か寄与をしたかというと疑問であろう。K.リンチの『都市のイメージ』における都市の基本的なエレメントの抽出、都市の意味論的、象徴論的次元の提起も、シンボル配置論など具体的な都市計画に結びついていったかというと、必ずしもそうは言えないのではないか。設計計画のプロセスの徹底した論理化(『形の合成に関するノート』)を目指して出発したC.アレグザンダーが、その後のパターン・ランゲージ論や『まちづくりの新しい理論』などの理論展開において、その一貫するある種の普遍主義を離脱放棄したというふうには見えない。

 4人の理論と仕事はいずれもそれぞれ独自に論じられるべき思考の密度を持っており、とても合わせて論じきる自信も能力もない。テーマはいずれにせよ「近代都市計画」批判ということであろう。とても手に負えないけれど、徹底した都市計画批判を展開したひとつのテキストから出発してみよう。

 

 都市計画の幻想

  「石とセメントと金属の線で、テリトリーのうえに、人間の住居の配置・秩序を描く活動」 芸術科学であり、技術であり認識であるという一元的性格が幻想をおしかくす

 ①都市計画自体の分裂:ヒューマニストの都市計画、プロモーターの都市計画 国家テクノクラートの都市計画(制度とイデオロギーに分離)

 →哲学の幻想:国家の幻想とパラレル:体系的 完全性への幻想 ユートピア

 ②都市的実践が盲域となる:盲化 実践を空間・社会生活・諸集団とその関係の表象に置換する  実践の還元者としての都市計画のイデオロギー

 ③生産活動の見落とし:空間の生産 生産物としての空間 社会的総空間の商品化

 ④資本主義の戦略ーー空間支配・・社会全体の剰余生産物の分配等を、実証的でヒューマニズム的でテクノロジックな外観で、覆い隠す

 ⑤拡大適用:医学的イデオロギー、病理空間の治癒 

  →空間の区画、編成をするにすぎない 抑圧的空間を編成する

 ⑥一貫性を欠く断片化に荷担:都市現実とプロブレマティークは、理論的一貫性欠いたものへと断片化される。コンフリクトの裂け目を埋める役割は→工業的空間の論理  商品の世界の論理

 ⑦二重の物神崇拝

  満足の物神崇拝 当事者の満足 社会的欲求をなおざり

  空間の物心崇拝  よい場所はよい事物を生み出す 使用と空間の矛盾

 ⑧都市計画の不動産業としての役割 土地への投機 を隠す

 ⑨階級の都市計画→辞職か、恥知らずかのどちらかに追い込まれる

  批判的反省、革新的イデオロギー、左翼主義的異議申し立て

 ⑩都市計画のすべてがネガティブではない

  学際性 ジンテーゼ 空間と人間関係の創造者をうたう限り、盲化するものである。おのれの名を隠しているユートピアこそ最悪

●都市社会

 

●結論

 都市のプロブレマティック→使用者の沈黙 受動性

 1.二重の置換

 2.歴史的な動機

 3.都市現象の断片化

 4.社会学的根拠

都市・地域論

 

Ⅰ.「地域生活空間計画」

 

 1.地域計画

   「一定の地域に対する物的計画を地域計画という」(日笠端)?

   「地域計画は経済計画と物的計画の結合という意味において、全ての空間    レヴェルの中心をなす最も基礎的な計画」(大久保昌一)?

   国土計画 地方計画 都市計画 地区計画 建築計画

   住宅地計画 住環境計画 居住地計画 コミュニティー計画

 

 

 「建築家」捜し

 原広司の「建築とは何か」を問うより、「建築に何が可能か」*1を問うべきだというテーゼにならえば、「建築家」という概念を括弧にくくって、あるいは棚上げして、「建築家」に何ができるか、あるいは「建築家」は何をすべきかこそ問うべきかもしれない。

 磯崎新の『建築家捜し』という本のタイトルは意味深長である。その内容は、「建築家とは何か」を真正面から問うというより、自らの仕事を回顧し、一区切りをつけようとしたものである。一九九六年に入って、『造物主議論』(鹿島出版会)『始源のもどき』(鹿島出版会)『磯崎新の仕事術』(王国社)、そして『建築家捜し』(岩波書店)と立て続けに四冊の著書を磯崎は上梓したのであるが、確実に磯崎にとってのある時代が終わりつつあることを暗示していて興味深い。そして、さらに興味深いのは、日本の建築界をリードし続けたその磯崎が、自らの軌跡を振り返って、「建築家」とは一体何者なのかわからない、と言い切っていることである。

 「正直なところ、私には二つのコトが本当に分かっているように感じられなかった。ひとつは、普段に私が自称している建築家であり、もうひとつは日常的にそれについて仕事をしているはずの《建築》である。この二つのコトを排除したら私は何も残っていないだろう。建築家を自称し、職業として登録している。そして、建築物のデザインをし、建築物についての文章を書き、これにかかわる言説をひねり、文化や思想の領域にそれを接続しようとしてもいる。だが、と私は自問していた。本当のところ何も分かっちゃいないんじゃないか。」*2

 磯崎ですらこうである。というより、ここには「建築家とは何か」という問いの平面が仮構されていることをまず見るべきだろう。「建築家」をめぐる観念的な、あるいは一般的な問いの領域が必要とされてきたのである。磯崎の「建築家」論には、その現実的な存在形態についての問いが抜けている。社会や生産システムの中の「建築家」のあり方についての問いである。逆に言うと、「建築家」捜しを続けないと「建築家」がなりたたない現実があるということである。「建築家」の営為を成り立たせる平面、場所を仮構し続けながら、結局わからないと言わざるを得ない、のである。

 

 「世界建築家」・・・デミウルゴスの末裔たち

 「建築家とは・・・である」と、古来様々なことがいわれてきた。いくつか集めて見たことがある*3。アンブローズ・ビアズの『悪魔の辞典』は「建築家 名詞 あなたの家のプラン(平面図)を描き、あなたのお金を浪費するプランを立てるひと」*4などと皮肉たっぷりであるけれど、決まって引かれるのは、最古の建築書、ヴィトルヴィウスの『建築十書』の第一書第一章である。

 「建築家は文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識をもちたいものである」

 「建築家」にはあらゆる能力が要求される、とヴィトルヴィウスはいうのだ。

 「建築家」という職能は相当古くからあった。ごく自然に考えて、ピラミッドや巨大な神殿、大墳墓などの建設には、「建築家」の天才が必要であった筈だ。実際、いくつかの建築家の名前が記録され、伝えられているのである。最古の記録は紀元前三千年ということだ。例えば、故事によれば、ゾセル王のサッカラ(下エジプト)の墓(ピラミッド複合体)は建築家イムホテプによるものである。もっとも、彼は単なる建築家ではない。法学者であり、天文学者であり、魔術師である。

 伝説の上では、ギリシャの最初の建築家はクレタの迷宮をつくったダエダルスがいる。彼もただの建築家ではない。形態や仕掛の発明家といった方がいい。ダエダルスというのは、そもそも技巧者、熟練者を意味する。

 磯崎新が「建築家」の原像として召喚するのがデミウルゴスである。

 「デミウルゴスは、プラトンが宇宙の創生を語るにあたって『ティマイオス』に登場させられた。宇宙は三つの究極原理によって生成する。造形する神としてのデミウルゴス、眼に見えぬ永遠のモデルとしてのイデア、存在者を眼にみえさせる鋳型のような役割をする受容器(リセプタクル)としての場(コーラ)。デミウルゴスは、可視的な存在としての世界を、イデアをモデルとしての場(コーラ)のふるいにかけたうえで生成する役割を担わされている。」*5

 磯崎新の「造物主義」という論文は、デミウルゴス(という概念)の帰趨を論ずる形の西洋建築史の試みである。

 「デミウルゴスは、『ティマイオス』においては造物主、グノーシス主義においては神の他者、フィチーノにおいては芸術家、フリーメーソンでは大宇宙の建築家、ニーチェにおいてはツァラストラと姿を変えて語られてきた。そして、今日ではテクノクラートのなかにエイリアンのように寄生しているようにみうけられる。」*6

 デミウルゴスは、元来、靴屋や大工のような手仕事をする職人を指している。必ずしも万能の神のように完璧な創造をするわけではない。グノーシス主義においては「欠陥ある被造物」にすぎない。僕らはここでオイコス(家)に関わる職人としてのオイコドモス、オイコドミケ・テクネ(造家術)と「アーキテクトニケ・テクネ」(建築術、都市術)の系譜を歴史に即して跡づけるべきなのであろう*7

 しかし、宇宙の創生神話と結びついたデミウルゴスのイメージは強烈である。根源的技術(アーキ・テクトン)を司る「建築家=アーキテクト」の概念にも確実にデミウルゴスの概念が侵入しているのである。

 「建築家」は、全てを統括する神のような存在としてしばしば理念化される。この神のごとき万能な造物主としての「建築家」のイメージは極めて根強い。ルネッサンスの人々が理念化したのも、万能人、普遍人(ユニバーサル・マン)としての建築家である。レオナルド・ダヴィンチやミケランジェロ、彼らは、発明家であり、芸術家であり、哲学者であり、科学者であり、工匠であった。

 多芸多才で博覧強記の「建築家」像は今日でも建築家の理想である。近代建築家を支えたのも、世界を創造する神としての「建築家」像であった。彼らは、神として理想都市を計画することに使命感を抱くのである。

 そうしたオールマイティーな「建築家」像は、実は、今日も実は死に絶えたわけではない。時々、誇大妄想狂的な建築家が現れて顰蹙をかったりする。「建築家」になるためには、強度なコンプレックスの裏返しの自信過剰と誇大妄想が不可欠という馬鹿げた説が建築界にはまかり通っている程である。A.ヒトラーがいい例だ。かって、「建築家」はファシストか、と喝破した文芸評論家がいたのだけれど、「建築家」にはもともとそういうところがある。

 

 分裂する「建築家」像

 「建築家」の社会的な存在形態は、時代とともに推移していく。S.コストフの編んだ『建築家』*8という本が、エジプト・ギリシャ、ローマ、中世、ルネッサンス、・・・と、各時代の建築家について明らかにしているところだ。その中では、ジョン・ウイルトンエリーがイギリスにおける職業建築家の勃興について書いている*9

  イギリスで最初に自らを建築家と呼んだのは、イニゴー・ジョーンズ(15731652年)ではなくてジョン・シャテである。一五六三年のことだ。その出自は定かではないが、イタリアで学んだらしい。彼は、ヴィトルヴィウス、アルベルティ、セルリオを引きながら、ルネッサンスの普遍人としての「建築家」を理想化する。描画、測量、幾何学、算術、光学に長けているだけでなく、医学、天文学、文学、歴史、哲学にも造詣が深いのが「建築家」である。ウイルトンエリーは、もちろん、シャテの理想が受け入れられる社会的背景を明らかにした上で、まずはサーヴェイヤー(監督 測量士)が生まれてくる過程を跡づける。フリー・メイソンのロバート・スミッソンなどの名前が最初期のサーヴェイヤーとして知られる。そして、イニゴー・ジョーンズの時代が来る。

 時代は下って、一八世紀後半に至ると、デザイナーであり、サーヴェイヤーであり、学識者である「建築家」のプロフェッションが社会的に認知されてくる。それを示すのが、「建築家」のオフィスや教育機関の設立である。また、「建築家」の諸団体の成立である。

 ジョージ・ダンス、ヘンリー・ホランド等によって「建築家クラブ」が設立されたのは一七九一年のことである。チェインバース、アダムズは後に加わるのであるが、そのクラブは極めて排他的であり、メンバーは王立アカデミー会員に限定されたものであった。一種のサロン、ダイニング・クラブであるが、最初の「建築家」の団体が極めて特権的なものとして設立されたことは記憶されていい。まずは、新しい職能としての「建築家」と伝統的な「建築家」の区別が行われるのである。さらに、サーヴェイヤーとアーキテクトの区別がはっきりしてくる。「サーヴェイヤーズ・クラブ」が設立されるのは一七九二年のことであった。一七七四年に建築基準法(ビルディング・アクト)が施行されており、それに基づいた職能が社会的に認知されたことに対応してつくられたのである。

  同じ分離は、エンジニアとアーキテクトの間にも起こる。一七七一年に「シビル・エンジニア協会」が設立され、一八一八年には「シビル・エンジニア協会」が設立されるのである。エンジニアとアーキテクトの関係が決定的になるのは「英国建築協会」(RIBA)の設立(一八三四年)からであり、ビクトリア女王が王立の名を与えて(一八六六年)からのことである。

 

 落ちぶれたミケランジェロ

 アーキテクトの職能確立の過程で以上のような分離、分裂が始まっていた。否、むしろ、今日の「建築家」の理念は、以上のような分離、分裂において成立したとみるべきであろう。

 以後、広く流布する「建築家」像が「フリー・アーキテクト」である。フリーランスの「建築家」という意味である。今でも建前として最も拠り所にされている「建築家」像である。すなわち、「建築家」は、あらゆる利害関係から自由な、芸術家としての、創造者としての存在である、というのである。もう少し、現実的には、施主と施工者の間にあって第三者的にその利害を調整する役割をもつのが「建築家」という規定である。施主に雇われ、その代理人としてその利益を養護する弁護士をイメージすればわかりやすいだろう。医者と弁護士と並んで、「建築家」の職能もプロフェッションのひとつと欧米では考えられている。

 もちろん、こうした「建築家」像は幻想である。いかなる根拠においてこうした「建築家」がなりたつのか。すなわち、「第三者」でありうるのか。その根拠として、西欧的市民社会の成熟、あるいはキリスト教社会におけるプロフェッションの重みが強調されるけれど、「建築家」たちが社会的に存在するにはそれを支える制度がある。建てる論理の前に食う論理がある。ジョージ・ダンスの建築家クラブも、専ら報酬のことを問題としていた。

 彼らは、「建築家」という理念の解体を目前にしながら、その理念を幻想として維持するために特権的な制度=インスティチュートをつくったのである。「建築家」は、予め、先の処分裂に加えて、建てる論理と食う論理の分裂を自らの内に抱え込みながらながら成立したのだといっていい。そして、イギリスにおいて、そうした幻想としての「建築家」像を担保したのは「王立」組織(「王権」)であり、「神」(あるいはデミウルゴス)であった。

 しかし、いずれにせよ、万能人としての「建築家」像の分裂は、近代社会において誰の目にも明らかになった。その分裂は、多くのすぐれた「建築家」の嘆くところとなる。

 「偉大な彫刻家でも画家でもないものは、建築家ではありえない。彫刻家でも画家でもないとすれば、ビルダー(建設業者)になりうるだけだ」 ジョン・ラスキン

 「ローマの時代の有名な建築家のほとんどがエンジニアであったことは注目に値する」 W R レサビー

 「建築家の仕事は、デザインを作り、見積をつくることである。また、仕事を監督することである。さらに、異なった部分を測定し、評価することである。建築家は、その名誉と利益を検討すべき雇主とその権利を保護すべき職人との媒介者である。その立場は、絶大なる信頼を要する。彼は彼が雇うものたちのミスや不注意、無知に責任を負う。加えて、労働者への支払いが予算を超えないように心を配る必要がある。もし以上が建築家の義務であるとすれば、建築家、建設者(ビルダー)、請負人の仕事は正しくはどのように統一されるのであろうか。」ジョーン・ソーン卿

 「歴史と文学を知らない弁護士は、機械的な単に働く石工にすぎない。歴史と文学についての知識をいくらかでももてば、自分を建築家だといってもいいかもしれない。」 ウォルター・スコット卿

 「建築家とは、今日思うに、悲劇のヒーローであり、ある種の落ちぶれたミケランジェロである」とニコラス・バグナルはいう。

 

 建築士=工学士+美術士

 「建築」あるいは「建築家」という概念が日本にもたらされて以来、日本も西欧の「建築」あるいは「建築家」をめぐる議論を引きずることとなった。あるいは「建築家」という幻想に翻弄されることになった。

 お雇い外国人技術者として日本に招かれたJ.コンドルは、シビル・エンジニアとアーキテクトの分離を前提として、イギリスからやってきた。しかし、サーヴェイヤーとアーキテクトの分離はJ.コンドルにおいて未分化だったといえるかもしれない。彼に求められたのは、何よりも実践的な技術であり、「建築家」としての実践であった。彼の工部大学校における講義は、「造る術」の全般に及ぶのである*10

 J.コンドルを通じて、日本には、なにがしかの全体性をもった概念として「建築家」がもたらされたといってもいいかもしれない。しかし、富国強兵、殖産興業の旗印のもと、予め工学の枠を前提として「建築」が「技術」として導入されたことは日本の「建築家」を独特に方向づけることになった。美術ですら「技術」の一範疇として西欧から導入されたのが日本の近代なのである。

 そうした日本の「建築」の出自において、「建築」の本義を論じて、その理念の受容をこそ主張したのが伊東忠太であった*11。その卒業論文『建築哲学』にしろ、建築学における最初の学位論文である『法隆寺建築論』にしろ、建築を美術の一科として成立させようという意図で貫かれているのである。

 しかし、日本の場合、地震という特殊な条件がさらにあった。建築における構造学を中心とする工学の優位はすぐさま明かとなる。当初から、「建築」は分裂をはらんで導入されたのであった。建築における美術的要素の強調は、建築家の定義をめぐって、せいぜい「建築士=工学士+美術士」といったプラス・アルファーの位置づけに帰着するものでしかなかったのである。素朴な用美の二元論と同相の建築家像の二元論は、大正期の建築芸術非芸術論争に引き継がれ、いわゆる「芸術派」(自己派、内省派)と「構造派」の分裂につながっていく。明治末から大正期にかけて、住宅問題、都市問題への対応を迫られる中で、「社会改良家としての建築家」(岡田信一郎)という概念も現れる。そして、大正末から昭和はじめにかけて、「芸術派」批判として「社会派」が定着していくことになる。しかし、それも、もうひとつ分裂の軸を付け加えるだけであった。「建築家」における「芸術派」「構造派」「社会派」の、相互につかず離れずの三竦(すくみ)みの構造は今日に至るまで生き延びることになる。日本における「建築」論がそうしたいくつかの分裂を背景として仮構されたのは明らかである。

 

 重層する差別の体系

  こうして、日本の建築界にはいくつもの分裂が組み込まれていく。日本の「建築家」像を問うのがうんざりするのは、様々な差別が重層するその閉じた構造の故にである。

 まず、建築(アーキテクチャー)と建物(ビルディング)の区別がある。それに対応して、「建築家」と「建築屋」の区別がある。

 あるいは、「建築」と「非建築」の区別がある。数寄屋は「建築」ではない。大工棟梁、職人の世界は「建築家」の世界と区別される。

 「建築」と「住宅」も区別される。さらに「住宅作品」と「住宅」が区別される。そうした区分に応じて「建築家」と「住宅作家」が区別される。

 「構造」と「意匠」が区別される。かって、「意匠」図案は婦女子のやること(佐野利器)とされたのであるが、なぜか「意匠」を担当するのが「建築家」だという雰囲気がある。さらに、建築界の専門分化に応じて、様々な区別がなされる。全体として、「建築家」と「技術屋」(エンジニア)が区別される。

 「設計」と「施工」が区別される。それに対応して、「建築士」と「請負業者」が区別される。この「設計」「施工」の分離をめぐっては、近代日本の建築史を貫く議論の歴史がある。建築士法の制定をめぐる熾烈な闘争の歴史がそうだ*12。戦前における、いわゆる「六条問題」、兼業の禁止規定問題は、「日本建築士会」と建設業界の最大の問題として、戦後の「建築士法」制定(一九五〇年)にもちこされるのである*13

 さらに、六〇年代における設計施工一貫か、分離かという建築界あげての論争が続く。そして、七〇年代は、日本建築家協会の設計料率の規定が公正取引委員会の独禁法違反に当たるという問題(「公取問題」)で建築界は揺れ続けた。

 冒頭に触れたように、法制度的には「建築士」という資格があるだけである。この「建築士」も「一級建築士」「二級建築士」「木造建築士」と差別化されている。資格だから、その業務の形態は、様々でありうる。総合建設業の組織内部の「建築士」、住宅メーカーの中の「建築士」、自治体の中の「建築士」など、企業組織の中の「建築士」がむしろ一般的である。この点、古典的な「建築家」の理念を掲げる日本建築家協会を拠り所とする「建築家」たちも同じである。建築士事務所を主宰する場合、その組織は株式会社であり、有限会社であり、一般に利益追求する企業形態と変わりはないのである。その料率規定が独禁法に問われても仕方がないことであった。その高邁な「建築家」の理想を担保するものはないのである。だからこそ「職能法」の制定が求められ続けてきた、と言えるのだけれど、「建築家」という職能を特権的に認知する社会的背景、基盤はないのである。

 「建築士事務所」も「組織事務所」と「アトリエ(個人)事務所」に分裂する。実態は同じであるけれど、建築ジャーナリズムが主としてその区別を前提とし、助長しているように見える。小規模な「建築士事務所」も、いわゆる「スター・アーキテクト」の事務所から、専ら確認申請のための設計図書の作成を業務とするいわゆる「代願事務所」まで序列化されている。

 建築教育に携わる「プロフェッサー・アーキテクト」は唯一特権的といえるかもしれない。「建築家」教育という理念が唯一の統合理念でありうるからである。しかし、実態として大学の空間で、要するに建築の現場から離れて、「建築家」教育ができるわけではない。という以前に、大学の建築教育の中にも以上のような様々なが分裂が侵入してしまっている。また、工業高校、工業専門学校等々を含めて、偏差値社会の編成によって大学も序列化され、産業界に接続されている。

 さらに、「施工」の世界、すなわち建設業界には、いわゆる重層下請構造がある。スーパー・ゼネコンに代表される総合建築業者がいくつかの専門工事業者(サブコン)を下請系列化し、専門工事業者は、また、二~三次の下請業者を持つ。数次の下請構造の末端が寄せ場である。ゼネコンのトップの意識の中では、寄せ場へ至るリクルートの最末端は、まるで別世界のことのようである。しかし、ゼネコン・トップは公共事業の受注をめぐって政治の世界と結びつき、地域へと仕事を環流させる役割を担って最末端に結びついている。そして、そこに建築行政の世界が絡まり合う。

 

 「建築家」の諸類型 

 こうした重層する差別体系の中で個々の「建築家」は何をターゲットにしているのか。全ての建築家論の基底において問われるのは、その「建築家」がどこに居て何を拠り所としているかということだ。

 『アーキテクト』*14という面白い本がある。アメリカの建築界が実によくわかる。日本の「建築家」は、欧米の建築家の社会的地位の高さを口にするけれど、そうでもないのである。その最後に、建築家のタイプが列挙してある。日本でも同じように「建築家」を分類してみることができるのではないか。

 名門建築家 エリート建築家  毛並がいい

 芸能人的建築家 態度や外見で判断される 派手派手しい

 プリマ・ドンナ型建築家   傲慢で横柄   尊大

 知性派建築家  ことば好き 思想 概念 歴史 理論 

 評論家型建築家  自称知識人 流行追随

 現実派建築家  実務家 技術家

 真面目一徹型建築家  融通がきかない 

 コツコツ努力型建築家  ルーティンワーク向き

 ソーシャル・ワーカー型建築家  福祉 ボトムアップ ユーザー参加

 空想家型建築家  絵に描いた餅派

 マネジャー型建築家 運営管理組織

 起業家型建築家  金儲け

 やり手型建築家  セールスマン

 加入好き建築家  政治 サロン

 詩人・建築家型建築家  哲学者 導師

 ルネサンス人的建築家

 ここまで多彩かどうかは疑問であるけれど、日本の建築家を当てはめてみるのも一興であろう。しかし、もう少し、具体的な像を議論しておいた方がいい。「建築家」の居る場所は、結局は、何を根拠として何を手がかりに表現するかに関わるのである。

 今日、「建築家」といっても、郵便配達夫シュバルやワッツ・タワーのサイモン・ロディアのような「セルフビルダー」を除けば、ひとりで建築のすべてのプロセスに関わるわけではない。建築というのは、基本的には集団作業である。その集団の組織のしかたで建築家のタイプが分かれるのである。

 

  制度の裂け目

 建築界の重層的かつ閉鎖的な差別、分裂の構造をどうリストラ(改革)して行くかはそれ自体大きなテーマである。「建築士」の編成に限っても大問題である。建設業のリストラになると日本の社会全体の編成の問題に行き着く。「建築士法」の改定、「建築基準法」の改正など、具体的に例えばインスペクター(検査士)制度の導入、あるいは街づくりにおける専門家派遣制度などをめぐる議論が構造変化に関わっているけれど、全体的な制度改革は容易ではないだろう。既成の諸団体が重層的な差別体系の中で棲み分け合っている構造を自ら変革するのは限界がある。また、一朝一夕にできることではないだろう。

  そこで期待されるのが外圧である。日米構造協議,ISO9000、輸入住宅、建設産業に限らないけれど、この国は外圧に弱い。しかし、国際的に閉じた構造を外部から指摘されて初めて問題を認識するというのはあまりにも他律的である。もう少し、自律的な戦略が練られるべきであろう。指針は、開くことである。

 あまりに日本の「建築家」をめぐる環境にはブラックボックスが多すぎる。その閉じた仕組みをひとつひとつ開いていくことが、日常的に問われている。そして、その問いの姿勢が「建築家」の表現の質を規定することになる。諸制度に対する姿勢、距離の取り方によって「建築家」は評価されるべきなのである。

 既存の制度、ルーティン化したプログラムを前提として表現するのであれば、「建築家」はいらないだろう。「建築家」を簡単に定義するとしたら、以上のように規定すればいいのではないか。すなわち、その依って立つ場所を常に開いていこうとする過程で表現を成立させようとするのが「建築家」なのである。何も、高邁な「建築家」の理念を掲げる必要はない。高邁な理念を掲げながら、悲惨な現実に眼を瞑るのだとしたらむしろ有害である。閉じた重層する差別の構造を開いていくこと、制度の裂け目から出発することが最低限の綱領ではないか。

 例えば、設計入札、例えば、疑似コンペ、少しの努力で構造変革が可能なことも多いのである。

 

 以上のささやかな指針を前提として、いくつか、これからの日本の「建築家」像を夢想してみよう。

 

 アーキテクト・ビルダー

 C.アレグザンダーの主張するアーキテクト・ビルダーという概念がある。「建築家」は、ユーザーとの緊密な関係を失い、現場のリアリティーを喪失してきた。それを取り戻すためには、施工を含めた建築の全プロセスにかかわるべきというのである。アーキテクト・ビルダーとは、アーキテクトとビルダーの分裂を回復しようというわかりやすい言葉である。

 中世のマスタービルダーの理念が想起されるけれど、あくまでアーキテクトの分離が一旦前提とされるべきであろう。日本では設計施工の一貫体制が支配的であり、アーキテクトという概念が根付いていないからその主張は混乱を生んだように思う。また、C.アレグザンダーは、盈進学園で実践してみせたように、建物の規模を問わず、一般的にありうべき「建築家」の理念として提示するのであるが、一定の規模の建築を超えると非現実的と思える。

 しかし、少なくとも、身近な住宅規模の建築については、個人としての「建築家」が設計施工の全プロセスに関わることが可能である。また、基本的に設計施工一貫の体制が必要であり自然である。大工棟梁、小規模な工務店がこれまでそうした役割を果たしてきたのである。ところが、住宅生産の工業化が進行し、様々な生産システムが混在する中で、在来の仕組みは大きく解体変容を遂げてきた。その再構築がひとつのイメージになるだろう。大工工務店の世界、二級建築士、木造建築士の世界がアーキテクト・ビルダーという理念のもとに統合されるのである。

 一般的にはCM(コンストラクション・マネージメント)方式を考えればいいだろう。ゼネコンという組織に頼るのではなく、「建築家」自らと専門工事業(サブコン)が直接結びつくネットワーク形態が考えられていいのである。

 

  サイト・スペシャリスト

 アーキテクト・ビルダーが連携すべきは職人の世界である。職人の世界も急速に解体変容してきた。建設産業への新規参入が減少し、現場専門技能家(サイト・スペシャリスト)の高齢化が進行する中で、建設産業の空洞化が危惧される。

 現場でものを造る人間がいなくなれば「建築家」もなにもありえないのであって、職人の世界の再構築が大きな課題となる。その場合、ひとつのモデルと考えられるのが、ドイツなどのマイスター制度である。

 マイスター制度は、ひとつの職人教育のシステムであるけれど、より広く社会そのものの編成システムである。ポイントは、社会的基金によって職人とそのすぐれた技能が継承されていく仕組みである。具体的には、建設投資の一定の割合が職人養成に向けられる仕組みがつくられる必要がある。

 その仕組みの構築は、社会全体の編成に関わるが故に容易ではない。しかし、職人の世界が社会の基底にしっかり位置づけられない社会に建築文化の華が咲く道理はない。机上の知識を偏重する教育や資格のあり方は、現場の智恵や技能を重視する形へと転換する必要がある。また、現場の技能者、職人のモデルとしてのマイスターが尊重される社会でなければならない。

 重視さるべきは、「職長」あるいは「現場監督」と呼ばれる職能である。おそらく、すぐれた「現場監督」こそアーキテクト・ビルダーと呼ばれるのに相応しいのである。

 

 シビック・アーキテクト・・・エンジニアリング・アーキテクト

 建築と土木、あるいは、エンジニアとアーキテクトの再統合も課題となるであろう。建築と土木の分裂は、都市景観を分裂させてきたのであり、その回復が課題となるとともに、土木も建築も統一的に計画設計する、そうした職能が求められるのである。

 その出自において「建築家」に土木と建築の区別はない。「建築家」は、橋梁や高速道路、あるいは造園の設計についての能力も本来有していると考えていい。土木構築物の場合、構造技術そのものの表現に終始するきらいがあった。いわゆるデザインが軽視されてきた歴史がある。今後、景観デザインという概念が定着するにつれて、シビック・アーキテクトと呼ばれる「建築家」像が市民権を得ていく可能性があるのである。

 その場合、構造デザイナーとしての資質が不可欠となる。デザイン・オリエンティッドの構造家、アーキテクト・マインドを持った構造家がその最短距離にいると言えるだろう。もっとも、構造技術を含めた建築の諸技術をひとつの表現へと結晶させるのが「建築家」であるとすれば、全ての「建築家」がシビック・アーキテクトになりうる筈である。

 

 マスター・アーキテクト

 計画住宅地や大学キャンパスなど複合的なプロジェクトを統合する職能として、マスターアーキテクトが考えられ始めている。ここでも、ある種の統合、調整の役割が「建築家」に求められる。

 素材や色、形態についての一定のガイドラインを設け、設計者間の調整を行うのが一般的であるが、マスター・アーキテクトの役割は様々に考えられる。個々のプロジェクトの設計者の選定のみを行う、コミッショナー・システムあるいはプロデューサー・システムも試みられている。

 プロジェクト毎にマスター・アーキテクトを設定する試みはおそらく定着していくことになるであろう。法的な規制を超えて、あるまとまりを担保するには、ひとりのすぐれた「建築家」の調整に委ねるのも有力な方法だからである。ただ、マスター・アーキテクトに要求される資質や権限とは何かを、一般的に規定するのは難しそうである。マスター・アーキテクトと個々の「建築家」を区別するものは一体何かを問題にすると、その関係は種々の問題をはらんでくる。設計者の選定に関わるマスター・アーキテクトとなると、仕事の発注の権限を握ることになるのである。

 もう少し一般的にはPM(プロジェクト・マネージャー)の形が考えられるだろう。その場合には、デザインのみならず、資金計画や施工を含めたプロジェクトの全体を運営管理する能力が求められる。現代社会においては、とても個人にその能力を求めることはできないように思えるけれど、社会的に責任を明確化したシステムとして、マスター・アーキテクト、あるいはプロジェクト・マネージャーが位置づけられていく可能性もあるかもしれない。

 

 タウン・アーキテクト

 自治体毎に日常的な業務を行うマスター・アーキテクトを考えるとすると、タウン・アーキテクト制度の構想が生まれる。ヨーロッパでは、歴史的に成立してきた制度でもある。

 ある街の都市計画を考える場合、この国の諸制度には致命的な欠陥がある。個々の事業、建設活動が全体的に調整される仕組みが全くないのである。都市計画行政と建築行政の分裂がある。さらに縦割り行政の分裂がある。例えば、鉄道駅周辺の再開発の事例などを考えてみればいい。諸主体が入り乱れ、補助金に絡む施策の区分が持ち込まれる。それを統一する部局、場がない。個々のデザインはばらばらになされ、調整する機関がない。日本の都市景観は、そうした分裂の自己表現である。こうした分裂も回避されねばならないだろう。

 本来、一貫してまちづくりに取り組み責任を負うのは自治体であり、首長である。日常的な都市計画行政、建築行政において、調整が行われてしかるべきである。しかし、首長には任期があり、担当者も配置替えがあって一貫性がない。タウン・アーキテクト制は、一貫して個々の事業、建設活動を調整する機関として必要とされる筈なのである。

 本来、それは建築行政に関わる建築主事の役割かもしれない。全国で二〇〇〇名弱、あるいは全国三三〇〇の自治体毎に能力を持ったタウン・アーキテクトが居ればいいのである。

 しかし、建築主事が建築確認行政(コントロール行政)に終始する現状、建築主事の資格と能力、行政手間等を考えると、別の工夫が必要になる。ヨーロッパでも、行政内部に建築市長を置く場合、ひとりのタウン・アーキテクトを行政内部に位置づける場合、「建築家」を招いて、「アーバン・デザイン・コミッティー」を設置する場合など様々ある。

 日本でも、コミッショナー・システム以外にも、建築審議会、都市計画審議会、景観審議会など審議会システムの実質化、景観アドヴァイザー制度や専門家派遣制度の活用など、既に萌芽もあり、自治体毎に様々な形態が試みられていくことになるだろう。

 

 ヴォランティア・アーキテクト

 タウン・アーキテクト制を構想する上で、すぐさまネックになるのが「利権」である。ひとりのボス「建築家」が仕事を配るそうした構造がイメージされるらしい。また、中央のスター「建築家」が地域に参入するイメージがあるらしい。タウン・アーキテクト制の実施に当たっては一定のルール、その任期、権限、制限などが明確に規定されねばならないであろう。

 ひとりの「建築家」がタウン・アーキテクトの役割を担うのは、おそらく、日本ではなじまない。デザイン会議などの委員会システムなどが現実的であるように思える。しかし、いずれにしろ問題となるのは、権限あるいは報酬である。地域における公共事業の配分構造である。

 期待すべきは、地域を拠点とする「建築家」である。地域で生活し、日常的に建築活動に携わる「建築家」が、その街の景観に責任をもつ仕組みとしてタウン・アーキテクト制が考えられていいのである。

 あるいは、ヴォランティア組織(NPO)の活用が考えられる。建築・都市計画の分野でも、ヴォランティアの派遣のための基金の設立等、既にその萌芽はある。大企業の社員が一年休暇をとって海外協力隊に参加する、そんな形のヴォランティア活動は建築、都市計画の分野でも今後増えるであろう。現場を知らない「建築士」が現場を学ぶ機会として位置づけることもできる。

 しかし、ここでも問題は、「まちづくりの論理」と業として「食う論理」の分裂である。住民参加を主張し、住民のアドボケイト(代弁者)として自ら位置づける「建築家」は少なくない。しかし、その業を支える報酬は何によって保証されるのか。多くは、行政と「住民」の間で股裂きにあう。あらゆるコンサルタントが、実態として、行政の下請に甘んじなければならない構造があるのである。

  

 こうして可能な限り日本のリアティに引き寄せてありうべき「建築家」をイメージしてみても、袋小路ばかりである。既存の制度をわずかでもずらすことが指針となるのはそれ故にである。今、日本で注目すべき「建築家」、すなわち「建築家」論が可能となる「建築家」は、様々なレヴェルで制度との衝突葛藤を繰り広げている「建築家」なのである。

 しかし、その一方で、「世界建築家」の理念、「デミウルゴス」のイメージは生き続けるであろう。宇宙を創造し、世界に秩序を与える「神」としての「建築家」の理念は、錯綜する貧しい現実を否定し、その実態に眼をつむるために、再生産され続けるのである。

 

*1 原広司、『建築家に何が可能か』、学芸書林、一九六八年

*2 磯崎新、『建築家捜し』、岩波書店、一九九六年七月、p12

*3 拙稿、「現代建築家」、宮内康・布野修司編『現代建築』、新曜社、一九九二年所収

*4 Charles Knevitt(Ed.):Perspectives An Anthology of 1001 Architectural Quotations, Bovis, London, 1986より

*5 磯崎新、『造物主議論 デミウルゴモルフィズム』、鹿島出版会、一九九六年三月、p10

*6 磯崎新、『造物主議論』、p103

*7 田中喬は、「オイコドモス」を建築家、「アーキテクトン」を棟梁と訳す例があるといいながら、「オイコドミケ・テクネ」を「造る術」、「アーキテクトニケ・テクネ」を「使う術」と位置づける。「破壊の現象学」、渡辺豊和との対談、『建築思潮』04、一九九六年二月。田中喬著『建築家の世界 住居・自然・都市』、ナカニシヤ出版、一九九二年。

*8 S. Kostof(Ed.):"The Architect---Chapters in the History of the Profession", Oxford University Press, 1977

*9  John Wilton-Ely:'The Rise of the Professional Architect in England' in "The Architect"

*10 当初の講義は、建築の歴史と構築(ビルディング・コンストラクション)であった。

*11 拙稿、「近代日本における「建築学」の史的展開」、『新建築学体系1 建築概論』、彰国社、

*12  日本建築学会編、『近代日本建築学発達史』、第一二編「職能」

*13 拙著、『戦後建築の終焉』、れんが書房新社、1995年、「第三章 近代化という記号」「Ⅱ 近代化という記号 戦後建築運動の展開」

*14  R.K.ルイス、『アーキテクト』、六鹿正治訳、鹿島出版会

2024年9月5日木曜日

Shuji Funo:Toーjou(Capital Town) and The Grid in Asia, Nagoya International Urban Design forum(名古屋世界都市景観会議) 1977, Nagoya, 7~9,Nov. 1997

 Shuji FunoTojou(Capital Town) and The Grid in Asia Nagoya International Urban Design forum(名古屋世界都市景観会議) 1977 Nagoya 7~9Nov. 1997

 

"To-jou"(Capital Town) and  The Grid in Asia

Dr. Shuji Funo

School of Architecture and Environmental Design

Kyoto University

 

 Introduction

 We can see the gridiron town planning all over the world,  past and present, in the East and the West. Many cities of the Greek and Roman world are based on an extremely regular plan derived from a regular grid of streets. But  there are areas that have no tradition of the gridiron. town planning. Generally speaking, Islam world has not such a tradition. The grid patterns in Asia are not only based on the orthogonal geometry. The whole form of the town is usually thought to be related to the specific in the region. S. Kostof  classifies the ancient cities in China, Korean peninsula and Japan as not "the grid" pattern but as "the diagram" pattern  in his well known book "The city shaped". This essay discusses the tradition of the grid plan in Asia, focusing on 'To-jou'(Capital Town).

 

1 The idea of To-jou in Asia

 The word 'To-jou' means city that is surrounded by city wall and is used to the ancient capital city in China, Korea and Japan. "To" means the capital and "Jou" means the castle in Japanese .I would like to define the word "To-jou" as follows , not limiting the Eastern Asia.

  That is, "To-jou" is the supreme city(capital city) as "To" and "Jou".

 "To" is the place where the king(the power) does the political and ceremonial affairs under the name of the dynasty. "Jou" is the place that military authority are situated in. The City wall or  moat symbolize the military power of "To".  The Japanese ancient "To-jou"s which  had not the wall are exceptions. The supreme city that is called "To-jou" is not only the primate city that ha biggest population in the state, but also the place of the power. The political, ceremonial, miritarl  affairs are based on the cosmology that is closely connected to the power in pre-modern ages. The form of "To-jou" as "Jou" of "To" was the expression of the complex of "power and cosmology".

 We can point out the following facts in terms of "To-jou"s in Asia.

 1. There are two areas in Asia in relation to power-cosmology complex. one is the area in which cosmology and philosophy that give the grounds and legitimacy of the dynasty reflects the directly concrete layout of the city. The other is the area in which we cannot necessarily find distinct relation between city form and cosmology.

  2. There are two cases, one case where the transcendental model of the ideal city exists and the real city form is considered as a metaphor of the model , the other where the real functional logic dominates the formation of the city. Eve in the former case, it is very rare that the idea is realized completely. The relation between ideal types and the city structure changes age by age.

  3. The ideal form of the city tends to be realized in the periphery of the urban civilization rather than its center(the origin).

 If we divide the world(A) that has the idea of "To-jou" as  the representation of its own cosmology and the world(B) that has no idea of "To-jou",  China and India belong to the world(A) and the Islam world belongs to the world(B). The boundary between (A) and (B) exists the line that connects Indian sub-continent, Tarim Basin and the Mongol plain. The Forestry Zone in Asia belong to the world(A) excepting the cool Temperate Zones.

 The ideas of "To-jou" which originate in China and India had prevailed and been accepted in their surrounding areas. The world(A) are divided into two parts, the center core(A1) that formed the idea and  the periphery(A2) that received it. The world(A1) and the world(A2) are formed in the vicinity of the two centers, central china and central India. Korea,  Japan and Vietnam are the areas that accepted the idea of ancient China. Southeast  Asia, not including north Vietnam is the area that accepted the idea of ancient India.

 

2 "To-jou"s  in China and India

 

  2-1 "To-jou"s in China

 There is a book "Shu-rai" that described the ideal city of "To-jou" in China. The basic principles are written as 'rectangular form', '3 gates in each side', 'the palace in the center', ''3 streets X 3 streets', 'the left is the place for ancestor and the right is the place for the Genius-loci', 'the front is palace and the rear is market' and so on. But,  there is  no example that realize the ideal form written in "Shu-rai".  Beijing(Daito the capital of Gen) looks similar to the "Shu-rai" model. It is interesting that the power not derived from Han dynasty follow the ideal form of Han tradition as the grounds of legitimacy.

 Great transformation occurred to "Chou an" in the ages from pre-Han dynasty to post-Han dynasty. The Palace of "Chou an" of pre-Han dynasty consisted of two parts, "Jou"(castle) in the southwest and " Kaku"(palace) in the northeast. The Emperor lived in "Mioukyu" in the southeast and received the subjects facing to the east(Sitting in the West  Looking to the East). This layout and orientation in the palace is said to be based on the same rule in the common house where the family head occupied the southwest corner. "Jou" and "Kaku" that make up "To-jou" are separated in "Chou an" of pre-Han dynasty. We cannot see the main axis of the city yet.

 The form of "To-jou" changed as the transcendent power of emperor were gradually established from pre-Han to post-Han dynasty, The form of ceremony in the palace changed from Sitting in the West and looking to the East to Sitting in the North and looking to the South. As the results, Palace moved to the north side of "To-jou". The central avenue("Suzaku") were constructed from the palace to the south as a central axis. This newly established form of the city influenced Japanese ancient "To-jou".

 

  2-2 "To-jou"s in India

 India has "Arthasastra" which describes the idea of the city. There are no ruins that reflects the ideal model of the city also in India. Ayodiya, the capital of Cosara kingdom, which is described in "Ramayana" seem isotype of the ideal model, so we can guess and confirm the idea of "To-jou" must have been existed in ancient India. Prof. T. Ohji reconstructed the ideal plan of "To-jou" in India better than other scholars.

 Jaipur is the good examples that realized the ideal model of "To-jou" though it was constructed by Jai Shin II in early 18th century. We have the theory that the form of Jaipur is based on "Prastara" which "Manasara" describes(F.B.Havell, B.B. Dutt). But, the numbers of gates and blocks(Chowkri) are different from the "Prastara" model(A. K. Roy). The system dividing the blocks is generally said to be nine square (3x3) system or 9x9 system of "Pursha Mandala". The problem is the trust southeast part called Topkhanahazri. Nine square is incomplete. The explanation is that in place of northwest block, the trust southeast block was constructed.

  The fact that the axis is declining 15°(crock wise) is being discussed.. Some scholars insist the swamps in the northwest and the slope of the land are the reasons(A. K. Roy). The other says that Jai Shin II declined the axis of major street to the direction of his constellation Leo(S. A. Nilson). Furthermore, it is said that the decline of the axis is to consider the path of window and to make shadows.(N. . Rajbanshi)。 There is a scholar who insists that the grid pattern of European Cities influenced the form of Jaipur on the grounds that a book of maps including many grid plans by Johan Baptista Homan had been published in Nu:runburg in 1726.(Aman Nas)。

  Though the ideal model are not realized in the real form of Jaipur, it is sure that Jaipur was constructed based on the idea of the Hindu city judging from the facts that Jai Shin II used "Prastara" pattern as the pattern of division of chowkri and laid Brahmapuri(Brahman quater) in the north parts of the city.

 

3 Acceptance of the Idea of "To-jou"

 

 3-1 "To-jou"s  in Japan

 The first "To-jou" is Fuziwara-kyo. The prototype is considered to be Chou an in Zui-Toh dynasty. But it is pre(pusued) "To-jou" that has only palace in the center. What is interesting is that Fuziwara^kyo already has the main north-south axis. The idea of "To-jou" in China were introduced into Japan very soon. As the Yamato-dynasty got the power more and more, the "To-jou" was established. The Hei-jou-kyo(Nara) is the establishment of Japanese "To-jou". The methods of urban planning differs during the transitional process from Hei-jou-kyo, Nagaoka-kyo  to Heian-kyo(Kyoto)

 The width of streets are the same .North-south major avenue is called "Suzaku-Ohji" and East-west avenue is  called "Nijou-Ohji". Except these inter crossing two major avenue, ohjis(large streets) and kohji(small streets) are running like a gridiron. But the block dividing systems called "Jo-bo-sei" are different in three cities. "Sin-sin" system of measurement is used in  Fuziwara-kyo and Hei-jou-kyo.  On the other hand, "Utinori" measuring system is used in Heian-kyo. The size of the land differs in Fuziwara-kyo and Heijou-kyo according to the width of the street the compound is connected to but the block is divided as the size of the land unit will be the same in Heian-kyo. In case of Nagaoka-kyo, "Utinori" system is adopted in the area surrounds palace and "Sinsin" system is still used in other parts. The land division system called "Henusi"  system was newly introduced in Nagaoka-kyo partly.

 The idea of Japanese "To-jou" was completed in the planning of Heian-kyo but the whole formation was not complete in the beginning. When Heian-kyo became the permanent capital(around 810), "Sa-kyo"(left side of the city) had been developed more than the other parts. In the middle age, Kamakura era, Kyoto were consisted of precinct of temples and "Tyou"(town). Kyoto and Kamakura were double capitals during the era. After the civil war called Ohnin-no-ran the dual structure of the upper town(Kamigyo) and the down town(Simogyou) were planned into the integrated one. During Toyotomi age, the structure of the city was changed to be the castle town. Hideyosi reformed the block system and built city wall called "Odoi". The ancient grid plan based on "Jobo-sei" system was changed and variously occupid age by age.

 

 3-2 "To-jou"s in South East Asia

 We have not much information of "To-jou"s in South East Asia. Especially, we are not familiar with the block systems. But it is obvious that the regions accepted the idea of "To-jou" in India. The forms of Angkor Tom, Sukothai and Ayutayaseem to reflect the idea of the city in India.

 Angkor Tom is said to follow the Dandaka type "Mayamata" among "Silpasastra" describes and the idea of the city "Arthasastra" explains at the same time because the center is the sacrad area and palace is locatede in the north..

  The reconstruction plan of Sukothai shows both the palace and the temple  are located in the center. The form symbolize that the power of dynasty catch up the religiouspower. In Ayutaya period, The great axis runs from the front of palace to the East and Big temples are built on both sides of the central axis. That is the same pattern of Chou an in Zui-Toh dynasty.

 

4 Cakranegara  a Unique Hindu City in Lombok (Indonesia)

  Cakranegara is a very unique city that is based on grid plan. I will describe here the formation of Cakranegara and guess the idea in the beginning. Cakranegara was built as a colonial city of Karangasem Kingdom in Bali. What influences we can identify from the form of Cakranegara?

 

 4-1 Streets system and land division

 The streets in Cakranegara are divided into three categories. Theses are called marga sanga, marga dasa, marga. Marga in Sanskrit means street and neighborhood unit in India. Sanga means 9 as we guess Nawa  Sanga that is 8 cardinal points plus center and dasa means 10 in Bali. Marga sangas are the broadest streets that cross at the city center The street JL. SLI Hasanudin runs from south to north, the street JL.Selaparang from east to west accurately. The second level road marga dasas divide the block and marga divide the block into housing sites. We look for the place at which old walls are preserved area and surveyed the width of the streets and the sizes of pekarangan(house compounds).

 The average length (east-west) of pekarangans surveyed is 26.05, the maximum 30.44m, minimum 25.08m. The average length(north-south) of the pekarangan compounds surveyed is 24.53m, the maximum 26.84m, minimum 21.55m. The average area of the unit is about 624m2(26m×24m).

  According to the former teacher, Mr.Lala Lukman, the size of pekarangan planed is 25mx25m. The unit Of measure tombahad been used that is the length of spear around 2.5m. The planned length of unit is 10 tomba. Mr.Ide Bagus Alit, an elder (Pengusap) in Cakranegara,says the area of 1 pekaranganis 8 are (800m2) and square. There is another information by Mr.P.Jelantic that the size of pekarangan is 6   are(600m2). On the basis of our survey, We consider that the sis of pekarangan was roughly planed by a unit of 25mx25m(10tombax10tomba)though 26mx24.5m is the average.

  As for the width of the streets, we included the width of tagtaganthat is the plant space adjacent to both sides of the streets. According to the informants above, there is plant space called tagtagan that belongs to the king between tembok(brick) wall and the edge of the road. The width of tagtagan was about 5m,but was made narrower because the Chinese had bought it for commercial place during 1867-8. Tagtagan space had many functions.People used the space for upacara (festivals) because the king prohibited uupacara within the pekarangan.People planted trees like coconut, sugar palm, etc.; since adat (the traditional common law )had permitted the personal use.

  Now, almost all the tagtagan space along the marga sanga is used for shops managed by Chinese and those along marga dasa and margas are involved into pekarangan in many cases. Our survey says that the width of marga sanga(east-west) is 36.52m, marga sanga(north-south), 44.05m. The average width of marga dasa is 17.14m; the most frequent figure is 18m that we guess is the planed number. The average width of marga is 7.75(about 8m).The widths of tagtagans are 11.63(marga sanga) and4.6(maarga dasa).

  We conclude from data above that the size of block is 250mx250m(100tombax100tomba:square).The length(east-west) is 250m(pekarangan 26mx8=208mmarga 8mx3=232mmarga dasa 9mx2=250m).The length(north-south) is 250m(25mx10).

 

 4-2 The Organization of Neighborhood Unit - karang

  The block surrounded by marga dasa seems to have had been a neighborhood unit from the view of physical urban planning. The community unit called karang is still base on the streets system though there are very few examples that one block corresponds to one karang. The elder(informant) says the neighborhood unit that is also called marga is consisted of 10x2 household units along marga. Two margas are unified to 1 kriang that means the head of banjar(community) in Bali. And 2 kriangs are unified to 1 karang that is, karang is consisted of 80 household units that occupy one block.

  Karang corresponds to RW (rukun warga) as today's unit of administrative organizations that is consisted of several RTs (rukun tetangas).Hindus in Bali use the term banjar in place of the term karang. Balinese in Cakranegara use the term banjar for community unit and the term karang for the unit of land. Karang is the unit of groups originated from the same native land.

 

 4-3 Puras and Karangs

  The informant who is managing and maintaining the facilities of Pura Meru teaches us the following important fact. people from the same village in Bali had lived in the same karang . And there were 33 karangs in the beginning of the construction of Cakranegara each of which had each pura and chief.

  We can find over 33 karangs now in Cakranegara and each karang has not necessarily one pura. The central biggest and impressive Hindu temple Pura Meru is next to Pura Mayura and along JL.Selaparang(marga sanga).Pura Meru dedicated to Brahmana, Vishnu and Siva, was built in1720 by the king of Karangasem, Agung Made Ngurah, to unite the all Balinese small kingdoms in Lombok. The site surrounded by tall brick wall is divided into three parts, Bhur(the earth), Bwah(the human world), Swah(the heaven), from west to east. That composition symbolizes the structure of space that is also divided into three parts. There are candi bentar (entrance); a watch tower called Bale Kulkul at the east corner; a holy tree beringin trees are at both sides of an approach in Bwah, the center. There are many buildings including three towers in Swah, the deepest sanctuary; the most important quarter located in the East. The tower dedicated to Siva at the center  has 11 roofs. The major structure of the tower is made of Nunka; Jackwood curved and thatched by alang-alang. The tower dedicated to Vishnu at the North has 9 roofs And the tower dedicated to Brahmana at the South  has 7 roofs. The latter two are thatched by roof -tiles. Enclosing three towers there stand 33 small shrines (14 on the north side, 16 on the East(back)side, 3 in front of towers). The name of each small shrine is derived from the name of karang that has been maintaining the building.

  We cannot find all the karangs that is listed on the name plate of the 33 small shrines in Pura Meru. We barely identified 27 Puras and Karangs. Some karangs had disappeared. We discovered one pura at the city ,Kederi that is located at the South of Cakranegara.Themajor part of Cakaranegara had been largely demolished once by Dutch. Therefore, it is very difficult to reconstruct the original form. We can consider that the distributions of Puras show the original area of the city. If the karangs  outside the central grid that are maintaining small shrines at pura Meru did not move, we have to recognize there should have existed Balinese quarter outside the grid area. Which is interesting is the area called Pura Anggan Telu in the south that area had been planned in the beginning of the foundation. There are Pura Jero at the North, Pura Seraya and Pura Sweta at the East. The areas stuck out at the north and south part of the city are thought to have had been planned from the beginning.

  The number of 33 that we often find in South East Asia, is a special number in the context of  the Buddhism and Hinduism. People believe 33 gods live in Mt. Meru. There are paradises in the slope of Mt.Meru and in the second paradise 33 gods are living The number of governmental officers and offices were limited to 33. Pura Mayura has 33 fountains. The southern part of Cakranegera is consisted of 32(4x4x2)block. If we add the palace block,  total number of blocks becomes 33. We consider that the original concept of the city planning involves the whole area should be consisted of 33 karangs, community unit.

 

アジアの都城とグリッド

布野修司

京都大学大学院工学研究科

生活空間学専攻

 

はじめに

 グリッド・パターンの都市形態は古今東西至る所でみることができる。アジア地域も例外ではない。しかし、地域によってグリッド・パターンの伝統がみられない地域がある。イスラーム圏にはグリッド状の街区パターンは一般的にはない。また、アジアのグリッド・パターンは、必ずしも均質なパターンの繰り返しではない。グリッドの全体形態は独特の宇宙観と結びつけられる。S.コストフは、中国や韓国・朝鮮半島、日本などの古代都市を「グリッド」パターンの都市としてではなく「ダイアグラムとしての都市」として扱っている。本稿では、グリッドの定義を広く「直交座標軸による街区割り」と理解し、アジアの「都城」に焦点を当てながら、アジアのグリッド・パターンをみてみたい。

 

1 都城思想とアジア

 「都城」という言葉は、「周囲に城壁を巡らした都市」のことであり、一般に中国、朝鮮、日本の古代の宮都について用いられる。しかし、東アジアに限定せず「都城」を以下のように定義したい。

 すなわち、「都城」とは「都の城としての至高の都市」である。

 「都」は、王権が国家の名のもとにおこなう政事、祭事の場である。「城」は「都」の軍事に関わる側面をいい、周囲を市壁に囲われない日本の「都城」もあるが、一般に市壁、周濠などによって象徴される。「至高の都市」とは単に人口が最大の都市というだけでなく、王権の所在地である。政事、祭事、軍事は前近代には王権と結びつくコスモロジーに裏付けられていた。「都」の「城」としての「都城」は「王権ーコスモロジー」複合の表現であった。

 以上のような「都城」をアジアについて見ると以下のような興味深い事実を指摘できる。

 第一、王権を根拠づける思想、コスモロジーが具体的な都市のプランに極めて明快に投影されるケースとそうでないケースがある。

 第二に、都市の理念型として超越的なモデルが存在し、そのメタファーとして現実の都市形態が考えられる場合と、実践的、機能的な論理が支配的な場合がある。前者の場合も理念型がそのまま実現する場合は少ない。また、都市構造と理念型との関係は時代とともに変化していく。

 第三に、都城の形態を規定する思想や理念は、その文明の中心より、周辺地域において、より理念的、理想的に具体化され表現される傾向が強い。

 コスモロジーの表象としての都城思想をもつ世界(A)ともたない世界(B)を分けると、中国とインドがA、イスラーム世界がBに属する。AとBの境界は、ほぼインド亜大陸ータリム盆地ーーモンゴルの各西限を結ぶ線にある。アジアの森林地帯は、冷温帯を除いて、すべてAにおさまる。

 中国とインドで成立した都城思想は、その周辺地帯へ広がり、受容される。世界Aは、「都城思想の形成核」(A1)と「都城思想の受容地帯」(A2)に分化する。A1とA2は、中国中原とその周縁地帯、インド中原とその周縁地帯というふたつのヴェクトル場によって成立する。朝鮮・日本・ヴェトナムは「中国都城思想の受容地帯」であり、ヴェトナムを除く東南アジアは「インド都城思想の受容地帯」となる。

 

2 中国とインドの都城

 

  2-1 中国の都城

 中国の都城の理念を示す書として『周礼』考工記がある。「方形」「旁三門」「九経九緯」「中央宮蕨」「左祖右社」「前朝後市」「左右民纏」など基本的な配置の理念が示されている。しかし、その理念をそのまま実現した例はない、とされる。元の大都(現在の北京)が『周礼』の理念に近い。漢民族以外の王権が自らの正統性の根拠として『周礼』に則ろうとしたと見ることができる。

 前漢長安と隋唐長安の間に大きな変化がある。前漢長安は、西南の「城」と東北の「郭」の二つからなっていた。天子の居所「城」の西南端にある未央宮にあり、天子はその前殿に座して東を向いて臣下と対した(座西朝東)。この天子の居所の配置は、家庭内の家長の西南居住という原則を都城に持ち込んだものとされる。前漢長安では都城を構成する「城」「郭」が一致せず、軸線が成立していない。

 前漢から後漢にかけて君子権の超越的確立をみると「都城」も変化していく。朝廷における儀礼の形式が、座西朝東から座北朝南(天子南面)へ変化すると。宮蕨は宮城北辺へ移動する。そこから都城中央を南北に貫通する中軸線として朱雀大街が建設される。この形式が日本の都城へ影響を及ぼしている。

 

  2-2 インドの都城

 インドには古代の都市理念を記述する『アルタシャーストラ』がある。しかし、インドでもその都城思想を具現する都市遺跡はない。ただ、『ラーマーヤナ』におけるコーサラ国の都城アヨーディヤーの描写は、『アルタシャーストラ』の都城理念と同形である。古代インドに共通する都城理念が存在したことは確認できる。

 その基本理念については応地利明が見事な復元を行っている。

 ヒンドゥー都城の理念型をもとにした例としては、時代は下がるが18世紀前半にジャイシンⅡ世によって建設されたジャイプルがある。

 ジャイプルの都市形態が『マナサラ』のプラスタラに基づくという説がある(F.B. Havell, B.B. Dutt)。 しかし、門の数、幹線街路によって区切られる街区(チョウクリ)の数などプラスタラの形態とは明らかに異なる(A. K. Roy)。

  一方、全体の区画割りはナイン・スクエア(3x3=9分割)システム、あるいは9x9のプルシャ・マンダラに基づく、という説が一般的である。しかし、東南部に突出するチョウクリ(トプクハナハズリ)があって不完全である。そこで、北西の区画が山腹にかかって理念型を実現できないために、東南部にその代替の区画をつくったという説明がなされている。

  グリッドが時計回りに15度傾いていることも様々な解釈を生んできた。北西部にある沼地および地形の傾きがその理由であるという説がある(A. K. Roy)。また、ジャイ・シンⅡ世の星座である獅子座の方向にあわせて傾いているという説がある(S. A. Nilson)。さらに、軸線の傾きは、日影をつくり、風の道を考慮したためだという説がある(N. Rajbanshi)。

 グリッド・パターンについては、ヨーロッパの諸都市の影響があると主張するものもある。ジョハン・バプティスタ・ホマンの地図がニュルンブルグで1725年に出版されており、数多くのグリッド・パターンの都市図が掲載されていることを根拠にしている(Aman Nas)。

  確かに、『アルタシャストラ』の理念型がそのまま実現しているわけではない。チョウクリの分割パターンとしてプラスタラ・パターンが用いられていること、王宮の北方にブラーフマ・プリの存在があることなどから、ヒンドゥー理念に基づいて建設されたことは間違いないところである(T. Ohji)。

 

3 都城思想の受容

 

 3-1 日本

 日本における最初の都城は藤原京である。藤原京の祖型は隋唐長安に求められる。が、

「中央宮処+豪族集住+寺院」を基本とする擬都城の段階であった。但し、宮城南方を南北に貫走する中軸線を既に備えている。中国の都城思想はいち早く受容されていたと見ていい。

 王権の伸長とともに都城が成立する。藤原京から平城京への展開に日本の都城の成立をみることができる。平城京、長岡京、平安京という遷都の過程で、都市計画の手法も変わっていく。

 条坊制と言われる同じグリッドでも、三つの都城では異なっている。道路の規模は、藤原京を除いて、平城京から平安京までほぼ一致している。都の南北の主要街路は朱雀大路、東西は二条大路で、この交差する大路を別格として、大路、小路が設けられている。しかし、宅地割りは三都で異なる。藤原京と平城京では心々制が用いられ、平安京では内法制が用いられる。すなわち、藤原京と平城京では、道路の幅によって宅地に面積が異なるのに対して、平安京では、宅地の面積が同じになるように分割されるのである。長岡京は平城京と平安京の間で過渡的な分割方式がとられる。すなわち、宮城の東西街区あるいは南の区域で内法制がとられ、同じ面積の区画割りが行われる。戸主制という新制度による細分かつ方式が一部に導入されるのである。

 理念的に平安京において完成した日本の都城も当初は未完であった。平安京が定都となったころ(810年)は左京の発達が見られる。鎌倉時代にかけて中世都市化が進行し、境内と町から構成されるようになる。また、京と鎌倉の二都の構えとなる。応仁の乱を経て、上京下京の二元構造の統合が計られ、豊臣政権において城下町化が行われる。御土居がが設けられ、近世的町割りに改造が行われる。こうして、古代の条坊制に基づくグリッド街区も、構造を変え、様々に住みこなされていくのである。

 

 3-2 東南アジア

 東南アジアの都城については未だよくわからない面が多い。特に街区構成が不明である。しかし、インド的都城思想の受容は明快である。アンコール・トムースコータイーアユタヤの流れにそれをみることができる。

 アンコール・トムは、『シルパシャストラ』の『マヤマタ』などのいうダンダカ・タイプとされる。しかし、それと同時に、「中央神域」「宮処の北方立地」などの点で『アルタシャーストラ』の語る都市理念と同質である。

 スコータイの都城を市門の位置関係から復元すると、中央に寺院と宮処が並び立つ構成をしている。王権が伸長し、教権と並立する段階を象徴する。アユタヤでは、王宮の正面から東方に向けて軸線が走り、その軸線上の南と北に大寺院が建設される。その配列関係は隋唐長安とまったく同型である。

 

4 チャクラヌガラ

 チャクラヌガラは、インドネシアでは極めて珍しい格子状の道路パターン(グリッド・パターン)を持った都市である。ここでは、チャクラヌガラの構成について、建設当初の姿を推測し、考察してみたい。チャクラヌガラにはインドの都市計画思想の影響をみることができるであろうか。それとも中国の都市計画思想の影響を見ることができるであろうか。

 

 4-1 街路パターンと宅地割

 チャクラヌガラの街路体系は3つのレヴェルからなっている。街路は広いものから順に、マルガ・サンガ marga sanga、マルガ・ダサ marga dasa、マルガ margaと呼ばれている。サンガは9、ダサは10を意味する。マルガ・サンガはチャクラヌガラの中心で交わる大通りである。このマルガ・サンガは正確に東から西・北から南に走り、四辻を形成する。そして、マルガ・ダサが各住区を区画する通りであり、マルガが各住区の中を走る通りである。

 宅地1筆あたりの計画寸法および道路幅の計画寸法について、古い壁の残っている宅地を選んで実測を行った結果、計測した宅地の東西方向の平均は265m、最大は3044m、最小は2508m、また南北方向は平均2453m、最大は2684m、最小は2155mであった。宅地の計画寸法は東西約26m、南北約24m、一宅地あたりの面積は約624㎡となる。

 古老によれば、「プカランガン(屋敷地)の計画寸法は25m×25mであり、宅地を測る単位としてトンバ tomba がある。トンバは槍の長さであり約25m、25mというのはその10倍である。」。また、「1プカランガンは8アレ are800㎡)であり、正方形である。」という。「1プカランガンは6 are 600㎡)である。」と異説があるが、実測では25m×25mの正方形のプカランガン(屋敷地)は存在せず、当初からほぼ26m×24mで計画されたものと考えられる。

 実測によるとマルガ・サンガは東西の通りで3652m、南北の通りで4405m、マルガダサは、ややばらつきがあるが平均1714m、最頻値で18mであり、約18mで計画されたものと考えられる。マルガは平均で775mであり、約8mで計画されたものと考えられる。またタクタガンの寸法は、マルガ・サンガで1163m、マルガ・ダサで46mであった。これらの数値によるとマルガ・ダサでで四方を囲まれたブロックの東西寸法は、宅地寸法(東西)26m×8+小路(marga8m×3232m。南北寸法は、宅地寸法(南北)24m×10240mになる。また、タクタガンの寸法を4mとしてブロックの寸法に含めると、興味深いことに、232m+4m×2240mとなり、1ブロックの寸法は240m×240mの正方形となる。

 

 4-2 住区構成---カラン

 寸法計画の面からは、マルガ・ダサで周囲を囲まれたブロックが1つの住区を構成していたと考えられる。また現在のカランの構成パターンもマルガ・ダサを境界とするものがあり、マルガ・ダサで囲まれたブロックが一つの住区を構成していたと考えられる。

 古老の話によると、南北に走る1本のマルガに10づつの宅地が向き合うのが基本である。そして、この両側町をマルガと呼び、2つのマルガで1クリアンを構成する。クリアンとは、バリではバンジャールの長を意味する。また、2クリアンすなわち80宅地で1つのカラン(住区)を形成する、ということである。

 現在、カランはインドネシアの行政組織においてはRWに対応する組織となっている。バリの居住単位はバンジャールと呼ばれている。バンジャールは形式的には集団の単位であり、公共施設の管理・地域の治安維持・民事紛争の解決をおこなう。そして、その長はクリアン・バンジャールと呼ばれた。

 現在、チャクラヌガラのバリ人の間ではバンジャールもカランも使われるが、バンジャールが社会組織の単位であるのに対してカランは土地の単位を意味する。同じ土地出身の地縁集団としての性格を合わせ持つのがカランである。

 

 4-3 祭祀施設と住区構成

 チャクラヌガラの中心に位置するプラ・メルには33の祠があるが、それと対応する33のプラが現在も残っている。プラを持たないカランも見られ、カランとプラの対応関係は崩れているが、かっての姿を推察することができる。

 ロンボク島のプラの中で最も大きく、最も印象的なのがプラ・メルである。最東にあるスワは3つの部分のうち一番重要な区画である。ここには塔や祠などの建物が配置されている。このうち主要な建物は、高くそびえ立つ三つの塔である。これらの三つの塔を囲むようにして、北側に14棟、東側に16棟の、塔の前に3棟、計33棟の小祠が建っている。それぞれの祠にカラン名が書かれており、チャクラヌガラと周辺の村を合わせた33のカランによって維持管理がなされている。

 建設当初は、存在したが、時代の経過によりその住区組織自体が消滅し、現在は存在しないプラも確認された。また、祠を維持管理する住区はチャクラヌガラの格子状の都市計画地域外にも存在することが明らかになった。プラ・メルの小祠を維持管理する住区が変化していないのであれば、格子状の区域外にもプラ・メル建設当初から、バリ人の住区があったことになる。プラの分布を見ると、古老のいう1ブロックが1カランとなるものも多く、各カランに1つのプラという対応関係は見られない。興味深いのは、南のアンガン・トゥル PURA ANGGAN TELU である。この地域は中心部と同様の町割りがなされている。当初から計画されたとみていい。北は、プラ・ジェロがあり、東はプラ・スラヤがあり、プラ・スエタがある。チャクラヌガラはオランダとの戦争で一度大きく破壊されており、必ずしも現状からは当初の計画理念を決定することはできないが、プラ・メルに属するプラの分布域がおよそ当初の計画域を示していると考えていいと思われる。

 チャクラヌガラのマルガ・サンガ以南の地域を旧市街であったと考えると、マルガ・ダサで四方を囲まれたブロック32からなる。王宮のあるブロックを加えると33個になり、プラメルの祠の数に一致する。チャクラヌガラの1カランを建設当初はマルガ・ダサ、もしくはマルガ・ダサとマルガ・サンガで囲まれたブロックで構成する概念があったということも考えられる。


 

2024年8月11日日曜日

インドネシア科学院(社会科学人文系)ワークショップ 「都市コミュニティの社会経済的問題:東南アジアの衛星都市(ニュータウン)の計画と開発」出席報告

 199606230630:インドネシア Jakarta:インドネシア科学院LIPI都市コミュニティの社会経済的問題 東南アジアの衛星都市(ニュータウン)の計画と開発:布野修司 P.Nas(ライデン大学)

 

インドネシア科学院(社会科学人文系)ワークショップ

「都市コミュニティの社会経済的問題:東南アジアの衛星都市(ニュータウン)の計画と開発」出席報告

布野修司

 

REPORT ON WORKSHOP :SOCIAL AND ECONOMIC ISSUES IN URBAN COMMUNITIES:PLANNING ANDDEVELOPMENT OF SATELLITE TOWN(NEW TOWNS) IN SOUTHEAST ASIA(25-27 JUNE 1996): INDONESIAN INSTITUTE OF SCIENCES:THE SOCIAL SCIENCES AND HUMANITIES:PROGRAM OF SOUTHEAST ASIAN STUDIES

SHUJI FUNO

 

 1996年6月23日~30日、上記国際会議に出席のため、インドネシア科学院(LIPI)を訪問し、THE SELF-CONTAINED URBAN COMMUNITIES BASED ON THE ECOLOGICAL BALANCE IN THE REGIONというPAPERを発表するとともに、今後の研究計画等について意見交換を行った。その概要は以下の通りである。

 

Ⅰ ワークショップの評価

 

 1 東南アジア都市研究にとって、インドネシアLIPIがワークショップを開催した意義は大きいと思う。これまでのインドネシア都市研究は、専ら、オランダにおいて展開されてきた。その中心人物が今回参加のDR.NASである。その成果は、"THE INDONESIAN CITY STUDIES IN URBAN DEVELOPMENT AND PLANNING", FORIS PUBLICATIONS DORDRECHT-HOLLAND/CINNAMINSON/U.S.A. ,1986 および、ISSUES IN URBAN DEVELOPMENT CASE STUDIES FROM INDONESIA,Edited by Peter J.M.Nas,Research school CNWS, Leiden The Netherlands, 1995に示されている。それを越える新たな研究が展開できるかどうかが、今後のLIPIへの期待である。

 

  2 日本の東南アジア都市研究は、今回のように政策提言、実践的都市計画をも射程に入れた分野については、極めて不十分であると思っていたが、今回、LIPIを中心とする展開に大きな可能性があると思われた。

 

 3 今回招致のメンバーは、DR.NASおよびDJOKO SUJARTO(バンドン工科大学)以外知らなかったのであるが、LIPIのネットワークのなかで、それなりのメンバーが集められたように思えた(布野を除いて)。少なくとも、参加者のインフォーマルな議論の上では、ある共通の土俵が確認できた(義務的に参加して、熱意がないという参加者はいなかった)。

 

 4 プログラムについては手探りの面が多かったけれど、運営に違和感はなかった。一般のオーディアンス(大半はLIPI研究者)の積極性には正直驚いた。議論の水準は低くない。というより、布野の力量不足を痛感させられる場面が多かった。

 

 5 二度のフィールド・トリップ、タウフィク・アブドゥラ邸でのフェアウエル・パーティなど充分なもてなしに感謝することのみ多く、少なくとも個人ベース(二者関係)では参加者の間に強力なネットワークが形成されたと思う。

 

 

Ⅱ LIPIの東南アジアプログラムについて

 

 1 都市研究の分野に関して、強力に研究を展開して欲しい。LIPIがひとつのセンターであるべきだと思う。

 

 2 しかし、研究はインドネシアに関して集中すべきである、というフレームがインドネシアにあることが了解された。そのフレームをまず、東南アジアに拡大するために、LIPIに対する外部の援助が必要であるように思われた。JPのみならず、京大東南アジア研究センター、文部省、建設省など、様々な機関でサポートできる可能性があるように思った。

 

 3 LIPI内部の問題は不明である。都市研究分野では、工学系分野との関係が深く、今回の東南アジア都市研究グループがエンジニア部門とどういう関係をもっているのか、判断しかねた。しかし、先のDJOKO SUJARTO氏や、DR. SUWATTANA THADANITI氏の参加をみると(布野の専門分野に対応する研究者が選ばれている)、その人選はそう偏っているとは思えなかった。

 

 4 LIPIの研究費の獲得戦略上の日本、JP、トヨタ財団等々の位置づけは、結局、よく理解できなかった。

 

 5 個人的にはあらゆるネットワークを通じてLIPIの活動を支援できればと思った。

 

 

Ⅲ 国際交流基金ジャカルタ日本文化センターの活動について

 

 1 アシアセンターの活動について全く認識しておらず、その活動の意義にまず、眼を開かされた。

 

 2 文化交流(?)のみに限定されるのではなく、今回のようなワークショップへの援助は、極めて意義深く、大いに期待したい(今回のモデルニスモ・アジア展はカタログだけで見ていません。昨年のアジア演劇祭BESETO演劇祭には、シンポジウム(グローブ座)にパネラーとして参加したことを思いだしました)。

 

 3 都市研究、特にニュータウンをテーマにする場合、日本の開発援助との関係が問題になる。もっと有機的に連携をとれないか、と率直に思う。正直に言って、額が違う。日本でも同じであるが、同じ支援、援助をしていても、お互いに連絡がなく、その趣旨が食い違っているとすれば、混乱を引き起こすことがある。全く同じ時期に、インドネシア大学で「持続可能な都市開発」に関する大きなシンポジウム(オーストラリアが強力支援:メルボルン大学との大学間交流)が開かれたことは、日本から住宅省に派遣されているエキスパートからの情報で知った。今回UIからの参加者がなかったのは、このシンポジウムのせいかもしれない。

 

 

Ⅳ 東南アジア都市研究の展開について

 

 1 先進諸国(宗主国)でなく是非LIPIがセンターになって欲しい。

 

 2 日本人研究者の都市研究成果を以下のマトリックスによって整理した上で、プログラムを立てたい。

   布野は、都市コミュニティレヴェルのインテンシブな調査を基にした比較研究に興味がある(◎)。

       DR.NASは、ジャカルタに集中したい、広げる意思はないとのこと(●)。フランスのグループは、ハノイ、プノンペンなどに蓄積がある(○)。但し、ニュータウンの経験はない。

   バンコク、マニラ、シンガポールについては、今回の参加者が既にカヴァーしつつある。それに、布野(J.シラス)のネットワークを加えることができる。

 

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CITIES(CAPITALS)JAK  MAN  BANG  KUALA SINGA HANOI PENON YANGON :GLOBAL

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STATE-LEVEL    │ ●                              

              

CITY AS A WHOLE│ ●                              

              

NEW TOWNS      │ ●                          ×     ×     ×

              

URBAN COMMUNITY│●◎                         

NEIGHBOURHOOD 

UNITS         

              

DWELLING UNITS │ ●                              

HOUSE-LEVEL   

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Ⅴ 日程概要

 

●6月23日 GA783関空(13:05)→デンパサール(18:20)→ジャカルタ(20:45) DR. HENNY WARSILAH WIDODO女史(ワークショップ事務局スタッフ)他、PROGRAM OF SOUTHEAST ASIAN STUDIESのスタッフ二人、運転手の4人に出迎えられる。宿舎、KEBAYORAN INNに到着(22:00過)。オランダ・ライデン大学 DR. P.J.M. NAS(ワークショップ参加者 インドネシア都市研究の第一人者 今回の外国人参加者の内唯一名前を知っていた学者 "THE INDONESIAN CITY STUDIES IN URBAN DEVELOPMENT AND PLANNING", FORIS PUBLICATIONS DORDRECHT-HOLLAND/CINNAMINSON/U.S.A. ,1986の編者)に会って挨拶。国際交流基金ジャカルタ日本文化センター高畑律子氏と電話連絡。

 

●6月24日 9:30 国際交流基金ジャカルタ日本文化センター、西田郁夫所長と会見。ジャパン・ファンデーションの活動、および今回のワークショップのバックグラウンドについて説明を受ける。

 

 11:0013:30 LIPIにて、ワークショップ打ち合わせ。RUSYDI SYAHRA, PhD.(SENIOR RESEACHER)(ワークショップ事務局長 東南アジア研究グループ)、LIPI副所長、HENNYJOKO SUKAMTO(都市プランナー DP3KK クマヨラン・ニュー・タウン開発局 二日目のエクスカーションのスケジュール調整)、布野、高畑:LIPIにて昼食(パダン弁当)。

 

 14:0019:00 布野 プレゼンテーションの準備 

 

 19:00 西田、高畑、稲見(国際交流基金ジャカルタ日本文化センター:ロンボク・マタラム大学に留学経験あり。布野研究室のロンボク調査について情報交換)、布野会食

 

●6月25日 ワークショップ第Ⅰ日

  8:30- 9:00 REGISTRATION ホテル・ロビーにて参加者顔合わせ。DR. NAS教授より、新刊”ISSUES IN URBAN DEVELOPMENT CASE STUDIES FROM INDONESIA,Edited by Peter J.M.Nas,Research school CNWS, Leiden The Netherlands, 1995を頂く。1986年の前著と合わせて日本で翻訳したらどうか、と思う。

 

  9:30-10:15 OPENING CEREMONY 挨拶

              DR. H.SOFJAN TSAURILIPI所長)

       IR. AKBAR TANJUNG(住宅大臣)ーーー前日は、「持続可能な都市開発に関するシンポジウム」(24日ー25日)(於:インドネシア大学)に出席:メルボルン大学とインドネシア大学の共同研究をオーストラリア政府が援助:情報収集の要。

 

 10:3011:15 基調講演 "URBAN DEVELOPMENT STRATEGY FOR DEVELOPING COUNTRIES" IR. HINDRO T. SOEMADJAN(クマヨラン・ニュー・タウン開発局局長 建築家 二日目のサイト・ヴィジットでも説明を聞く。二日目のパーティーのホスト)

  ・・・発展途上国の都市問題を概観した後、インドネシアの都市開発計画の歴史と現況を紹介

 

  11:15-13:00 SESSION I

        SOCIAL-ECONOMIC PROBLEMS IN URBAN COMMUNITY

        CHAIR: DR. RALDI HENDRO KOESTOER

 

    1 DR. P.J.M. NAS(オランダ社会科学部 社会文化研究所), "TOWARDS SUSTAINNABLE CITIES:URBAN COMMUNITY AND ENVIRONMENT IN THE THIRD WORLD"

 ・・・アーバン・ファンダメンタルズ、環境基盤、持続可能性、都市貧困、環境容量、都市メタボリズム、都市緑化、大気汚染、水質汚染、廃棄物問題、都市環境管理等をめぐる総括論文。ワークショップ全体のリーダー。

      DR. ESTER DELA CRUZ女史(フィリピン大学社会学部), "URBAN PLANNING IN THE PHILIPPINES"

 ・・・ペーパーの準備無し。フィリピンの都市開発の概況を述べる。

      DR. SUWATTANA THADANITI女史(チュラロンコン大学建築学部都市地域計画 メルボルン大学修士 クラコウ技術大学博士), "URBAN PROBLEMS OF BANGKOK AND DEVEROPMENT OF NEW TOWNS"

 ・・・バンコクの都市問題とニュータウン開発について丁寧に紹介

 

 14:00-17:00  SESSION Ⅱ

               URBAN CULTURE IN NEW TOWNS

               CHAIR: DR. A.M. SHOHIBUL HIKAM

 

    1 DR. IRWAN ABDULLAH(ガジャマダ大学人口研究センター アムステルダム大学博士 都市人類学), "URBAN SPACE, CONSUMER CULTURE, AND THE PRODUCTION OF LOCALITY"

 ・・・インドネシア気鋭(三〇代前半?)の都市人類学者。ジャカルタの新しい都市消費文化の分析を試みる。

  2 MS. YULIANTI PARANI(画家), "THE ARTS IN JAKARTA URBAN DEVELOPMENT"

 ・・・ジャカルタにおける美術運動の流れを紹介。

    3 DR. TREVOR HOGAN(ラ・トロウブ大学 社会学・人類学科 社会思想史), "MISPLACED PLANS:FROM GARDEN CITIES TO NEW TOWNS IN BRITAIN AND ITS ANTIPODES IN MODERNITY"

 ・・・1957年生まれの理論家。ニュータウンの思想とその系譜を総括。残念ながら時間足らず。アブストラクトのみ。ワークショップ参加者のなかで理論的中心。

 

   18:0021:00 会食・情報交換(NAS HOGAN VICTOR IRWAN FUNO ブロックM)

 

 

●6月26日 ワークショップ第Ⅱ日

 

    9:3011:15 SESSION Ⅲ

        CITTY PLANNING IN SOUTHEAST ASIA

                CHAIR: DR. CHARLES GOLDBLUM

 

    1 DR. SHUJI FUNO(京都大学 地域生活空間計画), "THE SELF-CONTAINED URBAN COMMUNITIES BASED ON THE ECOLOGICAL BALANCE IN THE REGION"

 ・・・阪神淡路大震災の教訓、日本のニュータウンの総括をもとに、東南アジアのリセツルメント計画、および都市コミュニティのモデルとしてのカンポンの特質について論ずる。

 

  2  PROFESSOR DJOKO SUJARTO(バンドン工科大学 都市計画 以前から知り合いの研究者), "PROBLEMS AND PROSPECTS OF INDONESIAN NEW TOWN DEVELOPMENT"

 ・・・インドネシアのニュータウン開発の歴史を丁寧に総括。

 

  11:1513:00 CHAIR: PROFESSOR DJOKO SUJARTO

 

    1 VICTOR SAVAGE(国立シンガポール大学 東南アジア研究計画部長 美術・社会科学部副部長), Ph. D,"PLANNING AND DEVELOPMENT OF NEW TOWNS:COMMENTARY ON NEW TOWNS IN SINGAPORE"

 ・・・シンガポールの都市開発についてユーモアを交えて詳説。時間をはるかにオーバーする大演説。ワークショップ参加者NO.1のエンターテイナー

  2  DR. CHARLES GOLDBLUM(パリ第八大学 都市理論研究室 HENNYの先生),"URBAN GOVERNANCE OF SINGAPORE: A PLANNING MODEL FOR OTHER SOUTHEAST ASIAN CITIES?"

 ・・・VICTOR SAVAGE の大演説を補足。

  3  DR. AGUSBUDI PURNOMO(トリサクティ大学 研究所 環境計画 新潟大学博士(樋口忠彦:ランドスケープ・デザイン)),"EDUCATION AND PLANNING IN THE FACE OF POLITICAL POWER" 

 ・・・計画プロセスと政治力学について計画理論の必要性を展開。

 

  14:00 LIPI発→KOTA BARU BANDAR KEMAYORAN(DP3KK)

 

  14:4015:30 IR. HINDRO T. SOEMADJAN(クマヨラン・ニュー・タウン開発局局長) スライド説明 

  LIPI(RUSYDI, HENNY ETC)による”NEW TOWN AND COMMUNITY EMPOWERMENT: THE CASE OF KEMAYORAN, JAKARTA”配布。好レポート。 

 

    15:30-18:00  FIELD TRIP I

 ・・・カンポン居住者をリプレイスしないでローコスト住宅を供給した地区に参加者一同興味を持つ。布野は二度目の見学であったけれど、思った以上に活発に空間が使われているのに感激。

 

    18:0019:30 パーティー

 ・・・カンポンの子どもたちの民族舞踊に盛り上がる。

    VICTOR プロ級のカラオケの腕前披露。全員、ダンドゥットのリズムに合わせて踊(らされ)る。最高のもてなしに、参加者一同打ち解ける。

  21:00 ホテル着

 

●6月27日 ワークショップ第Ⅲ日

 

   8:30 ホテル発→LIPI

    9:3014:00  FIELD TRIP II

                 LIPPO CIKARANG-BEKASI

 ・・・ジャカルタ東近郊の郊外型ニュータウン視察。LIPPO BANK グループはいくつかニュータウン開発を手がけつつある。

    住友商事と韓国・現代の投資:両国の工場が立ち並ぶ。「これは日本のサテライトタウンか」という野次が布野に向かって飛ぶ。

 

   14:0014:30  LUNCH

 

    14:30-17:00  総括討論

 ・・・会議の印象、今後の研究計画について意見を述べる。研究フォーマット、研究方法、主要テーマなどについて議論。

  ・ニュータウンの分類、タイポロジーが必要ではないか(HOGAN

   民間開発のものと政府主導のものとはわけるべきではないのか(CHARLES

    ・他のアセアンの首都、ハノイ、ヤンゴン、プノンペンも含めるべきではないか(VICTOR FUNO

  ・各都市について、都市全体レヴェル、ニュータウンレヴェル、コミュニティ・レヴェル、住宅レヴェルを分けて作業する必要があるのではないか。

  ・様々なアプローチをとり(EMPIRICAL THEORETICAL ETHICAL)、議論を深める(HOGAN

  ・テーマ:

   土地取得のプロセスとインパクト、国家と民間の役割、

   都市管理の利害対立  都市形態と都市イメージ

   都市理論 都市象徴と政治空間

   ・・・・・・・・・・・・ 

 

 閉会挨拶 DR. HILMAN ADIL(HEAD OF PMB-LIPI) 

 □高畑さんJPを代表して挨拶

 

    19:00-21:00  DINNER AT PROFESSOR TAUFIK ABDULLAH RESIDENCE

                 タウフィック邸でパーティー  布野、高畑

 ・・・色々な出し物も出て盛り上がる。VICTOR活躍

 

    22:00-       FAREWELL PARTY (NAS CHARLES VICTOR HOGAN IRWAN FUNO)

 

●6月28日 ワークショップ参加者帰国

  

   9:00-10:00  LIPI 図書室閲覧コピー

    10:0012:00 LIPIとJPとの今後の打ち合わせ 

         PROFESSOR TAUFIK ABDULLAHRUSYDI SYAHRA, PhD.DR., HENNY WARSILAH WIDODO他 東南アジア研究スタッフ計7人 布野 高畑

 

・・・布野は、個人的な感想をのべ、29日深夜参加者同士で話し合ったことをも踏まえて研究の展開方向について以下のメモを用いて意見をいう。また、個人で思いつく範囲のアドヴァイスを行う。

 

MAJOR ISSUES

 

  1  CITY FORM AND POLITICAL ECONOMICAL AND SOCIAL STRUCTURE

  2  SPACE PRODUCTION SYSTEM --- MECHANISM SPACE ALLOCATION

  3  URBAN FORM IMAGINED AND REALITIES

     PROCESS OF REALIZATION OF IDEAS OF NEW TOWN

     PROCESS OF LOCALIZATION OF NT PHILOSOPHY

  4  THE PHASES OF SEGREGATION

  5

  6

 

LIST OF WORKS ON THE PREMISE OF THE STUDY

 

 1   GENERAL DISCRIPTION

      WHAT IS NEW TOWN? IN THE ERA OF GLOBALIZATION

      HISTORY OF NT(IDEAL CITY)

      FROM GARDEN CITY TO NT IN THE THIRD WORLD

 2   CLASSIFICATION OF CITIES

     TYPOLOGY OF NT

 3   REVIEW OF URBAN PLANNING THEORY

 4   LITERATURAL STUDY...COLLECTION OF HISTORICAL MATERIALS

 5   FRAMEWORK OF URBAN DEVELOPMENT

      URBAN PLANNING POLICIES

      URBAN PLANNING ORGANIZATION

 6

    

 

TARGET AREA FOR STUDY

  WHO CAN COVER?  WHAT AREA IS EACH RESEACHER INTERESTED IN?

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CITIES(CAPITALS)JAK  MAN  BANG  KUALA SINGA HANOI PENON YANGON :GLOBAL

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STATE-LEVEL   

              

CITY AS A WHOLE

              

NEW TOWNS                                   ×     ×     ×

              

URBAN COMMUNITY

NEIGHBOURHOOD 

UNITS         

              

DWELLING UNITS

HOUSE-LEVEL   

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 DR. NAS INSISTS AT LEAST TWO RESEARCHERS(ONE IS FOREIGNER) COVER ONE CITY ON ALL LEVELS.

 DR. IRWAN SAYS FOUR RESEARCHER PER ONE CITY WHO STUDY EACH LEVEL ARE NEEDED.

 

  13:0014:00 JFにて西田所長へ報告・挨拶

 

  18:30- JICA EXPERT 金谷(旧知 5月着任)、北村(大学後輩)両氏(住宅省派遣 MENPERA)と会食・情報交換 布野 高畑  

 

 

●6月29日 バンテン視察  布野 高畑

 ・・・J.シラス教授(スラバヤ工科大学)より”KAMPUNG SURABAYA”郵送入手(この間、計三度の電話を頂いた)

 

  11:00 ホテル発

 

 13:00 DRS. HALWANY宅で沢山の資料を頂く(バドゥイ調査の可能性が開けて大収穫)

  13:0017:00 バンテン遺跡 美術館 モスク 要塞等視察。HAWANY先生の息子さんに案内していただく。

 

  20:30 スカルノ・ハッタ空港

 

  20:40CENKARENGDENPASAR3:30)→

 

関空着 6月30日 10:15