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2023年9月30日土曜日

京都コミュニティ・デザイン・リーグ(京都CDL)の試みーすまいの専門家の生きる道,『住宅』,200110

 京都コミュニティ・デザイン・リーグ(京都CDL)の試みーすまいの専門家の生きる道,『住宅』,200110


すまいと住生活のみらいを考える 

 京都コミュニティ・デザイン・リーグ(京都CDL)の試み・・・すまいの専門家の生きる道

 布野修司

 

 すまい、というのは極めて保守的なものだと思う。この100年ほどの日本のすまいの歴史を見てもよくわかる。畳の和室や床の間、続き間は必ずしもなくなりはしないし、床座とと椅子座の折衷的使い分け(二重生活)もすっきりと解消されたわけではない。

とはいえ、この半世紀において日本のすまいが決定的に変化したことも指摘できる。具体的には1960年代がその転換点である。1960年に、日本の住宅生産は60万戸、そのほとんどはいわゆる在来工法で建てられていた。10年後、アルミサッシュの普及率はほぼ100%となり、日本中から茅葺き屋根の住宅が消えた。プレファブ住宅の割合は一割に迫ろうとし、住宅生産の工業化はさらに進んだ。、そして1985(昭和60)年、新築住宅(フロー)のうち木造住宅の割合が5割を切った。戸建て住宅の割合も5割を下回った。住宅生産という観点から見ると、日本のすまいが20世紀前半で歴史的転換を経験したことははっきりしている。

 これから4半世紀後、果たして日本の住宅はどうなっているのか、と問われれば、まずは、そうかわらないだろうと答える。しかし、こう変わっていく必要があるのではないか、ということは幾つか言える。

 まず、スクラップ・アンド・ビルドの時代ではない、ということがある。問題は住宅生産のサイクルであって、スクラップ・アンド・ビルドが一概に否定されるべきではないけれど、資源の有効利用という意味で既存のストックを有効活用するのがこれからの流れであろう。また、省エネルギーという観点からは、一個一個ののすまいのレヴェルにおいて、自然エネルギーの活用、資源のリサイクルが追求されるされるであろう。

 もうひとつ、日本のすまいを変えていく流れは、日本の家族のあり方である。少子化、高齢化は、コレクティブ・ハウスの日本的形態など新たな空間形式を必要としている筈である。

 それぞれに論ずることは多いけれど、第一の問題は、すまいの専門家たるべき建築士の行方である。日本社会の構造改革の方向として、建設(住宅)投資が減り、結果として日本の住宅の寿命が延びるとすれば、従来の建築士は必要なくなるのである。建設投資が先進諸国並みに国内総生産の1割程度になるとすれば、極端に言って、建築士の数は半減してもおかしくない。自分がどう生き延びるかが問題であって、悠長にすまいのみらいを考えている場合ではないのだ。

 筆者には、三つの目指すべき方向が見えている。

第一、すまいの維持管理、再生活用、リサイクル技術など、ストック活用の方向へむかう、これは多くが論ずるところであろう。

第二、まちづくりの専門家、タウン(コミュニティ)・アーキテクトを目指す。一個の住宅でも、地域社会との関係において時間をかけて建てる時代となる。地域社会の環境、景観に責任をもつ、そうした新たな職能確立を目指す。

第三、国際的フィールドを目指す。世界には発展途上国を中心に住宅問題をめぐって、日本の建築士が活躍すべき広大な分野がまだある。

 第三は置くとして、第一、第二の方向は、重なり合う。ホーム・ドクターならぬハウス・ドクター、あるいは介護の問題など地域社会のケアが大きくクローズアップされつつあることを想起すれば、その建築版として、タウン(コミュニティ)・アーキテクトの必要性が理解できるだろう。

 タウン・アーキテクト制については、『裸の建築家ータウン・アーキテクト論序説』(建築資料研究社、2000年)で論じた。しかし、論じていてるだけでははじまらない、というので、ひとつのシミュレーションを始めた。京都コミュニティ・デザイン・リーグ(京都CDL)という。

簡単に言うと、各チームが、京都の特定地区を担当し、年に一度、その地区の状態を記録し、それを分析した結果、何らかの提案をし、その成果をチーム毎に競い合うというのが活動の基本である。大学の研究室などを単位としたのは持続性を重視するからである。

謳い文句を並べれば以下のようだ。

○京都CDLは、京都で学ぶ学生たちを中心とするチームによって編成されるグループです。

○京都CDLは、京都のまちづくりのお手伝いをするグループです。

○京都CDLは、京都のまちについて様々な角度から調査し、記録します。

○京都CDLは、身近な環境について診断を行い、具体的な提案を行います。

○ 京都CDLは、その内容・結果(試合結果)を文書(ホームページ・会誌)で一般公開します。

○京都CDLは、継続的に、鍛錬(調査・分析)実戦(提案・提案の競技)を行うグループです。

○京都CDLは、まちの中に入り、まちと共にあり、豊かなまちのくらしをめざすグループです。

 

 

 

 2000年4月に活動を開始したばかりだから、海のものとも山のものともわからない。しかし、それなりに手応えはある。4月に設立大会を催して、6月には四条通りを横断する一日大行進を試みた。現在、『京都げのむ』という雑誌の発行を準備中である。10月には第2回の集会をもつ。遊んでいるようであるが大真面目である。全国の町にも、必ず、それぞれの地区をウォッチングし続ける建築士が居て、地区の様々な問題に関わり提言する、それがタウン・アーキテクトの原点と考えるのである。

現在、14大学25チームの参加があるが、京都市全体をカヴァーするのにはまだまだチームが足りない。興味をもたれるむきは是非ご参加を(http://www.kyoto-cdl.com/)。 

 


2023年8月22日火曜日

『京都げのむ』創刊、ミニレター、室内、20011112

 『京都げのむ』創刊

布野修司

 

前略 ご無沙汰しております。

この度、京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の機関誌『京都げのむ』を創刊致しました。ご紹介、ご批判頂ければ幸いです。

京都CDLについては、拙著『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』(二〇〇〇年)の最後に構想を発表したのですがご記憶でしょうか。二〇〇一年四月二七日に設立大会を実施、以後活発な活動を開始しております。簡単に言いますと、大学の研究室を単位とする各チームがそれぞれの地区を担当し、毎年調査するとともに何らかの提案を行い、それを競うという活動です。現在、一四大学二二チームが参加、京都市42地区をそれぞれ二地区ずつ担当しております。

京都げのむ、という命名にはステレオタイプ化した京都論に囚われず、かけがえのない京都の遺伝子を発見したいという思いが込められています。

編集は学生主体ですが、素人離れした出来映えだと思うのですが如何でしょう。当面、春季リーグ(四月)、秋季リーグ(一〇月)に合わせて年二回発行の予定です。『群居』は五〇号で区切りをつけたのですが『京都げのむ』が何号まで続くか楽しみです。是非手に取ってみてください(http://www.kyoto-cdl.com)。     早々

 

 追伸 今度『建築雑誌』の編集長に就任。二〇〇二年一月号から二四号、ご期待下さい。

 

 室内 03-3501-8920

  鈴木様

2023年2月28日火曜日

2002年3月 建築雑誌が届かない  投稿歓迎  中国建築学会へ 『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日

 『建築雑誌』編集長日誌                          布野修司

 

20023

 建築雑誌が届かない

 投稿歓迎

 中国建築学会へ

 

200231

夕刻より川端会。川端会とは京都大学の建築系教室の親睦会。23ケ月に一度、川端通りの店に集う。特に議題があるわけではないが、時々の懸案事項が話題になる。この日の話題は「外部評価」。人事も絡むこの話題については書きたいことが山ほどあるが、筋が違うのでここでは書かない。各大学、色々問題はある。

石田、大崎両幹事ももちろん川端会のメンバーで、京都大学の『Traverse・・新建築学研究』もこの川端会が母胎になって発足した。話は当然、『建築雑誌』に及ぶ。というかミニ編集会議となった。高田光雄、古阪秀三、竹山聖先生などが加わる。

高田先生、カラー化について「なんで金をかけるんだ」とおっしゃる。金はかかっていないと、紙質を含めた制作費について説明する。身近にいてこうだから、随分誤解されているだろうなあ、と思う。

古阪先生は1月号の執筆者で、投稿について、小特集を組んで対応しろとおっしゃる。そんな誌面の余裕はない、数頁であればとれる、時間はあげるから、日本の建設産業をめぐって是非議論を、投稿があったら考えると、一応とりなす。

 

200234

 学会賞委員会で上京。上京の友は、『聖徳太子』『法華経入門』『ことわざの知恵』、いずれも岩波新書だ。『ことわざの知恵』は、岩波辞典編集部編で、時田昌瑞著『岩波ことわざ辞典』の余録というか、宣伝のような本で、さらっと読める。へぇ~ということわざも少なくない。気に入ったのを少々。「下戸の建てたる蔵もなし」、飲んべえの言い種だ。「人を呪わば穴二つ」、これはおっかない。「死馬の骨を買う」、こういう戦術をとりたいものだ。「三つ叱って五つ褒め七つ教えて子は育つ」、長年教師やっているけれど、なかなかこうはいかない。

学会賞委員会の前に、小野寺さん、片寄せさんとは、まず、この間届いた投稿掲載についての意見を集約。投稿について、掲載する方針を確認。締め切りの問題があるので、37日までの執筆者の応答を待って12日の編集委員会で決定することとする。

その他、特に、9月号「建築年報」特集について下打ち合わせをする。特に担当と言うこともないので僕がなんとなく責任を自覚した次第。一応以下のようなフレームでどうかということになる。問題は新たに設ける研究レビューの頁数とフレームである。そして、年表をどうするか。まずは、大崎幹事と相談することにする。

 

『建築雑誌』9月号 「特集:建築年報2002」構成案

○会長インタビュー 学会 回顧と展望                         (4p)

○視 点  建築界 回顧                                (2p)

○デザイン界総括座談会                                (8p)     

○建築界の動向と展望(2p×8本)                        (計16p)

○研究レビュー(5p×5系)                              (計25p)

 【構 造 系】(担当委員:○○○○)510人の執筆者に依頼する。

  ・構  造     5

 【計 画 系】(担当委員:○○○○)

  ・歴史意匠       1

  ・都市計画        1

  ・建築計画        1

   ・農村計画        1

  ・(文教施設)    1

 【環 境 系】(担当委員:○○○○)510人の執筆者に依頼する。

  ・環境工学       

  ・(地球環境)

 【生 産 系】(担当委員:○○○○)510人の執筆者に依頼する。

  ・材料施工       3

  ・建築経済        2

 【学際総合系】(担当委員:○○○○)510人の執筆者に依頼する。

  ・防  火        1

  ・海  洋         1

  ・情報システム技術  1

  ・建築教育       1

  ・(災害)

  ・(建築法制)

○調査研究委員会活動報告                               (計14p)

  上記16委員会 (1/2p×16) 

  特別研究委員会(1/2p×12

   →原則として委員長執筆

○支部活動報告/支部研究助成金による研究                                      (計9p)

  支部長執筆

9支部(1p×9)                         

○建築年表2001                                 (計6p)

                                        総計84ページ

 

年表については半減するので、青井委員にフレームを検討してもらうことにした。

その他、6月号の巻頭鼎談に大文さんこと田中文男・大棟梁がいい返事をくれないという。担当の藤田委員が大弱り。「6月号の鼎談についてご報告します.坂本先生・渡辺先生からはご内諾及び候補の日程を頂くことができました.しかし,田中棟梁には「もう年だから,勘弁してくれと布野先生に言ってください」といわれてしまいました.しつこくお願いしたのですが,私ではやはり到底太刀打ちできませんでした.布野先生からお願いしていただけませんでしょうか?」

しょうがないなあと電話する。大文(だいふみ)さんに出てもらったら、といったのは僕だから責任はある。しかし、も捕まらず。今日、明日と出張だという。

 

帰りの新幹線で真っ青になる。たまたま、1月号と2月号を読み比べていて、会告(論文集目次)の欄に全く同じ頁があるのに気がついた。あわてて編集部に電話。20:00過ぎていたけれど二人ともいつもの残業である。取り返しはつかないけれど、原因究明、再発防止の対策はとらねばならない。

 

200235

小野寺さんより原因についてメールが入る。印刷屋さんのベテランの担当オペレーターが、データをスキャンしていながら、1月号との差し替えを忘れてしまったことがそもそもの原因だという。「しかしながら、それに気づかなかった事務局は全く気が弛んでいるとしか言われようがありません。お恥ずかしい限りです。申し訳ありませんでした。」と小野寺さんは恐縮しきりである。

 

投稿文について、以下の編集長見解をしたためて編集部に送る。

 

編集委員長より。

1月号特集「建築業界に未来はあるか」について、以上のようなご批判を頂いた。いささか一方的な言い方もあって編集委員会での完全な合意は得られなかったのであるが、編集委員長の責任で、特集の議論のさらなる展開を願って掲載することにさせて頂いた。委員長の見解は以下の通りである。

 ①読まれることを第一の目標とする編集委員会としては真摯な批判として歓迎したい。

 ②特集の内容について「詐欺」とまで言われるのは心外である。明るい未来が書かれていない、展望がない、というのが批判の全体を貫くトーンである。しかし、建築業界に未来があるか、というタイトルは反語的であって、読みようによっては、未来はない、ともなるし、未来はある、ともなる、ということである。編集委員会としては、特集主旨を繰り返すしかないであろう。「・・・・その先にある未来は、いくらデータを精緻に積み上げても確定的に描ききるものではない。・・・建築業に未来があるとすれば、過去・現在を見つめたうえで、この建築界をどうしたいかという我々の構想のなかにある。今回の特集を通して、読者の方々は是非その構想を膨らませ、相互に議論を喚起していただき、豊富な未来像を描く契機となれば幸いである。」

 ③逆説的ではあるが、じっくり読んで各原稿にそれぞれコメントいただけたということは、否定的にではあれ、多少とも考える素材を提供できたと編集委員会としては大いに特集を評価したい。
 ④執筆者からは、充分な反論のスペースと時間が欲しい、投稿者の意見が正しいと誤解される、批判としてあたらないといった意見、希望も寄せられたが、反論が寄せられた段階で対処したい。

 ⑤いずれにせよ、建築業の未来をめぐってさらなる幅広い議論の展開を期待したいと思う。また、「建築市場・建築産業の現状と将来展望」特別調査委員会には明るい未来への展望を期待したいと思う。

 

 編集委員各位のメールによるコメントは省略するが、次回編集委員会では了解を得ることが出来ると確信。

 

200236

 なんと、留守番電話に大文さんの声。「おーい布野、千萬樹にいるからすぐ出てこ~い」。続いて大将からも二度ばかり。「大文さん、お待ちですよ~。」

 出張というのは京都であった。4日、5日と京都にいらっしゃっていたのだ。僕は東京だから行き違いであった。

 慌てて電話。ようやく話すことができた。すれ違いを謝る。編集長の顔を潰さないで下さい、と泣きつく。とにかく、大文さんに出て来て欲しい、と訴える。

 「長年のつきあいじゃないですか」と、一応了解いただく。

 京都には、仕事の関係で南禅寺を見にいらっしゃったのだという。いくつになっても勉強熱心である。

 大文さんには布野研究室の竹村君を預かってもらった。修士卒の親方見習いである。いまは、ものつくり大学にいる。大文さんとは、特にここ10年親しくしていただいている。木造の行方について是非一言ほしい。

 

 トム委員がForeign Eyesで外国とやりとりするメールも結構大変だ。テーマは、Japanese Built t Environment なのに、自分の作品解説だけ送ってきたりする。英文メールに混じってライデン大学のナス先生からうれしい知らせ。

 

This is to inform you that LIT Verlag at Berlin, Germany, has agreed to publish our book The Indonesian Town Revisited. I am very glad that this young active and already well-known publisher will host our book. I hope that the final stage of making a copy-ready volume will not take too much time. I plan to finish this before the summer holiday. Yours sincerely, Peter Nas

 

書いた論文が本になって出るという。これまでも、外国で出版したことはある。“Bauen mit Eigensinn Japanische Architecture Individualism and Idiosyncrasy, Petruschat Verlag, Berlin,1996がそうだ。また、『日本当代百名建築師作品選』(布野修司+京都大学亜州都市建築研究会,中国建築工業出版社,北京,1997年)もある。いずれも、日本の建築家の作品を紹介する本だ。後者は、中国国家出版局優秀科技図書賞受賞 (1998年)を受けた。さらに、『建築.まちなみ景観の創造』(建築・まちなみ研究会編(座長布野修司)、技報堂出版,19941月)は韓国語訳がある( 技文堂,ソウル,19982月) 。つい最近も、『建築計画教科書』(建築計画教科書研究会編,彰国社, 1989年)を韓国で翻訳したいという。しかし, 英文論文集となると初めてである。なんとなくうれしい。論文タイトルは、‘Spatial Formation in Cakranegara, Lombok’である。

 

200237

 菊岡さん、斉藤さんから、投稿文についてのコメントが届く。一応格好はつきそうである。

 

 本特集のなかで過去を主題として言及したのは私だけであろうかと思います。

「建築業界に未来はあるか」という特集に際して、業界の歴史に関する記事も加えようという編集委員会の見識を私は支持したいと思います(概してこのような特集では過去=歴史については排除されるのが通例です)。産業の通ってきた道を振り返ることが現在および未来について考える際の“即効薬”になるとは思いませんが、人間の遺伝子や育った環境ほかが現在の人格・行動に影響を及ぼしているのと同様、現在と未来を考える上で、建設産業史について考えることは必要なことと私は思います。「歴史は鏡」というフレーズもあります。今回、文章+年表というかたちで建設業政策の過去から現在までを拾い上げたのは、読者各位に歴史の事実から「思考の滋養素」を汲みとっていただきたいと思ったからにほかなりません。そのための素材提供が目的でした(建設業界はある部分、過去を振り返ることなく、いや捨てて、前へ前へと進んできた観がある産業です)。なお今回、編集委員会から私に与えられた依頼文の一部を拙稿の冒頭に記しておきました。それは、「明治から今日に至るまで、建築業に対する産業政策をパースペクティブに提示していただく…」というものであったことを付記したいと思います。(菊岡倶也)

 

  「建築業界に未来はあるのか」という問いに対し、未来がある、あるいは未来を創れる、と考えるからこそ、未来を見出すことができるような要素について描こうとし、テーマの選択を行った。

 未来を描くためには、現状認識を的確に行い、歴史あるいは事例に学ぶという姿勢が必要と考える。その観点から、今回は建築ストラテジー、特に英国における建設産業ストラテジーを中心に議論し、その中から日本の建築産業へと反映できる要素を抽出している。その中に未来を創造するためのストラテジーとして①発注者中心の建設産業政策の導入、②明確な数値目標の設定、③官民パートナーシップの拡大、④ベストクライアントとしての発注者改革、⑤建設産業の情報開示の推進が必要不可欠と提言している。

 しかし、これでは未来を描いていないという批判に明確に応えていない。本論を進めるうえで、特に考慮した背景が批判の回答になるかもしれない。

 発注者という立場で最近感じるのは、本来日本の建築業界が持ちえてきた、あいまいな建設過程における中間領域的な技術が失われつつあるのではないか、また、建築業界に必須の伝統的な技術が失われつつあるのではないか、というのがある。これまでは、すべての建築技術者には、少なくとも、己の技術を建築の部分で実現する部分と全体の建築として昇華させるマネジメント能力を持っていた、と思う。アルビン・トフラーは、第一の波では生産と消費が渾然一体化した手仕事の時代であり、人間の能力が尊ばれる時代であったのに対し、現在の建築業界の置かれている第二の波である「工業化社会」においては、規格化、専門化、同時化、集中化、極大化、中央集権化が進んだ結果、非人間的な原則が人間を支配するようになったと述べている。これを建築業界における品質の概念として見れば、個々の材料や組み立て技術は高度化されてきたものの、建物全体としての技術者同志の調整や統制が遅れ、過去の建物よりも品質として劣化しているものが頻繁に見られる。この主要な要因は、専門分化により各自の境界が明確になり、従来、建築業界に携わる誰かが行っていた境界領域間のあいまいな作業の補正をしなくなったためであると考える。それゆえ、だれかが境界間の隙間を埋めなくてはならないが、過去においてはそれが設計者であったり、施工者であったり、専門工事業者であったりしていたものが、現在は誰もいない。その結果が品質に現れている。

このままで第三の波に突入することはできない。生産と消費が再度融合されてゆく第三の波の時代は、第一の波の時代に似たプロシューマ-(生産=消費者)の登場や、都市の分散化、個人の多様化が図られると予測している。それゆえ、これまでの技術の再認識を行うことと、技術にマーケティングやマネジメントといった建設サービスのソフト部分を付加することにより、多様な発注者が望む「もの」を作ることが建築業界において確立され、多様性の時代に合致した建築産業となることが望まれている。この意味において、建築産業のサービス産業への脱皮は不可欠であり、その変化は、単に発注者の利益となるだけでなく、われわれ建築業界に利益をもたらすものと確信している。より良い未来の建築業界の創造が期待される次第である。(斉藤隆司)。

 

建設通信新聞に「『建築雑誌』を刷新」掲載。


200238

 午前中、Traverse3号の企画で巽和夫先生インタビュー。高田、古阪、大崎、布野で、大学入学から現在まで一気に聞く。もちろん、時間は足りない。またの機会をということになった。

 研究室では、京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の第3回大会の準備が始まっている。

 

 5月号が原稿入校中。8月号インド特集修正案が新居さんから送られてきた。山根、青井委員も加わって検討中だ。小特集で24pしかないのがつくづく残念である。

 

建築雑誌8月号インド亜大陸建築小特集(企画案3)                  

                                          新居照和

目次構成(トピックは仮題、仮ページ数、敬称略)

1)原初を考える ( 4)

「水の建築・山の建築・大地の建築」    新居照和/ヴァサンティ・メノン・新居

全体を関係付けるテーマとなるように表現する。インド建築空間を並置しながら、思想としての人と自然との関係や、多様性の構造を論じたい。

2)未来へのまなざし:論考を含めたメイル・インタビュー形式 (6)

今日のインドが面する深刻な課題を、国境を超えた普遍的課題とし、かつ読者自らの建築のあり方を見つめ直す機会になるように位置付ける。ドーシから提示された下記の論考をもとに、ドーシの長年の試みと、時間を超えた様々な具体的事例に触れながらインタビューを行う。

「インド及び開発途上地域の都市開発の未来」

 Future of Urban Development in India and other parts of the Developing World

                   バルクリシュナ・ドーシ(内諾・印)+ドーシの研究所

(編集者側からのインタビューとしては、建築教育、若い世代の建築的試みや問題意識、危なく見える最近のインドの状況、都市の再生と創生、アフガニスタンとテロ、多数を占める非西洋世界の課題などの問いかけを考えている。質問事項の御提案をお願いします。)

3)各論120世紀の巨匠から (5)

ル・コルビュジエとルイス・カーンがインドと関わる中で、どのような出合いがあり、彼等の仕事にどのような可能性が託されるようになったのか、インド人建築家の実体験と役割を通して語る。

①「ル・コルビュジエのインドの仕事」       バルクリシュナ・ドーシ(内諾・印)

(ル・コルビュジエのもとで修行し、カーンを含めて巨匠のインドの仕事の生き証人。インドの代表的建築家であると同時に建築教育の礎を担った。これまでの発表内容に加えて新しい内容を期待する。)

②「インド亜大陸におけるルイス・カーンの仕事」 アナント・ラジェ(内諾・印)

(カーンのもと、チーフとしてインド経営大学に従事し、カーンの死後引き続き設計を担当する。バングラデシュ国政センターを含めてカーンの意図や頑張りが語れる生き証人。インドの代表的建築家の一人で、深い建築理解を感じさせる教育者でもある。)

4)各論2:古典建築から (7)

研究者として、インド建築と向き合い没頭する中で、そこまで突き動かされたのは何なのかを感じさせ、そこから何を発しているのかを語る。

①「アフガニスタンの仏教遺跡バーミアン」(2)         西川幸治(内諾)

  ガンダーラの復元

②「ヒンドゥー建築とインド・イスラーム建築」(3)

             ジョージ・ミッチェル(内諾・英)/スネハル・シャー(内諾・印)

 ヒンドゥーとイスラームの建築空間構造について、最新の調査没頭した建築をヒンドゥーとイスラーム建築から二例上げる。今日のインド亜大陸の成り立ちとその独特さをつくる背景に言及しつつ、入門的解説となることを目指す。

ヒンドゥー建築の選択肢として、「タンジャウール(南インド)ヒンドゥー寺院複合建築」があげられる。(編集者の意識としては、ヒンドゥーとイスラームの対立と言う捉え方が、いかに誤解されているものか理解される手がかりにもなることを期待したい。)

③「インド建築−発想の転換」(2)              飯塚キヨ(内諾)

自己の人生観、建築教育観、社会観を変えた、あるいは影響を与えたインド建築を一つ選んで頂き、インド建築の問いかけを具体的に論じる。

5)資料 (2) 

はやわかり・建築で見るインド亜大陸の地域と歴史               山根 周

はやわかり・建築学会誌に見るインド亜大陸への眼差し             青井哲人

特集にあたって

1) ビジュアル半分、文章半分、共に建築のすばらしさがにじみ出て、国際的にも共感できるものでありたい。グラフィックデザイナーの力を存分にお借りしたい。文章は、わかりやすい言葉で、執筆者の豊富な経験を反映した生きた文章になることをお願いしたい。

2)要約文等を含めて、バイリンガルの工夫ができるかどうか検討したい。

例えば、インターネットで英文を公開することによって、雑誌の特集は全て日本語で納まり、その分の誌面をビジュアルにさける。

3)山根委員、青井委員に翻訳、注釈コラムを含めて、絶大なる協力をお願いしたい。

 

200239

 1月号の特集への応答は7日を締め切りとしたのであるが、執筆者のひとり嘉納先生から投稿文掲載反対の連絡があった。いささか困った。「1月号に対して、そのような感じ方をする人もいると言うことが判り、参考になります」とあったし、編集委員会の大勢も掲載の方向であったから、掲載の意向を嘉納先生に伝えた。掲載については編集委員会マターであり、編集権はある。

 

2002311

 嘉納先生から重ねて掲載反対のメール。「編集長として、「各執筆者の原稿を面白おかしく批判している部分もあり、その批判が妥当ではない部分もあるが敢えて原稿のまま掲載した」と記載して欲しいと重ねてお願いします」ということであったので、「了解しました」、と返事する。
 小野寺さんから、「英文論文集、今年はこの3月の刊行ですが、来年は11月に繰り上がることになりまし
た。1500号特集がずれて2月号になってしまいます。今年は大会が例年より1カ月早い開催ですので、12月号を大会報告号(小特集)とし、2月号は通常特集としたうえ1500号記念号に充てることを提案いたします。」と連絡あり。

 会員諸氏は、英文論文集、作品選集、総合論文集などが『建築雑誌』の号数に組み入れられているのをご存じだろうか。

 

2002312

 第9回編集委員会で上京。会議の前に、2月号がまだ京都に届いていないことを斉藤事務局長に報告。宅配業者に問題があるのではないか、検討をお願いする。特に今回は評議員、代議員の選挙が絡んでいたので問い合わせがいくつかあったという。

 

議題は以下の通り。メインは8月号の「インド特集」。いつも時間切れになるのでまず連載の確認。続いて、投稿論文の扱い、経過について説明、了承を得る

 北澤先生が初めて出席。「田園都市」100年ということもあり、都市計画、農村計画分野で特集を組む、その企画をお願いする。かなり意見が出たのは、野口委員提案の「建築の寿命」特集。面白くなりそうである。

 英文論文集が繰り上がったせいで、1500号が小特集の月になる。12月号を小特集とし、「光の環境」を当てる。2月号を1500号記念号とすること決定。

 

9回 編集委員会 議題

1.前回議論の確認 …………………………………………………………(資料1

2.特集企画について ………………………………………………………(資料2

  【進行の確認】

    7月号「シックハウスから健康住宅へ-室内空気汚染問題の今」

                         →岩下委員・羽山委員

  【企画の審議】……………………………………………………………(資料2

  ・8月号「インド亜大陸建築」               →新居委員

  ・9月号「建築年報2002」               →布野委員長

  ・10月号「光の環境」                   →石田幹事

  ・11月号「建築の寿命」                  →野口委員

  ・12月号を小特集とし、2月号を1500号記念号とする案について

3.連載について ……………………………………………………………(資料3

   8月号までの執筆者確定

  ・技術ノート「特許」について

  ・foreign eyes の候補者

   →(小野田委員より)オハイオ州立大のキプニス教授、UCLAのベン・レフェ

    ルゾ教授がお勧めです。ノースカロライナ州立大のサノフ教授というコネク

    ションもあります。

41月号に対する投稿について …………………………………………(資料4

5.検討事項

  ・特集記事の要約について

  ・「本会記事」委員会報告、支部活動報告の削減案について ………(資料5

 

  いつもの懇親会。北澤先生も参加で話題盛り上がる。そこへ、斉藤事務局長、嘉納先生のメールのコピーを持参。ご存じですか、とおっしゃるから、知っています、先ほどの編集委員会で掲載は決定しました、と答える。

 

2002313

理事会。校務で出席できず。初めての欠席である。京都に帰って、嘉納先生が仙田会長にも掲載反対の意見を送られたことを知る。いささか心外。

中国建築学会から、第4回アジア建築交流シンポジウムについての連絡がやっと来る。担当の栗原いずみさんからメールが入った。

アジア建築交流委員会の委員長として、シンポジウムへの参加は今年第一番の仕事である。

第一回は、日本建築学会の百周年を記念して行われた。その後、線香花火に終わりそうな流れであったが、尾島俊雄会長の時に第二回が神戸で1998年に実現した。神戸では実行委員会の副委員長を務めた。委員長は神戸大学の重村力先生である。その神戸シンポジウムで、日本建築学会、中国建築学会、大韓建築学会の3学会が以後持ち回りでシンポジウムを開催することに合意、協定が結ばれた。その協定に基づいて、2000年に韓国建築学会が済州島で開催、2002年は中国で開催するというのが経緯である。

アジア建築交流委員長になって、インドネシア(20013月)、マレーシア・タイ(20019月)へ視察団を送った-というか、自ら団長をかって出て行った。いずれも、建築雑誌に報告(20016月号、20021月号)があるので参照されたい-のであるが、2002年の中国大会への参加要請がひとつの目的であった。一方で、中国建築学会とは連絡をとり続けた。研究室出身の孫躍新君が北京で活躍していて太いパイプになっていて頼もしい。

開催場所として決まったのウルムチであった。孫君はニヤ遺跡の発掘にも関わり、新疆ウイグル地区には特に詳しい。会議後のツアーも組んでもらった。

しかし、911日(WTC)で状況ががらっと変わった。

ウルムチはイスラームに関わりが深く、開催地として相応しくないと中国建築学会が判断したのである。代替の開催地が決まらないまま年が明け、中国が正月休(2月)に入った。埒があかないと、中国行き決定したばかりの連絡であった。

場所は重慶である。

担当の学会事務局の栗原さんがすばやく手配してくれた。彼女の回転の速さにはいつも感心する。まず委員会メンバーに知らせなければ、と思う前に以下の文章が出来ていた。

 

アジア建築交流委員会委員各位
 拝啓 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
 中国建築学会から「第4回アジアの建築交流国際シンポジウム」のANNOUNCEMENT AND CALL FOR PAPERSが届きましたのでお知らせいたします。開催地は重慶,開催期間は,917日~19日(16日夜にWelcome Reception)です。
 
委員の皆様におかれましては,シンポジウムにぜひご参加くださいますようお願いいたします。また,シンポジウムの参加ならびに論文の投稿等については,当委員会委員以外の関係各位へも,ぜひともお声がけ(メール転送等)下さいますようお願いいたします。建築雑誌では3月号と4月号の情報ネットワークでの掲載を予定しております。また,ホームページ上でも案内を予定しております。
 
また,4月に当委員会の開催を予定しております。日時等詳細決定次第追ってご連絡させていただきますので,お差し繰りご出席くださいますようお願いいたします。    委員長 布 野 修 司

 

建築雑誌への掲載もあっという間である。

 

 

  Announcement of the Forth International Symposium on Architectural Interchange in Asia

4回アジアの建築交流国際シンポジウム開催のお知らせ

アジアの建築交流を目的に本会設立100周年記念事業の一環として開催した第1回シンポジウムの目的を引継ぎ,

中国・韓国・日本の3学会共催で1998年から開催,共にアジアの建築の学術・技術・芸術の向上をめざします。

開催日:2002917日~19

開催地:中国 重慶

  催:中国建築学会・大韓建築学会・日本建築学会

シンポジウムにあわせ20029月にシンポジウム参加公式訪問団を派遣-北京,西安,上海,他都市を巡るツアーも企画いたします。

詳細はホームページおよび4月号建築雑誌会告でお知らせします。

Call for papers

You are cordially invited to contribute papers to the ISAIA. Please be informed on the following instructions for preparing the manuscript.

---- The deadline for submission of paper is July 15, 2002. Please send your paper in one printed copy with a disk to the symposium secretariat by registered airmail or EMS.

---- The official language for the paper and presentation is English.

---- The length of the paper is recommended in 4 pages of A4 size. The maximum length of paper should be limited within 6 pages. Figures and tables can be inserted into the lines of paper, or placed at the rear of the paper.

---- All papers will be reviewed and selected by the Scientific Committee of ISAIA. The selected papers will be published in the proceedings and part of selected papers will be presented at the symposium. The authors will be informed before August 20th, 2002.

---- All measurements should use the metric system.

---- Typing instructions: The manuscript should be arranged as follows (1) Title of the Paper (2) Name of the Author (3) Affiliation of the Author (4) Abstract of the Paper, maximum 300 words (5) Main Text Including Figures and Tables (6) References. Please use plain white A4 paper and leave 25mm margin on top and bottom, leave 20mm margin on left and right sides; the full type area is 170mmX245mm.

 

中国建築学会は、基調講演者、招待参加者、組織委員会メンバーについての回答を求めているけれど頭が回らない。今日、明日は国立大学の後期試験である。

 

2002314

 仙田会長は、嘉納先生の意見を企画運営委員会で採り上げられたらしい。企画運営委員会の議事録が送られてきた。締め切りもとっくにすぎているのに、あせる。上旬に出すのが目標である。しかし、編集委員会は相対的に独立しているとはいえ、企画運営委員会の意見には従わざるを得ない。結論は以下であった。

 

結論

企画運営委員会として、前述の参考意見も付して布野編集委員会委員長には

①編集委員会の議論喚起の方針を支持する。掲載有無の判断も編集委員会に委ねられる。

②本件については、投稿の指摘内容について個別評価はできないので、今後の議論に期

 待する。

③そのためにも表現のあまりに軽い部分、適切でない部分については編集委員会として

 修正の注文を出していただく。 

 旨、要請することになった。

 

正式に伝えられたわけではないが、小野寺さんから連絡があったから動かざるを得ない。

早急に投稿者の林俊雄さんに③についてお願いする。

 以後、一日メールのやりとり。後期試験の真っ最中である。紆余曲折はあったが手を入れていただくことになった。まずはほっとする。

 

 しかし、自宅に2月号が届いたのが今日だ。遅すぎる。宅配便の仕組みを見直すよう重ねて事務局にお願いする。 

 

2002318

 投稿文の最終校正。

2002319

 日韓建設工業新聞 編集長インタビュー記事掲載。

 

 

2002320

 長年の友人、インドネシア、ジャカルタのウィスヌ・アルジョ氏が国際交流基金の招きで夫人と共に来室。二週間前に大変な有名人が布野先生に会いたいと言っています、と言うから誰かと思ったらウィスヌという。

 今はジャカルタの美術センターのセンター長である。夫人は中央政府の役人である。今回は「建築遺産の保存活用」を主にテーマにして招待されたという。久々旧交を温めることが出来た。23日の土曜、我が家で研究室の卒業パーティーをやるから、是非来るようにと誘う。

 

 『日韓建設工業新聞』の、建築雑誌についての編集長インタビューの記事が届いた。以下が全文である。記事を書いた神子久忠さんにメールで送ってもらった。実に好意的でうれしい。と同時に身が引き締まる。

 

 日本建築学会の会誌『建築雑誌』の新編集長に布野修司氏(京都大学助教授)が就任した。発行部数約36000部。混迷する建築界にあって、学術・技術・芸術を統括する建築学会の役割はますます大きいが、その影響力を最大限発揮できるのが会誌である。「これだけの部数の雑誌編集長をやるチャンスなどめったにないので、ぜひやりたかった」というだけあって思いは熱い。編集長としての最初の仕事が20021月号である。テーマは「建築業界に未来はあるか」。中身の濃い渾身(こんしん)のテーマである。布野オリエンテーションである。「建築界、建築業界は未曾有(みぞう)の転換期を迎えていて、構造改革なくしてこれからの展望はありえない。だから、これから2年間はこのテーマが主軸となる」。そのための編集委員も布野組閣でそろえた。刺激的な雑誌が動き出した。

 編集員会はジャンルをこえた議論の場に

 布野氏の就任は016月である。雑誌発行の準備期間もあって、半年前に半年後の企画をつくることになっているからである。その成果の第一号が021月号である。巻頭に新編集長のメッセージ、「ラディカルに考える」が掲載されている。

 「学会の方針をわかりやすく会員に伝えるのが第一の使命」だが、同時に打ち出したのが「編集委員会を刺激的で楽しい議論の場にする。それを通じて新たなネットワークを構築し、毎号の作業をストックしてそれぞれの業績にする」というものである。

 「会誌だから学会の方針と離れてはありえないが、相対的には独立していることが必要。そのためにも積極的な活動を続けたい。編集委員は各分野の精鋭を集めたので、ジャンルをこえた議論をしてもらっている。ジャンルの違う人がお互いに議論し刺激しあうことが大事で、こうした場を経験できることはそう多くはない。議論を通して各テーマをあげてくる。企画責任者はいるが、全員参加が目標である」

 「学会には緊急かつ重要課題を検討する特別委員会が設置されているが、それは2年間の時限だから、その間、結論が出るまでなにもやらないわけにはいかない。雑誌はマンスリーだから、その機能を果たさなくてはならない。可能な限り風呂敷を広げ、議論のための材料を出していきたい。建築界、建築業界が転機だけに、本質にかかわる問題をつねに深く考えていきたい」

 少しでも多くの人に読んでほしい

 「36000人すべてが会誌を読んでいるとは思えないので、まず読んでもらうこと。そのために誌面を刷新した。装幀やアートディレクションに鈴木一誌さんに再登場願った。とりわけ挑戦的なのは表紙で、毎号、特集の内容を表すインパクトある図や表を掲載している。

 会員外からは建築家で、評論家でもあり小説家でもある松山巌さんに編集委員に入ってもらった。わからない文章は載せない、ということで全体を見てもらっている。また執筆者には、〈初めに〉〈終わりに〉という紋切り型の書き方をやめてもらいたいと思っている。ささいなことだが、本質的な議論を展開するには大事なことだし、専門ということで閉じてほしくないからである。

 そして、よりビジュアルにするために特集および連載はカラーにした。無駄なコストは徹底的に省き、雑誌のスリム化にも挑戦している。紙質も再生紙にしたし、さらに大豆インクを使っている」

 なんとも面白い「編集長日誌」はホームページで

 布野編集長となって話題を呼んでいるもう一つが「編集長日誌」である。いつだれにあって、なにを話し考えているかを、〈公〉だけでなく〈私〉も含んでドキュメントしていて、なんとも面白い。

 「ホンネでなにを考え、やろうとしているのかを少しでも知ってほしいし、それはアナウンスすべきだと思ったからである。ホームページでいつでも見られるので、ぜひアクセスしてほしい。私の動きも編集委員会の動きもわかる。インターネット機能も試してみたい。学会はその機能をどう評価するかを模索中だが、たとえば雑誌の約半分を占めている会告などの〈情報ネットワーク〉欄の大部分はインターネットに切り替えてもいいのではないかと考えている」

 無難な建築ジャーナリズムにも切り込む

 編集長の任期は2年。24冊つくることになる。なんでこんな公共空間になるのか、京都議定書は建築をどう変えるか、といった刺激的なテーマがすでに決まっている。

 「無難な書き手をそろえない、意見の違うものも載せる、反論もおおいにけっこう。既存の建築ジャーナリズムは、それなりの持ち場があるが全体的に活気がない。昔は若手が執筆する場があったが、いまそれがない。それなら『建築雑誌』が仕掛けてやろうという気持ちがある。たとえば2月号は大学院生たちが実質的にまとめているが、そうした場を提供していきたい。

 それに年3月号は創刊1500号となるから、なにかイベントをやりたいが、そんなこともあわせて、可能な限り大きな歴史的パースペクティブをもって各テーマをとらえていきたい」

 「編集長日誌」のホームページは、http://news-sv.aij.or.jp/jabs/1/sub5-1.htm(了)

 

2002326

 アジア建築交流委員会の委員長として中国建築学会との事前打ち合わせのために中国へ。午後、関空から上海へ。

同行は研究室のモハン・パントさんと研究室出身で神戸大学の重村研究室のトウ・イ君。二人ともこの三月、めでたく学位を取得、昨日、学位記をそれぞれ京都大学と神戸大学で授与されたばかりだ。パントさんはネパール出身で、上海の同済大学で修士をとり、シドニー大学の博士課程に学んだが、様々な経緯と縁があって出会った。カトマンドゥ盆地のティミという町を主対象にした学位論文は極めて高水準の論文である。

精華大学出身のトウ君も経緯があって日本に来ることになり、不思議な縁でと出会った。北京の朝陽門地区のフィールド調査をもとに修士論文を書いた後、これまた様々な事情と経緯で、神戸大学の博士課程(重村研究室)に入学することになった。北京の街割りについて『乾隆京城全図』(1750年)を徹底的に分析した学位論文を書いた。わずか三年での学位取得については、重村先生の献身的指導があった。北京オリンピックに向かって大きく再開発されようとする北京にとって貴重な論文である。中国の建築学会でも既に注目を集めはじめている。

パントさんは、母国語の他、ヒンディ語、中国語、英語、日本語がべらべらの語学の天才である。最初の寄港地を上海にしたのは、中国建築学会副理事長で、上海建築学会理事長、中国科学院院士でもある同済大学の鄭先生に合う主目的の他、パントさんの母校への報告もと思ったからである。

上海につくと念願の外灘(バンド)の和平飯店に宿泊。まずは二人の博士誕生に乾杯であった。

テキスト ボックス: 上海:外灘

 

 

2002328

 上海は、おそろしく元気なまちだ。超高層が林立する様は壮観である。昨日は、まず、上海城市規画展示館で上海の都市計画の現況について情報収集。2010年の上海博覧会には6カ国からの提案があり、日本からRIAが参加している。その後、いささか遠出であるが、周庄へ。江南の水都の雰囲気を味わう。情けないことに和平飯店は一日限りで宿替え。予約で満杯なのだという。上海書城のすぐ近くの上海大都市酒店。部屋の眼下に里弄住宅というか、石窟門形式の住宅がびっしり並んでいる。超高層が林立する谷間に低層の居住区がまだまだ点々と存在している。

 まず、同済大学へ。鄭先生と歓談。鄭先生が中国側を代表して基調講演を行う、というのは決定済みだという。鄭先生は、フランス建築科学院院士でもあり、イタリアで勉強されたこともあって欧米には強い。昨日も午後、我々と入れ違いに、上海城市規画展示館へフランスの代表団を案内したという。

 鄭先生と第4回アジア建築交流シンポジウムについて簡単に意見交換。台湾の参加は組織として難しい、個人としての参加なら問題ないなど的確な判断をもらう。エクスカーションで三峡下りはどうか、と奨めて下さる。重慶から23日で武漢、さらに上海まで来たらとおっしゃる。

パントさんは10年振りの母校に懐かしそう。学位論文を恩師に届ける。

鄭先生が上海のニュースポットとして「新天地」をみろという。「新天地」とは、19世紀半ばに建設された住宅地を現代的に再生させたプロジェクトである。第一回中国共産党大会が行われた煉瓦造の建物がスターバックスになっている、そんな興味深いプロジェクトであった。

 

テキスト ボックス: 上海:歴史的地区:新天地(下)

 

テキスト ボックス: 上海の光と影:          都心に残る里弄(石窟門)住宅群(右)

 

 

 

 

2002330

 昨日、上海から北京に移動。孫躍新君の出迎えを受け、旧交を温めた。

 午前中、7年振りの中国歴史博物館、故宮。3年前に来たときは、外務省の文化事業の講演が目的だったから、故宮に寄る時間はなかった。

 午後2時より、羅頸君の事務所で日中交流のためのミーティング。僕の中国訪問に合わせて企画したということであったが、急遽何かしゃべってくれ、といわれて大慌て。羅頸君は、布野研究室に入りたかったのであるがうまくいかなかった。その後経緯はあるが、いまや40人のスタッフを抱える事務所を経営する、日本からみると大建築家である。孫君と仲がいい。

 困ったけれど、ノートパソコンには様々データがある。三年前しゃべったレジメもあるから、なんとかなる、と昨晩レジュメをつくる。題して「最新日本建築界動向」。孫君が映像が欲しい、というから、急遽、学会賞、作品選賞の作品をダウンロード、最近の日本建築の動向をしゃべることにする。便利な時代になったものである。

 驚いたことに30人もの人が集まった。なかなか面白いネットワークである。

 中国建築装飾協会。羅君は内装のデザイン・ビルドを手掛けており、声をかけたのだという。

 中国房地産業協会。日本で言えば不動産業界である。今や元気がみなぎるディベロッパーの諸君である。


 旧知の京都大学で学位をとった白林君(北京交通大学教授)、東大の藤森研出身の呉耀東君(精華大学副教授)の他、伊東豊雄事務所に4年いて、今、北京大学建築学研究中心で仕事を始めた文部科学省派遣研究員の松原弘典君、大成建設を定年前にやめて中国電子工程設計院の顧問を務める高梨正雄氏にも初めて合った。あと、重慶に拠点を置く出版社『A+D』社から三人参加、第4回ISAIAに全面協力したいとおっしゃる。さらに、カリフォルニアから王受之先生。『世界現代建築』という著書を寄贈下さった。また、香港からも建築家の参加があった。

 以上のようなメンバーだから、話は建築業界の全般にわたった。建築雑誌一月号の特集を紹介すると彼我の違いをめぐって活発な議論になった。

開発に当たって、土地の収得の問題、文化財の出土の問題など共通の問題も多い。開発しても下手なものをつくったらすぐ再開発されてしまう、歴史に残るものをつくりたい、というのがディベロッパーの大勢。

とにかく、デザインより、日本の開発、再開発プロジェクトのプロセスと仕組みが知りたいということであった。中国では設計者が施工に口が出せない、という事情など初めて知った。政府と業界団体の関係なども興味がある。中国建築装飾協会は日本の同種の団体と是非交流したいという。

 とにかく議論は終わらない。3時間を超える長丁場となった。

今後組織を立ち上げて恒常的に情報交換しようということになった。

 

 

明日はホリデイ。これまた7年振りになるが、万里の長城と明の十三陵を見に遠出をしようと思う。居庸間関で西夏文字をデジカメに収めたい。