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2025年6月9日月曜日

講義:九州大学人間環境コロキウム 住まいにとって豊かさとは何か・・・アジアの都市と居住モデル,九州大学:2001年12月12日

  講義:九州大学人間環境コロキウム 住まいにとって豊かさとは何か・・・アジアの都市と居住モデル,九州大学:20011212

人間環境学コロキューム

20011212

住まいの豊かさとは何か

アジアの都市と居住モデル

 

京都大学大学院工学研究科

布 野 修 司

 

 

 「豊かさを問う」という大変いいテーマを頂きました。また、学生、院生主体の大変すばらしいプログラムだと感心して参りました。今日は、私が二〇年以上フィールドにしています東南アジア、特にインドネシアに通ってるんですが、そこで見聞きし、考えたことをベースにお話ししたいと思っています

 

 住宅戦争

実をいいますと、『住宅戦争』(彰国社、一九八九年)という本を出しているんですが、そのサブタイトルが「住まいの豊かさとは何か」というんです。「受験戦争という言葉はすっかり定着しているのに、住宅戦争という言葉がないのはどうしたことだろう。実に不思議なことである。そこら中で住まいをめぐる熾烈な戦いが繰り広げられているのにである」と帯にあります。日本では、住宅を手にすることが、今のところ人生にとって最大の事業になってしまっていて、住宅を買って人生のほとんどの期間、ローンや家賃を払い続けないといけない。どっかおかしいんじゃないか、日本の住宅事情は問題ではないかと思うわけです。もちろん、資産を持っている人と持っていない人で事情は全く違います。日本は一億総中流幻想と言いますが、まさに「幻想」で、階層化が進んでいると思います。ちょっと古すぎますが、バブル経済直前には、マル金、マルビ、という言い方がはやりました。ビは貧乏のビです。ニューリッチ、ニュープアというわけです。

『住宅戦争』は、住まいをめぐる様々な争いを戦争と称して取りあげています。地上げ戦争、住宅取得戦争、ローン戦争、欠陥住宅戦争、相続戦争、住(宅)原(因)病、・・・、どうもこれだけ住宅をめぐって争い事が起きるということは、やっぱり問題じゃないか、と思ったわけです。それではと、持てる人は一体どんなところに住んでいるんだろうと、『住宅戦争』では色んな有名人、スーパースターの住宅について書いています。実際、歩いて調べたんです。暇ですね。しかし、そんなにびっくりしたわけではない。ちょっと、というか、ただ広いだけです。あるいは、成金的に飾り立てているだけです。どうも、少しでも「いい場所」に、少しでも「広い家」を、少しでも「隣の家より立派に見える住まい」を求めて争うところにすべての元凶があるのではないか、と思うようになったんです。

そう思うようになったひとつのきっかけが東南アジアでのフィールド調査です。東南アジアの大都市は、今でも、住宅問題に悩んでいます。一般的には「スラム」と思われるところがたくさんあります。そうした現実に触れると、日本の住宅は充分豊かに思われます。一体どこまで広くないといけないのか、と考えます。そして、どうも、日本だけのことを考えて、日本の住宅が豊かになればいいと思うのは問題ではないか、日本だけに限りませんが、先進諸国が豊かになればなるほど、発展途上地域は貧しいままに押しとどめられているのではないか、と思うようになりました。従属理論ですね。発展途上国は先進諸国を目指して、少し遅れて発展しているのではなくて、先進諸国の豊かさと発展途上地域の貧しさは同じコインの表裏である、という理論ですね。

もっともそれだけではありません。東南アジアの一見「スラム」に見える住宅地は、確かに、物理的には貧しいのですが、コミュニティはしっかりしています。様々な助け合いの仕組みがあります。また、住宅建設やまちづくりには、むしろ、アイディアに富んだ工夫があります。どうも貧しいのは、画一的な日本の住まいの方ではないか、と思うようになったんです。

 今日は、スライドをたくさん持ってきておりますので、それをみながら、「住まいの豊かさとは何か」を考えてみたいと思います。多少不安はあります。スライドで見ていただくのは一般的なセンスからいうと、大変貧しい東南アジアの、特に大都市の居住の実態です。日本の戦後まもなくの状況を想像できない、特に若い世代には異質な世界に思えると思います。ひねくれているかもしれませんが、予め結論を言いますと、フィジカルには貧しいけれども、そこには豊かな何かがあるんではないか、それを支える仕組みにはむしろ日本の我々は学ぶべきものがあるんではないかということを言いたいんです。それが結論なんです。説得力があるかとうかご判断下さい。

 

1 豊かさの中の貧困:日本の住まいに欠けているもの

 まず、日本の住まいについて最初に少し議論したいと思います。

グローバルに見て、日本の住まいというのはものすごく豊かだと思います。例えば、住宅設備はすごいですね。エアコンディショニング、空調のシステムが導入されました。あるいは、洗濯機とか掃除機とか炊飯器とか、色々な家電製品が増えています。私は戦後生まれですけれども、生まれたころ、育ったころと比べて、比較にならないぐらい豊かになっていると思います。

 日本の住まいというのは、物質的には随分、この半世紀ほどで豊かになったと思うんですけれども、でもどこか足りないことがあるんではないか。むしろ、悪くなった面もあるんじゃないか、と考えてみる必要があります。これもへそ曲がりな言い方かもしれませんけれども、幾つか日本の住まいとまちづくりをめぐる基本的な問題点をあげてみたいと思います。何となく物質的には豊かになったけれども、それを組み立てているものに何か貧困さを感じませんかということです。

 まず、集住の論理の欠如という問題があります。これ耳なれない言葉ですけれども、一戸一戸の住戸が集まる集まり方の問題ですね。一戸が二戸になり、二戸が四戸になりという集まり方ですね。集まってまちができていくわけですけど、それの組み立ての論理というのはむしろなくなっていったんじゃないか、一戸一戸のつながりが切れているんじゃないかということですね。

 戦後に住宅団地というかたちが初めてできるわけですが、一戸一戸の住宅をただ積む、ただ並べるというかたちですね。北欧のアパートがモデルだというのですが、集合住宅の集合の論理が希薄だった。まだ、戦前、関東大震災後に建てられた同潤会アパートには、集会室や社交室など共用の空間が用意されているし、単身者も含めて様々な家族がともに住むというイメージがあります。戦後の日本の集合住宅は、ただ箱を積み重ねて並べただけなんですね。

 もっと多様な集合形式があるんじゃないか。私の研究室では、アジア各地で様々な調査をしてるんですが、実際、いろんな集合の形があるんです。都市組織、アーバン・ティッシューとかアーバン・ファブリークといんですが、街区形態と住宅の形式に関心があるんです。日本の場合、特に戦後ですね、とにかく一戸一戸を階段室で繋げばいい、一棟一棟を冬至の時に四時間は日照が得られるように平行に配置すればいい、ということでやってきたんです。

 それから第二に、歴史の論理の欠如の問題があります。歴史に論理があるかどうかというのはなかなか問題かもしれません。言いたいのは簡単で、一戸一戸建てられる住宅は確かに豊かになったかもしれないけど、それが並んで歴史的な街並みをつくっていくというセンスというか、考えは非常に希薄だったんではないか。最近でこそストックが大事ですと、歴史的に形成されたものを大事にしましょうというようになった。バブルがはじけて長期の景気後退が続いていますので、やむを得ず既存ストックを再利用する、そういう雰囲気になってきていますけれども、本来的に都市は歴史の積み重ねでつくられるわけであって、個々人がそこで生きたあかしを記録していくというか、痕跡を積み重ねていくというのが都市だと思います。しかし、どうもそういうのと違うやり方をしてきた。スクラップ・アンド・ビルドと言いますけど、建てては壊し、壊しては建てるということでやってきた。それが日本の高度成長を支えてきたわけですけど、そういうやり方は、一つのまちを歴史的につくっていくというセンス、論理、手法を欠いていた。そのことは、本当に豊かとは言わないんではないでしょうか、ということですね。

 第三は、多様性と画一性の問題です。一見豊かになって、これは主に住宅のデザインのようなことを想起していただければわかりやすいと思いますけど、日本の住宅は多様になった。七〇年代に入ると、プレハブ・メーカーあるいはディベロッパーが建て売り住宅をどんどん郊外に開発していったんですが、ものすごく多様なデザイン、いろんなスタイルのデザインがもてはやされて、それを買うという時代が来たんです。一見非常にバラエティーがあって、建築様式で言うとアーリー・アメリカンとか、カリフォルニアン・バンガローとか、何とかスタイル、何々風という形ですけど、デザインは非常に多様になったんだけど、実は中身を見てみるとワンパターンなわけです。間取りを見ると、大体nLDKというかたちです。三LDK、四LDK、五LDKがあるかどうかわかりませんが、そう言えば、日本全国どこでもわかるわけです。日本全国というのは、要するに、私の家は三LDKで博多のどこそこに住んでいますというと、大体イメージできる。空間の型と、そこで繰り広げられる生活のパターンというのは、デザインが非常に多様に見えるけれども、画一的です。それは、日本人の生活自体が非常にワンパターン化しているからです。特にサラリーマンは生活のパターンが画一化しているから、住まいの形も画一的でしようがない。それを本当に豊かというでしょうかということですね。

 それから第四に、地域の論理の欠如ということがあります。これはわかりやすいですね。ワンパターンの問題と同じで、日本の住宅形式はあまり地域性を考慮していない。戦後にモデルとなったのが二DK住宅、ダイニングキッチンという空間ですね。これは戦後、日本じゅうに蔓延していったわけですけど、沖縄だろうと北海道だろうとあんまり変わらない形で定着していった。地域性をめぐってはもうちょっと複雑な問題があります。

七三年のオイルショック以降、若い諸君は全然イメージできないかもしれませんが、高度成長期が破綻をした段階で、地域性が大事だという流れが起こってるんです。住宅というのは大体「地」のもの、地域に建つものです。地域の住まいの伝統とか、そういうものを踏まえてあるべきだという立場に立つと、それを無視してやってきたのがそれ以前の展開であるとすると、そういうものを復活しましょうということになった。一遍バブルの前に起こっているんです。そして、おもしろいのは先ほどの多様性の問題と一緒で、これは我が地域の地域性を生かした住まいですというのを見てみると、それがまた全国一律だったりするんです。「入母屋御殿」というのですが、入母屋という屋根の形わかりますか、建築の学生ならわかると思いますけど、切り妻と寄せ棟を合わせたような屋根の形で大工さんには一番難しいんですが、お城みたいな住宅ですね。この家はこの地域の特徴ある住宅ですというんですが、日本中、九州でも、福井でもこれが地域性ですよという。入母屋屋根の御殿風の住宅が日本全国同じように建っている。豊かさの中の貧困というのはこういうことをいうと思うんです。本当の地域に根差した住まいのあり方というのが失われてきたのはこの半世紀だろうと思います。

 第五に、自然と身体と住まいとの直接的な関係が薄くなってきているということがあります。これは、住宅の設備が豊かになっていったことと裏腹の関係があります。設備はすごく高度になった。高気密、高断熱にして、年中、気候は室内でコントロールできるという意味ですごくぜいたくになった。しかし、自然との関係が切れてくる、季節の移ろいもありますが、自然が生きているということを感じられなくなるのはかなり深刻です。身体の問題にもなります。日本中が全部野球のドーム球場みたいな、人工的に冬でも野球ができるという形になってきて、身体が自然に対応ができなくなっている。確かに、空調の普及で、冬季に高齢者の死亡率が減ったということがあります。いい面もあるのですが、例えば、幼稚園の園児は、クーラーがないと夏には何人もぶっ倒れるというような時代になってきております。私は、日本でも東南アジアへ行く場合も、大体シャツ一枚で、上着で調節するようにしていますけど、空調で管理されるような室内気候の中では適応能力が衰える。現代日本の住まいには、自然との関係、身体と温度とか気候とかの本来的関連がかなり欠如している。密閉された室内でシックハウス症候群などの問題もでてきました。この側面でも、本当に豊かなんでしょうかということですね。これはまさに地球環境全体にも関係しますね。

 最後に、生活の論理の問題があります。これもわけわからない言い方ですけれども、住まい手が住まいに住んでいないということがあります。というか、住まいが生活の全体を支える場所ではなくなっているということがあります。フィジカルな住宅空間のことをイメージしていますけど、そこで行われる中身が希薄になっている。生活の臭いがしなくなっている。住まいというのは、その起源に遡って考えると、そこである種の教育が行われるし、医療も行われる、トータルな場所だったわけです。おこから、どんどん機能が都市に出ていく。例えば、教育は学校で行われるようになりますし、病院、図書館も外につくられる。最近では、食事はコンビニで買ってくればいい。あるいはファミリーレストラン行けばいい。部屋の掃除や蒲団のクリーニングも全部お金を出せばやってくれる。そういうサービスの体系が産業化されていった。生活そのものが産業の論理になっていったということですね。これが本当に豊かでしょうかということですね。

 

2 貧困の中の豊かさ

2-1 歴史の重層する町:スラバヤ

 東南アジア、具体的には私が一番親しい、スラバヤというインドネシア二番目の 人口三五〇万人ぐらいの都市ですけど、その住宅地のスライドを見ていただきながら、住まいと豊かさについて考えたいと思います。

 最初に、スラバヤという街を紹介します(図001)(スラバヤ市街図)。ブランタス川という川が中心を流れています。これは歴史的に大変古い川で、この川を中心に発達した港町ですが、内陸にはマジャパイト王国というヒンドゥ王国が栄えていました。

中心部にオフィスビルとかホテルとかいくつか高い建物が建っています。てっぺんが三角に尖ったミラーグラスの建物は銀行なんですけど、アメリカ人の建築家の設計です。ジャカルタにも同じデザインのビルがあります。建築の学生なら知っていると思いますが、ポール・ルドルフという有名なアメリカの建築家がいますが、相も変わらずのブルータルなビルをスラバヤで設計しています。ビルを除くと、あとは赤い瓦の屋根だけです。全て平家の住宅でして、赤い海のようにみえます。緑に映えて綺麗ですね。色がバラバラの日本の家並みと対照的です。

住宅地のことをインドネシア語、マレー語で「カンポンkampung」と言います。カンポンというのは「村」という意味です。日本語だと、片仮名で書く「ムラ」に近いです。「カンポンガン」というと「田舎者」というニュアンスですね。

 英語では「アーバンビレッジ」=都市集落といいますが、どうして都市なのに村というかというと、発展途上地域の大都市の居住地の特性なんですね。先進諸国とは違って、ムラ的な要素を残しながら都市化した。要するに、都市化のスピードがものすごく激しかったということですね。日本の都市の下町的な雰囲気のところと考えていいと思います。

 ちょっと学問的なことをいいますと、英語のコンパウンドという言葉の語源がカンポンなんです。オックスフォード英語辞典にそうあります。人類学で一般的に用いられるコンパウンド、ホームステッド、セトルメント、さらにホーム、ハウスといった言葉を検討する中で、椎野若菜さんが、カンポンという言葉がコンパウンドに転化していく過程に西欧諸国の植民地活動があるといっています(椎野若菜、「「コンパウンド」と「カンポン」---居住に関する人類学用語の歴史的考察---」、『社会人類学年報』、Vol.2六、2000年)。すなわち、バントゥン、バタヴィアあるいはマラッカにおいて民族集団毎に囲われた居住地の一画を指してそう呼ばれていたのが、インドの同様な都市の区画も同様にそう呼ぶようになり(インド英語Anglo-Indian English)、カンポン=コンパウンドはアフリカ大陸の囲われた集落にも用いられるようになったというんです。コンパウンドというのは、①囲われた空間、あるいは②ムラvillage、バタヴィアにおける「中国人カンポン」のような、ある特定の民族によって占められた町の区画を意味するんです。

 モダンなビルと赤い屋根のカンポンというのは対照的ですね(図002)。二分化されているのが発展途上地域の都市なんです。

 スラバヤという街の明治維新頃の地図なんですが(図003)、周辺は田圃で、先ほどのブランタス川が一本あって、そこにオランダ人がちょっとした拠点をつくっているだけですね。一五〇年ぐらい前ははこのような状況だったわけですね。城塞の中に、「チャイニーズ・カンポン」とか「アラブ・カンポン」とか、記入されています。

 こういう街を調べるのはなかなか難しくて、というのは記録がないんです。日本とか中国とか、文献がある世界じゃない。どういうことをやるかというと、一つは地名から街の構造を復元したりします。路地の名前に「クラトン」というのが残っている。クラトンというのは、ジャワ語で「王宮」という意味です。ここには王宮があったんだろうということで。

 東南アジアの場合は大体そうですけど、まず、インド化が起こります(東ジャワ歴史地図)。大体五世紀ぐらいからインド文明が来ます。その次にイスラームが来ます。ですから、スラバヤにもアンペル・モスクという中心モスク、集会モスク、金曜モスクですね、があります。その周辺には、今でもアラブ・カンポンがあってアラブ人が住んでいる(図004)。こういうことはなかなか日本人はイメージしにくい。博多はアジアが近くて、歴史的にはいろんな交流があったわけですが、一般的に日本の都市は、在日アジア人の問題を除くと、多民族がともに住むような経験をしてきていませんね。東南アジアでは当たり前だし、ヨーロッパでも当たり前、世界を見渡しても、多民族、宗教的、文化的背景を異にする人たちが一緒に住むのは普通ですね。イスラームの後、というかほぼ同時にヨーロッパ人がやってきます。インドネシアの場合、オランダが 三〇〇年以上支配しました。その伝統が入り込んでいまして、VOC、オランダ東インド会社がスラバヤに拠点を置いたときのオフィスですがまだ残っています(図005)。

 二〇世紀に入ると、インドネシアにはオランダからたくさん優秀な建築家が来て、建築をつくっています。スラバヤ市庁舎は今でも使っていますけれども、これは一九二〇年代に建設されています(図006)。       近代建築史上、オランダの建築家は結構活躍するんですが、今のアムステルダムの街のようにレンガを使って、割と曲線を使って表現主義的な作風のグループと、ロッテルダム・スクールといって、非常にモダンな鉄とガラスの四角い近代建築のグループがいました。二派の師匠格の建築家としてその真ん中にベルラーエという有名な建築家がいたんですけれども、彼はスラバヤに建築をひとつ設計しています。ベルラーヘの設計した建物で有名なのはアムステルダムの駅前の証券取引所ですね。今はベルラーエ美術館になっています。両派ともにインドネシアへやってきていまして、結構いい建築をつくっています。代表的な建築家がT.カールステンとM.ポントというデルフト工科大学出身の建築家です。近代建築史というのは、ヨーロッパが書く歴史じゃなくて、植民地の側からも書かないといけない時期に来ているというふうに思います。

 VOCのオランダ人高官たちが住んだ家(図007)はアムステルダム派風なんですが、ヨーロッパ人たちは植民地に来たときには、まずは本国の住まいの様式、空間をそのまま持ち込もうとします。煉瓦など全部資材をバラスト(船荷)として積んできましてつくったんです。しかし、インドネシアは湿潤熱帯で暑くてたまらないものですから、やっぱり地域の民家を見習い出します。いろんな民族が大変すばらしい、今の我々の目から見てもすばらしい民家をたくさんつくってきた、それを真似し出すんですね。暑いですから屋根裏を大きくして容積をとる。

 スラバヤにある一番高級なマジャパイトホテル(図008)というのもオランダ時代の建物ですが、日本の占領時にはヤマトホテルという名前でした。日本軍の憲兵隊本部が置かれたところです。インドネシアを一九四二年から二年半ほど日本軍が占拠していまして、日本も東南アジアに対して歴史的にはすごくかかわりを持っています。ヤマトホテルは、この前でインドネシアの独立戦争の発端が起こったというので、年配のインドネシア人はみんな知っている場所です。

 スラバヤという街は、このように、インド、イスラーム、オランダ、日本などとの歴史的関係を重層的に残しているわけです。クンブン・ジャパン(日本の花)という通りもまだ残っています。そして、中国人街があります(図009)。中国風のショップハウス(店屋、街屋)が建ち並んでいる一画です。また、あります。これは東南アジア共通ですけれども、必ずチャイナタウン的があります。スラバヤには、単なる通りの名前だけ残っていると言いましたが、ジャワのもともとの街があって、インドが来て、イスラームが来て、オランダが来て、それから中国人も来てというかたちで出来上がったんですね。

 

2-2 カンポンの世界

 このスラバヤに、この二〇年ほど毎年のように通っているんですが、スラバヤのカンポン調査をもとに、一〇年ほど前に、『カンポンの世界 ジャワの庶民住居誌』(パルコ出版、1991年)という本を書きました。『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(学位請求論文、197年)という論文がもとになっています。その後、一〇年経つのですが、街全体はスケートリンクがあるショッピングセンターなどが出来て、大きく変わったんですが、カンポンはあんまり変わらない印象があります。スラバヤに行くと必ず行くんです、調査したカンポンに。定点観測ですね。カンポンに学んだことをお話ししたいと思います。(スラバヤの発展 1,2)

 

(1) 不法占拠地区:スクォッター・セツルメント

 まず、住宅問題は今でも深刻です。インドネシアは、二億人以上いますが、世界で一番ムスリムの人口が多くて、人口問題、居住問題を一番抱えているのがインドネシアです。 

ジャカルタでもマニラでもバンコクでも一緒ですけど、運河や鉄道沿いに小屋を建てて住んでいる人たちがいます(図010)(図013)。不法占拠者、スクォッターですね。大体都市人口の一~三パーセントでしょうか。先進諸国にもホームレスがいるわけですが、その世界とはちょっと違います。スラバヤの場合、パサールの近くにこういう不法占拠地区、マージナル・セツルメントともいいますが、あります。調査したんですが、大体、同じ東ジャワの農村から出て来た人たちでした。バラックなんですが、組織はしっかりしているんです。                

でも、衛生的には問題があります。乾季と雨季がありますが、乾季には川はごみ捨て場みたいになります(図011)。こうしたみすぼらしい小屋の反対には大きな家があって、目抜き通りに面しています。豊かさと貧しさが表裏に存在しているわけです。

 行政当局は、当然、追い出しにかかります(図012)。クリアランスしたい。しかし、追い出された人たちは、また別のところを占拠する。七〇年代から八〇年代にかけて東南アジアの大都市ではこういういたちごっこをやってきました。これをクリアランス型の手法といいます。世界を見渡すと、まだまだ正当な権利を持たずに、住まざるを得ない人たちがいるわけです。

 ちょっと東南アジアでは珍しいのですが、ストリート・ドゥエラー、路上生活者もいます。スラバヤには、移動住居を見たことがあります。床屋さんの家族のモビールハウスなんですが(図014,015)、インドネシアは今でも割と見かけますけど、青空床屋さんがいます。お客さんをつかまえて木陰で散髪をする。かつて、日本占領時代、散髪屋さんは日本人が多かったらしいです。

 それでは、二〇年間あんまり変わっていないのが信じられないんですが、三つのカンポンを紹介します。

 

(2) アリサン・システム:多様な居住者構成

 これは何かというと、木箱に入っていまして、キッチンセットなんです(図016018)。日本ではシステムキッチンです。私らはカンポンのキチネットと言いますけど、食器だとかコンロだとか、水を入れる瓶とか壺とか、鍋とか釜とか一式入っていて、鍵をかけて、蓋をするとベンチになる、そういう装置です。要するに家が狭いので、外にはみ出しちゃっているんです。いろんなタイプがありますが、細い路地にぎっしり並んでいます。住まいは大体六畳、あるいは八畳の二部屋ぐらいですね。

スラバヤで最も高密度の北部の港湾地区にあるカンポンです。ここは一〇〇メートル四方、一ヘクタールに約一,五〇〇人ぐらいが住んでいます。わかりますか。平家で、江戸の長屋といいますか、庶民が住んだところでヘクタール 七〇〇人ぐらいですから、倍以上の人口密度で住んでいるということです。インドでは、ヘクタール二〇〇〇人とか二五〇〇人になりますから、それに比べればさほどでもないのですが、狭い路地が縦横に走っていて(図19,20)、緑や公共施設はありません。ぎっしり建て詰まったこの地区に四つぐらい小っちゃなモスクがありまして、唯一の共用施設になっています。モスクというのは御存じだと思いますが、お祈りするとき以外は寝ててもいい。食事するのはちょっとまずいんですが、勉強する場所だし、寝てもいいし、集会してもいいし、多機能な場所です(図021)。インドネシア語では、小さなモスクは、ランガーといいます。

 こう家が狭いと(図022)、日本だととても住めませんね。冬があります。暖かいから、外でも寝られるんです。さっき言ったように、キッチンは外へ出ていますけれども、大半は表で日常の生活行為をするわけです(図023025)。オープンスペースを勝手に自分で使うわけで、それがないと大変です。料理なんかも外でやります。洗濯も外でする。暑いですので水浴びも、マンディといいますが、路上でする(図026)。

 後でお話ししますが、赤・白の旗がインドネシア国旗です。先ほどマジャパヒトホテルという憲兵隊本部だったところで、独立のときに非常にシンボリックな事件がありました。それはイドルスという作家の『スラバヤ』(一九四七年)という小説にもなっているんですが、オランダの国旗は上か下が青なんですけど、独立戦争の発端にホテルのオランダの国旗がかかっていたところに上ってそれを破いたんだそうです。その写真がホテルに飾ってありましたけど(図027)、国旗はオランダからブルーをとったものです。独立記念日というのは、日本は八月一五日が敗戦記念日ですけれども、インドネシアは八月一七日でして、その日の一週間前ぐらいから、カンポンの中に舞台つくって、そこでお祭りを毎年やるわけです。そのために国旗を飾っているんです(図028)。

 大変貧しい住まいですね。この辺からちょっとずつ貧しいんだけど日本と違いますよという話をしていきます。まず、こういうカンポンにも、結構お金持ちが住んでいるんです。そういう家には水道がついていまして、水槽を家の前に持っている。水を売るんです(図29)。水を運ぶのは子どもの仕事です(図30)。飲料水の問題は今でも大変でして、スラバヤで水道設置率は多分五〇%いっていないと思います。貧しい人たちに施すわけじゃない、ちゃんと稼ぐわけですけど、収入階層が低い人が多いカンポンでも結構お金持ちが住んでいるというのは、日本の一般の住宅地とはちょっと違いますね。カンポンというのはムラと言いましたけれども、ムラ的なものをそのまま都市に持ち込むというところがありまして、「アーバン・ビレッジ」という言葉ができたのはそれだからなんですけれども、多少余裕がある人は、田舎にあるような家を建てたがるんです(図031)。日本ではあるマンションに入居すると、そのマンションは、例えば、九大の先生だと同じ九大の先生が住んでいるとか、同じような職業をしている人で、同じような収入の人が住んでいる。住宅地も割とそういうことになっている。居住限定立地階層などといいます。カンポンの場合、多様なんです。収入階層的にも違う、後でまとめますけれども、民族も違います。とにかく人が多いですから、昼間からにぎやかですけど、特に夕方になると大変うるさい、活気のある住宅地ではあるわけです(図032)。

 こういうカンポンでの収入の糧となるのは、ベチャ(図033)といいますけど、自転車で荷物や人を運ぶ職業です。日稼ぎの職業になります。こういう貧しいカンポンで、重要なのがインドネシアでアリサンと呼ばれる助け合いの仕組みです。頼母子講、無尽のネットワークがあるんです。このカンポンに、調べたら二六のアリサン・ネットワークがありました。要するに、一日単位、一周単位でお金を出し合って、くじ引きで順に使うんです。ミキサー講といってミキサーを買うとか、金額が大きくなると住宅の修理も出来ます。金融の仕組みがないからでもありますが、アリサンというのは高所得者の社会にもある伝統なんです。

 

(3) 高度サービス社会:貧困の共有

 次は、もう少し都心のカンポンを御紹介します。航空写真を見ると、幹線道路がありまして、幹線道路に沿って大きな商店とか事務所ビルが並んでいて、中に入っていくと、ちっちゃな家がたくさんある、これがカンポンの一般的な形態です(図034)。

 調査して、まず目についたのが、屋台です。とにかく多い。食べ物、日用雑貨を売っていますけれどもこういう物売りがひっきりなしに来るんです。子供用のおもちゃも売りに来る。古新聞紙をのりで固めて、絵の具で塗って、お面みたいなのをつくるとか、廃品利用は面白いですね。虫かごなんかも売る。植木屋さんが植木を売りに来ます。かき氷屋さん、食べ物はありとあらゆるものが来ますね。サテというのは焼き鳥、焼きそば、パン、アイスクリーム・・・・・・・。サンダル売り、日用雑貨も各種来る。油売りも来ます。電気もまだ不自由でして、料理用に灯油だとか油を使っていまして、電灯の変わりにケロシンランプを使います。自転車の後ろに積んでバンブーマットも売りに来ます。建材です。壁に使います(図035043)。

 このカンポンではコンビニへ行かなくていいんです。コンビニまで行かなくても全部売りに来るんです。座っているだけでいい。あらゆる種類の食べ物は売りに来ます。日用雑貨から植木からとにかく全部売りに来ますので、どこへ行かなくてもいい。皮肉じゃなくて、ものすごく高度なサービス社会になっているんです。お金さえあれば、こんなサービスのいいところはないというふうに思ったわけです。前にいいましたように、日本ではサービスは産業化されつつあるんですが、ここではそうなっている。コンビニは便利ですけれども、もっと便利です。

 日本だって、戦後間もなくはたくさん屋台がありました。博多はラーメン屋台が今でもすごいですね。今宅配サービスというと、新聞は来ますね。博多は豆腐屋さん来ませんか。畳屋さんはやってきませんか、団地でも来ないかな。日本も戦後間もなく、小説や写真やいろんな文献を見ると、屋台でいろんなものを売りに来た。

どうして、こんなに屋台や天秤棒、ロンボンとピクランといいますが、物売りが多いのか。職がないからです。雇用機会が少ないんです。大量の人口がどうやって食べていくかというときに、サービスを細分化するわけです。限られたパイをどうやって分けて食べるかという問題です。今、日本のことを考えて下さい。人ごとじゃないですね。ワークシェアリングということが言われていますね。仕事がないから、限られたパイを分けましょう、シェアしましょうということですね。

 この現象を指して、アメリカにクリフォード・ギアツという文化人類学者というか大学者がいるんですが、シェアード・ポバティといいいます。貧困の共有ということですね。ギアツはバリ島の調査で有名ですが、スラバヤの南にあるモジョクトと呼ばれる町も調査しています。

だれかが金持ちになるんじゃなくて、みんながサービスしあう。仕事を細分化して、おまえは焼き鳥、お前は焼そば、売るものも全部分ける。サービス業も分ける。都市の産業としてそういうルールというか、経済的な仕組みができ上がっているということですね。人海戦術のサービス・システムです。日本の場合はサービスには全部金払わないといけない。介護も金払う。お金持ちは全財産寄附して、ホスピスみたいなケアつきマンションに入るとか、そういう形になっていますけれども、まだまだ人口が多くてパイが少ないところではこういう仕組みになっている。これをどう評価するかということですね。

ギアツには、もうひとつ、インヴォリューションというが概念があります。エヴォリューション、進化ではなく、内への進化ということでしょうか。最初、一九世紀のジャワで耕地面積は増えないのに人口が増える現象をさして農業のインヴォリューションということで使われたんですが、アーバン・インヴォリューションという言葉も造られた。カルチャル・インヴォリューションという言葉もあります。もともと、建築の様式が一旦完成すると、例えばゴシック様式がそうなんですが、後は細部のみがどんどん細かくなっていく、そういう現象を指して使われたんです。

さて、どうでしょう。日本でも拡大成長の時代は終わったと言われます。進化は必要でしょうが、無限に拡大成長することはできません。地球環境は有限であり、資源、食糧には限りがあります。シェアード・ポヴァティというとなんか惨めな感じですが、有限の資源をシェアするというのは重要な原理になると思います。共生社会、持続可能な社会というのはインヴォリューショナルな社会をいうかもしれません。

 

(4) 相互扶助システム:コミュニティ・ベースト・ディヴェロップメント

 カンポンというのは単に住宅の集まりではありません。日本の下町のように、住工混合地域というんですが、工場もあります。近代的な都市計画の思想は、そういう工場と住宅が混ざっているのはだめだということで、用途純化といって用途を一つにしなさい、住宅地は住宅地という思想ですね。ゾーニングの思想というのはそうですけれども、カンポンというのは、食べないといけないわけですから、家内工業的な生産も行います。この都心のカンポンでも、鋳物や家具をつくったりします(図044,45)。何がしかのものを生産して売る、当たり前のことです。日本のニュータウンのように、ベッドタウン、ドーミトリータウンと言われて、寝るだけの居住地ではない。カンポンはひとつの居住地モデルになると思うんです。

 日本もかつてそうだったんですけれども、年に一回の独立記念のお祭りの時に、日本で言うと婦人会ですが、コミュニティの集いをおそろいのゆかたを着てやります(図046)。こういうコミュニティの組織は、物理的には貧しくても、生活を支える本当の支えになっているわけです。私の世代は辛うじて、町内会でいろんな催しを夏の盆あたりにやるとか、こういう雰囲気を知っていますが、カンポンでは各町内会対抗で民族舞踊を披露するとか(図047)、運動会をやります。都市化しても民族の伝統を維持していく、そういうサブカルチャーがあります。日本は、そういう町内会の雰囲気を失ってきました。カンポンの組織は結構強固です。それがないと生活が成り立たないんです。

居住環境もみんなで改善します。道路の舗装をします(図048)。婦人会は競って植樹をします(図049)。一緒にドブ浚いをします。日本の団地でもかろうじて草取りなんかは一緒にやるんじゃないでしょうか。草取りコミュニティといいます。インドネシアの場合はゴトン・ロヨンといいまして、一緒に助け合いましょう、というのが国是、国家のスローガンなんです。

インドネシアでは、一九六〇年代の末頃から、カンポン・インプルーブメント・プログラム、KIP(キップ)といいますが、行われてきました。住宅供給がうまくいかないので、せめてぬかるむ道路を舗装して、上下水道を整備するというだけなんですが、大変うまくいきました。コミュニティの組織がしっかりしていたからです。舗装をしていったけれど、場合によるとハウスカットといって、家を少し後退させたり、移転させる必要も出てくる。そこで、家の移転先が見つからないと、工事をとめて、代替の土地をみんなで探すという、フレキシブルに改善をしていったんです。舗装道路の端を三〇センチぐらいあけて土を残して置いて、日本でもこれをやればいいと思うんですが、植樹をする、そういう創意工夫もあります(図050)。日本は地表面は全部舗装するから雨が降ると全部流れて都市洪水が起こるんですが、真似した方がいいですね。このKIPはイスラーム圏の大変権威ある建築賞であるアガ・カーン賞というのをもらっています。

 最後のカンポンは、頭が痛い都市のフリンジエリアといいますか、周辺部のカンポンです。郊外スプロール部分にはまだまだ農村的な本当のカンポンがあるわけですけれども、それが急速に人口がふえて都市化されつつあります。たった一年で激変するんです。(図051,52)わずかの時間に、これは日本も経験したことですけれども、急速に変わるのは都市の周辺部です。木賃アパート、要するにレンタルハウス(図053)ですが、新しい形の住宅形式が出現しています。どういう住宅形式を考えるかは大きなテーマです。

 都市のカンポンで、飲料水の問題もありますが、一番頭が痛いのはごみの問題です(図054)。居住環境については、ある程度のインプルーブメントを七〇年代、八〇年代にやってきて、ある程度衛生的な条件とかいうのはクリアしてきたんです。カンポンの中はきれいになったんですけれども、カンポンから出てくるごみを都市全体で処理する能力が今ないということです。これはどこの都市でも大問題です。それから、あとは洪水があります。今言いましたよう、日本でも同じような問題があるということかもしれませんが、マニラ、バンコク、ジャカルタで、毎年のように大洪水が起こります(図055)。ジャカルタ、マニラ、バンコクの標高は低いんです。スラバヤなんかは標高一〇メートル平均です。井戸水にも海水が混じるし、ちょっと雨季に雨が降ると洪水が起こるということで、都市全体の問題としてあんまり解決できていない問題です。

 

3 居住地モデルとしてのカンポン

 

3-1 カンポン・ハウジング・システム

まとめますとカンポンの特性として、次のようなことが指摘できます。

1.多様性

2.全体性

3.複合制

4.高度サービス社会 屋台文化

5.相互扶助システム

6.伝統文化の保持

7.プロセスとしての住居

8.権利関係の重層性

 日本の住宅や住宅地がワンパターンといいましたけれど、カンポンはそれぞれ多様です。また、それぞれのカンポンは多様な住民からなっています。多民族が一つの住区に住んでいるということですね。民族がそれなりに住み分けをしながら共住している。アラブ人もいれば、ジャワ人もいれば、対岸にマドラ島という島があって、マドリーズ、言葉も全然違う、そういう人たちが同じ居住地に住んでいる。同じような収入階層が同じところに住むのではなくて、収入階層的に見てもいろんな層が同じカンポンにいる。市を全体として見ても、収入階層的に低いカンポンもあれば、高級住宅地のカンポンもある。

 いろんな議論がありますが、現在の居住問題に対する唯一の解答はこうしたカンポンの多様な存在だ、という意見があります。これは非常に逆説的な冷めた言い方ですけれども、真意は多様な住宅地があることが重要だということです。どんなに貧しい人でも住む場所がある、そういうコミュニティがあるということなんです。先進諸国ではホームレスになるしかない。インドネシアには、基本的にはホームレスはいないんです。少なくとも金持ちしか住めない住宅地とか、カンポンの世界にはそういうセクリゲーションの仕組み、そういうゾーニング思想は必ずしもないということです。

 二番目の全体性というのはちょっとわかりにくいですが、途中で言いました四番とも関係するんですけど、具体的には職住近接ということですね。カンポンの中にいればなんでも売りに来る。徒歩圏で生活が完結し得る。経済的には都心に寄生して、みんなが集まることによって、先ほど言いましたようにサービスを分け合って住んでいるわけですけど、生活圏としては自立している。二時間かけて電車に乗って通ってきてまた帰るというスタイルではなくて、歩いて行ける範囲で生活ができる。

 三番目の複合性というのは一番でしゃべったこと、多民族からなることに加えて、寝るだけの機能だけじゃなくて生産機能もあるということ。二番の自立性とも関係しますが、消費するだけの都市ではない。ですから、もしかすると循環型とか自律系の住宅地のモデルになるのかもしれません。何がしかのものをつくって、近隣に売ってある種のリサイクルが行われる、循環系が成立する。

 四番の高度サービス社会というのは屋台文化ということです。非常にサービスの行き届いた社会です。日本の社会は高齢になると全部お金に換算して介護するということになるわけですが、インドネシアでぼけ老人なんか見たことないですね。今の状況ではあんまり長生きしないんですが、コミュニティで、人海戦術で今すべてのサービスなり介護なりがやられているわけです。

 五番目がそれに関連していまして、ゴトン・ロヨンですね。ミューチャルヘルプ、相互扶助という形が生きている。隣組とか町内会システムというのは日本軍が持ち込んだというふうに言われています。そういう学位論文が出ております。たった二年半で日本の戦時中の町内会システムが根づいたというふうに私は思いません。伝統的な村の共同体の仕組みがあって、共鳴したんだと思います。それが戦後にも生き続けてきて、今でも残っている(図056)。この辺は日本とは大分違う側面だと思います。KIPがうまくいって、世界銀行が大いに注目して融資したんです。道路が途中でとまって立ち退き先を探すフレキシブルなことができたのも(図057)、コミュニティの相互扶助の仕組みが強かったからですね。

 七番目はお話ししませんでしたけれども、住まいは徐々につくるものだということです(図058)。いろいろヒアリングしたり、調査をしますと、最初はワンルームぐらいのものをまず建てて、余裕ができると二部屋にして、・・・と増築していくんですね。いきなり御殿のような家を建てるんじゃなくて、生活の必要に応じて、あるいは経済的な余裕に応じて家を建てていく。住宅というのは固定的なものではなくて、ライフステージに合わせてつくられるものである。

八番目もカンポンの自律性にとって重要です。法律上はほぼ日本と同じような権利関係が定められています。しかい、日本で言うと既得権とか、入会権とか、村とか国とか人のものだけどそこへ入っていって魚とってもいいとか、木を伐採してもいいとか、慣習法に基づく権利関係が重層していまして、非常に外部にはわかりにくい仕組みになっています。

 行政当局にとってはとんでもないことでして、税金が取れない。市の収入にならない。しかし、逆に地上げに遭わないというか、クリアランスを免れる。だれか一人売ってしまうと、生活の根拠がどんどん崩れるわけですけど、先ほどの上の相互扶助システムとかいろんなもろもろが絡んでいるんですけど、コミュニティが維持される一つの大きな要因としては、こんがらがっていて、わけのわからない人はそこに入り込めないということがあります。カンポンはそういう仕組みも持っているんです。

 これで一通り、カンポンという世界を見て学んだことをお話ししました。要するに言いたいのは、こういうことの方が大事ではないか。フィジカルな貧しさよりも住まうためのこういった仕組みとかルールとか、そういうものの方が大事じゃないかということなんです。

とはいっても、今、スラバヤにしても、東南アジアの大都市にしても、日本が経験したことと同じような問題を抱えています。先ほどのごみの問題とか、都市のインフラストラクチャーにかかわる問題というのはシビアな問題としてありますし、もっと人口がふえたらどうなるんでしょうか。今みたいな暮らし方でいいでしょうか。それから、もっと流動化していったらどうなるのか。再スラム化の可能性はありますし、高層化の問題もあります。オープン・スペースの貧困、レンタル・ハウスがどんどん増えています。土地の細分化も問題です。転出入のメカニズムも変わってきます。

インプルーブメントしたら、お金持ちがどんどん入ってきちゃうとか、都市は生きていますので、そういうことが起こって予断を許さない。今後、じゃあ、どういう住まいに住めばいいのか、どういう形で住めばいいのかということを考えます。この課題はインドネシアも、タイも、フィリピンも、日本も同じです。建築家として、あるいは都市計画家として何をどう考えたかをお話しします。

日本の場合は、二DK、三LDKをつくればいいということでやってきたわけですけど、多分、インドネシアでは違う。気候も違えば民族も違う。

 カンポンについて考えたこと、学んだことを生かすとすると、ストレートにつながるわけではないんですけど、課題に対して、最低限原則とすべきことを列記をするとこうなります。

 1 カンポン固有の原理の維持

2 参加

3 スモール・スケール・プロジェクト

4 段階的アプローチ

5 プロトタイプのデザイン

6 レンタル・ルームのデザイン

7 集合の原理の発見

8 ビルディング・システムの開発

9 地域産材の利用

10 ワークショップの設立

11 土地の共有化

12 ころがし方式

13 コーポラティブ・ハウジング

14 アリサンの活用

15 維持管理システム

16 ガイド・ライン ビルディング・コード

 

詳しくは省きますけれども、一番上に書いてあることが非常に大事です。カンポン固有の原理の維持、原理というのは先ほど並べ立てたようなことです。ああいう仕組みは崩さない方がよかろういうことです。

 

3-2 ルーマ・ススン

スラバヤ工科大学にシラスという先生がいまして、もう二〇年以上つき合っています。意気投合といいますか、随分教わったんですが、三年ぐらい前ですか、京都大学にも一年ほど客員で来ていただきました。その先生と議論をしながらやった提案というか、実験プロジェクトがあります。その前に、スラバヤに市営住宅(図059,060)が建ったんですが、これはもう顔から火が出るような思いしました。日本がやったというんですよ。調べてみたら、日本ではなかったんですけど、日本のJICA(国際協力事業財団)がジャカルタでやったものをまねしてつくった。日本と同じようなアパートを、全然違う気候のスラバヤにつくったわけです。技術的な裏付けもないから、トイレの配管が外へ出てきたり、とんでもない結果です。暑いですから、隣棟間隔なんか要らないです。むしろ陰が欲しいから、くっつけて建てちゃった。どう考えても、これじゃないでしょう、こんなものを援助で押しつけちゃだめでしょうという話から始まったんです。みんな地面の上で生活していますから、地面がないとこんなところではとても暮らせないわけですね。

 いくつかプロジェクトが一九九〇年代初頭から始まったんですが、インドネシアでは、ルーマー・ススンといいます。スラバヤでは、ルーマー・ススン・デュパ(図061)が最初で、二番目がソンボ団地です(図062064)。ルーマーは家、住まい、ススンは、「積み重なった」という意味で、積層住宅という意味ですね。略してルスンといいます。しかし、只の集合住宅ではないんです。

 理念はカンポンでの生活がそのまま立体化して展開できるということです。ですから、カンポン・ススンと呼ばれたりします。カスンです。

まず、変わっているのは、二階にも三階にも、美容院や雑貨屋などお店が出来て、物売りがやってきます(図065)。カンポンと同じです。立体カンポンです。各階にムショラといってお祈りのスペース(図066)があります。別にモスクがあります(図067)。

第二は、可能な限り共用スペースをとる、というコンセプトがあります。コモン・リビング、共用居間があって、子供が遊んだり、仕事をしたり、します(図06870)。一部屋は一八平米ぐらいのユニット(図071)で、廊下は全部コモンリビング、全戸のリビングですよという位置づけです。結婚式なんかが行われたりします。

基本的にキッチンを同じ場所に置いています(図072)。私は、これはコレクティブの先進事例だというふうに一〇年ぐらい前から言っているんです。スペースだけとって、木箱のキッチンをそのまま並べるタイプを最初提案しました。日本でも戦後ステンレス流し台が提案されて、一気に普及し、産業として成立したというのが公団住宅です。見るところ、ちょっと失敗しています。というのは、日本と同じように立って料理をする台所を提案をしたわけです。日本では、高さを何センチにすればいいか大議論がったわけですが、彼らは立って料理しないんです。座ってやるので、思いどおりには使われていなくて、改良の余地ありなんです。トイレ・バスは二戸にひとつという形で共有しています。一階については専用庭、専用のトイレと専用キッチンをもつタイプもつくっています(図73)。

三つ目のコンセプトは、ここに住んでいた人が住む。クリアランスしないという原則です。一棟は一つの町内会、隣組が入っているわけです。

 このカスンは、スラバヤ型の新しい集合住宅として評判になりまして、ジャカルタでもやってくれと言われてやったジャカルタのケース(図074)もあります。インドネシア・ヴァージョンの都市型住宅になったわけです。

 

3-3 スラバヤ・エコ・ハウス

 そして、それの改良バージョンを実験的に建設する機会が与えられました。とりあえず試行錯誤的にプロットタイプをつくったので、あんまり今日的な意味での室内環境について必ずしも自覚的じゃなかった。結果的にはすごく環境工学的な配慮、もちろんパッシブという意味ですけれども、例えば、真ん中のところにキッチンとかバス、トイレを持ってきて、居間が抜けていますので、クロスベンチレーション、十字型に通風がとれています。大屋根で、容積が大きくて、熱を遮断できるようになっています。そこで、そういうことをもう少し自覚的に整理して設計したのが、スラバヤ・エコ・ハウスです(図075080)。私が直接基本設計にタッチしました。実際の指導を仰いだのは、今、神戸芸術工科大学におられます小玉祐一郎先生、パッシブ系の設計の事例もたくさんあります。私がインドネシアにいて、彼からいろんな指令をいただいてやったんです。

いくつかコンセプトといいますか、アイディアが込められています。一つは、チムニー・イフェクト、煙突効果ですね、要するに縦に通風をとる。垂直方向に空気を流します。

 二階に穴あけて、とにかくポーラスにしろということでしたので、インドネシアの伝統的な住宅もポーラスにできていますので、そういう思想で設計しています。これは集合住宅モデルでして、プランニングの理念はカスンと同じです。コモンのリビングがあって、四隅に住戸が四戸あるモデルです。

 大げさなのは、ソーラーバッテリーで井戸水を循環して、床を冷やすというアイディアもあります(図081,082)。スラブにパイプが埋め込んでありまして、それで冷やそうという仕掛けをしました。大がかりなことをやりたくなかったんですが、デモンストレーションプロジェクトですので、やっぱりマスコミも集めないといけないというので、ソーラーバッテリーでポンプを回して、パソコンもそのソーラーバッテリーで使うということであります。そういうものです。

屋根ですが、ダブルルーフ、二重にして空気層をとっていて、椰子の繊維を断熱材に使いました(図082)。これは大ヒットでして、通常の断熱材並の効果がある。インドネシアでは、ヤシというのはほとんど無限の材料なんですね。ヤシの繊維を編んで足ふきのマットに使っているんです。それをそのまま屋根に乗っけたら、シミュレーションによると、グラスウール並みの性能ということなんです。今のところ大成功の地域産材料利用の例です。

 先ほどの井戸水循環は今のところ失敗でして、なぜかというと、井戸水の温度が二八度もあるんです。無知だったんですけど、井戸水の温度というのはどこでも年平均温度に等しいそうです。スラバヤというのは年平均二八度あるところですので、冷えない。近くにプール、池を掘って、気化熱で二度ぐらい下げて、二六度ぐらいにして修正中です。今のところ井戸水循環で輻射冷房するというのはうまくいっていません。

基本的には今言われているありとあらゆる工夫をして、アクティブなエネルギーをできるだけ使わずに、やれるものは全部盛り込むということでやったわけですけど、冷たい空気を運んでくるクールチューブとかできないものもありました。モデルにして、インドネシア・バージョンのエコ・ハウスになればと思っているんです。

 

アジアの居住地モデル

結局、住まいの豊かさ、というのは物質的な豊かさだけではないということですね。むしろ、生活を支える仕組み、ルール、都市に一緒に住むかたちがより重要だと思います。

この二〇年余り、発展途上地域の大都市の居住地について考えています。具体的に焦点を当て研究対象としてきたのは湿潤熱帯(東南アジア)の大都市であり、続いて南アジアです。それぞれの気候風土に相応しい居住地を構成する都市型住居モデルの開発がテーマです。

二一世紀を迎えて「地球環境問題」がますます深刻なものとして意識されつつあります。そこで、グローバルに大きな焦点となるのは、発展途上地域の大都市の居住問題だと思います。今日はその一端を見て頂きました。今後ますます人口増加が予想されるのは熱帯地方の発展途上地域であり、人口問題、食糧問題、エネルギー問題、資源問題など地球環境全体に関わる様々な問題は既に先進諸国よりもアジア、アフリカ、ラテン・アメリカの大都市においてクリティカルに顕在化しつつあるわけです。とりわけ熱帯の発展途上地域が問題なのは、そこで先進諸国と同じように人工環境化が進行しつつあることです。問題は、先進諸国の住居がモデルとされ、目標とされ、エネルギー消費を考慮しないアクティブな技術が専ら導入されつつあることです。そこで、スラバヤ・エコ・ハウスの意味があると思っています。

もし、熱帯地域の全ての住居がクーラーを使うようになると、地球全体はどうなるのでしょうか。スラバヤ・エコ・ハウスの開発過程で、「日本ではクーラーを無制限に使いながら、原初的な技術を押しつけようとしている!」という批判を受けました。本質的に突きつけられる問いですね。モデル開発が先進諸国の側から一方的になされるとすれば、極めて傲慢と言わざるを得ないんです。モデル開発は、基本的に日本の都市型住居モデル、居住地モデルの問題でもある、というのは前提とすべきでしょう。

それぞれの地域で、住居が集合する形式によって涼しく風通しのいい居住地の提案は可能ではないかと思っています。事実、アジア各地においてもそうした形式が伝統的につくられてきています。各地の都市型住宅については、ラホール、アーメダバード、デリー、ジャイプル、カトマンドゥ盆地、ヴァラナシ、台湾、北京などで調査をしてきました。大変面白いし、様々なことを学びます。

 今日の話が、住まいの豊かさをめぐって、日本の住まいのあり方を考え直してみる、なんらかのきっかけになればと思います。







 


2025年4月3日木曜日

関西に根づく 日本設計関西支社の三〇年 熱き思いで能率的に 個と個の信頼関係を基礎に,日刊建設工業新聞,20010809

 関西に根づく 日本設計関西支社の三〇年 熱き思いで能率的に 個と個の信頼関係を基礎に,日刊建設工業新聞,20010809



関西に根づく

日本設計関西支社の三〇年

熱き思いで能率的に

個と個の信頼関係を基礎に

布野修司

 

 新体制誕生 都市開発、再開発から建築へ 業務領域の拡大と深化

日本設計の五代社長に伊丹勝氏、副社長に六鹿正治氏が決まった、と聞いていささか驚いた、と同時に大いに興味をそそられた。

驚いたのは、六鹿氏とはともに日本建築学会の学会賞作品部会の委員として昨年の暮れから新年にかけて毎週末会っていたにもかかわらず新人事についていささかも臭わせることがなかったからである。おそらく本人にとっても突然の指名ではなかったか。かなりの抜擢人事である。とはいえ、新社長にしろ新副社長にしろ大統領になっても首相になってもおかしくない年だ。驚く方がおかしいのだろう。

興味を持ったのはこの二人の人事の指し示す組織事務所の方向性である。新人事とともに新体制が組まれた。一見、目立つのがVMC(ヴァリュー・マネジメント・コンサルタンツ)群の創設である。また、プロジェクト統括本部の中心化である。

新社長の伊丹氏は高山栄華門下である。業務経歴を窺うと、白髭東地区再開発基本計画、月島再開発基本計画、・・・と都市再開発事業がずらりと並ぶ。六鹿氏はもともとは建築史の研究室の出身であり、都市デザインを志してプリンストン大学で学んだ。日本設計での活動実績も新宿アイランドタワーなど大規模複合建築の計画が主である。すなわち、二人が得意としてきたのは都市開発であり、再開発であり、プロジェクト・マネージメント(PM)である。必ずしも従来の建築の設計管理業務ではない。構造系、設備系などエンジニア系がトップとなる組織事務所が少なくない中で、この人事は建築設計界の構造転換のある方向を示しているのではないかというのが直感である。『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』(建築資料研究社、二〇〇〇年)を書いて、建築家が生き延びるためには「まちづくり」がひとつの突破口になる、と思っている僕には「さもあらん」という気がしたのである。

興味津々で新社長、副社長に突撃インタビューを試みた(五月三一日)。短い時間であったが新社長、新副社長の意気込みはひしひしと伝わってきた。二人が明確に意識しているのは、設計業務環境の変化である。ストレートに翻訳すれば、伝統的な設計管理業務環境が崩壊しており、従来型の組織、設計料では食べていけないということだ。

目指すべきは攻めの業務拡大である。設計、管理に加えて資産管理、建物評価、資産保全、維持管理、PM、PFIなどへ職域を広げて行く。建築の誕生から死、その全てに関わる領域が対象である。VMC群の創設はその中核となる。場合によってはゼネコンとせめぎあいも必要になる。そのせめぎあいにおいて焦点となるのが都市開発であり、再開発である。再開発コーディネーター協会の理事を務める新社長を前に、「そうした職域もようやく認知されるようになったけれど、果たして手間暇かかる都市開発、都市再開発で食えますか」という不躾な質問を発してみた。「ニーズの最先端では必ず食える」と自信に満ちておっしゃる。なるほどと思う。不動産の証券化といった事態に対して設計事務所とはいえ対処する必要がある。一方、組織事務所が地域社会とどう関わるかは大きなテーマだ、と思う。

もうひとつ、二人が口を揃えるのは、鍵は人材だということである。個人の能力が最終的には問われる。組織力だけではやっていけない、という。プロジェクト統括本部が位置づけ直されたのは、プロジェクトを担当部署に割り振るのではなく、担当するに相応しい個人を選ぶ仕組みを再構築するためだという。組織と個の問題は組織設計事務所にとって永遠のテーマである。

 

関西からの発信 相次ぐビッグプロジェクトの竣工

 新体制となった日本設計は四つの支社をもつ。そのひとつ関西支社は来年三〇周年を迎える。関西支社は平野支社長以下総勢約五〇名、全社員の一割に充たない。しかし、関東に対する関西、東京に対する大阪ということで、支社の中でも特別な位置を占める。取締役会長である四代社長内藤徹男氏の根はもともと関西である。

建築は基本的に地のものであり、関西と関東では建築の風土は異なる。三〇年にして関西に根づいたということであろうか。力の籠もった作品が相次いで竣工するに至った。そのうち、ピアザ淡海(滋賀県立県民交流センター)、京都府立図書館、そしてNHK大阪+大阪歴史博物館を駆け足で見せて頂いた。いずれも未来を予見させる作品であった。すなわち、自然、景観、歴史、建築遺産に対してどういう態度をとるか、はっきり方向性を示そうとする作品であった。興奮さめやらず臨んだのが以下の座談会である(六月一一日)。

 

【布野】 今日は力の込もった作品を見せて頂いてありがとうございました。 

【平野】 ようやく十年ぐらい前から、地元の総合設計事務所として認知されたと考えています。関西の大阪市、神戸市といった都市からほぼ恒常的に仕事がいただけるようになりました。このたびNHK、大阪市博という超ビッグなまちづくり規模のプロジェクトが完成できたことで、関西における存在感がさらに高まることを期待しています。

【鈴木】 かねてから池田武邦が言ってきましたが、地域性、文化、環境を尊重するという姿勢を大事にしております。見ていただいた三つの作品も、一つは湖、二つ目は京都の文化と近代建築遺産をテーマにしています。NHKも一見モダンに見えますが、大阪城とか難波宮など地域の方が大切にされているものをうまく取り入れています。東京から出てきた事務所ですけど、関西圏の文化を一緒につくっていくことを重視してきたつもりです。

【布野】 建築界は冬の時代ですが、自然も含めて既存のストックをどう評価するかは新しい方向になりますね。アトリウムも面白いけど難波宮の残し方もユニークですね。今日集まっていただいたのは種村チームと言っていいですか。

【種村】 オン・ザ・ジョブということで、私がここ四、五年、一緒にやらせてもらったメンバーに集まってもらいました。もちろん他にも人材豊富ですよ。一番小さい作品は三橋邸ですが、三百年前ぐらいの大和造の民家を建てかえたものです。池田武邦がこれは単に一軒の建てかえではなくて一つのまちづくりだといった、そんな仕事です。

 

オン・ザ・ジョブのチーム編成

種村さんが集めたのは、その三橋邸を担当した松尾さん、地主さんが夫婦で始めた宝塚新老人福祉センターを担当した山口さん、そして、中内功の流通科学大学を担当した垣口さん、さらにNHKをともに担当した三塩さんである。この数年ユニークな仕事が集中したのが種村チームである。個々の仕事をめぐっての悪戦苦闘、エピソードはつきない。

【三塩】 放送局畑をずっとやって来ました。特殊な施主ですけど、その言葉を、建築形態にするために機能を解読していく、その役目を果たしたつもりです。組織事務所はどうしても顔がないと言われますが、やはり代表すべき頭がいる。ただ、チームを構成したときに、頭が右と言ったらみんなで右を向くチームでは困る。柔軟にコントロールするのが頭の役目で、そうしてきたのが日本設計だと思います。

【布野】 今度はNNC体制というコラボレーションですね。外国人とは初めてだということでしたけれども、NMC体制の中で種村チームはどうだったんですか。

【三塩】 会社が三つ四つ一緒になると、会社単位で役割を明快に分けるけれど最初からそれはやめようということでした。集まった五、六十人をシャッフルしてチーム編成したんです。

【布野】 それは種村流というか、日本設計流ということですね。

【種村】 それもあるし、それでなきゃできないと思ったんです。お施主さんも複雑ですから、一丸になってやらないといけなかった。

【山口】 入社して十年東京におりまして、十一年目に関西に来ました。当初、四国の高知の仕事を続けてやる機会があって、組織の技術力プラス地域性というか、地域で生まれる新しいものの魅力に非常に興味を引かれました。今宝塚の仕事で、東京とは違って地域により根深く接しているという感じがしています。

 

小さなものも大きなものも ベースは信頼関係

新副社長は独立できるエース建築家が最低十人は欲しいと言う。スターアーキテクトに互して勝負できる、それこそ顔の見えるアーキテクトが必要だ。三橋邸をひとりで担当した松尾さんはNHKにも参加している。スター候補かもしれない。

【松尾】 NHKではNMCの一員、三橋邸は単独ではないけれど、棟梁と一緒につくっていく仕事。どちらが日本設計らしいかというと、両方とも日本設計だと僕は思う。小さいものを大切にする気持ちがなければ、大きいものはできない。大きいものをおろそかにしていたら、小さいものもできない。小さいものの中に大きいものを見つけて、例えば住宅の中に集落の風景を見つけていかないと、世の中にちゃんと顔を見せる仕事はできない。二つの仕事をさせてくれたのが種村さんで、要所だけ手綱を引いてあとは魚を水の中に放すようにしてくれた。

【垣口】 商社じゃないですから、あまり移動することはないですけれど、比較的珍しいどさ回り人生で札幌に三年行きました。種村さんとは流通科学大学と京都府立大で一緒です。比較的自由にさせてもらったほうです。流通科学大学の設計が始まったのは、NHKの現場で大変だったですから、単身赴任のお父さんを家で待っている子供のようでした。一人で勉強していて「お父さん、できたよ」と成果を見せる、よくやったと言われるかどうか非常に緊張しました。「お父さん元気で留守がいい」というわけじゃないですけど、いいところでいいアドバイスをすぐもらえる、非常に頼れるお父さんという感じで私は尊敬しています。

【種村】 我々の仕事は相手があってなんぼなんですね。大切にしたいのは何かをつくろうとする意思ですね。お施主さんも納得すれば、自分もこれはつくりたいと思う。それを共有したいわけです。そのためにはやっぱり信頼関係です。ありがたいことに皆さんと信頼関係があって・・、私を信頼しているかどうかわかりませんが、私がいなくても進むわけです。私も考えているわけですね。ぱっと見たときに、ああ、同じことを考えているなと思うと、少し言うだけで十分なんですね。

 

意気に感じる 熱き思いと収支データ

種村さんは安藤忠雄事務所の出身だ。そう思って聞くせいか、口調も似ている気がする。如何に施主に信頼されるか、その真のニーズを如何に引き出すか、如何に現場が大事か。極くまっとうな、しかし、建築設計事務所が徐々に失いつつあるパトスが種村チームには未だ充ちている。しかし、現場にも環境の変化はあるだろう。現場の問題は何か。

【種村】 世の中が厳しくなりつつある。建設費も安い。社会全体が閉塞して元気がない。我々の職業は一番つらい。金も出せない、自分でもつくれない、できたものをつぶすこともできない、自分で使わない。デザインは贅沢に見られる。別に贅沢するわけじゃないけれど、意図したものをつくらないと我々の存在価値がない。意気に感じる、要するにエネルギーを何で感じるか。お施主さんが何をつくろうとされているか、それを自分が納得すればいい。そうでないとつぶされてしまう。要するに安くて早くてということになっちゃう。私個人も、多分日本設計も、いろんな事務所も一番プレッシャーになっている点ですね。

【布野】 意気やエネルギーのないお施主さんだと困りますね。

【種村】 とにかく自分を出さないといけない。本音、誠実さ、少しオブラートに包んじゃうと、相手もやっぱり人間ですから感じるものがある。杓子定規にビジネスライクだとなかなか触れ合えない。

【松尾】 ここのところ熱い施主ばっかりじゃないですか。

【鈴木】 最近は、設計料は安いけれども施主が熱心です。経営的には仕事が多くて実入りが少ないという傾向が強い。

【種村】 甘いかもしれなけれど、ツボをつかまえればいい。何も案を十個つくることが相手を説得するわけじゃなくて、会話して、相手のねらっているところを早くつかんで的確にこたえれば時間は短縮できる。

【三塩】 事務所の収支を考える、何時間やったか、総勢何人かかったかという切り口にどうしてもなりがちだ。最近うちもかなり厳しくなってきているけれど、チームの相性も悪い、施主ともうまくいかないとなるとどうしようもない。幾ら時間をかけてもいいものはできない。だけど、話が一回か二回で方向が見えてくればむだな時間をかけずともできる。そしてもう少し寄り道をする余裕ができる。NHKも実はもう終わってるんですが、アフターケアをしてます。日本設計ってわりとそういうことをきちんとしてきたんですね。

【鈴木】 経営者としては数字の問題は常にプレッシャーがかかっています。両立する道を探らないといけない時代に来ている。

【松尾】 熱き思いと時間は比例せえへん。全然関係ない。

【種村】 密度の問題。

【布野】 能力も関わる。

【鈴木】 能率よく熱くやってもらえばいい。

【松尾】 そうです。道を歩いとっても熱うなっている人もいてる。寝る間を惜しんで考えている人もいてる。

【鈴木】 正直言うたら嫌な時代です。みんなデータで出てくる。

 

 地域性の問題 風景を読む力 

熱き思いと時間、経営の論理といい仕事をめぐって議論は続く。熱き思いで能率的に、答えはわかっているけれど、余裕がなくなりつつある設計の現場の現実が透けてくる。パイが減っていく中で、他者との差別化をどうするか、それが問題だ。

【鈴木】 関西系の設計事務所とかゼネコンさんは、わりと東京的な設計をされる。当社のほうが逆に地域を意識している。長い間支社長していた内藤徹男会長の方針ですね。池田もまた地域と文化とか環境を大事にしてきた。戦前からあるいいものを大事にしながら設計するというのは、一見受けが悪いような気もしますが、単純な東京コピーを捨てて、少し地域の個性という方向を選ばないといけないと最近特に思います。

【種村】 要するに何を大切にしているかの問題ですね。自然や風景が大切かどうかです。風景は読めるわけです。自分の彫刻をつくりたい人は、どこへ行ったって一緒ですね。四国へ行って、高松へ行って、見て、風景が大切と思えばそういう設計をします。風景を建物に取り込むかどうかは視点ですよね。モニュメントを建てたいとなれば、場所と関係ない形だけになる。

【布野】 僕も種村さんの考えに近い。シンガポール事務所があるそうですが、外国へ素手でおりていったときに、どうやってつくりますかという問題ですね。土地をまず調べますね。場所を読むのは当然ですが、使える材料とか職人とか、法律とか、色々読まないといけない。そこからの組み立て方が地域性になるんじゃないかと思う。

 

みんなの会社 自己責任、自己管理

座談はあっという間に時間が過ぎた。最後に、日本設計の、そして個々の将来について一言づつ聞いた。

【垣口】 広いビジョンを持ちながら、プレイヤーのひとりとしての役割を果たすということですか。組織に求めることは、組織があるぞというのを感じずにやっていたい。精いっぱいやる中で、「ちょっとお父さん、ごめんなさい、ちょっと困ったことがあったんです」というときに相談させてもらえるような組織ですね。

【布野】 お父さんが金を稼いできて、困ったらお願いというのは、最高ですね。

【松尾】 自分の体もこれ、組織でできとるんです。いろんな器官が集まってる。器官は意識して働いていませんね。心臓はバグバグ動いていますけれど、僕が動けと言って動いているんではなくて、勝手に動いてる。組織事務所も、何をせなあかんとかいうふうに構えるから硬直化し始める。みんなが無意識のうちに一つの個体として、組織としてでき上がっているのが一番理想的なんです。川の中に魚を放して、一斉に川をコイが滝を上るように上がっていけば、一番いい組織づくりができる、一番いい社会ができるのではないか。

【山口】 今後、効率化という話が非常に課題となってくると思います。私自身は引き出しに多くの経験をためていって、自分の個性というか、山口という人間が日本設計の中でどういうものをつくっていくかをはっきりさせたい。組織としては、それぞれの磨かれた個を、ただ漠然と効率と計算である仕事にはめるんではなくて、効率よく仕事を進めるためにも適正配置する必要がある。

【三塩】 組織を感じない組織と言うけれども非常に難しい。僕らはいつの間にか手の先かもしれないし、脳の役割をしているかもしれない。日本設計も組織になると心臓の役割をしなきゃいけない人が必要になっちゃう。毎日毎日ポンプのように動く人がいなければ、その組織が動かない。変に役割分担を明快にしちゃうとそうなる。自分が生きるために自然体でバックアップしてほしいと言うけれども、嫌な部分、つらい部分はだれかに押しつけるということになりかねない。日本設計は、一人一人が心臓の役割をし、足の役割をし、頭もやっていた組織だったと思う。六、七百人の組織はそうはいかない。じゃ、おまえ心臓の役目をやれって言われてやれるか。意気に感じれば、心臓の役割をするかもしれない。お互いにきちっと話し合えるという組織であれば、まだ救えると思います。

【垣口】 僕は、に分業して設計だけをやりたいんではないですよ。

【松尾】 顔が違うぐらいのものですわ、肺と心臓というのは。

【垣口】 僕の例えで言えば、お父さん以下の子供というのは非現業の人もそうじゃない人も同じ子供たちで、子供たちは子供たちで自律して組織的にやっていく。強権というか、自分の理想というのがまずバシッとあって、それを押しつけるお父さんであっては非常に困る。ISOとか、そういう組織だからこそとらざるを得ない設計のスタイルは非常に嫌だな。

【松尾】 体が強くなればなるほど、心臓が強くなればなるほど組織も強い。肺が強くなればなるほどオリンピックでも優勝できる。強靱な組織をつくるためには個々人が強くなる必要がある。消化器系も気管器系も心臓もすべてが強くなって初めて血もよくなって循環する。そういう組織が一番理想的。

【垣口】 子供は親がいないと育たない、じゃなくて、子供は子供で自律して育つ。その子供たちがそれなりに手を取り合って、組織を同じようにつくる。社員自体が会社のルールを決めていく、日本設計というのはそういうスタイルだと思うんですね。

【布野】 こういう議論するような場ってあるんですか。

【種村】 必要やと思ってます。場を設定しなくても、設計していて図面を見て、日常茶飯事的に場はある。安藤さんのところから日本設計に来たときにカルチャーショック受けました。安藤事務所は教えてくれる。間違ったことをするとどつかれる。徹底的に教育される。自分勝手なことをやったら怒られる。日本設計は百八十度違うところだった。もう天国です。どつかれることもないし、電話を一日中かけていても文句は言われない。だけど、ある上司に日本設計はそれだけしんどいよと言われたんです。自分で考え、自分で行動せないかん。安藤事務所では、奴隷のようにやっていたら、それなりに勉強にもなるし、そのままでもいける。重要なのは自律なんです。「ジリツ」の「リツ」は「立つ」もあるけれど「律する」かな。日本設計はそういう意味ですばらしい。要するに自分が出せる。そのかわり、自分で責任を持たなあかん。

【布野】 自由放任、しかし自己責任、自己管理が基本原則ですね。みんなの会社、構成員全員の議論に基づく、という社是がある

【種村】日本設計のよさいうたら、いろんなキャラクターがいることです。ただ大きなビジョンはやっぱり欲しい、組織として。日本設計を肩に着るんじゃなくて、背負えるぐらいの何か日本設計のよさ、社会に対して何かをしているというもの。そんなにはっきりしたものじゃないですよ。池田武邦が環境を守ると言うたって、環境の守り方はいろいろある。絶対、物を建てたらあかんという一つの答えしか出されへんかったら困る。緩やかなビジョンみたいなものがあれば、自覚、自律によって、ちゃんと自分で回答を出していける。そういう組織がやっぱり強いと思う。右向け右と言われたって、あえて知っていて左を向くことがある。意識的に左を向くわけで、聞いていなかったから左を向くわけではない。右向けと言われて右向くこともある、上向くこともある。自分でこうだと思うことを日ごろ持っていて、ちゃんと自分の意思を持って、全体的に緩やかな統一体みたいなのになれば、強い組織になる、というのが理想論なんですけどね。

 

 聞いていてうらやましいような雰囲気であった。組織原理と社会状況のプレッシャーは言葉の端々に滲むけれど、発言は自由で生き生きとしている。個を認める社風、会社文化がある。あることを思い出した。実はピアザ淡海の指名コンペで僕は審査委員だった。百億円を越える仕事にわずか四〇日間、しかも微々たる指名料。審査委員といっても要項作成にも関われず、一日行って票を入れるだけというので一端は断った。複雑な事情があって結局出ていって、問題提起のつもりで、「このコンペの条件をどう思いますか」、と聞いた。たまたま日本設計のヒヤリングの番で、どなただったか失念したけれど「はっきりいって期間も短いし、一桁額も足りない」と毅然としておっしゃった。審査会場の空気が一瞬にして変わった記憶がある。自由にものをいう個を大事にするそんな雰囲気のなせる当然の発言だったのである。 


「日本設計・座談会」

平成十三年六月十一日

 

(午後三時三十九分開会)

【鈴木】 本日はどうもお忙しいところありがとうございます。

 メンバーの紹介をさせていただきますけれども、一応先生のほうに経歴書をおつけしておりますので、順番に、ちょっと紹介いたします。

 私が支社次長の鈴木でございます。よろしくお願いします。

 そちらから種村でございます。

【種村】 種村でございます。

【鈴木】 それから三塩。

【三塩】 三塩でございます。

【鈴木】 山口。

【山口】 山口でございます。

【鈴木】 それから松尾。

【松尾】 松尾です。

【鈴木】 それから垣口。

【垣口】 垣口です。

【鈴木】 最後になったんですけれども、支社長の平野でございます。

【平野】 よろしくお願いいたします。

【鈴木】 一応その順番で経歴書はお手元に届いていると思います。

【布野】 垣口さんは京大。すれ違いですよ。何研ですか。

【垣口】 私、三村研におりましてね。

【布野】 ああ、そうですか。

【鈴木】 そういうことでよろしくお願いいたします。

【森下】 それでは、ちょっと私のほうからごあいさつさせていただきます。

 布野先生、私どものほうで日本設計関西事務所さんがNHKと大阪市歴史博物館が竣工されたというふうなことを契機にいたしまして、建築が地域文化の振興にどのような役割を果たすのか、またこれから組織事務所として関西を活性化させるためにはどういうふうな提案を、プロポーザルをしていけばいいのかというふうなことをテーマに、今回、日本設計関西事務所さんの特集号を企画いたしまして、現在編集を進めております。

 その中で、きょうは布野先生に日本設計の歩み、特徴、それからこれからどういうふうな方向を向いて日本設計さんが設計創作活動を展開されるのか。特に関西事務所、大きなNHKを完成されたことを踏まえまして、今後いろいろ多方面に設計活動を展開されておられますので、そのあたりの若さと情熱というんですか、日本設計さんの情熱とか、特にきょうは種村所長をはじめ、若手の方々にもご出席いただいておりますので、そのあたりの日本設計の若さ、情熱、それからどういうふうな設計方向を向いてこれから設計に取り組んでいかれるのか、そのあたりを布野先生のほうでまとめていただきまして、2ページで今回の特集に紹介したいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 最初に、先生のほうから、これから関西事務所、実は三十一日に、東京に布野先生に行っていただきまして、社長と副社長に取材をさせていただいておりますので、そのあたりも踏まえまして記事を書かせていただきますので、まず最初に支社長のほうから、これからの日本設計関西事務所の方向というんですか、そのあたりを含めまして、ちょっと発言を最初にいただきまして、それからもう布野先生の司会回しで、それぞれお話を賜わればと思いますので、よろしくお願いいたします。

【平野】 日本設計の方向というふうに言われると……。

 日本設計全体の方向は、本社のインタビューで多分おありになったんだと思うんですが、私のほうからは関西支社の方向ということなんでしょうね。

 ご存じのように、関西支社ができまして、二十九年ですね。

【森下】 来年で丸三十年ということですね。

【平野】 二十九年になりまして、おかげさまでようやくこの十年ぐらいと聞いておるんですが、実は私、三年半前に参りましたので、いろんな人たちの状況を聞きますと、ようやく十年ぐらい前から、いわゆる地元の事務所、しかも地元の総合設計事務所として認知されたというふうに考えています。

 それがあらわれていますのが、大阪市、それから神戸市という関西の中心になる市からほぼ恒常的にお仕事がいただけるようになりまして、それでこのたびNHK、大阪市博という超ビッグプロジェクトがとれまして、完成まできたというこことで、今後、関西における存在感というのが、こういう大きなプロジェクト、まちづくり規模のプロジェクトを完成したことによって、ますます高まることを期待しています。

 それから、うちの事務所というのは、関西というのはもともと設計事務所、それからゼネコンの設計部、非常に立派な作品をつくってきた歴史があるわけで、そこに二十九年前に殴り込みをかけたわけですね。

 あくまで技術、総合的技術を標榜して東京から進出してきたわけですが、やはり今も私の気持ちとしては、技術は世界に向けて、心は関西に向けてというようなことで、やはり建築をつくる以上、顧客といっても施主だけではなくて、今や顧客というのはいわゆる出資者、それからディベロッパー、それから周りを取り巻く住民、いろんな幅の広さがありますけれども、そういう顧客満足を得るにも、やはり心は関西にどっぷり浸らないと評価はいただけないだろうなという気持ちで取り組んでまいっております。

 どこまでお話しすればいいんでしょうね。ここにメモがあるのは全部お話ししたほうがいいんでしょうかね。

【森下】 もう冒頭に鈴木次長と分担してしゃべっていただきましたらと思います。

【平野】 ああ、そうですか。支社の心構えといいますか、として私は今そういうふうに思っております。

【鈴木】 じゃ、よろしいですか。

【平野】 はい。

【鈴木】 じゃ、きょう先生とご一緒に三件ほど代表して見ていただいたんですけれども、私どもの事務所は、割合と先端的なことに取り組んだり、そういう傾向が感じられるかもしれませんけれども、一方で、昔からの、池田武邦が言っておりますとおり、地域性の尊重とか、それから文明じゃなくて文化を尊重しようとか、環境を大切にしようとか、そういう姿勢も非常に大事にしております。

 きょう見ていただいた三つの作品も、一つはまず湖をテーマにつくっておりますし、二つ目の京都の府立図書館は外壁保存、京都の文化と近代的な技術を合わせながらつくっていくというようなことをテーマにしておりますし、最後のNHKも一見モダンな建築には見えるんですけれども、遺構保存とか、大阪城とか、そういう地域の方が大切にされているものをうまく取り入れながらつくっていく。そういうことを非常に大事にしております。

 したがって、東京から出てきた事務所ではありますけれども、そういう、こちらの関西圏の活性化とか、あるいは文化を一緒につくっていくと。そういうことを非常に重要視してこれまで一応やってきたつもりなんですけれども、先ほど平野が言いましたとおり、ここ十年間でやっと認知していただけて、比較的大きな、町の中で目立つ建築もつくらせていただいてきているかなというような現在の状況と思っております。

 したがいまして、一緒に関西圏の町がよくなっていくとか、あるいは活性化していくとか、そういうことをご一緒にやっていければいいかなというふうに私たちは考えます。一応そういうような取り組み方で今まではやってきたつもりです。

 ここまでがちょっと全体的な話ということで、後は各メンバーにもフリーでちょっと話してもらおうかと思っておりますので、一応種村君を中心に、きょうはメンバーを選ばせてもらったのは、一応、種村君がそれなりに現業にかかわった人間を選んでおります。

 したがいまして、NHKもございますけれども、ほかもいろいろな案件をやっておりますので、そのあたりのところをざっくばらんに、先生のお話を聞きながら話せればいいかなというふうに考えておりますので、そういう感じで始めてもらえればと思います。あまりこだわらずに、ふだんどおりで。ということで、先生、いかがですか。

【布野】 そうですね、多分テープというか、速記を起こしていただくみたいですが、多分そのまま活字にはなりませんし、もちろんちょっと僕が脚色もしますし、最終的には森下さんのほうで料理していただくことになりますので、できるだけ忌憚のないご意見をというふうに思いますけれども。

 二十九年ということですけれども、企画自体は関西支社の三十周年ということで、先ほど森下さんがおっしゃったように、地域文化の創造、それから関西をいかに活性化して、関西の建築文化をどう発信していくかというのがメーンテーマというふうに考えております。

 それで、今の支社長、次長の話ですと、日本設計も三十年ですけれども、ここ十年ほどで一応地元の自治体からも認知されて、一定の先輩組織事務所に伍して認知されたというのが今の段階だというようなお話だったと思いますが、そこで、先ほどご紹介がありましたように、五月三十一日に一時間半ほどでしたけれども、新体制で新社長と、それから副社長にお話をお伺いしてきています。

 ですから、中心は関西ということですけれども、焦点はNHKを中心とした新しく、きょう見せていただいたものですけれど、それの中心の記事にはなると思いますけれども、一つはこの議論の中のタイミングで、この日本設計の新体制の意味するものというようなこと、かいつまんで言いますと、ずっと都市畑をやられていた、再開発畑をやられていた伊丹さんが社長になられると。六鹿さんは大抜擢だそうですが、僕のちょうど一年先輩なんですが、大丈夫かいなという気もありますし。

 ただ、ほかの組織事務所の中で、例えば構造系、これはこういう言い方は、僕はあけすけなもんですからそういう言い方をしますけれども、構造系の方が社長をされていたり、設備系の方、エンジニア系がわりと力が強い組織事務所もたくさんある中で、少し都市に目を向けるぞというような、ちょっと評論家的に見ていても一つの組織事務所の方向かなという、例えば大変冬の時代も迎えているわけでして、そういう中で一つの方向としてはそういう方向もあるかなと。

 あるいは、きょうも見せていただいて、鈴木さんがおっしゃいましたけれども、NHKにしてもああいう遺構を保存していく、場所の歴史と記憶とそういうものをいかに評価してつくっていくかというのがテーマですし、それから京都府立図書館にしても、やっぱりどう残すかとかいうことがテーマになりますし、今後多分あんまりばんばん建つ時代じゃないですから、既存のストックをどうメンテナンスしていくかみたいなのも多分新しい方向になるでしょうし、大きく見ると、多分、建築設計会も変わり目にあるというような大きな状況があると思うんですね。

 そういう話もまたしていただきたいんですけれども、今は関西で仕事をされていて、あるいはそれぞれ日本設計でもうベテランでいらっしゃいますけれども、自分と日本設計、あるいは自分と関西支社との仕事を振り返って、今何をお感じになっているか。まずは一わたり発言をいただければと。ちょっと前しゃべり過ぎましたけれど、種村さんのほうから。こう言っていいですかね、大体年の順に並ばれているようだと。何遍でも回しますので、最初の発言を。

【種村】 そうですね、発言というか、きょう、先ほど鈴木からありましたように、メンバーを選んでくれということで、これ、人を選ぶというのは大変なことで、後で恨む人も出てくる可能性もあるわけですね、選ばれなかった。で、何かの切り口いうことで、単純に、あんまり難しく考えずに、オン・ザ・ジョブということで、私がここ四、五年、一緒にやらせてもらったメンバーに集まってもらったと。当然これだけではない、いろんな設備とか都市研もあるんですけれど、わりと近くでやったそのメンバーなんですね。それでいて、かつジョブがわりとこの五、六年、私にとっては特異だった。建物の規模で物事を判断するべきではないんですけれども、たまたま規模で言いますと、一番小さいもので言いますと、先ほどの保存じゃないんですけれど、三橋邸というのがありまして、これが三百年前ぐらいの民家なんですね。それを建てかえるというか、新たに建てかえるんではなくて……。

【布野】 これがあれですか、ピアノのとか、違うんですか。

【鈴木】 それは全然別です。M邸ってやつです。

【種村】 そうそう、M邸ですね。三橋邸というのですね。これはちょっと池田武邦、私どもの前社長ですね、前々ですかね、社長の話から来た仕事でして、要するに三百年前以上の民家を、奈良なんですけど、建てかえたいというか、改修したいと。だけど、昔の思い出をそのまま残したいということで、九千万円ぐらいかかっているんですけれど、あれ、集落にある民家なんですけれど、それをやらせてもらった。それを一緒にやったのが、後で紹介あります松尾。これがちょうどNHKの実施設計が終わったときにそういう話があって、少し規模が違うというのと、毛色が違うということもあって、やろうかということでやり始めた。

 結果的には、やはり、どう言うんですか、先ほどの話で昔の思い出とか、奈良のそういう、特に大和造なんですけれど、そういうものをきちっと残していきたいと。自分の小さなときの記憶をそのままというか、柱に頭を打ったとか、そういう柱も残していくとか、はりですね。そういうものをやらせてもらったところで、やっぱりそういうものを残していく、継承していくことの必要性。その結果、池田武邦が来たときに、要するにこれは一つのまちづくりであると。要するに単に一軒の建てかえではなくて、そういう集落に対する一つのテーマというか、近くにたまたまミサワホームか何かの建てかえがあったんですけれど、やはりそういう意味で礼儀を尽くしていない。見た限りにおいては、やはりそれは周りに対して礼儀を尽くしていないというのは明らかなんですよね。そういうことも含めて、そこでやったかいがあったと、そういうふうに思っています。

 今、松尾というのは、その施主とも今やりとりをして、住まい方まで含めてその後フォローし合っていたというか、いろんなやりとりをやっているということが一つ特色的だろうと。

 もう一つ、次に行きますと、規模からしますと宝塚の福祉というのがありまして、これは二年前にやり始めた仕事ですけれども、地区計画というか、用途変更の関係から始まったんですけれども、地主さんが個人、今は財団をつくられているんですけれど、個人が金を出して、夫婦で何十億出して、福祉、今の問題ですね、ボランティアとか、あるいは老人の問題、あるいは悩める子供というか青少年の行き場所がないということで、自分で土地を二ヘクタール買って、ボランティア支援センターと新老人福祉センター、あるいは将来はまた違う福祉の施設を建てて、地域に貢献したい。あるいは地域福祉、今コミュニティーが崩壊していますよね。で、いろんな問題がある。そういうものに対して、そういう人たちの受け皿としてそういう施設をつくると、あるいは広場ですね。そういうものをやろうとされておる。要するに個人ですよね、かなり。個人のものすごいエネルギーなんですけれど、それをやらせていただいて、今着工したんですけれど、まずその仕事。それは後でも紹介しますが、山口がやっているんですけれども、これも特異な仕事だと。

 三つ目が、流通科学大学というのがありまして、これは理事長が中内功さんで、ご存じのとおりダイエーの創始であり、今はもう引退されていますけれども、その方の仕事、十四年やらせていただいていて、今回五期目というか、増築が完成したんですけれども、これもやはりそこから、その特異性と言ったらおかしいけれども、地主である中内さんというのが、昔から理念が変わらない。あるロマンを持っておられて、つくり方に関しては、要するに学生に快適な空間、そういう空間を提供してくださいということで、そういう提案をしなければ通らない。普通のを提案すると、当然中内さんは、それだったら私が設計するというぐらいに、わりと一つのポリシーを持っておられる方です。その方の仕事をやらせていただいて、完成した。それは垣口が一緒にやらせてもらって。

 要するに先ほど言いましたように、ここに、私が選んだと言ったらおかしいけれど、それを一緒に共有するというか、事業主さんの、要するに建築というのはやっぱり事業主さん、発注者のご意見を聞きながらつくっていくわけですね。

 ここで私が言いたいのは、要するに我々の元気というか、我々がものをつくるときにやはり一番大切にしなければいけないのは、やはり発注者が何を望んでいるかということです。ただ、それは単に発注者にこびへつらうわけではなくて、そこに世の中に対して何をしたいとか、あるいは思いがあるわけです。それはできるだけ、万人とは言わないけれども、要するに普遍性みたいなものですか、そういうものを感じ取って、我

々はそれに元気づけられると。

 要するに、これを達成するために我々はハードをいかにつくっていくかということに、要するにテーマが絞れる、あるいは見えてくると、やはり設計というものは、あるいはチームでやっていても、共通の持ち味を生かしながら達成していけるかなと。それは当然、事業主さんとのやりとりの中でも、当然より前向きに行くだろうし、あるいはそれが施工という段階になれば、施工者にまで伝わると。

 そういうことが結果的にはある社会に対して認められるというか、意義があるような建物がつくれていけるのではないかと。それをやはり、私個人としてはこうありたいし、それが日本設計であろうというふうには理解しています。

【布野】 そうすると、今回この取材は一応、種村チーム。

【種村】 済みません、最後はNHKを言うのを忘れましたけど、先ほどNHKが出ていたんで。で、これはミシマですね。で、もう一つあります、追加しますけれど、ずっと流大まで行ったけれども、最後は、さっきから話題に出ているNHKですね。

 NHKというのは、先ほどから話題に出ていますので、同じく事業主さん二つ、あるいは先ほど保存という意味での考古学者も含めた、あれはプロジェクトだと。なら、わりと三すくみとか四すくみに近いプロジェクトをどうつくっていくかと。それぞれがやはり立場が少し違いますし、思惑が違いますんでね。その中で、考古学者は当然残したい。NHKさんは当然ああいう放送局としてのきちっとした施設をつくりたい、あるいはいい放送をつくるための施設をつくりたい。あるいは大阪市さんは歴史を語るというか、不特定多数の方に来てもらう、そういう大阪の歴史を知ってもらいたい、そういうための施設をつくりたい。おのおの少し違う。だけど、あそこで複合でつくるということは、やはりいろんな難しい問題はあるんですけれど、やはりそれをきちっと解決するというか、問題点をほぐらせてつくっていくために、三塩がやっていたと。

 そういう意味ではわりと特異な物件をこの四、五年ようやらせてもらったので、こういう選択をしました。

【布野】 そうしますと、もちろん順番にお話をお伺いしますけれども、まずはどういう、大阪支社での仕事が、例えばプロジェクトが来たりとかいう場合の、例えばこれは種村チームに振るぞとか、これは任すぞとかいったような、それはどうなんですか、大阪支社だけで決められるんですか、それは本社で。

【平野】 いや、大阪支社だけで決めます。

【布野】 だけで決められるわけですね。

【平野】 はい。

【布野】 その辺の選び方はどうなっていて、支社では例えばそういう種村チームみたいなのが何チームかあるんですか。

【平野】 当社は別にチームが固定してあるんじゃなくて、その都度編成するんです。ですから、メーンになる人が決まりますね。それは今までで言うと  今までというか、今の関西支社がここまでやってこれたのは、鈴木、それから今欠席していますがナガハラという建築設計部長、それから種村、多分この三人が大いにリードしてきたからなんですね。私から見ても、本社にひけはとらない。

【布野】 そうすると、大体三チームぐらいあるというような。

【平野】 大きくはそうですね。

【布野】 そういうふうに考えていいんですか。

【平野】 ただ、今ちょっと世代交代の時期なんで、もう少し若い人のウエートが増えてきています。

【布野】 もう一チームを起こそうかとか。

【平野】今、一年半ぐらい前から。だけど、そういう中心になる人を定めて、その人のところにだれと組み合わせようかということを考えて、支社でチームワークをつくる。

 で、足りない場合。例えば、NHKなんかは巨大、しかも放送局ですね。経験者が支社にはおりませんので。

【布野】 それで、三塩さんを、TBSをやられたから。

【平野】そうです。本社の応援を得て、関西に来てもらったと、そういうやり方でございますね。

【布野】 種村さんは、じゃ、おれがやっているやり方で、おれがやっているのが日本設計だというような、ぱっと言うと。

【鈴木】 それで、ちょっと補足しますと、大体少し傾向があるんですよね。それで、さっき言ったナガハラという設計部長は、どちらかというと病院とかそういうものを中心にやっています。それで、種村君はやや毛色の変わったもの、NHKを置けば、あと毛色の変わったものを比較的やっています。私は、どちらかといえば、ざっくばらんに言うと、難しいものですとか、ややこしそうなものを引き受けるわけです、率直に言いますとね。ですから、わりと多いのが再開発とか、それからちょっと特異な個性的なお客様とか、そういうときに私のほうが大体引き受けるというような色、傾向はありますけれども。

 今回たまたまちょっと選んだのは、種村君のチームがいいかなということで、種村君のチームといいますか、種村君と一緒に仕事をしたことがある、最近ですね、そういう者を中心に選んだということになるかと思います。

【布野】 今、六十人ぐらいですか、ここは。

【平野】 五十人ぐらいです。

【布野】 ですから、本社に比べれば小さいですから、あんまりいないかもしれませんけれど、本社で聞いたときの今度の機構がえみたいなのの一番の中心は、やっぱり部局単位でプロジェクトを流していて、そうじゃなくて、やっぱりさせたいやつに仕事を割り振る仕組みをつくりたいということを、特に副社長が強調されていたのかな。だから、ちょっと図体が大きいとそういうことがあるのかなと思って、ちょっとお聞きしたんですが、ちょっと置きまして、それはそれでわかりました。

 要するに種村チームのやり方をまず先に聞いたほうがいいと思いますが、それを含めて、三塩さんのほうから最初の発言、こんな調子でやっていると時間がいっぱいかかりますから、だんだん早めにしますけれど、ほんとうは日本設計とのかかわりとかありますけれど、まずは種村チームの仕事のやり方、今の説明でいいのか、ほんとうは違うとか、NHKの場合はどうだったかとか、その辺から入っていただくと。

【三塩】 私の場合は放送局の畑をずっと来ましたので、TBSをやらせていただいたり、NHKの福岡をやらせていただいたりということで、特に今回NHKさんということでしたので、先方の方、あるいは先方の組織、それから建物のありようについても大体わかっておりましたので、そういう意味では非常に課題は多かったんですけれども、あまり気負わずにというか、すっと入っていけたと思っています、私自身は。逆に、そういう役目が僕にあったかなというふうに思っています。

 特殊な業態であり、特殊な施主ではありますけれど、向こうが言っている言葉を、建物に、形態にというか、いろんな機能に解読をしていく作業というのは、やはり経験ということだと思いますので、その役目を果たそうということで、自分に課せられた課題というのは何かということをやはりきちっと自分なりに考えて、その役割をこなすというか、そういうありようだと思っていますし、それがきちっとできる、あるいはそれをやらせてもらうというのが種村のチームでのやり方だったと思いまし、その辺の役割分担はうまくいったのではないかというふうに思います。

 私がなぜ日本設計に入ったかというようなことも、実はどこへ行ってもずっと変わらない思いと、それから、それをなるべく実践しようと思ってきていますけれども、組織事務所というのはどうしても顔がないというふうに言われるんですが、我々としてはそういうことではなくて、やはりそこに代表すべきだれか頭がいるわけで、その頭に対して、一人では絶対できませんので、そういうチームを構成したときに、頭が右と言ったらみんなで右を向くというグループ、そういうチームではなくて、何となくベクトルを合わせていくという、そういうことをやはりやっていかなければいけないし、それをまた、ある意味で柔軟にコントロールをしていくのが頭の役目だろうと思うし、そういうことが、私が入ったのはもう十五、六年前になりますけれど、当時からずっとそういうのを標榜していた事務所でございまして、私はほかの事務所、ほかの作家の事務所もいろいろアルバイトを通じたりして知ってはおりましたけれど、そういうチームでやっていくという部分というのが非常にはっきりと表に出ていた、そういう業務形態をとっていたのが日本設計だったというふうに思っていますし、今後も多分それには変わりはないんだろうと思いますし、トップがかわって、やりたい人にやらせるような組織というのは、実はごく当たり前のことだろうというふうに思っています。そういう意味で今後にはちょっと期待はしてはいるんですけれど。

 なぜ僕が、じゃ、放送局の畑になったかとか、そういう自分で望んできたのかというと、実は決してそんなことはありませんで、放送局というのをやってみないかと、あるいはそれ以外にも少しオーストリアなんかもやってますけれど、やってみないかと言われたときに、そこに何か自分なりのテーマというか、興味というか、あるいはこれをどうしたらおもしろくなるだろうかというふうなことを考えてきてやっておりましたので、放送局というのは結局後からついてまいりました。

 そういうふうにしている中で、やはり多少専門化していくとか、そういう経験が重なってくるというか、積み重なってくるということにはつながるんですけれども、いかにチームで、あるいは個人がもちろん一人一人がそういう思いでプロジェクトに臨むのは大事だと思うんですけれども、チームが何か一つテーマをそこで見つけようというふうなことで、チーム全体が一丸となってそっちへ向かっていくと。何か大したことないかもしれません、建築の世界では。新しいことじゃないかもしれませんけれども、そのときに課せられた課題とか、そのときの施主の思いとか、それから、我々のチームの思いとか、そういったものを何かしら引っ張ってくれるようなそういうテーマをそこに見つけて、それを何か実現しようとか、それをいかにこなそうかというふうなことを、やはり種村もそうですし、私なんかもかかわったときにそういうテーマを見つける、テーマを探すというふうなことをずっとやってきましたし、そういうふうなことを僕も先輩からずっと言われ続けてきましたから。そういう意味でプロジェクトをおもしろくするということがすごく大事だよというようなことはよく言われましたし、それは自分でもずっと思っていることです。

 そういうテーマを見つけて、それに向かってやれば、チーム全体のそういう先ほどのような役割の分担とか、力のかけどころというか、そういうバランス、そういったものもうまく作用するんじゃないかなというふうには思ってきましたし、今までそれがそれなりにやってこれたなというふうには思っています。

【布野】 いっぱい聞きたいことがあるんですが、一つだけチームという意味で言うと、今度はNMC体制というコラボレーションと、先ほどお聞きした外国人とは初めてだということでしたけれども、そういう意味で言うと、NMC体制の中での種村チームというか、今度のNHKの全体のプロジェクトの中で何かお気づきの点はないですか、チーム編成についての。要するに種村チームの。

【鈴木】 それは本音。

【三塩】 私が先にしゃべりますけれど、よく会社が三つとか四つとか一緒になると、会社単位で何か役割を明快に分けたんですかというふうな質問を受けるんですけれども、我々は今回最初からもうそれはやめようと。とにかく、たまたまこのプロジェクトで集まったのは三社、所属は三社ですけれども、一人一人の人間が集まって、五十人、六十人というチームをつくったわけですけれども、それをもうとにかくシャッフルをして、もちろんキーマンになる人間にはそれなりの経験とあれが必要でしょうけれども、中身はもう全部シャッフルしてやったというふうなことで、あまり境界線をつくらないということがまずスタートラインにありまして、それはずっとこの六年、足かけ六年になりますけれども、六年間ずっと一貫してきた。

【布野】 それは種村流というか、日本設計流だというふうに。

【種村】 たまたまというか、そうですね、そういう雰囲気になったというのもあるし、それでなきゃできないなと思ったんですね。いろいろな複雑な、施主さんも含めて複雑ですよね。あんまりそういう意味では、要するに一丸になってやらないといけない。

 だから各社の事情と言われると困るし、シーザー・ベリのデザインというたって、デザインをあんまり主張されたって、ああいう特殊な建築ですので、オフィスビルみたいに、外装だけと言ったら失礼ですけれど、だったらいいけれども、やっぱり中身があっての話ですし、ああいう特殊な場所に建ちますよね。そういう意味で、あんまりデザイン、デザインでこれはどうだというのも困るし、かといってデザインも必要であるし、そういう意味で、それからNHKだってやはりいろんなのを思ってやるし、我々だって思っている。我々側は特に放送局、博物館に対しては経験豊富ですから。だけど、それを見せびらかしても意味がない。

 やはりみんなの力を使うということで、とりあえず一個人として参画するという形でやってきたんですね。正直なところ、ちょっと合わない人は外しました。

【布野】 ああ、そうですか。

【種村】 ほとんど外しました。それは別にうちの会社の人であろうとなかろうと。輪というかね。

【布野】 ちょっとまた殊、組織の話に、もう一遍テーマになりますけれど、続きまして山口さんの場合は、先ほどの位置づけでは宝塚を一緒に最近ではやられて、同じ質問ですけれども、種村チームなり日本設計のやり方に、あるいは個人と日本設計との関係の中で最初の発言をお願いします。

【山口】 私が入社して十五年ぐらいになるんですけれども、入社して十年、東京におりまして、十一年目ぐらいから関西支社に来ました。当初、四国の高知の仕事を続けてやる機会がありまして、そこで感じ取ったことは、高知という地域性から非常に特色があって、我々が持っている組織の技術力プラス地域性といいますか、そこで生まれる新しいものというものの魅力というか、そういうものに非常に興味を引かれていました。

 地域性というのは、単純に高知であれば昔ながらの形態をそのまま持ってくるのではなくて、我々の持っている技術で地域性をいかに昇華させて新しくつくるかということを思って二件やったんですけれども、今回新しく宝塚ということで、今言ったのが、私が東京ではやらなかった、関西でやっぱり規模もあるんでしょうけれども、地域に対してより根深く接しているというか、東京でやったのは東京区内の物件が中心だったものですから、そういう意味では特色のある地域性を踏まえた設計というのも、関西支社に来て身にしみて感じたなというのがあって。

【布野】 山口さんはもともと……。

【山口】 大阪出身です。

 最近、宝塚の仕事を種村さんと一緒にやり始めた。やっぱり我々が持っている技術力、最近では環境の話とかそういうものを踏まえて当然設計はするんだけれども、地域性ということよりは、今回のプラザコムさんというお施主さんのことを最初にしゃべらないといけないのかもしれないんですけれども、阪神大震災の後、自分でボランティアされておって、そのボランティアの活動というのに非常に有意義性を感じて、今おっしゃられているのが、ボランティアが持っている地域のコミュニティーの場所をつくることが非常に重要やということで、そういう地域のコミュニティーの場所をつくりましょうというプロジェクトなんですけれども、財団法人ではあるんだけれども、岡本さんという個人の方がその中心におられている。我々の設計の打ち合わせというのは対個人になるわけですよね。そうすると、その個人の意思というか、そういうものが非常に強く設計の中にあらわれてくる。

 それをどのようにして我

々としては技術力を持って新しい提案に結びつけていこうかということが今回の設計のテーマになったんではないかと。以前の地域性というよりは、ちょっと技術力プラス、コミュニティーをつくりたいという施主の意思、それをどういうふうに反映しようかということがこのプロジェクトの主眼になったんだと思うんですけれども。

 そこで、種村と一緒にやるわけですけれども、そこで思ったのは、今まで私も何人かのチーフとやる機会はあったんですけれども、施主の思いをほんとうに親身に、種村さんの話で、親身に自分のものにして、それで自分のやりたいものづくりとそれを非常にリンクさせて、うまく自分のやりたいようになんだけれど施主がやりたいという方向に持っていく説得力というんですか、そういうものが非常に力があるなというふうに私は種村さんを評価しています。

 そういう個々の、よく設計の中で施主の要望を聞くときに、ざっくばらんにお話差し上げたいんだけれどもということを言うんですけれども、施主の要望を引き出すときに、当たっているかどうかわからないんですけれど、東京にいたときは、比較資料をつくって、こういうのを考えましたけれどどうでしょうかと、堅苦しいことをしないといけなんじゃないかなというイメージがあるんだけれども、関西では、わからないことはもうざっくばらんに聞きます、教えてくださいよと。

 その中からヒントとなるものがあるし、そういうものがあって、今回はプラザコムさんと宝塚市も加わって施主側に絡んでいるんですけれども、宝塚市というのはやはり官庁なので、官庁流の設計の進め方みたいなのを考えていたんですけれども、今回はプラザコムさんの岡本さんのやりたいことを、宝塚市も含めて我

々がどう説得していくかということが非常に重要なことになっていて、それをざっくばらんに話しながらというのは非常に関西風だというふうに思っているし、それをざっくばらんに話しながら自分のやりたいことと結びつけて一つの方向性に持っていくという力を種村さんは非常に持っているんじゃないかなというふうに今思っているんです。

【布野】 いやいや、種村さんの進め方やということで、前半部分で地域と組織事務所というのは、これはまた大きなテーマだと思いますけれど、高知の仕事をされて、地域性を感じたというか、それは具体的には例えばどういう、組織力を持って地域でつくるというときに、一番何がキーだと思われたのか、高知の仕事をされて。

【山口】 関西支社で高知県美術館を何年かおやりになって、同じ担当のチーフと一緒にやることになったんですね。私は、オオタケというチーフなんですけれども、彼から高知のこういう素材があって、こういう使い方をして、地域の人間性も含めて、一緒にこういう説明をしてもらったりしていて、そういう意味ではやっぱりそのときは具体的には土佐漆喰と石灰水の塗り込めという素材を使いながらやったんですけれど、これは初めのころは私も現代的な材料とかそういうのに興味があったんですけれども、二件、高知の仕事をやるにつれて、その重要性というか、やっぱり地域に溶け込む素材みたいな、そういうのを感じて。

【布野】 それは東京でやっていたときには考えもしなかったと。

【山口】 いや、たまたまなんですって。多分、東京だからやらないということじゃないと思うんですよね。私のたまたま当たったものが世田谷区に建つ物件と、府中の新しい町をつくるという物件だったんです。

【布野】 それじゃ、松尾さんはさっきの三橋邸ですか。

【種村】 NHK。

【布野】 NHKも一緒ですか。同じ質問ですけれども、最初の発言、種村チームのやり口。

【松尾】 やだな。(笑)

【種村】 しゃべってもらわんでいいですよ。

【布野】 僕としてはそういうほうが出しやすい。いっぱいチームがあって、後で話しますけれど、社長、副社長は最低は十人は欲しいと言っていたんですけれど、独立で。例えばスターアーキテクトに伍して、独立しても屁でもないというような、それこそ顔の見える、そういうアーキテクト、まあ、アーキテクトでいいのかどうかわかりませんけれど、それもテーマですけれども、そういう意味で言うと、建築家を読者に紹介するときに、一つのチームのあり方の日本設計らしさが出ればいいかなと思ってわざと言っているわけで。これがエースだとかわかりませんけれど、読者はそういうふうに読むかもしれません。なんてことを。

【松尾】 そしたら、日本設計らしいからしくないか、非常にきわどい、よくわからないんですけれども、片やNHKのほうは、先ほどお話がありましたNMCの中での一員ですし、片や三橋邸のほうは、ほとんど一週間に一度か二度奈良へ足を出向いて、単独班という意味ではないですけれども、普通の住宅ですから、二百六十坪ほどの民家で、江戸時代の再生と。それもほとんどシロアリに食われて木材が腐朽している状態。それを一から積み上げて棟梁と一緒につくっていく仕事。そうすると、どちらが日本設計らしいかというと、これ両方とも日本設計だと僕は思っているんですね。

 小さいものを大切にする気持ちがなければ、必ず大きいものはできないと思うんです。それで、大きいものをおろそかにしていたら、また小さいものもできないし、小さいものの中に大きいものを見つけて、例えば集落の風景とかそういうものを見つけて歩んでいかないと、建築する人間として、世の中にちゃんと顔を見せるような仕事はできないと思うんですね。

 それで一年間、ちょうどNHKの設計が終わって、私は神戸のほうの設計をしていましたけれども、その設計が終わって、ちょうど抜け殻みたいになっていたんですね、終わった瞬間に。それで、そのときにちょうど民家のお話がございましたので、飛びついてしまったわけです。それで、飛びついたんですが、あけてみるとかなり大変なことだったんですね。それで、物は進んでいくんですが、その中で何を学んでいくかといいますと、やはり大組織でやっている状態と、個々の個人といいますか、一人、一人格、一人工でやっているのとかなりの大きな差があります。動き方もかなりの差がある。それで、よく個人事務所の人が言われるのは、大きな組織は人が多いのにどうやって仕事を進めていくんだと。大きいほうは個人の人はどういうふうに仕事を進めていくんだと。それを私は一年のうちに両方の現場を同時に経験させていただきまして、それが一番この仕事、二つの仕事で私の身になったことかなと。

 それで、それをさせてくれたのがやっぱりここにおる種村さんで、やはり要所だけ手綱を引いて、あと自由に動くように、魚を水の中に放してやるようにしてやっていくのが日本設計のやり方やと思うんです。あんまり行き過ぎて違う位置に行きそうになると、もう一回手綱を引っ張って、そっちはだめだよと。で、もう一回軌道修正すると。それでまた走り出すというようなやり方が一番理想的なやり方ですね。それで、それをできたからNMCも三橋でも同時期にできたと思うんです。

 それで、結局、三橋邸のほうが先に竣工しまして、もうお施主さんも一年間お住まいになってはりますけれども、この間も行かせていただいて、非常に喜んで生活されている。それは何が喜ばれているかといいますと、やはりでき上がってから集落の中に入り込む。ちょっとあれになりますけれども、十年前は横浜に住まれていたんですね。それで奈良へ戻ってきて、集落でほんとうにきちっと生活ができていくかどうかというのをものすごく心配されていたんですが、非常に周辺の集落の方と従来ずっと昔から住んでいたように一緒に生活ができるようになって非常によかったと。

 それは何かというと、やはり自然に帰すような建築のつくり方といいますか、敷地だけの建築ではなくて、敷地からそのほかに派生していく建築といいますか、集落の中の一つの敷地ですが、その敷地が集落に伝わっていくというんですか、よりよくしていく。前の腐朽した民家ですと、あとは腐朽を待つだけなんですが、それをもう一度活性化してあげることによって、ほかへどんどんといい影響が与えられることになると、非常にいいかなと思います。

 それで、最初一番大切にしたいなと思っていたのは、小川が横に流れていまして、そこにはメダカも泳いでいますし、それからホタルも飛びます。だから、そういうふうな自然環境をつぶさずに改修ができればなということで進めたんですが、十分今でも美しい川を汚さずに、施工中も汚さずに美しい川が残っています。キジも歩いています。非常にほんとうに穏和なところなんです。

【布野】 どっちかといったら、やっぱり三橋邸のほうが愛着があるんですね。(笑)NHK、両方、日本設計らしいと言うたけれど、同時期はですから。

【松尾】 いや、NHKはお二人がかなりお話しされましたので、私のほうは三橋邸のほうをお話ししたほうがいいかなと思いまして。

【布野】 平野さん、これはあれですか、例えば種村チームに任せると、すべての決定は種村さんに任すという感じですか、そうなんですか。

【平野】 設計内容についてはですね。

【布野】 内容については。ただ、お金が絡んだりいろいろなことはもうちょっと。

【平野】 例えばプロジェクト推進、契約したプロジェクトがちゃんとそれだけかどうかというのはまた私たちの責任でして、設計の内容については、種村の場合はもうほんとうにそうですね。

【布野】 任すと。それで、今の三橋邸の場合は、どの程度決定で、ほとんど決めたという感じでしょうか。

【松尾】 時間があまりないですし、その場で決めてあげないと、現場がほんとうに職人さんらしかいませんので。

【種村】 ただ、設計段階は、当然個人の三橋さんとやりとりするわけですね。それにわりと時間がかかったんですよ。個人だし、自分もそういう新たな、ほかではないそういう再生ですよね。特にご存じというか、一般的に女性、奥さんは反対なんですよね、イメージとして。自分には要するやっぱり、崇高とは言わないけれども、そういうものが大切だと。だけど、やはり女性に対しては、もっと便利な。そこで我々とやりとりしながら、少し時間をとって、自分で納得して、それにものすごく時間をかけて、そういう意味では自由にしたんですよね、やはり物事を決めていく。そのために我々はまたずっとおつき合いさせていただく。あと現場は当然、彼が職人さんとやっていくと。だから、彼としてはかなり物づくりに徹された。

【布野】 垣口さん、お待たせしました。流通科学大学でしたっけ。種村チーム、もっとほかにもあるんですか。

【垣口】 京都府立大というのもあります。

【布野】 ああ、京都府立大。もう繰り返しませんけれども、最初の発言を。

【垣口】 僕個人と日本設計とのかかわりというものを、当然、日本設計というのが組織ですから、僕とのかかわりという意味では、だれか人格、人とのかかわりという意味で、種村さんを一つ例にとって  例にとってというのはやらしい話ですけれど。

 関西支社というのは、私、入社十年になりますけれども、三年目なんですね。それ以前も七年間札幌で仕事をしたり、東京で仕事をしたりしていたんですけれども。

【布野】 札幌に行かれていた。

【垣口】 ええ、三年ほど行っていました。

【布野】 札幌は何人ぐらいですか、今。

【垣口】 札幌は十一人ですね、社員が。

【布野】 九州は今何人ぐらい。

【平野】 九州は二十四、五人ということだと思うんです。

【垣口】 比較的珍しいどさ回り人生で、日本設計といっても商社じゃないですから、あまり異動することはないんですけれど、たまたまそういう形、いろんな人と接するということがあって、種村さんという意味では、ここに来て流通科学大学とか京都府立大という二件立て続けに一緒にさせてもらったんですけれど、日本設計の組織の中で、さっきチームという話がありましたけれど、チームといっても物件ごとにチームを当然組んでいくわけですから、大きなチーム、大きな物件をやるときのチームと、小さなというか、そこそこの物件のときのチームの編成の規模というのは全然違うんですけれど、私は基本的にはあまり大きなチームで仕事をしたことがなくて、比較的、担当技師というか、種村さん、チーフ的な人と私が向き合ってというか、二人でやっていくというような、主にそういうチームでやってきたので、担当技師さんによっていろいろと仕事のやり方というのが非常に変わってはくるんだと思うんですけれど、私は基本的に比較的あんまり今まで種村さんだからこうということはなくて、たまたまですけれども、比較的自由にさせてもらっていたほうかなと。

 種村さんの話で言えば、流通科学大学の設計が始まったときというのは、NHKのほうの現場ですごく大変だったときでしたから、基本的に私は何か単身赴任のお父さんを家で待っている子供のような気持ちで、お父さんがいないときに一人で勉強していて、「お父さん、できたよ」というような感じで、お父さんがたまに帰ってきたときに、お父さんにその成果を見せると。よくやったと言われるのかどうかというのは非常に緊張するんですけれど、そういう中でスタディーなり何なりしてきて、種村さんとお話ししながら先に進めていった。

 流通科学大学の場合は、ずっと種村さんが十何年 十何年というか十数年、今までの基本というのは全部種村さんがやってこられたので、まあ、言ったら、私、当然始めてかかわるときに、やっていく上で種村さんというのは社内施主的な、社内にいるけれども施主的な感覚で、当然施主に見せる前に種村さんがオーケーというか、その方向で行こうというような意識でないと、当然会社から外には出ない。

 そういう意味では、非常に種村さんのやり方というか、流通科学大学の場合は校舎を設計する上で今までの、ほんとうに建物の成り立ちというか、その辺の文脈を読んで、そういう意味ではまちづくりというか、そういう意味では既存のコンテクストがあるところにある一つのものを、新しいものを建てるというところの一つ作業が非常に今回まとまってできたかなと。

 それは当然一人の設計者というか、日本設計がやり続けてきた町の中に建物を建てるという作業、比較的そういう意味では普通の町中よりかはそういう意味でのコンテクストというか、コンセプト的なところというのは、町の中に一つ貫かれたものがあって、それは読み易かったんですけれど、基本的にはそういう仕事のやり方で進めて、種村さんと一緒に当然やってきたわけですけれども、種村さんのことを読んだからスムーズに先に進んでいって、逆にというか、ここをどうですか、どうですかといったときに、いろいろとほんとうにそれを飛び越えるような、ここから私の限界をぴゅっと引き上げてくれるようなある時点でのアドバイスを適切にしてもらって、それで、そういう意味ではすごく私も勉強になりましたし、いいものになったんじゃないかなと、自分なりには思っているんですけれども、そういう仕事のやり方というのを京都府立大学のときもプロポーザル、それこそ流通科学大学の実施設計をやりながらの話だったんですけれども、プロポーザルがあって、それも種村さんとやることになって、それで、「じゃ、またお父さん、こんな宿題が出たんやけど見てくれへん」って言いながら、お父さんのいないときにやっておいて、たまに帰ってきたときに見せて進んでいったわけですね。

 それもまた、たまたまやって、それは全然その仕事、同じ大学の一つの校舎の設計だったわけですけれども、府立大学の場合というのは、どちらかというと、既存のキャンパス内の文脈というのも当然読みながら、新しい府立大のあり方というものを新たに提案した。それはもう町とのかかわりの中で、町とのかかわりの上での新しい府立大学のあり方というものをうまく提案できたので、それはこれからにつながるような話かなと。当然今までの府立大学の文脈も踏襲しながらの話で、それをうまく接点をつくっていったというような計画で、それも同じように種村さんとの中では、ある程度のところまでつくったときにぴゅっと引き上げてくれるような何かサゼスチョンがいいところであったので、非常に私としては、「お父さん留守がいい」というわけじゃないんですけれど、お父さん、いてくれて……。

【布野】 落としたり上げたりと。(笑)

【垣口】 留守がいいというわけじゃないんですけれども、ほんとうにいいところでいいアドバイスをすぐ出してもらえるという、非常に頼れるお父さんという感じで私は尊敬していますし。(笑)

【種村】 何か弁解じゃないですけど、これを言うておかないと。要するに私はきょう選んだのは私を褒めてほしいから選んだわけじゃなくて、もう一回反すうして言いますと、要するにやっぱりオン・ザ・ジョブだと。何が言いたいかというと、やっぱり我々の仕事には相手があってなんですね。今、私がやっぱり大切にしたいのはお施主さんというか、先ほど言いましたように、お施主さんじゃない、お施主さんを代表する何かをつくろうとする意思ですね。それに納得すれば、やはりそれは自分もこれはつくりたいと思うわけですね。それをみんなと共有したいわけですよ。

 そのためにはやっぱり信頼関係ですよね。だから、ありがたいことに皆さんと信頼関係がうまく、まあ、彼らが私を信頼しているかどうか知らないけれど、信頼関係だと思うんですね。だから、いなくても進んでいるわけですね。その間、私も考えているわけですね、いなくても。で、ぱっと見たときに、ああ、同じことを考えているなと思うと、もうそれ以上、少し言うだけで十分なんですね。そういう信頼関係がなければ、違う方向でつくられると、こっちは、ああっと思うわけですね。それはありがたい、こんだけの仕事ができるのは、やっぱり信頼だと思うのが一つあって、ここにいない人たちと信頼関係がないという意味じゃなくて、やっぱり信頼関係なんですね。

 その信頼をつくるものは何かと言うたら、やっぱり地主さんが、あるいは発注者なりが考えている、要するに我々が納得できるものですね、自分の家のためにやられているのかどうか知らんけれども、こういうものをやりたいというものに対して自分が納得する、仲間が納得すると、それが目標だと思うんですよね。それが一緒であれば、役割分担がちゃんとできるわけです。それが違っていると、組織というのはなかなかおのおの違いますから、アトリエ事務所というのは明らかに先生に行くんだけれども、組織というのはたまたま、さっきの話のようにチーム編成があるわけですね。そういうときに性格の違い、あるいは向かっている方向の違いがあり得るわけですね。

 それを少しまた束ねるには、やはり何か目標というかビジョンがあるわけです。そのビジョンの中心になるものが、やっぱり地主さんの考えの本質的なところですね。そこがきちっとつかまえられれば、もう意気に感じてやれるわけですね。それが共有できる、あるいはそれが施主にも伝わる。後で施工者にも伝わって、少し前向きに物事が進んでいくんだろうと思うんです。

 それを私はこの場で言いたかったんであって、私を褒めていただくということじゃなくて、それを大切にしているということですね。それがないと、まあ、だったんですかねというこの幾つかの状況ですね。

【布野】 それじゃ、一通りあれしましたので、後はもう指名しませんので、勝手にあれしてほしいんですが、大きい話ばっかりすると難しいですから構えますので、ちょっとお聞きしたいのは、今一番そういう仕事をされていて困ったことというか、ここが問題だと思われていることをお聞きしたいんですけれど、それはいろんなレベルがあって、日本設計の内部的な問題もあるかもしれないですし、お施主さんの問題もあるかもしれないですし、それから、問題じゃなくても、最近変わってきたよとか、少しそういうお考えをどうぞ。

【種村】 多分、適切な答えかどうか、やっぱり気になっているのは、世の中が厳しくなっている、だから建設費も安くなっているし、そういうものを含めてお施主さんも金が潤沢でない。そういう意味で、全体的には、特に今社会全体が閉塞しているみたいで、元気がないという。だから、関西は元気がないというのもやはり皆自信なくしたんですよね。だから、景気のいいときというのは金もあって、金とか物にわりと気が紛れていたけれども、それが今ずっと収束したわけね。

 我々の職業というのはほんとう一番つらいです。つまり、それに影響されやすい。要するに我々というのは一番弱い立場です。つまり金も出せない、自分らでもつくれない、できたものをつぶすこともできない、自分らで使わない。いつも言うように、人の金で人のものを、人の使うものを人の手でつくるわけですよね。弱い立場なんだけれど、ある意味ではもうやりにくくなってきています。

 だから、ゼネコンさんだって安くしたいとか、手を抜きたいとか、お施主さんだってお金をあまり潤沢に出せない、もうデザインは要らんとか、NHKだってあったわけですよね、デザインはもったいないとか、贅沢に見られる。それはやっぱり、我々は別に贅沢につくるわけじゃないけれども、やっぱり意図したものをつくらないと我々の存在価値がない、あるいは日本設計ですね。それをつくっていかなあかんのやけれど、我々もわりとぎゅっと抑える。そこが今一番しんどい。

そのときに、やはり重要なのは、さっきの話に戻るけれども、やっぱり意気に感じる、要するにエネルギーを何で感じるかというのは、やっぱりお施主さんとの信頼関係です。何をしたい、何をつくろうとされているか。それに自分が納得すればいいわけですね。それをできるだけ心がけたいです。心がけないと、もうつぶされてしまって、要するに安くて早くてということになっちゃう。それが一番やっぱり、私個人もそうやし、多分日本設計、あるいはいろんな事務所に一番プレッシャーになっていることかなというふうに思います。

【布野】 非常にわかるんですけれど、意気に感じるだけで大丈夫ですか。感じない施主が出たらどうするんですか、それは切るんですか。

【種村】 それは自分の純な  純と言わないけど、やっぱり自分を出さないといけないですよね。少し本音じゃない、まあ、本音ですかね、こういう誠実さみたいな。それを少しオブラートに包んじゃうと、相手もやっぱり人間ですから、やっぱり感じるものがあるわけですよね。それを杓子定規とかビジネスライクにやっていくと、なかなか触れ合えないと思います。それがすべてできるとは言いません、すべての仕事で。だけど、それをしなければ相手からも出てこないです。だから、そういう意味では自分も。

【布野】 種村さんみたいにベテランになってきて、当然出会う施主や事業主さん、いろいろ変わってくるということはあるかもしれませんけれど、最近出会う施主さんはちょっと違うぞとか、仕事の質というかニーズが違ってきていてるぞとか、そういうことはお感じにならない、あんまり変わらないですか。

【三塩】 ここのところ熱い施主ばっかりじゃないですか。

【布野】 不況だから余計そういうのが多い。

【鈴木】 最近は、設計料は安いけれども施主が動いている。動いているというのは、口うるさいという意味ですよ。傾向としては。ですから、仕事が多くて実入りが少ないという傾向は、今すごい傾向が強いですね。ですから、ちょっと彼らの話に水を差すわけじゃないんですけれども。

【布野】 経営者的、管理者的な立場がありますから、当然それについては。

【鈴木】 言っていることはもちろん正しいですよ。正しいんですけれど、多分経営的なバランスをはかるようなことをしていかないと、言っていることは非常に正しいんですけれど、そちらの視点も無視はできなくなりますね、世の中、どうしても。

【布野】 それは中枢というか新社長、副社長もそれが一番プレッシャーになっていらっしゃるみたいで、僕も設計を勉強した端くれですからよくわかるんですけれど、やりますよね、時間があれば。時間を使っちゃいますよね、ほうっておくと、例えば。チーフリーダーがやると、一生懸命時間のある……。バブルのときは忙しいから、それはもう次どんどんしないといけないだろうけれど、今みたいに仕事が少し動かなかったり寝たりして、そんなに来なければ、考えますよね。そうすると、今度は経営者側からすると、その時間のコストというか、こういう問題はどうですか。

【種村】 ただ、甘いかもしれないですけれど、やっぱりうまいところをつかまえれば解決するんです。何も幾つか、案を十個つくることが相手を説得するわけじゃなくて、相手と会話して、相手のねらっているところを早くつかめれば、それに的確にこたえれば時間は短縮できるんですね。もう何か知らんけど、自分の思いで十個ぐらいつくってみて、どうですか、いかがですかと言うたって、相手は自分で思うてるものが一つもなければ、それはゼロですよね。そしたらまた十個つくるわけですね。そういうやり方は要するにコスト的な問題があるけど、やはり生意気を言うようやけれども、つかまえるんですね。それさえつかめばうまく、わりと早くいくと思うんですね。

【三塩】 設計事務所の収支を考えるのに、所員の時間浮遊軸しかないようなところがどうしてもあって、何時間やったか、このプロジェクトで総勢何人かかったかという切り口にどうしてもなりがちだし、最近うちもそういう部分がかなり厳しくなってきているんですけれど、今のように相手のつかみが早ければ、相手の気持ちをつかむのが早ければ、当然合理的にうまくできる。つかめなければ、つかむまでやはり時間をかけなければ相手も理解できない、お互いのコミュニケーションはとれないという状況になるから、それはその人によってのやり方、それからその施主との相性とか、プロジェクトとの相性みたいなものでいかようにもなるんですよ。

 チームの相性も悪い、施主ともうまくいかないとなると、幾らこれ、時間をかけてもいいものはできないけれども、相手との話が一回か二回で方向が見えてくれば、あまりむだな時間をかけずともできるし、あるいはもう少し寄り道をしながらできる余裕ができる。

 昔の日本設計はやっぱりそういう部分が非常にあって、一つのプロジェクトの方向を決めるにも、少し幅のある攻め方ということをやっていたと思います。最近はそれが非常にドラスティックに切られちゃうもんだから、あまりむだなことをせずにやれと。でも、あるちょっと、無駄かどうかわかりませんけれども、そういう余裕がないとこちらも出し切れないし、向こうの話もあるポイントでつかめればいいけれども、やはりいろんな切り口から見せてもらう、切り口で話をさせてもらうことで何かわかってくるものというのがあるにもかかわらず、そういうようなものをどうしても置いてけぼりにしてしまうという、そういうことに陥ってしまうので、その辺が僕は大きな組織の、これからそういう時間で切っていくというか、そういう収支を常に考えていかなきゃいけないという命題はわかるんですけれど、やはり当てはまらない。組織の中でそれをやっては当てはまらない部分というのがあると思うんですね。

 今、私も実はNHKの長い五年半のプロジェクトが終わりになろうとしていますけれども、実はもう終わっているんですよ、四月いっぱいで。ですけれども、三カ月ですが、少し種村にも言いましたし、うちの上にも言いましたけれども、少しアフターケアをしたほうがいいと。ここで終わったから、それでは帰りますということですっと引くんじゃなくて、とにかく人数を少なくしてでも、とにかく一人でも二人でもいいから、施主のほうを向いて、何かありませんかというふうな姿勢でそこで構えていくということを、そのアフターケアがやっぱり必要で、我々日本設計ってわりとそういう部分があった、今まであったんですね。先輩なんかもずっとそういうことをしてきたのが、だんだんそれが、はい、何日でこのプロジェクトは終わりです、全部コンピューターがはじき出しちゃうような、そういうシステムになり過ぎて、アフターケアもちょっと気持ちのフォローとしてやってあげたいようなアフターケアも、きちっとキーボードで打ち込まなければ結果として出てこない、あるいは会社としてそれを認めないというふうなやり方というのは、僕は日本設計があまりいい方向に向いていないんじゃないかというふうに、僕は心配しています。(笑)

 それで、例えば三カ月、ちょっとここで五年も六年もつき合ってきたんだから、ここで終わらなくてもいいじゃないかというのを、コンピューターはポーンとはじくんですよ。そういう会社は、僕は日本設計の昔のよさをどこかへ置き去りにしている。だから、日本設計のよさを機械仕掛けでもいいから何かやる方法があると思うんですよね、そういう方法が。そういう部分をやはり組み入れたやり方というのを日本設計の今後に期待をしたいと思うし、僕もいつだったか、あさってか、副社長と会えるんですよね。そのときに言いたいなと思っているんですけれど。

【鈴木】 水曜日ね。

【布野】 それはばんばん言ったほうがいいです。ちょっと僕がメッセンジャーになるわけにいきませんけれども、一方で種村流しかないだろうということは口ではおっしゃるんですよ。

 要するに、今からいろいろ話しますけれども、メッセンジャーをする気はないんですが、要するに最終的にやっぱり個人だと。個人の能力であって、お施主さんのニーズを早くつかむとか、熱意とかいうことだということはおわかりです。ただ、七百人からのトップないしあれになると、一方でそういう合理化の方向とかそういうことを。

【三塩】 みんなが僕の施主だとか、みんなが私の施主だといって、みんながそういうふうにふわふわふわふわって動いちゃうと、それはやっぱり組織としてまとまらなくなると思うんですよ。だけどやはりそこは的を絞って、じゃ、これだけずっと三十人もいたプロジェクトだけれども、最後に二人だけ残しましょうと、じゃ、君と君がやればいいというようなことでのアフターケアとか、あるいはそこまで杓子張らなくても、常に今までのお施主さんとつき合っていく、アフターしていくということの大切さみたいなものを、やっぱり松尾君もそうやってつき合っているのは、みんなもそうだと思うけれども、そういうケアをしていくというのがやはり僕らの、上の人はもっと偉い人に会わなきゃいけないかもしれませんが、僕らがやっぱり常にそういうところをフォローしていくというようなことはしないといけない。

【布野】 全然問題ないです、大事なことですから。

【平野】 というふうに思います。

【鈴木】 別にそれは全然問題じゃない。ただ、上の方とか、平野さんが来られていますけれど、現実やっぱり経営者としては数字的な問題というのは常にプレッシャーがかかっているんですね。ですから、そういう面では、そういう面を非常に尊重、可能であればだれも文句を言わないです。

【松尾】 可能であると思うんです。

【鈴木】 それだけでやってしまうと、やっぱり上の方は多分プレッシャーを感じるんでしょうね。両立するような道を探らないといけない時代に来ていると。

【平野】 まあ、そうでしょうね。だから、個人あっての組織ですからね。組織あっての個人じゃ、多分、日本設計は成り立たないと思うんですね。だから、そういう意味ではよき心構えで生きてこれた、よき時代のいいところは捨てる必要はないんで、それはできるだけ生かしたいと思いますね。

【鈴木】 それは当然だと思いますよ。

【平野】 一方で非常に世の中がせちがらくなっているのも事実で、今もメールが、数字のメールが来ていまして、慌ててここへ駆けつけたんでよく見ていないんですが、日々僕らはそういう両方のプレッシャーを感じながらやらざるを得ない。

【布野】 あまり夢のない話に持っていきたくないんですけど。(笑)

【鈴木】 否定する気はないんだけどね。

【種村】 ただ、やっぱりやらないと相手からも金を引き出せないんですね。それは難しいですよ。やらなければ、当然相手からは引き出せない。その微妙な、何ていうのか、これから必要になってくるんです。だから、もう終わりました、これ以上はフィーをもらっていません、やりませんと言うたら、相手も出さない。だけど、ある程度やれば、相手も、まあ、相手によるんですけれど、やっぱりフィーを出してくれる。その辺をやっていかないと、我々は単にもうドライにやってしまうと、すべての世の中がドライになっちゃうんですね。それはやっぱり我々としていいのかどうかですね。

【松尾】 そやけど、今ずっと聞いていまして、熱き思いと時間というのは比例せえへんと、全然関係ないものやと。短うてもえらい熱い人もおるし。

【種村】 密度の問題だから。

【布野】 いろいろ能力に差がありますから。

【松尾】 のんべんだらりやっているけれど、それが熱いと思うてはる人もおるわけです。

【鈴木】 能率よく熱くやってもらえばそれでいいんでね。

【松尾】 そうです、そうです、それでええんです。別に時間かけんでも、道を歩いとっても熱うなっている人もいてるわけですよね。寝るときも寝る間を惜しんで考えている人もいてるわけですから。

【鈴木】 正直言うたら嫌な時代ですわ、もうみんなデータで出てくるからね。あれせえ、これせえと、来るでしょう。

【松尾】 だから、別に時間とはリンクせえへん。

【布野】 ちょっとだけあれをずらしますと、今、例えばトップなり僕なんかが見ても、新社長が従来型の設計と管理の手法で立ち行かなくなっている部分があるんではないですかということを例えばおっしゃるわけですね。今、種村さんがおっしゃったのは従来型の攻め方で、そういう熱く短く燃えてという話は当然あるんですが、それプラス、業務領域の拡大みたいなこともお考えなんですね、一つは。サイダースとか都市へというのは。

 それ以外にもビル管理とかビルの証券化とか、川上側のお金の出るところに行くとか、とにかく建物に必要を考えて、食う場所をもっと拡大していくと。これはゼネコンも一緒で、ゼネコンとの争いというか、業際とおっしゃっていたかな、設計業と請負業の間みたいなものの熾烈な闘いには勝たないといけないというような、例えばそういう認識があるし、冒頭に僕が言いましたように、要するにパイが限られてきていますから、これから公共事業を考えても、建設産業という枠を考えても、これがもう多分半分になるぐらいのことを鈴木次長はおっしゃっていましたけれど、それぐらい覚悟した上で、トップとしてはそういう戦術も立てないといけないというようなことがあると思うんです。それはあまりないですか、お施主さんと出会って。東京だと余計そういうことを。

【鈴木】 それは支社の、どっちとかいうと担当が、それは私がどちらかというと、傾向ですね、それはやっていますけどね。ですから、例えばPFIの取り組みとか、そういう再確認とかいうのは、どちらかというと私の役割として。

【布野】 PFIとかバリューエンジニアリングとおっしゃる、そういう部門を。

【鈴木】 専門としてはなかなか関西支社では持ってないんですけれども、現実、何かあったりしますね。そうすると本社のVMCの手をかりて、それで支社で取り組むと。今現在、PFIの仕事を一個やってますけれども、その力は本社からかりているんですけれども、こちらのスタッフで今やっています。そういうような形で、本社で新社長の発想でつくられた新組織があるんですけれど、特にVMCがそうだと思うんですけれども、そこを中心に、結局チームは組まなきゃいけないんですよ。ですから、関西と同じような話が起こったときに、そこの力をかりて関西で種を大きくする。本社も同じ方式だと思いますけれど。

【布野】 何か重役会議みたいな話になってきたんですけれど。それで僕は新社長にそれで食えますかと言ったんです。もらえますかと。

【鈴木】 当面は厳しいと。

【布野】 ですよね。

【鈴木】 ええ、現実、一個PFIをやっているんですけれど、非常にハードで、安いお金でハードですね。

【平野】 ただ、あれじゃないですか、先生、最近施主が変わってきたのは、例えば十年ぐらい前は施主がわりと明瞭にこういうものをつくりたいと言えたんですよね。ところが、最近のプロポーザルの要綱をごらんになっておわかりのように、何をつくっていいのかわからないんですね。

 今、種村君のやったチームでわりと恵まれたのは、わりと熱い思いを持った施主が明瞭に単独の人でいたわけです。だから、そこに飛び込んでしまって意思が通じれば、うまくできた。それはお互いによかったんですが、そうじゃないプロジェクトが結構多いんですね。土地はあるけれど何かに使いたい、テナントを持ってきてくれればおたくに設計をあげるよというのはいっぱいあるわけですね。そういう顧客を満足させるには、どうも設計だけ、狭い意味の設計だけいいものをつくりますよと言ったって、これは全然話にならなくて、やっぱり資産有効のコンサルティングができないと仕事が来ないということになってくる。

 だから、VMC群とかつくりましたけれども、そこで設けるというよりも、設計という核になる、日本設計の核になるところに仕事を持ってくるための風上側のサービスになるわけです。

【布野】 なるほど。平野さんはそういう認識ね。ちょっと違うかもという。

【平野】 関西ではとてもじゃないけど、それでお金は取れない。(笑)

【布野】 今のはわかりやすいんですが、じゃ、それだけで今のパイが減る分は多分対応できない話でしょう。

【平野】 大変ですね。

【布野】 パイが減っていく中で、他者との差別化ですから、今の論理は多分そんなに、だから関西でほかのシェアを食う、関西支社だけ元気だという状況は考えられるかもしれないけれど、全社的には多分ありまして、これは建設産業全体の、設計業界全体の話であって、もうちょっと何か違う方面をお考えのような気がしますね。僕ははっきり言ってあんまりわかりませんでしたけれど。

 ただ、おっしゃっていたのは、従来型の設計をする能力を持った個人が絶対必要だということはおっしゃっていました。マネジメントをやるにしても。それは僕もそう思うんです。設計のトレーニングをした人が、多分一番向いているんだろうと、いろんなことをまとめるのに。建築だけじゃなくても、今の資産のあれとかですね。それは賛成したんですけれども。

 いきなり困った問題というと、仕事柄どうかという問題ですけれども、どうですか、それ以外に何か。

【鈴木】 ちょっと話をばさっと変えますけれど、ここの地域と組織事務所のあり方と書いてありますね。

【布野】 はい、それも問題にしたい。

【鈴木】 ここで、これは傾向、私の書いた傾向なんですけれども、わりと関西系の設計事務所とかゼネコンさんは、この大阪の町で新しいものをつくられるときに、わりと東京的な設計をされるんですね。クールで、ガラスとかで。当社のほうが逆に地域を意識して、いろいろ考えて、いいかどうかは別にして、そういう方向の設計だと思いますけれども、一番大きなのは感覚というのがあるんですけれど、それはやはり長い間支社長していた、会長の内藤徹男が把握しているんですけれども。

【布野】 内藤さん。

【鈴木】 それと、池田そのものが地域と文化とか非常に大事に、環境というのを大事にしていましたから、その影響を受けているんですけれども、最近特に建てかえられている建物を見ますと、関西の方は比較的モダンな建物、代表で言うと竹中さんとか日建さんですね。それで、東京から大阪に乗り込んでこられて新しい建物をつくられた場合、まず一つは代表的な原先生のように、ご自分のスタイルでばかっとつくっていくと。これは非常に受け入れられるんですよね。京都駅もそうですし、梅田もそうですけれども。

 わりと当社のような、戦前からある大阪のいいものとか、あるいは神戸方面のいいものとか、そういうものを大事にしながら設計する方向というのは、一見受けが悪いような気もしないでもないんですけれど、そうは言うもののうちはこれを非常に大事にしている。この路線でやっていますけれどもね。

 ですから、もうちょっと大阪という場所は、今もう一地方になりつつありますから、単純に東京コピーというのを捨てて、少し地域の個性とかそういう方向、善良なる地方都市という方向を選ばないといけないんではないかというふうに、最近特に思うんですけれどね。

【布野】 そういうことを大阪のお施主さんに言うと怒るんじゃないですか。善良な地方都市と。(笑)

【鈴木】 善良な一地方と言うとちょっと怒られますけれど、理解される方と理解されない方と、現実にいらっしゃいますね、話してみると。例えば我々はたまたまそういうお方にめぐり会っているのが多いんじゃないかと思うんですけれどね。ちょっと最近できている関西圏で、特に大阪市内ですけれども、できている建物を見ると、非常ににおいのしない建物、あるいは大阪でなくてもいい建物が増えてきてしまって、戦前からあったいい建物がどんどん壊されてしまっているような感じがするんですね。

【布野】 それぞれの地域性というのをどうお考えですか。今のような大阪全体を、例えば東京本社に対して大阪支社とか、福岡支社とか、札幌支社とかいうようなので、今、大阪、近畿を中心にしたところをカバーされているわけで、そこに当然地域的な表現というのは考えられるという意味での地域性もありますが、先ほどの高知の例とか、奈良の大和棟の集落の中で、大きく二つ問題がありますが、一つ、僕は、かねがね組織事務所が地域で仕事をするといったときには、どちらかというと今高知に出かけていってやるような、東京本社が別に、あるいは関西支社がどっかの地方へ出かけていってという場合に地域性というのは一体なんでしょうかということですね。今例えば、土佐漆喰を使ってみせるというのは、地域産材を使うというのは一つのアプローチかもしれないんですが、もうちょっと言いますと、向いているかどうかです。例えばそういう大きな図体をした組織事務所が地域で仕事をするあり方として。一番最後を聞くとどうなりますか、最後の問題ですね。

【鈴木】 組織事務所がなぜそういうことをわざわざやるのと。多分うちのほうに期待されているのは、多分新宿でやっている実績とか、東京の都心でやっている実績をそのまま欲しいと思われている方もいらっしゃると思うんですね。

【布野】 ですから、もう一つ聞きたかったのは、再開発もそうなんですけれど、あれ、手間暇がかかるじゃないですか、コスト的には。で、ようやく今、再開発コーディネーター制度が新社長とか高山先生なんかと一緒にやられて、ようやく資格ができて、食えるかなという段階まで来たわけですけれど、それだと先行投資ですよね。だから、地域も多分手間暇かかるし、地方と言ったほうがいいかもしれない。それから、再開発も手間暇がかかるんですけれどということなんですけれど、一方でデザインの話、あるいは材料の話とかあると思うんですが、何かお考えがあれば。

【鈴木】 まず再開発の話をちょっとします。東京方式と大阪方式では違うんですよね。東京で大きくやられているのは、すべてじゃないと思うんですけれど、出資金方式というのがありまして、これ、ちょっとあんまり詳しく書かれると困るんですけれど、オフレコでお願いしたいんですけれど、何か話がありますね。そうしますと、当社がたまたま相談を受けたと。そうすると、まだまだ東京は投資する方がたくさんおられますので、あれに出資金をしてもらうんですね。それは通常はすると言われているんですけれども、それを運用金として立ち上がるまで実行するんですね。そのかわり、当社はそれなりのフィーをいただきますから、そこでけがをしないという状態なんですね。

 ところが、大阪の場合は、ほとんどお金が出ない状態から始まるわけですね、関西ですと。

【布野】 できないとお金が入ってこない。

【鈴木】 ええ。それで、今、大阪市さんなんかは三年限定でコンサルタントを雇うという制度はあるんですけれど、これはまれです。ですから、ほとんどは資金力のあるゼネコンさんが横へ持っていくとか、そういう形でないと、なかなか実際にできないというのが実情やと思うんですが、そこには大きな差がありますね。

 それで、実際に立ち会うと、多分、設計関係者は手間が大変というのはご存じのとおりだと思います。ですから、大体赤字になりやすいという傾向がありますね。それもどちらであっても同じだと思うんですけれども。

 ただ、当社の東京でやっている再開発はほとんど出資金に近い状態でやっていると思いますので、そこそこ収支はついているんじゃないかと思いますけれど。

 だから、関西のコンサルさんはよく今の状態で頑張られていると思いますね。逆に先行投資をかなりされていますし、建ち上がるまでに相当お金を使われていると思うんですけれどね。

 最近は保留地を買っていただく方が非常に減っていますから、ほとんどつぶれているんですね、阪神は。

【布野】 だめですね。元気の出る話にならないですね。(笑)

【鈴木】 元気の出る話をしようとしているんで。

【布野】 それをうまくまとめないといけないですけれど。

【鈴木】 これが残念ながら現実ではありますね。当社はたまたま関西で再開発三つばかりかかわったんですけれど、これは話がまとまって、設計の条件が整ってから入らせてもらっている事例なんで、通常の設計とほとんど変わりはない状況になっています。

【布野】 いかがですか、今の地域とデザインの話でもいいんですが。

【種村】 先ほどおっしゃったように、例えば私は四国のことはできないと、そういう判断はあるんですけれど、それは要するに何を大切にしているかですね、常に本人の問題ですね。要するに自然が大切か、風景とかですね。それはそこへ行ったら読めるわけです。だけど、自分の彫刻をつくりたい人は、どこへ行ったって一緒ですよね。それが一番根本になります。だから、四国へ行って、高松へ行って、見て、自分も風景が大切と思えばそういう設計をします。その風景、例えばきょうのNHKでもあそこの大阪城とか、ああいうものを建物に取り込むかどうかいうのはその視点ですよね。ここにモニュメントの建物を建てたいとなれば、外との関係でなく、その形だけを問う。そこから何が見えて、その景色との関係でどう見えるかというのを意識すれば、大阪であろうと、東京であろうと、千葉であろうとできることです、読み取る力さえあれば。それは、それを大切にするかどうかなんですね、その会社組織が。

【布野】 非常に失礼ながらというか、不遜な、僕も種村さんの考えに近いですけれど、僕は二十年ぐらいインドネシアとかアジアを歩いているんですけれども、シンガポール事務所があるんだそうですが、結構ユニークな仕事をされているみたいですけれど、じゃ、外国へ素手でおりていったときに、じゃ、どうやってつくりますかという問題ですね。そうすると、やっぱり使える大工さん組織とか材料とか調べますよね、多分。あるいは向こうの関係者と、こうやりますよね。やるときに組み立てれば、僕はそれが地域性になるんじゃないかという、これはちょっと僕の意見を言い過ぎですけれど。ただ、組織形態として、例えばシンガポールでやると合いませんよね。いろんな今の為替の問題もあるし、ペイできないとおっしゃってましたけれどね。

 僕はそのときも申し上げたんですが、パイが限られたときに三つ方向があるんですね。既存のストックをメンテしていく、だからそっち側のほうにエンジニア的には耐震診断とか設備とかサステーナブルでいろいろ、エコアーキテクチャーでいくとかという方向が一つと、一つはまちづくり。これらの部分は、だからすごい僕は象徴的だと思っているんですよ。日本設計がそういう社長を選ばれたというか。評論家ができるんですよ。こけるかもしれない。(笑)結局食えなかったじゃないかといって、またトップすげかえみたいなことになるかもしれませんけれど。

 国際的に、だから日本で余っていたら、この経験を持って、まだまだたくさん必要とする国がありますからね、発展途上地域とか。当面そういうふうにいかないと、日本の建築界はというふうに僕は私見は思っているんですよ。そうなると、こうやった機会にどうですかという、事情はどうなっていますかということを。

【鈴木】 そういう意味では先生がおっしゃっている二番目に意識したような社長をトップに選んだと。

【布野】 じゃないかなというふうに思ったんですけれどね。

【平野】 伊丹さんは伊丹さんで実績がありますからね。都市計画という分野で生きてきたという、ペイするようになってきたという実感はお持ちなんじゃないですかね。

 ただ、これからほんとうにVMC群とか、もっと都市計画じゃなくて、都市計画というのはわりと確立された職業になりつつあると思いますね。そうじゃないところまで広げようとしているんで、それはなかなかそれだけでペイするという状況に行くのは、すぐには難しいと思っていますけれど。

【布野】 もう大分時間を食ってますよね。

【森下】 はい。

【布野】 じゃ、ちょっとあれですけど、最後に殊組織のあり方も含めて、どう言えばいいんですかね、日本設計の将来、そっちは組織ですよね。今後どうなっていくのか、どうしたいのかとか、とにかく最後に一わたり、逆から行こうかな、今度は垣口さんのほうから。

【垣口】 組織をどうしたいか。

【布野】 というか、どうしたいか、自分はどうしたいか、将来、建築界はどうなるべきかと言わなくてもいいですけれど。

【垣口】 とりあえず広いビジョンを持ちながら、ちょっとまだできていませんので、自分の個人の中で個人との話で言えば、さっき先生が聞かれ始めていた、どうあっては嫌かという話なんですけれど、ちょっと日本設計で組織の中で設計をしていくという一つの、言うたら私はプレイヤーの一人でしかない。そのプレイヤーとして何がどうあったほうがうまくいくかなという、能力も当然磨いていかなあかんのですけれど、組織に求めることは、さっき種村さんの話をしたときに、「お父さん、留守がいい」という話がありましたけれど、あまり組織として組織がおるぞというような、組織があるぞというのを、私としては感じずにやっていたいなと。組織の中でやっているんだという変なプライドというか、そういったことも実はあまり持ちたくなくて、できれば一つの仕事を任せられれば、その仕事に対して何が自分はできるんやろうと、自分ができることを精いっぱいやっていきたいなと。その精いっぱいやる中で、例えば「ちょっとお父さん、ごめんなさい、ちょっと困ったことがあったんです」、そういったときに相談させてもらえるような。

【布野】 それは最高やね。お父さんが金を稼いできて。(笑)自分が困ったらお願いというのは、それは最高のお父さんですよ。

【垣口】 そういう最高のお父さんであってほしいわけです。

【種村】 そうだろうな。【垣口】 それが一番かなと。だから究極に考えてみれば、いろんなこうあるんですけれど、余計なことを言わないでくれと言いたいのは。

【布野】 大丈夫か、日本設計は。

 じゃ、松尾さん。

【松尾】 僕は組織というのは、組織事務所としてではなくて、組織として自分の体もこれ、組織でできとるんですよね。いろんな器官が集まって、組織として自分の体はできていますけれど、その器官というのはあんまり意識して働いていませんね。何ていうんですか、心臓はバグバグ動いていますけれど、これは僕が動けと言って動いているんではなくて、勝手に動いていますね。

 だから、組織事務所も、何をするとか、何をせなあかんとかいうふうに構えるから、それで組織が硬直化し始めるんじゃないかなと。言うたら、非常に言うのは難しいんですけれど、みんなが無意識のうちに一つの個体として、組織としてでき上がっているのが一番理想な組織形態かなと思います。

 だから、一つ目標を掲げると、必ずその目標にとらわれる心が一つあらわれますね。そうすると、組織が非常によくもなるし、硬直することにもなる。非常に紙一重の状況にはまりますので、その辺が将来日本設計の進んでいく姿の中で、皆さんが、さっき川の中に魚を放すと言いましたけれど、ばーっと魚が、一斉に川をコイが滝を上るように上がっていけば、一番いい組織づくりができるでしょうし、一番いい社会ができるのではないかなと思いますけれど、何か理想的にはそんなんが理想かなと。

【布野】 同じようなことですね。

 山口さんは。

【山口】 やっぱり設計事務所というのは今後、効率化という話が非常に課題となってくると思います。今も話に出てきたみたいに、一つの方向として施主の要望を素早く事前に出してあげるみたいな技術、そのためには、それぞれの人間が自分が今何をやりたいんか、こういう条件が出てきたときにどういう提案をしたいかというのをいつも持っていたほうがいいんじゃないか。私自身も思うんですけれども、常にこういう引き出しというか、そういうものをためていって、自分の個性というか、山口という人間が日本設計の中でどういうものをつくっていくんだというのをはっきりさせて、そういう自分、いいことを言うみたいですけれど、自分のやることで施主に対しても多少の要望を引き出せるんじゃないかと今は思っています。そういう努力をそれぞれに個はしていかなければいけない。

 組織としては、それぞれの個が磨かれてきたときに、ある仕事に対して、その個をどういうふうに使うかというのを、ただ漠然と効率化で、計算で相手にはめるんではなくて、磨かれた個を効率よく仕事を進めるためにも適正配置、そういうものをきっちりできるような組織がより効率を上げるんじゃないか。そのためにも、我々は個を磨いていかなければいけないというふうに思うんです。

【布野】 三塩さんは初期の日本設計魂というか、初心というか、そういうものがだんだん薄れているんじゃないかというような発言があったんですが、最後に一言。

【山口】 組織を感じないような組織って言うんだけれども、それは現実的には非常に難しいですよ。というのは、そうすると僕らは何を担っているかというと、もしかすると手の先かもしれないし、脳の役割をしているのかもしれない。心臓は意識しなくても動いていると言うけれども、そうすると日本設計にも心臓の役割をしなきゃいけない人が必要なことになっちゃうわけね。つまり、ただ毎日毎日とにかくポンプのように動いてなきゃいけない人がいなければ、その組織は動かないということになっちゃう。というのは、だから組織の中で変に役割分担を明快にしちゃうと、何か形を考える、何か金のことを考える。一方で、とにかく毎日何かをこいでなきゃいけない、そういう人も必要だということになってしまうんですよ。

 だから、役割分担を感じない、自分が生きるために、自分がそこに存在するために自然体でバックアップしてほしいと言うけれども、それはほんとうに理想であって、じゃ、嫌な部分、つらい部分はだれかに押しつけるということになりかねない考え方だと思うんですよ。だから、それは僕は気をつけたほうがいいなと。

 日本設計は昔どうだったかというと、実は組織ということを意識するもっと前には、実は僕は、今、山口君が言ったように、一人一人が心臓の役割をし、一人一人が足の役割をし、頭もやっていたという組織だったと思うんです。だから、おれはこういうことをやるから、この部分を専門的にやるからあとフォローしてくれというのは、非常に難しい。これをもしやるんだったら、じゃ、常に組織の中で分担をしているんだったら、常に、あんまりいい言い方はできないけれど、トリシンだけ書く人がいたり、寸法線だけ書く人がいたり、そういう人たちがやっぱりそこにちゃんといなければ、こういう一体的な組織というのはできないことになっちゃうから、それはどうかなというふうに、僕もいつもそう思うんですけれどね、役割分担を明確にして、僕はこれをやるから、あなたはこれをやってねというふうになれば、ほんとうに効率よく回るんじゃないかと、いつも組織論を話していると思うんだけど、一方でそこに陥る、あるいはそういう人が必要になっちゃう、そういう人がいなければ組織が成り立たないということに陥るなと。

 僕だってやはり設計事務所の中の建築のメンバーだから、どうしてもいわゆる器官の部分をやっているようなことで、それを補完してくれる準器官の人たちというのの存在というのをどう考えるかという話になっちゃうんだけれど、その部分が十分機能しなければ、我々は、じゃ、できないのかというようなことになっちゃうんですよね。そうじゃない、だから我々も準器官は要らないんじゃないかと、我々だけで全部やろうよと、日本設計という、設計事務所という組織を賄う業務を全部僕らでやろうよと、そうすればほんとうにもっと効率いいじゃないかというふうに果たしてなれるだろうかというようなこととか、何か理想的な組織論とか考えると、いつもそこに僕はぶち当たってしまう。

 結果的に、前はよかったねというのを何かと思って冷静に考えてみると、やはり一人一人がそれなりにできていた。社長が、副社長が言ったか知りませんけれども、ある程度できる人間が十人ぐらいいればいいというふうに言ったかもしれません。でも、それはね……。

【布野】 それは独立できる。

【三塩】 独立できる。それはだから建築というプロジェクトを、いわゆるアーキテクトとしてまとめる役割が……。

【布野】 社長が言ったんじゃない、正確に言うと副社長です。

【三塩】 アーキテクトとして看板になるような人がというふうに言うかもしれない。だけど、やはりそういう人をつくるんだったら、やっぱりそうじゃない役割の人というのがそこには必要だし、いわゆる主人がいれば番頭がいるしとか、何かそういう役割がちゃんとできる、そういう意識を持たないと組織が成り立たないという部分にまで来ちゃっているあたりが非常に、六百人、七百人の組織というのを考えたときに、僕はいつも突き当たる問題で、きょう別にそれの答えを出すわけでもないし、私の考え方を発表するわけでもないけれども、そこに常に陥るなということをいつも気にしています。

 じゃ、おまえ心臓の役目をやれって言われてやれるかということになるわけですよ。それなら、もし僕がそれをやる、あるいはそれを意気に感じるんであれば、もしかしたら僕は心臓の役割をするかもしれない。お互いにみんながそういうことを考えていけるか、あるいはそういうことをちゃんときちっと話し合えるかという組織であれば、まだいいだろう、まだ救えるだろうというふうに思います。

【垣口】 僕、別に、仮に分業して、私は設計だけをやっていきたいというイメージの、それ以外のことを一々言うなら……。

【松尾】 顔が違うぐらいのものですわ、肺と心臓というのは。

【垣口】 みんな、僕の例えで言えば、お父さん以下の子供というのは非現業の人もそうじゃない人も同じ子供たちで、子供たちは子供たちで自律してその部分、そういう中を組織的にやっていくということなんですね、僕のイメージでは。お父さんというのは何かというと、非常に強権というか、自分の理想というのがまずバシッとあれば、それを押しつけるようなお父さんであっては非常に困る。それが、今、日本設計がそうだと言っているんじゃなくて、そういうふうに、例えば大きな組織になればなるほど、それだけそれを束ねるお父さんというのはやっぱりいるのかいないのか、できなければならないのかそうでないのか、実は仕事をしていても、逆に、変な話、ISOとか、そういう組織だからこそとらざるを得ない組織の設計のスタイルというか、そういったものというのがほんとうに今後のうちがというか、個人、僕がやっていく上でほんとうにそれが必要なのかという、それがいいとか悪いとかは別にして、何かそういうところで逆に何か組織的なスタイルというのを決めつけるような、例えばISOですけれど、ISOだけじゃないですけれどね。そういったことがもしあれば、非常に嫌だなと。だから、それが具体的にどういうものかというのもわからないし、それが今あるということでもないんですけれど、ただ、自分が仕事をしていく上ではそういうふうに、どこへ行っても、どこの組織に行っても同じようにできるようなイメージというか、そういうスタイルというのはやっぱり持っておきたいし、例えば個人でやるにしても、それは個人でやるときに同じように持ちたいなというふうな理想というか、そういうイメージなんです。

 だから、ほんとうにセンターを引いていたいとか、CADだけやっていたいとか、そういう意味じゃ全然ないんです。

【松尾】 組織として私が言うたのも、体が強くなればなるほど、心臓が強くなればなるほど組織も強いし、肺が強くなればなるほど競泳でもオリンピックでも優勝できるわけですね。だから、強靱な組織をつくるためには、先ほど言われたように、個々人が非常に強くなると。消化器系も肺も気管器系も心臓もすべてが強くなって初めて血もよくなって循環するわけですよね。だから、そういうふうな組織が一番理想的であって。

【垣口】 子供は親がいないと育たないというんじゃなくて、子供は子供で非常に自律していれば育つんで、その子供たちがそれなりに手を取り合って、同じようにつくっていく。だから社員自体が会社のルールを決めていくというような、例えばですけれどね。比較的、日本設計というのはそういうスタイルだと思うんですね、今までの話というのは。だから、そういう意味で、それをこれからも崩さずに、それが理想になってやっていきたいなと。

【松尾】 多分同じことを言っているんですよ。

【布野】 こういうことを議論するような場ってあるんですか。

【種村】 必要やと思っているんです。(笑)こういうのは場を設定してではなくても、広い意味ではいつもあると思うんですよね。設計していて図面を見て、そこから発展してね。それが日常茶飯事的にやるものであって、さあ、集まってビールを飲みながらやりましょうかというような、酒の当てでしかないかなと思っているんですね。だから、ほんまはこういうことは必要なんでしょうね。

 それと、ちょっと最後に申し上げたい。もともとずっと私は個人で行ってたんで、安藤さんのところに行っていたんで、安藤さんから日本設計に来たときにカルチャーショックだったんですね。なぜならば安藤事務所というのは教えてくれるわけですね。間違ったことをするとどつかれるわけですよね。徹底的に教育されるわけですね。自分勝手なことをやったら怒られるわけですね。ここはどこの事務所やと言われるわけですね。そういうところから日本設計に来たときにもう百八十度違うところだったんですね。もう天国ですわ。どつかれることもないし、電話を一日中かけていても文句は言われない。安藤事務所で一分でもかけたらどつかれるというね、余計な電話を。

 そのときに、ある人が言ったんですね。要するに、あなたは逆にしんどいんですよと言われたんです、日本設計のある人から。つまり、日本設計というのはしんどいですよと。自分で考え、自分で行動せないかんということです。安藤事務所は、いてたら、奴隷のようにやっていたら、それなりに勉強にもなるし、そのままでもいけますね。それはある意味でええことなんですね。要するに、さっきの話になるけど、やっぱり自律なんですよね。「ジリツ」の「リツ」はどっちを書くかというと、「立つ」というのもあるかもしれんけれども、「律する」みたいにね。やはり、うちのあるべき、だから私は日本設計がそういう意味ですばらしいと思ったわけですね。相反するというか、そういう比較論からすると。要するに自分が出せるわけですわ。自分が施主のとこへ行って説得してくる。上からこのデザインをしなさいというのは言われないですね。そのかわり、自分で責任を持たなあかんね。そういう意味では、自分でいろんなことを考えますね。そういうことでは、日本設計というのはいろんな人がいてていいと。それは要するに会話をすると、アトリエではない、要するに意見を出せるわけですね。アトリエ事務所は自分の意見をあまり言えないですね。言ってはだめ。

 だから、そういう意味では日本設計のよさいうたら、いろんなキャラクターがいてて、ただ大きなところのビジョンはやっぱり欲しいんですね、組織として。つまり、日本設計というものを肩に着るんじゃなくて、背負えるぐらいの何か日本設計のよさ、社会に対して何かをしていると。それはそんなにはっきりしたものじゃないですよ。池田武邦が環境を守ると言うたって、環境の守り方はいろいろあります、人の解釈で。それを絶対、物を建てたらあかんみたいな、一つの答えしか出されんかったら困るわけです。

 だから、それをどうとらえるかいうのも、我々に許されたんですね。それは緩やかなビジョンみたいな。それがあれば、自覚、自律していれば、ちゃんと自分で回答を出していくわけですね。そういう組織がやっぱり強いんだと思うんですよね。右向け右と言われたって、あえて知っていて左を向くことがあるわけですね。それは意識を持って左を向くわけで、聞いていなかったから左を向いたんではないんですね。右向け言われて右向くこともある、上向くこともある。それはだからやっぱり自分でこうだと思うことを、やっぱり日ごろ持っていて、それでちゃんと自分の意思を持って、全体的にやっぱり緩やかな統一体みたいなのになれば、強い組織になるのかなという理想論なんですけれどね。

【布野】 何か社是みたいなのはありますかと言ったら、何か一応書いたものはあるとか。

【種村】 自主管理……。

【布野】 自主管理、みんなの会社、チームの……。でも、みんな大体の共通におっしゃるから、わりと普通に肌身についているというか、浸透しているというか、自律、自己管理、事故責任というようなことですよね。一応口だけかどうか知りませんけれど、トップもそういうことをおっしゃっていましたんで。

 そういう大組織ですけれど、いろいろ問題はあろうかと思いますけれど、何かの縁でこういうことになりまして、うまくまとめたいと思っていますし、多分、皆さんの顔写真が出るんだろうと思うんですけれど、期待していますんで、大いに頑張っていただきたいと思います。どうもきょうは貴重な時間をありがとうございました。

【森下】 きょうはありがとうございました、どうも。皆さんお疲れさまでございました、どうも。きょう、最後は組織論の格調高いというか、シリアスで結んでいただきまして、ほんとうにありがとうございました。

(午後五時三十五分閉会)



布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...