書評:西川祐子著、『住まいと家族をめぐる物語―――男の家、女の家、性別のない部屋』
「貧困の住まい」と家族の物語
布野修司
帯に「身近な住まいと街に刻まれた140年の日本近・現代史」とある。明治以降の日本の「住まいと家族をめぐる物語」を論じながら日本の近・現代史を照射するねらいが本書にはある。これまでの著書においても著者が一貫して追及してきたテーマである。ただ、本書はいささか「軽い」。
全体は一四章に分けられているが、丁度、半期の講義の一回一回のエッセンスをまとめる構えがとられており、実際、「ジェンダー文化論」の講義が元になっている。随所に講義の際のエピソード、発見が織り込まれており、臨場感がある。また、わかりやすく(「クリアー」)、一章一章が独立して、簡単に読める(速読できる)こと(「シンプル」)、そのことによって教室を社会に開く(「オープン」)ことが編集執筆方針である。「軽い」というのはそういう意味だ。
図式は、冒頭にそれこそ簡潔に示される。すなわち、家族モデルの旧二重構造(「家」家族/「家庭」家族)→新二重構造(「家庭」家族/個人):住まいモデルの旧二重構造(「いろり端のある家」/「茶の間のある家」)→新二重構造(「リビングのある家」/「ワンルーム」)というのが見取図である。「男の家」→「女の家」→「性別のない部屋」という単線的なわかりやすい歴史図式をもう少し構造的に捉えるのが味噌である。
さらっと読んでつくづく思うのは、日本の住まいと家族のあり方が実に画一的で多様性に欠けること、実に貧困なことである。とりわけ、住まい(空間、容器)の貧困は覆うべくもない。「空間の論理」に拘る建築家、上野千鶴子のいうところの「空間帝国主義者」にとっては考えさせられる多くの内容を本書は含んでいる。
ただ、いささか不満が残るとすれば、やはり、その図式の単純さに原因があると思う。それは著者自身が充分意識するところでもある。
第一に、住宅の地域性についての記述が薄い。「農家」住宅に存続し続けてきた「続き間」の問題など、都市と農村の住まいの二重構造、大都市のみならず地方都市における住まいのヴァリエーションは、同じように構造的に見ておくべきであろう。
第二に、住まいの集合形式についての視点が希薄である。長屋形式について一章割かれているが、他の考察はほとんど一戸の住戸(の間取り)に集中している。団地あるいはニュータウンなど、画一的な標準住居nLDKを単に並べ、重ねるだけの集合形式だけが問題にされているように見える。同潤会のアパートメントハウスなど、日本の集合住宅の歴史にはもう少し多様な展開の萌芽と可能性はなかったか。少なくとも、本書からは、街区や街の多様なありようが見えて来ない。
第三に、住まいという容器(空間)の生産―量と供給の論理―という視点が必ずしもはっきりしない。景気対策としての住宅金融政策には触れられるけれど、いわゆるプレファブ住宅、「商品住宅」は真正面から取り上げられない。日本の住居がかくも画一的であるのは、住宅生産の産業化の進展が決定的である。日本の住居史として、決定的な閾となるのは、一九六〇年代の一〇年である。一九五九年に日本に初めてプレファブ住宅(ミゼットハウス)が誕生する。そして、一〇年後に一〇パーセント近いシェアを占めるに至り、住宅産業が成立する。最も象徴的なのはアルミサッシュの普及である。この十年でゼロからほぼ百パーセントに至る。要するに、住宅の気密化によって空調によって室内気候が制御されるようになった。そして、日本列島から茅(藁)葺き屋根が消えた。この十年は有史以来の日本の住居の大転換期である。もうひとつの閾となるのは、一九八五年である。この年、年間新築戸数(フロー)のうち借家が持家を超えた。集合住宅が賃貸住宅を超えた。木造住宅が五割を切った。すなわち、資産を持たないものが手に入れることが出来る住居は、賃貸の非木造の集合住宅となって久しいのである。
日本の住まいは以上のように、地域性の論理、集合の論理、多様性の論理、歴史の論理・・・を欠いてきた。それ故、その近・現代史は一葉のマトリックスに収まってしまう、本書の主張はそういうことであろう。
それでは、「性別のない部屋」にまで還元された日本の住まいのこれからはどのように展望されるのか。「他人の記憶の形象」、「地球の裏側の親戚」などいくつかキーワードが匂わされるが、何故、そうなのかはクリアーではない。その方向は本書の整理の延長には無いのではなかろうか。