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2025年11月17日月曜日

承徳:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

承徳:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


J05 熱河避暑山荘―五族協和の陪都

承徳Chengde,河北省Hebei Province,中華人民共和国People's Republic of China

承徳は、北京の北東約350Kmに位置する。内モンゴル高原の南端から燕山山脈へ移行する標高13001500mの山地にあって、年間平均気温は摂氏15.6度の温暖な気候にある。今日の承徳の起源となるのは、清朝第3代皇帝康熙帝による、1703 (康熙42)年に開始された熱河行宮(避暑山荘)の造営である。

清朝の太祖ヌルハチが満州国を樹立するのは1588年であり、第3代順治帝が入関、北京へ遷都する以前に都としたのは盛京であり、遷都以降は陪都として整備される。外城を建設したのは第4代康熙帝であり、宮殿群を整備したのは第6代乾隆帝である。ただ、いずれも60年に及ぶ在位のうち、盛京へ東巡したのは、康熙帝は3度、乾隆帝は4度にすぎない。

頻繁に利用したのは「避暑山荘」と呼んだ承徳である。この後承徳は清朝の夏の宮殿として陪都的な役割を持つようになる。

 承徳の建設は、康熙帝および乾隆帝によって1703年から1792年にかけて建設された。康熙帝は、「朕は万里の長城は築かない。民族融和を実現し、万里の長城を無用物にする」と言い、「避暑山荘」の周囲に、多くの廟や寺院の建設を開始される。周囲に様々な多民族を住まわせることで民族融和の都を建設しようとしたとされる。乾隆帝によって拡充されたのが現在の承徳で、「避暑山荘」は中国に現在残っている宮廷庭園のなかで最大のものである(図1)。

 乾隆帝は、満族・蒙古族・チベット族・回族・ウィグル族などの壮大な寺院を次々と建立する。「外八廟」と呼ばれるその寺院群は、普陀宗乗之廟、溥仁寺、溥善寺、普寧寺、普楽寺、安遠廟、普祐寺、広縁寺、須弥山福寿之廟、普陀宗乗之廟、広安寺、羅漢堂、殊像寺など8廟にとどまらない。

 普陀宗乗之廟(図2abc)は乾隆帝の還暦60歳と皇太后80歳を祝賀し、少数民族の王侯貴族を招くために4年をかけて建造されたものである(乾隆3236年(17671771年))。普陀宗乘はポタラの漢訳、モデルとしたのはラサのポタラ宮であり、小ボタラ宮とも呼ばれる。普陀宗乗之廟の白台、山門、碑亭などは山麓に建てられ、大紅台や屋敷は山の頂上に建てられている。建築群は、山門、碑亭、五塔門、瑠璃牌坊など、大小さまざまである。廟内には『普陀宗乘之廟碑記』『土尓扈特全部帰順記』『優恤土尓扈特部衆記』の満州文字、漢字、モンゴル文字、チベット文字による碑文が置かれている。

 「外八廟」は初期に建てられた溥仁寺と溥善寺以外はすべてチベット様式で建てられている。普寧寺は、乾隆帝が承徳に建立した最初の寺院で、別名、大仏寺ともいう(乾隆20年(1755年))。山門、碑、亭、鐘楼、鼓楼、天王殿、大雄宝殿は漢民族様式で、他は、チベットにある三摩耶廟に模して作られている。大乗之閣(図3)は、高さ9メートルの須彌壇の上に建っており、その両側には、18の高さが異なる仏教建築が「曼陀羅」形に配置されている。

 普楽寺は、避暑山荘の東側を流れる武烈河の対岸に建てられ、その中心は、乾隆31年(1766年)に建造された旭光閣である(図4)。円形の形をした旭光閣は、瑠璃瓦の屋根が2つに重なり、先がとがっている。北京の天壇の祈年殿を模して建てられ、「円亭子」とも呼ばれている。

 清末のアロー戦争で、北京が英仏連合軍に占領されると、咸豊帝は避暑山荘に逃亡し、急逝している。戦争は英仏遠征軍司令官と恭親王との間で北京条約が締結されることによって終結するが、清朝は衰退していくことになる。

 承徳は、『周易』の「幹文用誉承以徳也」による命名であるが、温泉が出ることから熱河とも呼ばれてきた。雍正元(1723)年には熱河庁が設置されている。中華民国が成立すると府制廃止に伴い承徳県と改称するが、後には熱河特別区、熱河省が設けられる。1993年には関東軍による熱河侵攻作戦が行われ、承徳は関東軍に占領された。第二次世界大戦後、1956年に熱河省は廃止され、以降、河北省に所属する。

 河北省は、戦後、エネルギー産業、鉄鋼産業が発達し、一方、中国でも重要な綿花と小麦の産地である。華北でも長い海岸線を持ち。交通の便も良い。豊富な鉄鋼資源と石炭加工業が発達し、邯鄲鉄鋼総廠は近代的製鉄所として注目されている。1970年代採掘が始まった華北油田は石油採掘量は天津の大港油田を上回り、華北では最大、全国でも5番目の油田である。

 承徳の「避暑山荘」と「外八廟」は、1994年にユネスコの世界文化遺産に登録されている(図5)。                      (望月雄馬+布野修司)

 

【参考文献(分量外)】

『中華人民共和国分省地図集』地図出版社、197410月第一版

莫邦富『中国ハンドブック』三省堂、1996715日 第一版

五十嵐牧太 『熱河古蹟と西藏藝術』1982年に第一書房で復刻、1936年から4年間の調査記録

『ヘディン探検紀行全集 11 熱河 皇帝の都』 白水社1980年。








2025年11月16日日曜日

広州:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 広州:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

J17 中国世界の海の窓口 西洋と東洋を繋いだ交易都市

広州Guangzhou広東省Guangdong中華人民共和国Peoples Republic of China


珠江の三角州地帯に位置する広州は、古来、海外交易の港市として知られる。

秦代以前の広東は南越(粤)と称したが、秦の始皇帝は、南越を征服(紀元前224年)すると、この地を桂林、南海(広州市近郊)、象(南寧)の三郡に分け、行政地を番禺(広州市近郊)に置いた。

南越と中原との間には武夷山脈が立ちはだかり、物資の運搬・調達や軍の往来に不便なため、広州から灕水、湘水を経て長江に通じ、長江の武漢から伸びる漢水、丹水を北上して長安に達する運河(霊渠)を築く。この霊渠は南方と北方間の貴重な内陸交通路となり、広州の都市発展の基盤となる。始皇帝の死後、趙佗が独立国を宣言し南越城(趙佗城)を築く。後漢になると西域との交易も盛んになり、物資はインド洋を通り越南(ヴェトナム)に上陸したのち番禺に運ばれていた。

 唐朝が崩壊すると、その混乱に乗じて「南漢」が成立する(917年)。その官庁区は現在の財政庁の位置にあり、隋代には刺史署、唐代には都府が置かれていた。大食街(現在の恵福路)以南に主要な商業区があった。現在の紙行路、米市路、白米巷、木排頭、絨線街、梳箆街である。これらの商業区では、米、天秤、丸太、竹細工、紙、絹糸、伝統手工芸品などが取り扱われていた。

唐代にアラブやペルシャの商人が城の西側に寓居の建設を許されると「蕃坊」と呼ばれる居住地が形成される。現在の中山路の南、人民路の東、大徳路の北、開放路の西である。「蕃坊」の居住者の大半はイスラム教徒であった。「蕃坊」にはモスク懐聖寺と光塔(627年)が築かれた (図①)。

宋朝になると外国貿易を管理する市舶司が置かれる(971年)。沿江および西部地区に商業居住区ができ、広州は物産が集積流通する一大拠点となった。広州城は子城(中城)、東城、西城と拡張が繰り返されていった。1044年に拡大建設が始まり、完成するのは1208年である。

元代の広州は、交易港としての地位を継承するが、その繁栄の一部は福建の泉州港に奪われるようになる。

 明朝は海禁政策を採る(1370年)が、寧波、泉州、広州の3港に限って朝貢貿易を許可する。広州には市舶司が置かれ(1403年)「蕃商」が建設される。この「蕃商」は清代の「広東十三夷館」の前身である。 明代の広州城は、北の山麓(現在の越秀山の一部)に城壁を拡大し、宋代の東、中(南城)、西の三城は連接された。これを「旧城」または「老城」という。1564年に、現在の越秀南路から万福路を通り、泰康路、一徳路を経て、西の人民路の太平門にいたる新城が増築される。そして、東の「清水豪」から南の「城南豪畔街」にかけて、外国商船が常時停泊する時代となる。1517年のポルトガルの来航以降、スペイン、オランダ、フランス、イギリスが相次いで中国貿易を求めてくる。解禁が解かれるのは清代の1684年で、広州、漳州、寧波、雲台山(江蘇・浙江・福建・広東にそれぞれ江海関・浙海関・閩海関・粤海関の4港)を開き、広州には現在の文化公園あたりに粤海関(税関)が置かれた。

対外貿易を仕切ったのが「官商」と呼ばれる特許商人で、その商店を「牙行」「官行」などと称した。解禁直後の1686年に、外国商人と十三の行商からなる「十三行」と称される中国特許商人は、広州城の南西に位置する十三行通りの南側、文化公園から珠江までの一帯に外国人商館「広東十三夷館」と十三行舎を建設する(図③)。 広東十三夷館は2階建てで連続長屋の形態をなし、1階が事務所室と倉庫、2階がベランダである住居となっている。当時の東南アジアで流行したバンガロー形式の建物である。

18世紀半ば、乾隆帝は、西洋人の頻繁な来訪を制限するため鎖国令を発布し(1759年)、アヘン戦争が終焉する1847年まで、海外貿易の権利を広州の貿易商のみに与えた。広州はますます特権的な都市となる。

海外交易のための港や商館は、広州城の正門外側すなわち西関に置かれるようになり、西関では徐々に下町が形成されていった。西関は宋代より商業の町として徐々に発展し、海禁政策とともに急激な発達をみせた。19世紀後半になると、もともと湿地であった西関の西部が開拓され、そこで富裕層が豪邸を築き始めた。伝統的な四合院住宅は西関大屋と呼ばれる。

しかし、西欧列強の進出によって広州は激動の時代を迎えることになった。アロー戦争(1856~1860)の際に焼失した夷館に代わって、広州の西側の珠江に面する楕円形の砂州を租借し、租界を建設する。この砂州を沙面という。1852年までは中国最大の輸出港として君臨してきたものの、それ以降は上海や香港にトップの座を譲り渡すことになる。

1911年に中華民国が成立すると、広州都督は城壁を解体して近代道路の建設と既存道路の拡幅を実施するため工務司を置く。城壁解体の土砂や磚石は、道路の路盤として利用し、残った瓦礫は東の東岡一帯、西の広三鉄道の黄沙駅から西村駅にかけての新開拓地の埋め立てに利用した。1938年に日本軍が広州を占領、西堤商業区、海珠工場一帯の民居を破壊し、広州の経済は一時期停滞する。

中華人民共和国が成立すると、第一次五カ年計画(19531957年)でその方針が示され、広州は工業都市に転じて急速に発展を遂げた。1980年になると、造船、機械、電子、化学工業といった重化学工業へ転換がなされる。1985年に「長江三角州」と「閩南三角州」とともに「珠江三角州」が経済特区に指定され、広州は上海に並ぶ一大メトロポリスとなる。

広州には、西関大屋区中心に、西関大屋竹筒屋(図④)、騎楼の3種類の伝統住居が存在してきたが、いずれも大きく変容しつつある

図④

 

 

主要参考文献

河合洋尚『景観人類学の課題 中国広州における都市環境の表象と再生』風響社、2013

田中重光『近代・中国の都市と建築 広州・黄埔・上海・南京・武漢・重慶・台北』相模書房、2005

周霞『広州城市形態演進』中国建築工業出版社、2005

三橋伸夫、小西敏正、黎庶施、本庄宏行『中国広州市騎楼街区における保全的再生策の動向と住民意識』日本建築学会技術報告集 18(39)639-6442012.6

 


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...