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2025年12月8日月曜日

モスクワ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 モスクワ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


F03 帝国と社会主義が残る都市

モスクワ Moscow,モスクワ州 Moscow,ロシア連邦 Russian Federation


モスクワはロシア連邦の首都で、国土の広いロシアの中では西側に位置する。

面積は2511平方km、人口はヨーロッパ最大の115万人であり、欧州一の人口を持つ大都市かつ多民族都市として発展している。

さらに、ロシア国内最大の行政・政治・産業・科学・文化の中心地としても知られている。民族構成としてはロシア人が多数を占め、ウクライナ人、スラブ人、ユダヤ人、アルメニア人などが居住している。

モスクワの都市の骨格は、モスクワリングと呼ばれており「クレムリン」を中心とする同心円上に広がる環状道路が担っている。環状道路は過去に城塞都市であったため要塞、外壁、主要街道に沿って建設された郊外の出城などが、遊歩道または街道へと変化しているもので今日のモスクワの都市骨格を担っている。主要な街道の例を挙げると、ブーリヴァール環状道路、サドヴォエ環状道路が挙げられる(図1)。そのため、モスクワの都市発展はクレムリンを中心とする地区から放射円状に外へと発展している。ロシア革命以後の都市開発により、モスクワは図1に見られるような都市骨格へと変化している。

都市形成史を紐解くと、モスクワという名称の都市が史上初めて使用されたのはロシア最古の年代記とされる「イパーチイ年代紀」の一説であるとされている。その一説には1147年に行われたキエフ大公国の王位をめぐる内紛の会談がモスクワ中心部の砦で行われたと記されている。最近の考古学的調査では1147年以前には防備集落があったといわれている。

モスクワの都市としての記録は12世紀半ばにキエフ大公国ユーリー・ドゴルスキー公によって木製の城壁と濠を建設したところから始まる。だがモンゴル帝国の侵略によって初期の都市の面影はのこっていない。

現代のモスクワの都市骨格が形成されたのは、モスクワ大公国設立の13世紀後半頃と考えられている。1263年にモスクワ大公国の首都に制定された際、モスクワは皇帝の居住地である「クレムリン」を中心とする要塞都市として建設された。以降モスクワは2度都市形成の転機を迎えている。

一度目は15世紀以降、統一ロシア国の首都に制定された頃とされ、都市として安定的に繁栄し、16世紀にはロンドン、パリにと肩を並べるほどの大都市として発展をした(2)。二度目はロシア革命が行われた際、サンクトペテルブルグ(当時:ペテルブルグ)から遷都した頃(1917年から1918年であり、革命と内乱終結後に行われ、1935年には総合計画(図3)、1960年には新総合計画、1971年にはモスクワ発展総合計画(4)が策定されている。これらの計画は、市 街地・グリーンベルト(森林地帯)・衛星都市群の3都市圏で都市を構成する計画で、1930年代のイギリスで行われていた都市計画理念を踏襲したもの だと考えられる。

現代のモスクワは旧ソ連での社会主義原則に基づく都市形成が基準となっている。道路計画としては、クレムリンを始点とする主要幹線道路が放射状に延び、クレムリンを中心とする環状道路に接続する計画となっている。このような環状道路網を「モスクワリング」と呼称されている。

モスクワの中心地「クレムリン(кремль)」は、「古代ロシア都市内部の城塞、城」という意味で、ロシア帝国時代は王宮、ソ連時代は共産党中枢機関、ロシア連邦では大統領府が置かれている街の名前のことである。地区には百貨店、博物館、劇場、教会など住民が使用する商業・公共施設が配置されている。

 モスクワは集合住宅が多く、多くの住民はモスクワ環状自動車道(MCRH)の内側に居住している。そのためモスクワ市内の人口密度はかなり高い。

  

参考文献

土岐寛「モスクワ市政と都市計画」『都市問題』 第77111986

木村浩「モスクワ」文藝春秋 1992

「モスクワ発展総合計画」『近代建築』1986年 1








 


2025年12月7日日曜日

リヴィウ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

リヴィウ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


F02 多民族が磨いた東欧の真珠

リヴィウ(リヴォフ)、Lviv、ウクライナ Ukraina 


リヴィウはウクライナ西部の州であり、州都の名もリヴィウである。現在、キエフに次ぐウクライナの中央都市である。

地形的には、北にヴォルイニ丘陵、南にはカルパート山脈に挟まれており、変化ある地形に富んでいる。また、丘陵山地が州の中央を横断しており、これが分水嶺を形成している。この丘陵地の北の平原部には、バルト海へ繋がる西ブーフ川とプリーピャチ・ドニプロー川水系で、南側の平原は黒海へ繋がるドニエステル川水系となっている。リヴィウの気候は、温帯大陸性で年間降水量が700mm-1000mmであり、ウクライナ国内では水資源の豊富な地域となっている。そのため、リヴィウの中部より南には森林ステップが広がっている。

歴史的には、リヴィウ州域はモラヴィア王国滅亡後、12世紀までキエフ大公国の一部であった。その後、キエフ大公国が分裂し、リヴィウの西部はペレムイシュリ公国、東部はズヴェニーホロド公国、北部と中部はヴォロディーミル・ヴォインスキー公国の一部となった。その後、ハーリチ公国領、ハーリチ・ヴォイルニ公国領となる。都市としてのリヴィウはこの時代から重要な交易地として、ハーリチ・ヴォルイニ年代記では1256年に初出する。リヴィウという名前は、クニャージホラー(クニャージの山という意味で現代のヴィソーキイ・ザーモクにあたる)に要塞を建設したハーリチ・ヴォイルニ公国王のダニイロ・ロマーノヴィチ・ハーリツキー公が自身の息子であるレフにちなんで命名されたことが由来する。そのレフ・ダニイロヴィチの治世にリヴィウはハーリチ・ヴォルイニ公国の首都となった。14世紀中ごろから、リヴィウはポーランド王国の支配下に置かれる。1356年にマクデブルク都市法が制定され、ドイツ人商人が多く流れ込んだため、リヴィウの現代の街並みにドイツ的性格が形成される。ここから1434年から1772年にわたって、ポーランド王国のルーシ県の県庁所在地となった。15世紀までは主にドイツ人によって市政や司法が行われていたが、16世紀以降は住民の多くはポーランド化していった。1772年の第一次ポーランド分割によりオーストリア帝国に併合され、帝国の北東部にあたるガリツィア・ロドメリア王国の首都となる。ウクライナのほかの地域はロシア帝国の支配下にあり、ウクライナ語に対する弾圧が強かった。しかし、政治、文化的自由の享受されたオーストリア帝国のハプスブルク治下であったリヴィウはウクライナの民族運動が起こった。そのため、リヴィウではウクライナ語の出版物が活発に行われていた。このような背景をもとに、リヴィウはポーランド、ウクライナ文化の中心地として大きな存在となる。ロシア革命の後、西ウクライナ人民共和国が1918年に誕生し、リヴィウを首都に定めたが短命に終わる。その後、リヴィウは再びポーランド領となる。1939年には独ソ不可侵条約によって、ソヴィエト連邦ウクライナ領に編入されたが、第二次世界大戦中にドイツ軍によってリヴィウは制圧される。ナチス・ドイツ支配下ではポーランド総督府レンベルク県の県庁所在地となるが、第二次世界大戦後にウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の領土とされた。その後、1991年のソ連崩壊によって、リヴィウは独立したウクライナの都市となる。

このような戦争の続いたリヴィウだが、その歴史地区は奇跡的に戦火を免れた。様々な国の伝統が融合したこの地区は1998年に「リヴィウ歴史地区」として世界文化遺産に登録された。この歴史地区に存在する中世から近世にかけて作られた石造りの美しい街並みはヨーロッパの真珠と呼ばれる。様々なヨーロッパ諸国の文化伝統を残したこの場所はリヴィウの歴史を反映している。現在においてもリヴィウは交通網が発達し、ウクライナと世界を結ぶ国際的な交易ルートの要としてその役割を果たしている。

参考文献

竹内啓一ほか(2016,『世界地名大辞典6 ヨーロッパ・ロシアⅢ』, 朝倉書店

古田陽久+古田真美(2000), 『世界遺産ガイド-北欧・東欧・CIS編』

風早健史(2013, 『全部わかる世界遺産〈上〉ヨーロッパ/アフリカ』, 成美堂出版

伊東孝之ほか(1998, 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』, 山川出版社

臼杵陽(2009)『イスラエル』 岩波書店

笈川博一(2010)『物語 エルサレムの歴史』 中央公論新社







 


2025年12月6日土曜日

ワルシャワ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 ワルシャワ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


 E25  再現都市

ワルシャワWarsaw,マゾフシェ Masovia県,首都、ポーランド共和国 Republic of Poland


 ワルシャワは、第二次世界大戦末期に壊滅的な破壊を受けた都市である。そして、戦後、市民によって「壁のひび一本に至るまで」忠実に再現された、実にユニークな都市である。

 1939年にナチス・ドイツがポーランドへ侵攻、ワルシャワはドイツ軍の空襲に晒され、その占領下におかれた。ポーランド政府は、パリ次いでロンドンを拠点として抵抗運動を開始するが、ワルシャワ市内のユダヤ人はワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人居住区)へ集められ、国内の絶滅収容所(アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所)に送られた。そして、19448月のワルシャワ蜂起は、63日の戦闘の末ドイツ軍によって鎮圧され、多数の市民が殺戮され、市内の建物のほとんど85%が破壊された(図1)。

 その後、ソ連がドイツ軍を排除し、その解体(1989年)まで、ポーランドは衛星国家となるのであるが、ワルシャワ北部の旧市街スタレ・ミアストStare Miastoとその北に隣接する新市街ノウェ・ミアストNowe Miastoは、以前の姿に忠実に再現された。再利用できる建築要素はもともとあった場所に用いられた。もともとの建物に使用された煉瓦はできるだけ再利用された。煉瓦は潰してふるいにかけられ、再生可能なのである。何故、こうした忠実な復元が可能になったかと言えば、18世紀の画家ベルナルド・ベッロットが描いたヴェドゥータ(都市風景画)が残されていたからである(図2)。また、第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期にワルシャワ工科大学の建築学科の学生が描いた写生画も資料とされた(図3ab)。

 ワルシャワ市民は、廃墟と化した市街地をソヴィエト流の社会主義都市計画による新たな都市に作り替える計画を拒否し、「意図と目的をもって破壊された街並みは意図と目的をもって復興させなければならない」という信念と「失われたものの復興は未来への責任である」という理念の下に復元するのである。

 ワルシャワの起源は9世紀頃に遡り、要塞化した集落が存在したとされるが、その名が史料に現れるのは1285年で、当時のワルシャワは、マゾフシェ公爵領に属する漁業を主とする寒村であったとされる。その後、マゾフシェ地方はポーランド王国に編入され、16世紀末にジグムントⅢ世がポーランド王宮をクラクフよりワルシャワに移転、1611年にワルシャワは正式にポーランド・リトアニア共和国の首都となる。

 ポーランド・リトアニア共和国(15691795)は1617世紀のヨーロッパ世界において、オスマン帝国に次ぐ広範な領土を支配した国であった。16世紀は、ポーランドの黄金の時代とされる。ヤギェウォ朝(13861572)の王家は、イタリアの諸都市と親しく交流して、後期ルネサンスの影響を大きく受けた。クラクフの街の建築群がイタリアとの関係を示しているが、1543年に地動説を唱えたN.コペルニクスが学んだのもクラクフ大学である。

 しかし、18世紀末に至ってポーランド・リトアニア共和国は消滅することになる。3次にわたって、周辺の強国、ブランデンブルグ・プロイセン、帝政ロシア、ハプスブルグ帝国によって分割されるのである。1795年の第3次ポーランド分割でプロイセン領に組み込まれ、1807年にナポレオンがワルシャワ公国を建てるが、ロシア皇帝アレクサンドルⅠ世がポーランド国王の座につくことになる。

 独立を喪失してから、ワルシャワは繰り返し、ポーランド国家再興運動の中心地となるが、ロシアによって制圧される。ポーランドが独立を回復し、ワルシャワが再び首都となるのは、第一次大戦後のパリ講和会議においてである。しかし、真の独立を達成するのはソ連邦の解体を待たねばならなかったのである。

 ワルシャワは、市内を流れるヴィスワ川の中流域に位置する。標高100mほどの平地で、ヴィスワ川は、北北西に向かって流れ、約350km先の港湾都市グダニスク(ダンツィヒ)でバルト海に注ぐ。ヴィスワ川は大きく時計回りに湾曲してクラクフに至る。

 ヴィスワ川西岸に接するように位置する王宮を中心とする旧市街スタレ・ミアストは1611年のワルシャワ遷都以前に形成された市街地であり、その北に隣接する新市街ノウェ・ミアストは、1611年に市街地となった地区である。また、中心市街地(シルドミェシチェは、18世紀以降、主として共産主義時代に開発された地区である(図4)。

 戦前期からのオフィス街とユダヤ人住宅街(ケッヒラー)の一部がその主要部を占める。第二次世界大戦中に、ナチスがユダヤ人地区にワルシャワ・ゲットーを設置したが、戦争末期に破壊されている。現在は、ワルシャワ中央駅、文化科学宮殿など、近代的な高層ビルが建つ。

 スタレ・ミアスト、ノウェ・ミアスト、クラクフ郊外通り、新世界通りおよびワルシャワ市内に点在する複数の宮殿群を含むワルシャワ歴史地区は1980年ユネスコの世界遺産に登録され、2011年には再建に用いられた資料(再建局管理文書)もユネスコ記憶遺産に登録された。

 

【参考文献】

UNESCO/World Heritage Center/Warsaw Heritage Center

UNESCO/World Heritage Center/Warsaw Heritage Center & NHK


1

2

3ab

4 ワルシャワ1914

Old map of Warsaw (Warszawa) vicinity in Poland by Wagner & Debes, Leipzig

 

 


2025年12月5日金曜日

クラクフ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 クラクフ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


E23 北方ルネサンスの古都

クラクフ Kraków,マウォポルスカ県Województwo małopolskie,ポーランド共和国 Rzeczpospolita Polska

 

 


 ポーランド王国(1038頃~1569)の首都として知られるクラクフの起源は10世紀に遡る。グロッドgrod(城塞)的な城壁で囲われた集落遺構が発掘されたヴィスラ河上流左岸のヴァヴェルの丘が発祥地とされている。11世紀に王宮が移されて首都となると、急速に都市形成が行われた。司教座が置かれ、ヴァーヴェルの丘のサン・ミシェル教会を始め多くの教会が建設されるが、ほとんどが13世紀までの建設であるとされる。

東ヨーロッパの都市の形成は、グロッドと呼ばれる防御壁で囲われる都市核ができる段階、それに教会地区や商人地区が加わる段階、そして、都市法によって市制が整備される段階に分けられるが、クラクフはこの3段階目の典型だとされる。1257年にクラクフは市の権利を授与され、旧市街に残っている中央広場や街並も作られた。中央広場は中世都市の広場としては最大規模のもので(約40,000㎡)、中央にスキェンニツェ(織物会館)、西南脇には旧市庁舎の時計塔、南側には聖ヴォイチェフ協会がある。また、13世紀から15世紀にかけて、ヴァヴェル城を中心として当時の城を取り囲んだレンガや石造りの城壁が建設されている。

モンゴル(タタール)の襲撃によって破壊されるが、14世紀に入るとカジミェシュⅢ世(大王)(13331370)の下でクラクフは最盛期を迎える。ヨーロッパの人口が半減したとされる黒死病(134849)の流行時もポーランドは影響を受けていない。黒死病蔓延の元凶とされたユダヤ人が大量に流入したのもクラクフの繁栄につながる。カジミェシュ大王は積極的にユダヤ人を招き入れ、当時ヴィスラ川の中州であった土地自治区として提供した。ユダヤ人たちが豊かになるにつれて自治区は対岸にも広がってい

 大王は、ヴァヴェル城や街並みを形成する建築物をゴシック様式に改築し、また、ポーランド最古の大学となるヤギェウォ大学(クラクフ大学)を創設している(1364年)。コペルニクスが通うことになるこのヤゲェウォ大学は多くの優れた卒業生を世に送っているが、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世も入学しており、以来半生をクラクフで送っている。

続くヤゲェウォ王朝(13861586)に、ポーランド王国は全盛期を迎えるが、ジグムントⅠ世(150648)は、イタリア人建築家バルトロメオ・ベレッチを登用して、ヴァヴェル城内の大聖堂に金色のドームを戴くジグムント礼拝堂を建立する。その当時のルネッサンス建築が現在もなお多く残っている。ポーランド王国は、ヴェネツィアと国境を接しており、ルネサンスの文化、芸術は共有されていたと言っていい。ジグムント・ヴァザⅢ世の時代はバロック文化が普及する。

 ヤゲェウォ王朝が断絶すると、王権の弱体化が進み、1609年にジグムント・ヴァザⅢ世は首都をクラクフからワルシャワに遷す。そして、17世紀前半の30年戦争、18世紀前半の大北方戦争で国土は荒廃し、18世紀後半には3度のポーランド分割によってオーストリア領となった。その後、1809年にワルシャワ公国に入り、1815年のウィーン会議に基づいて、様々な自治権を回復していくことになる。そして、クラクフは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ポーランド文化振興の中心地として重要な役割を果たしたとされる。第一次世界大戦後にポーランドが独立を果たすが、第二次世界大戦時にドイツ軍の占領を受けた。ヴィスワ川対岸にあるポドグジェ地区にクラクフ・ゲットーが造られた。クラクフの歴史上、ポーランド国内でも多くのユダヤ人がが居住し、ホロコーストを逃れるため、ユダヤ人はアメリカ合衆国やイスラエルなどへ移住した。現代のカジミェシュ地区では毎年7月初旬、ユダヤ人による「シャローム」祭が開催される。

クラクフが世界文化遺産に登録されたのは、制度創設初年度の1978年である。


図1 クラクフ

(http://www.discusmedia.com/maps/polish_city_maps/3606/

 

【参考文献】

ノーウィッチ、ジョン・ジュリアス(2016)『世界の歴史都市』福井正子訳、柊風社(Norwich, John Julius(2009), “Great Cities in History”, Thames & Hudson)。

伊東孝之、井内敏夫、中井和夫『新版 世界各国史 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1998

瀬原義生(1993)『ドイツ中世都市の起源』未来社

沼野充義『読んで旅する世界の歴史と文化中欧 ポーランド・チェコスロヴァキア・ハンガリー』新潮社、1996

ポドレツキ・ヤヌシ『クラクフ:バベル城・旧市街・カジミェシ地区:ポドレツキ・ヤヌシの写真100選』Wydawnictowo”Karpaty”-Andrzej Laczynski1995

 

 


2025年12月4日木曜日

グダニスク:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

グダニスク:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


E24歴史に翻弄される自由都市

グダンニク Gdańsk, ポメラニア Pomeranian, ポーランド Poland

 

 

 

 

 


グダニスク(ドイツ語名ダンツィヒ)における定住を始めたのはゴート族や古プロイセン人であり、その後、79世紀にスラブ人が定住した。979年にはスラブ人のポーランド公ミェシュコ一世は、モトワヴァ川がヴィスワ川に合流するところに小島の砦と集落を置き、土盛りと木杭による二重の防塁を築いた。西に続く集落は後に「古都市」(スタレ・ミャスト)に発達する。

ポーランドにおけるスラブ人の支配は不安定な状況が続く。しかし、リューベックとヴィスビューの間にあり、さらにはノヴゴロドまで至るバルト海交易の中継地としての地理的条件から、各地の商人が移住してきて、グダニスクは交易都市として生長する。核をなす「主都市」(グウォヴニ・ミャスト)地区は、1224年にリューベック都市法を採用し、自治権を得る。

1226年、ポーランド王は古プロイセン人をキリスト教化すべく、ハンガリー地域にいたドイツ騎士団を呼び寄せた。ドイツ騎士団はグダニスクの約50km東にマルボルク城を建設して拠点とし、布教活動を展開する。1308年にはブランデンブルク辺境伯がドイツ地域から侵攻し、ポーランド王が騎士団に助けを請うたのを契機に、騎士団が強引にポメラニア地方を支配することとなる。グダニスク市民は抵抗したが、成功しない。1343年には騎士団のもとにクルム都市法に転換させられるが、市長と参事会を選ぶ権利を獲得する。1361年にはハンザ同盟に加わる(同盟が解消される1661年まで)。騎士団は商業活動を支援し、経済発展はさせたが、都市の自治は制限した。

スラブ人の築いていた木と土の砦は騎士団によって煉瓦造の強固な城に改造され、その西にオシェク地区のやや複雑な市街が形成された。その際に「古都市」地区にあった初期の市街地は壊される。

「主都市」はバルト海からヴィスワ川を遡ってモトワヴァ川へと入る交易船の港町として、川岸を船着き場とするグリッドプランで計画される。それは、1340年頃にマリア教会堂が今日見られるように大規模に改築されてゆき、歪みを生じる。 東西に走る主軸ドゥーガ(長い)通りの中ほどには市庁舎が建つが、ここから東側が幅広くなり、街路型市場広場のドゥーギ・タルク(長い市場)となる。川辺に出る「緑の門」までの細長い広場には、破風付きの都市建築が密に並んで濃密な都市空間が形づくられた。市域は二重の濠で囲まれ、ドゥーガ通り西端には三連の門を持つ都市門が築かれたが、後に凱旋門が追加され、華麗な歴史的文化財となって残る。中央に聳える「囚人塔」の複合建築は赤い煉瓦壁を見せ、中世、近世の地域伝統の建築装飾をまとう。市街地内の各街路がモトワヴァ河岸に出るところは門屋となっており、そのひとつであるシェロカ(広い)通りの門は繁栄当時の木造機構の巨大なクレーンを残している。

その後、「主都市」を北に延伸するようにして、騎士団は独立した新都市を建設する。ここにはドミニコ会の聖ミコワイ教会堂と修道院、聖ヤン教会堂、聖霊慈善院の宗教施設が林立した。騎士団は後にこれを手放し、両地区は一体化し、一筋の市壁と幅広い濠、モトワヴァ川で囲われる。

やがて市壁と濠の外にも市街地が拡大していく。南の濠の外には、モトワヴァ川沿いに広がる造船用地の後背市街地が形成され、独立した「郊外都市」(スタレ・プシェドミェシチェ)となる。他方、北西にも、古い川筋を取り込んで直交街路網の新市街が建設される。それは「古都市」と名付けられているが、スラブ人の初期市街地があったからである。また、モトワヴァ川の対岸には船着き場に穀物倉庫が並び、「穀物倉の島」(スピフレシェ)地区が生まれるが、市街化は進まない。これら三つの地区も16世紀に入る頃にはそれぞれの市壁を備え、独立した自治を持つ都市群をなした(図1

15世紀にはポーランド王とドイツ騎士団の争いは一進一退し、その狭間にあってこの地域の諸都市が結束して「プロイセン同盟」を組んでポーランド王を支援する。しかし、グダニスクは騎士団による残虐な反撃も受けている。経済力を増していったグダニスク市民は、王に服従し、また抵抗しつつ、三つどもえの争いを通して自治権を拡大していった。

16世紀にはポーランド王との不和から占領され、また17世紀には第二次北方戦争の際にスェーデン軍によって占領されるなど、軍事的な危機が続く。グダニスクには近世型の城塞都市理論が導入され、東側の湿地帯に円弧を描くように稜堡式城塞が築かれ、西側は丘を取り込みつつ、高度の稜堡技術による複雑な城塞が築かれる(図2

18世紀にはポーランド分割、プロイセン王国への編入、19世紀にはナポレオン戦争などと政治環境は激動を続け、20世紀には第一次大戦後、改めて「自由都市」として自立する。1939年、グダニスク港への攻撃で第二次世界大戦が始まる。そして市街地は空襲で壊滅したものの、戦後、歴史的景観が復元された。ドイツ系市民が追われ、抑圧的な社会主義政権が続いた後、1980年のレーニン造船所に始まる「連帯」の運動は社会主義体制の終焉の先駆けとなる。歴史に翻弄されながらも自由都市の精神は今も息づいているようである。

【参考文献】

Otto Kloeppel, "Das Stadtbild von Danzig in den drei Jahrhunderten seiner großen Geschichte", Kafemann, Gdańsk, 1937.




 図1 1520年頃のグダニスク復元図(Kloeppel, 1937 所収)

図2 17世紀グダニスクの西からの眺め(Merian1643年)

 


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...