承徳:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
J05 熱河避暑山荘―五族協和の陪都
承徳Chengde,河北省Hebei Province,中華人民共和国People's Republic of China
承徳は、北京の北東約350Kmに位置する。内モンゴル高原の南端から燕山山脈へ移行する標高1300~1500mの山地にあって、年間平均気温は摂氏15.6度の温暖な気候にある。今日の承徳の起源となるのは、清朝第3代皇帝康熙帝による、1703 (康熙42)年に開始された熱河行宮(避暑山荘)の造営である。
清朝の太祖ヌルハチが満州国を樹立するのは1588年であり、第3代順治帝が入関、北京へ遷都する以前に都としたのは盛京であり、遷都以降は陪都として整備される。外城を建設したのは第4代康熙帝であり、宮殿群を整備したのは第6代乾隆帝である。ただ、いずれも60年に及ぶ在位のうち、盛京へ東巡したのは、康熙帝は3度、乾隆帝は4度にすぎない。
頻繁に利用したのは「避暑山荘」と呼んだ承徳である。この後承徳は清朝の夏の宮殿として陪都的な役割を持つようになる。
承徳の建設は、康熙帝および乾隆帝によって1703年から1792年にかけて建設された。康熙帝は、「朕は万里の長城は築かない。民族融和を実現し、万里の長城を無用物にする」と言い、「避暑山荘」の周囲に、多くの廟や寺院の建設を開始される。周囲に様々な多民族を住まわせることで民族融和の都を建設しようとしたとされる。乾隆帝によって拡充されたのが現在の承徳で、「避暑山荘」は中国に現在残っている宮廷庭園のなかで最大のものである(図1)。
乾隆帝は、満族・蒙古族・チベット族・回族・ウィグル族などの壮大な寺院を次々と建立する。「外八廟」と呼ばれるその寺院群は、普陀宗乗之廟、溥仁寺、溥善寺、普寧寺、普楽寺、安遠廟、普祐寺、広縁寺、須弥山福寿之廟、普陀宗乗之廟、広安寺、羅漢堂、殊像寺など8廟にとどまらない。
普陀宗乗之廟(図2abc)は乾隆帝の還暦60歳と皇太后80歳を祝賀し、少数民族の王侯貴族を招くために4年をかけて建造されたものである(乾隆32~36年(1767~1771年))。普陀宗乘はポタラの漢訳、モデルとしたのはラサのポタラ宮であり、小ボタラ宮とも呼ばれる。普陀宗乗之廟の白台、山門、碑亭などは山麓に建てられ、大紅台や屋敷は山の頂上に建てられている。建築群は、山門、碑亭、五塔門、瑠璃牌坊など、大小さまざまである。廟内には『普陀宗乘之廟碑記』『土尓扈特全部帰順記』『優恤土尓扈特部衆記』の満州文字、漢字、モンゴル文字、チベット文字による碑文が置かれている。
「外八廟」は初期に建てられた溥仁寺と溥善寺以外はすべてチベット様式で建てられている。普寧寺は、乾隆帝が承徳に建立した最初の寺院で、別名、大仏寺ともいう(乾隆20年(1755年))。山門、碑、亭、鐘楼、鼓楼、天王殿、大雄宝殿は漢民族様式で、他は、チベットにある三摩耶廟に模して作られている。大乗之閣(図3)は、高さ9メートルの須彌壇の上に建っており、その両側には、18の高さが異なる仏教建築が「曼陀羅」形に配置されている。
普楽寺は、避暑山荘の東側を流れる武烈河の対岸に建てられ、その中心は、乾隆31年(1766年)に建造された旭光閣である(図4)。円形の形をした旭光閣は、瑠璃瓦の屋根が2つに重なり、先がとがっている。北京の天壇の祈年殿を模して建てられ、「円亭子」とも呼ばれている。
清末のアロー戦争で、北京が英仏連合軍に占領されると、咸豊帝は避暑山荘に逃亡し、急逝している。戦争は英仏遠征軍司令官と恭親王との間で北京条約が締結されることによって終結するが、清朝は衰退していくことになる。
承徳は、『周易』の「幹文用誉承以徳也」による命名であるが、温泉が出ることから熱河とも呼ばれてきた。雍正元(1723)年には熱河庁が設置されている。中華民国が成立すると府制廃止に伴い承徳県と改称するが、後には熱河特別区、熱河省が設けられる。1993年には関東軍による熱河侵攻作戦が行われ、承徳は関東軍に占領された。第二次世界大戦後、1956年に熱河省は廃止され、以降、河北省に所属する。
河北省は、戦後、エネルギー産業、鉄鋼産業が発達し、一方、中国でも重要な綿花と小麦の産地である。華北でも長い海岸線を持ち。交通の便も良い。豊富な鉄鋼資源と石炭加工業が発達し、邯鄲鉄鋼総廠は近代的製鉄所として注目されている。1970年代採掘が始まった華北油田は石油採掘量は天津の大港油田を上回り、華北では最大、全国でも5番目の油田である。
承徳の「避暑山荘」と「外八廟」は、1994年にユネスコの世界文化遺産に登録されている(図5)。 (望月雄馬+布野修司)
【参考文献(分量外)】
『中華人民共和国分省地図集』地図出版社、1974年10月第一版
莫邦富『中国ハンドブック』三省堂、1996年7月15日 第一版
五十嵐牧太 『熱河古蹟と西藏藝術』1982年に第一書房で復刻、1936年から4年間の調査記録
『ヘディン探検紀行全集 11 熱河 皇帝の都』 白水社、1980年。




