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2024年8月17日土曜日

「方法としての「戦後建築」・・・80年代の建築が語り出される前に・・・」,螺旋工房クロニクル013,『建築文化』,1979 01

 方法としての「戦後建築」 

 

 「近代建築は人間の建築である。その故にこそ近代建築を可能ならしめるものは人間への限りない愛情を本質とする『在野の精神』に対する深い理解と遑しい自信とでなければならない。

 単一人類の実現へと向ふ世界歴史の必然からしてここに言語につくし難い困難な時に恐らく前代未聞の「近代」を辿らねばならない我々の同胞の運命を思ふ時の近代建築の果さねばならない責務の大きさを思はずにはゐられない。ならば機能の満足による調和の実現、云ひかへれば人間性の幸福な発展をあくまで追求する近代建築精神一般はーーー単に建築をその対象とするだけにとどまらずーーー家庭日用生活器具の設計から都市計画、農村計画、国土計画、更に政治経済の凡ゆる人間形成の基本的原理としての意味をもつと考へられるからである。並に我々の近代建築精神の陶治と大方の愛情と理解とを希って我々の貧しい論抄の刊行を決意し、これを「PLAN」と名づける。」*[i]

 

 戦後五〇年を経て、「戦後」は最終的に死語になりつつある。あるいは、完全に歴史になりつつある。しかし、「戦後」の抱えた問題はこれからも繰り返し問われることになろう。戦後建築の初心を表す言葉が「PLAN」である。「近代」あるいは「PLAN」が輝いていたのが戦後間もなくである。七〇年代末に「戦後」評価をめぐる議論があった。昭和五〇年を経て、戦後も三〇年を超えた段階で、「戦後」を歴史的に総括する時期が訪れたということであろう。以下の文章は、「八〇年代の建築が語り出されるまえに」という副題がつけられていた*[ii]。「戦後」という枠組みは、八〇年代末に至ってその解体が確認されるのであるが、その十年も前から既に議論が展開されていたことは記憶されていい。「方法として」「戦後建築」を問題にする意味は意識され続けていたのである。

 

 

 江藤淳と本多秋五の戦後評価をめぐる論争*[iii]が波紋を広げつつある。焦点はもっぱら、ポツダム宣言における無条件降伏の意味、それを一つのクリティカルな争点とする同時代認識をめぐって、戦後(文学)を一挙に無化してしまおうとする、近年とみに「政策」イデオローグ(「治者」のイデオローグ、国家自立のイデオローグ)としての立場を露わにしてきた江藤淳の役割、身振りである。すかさず、真継伸彦、中上健次等のコメントが出され、やがて、秋山駿*[iv]や岡庭昇*[v]、また、南坊義道*[vi]、さらに大江健三郎*[vii]を巻き込みつつある。

 このいわば《ポツダム宣言論争》とでも呼ぶべき応酬は、いたずらに江藤淳の政治的な役割を浮彫りにし、論争それ自体、本多・江藤が「互いにそれぞれの立場で、物語、小説の定型に手玉に取られている」(中上健次)ものにすぎないと言えるかもしれない。しかし、そこに、戦後そのもの、なしくずにされつつある戦後そのものを根底的に問い直す契機が潜在していることは確かである。

 それは、かつて六〇年代初頭の佐々木基一の「『戦後』は幻影だった」に端を発する「戦後文学」論争*[viii]とは位相を異にしつつあるし、六〇年代末以降の戦後批判を経過することにおいて、また、政治的コンテクストと否応なく絡められることにおいて、今日における切実な課題となりつつあるはずである。いわゆる「意匠としての戦後否定」をそれは超えねばならないのである。

 そうした意味で、岡庭昇が、「体制イデオローグである江藤氏がなにやら「ポツダム体制打破」を呼号し、本多氏が擁護にまわっている皮肉さ」を揶揄し、「この論争が共有している(してしまっている)前提を、つまり場の成立そのものを認めない」としながらも、「ただ、思想的に不毛であれ、場そのものが虚構である指摘をとおして、「戦後の敗退」を積極的な契機に切りかえてゆくための、重要な手がかりを提供しているとおもう」と引きとり、大江健三郎が「批評家よ、戦後文学をその最低の鞍部で越えるな、それは誰の得にもならないだろう」という、かつての本多秋五自身の言葉を冒頭に引きながら、「江藤淳の提出した疑義を契機にして、僕はあらためて戦後文学、戦後文学者について読んだり考えたりすることをした」と、より根底的に「日本文学、戦後文学を決して後退のおこらぬ、後退しえぬ一点にまで、はっきり推し進める契機ともなりえるもの」としての竹内の戦後(文学)批判を引き受けようとすることは、真摯で正統な態度というべきであろう。

 江藤淳の論の展開に含まれる多くの矛盾、そのドラスティックな軌跡(転向)、現在担いつつある政治的役割とその内的、外的必然性については、批判者がこぞって指摘するところでもあるし、多言を要しない。矛盾や転向の指摘は、そうした実証的、論理的批判を超えた「尊王攘夷」的「ナショナリズム」や秩序防衛のイデオロギーのアジテーターの役割をますます明らかにするのである。問題はこの江藤淳の戦後批判をどうとらえ直すかである。そこに示される同時代認識をどうとらえなおすかである。

 一方で、大江健三郎と岡庭昇の江藤批判の差異は興味深いと言わねばならない。岡庭が論争の場そのものを認めないのに対して、大江は明らかにその場を前提としながら、六〇年代末の『万延元年のフットボール』をめぐる江藤との決定的対立、絶交(江藤・大江論争)をひきずりながら、反江藤の立場を展開しようとしていることにおいて、結果として、本多(近代文学派)擁護、戦後文学擁護(もちろん、全面肯定ではありえない)を引き受けようとする。そこには、すなわち、世代の差を含めた「近代文学」(派)の評価にかかわる差異があるのである。また大江が、作家として、文学表現の問題としてとらえようとするのに比して、岡庭は、政治的なコンテクストを含めたより広いコンテクストにおいて「戦後の敗退」をとらえようとしているとも言える。したがって、文学論のレヴェルでは、この論争の場そのものとは別の派絡を提示する中上健次を大江に比すべきと言えるかもしれない。しかし、いずれにせよ、それらは基本的には、僕らの同時代認識をめぐって展開されつつあるのである。

 江藤淳の同時代認識は「戦後文学は仇花」あるいは「戦後文学はそもそも存在しなかった」とまで言い切りながら、存在する唯一の尺度として「昭和文学」という範疇を提出するところですでに明瞭に示されてきた。菅孝行*[ix]や岡庭昇*[x]0が、その「昭和文学」というカテゴリーの提出をめぐって執拗な批判の作業を展開してきているのである。すでに、この新たな論争の種はまかれていたといってよい。まさに、そうした脈絡において、江藤淳は新たな攻撃の対象として本多秋五を選んだにすぎないのである。その同時代認識り差異は、菅孝行の次のような方法意識において鮮明に浮かび上がっていると言えるであろう。

 ●彼(江藤淳)は、戦後(あるいは少なく見積もって戦後文学)において「確立された価値の再検討」を通じて、それを否定し、昭和に「確立された価値」の根拠に回帰することになる。すなわち、ここでは連続面が価値に連なり、非連続性が虚妄とされる。

 これに対して、例えば私が、戦後を問題にする立場は、全く異なっている。江藤が「昭和に確立された価値」を自らの尺度としてとり込んでいるのに対し、それを批判の対象と考えるのである。すなわち、「昭和」の連続性を支える、ひとつの「確立された価値の再検討」をめざしている。したがって戦後過程とは、昭和期前半の二〇年間に「確立された価値」を再検討し、その価値の根拠を解体し、新たな未成の価値の根拠を再形成する過程であることによって、昭和=戦前・戦中の過程に対して非連続であるべきものでありながら、それを貫徹しえなかった過程であるとみなすほかはないのである。

 ●昭和に形成された「価値の再検討」の話題は、昭和の廃絶であるというしかないだろう。当然、昭和史をひとつの連続性たらしめているものは、決して普遍的な価値の根拠たりえないし、決して日本の地域的特殊性を、世界性へ到達せしめ得ないという判断を前提としている。

 ●昭和は、まさに廃絶すべき負の対象として連続している、というべきであろう。断じて、昭和は、戦後を否定して回帰すべき、正の価値の根拠として存在しているのではないのだ。(「文学における〈昭和〉の廃絶」)

 

 岡庭昇も、ほぼその問題意識を共有し、戦後に「近代」を願望する誤謬を正確に指摘しながら、次のように言う。

 ●わたしは、十五年戦争下の時代、つまり戦前の昭和は、明らかに転形期とみなされるべきだと考える。むしろ、日本近代における、最も可能性にとんだ状況だったのではないか。“昭和”とは、ひと言でいえば危機と戦争の時代である。明らかに日本的近代という虚構の支配原理が、危機に直面し、危機をのりこえるために戦争という、よりデフォルメされた形姿をもとめざるをえなかった。言い換えるなら、日常が物語たりえなくなりかけたとき、はるかに物語らしい物語である戦争が用意された。

 ●わたしは、国家は昭和をひとつながりのものとして自立しており、十分にそのことに自覚的である。といった。もしわれわれが、十五年戦争下を転形期としてとらえなおし、よくその思想的な可能性を再評価しなおしつつ、戦後をわれわれの手によって撃つことができなてなら、ついに物語の外に出ることはできない。否「敵」に釣り合うことさえ、できないはずである。(「江藤淳――物語のなかの演技者)

 ●昭和文学などという特殊なカテゴリーは、実は存在しない。日本の近代文学は「昭和」も「戦後」も決定的な転換のメルクマールとはさせないほどに一貫した負性としてある。ただ、あえて昭和文学というカテゴリイをたてるとすれば、「日本近代の文学表現を縦につらぬく「規範」の成熟と衰頽のときという観点においてであり、それはそのまま日本近代というフィクシャスな共同性規範が「露出」した時代という意味で、重要な視座となりうるのである。(「昭和文学の視座」)

 

 こうした、菅や岡庭の方法意識を僕もまた共有する。日本の近代建築をとらえる際に欠かすことのできない視点がそこにあるからである。江藤・本多論争に、建築の現在が引き受けねばならぬ問題への解答の契機も含まれているはずなのである。例えば、川添登が戦前・戦後の連続性を正のものとしてとらえ、近代天皇官僚建築家(吉田鉄郎、丹下健三等)に対して、村野藤吾、堀口捨巳、吉田五十八、白井晟一の再評価を主張し、また戦時体制下における国民建築、国民住居の重要性を強調するのをみれば、問題の偏在は明らかではないか。

 また、「昭和建築」という範疇をつとに提出したのは長谷川尭であった。もちろん、それをネガティブな契機として提出することにおいて、その役割は江藤淳のそれではない。しかし、彼は「大正建築」の再評価、その裏返しとしての「昭和建築」=近代合理主義の建築の否定に急で、「戦後建築」そのものを一挙になしくずしにする役割を担いかけはしなかったか。また、例えば「日本の現代建築」*[xi]1が「戦後建築」をとらえ返そうとするとき、こうした同時代意識をめぐる議論が当然クリティカルに投影されるはずではないのか。

 いま確かに、「戦後」という言葉はひどく色褪せてしまっている。その言葉のうちに含まれていたはずの、それ以前の歴史過程に対する断絶、批判、優位の響きはすでに失われているかのようである。とりわけ、六〇年代末以降の過程において「戦後なるものの幻影の中で太平の夢をむさぼってきた諸制度が根底的に問い直される」なかで、僕らは「戦後」なるものが虚構にほかならないことを嫌というほど思い知らされたのである。今にして思えば、「もはや戦後ではない」という宣言が経済白書によってなされた頃ほど「戦後」が信じられていたときはなかったのである。その頃を起点とする高度成長の終焉、あるいは五五年体制の崩壊といったさまざまな戦後の終焉に立ち会いつつある僕らには、戦後の過程は、ありうべき戦後がなしくずしに無化されていく過程にほかならなかったように見える。そして、そうした眼差しには、むしろ戦前・戦後がのっぺりつながって見えてくるのである。

 僕は、六〇年代の建築に対するささやかな総括を試みながら、その過程に、戦前・戦後を通じて一なる昭和の過程や、さらにそれを含み込む日本の近代の過程をみていた。そこでは、自らの現在を直接的に用意した時代の具体的なコンテクストへのこだわりが先行しており、むしろ問題意識としては、抽象的、一般的に近代批判の問題をたてがちな思考を具体性のなかにつなぎとめようとするもので有ったのであるが、六〇年代の建築のあり様に対する批判は、即、戦後建築批判であり、ひいては近代建築総体に対する批判へつながっていくのである。僕らが担わされている問題はすでに戦前に用意されていたという意識がそこにあった。そうした意識は、すでに一般化されたものといってよいであろう。磯崎新の『建築の一九三〇年代』は、明らかに、そうした意識に貫かれたものである。三〇年代と七〇年代を重ね合わせる意識において、また、三〇年代における「日本的なるもの」をめぐる議論を五〇年代の伝統論の展開へストレートに結びつける視点において、戦前・戦後は一つの過程としてとらえられているのである。

 しかし、こうした歴史意識によって必ずしも僕らに展望が開けるわけではない。それは、あくまで後ろ向きのパースペクティブなのである。もどかしいのは、同じ連続性において終戦の閾をとらえるにしても、ポジティブに捉えるか、ネガティブにとらえるかによって大きく歴史的展望を異にするにもかかわらず、それを明確に区別する指標が定かではない点である。僕らがいま痛切に意識していなければならないのは、六〇年代末以降に一挙に顕在化してきた近代合理主義、科学主義、進歩主義、テクノクラシーに対する批判が、観念のレヴェルではさまざまな反近代の意匠をまとった潮流へ容易に回収されていく構造をもっていたということである。

 戦後的なるものは幻想にすぎなかった。そして、いま僕らはその戦後幻想の解体のはるか彼方にある。しかし、問題はさほど単純ではないのである。確かに、戦後幻想は否定されなければならない。それによって、僕らはすぶずぶの日本の近代を対象化することができる。けれども、戦後幻想の否定によって、ありうべき戦後そのものを否定することは不毛なことではないのか。菅孝行の言うように*[xii]2、戦後幻想が批判された止揚されなくならない理由は、それが、あたかも八・一五以前の歴史過程への非可逆的な総括の所産であることを装いながら、実はすり抜けの虚構であり、戦後性の名において死守されるべきものを解体し、戦前戦中の過程へと順接させるイデオロギー装置にほかならないからである。

 戦後性の名において死守さるべきものとは何か。ありうるべき戦後とは何であったのか。終戦後まもなく、廃墟を前にして幻想されていたものは何であったのであろうか。

 さまざまな反近代の意匠は、反合理のロマンの跋扈を許すことにおいて、戦後批判そのものを無化してしまう。そうしたとき、僕らの批判の原点は宙に舞うのである。ありうべき戦後を、あえて一つ指標としてたてねばならないとすれば、そうした趨勢を見据えるからである。そうでなければ、僕らは日本の近代の重さを暗鬱なる胃の腑の底で反芻するにとどまるだけである。

 建築において、ありうべき戦後が一つの指標としてたつかどうかは知らない。戦後建築に、戦後幻想の解体の彼方においてなおかつこだわらねばならないものがあるかどうかはわからない。しかし、一挙に、より大きな歴史の過程を対象化するまえに、戦後性の名において死守すべきものについて思いをはせておくことは無意味ではないはずである。少なくとも戦後派世代にとって、戦後のもつ意味は計り知れなく大きいはずではなかったか。それは、僕らの想像力が到底届かない衝撃力をもち得ていたのではなかったのであろうか。

 いずれにせよ、僕らは一度は戦後幻想のゼロ地点へ立ち戻ってみなければならないはずなのである。それは決して、心情的な、焼跡や廃墟への追憶やロマン的な回帰ではなく、菅孝行のいう「方法としての戦後」意識、思想の指標としてのありうべき戦後としての理念、抽象をもとにした歴史のレクチュールである。

 もちろん、それは歴史をさまざまに時代区分して、作品や諸表現を文類し直したりする作業とは区別されねばならない。明治一〇〇年とか、昭和五〇年とか、戦後三〇年といった時間のくぎり方それ自体が問題ではないのである。少なくとも、僕にとって「昭和」は現在を批判的にとらえ返すための虚構のフレームでしかない。「ありうべき戦後」も、とりあえずの虚構の指標なのである。それきは単に「戦後」に「昭和」をもち込んだり、「昭和」に対して「大正」を、あるいは「近代」に対して「前近代」を代置することではない。

「現在を批判するのに過去をひき入れ、過去を批判するのに大過去をひき入れる方法は、ただただ過去へむかってユートピアを求めて遡及する倒錯した永遠革命のイメージしか構成することができない」のである。

 やがて、八〇年代の建築についての展望が語り始められるかもしれない。否、ポストモダンやポストメタボリズムにかかわる議論において語り始められていると言うべきであろうか。その際、戦後建築が果たして仇花であったのかどうか確認される必要があろう。戦後建築史も、ようやく(否、すでに)書かれる時期に達したはずである。戦後建築の幻想の解体によって、確かに日本の近代建築の史的展開もよりよく見えてきたのである。そうした史的パースペクティブのなかで、戦後建築は本当に無化されるのであろうか。戦後建築は存在しなかったと言いうるのであろうか。

 いずれにせよ、僕らもまた、こう言うべきであろう。「戦後建築」をその最低の鞍部で越えるな、と。

 



*[i]前川國男、『PLAN』一「刊行のことば」、一九四七.一二.一 

*[ii] 布野修司、「方法としての「戦後建築」」(螺旋工房クロニクル013)、『建築文化』、一九七九年一月号

*[iii] 江藤淳「“戦後歴史”の袋小路の打開」『週刊読書人』七八年五年一日、「文芸時評」『毎日新聞』七八年八月二九日、「戦後文学は仇花」『週刊読書人』七八年八年二九日、「本多秋五氏の『戦後固定論を駮す――今こそ“神話の時代”に引導を渡すべきだ」『朝日ジャーナル』七八年一〇月二〇日、本多秋五「『無条件降伏』の意味」『文芸』七八年九月ほか

*[iv] 読売新聞「文芸時評」

*[v] 「江藤淳――物語のなかの演技者」『現代の眼』七八年一二月 特集=危機のイデオローグ

*[vi] 「戦後文学は徒花か」『第三文明』七八年一二月

*[vii] 「文学は戦後的批判を越えているか」『世界』七八年一二月 特集=文化――状況へ

*[viii] 戦後文学論争

*[ix] 『延命と廃絶 昭和の時間と文学の党派性』

*[x] 『文学と批評的精神』

*[xi] 『新建築』七八年一一月臨時増刊

*[xii] 『戦後思想の現在』

2024年8月14日水曜日

ロスト・アイデンティティの世界:建築1979,螺旋工房クロニクル024,『建築文化』,197912

 ロスト・アイデンティテイの建築界

 

 公取問題

  一九七九年九月十九日、公正取引委員会(橋口収委員長)は、日本建築家協会(海老原一郎会長 略称「家協会」)に対して「違法宣言審決」を下した。建築家すなわち建築士事務所の開設者は、独占禁止法にいう事業者か否か、また建築事務所の開設者を構成員とする家協会は事業者団体か否か、をめぐって一九七六年三月一八日の第一会審判以来二三回にわたって争われてきた問題について、一つの結論が出たわけである。

 審決主文*[i]は、各紙で報道されたとおりである。要するに、審判開始時に違反とされた行為、協会独自の報酬規定、建築設計競技規準中の会員の参加制約および賞金、報酬規定、憲章中の報酬競争禁止等を自主的に廃止、排除することにおいて、現在は事業者団体に該当しなくなっており、家協会に対して格別の措置を命じない、というものである。この公取審決に対する家協会の対応を中心とした位置づけは、「公取審決ーー家協会は職能団体の筋を守れたのか」*[ii]や「公取委の審決を受けて」*[iii]などにおいて、すでに出そろっているといえるだろう。

  「家協会としては、憲章や諸規定の改廃という大きな損失と犠牲を出したわけだが、とにかく職能の基本理念が認められた点に意義を認めようとしている。ところが、これを報道した一般紙は、主文の前段に視点をすえ、「建築家協会に独禁法違反の事実」「自由業といえどもカルテル行為があれば事業者と認定」といった記事を一斉に流したため、当の家協会会員をはじめ、建築界全体に大きなショックを与える結果となった。従って、ここ当分の間、日本建築家協会はその総力を挙げて、審決の全貌を正確に周知徹底させ、一般紙によって生じた同協会のイメージダウンの回復を図らなければならないようである。」*[iv]というのが、比較的冷めた一般の反応である。

  指摘されるように、いわゆる「公取問題」は、家協会という団体の事業者性だけに限って争われたものである。審決は、個々の会員の事業者認定については意識的に言及するのを避け、かつて存在したその「カルテル」行為についてのみ焦点を当てたものである。家協会の理念化する建築家像なり職能の問題は、はじめから公取委の関心の埒外に置かれていたといってよい。もともと、かみ合わない論争であり、家協会が法的裏付けのない建築職能論を振りかざすことに、社会的に意味はあるにしても、独禁法に抗するには自ずと限界もあったのである。

 

 日本建築家協会と「建築家」

  ある意味では、七〇年代を通じて問われ続けてきた公取問題は、内部告発に端を発したことが示すように、家協会自体の問題であったといいうる。問われたのは、必ずしも建築家とは何かではなく、家協会とは何か、その団体の事業者性だけだからである。理念ではなく、具体的な家協会の存在形態が現実のコンテクストの中で問われたのである。建築界全体の共有化された問題として必ずしも問われなかったように思えるのは、それ故にである。しかし、問題自体は極めて象徴的に、建築をとりまく状況を示しているということはできよう。

  西欧の一九世紀的な建築家の理念と日本の現実との乖離は、明治以降一貫して問われてきたはずであり、その乖離は広がりこそすれ狭まることはなかった、というのが僕らの認識である。それはついに定着することはなかったと言ってもいい。何よりも、家協会の特異な、特権的な存在自体がその乖離を示していたはずである。そして、公取問題を契機として、その理念と現実との乖離は、最終的に家協会の内部矛盾として露呈してきたと考えられるのである。

  いわゆる建築家の理念、職能の理想を掲げ、それを体現していることを自負する家協会が、その矛盾を引き受けるのは当然といえよう。しかし、そうした意味での建築家はすでに解体していると考え、その理念の有効性をすでに根底的に疑ってかかるものにとっては、事業者団体としての届け出を出さなくても済んだから「まずまずの成果」であるとか、「公取委の首脳部にも見識の持ち主」がいて、かろうじて職能の灯が残されたという意識がほとんど問題にならないことはいうまでもない。「自由業にも独禁法のメス」というのが世の趨勢であり、グローバルなプロフェッションの危機において、職能法の成立の見通しも暗い中で、そうした理念が具体的な指針たりえないことはすでに明らかだからである。

 「職能法請願の国会デモをやるというのはいかがなものか。負けっぷりの良いことも武士のたしなみ、デモなどという女々しいことはやらず、敗戦処理として建設省通告による二五条の報酬規定ーことにそのポイントの技術料の適用など、研究すべきではあるまいか(どうなれば廃棄した料率と同じ結果になるのかといった現実性を含めて)」といった見解*[v]や、「入札をしない会」(鬼頭梓*[vi]ほか)の発足がまだしも具体的な対応を示している。

  事業者団体としての届け出を出さなくても済んだ家協会、体質改善した家協会とは何か。現実にいかなる力をもち得るのか。そこには、多くの議論がすでにある。

 理念や精神や倫理の問題を純化させていくのが一つの道であるという。しかし、そうした理念や精神や倫理がいかにもろいものであるかは、歴史の教えるところでもある。

 職能防衛から文化活動へ、ウェイトを移行する(せざるをえない)のだという。確かに文化としての建築という視座は広範に意識化されつつあるといってよい、しかし、ある意味ではそれも言われ続けてきたことである。文化としての建築とは何か。家協会の問題に即していえばそれが、エリート建築家の文化サロンの枠の内にとどまるのか、より広範な問題領域を組織していけるかどうかはこれからの問題である。いずれにせよ、そこでは、これから何ができるか、いかに闘っていくのか、何を創り出していくのかという問いが投げ出されているだけなのである。

  僕らは、すでに、日常的な行為の中で、具体的にそうした問いを問いつつある。全く新たな「建築家」像が生み出されるとしたら、その中にしかない、というのはむしろ前提である。過去の建築家像を理念化すること、安易な建築家幻想は有害ですらある。建築界の分断化された状況の中で、むしろ、関係ない、というのが、とりわけ若い世代の偽らざる実感であろう。そうした意味では、状況は絶望的であるといってもよい。公取問題は、それをこそ確認させるのである。

  それが、僕らの八〇年代を前にした出発点の状況であり、そうした意味でのみそれを記録にとどめておく意義があるといえるであろう。

 

 芸術かウサギ小屋か

  「「芸術」かうさぎ小屋か」*[vii]という軸によって、「近代日本の建築界」を切ってみせたのは堀川勉である。彼は、「歴史の真の争点はいつの時代にあっても隠されている」(花田清輝)、「建築も政治と全く同様に巨額の金銭の移動をともない、権力の物質的装置として機能するために容易にその素顔を窺うことができない」といいながら、次のようにいう。

  「ここで端的に「近代日本が建築界に与えた状況とはいかなるものか」と問うとすれば、それは建築界における様々な分断的状況であると答えることができる。そのうち最大の分断的状況が、建築生産の商品化としての側面と、建築の芸術としての側面への分断である。前者がウサぎ小屋をそれとして意識せずに、資本主義生産にはげむための理論や技術の生産に従事する多数派(ウサギ小屋派=非芸術派)であり、後者がウサギ小屋を漠然と感知しながら、自己の大衆性を認めず自己と大衆を切り離し、ウサギ小屋の存在から眼を逸らせて「芸術」としての建築を疑わない少数派(「芸術」派)である」。

  もちろん、こうした構図はいささか乱暴であり、建築非芸術論争*[viii]の枠を出てないように見えるかもしれない。しかし、堀川が、その「両派が分離することも、あるいは中立の立場でどちらの派にも属さないことも不可能な事情」を、建築をめぐる概念の全体性と部分性において問題にするとき、少し異なった脈絡を提示しているように思えるはずである。彼は、分断的二重構造が一挙に露呈し固定化してきたのは、「芸術の完全なる自立もまた、政治の優位性理論が誤っているように、ありえないことを浮かび上がらせた」一九三〇年代であったという。その時代に「ほとんどの建築家が芸術についての物神崇拝に陥り、芸術と芸術品の区別がつかなくなり、今日のように芸術の抜け殻を愛するようになった」、「ウサギ小屋の生産を理論的に否定できるのは本来彼らだけであり、彼らの責務であったのに、それが不可能であった」というのである。僕らの置かれている状況は、少なくとも、そうした歴史的パースペクティブにおいても確認さるべきものと言えるであろう。芸術とか文化を不用意にもち出しても始まらないのである。

  堀川勉は、「建築の問題が大衆の存在をかかえ込みながら、実は完全にスレ違ったレヴェルで展開されてゆく」今日の状況において、「建築生産が社会的に〈生産ー分配ー消費〉されるべきものであるなら、社会(主義)政策=国家政策=芸術行為であるような建築論(それは建築論ではなくなっている)がまず生み出されなければならない」という。こうした言い方が多くの問題を含んでいることはいうまでもない。しかし、建築家は事業者ではないといった議論の平面を抜け出ることにおいて、はるかにポレミカルである。

 宮内嘉久*[ix]の「持たざる建築家の肌理、反・特権的マイスター論のために」*[x]0が唯一それに答えている。彼は、芸術派対ウサギ小屋派の対立図式に、もう一つの隠れた眼差し、専門職業(プロフェッション)にまつわる「特権」(「この隠微にして魔性の力。それは支配的階級の中からの距離によって測られ、かつ支えられる」)に対して注がれるべき眼差しを付け加える。彼のいう、「特権をもたない建築家」は、今のところ中世の棟梁、ロマネスクのマイスターを理念化することにおいて、いわゆる近代における「特権的建築家」像を裏返しているにすぎない。過去における建築家像を理念化することにおいては、パラレルだ。「はだしの建築家」という理念についても、中国なら中国のコンテクストにおける建築家像を理念化することにおいて、同じような問題を指摘しうる。しかし、そうした眼差しがポレミークをさらに広げることは確かだ。それを具体的コンテクストにおいて問題とする意味は少なくともあるからである。

 

 野武士たち

  建築家の概念あるいはアイデンティティが厳しく問われつつある今日の状況の中で、建築ジャーナリズムの表層で飛び交う、とりわけ若い建築家たちの言説は、状況に潜むそうしたポレミークとは一見無縁であるように見える。彼らは、最も皮相なレヴェルでは、「状況からの自立」、「建築の自立」を標傍しながら、「とんでもない目を疑うような形態」の作品をひっさげて、「わけのわからない建築論」をふり回しているように一見みえる。「平和な時代の野武士たち」*[xi]1と槙文彦は、若い建築家の作品を丹念に見て回った後、彼らをそう呼ぶ。彼は「都市が今日どうしようもないから、また都市と建築を分離して〈芸術的建築〉に向かう姿勢が、そして都市問題は他の人たちのすることとする風潮が、若いジェネレーションにもかなり浸透しつつある状況に私は深く考えさせられてしまう」というのである。「平和な時代」というアイロニカルな規定も、「野武士たち」という呼び方も、総合建築時評と銘打った文章の内容自体も、槙自身の建築界における位置、位相をうかがううえで極めて興味深いものであるが、若いジェネレーションに対するそうした見方は、すでに一般化されつつある。そうした声は次第に強くなりつつあるといってもよい。

  しかし、そうした若いジェネレーションの、一見、無秩序な現れ自体が状況そのものを物語っていることは認めねばならない。「より広い社会的コンテクストを持った戦場」にのぞんで欲しいと槙はいう。都市に踏みとどまっているという自負がそういわせるのであろうか。けれども六〇年代初頭に一斉に都市づいていった建築家が、後退に後退を重ねてきたのは紛れもない事実である。彼は、磯崎新*[xii]2と篠原一男*[xiii]3の「猥雑な都市はどうしようもないから自分の建築は防御型か攻撃型にならざるを得ない」という意見と感慨を、危険な悪影響を及ぼすものであるというのであるが、問題は影響などという次元にはとどまらないのである。また、「社会的コンテクストを持った戦場」へという言い方は、〈芸術派建築〉との抜き難い対立図式を前提とすることにおいても、必ずしも説得力をもたない。その最良の部分においては、〈芸術派〉でも〈社会派〉でもない、そうした図式を越えたところでさまざまな模索がなされていると見ることができるからである。

  若いジェネレーションを「平和な時代の野武士たち」と位置づける槙に対して、より積極的に評価し、位置づけ、その存在の意義を徹底的にとらえ返そうとするのが鈴木博之である*[xiv]4。その作業は、例によって極めて党派的である。雑誌『エピステーメー』から抜書きのような建築論を振り回すエピステーメー派とか、日本においては形態遊戯の域を出ない「ナショナリズム」は、評価が薄い。建築史家としての鈴木のこうした腑分けは、大いに興味深いのであるがここではどうでもいい。問題は彼が「現実の社会に対するアクチュアリティ」において、若いジェネレーションを評価することである。「アクチュアリティをもち、しかも方法論を芸術至上主義的な概念や手法としてアクセサリー化せず、ある意味では強引にアクチュアリティに直結させてしまおうと目論んでいる建築家たちが、今やさまざまに出現しつつあるのである。それぞれの方法論は異なっていようとも、方法論と現実に対するアクチュアルな行動との接続の仕方において、彼らは共通している」という彼の位置づけは、明らかに槙文彦の位置づけとはずれている、あるいは逆のヴェクトルをもつものであるといってもよい。

  また、鈴木は、その共通項を「私的全体性」なる概念でとらえようとしているかにみえる。日本において必要だったのは「国家意志の造形に身を捧げる主流としての建築観か、あるいは私的世界の全体性を確保するアーキテクト像のいずれかだったのである」と乱暴にいいながら、「全体性という概念を世界の立場からではなく、私の立場から据え直したときに、まだまだ豊かな建築的可能性が現れてくるように思われる」というのである。

 こうした鈴木博之の若いジェネレーションの位置づけは大きな問題をはらんでいると思う。私を支える基盤が問題となるとき、国家に私性を対置してもはじまらないのである。私性とは何かがもっと問われてしかるべきであろう。「郊外の住宅地が巨視的にみれば疎外された近代人の巣箱にすぎないとしても、そこには私的な全体が込められている」というのも首をかしげざるをえない言い方である。疎外された近代人の私的全体性とは何か。早速、富永譲の住宅には私的全体性がない、といった訳のわからない批評が出されたりするのもおかしな話である。少なくとも、私的全体性なる概念を国家や世界に対置することによって、若い世代を位置づけることは有効ではないように僕には思われる。

  いずれにせよ、少なくとも建築ジャーナリズムの世界では、絶望的な分断化された状況を背景としながら、ここしばらくの間、そうした若い世代の評価をめぐって議論が続くであろう。皮相なレッテル張りや線引きの争いのレヴェルではなく、新たな建築論の構築を目差して生産的な議論が積み重ねられる必要がある。

 

 閉じた建築言語

  こうした、建築をめぐる議論の場は狭い。極めて限定されているといわねばならない。それをとりわけ象徴的に示したのが山口瞳の「建築文化」*[xv]5と、村松貞次郎の「いわゆる建築以前の文章について」*[xvi]6である。直接的には、いずれも建築家の文章について、日本語としてなっていないという指摘である。これについては、志摩康介の「俗の視界」*[xvii]7が正当な位置づけを与えているのであるが、単に文章レヴェルの問題ではなく、建築をめぐる議論の場の問題として受け止めねばならない、というのがその一つの総括だ。

  「他のジャンルとの共通のボキャブラリーというのが、お互いの恣意的な部分をとり払った後に残る最大公約数であるなら、いまのところ建築の側からその公約数を拡大するほかあるまい」と志摩はいう。また「一般のメディアにおける建築の議論の活性化という部分にも可能性は求められてはいるが、現状は文化全体との強烈な浸透圧の差によって、建築の断片が吸い出されていき、やがては雲散霧消せざるをえないといった観がある」ともいう。

  おそらく、ものとことばをめぐって、根本的な議論がなされることがその一つの前提であろう。いわゆる記号論にしても、篠田浩一郎の「構造的思惟と美学」*[xviii]2が言うように、視覚言語あるいは建築言語と言語との基本的な関係を踏まえる作業を抜きに展開されているのは致命的である。記号論自体が知のファッションと、とり違えられかねない状況の中で、その用語自体を無批判に借りてきても何の意味もないのである。

  知根源的なあり方を問うこと、建築の側からそうした問いを発していくこと、それはある意味では、今日の状況における建築家の一つの戦略でもある。裏返せば、そうした状況に追い込まれているといってもよい。「文化としての建築」といった言い方が盛んに口にされるのも、同じ位相である。しかし、それはいかに可能か。インタージャンルに建築の言葉を開いていくことは容易ではない。それ以前に建築の言葉を研ぎすます必要があろう。そうしたレヴェルにおいてもまた、建築(の領域)のアイデンティティが問われているといえるのである。

 



*[i]

*[ii]  『日経アーキテクチュア』、七九年一〇月一五日号

*[iii]  『新建築』、七九年一一月号

*[iv]  K/B NEWS、『建築文化』、七九年一一月号

*[v]  浦辺鎮太郎、「公取委問題私見」

*[vi]  鬼頭梓

*[vii]  『日本読書新聞』、七九年六月四日号

*[viii] 建築非芸術論: 野田俊彦(一八九一横浜生~一九二九)の東京帝国大学工学部建築学科卒業論文。「建築非芸術論」(『建築雑誌』 一九一五・一〇)「建築非芸術論の続」(『建築雑誌』 一九一六・一二)。素朴な「用美の二元論」が前提される明治から大正にかけての建築界にあって、徹底した合理主義建築論を展開するものとして大きな議論を呼んだ。平行して「虚偽構造」(シャム・コンストラクション)をめぐる議論(建築構造はそのままファサードに表現されるべきだという主張)もあった。

*[ix] 宮内嘉久 一九二六年東京生~。東京大学第二工学部建築学科卒業(四九)。建築ジャーナリスト、編集者。『新建築』『国際建築』の編集を経て、建築ジャーナリズム研究所設立。一貫して建築ジャーナリズムの確立に尽力する。『建築ジャーナル』誌顧問。『廃墟から』『少数派建築論』など。また、『一建築家の信条』『前川國男・コスモスと方法』など前川國男の仕事をまとめることに尽力する。

*[x]  『日本読書新聞』、七九年七月九日号

*[xi]  『新建築』、七九年一〇月

*[xii] 磯崎新 いそざき・あらた。一九三一大分~。建築家。東京大学建築学科卒業。丹下健三に師事する。磯崎新アトリエ設立(六三)。「大分県医師会館」(六三)以降、「群馬県立近代美術館」(七四)「筑波センタービル」(八三)「バルセロナ・スポーツ・パレス」(九〇)など多くの話題作がある。一九七〇年代から八〇年代にかけて、一貫して近代建築批判を展開し、「建築の解体」「見えない都市」「大文字の建築」など様々なキーワードを提示するとともに日本の建築界をリードした。著書も『空間へ』、『建築の解体』、『建築の修辞』、『建築という形式』など極めて多い。

*[xiii] 篠原一男 一九二五静岡~。東京工業大学建築学科卒業(五三)。同助教授(六二)、教授(七〇)。「久我山の家」で住宅作家としてデビュー。「住宅は芸術である」という金言とともに作品としての住宅の水準を打ち立てる。「から傘の家」「白の家」「地の家」「未完の家」など数多くの傑作を世に問うた。一連の住宅作品で日本建築学会賞(七一)。理論家としても知られ、建築のポストモダンについても発言を続ける。「東京工業大学百周年記念館」「熊本県警察署」など。

*[xiv]  「貧乏くじは君が引く」、『新建築』七九年九月号、「私的全体性の模索」、『新建築』、七九年一〇月号

*[xv]  『週刊新潮』、七九年八月二三日

*[xvi]  au』、七九年三月号

*[xvii]  『建築文化』、七九年一〇月号

*[xviii]  『建築雑誌』、七九年四月号