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2024年11月13日水曜日
2024年10月9日水曜日
2024年10月7日月曜日
多様性に欠け,貧困な日本の住まいと家族のあり方,書評西川祐子,『図書新聞』,20060212
書評:西川祐子著、『住まいと家族をめぐる物語―――男の家、女の家、性別のない部屋』
「貧困の住まい」と家族の物語
布野修司
帯に「身近な住まいと街に刻まれた140年の日本近・現代史」とある。明治以降の日本の「住まいと家族をめぐる物語」を論じながら日本の近・現代史を照射するねらいが本書にはある。これまでの著書においても著者が一貫して追及してきたテーマである。ただ、本書はいささか「軽い」。
全体は一四章に分けられているが、丁度、半期の講義の一回一回のエッセンスをまとめる構えがとられており、実際、「ジェンダー文化論」の講義が元になっている。随所に講義の際のエピソード、発見が織り込まれており、臨場感がある。また、わかりやすく(「クリアー」)、一章一章が独立して、簡単に読める(速読できる)こと(「シンプル」)、そのことによって教室を社会に開く(「オープン」)ことが編集執筆方針である。「軽い」というのはそういう意味だ。
図式は、冒頭にそれこそ簡潔に示される。すなわち、家族モデルの旧二重構造(「家」家族/「家庭」家族)→新二重構造(「家庭」家族/個人):住まいモデルの旧二重構造(「いろり端のある家」/「茶の間のある家」)→新二重構造(「リビングのある家」/「ワンルーム」)というのが見取図である。「男の家」→「女の家」→「性別のない部屋」という単線的なわかりやすい歴史図式をもう少し構造的に捉えるのが味噌である。
さらっと読んでつくづく思うのは、日本の住まいと家族のあり方が実に画一的で多様性に欠けること、実に貧困なことである。とりわけ、住まい(空間、容器)の貧困は覆うべくもない。「空間の論理」に拘る建築家、上野千鶴子のいうところの「空間帝国主義者」にとっては考えさせられる多くの内容を本書は含んでいる。
ただ、いささか不満が残るとすれば、やはり、その図式の単純さに原因があると思う。それは著者自身が充分意識するところでもある。
第一に、住宅の地域性についての記述が薄い。「農家」住宅に存続し続けてきた「続き間」の問題など、都市と農村の住まいの二重構造、大都市のみならず地方都市における住まいのヴァリエーションは、同じように構造的に見ておくべきであろう。
第二に、住まいの集合形式についての視点が希薄である。長屋形式について一章割かれているが、他の考察はほとんど一戸の住戸(の間取り)に集中している。団地あるいはニュータウンなど、画一的な標準住居nLDKを単に並べ、重ねるだけの集合形式だけが問題にされているように見える。同潤会のアパートメントハウスなど、日本の集合住宅の歴史にはもう少し多様な展開の萌芽と可能性はなかったか。少なくとも、本書からは、街区や街の多様なありようが見えて来ない。
第三に、住まいという容器(空間)の生産―量と供給の論理―という視点が必ずしもはっきりしない。景気対策としての住宅金融政策には触れられるけれど、いわゆるプレファブ住宅、「商品住宅」は真正面から取り上げられない。日本の住居がかくも画一的であるのは、住宅生産の産業化の進展が決定的である。日本の住居史として、決定的な閾となるのは、一九六〇年代の一〇年である。一九五九年に日本に初めてプレファブ住宅(ミゼットハウス)が誕生する。そして、一〇年後に一〇パーセント近いシェアを占めるに至り、住宅産業が成立する。最も象徴的なのはアルミサッシュの普及である。この十年でゼロからほぼ百パーセントに至る。要するに、住宅の気密化によって空調によって室内気候が制御されるようになった。そして、日本列島から茅(藁)葺き屋根が消えた。この十年は有史以来の日本の住居の大転換期である。もうひとつの閾となるのは、一九八五年である。この年、年間新築戸数(フロー)のうち借家が持家を超えた。集合住宅が賃貸住宅を超えた。木造住宅が五割を切った。すなわち、資産を持たないものが手に入れることが出来る住居は、賃貸の非木造の集合住宅となって久しいのである。
日本の住まいは以上のように、地域性の論理、集合の論理、多様性の論理、歴史の論理・・・を欠いてきた。それ故、その近・現代史は一葉のマトリックスに収まってしまう、本書の主張はそういうことであろう。
それでは、「性別のない部屋」にまで還元された日本の住まいのこれからはどのように展望されるのか。「他人の記憶の形象」、「地球の裏側の親戚」などいくつかキーワードが匂わされるが、何故、そうなのかはクリアーではない。その方向は本書の整理の延長には無いのではなかろうか。
2024年9月8日日曜日
2024年9月4日水曜日
「言説」のみで「建築」を語る「限界」、八束はじめ『思想としての日本近代建築』、図書新聞、20051011
書評:八束はじめ著『思想としての日本近代建築』
「言説」のみで「建築」を語る「限界」、八束はじめ『思想としての日本近代建築』
布野修司
大著である。きちんとロジックを追うのはいささか骨が折れる。物理的にも重い。「思想としての日本近代建築」という、「思想」「日本」「日本近代」「近代建築」「建築」のいずれの間にも「・」(中黒)を入れて読みうる奇妙なタイトルの本著は、著者によれば、「思想史的な論考」であって、「建築がどのようなものであったかを具体的に論じるというものではない」。テーマとするのは(全体を通じて浮き上がらせたいのは)、「建築」を通して、「日本」という枠組みの中に成立した「近代」の姿である。
主として素材とされるのは、近代日本において孕まれ、記された「建築家」による言説であり、「近代建築史」に関わる論文・著作である。しかし、著者自ら認めるように、本書には、文学、美術、哲学、・・等々、実に多くの「ジャンル」の言説もまた、「煩瑣なまでに入れ替わり立ち替わり登場する」。読むのに骨が折れるのはそのせいでもある。しかも、構成を整除しすぎることを警戒したというのである。
しかし、本著はロジックを弄んでいるのでも、韜晦を決め込んでいるのでもない。かつて同じような作業を試みようとしたことのある評者には、少なくとも、「日本の近代建築」に関わるテーマは網羅され、議論されているように思われる。
全体は、三部に分けられ、それぞれ三~四章からなるが、大きく「国家・歴史・建築」「地方・モダニズム・住宅」「政治・国土・空間」というキーワードが与えられている。「明治」「大正」「昭和」戦前期が対応するが、記述の縦糸は各章を通じて張られている。
まず、著者は、「建築」「建築史」の起源、その成立を執拗に問う。焦点となるのは伊東忠太の著作・言説である。言説を成り立たせるフレーム、土俵、根拠を問う(メタ・ヒストリー)のは本書に一貫する構えである。
そして続いて「様式」が問われている。日本近代建築史の脈絡において問題にされてきた、「擬洋風」、「議員建築問題」(「国家と様式」論争)、「国民様式」論、「帝冠(併合)様式」等々の問題は本書で一貫するテーマとして論じられている。
著者のこれまでの仕事からはやや意外な気もしたが、評者のように、「住宅の問題」あるいは「計画の問題」に拘り続けているものにとって、第二部が全体的に「住宅」を焦点としているのは興味深くもあり、ありがたい。「風景」あるいは「風土」というキーワードとともに、「住宅」は、「日本」という「空間」を問う大きな手掛かりである。
空間的フレームとしては、具体的に、日本植民地の空間が問題にされている。本書の全体フレームとされるのは「国民国家としての日本」であり、「大東亜」の空間が問題となるのは当然といえば当然である。
本書の可能性と限界は、そのテーマ設定そのものにあるといっていい。日本近代建築史の既往の作業を見事に相対化、メタ・クリティークしてくれている。個々の作業の前提として、一方で必要なのはこうしたパースペクティブである。次元は低い言い方であるが、建築について語られ続けていることはまるで金太郎飴なのである。
しかし、本著から、「建築家」なり「作家」が何を学べばいいのか、ということになるといささか心もとない、というか、もともとそんなことは意図されていないのである。本書は、冒頭に宣言されるように、もとより近代建築史の本ではない。また、近代日本における「建築」あるいは「建築のあり方」を問う本でもない。それを求めようとすれば不満が残るのは当然である。「建築」を「言説」のみにおいて語るのは「限界」がある。
最大の不満は、昭和戦前期で記述を終えていることである。「あとがき」において、評者の名前を挙げ、戦後については、「布野修司氏の仕事(『戦後建築論ノート』『戦後建築の終焉』)があれば今のところで充分ではないかと思っている」と書くが、拙著が不十分であることは明らかである。戦後も60年になる。戦後にまで作業を進めるのは、本書を書いたものの若い世代に向けての義務であろう。
そして言説批判の書として決して小さくない不満は、引用、注、参考文献が入り乱れていることである。もう少し言説のリストを整理してもらえなかったか。何も頁数まで記せとは言わないが、後学のためには残念である。
昭和戦前期における、いわゆる「帝冠様式」「ファシズム建築」「前川國男評価」などをめぐって評者の言説も批判的に取り上げられている。特に「十五年戦争期」の問題は今日的でもあり、掘り下げられる必要がさらにあると思う。その文章を書いた頃、「同時代建築研究会」の仲間と共に戦時中の建築家の活動についてかなり精力的に聴いて回っていたことを思い出す。書かれないことをどう書くのか。同じ頃、著者と、書くこと、見ること、作ることの根源をめぐって議論したのがなつかしい。しかし、議論は決して過去のものではない。景観法が施行される中で、「勾配屋根」が取り沙汰されるのは現在のことなのである。(8月30日)
2024年9月3日火曜日
2024年8月25日日曜日
パネル・ディスカッション:パネリスト:「京都会館」開館45周年・前川國男生誕100年記念シンポジウム,「前川國男と京都会館」,京都会館,2005年10月10日
パネル・ディスカッション:パネリスト:「京都会館」開館45周年・前川國男生誕100年記念シンポジウム,「前川國男と京都会館」,京都会館,2005年10月10日
前川国男と京都会館
2005年10月10日
京都会館
2005年9月26日
「京都会館シンポジウム」タイムスケジュール
松隈 洋
テーマ:前川國男と京都会館
日時:2005年10月10日(月・祝)13:30~17:30 場所:京都会館 会議場
■事前の打合せなど
・パネラー司会者の集合時間 :11:30
・
建物を見学しながら意見交換 :11:30~12:30
・
会議室にて食事をしながら打合せ:12:30~13:30
■シンポジウム本番の進行表
1:あいさつ 13:30~13:35 5分
□松隈 洋(京都会館シンポジウム実行委員会・京都工芸繊維大学助教授):シンポジウムについての主旨を説明し、パネラーと司会者を紹介の後、布野さんへマイクを渡す。
2:司会者の言葉 13:35~13:50 15分 □布野修司(滋賀県立大学教授・前川國男展実行委員)
:『建築の前夜―前川國男文集』而立書房1996年刊の序論と時代解説を担当し、戦後モダニズム建築にも関心を寄せる立場から、前川國男とその築がもつ意味についてお話しいただき、基調講演へとつなげる。
○ 前川国男を知っていますか?
日本の戦後建築の歴史を代表する建築家を一人挙げるとすれば、多くが丹下健三を挙げるであろう。日本の戦後を象徴する広島平和会館原爆記念陳列館・本館をデビュー作とし、東京都庁舎、国立屋内総合競技場など日本の戦後建築をリードする作品をつくり続けたことといい、戦後還暦60年の区切りの年(2000年)に亡くなったことといい、その軌跡は鮮やかにその歴史を浮かび上がらせている。
丹下健三の先生が前川国男
それに比すると、前川國男の軌跡はいかにも地味である。しかし、日本の戦後建築のあり方により根源的に関わってきた建築家の代表をあげるとすれば前川國男である。前川國男という日本の近代建築史を代表する建築家の意義については、「Mr.建築家―前川國男というラディカリズム」[i]という文章を書いて付け加えることはないけれど、日本の近代建築の育つ土壌、建築家のあり方に深く関わって、建築界をリードし続けたのが前川國男である。
○ 一回の出会い 近代建築とは何か 宮内嘉久 『前川国男』 作品集がない
日本最初の近代建築家 分離派・創宇社
コンペ問題 定款様式
建築生産の工業化:プレモス テクニカル・アプローチ
建築家の職能
デザイン?? 「京都会館」
今、もっともラディカルな建築家はつくらない建築家である、という衝撃発言
つくることは暴力
壊すことも暴力
3:基調講演「京都会館と戦後モダニズム建築」 13:50~14:30 40分
□石田潤一郎(建築史家・京都工芸繊維大学教授)
:「関西のモダニズム20選」の選定委員主査を務めた経験から、日本の戦
後モダニズム建築の歴史的な意味について概説し、京都会館のもつ独自
の価値をお話しいただく。液晶プロジェクター使用。
《休憩 10分》
4:シンポジウム「京都会館と前川國男を語る」 14:40~15:30 50分
①事前の見学会と基調講演を踏まえての発言
□
岸 和郎(建築家・京都工芸繊維大学教授)
:ご自身の前川建築や京都会館との出会いから、その価値についてお話し
いただく。←偶然にも、岸氏は、京都会館が竣工した当時の前川國男と
同年齢の建築家の一人である。
□横内敏人(建築家・京都造形芸術大学教授)
:最晩年の前川國男に接した最後の所員の一人としての経験から、前川の
製図室での姿や、何故、前川事務所へ入ったのか、ルイス・カーンとの
比較など、個人的なエピソードを交えてお話しいただく。
②京都会館と戦後モダニズム建築の価値を巡って
③京都会館が今後より良い状態で使われるために必要なことは何か など…。
《質疑や会場からの発言を受ける》
A:京都会館は、京都府下の高等学校吹奏楽コンクール会場として長く使われ、いわば、
「吹奏楽の甲子園」としての歴史をもつ。その関係者から、使用者として京都会館
への思いをお話しいただく。
B:今年の3月、ドコモモ100選展のシンポジウム出席のために来日した、ボローニャ
大学教授で建築歴史家のマリステラ・カーシアート会長が、来京し、京都会館を見
学された。京都会館の伝統や環境に根ざしたたたずまいに感動したそうである。そ
のカッシアート氏から届いたメッセージを紹介する。/布野修司
5:各パネラーからまとめの発言をいただき、司会者の布野修司氏がしめて終了。
※
シンポジウムの内容については、記録を残し、将来的には活字化する予定。
■
見学会の進行表
1. 第1ホールの客席へ見学者が入場
2. 舞台袖から、京都会館館長、松本正治氏があいさつ
3. 京都会館の概要と見学会についての案内/松隈 洋
4. 舞台での音楽?
5. 自由見学に入る。
《 「京都会館」シンポジウムと見学会 企画書 》 2005年8月14日
■
タイトル
「京都会館」開館45周年・前川國男生誕100年
記念シンポジウムと見学会
■
リード文
京都会館は今年で開館45周年を迎えます。戦後、疲弊し荒廃していた京都に市民文化の拠点をつくろうと、さまざまな人々が尽力し、厳しい財政事情の中で建設されたのが、京都会館でした。以来45年、たくさんのコンサートや催しが行われてきた文化施設として、岡崎地区の景観を形づくるものとして、今や風景そのもののように周辺環境に溶け込み、その存在感のあるたたずまいは、長く市民に愛されてきました。
竣工当時には、日本建築学会賞や建築年鑑賞を受賞し、また近年では、2000年に、関西における代表的な近代建築との評価がなされて、「関西のモダニズム建築20選」に選ばれました。そして、2003年には、世界的な近代建築の評価と保存を提唱する国際組織である、DOCOMOMOの日本支部と日本建築学会によって、日本を代表する近代建築「DOCOMOMO100選」にも選定され、今や世界へとその価値が伝えらつつあります。
さらに、今年は、設計者である建築家・前川國男(1905~1986年)生誕100年の節目の年にもあたっています。12月23日からは、その仕事の全貌を紹介するはじめての展覧会が、JR東京駅構内にある東京ステーションギャラリーで開催される予定です。
こうした機会にあわせて、京都会館のシンポジウムと、普段は見ることのできないホール内部や舞台、楽屋、屋上などを含む、全館の見学会を企画しました。京都にとって、日本にとって京都会館がどのような歴史的な意味をもち、その建築的な価値はどこにあるのか、前川國男は京都会館に何を実現させようとしていたのか、京都の美しい秋を背景に、広く深く考えます。
■
データ
日時:2005年10月10日(月・祝)13:30~17:30
場所:京都会館 会議場(定員300名)
主催:京都会館シンポジウム実行委員会
協力:前川國男展実行委員会・京都会館
■
スケジュール
第1部 シンポジウム 13:30~15:30(12:30受付開始)
テーマ:前川國男と京都会館
司会:布野修司(滋賀県立大学教授)
パネラー:岸 和郎(建築家・京都工芸繊維大学教授)
横内敏人(建築家・京都造形芸術大学教授)
石田潤一郎(京都工芸繊維大学教授)
第2部 京都会館 見学会 15:30~17:30
案内:松隈 洋(前川國男展実行委員会事務局長・京都工芸繊維大学助教授)
■
参加方法
申し込み不要(当日先着順)
満員の場合はご入場いただけない場合があります。
■
参加費用:第1部、第2部共通(資料代を含む)
一般 1000円
学生 500円
■
問い合せ先:京都会館シンポジウム実行委員会
〒606‐8342
京都市左京区岡崎最勝寺町13
京都会館内 京都会館シンポジウム実行委員会
TEL:075‐771‐6051
■
「生誕100年・前川國男建築展」のご案内
会期:2005年12月23日(祝・金)~2006年3月5日(日)
会場:東京ステーションギャラリー
JR東京駅・丸の内中央口下車・赤煉瓦駅舎内
〒100‐0005 東京都中央区丸の内1‐9‐1
TEL:03-3212‐2485
ホームページ:http://www.ejrcf.or.jp
前川国男と戦後近代建築
布野修司
日本の戦後建築の歴史を代表する建築家を一人挙げるとすれば、多くが丹下健三を挙げるであろう。日本の戦後を象徴する広島平和会館原爆記念陳列館・本館をデビュー作とし、東京都庁舎、国立屋内総合競技場など日本の戦後建築をリードする作品をつくり続けたことといい、戦後還暦60年の区切りの年(2000年)に亡くなったことといい、その軌跡は鮮やかにその歴史を浮かび上がらせている。
それに比すると、前川國男の軌跡はいかにも地味である。しかし、日本の戦後建築のあり方により根源的に関わってきた建築家の代表をあげるとすれば前川國男である。前川國男という日本の近代建築史を代表する建築家の意義については、「Mr.建築家―前川國男というラディカリズム」[ii]という文章を書いて付け加えることはないけれど、日本の近代建築の育つ土壌、建築家のあり方に深く関わって、建築界をリードし続けたのが前川國男である。
敗戦直後、鮮やかに日本の戦後建築の行く末を見据え、確実に第一歩を踏み出したのは前川國男であった。戦後復興、住宅復興が喫緊の課題であり、まずは、戦時中(1944年)開設していた鳥取分室を拠点に「プレモス」に全力投球することになる。「プレモス」は、戦前の「乾式工法」の導入を前史とする建築家によるプレファブ住宅の試みの先駆けである。戦後の住宅生産の方向性を予見するものとして、また、住宅復興に真っ先に取り組んだ建築家の実践として高く評価されている。
前川國男は、また、戦後相次いで行われた復興都市計画のコンペにも参加している。他の多くの建築家同様、復興都市計画は焦眉の課題であった。そして、いち早く設計活動を再開し、結実させたのが前川であった。戦後建築の最初の作品と目される「紀伊国屋書店」が竣工したのは1947年のことである。1947年は、浜口隆一による『ヒューマニズムの建築』が書かれ、西山夘三の『これからのすまい』が書かれた年だ。また、戦後建築を主導すべく新建築家技術者集団(NAU)が結成されたのがこの年の6月である。
興味深いのは、前川國男がNAUに参加していないことだ。「新興建築家連盟で幻滅を味わった」からだという。前川の場合、あくまで「建築家」としての立場が基本に置かれるのである。
もちろん、前川國男が戦後の建築運動と無縁であったということではない。NAUの結成が行われ、戦後建築の指針が広く共有されつつあった1947年、前川は、近代建築推進のためにMID(ミド)同人を組織している。「プレモス」の計画の主体になったのはMID同人である。1947年から1951年にかけて、河原一郎、大高正人、鬼頭梓、進来廉、木村俊彦ら、戦後建築を背負ってたつことになる人材が陸続と入所する。戦前からの丹下、浜口を加えれば、前川シューレの巨大な流れが戦後建築をつき動かして行ったとみていいのである。
建築界の基本的問題をめぐって、前川國男とMID同人はラディカルな提起を続けている。「国立国会図書館」公開コンペをめぐる著作権問題は、「広島平和記念聖堂」コンペ(1948年 前川3等入選)の不明瞭さが示した建築家をとりまく日本的風土を明るみに出すものであった。また、MID同人による「福島県教育会館」(1956年)の住民の建設3加もユニークな取り組みである。前川國男事務所の戦後派スタッフの大半は、建築事務所員懇談会(「所懇」)を経て、5期会結成(1956年6月)に3加することになる。
しかし、敗戦から5〇年代にかけて日本の建築シーンが前川を核として展開していったのはその作品の質においてであった。
1952年には、「日本相互銀行本店」が完成する。オフィスビルの軽量化を目指したその方法は「テクニカル・アプローチ」と呼ばれた。また、この年、「神奈川県立図書館・音楽堂」の指名コンペに当選、1954年に竣工する(1955年度日本建築学会賞受賞)。前川國男は、数々のオーディトリアムを設計するのであるが、その原型となったとされる。また、1955年、坂倉準三、吉村順3とともに「国際文化会館」を設計する。さらに、「京都文化会館」、「東京文化会館」と建築界で最も権威を持つとされる賞の受賞歴を追っかけてみても、前川時代は一目瞭然である。
前川國男の一貫するテーマは、建築家の職能の確立である。「白書」(1955年)にその原点を窺うことが出来る筈だ。既に、戦前からそれを目指してきた日本建築士会の会員であった前川は、日本建築設計監理協会が改組され、UIA日本支部として日本建築家協会が設立される際、重要メンバーとして参加する。そして、1959年には、日本建築家協会会長(~1962年)に選ばれる。日本の建築家の職能確立への困難な道を前川は中心的に引き受けることになるのである。
しかし、職能確立への道半ばで、バブルの帰趨を見ぬまま前川は亡くなることになる。丹下健三がやがてバブルに翻弄され、日本の戦後建築の帰趨を示したとすれば、前川國男にとって日本の近代建築は、最後まで「未完」であった。 (建築批評・滋賀県立大学教授)
[ii] 拙稿、『建築の前夜 前川國男文集』(而立書房、1996年)所収(布野修司建築論集『国家:様式・テクノロジーーー建築の昭和』、彰国社、1998年)
2024年5月20日月曜日
どうする京都 岡崎,川勝平太(国際日本文化研究センター教授)上村淳之(日本画家)高木壽一(京都市副市長)布野修司(京都大学大学院工学研究科助教授)本多和夫(平安神宮禰宜)藤本圭司 (京都経済同友会事務局長)小原啓渡(アートコンプレックス1928プロデューサー)堀場雅夫(堀場製作所会長),司会 ばんばひろふみ,KBS京都,2005年1月23日放送
どうする京都 岡崎,川勝 平太 (国際日本文化研究センター教授)上村 淳之 (日本画家)高木 壽一 (京都市副市長)布野 修司 (京都大学大学院工学研究科助教授)本多 和夫 (平安神宮禰宜)藤本 圭司 (京都経済同友会事務局長)小原 啓渡 (アートコンプレックス1928プロデューサー)堀場 雅夫 (堀場製作所会長)、司会 ばんばひろふみ、KBS京都、2005年1月23日放送
どうする京都 岡崎メモ(2005年1月23日放送)
川勝 平太 (国際日本文化研究センター教授)
上村 淳之 (日本画家) 高木 壽一 (京都市副市長) 布野 修司 (京都大学大学院工学研究科助教授) 本多 和夫 (平安神宮禰宜) 藤本 圭司 (京都経済同友会事務局長) 小原 啓渡 (アートコンプレックス1928プロデューサー) 堀場 雅夫 (堀場製作所会長) |
・様々な施設が立地する岡崎は、京都市を代表する文化ゾーンとして位置づけられている。
・平安遷都1100年を記念して建立された平安神宮及びその一帯で開催された
第4回内国勧業博覧会。これを機に京都は産業、文化の面で発展し近代都市としての礎を
築くことになった。
→当時の人口40万人の京都に115万人が来場
→市民、役人、経済人が一致してがんばった
→単なる祭りで終わらないために、品評会が行われた
・当時の岡崎は「町衆」の気概を国内外に示した「魂のよりどころ」とでもいう場所であった。
・・・しかし今、その岡崎を、市民は「昔の面影がない」「閑散としているし、地味」
「若者はいかない。知らない」と。
・21世紀の京都を発信する拠点として再構築し、京都ブランドのひとつとしてその魅力を
発信することはできないか?。
■岡崎への思い
川勝
子どもの頃、動物園に行ったが楽しかった。中学生の時は京都会館ができたが、当時はハイカラな印象を受けた。現在は一帯は「重厚」「おとなしい」というイメージになっている。昼は静かで、夜は暗い。動物園のあり方についても、意味づけが変わってきている。全体的に位置づけを再考すべきであると思う。
上村
私も動物園は行った。絵を学ぶようになってからは、美術館に何度も行くようになった。
高木
岡崎は、「日本の都市景観百選」に選ばれている。岡崎のこのような点を伸ばせれば、と考えている。
藤本
一昨年、学生祭典を開催し、倉木麻衣さんにもきてもらったが、10万人も来た。平安神宮は美しいところだし、学生もそれに感激して、ずっとここで開催したいと言っている。
本多
先ほどのVTRには紹介されなかったが、平安神宮の地鎮祭の時には市民が三日三晩踊り明かして祝っていた。市民の思いは、相当強かった。
布野
私はよそ者でもあるので、岡崎について都市計画者としても考えたことはなかった。事前に歩いて感じたことは、空間的にはスケールアウト。間が多い。有名な建築家により設計されたものがいくつかあるが、統一感がとれていない。歩いて楽しい場所ではない。
小原
私は今日、比較的若い世代ということで参加していると思うが、岡崎は何となく「敷居が高い」「格調が高い」という感じを受ける。遊びの要素がかけているし、寄りつきにくいと思う。
堀場
市民がしらけだしたのがあるだろう。何についても燃えなくなった。まずは市民が燃えないといけない。持ち主は京都市が多いと思うが、もっと真剣に考えて、やる気を出す必要があると思う。私たちもよそさんの土地にあれこれ言いにくい。
高木
岡崎は都市公園に指定されており、建蔽率は10/100。この指定のためにあの環境が守られてきた、というのもある。
市有地については、市民のもの。市民の思いがあれば、変えていく方法はある。市民の中で盛り上がって「こうあればいい」という提案があれば、動く。
本多
明治26年9月3日に平安神宮で地鎮祭を行ったが、当時は京都復興への重いが相当強かった。しかし、次第にその思いは消えていった。当時は、市内中が電気をつけて花を飾ったりして盛り上がっていた。
■ 京都市の事業評価、施設の民営について
高木
この評価は、予算に反映させるために、出したもの。費用対効果の高いものが評価が高くなっている。「C」は効率が悪い、という評価であり、予算を減らす、という評価ではない。
藤本
施設は、管理だけではなく攻めも大事。サービスを考える必要がある。
堀場
運営を民間に任せていく、ということも必要。
上村
岡崎を文化発信の地とするならば、感性を養う場所になればいい。いいものはたくさんあるので、どんどん見せるためのスペースを設ける。しかしそれが欠けている。美術館の常設も狭いので、もっと広げていく必要があるのではないか。
高木
民間に任せるものは増えている。しかし管理のみの委託であり、財団や協会などがほとんどで、純粋な民間か、というとそうではない。今後は、企画の委託も考えていく必要があるだろう。
川勝
当時は「日本の中心は京都だ」という思いと危機感があった。しかし今の京都はおっとりしていて、危機感がない。
堀場
岡崎でうまくいかなかったら、京都はもうあかん!という象徴的なものとしてがんばっていってはどうか。東京出張のため失礼するが、活発な討論を期待している。
小原
指定管理者制度について、京都はどのように考えているのか。公的な文化施設を民間でやっていく方針などはどうなっているか。民営となると、赤字は許されないし、経営努力をする。企画も変わってくるのではないか。
高木
ここ2年のうちにすべて移行していく予定。管理者を入札などで決めていく。
藤本
民間に任せていいものと悪いものがあると思う。例えば、前回の学生祭典は台風に見舞われたが、京都会館の人は対応が素早かった。ほとんど徹夜で対応してくれて、学生も感激していた。要は人の問題なのだろう。使命感を持って取り組めるようにする必要。
■空間整備
布野
ソフトの問題は大きいが、都市公園という位置づけも大きい。疎水については、当時は産業的な位置づけであったが、今では文化的な意味合いになっている。意味づけが、だんだん変わってきている。今後、どのような位置づけを持っていくか、というビジョンが大事。歴史上で生じているちぐはぐをどう束ねていくか。
本多
平安神宮は、建設については当時は国は反対していた。予算書を見るとわかるが、予算もほとんど付いていない。そこで市民は全国行脚をして、お金を集めた。平安神宮は、市民の熱い思いが作った、と言っていい。芸術や文化施設については、神社にある「奉納」、つまり今ある最新のものを供える、という意味で作られたと私は思っている。
上村
日本人の感性である、自然との共生を体験できる空間を体現してほしいと私は考えている。そういう意味で、現在の動物園はその趣旨に反する。
高木
岡崎が都市公園に指定されている理由としては、京都は公園面積が少ない上に、広域避難場所がどうしても必要。ハード面では、岡崎はいい空間を保っていると思う。あとはソフト面でどう運営していくか、どんなにぎわいづくりをしていくか、ということが大事なのだろう。
京都会館をもう少し建て増ししていくことは、可能。しかし新規に別の建物を増やすことは考えにくい。木のライティングなどは、ソフト事業として可能だと思う。
布野
中国では、地下にショッピングセンターを作るなど、今あるものを再利用しながら思いもかけないものを作ったりしている。
藤本
縛りは、人間が作ったものだから変えればいい。まずは位置づけをどうするか。どう生かし、連携し、仕掛けていくか。
今ある行政の縛りの中でやるか、連携をしながら縛りをなくしてやっていくか。まずはビジョンを明確にしていく必要があるだろう。
■ 賑わいづくり
高木
例えば、カフェテラスを出すような場所はある。道路に出すのではなく、敷地内で出していくのは可能だと思う。
藤本
部分的にやっていくのはできるかもしれないが、トータルに見て、戦略を立ててやっていく必要があるだろう。公園法の縛り、人の意識の縛りがある。「特区」に指定して、取り組んでもおもしろいのではないか。
高木
みんなで考えて、取り組んでいく必要がある。賑わいを市民が力を合わせてやっていく。広い意味で、ソフト面の賑わいをみなさんの知恵を借りながら作っていく必要がある。
小原
意識の問題として、「行政に頼る」というものがある。今はPFIがあるし、ドイツでは公共事業の30%に導入されている。つまり民間の知識や財力、技術を生かしていく、という意識も必要だと思う。カフェが1件や2件増えるだけではなく、コンセプトを定め、博覧会当時のような先進性を持たせていくことが必要。そのような取り組みに、行政がバックアップするような仕組みと具体策が必要ではないか。
■どういうコンセプトで再構築するか
ばんば
京都会館。設備をもっとよくすれば、「来たくても来られない」というアーチストも来るようになるのではないか。
川勝
疎水や電車、動物園などを見ると、岡崎はこれまでの役割は終わったと思う。しかし、これからの新しい役割がある。その姿として、歩ける、若者がたくさん出入りするような賑わいがある、というもの。また、東京のキャッチアップからの脱皮も求められている。そのためには発進力を備え、国際性を備えていく必要。
京大、祇園、南禅寺は歩ける距離。しかし、歩く気がしない。これらに連続性を持たせれば、歩くようになる。あと夜が暗い。暗いと言うことは、生活がない、ということ。動物園や京都会館は、今の役割にあうように再構築する必要を感じている。
上村
美術館は、面積が小さいし展示数も少ない。もっと満喫できるようにする必要があるだろう。芸術大学は西京区大枝に移動したが、このために京都の文化を体感できないまま卒業する学生が増えている。
藤本
岡崎周辺は、桜が大変きれい。しかし、現状では陳列に終わっている。このために交通対策が必要。そして楽しい場所にしていく。人の温かさがでるようにすれば、人は集まってくるだろう。
動物園については、従来の役割は終わったかな、と思う。勝手に言うのは簡単だが、動物園をどこかに移動して、その跡地に芸術系の大学を持ってこれば、学生でにぎわうのでは。
布野
土地の記憶をベースに再構築していく必要があるだろう。例えばあの空間に平安時代を再現するとか、かつてあった九重の塔を復元するとか。博覧会は、第4回内国博覧会以前から明治4年以降毎年開催されています。これを現在も連発するとかも考えられる。建都1200年の時、グランドビジョンのコンペがされた。私も審査に関わっていたが、そこででたアイデアに「100年かけて1200年を振り返る」というものがあった。1ヶ月で1年振り返ることになる。そのようなイベントを打つという提案があったが、イベントを開催するのもおもしろい。
建築家としては、総合地域計画として、エコ・タウンのモデルを整備するなども考えられる。あとは人が歩いて楽しいような工夫が必要。
小原
京都がすでに持っているアドバンテージ、強いカードがある。文化芸術的なことがどうビジネスと結びつくかが大事。
私が提案したいのは、「国際オークションセンター」。これは新規に施設を作るのではなく、既存の建物内に備えるのも可能。ネットオークションは近年すごく伸びており、現在600万点の出展がある。オンラインビジネスの20%がオークションで稼いでいる現実もある。このような将来ビジョンも含めて、ネットオークションセンターを設置してはどうかと思う。
京都の技術、工芸品、コンテンポラリーアートをネットで全世界へ発信し、参加してもらう。プレゼントビジネスが重なっている。ネットで若手の作品を公開して、年に数回ライブで実施し、集客をはかる。サザビーでは1回開催すると100億円が動いている。このような取り組みに行政が参加すると、信頼性が高まる。
このような発送で、新しいビジネスモデルづくりが大事だと思う。
ばんば
弘法さんのようなものが、平安神宮でできないだろうか。
本多
年に一度だけ、「京の朝市」というものを、市が音頭をとってやっている。敷地内で月1回、弘法さんのようなものをするとなると、受け入れ側としては少々しんどいかな、と思う。
平安神宮の庭は、生態系の受け継ぎ装置にもなっているので、エコタウン的なものをやっていくことはやりたいと思う。
■ 交通問題について
高木
テーマ性を持たせて考えるにあたり、特定のテーマにまず絞って、肩肘張らずに楽しめるものになれば、と思う。
動物園は来場者が多いし、テーマによっては美術館も観光客数がトップ5に入ることもある。しかし、それぞれがつながっていないのが現在の問題。個人的な夢としては、車が通らないトランジットモール化してはどうかな、と思っている。LRT的で、京都らしい新しいものを作って、地下鉄の東山三条から行き来するようなタウンづくり。
藤本
一番困るのは、交通問題。車を止められれば、歩いて楽しいゾーンになるだろう。車が入るために、思い切ったパフォーマンスもできない。例えば、インクラインを使って、船に乗って琵琶湖にでられるような交通が整備されれば、桜の季節などはいいだろう。
布野
歩いて楽しいための小物は、そんなにお金をかけずともできる。
小原
若い人の興味の対象を考えると、ネットなどは今や生活必需品になっている。若い人だけにあわせるのではなく、将来どのような生活スタイルになるかをにらんだ上でのビジョンづくりが大事で、それを先取りしていく必要がある。
上村
何か一つ、まず手をつけていく。全体的なものは長いスパンをかけてやっていく。縦割りを越えて、例えば植物園と動物園を一緒にしてもいいのではないか。動物も家畜的な飼い方ではなく、自然との共生を実感できる空間として整備していく。そのようなことは、民間の方がうまい。
■ 岡崎のビジョン
高木
岡崎は、軟式野球の発祥の地。使用率は高いので、だいたいの場所は必要になるが、例えばそこを芝生公園にして、大道芸人がパフォーマンスしているのも楽しい。楽しい場所に変えていく必要性は感じている。
藤本
岡崎が、京都市政の縮図のように感じている。今後を占う場所であると思う。やる気があるのかどうか、長期的に考え、計画的に取り組んでいく必要。そのためには、まず岡崎の位置づけが必要。機能を考え、戦略的に取り組み、京都の活性化の拠点としていく。
高木
行政にビジョンがなければ動けない、というのも問題だと思う。市民がみんなで考え、それを実行していくことが大事。今のところ、ビジョンや提案などは何もない。いろんなところで声が出て、今日をきっかけに集まって考えをまとめていこう、という動きになればいいと思うし、可能だと思う。
小原
こういう場があったので、私は先ほど提案したが、もっとこういう場があれば集まるのではないか。
高木
社会実験的なものであれば、経費をかけずにできる。しかし、後ろを向いたら誰もいなかった、というのは困る。
小原
下世話な話だが、そういう取り組みを税金でやるだけでなく、ビジネスとして成り立ち、京都のブランド化、活性化に結びつくおいしい話であれば、人は寄ってくると思う。
藤本
提案は同友会でもいろいろやっているし、方向性を示したりしているが、やはり行政による都市計画は大事だと思う。必要であれば経済界といわず市民クラブで場を作ってもいい。岡崎の今回のような話題性を持たせることが、第一歩であろう。
川勝
京都にしかできないことが岡崎で展開されている。1200年の歴史がすべて集約できる場所。グランドも、当時は新しかった。動物園もそう。今後は今とは違う形で活かし、すべての市民のためになる必要。
そういう意味でも、車を入れずにトランジットモール化し、市民が来て、歩けるような空間にする。それと遷都祝祭日を設けて、例えば「毎月22日は何をやっている」というような京都にしかできないことをする。
本多
毎月22日、何かを催すのは可能だと思う。倉木麻衣さんや藤井フミヤさんは「奉納」という意味でコンサートをやった。アーティストに奉納する気があれば、コンサートも可能。
川勝
西陣織もそうだが、ファッションを軸にした新しい取り組みもいいのではないか。
上村
アーティスト側からの提案も、もっとやっていくべきであると今反省している。しかし京都では「宣伝するのはちょっと」というのもある。しかしこれを改めていくべき、という感もある。
藤本
経済同友会では「京都100年考」という提言書を出した。現在イスラム教があのようなことになっているが、今後は仏教が世界平和に貢献するかもしれない。そういう意味で、木造の塔を作り、宗教研究所を作ったり、あるいは寝殿造りを再現して体感できるような空間づくりもいいだろう。
以 上
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