このブログを検索

ラベル 建築ジャーナリズム の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 建築ジャーナリズム の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年4月3日金曜日

平良敬一さん お別れの会 弔辞、2023 年10 月31 日(火)16:30~18:30(受付開始16:00)会場 : 学士会館 201

 平良敬一さん お別れの会 弔辞、2023 年10 月31 日(火)16:30~18:30(受付開始16:00)会場 : 学士会館 201

 事務局の小泉淳子さん、泉幸甫さんから、何か話すようにと言われて、快諾していたのですが、体調を崩して入院する羽目になり、お別れの会に出席できなくなりました。時間が許す範囲でご披露いただければと思い、皆さんにお話ししようと思っていたことを書いてみました。小泉さんに代読をお願いいたしました。

 

平良敬一さん お別れの会 弔辞

平良さんの仕事については、今年、『住宅建築』500号に寄せて、「平良敬一という建築メディア-」というタイトルで書かせていただきました。平良敬一と建築メディアではなく、平良敬一自身が「建築メディア」だったということです。

平良さんと出会ったのは、1976年暮れに、宮内康さん、堀川勉先生と始めた同時代建築研究会のシンポジウムにおいてです。同時代建築研究会は,1978年に「戦後史をいかに書くか」という連続シンポジウムを、稲垣栄三,大谷幸夫,宮内嘉久,川添登,,藤井庄一郎の5人の先生を講師に招いて行うんですが,それに続いて1983年に「空白の一九四〇年代ー戦争と建築」(パネリスト 浜口隆一・神代雄一郎・平良敬一),「近代と近代建築の終焉ー一九五〇年代の建築と文化」(パネリスト 神代雄一郎・鬼頭梓・平良敬一)に続けて出てもらったんです。シンポジウムは、まさに饗宴であって,この時、お酒を酌み交わしながら、平良さんに学んだことには計り知れないものがあります。

今でも覚えているのは,何を評価するのか,建築家か建築か?人か物か?という議論です。建築家と建築は切り離せないという神代さんに対して、平良さんは建築派でした。有名無名を問わず、組織事務所、アトリエ事務所を問わず、建築を評価する姿勢は編集の基本姿勢として貫かれていたと思います。ただ,平良さんの編集方針の基幹にあったのは「建築家」の「デザイン」その「作品」ではない、建築がいかにあるべきか,都市がいかにあるべきかだった、と思います。次々にメディアを立ち上げられたのは,われわれを取り巻く全環境のあり方が関心の中心であったからです。平良さんのいう建築は,社会システムと切り離せないものと考えられていたわけです。もちろん、目指すべき建築としてヴァナキュラー建築の世界が念頭に置かれていたことは言うまでもありません。「機能主義を超えるもの」は、その理論化のための未完の論考です。最終的な根拠地としたのが『住宅建築』なんですね。

私は、平良さんに出会ったころ、並行して『群居』というワープロ雑誌の創刊(創刊準備号198212月,創刊号19834月)に関わり,終刊50号(200012月)まで編集長を務めるんですが、「編集の神様」に思えていた平良さんには,折に触れてアドヴァイスを受けました。会員制の部数が2000人になった時「あとは減るだけだ」と言われてその通りになったのは、さすがプロと思ったものです。渡辺豊和さんと始めたAF(建築フォーラム)『建築思潮』(創刊号199251998)については、その名前を使いたいと平良さんに懇願して許可を得ました。そして、随分協力もして頂きました。

創刊号の私のロングインタビュー「戦後建築ジャーナリズム秘史」は、平良敬一建築論集『機能主義を超えるもの』のあとがきのベースになっています。平良さんとは、「建築ジャーナリズムの戦後50年」(旭硝子株式会社,対談 平良敬一・布野修司,GA,1995SPRING)など、折に触れて、建築とメディアをめぐって議論させていただきました。

『群居』以降,『traverse(2000)『京都げのむ』(京都コミュニティ・デザイン・リーグCD2001年~2006『雑口罵乱(ざっくばらん)』(談話室,滋賀県立大学,2007年~)の立ち上げに関わってきました。『建築雑誌』(日本建築学会)には3度編集委員会に加わり,最後は 編集長(20021月号~200312月号)を務めました。そして,WEB版『建築討論』(日本建築学会)を立ち上げ,編集長を務めました(2014年~2017年 No.0113)。

平良敬一さんとは,2017511日に東京竹橋の学士会館で開かれた平良さんの唯一の建築論集『機能主義を超えるもの』の出版をお祝いする会が最後となりました。そろそろ会が終わりかける頃,平良さんは近くにいた何人かをひとりずつ呼んで短い時間個別に話をされたんですが、紙媒体雑誌の衰退と平良さんのような編集者の不在を嘆いた私に対して,平良さんは「そう思うのなら,ひとりでもやれ!」と言われました。。私への遺言です。

その時のシンポジウムに登壇された内田祥哉先生,長谷川堯さん,そして磯崎新さんも相次いで逝ってしまわれました。そして、今年の6月末、私の建築ジャーナリズム・デビューをバックアップしてくれた彰国社の元『建築文化』編集長・田尻裕彦(たじりひろよし)さんも無くなられた。寂しい限りです。

平良さんの訃報を聞いてまもなく,新たなメディアの立ち上げも視野に「平良敬一と戦後建築ジャーナリズム」について改めて考えてみようと,田尻裕彦,神子久忠,中谷正人,川床優さんにインタビューを始めました。川床優さんは先日亡くなってしまいました。A-Forumで斎藤公男先生と「建築とジャーナリズム研究会(AJ研)」を立ち上げましたが、かたちにする作業は遅々として進みません。山本理顕さんが立ち上げた『都市美』の編集に松山巌さんと関わっていますが、ようやく3号が本日出版されました。今のところのひとつの希望です。4号の企画は既に決定しているんですが、平良さんには評価いただけるんじゃないかと思っています。私自身、残された時間がどれだけあるのかわかりませんが、平良さんの志と夢を、若い世代に引き継ぐ役割を果たしたいと思っています。                       以上。

2023年1031


 

「平良敬一さん お別れ会」のご案内

 

拝啓 暑い日が続いておりますが、皆々様におかれましては、お変わりなくお過ごしのことと存じます。

速いもので平良さんが亡くなって、既に3 年余りの月日が流れました。葬儀、一周忌、三回忌とも、ご遺族の新型コロナ感染への配慮から、ご家族のみで執り行われました。やっとコロナも落ち着き、生前お付き合いのありました皆様方とお別れの会をもちたく、ご案内申し上げます。

会費制とさせていただきますので、ご香典、ご供花はご辞退申し上げます。また、お越しいただきました皆様には、住宅建築500 (電子書籍、日本の集落1 (電子書籍、1 3 巻からお好きな 1 、平良敬一を偲ぶ 2024 年オリジナルカレンダーをお持ち帰りいただきたく、準備いたしております。

ご多用中とは存じますが、ご来臨賜りますようお願い申し上げます。       

2023 8

 

――――

日時 2023 10 31 (火)16301830(受付開始1600会場 学士会館 201東京都千代田区神田錦町3-28

電話03-3292-5936(代表)会費 12,000

申込 8 31 (木)までにご返信をお願いいたします。

発起人 : 安藤邦廣・秋山実・泉幸甫・伊志嶺敏子・植久哲男・川口通正・岩為・北田英治・齋藤裕子・平良辰夫・内藤廣・楢村徹・畑亮・布野修司・

降幡廣信・堀部安嗣・益子義弘・松隈洋・三井所清典・宮本隆二・ 山田脩二・横内敏人(五十音順)                                                   建築資料研究社・建築思潮研究所

事務局: お別れ会 実行委員会

京都墨田区両国4-32-16 両国プラザ1103 130-0026 建築思潮研究所 電話:03-3632-3236                                    e-mailkoizumi3632@gol.com

 


 

 平良敬一&布野修司

❶国家と様式 1940年代の建築と文化,浜口隆一・神代雄一郎・平良敬一・同時代建築研究会 司会 堀川勉・岡利実,建築文化,198409同時代建築研究会シンポジウム:空白の一九四〇年代ー戦争と建築,浜口隆一・神代雄一郎・平良敬一,19831209:『建築文化』19849月号所収)

同時代建築研究会シンポジウム:近代と近代建築の終焉ー一九五〇年代の建築と文化,神代雄一郎・鬼頭梓・平良敬一,19841208

❸戦後建築ジャーナリズム秘史、建築思潮Ⅰ、学芸出版社, 19930320(布野インタビューまとめ)→増補「あとがきに代えて 戦後建築ジャーナリズムとともに歩む」(平良敬一建築論集『機能主義を超えるもの』風土社、2017

❹建築の現在、宇野求、高橋晶子、小嶋一浩、塚本由晴、仲條純一、貝島桃代、太田浩史、平良敬一、建築思潮Ⅰ、学芸出版社, 19930320

❺建築戦争がはじまる、AFシンポジウム、平良敬一+渡辺豊和+山本理顕+布野修司+宇野求+高島直之、建築思潮Ⅱ、学芸出版社, 19930320(第二回AFシンポジウムシンポジウム:建築戦争が始まる,宇野求・平良敬一・山本理顕・渡辺豊和・布野修司・高島直之(司会),大阪YMCAホール,19921119

❻事実に基づかない都市計画、大谷幸夫 聞き手 平良敬一+布野修司+宇野求、建築思潮Ⅱ、学芸出版社, 19930320

❼平良敬一、建築ジャーナリズムの構図:その可能性について、建築雑誌、198712

アジアのヴァナキュラー建築,座談 平良敬一・太田邦夫・山本理顕・佐藤浩司・浅川滋男, 建築思潮,学芸出版社, 19930320

戦後近代建築思潮を見直す,敗戦からオリンピックまで, 浜口・平良・林・布野,新日本建築家協会,JIA NEWS,199409:シンポジウム:戦後近代建築思潮を見直す,敗戦からオリンピックまで, 座談,平良敬一・浜口隆一・林昌二,住宅建築, 建築資料研究所,199411

シンポジウム:パネリスト:山本学治を語る,東京芸術大学,稲葉武司(司会)平良敬一・山本厚生・山本理顕,東京芸術大学,19941214

建築ジャーナリズムの戦後50年,旭硝子株式会社,対談 平良敬一・布野修司,GA,1995SPRING

「丹下健三」の読み方 そしてそれを乗り越える戦略は?,座談,建築ジャーナル,磯崎新・平良敬一・古谷誠章, 建築ジャーナル,199512

20世紀から21世紀へ向けて贈る言葉戦後の住宅建築史をめぐって, 布野修司・中谷礼仁・伊藤ていじ・内田祥哉・林昌二・平良敬一,住宅総合研究財団,1998夏(シンポジウム:住宅総合研究財団設立五〇周年記念シンポジウム,立松久昌・伊藤ていじ・内田祥哉・平良敬一・林昌二・布野修司・中谷礼仁,19980325

⓮インドネシアの「カンポン」に学ぶこと,対談 平良敬一vs布野修司,造形21199906

⓯棲み分けの理論へ・・・「形の論理」と構想力,平良敬一氏の「『空間論』から『場所論』へ」をめぐって,C&D1999

⓰パネル・ディスカッション:パネリスト:「生きている住まいーアジア・ヴァナキュラー建築序説ー」,平良敬一,鈴木喜一,神楽坂建築塾,神楽坂アユミギャラリー,20051211

⓱書評 平良敬一『平良敬一建築論集 機能主義を超えるもの』 風土社(201751日) 生き続ける戦後の初心 2017/08/03 | WEB版『建築討論』013号:2017年秋(7月ー9月)http://touron.aij.or.jp/2017/08/4270

 

布野修司 『住宅建築』

住まいにとって豊かさとはなにか,住宅建築,198404

分衆・フェミニズム・資本主義,住宅建築,1986

原点としての住宅,「大きな物語り」の脱構築のために,住宅建築,198811

建築生産社会の構図,住宅建築,198812

対談 藤井正一郎+布野修司:建築生産社会の構図ー建築と建築文化の懐-,住宅建築,198812

[方丈庵]の夢ーーー原点としてのローコスト住宅,住宅建築別冊39,建築資料研究社,19900610

戦後近代建築思潮を見直す,住宅建築,199411

内田祥哉展シンポジウム,原広司・藤森照信・布野修司・隈研吾,住宅建築,200403

『前川國男 賊軍の将』をどう読むか,松隈洋・鈴木了二・辻垣正彦・山口廣・布野修司,『住宅建築』,200702

住宅建築400号記念「そして,『住宅建築』が残った・・・ヴァナキュラー建築の地水脈」,『住宅建築』,200808

生きている住まいー場所と身体,『住宅建築』200903

「シュウちゃん」の夢ーカワラマンと瓦の世界史,『住宅建築』200903

原爆堂と日本の戦後「虚白庵にてー白井晟一を語るー」虚白庵,住宅建築,201001

新居照和+新居ヴァサンティ論「新たな建築家像を目指して インドに学ぶー地域に生きる原理」『住宅建築』,201003

シンポジウム:戦後近代建築思潮を見直す,敗戦からオリンピックまで, 座談,平良敬一・浜口隆一・林昌二,住宅建築, 建築資料研究所,199411

 

2026年2月19日木曜日

平良敬一という建築メディア、『住宅建築』500号、2023年8月号

 

平良敬一という建築メディア-『住宅建築』500号に寄せて

布野修司

 

 「対抗者の視座がある。抑圧されている側によりそって,運動を起こしている。事件の渦中に好んで入っている。/ユートピアが死んで,マニフェストが無効になった時代の近代建築を新しい媒体としての建築雑誌(メディア)をつくりだすことによって活性化する。/宮古島生まれのオキナンチュウヒララが記しつづけたのは,中心にある権力に対して,これを足元からゆすぶりながら崩していこうとする南島の風土に根づいた記憶にある。/いつも控えめではにかんでいる。だが編集の手つきは過激である。/ゼネコンのつくった編集部にいながら,町の工務店の手仕事をつくりはじめる。/テクノクラートがつくる都市を批判して,エコがつくりだすすまいをとさがす。/91歳のいまも,平良(ヒララ)敬一は対抗者でありつづける。」(磯崎新「対抗者 平良敬一」『平良敬一建築論集 機能主義を超えるもの』帯)

 

平良敬一とは何者か?

戦後日本の建築界を代表する建築ジャーナリストであり,編集者である。

しかし,それ以上の何者かである。磯崎新が,見事にその核心を言い当てている。

建築ジャーナリストとは何者か?あるいは編集者とは何者か?SNSがコミュニケーション手段となり,WEBマガジンが一般化するなかで,改めてその役割を問い直したいと思う。

 

 そう思うのなら,ひとりでもやれ!

平良敬一さんが亡くなったのは2020429日である。Covid-19の感染が大都市圏から地方にも広がり全都道府県に416日に緊急事態宣言が出されてまもなくのことである。遡ること3年前,2017511日に東京竹橋の学士会館で開かれた平良さんの唯一の建築論集『機能主義を超えるもの』(風土社,2017)の出版をお祝いする会(平良敬一さん「建築論集」の出版を祝う会)でお会いしたのが最後となった。そろそろ終わりかける頃,平良さんは近くにいた何人かをひとりずつ呼んで短い時間個別に話をされた。紙媒体雑誌の衰退と平良さんのような編集者の不在を嘆いた筆者に対して,平良さんは言われた。「そう思うのなら,ひとりでもやれ!」。筆者への遺言である。

平良さんの「お別れの会」が開かれないままに,その時のシンポジウムに登壇された内田祥哉先生(19252021),長谷川堯さん(19372019),そして磯崎新さん(19312022)も相次いで逝ってしまわれた。訃報を聞いてまもなく,新たなメディアの立ち上げも視野に「平良敬一と戦後建築ジャーナリズム」について改めて考えてみようと,田尻裕彦,神子久忠,中谷正人,川床優などにインタビューを始めた。また,A-Forumで斎藤公男先生と「建築とジャーナリズム研究会(AJ研)」を立ち上げた[1]。しかし,かたちにする作業は遅々としてすすまない。そうしているうちに『住宅建築』は500号になるという。筆者は,創刊200号記念特大号の「座談会:200号まで来た」(布野修司・益子義弘+平良敬一・立桧久昌・植久哲男:199111月)に呼ばれている。また,400号記念に「そして,『住宅建築』が残った…ヴァナキュラー建築の地水脈」」(20088月)という文章を寄稿している。それから15年,平良さんの遺伝子である『住宅建築』(小泉淳子編集長)の驚異的な持続力に心から敬意を表したい。

  

 戦後建築と平良敬一

 平良敬一の軌跡については,『機能主義を超えるもの』のあとがき「戦後建築ジャーナリズムとともに歩む」がある。筆者がインタビューをもとにまとめた「戦後建築ジャーナリズム秘史」(『建築思潮』Ⅰ「未踏の世紀末」,学芸出版社, 19930320)を増補したものである[2]

敗戦後,建築家が大同団結した新日本建築家集団NAU(New Architects Union)19471951)の事務局に入って,機関紙『NAUM』の編集に携わって以降,『国際建築』(1950入社)『新建築』(1953入社~1957)『建築知識』(全日本建築士会出版局,1963創刊・編集長)『建築』(槙書店,青銅社,1960創刊・編集長)鹿島研究所出版会移籍(19621974)『SD』(1965創刊・編集長)『都市住宅』(1968創刊)建築思潮研究所設立(代表取締役1974)『住宅建築』(建築資料研究社,1975創刊・編集長)『造景』(建築資料研究社,1996創刊・編集長)と編集活動は一貫している。さらに『住宅建築』別冊『店舗と建築』『建築設計資料』があるし,『チルチンびと』(風土社)の創刊(1997)にも関わっている。戦後日本の建築雑誌のほとんどすべてに関わってきたのが平良敬一である。こうした戦後建築ジャーナリズムの歴史については,さらに「建築ジャーナリズムの戦後50年」(対談 平良敬一・布野修司,GA1995 SPRING)がある。

 「昭和戦後」生まれの建築家たち,少なくともICT革命以前に建築を学んだ建築少年たちは,平良敬一に代表される編集者によって編まれた建築雑誌を読んで育った。平良敬一そのものが戦後建築のメディアであった。

戦後建築ジャーナリズムの場には模索すべき共通のテーマがあった。誤解を恐れずに言えば,それは「近代建築批判」[3]であり,平良さんのいう「機能主義を超えるもの」である。建築メディアが果たすべき役割の第一は建築をめぐる様々なプロブレマティークを議論する場を用意することである。川添登・宮島圀夫・平良敬一・宮内嘉久の4人体制の『新建築』を黄金時代と平良さんは振り返るが,伝統建築論争など建築界の議論をリードしたのが『新建築』であった。ただ,この黄金時代は村野藤吾の有楽町「そごう」の評価をめぐって4人全員解雇に終わる(「新建築問題」)。

 

 自立メディアと商業メディア,そして運動としてのメディア

 平良さんと最初に会ったのは「同時代建築研究会」[4]においてである。同時代建築研究会は,第一期連続シンポジウム(戦後史をいかに書くか,稲垣栄三,19780114:建築における近代化,あるいは近代主義について,大谷幸夫,19780128:戦後建築ジャーナリズム,宮内嘉久,19780210:伝統論からメタボリズムへ,川添登,19780225:建築の危機と建築家,藤井庄一郎,19780311:『建築文化』19780811)に続いて「空白の一九四〇年代ー戦争と建築」[5](浜口隆一・神代雄一郎・平良敬一,1983129日),「近代と近代建築の終焉ー一九五〇年代の建築と文化」(神代雄一郎・鬼頭梓・平良敬一,1984128日)を開催する。今日であれば,YouTubeで発信,録画記録するだけで,興味があればご覧くださいで終わってしまうのだけれど,現場での議論を文章にして活字化する作業が編集の基礎作業である。そして,シンポジウムは饗宴であって,お酒を酌み交わしながら学んだことは多大である。

 筆者は,並行して『群居』というワープロ雑誌の創刊(創刊準備号198212月,創刊号19834月)に関わり,終刊50号(200012月)まで編集長を務めることになる。そのひとつのきっかけとなったのが,筆者自身が参加を求められた宮内嘉久さんの新しい建築雑誌『地平線』創刊をめぐる「事件」―編集方針をめぐる意見の対立で筆者が離脱,結果として創刊を潰したとされる―である。

平良さんと嘉久さんはNAUの事務局時代からの言わば同志で,『新建築』でも一緒であったし,『新建築』退職後には「宮内平良編集事務所」を設立している。また,1970年代初頭のAF(建築戦線)の活動も共にしている。しかし,建築メディアについての考え方は異なっていったように思われる。平良敬一も宮内嘉久も既に建築ジャーナリズムのレジェンドであり。若い世代にとっては歴史上の人物である。二人については,楠田博子戦後建築雑誌における編集者・平良敬一の研究̶ " 機能主義を超えるもの" の変遷と実践 ̶』(東北大学大学院工学研究科,2015年度修士論文),福井駿『編集者宮内嘉久の思想と実践について』(京都工芸繊維大学大学院,2020年度修士論文)という修士論文が書かれている。幻の雑誌『地平線』をめぐる「事件」の詳細は,福井論文に資料として収められた筆者へのインタビューに委ねるが,要は,特定のパトロンに依存する雑誌の財政基盤,特定の建築家,特定の建築作品傾向を排除する編集方針に対する違和感である。建築メディアの基本原則の第二は,あらゆる批判を議論の場に挙げることであろう。

嘉久さんは「建築ジャーナリズム研究所」の解体以後,『廃墟から』という個人誌に依拠することになる。現在であれば,個人誌はブログというかたちで展開可能である。そして,『風声』『燎火』という著名な建築家の同人誌の編集に向かう。その頃,筆者は「自立メディア幻想の彼方へ」(螺旋工房クロニクル,建築文化,197809)を書いた。嘉久さんとしてみたら,再び開かれた場としての『地平線』の構想であったと思う。嘉久さんは,後に『建築ジャーナル』の編集に関わっている。編集者として自立して生きていくことは容易ではない。嘉久さんは何冊もの建築論集をまとめるが,編集者というより評論家であったと思う。

『群居』という会員制のメディアの立ち上げに参加したのは,自分なりの答えを模索したいと思ったからである。「編集の神様」に思えていた平良さんには,折に触れてアドヴァイスも受けたが,会員制の部数が2000人になった時「あとは減るだけだ」と言われてその通りになったことは別のところにも書いた。また,渡辺豊和さんと始めたAF(建築フォーラム)『建築思潮』(創刊号199251998)の命名については平良さんに許可を得た。『群居』以降,『traverse(2000)『京都げのむ』(京都コミュニティ・デザイン・リーグCD2001年~2006『雑口罵乱』(談話室,滋賀県立大学,2007年~)の立ち上げに関わってきた。『建築雑誌』(日本建築学会)には3度編集委員会に加わり,最後は 編集長(20021月号~200312月号)を務めた。そして,WEB版『建築討論』(日本建築学会)を立ち上げ,編集長を務めた(2014年~2017年 No.0113[6]

建築メディアの第三の役割は,編集によってその時々の状況を記録することである。平良さんは運動としてのメディアという。メディアは,編集という行為の運動の記録である。

 

 共同環境形成論―機能主義を超えるもの

 同時代建築研究会の議論で今でも覚えているのは,何を評価するのか,建築家(人)か建築(物)かという議論である。平良さんは建築派であった。ただ,平良さんの編集方針の基幹にあったのは「建築家」の「デザイン」,その「作品」ではない。建築がいかにあるべきか,都市がいかにあるべきかが問題であった。次々にメディアを立ち上げたのは,われわれを取り巻く全環境のあり方が関心の中心であったからである。平良さんのいう建築は,社会システムの建築と切り離せないものと考えられていた。

建築論集の冒頭(はじめに)に「これだけはぶれていないという一貫した筋はあった。それは“機能主義を超えるもの”を見出したいということである。」と書いている。評価基準は,「機能主義を超えるもの」である。

 「機能主義を超えるもの」というのは,実は,平良さんの処女論文のタイトルである(葉山一夫名,『美術批評』,19543月号)。建築論集の中心に置かれる「機能主義を超える論理と倫理を求めて-「言語モデル的空間論」」という長大な論文[7]に採録されるが,機能主義の評価とその批判,社会主義リアリズムと呼ばれる伝統様式の再評価,それをどう統合化しうるかという問いは,平良さんの編集活動において反芻され続けるのである。1969年に書かれた論文は最早歴史的論文というべきかもしれないけれど,戦後建築の初心を確認するうえで繰り返し読まれるべき考察を含んでいる。また,未完の論考して,完成されるべき論点を今猶提起し続けている。

第一に主張されるのは「機能主義」を単純に経済合理主義あるいは効用主義的にのみ解するのは誤りである,ということである。平良さんには「機能主義」の原点についての否定しがたいシンパシーがある。だから,「機能主義」の否定ではなくて,再生であり,それを超えるものを目指すという問題設定である。平良さんは,古くは用美の二元論,ファンクショナリズムvsフォルマリズム,「形態は機能に従う」(H.グリーノウ)vs「美しきもののみ機能的である」(丹下健三)という単純なディコトミーを排して,機械的機能主義と有機的機能主義を区別して,前者を変数とする関数によって後者が構成される,すなわち機能的なものは有機的な全体へ発展しうると議論を整理する[8]。続いて,ルイス・カーン,ル・コルビュジェ,FL.ライト,F.ジョンソンらの作品に即して,劇的構成,モンタージュ,様式,内部空間の演出といった概念に触れながら,表現機能すなわち象徴機能が不可欠であるとする。そして,形式だけでは象徴機能は果たせず,形式の様式化が必要であるとする。ここまでは,今では共通認識といっていいのではないか?

それを前提に「言語モデル的空間論」が<アイデア>の段階として考察される。そして,それに技術論が重ね合わせられる。言語モデルへの関心は,空間の意味と価値,建築の象徴機能についての理論を突詰める,環境を記号(象徴)体系として把握しようとする必要に基づいている。そして,技術論については,平良さんが戦後まもなくから依拠してきた武谷三男の「人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用」という技術概念を見直し,また,L.マンフォードの技術と芸術の分離を前提としてその総合をめざすという立場も否定し,技術を人間の作るという一貫する価値選択の行動であるとする山田慶児(1932~)(土法の思想)[9]の規定を検討している。そして,記号論(言語理論)と技術論を二大支柱にして構築しようとする建築・都市理論の総体を「共同環境形成論」と呼ぶ。残念ながら,その具体的な展開は未完である。論考の全体を通じて,随所にマルクスが引用される。この間の物質循環,共同所有(コモンズ)に着目したマルクスの再評価,再読解を知れば,平良さんは,我が意を得たり,とその全体理論を確信をもって完成させると思う。

竣工写真をレイアウトし設計者の設計者の設計意図を付すだけの建築雑誌,スタイルブックと化した建築雑誌のレヴェルとは次元が違う。まして,今日でInstagramの一枚の写真と140字のツィッターで建築情報を得るだけというのは論外である。

建築メディアの第四の条件は,建築,都市のあり方について一定の理論を前提にすることである。平良さんの編集の根底には,建築の方法,都市計画の方法をめぐる理論が置かれてきたのである。平良さんは、編集者以前に建築理論家であった。

 

 『住宅建築』

 1975年に創刊された『住宅建築』は,1100号まで平良さんが編集長を務めた後101193号を立松久昌が,194373号を植久哲男が編集長引き継ぐ。そして「もう一度俺の雑誌をつくる」と言って,平良さんが編集長に復帰(20065月),374426号を出した後,現小泉淳子編集長が引き継いで500号に至る。小泉さんには、『裸の建築家-タウンアーキテクト論序説』(2000)の編集でお世話になった。

 『住宅建築』の創刊のことば(19755月号)には,「住宅建築はだれか特定の個人の制作品では断じてありません。それをその建設のために結集された人びとの共有の制作品であり,ことばを変えていえば,人びとが相互に生活の場を作り上げていく活動が生み出す集団の共同作品であり,集団の生きざまや心のありようを人びとが意識すると市内に関わりなく表現しているものなのです。」という。これは建築メディアの第五の条件である,というより,全てに優先する前提である。建築メディアは,予め,建築家界や建築業界の内に閉じたものではありえないのである。

 300号(20003月号)の巻頭言「戦後史の記憶から浮かび上がるキーワードは,技能の復権である」には,雑誌『住宅建築』の思想(こころざし)が再確認されている。1960年代以降,つくり手の過度の自己表出の恣意性が見られるようになる,これはまずい,もっと地道なアプローチを激励するメディアが必要ではないか,と考えたのが『住宅建築』である。「問題は,設計者というつくり手・表現者の実感の表出はよいとして,ではそこに住まう人の実感に届き得ているか,問いたい」のである。さらに,平良さんは,そこで,木造に寄せる想い,技能の復権,グローバリズムという「超近代主義」への対抗について綴った後,前川國男のリアズムに触れて「あの「自邸」の見せるふてぶてしさよ,それが『住宅建築』にほしいものなのだ。言葉を変えてそっと,それこそWildernessと呼びたい。」と結んでいる。これが復帰の理由なのであろうか。Wildernessすなわち荒野,否,野生である。『住宅建築』で扱うべき住宅建築には野生が欲しい,というメッセージである。

『住宅建築』は毎号送ってもらっているけれど,お世辞ではなく,『住宅建築』の初心を貫いていると思う。丁寧に建築家たちのいい仕事を紹介してくれている。かつて研究室や「木匠塾」などで議論した若い建築家の仕事が取り上げられているのを見るのが楽しみである。

 

問題は,『住宅建築』に呼応する建築メディアの不在である。

反芻されるのは,「そう思うのなら,ひとりでもやれ」という平良さんの遺言である。



[1] A-Forum(建築フォーーラム)建築とジャーナリズム(AJ)研究会 幹事:斎藤公男,和田章,神子久忠,布野修司,磯達雄,今村創平,青井哲人/第1回 建築ジャーナリズムの来し方行く末 神子久忠 コーディネーター:布野修司 コメンテーター:斎藤公男,和田章,磯達雄,今村創平 20217月3日/2回 建築メディアの新たな潮流 加藤純(TECTURE MAG 編集長)・富井雄太郎(株式会社ミルグラフ代表取締役) コーディネーター:磯達雄(建築ジャーナリスト Office Bunga日時:202264日/第3回 建築メディアと一般メディアー建築界の「界」を問う 「マイパブリックとグランドレベル」をめぐって(仮)・・田中元子+大西正紀 建築界を拓くー出版界と建築界 真壁智治 コーディネーター:布野修司 日時:20221126()

[2] これを踏まえたインタビューに「平良敬一1926-] 運動の媒体としてのジャーナリズム」(聞き手:青井哲人・橋本純・石榑督和 シリーズ 建築と戦後70年,建築討論010号,2016年冬)がある。

[3] 『新建築』臨時増刊『日本建築史再考-虚構の崩壊』(197410月)」や『建築文化』誌の「近代の呪縛に放て」シリーズ(197577)がその象徴である。

[4] 197612月,宮内康,堀川勉,布野修司の三人で結成。当初「昭和建築研究会」と称し,「同時代建築研究会」に改称。もっとも詳細な記録は『怨恨のユートピア』刊行委員会編『怨恨のユートピア・・・宮内康の居る場所』(れんが書房新社,2000年)。

[5] 「国家と様式 1940年代の建築と文化,浜口隆一・神代雄一郎・平良敬一・同時代建築研究会 司会 堀川勉・岡利実(『建築文化』,198409)。

[6] 筆者の建築メディアとの関りについては,「布野修司インタビュー メディアとコミュニティ,聞き手;市川紘司,『建築討論』,20221月」がある。

[7] 加藤秀俊監修『現代デザイン講座』(風土社,1969年)第二巻「デザインの環境」所収。原タイトルは「言語モデル的空間論」。

[8] イタリアの建築史家B.ゼヴィ(19182000)のように,近代建築の歴史の流れの中に有機的機能主義と機械的機能主義を区別する視点は既にあったが,形式論理の問題として,あるいは構造-関数-要素の問題とするのである。

[9] 引用されているのは、「土法の思想」『デザイン批評』9号、1969年。






2024年1月31日水曜日

『群居』第15号 特集 ”大野勝彦とハウジング戦略” 1987年8月21日

 『群居』第15号 特集 ”大野勝彦とハウジング戦略” 1987年8月21日

https://drive.google.com/file/d/1ljaNT-7BoUu7TCGux4tYnXqLYZ0BtVz-/view?usp=drive_link







布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...