棲み分けの理論へ・・・「形の論理」と構想力
・・・平良敬一「「空間論」から「場所論」へ」をめぐって
布野修司
やはり「西田哲学」にいくんですか、と思わずうなった。平良さんのヴァナキュラーなものへの注視、風土性・土着性・田園性のデザイン言語への期待は、かねてより直接話を聞く機会もあり、大いに共感し自分なりに理解してきたところだが、その哲学的基盤への思索が「西田哲学」へ向かいつつあるとはいささか意外であった。
かって「西田哲学」を「社会的実践の理論としてはあまり有効性をもたない」と考えていたマルクス主義者平良敬一が「西田哲学」に向かうのにはもちろん理由がある。マルクス主義あるいはマルクス主義の進歩史観と親和性の強い近代的知(諸学)のフレーム(パラダイム)がその有効性を失いつつあるのである。考えるに「近代の超克」という方向性についてはマルクス主義と「西田哲学」には共通性がある。マルクス主義は資本主義の生産力を媒介にして、「西田哲学」は東洋思想を媒介にして「西欧近代」を超えようとしたのである。マルクス主義が歴史の発展段階、系譜や時間に関心を集中したとすれば、「西田哲学」は西欧の知的体系では捉えきれない異質の地域や世界、場所へ向かったのである。
と、訳知りに言い切るほど「西田哲学」を理解しているわけではもちろん無い。京都に移り住んでいつかは「西田」を読まなければという強迫観念にとりつかれたままである。周辺には「西田哲学」をじっくり学んだ碩学が少なくなくないから、可能ならば触れたくないという気もある。難解な哲学的思索に耽るよりは、アジアのフィールドを飛び回っている方が性に合っている。
専ら必要に応じて読んでいるのは、哲学的思索の平面を一歩も出ようとしない西田よりも、今西錦司以下の生態史観に関わる京都学派の著作である。とくに「棲み分け理論」に興味がある。人間の主体性を含み込んだ社会の「棲み分け理論」がおそらく建築や都市計画にとっての理論になるだろうという直感がある。具体的には、「世界単位論」「総合的地域研究」の方法が現在の最大の関心である。
ただ、「西田哲学」についてはその最良の継承者であった三木清はじっくり読まなければと思う。西田の「場所の論理」とともに「制作(ポイエーシス)の論理」が気になるのである。要するに三木の「形の論理」と「構想力の論理」が棲み分けの生態学と地域社会をつなぐ大きな手掛かりを与えてくれるように思うのである。
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