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2023年11月11日土曜日

大腸癌 布野哲郎 記 父の発病から永眠まで (昭和五十三年八月・九月のメモから) 1978

 祖父 布野寛蔵 死去 の記録

丸山ワクチンに頼る、そんな時代があった。食道顔

        布野哲郎 記                           

 父の発病から永眠まで              (昭和五十三年八月・九月のメモから)

 

  八月十日(木)晴  夜晩く帰宅すると、知井宮(宣さん)から十時過ぎ電話があったとのことでこちらからかけてみる。

  父が身体の不調を訴え、七日県立中央病院で診察を受けた。今日再審でレントゲン写真を撮った結果、食道癌と診断された。明十一日更に胃カメラを呑む予定だが本人はもとより誰にも内密にしていると云うことだった。  こちらから、手術その他治療について、また入院等の対処の仕方について、明日医師に万事相談してみるように云って、十一時前電話を切る。大変ショックだった。

  十一日(金)晴  休暇を取って終日在宅、高校野球のテレビを見る。父の件詳細わからないまま、雑賀町小室と、広島寛威さんに電話して置く。

  十二日(土)晴  六時半ころ宣臣から、今日午後から出てくると電話があった。九時半出社、午後一時半退社、石原に行って癌に良いという酵素を分けて貰って帰宅する。

  宣臣が出松来宅、父の様子を詳しく聞く。春頃から不調だったようだが、最近はご飯が喉に詰まって食が進まない。七月末頃から病院で診て貰うように云っていたけれどなかなか行かなくて、やっと今月の七日に初めて県立中央病院で診察を受けた。はっきりしないので、十日の再診には宣臣がついて行った。内科の診察の後レントゲン写真を撮った。宣臣にだけ食道癌だと告げられた。十一日の再診は内科、外科、放射線科を回った。どの医師の所見も病状が進んでいて手の施しようがない、高齢でもあるし、手術も放射線治療も出来ないということであった。

  母には勿論話さないことにする。光恵さんには良く話して協力して貰うことにする。夜小室に来て貰って協議する。総合病院で積極的な治療がないなら、今後は自宅療養で開業医(加藤先生が良い)に診て貰うことにして、予め加藤先生の了解を得て置いて中央病院から回して貰うことにする。

  十三日(日)晴  知井宮に電話して、十五日隆栄と裕子と三人で仏様拝みに行くと連絡する。序でに加藤先生に連絡して盆休中でもお願いにお邪魔させて貰うように頼ませる。夜十四日十一時頃会って貰えると連絡が入る。

  十四日(月)晴  九時過ぎ小室に来て貰って出雲市加藤医院に出かける。日本生命にダイヤモンド婚の記念プレゼントを申し込むため、出雲市役所で父母の戸籍抄本を取って、宣臣と待ち合わせして十一時加藤医院に行く。先生は十二時過ぎに往診から帰宅、経過と事情を説明して父は自宅療養として、先生に往診して貰うよう頼む。先生は、明治は辛抱強いからネ!と飽きれていたが快く引き受けて貰った。寿司を馳走になり一時半に医院を辞して、更に三人市役所で打ち合わせして、三時半頃松江に帰宅。留守中修司が電話してきていて、広島の寛威さんから連絡を受けて東京で会ったら、溺れるものは藁をも掴むのたとえで、丸山ワクチンのことを云っていたと。

  十五日(盆休)晴  十時前日本生命松江支社で、父母ダイヤモンド婚プレゼントの申し込みをして、一畑デパートで蜂蜜を買って、十二時前の汽車で隆栄と裕子と三人で知井宮に仏様拝みに行く。お墓にも参り、田岐屋え仏様拝みに行く。父、母ともゆっくり話す。父は自分の室で布団は敷かず小さな扇風機をかけて横になっている、便所には一人で行く皆と一緒にお茶は飲まない。五時半のバスで出雲に出て松江に八時頃帰る。裕子が結婚したいと云う相手の人について詳しく聞く。

  十六日(水)晴会社は休む。物置から丸山ワクチンの記事が載っている文藝春秋を引っ張り出す。隆栄と裕子は帰京乗車券の買い求めと、泰広の蒲団をチッキで発送するため街に出る。夜修司と丸山ワクチンのことで電話連絡、裕子の結婚相手についても話して合えたら合ってみてくれと頼む。修司は九月初めに帰松すると云う。裕子に知井宮のお祖父ちゃんの病状について話す。結婚相手については、今の段階では面識もないので、一般論だとして自分の意見を話しておく。

  十七日(木)晴  会社から外出の序でに今井書店、園山書店で『癌は征服された』の本を探すも見当たらず、退社帰宅途中黒田書店で丸山ワクチンの本を買う。裕子は<やくも3号>にて上京する。

  十八日(金)晴  五時半退社。知井宮から電話連絡、十七日中央病院再診、十八日加藤医院初診。

  十九日(土)晴  市立病院吉岡事務局長に連絡して、杉原先生に会って貰えることになり、十時前から約一時間丸山ワクチンについて聞く。病院では使用しないと。

  二十日(日)晴  中林恒夫氏を見舞う、生協病院退院につき古志原の宅に。随分悪いのか本人に会えず。夕方丸山ワクチンの本を小室に回す。

  二十一日(月)曇  知井宮から今日も連絡なし。

  二十二日(火)晴  縁側敷居直しと雨戸直しに八時に大工さん来る九時過ぎ出社。石原で酵素を分けて貰って七時帰宅。夜美智子さん、裕子より見舞いの電話。知井宮に電話して様子を聞く。

  二十六日(土)晴  二時半帰宅。知井宮から宣臣が出て、丸山ワクチン使用について加藤先生にお願いした結果や、父の様子について聞く。酵素2000cc渡す。

  二十七日(日)晴  夕方小室が来たので丸山ワクチン使用その他昨日宣臣との話伝える。費用等纏め役頼むと。

  二十八日(月)晴  宣臣から加藤先生にお願いした丸山ワクチン関係の書類が整ったと電話連絡があり東京え行くことにする。

  二十九日(火)晴  八時松江駅で特急券寝台券申し込み、八時半東京修司に電話して、三十一日上京するので、日本医大の受付日を確認の件頼む。二時特急券、寝台券購入、五時半退社。宣さんからレントゲン写真、医師の証明書届いている。夜修司、宣臣と電話で打ち合わせ。東京行き準備、疲れていて眠い。

  三十日(水)晴  朝合銀駅前支店で預金引き出し九時二十分出社。専務に三十一日休暇の了解をとり三時退社。入浴その他支度して五時三十七分出雲号で丸山ワクチンをとりに行く。

  三十一日(木)晴  七時東京駅に着く。七時半修司と待ち合わせ朝食後日本医科大学付属病院へ、八時三十分受付後、しばらく待ってスライドを見たりいろいろ説明を聞いて、十一時三十分丸山ワクチンを受け取り病院を出る。八重洲口に回り<やくも5号>の特急券が取れたので、修司と昼食後一時三十六分の<ひかり>で離京八時四十分帰宅する。

  九月一日(金)曇  会社を休む。知井宮に電話して宣臣十時過ぎに来る。丸山ワクチンを渡して打ち合わせして十一時半頃より出雲市加藤医院へ同道する。先生にワクチン注射の件頼み打ち合わせして、一時医院を辞して中央病院へレントゲン写真を返納する。一時半出雲市駅で宣臣と別れて汽車で四時頃帰宅。新聞切り抜き休養。

  二日(土)曇  六時十分~七時二十分隆栄と自転車で竹内神社に参拝する。夜知井宮より電話、父加藤医院へ連れて行って丸山ワクチンA皮下注射。以後九月四日より自宅で光恵さんが注射する。

  四日(月)晴  古志原栄子から電話で、三日知井宮に行って来たと様子を知らせてくる。

  五日(火)曇  父散髪に行ったと。

  六日(水)晴  石原から見舞いの葡萄が届けられる。宣臣から二日以降の様子知らせてくる。

  七日(木)晴  夜大阪恵之から電話して来たので知井宮の状態を話す。見舞いに酵素を分けて貰って送ってくれと頼まれる。

  九日(土)晴  二時退社、ユニコンに寄って四時頃まで江沢社長から食道癌で亡くなられた母堂の治療経験について聞く。猿の腰掛けの煎じ薬、痛み止の注射と、医師と、看護婦と、付き添い家族等々。夜宣臣から電話、今日加藤先生に往診を頼み二時頃から先生が来て腹水を五00ccくらいとってぶどう糖の点滴をして貰った。江沢さんの話を少しする。

  十日(日)曇時々雨  九時過ぎに家を出て十一時知井宮へ。父の様子今日は痛みがなくお粥が一杯食べられた、石原からの葡萄美味しく食べられた。ぶどう糖点滴二本目、ワクチン今日五本目、咳も少い。五時過ぎのバスで出雲に出て汽車で帰宅。夜小室と、大阪恵之と、広島寛威に電話して知井宮の様子を知らせる。

  十一日(月)雨  五時四十五分退社、夜十時宣臣から電話、父発熱(三十七度八分)加藤先生往診腹水抜き取りは止めて、ぶどう糖に利尿剤を入れて点滴栄養補給する。先生が良い抗癌剤があるがと云って、帰り際に薬をとりに来いと云われたので、行ったら朝夕使用の新しい坐薬三日分渡された。

使用すべきかどうか。(抗癌剤と丸山ワクチン併用の問題)父は鬼門の清めとりんご汁を盛んに云う、懸命である。

  十二日(火)小雨後曇  今日は熱なし、点滴、丸山ワクチン(B)六本目。

  十三日(水)晴  夜泰広から電話明日帰松する。十時半宣臣から電話、本日三時往診腹水八00ccをとった二回目、ぶどう糖点滴。咳はひところより回数はうんと減り、弱くなっている。粘液がたくさん咳と共に上がる。食事は殆ど喉を通らない、重湯のようなお粥を茶碗に少し。岡田の叔母が見舞いに見えた。小室に連絡して置く。

  十四日(木)曇  点滴、丸山ワクチンA七本目、粉薬も水で飲めない。錠剤にしてもらってくれということで、丸薬をなめているように云われて貰ってくる。坐薬はなかった。重湯程度のものも殆ど喉を通らない。泰広帰松、知井宮のお祖父ちゃんの病気、大学院の試験、今後の進路等について話し十二時半就寝。

  十五日(敬老の日)晴  朝宣臣から電話、十四日母また脛が悪く勝部先生に行った。父は加藤先生の往診がないのを心細く思っており、入院して良くなるんだったら入院したいらしい。易で云う崇りを気にして、須佐の大宮さんに行ってお払いして貰うよう頻りに頼むので、これから(十五日)横丁の姉と一緒に須佐に上がる。医者はそろそろ入院をと云うが、どうが良いだろうかと。

  もうしばらく入院しないで自宅で頑張るよう宣臣に云って、午後古志原の栄子に来て貰って父の病状を詳しく話し、協力を頼む。夕方六時頃修司帰松、父の病状経過、裕子の結婚、修司のマンション購入、頭金預貯金等々話して十二時半就寝。

  十六日(土)曇  修司、泰広知井宮に見舞いに行かせる。隆栄が知井宮からの連絡で新聞社に電話してくる。父は昨夜から痛くて苦しむ。朝加藤医院で坐薬と痛み止めを出して貰って注射した。だらだらと眠りと覚めとの繰り返しだと。五時半退社帰宅、修司から知井宮の様子を聞く。入院を考えていて明日知井宮で相談したいと。午後二時半頃加藤先生が往診されて腹水一000ccくらい抜き取り点滴する。丸山ワクチン八本目注射。入院は中央病院を当たってみることにする。

  十七日(日)晴  修司、泰広、やよいで二十世紀梨を購入、手荷物にして発送、十四時五十二分やくも五号にて上京。

  小室の車で栄子と三人知井宮に行く。十五日父が苦しみ、十六日腹水をとって小康を得ているが、十八日には入院させるか、病室次第とゆうことで看護体制を協議する。恭子が夜昼付き添うと云うので頼むことにした。松江に三人帰ったのは七時半頃。夜宣臣から電話があって、あの後で恭子は自分とこの孫を預かると云うことでもめて御破算。この件小室に電話して置く。

  十八日(月)晴  十時過ぎ宣臣から新聞社に電話。昨夜から父の様子がおかしいハア ハア 云って口開けて眠り続ける、声を掛けると薄目を開けてまたすぐ眠る。とても大儀でもの言う気力もなさそう、顔色も悪く医者の往診を求めているが、遠方は通知したが良いかと。医師の往診の結果にするように云う。その後電話なし。帰宅後宣臣から電話、広島、大阪、郁子に知らせた。血圧最高七0、点滴二本続ける、丸山ワクチン。医者は危険な状態で今は動かせない。遠方は通知したが良いと云う。広島大阪に通知。

  十九日(火)曇  知井宮に電話して昨夜からの様子を聞く。変わったことなし、今朝のところ昨日より良いようだ、痛みもないと云っている。食事は全然喉を通らない。昨夜十時過ぎ広島の寛威、今朝大阪の八木の叔母さんと恵之が来ていると。九時半出社五時半退社。電話なくこちらから宣臣に電話を入れて様子を聞く。医師の往診あり、熱三十七度一分、血圧少し上がる、痛みはなし、咳もあまり出ない、粘液も上がらない、食物は全然喉を通らない、渇きに氷をなめていて氷を欲しがる。医者は頚部が固くなっていてそこにも転移していると云う、昨日より良いがもう痛みもあれっきりだろうとのとのことである。点滴のみ。

  二十日(水)雨  小室に電話して知井宮の様子を知らせて置く。いつものとおり出社。隆栄が知井宮に電話して栄子に様子を聞く。加藤先生往診点滴、丸山ワクチン十本目。寛威、恵之それぞれ帰る。夕方江津のきくえ叔母さん来て一泊。

  二十一日(木)曇  三時過ぎユニコンの山田さん、江沢社長からの猿の腰掛け届けてくれる。夜電話して様子を聞く。今日は痛まなかった、朝煎茶碗に一杯重湯が喉を通った。父は絶えず食べよう食べようと意欲を持っている。酵素を催促する、氷を欲しがる。朝中央病院の病室が開いたので今日午前中に入院しないかと連絡があったが、当分動かせないということで断った。加藤先生往診。隆栄、知井宮の煮豆をする。

  二十二日(金)曇  隆栄知井宮に障子貼り手伝い。

  二十四日(日)曇  十一時四七分の汽車、出雲からタクシイで知井宮午後一時、見舞金五万円、二十世紀梨一箱。恭子、小室来ている。足、手が腫れている。手は二、三日前から、目を開いたりつむったり、口が乾く氷をなめる、一時間に一回くらい寝返り、起きて座りたがる。腹水が溜っている。時々起こしてくれとせがむ。

  加藤先生六時頃往診、静脈注射痛み止め、後で点滴しようとするも血管が出なくて入らない。出来なかった。十一時半頃小室と共に知井宮を辞し帰宅、一時過ぎ就寝。

  二十五日(月)曇  朝栄子に電話して知井宮に行って貰うことを頼む。隆栄も朝預金引き出しの後

知井宮に行かせる。

  二十六日(火)  五時七分電話で起こされる小室知井宮から。自転車で南口へ出て五時四十分の下り列車で出雲市、タクシイで知井宮に六時四十分に着く。七時過ぎ皆起きてきて加藤医院へ電話を入れておく。八時様子が変わる。皆枕元に集まる。加藤先生来られて八時八分父は永眠する。

  八時四十分頃栄子、隆栄来る。親戚関係宣臣が通知する。あり合わせのもので交替で朝食だけ済ませると、隣の勝部正さんに諸事取り仕切ってもらうようお願いする。光明寺さんに枕経を上げて貰う。それぞれ手続き連絡の上、出棺は明日、葬儀は光明寺二十八日十時と決定する。広島からも来て通夜。

  二十七日(水)晴  朝までに大阪からも城崎からもみんな来て、九時から納棺する。一ノ谷火葬場

で火葬する。遠方の親戚も多く着替えもあるので、二十七日は小室の車で松江に帰宅する。

  二十八日(木)曇  五時過ぎ起床、六時家を出て小室の車で幸子さんと隆栄と四人で知井宮へ、七時過ぎ着いて朝食、九時二十五分胎泉寺から来られる。法名釈浄寛居士。花輪、弔電整理、係の人と打ち合わせ、十時葬儀。

  二十九日(金)昨夜来雨昨夜は母と共に父のやすんでいた室で寝た。夢は見なかった。雨はかなり降る、朝、市の典礼から来て祭壇を片付ける。十一時頃から会葬の御礼回りのため松江に向かう、十二時半帰宅。中電、松陽ビル、県庁、市役所、新聞社、ユニコンと回り三時半頃帰宅。小室は宣臣と共に再び知井宮へ、十時頃就寝。


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